秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

廬山寺

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
 ***

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 ***
 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。

 櫻井よしこは光格天皇を「皇室の権威を蘇らせ、高めた」として、高く評価する。
 問題は、そのことが「神道」の権威をいかほどに高めたのか、だろう。
 櫻井は「日本の宗教」=「神道」で、かつ「天皇家の宗教」=「神道」と単純かつ幼稚に考えているので、「皇室の権威」が高まることは「神道」の力が大きくなることと全く同義で、そのゆえにこそ、光格天皇を高く評価しているのかもしれない。
 しかし、江戸時代はまだ<神仏習合>の時代で、儒教ないし儒学・朱子学の影響も大きくなっていた。
 櫻井よしこのように「幸福に」は叙述できないことは、光格天皇と京都市に現在もある廬山寺という仏教寺院との関係について、すでに述べた。
 光格天皇と廬山寺の関係については、まだ重要なことが残っている。
 光格天皇の近親者たちのの墓陵が、廬山寺の境内にある。正確にいえば、同寺経営・管理とみられる一般の墓地の区画と同寺の建物部分の間の、宮内庁管理地の区画内にある。入口辺りにある宮内庁設置の掲示施設によると、以下の皇族等の「墓」がある。2名は、あと回しにする。
 ①東山天皇後宮新崇賢門院藤原実子、②同皇子直仁親王、③同皇子直仁親王妃脩子、④同曽孫美仁親王、⑤同曽孫美仁親王妃因子、⑥同玄孫孝仁親王、⑦同玄孫孝仁親王妃吉子、⑧同五世皇孫致宮、⑨同五世皇孫愛仁親王。
 ⑩光格天皇皇子俊宮、⑪同皇子埼宮、⑫同皇女多址宮、⑬同皇女治宮。
 ⑭仁孝天皇皇子胤宮。
 上の東山天皇(113代)は、光格天皇(119代)の曾祖父、仁孝天皇(120代)は光格天皇の子。また、東山天皇皇子直仁親王とは東山天皇から分岐した閑院宮家の第一代(光格は第三代で東山天皇の三世の孫=曽孫)。
 東山天皇自身の陵墓は京都・泉涌寺直近の「月輪陵」内に、光格天皇と仁孝天皇(=孝明天皇の父)の陵墓はやはり泉涌寺直近の「後月輪陵」内にある。
 また、東山天皇皇后幸子女王、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子、の4名についても「月輪陵」・「後月輪陵」にある。各天皇の皇后またはそれに準じた女性たちだ。
したがって、<廬山寺陵>には、光格天皇に血縁が近い者で天皇または皇后ではかった人たちの多数の「墓」があることになるだろう。
 しかし、あと2名が残っている。掲示によれば、冒頭に記載されている2名だ。陵名自体が<慶光天皇廬山寺陵>と称される。
 ①慶光天皇、②慶光天皇妃成子内親王。
 この「慶光天皇」は、江戸時代には、その名前自体が存在しなかった。
 該当する人物は存在していて、1870年(明治3年)にこのように追号され、名前だけは「天皇」ということになった。しかし、天智の子の弘文天皇=大友皇子のように、「皇統譜」に正規に天皇として記載・登録されたわけではない(他にも追号または諡号が明治期に決まった過去の歴代天皇がある-別に書く)。
 「慶光天皇」とは、光格天皇の実父、閑院宮典仁のことだ。上に出てきた東山天皇の孫、直仁親王の子で、閑院宮二代目にあたる。
 この人が明治維新後に「慶光天皇」と呼ばれ、その陵墓が廬山寺にある。
 そして、その墓陵の様式は仏教式だ。現在は厳密には廬山寺ではなく宮内庁の管理地だろうが、かつて廬山寺が<菩提寺>として管理し、法要等をしていたことは、先に書いた位置関係からしても明確だと思われる。
 そして、やはり「九重仏塔」と称してよいと考えられるものが墓碑にある。しかし、興味深いのは、どうも泉涌寺直近の(孝明天皇陵の丘の麓にある)「月輪陵」・「後月輪陵」の写真にある「九重仏塔」・「九重石塔」は各墓碑そのものの脇に立てられているように見える、少なくとも四方形の九重石塔もあるのに対して、「廬山寺陵」のそれらは、四方形の石積みの塔はなく、各墓碑のまさに上が「九重石塔」になっている、ということだ。石塔と一体となってその下部に中心的な墓碑部分がある。
 以下の写真のとおり。ともかくも、仏教様式ではあるとは見られる。
 では、なぜ代数もない「慶光天皇」=閑院宮典仁は「天皇」と(明治になってから)称されたのか。「天皇」称号にかかわる他の点も含めて、次回とする。代数表記は明治以降の皇統譜、宮内庁HPにしたがったもの。
 ****
 この項の前回に光格天皇について「火葬」としたのは陵墓の孝明天皇陵と比べての小ささからする勝手な推測で、実際には「土葬」だった。改める。
 「月輪陵」に陵墓のある天皇のうち、後陽成天皇(107代、1617年没)までは「火葬」、後光明天皇(110代、1654年没)以降は「土葬」に変わった、とされる。なお、死亡年の順序と即位の代数の順序は一致しない。後水尾天皇(108代)は1680年没、明正天皇(109代・女性)は、1696年没。
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 下の二つは廬山寺陵の二つの陵墓。前者が中央奥にある。
 その下の二つは、廬山寺陵の宮内庁掲示板と、廬山寺のすぐ北にある寺院・清浄華院で見かけた円形の石による<九重石塔>(これは墓碑の上にあるのではなく、少なくとも今は独立の石塔だ)。いずれも、2019年。

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2082/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①。

 櫻井よしこは2017年初頭にこう書いていた。週刊新潮2017年2月9日号。つぎの二文は、連続したものだ。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた
 その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」 本欄№1620-2017/07/03も、参照。
 櫻井よしこは、今年・2019年初頭に、実際の執筆は昨年末だろうが、こう書いた。 週刊新潮2019年1月3=10日号。
 「日本の国柄の核は皇室である。皇室の伝統は神話の時代に遡り、それは神道と重なる
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 光格天皇についても神道についてもロクに勉強せず上のようなことを書いているのだから、真剣にとり上げるに値しないことははっきりしている。
 しかし、著名な?日本の週刊誌の一つに活字となって述べられているので、少しコメントし、さらにいくつかのことを書き記そう。
 上の二つの論考?から感じ取れるのは、あるいは上の二つを単純に結びつけると読み取れるのは、こういうことだろう。
 「日本の国柄の核」は「その伝統」が「神道と重なる」「皇室」であり、「光格天皇」は「皇室の権威を蘇らせ、高めた」。
 こう要約するのは、決して誤りではないだろう。実際に櫻井よしこは、こう「認識」している可能性が高い。
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 光格天皇と神道または仏教との関係について、素人でも簡単に分かることをまずいくつか記す。
 なお、光格天皇の在位は1779年~1817年、没は1840年。つまり、仁孝天皇(追号)に「譲位」をした。それから200年ほど後の現上皇による「譲位」まで、生前退位(譲位)の最後の例だった。
  既述のように、光格天皇の陵墓はいまは宮内庁管理地だがかつては明確に泉涌寺の境内にあり、現在でも泉涌寺の本堂(仏殿)近くを通らないと参拝できない、東山後月輪陵の中にある。先代の後桃園天皇(まで)の陵墓は東山月輪陵の中にあっていちおうは別だが接している。光格天皇(・上皇)の薨去後に、狭くなっていたので、新しく区画を造成?したのだろう。
 神道式の墓地はあるようだが、どのようなものかよく知らない。しかし、光格天皇の陵墓が「仏教式」であることははっきりしている。のちに改めて触れるが<九重仏塔>が用いられている。
  櫻井よしこ(ら日本会議派諸氏)は天皇はまるでずっと神道式の葬礼を受けてきたと勘違いをしているのかもしれない。少なくとも、日本書記・古事記の編纂の時代から1300年ほどはそうだ、と思い間違いをしているのかもしれない。
 天武天皇皇后だった持統天皇が天皇で最初に「火葬」されたことはよく知られている。
 光格天皇も、その陵墓の規模からしても、「火葬」されたことは明確だ。
 これらは、持統天皇以降ずっと連続していたとは書かないが、「仏教」の影響だった、または「仏教」式そのものだった、と考えられる。
  ついでに書いておけば、古事記が成立し日本書記も完成した後の聖武天皇・同妃光明子(光明皇后)が<篤い>仏教徒だったこともよく知られている。
 東大寺正倉院には聖武天皇・皇室の所持品だったものが国宝も含めて多数ある。正倉院は東大寺内にあるのであって、神社である春日大社ではない。
 同じ時代に、いわば国営・国立の仏教施設である国分寺や国分尼寺の設置・建設も始まった。奈良市内に現在もある法華寺は門跡寺院の一つだが、光明皇后による開設で国分尼寺のいわば総本山とされ、代々女性僧侶が住職であるらしい。
 この時代、元明天皇時代に日本書記も編纂・提出されていたが、<神道>は何だったのか?
 こんな<教科書>的なことを櫻井よしこに教えても無駄だろうが、櫻井のために書いているのではないので、続けよう。
  京都市内の京都御苑すぐ東(寺町通東側)、梨木神社(寺町通西側、祭神は三条実美)の真東辺りに、廬山寺〔ろざんじ〕という寺院がある。
 この寺による小冊子によると、この寺院の場所に平安時代にあった邸宅で紫式部が「一生の大部分」を過ごし、「結婚生活」を送ったとされる。当然に<源氏物語>の執筆地ということになる。但し、石山寺(大津市)で一時期にせよ<源氏物語>を執筆したとされていて、石山寺本堂には「源氏物語の間」だったか「紫式部の間」だったかがある。
 上は余計な話題だ。
 光格天皇に戻すと、光格天皇と廬山寺は関係が深い。
 同寺仏殿(本堂)内の掲示等々によると、光格天皇の「愛用の品々」が現在でも廬山寺に残されており、同天皇とゆかりがあるという「茶室」もある。また、上皇となってのちの仙洞御所(上皇用の住居)の建物の少なくとも一部が廬山寺に「下賜」された。
 どこかの神社ではない。蘆山寺は、れっきとした仏教寺院だ。
 廬山寺による小冊子によると、明治維新まで京都に「宮中の仏事を司る」寺院が四つあって、廬山寺はその一つだった(ほかは二尊院等だとされる)。
 明治維新後の1873年=明治5年に(小冊子によるとおそらく)自立性が剥奪されて比叡山延暦寺の一部となり、1948年に再び独立した(天台圓浄宗)。
 光格天皇が「皇室の権威を蘇らせ、高めた」のは確かなようなのだが、しかし、櫻井よしこは、上のような仏教との関係の深さを全く知らないのだろう。<神仏習合>の時代が長くつづいたのだとすると、自然なことだと感じられもするが、櫻井ら日本会議派諸氏は「知りたくない」、「知っても書きたくない」ことかもしれない。
 ***
 さらに続ける。
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