秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

左翼エスエル

2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
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 終わり。次節へとつづく。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
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 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
 ++++++++
 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
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 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
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 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
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 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

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