秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

小島新一

1567/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究①。

 「研究」というのは、おこがましい。感想、コメント程度を書く。
 今はやりの「日本会議」研究本?は、<民主主義対ファシズム>程度の感覚の単一層・単一面の素朴で単純な意識によるものが多いと見られ、どの程度に総合的で客観的な叙述になっているかは、相当に疑問だ(しかし、日本共産党中央からの「指令」にもとづいているものも間違いなくあると見られる)。
 「日本会議」自体を扱うつもりはないし、椛島有三「個人」を「研究」するのでもない。
 櫻井よしこの悲惨・悲痛の原因をつきとめてみたい、という気持ちが強い。
 きっと、「日本会議」事務総長の方の著書ならば、ヒントがあるだろう。
 少し迂回する。
 月刊正論(産経)の三年前の三冊の背表紙には、こう、目立つように書かれていた。この当時の「編集人」は、小島新一
 2014年4月号/激化する歴史戦争に立ち向かえ。
 2014年5月号/慰安婦・歴史戦争、我らの反撃。
 2014年6月号/歴史戦争、勝利への橋頭堡。
 名もなき多くの日本の<保守的>読者が、熱心に読んで頷き、心強く感じていたかもしれない。
 あれれ? しかし、この「歴史戦争」はいま、いったいどうなったのか?
 続いているのか、どのように続いているのか。それとも、勝ったのか、負けたのか?
 月刊正論編集部は「編集代表」・編集部が交替したなどと言わずに教えてほしいものだ(いや、この当時の編集部にちゃんと「菅原慎太郎」の名もある)。
 あるいはたかが月刊雑誌編集部では適切にな判断ができないなら、よく知らないが、産経新聞内の月刊正論等の雑誌統括部局の長、あるいは産経新聞社の社長でもよい、きちんと答えていただきたいものだ。
 それとも、上に書いたのは眼が悪くなった私の幻影なのか?
 そんなことはない。ちゃんと、書かれている。
 真面目に上のように月刊正論の背表紙に書いたのだから、それなりの意思・気持ちがあったのだろう。
 その後は、いったいどうなったのか? その年の夏に朝日新聞社が大騒ぎして、月刊正論も勝ち誇っているように見えたが、あれはいったい何だったのだろうか?。あれも幻像だったのか、はて?
 かつての一読者あるいは国民として、このような疑問を持って、当然なのではないか。
 このような疑問を発する「権利」が、我々にはあるのではないか。
 奇妙なことは、月刊正論(産経)にもよく登場する、同編集部が別冊<一冊まるごと…>をすら発行したらしい、櫻井よしこについてもある。
 立ち入らない。櫻井よしこの、時期の異なるつぎの三つの文章をきちんと比べて読んで見れば、この人の最初の感覚とその後の<ひどい(悲痛な)詭弁>がよく分かる。安倍内閣戦後70年談話についてだ。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2015年8/27号=同ウェブサイトにあり。
 ②櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)p.192の「追記」。
 ③櫻井よしこ「安倍総理は…」月刊Hanada2017年7月号(飛鳥新社、発行人・編集長/花田紀凱)p.38~p.39。
 さて、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この2007年4月というのが、どういう時期だったかは別に触れるだろう。
 1997年5月30日が「日本会議」設立宣言日なので、事務総長としてほぼ10年経ったあとの書物になる。
 本人の「あとがき」を除くと第5章までと「補論」がある。タイトルは、つぎのとおり。
 第1章・昭和天皇のご見解-大東亜戦争の原因について。
 第2章・アメリカのアジア戦略について-アメリカのアジア戦略の原点は満州獲得だった。
 第3章・満州事変の背景-米ソによるアジアのヤルタ体制の第一歩は満州で始まった。
 第4章・アジアにおけるヤルタ体制の誕生-米ソがもたらした志那事変の勃発と泥沼化。
 第5章・大東亜戦争の真相に迫る-すでに戦争は始まっていた。
 補論・朝鮮戦争を通じ初めて日本の立場を理解した米国。
 全行にわたって熟読したわけではないが、対象・内容はおよそ満州事変以降の「大東亜戦争」で、この時期の日本国家の立場を擁護し、主としてアメリカを批判していることが明らかだ。つぎのような「節名」もある。
 「国際的に認められ、正当性をもった日本の中国大陸における権益」。p.46。
 「満州事変はなぜ起こったか-①日本人居留民の被害、②絶対絶命のなかで起きた満州事変」p.80。
 「日本は自衛戦争を戦った」p.117。
 「アメリカによる徹底した日本の封じ込め」p.172。
 「生存をかけた日本の戦い」p.181。
 重大な関心事は、このような内容の書物を「日本会議」事務総長名を明らかにして刊行していた椛島有三は、2015年夏の安倍内閣戦後70年談話における「満州事変」以降の日本に関する叙述を、どのように聞いたか、だ。
 安倍談話は必ずしも明瞭ではないところはあるが、根本趣旨を理解できないような日本語文ではない。また、1995年村山談話と同様に、内閣としての<政治文書・政治談話>であることは、あえて記すほどのことではない。これを「学究的、研究論文」ではないからよいなどと論評するのは(櫻井よしこ)、一部の厚顔無恥の、悲惨な「頭内」状態の人に限られるだろう。
 明らかに、椛島有三の歴史認識又は歴史叙述と安倍内閣の2015夏時点での歴史認識・歴史叙述は異なっている。かりに100%とはいわなくとも、きっと75%くらいは異なっている。
 椛島有三は、この談話に対して、どう反応したのだろうか。
 椛島有三は補論でジョージ・ケナン(George F. Kennan)等の言を持ち出して、朝鮮戦争を通じてアメリカは、かつての敵国までもが、かつての「日本の立場」を分かってくれた、と書いているが、その「日本の立場」を、安倍内閣戦後70年談話は、きちんと述べたのだろうか。
 そうでないとすれば、椛島有三は安倍談話を批判して当然だった。
 「日本会議」は、2017年夏の安倍内閣戦後70年談話について、どういう公式態度を表明したのだったのだろうか。よく知らない。少しは、調べてはみる。
 つづく。

1361/渡部昇一批判3-<東京裁判史観>批判をしない「保守」。

 一 渡部昇一「『安倍談話』は百点満点だ!」月刊WiLL2015年10月号p.32-というものがあり、このタイトルは目次にも、雑誌表紙にも、さらには背表紙にも大きく謳われている。
 別の雑誌のものであるはずだが、月刊正論「メディア裏通信簿」欄に「編集者」として登場する人物は、同2015年11月号の「19」回で、つぎのように渡部昇一をおそらくは「擁護」している、または「庇って」いる。
 「渡部先生の文章には『百点満点』という表現はなく、『首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう』と書かれているだけです。…現状では、首相の立場で出せる談話としては最高だ、と評価されたということでしょう」。
 そして、「弊誌正論10月号にも違う観点から論考をいただきましたが、やはり談話は高く評価されました」と続く。以上、月刊正論2015年11月号p.408-9。
 この「編集者」と月刊正論の実際の編集人・小島新一や同編集部とどう関係しているのか正確には分からないが、ふつうの読み方としては、同一またはほとんど同一であり、月刊正論編集部(・編集人小島)もまた、渡部昇一と同じく安倍「戦後70年談話」を「高く」評価しているのだろう。
 そしてまた、伊藤隆=中西輝政対談と西尾幹二論考を掲載している同号について、まさしく「編集者」は、「同じ正論なのに論調が少し変わっています」と認めている(p.397)。
 さて、月刊WiLL2015年10月号の渡部論考のタイトルがまるで著者の意思と無関係に付けられたかのごとく「編集者」が述べているのは、おそらく実態とは異なるだろう。そうであれば、渡部昇一はさすがに抗議するだろう。了解があった見るのが常識的だ。
 また、渡部昇一は「首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう」と書いているだけなのか。
 月刊正論2015年11月号の「編集者」なるものは、きちんと日本語文章が読めるのだろうか。あるいは、読めても、マズイと思って、無視して=存在しないものとして扱っているのだろうか。
 渡部昇一の月刊WiLL2015年10月号論考の最後のまとめ部分には、こうある。以下、引用する。p.41。何十年先も、何百年先も、この渡部昇一の文章は記憶されるべきだ。
 「おわび」・「植民地支配」・「侵略』・「慰安婦」…。
 「これらの文言を盛り込みながら、村山談話はおろか、東京裁判史観をも乗り越えた安倍総理の、そして日本の大勝利である」。/
 「安倍総理の談話によって、日本はようやく村山談話をふっ切ることができた。安倍総理は悲願だった戦後レジームからの脱却にいよいよケリをつけ、名実ともに戦後を飾る大宰相となったのだ」。/
 「この未来志向の談話があれば、少なくとも『戦後百年』までは新たな総理談話は不要である。…」。/
 「『戦後』は安倍談話をもって終わりを告げることになったと言えるだろう」。/
 なるほどこの渡部論考の冒頭には、上の「編集者」のような理解を導く部分がないではない。しかし、「現時点」であれ「首相の立場」としての評価であれ、以上引用部分のとおり、渡部昇一が、安倍「戦後70年談話」を、村山談話を「ふっ切る」ものと、「東京裁判史観を乗り越え」るものと、そして「戦後(レジーム)」に「終わりを告げる」ものと、評価していることは明白だ。
 二 安倍首相「戦後70年談話」それ自体にここで立ちいることはしない。つまり、たしかに単純に意味が分かる理解しやすいものではないが、「解釈」の仕方・内容を詳しく述べることはしない。
 この安倍談話の内容については、例えば西尾幹二が、月刊正論2015年11月号で、安倍談話の「歴史認識」をかなり詳しく分析して、批判している。
 また、秋月瑛二の「解釈」・理解が決していびつなものでないことは、上にも言及の伊藤=中西対談で伊藤隆が「保守系全体の高い評価に驚き、もう一度読み返しましたが、やはり『歴史解釈が東京裁判と同じだ』と確信しました」(p.74)と述べていることで、おそらく十分だろう。
 はたして、渡部昇一の読み方が適切なのか、中西輝政や伊藤隆の読み方が適切・自然なのか。<(政治的)願望>をもって、日本語文章の意味を理解してはいけない。
 三 渡部昇一はまた、2015年12月の日韓「慰安婦」問題合意をも、擁護する。
 すでに言及したように<共産主義・反共産主義の対立は終わった>旨もこの中で書いていた、月刊WiLL2016年4月号「日韓慰安婦合意と東京裁判史観」においてだ。
 渡部昇一もさすがに、この「最終決着合意」なるものが<当時の日本軍事当局の関与(英訳文)>によって「慰安婦問題」が生じたことを認めていることを否定しようとはしていない。だが、言い方もいろいろあるものだ、渡部は述べる。
 すなわち、今次の日韓合意は、「国の名誉という国益」と「日本国民の生命財産を眼前の軍事的脅威から守る」という「国益」の選択を迫られて後者を、「河野・村山談話の継承によって、日本人の、よりによって嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性を除去しなければならない」という「国益」と「現在の日本国民の生命財産を守る」という「国益」の二つのうち後者を、選択した(選び取った)ものだ(p.34-35)。
 これは誤っている。<保守>派にあるまじき詭弁だ。
 国家や国民(日本と日本人)の「名誉」を守る、あるいは「嘘から始まった恥を末代まで残す危険を除去」する、という利益を捨ててよいほどの<国益・公益>とはいったい何か。
 一般論として、そのような<国益・公益>あるいは抽象的にいう「日本国民の生命財産」がありうるだろうことを否定はしない。
 しかし、渡部昇一がいう「眼前の軍事的脅威」とは何か。おそらく間違いなく、中国や北朝鮮のそれを指している(p.34)。だが、今次の合意は韓国との間でなされたものであってこれらは直接の当事者ではない。
 だが、と、渡部昇一は主張するのだろう。韓国との間の外交関係を良くしておかないと、中国や北朝鮮からの軍事的脅威の現実化の際に、韓国とも共同して防衛できなくなる、日韓だけではなく、アメリカ合衆国の意向も配慮せよ、と。
 一見筋が通ってはいそうだが、問題ははたして、日本国家と日本人の名誉を傷つける歴史認識を示してまで、つまりは「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」にあえて浸ってまで、昨年の12月に韓国と「合意」しなければならなかったほどに、「日本国民の生命財産」に対する危機は切迫していたのか、だ。
 このような具体的な「切迫性」はなかった、あるいは少なくとも、韓国との外交関係を良く(正常化?)することによってはじめて回避されるだろうような具体的な「危険」はなかった、と考える。
 問題は「眼前」とか、「切迫」性とか「具体」性とかの<程度>でもありそうだが、渡部昇一とは結論的に、<感覚>が異なる。
 秋月もまた、中国または北朝鮮が核やミサイルを日本列島に向けて発射する具体的な危険がいよいよ明確になった際に、これらに「歴史認識」問題で屈してでもその発射とそれによる日本国民・列島の惨害を防ぐ必要に迫られること、または韓国に対して「歴史認識」問題で屈してでも韓国(・軍)の協力を得なければ中国または北朝鮮による対日本武力攻撃の具体的な開始を阻止できない、という事態が全く生じえないとは思わない。
 だが、そのような<具体的危険>の<切迫>時に、中国・北朝鮮は「歴史認識」問題で態度を変えるのだろうか。同じく、韓国(・軍)は「歴史認識」問題で<有事>の際の対応を変えてしまうのだろうか。
 また、今次の日韓「合意」が上のような危険回避(日本人の生命財産の保護)のために有効であるためには韓国がそれを誠実に履行する意思・意欲を持っているか、も問題になる。渡部は、これを100%大丈夫だと言い切れるのだろうか。
 より重要なのは、韓国との外交(・軍事協力)関係が大切だとしても(さらにアメリカ合衆国の意向に配慮することがかりに必要であるとして)、その外交(・軍事協力)関係を良好なものにする方法は、今次の内容のような「合意」に限られるのか、他に選択肢はないのか、「合意」するとしても他の面での合意もいくらでもあったのではないか、ということだろう。
 なぜ、「慰安婦」問題が現在の日本の安全保障問題と結合されなければならないのか。
 渡部昇一は、きちんと説明してほしい。むろん、韓国(・朴大統領)があれこれと言っているらしいことは知っているが、なぜ「慰安婦」/「歴史認識」問題で屈しないと、日本はその安全を、日本人はその生命・財産の安全を守ることができないのか
 日本のまともな<保守派>は、かりに上のような現実が実際にあるとすれば、それこそ悲劇だと、大惨事だと感じる必要がある。そして、断固として、上のようなことに、つまり「慰安婦」問題を現在の日本の安全保障問題と結びつけることに、反対すべきだ。
 渡部昇一はいみじくも、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」について語った。そして、上の論考で渡部昇一は、より大きな国益のためには、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す」のもやむをえない、と明言したに等しいのだ。
 上のように述べて渡部は、「河野・村山談話の撤回」を求める「保守派」の人々に対して(p.34)、我慢せよ、怒るな、闘うな、と主張しているわけだ。この人のいったいどこが、<保守>言論人なのだろう。
 四 安倍首相「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意が<村山談話>や<河野談話>を継承するものであることは、そしてより大きくは<東京裁判史観>に従っていることは、存命である村山富市や河野洋平が両談話(・声明)について好意的にコメントしていることでも明らかだ。また、朝日新聞が社説等で上のいずれも批判してはいない(基本的には支持している)ことでも明らかだろう。
 こういうときに、<保守派>の「大物」らしき者の中に「闘い、やめ!」と叫ぶ者が登場してくるのだから、うんざりして、ますます憂鬱になったわけだ。
 さらに追記すれば、産経新聞社(産経新聞出版)・国会議員に読ませたい敗戦秘話(2016.04)は安倍「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意のあとで、これらを知っている時期での編集・準備を経て出版されていると見られるが(少なくとも「70年談話」よりは後だ)、全体で<東京裁判史観>を批判的に扱いながら、安倍「70年談話」や安倍・日韓合意には全く言及していない。これまた、うんざりすることだ。
 これら二つは、すでに<東京裁判史観>にもかかわる「歴史」になってもいるのだが、産経新聞(社)は、この無視を、恥ずかしいとは感じないのだろうか。
 産経新聞(社)には「政治家よ!もっと歴史を勉強してほしい!」(同上書オビ)と国会議員たちを説教する資格はあるのだろうか。やれやれ、という感じだ。

1277/山際澄夫が産経新聞に注文-月刊WiLL3月号。

 〇 山際澄夫が産経新聞を批判している、または産経新聞に注文をつけている。月刊WiLL3月号(ワック)の山際「朝日と産経"角度"のつけ方」だ(p.98-)。第一次的には朝日批判の文章の中で、山際は次のように産経にも論及する。
 ・「産経新聞にも朝日新聞に劣らず角度のついた記事が多い」。産経新聞のOBで産経を購読していない者が言うには、「読まなくても何を書いているのか分かる」、「民主党を叩くのはいいのだが、記者の思いが前面に出過ぎてニュースなのか、記者の主張なのかが分からないこともある」。
 ・産経新聞を称賛して余りあるが、「報道が単色」との批判もある。例えば、「安倍政権について批判的なニュースはほとんどない」。
 ・自民党は選挙公約から竹島の日式典政府主催等を削り、安倍首相は一昨年末以降靖国参拝をせず、村山談話・河野談話を継承するとしている。これらに自民「党内や支持層に動揺や批判はないのだろうか。批判がないとしたらそれはなぜなのか」。産経新聞にはこうした疑問に答える記事がほとんどない。
 ・「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。
 ・産経新聞の経営体質は「古くて弱い」。フジテレビの支援が不可欠らしいし、幹部が政治部出身者で固められているのも「どうかと思う」。誤報についての責任のとり方も、威張れたものではないことがある。
 山際澄夫のような<保守派>論客が<保守派>産経新聞について上のように書くのは、けっこう勇気のいることだと推察される。但し、その内容には同感する点が多い。私自身、2007年参議院選挙前に朝日新聞等による内閣打倒・安倍バッシングのキャンペーンが始まるまでは、アメリカでの「慰安婦」決議等々に対する第一次安倍内閣の姿勢・不作為について、この欄で疑問を書いたことがある。
 私も安倍政権を支持し、久しぶりに宰相らしい首相が日本にも出てきたと感じているが、山際の言うように「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。安倍政権のしていることを100%支持し賛同しないと<保守派>ではない、とでもいうような<教条主義>に陥ってはいけない。<反共>は当然に「自由」を尊重する。個々の「自由」を圧殺するような雰囲気を作ることは<反共>(=「自由封殺」の<共産主義>に断固として反対すること)の考え方とは相容れないものだ。
 〇 上に指摘されているような、「安倍政権について批判的」な記事がほとんどないこと、安倍政権擁護ぶりは、産経新聞社刊の月刊正論にもあると見られる。例えば、月刊正論1月号(産経)の末尾には、次のような読者の「編集者へ」の意見と編集部の「編集者から」と題する回答?(コメント)がある(p.366-7)。
 ・読者の意見-産経新聞を読んで安倍政権が河野談話を撤回しないのはアメリカに遠慮しているためだと分かった。米国への遠慮は「歴史修正主義」と受け止められることを怖れてのことらしい。それでも、疑問が残る。撤回はなぜ「歴史修正」なのか。さらに、「歴史修正主義」と見られないように取り繕うことは正しい姿勢か。「歴史修正主義」でないように装うことは「戦後レジームからの脱却」の大義を放擲することで、安倍政権の自己否定ではないか。
 これは編集部に回答を求める性質のものではないとも思われるが、編集部はあえて次のように書いて「説得」?している。編集部の誰が書いているかは不明だが、編集長・小島新一は了承しているのだろう。
 ・編集部の見解-歴史観の修正の必要はそのとおりだが、欧米各国から「歴史修正主義者」と見なされることは「避けなければならないということは強調させて下さい」。「歴史修正主義者」とはたんに歴史の修正意図者ではなく「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉だそうです」。日本の指導者がそのような者だと受取れられれば日本は国際社会から敵視され孤立する。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている限り」、その中でどう誤解を解くのかを考えざるを得ない。以上。
 あらためて書けば、上の読者の意見はもっともだ。これに対して、まるで安倍内閣を代表して、いや「代わって」回答しているかのごとき編集部の文章の方に疑問が多い。
 まず、「歴史修正主義」なるものの意味について、読者-「先の大戦を『ファシズムと民主主義の戦い』ととらえ、大戦の責任を全て日本に負わせ、日韓合邦も朝鮮への不当な支配とみなす歴史認識」、編集部-「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉」、という違いがある。この語の意味をまともに考えたことはないが、編集部が「だそうです」などと曖昧に述べているかなり狭い意味での捉え方よりも、読者の理解の方が的確だと思われる。後者<前者、という関係になるだろう。また、フランス革命を従来のように美化せず、問題も多かったことを認める考え方がそのフランスでも出てきていて「歴史修正主義」というらしいと何かで読んだが、そこでの「歴史修正主義」はナチスとはむろん関係がない。基本的に言って、これまでの通説的または支配的な<欧米近代>を起点・中心とする歴史観を疑うのが「歴史修正主義」で、どちらが適切かは今後数十年後か100年後には変化している可能性がある、と思う。月刊正論編集部は、安倍政権を擁護したいあまり、不正確な、又は狭すぎる「歴史修正主義」の理解を持ち出しているのではないか。
 編集部の最後の文章は、その卑屈さに驚く。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている」ので、じっと我慢せよ、と言いたいかの如くだ。
 争点は、河野談話を撤回すべきか否かだ。産経新聞をきちんと読んではいないが、上記のようなやりとりがあることからすると、産経新聞は河野談話を撤回せよ、と主張してはいないようだ。月刊正論編集部によれば、それは安倍内閣が「歴史修正主義」に立っていないことを示すためのようだが、さほどに大袈裟な問題ではないだろう。言うまでもなく「慰安婦」問題に関する談話なのであり、先の大戦全体の認識・評価に直接は関係がない。すなわち、「歴史修正主義」に立たなくとも、河野談話を否定・撤回することができる(そうはいかず、深刻なのは村山談話だ)。
 具体的な問題は、とくにアメリカとの関係で(韓国や中国とも関係はするが)どのような<外交>戦術をとるべきか、だ。ここで、中西輝政の言う<保守原理主義>か<戦略的現実主義>のいずれを、この案件について、とるべきか、の問題が生じるのかもしれない。この観点から、後者に立って安倍政権を擁護するならばまだよいが、「歴史修正主義」や「欧米中心の秩序」を持ち出して擁護するのは、安倍晋三首相の本意ともおそらくは違っているように考えられる。
 <保守派>の代表らしき月刊雑誌の編集者が(いや、代表は月刊WiLLに変わっただろうか)上のようなことを書いて、それ自体はまともだと考えられる読者の意見を<切り捨て>、<説教>しているのは、多少は情けなく感じてしまう。

1141/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか③。

 月刊正論9月号(産経)の「編集者から」(p.327)の文章で驚いたのはつぎの言葉だ。
 一読者が「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民の落着点を求め」る姿勢が大切ではないかと(前回に紹介にしたことを書いて)「編集者へ」述べたことに答えて、それが「必要な場合もあるでしょうが…」と述べているのは一般論としては誤っていないだろうが、問題は、それに続くつぎの文章だ。
 「それ〔異なる意見〕が日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 月刊正論編集部は「日本と日本人を間違った方向に導くと判断し時には」「潰しにかかる」、そういう編集方針を明らかにしたわけだ。
 善意に解釈して、その気分ないし意気込み?は理解できなくもないが、ただちに、次のような疑問が生じる。
 第一。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見かどうかを判断するのは、明らかに月刊正論編集部(「我々」)だとされている。
 しかして、そもそも月刊正論編集部に、諸意見・考え方等々のいずれが「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かを適切に判断する資格または能力があるのだろうか。
 主観的に、そのような気概?を持って何らかの「判断」をするのは結構だし、妨げることもできないだろうが、そもそもその「判断」が正しいまたは適切か否かの客観性は何ら保障されていない。
 奥付?によると月刊正論「編集部」には、「編集人」の桑原聡のほかに「小島新一・永井優子・川瀬弘至・上島嘉郎」の4名しかいない。政治・社会系の研究者・学者としても、政治・社会系評論家としても何らその地位を確立しているとは思えない、長の桑原を含めてこれら5名に、「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かの判断を、読者は委ねることができるだろうか。一般論として、とても不可能だ、と考えられる。
 「我々」が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には」、という書き方は、まるで「我々」がその判断を客観的ないし的確に行うことができるということを前提にしているごとくで、誤っている可能性がきわめて高く、ひどく<傲慢>だ。
 読者は、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方か否かの判断を、上の5名が客観的にかつ適切になしうるとは考えていないし、期待もしていないだろう。
 そもそも月間
発行部数2万程度の雑誌の、たった5名の「編集者」にそのようなことができるわけがない、と考える方が常識的だ。
 百歩譲って、編集者としての気分・気概を宣明しただけだ、と理解するとしても、そのような気分・気概は、ある意味では、すべての政治・社会系雑誌の編集者が持っていても不思議ではないもので、わざわざ文章にし、活字にしておくような類のものではない。
 あえて上のようなことを活字にしていること自体が、やはりどこかおかしい、と感じざるをえない。
 第二。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方を「我々」は「潰しにかか」る、という。
 その前提的判断の客観性・適切性に疑問がありうることは上に記したが、そのような前提的判断に立っての、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は尋常ではない。
 具体的には、そのような「異見」は掲載せず(執筆を依頼せず)、それを批判・攻撃する論考のみを掲載していく、という編集方針を宣言していることになるのだろう。
 一般論として、何らかの編集方針を持つことはありえ、それに基づいて具体的な雑誌編集を行うことはむろんあるだろう。どの雑誌もそうしている、とも言える。
 だが、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は、穏やかではない。
 客観的にまたは結果的にそのような機能を持つことがあっても、あるいは持つことを意図していたとしても、ふつうは、上のように「潰しにかかります」とまでは、文章化しない、活字にはしない、のではないか。
 この点でも、現在の月刊正論編集部は、やはり、どこかおかしい。
 それにまず、自分(たち)の気にくわない意見は「潰しにかかる」という姿勢・態度を明らかにすることは、多分に気味が悪いものだ。月刊正論編集部は、政治・社会問題にかんする諸意見についての<思想警察>のつもりなのだろうか。そういう立場に立つつもりなのだろうか。右向きか左向きか知らないが、どこか<ファシスト>的匂いを感じる表現であることに、実際の書き手は注意した方がよいと思われる。
 つぎに、そもそも、月刊正論という雑誌の力で、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見を同誌編集部が「潰しにかかる」ことができると本当に考えているのだろうか。
 そうだとすれば、尋常ではないし、やはりひどく<傲慢>だ。
 月間発行部数2万程度の雑誌に、朝日新聞の数分の1しか読者のない産経新聞のさらに100分の1程度の読者数の雑誌に、その雑誌編集部の「判断」と異なる意見を<潰す>ことができるとはとても思えない。<潰せる>と考えているとすれば、その自信過剰さは、尋常な感覚ではないだろう。
 実際問題として、月刊正論(編集部)が「日本と日本人を間違った方向に導く」意見だと判断するかもしれない諸意見は種々の、別の雑誌に溢れているし、今日ではブログやツイッター等の表現手段もある。
 月間発行部数2万程度の雑誌の「編集者」が、気にくわない「異見」を「潰しにかかります」などと、かりに内部でそう考えていたとしても、正規に、雑誌上に文章とし、活字にするようなことはしない方がよいだろう。
 ごく常識的な感想を書いたつもりだ。内容的にも疑問があり、「潰しにかかる」という言葉には<思想警察>的な気味悪さを感じる。と同時に、そのような文章を平気で活字にし、正規に残しておく、という姿勢・態度・感覚に、尋常ではない、戦慄すべき<怖ろしさ>を感じる。
 余計ながら、ひょっとして具体的には皇位継承問題(女系天皇の是非)を念頭に置いて「編集者」の上の文章は書かれたのかもしれない。しかし、そのような特定・限定はなく、一般的な宣明のかたちで、上の文章は書かれている。
 さらに余計ながら、「日本と日本人を間違った方向に導く」、日本国内のマルクス主義者・親マルクス主義者あるいは「左翼」の諸意見・考え方を「潰しにかかる」という編集方針を、月刊正論編集部は採っているのだろうか?、かりに採っているとしても、それは十分なものだろうか?、という疑問がある。
 「保守」派内の「内ゲバ」に主要な関心を向けたり、その一方に加担することに熱心な月刊雑誌は、少なくとも「保守」派一般の、またはその代表的な雑誌になることすらできないだろう。ましてや、憲法改正に必要な国民・有権者の過半数に支持される、あるいは関心をもたれる雑誌に成長することは決してないだろうと思われる。
 月刊正論の親会社の発行する産経新聞8/14加地伸行と竹内洋の対談中に、こんな部分があった。
 「加地 今の保守系は論壇というよりも、悪口を言うことで終わってしまっている。……
  竹内 それと内ゲバ。左翼…が、保守論壇も。仲間内でやるのが一番見苦しい」。
 この秋月の文章も一種の「内ゲバ」かもしれないが、秋月瑛二のブログにそのようなものの一方当事者となる資格(・読者数)はないものと自覚している。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
  • 0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
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