京都・泉涌寺直近の、宮内庁管理地だが実質的には同寺境内と言い得る月輪陵・後月輪陵の葬礼様式は仏教・火葬で、孝明天皇についての後月輪東山陵は神道・土葬だ、というのは幼稚かつ単純な誤解だった。
 前者の区画でも土葬は行われている。火葬-仏教、土葬-儒教または神道という対照関係は日本では成立していなかったようだ。
 前者-仏教様式、だとしても、後者=孝明天皇陵-神道様式、だと明確に断定できるかというと、後者についてはなお疑問符がつく。
 1868年09月-明治改元(1月に遡及)。
 同年03月-五箇条の御誓文。神仏判然令。
 同年01月-鳥羽伏見戦争。
 1867年12月-大政奉還・倒幕の密勅。坂本龍馬暗殺。王政復古宣言。
 同年01月-明治天皇践祚。
 1866年12月-孝明天皇崩御。
 孝明天皇の死はまだいちおうは「公武合体」政策上にあったが尊王・倒幕の動きが強くなっていたときに生じた。
 「政治」体制・過程とともに「宗教」、そして「葬礼」の様式についての意識変化も生じていたようだ。
 1867年に入ってからの、孝明天皇陵の造営に関する興味深い文書が、つぎの著に紹介されている。
 大角修・天皇家のお葬式(講談社現代新書、2017)。
 実際に造営が行われ、現在に残る孝明天皇陵にとってどの程度決定的だったかは著者も明記していないが、大きな影響を与えただろうと推察される。
p.100ー101によると、<孝明天皇紀>に収載されている文書のようだ。
 幕府に置かれ、山陵(天皇陵)の管理を職掌とした山陵奉行・戸田忠至(宇都宮藩)は、孝明死後に、大角修がつぎのように要約する文書を提出した。p.101ーp.102。
 「仏法伝来以後、上古淳朴の習わしが失われ、この数百年は玉体を灰にして九輪塔をたてるようになったのは恐懼悲嘆の至りである。
 後光明天皇から火葬は廃止されたけれども、その後も山頭堂(荼毘所の葬場殿)で荼毘の作法が行われている。
 山頭堂から廟所までは僧たちが密行と称して、表面は火葬、内実は埋葬と称している。
 このような表裏不合の葬礼では四海臨御の皇室の傷にもなると痛哭する。
 名分国体は天下人心の向背にかかわることなので、元来の埋葬に戻してほしい。」
 これの原文・読み下し文も掲載されているが、それをさらに秋月流に「くずして」紹介すると、つぎのとおりだ。「」は上掲書での原語。
 <今般、御陵御造営のこと、取り調べて進達するよう、広橋大納言殿から言いつけがあった。
 「中古、仏法渡来已後」、造営の様式も変革されて、ついに「上古淳朴の風」、「刻薄残忍」になってしまい、「持統天皇に始め奉りて御荼毘」のこと、代々「御常例」となり、「恐れ乍ら万乗〔天子〕の玉体を一旦灰燼に委せ奉り」、九輪石の御塔を「御表」としてしまうのが「数百年来」の御定制となり、「遷延〔ずるずると延びて〕今日に」至ったことは、「恐懼悲嘆の至り」である
 ……、「後光明天皇御新喪御時より御火葬廃され」たけれども、その後、「御代々」の葬儀では「御龕前堂へ入御、御式なされ、済夫より山頭堂〔荼毘所〕にて御荼毘の御作法」がある。
 その場所から御廟所までは「寺門僧徒とも御密行と称」して「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」と言っている、と存じている。<中略>
 「勿体なくも一天万乗の大君として表裏不合の御礼節」があることは「四海臨御の御体裁」として、恐れ乍ら「御瑕瑾にも渡さるべきかと痛哭」いたしている。<中略>
 「断然内外一致の御埋葬の御礼儀に復され、右御荼毘無実の御規式一切御廃止」となるように、していただきたい。
 まさに「名分国体は天下人心の向背に関係」しているので、「右」を早々に「御英断」し、「臣子忠孝の標準、御教誨」をすることがなければ、御陵のことは「取調」することができないので、「微衷」を申し上げる。…>
 この上申文書が大きな影響を与えたにちがいない。実際には、つぎのように変わったようだ。p.102以下。
 ①後光明天皇の葬礼以後は火葬〔荼毘に付す〕をしなくなったが、それまで(仁孝天皇まで)の火葬の際の仏教的「密行」を同様に行ってきたところ、これを廃止した。
 ②これまでは遺体の入る「棺」を「廟所」(陵所)まで運んだのは「僧」だったが、「御所衛士と戸田忠至が手配した人夫がかつぎ」、戸田が先導して登って「地中の石槨に棺を納めた」。
 要するに、「仏式」の排除、「仏僧」の関与の排除が明確だ。後者は江戸時代は、泉涌寺の僧侶たちだったのだろう。
 しかし、第一に、「火葬」の否定の趣旨は明確だとしても、火葬ではなく土葬が「上古淳朴の風」に合致することの根拠が明確に語られているわけでもなさそうだ。持統天皇の名を明記して、それ以来まずくなった、とは言っている。「玉体を一旦灰燼に委せ」るのが怪しからんと、明確に述べているのかどうか。
 また、第二に、火葬の否定よりも、実際には火葬ではないにもかかわらずそのふうの儀礼を(仏教式で)行っているという、つまり「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」で、「御荼毘無実の御規式」が「表裏不合」だということを、強調しているようでもある。
 仏教色排除という「変革」の方針だけは明確であっても、天皇・皇族の陵墓の様式や葬礼の仕方について、「宗教」的または「思想」的な深い、確固たる考え方を前提にしていたわけではなさそうに見える。それでもしかし、数百年の「慣例」を破る「新しい」ものではあった。
 なお、戸田らはもともとは、孝明天皇の陵地自体を、泉涌寺近辺を排して、吉田山(吉田神社がある)または天智天皇山科陵の丘を構想していたようだ。p.102。
 泉涌寺=仏教寺院からの、地理的にも完全な離脱だ。
 しかし、泉涌寺関係者の猛反対があり、また英照皇太后(孝明の后)が多数の陵墓のある泉涌寺から「ひとり先帝だけ」遠ざけるのは「しのびず」、泉涌寺以外では「十分に供養ができない」として泉涌寺(付近)を望んだことで、結局は現在の後月輪東山陵となった、という。同上。
 よくありがちな、折衷的、妥協的解決だ。
 孝明天皇陵へは、今でも泉涌寺の名を掲げる「総門」を入らないと到達できない。同寺の境内にある、という感覚が生じてもやむを得ないだろう。
 しかし、仁孝天皇までの月輪陵・後月輪陵は山丘の西麓の平面地にあって、両区画への一つの入り口となる門がある。泉涌寺霊明殿から東を向いて供養・読経する場合に、ほぼ正面に各陵墓はある。陵墓には九重石塔があるなど、仏教式だ。
 一方、孝明天皇陵は山丘中腹にある円墳様式で、南面していると見られる。つまり、拝礼場所は、円墳の南側にある。泉涌寺内の霊明殿と向かい合っていない。なお、これを造営できるだけの丘が泉涌寺の東に存在しなかったとすれば、孝明天皇陵は別の箇所に築かれたのではないだろうか。
 明治天皇陵以降は、仏教寺院近辺には設営されなくなる。

 **以下、すべてネット上より。
 一段め左は、上が北。同右は、孝明天皇(+英照皇太后)陵への門(西向き)。
 二段め左は月輪陵・後月輪陵。同右の地図は再掲。


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