佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章のⅣ「経済と<持続するもの>」と第二章・ルードゥスとしての経済―公正経済についてのⅠ「公正のプロブレーマ」を読んだ(p.58~p.79)。
 この部分に限らないが、佐伯の最初の単著かもしれず(35-36歳)、表現・叙述方法も含めて、力が入っていることは分かる。
 論旨を追うことはしない。印象的な文章は数多い。
 ・<ウェブリンにおいて、現代資本主義の特徴たる「金銭的見栄」の背後には「制作者本能」が、「営利の精神」の背後には「産業の精神」が潜んでいる。>(p.63)
 ・<ウェブリンは、「現代の大衆消費社会」は「記号の理性」を超え、「ハイパー・リアリティ」の抽象性の中に「蜃気楼のように浮かんで」いて「制作者本能」も「産業の精神」も死滅していると見えるが、「野蛮侵略文化」→「現代の金銭的文化」の中で「汚染され奇形化され、あるいは隠され」ても、それらは「文化の奥深く沈潜し持続している」、と主張する。>
 ・<ウェブリンの在来経済学批判は「差異化するもの」と「持続するもの」の二元的対立を前提とする。社会科学の「最も基本的に二元論」。>(p.64。以上、第一章Ⅳ)
 ・<「公正や正義」は人がもつ「観念や感情」に根差し、科学はそれらを「素通りし」、「人間的なもの」に「わずらわしさ」を感じるので、社会科学が「公正や正義」を欠落させるのはある意味では当然だ。>(p.68) ・<「市場社会」に「倫理などという野暮ったい観念」に何かを提供する場があるのかとの「合理主義者」の言い分にも尤もな所はある。>(p.69)
 ・<上のことは市場社会(論)への「倫理的堡塁を準拠点」にした「外在的」批判につながる。「分配の公正」・「経済的安定の確保」は究極的には「生存の安定」という「倫理的観点」を認めるか否かに依るからだ。>(p.69)
 ・<だが、「市場経済」への「はるかに根底的な批判」は、「市場的生活」・「市場的精神」自体に(内在的に)向けられるのではないか。>(p.69)
 ・<プラトンを参照すれば、「金銭」への愛が「知」や「勝利」への愛と混同されてはならぬ。「金銭的関心が知識や政治の領分を…闊歩し始めれば、正義は快楽と同一視され、社会の秩序は…瓦解する」から。>(p.69-70)
 ・<社会・人間関係の中に「何か崇高な理想的なもの」があるとの「ロマンティック」な又は「神秘的」思考こそが、「近代合理主義」を「単なる市場主義」や「快楽主義」から救う良心で、「自由主義を生気あるものとする気付薬」でもあったはず。>(p.70)
 ・「いかなる自由主義者といえども、選択の自由の世界だけに生きているわけではない」。「われわれの生は不可逆性の上に、つまり過去の選択の上に乗っているのであり、選択は、常に、選択しえないものに基づく選択である以外にない」。(p.71)
 以上、この程度で(つづきは次回に補充)。上の最後の指摘は、単純な「個人主義」・<「個人的自由」尊重主義>への基本的な批判でもあるのではないか。