秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

宗教

2615/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.174〜。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
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 序 第二節①。
 (01) ボルシェヴィキの指導者たちは、前例のない状況下を歩んでいると感じていた。
 驚くことではないが、彼らの政策方針はときには矛盾し合っていた。
 生産の奨励は農民や「ブルジョア専門家たち」の作業場や物質的刺激で階級融和を促進する契機を含んでいたが、階級を基礎にした雇用や昇格は、人員の最適な利用を妨げていた。
 ネップマンたち(NEPmen)(小事業家)はよそ者だった。そして、政府に支援された芸術家や文筆家たちの組織は、階級憎悪へと転化するだろうプロレタリア的戦闘性の必要を説いた。
 ブハーリンは1925年に、農民たちに豊かになるよう激励し、階級闘争を「弱める」ことを擁護した。しかし、彼は共産党員たちには、階級間の戦争は終わっておらず、形態を変えているにすぎない、と保障した。//
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 (02) ボルシェヴィキ指導者たちは、「文化戦線」を進んでいるとも感じていた。
 マルクスとエンゲルスは、社会主義的文化はどのようなもので、それをどのようにして創り出すかについて、指針を与えていなかった。
 ニーチェの思想は、この隙間を埋めるのに役立った。
 レーニン、トロツキー、ブハーリンは、「文化革命」の必要性について合致していたが、「文化」とは何か、「文化革命」はどう進められるべきかに関しては異なっていた。
 スターリンは、この問題については沈黙していた。彼は1928-29年に、ブハーリンの戦略を採用し、かつ過激化させた(第9章を見よ)。//
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 (03) マルクスとエンゲルスは、文化は経済的基盤の変化に伴って多かれ少なかれ自動的に変わっていく、と想定していた。
 そのゆえに、ボルシェヴィキ指導者たちが恐れたのは、資本主義の部分的復活は「ブルジョア・イデオロギー」が回復して「ブルジョアの復古」にすらつながることを意味するのではないか、ということだった。
 敵対階級が生む文学と芸術はソヴィエト権力を掘り崩すかもしれない。知識人層がツァーリズムを破壊したのと全く同じように。
 ボルシェヴィキの困惑を増大させることに、プロレタリアートは農民の大海の中の孤島にすぎなかった。
 「意識的」労働者の数は微細なもので、また、新しく加入した党員たちはほとんどが教養のない労働者や農民たちだった。(注3)
 加えて、経済は「ブルジョア専門家たち」に依存しており、ソヴィエト同盟は資本主義諸国に包囲されており、かつまたNEP の商業文化の影響による汚染もあった。
 Eisenstein の映画〈戦艦ポチョムキン〉(1925年)は世界的な喝采を浴びたが、ロシアの観衆たちはMary Pickford やDouglas Fairbanks をむしろ好んだ。//
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 (04) ボルシェヴィキ指導者たちは先ず、エスエルやメンシェヴィキからの「イデオロギー感染」と闘うことに力を注いだ。
 エスエルたち(1921年夏に逮捕されていた)の見せもの裁判は数ヶ月続いた。それには、プレスの全頁を覆う憎悪キャンペーンが伴なっていた。
 Lunacharsky は、訴追者の一人だった。
 彼は被告人たちを(民衆全体に伝染する)「病原菌」、「害虫」(〈vrediteli〉、つまり根絶されるべきもの)と呼び、後者の語を彼らに関する自分の小冊子「かつての人々」(〈byvshie liudi〉)で頻繁に用いた。(注4)
 この言葉の由来はGorky の小説「〈Byvshie liudi〉」(1903年)にあった。この小説は、「かつて人間だった生物たち」として英語に翻訳された。
 法廷には敵意をもった観衆が詰めかけ、被告人たちを嘲り死刑を要求する、あらかじめ選抜された群衆によってしばしば煽り立てられた。—この群衆は、公衆を「教育」し、現実的であれ潜在的であれ危機を喧伝することを意図する劇場となった裁判での、一種の「合唱隊」だった。(注5)
 被告人たちは有罪とされ死刑判決を受けたが、Gorky を含む外国からの抗議に応えて、そのうち何人かは、執行される代わりに国外に行くことが許された。//
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 (05) ボルシェヴィキ指導者たちはすみやかに、「ブルジョア」的思想と価値に民衆が「感染」するのを阻止するために(「感染」(infection)という考えはTolstoy に由来する)、積極的に行動しなければならないと気づいた。
 Tolstoy は芸術は人々をキリスト教に「感染」させるべきだと考え、この「感染」という語を病気の蔓延ではなく、霊感的(inspirational)な意味で用いた。
 ボルシェヴィキ指導者たちは、部分的には資本主義の経済基盤があっても、社会主義の意識を吹き込み、社会主義の文化を建設することによって「自然発生性」と闘わなければならなかった。
 言い換えると、彼らは「全ての[ブルジョア的]価値の再評価」を行なおうとしていた。
 広く承認されてはいないBogdanov の見方では、〈Pravda〉は1922年8月に、プロレタリア文化に関する議論を再開した。
 文化のこのような強調は、ブハーリンが〈プロレタリア革命と文化〉(1922年)を、トロツキーが〈日常生活の諸問題〉(1923年のPravda 上の連載)や〈文学と革命〉(1924年)を執筆することにつながった。//
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 (06) 最も危険な「イデオロギー感染」の一つである宗教が、実際に復活しようとしていた。1922年遅くに、Berdiaev、Frank、その他の非マルクス主義知識人たちがロシアから追放されて以降に。
 古参ボルシェヴィキのEmilian Iaroslavsky(Gubelmann、1878-1943)が、〈無神〉(〈Bezbozhnik〉)という雑誌を創刊したのも、1922年だった。
 彼は1923年に、その著〈神はいかに産まれ、生き、死ぬか〉で、宗教と文化の神秘性の「仮面を剥ぎ」、キリスト教を含む全ての宗派の世俗的な起源を「暴露し」た。
 この表題は、まだ知られていた歴史小説三部作のMerezhkovsky の様式にもとづく戯曲だった。
 これはまた、直接にではないが、最新の神であるキリスト教の神は死んだ、ということも意味していた。
 Iaroslavsky は1925年に、無神論者同盟を創立した(のちに「戦闘的」が追加された)。
 その組織員たちは聖職者に対していやがらせを行ない、教会の事業を著しく妨害し、クリスマスやイースターの日に、共産党の祭典を組織した。そして(積極的に)、「赤い婚礼」、(洗礼に代わる)「Oktoberings」、「赤い葬礼」を促進した。 
 「赤い」儀礼の考案者の中には、Kerzhentsev、Iaroslavsky の他に、〈アポロとディオニュソス〉(1915年、再刊1934年)や〈新旧の儀礼について〉(1926年)の著者であるVikenty Veresaev もいた。(注6)//
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 第二節②へとつづく。

2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 西尾幹二が影響を受けたと2019年著でも明記しているニーチェに関する記述が興味深い。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ④。
 (16-02)ニーチェの破壊的熱情は、中産階級の上辺だけの精神的安全性に大恐慌をもたらし、神の死の目撃者となるのを拒否している者たちの虚偽の信仰だと彼が考えたものを粉砕した。
 ニーチェは、現実に起きていることに気づくことができない、そういう人々の偽りの精神的安定を情熱的に攻撃することに成功した。なぜなら、最後に至るまでの全てを語ったのは、彼だったからだ。すなわち、世界は意味も、善悪の区別も生み出さない。
 現実は無意味だ。そして、その背後に別の隠された現実があるのでもない。
 我々が現に見ている世界は最終通告(Ultimatum)だ。
 我々に対して伝えようとする言葉はない。何にも言及しない。
 自己を消滅させ、何も聴こえず、何も発声しない。
 これらは語られなければならなかった。そして、ニーチェは、この絶望状態での解決方法または救済策を発見した。解決するのは、狂気だ。
 大して多くのことは、ニーチェの後でその提示した方向では、言うことができなかっただろう。//
 (17)Modernity についての予言者になるのは、ニーチェの宿命だったように見えたかもしれない。
 実際には、彼は曖昧すぎて、その責務を果たせなかった。
 一方で、彼は監禁されながら、取り返しのつかない知的および道徳的なModernity の結末を断言し、古い伝統から何らかの救済を得ようと臆病に望んでいる者たちを嘲笑した。
 他方で彼は、Modernityへの、進歩の苦い収穫物への恐怖を非難した。
 彼は、自分が知って—かつ語って—怖れ慄いたものを受容した。
 彼は、キリスト教の「ウソ」に対する科学の精神を称揚した。しかし、同時に彼は、民主主義的平準化の悲惨さから逃れようと欲し、粗野な天才という理想に避難場所を見つけようとした。
 だが、Modernity が望んだのはその卓越性に満足されることであり、疑念と絶望によってバラバラに引き裂かれることではなかった。//
 (18)ゆえに、ニーチェは、我々の時代の明快な正統説(explicit orthodoxy)にはならなかった。
 明快な正統説は、なおもつぎはぎで成り立っている。
 我々のModernity を主張しようとしつつ、我々は多様な知的な仕掛けを用いてその努力から逃れようとしている。意味は人類の伝統的な宗教的遺産とは別個に復活し回復され得るのであり、Modernity によって生じた破壊にもかかわらずそうだ、と納得していたいがために。
 いくつかの判型のリベラルなポップ神学(pop-theology)が、この作業に寄与している。
 いくつかの多様なマルクス主義も、同様だ。
 どの程度長く、またどの範囲まで、妥協のためのこの作業が成功し得るのかは、誰も予見することができない。
 しかし、先に述べた、世俗性の危険に知識人層が覚醒することは、我々が置かれている現在の苦境から抜け出す、期待できる通路であるとは思えない。そのような考察が間違っているからではなく、我々人間は、一貫しない、操作可能な精神をもって生まれている、と疑ってよいからだ。
 知識人層にあるのは、人騒がせに絶望的になる何かだ。その知識人たちは、宗教的愛着心、信仰心、あるいは忠誠さそのものをもたないが、我々の世界における宗教のもつかけがえのない教育的、道徳的役割を執拗に主張し、自分たちがまさに代表的な目撃証人であるそれらの脆弱さを嘆き悲しんでいる。
 私は、無信仰であるとか、あるいはひどく苦しい宗教的経験の価値を擁護しているとか、いずれの理由でも、彼らを責めはしない。
 ただ、彼らの作業が彼ら自身が望ましいと考える変化を生み出し得るのかについて、納得することができないだけだ。なぜなら、信仰心を広めるために必要なのは信仰であり、信仰心の社会的効用という知識人たちの主張ではないからだ。
 人間生活における宗教的なものの位置に関するmodern な考察は、マキャベリ(Machiavelli)の意味での、あるいは慈悲は愚者に必要で懐疑的不信が啓蒙された者には似つかわしいと認める17世紀の自由思想家たち(libertines)の言う意味での操作的巧妙さをもつものであってほしくはない。
 ゆえに、このような考察方法は、いかに理解しやすいものであっても、我々を以前の状態に置いたままにするだけではなく、その考察自体が、限定しようとしているのと同じModernity の産物なのだ。そしてそれは、憂鬱にもModernityがそれ自身に満足していないことを表現している。//
 ——
 ⑤へとつづく。


 L・コワコフスキ

2327/西尾幹二批判022—2020年6月12日分の再掲。

 以下、No.2239/2020.06.12/西尾幹二の境地・歴史通-月刊WiLL別冊⑥、のそのままの再掲。一部を削除しただけ。
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 西尾幹二(1935~)の遅くとも明確には2019年以降の<狂乱>ぶりは、戦後「知識人」または「評論家」、少なくとも<いわゆる保守>のそれらの「行く末」、最後あたりにたどり着く「境地」を示しているだろう。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)=月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 何度めかの引用になるが、西尾幹二は、こう明言した。
 ①「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。
 大げさにいえば超越的世界観を信じるか、可視的世界観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってよいでしょう。
 …、少しは緩めて寛大に…と考える人…。しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません」。p.219。
 ②「日本人には自然に対する敬虔の念があります。…至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。
 …、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。決して科学の国ではない。だから、それを守らなくてはなりません。」p.225。
 上の最後に「天皇家」への言及がある。
 ところでこれを収載する雑誌=歴史通・月刊WiLL11月号別冊(2019)の表紙の下部には、現天皇と現皇后の両陛下の写真が印刷されている。
 ところが何と、広く知られているはずのように、西尾幹二は、中西輝政や八木秀次・加地伸行らとともに、現皇后が皇太子妃時代に皇后就位資格を疑い、西尾は明確に「小和田家が引き取れ」と書き、秋篠宮への皇統変化も理解できる旨を書いた人物だ。
 平成・令和代替わり時点での他の雑誌に西尾幹二は登場していた。むろん、かつての皇太子妃の体調等と2019年頃以降とは同一ではないとは言える。状況が変わったら、同じ事を書く必要はないとも言える。
 しかし、誠実で真摯な「知識人」・「評論家」であるならば、西尾幹二は編集部からの執筆依頼にホイホイと乗る前に、あるいは乗ってもよいがその文章や対談の中で、かつての皇太子妃(・現皇后)、ひいては皇太子(・現天皇)について行った自分の言論活動について、何らかの感想を述べ、態度表明をしておくべきだろう(かつてはそれとして正当な言論活動だった、との総括でも論理的には構わない)。
 西尾幹二は、自らに直接に関係する「歴史」についても、見ようとしていないのではないか。別に触れるようにこれは<歴史教科書問題>についても言えるが、自らに関係する「歴史」を無視したり、あえて触れないようにしているのでは、とても「歴史」をまともに考察しているとは思えない。むろん「歴史家」でも、「歴史思想家」でもない。「歴史」に知識が多い「評論家」とすら言えないだろう。
 
 上掲の対談部分できわめて興味深いのは、西尾は「神話」に何度も言及しつつ、以下の二点には論及しようとはしていないことだ。
 第一。「神話」とか「神々のご意向」と、西尾は語る。
 ここでの神話とは日本で日本人として西尾は発言しているのだから、「日本(の)神話」あるいは「日本(の)神話」上の「神々」のことを指して、上の言葉を使っていると理解する他はないだろう。まさか、キリスト教「神話」またはキリスト教上の「神々」ではないだろう(仏教の「神」はふつうは「神」とは言わない)。
 しかるに、西尾幹二は、「日本神話」という語も、また、<古事記>という語も<日本書記>という語も(その他「~風土記」も)、いっさい用いない。
 これは異様、異常だ。使われていない言葉にこそ、興味深い論点が、あるいは筆者の意図があったりすることもある。
 そしてもちろん、「女系天皇は史上例がない」という西尾の<歴史認識>の正しさを根拠づける「日本(の)神話」上の叙述を一句たりとも、一文たりとも言及しないし、引用もしない。
 これもまた、異様、異常だ。なお、p.223では対談相手の岩田温が、<天照大御神の神勅>に言及している。これにすら、西尾幹二は言及することがない。
 だが、しかし、この「神勅」はかりに「天皇(家)」による日本統治の根拠になり得るとしても(もちろん「お話」として)、女系天皇の排除の根拠には全くならない。(さらには、天照大御神は古事記や日本書紀上の「最高神」として位置付けられているというのも、疑わしい一つの解釈にすぎない。)
 第二。「神話」というのは、世界でどの程度がそうなのかの知識はないが、何らかの「宗教」上のものであることが多い。または、何らかの「宗教」と関係していることが多い。ここでの「宗教」には、自然や先祖への「信仰」を含む、<民俗宗教>的なものも含めておく。
 さて、西尾幹二の発言に特徴的であるのは、「神話」を熱心に語りながら、「宗教」への言及がいっさいないことだ。
 上に一部引用した中にあるように、「神社」に触れている部分はある。また、<宮中祭祀>にも言及している。
 しかし、何故か、西尾幹二は、「神道」という語・概念を用いない。「神社神道」という語はなおさらだ。
 かと言って、もちろん「宗教」としての「仏教」に立ち入っているわけでもない。
 これまた、異様、異常だ。 いったい、何故なのだろうか。
 抽象的に「神話」で済ませるのが自分のような「上級かつ著名」な「知識人・評論家」がなすべきことで、「神道」(・「神社神道」)といった言葉を使うのは「下品」だとでも傲慢に考えているのだろうか。
 それとも、かなりの推測になるが、「神道」→「神社神道」→「神道政治連盟」→日本会議、という(相当に常識化している)連想を避けたいのだろうか。
 西尾幹二は櫻井よしこ・日本会議は<保守の核心層>ではないとそのかぎりでは適切な批判をし、日本会議・神道政治連盟の大多数が支持している安倍晋三政権を「保守内部から」批判したりしてきた。そうした経緯からして、日本会議・神道との共通性または自らの親近性、西尾幹二自身もまた広く捉えれば日本会議・櫻井よしこらと同じ<いわゆる保守>の仲間だ、ということを感じ取られたくないのだろうか。
 
 神話について叙述しながら、かつまた「神話と歴史」の関係・異同を論じながら、つまり「神話」と「歴史」という語・概念は頻繁に用いながら、<宗教>に論及することがない、またはきわめて少ないのは、西尾幹二のつぎの1999年著でも共通している。
 西尾幹二・国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 ここで扱われている「歴史と神話」は日本に固有のそれではなく、視野は広く世界に及んでいるようだ(と言っても、欧州と中国が加わっている、という程度だと思われる)。
 しかし、この主題は日本の「神話」と中国の「歴史(書)」=魏志倭人伝の比較・優劣に関する論述の前段として語られていること、または少なくともつながっていることを否定することはできない。
 そして、きわめて興味深いのは、日本または日本人の「神話」あるいは古代日本人の「精神世界」に立入りながら、西尾幹二は決して「神道」とか「仏教」とかを明確には論述していないこと、正確にいえば、「日本の神道」と「日本化された仏教」を区別して叙述しようという姿勢を示していないことだ、と考えられる。
 西尾幹二は「神道」と「仏教」(や儒教等)の違いを知っているだろうが、この点を何故か曖昧にしている。
 これは不思議なことだ。
 しかし、西尾の主眼は<左翼>ないし<左派>歴史観に対して『ナショナリズム』を対置することにあるのだとすると、上のことも理解できなくはない。
 この書には(原書にも文庫本にも)「日本文明(?)」の粋と西尾が思っているらしき日本の彫像等による「日本人の顔」の写真が掲載されている。文庫本に従うと(原著でも同じだった筈だが)、つぎの16だ。
 <2021.03で削除>
 なお、口絵上の上記以外に、本文途中に、つぎの写真もある。便宜的に通し番号を付す。p.395以下。 
 <2021.03で削除>
 一見して明らかなように、これらは全て<仏教>上のもので、現在は全て仏教寺院の中にある。口絵部分の最後の2つの⑮・⑯が見慣れた仏像類とやや異なるが、あとは紛れもなく「仏像」または「仏教関連像」と言ってよいものだと考えられる。
 しかし、興味深いのは、西尾幹二が関心をもってこれらに論及して叙述しているのは、日本人の「精神」や日本の「文化」・「美術」であって、<仏教という宗教>(の内容・歴史)では全くない、ということだ。
 妙法院三十三間堂は平清盛が後白河法皇のために建設して献じた、とされる。
 それはともかく、上のような「日本人の顔」を描く像を「文化」ないし「美術」、広くは日本「精神」の表現とだけ捉えて論述するのは、大きな限界があるように考えられる。
 つまり、諸種・各種の「仏教」・「仏典」等に立ち入って初めて、これらの意味を真に理解できるだろう。
 もちろん、日本「文化」・「文明」や「美術史」上、貴重なものではあるだろう。
 だが、それ以上に踏み込んでいないのが、さすがに西尾幹二なのだ。
 出典を明らかにできないが、西尾幹二は<特定の宗教に嵌まることはできない>と何かに書いていたことがある。
 この人は、仏教の各宗派にも諸仏典にも、何の興味も持っていないように見える。
 おそらくは、日本の仏教または仏教史をきちんと勉強したことがない。あるいは多少は勉強したことがあっても、深く立ち入る切実な関心をこの人は持っていない。
 同じことは、じつは、日本の「神道」についても言えるのではないか、と思っている。
 西尾幹二は、神道の内実に関心はなく、その<教義>にも<国家神道なるものの内実>にもさほどの関心はない。
 そのような人物が何故、「神社」に触れ、「宮中祭祀」に触れ、女系天皇を排除すべき「天皇の歴史」を語ることができるのだろうか。

 「神社」とは神道の施設ではないのか? 「宮中祭祀」は無宗教の行為なのか? 宮中三殿に祀られている「神」の中に、仏教上の「神」に当たるものはあるのか。
 結局のところ、「神社」も「宮中祭祀」も、「天皇」も、かつての皇太子妃(・皇太子)批判も、<神道-天皇>を永続的に守りたいという気持ち・意識など全くなく、西尾幹二は文章を書いている、と思われる。
 <天皇>に触れても、少なくとも明治維新以降、「仏教」ではなく「神道」が<天皇の歴史>と密接不可分の関係を持たされた、というほとんど常識的なことにすら、西尾幹二はまともに言及しようとしない。
 いったい何故か? いったい何のためか?
 おそらく、西尾幹二の<名誉>あるいは<業界での顕名>からすると、そんなことはどうだってよいのだろう。戦後「知識人」あるいは「評論家」という自営文章執筆請負業者の末路が、ここにも見えている。
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 以上。
 西尾幹二は、新潮社・冨澤祥郎がおそらく記述しただろうような、<真の保守思想家>か(西尾・新潮社刊行2020年著オビ)、あるいは<知の巨人>か(国書刊行会ウェブサイト)。
 笑わせないでいただきたい。

2306/松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(2018)。

 <宗教>という概念はむつかしい。
 西尾幹二らに倣って曖昧にさせたまま始めると、これについて、少なくとも次の二つは言えると思われる。
 第一。かつては、「哲学」や「学問」そのものだった、またはこれらの一部だった。
 神道でも仏教でもないと(明治以降に?)される陰陽思想・陰陽五行思想(説)というのも「宗教」であり「哲学」・「学問」だったようだ。
 時間・日々ををどのように区切るかをヒト・人間はずっと昔から考えてきたようで、その中に年・月のあとに「週」がある。
 これを7日とするのは古代からあったようなのは不思議だが(例外的にフランス革命暦では10日、ソ連暦では5日だったようだ)、これを今の日本のように、日・月・火・水・木・金・土の各曜日に分けるのは、正確には各曜日にこういう名称を付けるのは何故なのか。
 「日」曜と「月」曜は英語・ドイツ語でも同じだが〔これも不思議だ)、残る5つは、太陽・月・地球を除く可視的な惑星の数によるともされる。火星・水星・木星・金星・土星。
 だが、そもそも各惑星をこう呼称するのはどうしてなのか。日・月以外については欧米と同じではきつとないだろう(確認しない)。
 素人的発想なのだが、<陰陽五行説(・思想)>と関係がある。
 「陰陽師」・安倍晴明を祭神とする晴明神社〔京都市)の鳥居の額には<五芒星>と全く(かほとんど)同じ<晴明紋>が堂々と?掲げられている。
 欧米でもあるという五芒星紋と晴明紋(とされるもの)が同じだというのも不思議だ。先端が五つとなる星形で中央に逆正五角形が残る。
 この五つは、<陰陽五行説>のいう五つの要素だろう。強い〔後者を弱める)順に、水→火→金→木→土→水→…、弱い(後者を強めて発生させる)順に、木→火→土→金→水→木→…。
 しかし、またそもそもだが、何故、この五つ、つまり、「火」、「水」・「木」・「金」・「土」なのか。火(炎)・水・樹木・金属・土(土地・土壌)なのか。
 素人的発想だが、昔の中国大陸や(いまでいう)日本の人々は、<世界>またはヒト・人間を中心とする(これを主体として除外する)<自然界>・<外界>は、これら5要素で構成されている、と理解・認識したのだ、と思われる。世界・自然界・外界は(人間以外に)、火・水・木・金・土でできている、構成されている。これら五つに、分類される。
 これは、むろんその当否は別として、立派な世界観・自然観だ。「学問」であり、「科学」(だった)だろう。
 第二。ヒト・人間の「生と死」を問題にすること。
 ヒト・人間は生まれてやがて死ぬことを大昔から人々は当然に知っていて、<どこから来て、どこへ行くのか>と、生きていくのに忙殺されることはあっても、ときには思い浮かべただろう。「死生観」だ。
 生前・死後に関心が及ぶと、当然に、いまをどう生きるかという<生き方>を考える人も出て来たに違いない。
 この点では「仏教」は明らかに<宗教>だが、はて日本の「神道」において人間の「生と死」とは何か。どのように説かれているか、が気になってくる。
 だが、そもそも神道には明確な「教義」がないとされるのだとすると、神道における「生き方」以外を詮索しても無意味かも知れず、立ち入らない。
 以上のようなことをふと考えたのも、以下の書物から受けた刺激によるかもしれない。直接の内容的な関係はない。
 —— 
 松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(角川書店、2018)。
 5名による共著だが、シンポか研究会の記録のようで、「開会の辞」を松岡正剛が述べ、出版に際しての「おわりに」を佐藤優が書いているので、二人の名だけを挙げた。
 全体にわたって「宗教」が関係している。その中で、佐藤優が面白い(興味深い)ことを述べている。
 「宗教」の意味に立ち入らないが、途中で佐藤優は、「拝金教」(貨幣・信用にかかわってマルクスも出てくる)、「出世教」、「お受験教や学歴教」、「国家主義教」に触れている。p.37〜p.40。これらの<宗教>だ。
 佐藤優は「おわりに」では、つぎの三つに整理?している。p.195。
 ①「拝金教」、②「出世教」、③「受験教」。
 これらのうち、秋月が近年もっとも関心を持って来たのは、③「受験教」、あるいは途中に出てきていた「学歴教」だ。これは他者と無関係ではなく、大まかには、③→②→①という関連があるかもしれない(この部分は佐藤の説ではない)。
 なぜ関心をもつかというと、日本の現代または現在を覆っている「空気」、現在の日本の人々における<自己認識>(<他者認識・評価>)、あるいはA·ダマシオのいう「自伝的(歴史的)自己」、これと少し異なる意味での「アイデンティ」に、「受験」やその結果としての「学歴」は大きく関係している、と感じているからだ。
 見えない「空気」が、意識しつつも大っぴらにはあまりされることのないかもしれない、人々の「意識」がある。それは「学歴」であり、明治維新以降の「知識」教育、換言すると西欧(・欧米)「文明」の急速な吸収過程から始まって戦後も一貫して培養されてきた、と考えている。むろん<仮説>だ。
 その現在の「知識」教育、ひいては「学歴」意識(・<宗教>)は、本当は衰亡していかなければならないのではないか。戦後・現在の学校・教育制度や教育内容に関係する。これらにおける「知識」の扱い方を問題にしたいのであり、一般に「知識」・「知性」・「知」を排除するつもりはない。

2209/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。

 折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。
 折口信夫全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。②はp.464以下。原出/1949年06月。
 ***(つづき)
 ②。
 ・「只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。
 それについて、なお反省して戴かなければならない。
 相変わらずそうして行けば、われわれは遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かつては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。
 仏教教理の上に、そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。
 しかし同時に、そういう二通りの神をば信じていたのです。
 しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられていたのではないのです。
 たとえば法華経では、これに附属した教典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎません。
 日本の神として、独立した信仰の対象になっていた訳ではありません。
 だから日本の神が本道に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までの間になかったと申してよいと思います。」
 ・「日本の神々の性質」は「多神教なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」。
 例えば、多数の神があっても「天照大神」、「高皇産霊神」、「天御中主神」のいずれかを感じるというように、「一個の神だけをば感じる考え癖」がある。
 「最卑近な考え方では、いわゆる八百万の神というような神観は、低い知識の上でこそ考えておりますが、われわれの宗教的あるいは信仰的な考え方の上には、本道は現れてはまいりません」。
 日本の信仰にはそういう風があると見えて、「仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながらも、その時代時代によって、信仰の中心はいつでも移動いたしておりまして、二三あるいは一つの仏・菩薩が対象として尊信されてまいりました。
 釈迦であり、観音であり、あるいは薬師であり、地蔵であり、そういう方々が中心として、信じられていたのです。
 これが同時に日本人の信仰の為方でと思います」。
 ・日本人が「数多の神」を信じているように見えても、「やはり考え方の傾向は、一つあるいは僅かの神々に帰してくるのだと思います」。
 「植民地に神社を造った」経験からは「皆まづ天照大神を祀っております」。この考え方は「間違った考え」を含んでいた、または「指導する神道家が間違った指導をしていた」ことを意味するのだろうが、「その間違いの根本に、そういう統一の行われる一つの理由があった。
 つまりどうしても、一神に考えが帰せられなければならならぬというところがあったのだと思います」。
 ・「神社において、あんなに尊信を続けられて来たという風な形に見えていますけれども、神その方としての本道の情熱をもっての信仰を受けておられたかということを、よく考えて見る必要があるのです。
 千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いていたのです。
 ギリシア・ローマにおける『神々の死』といった年代が、千年以上続いていたと思わねばならぬのです。」
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 ③につづく。
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 現在読みかけの本を4つだけ。
 1. 飯倉晴武・地獄を二度も見た天皇-光厳院(吉川弘文館/歴史文化ライブラリー、2002)。
 2. 及川智早・変貌する古事記・日本書記(ちくま新書、2020)。
 3. 安西祐一郎・心と脳認知科学入門(岩波新書、2011)。
 4. 松岡正剛・心とトラウマ(角川ソフィア文庫、2020)。

2194/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)①。

 折口信夫「神道の新しい方向」同全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。p.461以下。原出/1949年06月。一文ごとに改行。太字化は秋月。
 ***
 ・昭和20年の終戦前、「われわれには、この戦争に勝ち目があるのだろうかという、静かな反省が起こっても来ました」。
 不安でした。「それは、日本の国に果して、それだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした」。
 ・「日本の若ものたちは、道徳的に優れている生活をしているかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遙かに劣った生活をしておりました」。
 「それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことでも訳りますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けているところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫ってきて、われわれを苦痛にしているのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いているところから出ている。
 宗教的な、秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。
 心持ちだけではありません。
 事実それが原因で、こういう礼儀のない生活を続けている訳です。
 これはどうしても宗教でなければ、救えません。」
 ・「ところが唯一ついいことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。
 われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとは言えませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本道の宗教的な礼譲のある生活に這入ることが出来る。
 義人の出る、よい社会生活をすることが出来るということです。」
 ・「しかし時々ふっと考えますに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持っているか、日本人は宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が、現れて来るかということです。
 事実、仏教徒の行動などを見ますと、<中略>というような感じのすることもございます。
 殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということが出来ます。」
 ・「神道では、これまで宗教化することをば、大変いけないことのように考える癖がついておりました。
 つまり宗教として取り扱うということは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。
 神道をあまり道徳化して考えております為に、そこから一歩でも出ることは道徳外れしたもののようにしてしまう。
 神道は宗教じゃない。
 宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるものと同様になるのだという、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てて、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来ました。」
 ・「…、明治維新前後に、日本の教派神道というものは、雲のごとく興ってまいりました。
 どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興って来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかった。
 いったん誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむらむらと自由な神道の芽生えが現れて来たのです。」
 ・「ただこの時に、本道の指導者と申しますか、本道の自覚者と申しますか、正しい教義を持って、正しい立場を持った祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行ったら、どんなにいい幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。
 それから幸福な、仮に幸福な状態が続いてまいりました。
 その為にまた再び、神道を宗教化するということが、道徳的にいけない、道徳的な潔癖に障るような気持ちが、再び盛んに起こってまいりました。
 そうして日本の神道というものは、宗教以外に出て行こうとしました。」
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 ②につづく。折口信夫、1887年~1953年。

2167/折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 p.41~。折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。青太字化は秋月。
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 ・「神話という語は、数年来非常に、用語例をゆるやかに使われて来ている。
 戦争中はもとより、戦争前からで、すでに広漠とした、延長することの出来るだけ、広い意味に使われていた。
 それは、ナチス・ドイツの用語をそのまま直訳したものであろうが、-<中略>-この神話という語も、そうした象徴風な受けとり方がせられている。」
 ・「私ども、民俗学を研究する者の側から考えると、神話という語はすこぶる範囲を限って使うべき語となる。
 普通に使われているより、さらに狭い意義なのだから、それとはよほど違うのである。
 神話は神学の基礎である。
 雑然と統一のない神の物語が、系統づけられて、そこに神話があり、それを基礎として、神学ができる。
 神学のために、神話はあるのである。
 従って神学のない所に、神話はない訳である。
 言わば神学的神話が、学問上にいう神話なのである。」
 ・「神代の神話とか神話時代とか、普通称されているが、学問上から言う神話は、まだ我が国にはないと言うてよい。
 日本には、ただ神々の物語があるまでである。
 何故かと言えば、日本には神学がないからである。
 日本には、過去の素朴な宗教精神を組織立てて系統づけた神学がなく、さらに、神学を要求する日本的な宗教もない。
 それですなわち、神話もない訳である。
 統一のない、単なる神々の物語は、学問的には、神話とは言わないこととするのがよいのである。
 従って日本の過去の物語の中からは、神話の材料を見出すことは出来ても、神話そのものは存在しない訳である。」
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 折口信夫について、以下の著に接した。
 植村和秀・折口信夫-日本の保守主義者(中公新書、2017)。
 斎藤英喜・折口信夫-神性を拡張する復活の喜び (ミネルヴァ書房、2019)。


2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2120/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13②。

 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
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2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

2031/物質と意識・観念と「霊」-例えば刑法190条。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房、2015/原著・イタリア2013)、数日前に、全読了。計292頁。
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 上は読書記録で、以下と直接の関係はない。
 マルクスが「科学」と対比させて「宗教は(民衆の)アヘンだ」と書いたらしいことがどの程度の影響を与えているのか知らないが、「科学」または「学問研究」は「宗教」とは異質だ、「宗教」それ自体の内容は<迷妄>だとの印象が、ないではないだろう。
 西欧ではキリスト教・神学と近代以降の「科学」は全くまたは基本的に異質なものだつたのかもしれない。
 しかし、日本とその歴史を念頭におくと、例えば、奈良時代あたり(正確ではきっとない)以降の「仏教」は一定の学問体系そのものだったと思われる(もちろん宗派・教典はすでに多様だったとしても)。陰陽道は日本的仏教の一派に「神道」がすでに一部は混淆していたものだろうが、陰陽師・安倍晴明は「学者」で、朝廷の「官僚」だったらしい(「物語」の真否は別として、該当の人物は存在したのだろう)。
 従って、とつなげるのは些か早すぎるが、現在の日本の人文社会分野の研究者・評論家・もの書き人類にもまた、日本の多様な「宗教」の内容そのものを無視または蔑視しないでいちおうは<理解>しておこうという姿勢が必要かと思われる。
 「神」・「仏」等が自己の<外界>のどこかに存在するとは全く信じていない私でも、また戦後教育・戦後社会の悪しき<宗教軽視>風潮に染まってきたとはいえ、そのハンディを取り戻そうと少しは努力している。
 だが、ここですでに、「科学」・「学問」や「宗教」という諸概念・諸観念自体の問題がある。
 「宗教」概念の核・不可欠の要素はいったい何なのだろうか。
 日本国憲法上の「信教」、宗教法人法上の「宗教」概念に立ち入らない(どちらも何らかの定義をしているわけではない)。
 だが、現実には(現世、俗(ぞく)世間には)または通常は(原則的には)存在しそうにない(存在していないと感じられる)何か、「霊」的なもの、を想定すること、はおそらく、中心要素だろう。日本の古代の「カミ」が<神道>でいう「神」なのか否かは別として。
 科学・文化が発達したとされる21世紀の日本でも、マルクスの上記の教訓に反して?、そのような「宗教」にかかわる行為を多くの人が行っている。
 神社または寺院に出向いての「初詣で」もそうだが、各地・各種の「お祭り」行事も(かりに実施主体は特定の社寺ではなく「~実行委員会」であっても)「宗教」の要素を完全に欠けているわけではない。「入山料」・「拝観料」そしてご朱印代金の支払い・受領も「宗教活動」上のものとされ、宗教法人・神社仏閣による「所得税」支払いの対象にはなっていない(はずだ)。
 戦没者慰霊をもっぱら靖国神社による祭礼にだけ極限しているかのごとき政治運動団体がある(<日本会議>/事務総長・椛島有三)。月刊正論(産経)も同様だが、この団体は戦没者追悼の重要性を強調しつつ、不思議なことに、沖縄・摩文仁の丘の戦没者慰霊施設に言及しない。その直近にある、沖縄戦での戦没者の出身県関係者がそれぞれに設置している各県ごとの慰霊・顕彰施設にも言及しない(「仏教」的要素があるものもあったように記憶する)。また、静岡県・熱海(伊豆山)の興亜観音の慰霊?施設にも言及しない(松井石根大将、<七人の戦犯>関連。私は二度訪れている)。
 今年も8月15日に戦没者慰霊式典が行われた。
 天皇陛下、首相等々が向かって言葉を発した前には「戦没者の霊」と明記した、白木造りのような、四角形の柱が立っていた。
 ということは、天皇陛下、首相等々の直接に言葉を発した人々だけにかぎらず、(立憲民主党・枝野幸男も国民民主党・玉木雄一郎も出席していたはずだが)その式典に出席した人たちはみな、「霊」の存在を前提にしている、それを当然視している、ということになるだろう。
 「霊」と記した物体・角柱に向かって、頭を下げていたのだ。
 ではどのような、あるいはどの宗教・宗派の「宗教」行事だったのか?
 もちろん、<無宗教>行為だとされる(はずだ)。日本国憲法のもとで、国家が「宗教」行為を行ったり(主催したり)、関与してはいけないと原理的に考えられてきている。
 しかし、「霊」の存在を前提視・当然視する儀礼というのは、「宗教」行為そのものなのではないか?
 むろん、そのような式典の実施に反対しているわけではないし、特定の神社でこそ施行せよ、と主張しているわけでもない。
 「霊」あるいは「宗教」に関する日本人の感覚の不思議さを、あるいは日本での「宗教」という言葉の不思議さを、興味深く感じている、というだけだ。
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 前天皇・皇后両陛下の「退位」関連行事の中に、神武天皇陵または橿原神宮での「ご退位のご報告」というのがあったと記憶する(確認しない。また、京都・泉涌寺直近の孝明天皇陵での「ご報告」もあった)。
 これはおそらく(これまた正確さを確認しないで書くが)、皇室の「私的」行為として行われたのではなく、「国事行為」でもない「公的行為」として行われたのだろう。
 「神武天皇」関係は特定の神社のまたは「神道」を含む特定の「宗教」に関係していそうでもあるが(従って、反天皇・「左翼」は危険視・問題視する可能性があるが)、憲法上正規に位置づけられている天皇の交替(・譲位)にかかわる、という点に「公的」性格が認められたのだろうと解される(この点で、伊勢神宮の遷宮関係行事への天皇陛下等の関与が「私的」行為とされるのと大きな違いがあるのだと思われる。なお、この区別は、財政処理の区分にかかわる)。
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 「霊」というのは死者の「霊魂」のことだろう。「霊魂」と表現しなくとも、<死者の~>と表現することには異論はないだろう。
 古く生命の誕生以来、かねてから、生者は死者となってきた。無-生-死(無)という変化が個体ごとに、全ての人間に、生じてきた。
 その際に、初期の日本人は、あるいは日本列島にいた人間たちも、不思議さ・奇妙さを感じ、「遺体」に対しても、たんなる「物」とは感じることができなかったに違いない。
 といっても、時代や人々の集団によって、その様相・態様は違っていたのかもしれない。
 全ての死者に対してかどうかは分からないが、いつの頃からか、一定の様式の「墓」、「墳墓」、「墓陵」が作られるようになる。火葬にするだけの燃料がなかったか、あるいは「火」を作ることができなかったのが理由かもしれないが、甕や柩に入れる場合も含めて、当初は全て「土葬」だったのだろう。
 全ての死者に対してかどうかは分からない。また、いつの時代からほぼ全ての死者について、遺体・遺骨の「埋蔵」ということが行われることになったのかはよく知らない(私は「葬礼」の仕方の歴史にも関心をもつ)。
 だが、ある程度またはかなりの程度、「死」をふつうの現象とは感じず、死者やその遺体・遺骨を特別扱いする慣習が、いつの頃からか発生したに違いない。
 そうした慣習が形成される過程に、当然ながら、これまた全ての死者についてか否かはよく知らないが、「死者」は、あるいはその「霊」は死後にどうなるのか、どこへ行くのか、という疑問、「宗教」的思考もまた発生していたに違いない。<神道>はこの問題をどう処理してきたかはよく分からない。
 かくして現在、死者の「遺体」または「墳墓」に対する<宗教的感情>は法的に保護されるべき利益(法益)だと、いちおうは決定されている。
 現行の日本の刑法は、つぎのように定める。
  刑法(明治40年法律45号/最新改正公布平成30年)第二編(罪)。
 第24章・礼拝所及び墳墓に関する罪。
 第188条(礼拝所不敬及び説教等妨害)第1項「神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、…に処する」。
 第2項「説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、…に処する」。
 第189条(墳墓発掘)「墳墓を発掘した者は、二年以下の懲役に処する」。
 第190条(死体損壊等)「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する」。
 第191条(墳墓発掘死体損壊等)「第189条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する」。
 死体・遺体や「墳墓」は、ふつうの「物」または「場所」・「施設」ではない、という旨を前提として、これらが定められているわけだ。
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 日本の古代から全ての死者に対してかどうかは分からないと書いたのは、天皇・皇族またはいわゆる貴族・豪族あるいは武家一族の者と<庶民>との間には違いがあっただろう、と想像しているからだ。
 なお、天皇等の皇族についての葬礼の仕方、および「墳墓」=「陵墓」の様式が、果たして<神道式>だったかどうかは、相当に疑わしい。
 「神道」概念の理解の仕方にもよるが、古代の神武天皇以降少なくとも武家政権になるまでは全ての天皇・皇族について「神道」式だった(そして孝明天皇について以降に「復活した」のだ)とは、さすがに櫻井よしこら日本会議諸氏も主張しないだろうし、そう主張できないだろう。
 この点はともかく、全ての死者が平穏かつ平等に?埋葬され、葬礼が行われたのではないことは、日本史上の幾多の戦乱のとくに「敗者」側の死者について言えるだろう。
 坂本龍馬が中岡慎太郎とともにほとんど「暗殺」されたあと、龍馬の遺体は、現在もある墓地辺り(京都・霊山神社東)に運ばれて、埋葬されたようだ。
 では、新撰組の隊士たちで、同組内の制裁として切腹・斬首の形を受けた者たちの「死体」はどう処理されたのか。
 隊長・近藤勇の墓地は東京・三鷹市の龍源寺にあるが、「首」は官軍による処刑?後に京都で晒されたので、そこにあるのは首を含まない彼の遺骨なのではないか、とも言われている。
 新撰組といえば壬生浪人(みぶろ)と言われ、浅田次郎「壬生義士伝」という小説もあり、京都市(中京区)の壬生寺は新撰組ゆかりであるとされている。しかし、同寺には「供養塔」はあっても途中で制裁された者も含めて隊士たちの「墓」はなく、一部だけが同市(下京区)の光縁寺にある、という(同寺山門付近ににその旨の表示もある)。
 この寺の住職らしき人の「雑談」を信頼して書くと、幕末時、その寺付近に新撰組隊士たちの遺体が棄てておかれるようになった、現在の嵐山電鉄の電車路が大宮駅を西へと出発してすぐの所あたり、現在の同寺の北にすぐに接するあたりに死体が積み重ねられているのを知った先代か先々代かが、遺体・遺骨類を拾い集めてきちんと埋葬して同寺内に墓碑もいくつか作った、という。
 なお、沖田総司は京都で死んだのではないように思うが、そうした墓碑の一つの側面には、たしか「沖田家縁女」と書かれていた(記憶によるので厳格に正確ではたぶんない)。
 幕末期の「いちおう武士」とされた隊士たちですらそうした扱いだったとすると、兵士・武士たちですら、その全ての死者が今日でも明らかな墓地・埋葬地をもっているわけでは全くないだろう(京都・金戒光明寺には、幕末の京都で死んだと見られる会津藩士たちの墓地(「会津墓地」と言われる)はある)。
 ということから、ましてや「庶民」一般が、ということを書いたわけだ。
 京都・化野念仏寺(嵯峨野)には、多数の小さい地蔵仏が身を寄せて集められている。その形の大きさからすると、亡くなった幼児・小児の形見・守り仏のような気もするが、おそらくはふつうの成人の墓碑代わりなのではないか、と全くの素人は想像している。
 奈良・平城京、春日山の東の谷間もそうだったらしいのだが、京都・嵯峨野北方や紫野辺りは昔は<死体投棄場>だったと読んだか、聞いたことがある。
 すでに京都・鴨川の東側の六波羅蜜寺あたりが、平清盛の時代よりももっと昔は、そういう<死体投棄場>だったと読んだか、聞いたこともある。
 多くの人は、死ねば、きちんとした墓も埋葬場所もなく、遺体のままで(運び得る)遠方で投げ棄てられていたのではないか。そして、腐食して、骨になっていたのではないか。芥川龍之介「羅生門」も参照。
 そういう時代に比べると、ほとんどの人の遺体や遺骨がきちんと?処理されることとなり、「墳墓」や「死体、遺骨、遺髪」等がふつうの「物」とは(少なくとも現在日本の刑法典上は)観念されていないのは、進んだものだと、よくなったものだと、思われる。
 だがしかし、一方では、<宗教的感情の保護>という言い分は、ふつうの「物」ではない「霊」・「霊魂」なるものの存在を前提としていることに論理的にはおそらくなるだろう。ふつうの「物」ではないものに対してこそ、<宗教的感情>は発生する。

1950/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史02。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
  都市計画法(昭和43年法律第100号)が言うところの「都市計画事業」のうち「市街地開発事業」には「収用」型と「権利変換」型の二種があって、前者は用地取得に関して土地収用法の適用を受け得る。概念論理的にはおそらく逆に、土地収用法の手続等による「収用」等のいわば<特権>的地位を受け得る事業を「収用」型と称するのだろう。
 そのような「市街地開発事業」の一つに、これまた都市計画法に言う「新住宅市街地開発事業」というものがあり新住宅市街地開発法(昭和38年法律第134号)という法律を基礎的実施法律とする。
 これは大まかには一定規模以上の区域にいわゆる大規模「ニュータウン」を造成・形成するものだが、取得した土地は最終的には道路・公園・学校等の公共施設のほかに住宅地として私人・民間人に譲渡され、私的な利用に供されることから、土地収用法を適用するに値するだけの「公共性」はどこにあるのかが問題になる。
 これは新住宅市街地開発法の制定時の一つの法的論点だったが、実質的には大都市圏域のある程度広い範囲の地域での健全で良好な「街づくり」に寄与するということで全体としての、あるいは総合的な「公共性」が肯定された、とされている。
 この新住宅市街地開発事業は原則とし都道府県が事業主体であり、都道府県の税が投入されるが、むろん、個別の事業ごとに国から事業主体としての都道府県に対して「補助金」も-その基礎は国の税収だが-も交付される。
 「補助金」類は、直接に国民・市民ないし私企業に対するものばかりではなく、都道府県・市町村等の「行政」に対しても交付され、どの程度に国民・市民の知識・素養になっているのかはいらないが、重要な政治的・行政的意味をもつ。
 今はきっとほとんど実施されていないかもしれない「ニュータウン」建設・整備事業は、少なくともかつて「大手民間ディベロッパー」によっても行われていて、完了しているものもある。但し、上に言及した諸法律の適用はない。都市計画法上の「開発許可」制度等々(急傾斜地建築規制等)による制約はあっただろう。
  行政が主体のものを公的事業、私企業が主体のものを民間事業と言っておくことにすると、完了して多数の住民が生活している「ニュータウン」を実際に見ていて、ふと気づいたことがあった。
 公的事業地にはむろん道路・公園・学校等があり(これらの一定のものを都市計画法等は「公共施設」と称する)、それはむろん予め事業計画図面の中に定められているからでもある。
 しかし、民間事業地の場合は、それら以外に、全ての場合ではないが、「宗教施設」が存在していることがある。公的事業は「宗教」とは無関係のもので、事業区域内に神社や寺院の建設を予定するとか、これらを「誘致」する土地をあらかじめ設定しておくというようなことはない(はずだ)。
可能なかぎり「宗教」との距離を置く、むしろ「宗教」はないものとして扱うというのが、基本的には戦後の「行政法制」と「行政」のかつてとは異なる姿になったものの一つかと思われる(もちろん、宗教法人法によるある程度の規制や「宗教」活動であるための収益に対する税法上の優遇といったものはある)。
 民間事業地の場合も「新しく」神主・仏僧も住む神社仏閣を設けることはほとんどないかもしれないが、しかし、一戸の住宅ほどではないほどの敷地に神道ふうの祠らしきもの(小さな本殿?)が設置され、「明神」だったか「権現」だったかの名を記した旗・のぼりがその敷地の周囲にかなりの数でたなびいていたのを実際に見たことがある。
 このようなことはおそらく、公的事業地の場合は想定し難い。
 民間事業には、計画する地域内にそうした施設のための土地をあらかじめ用意しておくことも、「宗教の自由」を前提としての「事業活動の自由」、「営業の自由」に含まれるのだろう。そのような施設が地域内にまたはすぐ近くにあることを嫌悪する者には、その<民間ディベロッパー>が開発して売り出す土地や家屋を買わない自由が当然にある。
  公的であれ私的であれ、伝来的な神社や寺院が全く存在しないか、「祠」的なものはあっても神官は居住せず社務所もないといった「ニュータウン」というものは、戦後の所産であるがゆえに(戦前にも同種のものはあっただろうが、別論とする)、いくつかの問題を発生させ得るし、現実に発生させているだろう。
 思いつく第一は、地区内の住民が死亡した場合の葬儀の問題がある。公的事業地でも「公民館」・「集会場」で葬儀が行われうるかもしれない。だが、「ニュータウン」の中に寺院がないとすると、仏僧による読経という便宜?は、伝統的または在来的な「タウン」・集落よりも提供され難い可能性がある。死者が出ることを想定して、近くのどこに葬儀場や葬祭業者があるかまで考慮して少なくとも公的事業の計画は策定されないのではないか。
 なお、似たような問題は、地震・津波等の自然災害によって多数の死者が出た場合にも生じる。
 神道墓地もあれば神道による葬礼があることも知っているが、多くの国民にはまだ、仏教式での「葬儀」あるいは死者への供養等が馴染み深いだろう。
 思いつく第二は、青少年の心理・意識・精神に対する影響、広くいえば<教育>の問題だ。つまり、神社・仏閣といった宗教施設が自分が生まれ育っている地域に何もなく、かつまた神社等の周囲にあることが多い叢林や森もない、という環境でほとんど青少年期を過ごした者と、我々の前世代の者ならば多いように思われる、神社・仏閣やそれを取り巻く自然環境の中で育った青少年と、全くの違いはないのだろうか。
 神社・寺院あるいは「宗教」の存在を(旅行によってではなく)日常生活の中で自然に知ることができず、学校や(若い両親が増えている)家庭では<戦後体制下らしく>「宗教」をについて教えられることが全くかほとんどない、というのは果たして<教育>にとってよいことなのだろうか。学校等では教えてくれない<不思議な世界>、<理性・理屈だけでは把握できない問題や現象がある」という認識や感覚は、やはり必要なものではないだろうか。
 神社・仏閣といった宗教施設が広い地域に全くかほとんどない「ニュータウン」育ちの子どもと、これらが適度にまたは多数存在する「街」・「集落」の子どもとで、違いは出てこないのだろうか。
 専門家でもなく、実証的な資料・文献を知っているわけでもない。
 こんなことを思いついたきっかけの一つはたぶん、某ニュータウン育ちの中学生がより下の世代の子どもを残虐な方法で連続して殺害したことで、加害者少年の「心理・精神」と<宗教的環境>の関係を考えてしまったことだ。むろん子細に調査してもおらず、特段の結論に達しているわけてもない。
 三 元に戻ると、生後に義務教育学校へと通学しつつ、途中にまたは近くに神社か寺院があった者は、現在でもだが多いだろう。だが、公的事業による「ニョュータウン」造成地の中にはそのようなものはなく、中学卒業まで当該「ニョュータウン」で通学等をしていれば、ほとんど神社・寺院に接することはない。これは、日本の歴史的伝統からは「離反」した現象だろう。そして、戦後の行政と教育における「宗教」の扱いの消極さ、あるいはでくきるだけ関わらない方がよい(「特定の宗教」のみの優遇や区別はできないから)という意識がそれを明確には問題視しない方向へと働いている。
  このような問題だけではない。
 「日本の歴史的伝統」とはそもそも何かが問題だが、戦後体制のもとで実質に失われつつあるような「歴史的伝統」、あるいは明治維新によって明治期に捨て去ってしまったような日本の(それまでの)「歴史的伝統」もあるだろう。宗教的施設の存在の近さを、あるいは日本的な自然の美しさと厳しさを、体感できないような大都会内だけでの生活では、日本に独特の歴史や精神を十分にまたは適切に感得できないだろうと思われる。
 継続している「天皇家」だけが、日本の「歴史的伝統」ではない。
 真摯に日本の「歴史的伝統」の保持が政治信条としての「保守」だと言うならば、<天皇>だけにそれをほとんど集中させるよう考え方や「運動」は、本当の保守派ではないだろう。
 日本会議が「運動」の対象としている論点以外にいくらでも、「日本の歴史的伝統」に関係する問題はある。他の点ではどっぷりと「戦後」体制に屈服し、どっぷりとそれに付着した世俗的生活をしつつ、特定の論点だけを肥大化させているのが、日本会議の「精神運動」であり、いずれあらためて書きたいが「精神的<癒やし>を感じていたい」運動だろう。

1859/井沢元彦・逆説の日本史23-廃仏毀釈。

 井沢元彦・逆説の日本史23/琉球処分と廃仏毀釈の謎(小学館、2017)。
 上の本の、とくにp.251以下。
 ***
 日本本土で先の大戦中に空襲を受けて被災した都市では、原子爆弾を投下された広島・長崎ではもちろん、その被災区域にあった神社・寺院はおそらく全てまたはほとんどが、火災・燃焼等によって破壊されたのではないかと思われる。もちろん、住職や神職者が存在しないような小さな祠や地蔵仏も同様だ。
 かつて福山市内の芦田川の堤防上の道を歩いていて、右岸(上流から見て左か右を分ける)のすぐ下に「地神」と大きく彫った石柱がたぶん三つほどほぼ同間隔で連続して並んで立っているのに気づいた。
 「地神」というのは珍しいと思ったのだが、神道系で、かつ戦災にも遭うことなく、かつてのまま立って残っていたのだろう。
 神社や仏閣あるいは上に触れたような小さな鳥居と祠・地蔵仏などで現在に残っていないのは戦争による被害がほとんどで、再建されたのは戦後だろうと考えてきた。もう70年以上経つので、戦前からのものか戦後の再建なのかは(しろうとには)不分明になっているものもあるに違いない。
 ところが、上の井沢元彦の本を読んで、明治期当初の「廃仏毀釈」による仏教寺院の破壊や消滅も相当にあることを(そういえばという感じで)想起することができた。
 井沢によると、いわゆる「廃仏毀釈」による影響は、つぎのとおりだ。
 ①鹿児島県には、国宝等クラスの寺院・仏像が残っていない。p.273。
 ②薩摩藩島津家の菩提寺だった「福昌寺」は「今は跡形も無い」。p.273-4。
 ③安徳天皇を葬って祀った下関阿弥陀寺は廃寺となり、新たに赤間神宮が建立された。p.272。
 ④奈良県天理市にあった「内山永久寺」は比叡山延暦寺・東叡山寛永寺とともに元号を名とする大寺院だったし、近くの石上神宮の神宮寺でもあったが、「今は跡形も無い」。「現在は本体の破片すら残っていない。徹底的に破壊されたに違いない」。幸いというべきか、現在の石上神宮の摂社の一つ建物は、かつてこの永久寺の鎮守社(寺院境内の神社)のものだった。p.277-8。
 ⑤現在の奈良公園のほとんどは興福寺の境内だった。(井沢は明記していないが、いわゆる明治維新期当初に新政府が「接収」または補償金のない「収用・収奪」をして奈良県庁・裁判所・師範学校等にしたものと見える。最近に再興・再建された「中金堂」の区画は、かつては県庁舎の一部の敷地だったようだ。西国観音札所の納経は「南円堂」)。p.279以下。
 他にもあるが、割愛する。
 (上の③については、この欄で櫻井よしこの「無知」を指摘する中で触れたことがある。②に対して、萩藩の毛利氏の菩提寺二つは現在もきちんと残っている。)
 井沢はまた、この政策の背景にある新政府の<宗教政策>およびその前提としての各「宗教」の内容や実態についても説き及んでいるが、逐一の紹介は避ける。
 ともあれ、考えさせられるのは、明治維新(あるいは一般的には「政治変革」)による宗教政策の変化とそれによる「現実の宗教施設・宗教運動」への影響の大きさ、というものだ。
 神道・神社と仏教・寺院および神道政治連盟(<日本会議)と全日本仏教会の違いというのも(後者は首相靖国公式参拝に組織として反対している)、少なくとも明治維新とその「廃仏毀釈」政策にまで遡らないと、理解することが困難であることも判明してくる。
 追記すれば、井沢元彦は、のちに「明治維新」の主役となった者たちの宗教は<神道+朱子学>であって、<神仏混淆>を否定して神道の純粋性を守るために仏教と切り離すことを意図した、とする(正確な引用ではない)。
 池田信夫によると福沢諭吉は「儒学」を捨てて「洋学」に向かった、というのだが、福沢諭吉は「明治維新の元勲たち」ではなく、明治維新より後の時代での彼に関する叙述だから、少なくとも明らかに矛盾しているとはいえないようだ。
 

1856/総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ(現代思想2016年11月臨時増刊)。

 現代思想2016年11月臨時増刊号(青土社)-総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ。
 上のうち、以下を読み終えている。
 内海健=檜垣立哉(対談)「存在・時間・生命-木村敏との対話」、p.41-63。
 深尾憲二朗「激烈な非難と無際限の楽観-木村敏と科学」、p.64-81。
 ***
 日本共産党員や日本のマルクス主義者ないし共産主義者が「社会科学」という概念をマルクス主義と同義のものだとしたり、マルクス主義を「科学」的社会主義だなどと称しているので、「社会科学」という語を用いるのは抵抗があって、社会系学問分野とか表現したこともあった。
 かりにそうした限定的な意味でなくとも、「科学」の一つである社会科学と「宗教」は相容れないもので、宗教的感覚を排除することこそが(社会)科学だという意識・考え方は相当に一般的だろう。
 しかし、自然科学はかりに別論としても、社会科学もまた観念・概念の論理的体系構造をもつとすれば、宗教的想念や宗教的「教義大系」と相当に近いものだ、というのが近年の強い「想念」になっている。
 そもそもが宗教と「学問」とが(自然・人間・社会のいずれにも関連して)渾然一体となっていた時代は日本にも必ずや存在したと考えられる。そして、究極的には分離し難いことはおそらく、今日でも同じだろう。
 そうだとすれば、例えば日本共産党は日本「共産教」の信者組織だと表現するのは、むしろ宗教に対して失礼であって、「宗教」の本質を理解していないことになるだろう。
 おそらくは日本会議を典型とするのかもしれない日本の原理的・特定「保守」派を<愛国カルト>と称している「ネトサヨ」ブログ欄もあるようだが、そういう表現の仕方をすれば日本共産党は日本の代表的な<反・反共カルト>組織であり、現在の同党は1961年以降はより正確には<宮本・不破カルト>という信仰団体になるだろう。1994年以降は、ひょっとすれば宮本顕治は後景に退いて、<不破哲三カルト>かもしれない(あるいは、それほどまでの教義があるわけではない、ただの世俗的政治団体だという見方も、内部にすらあるかもしれない)。
 秋月がもともと日本の神道・神社や日本の仏教・寺院に素朴な関心と素朴な愛着を感じてきたことはこの欄で示してきているとおりで、社会や歴史とともに日本の「宗教」について語ることに何ら違和感はない。むしろ、例えば櫻井よしこの日本の宗教に関する「無知」と「無教養」に驚いてしまったほどだ。
 社会系学問も(人文系はもちろん)宗教的な議論も「観念」や「論理」を用いるのだとすると、さらにそもそも、ヒトまたは人間の「観念」・「論理」等に関する、又はそれらを用いた<精神>活動とはいったい何なのか、にも関心は移っていく。
 そうすると関心は<精神>的営為を行うヒト・人間の<いのち>にも波及するのであり、<生命>に関する福岡伸一の<動的平衡>の連作がいう、<絶え間なく変化しながら一定のまとまりを維持する平衡体>(これは福岡の文章の正確な引用ではない)ということの趣旨も何となくは理解できる。彼によると、<絶対矛盾的自己統一>という西田幾多郎哲学はこれと矛盾せず、よく似ているのだそうだ。
 ともあれ、<精神>活動が人間の(対外的表現の基礎となる観念・言葉の産出作用それ自体は)「脳内」活動であることに異論はないと思われるが、文筆・評論的な活動をしている主としては<文系の>人々は、得てして、このことを忘れがちだろう。
 ***
 「精神分析」とか「精神病理学」とかの言葉自体は従前から知っており、関心はあったが、まともに読む機会は少なかった。 
 上の雑誌を手にして一部読んで相当に面白いのは、ある程度は予期し得たことかもしれないが、文系とされる「哲学」と理系・自然科学系とされる「精神医学」との間の垣根は存在しないか、両者はほとんど接近している、ということだ。
 上の①の対談の二人は、文系の「哲学」専攻者・研究者(檜垣)と自然系・医学系の「精神医学/精神病理学」専攻者・研究者(内海)だ。木村敏という先学者に関して語り合って、会話・対談が成り立っていること自体が、疎遠だった者からすると相当に興味深い。
 内海は比較的最初の方で、精神医学者で「臨床哲学者」ともされる木村敏(京都大学医学部元教授)について、木村の「分裂病論が斬新だったのは、分裂病を自己の自己性に関わる病態として捉えたこと」だと述べているが(以下は省略)、<自己の自己性>とは「哲学」の問題でもあるはずだ。
 また、逐一言及するのはやめるが、じつに多くの、「哲学」、「社会・政治思想」の論者または学者だとされている者たちの名が-最多はフランスのそれらのようだ-出てくる。木村自体がハイデガーや西田幾多郎等々の読者かつ研究者だった、という。
 無知な読者として印象に残るのは、病態としての<狂気>もまた、各人の「自己」と無関係なはずはない社会(・国家)の病気の一つで(あくまでも可能性として)あり得る、そして<狂気>(これが精神「障害」なのか精神「疾患」なのかという問題もある)の認定もまた一つの、人間世界の、その意味で社会的な判断作業だ、という示唆であり、あるいはそのことを前提にして対談がなされている、ということだろう。医学または自然科学上の議論を等閑視してはいけない。
 上の②もまた、簡単な要約はできない。木村敏には『精神医学から臨床哲学へ』という書物があるようだが、これはさらに簡略化すれば<医学から哲学へ>になる。
 印象に残った一つは、「脳死」判断に関する木村の意見だ。簡単にしか紹介されていないが、「死」の認定方法・基準自体が<社会性>を帯びる、という当たり前のことかもしれないことを感じさせる。
 「死」を厳密にどう理解するかは、ヒト・人間の究極的な「哲学」的問題に対処することかもしれない。木村敏は「脳死」基準導入に対して、学部教授会で「ほとんど一人で反対した」、という。つぎの文章が紹介されている(一部引用)。
 「純粋に医学的・自然科学的な理論」によって「個体の死」が定義され、認定されたあとで、この「理論上の死体から生きた臓器を摘出するという人為的な作為によって実際の死が強制的にひきおこされるというのは、家族の共同体にとって殺人と同様の暴力的で不自然な事態ではないのだろうか」。
 「自然な死」と「不自然な死」。「自然には死ねなくなっている現代日本の高齢化社会…」。さて。

 

1646/レーニンと宗教②-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第8節・レーニンと宗教②。
 こうした問題に関するレーニンの立場は、ロシアの自由な思考方法に一致していた。
 正教派教会とツァーリ体制との間の連結関係は、明白だった。
 ソヴェト政府が権力を握ったとき、全てではないが、ほとんどの教会の者たちはその権力に敵対的だった。
 この結果として、またレーニン主義の根本原理から、党綱領が示している以上に広い範囲で、すみやかに教会に対する闘いが行われた。
 政府は、教会財産の収奪や学校の非宗教化、あるいはともあれブルジョア的改革であってとくに社会主義的でないと見なされた手段に限定することはなかった。
 教会は、事実上、全ての公的な機能を剥奪され、説示、書物や定期刊行物の出版、聖職者の教育が禁じられた。たいていの修道院は、解体された。
 国家と関係のない私的な問題だという宗教に関する取り扱いは、ほとんど圧倒的多数の場合に党員であることが国家事務を行う必須の要件である一党国家制度では、適用され得なかった。
 教会や信仰者に対する迫害は、ときどきの政治的情勢によって烈しさが変わった。例えば、1941-45年の戦争中は、かなり緩かった。
 しかし、社会主義国家は『宗教的偏見』を根絶すべく努めなければならないという原理は力を保ちつづけた。またそれは、レーニンの教理と完全に一致している。
 教会と国家の分離は、国家がイデオロギー的に中立である場合にのみ作動しうるもので、そのような考え方は、何らかの特定の世界観を表明するものではない。
 ソヴェト国家は、プロレタリアートと唯一のプロレタリアートのイデオロギーの本質的特質である無神論の機構であると自らを位置づけており、離脱という原理を受容することができない。言ってみれば、類似性のあるヴァチカンの組み込まれたイデオロギー以上に。
 レーニンとその他のマルクス主義者はつねに、この点ではプロレタリア国家とブルジョア国家の間に違いはない、いずれの国家も支配階級の利益を代表する哲学を支持するように拘束されている、と考えた。
 しかし、まさにこの理由で、レーニンがツァーリ体制に反対するスローガンとして用いた教会と国家の分離は、イデオロギー、諸階級および国家の間の関係についてのレーニンの理論に反するもので、ボルシェヴィキによる権力奪取のあとでは維持することができなかった。
 一方で、反宗教のための政策手段の性格と規模は、当然ながら教理として予め述べられておらず、状況に応じて変化した。//
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 第8節、終わり。第9節の節名は、「レーニンの弁証法ノート」。

1645/レーニンと宗教①-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。この本には、邦訳書がない。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。 第二巻単行本のp.459-。
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 第8節・レーニンと宗教①。
 レーニンは、党のイデオロギー活動の鍵となる論点だと宗教を見なした。敵となるのは大衆的な現象であって、たんに経験批判論のような理論家集団ではなかったからだ。
 宗教に対する彼の態度は哲学の問題としては絶対的に明確だったが、彼の戦術は、比較的に融通性があり、可変的なものだった。//
 レーニンは、頑迷ではない宗教的な雰囲気の中で育った。15歳か16歳のときに信仰心をなくしたが、マルクス主義とはまだいかなる接触もなかった。
 そのとき以降、無神論を科学的には自明のこととした。そして、そのことを擁護してとくに論じることも決してなかった。
 彼の見方では、宗教の問題は、本質的な難事ではなくて、教育、政治そして情報宣伝(propaganda)の問題だった。
 『社会主義と宗教』(1905年、全集10巻〔=日本語版全集10巻70頁以下〕)およびその後の著作物で、レーニンは、宗教的信条は被抑圧者および貧困に苦しむ民衆が無能力であることの表現であり、彼らの苦痛を和らげる代償物だ-マルクスとエンゲルスの言葉をいつものように粗雑化して彼がいう『精神上の酒』だ-と論じた。
 同時に、宗教と教会は民衆を卑しくかつ従順なままにしておく手段であり、搾取者が権力を維持し民衆を悲惨な状態に置いたままにする『イデオロギー上の笞(knout)』だった。
 正教派教会は、精神的抑圧と政治的な抑圧が結合している、明白な例だ。
 レーニンはまた、宗教聖職者に対する体制側の抑圧的な態度を利用する必要も強調した。
 党の綱領は、最初から宗教上の寛容さについて語り、個人が自分の選択する信仰を告白する権利を、また無神論の宣伝活動に従事する権利をも、語った。
 教会と国家は分離されなければならず、宗教に関する公教育は廃止されるべきものだった。
 しかし、レーニンは、西側の多くの社会民主主義者たちと違って、社会主義者は宗教を国家と関係のない(vis-a-vis)私的な問題だと見なしてよく、党に関係があるかぎりでそれは私的な事柄ではなくなる、と強調した。
 いままさしく信仰者である者に対して寛容でなければならない現在の状況ではあったが(無神論は党の綱領には明確には表現されていなかった)、反宗教の情報宣伝を実施したり党員が戦闘的な無神論者になるよう教育することは、認められた。
 党は、哲学的に中立であることはあり得なかった。党の哲学は唯物論であり、そのゆえに、無神論であり反聖職者的であった。そして、この世界観は、政治的な違いの問題ではあり得なかった。
 しかしながら、反宗教の情報宣伝は階級闘争と接合されなければならず、『ブルジョア的自由思想』の意味のごとく、目的それ自体だと見なされてはならなかった。//
 戦術的な譲歩がどのようなものであれ、レーニンは、政治的な理由で、宗教的信念に対する執念深い反対者だった。
 そのゆえに、経験批判論に対する攻撃の激烈さもあった。経験批判論の哲学の一部は、『神の建造者(God-builder)』のそれと一致していた。
 後者は、マルクス主義に対して修辞上の情緒的な装飾を加えようとしているだけだった。しかし、レーニンの眼には、宗教との間に危険な妥協をするものと映った。
 主要な哲学上の著作やゴールキへの手紙、あるいは別の箇所で、レーニンは、野蛮な迷信を身に着けていない、社会的進歩的な言葉遣いをしている宗教は、ツァーリ専政政治と同盟することを冷厳に公言している、のぼせ上がった正教派教会よりも危険ですらある、と主張した。
 人間中心主義的な偽装を施した宗教は、よりよく、階級の意図を隠し、油断する者を欺瞞することができる。
 かくして、レーニンは戦術上の理由で信仰者たちと妥協する用意はあったが、彼の意思は根本問題では固く形成されていた。そして、党の世界観にはどんなものであれ宗教的信仰のいかなる余地も決してない、ということの示唆を拒むつもりは全くなかった。//
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 ②へとつづく。

1337/2008年4月に「日本共産教」・「科学的社会主義教」と言っていた(再掲)。

 2007/03/23付けで、次のように、日本共産党を「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体と皮肉っていた。同じことを、つい最近も感じたわけだ。再掲する。最後の一段落は無関係なので、以下では省略。 
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 日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。
 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない。
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
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 以上。

1223/西尾幹二・憂国のリアリズム(2013)を全読了。

 西尾幹二・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013)を、10/12~10/13に、数回に分けながら、すべて読んだ。

 〇最終章(第五章「実存と永遠」)の最後の節のタイトルは「宗教とは何か」。

 その中で自然科学者や社会科学者は「実在」を対象としていて、「自己」をとくに問題にしない、一方、人文科学はそうはいかない、と書いているのは興味深い。たしかに、経済・政治・法等を対象とする学部・学科に所属するまたは出身の「評論家」・論者に較べて、西尾幹二の文章には「自己」というものが相対的には色濃く現れているように感じるからだ。
 西尾は続けて、歴史学に言及し、歴史研究の認識対象たる「実在」は「過去」だが、「歴史は記述されて初めて歴史になる」、記述には過去の「特定の事実の選択」が先行し、この選択には記述者の「評価」が伴う、歴史研究の対象たる「客観世界」は「自己」が動くことによって「そのつど違って見える」、というようなことを書いている(p.321)。
 そのとおりだろう、と思われる。但し、瑣末で余計なことだが、歴史学は現在の大学での学部・学科編成とは異なり、元来は「社会」系の学問分野ではないか、と感じている。そして、おそらくは西尾の論述の仕方とは逆に、「社会科学」なるものも厳密には「自己」なるものの立場を抜きにしては語られえないのではないか、とも感じている。

 さて、西尾幹二は「宗教」を、「過去」なる具体的・有限の「実在」を前提としたりするのではなく、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする心の働き」だと、ひとまず定義している。ここに学問と宗教の違いがある、ということだろうか。そしてまた、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする」のは「途方もないこと」で、「死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の実存を信じ」る多くの宗教組織・教団類があるが、「どれか一つの宗派の選択だけが正道である」とする強靱さを自分は持てない、「特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない」と西尾が告白?しているのも(p.322-4)、興味深い。

 最も最後の段落の文章は、なかなか難解だ。-学問と宗教は相反概念だが、明治以来日本人は欧州から「近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を『実在』として生きているのが現実であるにもかかわらず、このニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりしたりして平然と『自己』を疑わないでいるのである」(p.325)。

 〇ところで、この著書は西尾幹二の2010年~2013年6月に諸雑誌に発表した論考をまとめたものだ。五つの章に分類されてはいるが、数えてみると全部で26本の論考から成り立っている。
 どの雑誌に発表されたものかを「初出一覧」(p.330-)で見てみると。月刊WiLLまたは歴史通(いずれも、ワック)が計7で最も多く、ついで、言志(これは知らなかったのでネットで調べてみると、ブクログが発行所、編集長・水島総、編集者・井上敏治・小川寛大・古谷経衡)が5。第三位なのが月刊正論(産経新聞社)で3、続いてサピオ(小学館)と週刊新潮(新潮社)が各2ジャパニズム・週刊ポスト・テーミス等が各1、になっている。

 言志なる雑誌(メールマガジン?)に関心をもった。同時に、西尾幹二は現在は月刊正論(産経)に連載しているようだが、月刊WiLL+歴史通と言志で12/26を占めており、月刊正論掲載は3論考しかないので、とても<産経文化人>とはいえない、ということが明確になってもいる。産経新聞の「正論」執筆グループの一人でもないはずだ。些細なことかもしれないが、こんなことも興味深くはある。

 「産経」を批判または皮肉っている部分も数カ所あった。この本の内容についてはさらに言及する(今回に上で言及したのは最も非政治的な論考かもしれない)。

0871/寺社への拝観料・入山料等はどこへ?

 一 「日本宗教者平和協議会」という団体があるらしい。
 ウェブサイトによると、略称の「宗平協」は、「宗教者(信者・門信徒もふくめて)で、『宗教者の良心に基づき世界の平和と人類の幸福に寄与する』という目的に賛同する人であれば、誰でも参加することができ」るらしい。基本的には、個人加入の組織のようだ。
 同じく、その<主な活動>は以下だとされている。
 「①信教の自由と政教分離の確立
 靖国神社の閣僚公式参拝や国家護持の動きなど、権力による宗教統制・利用に反対し信教の自由を守る。 宗教の側からの政治権力の利用に反対し、政教分離の原則を訴える。
 ②核兵器の使用禁止と廃絶
 核兵器禁止の国際条約の締結を要求し、全ての核兵器の廃絶を求める。

 ③軍事基地の撤去と軍事条約の撤廃
 憲法違反の自衛隊に反対し、沖縄をはじめとする日本国内の米軍基地の撤去と日米安保条約の緒廃棄を求める。

 ④日本国憲法の擁護
日本国憲法を擁護し、平和・民主主義の原則を守り発展させる。

 ⑤環境の保全と回復
 「自然と共に生き、自然の中に生かされている」ことを自覚し、環境の破壊を許さず、保全と回復につとめる。

 ⑥宗教者の国際連帯の強化
 平和五原則に基づく国際友好をすすめ、平和のための宗教者の国際連帯と相互支援を前進させる。」

 これらのうち、とくに①~④は現在の日本共産党の主張と同じだ(または、それよりも率直だ)。③では、自衛隊を「憲法違反」と明記し、国内の「米軍基地の撤去」、「日米安保条約の廃棄」をはっはりと謳っている(「緒廃棄」は原文ママだが、「諸廃棄」でも意味は通じないので、「即時廃棄」の入力ミスだろうか)。

 この団体は、次のアピールを出している。
 「2000/08/31 防衛庁長官と東京都知事に「防災演習」についての抗議と要請
  2000/06/10 森首相の「国体」発言を厳しく糾弾する
  2000/05/16 森首相の「神の国」発言に断固抗議する。
  1999/07/01 盗聴法案(組織的犯罪対策法案)廃案を求めます
  1999/06/15 「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とする法制化に強く反対します。
  1999/05/25 新ガイドライン関連法案の強行採決に抗議する
  1999/04/20 NATOのユーゴ空爆を即時停止し、紛争当事者による平和交渉の再開と、関係諸国に平和的解決を要請する
 1999/01/06 中村法相の罷免と国会の解散を要求する」

 最も上の2000/08のものは「防衛庁・自衛隊と東京都」が予定する「平成一二年度自衛隊統合防災演習」は「防衛庁・自衛隊の統合幕僚会議議長の指揮の下に大量の自衛隊員を首都へ移動させるなど、治安出動のための演習といわざるをえない」とし、「治安維持を自衛隊に期待する石原東京都知事の発言や、新ガイドライン成立によるあらたな自衛隊の『治安出動』のための法『改正』を狙う政府・自民党の策動からも裏付けられ」ると述べる。

 その下の森首相発言への抗議も含めて、→
http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/apnisyu2.htm#bousai

 一番下の中村法相うんぬんは「去る四日、中村法相が法務省内での新年集会において、『日本人は、連合国からいただいた、国の交戦権は認めない、自衛もできない、軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないというなかでもがいている』と発言したことは、歴史の事実に反し、憲法に違反し人類の進歩に逆行し、憲法改悪、『有事』参戦への布石として重大な問題を孕んでおり、何よりも憲法遵守の義務を負う法務大臣の資質の欠落を露呈したものであり黙過することはできません」と始まる。そして、「わが国の憲法は連合国から試案を提示されましたが、戦争放棄はまさに幣原首相の独創であったことをマッカサー総司令官自身が認めています」と、面白い(?)ことも断定的に書いている。

 これも含めて、下の4つの全文は、→

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/ap-nisyu.html#naka

 機関紙「宗教と平和」というのを発行しているようで、そこに示された「日本宗教者平和協議会」の(事務所・事務局の)所在地は次のとおり。

 「〒113-0003 東京都文京区湯島3-37-12 TS第7ビル502号」

 二 「日本宗教者平和協議会への加盟および平和諸団体との提携協力」を規約上の「目的」の一つとする地域的団体の一つに「奈良宗教者平和協議会(略称・奈良宗平協)」というのがある。

 ウェブサイトによると、この団体は、日本宗教者平和協議会とは別に、以下のアピールを発している。

 「2003/12/09 憲法違反のイラクへの自衛隊派兵『基本計画』決定に抗議する
 2003/03/17 イラクへの武力行使に反対する
 1998/05/20 インドの核実験に抗議する
 1996/07/27 史実に反する『従軍慰安婦発言』を繰り返す奥野誠亮衆議院に抗議し、議員辞職を要求する
 1996/06/10 中国の核実験に抗議する
 1995/11/14 フランス・中国の核実験中止と核実験全面禁止条約の締結を求める
 1995/05 ~終戦・被爆五〇年にあたって~核廃絶を呼びかける奈良県宗教者のアピール
 1994/07/24 核兵器廃絶の先頭に立ち、日本国憲法の平和的民主的原則を遵守せよ。-村山首相への抗議と要請
 1993/10 小選挙区制の導入に反対するアピール」

 ・奈良市中心部より東北の般若寺(はんにゃじ)には「原爆の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えるため」の「平和の火」をともす「平和の塔」というのが建っている。

 ・奈良市中心部より東南の白毫寺(びゃくごうじ)の境内には、「奈良宗教者平和協議会」と書かれた木板が入口に掛かる建物がある。

 宗教法人としての寺院そのものではなくとも、この二つの寺院の代表者または有力者が「奈良宗平協」に加入している(そして有力な構成員である)ことは間違いない。

 実際にも、上掲のアピールの最上の<イラク派兵反対>は、「奈良宗教者平和協議会 代表理事 工藤良任(般若寺住職) 宮崎快堯(白毫寺住職)」という名義で出されている。→

http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/appeal.htm

 なお、上の二つの寺院はいずれも関西に25しかない、<関西花の寺二五カ所>の番所(札所)。

 三 大阪にも「大阪宗教者平和協議会」というのがあるらしい。

 「大阪宗平協ニュース」というのを発行していて、ウェブサイトによると、最新号は2009/11/24付。

 そのニュースには12/08の「第19回定期総会」と同日の記念講演(会)の案内が掲載されている。

 「民主党政権下での『反核平和』」とのテーマで講演する(した)のは中田進という人物で、同ニュースに記載の経歴によると、「1937年生まれ」の「関西勤労者教育教会講師」で、<学習の友社>や<新日本出版社>から本を出している。この二つの出版社は実質的には日本共産党とほとんど同一。

 「大阪宗平協」の事務所(事務局)は、同ニュースの発行元の記載によると、次のようだ。

 「大阪市東住吉区今川2-8-5 正念寺内」

 四 以上のようなことに加えて、「奈良宗平協」のウェブサイトからリンクを張っている諸団体等のうち「反核平和運動・被爆者団体・個人のHP」のトップ2つは「原水爆禁止日本協議会」と「日本被爆者団体協議会」であること、いくつかの県の「~平和委員会」も含まれていること、その他の「団体」のうちトップは「自由法曹団」であること、等を加味しても、「宗教者平和協議会(宗平協)」という団体は明確に日本共産党系だ。

 より正確にいえば、日本共産党員が宗教法人内に<フラクション>を形成して活動している、というのがむしろ実態に近いかもしれない。
 代表者・有力者がこの「宗教者平和協議会(宗平協)」に加入しているような寺社への拝観料・入山料等々は、いったいどこに消えるのか、何のために使われるのか。警戒しておいても悪くはない。

0848/<仏・共連合>の成立?②(終わり)。

 二 (つづき)
 ②別の某県某市のこれまたこの地域では有名な寺院の一つを訪れてみると、残念ながら写真を撮っておらず、文書・パンフをきちんと残していないことに今気づいたのだが、本堂近くに、まるで「九条の会」が主張しているような内容のビラか冊子のようなものが置かれてあった。
 先の①の寺院(・大会)よりも露骨に、「護憲」(と「反戦」)を呼びかけるものだった。
 仏教徒にも「政治的」活動の自由はある、とは一応は言えるのだろう。また、当該寺院の責任者たちは自らの信仰と「九条の会」の主張とは矛盾してない、むしろ合致している、と考えているかもしれない。
 だが、政治的には日本共産党系の運動といってよいのが常識的だと思われる「九条の会」の主張と似たようなことを書いた文書を参拝者の目に付きやすい場所に置くとは、あまりにも「政治的」に<幼稚な>感覚というものだろう。
 その寺院にもいろいろな檀家の人々がいると思われる(訪問者・参拝者の中には、私のような者もいる)。そのような直近の人々の(檀家総会の?)同意を得て、そのような文書を作成しているのだろうか。奇妙に感じながら、その寺院の境内を後にしたものだ。
 ③つぎは、全国的にも有名と見られる、日本の大寺院10に含める人もいるかもしれないほどの大寺院でのこと。
 その寺院の某建物の廊下に、10名の人物の顔写真を掲載した大きなポスターが貼ってあった。
 その10名のうち当該寺院の宗派「管長」以外の9名は、タテ長のポスターの右上から左下への順番で書くと、益川敏英(現京都産業大学理学部教授、ノーベル賞受賞者)、秋葉忠利(広島市長、元日本社会党国会議員)、湯川れい子(音楽評論家)、坪井直(被爆者)、麻生久美子(女優)、張本勲(元プロ野球選手)、田上富久(長崎市長)、小山内美江子(脚本家)、井上ひさし(作家)。
 これだけ並べると推測がつこうが、ポスターの中心には「核兵器のない世界を・あなたの未来のために国際署名にご協力を!」と書かれている。下部には、横書きで「私たちは、/核保有国をはじめとするすべての国の政府がすみやかに核兵器禁止・廃絶の交渉を開始し、締結することに合意するようよびかけます」との一文が記載されている。
 そのまた下に小さく書かれているこのポスターの製作者名は、次のとおり。
 「〇『核兵器のない世界を』国際署名キャンペーン事務局 〇113-8464東京都文京区湯島2-4-4平和と労働センター6階 原水爆禁止日本協議会気付 〔TEL、URL省略〕」
 井上ひさし小山内美江子ですでに「左翼」色は明確なのだが(よく知らないが、益川敏英もたんに名声?を「利用」されているのではない、<確信的な>活動家的信条の持ち主だと書いていた人もいる)、上記事務局の「気付」先とされる「原水爆禁止日本協議会」とはいわゆる(日本)原水協で、日本共産党系(直属の?)団体そのものではないか。

 <核兵器禁止・廃絶>を謳えば、(日本人ならば?)誰でも支持してくれる(はずの)運動であり、またそのためのポスターだと、この有名大寺院の責任者は考えているのだろうか。
 怖ろしいことだ。この寺院は、(日本共産党系・)日本原水協系の活動・運動の、この地域での拠点になっている可能性すらある。あまりも堂々と、建物内に入った者は誰でも通る廊下の壁にポスターは貼られていた。
 こんな例を見ると、①で紹介した文章は、たんなる<観念的理想家>の僧侶・仏教者が書いたのではなく、僧侶・仏教者の中にも日本共産党員は存在していて、そのような者が共産党色は出さないように用心しながら配慮して書いたのではないかとすら思えてくる。
 三 以上の三つの例の寺院はいずれも、直接にコミュニズム(または日本共産党)を支持することを明言したものではない。だが、現在の日本共産党の主張・路線と決して矛盾はしないものだ。<左翼的>(あるいは少なくとも社民党的)であることはほとんど明らかで、共産党員または親共産党の者が書いた、または責任者として貼った、という可能性も否定できない。
 <仏・共連合>という見慣れないだろう言葉を使ったのは、上のことによる。
 仏教徒が現在(とくに日本で)何をすべきかと真摯に思考することを排除するつもりはない。だが、そのような誠実で真摯かもしれない思考と活動の中に<容共(親コミュニズム)>精神が結果としてであれ浸透してきているようで、これまた<戦後>思潮の結果・成りゆきの一つとして、私は怖ろしく感じるし、強い憂慮も覚える。

0492/天皇の祭祀行為は宮中や宮中三殿に限られない。

 伊勢神宮式年遷宮広報本部・日本の源郷-伊勢神宮(2007.07)という計22頁の小冊子のp.3の冒頭の言葉は次のとおり。
 「神宮のおまつりは天皇陛下の祭祀です」。こうまで明記してあるのはむしろ珍しいように思う。
 既述だが、式年遷宮の準備に今上天皇陛下の「聴許」があったことを宮内庁長官が(伊勢)神宮に公文書で伝えたり、<勅祭社>という、天皇(・皇室)の「勅使」が祭祀者(祭祀主宰者)となるとみられる神社(・大社・神宮)があることも、少なくともいくつかの重要な祭祀は個々の神社(・大社・神宮)ではなく天皇(・皇室)自身の行為であることを示しているだろう。
 また、かりに天皇(・皇室)が形式的には祭祀者(祭祀主宰者)にならなくとも、皇祖・天照皇大神を祀り国家(・国民)の弥栄を祈る神社等の祭祀は、天皇(・皇室)に「代わって」行われている、という性格・位置づけのものも多くあると考えられる。
 以上で言いたいのは、天皇(・皇室)の祭祀は宮中でのみ行われるのではない、ということだ。
 また、皇居での祭祀は「宮中三殿」で行われるものに限らない。例えば、皇居内には稲を栽培・耕作する「御田」があるようであり、天皇陛下ご自身がそこでの稲作にかかわり、その「御初穂」は、伊勢神宮の「御正宮」の「玉垣」(唯一神明造の正殿を囲む板塀のことと推察される)に懸けられる(上記小冊子p.4-「懸税」というらしい)。
 ここで言いたいのは、皇居内での祭祀は「宮中三殿」という意味での「宮中」祭祀に限られない、ということだ。
 原武史は<宮中祭祀廃止>を(主観的には皇室のために?)主張しているようだが、天皇(・皇室)に関する本を数冊も書いているなら、以上のことくらいは知っているだろう。しかして、<宮中祭祀>の廃止だけで問題は解決するのか? 皇居以外で行われ続けている天皇(・皇室)主宰の祭祀はいったいどうなるのか? どのようにすべきと考えているのか? 東京=皇居で行われる祭祀は「宮中三殿」以外の場所で行われるものもあるが、<宮中祭祀廃止>論はそれらをどう考えているのか?
 簡単にあるいは単純に<宮中祭祀廃止>を主張できないのではないか。簡単・単純な<天皇制度>解体論者でないかぎりは。
 なお、伊勢神宮での祭祀が「天皇陛下の祭祀」だとして、そのような行為もまた、現行法制上は天皇の<私的行為>とされる。(神道も<宗教>だとかりにして、の話だが)宗教的性格を帯びている物・施設の所有権が天皇(・皇室)にある=天皇(・皇室)の「私有財産」とされているのと同じく、<宗教>性を帯びていれば全て<私的行為>とされているのだ。
 既述のように奇妙だと思うが、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社)等を素材にして、遅れているが別の回で、天皇(・皇室)の「行為」について整理しておくつもりだ。

0480/天皇・神道・政教分離-つづき4。園部逸夫・皇室制度(2007)。

 皇室・神道・政教分離の関係の問題(・現況)のいくつかにつき、以下、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007)による。園部逸夫(1929~)は元大学(法学部)教授・下級裁判所裁判官・大学教授・最高裁裁判官・大学教授といった経歴で、女系天皇容認の旨の<皇室典範有識者会議>の重要メンバーだったことで評判を悪くした面はあるが、皇室にかかわる現行(法)制度の説明や関係議論・学説の整理という点では少なくとも信頼できると考えられる。
 〇皇室の「財産」 敗戦前又は新憲法以前には天皇(・皇族)は皇居も含めて広く<私有財産>を有していたようだが、GHQの方針や新憲法施行の結果、天皇(・皇室)の①「公的活動」にかかわる財産や②「生活」にかかわる財産、③「皇室とともに伝えられてきた」財産はほとんど国有財産とされる。より正確には、国有財産は「行政財産」と「普通財産」に二分されるが、前者「行政財産」の一種としての「皇室用財産」として、天皇・皇室の利用に供されている(国有財産法による。「行政財産」には他に「公共用財産」・「公用財産」等の種別がある)。
 園部によると、①・②として皇居・御所・御用邸・御用地があり、「宮殿」は①に、「京都御所、桂離宮・修学院離宮、正倉院、陵墓」等は③に位置づけられる。天皇・皇室の利用の仕方に制限がない、という訳ではもちろん、ない。
 一方、天皇又は皇族の「純然たる私産」がなおある。①「ご由緒物」と②「お身の廻り品」だ(他に③現金もある)。前者の①に、「三種の神器、壺切りの御剣、宮中三殿、東山御文庫、皇后陛下のの宝冠類、…ご肖像画、屏風類」等がある。処分(とくに①についてだろう)には憲法8条による法的制約がある(以上、園部p.277-281、p.274)。
 ここでコメントを挿む。「三種の神器」と「宮中三殿」、とくに後者が天皇(等?)の<私有財産>とされていることは重要なポイントだ。「宮中三殿」の三殿の再述はしないが、いずれも<ご神体>が存置された<祭祀>の場所だ。そしてこれが国有財産(>皇室用財産)とされていないのは、その<宗教的>性格によるものと推察される(園部による明記はない)。政教分離原則により、神道(という<宗教>)関係施設を直接に国有にはできない、ということなのだろう。
 だが、仔細は知らないが、皇居の中に、そして「宮殿」の内部又は直近に「宮中三殿」はある筈だ(だからこそ「宮中…」と称するのだろう)。だとすれば、国有財産に囲まれて、それに保護されるように天皇(等?)の<私有財産>があることになる。
 さらに厳密に考えると「宮中三殿」の敷地(土地)は国有財産なのか「私産」なのか不明なのだが、敷地(土地)も<私有財産>だとすると、そのような<宗教用>の土地が戦後に天皇(・皇室)に無償で払い下げられたことになるが、それは特定の<宗教>を優遇したことにならないのか?
 また、「宮中三殿」の敷地(土地)は国有財産で建造物(上物)だけが<私有財産>なのだとすると、天皇(・皇室)は何らかの権原がなければその敷地(土地)を利用できない筈で、国有財産たる土地を無償で利用できる権利(無償の借地権(賃借権又は地上権))??、それとも国有財産の「占用(又は使用)許可」??)が国から付与されていることになる。その利用が<宗教>儀礼(=祭祀)だとすると、そのような優遇は、やはり特定の<宗教>を優遇していることになり、政教分離原則に反しないのか?
 <大ウソ>が基本にあると<細かなウソ>に分解されていくもので、「宮中三殿」(かりに建造物だけでも)は天皇(・皇室)の私有財産だと割り切ることによって、政教分離原則との抵触をすっきりと回避できるとは、とても考えられない。やはり、現憲法では国家・国民統合の象徴とされる天皇(・皇室)が歴史的・伝統的に10数世紀を超えて長らく行ってきた祭祀のための施設だ、という点を考慮し、強調しないかぎりは、圧倒的に広い国有財産たる区域の中に私有財産の存在を認める根拠を、あるいは(土地も国有財産の場合は)国有財産たる土地を「特権」的に利用して、その上に建つ<宗教>施設で祭祀を行えることの根拠を、説明できないのではないか。
 どこかにウソ(あるいは「無理」)がある。現行の制度・考え方はどこか奇妙だ、と感じるのだが…。なおも、別の回に続ける。<4/28に一部加筆・修正した。>

0477/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)の藤谷執筆部分によると、1950年代末から、伊勢神宮の<国家的保護>を求める動きが「神宮関係者や神職を中心とする保守的勢力」から起こり、「〔伊勢〕神宮国有化論」まで出てきたという。
 藤谷自身が「伝えられている」とか「いわれている」とか書いているのだから、どの程度の信憑性があるのか疑えないこともないが、「神宮国有化論」者の論点は次の二点にあると「いわれている」、らしい。
 ①「伊勢神宮は天皇の祖先をまつる神社」で、「皇室・国家と不可分」だから、少なくとも「天皇祭祀に必要な神殿や、敷地は国有とすべき」。
 ②「天皇の神宮に対する祭祀は私事」とされているが、「国家の象徴としての天皇の行為」で、「国家の公事としてみとめるべき」。
 ここでの「天皇の神宮に対する祭祀」とは何を意味するのか必ずしも明瞭でないが、伊勢神宮による祭祀への援助や天皇(・皇室)又はその代理者(勅使)が主宰者となる伊勢神宮での祭祀のことだろう。
 以上の二点は、「国有化」に直結する論拠に当然になるかは別としても、しごく当然の問題提起だ、と考えられる。
 (皇居内の「天皇祭祀に必要な神殿」・「敷地」の所有者は誰かは、別の回に記述する。)
 この欄でいく度か書いたように、伊勢神宮が天皇(・皇室)(のとくに「祭祀」)と不可分で天皇もまた国家と不可分(少なくとも「日本国の象徴」)だとすれば、伊勢神宮という一宗教法人の「私産」や天皇の「私的」行為と位置づけるのは奇妙であり、政教分離原則を意識するがゆえの「大ウソ」ではないかと思われる。
 だが、上の①・②を藤谷俊雄はつぎのように一蹴する。
 「まったく時代逆行の意見であることは、本書の読者には明らかなことと思う」(p.212)。
 「時代逆行」性が「明らか」だとは読者の一人となった私には思えないが。
 以上を叙述のほぼ最終的な主張としつつ、藤谷は以下のことをさらに付記している。
 1.「全知全能の神」があるならそれは「ただ一つ」でなければならず、「すべての人間を公平無私に愛する神」でなければならないのに、「特定の国家」・「民族」(・「種族」)だけを守る「神」は「未開人の神と大差ない」。「文化国家」の人々は「いいかげんに利己的な神信心〔ママ〕から目覚めていい」(p.212-3)。
 これはのちに「日本」と呼ばれるに至った地域に発生した「八百万の神々」があるという神道に対する厭味・批判なのだろう。だが、私は熱心な神道信者では全くないが、それでもバカバカしくて、反論する気にもなれない。この藤谷という人は、<宗教>をまるで理解できていないのではないか。マルクス主義者=唯物論者なら当然かもしれない(なお、神道は本当に「宗教」の一つなのかという問題があることはすでに触れている)。
 2.「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」。だが、それを「公事として全国民におしつければ、国民の信教の自由が失われることは歴史のしめす」ところ。「明治以後の国家がおかした過誤」が再び「繰り返され」てはならない(p.213)。
 「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」とは、さすがに、かつての一時期には<天皇制打倒>を唱えた日本共産党の党員(又は少なくとも強い支持者)の言葉だ。天皇(・皇室)の<信仰の自由>という問題・論点も出てきそうだが、立ち入らない(歴史的・伝統的な諸種の祭祀が「神道」という<宗教>が付着したものならば、天皇(・皇室)には<信仰の自由>はない、<天皇制度>とはそもそもそういうもので、<基本的人権>の類の議論とは別次元の存在だ、と解するほかはないだろう、と考えられる)。
 上の点よりも、<神道>を「公事として全国民におしつけ」る、ということの正確な意味が解らないことの方が問題だ。<国家神道化>を意味するのだろうか。そして<神道>を「公事として全国民におしつけ」れば、「明治以後の国家がおかした過誤」を再び繰り返すことになる、という論理も随分と杜撰だ。
 <国家神道化>は必然的に、あるいは論理的に、<明治以後の国家の過誤>につながった、あるいは、その不可欠の原因になった、のだろうか。
 むろん「明治以後の国家がおかした過誤」というものの厳密な内容が書かれていないので、上の適否を正確に検証することは不可能だ。しかし、神道の(少なくとも)<公事>化が戦前日本の「過誤」につながるというという指摘は、歴史学者・研究者の認識・それにもとづく主張ではなく、<政治>活動家のアジ演説的叙述であることに間違いはなく、この書物は上の2.を書いて全体を終えている。
 以上、近日中の読書メモの一つ。 

0472/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4。

 天皇・皇室による宮中での祭祀のための費用(および伊勢の神宮等の特定の神社への幣帛等のための費用若しくは幣帛料そのもの)は現行法令上は皇族の<私的>行為・活動のための「内廷費」から支出されている。これはいかにも奇妙であり、憲法上の<政教分離>原則と辻褄を合わせるための<大ウソ>ではないか、というのが当初に抱いた問題関心だった。
 政教分離に関する重要な最高裁判決がいくつかあり、関係下級審判決も出ていることは知っているが、判決例には立ち入らない。
 私がもったような問題関心は、しかし、当然だろうが誰かがすでに似たようなことを指摘しているもので、少なくとも一部の学識者によって共有されている。
 八木公生・天皇と日本の近代・下-「教育勅語」の思想(講談社現代新書、2001)は<天皇と日本の近代>二冊の最後の部分で(p.324~7)、天皇・祭祀・憲法の関連に言及して、締め括っている。論理展開(とくに敗戦前の状態の記述)を詳述することを得ないが、こんなふうに指摘する。
 <「政教分離の原則」のもとで「天皇の祭祀を宗教活動とみなして」憲法条項上の明記を排除したのは「明治国家に内在したあやまち」を逆の意味で繰り返している。「祭祀と宗教の混同」が、換言すれば、「祭祀行為」を「一定の教義の承認という意味での信仰」と見なす過ちがある。>
 そして、八木公生は実質的には憲法改正問題に、次のように論及する。
 <「日本国」のありようは「天皇の祭祀行為」を憲法に「いかに規定するか、あるいは逆に規定しないか」にかかっている。すなわち、「現憲法第一条の、さらにその前提として」、「天皇の祭祀行為」を「日本国」とのかかわりで「いかに規定するか」(いわば「憲法第0条」をどう表現するか)という「一点」に、「現在のわたしたちの課題がある」。>
 なかなか鋭い指摘だ。また、惜しくも故人となった坂本多加雄は<天皇制度>に関する大著ももっているが、亡くなる1年半ほど前の月刊ヴォイス2001年5月号(PHP)(憲法特集)にこんなことを書いていた。以下はごく簡単な要約。
 <九条・「平和主義」問題もあるが、「より立ち入った理論的検討が必要」なのは、「天皇とそれに関する国家の儀礼」をどう位置づけるか、さらに「国民主権」との関係をどう理解するか、にある。/「皇室行事は、天皇が天皇であることの証明」であり、とすれば天皇を「象徴」とする日本国の国民にとっても、それは「たんなる天皇家の私的行事ではないはず」で、「何らかの公的な意味づけが必要」だろう。/「国民主権」をフランス的に解釈する必要はないし、「君主」の存在と「国民主権」が矛盾なく並立している国は多数ある。/日本の「一般の国民」は「天皇のもとで議会政治が興隆した日本の近代史に対応」して今日の「天皇制度」を支持しつつ「議会政治」も支持しているだろう。/「生硬な政教分離や国民主権の観念」に振り回されることなく、「日本の歴史と国民の常識に即」して、考察する必要がある。>(坂本多加雄・同選集Ⅱ(藤原書店、2005.10)p.55~59に所収のものを参照した。他にもこの問題を論じた坂本の論稿はあると予想されるが未読。)
 坂本は上で「天皇とそれに関する国家の儀礼」と表現しているが、これがほぼ<天皇の祭祀行為>を意味していることは明らかだ。そして、それの<政教分離>や<国民主権>との関係を「日本の歴史と国民の常識」に即して議論すべきだ旨を説いている。
 もっとも、天皇に許容された行為を現憲法が列挙する「国事行為」に限定し、あとはすべて天皇が一個人・一人間として行う行為又は<趣味>的な行為等の<私的行為>と考えている、マルクス主義者らしき憲法学者(浦部法穂)もいることはすでに触れた。
 また、別の論者(歴史研究者)は日本共産党系の出版物で、さすがに(本音では)<天皇制>廃止をめざす論者らしきことを述べている。別の回に委ねる。

0470/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3。

 1.昨日4/19未明に書いたように1945年10月28日に宗教団体法が廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・施行されたが、この法令では宗教法人は「届出」制で、かつ宗教法人であれば「所得税・法人税」(おそらく今の固定資産税にあたるものも)も免除されることになるため、宗教団体が「乱立」した。そこで翌1946年・昭和21年の4/03に<宗教法人法>が制定され、「宗教法人」の設立は「所轄庁」(都道府県知事か?)の「認証」によることになった。
 一方、上の<宗教法人令>は「神社神道」(<教派神道>と区別するためにこの語があるようだ)を対象にしておらず、同令の1946年(昭和21年)2/02改正により対象とされた。その結果、「神社神道」団体も他の宗教団体と同様に「届出」すれば宗教法人になれたが、届出期間は「6ケ月以内」と限定され、届出しない場合は「解散」したものと見做すこととされていた。
 神社はこの届出をして「宗教法人」となるか民法34条により「祭祀法人」(「公益法人」の一種)になるかの選択を迫られた。だが、所管の文部大臣が民法34条の適用(「主務官庁」の「許可」が必要)を認めない方針だったため、<宗教法人令>による届出をして「宗教法人」になる以外に「生き残りの道」はなかった。
 以上、()内部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.246-7による(新田均執筆部分)。
 2.かくして伊勢の神宮等の神社は1946年(昭和21年)2月以降6ケ月以内に、国の一機構(営造物)ではない「宗教法人」として新たに出発したことになる。
 そして、占領下では実質的には憲法と同等かそれ以上の力をもったGHQの指令=<神道指令>によって、さらにはGHQが草案を作成した新憲法20条(政教分離原則)の定めの影響もあって、神社と国(・天皇)と関係は大きく変容することとなった。
 この政教分離(一般論ではなくわが国で現実に採用された実態)について、神社本庁の上掲書(新田均執筆)p.249は、三点に分けて、問題点を指摘している。
 そのうち最初の二つは、殆ど容易に理解・首肯できるものだ。要点は次のとおり(①・②はこの欄の筆者)。
 第一。「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して「全面的に否定したこと」。これに伴い、「神社神道の国家性」が否定され、「バラバラ」の「地域的性質」が「神社本来のもの」との見方が強調された。
 この冒頭の「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」なるものについては、今日ではこの存在を否定・消極視する人もいるだろう。上野千鶴子佐高信辻元清美日本共産党なら、「天皇…に対する神聖感」など、とんでもない、と言うかもしれない。だが、多くの国民は天皇(・皇室)への「神聖」感を少なくともある程度は有しているのではないか。また、だからこそ、かつての敗戦直後において、GHQも<天皇>制度そのものの廃棄へと踏み切れなかったのではないか。
 上の論点よりも、GHQはこうした「神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して(不当にも)「全面的に否定した」、という批判は的確だと考えられる。万が一「軍国主義・超国家主義」というものがかつてあり、かつそれは<悪い>ものであったとしても、そのことと<国家神道>とは、そして神社・神道(伊勢の神宮等)とは論理的には関係がない。「軍国主義・超国家主義」が神社・神道を<利用した>と言える面がかりにあるとしても、神社・神道そのものに非難が向けられるべきものではあるまい。なお、井沢元彦は、<国家神道>は本来の神道とは異なる、ということを強調している(同・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)p.118)。
 また、上に「神社神道の国家性」と語があり、それの否定を批判しているが、ここでの「神社神道の国家性」とは、<国家神道>を意味しているのではない、と理解されるべきものだろう。すなわち、神道が日本という「国」の成り立ち(肇まり)に深く関わっている、いやむしろ、神道なるものと成立とのちに「日本」と称されるようになった日本列島の重要部分を占める「国」の成立とは殆ど同じ時期のことであり、殆ど同じことを意味する、ということが「神社神道の国家性」という語で表現されているのではないかと思われる。
 第二。①「発生史的に見て国家とは本来無関係な宗教」であるキリスト教と国家との関係についての「信仰の自由・政教分離」という原則を、不可分の密接な関係のある日本「国家」と神道との関係に「強引に当て嵌めた」こと。これは「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい暴挙」だった。
 ②キリスト教が「唯一の伝統宗教」である地域では「各宗派に共通の基督教的要素は政教分離の対象とはされ」ていない。また、そのことによって「国家」の「無限」の「世俗化」を抑制している。しかるに、日本では「複数の伝統宗教が存在」し、各様に国家との関係を結んできたので、キリスト教に見られる「共通の要素」は見出し難い。にもかかわらず、「単純に政教分離の原則を適用すれば、宗教間の相互摘発によって、国家は無限に世俗化してゆく可能性」がある
 この①・②のような旨は別の論者による何かで読んだ記憶があるが、いずれも鋭い指摘だと思われる。
 GHQは、あるいは当時日本に滞在したアメリカ人は、神道をキリスト教の如きものと理解したに違いない。その上で<政教分離>も構想したに違いない。かの国での<政教分離>は基本的にはキリスト教の中での諸派のうち特定の宗派を優遇しないことを意味すると簡単には理解しているが(大統領就任の宣誓の際に<聖書>の上に手を置くことはしばしばこの脈絡で語られている)、そのような理解にもとづく<政教分離>原則がそのまま日本(・神道)に適用できるわけはないだろう。
 日本での厳格な、あるいは形式的な<政教分離>原則の適用によって<国家・政治>が際限なく「世俗化」していく(又はその可能性がある)という上の指摘はなかなか新鮮だ。
 <無宗教>的な国民が多数生まれ、戦後社会が形成されてきたため、日本の<国家・政治>は倫理的・道徳的・宗教的な<歯止め>を失い、「無限に世俗化して」いっている(又はすでにそうなってしまった)のではないか。キリスト教国においてすら、<大衆民主主義>の時代となり、その問題性・危険性が指摘されている。<無宗教>国・日本ではなおさらそうなのではないか。これは興味深い論点だ。
 以上と重なる所はあるが、そもそも神道は「宗教」の一つなのか、という問題があることも強く意識せざるをえない。国家と神道の分離は「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい」という上にも紹介した表現からは、神社関係者(神社本庁、新田均)の強い不満と抗議の感情が伝わってきそうだ。神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。
 以下と同旨のことはすでに書いたことがあるが、鎌田東二編・神道用語の基礎知識(角川選書、1999)p.12-13は、ラフカディオ・ハーンの文章を引用したりしたあと、「神道は教祖をもたない、教義がない、教典はない、教団という明確な組織をもたない、ないないづくしの宗教であ」る、と書く。
 むろん「宗教」概念の理解の仕方いかんによることだが、反復すれば、神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。そのような神道と国家(日本)との関係を欧米的に理解された<政教分離>原則によって律してよいのだろうか
 さらに言えば、国家と神道の形式的な分離によって、日本と日本人は「一つの肉体を切り分け」られ、「一つの人格を分裂させ」られたがゆえに、アイデンティテイを喪失し(又は少なくとも喪失感をもち)、日本「国家」を気嫌う<無国籍>者的な日本人も多くなったのではあるまいか(先日某書店内で、佐高信・国畜(出版社不確認)という本を見た。「国畜」とは家畜、森村誠一の造語の「社畜」から連想した造語だろう。佐高信は<無国籍>者の代表の一人だ。「左畜」とでも呼んでやろうか)。
 とりあえず今回はこのくらいにして、あと何回かは神道・皇室・政教分離にかかわるテーマで書いてみよう。

0463/「神道」とはそもそも何なのだろうか。

 神道に関心をもつのは、一つは、日本の伝統・歴史という場合、あるいは日本(人)の「愛国」心を考える場合に、神道(・神社)を避けて通るわけにはいかない、という潜在的な直感があるからだ。
 「直感」からすでに結論めいたことを紹介するのは<飛躍>してはいるが、すでに一部は読んだ形跡のあった井沢元彦・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)には、こんな文章がある。
 ・「神道」とは「日本古来の神様を、日本人のやり方で祀っていく宗教」だ(p.121)。
 ・キリスト教が欧州キリスト教国の政治行動の理由になったように、「日本人独自の信仰である神道も、日本人独自の政治制度や文化、あるいは歴史に大きな影響を与えて」いる(p.143)。
 ・「神道がわかれば日本史の謎が解ける」(p.162-一節の見出し)。
 ・「神道」は「やはり我々日本人の考え方の根本にあるもので」、「日本人の生き方にさまざまな影響を与えている」(p.163)。
 ・「理性や理屈では必ずしもそうだと言い切れないものをそうだと信じること」が「信仰」だと思うが、「その国の人間の信仰を知らなければ、その国の歴史はわからないはず」だ。日本は「自分たちの信仰をないがしろにしてき」たため、「アイデンティティがわからなくなってしまっている」(p.164)。
 ・「日本人のアイデンティティ」は、しかし、「明らかに存在」しており、それは「神道」だ(p.164)。
 ・「我々日本人は、実は神道の信徒」なのだ(p.165)。
 ・日本人が本当に「無宗教」だったら、何かの宗教(例、キリスト教)にたちまちに染まっても不思議ではないが、そうなっていないということは、「日本には実はキリスト教に対抗し得る強力な原理があった」ことを意味する。「神道こそがその原理だった」(p.165-6)。
 引用はこの程度にしておく。日本人に特有の思考方法・感受性等についての具体的言及は省略するが、たぶん井沢の言うとおりだろうという気がしている。イザヤ・ベンダサン(山本七平)はたしか「日本教」という概念を使って日本人独特の心理・考え方等を論じていたかに記憶するが、「日本教」とは「神道」に相当に類似したものの表現ではないだろうか。
 現在の神社本庁は神道それ自体についてどう説明しているか。神社本庁教学研究所監修・神道いろは(神社新報社、2004)によると、こうだ(p.14-15)。
 ・「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念」だ。
 ・「開祖」はいないし、聖書のような「教典」もない。但し、古事記・日本書紀・風土記等から「神道の在り方や神々のこと」は窺える。
 (なお、途中で挿むが、井沢・上掲書p.137は「神道の教典と考えてもいいのではないか、というもの」は「古事記」だ、と述べている。)
 ・仏教の伝来以降に「それまでの我が国独自の慣習や信仰が…『かむながらの道(神道)』として意識される」ようになった。
 ・特色の一つは「外来の他宗教に対する寛容さ」。(この点は、井沢・上掲書も指摘している。)
 ・神道は「自然との調和」を大切にする。「多くの神が森厳なる神社の境内の中にお鎮まりに」なっている。
 ・神道は「神々を敬い祖先を大切にする(敬神崇祖)」。
 (祖先崇拝を「儒教」と結びつける説明も別の論者又は文献によってなされていることがあるが、それは神道とも矛盾せず、むしろ神道の特色の一つなのだろう。もっともアジアの宗教(あるいは古来の東アジア人の精神)に共通する心性の可能性もある。)
 要約すると、以上の程度のことしか書かれていない(これは必ずしも批判ではない。単純素朴さ、簡明さは仏教とも異なる神道の特徴だと感じている)。
 一方また、「神社本庁」に関する次の説明も、神道の理解にとって参考になる(上掲の神道いろはp.44-45)。
 ・神社を国から分離するGHQの「神道指令」後、1946年2月3日に、「全国の神社と神社関係者を統合するための宗教法人神社本庁」が設立された。
 ・設立に際して、「教義が明確化された組織(神社教)の形態」を採らず、「各神社の独立性を尊重し全国の神社が独立の組織として連盟を結成する(神社連盟)を結成する」という考え方が基本とされた。
 ・従って、「他宗教にある統一的な教義といったもの」はない
 ・しかし、次の三項目を掲げる「敬神生活の綱領」を定めてはいる。①「神の恵みと祖先の恩に感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと」、②「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」、③「大御心(おおみこころ)をいだきてむつぎ和らぎ、国の隆盛と世界の共存共栄を祈ること」。
 以上。なるほどという感じもし、新鮮な感じもする。また、この程度の「綱領」を掲げる程度では、いく度か「神」が出てくるとしても、そして形式的には各神社や神社本庁は「宗教法人」だとしても、そもそも「宗教」といえるのだろうか、という基本的な疑問も湧いてくる
 さらに、いちおう神道も<宗教>だとして進めると、戦後は<無宗教>教育だったからこそ、「明き清きまこと」・「むつぎ和らぎ」といった心持ち、「世のため人のために奉仕し」といった公共心・他者愛心が教育されなかったのではないか、という気がしてくる(「国の隆盛世界の共存共栄(…を祈る)」のうちとくに前者(「愛国心」に直接につながる)は、公教育において殆ど無視されてきただろう)。
 よく指摘されている道徳観念・規範意識の欠如の増大傾向も<宗教教育>の欠如と無関係だとは思われない。ここでの<宗教教育>はやや大袈裟な表現で、<道徳教育>、さらには単純に<情操教育>と言い換えてもよいかもしれないが。
 今回の冒頭に「一つは」と記したが、もっと関心を持って書きたかったのは別の「一つ」にかかわる。回を改める。

0448/天皇制度と「宗教」-伊勢神宮式年遷宮費用問題から発展させて。

 皇室経済法(昭和22法律第4号)によると、「予算に計上する皇室の費用」には次の三種がある。①内廷費、②宮廷費、③皇族費、だ(法律上の順序による)。
 ①は皇族の「日常の費用その他内定諸費」に充てられ、②は①以外の「宮廷諸費」に充てられ、③は「皇族としての品位保持」のためのもので、皇族に年額、皇族であった者・皇族を離れる者に一時金額として出費される。
 園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007.09)も参照。但し、この本には、次の疑問の答えは明示されていない。そもそも(伊勢)神宮などという言葉は一回も出てこない。
 伊勢神宮をはじめとする神社や仏閣に天皇(家)から何らかの「金銭」が支出されているとすれば、上のどの種別に含まれるのか?
 日本国憲法第3条は「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と規定して、天皇は<国事行為>をするが、すべてに「内閣の助言と承認」が必要だと定める。この<国事行為>とは、同6条による内閣総理大臣・最高裁長官の「任命」のほかは、同7条が定めるものに限られると一般に解されているようだ(「「憲法改正、法律、政令及び条約」の「公布」、「国会」の「召集」、「衆議院」の「解散」、四~六<略>、七「栄典」の「授与」、八・九<略>、十「儀式を行ふこと」)。
 これらの国事行為と天皇の<(純粋な)私的行為>の区別は、財源的には、上の②と①の区別に対応する。①内廷費は皇族の「日常の費用その他」のいわば「私費」として使われる、とされる。
 天皇(皇族)の活動・行為は(憲法上の)国事行為に限られるのか、<(純粋な)私的行為>とも区別される第三の「公的行為」との類型もあり、これも存在しうるのか、については、「公的行為」肯定説と同否定説が憲法学界にはあるようだ(野中=中村=高橋=高見・憲法Ⅰ〔第四版〕(有斐閣、2006)の高橋和之(前東京大学)執筆部分のp.136-141参照)。
 少なくともマルクス主義「的」と見られる浦部法穂が関係部分を執筆している芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)で浦部法穂は、国事行為以外は「純粋な私的行為」のみ=「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」に限られる、とする(上掲書p.201、p.220~)。
 実務あるいは現実は<公的行為>を一定範囲で肯定しているようだが(国会開会式での「お言葉」など)、皇室が社寺とかかわる行為は<公的行為>とはされていないようだ。
 高橋和之(前東京大学)は上掲書p.131で憲法上の国事行為の一つの「儀式を行うこと」に触れて、「その儀式は私的ではなく国家的な性格なものでなければならず、かつ、政教分離の原則から宗教的なものであってはならないとされる」と書き、p.132では「儀式的行為が国事行為」になるには「国家的、全国民的性格のもの」の必要があり、「宗教的性格をもってはならないことはいうまでもない」と、「いうまでもない」との語尾をつけて強調しており、伊勢神宮等への関与が(現憲法上の)国事行為になる余地はなさそうだ。
 さらに、高橋(前東京大学法学部教授)は、昭和天皇の葬儀は「皇室の宗教儀式」としての「葬場殿の儀」と「国事行為」としての「大喪の礼」の二つを含んでいたこと、かつ両者が「同じ日に隣接した場所」で「あたかも一連の儀式であるかのような外観」で行われたので「政教分離の不徹底さが批判を受けた」と明記している。
 また、高橋は、現天皇陛下の即位にかかわる「皇室の宗教儀式」としての「大嘗祭」の費用は(国事行為とされなかったが)「宮廷費」から出費された、一方、現天皇陛下の婚姻の儀全体は当時の天皇=昭和天皇の「国事行為」として行われつつも、そのうち「賢所での宗教的儀式」=「神事」の費用は(「宮廷費」ではなく)「内廷費」で賄われた、という「あいまいさを残した」とも書いている(p.132-3)。
 こうして見ると、明記は以上のどの本にもないが、伊勢神宮への関与(式年遷宮費の一部負担)は「内廷費」から出費されていると理解しておそらく間違いないだろう。
 だが、極端とも思われる浦部法穂によれば、「内廷費」とは「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」について出費されるものになるが、はたして天皇(家)にとって、皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「純然たる私的行為」というような性格のものか否かは疑問も生じる。
 園部逸夫・上掲書p.298は「宗教的性格」をもつ「皇室財産は私有財産」とされ、「宗教的性格を有すると見られる行為は私的な立場の行為とされている」と書く。これがどうやら、現憲法のもとでの現在の一般的理解なのだろう。皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「宗教的性格を有する」と見られる限り、「私的な立場の行為」としか性格づけられないことになる(従って、「内廷費」で賄われる)
 だが、前東京大学の高橋和之は「いうまでもない」と書いて当然視しているが、現憲法上存置されている天皇と天皇制度はかくも全面的に<政教分離原則>に服しなければならないものなのだろうか。
 GHQがどの程度<天皇制度>の意味や歴史を理解していたかが問題になるが、いつか書いたように、とくに<神道>との密接な関連性をもつということは、<天皇制度>のうちに元来内包されている要素であり、そのようなものとして現憲法も<天皇制度>を存続させた、という解釈も可能なのではないだろうか。だとすれば、天皇(家)と<神道>の関係について厳格に<政教分離の原則>を適用するのは、むしろ憲法の趣旨には合致していない、とも解釈できるのではないだろうか。
 園部逸夫・上掲書p.同も、「宗教的性格」の財産や行為を従来通り「私的な位置づけ」とするとしても、「財産や行為の内容によっては」、それらの「文化的・歴史的意義に鑑み、…費用を、公費から支出することが可能なものもあるのではないか」と提言又は試論的に述べ、その例として、「文化的・歴史的な側面から」「宗教的意義」を評価しての、「古くから伝わる宗教的財産や古くから行われている祭祀等」を挙げている。
 「公費から支出」とは皇室経費以外の国費支出の場合の他に、「宮廷費」からの支出も含む、と理解できるのではないかと思われる。
 「古くから行われている祭祀等」の中に大嘗祭や婚礼のための「賢所での宗教的儀式」は含まれるかもしれないが、伊勢神宮の式年遷宮への<御下賜金>の交付も含まれるかは明らかではない。だが、少しばかりの可能性は生じうるだろう。
 以上は現日本国憲法を前提としての話なのだが、そもそも、政教分離に関する条項も、日本の宗教、とくに<神道>と<(日本化された)仏教>についてのいかほどの見識・知見をもって制定されているのかも問題にしなければならない。原文を作ったGHQの担当者は殆ど詳細な知識もなく、自国(アメリカ)又は欧州の有力諸国の憲法を大きな参考にしたのではなかろうか。
 だとすれば、宗教にかかわる国情も歴史も異なる日本に、米国(又は欧州)産の宗教関係条項をそのまま持ち込むのは無理がある、と言うべきではないか。
 そしてまた、<政教分離>の観点から、天皇(家)の宗教的活動を否定するかできるだけ制限することを志向している憲法学者の議論は、<天皇制度>への不信、将来におけるそれの廃棄を心の奥底では狙っているもののように思えなくもない。
 最もよいのは、<天皇と宗教>というテーマに関しても十分に議論・検討をして、新憲法を制定する(現憲法の関係条項を改正する)ことだろう。だが、自由民主党の新憲法草案を見てみると、新20条は現行規定と内容は殆ど(全く?)変わっていない。いつ憲法改正が具体的政治日程に上がるのか不明になってしまったが、目配りすべき部分は自由民主党の新憲法草案立案者が想定していたよりも多いのではないか。

0386/朝日新聞今年1/5夕刊は「初詣で」にシニカル。

 <反朝日新聞>と謳いつつ、定期購読はしておらず、外出先で偶々読むか、社説をネット上でときに見るにとどまる。べったりとこの新聞と付き合うのは、精神衛生に悪い。
 外出先で偶々読んだとき、たいてい、「朝日らしさ」をどこかに発見する。
 販売店で古物を売って貰おうかなどとぼんやり考えているうちに月日が経ったが、朝日新聞今年1/05夕刊にも「朝日らしい」記事があった。
 記憶に頼らざるをえないのだが、①正月の「初詣で」を冷笑し、②「神道」は<純粋に日本的ではない>とするものだった。
 ①は直接にそう書いているわけではない。正月の「初詣で」者数の全国的な多さに驚いて、そのような<慣例>にイチャモンをつけておきたい気分がうかがえた、ということだ。
 ②はその旨を明示して、神道からは<むしろ(東)アジアに普遍的な>ものが見えてくる、というようなことを書いていた。
 <純粋に日本的なもの>を神道に求めるという風潮?を批判したい気分の明らかな記事だった。だが、歴史をいにしえへと遡れば、「日本」という概念すら曖昧になる。古代のずっと先から原型があったとすれば、「神道」は<純粋に日本的なものではない>というのは至極当たり前のことではないか。
 執筆した若い?記者は、正月の「初詣で」という、神道という宗教との関連性の多い筈の<慣例的行事>に多数の国民が参加していることに怖れをなし、そのような現象に水をかけておきたいと思ったのではなかろうか。さすがに明示はしていないが、そのような「朝日的」気分の表れた記事だった。
 ところで、日本共産党員、社会民主党員およびこれら両党の熱烈なシンパは社寺への「初詣で」(その他「食い初め」とか「七五三詣り」とか)はしないのではなかろうか。社寺のもつ「宗教」を馬鹿にし、そのようなものに関与している<大衆>をもバカにする、まじめな党員であるほど、そのような心情をもっているのではないか、と思われる(そして朝日新聞の記者もそうかもしれない)。

0013/「科学的社会主義」とは「宗教のようなもの」でなく「宗教」そのものだ。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)全358頁もあと30頁程で全読了となる。早く同・保守主義の哲学(PHP、2004)も読み終えて、自称ハイエキアン憲法学者・阪本昌成の二著、すなわち同・リベラリズム/デモクラシー(有信堂、1998)、同・法の支配(勁草書房、2006)に向かいたいが、読書のみの生活というわけにはいかない。自由な元気に過ごせる時間だけは緩慢に進んでほしいものだ。
 共産党について又は共産主義について、「宗教のようなもの」という批判的な立場からの言葉を聴いたことが複数回ある。だが、日本共産党の奉じる共産主義とは、あるいは「科学的社会主義」とは、「宗教のようなもの」ではなく「宗教」そのもの、ではないか。ケインズとハイエクといえば、二人とも社会主義者ではないが、個人(のとりわけ経済活動)に対する国家の介入の容認の程度につき正反対と言ってもよい主張をしている学者又は思想家だった筈だ。但し、中川・上掲書p.237-8によれば、二人とも、共産主義又はマルクス主義を「宗教」と見ていた。中川が「レーニンによる共産ロシアを宗教国家と断じている」とする二人の文は次のとおりだ。ケインズ-「レーニン主義は、偽善者に率いられて迫害と宣伝を行なっている少数の狂信者の宗教」だ、「レーニン主義は宗教であって、単なる政党ではない」(「ロシア管見」全集9巻)。ハイエク-過去の何万もの宗教は「私有財産と契約」を認めず、「認めなかったものはすべて滅び、長続きしなかった。共産主義と呼んでいるものもこの迷信ないし宗教」に含められる(「文明社会の精神的病」エコノミスト1981年12月)。
 (少なくとも真面目な?)日本共産党員の中には共産党への批判・攻撃に対して「反共!」とだけ言い、又は思って、相手にしないで罵倒して、それだけで「勝った」と思う者(バカ)も多いだろう。だが、反共産主義とは、一部の偏狭な「右翼」と称される者のみの考え方ではない。「反共!」で済ませず、きちんと反共産主義に反駁するためには、ハイエク、ポパー、アレント等々も読んでからにすべきだ。と書きつつも、これらの人々の本を読むのを私も今後の楽しみにしているのだが(すでにかなり収集した)、私がマルクス、エンゲルスや共産党の文献を読んでいる程度にも反共産主義(自由主義、資本主義、保守主義と種々に表現できる)の文献を知らないままでは、彼らは、思考を停止して「信じる」だけの、「科学的社会主義教」という宗教(簡単に「共産教」でもよい)の宗徒にすきないだろう。資本主義から社会主義(さらに共産主義)へと不可避的に「発展」するという「予測」は、「科学的」でもなんでもない。ただの「信仰」であり、かつ「狂信」だ。

-0006/「靖国問題」を論じない方が望ましいのだが。

 書き足りていないので、昨日分の続き。かりに東京裁判の「受諾」が戦後日本(正確には再独立後の日本)の原点だとの見方が正しい又は適切だとしても、それと東京裁判の被告たちを祀る神社を参拝することが矛盾しているわけではない。朝日新聞や中国(共産党・政府)は大まかには<靖国参拝=戦犯たちの賛美=侵略戦争肯定>という論法に立っているのだろうが、これは幼児の議論だ。たしかに参拝者の中には侵略戦争肯定又はあの戦争の侵略性否定の考えの者もいるだろう。しかし、死者の霊に手を合わせることが当該死者の生前の見解・行動のすべてを肯定し賛美することを意味するとは、少なくとも一般的には、絶対に言えない。一般刑法犯罪により死刑となった者の墓に手を合わせる人もいるだろう。だが(中には冤罪を主張している者もいるかもしれないが)、受刑者・刑死者の墓参者は死刑の原因となった犯罪を肯定している、と言えるはずがない。靖国参拝は戦犯たちの思想・行動の肯定を少なくとも一般的には意味しない。侵略戦争肯定又はかつての戦争の侵略性の否定を一般的には意味しない。そうだと思っている者には誤解だと説明する他はなく、意識的な「誤解」者は相手にする必要がない。
 死者に対する対応の仕方は生者に対するそれとは異なるのが、日本人のほぼ一般的な心情なのではないか。中国人にそれが解らなくても当然だ。朝日新聞社の者が解らないとすれば、半分は日本人でなくなっている。
 とはいえ、「神道」を含む「宗教」に関する適切な教育をほとんど受けていない私(そしておそらく多くの日本人)も、神社に死者を「祀る」といことの意味、「参拝」することの意味を、とりわけ前者をよくは理解していない。靖国神社や各神社自体にはそれぞれの意味づけが(神道の共通性は維持しつつ)あるのだろう。だが、参拝し手を合わせて瞑目する者が何を感じ思うかはまさに個人それぞれの「心の中」の問題で、一般的にこうだと強制も断定もできないのでないか。小泉現首相のこれまでの参拝の理由づけは完全には納得し難い=よく判らないところがあるが、本質的問題だとは思えない。
 首相の靖国参拝は政教分離の憲法条項に関連する。戦後教育を受けてきた裁判官がほとんどとなっているのは下級審で違憲判決が出ている土壌でもある。神道をまるでキリスト教あるいは他の新興宗教等と並ぶ宗教の一つと理解すること自体に問題がある、というのが私論だ。
ギャラリー
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