一 産経新聞2019年10月21日付は、自民党有志「日本の尊厳と国益を護る会」提言を報道する中で、こう記述している。ネット上による。一文ごとに改行。
 「皇統は126代にわたり、父方の系統に天皇をもつ男系で維持されてきた。
 女性天皇は10代8人いたが、いずれも父方をたどると初代の神武天皇に行き着く男系だ。
 女性天皇の子が即位した『女系天皇』は存在しない。」
 これが日本会議諸氏・櫻井よしこや「126代」と明記した西尾幹二らの見解として書かれているならばよい。
 驚いたのは、これが、「沢田大典」という署名のある産経新聞記者による「地」の本文の中にある、ということだ。
 産経新聞社または産経新聞記者は、日本の(天皇の)歴史をこう確定的に記述する、いかなる資格・権限があるのだろうか。歴史の「捏造」ではないか。せめて、<~と言われている>くらいは追記しておくべきだ。
 日本書紀には代数の記載はなく(近年の<日本書記>現代訳文の書物には参考として日本書記原文にはない代数を記載しているのもあるが紛らわしい)、「大友皇子=弘文天皇」の記事はなく、一方、女性の「神功皇后」の記事は(神武等々と同じ扱いで)いわば一章を占める。
 冒頭の「皇統は126代にわたり」という数字自体、明治期以降の<決定>にもとづくものだ。
 また、「初代の神武天皇」という記述自体、<日本書記によれば>という話で、<史実>性は疑わしい。
 「女系天皇」の存否や「神武」以降の不連続性の可能性には立ち入らないが、明治維新以降、戦前までの<国定・公定>歴史解釈を現在の全国民が採用して「信じる」義務はない。
 しかるに、産経新聞の記者は何を考えているのだろう。
 堅い読者層の中に<天皇・愛国・日本民族>の「右翼」派が多いからといって、歴史を勝手に「創造」してはいけない。朝日新聞の「虚報」・「捏造」ぶりと本質的にどこが違うのか。
 二 池田信夫Blog/2019年11月7日付(全部は11/11の電子マガジン配信予定らしい)は、こう書く。こちらの方が適切だろう。但し、以下は一部省略しているが、「儒教の影響」だとする等の専門的知見は、私にはない。
 「天皇家をめぐる論争では、天皇が『万世一系』だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派ということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。
 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、『男系男子』は明治の皇室典範で初めて記された原則である。」
 「それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかも疑わしいが、そのうち有力だった『大王』が『天皇』と呼ばれた。
 中国の建国神話をモデルにして『日本書記』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。」
 「武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。
 それを明治時代に『天皇制』としてよみがえらせたのが、長州の尊皇思想だった。
 それは『王政復古』を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。」
 三 <古式に則り>という言葉を最近によく聞くが、その<古式>の全てではないにせよ、明治期以降の<古式>・儀礼方法であることが多いだろう。
 先月10月22日の「即位礼正殿の儀」を、テレビでたぶん全部視ていた。
 最近の関心からは、<神道>的色彩がどれほどあるかに興味があった。
 所功(ところ・いさお)らによると京都御所には「宮中三殿」はなかったらしいから、「宮中三殿」中での賢所等での天皇の儀礼は、大正天皇からなのだろう。しかし、これは<神道>的・式なのかもしれない。もっとも、神道式とは特定できない<天皇・皇室に独自の儀礼>かもしれない。「神道」の意味・範囲にもかかわる。
 一方、<高御座>で言葉を述べられる等の「国事行為」は、当然に特定の「宗教」色があってはならずせいぜい<日本の伝統>に即して、ということに理屈上はなると思われる。
 だが、素人の私の感触では、「日本」独特というよりも、「中国」(むろん過去の)の影響・色彩を強く感じた。
 なるほど十二単衣等は「平安王朝」的かもしれないが、前庭に立っていた「幟」の様子・色彩や「萬歳」と明らかに明確に漢字で書かれた旗などは、日本の「みやび」・「わびさび」等々の<和風>とは離れた<中国>風に感じた。高御座の建築様式自体も、どちらかというと神社ではなく寺院に見られるように感じた。これが仏教的なのか、道教なのかあるいは儒教ふうなのかは正確にはよく分からない。
 ひるがえると、明治天皇の即位の場合はどういうふうだったのだろうか。
 新政府が安定した(戊辰戦争勝利)後だったのか否かも、確認していない。
 しかし、まだ<神武天皇創業>以来の「日本的」儀礼の仕方が確定されていない時期だとすると、<即位の礼>が純粋に<日本的>ましてや<神道式>であったかどうかは疑わしいだろう。そして、この明治天皇を含めてそれ以降の大正天皇等の<即位の礼>の様式を、今回も採用したような気もする。
 上のことは、<即位の礼>に関することで、天皇の死後の葬礼・墳墓の性格となると、つぎのように、話は異なるようだ。
 四 この欄で、京都・泉涌寺に関係して、室町時代から江戸末期の仁孝天皇までとは異なる、つまり<仏教式>ではない葬礼と陵墓が明治天皇の父親の孝明天皇について行われたようだ、と書いた。№.1982、2019/06/18。
 専門家がいずれの分野にもいることは分かっているので「大発見」のつもりで記したのでは全くない。
 きわめて興味深く感じたので、孝明天皇陵については陵墓の方式自体が九重仏塔を持たない「円墳」のようだと書いたのだった(一般には立ち入れないので、既存の写真に頼るしかなかった)。
 しかし、推測が妥当であることを、上記の池田信夫Blog が挙げているつぎの書物によって確認することができた。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。
 こう書かれている。
 「文久年間に在位していた孝明天皇は、…慶応へと改元されたその二年の年末、12月25日(グレゴリオ暦では1967年1月30日)に崩御する。
 翌慶応三年にはその陵墓が、じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された。
 陵墓に埋葬され、かつ国家管理の聖地とされたのは、明治政府の陵墓政策を先取りするものだった。」
 この「山稜」というのは、南向きで南側に拝礼場があると見られる、<後月輪東山陵>のことで、現在も京都市東山区・泉涌寺の東の丘の中腹にある。
 先だっては記さなかったが、それまでの天皇は「仏式」でかつ「火葬」のあとで納骨されて葬られている(かつ真西の方向を向く)のに対して、孝明天皇については(「神道」式か否かは不明だが少なくとも)「仏教式」ではなくかつ「土葬」の陵墓のようだ。
 しかも、上の書物によると、「じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された」、とある。
 これまた、<新しい伝統の創造>だっただろう。
 もっとも、かつての「山稜形式」は「神道」式と称し得るものであるかについては、疑問が残る。
 いわゆる前方後円墳(伝仁徳天皇陵、伝応神天皇陵が著名)が「神道」式なのかというと、おそらくこれを肯定する学者・論者は存在しないのではないか。
 この問題は、「神道」というのはいったい何だったのか、いつ頃どのように形成され、意識されたのか、といった疑問にかかわる。
 櫻井よしこは、神道の「寛容」性のゆえに仏教伝来を許した、という旨を明記している(別に扱う)。聖徳太子の時代頃の「仏教伝来」以前にすでに確たる「神道」があった、という物言いなのだが、果たして本当か? 
  天皇家と「神道」に(神武天皇以来?)強く密接な関係がある、天皇家の「宗教」はずっと神道だ、と主張するならば、古代天皇は「神道」式で葬られたのか? その儀礼や墳墓の様式は?
 尊いはずの初代・神武天皇陵の場所が特定されて整備され、近傍に橿原神宮が造営されたのは、いったいいつの時代にだったのか? まだ150年ないし120年ほどしか経っていない。
 「初代の神武天皇」と「史実」のごとく平気で書く産経新聞記者・沢田大典は、そのような「初代」天皇の「墓」の所在地が<2000年以上>も不明なままだったことを、不思議とは感じないのだろうか。「古い」ことだから仕方がない、では済まないと思われる。
 このあたりは、あらためて触れることにする。