秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

崇神天皇

2162/「邪馬台国」論議 と八幡和郎/安本美典⑦。

 A/安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 安本のこれ以前の文庫・新書本にも同種の図表があるが、これが最も分かり易いようだ。
 B/安本美典・古代年代論が解く邪馬台国の謎(勉誠出版、2013)。
 これにも、安本の同旨の<年代論>が述べられている。
 以下、原則としてAによって、日本の天皇の時代・代数別の在位平均年数の資料を紹介する。
 p.122に、最も簡明な、1988年刊行の新書=同・新版/卑弥呼の謎(講談社)にもあった、つぎの図表が載せられている。
 (1)日本の天皇の平均在位年数(その1)。
  A/17~20世紀・17天皇・延べ379年-平均22.29年
  B/13~16世紀・29天皇・延べ453年-平均15.62年
  C/09~12世紀・33天皇・延べ404年-平均12.24年
  D/05~08世紀・20天皇・延べ218年-平均10.88年
  第31代とされる用明天皇~第124代とされる昭和天皇までの99天皇・延べ1454年が対象とされる。
  総平均は、14.69年だ。
  それ以外の各時代の最初・最後の各天皇名等は、明記されていない(代数の数字とおおまかな世紀数で探ってみると判明するかもしれないが、その作業は省く)。
  いずれにせよ、時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる。
 (2)時代別平均在位年数(その2)。
 p.263とp.264には、別の分類による、平均在位年数の図表がある。
 前者は第32代崇峻天皇以降を「歴史的事実」とする図表があり、後者には、第22代清寧天皇~第31代用明天皇を「準歴史的事実」として加えた図表がある。
 これらを併せると、つぎのようになる(つまり後者と同じ)。
  A/徳川時代+現代  ・17天皇-平均21.90年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均15.11年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.63年
  D/崇峻天皇+奈良時代・18天皇-平均10.78年
  E/清寧天皇~用明天皇・10天皇-平均10.07年
 時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる、という結果に変わりはない。
 Aは、108代・後水尾天皇~124代・昭和天皇(17代)。Bは、第83代・後鳥羽天皇~第107代・後陽明天皇(25代)。Cは、50代・桓武天皇~81代・安徳天皇(32代)。Dは、32代・崇峻天皇~49代・光仁天皇(18代)。Eは、22代・清寧天皇~31代・用明天皇(10代)。これらのうち、C~Eについては、明記がある。
 第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)の扱いが秋月にはよく分からないが、詮索を避ける。
 また、安本の上のB著(2013年)p.90には、上とやや分類が異なる図表がある。卑弥呼~雄略天皇を省略して、紹介しておく。
  (3)平均在位年数(その3)。
  A/徳川時代+現代  ・18天皇-平均22.28年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均16.13年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.69年
  D/飛鳥時代+奈良時代・29天皇-平均10.36年
  Dは、21代・雄略~30代・敏達と明記されている。従って、(その2)のEと対象が異なる。ここでのA・Bが(その2)と異なるのは、Aに107代・後陽明天皇を、Bに82代・後鳥羽天皇を含めているためではないか、と推察される。
 ところで最後に、安本の上の著A(2003)には、「新しく定義しなおし」た計算にもとづくとされる図表が掲載されている。
  (4)天皇の一代平均「在位年数」(その4)。
 A/106正親町~124昭和天皇 ・代差18・年計402年01月・平均年22.34。
 B/082後鳥羽~106正親町天皇・代差24・年計388年10月・平均年16.20。
 C/049光仁 ~082後鳥羽天皇・代差33・年計416年10月・平均年12.63。
 D/031用明 ~049光仁天皇 ・代差18・年計193年11月・平均年10.77。
 古い時代ほど、天皇一代の年数は短くなる。
 上の「計算」で新しい旨が明記されていると見られるのは、①在位期間を年のみならず月単位まで計算していること(8カ月で0.67年、10カ月で0.83年になる)、②旧暦(和暦)を(月も)新暦で計算し直していること、だろう。
 但し、031代-(差18代)-049代-(差33代)-082代-(差24代)-106代-(差18代)-124代、という表記の仕方をしているので、各時代がどれどれの天皇の在位期間を考察・計算対象にしているのかが、必ずしもよく分からないところがある(厳密にフォローすれば明瞭になるのかもしれない)。
 なお、以上の全てについて、重祚の場合は2代と数えられている。
 南北朝時代については、きちんと確認しないが(安本美典による明示的論及はない)、正統と(明治期以降に)される南朝側の諸天皇とその在位期間のみを対象としているように思われる。
 ***
 安本美典著を見て、読んできただけで、自ら計算してみようと思ったことはこれまでなかった。
 安本著には厳密には分かりにくい点もあるので、秋月が自分で計算して、表を作ってみよう。
 ①皇統譜上の代数表記による。②重祚は2代とする。③南朝側の天皇のみを対象とする。
 ④講談社・天皇の歴史各巻所載の「歴代天皇表」上の在位期間による。在位期間は「月」を無視して、「年」のみを考慮する。例えば、1000年12月~1010年2月の場合、実際には9年3月であっても、在位年数は11年となる。
 ⑤上に在位期間の記載のある第29代・欽明天皇から第123代・大正天皇までを対象とする。この間の代数は、123-29+1=95だ。大正天皇までとするのは、大きな意味があるのでなく、昭和天皇の60年超の在位が明らかに平均年数を高める要因になるだろうことを考慮したにすぎない。
 ⑥つぎのように時代区分する。おおよそA/江戸以降、B/鎌倉以降、C/平安時代、D/それ以前(欽明以降の飛鳥+奈良)だ。
 ⑦安徳天皇退位は1185年、後鳥羽天皇即位は1183年なので、3年の重複があるが、そのまま計算する。
 A/123代・大正天皇~108代・後水尾天皇、代数(123-108+1)は16。
 B/082代・後鳥羽天皇~107代・後陽明天皇、代数(107-082+1)は26。
 C/050代・桓武天皇~081代・安徳天皇、代数(81-50+1)は32。
 D/029代・欽明天皇~049代・光仁天皇・代数(49-29+1)は21。
 上の前提のもとでの、秋月瑛二の計算
 A/大正~後水尾・16代・年数243年・一代平均年-19.75年。
 B/後鳥羽~後陽成26代・年数429年・一代平均年-16.50年。
 C/桓武~安徳・32代 ・年数405年・一代平均年-12.65年。
 D/欽明~光仁・21代 ・年数243年・一代平均年-11.57年。
 上の注記の④にあるように、在位年数は実際よりも少し大きくなり、従って平均年数も実際よりも少し大きくなっているだろう。
 しかし、古い時代ほど平均的な天皇在位期間は短くなり、欽明天皇頃になってくるとほぼ10年~12年だ、ということが分かる。
 そうすると、もっと前の古代天皇の在位期間の平均は、9-10年まで下がってくるのではなかろうか?
 ***
 八幡和郎の「頭の中」には、こういう、天皇在位平均年数という考慮要素はない。
 まず、改めて、応神天皇から崇神天皇までの、出生・即位、在位年に関する、八幡和郎と安本美典の違いを示してみよう。
 八幡については、八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)による。安本については、改めて上の著(2003)Aのp.260-1の図表(横グラフ)から目視した(すでに紹介した安本推測と①と②でやや異なる)。安本の仲哀期は、神功皇后称制期をも含む。。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位410年~424年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~410年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ⑤11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑥10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年。
 崇神天皇について、約100年の違いがある。
 ***
 八幡和郎は、つぎの著では、神武天皇の時代も推測していた。
 八幡和郎・八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 これのp.30-1によると、「神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 前段は神武を「西暦紀元前後」と見ている。この根拠は分かりにくいが、この頃の天皇の即位後の生存年数または在位年数を約「25年」と見ているのが根拠である可能性が高い。
 上の表に見られるように、八幡は、12代・景行から10代・崇神まで「25年」間隔で皇位継承された、と推定しているからだ。
 これを崇神以前にさか上らせた出生年は、9代・紀元185年、8代・160年、7代・135年、6代・110年、5代・85年、4代・60年、3代・35年、2代10年、初代・神武紀元前15年となる。この神武の紀元前15年出生というのは、紀元前後に神武が即位した(初代天皇として)という推定の、有力な計算根拠になり得るかもしれない。
 しかし、この「25年」というのは八幡独自説ではなくて、明治以降の複数の学説が示してきたものだ。かつまた、神武即位は紀元前後というのは、那珂通世およびこれを支持した学者たちと全く一致している。八幡和郎が「自分の頭」から生み出したものでは全くないと推察される。
 上の後段は、神武~10代・崇神という10代の「実在」を、<三王朝交替説>の影響によるのかどうか、さっそく?疑問視している。この人物に定見はないのだろう。
 また、安本美典は「在数」と「世数」を区別しているが、直系男子継承(父子継承)であって初めて、「25年」の隔たりで天皇が交替していく、ということが言える。
 日本書記によると、21代・雄略天皇は16代・仁徳天皇よりも「5代」あとの天皇だが、雄略は仁徳の孫とされるので「3世」の子孫だ。「5代将軍」徳川綱吉は、徳川家康の曽孫で「4世」の孫。
 八幡和郎は神武以降の「実在」を肯定しつつ「直系男子」(父子)継承とすると奇妙だと感じているのだろうか。
 かりに初代~10代・崇神までの「全」天皇が実在していたとしてすら、全てが父子継承ではなかったとおそらくほぼ断言できるので(安本美典も同じ)、単純に25×9または25×10年さかのぼらせて神武の時代を推定しようとすること自体が、「思考方法」として間違っているだろう。
 それにそもそも、15代・応神~10代・崇神を原則として在位「25年」で継承したとするのも、安本美典説を知っていれば、安本の推定根拠の重要な部分も上で示したように、そもそも間違っている可能性が高い。
 もともとは、八幡和郎による応神天皇出生346年という「基準年」自体が間違っているだろう(なぜか八幡は外国文献である<新羅本紀>の記載年・記載事項を「そのまま」信じ、かつそれだけを利用している、という問題もある)。
 加えて「25年」説を採用したのでは、各天皇の実際の在位時期は、ますます古くなりすぎているだろう、と推察される。
 これはシロウト秋月瑛二の幼稚な推測だが、15代・応神~10代・崇神の間は9~11年、それ以前は6~9年ごとに、「大王」・「天皇」は交替したのではないだろうか。
 安本美典の推定はこれに比べると穏便で、上の著p.260-1の表は、あくまでさしあたりなのだが、清寧~用明は平均在位年数・10.07年、卑弥呼~雄略は平均在位9.45年としてグラフを作ったうえで、さらにその他の諸考慮要素を含めて、最終的な「推測」、「安本案」にしている。
 八幡和郎の「頭の中」は、中学校の高学年か高校生くらいなのではなかろうか。
 原史資料を日本書紀を除いては読まず、主立った関係文献のうち通説または有力説だけを調べて、八幡和郎程度の「推測」は可能だろう。参照文献を一切載せることなく、まるで「自分の頭」でゼロから考え出したフリをすることも可能なのだ。
 八幡和郎の崇神天皇年代論にもとづくと、容易に(八幡は北九州説なので見向きもしていないが)、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説(箸墓=倭迹迹日百襲姫陵=卑弥呼の墓説)も出てくる。これにはまた別に言及するだろう。

2155/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑥。

 八幡和郎が崇神天皇=「壱与」(卑弥呼の次世代)と同時代とするために346年を「基準」年としていることはすでに触れた。
 346年=神功皇后新羅出征年・応神天皇誕生年、だ。なお、日本書記に従うと、応神の誕生は、仲哀天皇の死の同年か翌年になる。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 この著によると、前回までには紹介を略したが、①346年と⑤崇神=「3世紀中頃(から後半)」までは、つぎのように「推理」される。p.131ー2。
 ②応神には兄がいるので父・仲哀天皇と「30歳以上は離れているとみるべき」だ。そうすると、仲哀の誕生年は、「310年代後半ごろ」だ。
 ③仲哀の父・ヤマトタケルは「若くして死んだらしい」ので、両者の年齢差は小さく、ヤマトタケルの「活躍」時期は、「4世紀初頭あたりということになる」。
 ④ヤマトタケルは父・12代景行天皇の「比較的若いころの子供のよう」だ。
 ⑤その景行天皇の祖父・10代崇神天皇の「全盛期」は「三世紀のなかごろということになる」。「そうすると」、崇神天皇は卑弥呼の後継者である「イヨの同時代人」ということになる。
 はなはだ漠然としていると思える。
 B/八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)。
 このB著で八幡和郎は、崇神以降の「推定生年」および神武天皇以降の「推定即位年」を記した表まで示している。
 その際の根拠として、先の書の「346年基準」のほか、つぎを加えていると見られる。
 ①「若いころの子か年を取ってからの子かなどというあたりを加味」する。p.67。
 ②各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」とする(=25歳のときの子だとする)。p.79。仲哀ー応神を36年とするのは、応神には異母兄がすでに二人いたことからの推定だ。p.78。
 なお、③「系図」(+実在)は正しいとする、というのが前提。p.67。
 八幡による崇神以降応神までの即位年・出生年の推定(左)とすでに記した安本美典による推定(右)を比較してみよう。②の安本は、仲哀+神功皇后。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位402年~425年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~402年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ④11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑤10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年.
 この項の前回までの比較表よりも詳しく、八幡によるその点は無視するが、微細に異なる点もある。
 安本推計については、同じく前々回④の記述を参照。
 そこで参照したのは、安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)だった。
 それとおそらく全く同じ表(と叙述)が、以下にも掲載されている。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 ともあれ、崇神天皇について、約100年の違いが出ている。
 この違いは、01/安本の「基準年」は応神出生=346年ではない。02/安本は一代(世代ではなく天皇在位の代)の差を<10~11年>と見る(詳細は省略)、03/安本は八幡が考慮しない要素も考慮する、ということにあり、決定的には01と02によるだろう。
 ところで、八幡和郎が上のように推定している主目的は、(最終的には邪馬台国大和説の否定(北九州邪馬台国僭称説)で)、卑弥呼・壱与の時代は崇神とほぼ重なっており、前者が大和王権の祖ではあり得ない、と主張することにある。
 上のBでこう書かれる。
 「壱与が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりだつたということはかなりの確率で間違いありません」。p.80。
 上のAでは、こうだった。p.132ー3。
 「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」。
 「4世紀に…朝鮮半島に軍事介入した大和朝廷は、邪馬台国に卑弥呼という女王がいて、洛陽の都に使いを送ったことをまったく記憶していなかったことは確かだ」。
 ところで、八幡和郎は、上のB(2015年)で、上の部分を含む表を見よとしつつ、つぎの<おそろしい>ことも書いている。
 「中国政府は、…〔中国の〕古代史の実年代についての公的解釈を統一しましたが、日本政府も是非するべきだと思います」。
 日本書記と古事記で一致がなく、また古代諸天皇の「実在」否定説も有力にあるにもかかわらず、八幡は、「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、と主張するのだ。
 よほど、自分の推定に「自信」があるのに違いない。
 「『日本書記』の系図や統一過程は全面的に信用できる」。p.64の見出し。
 「崇神天皇から応神天皇までの実年齢を推定するのは簡単」。p.73の見出し。
 「古代天皇の実年代はこうだ!」。p.77の表のタイトル。
 異様であり、傲慢だとしか思えない。
 学者でも一致がないか、議論すらしていない事項について、八幡は「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、というのだ。道徳・倫理についての<教育勅語>〔1890年)による緩やかな統制よりも、おそろしい提唱ではないか。
 ***
 八幡和郎は、学説上の根拠文献・参照文献を、上の点に特定しては、一つも挙げていない。
 八幡和郎の「頭の中」に関して、いぶかしく感じているのは、少なくともつぎだ。
 第一に、八幡は崇神天皇の「全盛」年を3世紀中頃とか3世紀中頃以降後半とかとも書いている。上のBでは「出生210年/即位3世紀中」とやや特定した。
 崇神天皇の在位年は日本書記によると(干支年の「翻訳」が必要だが)紀元前97年~紀元前30年とされるが、「繰り上げ」があって信頼性がないするのが通説だろう。
 一方、古事記の<分注・没年干支>によると解釈により258年と318年のいずれかだとされる(60年周期で干支は同一になる)。
 これを八幡は考慮していないようだといつぞやは書いたが、八幡の崇神出生210年という推定は、前者の258年(没年)にかなり近い。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)のp.190やp.205によると、那珂通世(紀年論先駆者)や水野祐(三王朝交替説論者)は記載がある場合の<古事記・没年干支>を信頼できるものと考え、前者は258年説、後者は318年説に立った、という。
 八幡和郎は、これらの説を知っている可能性がある。そのうえで、那珂説に傾斜して自らの出生年推定を導いているのではないか。
 第二に、その意味自体については争いがない<古事記・没年干支>によると、応神の父とされる仲哀天皇の没年は362年、応神天皇の没年は394年だ。八幡はこれについて何ら言及することなく、応神には兄がいたうんぬんだけ述べて、仲哀ー応神を36年とする。
 差は古事記によれば32年、八幡によれば36年。これは偶然だとは感じられない。八幡は、古事記による記載をある程度は信頼して「安心して」、両者は「30歳以上は離れているとみるべき」などと書いているのではないか。
 第三に、八幡は、各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」と想定する。在位期間と即位後の生存期間は同じ意味ではないが、父子直系継承の場合はこれら二つは同じだと見てもよいだろう。しかし、「25年」の根拠はいったい何か?
 上の安本美典著(2003年)によると、古代の天皇一代の長さについて、津田左右吉は20~25年(安本p.159)、直木孝次郎・井上光貞は20~30年(p.160)、那珂通世はほぼ30年(p.177)と想定して、各(実在)天皇の在位期間等を推定した、という。
 これらと八幡和郎が推論根拠とする「25年」もまたおおよそ一致しており、八幡はすでに何らかの学説・文献上の知識にもとづいて、「安心して」書いているとみられる。
 安本美典はこれを<長すぎる>とする。
 いずれにせよ、八幡和郎は、まるで自分の「頭」でだけ考察したかのごとく記述し、かつまたこれら学者たち以上に?傲慢にほとんど断定し、「政府」が古代の「実年代」を確定せよという趣旨まで書いてしまう。これは、異常・異様だろう。研究書の体裁をとらない新書・文庫では、何を書いてもよいのか。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

2139/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典④。

  八幡和郎が考えるように、邪馬台(ヤマト)国と大和朝廷・「天皇」・「日本」は連続していないとすれば、後者の皇統にある者たちがのちに「倭」とか「大倭」という語を国名や天皇の和風諡号に使ったのは、とんでもない間違いをしていたことになるだろう。
 その理由を論理的に想定できるのは、つぎの可能性だ。
 本当は「邪馬台国」も「卑弥呼」も自分たちとは関係がない、本当は遠い先祖や先輩たちでなかった。それにもかかわらず、天武・持統や日本書記編纂者等は<勘違い>をして、自分たちは魏志東夷伝倭人条に出てくる「邪馬台国」や「卑弥呼」の後継者だと思い込んだ。そして、この大いなる誤解のもとで、正規の文書や史書でも「倭国」とか「倭根子…」という語を使ってしまった。
 こんな大きな勘違いをしたのだろうか。しかし、中国(魏)の史書を見ただけで、自分たちは「倭国」の「倭人」たちの後裔だと思い込んでしまうものだろうか。
 それに、のちに「邪馬台国が滅びて数十年たったあと」で「その故地を支配下に置いた大和王権」は、その九州の土地で、大陸とやり取りのあった「女王の噂」など本当に「何も聞かなかった」のだろうか。
 八幡和郎は、「女王の噂など何にも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」と言う。しかし、八幡によると崇神天皇は「壱与」と同世代なのだが、崇神の孫の景行天皇または崇神の曽孫のヤマトタケルが九州を支配したとき、その土地の人々の全てがはかつての「女王国」・「邪馬台国」に関する記憶を全く失っていたのだろうか。それほどまでに完璧な「邪馬台国の滅亡」があったのだろうか。
  シロウトの気楽さで、もう少し八幡和郎の「頭の中」を覗いてみよう。
 万世一系の天皇と邪馬台国は何の関係もないはずなので、八幡は論及する必要もないのだが、上記のとおり、崇神天皇は「卑弥呼」の後継者とされる「イヨ」の「同時代人」だとほとんど断定している。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 p.132-「邪馬台国の卑弥呼の没年は240年代とされ、そうすると崇神天皇はその後継者であるイヨの同時代人ということになる」。
 崇神天皇についての推測は、こうも記述されている。
 B/八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 p.30-「だいたい、崇神天皇は3世紀の中頃から後半にかけて活躍されたということになります」。
 p.46-「さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は3世紀のなかごろと推定されます」。
 専門家でも学者・研究者でもない八幡和郎は、なぜこう大胆に書けるのだろうか。
 崇神天皇=「イヨ/トヨ(壱与・台与)」と同時代=3世紀の中頃ないし後半。
 このように八幡が「推論」する、その論理を辿ってみよう。これは紀年論・年代論だ。
  上のBも同旨だが、Aの方が少しは詳しいようなので、以下は、ほとんど上のAを検討対象にする。 
 崇神天皇でもどの天皇でも、歴史上存在しなかった天皇であれは、その在位期間を推測するのは当然に無駄なことだ。実在していたとしても生没年や践祚・即位と退位の年が文献等の上で明確でない場合にこそ、何らかの「基準」となる年を想定・固定して、そこから諸資料を通じて活動・在位の時期を<推論>・<類推>していくということになる。
 講談社の<天皇の歴史>シリーズ(全10巻、2011)にはどの巻末にも歴代天皇表が5頁にわたって掲載されていて、29代・欽明天皇以降については「在位期間」の年月日が記載されている。おそらく、欽明についての539年~571年以降は(月日省略)争う余地が全くないと考えられているのだろう。
 但し、26代・継体の507年即位というのもほぼ史実のように見えるし、稲荷山古墳出土の鉄剣の刻み文字から、21代・雄略天皇の活動年は471年を跨ぐ前後ということも、学界でもおそらくほとんど一致して承認されているかと思われる。
 不分明になるのは日本書記が記す天皇没年(これはふつうは次代天皇の践祚または即位の年だ)と全天皇についてではないが古事記が記載する没年(古事記没年干支)とが一致していない天皇からだ。
 それでも継体までは辛うじて「ほぼ一致」と言えるが、それ以前はかなり異なっている(允恭についての453年・454年、雄略についての479年・489年はまだマシだ)。
 崇神天皇については、日本書記では没年は紀元前29年とされ、古事記では(干支は明確でも60年毎に同じ干支になるので)318年説と258年説があるらしい。
 後者の258年というのは、八幡「推論」の結果とかなり近いが、八幡が干支年にこだわって上の後者を採用しているわけではない。
 さて、八幡和郎が確からしいとして「基準」とする年はいつなのだろうか。
 上のAによると、つぎのとおり。
 神功皇后の朝鮮半島への遠征年=応神天皇の出生年、346年。p.130-1。
 神功皇后による<三韓征伐>の記録・伝承を背景として、つぎの①と②の二つを根拠としていると見られる。そして、これらから、③の<推論>が行われる。
 ①<新羅本紀>によると、「倭人」が新羅の首都・金城を包囲したのは、346年と393年の2回。神功皇后の遠征年はこれらのうちいずれかだ、と八幡は考える。
 ②石上神宮にある国宝「七支刀」の刻み文字から、「369年」に百済王から倭王に送られたものだと分かる(この説が「多い」)。
 ③このときすでに「対百済外交」が行われていただろうから、①の346年と392年のうち、早い方の346年の「ことだろう」、とする。
 七支刀については、八幡自身によって「『日本書記』で神功皇太后に贈られたとされている」と説明されている。
 この日本書記の原文(但し、現代語訳文)は、つぎのとおり。秋月がつぎの著で確認する。
 新編日本古典文学全集/日本書記1・巻一~巻十(小学館、1994)、p.461。
 「〔神功〕摂政52年秋9月の丁卯朔の丙子(10日)に、…らは千熊長彦に従って来朝した。
 その時に、七枝刀一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献った。
 そうして謹んで、『…。…。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。次いで、「百済王が孫の…に語って、……」と言いました』と申し上げた。これより後は、毎年相次いで朝貢した。」
 ここにある一振りの「七枝刀」が、現存する上の「七支刀」のことだと(たぷんほぼ一般的に)考えられているようだ。
 さて、出発点としての「基準」年はむろん最も重要なはずだが、このような論拠と推論でよいのだろうか。
 むろんよくは分からない。しかし、つぎの重要な疑問が生じる。
 第一に、神功皇后の遠征「年」を、倭人が「新羅の首都・金城を包囲」した記録が残るという、上の二つの年に限定しまうのは、それでよいのか。
 346年と393年の二つだけで、しかもこれらは47年も隔たっている。
 神功は、半島にまで身重で出征して帰国して現在の福岡県宇美町で応神天皇を生んだ、とされる。
 「新羅の首都・金城を包囲」していなくとも、神功皇后が半島にまで出向いたと理解してよい年は、ほかにもあるのではないか。
 当時の半島には百済・新羅・高句麗の三国があったが、高句麗に向かったかもしれないし、新羅への軍に同行したが首都を「包囲」するまでには至らなかった、ということもあり得るだろう。
 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(勉誠出版、2019)。
 上の安本著は、高句麗の「広開土王碑の碑文」には、つぎのことも書かれていた、という。p.95-96。
 01/391年-倭が「海を渡ってきて、新(?)羅を破り、これを臣民とする」。
 02/400年-倭が「新羅城のうちに満ちあふれていた」。
 03/404年-倭が「不軌にも帯方界に侵入」した。
 また、<新羅本紀>と日本書記には、八幡の挙げる393年のほか、つぎの情報も記述されている、という。
 04/402年-「王子の未斯欣が、倭の人質になった」。
 この04の新羅王子「未斯欣」は、上記の日本書記1p.431に出てくる「微叱己知」と同じ人物だろう。
 また、この「微叱己知」を「質」にした記事は、こういうことも書いている。神功皇后が新羅まで行っていることは(日本書記上でだが)明らかだ。
 05/402年?-新羅王を誅殺しようとある者が言ったが、皇后は「自ら降伏してきた者を殺してはならない」と言い、新羅王の縛を解いて、地図・文書等を収め、「矛を新羅王の門に立て」た。
 これら5件はいずれも、八幡が基準とする346年よりもかなり後のことだ。
 第二に、「七支刀」は神功皇后の時代に献上された、と日本書記は確かに記述している(摂政52年9月の条)。
 しかし、八幡自身がp.130で「これを贈られたのが本当に神功皇太后だったかどうかはともかくとして」と明記するように、誰がもらった刀なのかが、刀自身から明確になるわけではない。せいぜい「倭王」としか理解できないだろう。
 従って、七支刀が刻む年号=369年を手がかりとして、346年と392年のうち369年より前の346年を選択する、という八幡の推論方法が適切だとはとても思えない。
 なお、安本の上掲書p.256によると、古事記の「応神天皇記」に、百済・照古王が「横刀と大鏡」を献上した旨の記載がある、という。神功皇后ではなく応神天皇の時代に関する叙述だ。
 さて、346年=神功皇后の「活躍」年=仲哀死後十月十日で応神天皇を生んだ年
 これを「基準」とするのは、かなり危ないように見える。
  八幡和郎は上を「基準」年として、崇神天皇の「全盛時」は、「3世紀のなかごろということになる」、と推論結果を叙述する。
 「基準」年が大幅に間違っていると、推論結果も間違っている可能性が高いだろう。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 この書は末尾に、推古天皇~卑弥呼の間の、天皇在位・「活躍」期間を想定した安本による図表(・グラフ)がとじ込みで添付されている(厳密な数字化はされていない)。
 この1987年書での図表・グラフを現在の安本は放棄したわけでもなさそうなので、応神~崇神に限って、八幡和郎による想定と比較してみよう。*は、神功皇后と計。安本推定の細かな数字は、グラフに対する秋月の目視による。
 ①15応神天皇-八幡・出生/346年。  安本・在位/402年~425年。
 ②14仲哀天皇-八幡・出生/310年代後半。安本・在位/390年~402年*。
 ③12景行天皇-八幡・全盛/3世紀末? 安本・在位/370年~386年。
 ④10崇神天皇-八幡・全盛/3世紀半以降。安本・在位/343年~357年
 このとおりで、崇神天皇について約100年の開きが出ている。
 その結果として、八幡においては神武天皇は卑弥呼よりも前の(昔の)人物であるのに対して、安本によれば、神武天皇は卑弥呼よりも後の(新しい)人物になる。
 知的な「推論」過程・方法の差異に関心がある。もう少しつづけよう。

2110/大和(おおやまと)神社。

  №2108/2019/12/24 で、本筋にはなくても差し支えない文だったが、「大和神社」にこう触れた。
 日本書記の崇神天皇の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この『倭大国魂神』を祀っている、とされている」。
 7-8世紀編纂の書の記載とはいえ日本書記の崇神天皇時代に遡るというのだから、大和神社の「歴史」・由緒は古い。
 大和神社の名は「おおやまと・じんじゃ」が正しいので、さっそくに改める。
 この神社で入手できる<由緒略史>には、日本書記の記載と同じまたはほとんど同じことも書かれている。
 三祭神の「中央」に座すのは、「日本大国魂大神」。最初は天照大御神とともに宮中で「同殿共床」で祀られていたが、崇神天皇が「神威」を怖れてこの地に「遷御」させた、その土地にある。この主祭神は「大地主大神」ともいう。
 東京・府中市に(武蔵)大國魂神社がある(拝殿・北向き)。主祭神は同じで、この大和神社の方がおそらく(由来は)古い(拝殿・東向き)。天照大神-大国主命、伊勢-出雲、卑弥呼-男弟、といったことも連想するが、触れない。
  先に戦艦大和の模型を中心に置く小建物があるとだけ記したが、大和神社の<由緒略史>によると、「末社」の一つに「祖霊社」があり、戦艦大和「戦没英霊」2736柱を祀り、1972年9月以降は戦闘巡洋艦矢矧外〔やはぎ〕駆逐艦8隻の戦没将士英霊も合祀して、計3721柱を祀っている。
 戦没者は、全国に(専用朱印帳の記載のみで)53ある護国神社や靖国神社だけに「英霊」として祀られているわけではない。供養塔・紀年碑に当たるようなものが仏教寺院の中に建てられていることがあるし、当該地域出身の兵士たちの墓地が、寺院境内に区画されて存在していることもある。墓なのか供養塔なのか、3基だけの、第二次大戦出征者・戦死者用の仏塔がある小さな寺院を見たこともある。
 上記の大和神社境内には、近傍地区出身者の多数の戦没者氏名を裏面に刻んだ、大きな石碑がある。
 早々に日本会議を連想するのも楽しくはないが、同団体は戦没者慰霊も重要な運動対象にしているはずだ。
 靖国神社公式参拝を、とかを唱える前に、戦没者を祭神として祀ったり、供養している全国の神社・寺院に関する情報を全て把握しているのだろうか。
 <いわゆる保守>=「右翼」系三雑誌、つまり月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)には靖国神社は出てくるが、「護国神社」に関する情報を(少なくともしばしば読んでいた頃は)見出すことはできなかった。ましてや、その他の、戦没者の墓地や慰霊施設(その他の神社や寺院)に関する情報はおそらく全く掲載されていない。
 いつかも書いたが、沖縄・摩文仁の戦没者祈念碑のすぐ近くに、多少は宗教(=仏教)的な要素も入っているかと感じたが、沖縄戦での戦没者の出身県ごとのかなり立派な慰霊施設についても、当地を訪れるまでは知らなかった。
 「英霊」=戦死者を、現在での<政治>運動のために利用してはいけない。
 「慰霊」、「霊魂」の(とくに生者にとっての)意味には、立ち入らない。
  北の石上神宮、南の大神神社(おおみわ-)と比べると、大和神社への参拝者・訪問者は少ないだろう。
 ひっそりとしていて、そのぶん古さも十分に感じさせて、なかなか魅力的な神社だ。
 観光寺院・神社化している京都・奈良のいくつかの神社仏閣よりは、はるかに、何度も訪れてみたい気分になる。最寄りのバス停・鉄道駅からの田園・住宅地も、上の二神社と同等にあるいはそれ以上に、<大和(やまと)>的だ。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0504/式年遷宮と大嘗祭の<復活>。

 伊勢神宮の由来又は設立年代については、日本共産党系と見られる藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)で、直木が「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」と書くくらいだから、1300年前にすでに存在したことは「間違いない」。現代人にとっては気の遠くなるような昔だ。
 七世紀後半からさらにいつ頃まで遡れるかだが、安本美典の簡単な文章に即して既述のように、記紀等によれば崇神天皇の御代に皇祖・天照大神を宮中とは別の場所に祀るために造営された。
 所功・伊勢神宮(講談社学術文庫、1993)は記紀等の記述に添ったより詳しい説明をしつつ、崇神天皇朝を三世紀後半としている。但し、古代の天皇・国王の平均在位年数は約10年という安本美典説に従い、かつ崇神天皇は第一〇代ということは正しい、ということを前提にすれば、崇神天皇朝は三世紀後半ではなくもっと後だろう(所功は西暦〇年前後に神武天皇即位、三世紀後半は大和朝廷の故地・九州では「壱与」の時代だろうと推測する。安本美典とはかなり異なる)。
 それはともかく、所功の上の本によっても、神宮の式年遷宮が、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇(645-702)の時代に始まることは「間違いない」ようだ(所によると内宮の第一回は690年)。式年遷宮自体も1300年以上の歴史をもつ。2013年は第62回。前回・1993年の遷宮に至る、各祭儀についての(最重要な祭儀は「遷御」だと思われる)、昭和天皇に始まり今上天皇に継承された「御治定」の月日は、神宮司庁監修編集/伊勢神宮崇敬会発行・お伊勢まいり(2005.07改訂7版)の末尾に一覧表として掲載されている。
 1320年以上で62回という回数からも判るように、式年遷宮は20年毎にきちんと行われてきたのではなかった。戦後最初のそれ(第59回)は1949年の筈だったが、財源難等があったのだろう、4年遅れて1953年に行われている。
 そんな4年遅れてどころではなく、所功の上の本や高野澄・伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか(祥伝社ノンポシェット、1992)によると、所謂「戦国時代」に、120~140年もの間、中断している。
 式年遷宮ではなく「大嘗祭」の挙行となると、田中卓「天皇と神道の関係」同=所功=大原康男=小堀桂一郎・平成時代の幕明け(新人物往来社、1990)p.54によれば、何と「約220年」の中断があり、江戸時代初期の1687年に再挙行された、のだという。
 120~140年あるいは220年ということは、停止と再開の両方を現実に知る人は一人もおらず、一般国民の一世代を30年とすると、4代から7代くらいが交替するだけの時間が過ぎたことを意味する。
 そして思うのは、<天皇制度>が続いている限りは、かりに100年、200年の<中断>があり、廃止されたかの如き外観を呈した時期があったとしても、<歴史的・伝統的なもの>は<復活>している、ということだ。
 多少のゴタゴタはよい。また、日本「文明」は同一ではなく変化してきたし、これからも変化はしていくだろう(固有の何かまでなくなるとの趣旨ではない)。だが、<天皇制度>とともに、自分の死後も続く「日本」の<悠久>というものを信じたいものだ。
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  • 2081/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)②。
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  • 2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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