秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

市川正人

1232/立命館大学法学部・法務研究科の「有志」58名!が氏名を出して特定秘密保護法に反対。

 特定秘密保護法に反対する「刑事法」学者の声明の中に9名の現役教員の氏名を出していた立命館大学は、「憲法・メディア法」学者による反対声明でも8名の所属教員の名を連ねていた。
 その立命館大学法学部・法務研究科(後者はいわゆるロ-スクルだろう)は、上記法律(案)についての「有志」の反対「意見」を発表しているようだ(ウェブ上による)。反対「意見」者にはむろん既に紹介した「刑事法」・、「憲法・メディア法」学者のうち法学部・法務研究科所属の者が含まれている。その他、編集長が代わった月刊正論12月号で本間一誠がNHKの婚外子格差違憲判決の報道の仕方を批判する中でその見解に批判的に言及している二宮周平の名もある。
 数え間違いがなければ氏名の明記のある総数は名誉教授を除いて何と54名になる。はたしてこの人たち全員は、学者らしく?<自分の頭で>、<自由に>思考して以下の「反対意見」の文章に賛同したのだろうか。一つの大学の法学部・ロ-スクルの(政治学を除く)<法学>関係教員だけで54名もが名前を出しているのは、恐るべき<奇観>としか言いようがない。この法学部・法務研究科では、実質的には<左翼ファシズムの支配>が確立してしまっているのではなかろうか。
 これまでに紹介した反対声明類と同工異曲の意見内容もあることもあり、いちおうのコメントは別の機会に行う。以下、紹介とリストのみ。
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 特定秘密保護法に反対する立命館大学法学部・法務研究科教員有志の意見
 2013年11月26日、「特定秘密の保護に関する法律案」(以下、特定秘密保護法案)は、衆議院本会議で採決されました。この法案は、全国の弁護士会が反対表明を挙げていることからもわかるように、法的な観点から多くの問題点を抱えています。メディア関係者の反対はもちろん、市民の間にも法の濫用を不安視する声が広がっています。25日の福島での地方公聴会では、原発や原発事故に係る正確な情報が市民に提供されてこなかった教訓も踏まえ、意見陳述者全員が反対しました。26日午前の特別委員会でも、みんなの党・日本維新の会との非公式協議に基づく修正案を、わずか2時間の審議で採決を強行するなど、熟議を尽くしているとはいえません。
 立命館大学法学部・法務研究科に所属する私たちは、こうした拙速な審議を批判するとともに、教育者・研究者の見地から、また「自由と清新」を建学の精神とし「平和と民主主義」を教学理念に掲げる立命館大学の構成員の立場から、特定秘密保護法案の問題性を指摘し、これに反対の立場を表明します。
 1 公務員やジャーナリストを育てる教育者として特定秘密保護法に反対します。/現在審議されている特定秘密保護法は、主権者である国民の「知る権利」や表現の自由を著しく制約し、とくに直接の処罰対象となる可能性が高い公務員や報道に関わる者に深刻な負担を強いるものです。私たちの所属する立命館大学は、「豊かな個性を花開かせ、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める」ことを憲章で宣言しています。この憲章の理念を反映しながら、法学部においても、これまで多くの国家公務員、警察官、ジャーナリストを輩出してきました。現在も多くの学生が、官公庁や報道機関への就職を目指して勉学に励んでいます。民間企業や研究機関でも、国の「特定秘密」の取扱い者となる業種・分野もあります。彼・彼女らが進路として選択した職場が、「正義と倫理」をもって働ける場であってほしいという願いからも、私たちは、特定秘密保護法に反対します。
(1)公務員や特定秘密取扱い者の行動を、勤務中から私生活に至るまで、萎縮させます。/特定秘密保護法が制定されると、防衛・外交・特定有害活動の防止・テロリズム防止という4分野の情報のうち特に秘匿が必要なものを行政機関の長が「特定秘密」として指定され、その漏えいに対しては懲役10年以下の厳罰が科せられます。いわゆる「違法秘密」(政府の行為が憲法や法令に反しているにもかかわらず、これを秘匿している事実)についても、これを公務員や秘密取扱い者が「正義と倫理」に忠実たらんとして内部告発をした場合、厳罰を覚悟しなければなりません。/特定秘密保護法案は、特定秘密を取り扱う者に対する適性評価制度を導入しようとしています。評価の対象には、公務員だけではなく、業務委託を受けた民間業者や従業員も含まれ、評価項目は、評価対象者の家族関係や犯罪歴、病歴、経済的状態など、極めて広範な点に及びます。「特定有害活動」や「テロリズムとの関係」に関する調査というかたちで、思想・信条に関わる調査も可能です。/  調査は、必要に応じて家族・親族や友人にも及ぶため、評価対象者のみならず家族や友人のプライバシーも評価実施機関が把握するところとなります。その結果、評価対象者は交友関係すら制限されることになり、私生活も含めた行動の自由が縛られることになります。また、「不適正」と評価された場合には、職場における選別や差別の対象となる可能性もあり、また、職場の相互不信を助長しかねません。
 (2)報道・取材の自由を萎縮させ、国民の知る権利を妨げます。/報道機関は、国政に関わる多種多様な情報・資料を提供することで、主権者である国民の「知る権利」に奉仕します。それゆえ、報道機関の取材・報道の自由を最大限に保障することが、社会全体の利益にとって不可欠です。ところが、特定秘密保護法は、公務員や特定秘密取扱い者の漏えいだけではなく、漏えいや取得についての共謀・教唆・せん動にも罰則を科し、過失や未遂も処罰しようとしています。これにより報道・取材の自由が大きく制約されることは明らかです。公務員からの取材活動が困難になるだけではなく、報道機関自身が萎縮し、自主規制の動きもみられることでしょう。/こうした批判をかわすために、法案は適用に際しての「報道の自由又は取材の自由に十分に配慮」する旨を明記しました(22条)が、このような訓示規定は恣意的な運用の歯止めにはなりません。たしかに、「出版又は報道に従事する者」の取材には、公益目的性と方法の正当性を要件に違法性を阻却しうる枠組みになっています(同2項)。しかし、秘密漏えいの教唆やせん動で逮捕・起訴された者が、後の裁判で正当業務の証明に成功して無罪が認められたとしても、逮捕やそれに伴う家宅捜査や押収が、自由な取材を萎縮させます。国会審議の中で、政府は、報道機関の正当な取材に対し捜査を及ぼすことはないという見解も示してはいますが、法案中に、それを担保する規定はみられません。また、法の運用をチェックする第三者機関の設置も、法の附則において「検討」を約束するのみで、具体的な枠組みはなんら示されていません。/また、特定秘密保護法は、市民間の自由なコミュニケーションも萎縮させます。現代のIT社会においては、報道機関のみが「メディア」ではありません。一個人や小規模な市民団体が、HPやブログを立ち上げ、あるいは、Facebookやtwitterを通じて、市民の間の情報発信・情報共有のアクターとなっています。立命館大学の学生・教職員や卒業生の多くも、こうした自由なコミュニケーションに一市民として参画しているはずです。しかし、こうした活動すら、場合によっては、特定秘密の漏えい教唆・せん動とみなされかねません。
 2 「学問の自由」を保障された研究者として特定秘密保護法に反対します。/特定秘密保護法は、「特定秘密」の取扱業務者だけではなく、業務知得者の漏えいも処罰対象にしています。近年の日本の大学や研究機関では、「安全保障」という名目で、直接的な軍事的研究も行われています。そうでなくとも、科学技術研究の多くの分野は、軍事的汎用性を持っています。したがって、「防衛」を対象とする特定秘密保護法の下では、国公立であると私立であると問わず、大学で国や軍事産業の委託を受けて軍事研究や汎用技術の研究などを行う場合には、研究者は適性評価の対象となり、秘密保全義務が課されます。そして、研究者間の情報共有と学術検証を目的とするものであっても、特定秘密の公表は、漏えい罪として、処罰の対象となるのです。その結果、大学や研究機関における自由闊達な研究が大きく阻害されることになるでしょう。/また、秘密指定の期間は5年を超えないとされていますが、最大60年までの延長は可能で、さらに半永久的な情報秘匿も可能な例外項目も設けられています。このような政治的に重要な事実の秘匿は、外交・安全保障を対象とする政治学や歴史学の研究の遂行に著しい支障を来します。官僚機構や警察組織などを研究対象とする場合、公務員からのインタビューや情報収集は、大きく阻害されることでしょう。政治家や官僚からの証言に基づくオーラル・ヒストリーの構築といった研究手法も、数十年前の出来事を対処とする場合ですら、困難になります。こうした事態は、「学問の自由」(憲法23条)にとって致命的です。
 3 「自由と清新」「平和と民主主義」を掲げる立命館大学の構成員として特定秘密保護法に反対します。/立命館大学の建学の精神は「自由と清新」です。さらに、大学としてアジア太平洋戦争に協力した痛恨の反省から、戦後は「平和と民主主義」を教学理念に掲げて、全学をあげて「平和」「民主主義」「人権」に重点を置いた教学と大学運営を展開してきました。特定秘密保護法は、このような本学の建学の精神および教学理念からも、全く賛成できないものです。
 (1)特定秘密保護法は、憲法の平和主義に反します。
 特定秘密保護法は、国家安全保障会議設置と不可分一体で進められ、一般的な秘密の保全というよりは、軍事的な防諜法の側面が強いものになっています。これは、戦争の放棄と戦力の不保持を定め、平和的生存権を保障した日本国憲法の平和主義とは、相反する方向といえるでしょう。
 とりわけ、今回の特定秘密保護法は、それが米軍との一体化による日本の軍事力の全世界的展開を前提としている点で、歴代政府が採ってきた専守防衛の立場をも逸脱する要素を含んでおり、また東アジアの国際的緊張を高めるものです。2012年4月に公表された自由民主党の日本国憲法改正草案は、「国防軍」の創設とともに、機密保持法制の整備を明記しました。同年7月に公表された「国家安全保障基本法案」では、集団的自衛権行使容認とともに、秘密保護法制定が示されていました。秘密保護法の制定は、こうした軍事大国化の流れの中で、かねてから制定が熱望されていたものなのです。そして、その背後には、GSOMIA(軍事情報包括保護協定)締結にも示されるように、日米の情報共有の進展を踏まえた秘密保護強化の要請がある点は、周知のとおりです。
 (2) 特定秘密保護法は、民主主義・国民主権に反します。/「知る権利」の制約が、主権者としての国民の活動を制約するものであることは、1で述べたとおりです。/特定秘密保護法が制定されることになれば、国会議員の調査活動や議院の国政調査権なども制限を受ける可能性があります。国政調査の過程で国会議員が特定秘密に接する場合、委員会や調査会は秘密会とされ、出席した議員にも秘密保全義務が課せられて、漏えい等の処罰対象となるからです。国会を通じた国民の国政監視は、現在以上に形骸化することになるでしょう。/そもそも、特定秘密保護法案の立法作業自体が、秘密かつ非民主的です。法案の方向性を決定づけた有識者会議は、議事録も作成せず、会議資料や討議内容は現在も秘密扱いとなっています。内閣官房情報調査室による立案作業は、与党の国会議員にも法案の内容を知らされない秘密裏のうちに行われました。法案へのパブリック・コメントの実施も、わずか2週間に限定され、国民の意見を十分に聴取する姿勢が見られませんでした。それにもかかわらず寄せられた約9万件のコメントのうち8割近くが反対の意見であったにもかかわらず、こうした意見が反映された様子が見られません。/以上のように、特定秘密保護法は、「自由と清新」という言葉で表現される自由闊達な市民社会を押しつぶし、「平和と民主主義」を歪めるものです。またそれは、「教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する」という立命館憲章第5条の精神とも合致しないものです。一部野党との非公式協議の中でなされた部分的修正も、上で述べた特定秘密保護法の問題点を本質的に改善するものではありません。私たちは、特定秘密保護法の制定に強く反対します。
 2013年11月26日

 呼びかけ人(50音順) 市川正人 植松健一 倉田玲 倉田原志 小松浩 多田一路 
 賛同人(2013年12月2日現在:50音順) 浅田和茂 安達光治 荒川重勝* 井垣敏生 生田勝義 生熊長幸 石原浩澄  出田健一 上田寛 大久保史郎 小田幸児 加波眞一 嘉門優、小堀眞裕 斎藤浩 坂田隆介 佐藤渉 島津幸子 須藤陽子 徐勝 高橋直人 田中恒好 遠山千佳 中谷義和* 中谷崇 中島茂樹 浪花健三 二宮周平 野口雅弘 藤原猛爾 渕野貴生 本田稔 堀雅晴 松尾剛 松宮孝明 松本克美 宮井雅明 宮脇正晴 望月爾 森下弘 森久智江 山田希 山名隆男 湯山智之 吉岡公美子 吉田美喜夫 吉田容子 吉村良一 渡辺千原 和田真一 他2名(*は名誉教授)/ 以上、呼びかけ人を含む58名
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0617/外国人(地方)参政権の理論的根拠としての「プープル(人民)主権」論-辻村みよ子。

 杉原泰雄の指導を一橋大学で受けたと見られるのが、やはり若い頃はフランス革命期の憲法史を研究していた辻村みよ子(1949~、現東北大学教授)。
 辻村は、日本国憲法の解釈論としても「プープル(人民)主権」の方向の解釈が望ましいとする。
 浦部法穂=棟居快行=市川正人編・いま、憲法学を問う(日本評論社、2001)の中の棟居快行との対談「主権論の現代的展開」で、以下のように語る。見出しは秋月が付した。
 ①ナシオン(国民)主権論とプープル(人民)主権論―「ナシオン主権論」は「フランス革命当時に一握りのブルジョアジーが権力を独占するために抽象的・観念的な建前としての全国籍保持者を主権主体としつつ、実際には自分たちだけが国民代表となって主権を行使するために構築した理論」。「代表制と必然的に結合し」、「制限選挙とも結びついて非民主的に機能することができる」。
 「プープル主権論」では「抽象的・観念存在としての国民」ではなく「具体的に主権行使できる主権主体、すなわち政治的意思決定ができる市民の全体をプープルと呼」ぶ。「ナシオン主権」の場合は「赤ん坊も主権者に入る」ために「代表制が不可欠」だが、「プープル主権論のもとでは、それぞれの主権主体の主権行使自体が前提で、これが尊重される制度が求められ」る。以上、p.58-59。
 辻村において、「ナシオン主権」=<代表制>、「プープル主権」=<(半)直接制>のごとく理解されているようだ。
 上の点よりも分かりにくいのは、「プープル主権論」について語られている中での「政治的意思決定ができる市民」という場合のそのような「市民」の意味、とりわけ国籍保持を要件としないのかどうか、だろう。ともあれ、最初から「国民」と「市民」という語が異なるものとして使い分けられていると見られる。
 ②日本国憲法と「ナシオン主権」・「プープル主権」―現憲法43条の「代表」という語、議員の免責特権(51条)・不逮捕特権(50条)、前文(<国民は代表者を通じて行動>-秋月)は「間接民主制」を採用しており、「ナシオン主権に適合的な規定ともいえ」る。しかし、15条の国民の公務員選定罷免権、95条・96条の「住民投票や国民投票」は「直接民主制の手続を採用」している点では「半直接制としてプープル主権に近い構造だ」。
 このように混在があるが、「現代憲法として、より民主的な制度を採用しうるプープル主権の方向に解釈することが望ましい」。以上、p.60。
 辻村の所論で基本的によく分からないのは、①にも出てきていたが(いわく、「ナシオン主権」論は「非民主的に機能」しうる)、「ナシオン主権」(論)よりも「プープル主権」(論)の方が「より民主的」だ、ということの理由・根拠だ。なぜ、そう言えるのか。あるいはそもそも、「より民主的」とはいかなる意味なのか。

 辻村は、フランス革命期の1791年憲法よりも1793年憲法(ジャコバン憲法)の方が「より民主的」・<より進歩的>と考えていると推察される。この点の確認は別の機会に行うが、簡単には、以下に紹介するように、この本でも言及されている。
 簡単にいえば「ナシオン主権」論→「代表制民主主義」・「間接民主主義」、「プープル主権」論→「(より)直接的な民主主義」というふうに整理できるだろう。このように対置した場合において、「間接民主主義」よりも「(より)直接的な民主主義」の方がより<望ましい>・より<優れている>と、なぜ論定できるのか。
 いずれも<民主主義>だ。そして、「民主主義」を国民(とりあえずは人民でも市民でもよいが)にとって<よき>あるいは<幸福な>国家決定をもたらすための手段(に関する考え方の一つ)と理解する場合、「(より)直接的な民主主義」の方がより<よき>あるいはより<幸福な>決定を生じさせる、となぜ言えるのか。その保障は論理的にも現実的にも全くない。
 <合理的な>国家決定という語を使ってよい。「(より)直接的な民主主義」の方が「間接民主主義」よりもつねにより<合理的な>決定をもたらす保障は全くない。より多数の者がより直接的に<参加>することと、その結果としての決定の<合理性>あるいは国民の「幸福」・「福利」との間に論理的な因果関係があるわけでは全くない。
 「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも<合理的>な、あるいは<正しい>決定を生じさせる、という暗黙の前提に立っているとすれば、そのこと自体の適切さをまずはきちんと論証しておいてもらわないと困る。
 辻村は、「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも<合理的>な、あるいは<正しい>決定を生じさせる、と単純に<思い込んでいる>(そういう考え方に取り憑かれている)だけではないのか。
 むろん何が又はいずれが<合理的>な、又は<正しい>決定かという問題はある。しかし、少数意見の方が客観的に見て、あるいは「歴史的」評価の上ではより<合理的>で<正しかった>、ということはありうるはずだ。
 (代表制にせよ、直接制にせよ)多数意見が現実には<通用力>を持つが、そのことと<合理性>・<正しさ>、国民の「幸福」・「福利」にとっての客観的意味とは、別の問題なのだ。<民主主義>が(あるいは<民意>が)<誤った>決定を生じさせる、ということは、論理的にも現実的にも、十分にありうる。
 ③外国人の参政権―現憲法上「国民」には、第一に「国籍保持者としての国民」、第二に「主権行使者としての国民」の二つの意味がある。両者は「必ずしも…一致しているわけでは」ない。
 フランス1793年憲法において「主権者人民」=「市民の総体」で、この「市民」の中に「一定の外国人も含めて」いた。「国籍と切り離された市民の観念」の導入によって「主権者を国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組みを、プープル主権論はもっていた」。
 「欧州市民権」観念を創出するため、今日のフランスには1793年憲法に言及して「国籍と切り離された市民権の観念」を説明する研究もある。
 「日本でも同じように、一定の外国人に参政権を認めるという要請を実現するため、この市民権観念を用いることが有効」だ。以上、p.61-62。
 まず、欧州ないしフランスにおける議論が日本の外国人参政権問題にいかほど「有効」かが問われる必要があろう。すなわち、ヨーロッパという新しい次元の「国家」を作ろうとしている地域における(おそらくは従来の国家の中での)「地方参政権」の付与の何らかの理念的根拠があるとしても、それが、同じ状況にはない日本に役立つとは全く思われない。
 そうだとすると、重要なのは、「主権者を国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組みを、プープル主権論はもっていた」という辻村の理解かつ主張だ。
 ここで「プープル主権論」の当否が外国人の(地方)参政権問題に関する日本国憲法の解釈論としても、あるいは憲法のもとでの立法政策論にとっても大きな意味をもつことになる(p.63の棟居発言参照)。
 だが、<参政権>保有者を「国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組み」を現憲法が、あるいはその他の種々の議論が用意しているだろうか。
 辻村みよ子は「定住外国人」=「永住市民」=「永住資格保持者」を「主権者国民としての人民を構成する市民の中に加えることを可能にする『永住市民権説』という考え方」に立っている、と言う(p.62)。
 「永住市民」=「永住資格保持者」も「主権者国民」(の一部)だと主張しているわけだ。
 上のような主張・考え方の背景には、フランスの(ジャコバン独裁開始期の、施行されなかった1793年憲法が謳った)「プープル主権論」があることを十分に銘記しておく必要がある。

0279/阪本昌成の「社会権」観とリベラリズム。

 中川八洋はその著・保守主義の哲学等で、ハイエクにも依りつつ、「社会的正義」という観念を非難し、「社会的正義」の大義名分の下での「所得の再分配」」は「異なった人びとにたいするある種の差別と不平等なあつかいとを必要とするもので、自由社会とは両立しない。…福祉国家の目的の一部は、自由を害する方法によってのみ達成しうる」などと主張する。
 そこで5/13には<中川八洋は一切の「福祉」施策を非難するのだろうか。>とのタイトルのブログを書いたのだった。
 自称「ハイエキアン」・「ラディカル・リベラリスト」の阪本昌成もまた「福祉国家」・「社会国家」・「積極国家」というステージの措定には消極的なので、中川八洋に対するのと同様の疑問が生じる。
 その答えらしきものが、棟居快行ほか編・いま、憲法を問う(日本評論社、2001)の中に見られる。「人権と公共の福祉」というテーマでの市川正人との対談の中で、阪本昌成は次のように発言している。
 1.私(阪本)は「自由」を根底にするものを「人権」と捉え、「社会権」のように国家が制度や機関を整備して初めて出てくる「基本的人権」は「人権」と呼ばない(p.207)。
 2.「生存権」によって保障されているのは「最低限の所得保障に限る」。その他の要求を憲法25条に取り込む多数憲法学者の解釈は「国民負担を大とし」、「現代立憲主義の病理」を導いている。「大きな政府」に歯止めを打つ必要があるp.208)。
 3.「社会権」の重視は「社会的正義の表れ」というのだろうが、そのために「経済的自由、なかでも、所有権保障は相対化されてきた」(同)。
 4.日本には「自由な市場がない」。ここに「いまの日本の病理がある」。これは一般的な「自由経済体制の病理ではない」(p.212)。
 5.経済的自由は「政策的」公共の福祉によって制約できるというだけでは、また、精神的自由との間の「二重の基準論」のもとでの「明白性の原則」という枠だけでは立法政策を統制できない(p.217-8)。
 私は阪本昌成の考え方に「理論」として親近感を覚えるので、主張の趣旨はかなり理解できる。
 もっとも、現実的には日本国家と日本社会は、日本こそが<社会主義国>だ、と半ばはたぶん冗談で言われることがあったように、経済社会への国家介入と国家による国民の「福祉」の充実を当然視してきた。
 現在の参院選においても、おそらくどの政党も「福祉」の充実、「年金」制度の整備・安定化等を主張しているだろう。従って、阪本「理論」と現実には相当の乖離がある。また、「理論」上の問題としても、国民の権利の対象となるのは「最低限の所得保障」であって、それ以上は厳密な国民の権利が対応するわけではないとしても、例えば高速道路や幹線鉄道の整備、国民生活に不可避のエネルギーの供給等に国家が一切かかわらないということはありえず、一定限度の国家の<責務>又は<関与の容認>は語りうるように思われる。 
 かつて7/01に日本は英国や米国とは違って「自由主義への回帰が決定的に遅れた」と書いた。
 宮沢喜一内閣→細川護煕内閣→村山富市内閣→という<失われた10年>を意味させたつもりだった。だが日本の実際は「自由主義への回帰」はそもそもまだ全くなされていないというのが正しい見方かもしれない。
 「理論的」には阪本は基本的に正しい、というのが私の直感だ。国家の財政は無尽蔵ではない。活発な経済活動があってはじめて主として税収から成る国庫も豊かになる。そうであって初めて「福祉」諸施策も講じることができるのだが、「平等化」の行き過ぎ、どんな人でも同様の経済的保障を例えば老後に期待できるのであれば、大元の自由で「活発な経済活動」自体を萎縮させ、「福祉」のための財源も(よほどの高率の消費税等によらないかぎり)枯渇させてしまう。
 経済・財政の専門家には当たり前の、あるいは当たり前以下の幼稚なことを書いているのだろうと思うが、本当は、経済政策、国家の経済への介入の程度こそが大きな政治的争点になるべきだ、と考えられる。
 だが、焦る必要はないし、焦ってもしようがない。じっくりと、「自由主義」部分を拡大し、<小さな国家>に向かわせないと、日本国家は財政的に破綻するおそれがある。まだ時間的余裕がないわけではないだろう。
 なお、上の本で市川正人は「たまたま親が大金持ちであったために裕福な人と、親が貧しかったために教育もまともに受けられなかった人とがフェアな競争をしているとは到底できないでしょう」と発言し、阪本は「誰も妨害しないのであれば、それは公正なレースと言わざるをえない…。個々人の違いは無数にあって、全てに等しい条件を設定するということは国家にはできません」と回答している。
 このあたりに、分かりやすい、しかし深刻な<思想>対立があるのかもしれない。私は阪本を支持する。市川の議論はもっともなようなのだが、しかし例えば<たまたま生まれつき賢かった、一方たまたま生まれつきさほどに賢くなかった>という「個々人の違い」によって生じる可能性・蓋然性を否定し難い<所得の格差>は、国家としてはいかんともし難いのではないか。
 同じくいちおうは健康な者の中でも<たまたま頻繁に風邪をひき学校・職場を休むことが相対的に多い者とたまたま頑強で病欠などは一度もしない者>とで経済的報酬に差がつくことが考えられるが、このような、本人の<責任>を追及できず生まれつき(・たまたま)の現象の結果と言わざるをえないような「個々人の違い」まで国家は配慮しなければならないのだろうか。
 二者択一ならば、こう答えるべきだろう。平等よりも自由を平等の選択は究極的には国家財政を破綻させるか、<平等に貧乏>(+一部の特権階層にのみのための「福祉」施策)という社会主義社会を現出させるだろう。

0256/日本評論社の本(2001)の中の浦部法穂・常岡せつ子「平和主義」対談。

 いま、憲法学を問う(2001)という本は日本評論社出版なので原則的には入手したいと思う本ではないが(資料としてのみ教条的な論文、文章を読むのは辛い)、三人の編者の一人に棟居快行の名があるので、面白いかもしれないと思い、古書で入手した(あとの編者は浦部法穂、市川正人)。
 三人のいずれかが対談者の一人となり、テーマによって異なる三人以外の憲法学者一人と対談する、というものだが、予想したよりも面白い。憲法学に全く素人の本や対談書もあるが、基本的なところで誤解があったりすると興醒めがする。その点、この本はそのような心配はしなくてよさそうだ。
 「平和主義」とのテーマはあの浦部法穂(私の6/01、6/14参照)とあの常岡せつ子(私の5/24、5/27、5/30など参照)が対談している。九条と憲法改正の限界というテーマまで含めていないようなので、改正限界論で常岡氏はボロを出してはいない。
 ここに記しておきたいのは次の四点だ。
 第一に、常岡せつ子の現憲法九条の解釈だ。この人によると、現憲法は「日本が攻められる可能性があることも想定しつつ、たとえ攻められても、あえて戦争という手段には出ないと言っている」と解釈している(p.78)。その際、九条の二項があるからではなく、一項からその旨を読み込んでいるようだ。
 さらにこの人は言う、日本の一部にミサイルが落ちて何十万人が死ぬという場合に迎撃ミサイルくらいは持っていないとという議論があるかもしれないが、「第一発目に関しては、その限りであるである程度は国民の被害を少なくするかもしれませんが」、迎撃ミサイル発射によって「さらなる軍事力のエスカレートを招いていまいます」、「反撃をすれば、もっと大きな攻撃が返ってくる」、と。つまりは迎撃ミサイルを発射するな従って迎撃ミサイルを保有するな、というのがこの常岡先生の主張となる。
 その能力の詳細は知らないが、現実には迎撃ミサイルをわが自衛隊も保有している、とだけ記して、私とは意見の異なる、上の常岡の主張・議論(非武装・無抵抗主義型の平和主義)には立ち入らない。
 第二に、常岡せつ子によると、他の国からミサイル攻撃されるという事態に至るには何らかの理由がある筈だ。そのとおりだと思うが、その際、この人が述べるのは次のことだけだ。関係する所を全部引用する。
 「ある日突然に攻めてくるということはありえないということです。そこに至る前段階に、外交政策にまずい点があったり、日本の平和構築の努力が足りないということがあるはずです。攻められるという状況に至るまで、何もしないでただ黙って見ているだけなのかと逆に問う必要があります」。
 この部分には、かなり唖然とする。これではまるで、ミサイルで攻められるのは日本の平和構築の努力が足りない」等、日本の側に全面的な原因、責任があるかの如くだ
 外交政策にまずい点」はなく、「平和構築の努力」を十分にしても、なおも日本をミサイル攻撃(この本は2001年刊だが、その後も視野に入れると、一般論としては核攻撃もありうる)してくるような外国は存在しない、とこの常岡先生は判断している、と理解して、まず間違いなさそうだ。そこまで、現実の東アジアで、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(現憲法前文)できるのかどうか。
 第三に、浦部法穂常岡せつ子ともに「正しい戦争」はありえない、という点では一致している。さすがに日本評論社の本だとも言える。浦部が「私も…同じ考え方なので論争しにくいですね(笑)」と発言するくらいだ(p.87)。
 憲法学者の多くが明確にかかる考え方から九条護持論に立っているかどうかは不明だが、二人のこの前提が、政治家を含む一般国民に容易に受け容れられているとは思えない。
 第四に、上のことに関連して、浦部法穂がこう発言しているのが目を惹いた。
 「私自身も、昔は漠然とですが、理論上は人民解放のための戦争は正しい戦争としてありうるという前提で議論してきた…。しかし、それでは通用しないと、数年前に転向しました(笑)」。
 ここでの(かつては「正しい」と考えていたという)「人民解放のための戦争」とはいったい何だろうか。北ベトナムが南ベトナムにいる同じ民族の「人民」を「解放」するためであるとしていた対米ベトナム戦争のような戦争だろうか。それに限らず、日本「人民」を解放するために社会主義国(のすべて又は一部)の軍隊が例えば米軍と日本の(「人民」の一部ではない)自衛隊を相手に起こすような戦争も想定していたのではなかろうか。
 そうだとすると、同じ核兵器保有や核実験でも社会主義国=進歩勢力のそれらは「正しく」、米国等の資本主義国=反動勢力のそれらは「非難されるべき」というのと同じ単純な、(マルクス主義の)公式的教条主義に陥っていたことがあることを、浦部法穂は<告白>していることになる。
 これまで一部であれ読んだことのある浦部法穂の文の内容からすると、この人がかつて(勝手に推測すればおそらくソ連崩壊前後まで)上のように考えていたとしても驚きではない。十分にありうることだ、と思える。そして、そのような人物が、今の日本の憲法学界の中である程度は重要な位置を占めているようであることを、怖ろしい、と私は感じる。

ギャラリー
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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