デマというのは、扇動的・謀略的な悪宣伝や自己(又は自分たち)のための虚偽の悪口・批判を意味するのだろう。かかる行為をする者のことをデマゴーグという。
 憲法学者・樋口陽一(1934年生。東北大学→東京大学→早稲田大学)の言説の中には、ここでの「デマ」に当たると見られるものがある。
 上の意味よりはもっと緩やかに、従って厳密さは欠くが、虚偽の事実を述べたり、誤った見解を適切であるかの如く主張することも<デマ>と理解し、そのようなデマを発する者を<デマゴーグ>と呼ぶとすると、樋口陽一は立派な<デマゴーグ>だ。
 樋口陽一が書いたものへの批判的言及はこれまでに何度もしてきた。今後は、重複を避けつつ、<デマ>・<デマゴーグ>という言葉を使って、この人の奇妙又は奇矯な言い分を紹介的にメモ書きする。
 <デマ1> ①樋口陽一・ほんとうの自由社会とは-憲法にてらして-(岩波ブックレット、1990.07)p.33-「戦前の日本では、天皇制国家と家族制度という二つの重圧(『忠』と『孝』)が、…個人の尊厳を、がんじがらめにしてしまいました」。
 ②樋口陽一・自由と国家-いま「憲法」のもつ意味-(岩波新書、1989.11)p.168~9-明治憲法下の日本では「『家』が、国家権力に対する身分制的自由の楯としての役目を果たすよりは、国家権力の支配を伝達する、いわば下請け機構としてはたらくことになった」。「ヨーロッパの近代個人主義が家長個人主義として出発し、家が公権力からの自由を確保する楯という役割をひきうけたのと比べて、日本の『家』の極端なちがいは、どう説明できるのだろうか」。
 日本の戦前の家(家族)制度とそれのヨーロッパ近代のそれとの差違をかくも単純に言い切ってしまっている、ということ自体に、すでに<デマ>が含まれている、と理解して殆ど間違いない。
 樋口陽一は、本来は各分野かつ各国に関する専門家の研究の蓄積をきちんとふまえて発言すべきところを、ブックレットや新書だから構わないと思っているわけでもないだろうが、じつに簡単に断定的な決めつけを-上の点に限らず随所で-行っている。憲法学者とは殆どが、かくも傲慢なものなのか。