秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

実証主義

2055/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)② 。
 (5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
 もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
 このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
 むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
 彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
 しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
 さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
 そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
 言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
 このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
 エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
 彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
 かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
 このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
 (6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
 スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
 マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
 これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
 (7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
 魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
 マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
 (8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
 手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
 科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
 ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
 (9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
 マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
 このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
 快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
 技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
 骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
 (10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
 これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
 しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
 人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
 この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
 マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
 (11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
 そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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 第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

2014/L・コワコフスキ著第三巻第10節第3節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.360-3.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)②。
 (6)同じように、認識論上の絶対的なものはなく、挑戦不可能なただ一つの知の源泉もない。
 認識行為の「純粋な即時性」は、かりに存在するとすれば、言葉による以外には表現することができず、そしてその言葉は不可避的に、抽象的で合理化された形式をそれに付与する。
 しかし、フッサール(Husserl)の先験的エゴも、間違って構成されたものだ。なぜなら、知識の社会的起源から自由な直観的行為など存在しないのだから。
 全ての観念は究極的には非観念的なものに、自然を制御しようとする人間の努力に、根源がある。  どの観念も、客体の全内容を表現することはできないし、それと一体化することもできない。
 ヘーゲルの純粋な「存在」は、最後には「無」(nothingness)であることが分かる。//
 (7)アドルノが言うように、否定弁証法は一つの反システム(anti-system)だと称することができる。その意味では、ニーチェの立場と一致するように思われる。
 しかしながら、アドルノはさらに進んで、全ての実体の加工は我々に示されているその形式の「否定」であるのとまさに同じく、思考それ自体が「否定」だ、と語る。
 何かあるものは一定の性格のものだ、という言明ですら、その何かは別の性格のものではないと意味するかぎりで、否定的なものだ。
 しかしながら、これは、「否定性」を自明のこと(truism)に還元している。
 その意味で「否定的」でない哲学はどのようにして存在し得るのか、あるいはアドルノは誰に反対して議論しているのか、が明瞭でない。
 しかしながら、彼の主要な意図は、さほどに自明のことではないように見える。つまり、哲学の伝統的諸問題に明確な回答を与えるのではなく、現在あるような哲学を破裂させることに自らを限定することを目指しているように見える。その「実証主義」に対する力説によっては、それは<現状(status quo)>の、すなわち人に対する人による支配の受容に堕してしまうからだ。
 解放されるときのブルジョア的意識は、「封建的」思考様式と闘った。しかし、あらゆる種類の「システム」の破裂をもたらすことはできなかった。「完全な自由」を代表していると感じていなかったからだ。
-このようなアドルノの見方の観察からすると、彼は「システム」に対抗する「完全な自由」を支持している、と集約することができる。//
 (8)アドルノは、「一体性」および「実証性」を批判して、フランクフルト学派がマルクスから継承した伝統的な主題を継続する。
 すなわち、「交換価値」による支配に従属している個人と事物を共通する次元と等質的な無名さへと貶めている、そのような社会に対する批判だ。
 このような社会を表現して肯定している哲学は、現象の多様さ、あるいは生活の多様な諸側面の相互依存性を、公正に論じることができない。
 そのような哲学は一方では社会を等質化し、他方では人々と事物を「原子」へと貶めている。
 -これは、アドルノが観察するところの、論理がその役割を果たす過程だ。この点で彼は、今日的な論理の発展を無視する一方で論理を痛烈に非難する、近年のマルクス主義の伝統に忠実だ。//
 (9)科学も人間に対する一般的共謀の当事者だと思われる。科学は理性を可測性(measurability)と同一視し、全てのものを「量」に還元し、知識の射程範囲から質的な相違を排除しているからだ。
 しかしながら、アドルノは、用意されているまたは採用されるのを待っている、新しい「質的な」科学を提案することはない。//
 (10)彼の批判の結論は、相対主義を守ることではない。これもまた、「ブルジョア意識」の一つだからだ。
 相対主義は、反知性的(<geistesfeindlich>)で、抽象的で、間違っている。なぜならば、それが相対的だと見なすもの自体が資本主義社会の条件に根ざしているのだから。
 「言われるところの社会的相対性という見方は、生産手段の私的所有のもとでの社会的生産という客観的法則に従って動いている」(p.37.)。
 アドルノは、いかなる「法則」のことを指しているのかを語らないし、ブルジョア的論理に対する自分の侮蔑心に忠実に、彼の批判の論理的有効性を考察することもしない。//
 (11)彼は、「システム」の意味での哲学は不可能だ、全てのものは変化するのだから、と論じる。-これは、つぎのように詳論される言明だ。
 「まるで全ての真実を我々が保持しているがごとくに、その独自の不変性(invariance)が産み出されたものである(<ein Produziertes ist>)不変のものを、可変的なものから剝き外すことはできない。
 真実は実体と合体しており、それが変化していくのだ。
 真実の不変性(immutability)なるものは、<最初の哲学(prima philosophia)>の妄想だ。」(p.40.)//
 (12)一方で、諸概念は一定の自立性をもち、事物を複写したものとして出現しはしない。
 他方で、諸概念は事物と比較しての「優越性」をもつことはない。-これに同意するのは、諸概念は官僚制によるまたは資本主義的な統治を受け入れることを意味するだろう。
 「人間社会を敵対的に引き裂く支配の原理は、精神的に言えば、概念とその服従者(<dem ihm Unterworfenen>)の間の相違を引き起こすのと同じ原理だ。」(p.48.)
 そのゆえに、唯名論(nominalism)は間違いだ(「資本主義社会という観念は<気息(flatus vocis)>ではない」。-p.50n.)。
 観念上の実在論(realism)も、同様だ。
 観念とその客体は恒常的に「弁証法的」に関連しているのであり、そこでは「優越性」は抹消されている。
 同様に、知識をたんに「与えられた」ものとへと還元してしまう実証主義者の試みは誤っている。「思考の内容を脱歴史化(dehistoricize)」しようとしているのだから(p.53.)。//
 (13)反実証主義者たちによる存在論(ontology)を再構築する試みも、同様に疑わしい。なぜなら、そのような存在論は、-特定の存在論の教理では全くなく-<現状>のための釈明であり、「秩序」の道具だからだ。
 存在論の必要性は十分にある。ブルジョア意識は「実体的」観念を「機能的」観念に置き代えて、全てのものが他者に対して相対的でそれ自身の一貫したものがない諸機能の複合体だと社会を見なしてきたからだ。
 それにもかかわらず、存在論を再構築することはできない。//
 (14)読者はこの点で、他の多くの諸点でと同様に、アドルノはどのようにその諸命題を適用するつもりなのか、と不思議に思うかもしれない。
 かりに存在論とその欠如がともに悪いことで、いずれもが交換価値の擁護へと我々を巻き込みそうであるとすれば、我々はいったいどうすべきなのか?
 おそらくは、我々は決してこのような疑問を思いついてはならないのだ。だが、哲学的諸問題に我々は中立だと宣言しなければならないのか?
 アドルノはしかし、このいずれをも選択しないだろう。そうすることは新しい種類の屈服であり、理性の放棄なのだ。
 科学はそれ自身を信頼し、それ独自のではない他の方法を用いた自己に関する知識(self-knowledge)を探求するのを拒むがゆえにこそ、現存する世界のための釈明物にそれがなることを非難する。
 「科学の自己解釈は、科学の<自己原因(causa sui)>となる。
 科学は所与のものであって、そのゆえに現時点で存在する形式、作業の分割もまた承認する。長期的にはその形式が十分ではないことを覆い隠すことはできないけれども。」(p.73.)
 人文社会科学は、個別の諸研究に分散して、認識への関心を喪失し、観念という外装を剥ぎ取られている。
 科学に対して「外部から」来る存在論は、(ヘーゲルの句では)銃弾のごとく突然に出現する。そして、科学の自己知識を獲得する助けにはならない。
 結局のところ、我々は悪性の円環から逃れる方法を知ることがない。//
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 ③へとつづく。

1851/L・コワコフスキ・マルクス主義/第一巻第一章・弁証法の起源「はしがき」。

 L・コワコフスキの文章の中で2009年にトニー・ジャットが引用していた一つは、つぎだった。
 「現実には全ての事情(事態、境遇)が一つの世界観の形成に寄与しており、全ての現象は、尽きることのない無数の原因に由来している」(Leszek Kolakowski, Marxism, 3. The Break Down(英訳、1978)p.339. この欄の№.1834)。
 L・コワコフスキはまた、全巻の緒言(Preface, Vorwort)の中で、つぎのようにも書いていた。
 「いかなる主題に関する著作者であっても、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を全体(living whole)から切り出すことを余儀なくされる」(この欄の№.1839)。
 以下の試訳部分は、どちらかと言えば、上の後者の叙述に関係しているところが多いだろう。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78年)の第一巻の第一章の最初に「第一節」に当たる「1.人間存在の偶然性」よりも前にある、実質的に(第一巻ではなく)第一章の「まえがき」または「緒言」を試訳する。英訳書・第一巻9-11頁、独訳書23-25頁。一文ごとに改行し、段落の冒頭には原書にはない数字を付した。
 第一節の「1.人間存在の偶然性」という項にはその内容に関心をもち、試訳しておきたくなったので、その前にある、原書には見出しのない「はじめに(緒言)」部分も訳しておくことにした。
 哲学文献を英語(または独語)で読むことに習熟している専門家(哲学と英語・独語邦訳の両方の専門家が望ましい)によって全体が邦訳されて日本で刊行されることがもちろんよいが、その状況ではないとすれば、「しろうと」の秋月瑛二の蛮勇で試訳してこの欄でささやかに「公に」しても非難されることはないだろう。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))。
 (はじめに)
 (1) 生きている現代哲学の全ての潮流には、記録された哲学的思索のほとんど最初に遡ることのできる、それら自体の前史がある。
 それら前史には、結果として、諸潮流の呼称よりも古くてかつ明瞭に区別できる態様がある。
 すなわち、Comte 以前の実証主義(positivism)、Jaspers 以前の実存哲学(existential philosophy, Existenzphilosophie)について語るのは意味があることだ。
 マルクス主義の場合は状況が異なるように、最初は思える。その呼称は全く単純に、その創始者の名前に由来しているのだから。
 「マルクス以前のマルクス主義」なる句は、「Descartes 以前のデカルト主義」あるいは「キリスト以前のキリスト教」という矛盾した言辞(paradox)と同じだと思えるかもしれない。
 だが、特定のある人物に出発点をもつ知的潮流であっても、それら自体の前史があるのであり、それは、浮かび上がってきた諸問題や、傑出した知性によって単一の全体へと編み込まれ、新しい文化現象へと変換された諸回答の中に具現化されている。
 もちろん、「キリスト以前のキリスト教」なる句は、「キリスト教」という概念が通常はもつのとは異なる意味で「キリスト教」という語を用いており、たんなる言葉上での遊びでもありうる。
 それにもかかわらず、一般的な合意があるように、何と言っても、キリスト降臨の直前の時期でのユダ(Judaea)の霊的生活に関して懸命に集められた知識なくしては、初期キリスト教の歴史を理解することができない。
 同じことはマルクス主義についても当てはまる、と断じてよいだろう。
 「マルクス以前のマルクス主義」という句に意味はないが、しかし、マルクスの思想(thought, Denken)は、それをヨーロッパ文化史全体の中で、かつ哲学者たちがが数世紀にわたってあれこれと発している一定の根本的問題に対する回答だと理解して、そう位置づけて考察しないとすれば、内容が空虚なものになるだろう。
 そうした根本的問題やその進展および定式化のされ方の多様性に関係づけてのみ、マルクスの哲学を、その歴史的特殊性やそのもつ価値の永続性とともに理解することができる。//
 (2) 多数のマルクス主義に関する歴史家は、この四半世紀の間に、古典的ドイツ哲学がマルクスに提示し、マルクスが新しい回答を用意した諸問題を研究する貴重な仕事をしてきた。
 しかし、古典的ドイツ哲学自体は-Kant からHegel まで-、根本的でかつ太古からある諸問題について、新しい概念上(conceptual, begrifflich)の形式を考案する試みだった。
 確かにその根本諸問題が彼らによって完全に研究され尽くされたのではないけれども、そのような諸問題の見地からする以外は、意味を成さない。-かりに平準化が可能であるとすれば、全ての哲学の発展がその固有の時期との特殊な関係を奪われてしまうにつれて、哲学の歴史は存在することをやめてしまうだろう。
 一般的に言って、哲学の歴史は、互いに制限し合う二つの原理(principles, Regeln)に服している。
 一方で、どの哲学者にとっても基本的な関心を惹く諸問題は、変わらない境遇であるにもかかわらず、それでもって人間生活が向かい合っている人間の知性に生じる同一の知識欲(curiosity)に関する様相だと見なされなければならない。
 他方で、我々は全ての知的潮流または観察し得る事実の歴史的特殊性(uniqueness, Besonderheit)に光を照射し、まさしく当の哲学者たちを生み、哲学者になるのに役立つ重要な事象に可能なかぎり綿密に言及する必要がある。
 これら二つの原則を同時に遵守するのは困難だ。なぜなら、我々はそれらは相互に制限し合わざるを得ないことを知っているけれども、どういう態様で制限し合うのかを正確に知りはしない。したがって我々は、誤りに陥りやすい直感へと立ち戻ってしまうからだ。
 かくして、二つの原理は、科学的実験や資料の識別を行う方法のように信頼できかつ明瞭であるとは全く言い難い。しかし、それにもかかわらず、二つの態様での歴史的ニヒリズム(historical nihilism)に陥るのを避ける指針および手段として、これらは有用だ。
 歴史的ニヒリズムの第一が基礎にするのは、全ての哲学的努力を永遠に繰り返されるワンセットの諸問題へと系統的に格下げをして、人類の文化的進化の全景(panorama, Panorama)を無視し、一般的には人類の文化的進化を蔑視する、ということだ。
 それの第二が構成要素とするのは、全ての現象または文化的事象の特殊な性質を把握するので満足してしまう、ということだ。それが明示的であれ黙示的であれ前提としている考え方は、いずれが個々の歴史的複合体(complex, Ganzheit)の特殊性を構成していようと、それらの現象や事象の重要性の唯一の要素はつぎのことにある、つまりその歴史的複合体の全ての細部の諸事項はその複合体との関係でのみ新しい意味を獲得するということにあり、他の態様においてはもはや意義深いものではない、ということだ。-その細部の諸事項は争う余地もなく従前の諸観念を反復したものであるかもしれないけれども-。
 このように解説的に仮説を立てることは、明らかにそれ自体の歴史的ニヒリズムへと至る。全ての細部事項を共時的な全体(synchronic whole, synchrone Ganzheit)へと排他的に関係させることを強く主張することによって、解釈の継続性を全て排除し、連続している一つの閉じられた単一項的な実在物(monadic entities)の一つだと精神や事象(mind, epoch)を見なすことを我々に強いることになるからだ。
 それは予め、そのような実在物の間には情報伝達の可能性はないと、また、それらを集合的(collectively)に描写することが可能な言語はないと、決めてしまっている。すなわち、全ての概念はそれが用いられる複合体に応じて異なる意味をもつのであり、上位のまたは非歴史的な範疇は探求の根本的原理と矛盾するものとして閉め出されるのだ。//,
 (3) 以下の考究では、これら二つの極端なニヒリズムに陥るのをを避けようとする。そして、哲学者たちの知性を鍛えてきた諸問題に対する回答としてマルクスの根本思想を理解し、同時に、マルクスの天才性を発露したものおよび彼の時代の特異性のいずれとしてもある、その特殊性(uniqueness, Besonderheit)に着目してそれらを包括的に論述ことを目的とする。
 このような自らへの要求を明確に語るのは、それを実際に成功裡に行うよりもはるかに容易だ。
 そのように実際に行って完璧さにまで至るためには、哲学の完全な歴史を、あるいはじつに人間の文明の完全な歴史を、執筆しなければならないだろう。
 そのような不可能な作業を穏便に埋め合わせて補うものとして、マルクス主義がそれらに関してはヨーロッパの哲学の展開の中で新しい一歩を形成したものとして叙述することができる、そのような諸問題の簡単な説明をすることから始めよう。//

ギャラリー
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