秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

平等

0815/家族間の殺人の増大-戦後日本<個人主義>の行き着くところ。

 「亀井静香金融・郵政改革担当相は5日、東京都内の講演で「日本で家族間の殺人事件が増えているのは(企業が)人間を人間として扱わなくなったためだ」と述べた。その上で日本経団連御手洗冨士夫会長と会談した際に「そのことに責任を感じないとだめだ」と言ったというエピソードを披露し、経団連を批判した」。以上、MSN産経ニュース。
 亀井の認識は誤っている。

 「日本で家族間の殺人事件が増えている」とすれば、それは第一に、日本国憲法が「家族」に関する規定を持たないことにもよる、<家族>よりも<個人>を大切にする、戦後日本的<個人主義>の蔓延によるところが大きい。
 第二に、もともと<家族>を呪い、解体を目指す<左翼>(容共)勢力が幅をきかし、現在でも根強く残っていることにある。マルクス主義者にとって、国家・私有財産とともに<家族>なるものもいずれ消滅すべきものなのだ(エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」参照)。
 この考え方は、(マルクス主義的)フェミニズムに強く刻印されており、そのような考え方の持ち主が閣僚になってしまっている、という怖ろしい現実も目の前にある。<個人>、とくに<女性>こそが<家族・家庭>のために差別(・「搾取」)されてきた、と彼ら(彼女ら)は考える。
 上の二つは重なり合う。要するに、<個人>が<家族・家庭>のために犠牲になってはならず、各<個人>は<家族・家庭>の中で<対等・平等>だという一種のイデオロギーが、今日の日本にかなり深く浸透している。
 このような意識状況において、親の<権威>を子どもが意識するはずもない。親は<権威>を持とうともせず、<友だち>のような、子どもを<理解してあげる>親がよい親だと勘違いしている。
 子どもが親等の<目上>の者をそのためだけで<尊敬する>わけがない。
 こんな状況においては、<家族>であっても、<個人>に辛くあたったり、自分<個人>の利益にならない者は、血縁に関係なく、容易に殺人の対象になりうる。
 以上は主として子どもによる親殺し・祖父母殺しについて書いた。逆の場合も同様なことが言える。
 <子育て>が愉しくなく、自分<個人>が犠牲になっている、と感じる女性は昔より多いはずだ。
 女性の中には、自分が産んだ子どもが、自分の睡眠時間と体力を奪ったり、自分の若さを奪っていると感じて邪魔に感じたり、あるいは他の子どもと比較して何らかの点で劣っているのではないかと感じることによって他の母親との関係での自分<個人>のプライドが傷つけられている、と感じたりする者たちもいる。
 似たようなことは父親にもあるかもしれないが、母親の方に多いだろう。
 このような親たちを生んでしまった戦後日本社会とは何だったのか。<個人の尊厳>が第一、と憲法学者さまたちが説き、それを<左翼>的教師たちが小学校・中学校・高校で教育実践している間に、<家族・家庭>(・地域・国家)よりも、いびつに肥大化した自己を大切にする<個人主義>の社会になってしまった。
 ついでに。内容につき言及したことはないが、関連文献として、林道義・母性崩壊(PHP、1999)がある。じつに衝撃的な本だ。
 亀井静香はこの本でも読んで、経団連・御手洗などにではなく、閣僚仲間の福島瑞穂や千葉景子に対してクレームをつけてみてはどうか。

0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。

 先週7/16(木)夜、ルソー・人間不平等起原論(1755)を、中公クラシックスのルソー・人間不平等起原論/社会契約論〔小林善彦・井上幸治訳〕(中央公論新社、2005)を読み終える。前者・人間不平等起原論の訳者は小林善彦。
 1 引用してのコメントはしない。社会契約論とともにルソーの二大著作とされることもあるが、平等「狂」、あるいは少なくとも「平等教」教組の戯言(たわごと)という印象を拭えない。
 現在の時点に立っての論評は不適切で、18世紀の文献として評価すべきだとしても、人間の「不平等」の「起原」についての論考・思考として、あまりにも説得力がなさすぎ、ほとんど「空想」・「妄想」だ。
 ルソーは今でいうと、「文学評論家」的又は「文学者」的「思想家」のようで、文章自体はおそらく、レトリックを多用した、美文又は(平均人は書けない)複雑な構成の文章なのだろう(邦訳なので、感じるだけだが)。そしてまた、倒置、仮定、二重否定、反語等々によって、意味の理解が困難な箇所も多い。
 2 すでに忘れかけているが、コメントをほとんど省略して、印象に残る(決して肯定・同意の趣旨ではない)文章をピック・アップしておこう。
 序文・「人間は一般に認められているように、本来お互いに平等である」(p.23)。
 ・「人間の魂の最初の、そして最も単純な働き」には「理性」に先立つつぎの「二つの原理」がある。①「われわれの安楽と自己保存」に関心を与えるもの、②「感性的存在、主としてほれほれの同胞が、滅び、または苦しむのを見ることに対して、自然の嫌悪を…起こさせるもの」(p.28)。②はのちにいう「同情心」(pitie)だろう。
 本論・人類に「二種類の不平等」がある。①「自然的または肉体的不平等」、②「道徳的または政治的不平等」。前者の源泉は問えない。これら二種の不平等との間の「本質的な関係」を求めることも不可能(p.33-34)。
 ・この論文では、「事物の進歩のなかで、暴力のあとに権利がおこり、自然が法に屈服させられた時を指摘」する等をする(p.34)。
 ・ここでの「探求は、歴史的な真理ではなくて、単に仮説的で条件的な推理」だ(p.36)。
 第一部・「未開人の身体」は彼の唯一の道具で、「生活技術」(<「文明」)は未開人の「力と敏捷さ」を奪う。
 ・ホッブズは「人間は本来大胆で、攻撃し、戦うことしか求めない」と言ったが、誤っている(p.41-42)。
 ・人間が身を守る手段がないのは「生まれながらの病弱と幼少と老衰とあらゆる種類の病気」だ。「はじめの二つ」は「すべての動物」に関係し、「最後のもの」は「主として社会生活をする人間に属する」(p.43)。未開人は「怪我と老衰のほかにほとんど病気を知らない」。未開人には「薬」は不要で、「医者」はなおさら(p.45)。
 ・「われわれの不幸の大部分はわれわれ自身で作ったもの」で、「自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式」を守れば避け得た。「思索」は「自然に反し」、「瞑想する人間は堕落」している(p.45)。
 ・「社交的になり、奴隷になると、人間は弱く臆病で卑屈になる」。「女性化した生活様式は、…力と勇気とをすっかり無力」にする(p.47)。
 ・「裸」のままでおらず「衣服と住居」を作ったことは「あまり必要ではない」ことだった(p.47)。
 とっくに、この<狂人>の「仮説的で条件的な推理」には付(従)いていけないのだが、つづけてみよう。
 

0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。



 阪本昌成・新・近代立憲主義を読み直す(成文堂、2008)において、フランス革命はどう語られるか。旧版に即してすでに言及した可能性があり、また多くの箇所でフランス革命には論及があるが、第Ⅱ部第6章「立憲主義のモデル」を抜粋的・要約的に紹介する。
 マルクス主義憲法学を明確に批判し、ハイエキアンであることを公然と語る、きわめて珍しい憲法学者だ。
 現役の憲法学者の中にこんな人物がいることは奇跡的にすら感じる(広島大学→九州大学→立教大学)。影響を受けた者もいるだろうから、憲法学者全体がマルクス主義者に、少なくとも「左翼」に支配されているわけではないことに、微小ながらも望みをつなぎたい。
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 第Ⅱ部第6章〔1〕「フランス革命の典型性?」(p.182~)
 A 近代憲法史にとっての「フランスの典型性」を樋口陽一らは語り、それを論証するように、<権利保障・権力分立がなければ憲法ではない>旨のフランス人権宣言16条が言及される。
 このフレーズは誤った思考に導きうる。16条の「権利」の中には「安全」への権利も含まれているが、これが立憲主義の要素として語られることは今日では稀。また、「自由と権利における平等」と「平等な生存」の並列はいかにも羅列的だし、「所有権」まで自然権と割り切っていることも奇妙だ。
 「自由、平等、財産権」の差異に無頓着ならば、フランス人権宣言はアメリカ独立宣言と同じく立憲主義の一要素に見事に言及している。しかし、アメリカとフランスでは「自由・平等」のニュアンスは異なる。「自由」の捉え方が決定的に異なる。
 B 革命期のフランスにおいて人民主権・国家権力の民主化を語れば「一般意思」の下に行政・司法を置くので、モンテスキューの権力分立論とは大いにずれる。<一般意思を表明する議会>とは権力分立の亜種ですらなく、「ルソー主義」。
 アメリカ建国期の権力分立論は「人間と『人民』に対する不信感、権力への懐疑心、民主政治への危険性等々、いわゆる『保守』と位置づけられる人びとの構想」だった〔青字部分は原文では太字強調〕。
 立憲主義に必要なのは、国家権力の分散・制限理論ではなく、国家にとっての憲法の不可欠性=「国家の内的構成要素」としての憲法、との考え方だろう。これが「法の支配」だ。立憲主義とは「法の支配」の別称だ。
 <立憲民主主義>樹立が近代国家の目標との言明は避けるべき。「民主的な権力」であれ「専制的なそれ」であれ、その発現形式に歯止めをかけるのが「立憲主義」なのだ。
 近代萌芽期では「立憲主義」と「民主主義」は矛盾しないように見えた。だが、今日では、「民主主義という統治の体制」を統制する「思想体系」が必要だ。(つづく)

0659/自由主義・「個人」主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1

 一 <民主主義>とは「国民」又は「人民」の意向・意思に(できるだけ)即して行うという考え方、というだけの意味で(「民主政治」・「民主政」はそのような「政治」というだけのこと)で、「国民」・「人民」の意思の内容・その価値判断を問わない。従って、「国民」・「人民」の意思にもとづいて<悪い>又は<間違った>又は<不合理な>決定が行われることはありえ、そのような「政治」もありうる。民主主義にのっとった決定が最も「正しい」とか「合理的」だとは、全く言えない。
 また、「国民」・「人民」の意思だと僭称するか(各国共産党はこれをしてきたし、しているようだ)、しなくとも実際に多数「国民」・「人民」の支持・承認を受けることによって、ドイツ・ワイマール民主主義のもとでのナチス・ヒトラー独裁のように、民主主義から<独裁>も生じうる。また、民主主義の徹底化を通じた<社会主義・共産主義>への展望も、かつては有力に語られた。
 <民主主義>に幻想を持ちすぎてはいけない。
 <自由>が国家(・および「因習」等)による拘束からの自由を意味するとして、それは重要なことかもしれないが、このような<自由>な個人・人間が目指すべき目標・価値を、あるいは採るべき行動・措置を、何ら指し示すものではない。<自由>を活用して一体何をするか、何を獲得するかは、<自由>それ自体からは何も明らかにならない。
 とくに<経済的自由主義>はコミュニズムに対抗する意味でも重要なことだろうが(むろん「自由」にも幅があるので又は内在的制約があるので、<規律ある自由>とかが近時は強調されることもある)、しかし、「自由主義」に幻想を持ちすぎてもいけない。
 <個人主義>も同様だ。人間が「個人として尊重」されるのはよいし、その個人の「生命、自由及び幸福追求に対する…権利」が尊重されるのもよいが(日本国憲法13条)、「生命、自由及び幸福追求」というだけでは、「自由な」尊重されるべき「個人」が、一体何を目指し、何を獲得すべきか、いかなる行動を執るべきか、いかなる具体的価値を大切にすべきか、等々を語るには、なおも抽象的すぎる。要するに、各個人の「自由な」又は勝手気侭な選択はできるだけ尊重されるべし、というだけのことだ。
 <平等>主義も重要だろうが、これまた具体的<価値>とは無関係だ。適法性を前提としても(法の下の平等)、平等な貧困もあるし、平等に国家的・社会的規制を受けることがあるし、平等に「弾圧・抑圧」されることもありうる。<平等>原理だけでは、特定の<価値>を守り又は獲得する手がかりには全くならない。
 二 というようなことを思いつつ、佐伯啓思のいくつかの本を見ていると、なるほどと感じさせる文章に遭遇する。
 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)の、80年代アメリカ経済学・「グローバリズム」・「新自由主義」批判は省略。
 ①「リベラリズム」(自由主義)の「基礎を組み立てている」のは「消費者」ではなく、しいて名付ければ「市民」だとしたあと(上掲書p.56)、次のように書く。
 ・「市民」はその原語(ブルジョアジー)の定義が示すように何よりも「財産主」であり、「財産主」であることを守るためには「安定した社会秩序」を必要とした。さらに「社会秩序」の維持のためには「公共の事柄に対する義務と責任」を負い、この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」・「日々の経験」・「人々との会話」・「読書」・「芸術」によって培われる。
 ・「公共の事柄に対する義務と責任」を負うために必要な「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を、人は、「いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として」身に付けることはできない。人は「近隣、家族、友人たち、教会、それに国家」、こうした「様々なレベルでの」「広義の『共同体』」と一切無関係に「価値や判断力」を獲得できない。
 ・「近代社会」による「封建的共同体からの個人の解放」は「個人主義」の成立・「近代リベラリズムの条件」だと理解されている。しかし、これは「基本的な誤解」か、「すくなくとも事態の半面を見ているにすぎない」。「一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえない」。仮にありえたとして、彼はいかにして、「社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在」を学ぶのか。
 ・「通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の権利をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」。(以上、p.57-58)。
 昨年に憲法学者・樋口陽一の「個人」の尊重・「個人主義」観をこの欄で批判的に取り上げたことがある。樋口陽一や多くの憲法学者の理解している又はイメージしている「個人」とは、佐伯啓思は「ロックなどの社会契約論が思想の端緒を開き…」と書いているが、ロック・ルソーらの(全く同じ議論でないにせよ)社会契約論が想定しているようなものであり、それは「誤り」を含む「通俗的な近代リベラリズム」のそれなのではないか。
 ②次のような文章もある。
 ・80年代に「リベラリズム批判」と称される四著がアメリカで出版され、話題になった(4名は、ニスベット、マッキンタイアー、ベラー、サンデル)。これらに共通するのは、「支配的なリベラリズム」が想定する「何物にも拘束されない自由な個人という抽象的な出発点」は「無意味な虚構だ」として排斥することだ。「抽象的に自由な個人」、サンデルのいう「何物にも負荷されない個人」という前提を斥けると「個人とは何なのか」。マッキンタイアーが明言するように、「何らかの『伝統』の文脈と不可分な」ものだ。
 ・人は「書物や頭の中で考えたこと」によって「価値」・「行動基準」を学習・入手するのではなく、「日々の経験や実践」の中で学ぶ。ここでの「実践」も抽象的なものではなく、それは「必ず歴史や社会の個別性の中で形成される」。つまり、「実践」は必ず「伝統」によって負荷されている。従って、「実践」とは先輩・先人・先祖との関係に入ることも意味する。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、残るのは「極めて貧困な実践」であり、そこから「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ(以上、p.58-59)。
 ・まとめ的にいうと、「確かに、リベラリズムは…、かけがえのない個人という価値に固執する」。「個人的自由」はリベラリズムの「基底」にある。しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえない」。つまり、「特定の『実践』や『伝統』から無縁ではありえない」(p.60)。
 今回の紹介は以上。
 上の一部にあった、「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ、ということは、わが国の戦後に実際に起こったことではないか。
 日本の戦前との断絶を強調し(八月革命説もそのような機能をもつ)、戦前までにあった日本的「伝統」・「価値」 を過剰に排斥又は否定した結果として、「伝統」・「歴史」の負荷を受けて成長すべき、戦後に教育を受けた又は戦後に社会的経験・「実践」をした者たちは(現在日本に生きている者のほとんどになるだろう)、まっとうな感覚をもつ「豊かな個人」として成長することに失敗したのではないか(私もその一人かも)。そのような「個人」が構成する社会が、そのような「個人」の総体「国民」が「主権」者である国家が、まともなものでなくなっていくのは(<溶解>していくのは)、自然の成り行きのような気もする。

0622/宮沢俊義・元東京大学憲法教授とオークショット・佐伯啓思-「平等」と進歩・保守。

 一 宮沢俊義・新版補訂憲法入門(勁草、1993、初版1950)における<ごった煮「民主主義」観>についてはすでに書いた。
 宮沢俊義・憲法と天皇-憲法二十年・上-(東京大学出版会、1969)にはこんな一文もある-「平等主義は、いうまでもなく、民主主義のコロラリイである」(p.40)。
 宮沢において「民主主義」とは、肯定的に評価されるべきすべての価値・主義が何でも飛び出してくる玉手箱のようだ。上のような文を書いて、恥ずかしくなかったのだろうか。
 最も気の毒なのは、こんな概念・論理関係の曖昧な人物を師と仰ぎ、<尊敬>しなければならなかった東京大学の憲法学の後裔たちかもしれない。
 二 平等といえば、宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)は、ルソー・人間不平等起源論の基本的内容を紹介したのち、こんなことを書いている(以下、p.73)。
 自然状態での人間の平等という主張は大昔には実際にそうだったという意味ではない。「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものであるから、必要があれば、人が変えることのできるものだ」、との意味だ。
 ルソーに好意的な点も含めて、マルクス主義者ではなくともさすがに昭和戦後の<進歩的>知識人の一員らしい文章だろうか。
 だが、ルソーの原意の詮索はさておき、「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものである」との上の前提的叙述は正しくはないのではないか。
 体力・知力・種々の能力、さらには容貌等も含めて(容貌はもちろん他の要素も客観的な優劣を決めがたいとしても)、「不平等」は「すべて人が作ったものである」という認識は決定的に誤っているだろう。個々の人間は体力・知力・種々の能力、容貌等について、<生まれながらに>平等であるはずがなく、これらの「すべて」について、後天的に人為的な差違を作られた、などと言える筈がない。

 これらの「すべて」が<生まれながらに>平等な人間ばかりの社会は奇妙で、気持ちが悪いに違いない。オーウェルの描いた1984年の社会管理者にとっては好都合かもしれないが。
 ひょっとして宮沢は
、「この社会に現に存する不平等」という語で<社会的>不平等を意味させているのかもしれない。だが、その場合であっても、体力・知力・種々の能力、容貌等についての<生まれながらの>不平等に起因するとしか考えられない<社会的>不平等=異なる社会的取り扱いもあるわけで、「すべて」の<社会的>不平等の解消が望ましく、かつそれは可能だ旨の叙述は、あまりに単純素朴すぎると思われる。
 東京大学教授が、「この社会に現に存する不平等」=<社会的>不平等は「すべて人が作ったものである」ので「必要があれば、人が変えることのできる」と単純(ほとんど=幼稚)に書いてよかったのだろうか。
 いつか触れたように、平等と「自由」の間には、今日的でもある困難な問題がある。単純素朴に<平等化>を説けたのは戦後の一時期か、純粋な平等主義者、すなわち観念上の存在としての共産主義者に限られるだろう。
 東京大学出身で現京都大学教授の佐伯啓思が引用すると些かの反発も生じないとは言えないだろうが、佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)p.23は、オークショットの保守主義論に言及して、オークショットの「保守的であるとは」のあとの文を、次のように紹介している。
 「自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きて行くことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないことである」。
 むろん一概に「自己のめぐりあわせに対して淡々と」すべきだとは思えない(理不尽な差別的取扱いや不当な批判・非難もありうる)。怒り、闘うべき場合もあるだろう。だが、第一次的又は基本的な考え様として、「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないこと」は大切であり、宮沢と比べて、リアルな認識を背景としているように思える。
 戦後の<平等化>思想、そして<平等>教育は、「自己の身に相応しく生き」ようとしない、あるいは「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しよう」とする大量の人々を生んだ、と考えられる。
 その結果は何だったのだろう。横並びを善とし、<より上>の人々を妬み、誹る心理の蔓延ではなかったか。政治家・上級官僚は当然にその対象になる。朝日新聞、TBSをはじめとするマスメディアもまた、そのような嫉妬の感情を煽り、記者自身がそのような感情にもとづいて記事を書き、キャスターやコメンテイターがテレビで喋る。
 あるいはまた、具体的な他の誰の<責任>でもなく、場合によっては本人の<責任>かもしれない状況について、<生まれながらの、平等に生きる権利>がある筈ではないのか!、それが保障されていないのは国家・政治・社会が悪い!、と思いこみ、鬱屈した生活を送ったり、鬱憤を晴らすために他人を殺傷したりする者が少なからず出現するに至っている。
 「誰でもよかった」などと言って一般国民・市井の人に刃を向ける者が現れたりしているのは、究極的には悪しき<平等主義>・<平等教育>に原因があるのではないか(つい最近の厚生省元事務次官事件ではなくもっと前の秋葉原事件等を想定して書いている)。
 平等、平等、競争しなくてもみな同じ、という学校教育からこそ、あるいはそれを含む<戦後民主主義>の風潮の中からこそ、現実の社会には生じる、あるいは存在する<不平等>=<格差>に対する、不相応の又は過度の又は方向違いの<不平・不満>が結果として多く生まれ出ているのではないか。一億総嫉妬社会(妬み=ねたみ、嫉み=そねみ)
の出現だ。

0612/宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1993)を一部読む。

 一 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房)を見ていると、唖然とし、驚愕する。
 この本は1950年第一版、1954年改訂版、1973年新版で、深瀬忠一(元北海道大学)補訂の新版補訂は1993年が第一刷。長きにわたって出版されたものだ。補訂は「最少限の補正」にとどまる(p.2、深瀬)とのことなので、以下すべて、宮沢俊義自身の考えが述べられていると理解して紹介する。
 ①民主主義と自由主義-「自由主義」とは、「個人の尊厳をみとめ、できるだけ各個人の自由、独立を尊重しようとする主義」。「特に国家の権力が不当に個人の自由を侵すことを抑えようとする主義」。
 国家権力による個人の自由の不当な侵害を防止するには、「権力分立主義」採用のほか、「すべての国民みずからが直接または間接に、国の政治に参加すること」が必要。すなわち、「国家の権力が直接または間接に、国民の意思にもとづいて運用されること」が必要。このように国家が「運用されなければならないという原理」を、「特に、民主主義」という。
 「つまり、自由主義も民主主義も、その狙いは同じ」。「いずれも一人一人の人間すべての価値の根底であるという立場に立って、できるだけ各個人の自由と幸福を確保することを理想とする主義」。
 「消極的」な国家権力の不当な干渉の排除の側面が「自由主義」で、「積極的」な個人の国政参加の主張の側面が「民主主義」。
 「両方をひっくるめて、ひろく民主主義といっても、さしつかえありません。ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味です」。
 以上、p.11-12。
 ここでは、まず「自由主義」と「個人主義(個人の尊厳)」が同義のごとく語られ、これに仕えるのが「民主主義」だとの理解も示される。そして、消極的・積極的と区別できるが、「民主主義」と「自由主義」は「狙いは同じ」で、一括して「民主主義」と言って差し支えない、とされる。
 呆れるほどに、<自由主義・個人主義・民主主義>は渾然一体のものとして説明されている、と評してよいだろう。
 ②民主主義と平和主義-「平和主義というものは、結局は、民主主義の外に対するあらわれにすぎませんから、これを、民主主義とまとめて、いってもいいでしょう」。
 これは、p.88。宮沢において、「平和主義」も「民主主義」の一種又は顕れの一つなのだ。
 ③民主主義と平等-「民主主義」は「人間の自由」・「人間の個性」を尊重する。「民主主義」は大勢の「人間を、みな同じように尊重」する。「民主主義が、平等を原理とするというのはこれです」。
 これは、p.89-90。ここでは、「平等」原理も「民主主義」によって説明されている、と言ってよい。「平等」原理自体が、「民主主義」の内容の一つなのだ。
 かくして、以下の叙述も出てくる。
 ④「民主主義」は「自由および平等の二つの原理にもとづく」結果として、「民主主義における自由」は「わがまま」・「放縦」を意味しない。「民主主義」はすべての人間が「平等な価値」をもつものと考えるので、「人間の自由は、他の人間の自由において、限界をもっている」。p.90。
 「民主主義における自由」という語も奇妙だとは思うが、「民主主義」・「自由」・「平等」の三者がほとんど一体のものとして説明されている。
 二 諸「理念」又は諸「主義」をそれぞれ関連づけあいながら説明すること一般を否定・批判しはしないが、上のような宮沢俊義の叙述は、いささか、いや過分にそれが酷(ひど)すぎるのではないだろうか。
 以上のような説明では、民主主義・自由主義・平等主義・平和主義の違いは明瞭にならないのではないか。
 それそれが循環論証的関係にあるか、又は結局は「民主主義」がその他のものを内包している関係にあると理解されているようだ。
 「ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味」、すなわち「民主主義」と「自由主義」を一括したものだ(p.12)という説明の仕方が典型的だろう。
 法学部生向けの教科書ではなく一般国民むけの「入門書」だからといって、このようなヒドさは看過できないはずだったものと思われる。
 そして、このような内容の本が当時は現役の東京大学法学部の憲法担当教授によって書かれていたということに唖然とさせられる。この人は、東京大学所属の憲法研究者でありながら、諸概念を厳格に定義することのできていた人なのだろうか。
 また、大江健三郎が自分は「戦後民主主義」者だという理由で、昭和天皇名による叙勲を拒否したことにも何となく納得がいく。これの決定的な理由は(既述のように)大江は昭和天皇の前に立つ度量・勇気がなかったということだと思うが、大江における「戦後民主主義」とは、「自由主義」・「個人主義」・「平等」原理・「平和主義」をすべて含んだものだったのだろう。私が理解している「民主主義」とは異なる。そして、それらすべてと矛盾するかに彼には思えた天皇の存在・天皇制度の存続自体が彼には許されなかったのだろう(自衛隊もそうだろうが)。
 東京大学教授・宮沢俊義の単純・素朴な叙述から同大学出身の「高名な」作家・大江健三郎に思いを馳せてしまった。

0279/阪本昌成の「社会権」観とリベラリズム。

 中川八洋はその著・保守主義の哲学等で、ハイエクにも依りつつ、「社会的正義」という観念を非難し、「社会的正義」の大義名分の下での「所得の再分配」」は「異なった人びとにたいするある種の差別と不平等なあつかいとを必要とするもので、自由社会とは両立しない。…福祉国家の目的の一部は、自由を害する方法によってのみ達成しうる」などと主張する。
 そこで5/13には<中川八洋は一切の「福祉」施策を非難するのだろうか。>とのタイトルのブログを書いたのだった。
 自称「ハイエキアン」・「ラディカル・リベラリスト」の阪本昌成もまた「福祉国家」・「社会国家」・「積極国家」というステージの措定には消極的なので、中川八洋に対するのと同様の疑問が生じる。
 その答えらしきものが、棟居快行ほか編・いま、憲法を問う(日本評論社、2001)の中に見られる。「人権と公共の福祉」というテーマでの市川正人との対談の中で、阪本昌成は次のように発言している。
 1.私(阪本)は「自由」を根底にするものを「人権」と捉え、「社会権」のように国家が制度や機関を整備して初めて出てくる「基本的人権」は「人権」と呼ばない(p.207)。
 2.「生存権」によって保障されているのは「最低限の所得保障に限る」。その他の要求を憲法25条に取り込む多数憲法学者の解釈は「国民負担を大とし」、「現代立憲主義の病理」を導いている。「大きな政府」に歯止めを打つ必要があるp.208)。
 3.「社会権」の重視は「社会的正義の表れ」というのだろうが、そのために「経済的自由、なかでも、所有権保障は相対化されてきた」(同)。
 4.日本には「自由な市場がない」。ここに「いまの日本の病理がある」。これは一般的な「自由経済体制の病理ではない」(p.212)。
 5.経済的自由は「政策的」公共の福祉によって制約できるというだけでは、また、精神的自由との間の「二重の基準論」のもとでの「明白性の原則」という枠だけでは立法政策を統制できない(p.217-8)。
 私は阪本昌成の考え方に「理論」として親近感を覚えるので、主張の趣旨はかなり理解できる。
 もっとも、現実的には日本国家と日本社会は、日本こそが<社会主義国>だ、と半ばはたぶん冗談で言われることがあったように、経済社会への国家介入と国家による国民の「福祉」の充実を当然視してきた。
 現在の参院選においても、おそらくどの政党も「福祉」の充実、「年金」制度の整備・安定化等を主張しているだろう。従って、阪本「理論」と現実には相当の乖離がある。また、「理論」上の問題としても、国民の権利の対象となるのは「最低限の所得保障」であって、それ以上は厳密な国民の権利が対応するわけではないとしても、例えば高速道路や幹線鉄道の整備、国民生活に不可避のエネルギーの供給等に国家が一切かかわらないということはありえず、一定限度の国家の<責務>又は<関与の容認>は語りうるように思われる。 
 かつて7/01に日本は英国や米国とは違って「自由主義への回帰が決定的に遅れた」と書いた。
 宮沢喜一内閣→細川護煕内閣→村山富市内閣→という<失われた10年>を意味させたつもりだった。だが日本の実際は「自由主義への回帰」はそもそもまだ全くなされていないというのが正しい見方かもしれない。
 「理論的」には阪本は基本的に正しい、というのが私の直感だ。国家の財政は無尽蔵ではない。活発な経済活動があってはじめて主として税収から成る国庫も豊かになる。そうであって初めて「福祉」諸施策も講じることができるのだが、「平等化」の行き過ぎ、どんな人でも同様の経済的保障を例えば老後に期待できるのであれば、大元の自由で「活発な経済活動」自体を萎縮させ、「福祉」のための財源も(よほどの高率の消費税等によらないかぎり)枯渇させてしまう。
 経済・財政の専門家には当たり前の、あるいは当たり前以下の幼稚なことを書いているのだろうと思うが、本当は、経済政策、国家の経済への介入の程度こそが大きな政治的争点になるべきだ、と考えられる。
 だが、焦る必要はないし、焦ってもしようがない。じっくりと、「自由主義」部分を拡大し、<小さな国家>に向かわせないと、日本国家は財政的に破綻するおそれがある。まだ時間的余裕がないわけではないだろう。
 なお、上の本で市川正人は「たまたま親が大金持ちであったために裕福な人と、親が貧しかったために教育もまともに受けられなかった人とがフェアな競争をしているとは到底できないでしょう」と発言し、阪本は「誰も妨害しないのであれば、それは公正なレースと言わざるをえない…。個々人の違いは無数にあって、全てに等しい条件を設定するということは国家にはできません」と回答している。
 このあたりに、分かりやすい、しかし深刻な<思想>対立があるのかもしれない。私は阪本を支持する。市川の議論はもっともなようなのだが、しかし例えば<たまたま生まれつき賢かった、一方たまたま生まれつきさほどに賢くなかった>という「個々人の違い」によって生じる可能性・蓋然性を否定し難い<所得の格差>は、国家としてはいかんともし難いのではないか。
 同じくいちおうは健康な者の中でも<たまたま頻繁に風邪をひき学校・職場を休むことが相対的に多い者とたまたま頑強で病欠などは一度もしない者>とで経済的報酬に差がつくことが考えられるが、このような、本人の<責任>を追及できず生まれつき(・たまたま)の現象の結果と言わざるをえないような「個々人の違い」まで国家は配慮しなければならないのだろうか。
 二者択一ならば、こう答えるべきだろう。平等よりも自由を平等の選択は究極的には国家財政を破綻させるか、<平等に貧乏>(+一部の特権階層にのみのための「福祉」施策)という社会主義社会を現出させるだろう。

0260/自由と民主主義との関係をほんの少し考える。

 芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.17は、「立憲主義と民主主義」との見出しの下でこう書いている。
 「①国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加する民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的参加が確立している体制においてはじめて現実のものとな」る。
 「②民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する、という関係にある。民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならない」。
 以上には、「自由」・「民主制度」・「国民の国政への…参加」・「民主主義」・「個人尊重の原理」・「平等」等の基礎的タームが満載だ。そして、それらが全て対立しあうことなく有機的に関連し合って一つの理想形態を追求しているような書き方だ。
 阪本昌成の本の影響を受けて言えば、上の文は、諸概念の「いいとこ取り」であり、「美しいイデオロギー」であって、とりわけ「自由」・「平等」・「民主」それぞれが互いに本来内包している緊張関係を無視又は軽視してしまっているのではないか(ついでに、上にいう「立憲民主主義」とは一体どういう意味なのだろうか)。
 上の①は<権力からの自由>のためには<民主制度が必要>と言うが、<権力からの自由>のためには<民主制度のあることが望ましい>とは言えても、<必要>とまで断言できるのだろうか。
 上の②は<民主主義の開花>のためには<国民の自由と平等の確保>が前提条件であると言うが(「…されてはじめて開花する」)、国民に<自由と平等>のあることが<民主主義の「開花」のためには望ましい>と言えても、前者は後者の不可欠の条件だと断言できるのだろうか。
 <有機的な関連づけ合い>がなされているために、却って、それぞれの固有の意味が分からなくなっている、又は少なくとも曖昧になっているのではないか。
 それに次のような疑問が加わる。
 消滅した国家に、ドイツ「民主」共和国、ベトナム「民主」共和国、現存する国家(らしきもの)に朝鮮「民主主義」人民共和国というのがある。これらは国名に「民主(主義)」を書き込むほどだから、自国を「民主的」な又は「民主主義」の国家だと自認し、宣言している(いた)ことになる。
 しかるにこれらの国々において、上の②のいう「
すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて…」という条件は充たされていた(いる)のだろうか。これらの国々の国民に「自由」がある(あった)とはとても思えない。
 とすると、これらの国々の資本主義諸国又は自由主義諸国に対抗するために本当は「民主主義」は存在しないことを知っていながら僭称していた(ウソで飾っていた)のだろうか。
 私はそうは考えていない。彼らには彼らなりの「民主主義」観があり、「民主主義」もあると考えていた、と思っている。
 唐突だが、日本共産党は、同党の運営は<民主主義的ではない>とはツユも考えてはいないと思われる。つまり、一般党員(支部所属)→党大会代議員選出→党大会・中央委員選出→中央委員会設立(議長選出)→幹部会委員選出→幹部会委員会設立(委員長等選出)→常任幹部会委員選出→常任幹部会設立という流れによって、究極的には一般党員の意思にもとづいて、中央委員会も幹部会委員会も(委員長も)常任幹部会も構成されており「民主(主義)」的に決定されていると説明又は主張しているだろう(地区・都道府県レベルの決定については省略した)。
 だが、上の過程に一般党員から始まる各級の構成員に、上級機関の担当者を選出する本当の「自由」などあるのだろうか。
 筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006)p.84-によると、定数と同じ数の立候補者がいて中央委員の選出も「実態は、とても選挙などといえるものではない」。また、p.89-によると中央委員選出後の第一回中央委員会では、仮議長選出→正式議長選出→幹部会委員長・書記局長の推薦することの了承(拍手で確認)→同推薦(拍手で確認)→その他の幹部会員も同様という過程を経るらしい。
 ある大会(22回)のときの具体的イメージとしては、「大会前に…人事小委員会が設置され、大会前に…四役の人事案がすでに作成され、常任幹事会で確認されていた。/一中総では幹部会委員、第一回幹部会では常任幹部会員が選出される。このときの第一回幹部会などは、一中総の会場の地下通路に五五人の新幹部会委員が集まり、全員が立ったままで、不破氏が二〇人の常任幹部会員の名簿を読み上げ、拍手で確認して決まった」(p.90-91)。
 かかる過程のどこに「自由」はあるのだろう。だが、一般党員・一般中央委員等の意思に基づいているかぎりで「民主主義」は充たされている、とも言える。
 日本共産党の話をしたが、同じ事は、旧東独・旧ベトナムでも基本的には言えたのだろう(北朝鮮については現在は形式的にすら「民主主義」が履践されていない可能性がある)。
 言いたいのは、「民主主義」とは「自由」や「平等」の条件がなくても語りうるし、そのような意味での「民主主義」の用法も誤りではない(むしろ純化されていて解りやすい)ということだ。
 マルクス主義憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波、1971)は<ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制>という歴史の潮流を語り、現に見られる「人民主権憲法への転化現象」についても語っていたのだが(p.182、6/21参照)、「人民主権憲法」とは「人民民主主義」憲法(=社会主義憲法)の意味ではないかと推察される。
 すなわち、民主主義にも、マルクス主義によれば、あるいは現実に社会主義国が使った語によれば、「ブルジョア民主主義」と「人民民主主義」とがある。旧東独等での「民主」とは日本共産党内部の「民主主義」と同様の「人民民主主義」又は「民主集中制」だったのだろう。
 こうしたマルクス主義的用語理解の採用を主張したいわけではない。ただ、現実には「自由」とは論理的関係なく「民主主義」という語は使われてきたことがあることを忘れてはならないだろう。
 「自由」と「民主」の双方を語るのは良いし、双方ともに追求するのも構わないだろう。だが、上の芦部信喜氏が説くようには、両者は決して相互依存関係にはない、と理解しておくべきだ、と考える。それぞれに固有の価値・意義が、区別して、より明瞭に語られるべきだ。
 以上、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.90のあたりに刺激を受けて書いた。阪本の主張を紹介したのでは全くない。但し、阪本は芦部信喜氏の上の②につき「若い憲法研究者がこの民主主義観にはもはや満足することはないものと、私は期待する」とコメントしている。

0037/朝日新聞はルソー的「平等」教の信徒で、皇族に敬称をつけない。

 昨日読み終えた中川氏の本は、デカルトからレーニンまでの、人類を厄災に陥れた種々の「悪魔の思想」に触れていて、その中には、多少表現を変えれば、日本共産党や朝日新聞批判にもなるような叙述がゴロゴロしている。
 直接に朝日新聞に触れている部分もある。知らなかったが、p.339以下によると、朝日は93年6/06社説以降、敬語・敬称はできるだけ減らす、<皇室は敬語>という「条件反射的な思考を改める」との方針なのだそうだ。従って、皇太子「殿下」でなく皇太子「さま」になっている、という。当然に中川氏は批判的で、これも知らなかったが、皇室典範(という法律)は天皇・皇后・皇太后・太皇太后には「陛下」、それ以外の皇族には「殿下」という敬称を定めているのに、朝日新聞はこの法律の定めを無視し国民にも公然と法律違反を呼びかけている、とする。また、「平等」主義の行き着く所の一つは皇室軽視(→解体)だとして、「皇室への敬語を廃して平等の理念の現実〔化?-秋月〕だと狂信するこのマルクス主義の信徒」は、英国人・バークを引用して次のような人間だという。すなわち、フランス革命による王族・貴族の軽視・廃止を見ての言葉だと思うが、「水平に均してしまおうと欲する徒輩は、精神を高貴にする動機を自らの心中に感受しない人間」、「長年にわたって華麗に、しかも名誉の裡に繁栄して来たものの謂われ無き没落を見て喜ぶのは、…悪意に満ちた、嫉妬深い性質の人間」。
 近年の「格差」批判も近代(合理)思想の一つとされる「平等」主義の一つの表れだろうが、言うまでもなく、「平等」主義を完全に貫けば、一部の権力者(又は共産党員)を除いて「格差」がなく平等な(そして平等に貧困で平等に自由がない)社会主義国になってしまうことは歴然としている。とくに朝日新聞等のマスコミや民主党・社民党といった政党は、どこまで以上が許されない「格差」なのかを具体的に明らかにしたうえで、批判するなら現政権の政策を批判すべきだろう。「格差」批判=みんな平等、といった単純なイメージだけでは政策とは言えず、人気取りフレーズにすぎない。
 平等と自由の兼ね合いはむつかしい問題だ。むろん、「平等」主義を完全に貫けないし、そもそもが人間は平等には生まれていないのだが(「法の下」の平等は別として)、その生まれながらの(生まれてくる人間の責任に帰すことのできない)不平等に起因する「格差」があるとすれば、是正する、「平等」化する政策がとられてもよいように思われる。但し、その場合でも、子どもの責任に帰すことのできない生まれながらの不平等とは具体的には何か、という困難な問題がある。
 なお、親の資産・身分等による子どもの不平等を中川氏は当然視しているようで、中川説に完全には賛同できない。具体的には中川説は相続税の全面的否認説と読めるが、問題は相続税政策の具体的内容なのではなかろうか。現在の相続税制が相続者の負担が大きいものとして批判の対象にかりになるとしても、相続人にとっての「不労所得」としてどの程度国庫に吸収するかという問題が全くなくなるとは思えないのだが。

ギャラリー
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