秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

山内昌之

2350/知識・教養・<学歴>信仰②—古田博司2015年著から。

 No.2334の<「知識」・「学歴」信仰の悲劇①>との表題を、少し改める。
  古田博司・使える哲学(Discover、2015)は、全篇にわたって面白そうだ。
 ヨーロッパ近代、同哲学についても、西尾幹二批判についても、関係する、かつ刺激的な文章が多々ある。
 また、学問論・大学論についても、面白い、かつ刺激的な言辞が並んでいる。
 とりあえず、以下の文章に、ほとんどそのまま大賛成だ、と書いておきたい。
 全て、そのままの引用。一文ずつに改行。p.98-。
 「先ごろ話題になった、文科省が廃止に言及した人文系学部の見直しについても基本的には結構なことだと思っています」。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけないというのが私の考え方です」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がないと思います」。
 「学問の目的を、常に今の説明に置くことが大切です」。
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  学問とは何のためにあるのか。さらには、学校での「勉強」は何のためにあるのか。
 古田は学者・研究者として、誠実に思考していると思われる。自分の「名誉」とか「名声」と関係なく。
 ①上の「今を説明」するの中には、厳密には「今」の中には、我々個人もその一個体である<ヒト・人間>の客観的・現実的な諸相も含めたい。
 「今」の中には、「今」を生きる人間の諸条件も当然に含まれているからだ。ここには<(生命体として)生きている>ということの(観念的・哲学的意味ではなく)物質的ないし生物学的意味が含まれる。
 心臓の拍動、呼吸、脳・脊髄等の「神経」等があってこそ「生きている」(自分だけではなく全ての人間が)ことを、小学生くらいから教育しておくべきだ。生存条件としての食事(・栄養)から必要な自然環境(水、空気、樹木等々)までも当然に。
 したがってまた、ヒト・人間の肉体的(・精神的)生存に関係する学問、簡単には医学・生物学・薬学等々(感染症学等々も入る)等は重視されなければならない。基礎としての数学・物理学等々も。
 ②上の広い?意味での「今」と関係がない、または関係が薄い諸「学問」分野は、「学問」性がないか乏しいもので、大学または学者・研究者が行う必要はない。<法学>についてはその意味合いも含めて、別途触れたい。
 勉強・学習→教養→「人格」陶冶・完成、といった、西尾幹二が好みそうな、または旧制高校生が(エリート意識=反・非大衆意識でもって)想定していたような、時代遅れの(だがまだ残っている)観念・意識を捨て去るべきだ。
 ③何のための大学か、したがって何のための「受験」か、「受験勉強」かを、真剣に問う必要がある。
 断片的「知識」の多寡、あるいは「記憶」力や「連想」力の差でもって、せっかく同じくヒト・人間として生まれてきた者たちを<分類>したり<区別>してはならない。
 18-19歳の時点での「記憶」力や「連想」力を基礎にしている「学歴」というものは、文字通りそれだけのことだ。第三者が正解・正答をあらかじめ用意して作った問題に、要領よくかつ可能な限り迅速に解答する能力の、多少の違いを示すだけだ。だが、それ=「学歴」に(良くも悪くも?)一生拘泥する人々がいるのは、悲劇であり、かつ喜劇だ。
 「今」と無関係の、または関係のうすい知識・教養をいくら豊富に持ってても、無意味かほとんど無意味だ。
 「今」を説明し、把握し、少しでも「改める」または「変える」(または改めない・変えない・維持する)判断をするのに役立たない学問は(そもそも「学問」ではないか)無意味だ。
 このあたりは、<人間は、いったい何のために生きるか>という問題に、究極的にはかかわる。
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  文科系学部ないし人文系学問の不要論は、だいぶ前だが池田信夫も主張していた。経済学部は除外されていたかもしれない。
 最近、茂木健一郎は、YouTube 上で、(たぶん文科系でも)大学入試科目に日本史・世界史は不要で、数学が必須だと発言していた。その他、茂木は、いまの入試のあり方・「偏差値」教育に、きわめて批判的だ。
 数学論は別として、現在の高校での(または私に記憶のあるような)日本史・世界史教育や大学入試での出題傾向を前提にすると、これらは「歴史」ではなく、ほとんどたんなる「事項記憶」力を鍛えるだけに終わっている。
 そもそも「歴史」が理解できるためには<ヒト・人間>を知っていなければならない(その意識・心理も含めて)。また、<社会>または人間相互の諸関係のありようを知っておかなければならず、土地や食料等の重要性、自然環境に影響され得ることも、知っていなければならない。
 しかし、現在の高校教育まででは、高校生以下は、これらを理解するにはあまりに幼なすぎる。人間や社会の「歴史」は、絶対にまだ「理解」できない。
 本郷和人が日本史が「暗記科目」になっていると嘆くのは当然のことで、そもそもまだ難しすぎるのだ。
 また、重要な「教養」として日本史・世界史の学修は必要なのだ、と本郷和人や山内昌之は主張するかもしれないが(そのような二人の対談書を読んだことがある)、歴史を学習して「教養」が身についても、それだけでは「今」に役立つという保障は全くない。つまり存在意味がない。
 極論すれば、<お飾り>だけの「教養」など、不要なのだ。
 歴史学ですらそう思えるので、その他の現在「文学部」に配置されている狭義の「文学」や「哲学」なるものの存在意義自体を、したがってまた、「哲学」や狭義の「文学」の研究者・学者の存在意義を、厳しく問わなければならない。
 再び、冒頭の古田の文章に戻る。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけない」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がない」。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1504/絶望は人を死に至らしめるか-例えば、レーニンの死。

 ○ 昨年2016年5月に一度、次の本の最後にある山内昌之「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」に言及した。
 D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(NHK出版、1995)。
 山内の文章をあらためて読むと、レーニンの死、あるいはその死因について、興味深い文章が並んでいる。
 長い引用は、避ける。つまるところ、精神(神経)と肉体の関係が語られている。
 例えば、心臓血管と大動脈の狭窄による「動脈硬化症だったと推定されている」が、「しかし、死を早めたのは」、レーニンがその「猛烈なストレスと過労に対して、身体に適応する準備ができていなかったことであろう」。p.381。
 これは、D・ヴォルコゴーノフの著の影響を受けての叙述なのかもしれない。
 ○ ロバート・サーヴィス(河合秀和訳)・レーニン/下(岩波、2002)はもちろんもっと長く、レーニンの死の問題を扱っている。
 そして、やはり「動脈の硬化」に原因を求める(p.256)。
 但し、レーニンの「名誉」を傷つけることとなるような死因ではないことも、強調している。
 この、岩波書店とR・サーヴィスという組み合わせの本に、他に以下がある。
 R・サーヴィス(中嶋毅訳)・ロシア革命/ヨーロッパ史入門(岩波、2005)
 これら二組の岩波+R・サーヴィスの本は、レーニンに対して「穏和」的、「宥恕」的であることに共通性がある。いずれまた、述べる。
 ○ マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇/上・下(草思社、1997)は、きわめて有益な本だと思われる。白須英子の和訳の上手さにも感心する。
 M・メイリア(Martin Malia)はリチャード・パイプスと同世代・同門で、パイプスとは異なると言いつつも(とくにロシア風土とレーニン・ボルシェヴィキとの関係)、ネップあたりの叙述は、基本的なところで、R・パイプスとよく似ている。
 シェイラ・フィツパトリック(Seila Fitzpatrick)とともに(R・サーヴィスとは違い)、反共産主義の意識が強いように見える。
 そのメイリアの<ネップ>に関する総括的叙述も知的刺激を十分に生じさせるもので、邦訳書が刊行されていなければ、手元にある原著を見ながら日本語に訳出してみたいほどだ。
 Martin Malia, The Soviet Tragedy, A History of Socialism in Russia, 1897-1991 (1994)
 邦訳書だと二巻ものになるが、1991年までを対象としつも、原著はR・パイプスの1930年頃までに関する二著の合計にはるかに及ばない。それでも、大判の一冊で、全てを含めて600頁ほどにはなる。
 すでに得ている知識によっても、レーニンは1921年の半ばあたりから体調不調を訴え始めており(1921年3月が第10回党大会)、翌1922年に最初の発作があって半年ほどモスクから離れてかつ戻ったのちに再度の発作、病床にいて<レーニンの遺書>の「物語」の材料を、または「最後の闘い」(日本共産党・不破哲三ら)の痕跡を残しつつ1924年1月に死ぬ。
 上記・メイリアの邦訳書に戻る。上巻のp.267あたりにこうある。
 「病床のレーニンは…こうした危機に絶えず怒りを感じていた。/
 なぜならば、彼は心のなかで、メンシェヴィキが正しかったのかもしれないと懐疑的になっていたにちがいないからである。/」
 レーニンの「肉体的な衰え」は暗殺未遂事件の際の二発の銃弾や「かんばしくない心臓病の遺伝」でもなく、
 「革命家としての失望が『体細胞に作用した』からだと推論する人がいてもおかしくない
」。
 秋月は医学あるいは精神医学の専門家でもちろんないが、精神(神経)と肉体が厳密なところでは分けられないようであることは知っている。
 レーニンについての「動脈硬化」の原因に種々のストレスがあるとすれば、そのストレスの原因に、つぎのこともあるのではなかろうか。
 すなわち、<内戦>をいちおう乗り切った後のロシアの(とくにその経済、そして農業の)疲弊ぶりに直面し、クロンシュタットの水兵暴乱は何とか「鎮圧」したが農民反乱がなお続き、1921年中には<飢饉>も発生しているという現実を意識しての、1917年10月の「革命」は何だったのか、自分は正しく共産党を指導してきたのか、このままで果たして<社会主義>が実現できるのか、という不安や失望・絶望。
 1921年10月の「革命」4周年演説で、<戦時共産主義>とのちに称される基本政策が失敗だったことを、レーニンは自ら認めていた。(*ちなみに、これは<戦時>のゆえではなく、政権奪取後の<共産主義という観念・教条の機械的適用>に、つまりは私的所有否定・国有財産化といった<共産主義>自体に、現実に対応できない、かつ人間の本性を無視した、理論・観念としての過ちがあった、というのが秋月の今の理解だ。)
 では、これからは、どうすればよいのか。1922-23年の段階で、「ネップマン」に見られるような<私的取引の自由>や<市場経済>の限定された復活はあったが、はたして、社会主義・共産主義へと「正しく」進めるのか? 自分の後継者はどうなるのか?
 レーニンに不安や失望・絶望感が襲っても、やむをえないような状況に「客観的には」あっただろう。
 したがって、「動脈硬化」が死因でよいが、強い失望・絶望もまた、死に至らしめた原因だったように思える。
 ○ 他にも例証は挙げられ得るだろう。例えば、戦地での恐怖と絶望、強制収容所での不安と絶望。これらは場合によっては人を自殺へと追い込むことがあるだろう。しかしまた、人の健康・肉体を精神的に(神経を通じて)確実に傷つけるに違いない。勿論、繰り返せば、失望・絶望は、自殺の直接の原因になりうる。
 もとに戻れば、レーニンという人間一人の死は、原因が何であれ、些細なものであるかもしれない。
 だがしかし、レーニンによって指導された党による権力奪取とその後の一党支配・独裁下で、さらにはそれを継承したスターリン体制のもとで、残虐に殺されていった、とりわけロシア・ソ連の多数の人々はいったいどうなるのだ。
 彼らは何のために人として生まれ、死んでいったのか。
 R・パイプスの著の表紙近くの「献辞」は、<犠牲者たちに捧げる>。
 日本人は、決して<共産主義>という過ちを犯してはいけない。

1476/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④02。

 ○ 小川榮太郞の文章を借りて、先に平川祐弘の天皇譲位問題見解を見たのだったが、今回は、平川の文章を直接にあらためて読んでみた。但し、以下に限る。
 ①有識者ヒアリング発言・2016/11/07-内閣府サイト。
 ②「何が天皇様の大切なお仕事か」月刊正論2017年1月号(産経)。
 -これは、①とほとんど異ならない。原稿のほぼ「横すべり」、あるいは「使い回し」だ。
 ③「誰が論点をすり替えたか」月刊Hanada2017年4月号(飛鳥新社)。
 日本の保守というものにいい加減ウンザリしてきた、とこの問題に限らないでいつぞや書いたが、本当にイヤになる。平川祐弘は「アホ」だ。限りなく「アホ」だ。
 <東京大学名誉教授>に対して失礼だなどと怒ってはいけない。
 あの上野千鶴子も、れっきとした<東京大学名誉教授>だ。世俗の肩書きとは関係がない。
 ○ 「このところ新聞では、憲法の文言によって専ら論ぜられ、法学部出身の皆様の解釈が前面に出ますが、それだけでよいのか」。①、他にも同旨あり。
 バカではないか。例えば、本郷和人は文学部出身、正面から平川批判をした小川榮太郎も文学部出身、池田信夫はブログ内で<保守>の譲位反対論を皮肉っていたが、経済学部出身。他にも、平川祐弘を嗤っている人々はたくさんいるに違いない。
 有識者会議のメンバーの出身学部を詳しくは知らないが、例えば山内昌之は文学部出身の<東京大学名誉教授>。山内は、平川祐弘と同様のことを主張するだろうか。
 今上陛下の<お言葉>のあとの世間の反応はあるが、「そもそも退位はあり得るのか。法律的に許されるのか、詳しいことはよく突き詰めて考えていないのが実情ではないでしょうか」。①の冒頭部分。
 これには苦笑してしまった。
 「詳しいこと」を「よく突き詰めて考えていない」のは、平川祐弘自身だろう。
 そうでないと、エドワード八世やら源氏物語とやらが、突如として登場してくるはずはない。
 櫻井よしこもそうだが、日本国民や雑誌読者(週刊新潮を含む)を、<観念保守>の人たちはバカにしているのではないか。とりわけ、せっかくの内閣総理大臣の諮問会議の<公的な>時間と経費を無駄にさせて、申し訳ないと感じるべきだろう。
 ○ 上の「退位はあり得るのか。法律的に許されるのか」、の他に、以下もある。
 今上陛下が「憲法にもない生前退位をしたいと示唆されたのはいかがなものか」。①
 今上陛下の「個人的なお気持ちを現行の法律より優先して良いことか」。①
 仲正昌樹が<精神論保守はダメだが、制度論保守ならいいかも>とか書いていた気分が、よく分かる。
 東京大学名誉教授や「比較文化史家」なるものの、頭の悪さまたは基礎的な法的素養のないことに唖然とする。
 上記のヒアリングに出席して発言する機会が付与されたのだから、憲法の関係条項や現皇室典範の退位・皇位承継関係条項くらいは見ておくのが、当然の姿勢なのではないだろうか。
 後世の、のちのちまで、平川祐弘の発言内容は、日本政府関係情報・電子データとして残っていく。他人事ながら、恥ずかしいことだ。
 さて、憲法に「生前退位」を肯定する規定はないが、それは憲法が生前譲位を否認していることを意味しない。
 「第2条/皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」。
 「国会の議決した皇室典範」の意味については立法技術にも関係する議論があり、かつすでに事実上は決着したようだ。 
 しかしともあれ、皇位継承については「国会の議決した皇室典範」に、つまりはほぼ間違いなく(憲法解釈として)法律の定めに委ねているのが、現憲法の規範内容だ。
 したがって、法律(これがどのようなものか、「典範」か特例法か等には立ち入らない)が憲法の範囲内であれば、いかようにも決しうる。ついでに、男系も女系も、憲法は「世襲」だとだけ定めて何も語っておらず、法律に委ねている。
 現憲法が終身在位を定めているなどと誤解しているとすれば、もちろん<大アホ>。
 「法律的に許されるのか」、「現行の法律より優先して良い」のかなどと問題提起しているのが、さすがに平川祐弘らしい。
 その法律あるいは「現行の法律」を改正すべきか否か、そして改正するとすればどのように改正すればよいのかが、まさしく問われていたのだ。
 ○ このように書いていて、さすがに阿呆らしくなってきた。
 <保守>の、ひょっとすれば多くの人たちは(秋月はその例外のつもりだが)、法律でもって、つまりは世俗の国会議員・両議院議長らや政党関係者がこの問題を扱う権限があると知って(気づいて)、驚天動地の思いだったのではないだろうか。
 長い間(これはある程度は私もだが)、この問題を等閑視してきたのが誤りだった、とも言える。
 ○ そもそもは、譲位問題の結論や帰趨よりも、私には<観念保守>の思考方法に関心があった。
 彼らのほとんどが、現実にある<規範>の意味を無視して、憲法と法律(さらには政令だとか条例だとか)の区別も知らないで議論していることがよく分かった。櫻井よしこにも、渡部昇一にも、その弊は十分にある。
 しかし、彼らの言述を知って気づく、もっと重要な問題は、<天皇の祭祀と宗教・神道>というテーマだろう。
 意識的にか、無知のゆえか、この憲法問題に、彼らは論及しない。簡単に 、憲法問題(国家と宗教の関係)があることを無視して、祭祀や「祈り」を語っている。
 あるいはまた、神道といちおう区別される<仏教>の存在を無視したままで、日本の歴史またはその伝統を語っている。仏教を「疎外」して神道を<国教>化したのは明治維新以降・戦前で、それが日本と天皇の歴史だと勘違いしてはいけない。
 <タブー>が、月刊Hanada編集部の花田紀凱にも、月刊WiLL編集部にも、月刊正論編集部にもあるように思われる。暗黙の前提、もしくは「隠されたイデオロギー」がおそらく存在している。
 こうした問題については、ずっと前に坂本多加雄が言及していたし、たぶん彼の言葉を知らないままに秋月瑛二もかつてこの欄で触れたことがある。
 櫻井よしこについてと同様になるので、別の回にする。

1407/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む②。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>

0994/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント2。

 中川八洋は刺激的な書物を多数刊行しているが、さすがに、全面的または基本的に支持する、とも言い難い。

 細かな紹介は省くが、中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の、例えばp.287の安倍晋三、大前研一、江口克彦、平山郁夫、山内昌之、川勝平太、中西輝政に対する罵倒または特定の党派性の決めつけは、詳しく具体的な根拠が示されているならばともかく、私がこれらの人々を基本的に信頼しているわけでは全くないにしても、にわかには信じ難い。

 つづくp.288には、安倍晋三が「マルキスト中西輝政をブレーンにしたのは、安部の思想軸に、(無意識にであれ)マルクス主義が根強く浸透しているから」だとの叙述もあるが、これに同感できるのはきわめて少数の者に限られるのではないか。もっとも、例えば、戦後<左翼>的「個人主義」・「自由主義」等々が(渡部昇一を含む)いわゆる<保守派>の面々に「無意識にであれ」浸透していないかどうかは、つねに自省・自己批判的克服が必要かと思われるが。

 より基本的な疑問は、中川の「保守主義」観にある。中川の、反共主義(・反極左・反フェミニズム等)、共産主義と闘争することこそ「保守」だとする議論には全面的と言っていいほど賛同する。そして、この点で曖昧さや弱さが日本の現在の<保守>にあるという指摘にも共感を覚えるところがある。この点は、のちにも具体的に論及していきたい。

 しかし、中川八洋の「保守主義」は、マルクス主義が外国産の思想(・イデオロギー)であるように、「英米」のバークやハミルトン等々を範とするやはり外国産のそれをモデルとしている。それを基準として日本の「保守」を論じるまたは批判するのは、自由ではあるものの、唯一の正しいまたは適切な立脚点だとはなおも思えない。

 日本には日本的な「保守主義」があってもよいのではないか。

 中川八洋によると、「保守主義の四哲人」はコーク→ハミルトン・バーク・ハイエクだ(p.310の図)。そして、レーガンはハミルトンとバークの、サッチャーはバークとハイエクの系譜上にある(同)。また、「八名の偉大な哲人や政治家」についても語り、コーク、バーク、ハミルトン、マンネルハイム、チャーチル、昭和天皇、レーガン、サッチャーの八人を挙げる(p.351)。

 昭和天皇は別として、中川の思考・思想の淵源が外国(英米)にあることは明らかであり、なぜ<英米の保守主義>を基礎または基準にしなければならないのかはじつは(私には)よく分からない。学ぶ必要はあるのは確かだろう。だが、中川のいう<英米の保守主義>をモデルにして日本で議論すべきことの不可避性は絶対的なものなのだろうか。

 外国人の名前を挙げてそれらに依拠することなく、中川八洋自身の独自の思想・考え方を展開することで十分ではないのか。その意味では明治期以来の<西洋かぶれ>の弊は中川にもあるように感じられる。

 また、以上と無関係でないだろうが、中川八洋が「保守」はつねに(必ず)「親米」で、「反米」は「(極左・)左翼」の特性だ、と断じる(p.361-2)のも、釈然としない。「親米」の意味の理解にもよるのかもしれないが、<保守>としても(論者によっては<保守>だからこそ?)「反米」的主張をせざるをえないこともあるのではあるまいか。

 このあたりは小泉構造改革の評価にも関連して、じつは現在のいわゆる<保守派>でも曖昧なところがある。また、「反米」よりも<反共>をこそ優先させるべきことは、中川八洋の主張のとおりだが。

 以上のような疑問はあるが、しかし、日本の<保守派>とされる論客、<保守派>とされる新聞や雑誌等は、中川八洋の議論・指摘をもう少しきちんととり上げて、批判を含む議論の俎上に乗せるべきだろう。さもないと、似たようなことをステレオタイプ的に言う、あるいはこう言っておけば(閉鎖的な日本の)<保守>論壇では安心だ、との風潮が、いっそう蔓延しそうに見える(かかる雰囲気があると私には感じられる)。

 中川八洋の主張・指摘の中には貴重な「玉」も多く含まれていて、「石」ばかりではないと思われる。<保守>派だと自認する者たちは、中川八洋とも真摯に向かい合うべきだろう。

0873/山内昌之・歴史の作法(文春新書、2003)中の「アカデミズム」。

 山内昌之・歴史の作法-人間・社会・国家(文春新書、2003)を何となく捲っていると、面白い叙述に出くわした。
 「一般(純粋)歴史学」・<歴史学者>の存在意義にかかわるような文章だが、社会・人文系の<学>・<学者(研究者)>にも一般にあてはまりそうだ。
 「アカデミズムとは、職人的な『掘鑿』に頼りながら『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信をもたせる制度といえるかもしれません。『権力』の場とは別に『権威』の場ができたわけです。反『権力』を自負する学者たちが専門家としての『権威』を自明のものとし、自分たちの閉ざされた世界で『権力』を誇示する現状に無自覚なのは、あまりにもアカデミズムの環境にどっぷりと浸っているからでしょう。/…によれば、『専門家』であることは『公平』であるという事実を意味せず『仕事に対して報酬を受けている』だけの事実を意味するとのことです」(p.164-5)。
 アカデミズムとは耳慣れない言葉だが、要するに、<学問・学者の世界>またはそれを<世俗(俗世間)>よりも貴重で、超然として優越したものとする考え方(「主義」)もしくはそのような考え方にもとづく「制度」を指すものと思われる。
 そのような<アカデミズム>からの「人びとや社会」に対する影響力は、かつてと比べると格段に落ちているだろう。だが、それにもかかわらず、上に使われている表現を借りれば、「『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信」をもっている学者・研究者(要するに、大学教授たち。但し、社会・人文系を念頭に置いている)はなおも多いのではないか。
 また、閉ざされた<アカデミズム>内部での「権威」が「権力」をもちうることは、教育学の分野に関する竹内洋の(生々しい?)叙述でも明らかだろうと思われるが、その「権威」・「権力」は必ずしも一般社会(俗世間)の、または<客観的>な評価にもとづくわけではないことを知らず、その「権威」・「権力」的なものに(無意識にではあれ)追従し、依存して生きて(学問研究なるものをして)いる学者・研究者も少なくはないと思われる。
 やはり指摘しておくべき第一は、日本の<アカデミズム>(社会・人文系)内部での「権威」・「権力」は(現在でもなお)コミュニズム・マルクス主義または親コミュニズム・親マルクス主義、あるいは少なくとも反コミュニズム・反マルクス主義=<反共>ではないという意味で「左翼的」な彩りをもっていることが多いと想定されることで、意識的・自覚的にではなくとも、学界内部に入った者は自然に少なくとも「左翼的」になってしまうという仕組み・制度があるのではないか、ということだろう。
 そして、そのような「左翼的」学者・研究者(大学教授たち)によって教育され指導を受けた少なくない者たちが例えば高校・中学等の教師になり、官僚になり、マスメディア等へと輩出されてきている、ということに思いを馳せる必要があろう。
 現在の民主党政権の誕生とその後の愚劣さ(または現実感覚から奇妙に遊離していること)は、戦後のそのような「左翼的」学問・研究にもとづく教育の<なれの果て>でもあるように考えられる。
 第二に、かつてほどの影響力はなくとも、マスメディアあるいは政治の世界は何らかの目的をもって「学者・研究者(大学教授たち)」を利用しようとすることがあり、現にそうしている。そして、上に書かれている(または示唆されている)ように、「学者・研究者(大学教授たち)」・「専門家」たちの発言・コメント類は決して「公平」でも「中立的」でもない、ということだ。言うまでもなく、朝日新聞に多用されているような<識者コメント>は信頼できない。そうでなくとも、大学教授・何らかの専門家(社会系・人文系)というだけで社会的な権威があるものと見なしてはいけない。
 以上のとくに第二は、当たり前のことを書いてしまったようだ。

0870/山内昌之・歴史の中の未来(新潮選書、2008)。

 山内昌之・歴史の中の未来(新潮選書、2008)は、著者の各種書評類をまとめたもの。
 新聞や週刊誌等の書評欄という性格にもよるのか、批判的コメント、辛口の言及がないことが特徴の一つのように読める。

 1.寺島実郎・二〇世紀から何を学ぶか(新潮選書、2007)は民主党のブレインとも言われる寺島の本だが、好意的・肯定的に紹介している(p.63-64)。これを私は読んでいないし、寺島の別の本に感心したこともあったので、まぁよいとしよう。

 2.関川夏央・「坂の上の雲」と日本人(文藝春秋、2006)については、「楽天的な評論」と形容し、「プロの歴史家たる者」は関川の「司馬ワールドの解析」を「余裕をもって」眺めればよいと書いて、おそらくは「プロの歴史家」の立場からすると疑問視できる叙述もある旨を皮肉含みで示唆している。だが、全体としては好意的な評価で抑えており、これもまぁよいとしよう。
 3.だが、中島岳志・パール判事(白水社、2007)について、この書の基本的趣旨らしきものを全面的に肯定しているように読めるが(p.180-1)、小林よしのりの影響によるかもしれないが、この評価はいかがなものだろう、と感じる。いずれ、所持だけはしている中島著を読む必要があるとあらためて感じた(こんな短い、字数の少ない、研究書とはいえないイメージの本でよく「賞」が取れたなという印象なのだが)。

 4.渡邉恒雄=若宮啓文・「靖国」と小泉首相(朝日新聞社、2006)の書評部分には驚いた。

 山内昌之自身の言葉で、次のように書く。
 「…分祀は不可能と断定し日本の政治・外交を混迷させる現在の靖国神社の姿には、大きな疑問を感じざるをえない」(p.182)。

 以下もすべて、山内昌之自身の考えを示す文章だ。

 靖国神社に「戦争の責任者(A級戦犯)と戦死した将兵が一緒に祀られている。これは奇妙な現象というほかない。…兵士を特攻や玉砕に追いやったA級戦犯の軍人や政治家に責任がないというなら、誰が開戦や敗戦の責任をとるというのだろうか」。
 小泉首相の靖国参拝は「近隣諸国から抗議を受けるから」ではなく「日本人による歴史の総括やけじめにかかわるからこそ問題」なのだ(p.182)。

 このような自身の考え方から、渡邉恒雄と若宮啓文の二人の主張・見解を好意的・肯定的に引用または紹介している。

 山内は<神道はもっと大らかに>との旨の若宮啓文の発言に神道関係者はもっと耳を傾注してよいとし、二人の「新しい国立追悼施設施設」建設案を、批判することなく紹介する(p.182)。さらには次のようにすら書く。

 「良質なジャーナリズムの議論として、日本の進路とアジア外交の近未来を危惧する人に読んでほしい書物」だ(p.183)。

 何と、渡邉恒雄と若宮啓文の二人が「良質なジャーナリズムの議論」をしていると評価している。

 前者はうさん臭いし、後者は日本のナショナリズムには反対し、中国や韓国のナショナリズムには目をつぶる(又はむしろ煽る)典型的な日本の戦後「左翼」活動家だろう。

 この書評は毎日新聞(2006.04.23)に掲載されたもののようだ。まさか毎日新聞社と読売・朝日新聞におもねったわけではないだろう、と思いたいが。

 また、そもそも、「A級戦犯の軍人や政治家に責任がないというなら、誰が開戦や敗戦の責任をとるというのだろうか」との言葉は、いったい何を言いたいのだろうか。

 第一に、山内昌之も知るとおり、東京裁判が「日本人による歴史の総括やけじめ」ではない。A級戦犯を指定したのは旧連合国、とくに米国だ。かつ、とくに死刑判決を受けた7名の選択と指定が適切だったという保障はどこにもない。山内昌之は「戦争指導」者は「A級戦犯」死刑者7名、またはA級戦犯として処罰された者(のちに大臣になった者が2名いる)に限られ、それ以外にはいないと理解しているのだろうか。かりにそうならば、東京裁判法廷の考え方をなぜそのまま支持するのかを説明する義務があろう。

 そうではなくもっと多数いるというならば、山内がいう「開戦や敗戦の責任」をとるべき「戦争指導」者の範囲は、山内においてどういう基準で決せられるのだろうか。その基準と具体的適用結果としての特定の人名を列挙していただきたいものだ。
 これは日本国内での戦争<加害者>と<被害者>(山内によると一般「兵士」はこちらに属するらしい)の区別の問題でもある。両者は簡単にあるいは明瞭に区別できるのだろうか? 朝日新聞社等の当時のマスコミには山内のいう「責任」はあるのか、ないのか?、と問うてみたい。また、<日本軍国主義>と<一般国民>とを区別する某国共産党の論と似ているようでもあるが、某国共産党の議論を山内は支持しているのだろうか?

 第二に、「A級戦犯」とされた者は「開戦や敗戦の責任」を東京裁判において問われたのか? この点も問題だが、かりにそうだとすると、「A級戦犯」全員について、とくに絞首刑を受けた7名について、各人が「開戦」と「敗戦」のそれぞれについてどのような「責任」を負うべきなのか、を明らかにすべきだ。「開戦」と「敗戦」とを分けて、丁寧に説明していただきたい。

 新聞紙上で公にし、書物で再度活字にした文章を書いた者として、その程度の人格的(学者・文筆人としての)<責務>があるだろう。

 第三に、山内昌之は「責任」という言葉・概念をいかなる意味で用いているのか? 何の説明もなく、先の戦争にかかわってこの語を安易に用いるべきではあるまい。

 ともあれ、山内昌之は「靖国神社A級戦犯合祀」(そして首相の靖国参拝)に反対していることはほとんど明らかで、どうやら「新しい国立追悼施設施設」建設に賛成のようだ。

 5.山内昌之といえば、昨年あたりから、産経新聞紙上でよく名前を目にする。

 産経新聞紙上にとくに連載ものの文章を掲載するということは周囲に対して(および一般読者に)一定の政治信条的傾向・立場に立つことを明らかにすることになる可能性が高く、その意味では<勇気>のある行動でもある。

 だが、上のような文章を読むと、確固たる<保守>論客では全くないようで、各紙・各誌を渡り歩いて売文し知識を披露している、ごくふつうの学者のように(も)思えてきた。

 1947年生まれだと今年度あたりで東京大学を定年退職。そのような時期に接近したので(=学界でイヤがらせを受けない立場になりそうだから)、安心して(?)産経新聞にも原稿を寄せているのではないか、との皮肉も書きたくなる。

0858/週刊現代4/10号の山内・立花の対談と青木理の「歪狭」な論。

 週刊現代4/10号(講談社)。表紙に「小沢は害毒である」、「何をしてんだか、民主党。」とあって、前号よりも<反民主党>的だ。
 表紙の前者と「ソ連共産党と化した民主党政権。この国はいま危ういところにいる」を見出しにつけた、立花隆=山内昌之の対談がある(p.36以下)。
 ソ連共産党うんぬんは、山内昌之の次の発言から取っているようだ。
 思い浮かぶのは「ソ連共産党」。「民主集中制のソ連共産党、つまりボリシェビキ最大の特徴は、書記長に全権が集中するシステム…」。「スターリンの権限が集中した書記局のアパラチキ(機関員)が、歯車のように決定をふりかざして…新参ボリシェビキを完全支配する」。これが「スターリン支配政治体制を成立させる土壌」にもなった。民主党幹事長室・周辺議員は「民主党を変質させるアパラチキのように見えて仕方がない」(p.39)。
 民主党の権力構造、そして国家全体の政治構造が一党独裁の「社会主義」国に似ているところがあるのは、私もかつて指摘したとおり。だが、本当の「民主集中性」・「共産党一党独裁」は今の民主党のような程度ではないことも言うまでもないだろう。前原や枝野はまだ小沢批判的な発言を公にできている。本当の「社会主義」だと、かつてのソ連共産党だと、そんな自由はなく、前原らは地位を失うか、<粛清(流刑または殺戮)>されている。
 この対談で立花隆は、「民主党が官僚をうまく使わないことが国家を危うくしている」(p.41)、「政治家主導のお題目は唱えるが、官僚を主導できるだけの政治家が少なすぎる…」、「司を動かせば官僚機構は動くのに、事務次官なんかいらないみたいなことを言うから…国家機構全体が糸が切れたタコ状態になっている」、「財政破綻もひどいが、官僚無視による国家のシステム破壊、アイデンティティ破綻の方がずっとずっとひどい」(p.42)と、まともなことを言っている。<護憲・左翼>の立花隆にしてすでにそうだ。
 国家基本問題研究所理事・屋山太郎は、<官僚主導>か<議会制民主主義>かなどを先の総選挙の最大の争点に見立てて、民主党を応援し、その政権誕生を歓迎し、何度でも書くが、<大衆は賢明な選択をした>とまでのたまった。
 2010年4月時点でもそう思っているのかどうか、どこかで書いてほしいものだ。なおも<政治家主導>第一主義は正しいと考えているならば、上記の理事はやめた方がよい。あるいは、櫻井よしこらは屋山を理事から<解任>すべきだ。
 対談は全体としては、山内昌之のペースで、こちらの口数の方が多い。ほとんどかつての蓄積にのっかっただけの立花隆の老いをやはりある程度は感じる。
 そういう週刊現代だが、4/03・4/10号によると、魚住昭、森功、岩瀬達哉、青木理によるリレー連載欄があり、日垣隆の連載があり、斎藤美奈子が登場し、井筒和幸の映画批評があったりで、明確な<左翼>な分子を含む売文業者等をたくさん抱えているのが分かる。
 4/10号で、青木理は、高校授業料無償化に関する「朝鮮学校外し」を、次のように批判している。
 「酷い感情論だ。いや、…社会が最低限守るべき理念を根本から腐らせる、単なるレイシズムではないのか」、「これほどに歪狭な愚論がもっともらしく語られてしまう日本のムードも、酷い憂鬱を禁じ得ない」(p.61)。
 何とも「酷い」、凝固した「左翼」が、こんな<感情論>をそのまま活字にできる<日本のムード>に「酷い憂鬱を禁じ得ない」。
 週刊現代・講談社の編集部の心底を見た思いもする。<反民主党>で今は売れる、と全体としては判断しているのだろう。しかし、青木理のような文章もちゃんと載せておく、ということを忘れない。
 青木理は「現在、国公立大学のほとんどが朝鮮学校出身者の受験資格を認めている」ことを根拠の一つとしている。
 だが、このこと自体に問題があることを想像はしないのだろうか。国公立大学(私立も基本的には同様だが)の受験・入学資格は基本的・原則的に日本の高校卒業者(・予定者)に限られる。おそらくは<その他、日本の高校卒業と同等程度の学力をもつと認められる者>という例外があり、これをタテにとった朝鮮(高級)学校側の運動と圧力(?)によって、個別的にではなく概括的に、朝鮮(高級)学校卒業(・予定)者の受験資格を認めてきているのだろう。ここには、面倒なことは避けたい、とか、あるいはひょっとして北朝鮮に「寛大」な措置をして「友好」的・「進歩」的に見られたいとかの、日本の国公立大学の弱さ・甘さが看取されるように思われる。
 彼ら朝鮮(高級)学校卒業(・予定)者はいわゆる<大検>に合格しているわけではない。とすると、本当は事前に個別に試験をして、受験資格があるかどうかを見極める必要があると思われる。しかるに、「朝鮮学校出身」というだけで例外的な受験資格を認めていることの方こそが本当は問題にされてよいように思われる。
 下らないことを書く「左翼」分子に、講談社は原稿料(これはひいては読者・購入者も負担する)を支払うな、と言いたい。 

0856/日本共産党のソ連はスターリンから道を外したとの主張の滑稽さ・再言。

 一 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)のトロツキーの著の項にはスターリンへの言及はあるが、レーニンとスターリンとの関係、正確には両者間の同質性または断絶性には、トロツキーも山内も触れていないようだ。
 二 すでに別の文献も使って書いたことだが、日本共産党はレーニンまでは正しかったが、ソ連はスターリンから<社会主義への道>を踏みはずした、社会主義国または社会主義を目指す国ではなくなった、という見解に立っている。
 不破哲三・日本共産党と中国共産党の新しい関係(新日本出版社、1998)は、北京での1998年7月20日の不破と胡錦濤(当時、政治局常務委員)の会談内容、翌7月21日の不破と江沢民(総書記)の会談内容を資料として含めており、不破の発言は正確にそのまま掲載しているようだ。
 二回の会談内容に(当然ながら)大きな違いはない。不破が江沢民との会談で中国共産党側に述べているのは次のようなことだ。適当に抜粋して言及する。
 「日中関係五原則」なるものを提起している。その第一は「日本は、過去の侵略戦争についてきびしく反省する」。第二は「一つの中国」の立場を「堅持する」。以下は略。
 現在の日本を覆っている対中<贖罪意識>の醸成に、日本共産党も大きくかかわっている。上を含む「五原則」を胡錦濤は「積極的に受けとめ」た、という(p.108)。
 江沢民も自らの言葉として「日本軍国主義の中国への侵略戦争」なる表現を用い、「歴史の問題にいかに正しく対処するか」、これを「うまく処理できれば健全な関係を発展させられる」と日本人には強調してきていると述べ、「中国人民が特別に警戒していることの一つは日本軍国主義の教訓が日本国内ではまだ明確にされていないことです」と明言している(p.119-120)。
 いわゆる村山談話以後でも、江沢民はこのように言っていた。日本人の(言論の)100%が屈しないと気が済まないのだろうか。このような現中国共産党の主張・路線に沿った主張・見解をもっているマスメディア、政治家が(そして何となくそう思っている国民が)日本では多数派を形成している、と思われる。(根源は米国の初期占領方針だが、その後の)中国の策略は功を奏しているだろう。
 三 不破はソ連問題につき、対胡錦濤では自ら積極的に、対江沢民では江沢民の「世界の共産主義運動の問題」の質問に答えて、以下のように述べている(p.131-対江沢民)。
 ・ソ連崩壊のとき「この社会はいったい何だったのか」を研究した。「ソ連覇権主義が社会主義とは無縁」だと「早くから指摘して」きたが、「ソ連の国内体制についても…社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会だった」というのが研究の「結論でした」。
 ・「レーニン時代のソ連と、スターリン以後のソ連とを、厳密に区別する立場」だ。「スターリン以後のソ連は、社会主義に向かうレールから、完全に脱線」した。
 ・ソ連共産党解体のとき、1992年12月に「国際的声明」を出し、①「ソ連をモデルとする考え」から脱却する必要、②「自主独立の立場」、③「資本主義万歳」論の影響を「克服」する必要、を説いた。
 この欄で既述のことだし、よく知られていることだが、国際共産党日本支部としての日本共産党はソ連共産党の指導権がすでにスターリンにあった1922年に設立され、その後もその綱領・政策等について、ソ連共産党を中心とするコミンテルンやコミンフォルムの影響を強く受けてきた。
 かつてはスターリンを具体的にはひとことも批判しておかないで、少なくとも1960年直前まではむしろその従属下にありながら、ソ連共産党とソ連が解体・崩壊するや、スターリンから道を外した、と主張するとは、正気の沙汰だろうか。日本共産党の幹部たちがまともな神経の持ち主だとは思えない。
 だが、さすがに<自主独立>の党だなどと思って、党中央の言い分を<信頼>し、なおも「正しい」社会主義(・共産主義)への展望を持って活動している日本共産党員もいるのだろう。一度しかない人生なのに、まことに気の毒としか言いようがない。
 だがしかし、日本共産党の存在は、日本共産党のような<組織的左翼>・<頑固な左翼>ではなく、自分は<リベラル>で<自由な>「左翼」だと自己規定して民主党または社民党を支持する(=これらに投票する)かなりの層の存在と形成に役立っていると見られる。<共産党ほど偏った左ではない>という言い訳みたいなものを共産党員や共産党シンパではないその他の「左翼」(<何となく左翼>を含む)に与えて、安心させる?存在に日本共産党はなっている、と考えられる。
 その意味で、日本共産党自身の影響力もまだ無視できないが、広い「左翼」の中で果たしているこの政党の役割こそがむしろ深刻視されなければならないようだ。
 四 江沢民は「共産主義」、「マルクス主義」という言葉を使っている(前者はもともとは日本での造語・訳語の借用かもしれない)。不破は後者を「科学的社会主義」と言い換えているが(言い換えても本質は同じ)、「共産主義」はそのまま用いていて、「共産主義」や「社会主義」を肯定的に理解している。
 日本共産党は<自由と民主主義>の党を標榜していても、「共産主義運動」を日本で行なっていることを当時の中央委員会幹部会委員長・不破哲三は江沢民に対して何ら否定していない。「革命と社会主義の理想」(p.132)を明確に語っているのだ。
 書くのも面倒くさいが、<民主主義と自由>の擁護者、という仮の姿に、騙されてはいけない。また、彼らのいう「民主主義」等とは「社会主義」(・共産主義)と少なくとも当面は矛盾しないことに留意すべきだ。社会主義国・東ドイツは「ドイツ民主共和国」だった、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」だ。彼らのいう「民主主義」は徹底すると「社会主義」(・共産主義)につながる。「民主主義」は「全体主義」の萌芽をも簡単に形成することは、フランス革命期のジャコバン独裁(・テロル)でも明らかなことだ……。
 以上、散漫さなきにしもあらず。

0855/山内昌之・歴史学の名著30におけるレーニン・トロツキーとジャコバン・ルソー・ヘーゲル。

 一 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、「作品の歴史性そのもの」、「存在感や意義」を考えて、ロシア革命についてはトロツキーを選び、E・H・カーを捨てた、という。
 トロツキー・ロシア革命史(1931)を私は(もちろん)読んでいない。トロツキストの嫌いな日本共産党とその党員にとってはトロツキーの本というだけで<禁書>なのだろうが、そういう理由によるのではない。
 山内の内容紹介にいちいち言及しない。目に止まったのは、次の部分だ。
 山内はトロツキーによる評価・総括を(少なくとも全面的には)支持しておらず、トロツキーが「革命が国の文化の衰退を招いた」との言説に反発するのは賛成できない、とする。いささか理解しにくい文章だが、結局山内は「革命が国の文化の衰退を招いた」という見方を支持していることになろう。推測を混ぜれば、トロツキーはかつての(革命前の)ロシアの文化など大したものではなかった、と考えていたのだろう。
 そのあとに、山内の次の一文が続く。
 革命によって打倒された「文化が、西欧の高度の模範を皮相に模倣した『貴族文化』にすぎないとすれば、ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想を含めた西欧文化は行き場所がなくなってしまう」(p.206)。
 これも分かり易い文章ではないが(文章が下手だと批判しているのではない)、一つは、革命前のロシアも「西欧文化」を引き継いでいたこと、二つは、その「西欧文化」の中には「ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想」が含まれていること、を少なくとも述べているだろう。
 興味深いのは上の第二点で、山内は、「トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたち」は「ヘーゲルやルソーなど」に負っている(を依拠している、継承している)として、まずは、「トロツキーやレーニンら」を「ジャコバンたち」、つまりフランス革命のジャコバン独裁期のロベスピエールらと同一視または類似視している。
 そして、つぎに、そのような「トロツキーやレーニンら」の源泉・淵源あるいは先輩には「ヘーゲルやルソーなど」がいる、ということを前提として記している。ルソーがいてこそマルクス(そしてレーニン)もあるのだ。
 短い文章の中のものだが、上の二点ともに、私の理解してきたことと同じで、山内昌之という人は、イスラム関係が専門で、ロシア革命やフランス革命、あるいはこれらを含む欧州史・西欧思想の専門家ではないにもかかわらず、よく勉強している、博学の、かつ鋭い人物に違いない、と感じている。
 山内は1947年生まれ。「団塊」世代だ。岩波書店からも書物を刊行しているが、コミュニスト、親コミュニズムの「左翼」学者ではない、と思われる。そして他大学から東京大学に招聘されたようで、東京大学も全体として<左翼>に染まっているわけではないらしい。
 但し、東京大学の文学部(文学研究科)でも法学部(法学研究科)でもなく、大学院「総合文化研究科」の教授。さすがに東京大学は、「歴史学」の<牙城>であるはずの文学研究科の「史学(歴史学)」の講座または科目はこの人に用意しなかったようだ。

0853/山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書)を機縁に皇位継承問題にほんの少し触れる。

 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は「付録」を含めて32のうちに15の和書・漢書を挙げていて、欧米中心でないことにまずは好感をもつ。コミュニスト又は親コミニズムの学者ならば当然に鎮座させるだろう、マルクス=エンゲルス・空想から科学へ、などのマルクス主義文献がないようであることも興味深い(但し、トロツキー・ロシア革命史を挙げているが、山内がマルクス主義者またはトロツキストではないことはすぐ分かる)。
 挙げられる一つに、北畠親房・神皇正統記(14世紀)がある。
 山内昌之によると、この書は「皇室男系相続の将来性がかまびすしく議論される」現在において「改めて読まれるべき古典としての価値」がある、という(p.115)。
 この書を私は(もちろん)未読で、後醍醐天皇・南朝側に立ってその正当性を論じたものくらいの知識しかなかった。だが、山内によると、後醍醐天皇の「新政」の失敗の原因を批判的・反省的に述べてもいるらしい。つまりは、南朝・後醍醐天皇の正当性が「血」にあるとかりにしても、「御運」のよしあし(p.114)はそれだけでは決まらない、ということをも述べているらしい。
 今日の皇位継承に関する議論に関係させた山内の叙述はないが、示唆的な書ではあるようだ。
 <血>なのか、「結果責任」(p.114)を生じさせうる<徳>または<人格>なのか。
 道鏡に譲位しようとして和気清麻呂による御神託によって阻まれた称徳天皇(48代。46代・孝謙の重祚)の例があり、そして皇位は天武天皇の血を引かない天智天皇系の光仁天皇(桓武天皇の父)に移ったという歴史的経緯を振り返っても、やはり基礎的には「血」なのだろう。皇室と血縁のない道鏡への「王朝交代」は許されなかったのだ(なお、天皇・皇后陛下が最近ご訪問された京都のいわゆる「御寺」・泉涌寺に祀られている諸天皇の位牌の中には、称徳・聖武等の天武系の天皇のものはないらしい)。
 少なくとも継体天皇以降は、どの血縁者かについては議論や争いがあったこともあったが、「血」縁者であることが条件になること自体は、結果としては疑われなかった、と言えよう。
 だが、北畠親房すらもかつて少なくとも示唆していたようだが、正当とされる天皇およびひいては皇族のすべてが「有徳」者・「人格」者であったわけではない。「お考え」あるいは諸政策がつねに適切だったわけではない。
 また、かりに「有徳」者・「人格」者だったとしても、ときの世俗的権力者(またはそれを奪おうとする者)によって少なくとも実質的には殺害されたと見られる天皇もいた。崇峻天皇、安徳天皇だ。
 皇位は、純粋に天皇・皇族の内部で決せられたのでは必ずしもなく、また天皇・皇族は純粋に俗世間とは無関係に生活しそれらの地位が相続されてきたのではなく、時代、あるいはときどきの世俗権力者・政治の影響を受けながら、ある意味では「流動」しつつ、長々と今日まで続いてきた、と言えよう。そのような<天皇>位をもつ国家が、世界で唯一か稀少であるという、日本の(文化・政治の)独自性を維持しようとすることに、小林よしのりと見解の違いはない、と思われる。
 だが、前回までに書いたのは、要するに、皇位(天皇)および皇位継承者を含むはずの皇族にとって、「血」と「徳」のどちらが大切なのか、小林よしのりにおいてその点が曖昧であるか、または矛盾した叙述があるのではないか、ということだ。

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