秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

弁証法

2228/L・コワコフスキ著第一巻第6章・経哲草稿①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳を行う。
 上のうち、これまでのL・コワコフスキ著の試訳とは異なり、ドイツ語訳書を第一に用いる。適宜、英訳書も参照する。いずれによるかによって、文構造や表面上の訳語はかなり異なる。いずれも分冊版で、独訳書、p.151~。英訳書、p.132~。
 第6章の第1節にあたるものの前には見出しがないので、たんに「(序)」とした。
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 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
 (序)
 (1)1844年、マルクスはパリで、論考を執筆していた。それは政治経済学を批判し、経済学上の基本概念を一般的哲学的に分析しようとするものだった。経済学上の基本概念とは、資本、地代(Grundrente, rent)、労働、所有権(Eigentum, property)、貨幣、需要(Bedürfnisse, needs)、賃金(Arbeitslohn, wages)。
 この論考は完成せず、1932年に初めて公刊され、「1844年の経済学哲学草稿」という表題で知られる。そして、マルクスがスケッチ風に叙述したものだったにもかかわらず、公刊後には、マルクス主義の進展に関する研究者が依拠する、最も重要な典拠の一つになった。
 マルクスは実際に、社会主義を一つの総体的世界観として叙述しようとしている。社会主義を社会改革の綱領としてのみならず、経済学の諸範疇を自然と人間の間の哲学的に解釈される関係へと統合しようとしている。その際、この関係は、認識論上の問題と形而上学上の問題を論述するための基礎にもなっている。//
 (2)マルクスは、ドイツの哲学者や社会主義著作者だけではなく、彼がそれらの著作の研究を開始していた、政治経済学の創設者たちも、その出発点としていた。すなわち、ケネー(François Quesnay)、A・スミス、リカルド、セイ(Jean-Baptiste Say)、ジェイムズ・ミル(James Mill)。//
 (3)自明のことだが、『草稿』から『資本』の全内容を抽出することができるというのは、完全に誤っている。
 それでもしかし、『草稿』は、マルクスが生涯の終わりまで書き続け、最終型が『資本』と称される書物の、輪郭(Umriß)だ。
 最終型は決して初めの型を否定しておらずその発展型だ、ということを支持する重要な根拠がある。
 「成熟した」形でのマルクス主義の基礎だと考えられている価値理論も剰余価値理論も、『草稿』には存在しない。
 特殊マルクス的内容をもつ価値理論は(すなわち抽象的価値と具体的価値の区別や労働力の商品性の承認と連結させたものは)、しかし、疎外労働の理論の明確な範型に他ならない。//
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 第1節・ヘーゲルへの批判・人間の基礎としての労働。
 (1)ヘーゲルの『精神現象学』は、とりわけ疎外(Entfremdung, alienation)の理論と疎外過程としての労働の理論は、マルクスにとっての消極的な準拠点(Bezugspunkte)だった。
  マルクスにとって、ヘーゲルの否定の弁証法の偉大さは、人間の自己生産の過程を疎外とその止揚(Aufheben, transcendence)の連続的段階だと把握する、という点にある。
 ヘーゲルによると、人間はその種としての本質をつぎのようにして明らかにする。まずは具象的な状態での自分に固有の諸力と関係づけ、次いで言わば外部からそれらを再び自己のものとする(=同質化する)ことによって。
 人間の本質(menschliches Wesen, essence of man)を実現するものとしての労働は、ヘーゲルにとってはそのゆえに、もっぱら積極的な意義をもつ。それ自身の外部化を通じて人間性が発展する、そのような過程なのだ。
 しかしながら、ヘーゲルによっては、人間の本質は自己意識と同一視され、労働は精神的活動と同一視される。
 したがって、その本来の形態での疎外は自己意識の疎外であり、全ての具体的実在は疎外された自己意識だ。
 ヘーゲルによると、人間が自分の本質を改めて我が物とすることは、具体的対象の止揚であり、それを人間の精神的本質へとそれを帰還させることなのだ。
 人間の自然との統合は、精神の次元で行われる。その理由で、マルクスにとっては、抽象的で表面的なものになる。//
 (2)マルクスはこれに対し、人間を考察するに際して、フォイエルバハに従って、自然との肉体的(sinnlich, phiysical)な交渉という意味での労働を、出発点に据えた。
 労働は人間の全ての精神活動の条件であり、人間は労働のうちに自己の創造力の対象である自然はもとより、自分自身を創り出す。
 人間が必要とする対象は、ゆえに人間がその本質を発見して実現する対象は、人間とは別個のものだ。すなわち換言すれば、人間は被る(leidend, passive)存在でもある。
 だが、人間はたんに自然的存在であるのではなく、人間自体のための存在(Fürsichsein, being-for-himself[対自存在])だ。したがって、事物は人間にとって、人間・対象・存在という状況を考慮しないで済む(=人間の対象であるということとは無関係の)単純なものとして、存在しているのではない。
 「ゆえに、<人間の>対象は、人間に直接に提示される自然的対象ではない。また、直接的な<人間の感覚(Sinn)>は、<人間的感覚(Sinnlichkeit)>や人間的な対象でもない。」(1)
 従って、疎外されたものとして対象を止揚することは、ヘーゲルが言うのとは反対に、対象たるものの止揚では全くあり得ない。
 人間が自然と対象を再び我が物とする可能性は、疎外労働のメカニズムを通じて明らかになる、疎外という現実の現象が発生する態様を明確にすることによって、初めて生まれる。//
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 (1) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 579.〔マルクス=エンゲルス全集補巻第一部、579頁〕
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 「序」と第1節、終わり。

2061/司馬遼太郎「華厳をめぐる話」(1993)。

 司馬遼太郎「華厳をめぐる話」同・十六の話(中央公論社、1993/中公文庫1997、初出1989)、司馬遼太郎全集第54巻(文藝春秋、1999)収載。
 司馬遼太郎のこの随筆または紀行文の冒頭に、興味深い文章がある。全集、p.351。
 ・「この地でさまざまな"因縁"(関係性)が構成され、それが"縁起"となって、…という"因果"をうんでいる」。
 ・「孤立せる現象など、この宇宙に存在しない」。「一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にある」。
 ・「たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を…"世界"という」。
 きわめて<哲学>的にも見える文章だが、「華厳経」(盧舎那仏・釈迦如来=東大寺大仏)に関する「話」だ。
 特段に難解な日本語が用いられているわけではない。しかし、このように叙述することのできる司馬の筆力も相当のものだろう。筆力のみならず、一個の人間としての感受性も優れていたに違いない。
 上の文章から想起するのは、私は正確な意味を知らないが、<弁証法>というものだ。
 「大は宇宙から小は細胞の内部まで」何かと何かが「交錯しあい」「相対的に依存しあ」いながら「あらたな関係」を生み出す、というのは単純化すれば<正-反-合>ということにもなる。むろん、対立し矛盾し合うのは二つの「階級」でも「生産力と生産関係」でもない。革命が「あらたな関係」を生み出して「社会主義・共産主義」社会になるのでも全くないけれども。
 また、関連して想起するのは、人間社会の現在または過去・「歴史」に関して、司馬の上の文章を借りると、「因縁」・「縁起」・「因果」を、「相互に相対的に依存しあう」「一切の現象」を、あるいは「かかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあ」う「無限の微小・巨大といった運動」の「総和」を、正確にまたは厳格に叙述する、ということの、苛酷なほどの困難さだ。
 人間とその社会の「歴史」を、過不足なく可能なかぎり正確にまたは厳密に叙述してきた者が、はたしているだろうか。
 ここでさらに思い浮かべるのは、レシェク・コワコフスキの大著・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978)の「はしがき(Preface)」の中の言葉だ。この欄の№1839/2018年09月01日に掲載。
 L・コワコフスキはそこで、つまり大著の冒頭で、くどいほどに叙述対象に限定を加え、くどいほどに叙述の困難さを述べている。
 最も一般的で、注目されてよい叙述は、つぎの文章だろう。
 「いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を『生きている全体』から切り出すことを余儀なくされる。/これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになる。」
 つまり、マルクス主義の歴史の叙述についても、「全てのものが何らかの態様で結びついている」ので、厳密には、あるいは正確には、「世界史」全体の叙述が必要になる、と言うのだ。
 したがって例えば、第一に、もちろん強い関係はあるけれども、対象は「マルクス主義」の歴史であって「社会主義思想の歴史ではなく、…政治的党派や運動の歴史でもない」。
 また第二に、「政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ」、著者の主観的な「歴史的評価」のみがあって「歴史的説明」は存在しない、と最初から言ってしまえば、どんな「歴史的手引書」を執筆することもできなくなるのだから、「素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性」について、「著者の見解や志向が反映される」のは不可避だ。
 なお、<〜の歴史>ではなく<〜の主要潮流>というタイトルにしているのも、重要な意味があるのだと思われる。歴史全体を描くなどという大それたことをするつもりはない、という釈明?を、あらかじめ行っていることにもなる。
 ひるがえって考えて、複雑・多様な「全体」から一部を「切り出す」ことを余儀なくされるのは、小説(・フィクション)でないかぎり、歴史叙述・歴史学の宿命だろう。
 また、もともと、「言語」による抽象化、<立体的・総合的な>描写様式が開発されていない、ということによる平板化・単純化もまた、人間の知的営為としての歴史叙述の限界であり宿命なのだろう。
 しかし、困ってしまうのは、このような意識または自覚なく、歴史叙述の「訓練」を受けていないシロウトが「歴史」に関する書物や小論を平気で執筆して、公刊していることだ。櫻井よしこや江崎道朗のごとし。その他、小説と明記しないままの、<思い込み>による<歴史物語>の作成者たち。
 アカデミズム内にある者ならば、対象(・時代)の限定のほかに、叙述・検討する「視座・観点」の特定の必要、基礎とする史資料の適切な提示の必要といった「訓練」をいちおうは受けているに違いない。
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 詳しい説明・コメントは省略するが、司馬遼太郎が「大は宇宙から小は細胞の内部まで」というからには、人間の「脳内」も(身体全体も)、無数の要素の相互依存とその統合によって成っている、と言えそうだ。すでにこの欄で触れている二著から、一部を引用的に紹介しておく。
 アントニオ・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・感情・人間の脳(ちくま学芸文庫、2010)、p.198-9。
 ・この「反復的な回路で活動しているのは一連のfeedforward とfeedback のループ」だが、この「仕組みでもっとも重要なことは、基本的な生体調節と関わっている脳構造がじつは行動調節にも関わっていて、認知プロセスの獲得と正常な機能に不可欠であるという事実だろう」。「視床下部、脳幹、辺縁系は身体の調節だけでなく、たとえば知覚、学習、想起、情動と感情、そして推論と創造性といった、心的現象のよりどころであるすべての神経的プロセスにも介入している。身体調節、生存、そして心は、密接に絡み合っている。」
 ジュリオ・トノーニほか/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)、p.126。
 ・「理論のかなめとなる命題」は、「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である」ということだ。「差違と統合が同時に存在する」というのは、「脳という物質のなかには、本当に何か特別なものがある」ということだ。〔情報統合理論〕
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 司馬遼太郎・空海の風景(1975)は、ずっと昔に概読したような気がする(1975年芸術院恩賜賞受賞作)。
 あらためて読み直したいものだ。たんなる「宗教」話ではなくて、当時の日本人が構築した学問大系(大乗仏教・顕密)らしきものの「雰囲気」を知るためにも。司馬の人間というものに対する好奇心は相当なものだと思われる。

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

2016/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.363-p.366.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)③。

 (15)ハイデガー(Heidegger)の存在論はこの状況を解消しないし、むしろさらに悪いものを提示する。
 哲学から経験論とフッサールの<形相(eidos)>を排除して、ハイデガーは、存在(Being)を把握しようとしている。-その存在は、彼の理解によれば、純然たる無(nothingness)だ。
 彼はまた、現象を「分離」し、それを明確化に至る過程の諸要素(aspects, <Momente>)だと考えることができない。そのようにして、現象は「物象化」されるのだ。
 フッサールに似てハイデガーは、「媒介」なくして個別的なものから普遍的なものへと進むことができる、あるいは省察することに影響を受けない形式で存在を理解することができる、と考える。
 しかしながら、これは不可能だ。すなわち、存在は主体によって「媒介される」のだ。
 ハイデガーの「存在」は構成されたもので、たんに「与えられた」ものではない。
 「我々は、思考による場合に、主体と客体の分離がただちに消失するいかなる立場も採用することができない。なぜならば、全ての思考において、この分離は本来的なものだからだ。分離は、思考それ自体の中に内在している。」(p.85.)
 自由は、生活の両極の間に生起する緊張関係を観察してのみ、探し出すことができる。しかし、ハイデガーは、この両極を絶対的な現実だと見なし、それらをそれぞれの宿命に委ねるのだ。
 彼は一方で、社会は「物象化」されなければならないと認める。換言すると、<現状>をそのまま承認する。
 他方でしかし、人間にとっての自由は既に得られているものであるかのように叙述し、そうして、隷属状態を承認する。
 彼は形而上学を救おうと試みているが、救済を目指しているのは「直近に現存するもの」だと間違って想定している。
 概して言えば、ハイデガーの哲学は、抑圧的社会に役立つ<支配学(Herrschaftswissen)>の一例だ。
 存在するものとの間の約束した聖餐式を行うために、諸観念を放棄しようと呼びかけている。-しかし、この存在には内容がない。その正確な理由は、諸観念の「媒介」なくしてもそれを把握することができる、と想定されていることにある。
 彼の哲学は、根本的には、「である(is)」という連結詞を実在化したもの(substantivization)にすぎない。//
 (16)可能なかぎり一般的な用語で語れば、〔上のような〕ハイデガーの存在論に対するアドルノの攻撃の主要点は、つぎのヘーゲルの主張にある。第一に、主体を形而上学的考究の結果から完全に排除することは決してできない。第二に、かりにこのことを忘れて主体と客体を両側に位置づけようとすれば、そのいずれをも理解することが絶対にできない。
 いずれもが、分離できない考察の一部だ。いずれにも、認識論上の優越性はない。それぞれが、他者によって「媒介」される。
 同様に、いずれかが絶対的に個別的なものだとする認識-これをハイデガーは<存在とJemeinigkeit(自己帰属性)>と呼ぶ-によって理解する方策は存在しない。
 一般的な諸観念の「媒介」なくしては、純然たる「ここにあるこの物」は、抽象物だ。
 それを考察から「引き離す」ことはできない。
 「しかし、真実は、つまり主体と客体とが相互に浸透し合う集合体は、ハイデガーが曖昧にしがちな主体性との弁証法的関係をもつ存在へと還元する以上には、主体性に切り縮めることができない」(p.127.)。//
 (17)アドルノが「否定弁証法」という語で意味させたいものを説明するのに最も役立つ文章は、つぎのものだ。
 「弁証法的論理は、ある意味では、それを排除する実証主義以上に実証主義的だ。
 思考しているとき、弁証法的論理は、その客体が思考(thinking)の規則を気に掛けない場合であってもいずれが思考されるべきもの-客体-なのかを尊重している。
 客体を分析するのは、思考の規則から脱するということだ。
 思考は、それ自体の規則適合性に甘んじている必要はない。それを放棄しても、我々は様々に思考することができる。かりに弁証法を定義するのが可能ならば、これは提示するに値する定義になるだろう。」(p.141.)
 弁証法は論理の規則に束縛される必要はないということ以上を、我々がこの定義から導出できる、とは思えない。
 我々は実際に別の文章で、もっと自由につぎのように語られる。
 「哲学は理性の真実(vérité de raison)から成るのでも、事実の真実(vérité de fait)から成るのでもない。
 哲学が語る何も、『存在する事実(being the case)』に関する感知可能な規準に屈従しはしないだろう。
 構成観念に関する諸命題は、事実性に関する諸命題が経験科学の規準に従属しているほどには、事実の論理的状態に関する規準に従属していない。」(p.109.)
 もっとよく分かる立場表明を想定するのは、実際のところ困難だろう。
 否定弁証法論者は、第一に、論理の観点からも事実の観点からも批判されることはあり得ない、と明確に述べる。それらの規準は自分たちとは関係がないと断定しているのだから。
 第二に、自分たちの知的および道徳的な優越性は、これらの規準をまさに無視していることにもとづく、と宣言する。
 そして第三に、この無視こそが実際に、「否定弁証法」の本質(essence)だ、と主張する。
 「否定弁証法」は単直に言って白紙の小切手であり、歴史によって署名され、裏書きされる。
 存在、主体および客体は、アドルノとその支持者たちのためにある。
 いかなる金額も書き込むことが可能で、何であっても有効で、論理の「実証主義的偏愛」や経験主義から絶対的に自由だ。
 思考は、弁証法的にその反対物へと変転する。
 このことを否定する者は、「一体性原理」の奴隷となる。これは、交換価値に支配された、ゆえに「質的な相違」を知らない社会を受容することをその意味に包含している。//
 (18)アドルノによると、「一体性原理」がきわめて危険な理由は、それがつぎのことを意味することにある。
 それは、第一に、分離されたものは全て経験的に存在するものだ、第二に、個別的な客体は一般的諸概念でもって見極めることができる、つまり抽象化に向かって分析することができる(これはアドルノは言及していないが、Bergson の考えだ)、ということを意味する。
 一方では、哲学の任務は、第一に、事物は現実に何であるかを確定することであって、たんにそれがどの範疇に帰属するかを確定することにあるのではない(アドルノはこの種を分析した例を挙げていない)。
 第二に、それ独自の観念に従えば、まだ存在に至っていなくともそれは何であるべきかを説明することだ(これはアドルノはこの論脈では言及していないが、Bloch の考えだ)。
 人間は自分を定義する方法を知っている。だが、社会は、人間にあてがう機能に一致するように様々に人間を定義する。
 これら二つの定義の仕方の間には、「客観的な矛盾」がある(ここでも例示はない)。
 弁証法の目的は、観念による事物の固定化に反対することにある。
 弁証法は、事物は決してそれらと同一視されない、という立場をとる。 
 弁証法は、否定の否定は肯定的なものへの回帰を意味すると想定することをしないで、否定を探し出す。
 弁証法は個別性を承認するが、一般性によって「媒介された」ものとしてのみそうするのであり、個別性の要素(aspect, <Moment>としてのみ一般性を承認する。
 弁証法は、客体のうちに主体を見る。逆もまた同様であり、理論のうちに実践を、実践のうちに理論を、現象のうちに本質を、本質のうちに現象を見る。
 弁証法は差違を理解しなければならないが、それを「絶対化」することはない。そして、何らかの特定の事物を最も優れた(par excellence )出発点だと見なすことはあり得ない。
 フッサールの先験的主体のような、一切何も前提としない見方というものは、存在し得ない。
 全てのものを含み、かつ全体と一体となる一つの精神(spirit)があり得るという思想は、全体主義体制における単一党という思想と同じく、馬鹿げた(nonsensical)ものだ。
 精神と物質のいずれに優越性があるかに関する論争は、弁証法的思考では無意味だ。なぜならば、精神や物質という観念はそれら自体が経験から抽象化されたものであり、それら二つの間の「根本的相違」なるものは、因習的約束事(convention)に他ならない。
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 ④へとつづく。

2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
 Identity は、原則として「一体性」と試訳している。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)①。
 (1)私が知るかぎり、アドルノの思想、つまり<否定弁証法>を完全にかつ一般的に叙述し、また疑いなく適切に要約したものは存在しない。
 そのような要約はおそらく不可能で、アドルノはおそらくそのことをよく知っていて、意識的にそうしたのだろう。
 その書物は、二律背反を具現した物と称し得るかもしれない。
 それは、挙げられる例または論拠によって哲学的著作の執筆は不可能だと分かってしまう、そのような哲学作品だ。
 その内容を説明するのが困難なのは、明らかに意図的なきわめて難解な統語論(syntax)や、ヘーゲルと新ヘーゲル派の術語を世界で最も明瞭な言語であるかのごとく使いつつ説明しようとは全く試みていないこと、によるばかりではない。
 かりにその書物が文章的形式も完全に欠いていないとすれば、様式の意図的な曖昧さと読者に示す侮蔑感はまだ耐えられるものであるかもしれない。
 この点に、アドルノが初期のあるときは塑形的芸術に、のちに音楽と文学で示した無形式性が、哲学の分野に現れている。
 アドルノの著作を要約するのは、「反小説」の筋または行動絵画の主題を叙述する以上に不可能だ。
 絵画での様式の放棄は芸術の破壊につながらなかった、と疑いなく語ることができる。そうでなくて、実際には「逸話」に関連した作品から純粋な絵画を解き放った。
 そして同様に、言葉で成るものではあるが、小説や戯曲は、我々がJoyce 、Musil およびGombrowiczを何とか理解して読むことができる程度に、(決して完全にはなり得なかった)様式の喪失を乗り越えた。
 しかし、哲学的な叙述では、彼による形式の解体はきわめて高い程度に破壊的だ。
 Gabriel Marcel のように、言葉でもって瞬時に過ぎ去る「経験」を把握しようと著者が試みているのならば、耐えられるかもしれない。
 しかし、抽象化を行いつづけつつ、一方では同時に言説の無意味な形態だと強く主張している、そういう哲学者に耐えて読み続けるのは困難だ。//
 (2)このように留保したうえで、アドルノの議論に関する〔私の〕考えを提示してみよう。
 彼の書物を支配して表現されている主要なテーマは、例えば、つぎのような、カント、ヘーゲルおよび現象主義の論調に対する批判だ。
 哲学を支配するのはつねに、形而上学的にも認識論的にも、絶対的な出発地点の探求精神だ。その結果として哲学者自身の意図にもかかわらず、「一体性(identity)」、すなわち他の全てのものが究極的には還元される、ある種の本源的な存在の探求へと知らぬ間に巻き込まれてきた。
 ドイツ観念論や実証主義、実存主義や先験的現象主義も似たようなものだった。
 哲学者たちは、反対物の典型的で伝統的な「一対」-客体と主体、一般と個別、経験と観念、連続と不連続、理論と実践-を考察する際に、これかあれかの概念に優越性を認め、全てを叙述することができる様式的言語を生み出す、そのような方法でもって、それらを解釈しようとしてきた。全てのものが派生してくる普遍的なものの諸側面を見極める(identify)ために。
 しかし、これを行うことはできない。
 絶対的な「優越性」などは存在しない。哲学がかかわる全てのものは反対物に相互依存したものとして表れるのだ。
 (これはもちろんヘーゲルの考えだったが、アドルノはヘーゲルはのちにこれに忠実ではなくなったと主張した。)
 伝統的な様式で「優先的な」事物または観念を発見しようとし続ける哲学は、間違った路線上にあり、さらに加えて、我々の文明では全体主義的かつ順応主義的な傾向を強めている。何を犠牲にしても秩序と不変性を獲得しようと努めることによって。
 哲学は、実際には不可能だ。
 可能であるのは、恒常的な否定だけだ。すなわち、「一体性」を付与する単一の原理の範囲内に世界を限定しようとする全ての試みに対する、完全に破壊的な抵抗だ。//
 (3)このように概括すると、アドルノの思考は絶望的で不毛だと思われるかもしれない。しかし、不公正にそうしたとは〔私は〕思っていない。
 否定の弁証法(これは形而上学的理論になるだろう)ではなく、形而上学と認識論を明確に否定するものだ。
 アドルノの意図は、反全体主義だ。すなわち、特定の形態の支配を永続させるのに役立ち、人間という主体を「物象化」された形式へと貶める、そのような全ての思想に、彼は反対している。
 彼は、このような試みは逆説的な「主体性」をもつ、とくに実存主義の哲学では、と主張する。実存主義哲学は、絶対的な個人的主体を還元不能な実体として凝固させることによって、ますます人間の隷属化を進める社会関係の全てに対する無関心を生じさせる、と。
 外部にある全てのものを暗黙裡に受容することなくしては、単項的実存が優越性をもっているとは、誰も主張することができないのだ。//
 (4)しかし、マルクス主義もまた-この論脈ではその名は言及されていないけれども、とくにルカチの解釈では-、「物象化」批判という色彩のもとで、同じ全体主義的(totalitarian)傾向をもつ。
 「ヘーゲルおよびマルクスに残っている理論的不適切さは歴史的実践の一部になっており、かくして、実践の優越性に対して思想が非理性的に屈服するのではなく、改めて理論の中へと反映させることができる。
 実践それ自体が、著しく理論上の概念だった。」
 (<否定弁証法>, p.144.)
 アドルノはこうして、理論が解体されてその自立性を喪失させるものとして、マルクス主義=ルカチ主義の「実践の優越」を攻撃する。
 「一体性の哲学」に対する反対論がマルクス主義の反知性主義とその全てを吸い込む「実践」に向けられているかぎりで、彼は、哲学が存在する権利を擁護する。
 彼は、「いったん時代遅れになったと見えた哲学は、それが存在しないと気づかれたときに生きつづける」との言明でもって書物の最初を始めすらする(p.3.)。
 この点で、アドルノは明らかにマルクス主義から離れている。
 彼は、マルクスがプロレタリアートによる人間の解放と「生活」との一体化による哲学の廃棄を望んだのは現実的だったかもしれないが、そのときはもう過ぎた、と論じる。
 理論はその自立性を維持しなければならない。これはむろん、理論は絶対的な優越性を保持することを意味していない。
 「優越性」を持つものは何もなく、全てのものが他の全てに依存している。そして、同様の理由によって、全てのものが「実体性(substantiality)」に関するそれ自体の判断基準をもつのだ。
 「実践」は理論の任務を遂行することができない。そして、かりにそう求めるならば、実践はすぐに思考の敵になる。//
 (5)かりに絶対的な優越性をもつものがないとすれば、アドルノの見解では、理性を用いて「全体(the whole)」を包摂しようとする全ての試みは非生産的で、神秘化という教条に奉仕することになる。
 このことは、実証主義者ならば主張したかもしれないが、理論は個別の科学へと解消しなければならないことを意味していない。
 理論は不可欠のものだ。しかし、さしあたりはそれは否定(negation)以外の何ものにもなり得ない。
 「全体」を把握しようとする試みは、全てのものの究極的な一体性という同じ信仰的忠誠精神にもとづくものだ。
 哲学が全体は「矛盾している」と主張するとき、哲学は、「一体性」に関する間違った見方をしている。そして、それはきわめて強力なので、「矛盾」は、普遍的世界の最終的な創造が主張されるときにはその道具にすらなってしまう。
 真の意味での弁証法は、かくして、たんに「矛盾」を探求することではなく、全ての事物を説明する図式(schema)だと見なしてそれを受け入れることを拒否することだ。
 厳密に言えば、弁証法は方法でも世界の描写でもなく、存在する記述的図式の全てに、そして普遍性を装っている方法の全てに、繰り返して反対する行為だ。
 「矛盾の全体は、一体化の全体が真実ではないことを明らかにしているものに他ならない」(p.6.)。//
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 ②以降へとつづく。
 下は、L・コワコフスキ著第三巻分冊版のドイツ語Paperback版訳書(1979年初版の1989年印刷版)の表紙。

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1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
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1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
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 ②へとつづく。

1651/弁証法ノート①-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート①。
 論考や演説でのその時どきの文章を別にすれば、レーニンは、純然たる哲学を主題とする書物をもう書かなかった。
 (1921年の『戦闘的唯物論の意義』は、情報宣伝のための命令文書たる性質のものだ。
 1913年の『マルクス主義の三つの淵源と三つの要素』は一般向けの解説で、独自性はない。)
 しかしながら、彼の死後にソヴィエト同盟で、<哲学ノート(Notebooks)>(全集38巻)と題する一巻本の書物が刊行された。これはレーニンが主に1914-15年に書いた種々の著作の抜粋から成っていて、彼自身の肯定や憤慨の論評や若干の哲学的見解が付いていた。
 ある程度の場合について、このノートは彼が読んだものや彼自身の立場表明の要約なのかどうかが明確でない。
 主要なノートは弁証法に関係しており、<唯物論と経験批判論>での粗雑な定式の調子をある程度弱めているので、興味を惹く。
 そしてこのノートは、とくに、レーニンが戦時中に読んだヘーゲルの<論理(Logic)>と<歴史哲学講義(Lectures on the Philosophy of History)>の影響を受けていることを示している。
 レーニンは、ヘーゲルのこれら書物により、彼の弁証法はマルクス主義の発展においてきわめて重要なものだったと確信した。
 彼は、<資本論>はヘーゲルの<論理>の完全な研究なくしては理解できない、とすら書いた。そして、申し分のない一貫性をもって、こう付け加えた。
 『そう、半世紀経ったが、どのマルクス主義者も、マルクスを理解していなかった』。
 この突発表現(boutade)は、字義どおりには理解されてはならない。なぜなら、レーニンは自分が1915年までにマルクスを理解したと思っていなかったとは考え難いからだ。
 しかし、上の言葉は、レーニンがある程度はヘーゲルの考察に魅惑されたことを示す。//
 <ノート>が示すように、ヘーゲルの<論理>における『普遍性』と『個別性』の問題、および『合一(unity)と諸反対物の矛盾』の理論と考えられた弁証法に、レーニンはもっとも関心を持った。
 彼は、ヘーゲルの弁証法のうちに、唯物論の基礎へと転位した後でマルクス主義が引き継いで使用した主題を発見しようとした。
 抽象化の問題および直接的感知と『普遍』の知識(knowledge)の関係に関して言うと、レーニンは、カントの教理(例えば、『事物それ自体』は完全に不明確(indefinite)で、したがって無だ)とは対立するヘーゲルの全てを強調し、抽象的思考の自律的な認識上の機能を指摘した。
 レーニンの論理によると、弁証法、そして知識の理論は、みな同じことだった。 
 <唯物論と経験批判論>は感覚(sensations)に関する主観的な解釈との闘いに集中しており、感覚を世界に関する全ての知識の源泉だと見なすことで満足しているように見えた。
 ところが一方、<ノート>は、感知(perception)それ自体に含まれる抽象化という問題を設定し、認識の過程に際限のない『矛盾』を持ち込む。
 法則、したがってまた『普遍性』は個々の現象の中にすでに含まれている。そして同様に、個々人の感知は『普遍的』要素をうちに含む、別言すれば、抽象化の行為だ。
 かくして、自然は具体的でも抽象的でもあり、事物は、一般的な規則性を把握する、ただ観念上の知識の観点からのものだ。
 具体的なものは、個別の感知行為によっては完全に具体的には把握することができない。
 一方でそれは、無限に多数ある観念および一般的法則を通じてのみ自らを再生産するのであり、その結果として、認識され尽くすことが決してない。
 最も単純な現象ですら、世界の複雑性およびその全ての構成要素の相互依存性を示している。
 しかし、全ての現象はこのように相互に結び付いているがゆえに、人間の知識は必然的に不完全で、断片的なものだ。
 具体的なものをその全ての個別性とともに把握するためには、我々は、諸現象の間の全ての連結関係に関して、絶対的で普遍的な知識を持たなければならない。
 世界に関する全ての『反射物』は、新しい矛盾によって、知識が進歩するように消失したり置き換えられたりする、内部的な矛盾を帯同している。
 反射物は、『死んで』いたり『不活性』だったりするのではなく、その断片的な性質と矛盾によって、知識の増大を生み出す。だがそれは、不明確であり続けるのであり、決して絶対的な最終物へと到達することはない。
 かくして、真実(truth)は、矛盾を解消する過程としてのみ現われてくる。//
 知識の個別の構成要素と抽象的なそれとの間にはつねに一定の緊張、あるいは『矛盾』があるがゆえに、認識の過程で前者を犠牲にして後者を絶対化することは、すなわち観念論の方法で思考することは、つねに可能だ。
 『反射物』の『普遍的』な側面をレーニンが強調していること(これは彼の主要な哲学著作でのそれに関する叙述に反している)の他に、この考え方は、観念論は聖職者やブルジョアジーによって考案された欺瞞だという大雑把な解釈から離れている、第二の重要なものだ。     
 ここで現われる観念論は、『グノセオロジー〔認識論〕的淵源』を持つ。それは、精神上の逸脱というだけではなく、認識の一つの実際の側面を絶対化するもの、あるいは一面的に発展させたものだ。
 レーニンは、賢い観念論は、愚かな唯物論よりも、賢い唯物論に近い、とすら述べる。//
 <ノート>の第二の重要な主題は、『矛盾と諸反対物の合一』だ。
 レーニンは、弁証法の全体は諸反対物の合一の科学と定義することができる、と主張する。
 彼が列挙する16の『弁証法の要素』の中でとくに、諸反対物の矛盾は多様な形態で主要なモティーフになっている。
 全ての単一の事物は諸反対物の総体および合一体で、事物の全ての属性はその反対物へと変化する。内容の形式との『矛盾』、発展の低い段階での特徴は『否定の否定』によりより高い段階へと再生産される、等々。//
 これら全ての考えは、きわめて簡単なかつ一般的な言葉で表現された。したがって、分析を精細すぎるほどに行うほどのものではない。
 レーニンは、『矛盾』、論理的関係性がいかにして客体それ自体の属性に転化し得るのかについて、立ち入った検討をしていない。
 また、抽象化を感知の内容に導入することがいかにして『反射物』理論へのそれに照応するのかについて説明してもいない。
 しかしながら、エンゲルスのように、レーニンが弁証法は客体とは無関係に一般化された『世界の論理』だと説明できる普遍的方法だと見なした、ということは見てとれる。また、ヘーゲルの論理を唯物論的な変容の生の材料だと見なした、ということも、見てとれる。
 しかし、一般的に言って、レーニンの論述はエンゲルスの解釈よりも平易ではないヘーゲル主義に関する解釈を示すものだ。
 弁証法は、たんに『事物は全て変化する』と主張するものではなく、人間の知識は主体と客体の間での、いずれかの側の『絶対的な優先性』の問題は意味がなくなる、永続的な相互作用だと解釈しようとするものだ。//
 <ノート>は、主として党が機械論的(mechanistic)唯物論を批判するのに役立つように刊行された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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