秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

山内智恵子

2219/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨ー25・26の再掲。

 再掲するが(よって27ではない)、一部は割愛。
 26ーNo.2125/2020年01月18日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、1.上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだ(但し、1943年に解散)。少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだ。しかし、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 なお、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 2. 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
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 25ーNo.2060/2019年10月12日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。<2020年5月に引用割愛>
 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著に依拠している。以下の書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする。
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
 <一部、割愛>…、、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>
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 以上。

2060/江崎道朗2017年8月著の無惨と悲惨25。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
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 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、前回に記したように、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著にに依拠している。つぎの書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。
 小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
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 秋月は聖徳太子や十七条憲法に関する専門的研究者では全くないのだが、上の諸点とともにあるのは、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

2059/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨24。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 ①p.13-「聖徳太子以来の政治的伝統」。
 ②p.344-「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想」。
 ③p.352-「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、…へと至る『本来の日本』」。
 ④p.404-「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方」。
 このように何度も出てくる聖徳太子以来の日本の政治的伝統が、江崎道朗によると<保守自由主義>だ。
 そして、少し立ち入って読むと分かる第二は、この「聖徳太子」または「十七条憲法」というのは、聖徳太子の「政治思想」全体でも、十七条憲法の全体の「精神」でもなく、後者の十七条憲法の、ある特定の条の一部を意味する、ということだ。
 聖徳太子の「実在」性や日本書記に全文の記載のある<十七条憲法>の作成者・作成時期については周知のように議論があるところだが、江崎道朗はそれらをいっさい無視しているので、<聖徳太子が十七条憲法を執筆した>という前提で、つまりは彼と同じ立場に立って、論評を進める。
 小田村寅次郎らは聖徳太子から学んだ、とかその十七条憲法から学んだ、と何度も叙述されているので、上記のように聖徳太子の考え全体や十七条憲法全体から「保守自由主義」が導かれている、と想定しがちになるが、それは、この著の読み方としては、誤っている。
 十七条の憲法というくらいだから、第17条までの条数があり条文がある。
 最も有名なのは第1条の冒頭の「和を以て貴しとなし…」だが、あくまで通説的にだろうが、第2条は<仏教>、第3条は<天皇>への崇敬を求めるものだとされる。第1条は一口では「和」だが、<日本教>・<日本精神>を示すとか、さらにこの条との関係で<神道>が言及されることもある。
 江崎道朗が言及しているのは、しかし、第1条でも(仏教の第2条を飛ばして)第3条でもない。
 第10条だ。p.346。
 しかも、第10条の全体でもなく、そのごく一部に限られる。p.346-7。以下の部分だけだ。
 「共に其れ凡夫のみ」。
 他書からの引用・依拠も多いが、江崎道朗の理解はつぎのごとくのようだ。p.346-7。
 ・聖徳太子・十七条憲法第10条に書くように、この世の人は「どんな人でも」、所詮は「共に其れ凡夫のみ」だ。つまり「人はみな自分に執着し、過ちを犯す欠点だらけの人間だ」。
 ・全ての人間は「不完全で、自己に執着してしまいがち」という「極めて厳しい『自己』認識」だ。
 ・「国民同胞一人のこらず」(=「共に其れ」)、「欠点だらけの人間」(=「凡夫」)であり、「それ以外の何物でもない」(=「のみ」)、という深い意味が込められている。
 この部分は、江崎道朗によると、<五箇条の御誓文>の第一項の「万機公論に決すべし」に継承されている(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.348-9。
 ・「人間は不完全だ。不完全なもの同士だから、お互いに支え合い、話し合ってより良き知恵を生み出すことが必要である-この聖徳太子の発想は、まちがいなく明治日本の理想にも引き継がれている」(!!!-これは引用者・秋月)。
 ・「『万機公論に決すべし』の背景にあるのは、…『それぞれが凡夫で力不足なのであるから、お互いに高め合いながら、より高いものをめざすべく努め合うところに日本の国柄がある』という宣明なのである」(!!!-これは引用者・秋月)。
 さらに、五箇条の御誓文の全部・全条が、江崎道朗によると、つぎのことを示している、とされる(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.350。
 ・日本が目指してきたのは「エリートが世の中のことをすべて取り仕切る全体主義」ではない。「お互いが『自らの足らざるもの』を自覚しつつ、お互いに支えあい、創意工夫をしながら、より高きをめざす『自由な社会』のあり方こそが、日本の本来の姿なのである」。
 このあとに、前回にほとんどを引用した、つぎの文章が続く。p.350。「政治的伝統」ではなく「人生観」になっているのは破綻の一部がすでに見られる、と指摘した。
 ・「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が『共に其れ凡夫のみ』という言葉で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである」。
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 すでに論評と批判的指摘に入っていきたくもなる。「共に其れ凡夫のみ」→「保守自由主義」・五箇条の御誓文。何だこれは?
 だが、もう少し、聖徳太子・十七条憲法に立ち入ってみよう。
 上記のとおり、江崎道朗が注目するのは十七条憲法の第10条の一部の「共に其れ凡夫のみ」という部分だけで、これは原文・漢文だと「共其凡夫耳」の5文字
 第10条というのは(十七条憲法全体だとむろんもっと多いが)この5文字だけで成り立っているのではなく、つぎの文献によって計算すると、計74文字の漢文だ(冒頭の「十日」の2文字を除く)。
 日本思想大系・聖徳太子集(岩波書店、1975)、p.74。
 計74の漢字文のうち5文字だけ取り出して読解することはできないだろう。
 そこで、漢字だけを並べても意味を解し難いので、手元にあったつぎから、読み下し文をその下に掲げる。適宜、改行する。
 坂本太郎・人物叢書/聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)、p.89。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
 さてここで、江崎に対して、つぎの疑問が生じる。
 第一。上の10条全体のうち「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」だけに着目し、<人はみな不完全な物に他ならない>という意味だと理解してよいのか。全体の文章・文意の中で位置づけて解釈する必要があるのではないか。
 第二。そもそもなぜ、<聖徳太子・十七条の憲法>に何度も言及しておいて、第10条の一部にのみ着目するのか。
 異常、異様だと感じざるを得ない。
 もちろん、<人間はみな不完全だ>との意識・認識が<保守自由主義>なるものにどのようにして帰着するのか?、という問題も厳然としてある。
 凡夫=不完全な人間という理解の仕方自体の問題もありそうだ。
 それはかりに別としても、<人間はみな不完全だ>から出発して、いかなる<主義>も取り出せるような気がする。
 あるいはそもそも、聖徳太子・十七条の憲法の一部を読まないと、<人間はみな不完全だ>ということを、江崎道朗は認識できないのか?
 純粋無垢な?高校生が、あるいは何かの新興宗教の教主が書いたような文章を読むのもいいかげんうんざりはする。
 第三に、上のことを江崎道朗は、自分自身の検討等によってではなく他人の本(のしかもまた引用または間接的紹介)に依拠して書いている、ということを次回に記す。

2058/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨23。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子は、恥ずかしく感じなければならない。学者・研究者としての良心があるならば、京都大学「名誉教授」・中西輝政も、同じく京都大学「名誉教授」・竹内洋も。
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 江崎は、上の著は最終文の直前の文でこう書いている。
 p.414(おわりに)-「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 また、最終章の末尾には、こうある。
 p.406(第6章)-「われわれは、憲法改正によって取り戻すべきは『保守自由主義』であって『右翼全体主義』でも『左翼全体主義』でもないと明確に答えることができるようなっておくべきなのだ」。
 さらに、第5章の末尾には、こうある。
 p.354(第5章)-「われわれは、……小田村寅次郎ら『保守自由主義』の系譜を受け継ごうとするものだ」。
 これらでの「われわれ」とは誰なのか明記されていないが、江崎を含む仲間たち、要するに<現在の日本の「保守」派>であり、その仲間たちに呼びかけているのだろう。
 「われわれ」の意味・範囲は瑣末なことだ。
 上のようにこの著にとって重要な基礎概念である<保守自由主義>とは何かが、当然に問題にされなければならない。そして、これが曖昧なままだと、この書物の目的は達成されていないに、ほとんど等しいだろう。
 そして、多少立ち入れば、つぎのことが読み取れる。
 第一、<保守自由主義>とは、聖徳太子・十七条憲法と関係があり、そこに示されるとされる「日本の長い政治的伝統」だとされている。
 例えば、以下のとおり。
 p.13(はじめに)-日本のエリートたちは大正時代以降3つのグループに分かれたが、「第三は、聖徳太子以来の政治的伝統的を独学で学ぶ中で、…皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとした『保守自由主義』のグループだ」。
 p.279(5章第4節)-小田村寅次郎らの一高昭信会のリーダーは「聖徳太子の十七条憲法や……を学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行っていた」。
 p.344(5章第27節)-見出し「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想に学ぶ」。
 同(5章第27節)-小田村らが「聖徳太子の十七条憲法歴代天皇の政治思想を学ぶことを通じて日本型の保守主義についての勉強や活動を行ってきたことはこの章の最初に、すでに述べた」。<なお、立ち入らないが、「歴代天皇の政治思想」を学んだとは章の最初に書かれておらず、「歴代天皇の政治思想」が出てくるのはここだけだ。>
 p.348(5章第28節)-見出し「保守自由主義の立脚点は聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法」。
 そして、聖徳太子(・十七条憲法)に関するやや立ち入った言及があった後のつぎの結論的叙述は、最も長い文章であるかもしれない。
 p.350(5章28節)-「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が…で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである。/
 小田村たち、「すなわち『若き保守自由主義者たち』の脚点は、まさに、聖徳太子から五箇条の御誓文、そして帝国憲法へと至る、日本の真の伝統であった」。 
 同様の趣旨は、この後にも現れる。
 p.352(5章29節)-「右翼全体主義者」は「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、帝国憲法へと至る『本来の日本』などまったく顧慮せず、……帝国憲法体制を破壊すべく邁進していったのだ」。
 p.404(第6章15節)-彼らは「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方も、大日本帝国憲法に込められた叡慮も、…もきちんと学ばずに、…レーニンの帝国主義論など、最新の学問潮流に幻惑されていった」。
 この程度にするが、このように、何度も「聖徳太子」・「十七条憲法」や「五箇条の御誓文」を登場させている。
 しかしながら、決定的に不十分なのは、<これらがなぜ「保守自由主義」を示すものなのか>だ。
 江崎道朗は、これに全く言及していないわけではない。
 だが、おそるべきほどの杜撰さで、これらを叙述し、理解しようとしている。
 そこには決定的に不備・誤りがあるだろうが、上に引用した中では、聖徳太子以来の「政治的伝統」であるはずなのに、「聖徳太子が…で示した人生観」(p.350)なるものに遡ろうとする叙述にも<破綻>の一端が見られる。
 そして、江崎道朗は、十七条憲法にせよ、五箇条の御誓文にせよ(大日本帝国憲法は別に措くとして)、<保守自由主義>だということを示す何ら詳細で具体的な「研究」ないし「論証」も展開していない。
 皮を剥いていくと何もなかった、というのにほぼ等しい。言葉としては、聖徳太子・十七条憲法等が出てくる。しかし、これらに多少とも立ち入った叙述はない。そのような観のある叙述部分も、江崎自身の見解ではなく、他者の見解を紹介・引用することで済ませている。
 何と無惨だろうか。こんな叙述で、読者は納得するとでも考えていたのだろうか。
 怖ろしいことだ。こんな書物が日本では堂々と出版されている。<惨憺たる>出版物だ。
 次回には、聖徳太子の十七条憲法のどの部分が、江崎のいう<保守自由主義>なのか、という、奇妙な叙述を紹介し、論評する。

2041/江崎道朗2017年8月著の悲惨・無惨22。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 上の「著」での江崎の<図式>は、以下だと見られる。
 第一。<保守自由主義>を「右」と「左」の「全体主義」と対比される、<良き>ものとして設定する。換言すると、そのような<良き>ものに<保守自由主義>という語・概念を用いる。
 第一の重要な系。この<保守自由主義>に、途中から、<天皇を戴く>、<天皇を中心とする>という意味を含める。または、この概念と密接不可分のものとして<天皇…>という要素を用いる(なお、こうして「保守」かつ「自由」に「天皇」を連結させる語法は、決して一般的でない)。
 第二。<保守自由主義>は聖徳太子以降の日本の長い政治的伝統で、五箇条のご誓文-大日本帝国憲法-昭和天皇、はこれを継承したものとする。
 <保守自由主義>は重要なキー概念だが、上の二つによって説明される以外には、ほとんど何も語られない。ましてや厳密な定義は明確にされていない。
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 さて、江崎道朗による北一輝に関する叙述も、上の枠組み・図式の範囲内で行われている。
 第一に、北一輝と「天皇」との関係だ。江崎からすると、上の第一の図式からして、これは最大の関心事の一つに違いない。
 江崎の結論はこうだ(第三章)。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190の見出し。
 ではどのような論拠と説明によって、この結論を江崎は導いたのか。
 恐ろしいことに、江崎道朗は北一輝の書物(の大部分でもよい)を読んで、自らそう判断したのではない。つまりは、①他人の書物による(Aの書とする)。
 さらにその書物の部分は、②北一輝がBに語ったことを、Bが(何らかのかたちで)「伝えた」のをAが「紹介」している。その内容をもっぱら根拠にして、江崎道朗は(何と鋭くも!)上の結論を下している。
 Aは渡辺京二で、その書は同・北一輝(朝日1985、ちくま学芸文庫2007)。
 Bは、寺田稲次郎。
 この部分を、もう少し引用まじりで再現しよう。「」は江崎の地の文。『』は引用される渡辺の文。p.192。
 「渡辺京二氏は、こう指摘している。/
 北は…革命が天皇の発意と指揮のもとに行われることを明記した」が、これが「偽装的表現」なのは、「寺田稲次郎の伝える挿話によって決定的にあきらかである」。
 「北が天皇裕仁を」…と呼び、…と口走ったのは「まだ序の口」で、「中野正剛が北をシベリア提督に擬した話」を北に「寺田が伝えると、彼は色を変じて『天皇なんてウルサイ者のおる国じゃ役人はせんよ。…』と答えたという」。
 「またこれは伝聞であるが、寺田が確実な話として伝えているところでは、北は秘書に『何も彼も天皇の権利だ、大御宝だ、彼も是れも皆天皇帰一だってところへ持って行く。そうすると、天皇がデクノボーだということが判然とする。それからさ、ガラガラと崩れるのは』と語ったという」。
 以上は渡辺著の一部を江崎が用いた叙述だが、その内容は、「寺田稲次郎」が語った、または伝えたという<伝聞>話だ。
 これをもって、江崎道朗は、つぎの結論的文章を書く。p.193。
 二・二六事件の青年将校たちは皇室と国を思っていたが、「その理論的支柱の北一輝は、裏ではこんなことを考えていたのだ」。
 上の渡辺著からの引用的紹介を始める前には、すでにこう書いている。p.192。
 北一輝は「皇室尊崇の人ではなかった。むしろ、皇室を嫌悪し、皇室の廃止さえ願っていたふしがあるのだ」。
 そして、再記すれば、この部分の項見出しは、こうなる。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190。
 ***
 何とまぁ。こういう類の論証、叙述の仕方をすると、どんな結論も、どんな判断も、することができるのではないか??
 江崎道朗(の図式)にとって都合がよければ、どんな間接的「伝聞」話であっても、書物の中に活字となっていればよいのだろう。
 第二は、北一輝は<保守自由主義>者ではなく「全体主義」者だとすると、「右」と「左」のいずれなのか。
 江崎道朗は陸軍統制派は「社会主義」的だった旨の叙述のあと、皇道派青年将校を「指導」したとされる北一輝について、こんな一文を挿んでいる。p.191-2。
 「このような時代環境の中で、あたかもレーニンの世界戦略に呼応するがごとく、社会主義による国家革新と打倒イギリス帝国という対外構想を掲げて日本の青年たちを魅了していったのが北一輝なのである」。
 そのあとで江崎は、北一輝は「コミンテルンのスパイだった」という「事実は確認できない」とする。
 このあたりではまだ、「右」か「左」の「全体主義」への分類?は出てこない。但し、北一輝は「レーニンの世界戦略」に対応していたのだとすると、北一輝は少なくとも客観的には<左>だった、というニュアンスもある(なお、立ち入らないが、レーニンの死は1922年、二・二六事件は1936年)。
 しかし、だいぶ離れた箇所(第五章)で、江崎道朗は、つぎのように述べつつ、つぎのように断定している。p.
 「戦前の日本には、『保守自由主義』ともいうべき思想の持ち主と、『右翼全体主義』ともいうべき思想の持ち主がいた」。
 福沢諭吉、吉野作造、佐々木惣一、美濃部達吉らは、前者に入る。
 一方、「上杉慎吉、高度国防国家をめざした陸軍(とりわけ統制派)の人々、さらに北一輝など」は後者の「『右翼全体主義』に区分されよう」。
 江崎によれば陸軍統制派も皇道派もともに「右翼全体主義」となるのだが、これは第三章の叙述とは少しはニュアンスがちがう。それはともかく、では「左翼全体主義」との関連はどうなっているのか。
 江崎道朗は、つぎのように叙述して、まとめて?いる。p.274。
 ・戦前のいわゆる「右翼」とは「右翼全体主義」者のことだ。しかし、その中には、「コミンテルンにシンパシーを感じる『左翼全体主義者=共産主義者』や、一皮むけば真っ赤な偽装右翼も多数紛れ込んでいたから、なお状況が複雑となる」。
 ・『右翼全体主義者』と『左翼全体主義者』が結びついて(というより、『右翼全体主義者』の動きに『左翼全体主義者』がつけ込んで)、大政翼賛会などをつくり、大日本帝国憲法体制を破壊した」。
 ***
 あれれ? こうなると、「右翼全体主義」と「左翼全体主義」の明瞭な区別はつかない。
 戦後のかつての民社党の言っていた「左右両翼の全体主義」にはまだ実体らしきものがあったように思われる。
 しかし、戦前・戦中の日本では、江崎道朗によると、両者は「紛れ込んで」いたり、「結びついて」(というよりは「つけ込んで」)いたりしており、明瞭には区別できない。要するに、彼においては、たぶん<保守自由主義>対<(左右の)全体主義>という二項対立の図式で、戦前がイメージされているのだろう。
 上のことは、<保守自由主義>を「右」と「左」の両側から脅かす「全体主義」という江崎道朗の(基本的な!)図式が成り立ち難く、限界がある、ということを示している、と考えられる。
 いつたん設定した<図式>にあてはめるために、江崎は主観的には苦労して?いるのだ。
 では、そもそも<保守自由主義>とは何か。ここで(なぜか重要な要素として)聖徳太子が登場してくる。そして、6世紀から19世紀までの「日本の政治的伝統」には、いっさいの言及がない。回を改める。
 ----
 読書メモ/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)本文計313頁までを、9月12日(木)(2019年)に全読了。

2038/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨21。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。
 聖徳太子関連は次回の22以降とする。
 江崎道朗は、日本の戦前史を扱う中で、北一輝に論及する。
 その場合に、参照・参考文献として少なくとも明示的に示しているのは、以下だけだ。
 渡辺京二・北一輝(朝日新聞社、1985 /ちくま学芸文庫、2007)。
 この渡辺京二はたぶん戦後に日本共産党に入党し、宮本・不破体制発足以前に離党してはいるようだ。戦前からイギリス共産党員だったCh. ヒルがハンガリー「動乱」の後で離党したのと同じ頃に。この、日本共産党員だった、ということはここでは問題にしないことにしよう。あるいは、全く問題がないのかもしれない。
 江崎はまた、明治の日本はエリートと庶民に二分されていた(これはある程度は、又はある意味では、明治以前も、戦後日本でも言えると思われるのだが)、と単純にかつ仰々しく述べる中でなぜかその論拠としている外国人の文献とその内容等についても、この渡辺京二のつぎの書物を重要なかつ唯一の参照・参考文献としている可能性が高い。
 渡辺京二・幻影の明治-名もなき人びとの肖像(平凡社、1998)。
 この点も、深くは立ち入らないことにしよう。
 参考・参照文献の使い方や処理の仕方の幼稚さ・単純さあるいは間違いはレーニン・コミンテルン等に関する叙述でしばしば見られたことで、日本に関する叙述でも、そのまま継承していることは確実だろう。そもそもは、参考にして「勉強」している文献がきわめて少ないというほぼ絶対的な欠点もあるのだが。
 可能なかぎり網羅的にとは決して思わずに、自分で適当にいくつか(または一つだけ)選択した、彼にとって<理解しやすい>文献にもとづいて(直接引用したり要約したりして)、最初から設定されている自分の<図式>に合わせてこれまた適当に散りばめていく、そして、複数の論点を扱うために対応する諸文献の間での矛盾・一貫性の欠如が生じても、何ら気にしない。または、気づかない。
 このような、大学生の一・二年生によく見られるような<レポート>であって、いくら書物の体裁をとっていても、いくら「活字」で埋まっていても、一定の簡単かつ幼稚な<図式>以外には、実質的な、この人自身の詳細な主張・見解の提示などはほとんどない、というのが、江崎道朗が執筆・刊行している書物だ。
 学界・アカデミズム内であれば、すぐに「アウト」だ。すぐさま排除され、もはや存在することができない。そもそもが、加わることができるレベルにない。しかし、なぜか、日本の出版産業界と月刊正論(産経)・文章情報産業界では、存在し、「生きて」いけるようだ。
 「オビ」に名を出して称賛した中西輝政にはすでに触れたが、好意的書評者となっていた「京都大学名誉教授」竹内洋のいいかげんさにも、別途触れる。
 さて、長々と書くのも勿体ない。
 江崎道朗は北一輝について、上の渡辺著のほかには、私でも所持するつぎの諸文献を、いっさい参照していないようであることを、まずは指摘しておく。北一輝に関係する「内容的」な問題には、別の回で触れる。
 ***
 G・M・ウィルソン/岡本幸治訳・北一輝と日本の近代(勁草書房、1971)。
 松本清張・北一輝論(講談社文庫、1979)。
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ書房、1996)。
 松本健一・北一輝論(講談社学術文庫、1996/原書、1972)。
 松本健一・評伝北一輝/Ⅰ~Ⅵ(中公文庫、2014/原書・岩波書店2004)。
 所持はしていないが、他にもあるだろう。
 松本清張のものを見ても迷路に入って混乱するばかりだが、岡本幸治著・本文計360頁を見ると、北一輝の思想と行動は、江崎道朗が渡辺京二の本に即して描くような単純なものではなかったことが、よく分かる。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。
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