山田風太郎・新装版/戦中派不戦日記(講談社文庫、2002。原文庫1985、原書1971)は、1945年(昭和20年)の、その年に23歳になる年齢の作者の日記をのちに公開したもの。公開用の削除はあるが公開された部分に修正・加筆はないだろうと思っていたが、どうやら削除すらなく、全文が掲載されているようだ。

 筆者のコメントとともに、記載されている事実自体にすら、まだ生まれてもいない者には重要な価値がある。
 以下は、「文化人」の当時の言論とそれへの批判だ。網羅的ではないかもしれない。
 ①1945年一〇月二日付の一部「『闇黒時代は去れり』と本日の毎日新聞に石川達三書く。日本人に対し極度の不信と憎悪を感ずといい、歴史はすべて忘れよといい、今の日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍よ一日も長く日本に君臨せられんことを請うという。〔二文、中略〕

 ああ、何たる無責任、浅薄の論ぞや。彼は日本現代の流行作家の一人として、戦争中幾多の戦時小説、文章、詩を書き、以て日本民衆の心理の幾分かを導きし人間にあらずや。開戦当時の軍人こそ古今東西に冠たるロマンチストなりと讃仰の歓声あげし一人にあらずや。

 彼また鞭打たれて然るべき日本人の一人なり。軍人にすべての責任を転嫁せしめんとする風潮に作家たるもの真っ先きに染まりて許さるべきや。戦死者を想え。かくのごとき論をなして、自らは悲壮の言を発せしごとく思うならば、人間に節義なるもの存在せず、君子豹変は古今一の大道徳というべきなり。〔一段落、中略〕
 この人、また事態一変せんか、『いや、あの時代はあのように書くより日本の蘇生すべき道あらざりき』などといいかねまじ。余は達三の言必ずしもことごとく斥くるものにあらず。されど彼には書く権利なく、資格なく、義務なしという。少くともこの一年くらいは沈黙し、座して日本の反省(悪の反省にあらず、失敗の反省なり)の中に生きて然るべしと思う。

 〔一文、略〕而して死者に鞭打つがごとき軍人痛撃横行せん。これはある程度まで必要ならんも、当分上っ調子なる、ヒステリックなる、暴露のための暴露の小説評論時代来らん。而してそのあとにまた反省か。――実に世は愚劣なるかな」(p.542-3)。

 「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だ。それにしても10月初め、まだ『真相はかうだ』とかの放送は始まっていないはずだが、9月半ばにGHQによる実質的な「検閲」が始まって以降、すでに「軍人にすべての責任を転嫁せしめんとする風潮」は始まっていたごとくだ。お先棒を担いだのは、朝日新聞、毎日新聞等のマスコミだったのだろう。

 石川達三といえば、戦時中の小説「生きている兵隊」がのちの某下級審判決における事実認定(!)にまで利用されていたことを思い出した。この「社会派」作家は戦後、文壇のトップクラス(?)にいて、文芸家たちの団体の要職にも就いていた(1905-1985)。

 ②一一月五日付の一部「東京新聞に『戦争責任論』と題し、帝大教授横田喜三郎が、日本は口に自衛を説きながら侵略戦争を行った。この『不当なる戦争』という痛感から日本は再出発しなければならぬといっている。
 われわれはそれを否定しない。それはよく知っている。(ただし僕個人としては、アジアを占領したら諸民族を日本の奴隷化するなどという意識はなかった。解放を純粋に信じていた)
 ただ、ききたい。それでは白人はどうであったか。果して彼らが自国の利益の増大を目的とした戦争を行わなかったか。領土の拡大と資源の獲得、勢力の増大を計画しなかったか。
 戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる。それを戦争中の生きる道、敗戦後の生きる道といえばそれまでだが、横田氏ともある人が、それでは『人間の実相』に強いて眼をつむった一種の愚論とはいえまいか」(p.609)。
 横田喜三郎、当時東京帝大法学部教授、のち新制東京大学法学部教授、法学部長等を経て、最高裁判所長官(1896-1993)。国際法の分野の「権威」。戦後当初はGHQ初期政策迎合の「左派」だったが(かなり早い時期の上の「侵略戦争」明言もその一つだろう)、のちに<保守派>にさらに転じて最高裁長官の地位を獲得したとも言われる。

 宮沢俊義(憲法)等も含めて、戦後(とくに占領期)の大学教授たち、とりわけ東京帝大(法学部)教授たち(のちの新制東京大学法学部教授たち)の<処世ぶり>は批判的に分析しておかねばならない。それが未だ十分になされていないのは、「弟子」・「後輩」の東京大学(法学部)出身者たちが「恩師」や「先輩」を批判的・客観的に検討するのを期待しても無理がある、ということに理由があるだろう。東京大学に残って学者生活を続けた者たちだけではない。同大学出身者は日本の多くの大学に散らばって(?)かつ各分野で総じては有力な地位を占めてきたのだ。

 谷沢永一によってだっただろうか、横田は、<横田喜三郎現象>という語を使われて批判・蔑視されるようなこともしたらしい。

 上の山田の文章のあとに平林たいこへの言及があり、批判的コメントもあるが省略する。

 石川達三も横田喜三郎も上の山田風太郎日記が刊行されたとき(1971年)、まだ存命だった。その本の自分に関する部分を読んだだろうか。読んだとして、自分の生き方に、少なくとも言及されている自分のかつての文章に、羞じるところは全くなかったのだろうか。