秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

宗教

1337/2008年4月に「日本共産教」・「科学的社会主義教」と言っていた(再掲)。

 2007/03/23付けで、次のように、日本共産党を「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体と皮肉っていた。同じことを、つい最近も感じたわけだ。再掲する。最後の一段落は無関係なので、以下では省略。 
 --------------
 日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。
 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない。
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
 ------------------
 以上。

1223/西尾幹二・憂国のリアリズム(2013)を全読了。

 西尾幹二・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013)を、10/12~10/13に、数回に分けながら、すべて読んだ。

 〇最終章(第五章「実存と永遠」)の最後の節のタイトルは「宗教とは何か」。

 その中で自然科学者や社会科学者は「実在」を対象としていて、「自己」をとくに問題にしない、一方、人文科学はそうはいかない、と書いているのは興味深い。たしかに、経済・政治・法等を対象とする学部・学科に所属するまたは出身の「評論家」・論者に較べて、西尾幹二の文章には「自己」というものが相対的には色濃く現れているように感じるからだ。
 西尾は続けて、歴史学に言及し、歴史研究の認識対象たる「実在」は「過去」だが、「歴史は記述されて初めて歴史になる」、記述には過去の「特定の事実の選択」が先行し、この選択には記述者の「評価」が伴う、歴史研究の対象たる「客観世界」は「自己」が動くことによって「そのつど違って見える」、というようなことを書いている(p.321)。
 そのとおりだろう、と思われる。但し、瑣末で余計なことだが、歴史学は現在の大学での学部・学科編成とは異なり、元来は「社会」系の学問分野ではないか、と感じている。そして、おそらくは西尾の論述の仕方とは逆に、「社会科学」なるものも厳密には「自己」なるものの立場を抜きにしては語られえないのではないか、とも感じている。

 さて、西尾幹二は「宗教」を、「過去」なる具体的・有限の「実在」を前提としたりするのではなく、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする心の働き」だと、ひとまず定義している。ここに学問と宗教の違いがある、ということだろうか。そしてまた、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする」のは「途方もないこと」で、「死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の実存を信じ」る多くの宗教組織・教団類があるが、「どれか一つの宗派の選択だけが正道である」とする強靱さを自分は持てない、「特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない」と西尾が告白?しているのも(p.322-4)、興味深い。

 最も最後の段落の文章は、なかなか難解だ。-学問と宗教は相反概念だが、明治以来日本人は欧州から「近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を『実在』として生きているのが現実であるにもかかわらず、このニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりしたりして平然と『自己』を疑わないでいるのである」(p.325)。

 〇ところで、この著書は西尾幹二の2010年~2013年6月に諸雑誌に発表した論考をまとめたものだ。五つの章に分類されてはいるが、数えてみると全部で26本の論考から成り立っている。
 どの雑誌に発表されたものかを「初出一覧」(p.330-)で見てみると。月刊WiLLまたは歴史通(いずれも、ワック)が計7で最も多く、ついで、言志(これは知らなかったのでネットで調べてみると、ブクログが発行所、編集長・水島総、編集者・井上敏治・小川寛大・古谷経衡)が5。第三位なのが月刊正論(産経新聞社)で3、続いてサピオ(小学館)と週刊新潮(新潮社)が各2ジャパニズム・週刊ポスト・テーミス等が各1、になっている。

 言志なる雑誌(メールマガジン?)に関心をもった。同時に、西尾幹二は現在は月刊正論(産経)に連載しているようだが、月刊WiLL+歴史通と言志で12/26を占めており、月刊正論掲載は3論考しかないので、とても<産経文化人>とはいえない、ということが明確になってもいる。産経新聞の「正論」執筆グループの一人でもないはずだ。些細なことかもしれないが、こんなことも興味深くはある。

 「産経」を批判または皮肉っている部分も数カ所あった。この本の内容についてはさらに言及する(今回に上で言及したのは最も非政治的な論考かもしれない)。

0871/寺社への拝観料・入山料等はどこへ?

 一 「日本宗教者平和協議会」という団体があるらしい。
 ウェブサイトによると、略称の「宗平協」は、「宗教者(信者・門信徒もふくめて)で、『宗教者の良心に基づき世界の平和と人類の幸福に寄与する』という目的に賛同する人であれば、誰でも参加することができ」るらしい。基本的には、個人加入の組織のようだ。
 同じく、その<主な活動>は以下だとされている。
 「①信教の自由と政教分離の確立
 靖国神社の閣僚公式参拝や国家護持の動きなど、権力による宗教統制・利用に反対し信教の自由を守る。 宗教の側からの政治権力の利用に反対し、政教分離の原則を訴える。
 ②核兵器の使用禁止と廃絶
 核兵器禁止の国際条約の締結を要求し、全ての核兵器の廃絶を求める。

 ③軍事基地の撤去と軍事条約の撤廃
 憲法違反の自衛隊に反対し、沖縄をはじめとする日本国内の米軍基地の撤去と日米安保条約の緒廃棄を求める。

 ④日本国憲法の擁護
日本国憲法を擁護し、平和・民主主義の原則を守り発展させる。

 ⑤環境の保全と回復
 「自然と共に生き、自然の中に生かされている」ことを自覚し、環境の破壊を許さず、保全と回復につとめる。

 ⑥宗教者の国際連帯の強化
 平和五原則に基づく国際友好をすすめ、平和のための宗教者の国際連帯と相互支援を前進させる。」

 これらのうち、とくに①~④は現在の日本共産党の主張と同じだ(または、それよりも率直だ)。③では、自衛隊を「憲法違反」と明記し、国内の「米軍基地の撤去」、「日米安保条約の廃棄」をはっはりと謳っている(「緒廃棄」は原文ママだが、「諸廃棄」でも意味は通じないので、「即時廃棄」の入力ミスだろうか)。

 この団体は、次のアピールを出している。
 「2000/08/31 防衛庁長官と東京都知事に「防災演習」についての抗議と要請
  2000/06/10 森首相の「国体」発言を厳しく糾弾する
  2000/05/16 森首相の「神の国」発言に断固抗議する。
  1999/07/01 盗聴法案(組織的犯罪対策法案)廃案を求めます
  1999/06/15 「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とする法制化に強く反対します。
  1999/05/25 新ガイドライン関連法案の強行採決に抗議する
  1999/04/20 NATOのユーゴ空爆を即時停止し、紛争当事者による平和交渉の再開と、関係諸国に平和的解決を要請する
 1999/01/06 中村法相の罷免と国会の解散を要求する」

 最も上の2000/08のものは「防衛庁・自衛隊と東京都」が予定する「平成一二年度自衛隊統合防災演習」は「防衛庁・自衛隊の統合幕僚会議議長の指揮の下に大量の自衛隊員を首都へ移動させるなど、治安出動のための演習といわざるをえない」とし、「治安維持を自衛隊に期待する石原東京都知事の発言や、新ガイドライン成立によるあらたな自衛隊の『治安出動』のための法『改正』を狙う政府・自民党の策動からも裏付けられ」ると述べる。

 その下の森首相発言への抗議も含めて、→
http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/apnisyu2.htm#bousai

 一番下の中村法相うんぬんは「去る四日、中村法相が法務省内での新年集会において、『日本人は、連合国からいただいた、国の交戦権は認めない、自衛もできない、軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないというなかでもがいている』と発言したことは、歴史の事実に反し、憲法に違反し人類の進歩に逆行し、憲法改悪、『有事』参戦への布石として重大な問題を孕んでおり、何よりも憲法遵守の義務を負う法務大臣の資質の欠落を露呈したものであり黙過することはできません」と始まる。そして、「わが国の憲法は連合国から試案を提示されましたが、戦争放棄はまさに幣原首相の独創であったことをマッカサー総司令官自身が認めています」と、面白い(?)ことも断定的に書いている。

 これも含めて、下の4つの全文は、→

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/ap-nisyu.html#naka

 機関紙「宗教と平和」というのを発行しているようで、そこに示された「日本宗教者平和協議会」の(事務所・事務局の)所在地は次のとおり。

 「〒113-0003 東京都文京区湯島3-37-12 TS第7ビル502号」

 二 「日本宗教者平和協議会への加盟および平和諸団体との提携協力」を規約上の「目的」の一つとする地域的団体の一つに「奈良宗教者平和協議会(略称・奈良宗平協)」というのがある。

 ウェブサイトによると、この団体は、日本宗教者平和協議会とは別に、以下のアピールを発している。

 「2003/12/09 憲法違反のイラクへの自衛隊派兵『基本計画』決定に抗議する
 2003/03/17 イラクへの武力行使に反対する
 1998/05/20 インドの核実験に抗議する
 1996/07/27 史実に反する『従軍慰安婦発言』を繰り返す奥野誠亮衆議院に抗議し、議員辞職を要求する
 1996/06/10 中国の核実験に抗議する
 1995/11/14 フランス・中国の核実験中止と核実験全面禁止条約の締結を求める
 1995/05 ~終戦・被爆五〇年にあたって~核廃絶を呼びかける奈良県宗教者のアピール
 1994/07/24 核兵器廃絶の先頭に立ち、日本国憲法の平和的民主的原則を遵守せよ。-村山首相への抗議と要請
 1993/10 小選挙区制の導入に反対するアピール」

 ・奈良市中心部より東北の般若寺(はんにゃじ)には「原爆の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えるため」の「平和の火」をともす「平和の塔」というのが建っている。

 ・奈良市中心部より東南の白毫寺(びゃくごうじ)の境内には、「奈良宗教者平和協議会」と書かれた木板が入口に掛かる建物がある。

 宗教法人としての寺院そのものではなくとも、この二つの寺院の代表者または有力者が「奈良宗平協」に加入している(そして有力な構成員である)ことは間違いない。

 実際にも、上掲のアピールの最上の<イラク派兵反対>は、「奈良宗教者平和協議会 代表理事 工藤良任(般若寺住職) 宮崎快堯(白毫寺住職)」という名義で出されている。→

http://www5a.biglobe.ne.jp/~akio-y/heiwa/appeal.htm

 なお、上の二つの寺院はいずれも関西に25しかない、<関西花の寺二五カ所>の番所(札所)。

 三 大阪にも「大阪宗教者平和協議会」というのがあるらしい。

 「大阪宗平協ニュース」というのを発行していて、ウェブサイトによると、最新号は2009/11/24付。

 そのニュースには12/08の「第19回定期総会」と同日の記念講演(会)の案内が掲載されている。

 「民主党政権下での『反核平和』」とのテーマで講演する(した)のは中田進という人物で、同ニュースに記載の経歴によると、「1937年生まれ」の「関西勤労者教育教会講師」で、<学習の友社>や<新日本出版社>から本を出している。この二つの出版社は実質的には日本共産党とほとんど同一。

 「大阪宗平協」の事務所(事務局)は、同ニュースの発行元の記載によると、次のようだ。

 「大阪市東住吉区今川2-8-5 正念寺内」

 四 以上のようなことに加えて、「奈良宗平協」のウェブサイトからリンクを張っている諸団体等のうち「反核平和運動・被爆者団体・個人のHP」のトップ2つは「原水爆禁止日本協議会」と「日本被爆者団体協議会」であること、いくつかの県の「~平和委員会」も含まれていること、その他の「団体」のうちトップは「自由法曹団」であること、等を加味しても、「宗教者平和協議会(宗平協)」という団体は明確に日本共産党系だ。

 より正確にいえば、日本共産党員が宗教法人内に<フラクション>を形成して活動している、というのがむしろ実態に近いかもしれない。
 代表者・有力者がこの「宗教者平和協議会(宗平協)」に加入しているような寺社への拝観料・入山料等々は、いったいどこに消えるのか、何のために使われるのか。警戒しておいても悪くはない。

0848/<仏・共連合>の成立?②(終わり)。

 二 (つづき)
 ②別の某県某市のこれまたこの地域では有名な寺院の一つを訪れてみると、残念ながら写真を撮っておらず、文書・パンフをきちんと残していないことに今気づいたのだが、本堂近くに、まるで「九条の会」が主張しているような内容のビラか冊子のようなものが置かれてあった。
 先の①の寺院(・大会)よりも露骨に、「護憲」(と「反戦」)を呼びかけるものだった。
 仏教徒にも「政治的」活動の自由はある、とは一応は言えるのだろう。また、当該寺院の責任者たちは自らの信仰と「九条の会」の主張とは矛盾してない、むしろ合致している、と考えているかもしれない。
 だが、政治的には日本共産党系の運動といってよいのが常識的だと思われる「九条の会」の主張と似たようなことを書いた文書を参拝者の目に付きやすい場所に置くとは、あまりにも「政治的」に<幼稚な>感覚というものだろう。
 その寺院にもいろいろな檀家の人々がいると思われる(訪問者・参拝者の中には、私のような者もいる)。そのような直近の人々の(檀家総会の?)同意を得て、そのような文書を作成しているのだろうか。奇妙に感じながら、その寺院の境内を後にしたものだ。
 ③つぎは、全国的にも有名と見られる、日本の大寺院10に含める人もいるかもしれないほどの大寺院でのこと。
 その寺院の某建物の廊下に、10名の人物の顔写真を掲載した大きなポスターが貼ってあった。
 その10名のうち当該寺院の宗派「管長」以外の9名は、タテ長のポスターの右上から左下への順番で書くと、益川敏英(現京都産業大学理学部教授、ノーベル賞受賞者)、秋葉忠利(広島市長、元日本社会党国会議員)、湯川れい子(音楽評論家)、坪井直(被爆者)、麻生久美子(女優)、張本勲(元プロ野球選手)、田上富久(長崎市長)、小山内美江子(脚本家)、井上ひさし(作家)。
 これだけ並べると推測がつこうが、ポスターの中心には「核兵器のない世界を・あなたの未来のために国際署名にご協力を!」と書かれている。下部には、横書きで「私たちは、/核保有国をはじめとするすべての国の政府がすみやかに核兵器禁止・廃絶の交渉を開始し、締結することに合意するようよびかけます」との一文が記載されている。
 そのまた下に小さく書かれているこのポスターの製作者名は、次のとおり。
 「〇『核兵器のない世界を』国際署名キャンペーン事務局 〇113-8464東京都文京区湯島2-4-4平和と労働センター6階 原水爆禁止日本協議会気付 〔TEL、URL省略〕」
 井上ひさし小山内美江子ですでに「左翼」色は明確なのだが(よく知らないが、益川敏英もたんに名声?を「利用」されているのではない、<確信的な>活動家的信条の持ち主だと書いていた人もいる)、上記事務局の「気付」先とされる「原水爆禁止日本協議会」とはいわゆる(日本)原水協で、日本共産党系(直属の?)団体そのものではないか。

 <核兵器禁止・廃絶>を謳えば、(日本人ならば?)誰でも支持してくれる(はずの)運動であり、またそのためのポスターだと、この有名大寺院の責任者は考えているのだろうか。
 怖ろしいことだ。この寺院は、(日本共産党系・)日本原水協系の活動・運動の、この地域での拠点になっている可能性すらある。あまりも堂々と、建物内に入った者は誰でも通る廊下の壁にポスターは貼られていた。
 こんな例を見ると、①で紹介した文章は、たんなる<観念的理想家>の僧侶・仏教者が書いたのではなく、僧侶・仏教者の中にも日本共産党員は存在していて、そのような者が共産党色は出さないように用心しながら配慮して書いたのではないかとすら思えてくる。
 三 以上の三つの例の寺院はいずれも、直接にコミュニズム(または日本共産党)を支持することを明言したものではない。だが、現在の日本共産党の主張・路線と決して矛盾はしないものだ。<左翼的>(あるいは少なくとも社民党的)であることはほとんど明らかで、共産党員または親共産党の者が書いた、または責任者として貼った、という可能性も否定できない。
 <仏・共連合>という見慣れないだろう言葉を使ったのは、上のことによる。
 仏教徒が現在(とくに日本で)何をすべきかと真摯に思考することを排除するつもりはない。だが、そのような誠実で真摯かもしれない思考と活動の中に<容共(親コミュニズム)>精神が結果としてであれ浸透してきているようで、これまた<戦後>思潮の結果・成りゆきの一つとして、私は怖ろしく感じるし、強い憂慮も覚える。

0492/天皇の祭祀行為は宮中や宮中三殿に限られない。

 伊勢神宮式年遷宮広報本部・日本の源郷-伊勢神宮(2007.07)という計22頁の小冊子のp.3の冒頭の言葉は次のとおり。
 「神宮のおまつりは天皇陛下の祭祀です」。こうまで明記してあるのはむしろ珍しいように思う。
 既述だが、式年遷宮の準備に今上天皇陛下の「聴許」があったことを宮内庁長官が(伊勢)神宮に公文書で伝えたり、<勅祭社>という、天皇(・皇室)の「勅使」が祭祀者(祭祀主宰者)となるとみられる神社(・大社・神宮)があることも、少なくともいくつかの重要な祭祀は個々の神社(・大社・神宮)ではなく天皇(・皇室)自身の行為であることを示しているだろう。
 また、かりに天皇(・皇室)が形式的には祭祀者(祭祀主宰者)にならなくとも、皇祖・天照皇大神を祀り国家(・国民)の弥栄を祈る神社等の祭祀は、天皇(・皇室)に「代わって」行われている、という性格・位置づけのものも多くあると考えられる。
 以上で言いたいのは、天皇(・皇室)の祭祀は宮中でのみ行われるのではない、ということだ。
 また、皇居での祭祀は「宮中三殿」で行われるものに限らない。例えば、皇居内には稲を栽培・耕作する「御田」があるようであり、天皇陛下ご自身がそこでの稲作にかかわり、その「御初穂」は、伊勢神宮の「御正宮」の「玉垣」(唯一神明造の正殿を囲む板塀のことと推察される)に懸けられる(上記小冊子p.4-「懸税」というらしい)。
 ここで言いたいのは、皇居内での祭祀は「宮中三殿」という意味での「宮中」祭祀に限られない、ということだ。
 原武史は<宮中祭祀廃止>を(主観的には皇室のために?)主張しているようだが、天皇(・皇室)に関する本を数冊も書いているなら、以上のことくらいは知っているだろう。しかして、<宮中祭祀>の廃止だけで問題は解決するのか? 皇居以外で行われ続けている天皇(・皇室)主宰の祭祀はいったいどうなるのか? どのようにすべきと考えているのか? 東京=皇居で行われる祭祀は「宮中三殿」以外の場所で行われるものもあるが、<宮中祭祀廃止>論はそれらをどう考えているのか?
 簡単にあるいは単純に<宮中祭祀廃止>を主張できないのではないか。簡単・単純な<天皇制度>解体論者でないかぎりは。
 なお、伊勢神宮での祭祀が「天皇陛下の祭祀」だとして、そのような行為もまた、現行法制上は天皇の<私的行為>とされる。(神道も<宗教>だとかりにして、の話だが)宗教的性格を帯びている物・施設の所有権が天皇(・皇室)にある=天皇(・皇室)の「私有財産」とされているのと同じく、<宗教>性を帯びていれば全て<私的行為>とされているのだ。
 既述のように奇妙だと思うが、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社)等を素材にして、遅れているが別の回で、天皇(・皇室)の「行為」について整理しておくつもりだ。

0480/天皇・神道・政教分離-つづき4。

 皇室・神道・政教分離の関係の問題(・現況)のいくつかにつき、以下、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007)による。園部逸夫(1929~)は元大学(法学部)教授・下級裁判所裁判官・大学教授・最高裁裁判官・大学教授といった経歴で、女系天皇容認の旨の<皇室典範有識者会議>の重要メンバーだったことで評判を悪くした面はあるが、皇室にかかわる現行(法)制度の説明や関係議論・学説の整理という点では少なくとも信頼できると考えられる。
 〇皇室の「財産」 敗戦前又は新憲法以前には天皇(・皇族)は皇居も含めて広く<私有財産>を有していたようだが、GHQの方針や新憲法施行の結果、天皇(・皇室)の①「公的活動」にかかわる財産や②「生活」にかかわる財産、③「皇室とともに伝えられてきた」財産はほとんど国有財産とされる。より正確には、国有財産は「行政財産」と「普通財産」に二分されるが、前者「行政財産」の一種としての「皇室用財産」として、天皇・皇室の利用に供されている(国有財産法による。「行政財産」には他に「公共用財産」・「公用財産」等の種別がある)。
 園部によると、①・②として皇居・御所・御用邸・御用地があり、「宮殿」は①に、「京都御所、桂離宮・修学院離宮、正倉院、陵墓」等は③に位置づけられる。天皇・皇室の利用の仕方に制限がない、という訳ではもちろん、ない。
 一方、天皇又は皇族の「純然たる私産」がなおある。①「ご由緒物」と②「お身の廻り品」だ(他に③現金もある)。前者の①に、「三種の神器、壺切りの御剣、宮中三殿、東山御文庫、皇后陛下のの宝冠類、…ご肖像画、屏風類」等がある。処分(とくに①についてだろう)には憲法8条による法的制約がある(以上、園部p.277-281、p.274)。
 ここでコメントを挿む。「三種の神器」と「宮中三殿」、とくに後者が天皇(等?)の<私有財産>とされていることは重要なポイントだ。「宮中三殿」の三殿の再述はしないが、いずれも<ご神体>が存置された<祭祀>の場所だ。そしてこれが国有財産(>皇室用財産)とされていないのは、その<宗教的>性格によるものと推察される(園部による明記はない)。政教分離原則により、神道(という<宗教>)関係施設を直接に国有にはできない、ということなのだろう。
 だが、仔細は知らないが、皇居の中に、そして「宮殿」の内部又は直近に「宮中三殿」はある筈だ(だからこそ「宮中…」と称するのだろう)。だとすれば、国有財産に囲まれて、それに保護されるように天皇(等?)の<私有財産>があることになる。
 さらに厳密に考えると「宮中三殿」の敷地(土地)は国有財産なのか「私産」なのか不明なのだが、敷地(土地)も<私有財産>だとすると、そのような<宗教用>の土地が戦後に天皇(・皇室)に無償で払い下げられたことになるが、それは特定の<宗教>を優遇したことにならないのか?
 また、「宮中三殿」の敷地(土地)は国有財産で建造物(上物)だけが<私有財産>なのだとすると、天皇(・皇室)は何らかの権原がなければその敷地(土地)を利用できない筈で、国有財産たる土地を無償で利用できる権利(無償の借地権(賃借権又は地上権))??、それとも国有財産の「占用(又は使用)許可」??)が国から付与されていることになる。その利用が<宗教>儀礼(=祭祀)だとすると、そのような優遇は、やはり特定の<宗教>を優遇していることになり、政教分離原則に反しないのか?
 <大ウソ>が基本にあると<細かなウソ>に分解されていくもので、「宮中三殿」(かりに建造物だけでも)は天皇(・皇室)の私有財産だと割り切ることによって、政教分離原則との抵触をすっきりと回避できるとは、とても考えられない。やはり、現憲法では国家・国民統合の象徴とされる天皇(・皇室)が歴史的・伝統的に10数世紀を超えて長らく行ってきた祭祀のための施設だ、という点を考慮し、強調しないかぎりは、圧倒的に広い国有財産たる区域の中に私有財産の存在を認める根拠を、あるいは(土地も国有財産の場合は)国有財産たる土地を「特権」的に利用して、その上に建つ<宗教>施設で祭祀を行えることの根拠を、説明できないのではないか。
 どこかにウソ(あるいは「無理」)がある。現行の制度・考え方はどこか奇妙だ、と感じるのだが…。なおも、別の回に続ける。<4/28に一部加筆・修正した。>

0477/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)の藤谷執筆部分によると、1950年代末から、伊勢神宮の<国家的保護>を求める動きが「神宮関係者や神職を中心とする保守的勢力」から起こり、「〔伊勢〕神宮国有化論」まで出てきたという。
 藤谷自身が「伝えられている」とか「いわれている」とか書いているのだから、どの程度の信憑性があるのか疑えないこともないが、「神宮国有化論」者の論点は次の二点にあると「いわれている」、らしい。
 ①「伊勢神宮は天皇の祖先をまつる神社」で、「皇室・国家と不可分」だから、少なくとも「天皇祭祀に必要な神殿や、敷地は国有とすべき」。
 ②「天皇の神宮に対する祭祀は私事」とされているが、「国家の象徴としての天皇の行為」で、「国家の公事としてみとめるべき」。
 ここでの「天皇の神宮に対する祭祀」とは何を意味するのか必ずしも明瞭でないが、伊勢神宮による祭祀への援助や天皇(・皇室)又はその代理者(勅使)が主宰者となる伊勢神宮での祭祀のことだろう。
 以上の二点は、「国有化」に直結する論拠に当然になるかは別としても、しごく当然の問題提起だ、と考えられる。
 (皇居内の「天皇祭祀に必要な神殿」・「敷地」の所有者は誰かは、別の回に記述する。)
 この欄でいく度か書いたように、伊勢神宮が天皇(・皇室)(のとくに「祭祀」)と不可分で天皇もまた国家と不可分(少なくとも「日本国の象徴」)だとすれば、伊勢神宮という一宗教法人の「私産」や天皇の「私的」行為と位置づけるのは奇妙であり、政教分離原則を意識するがゆえの「大ウソ」ではないかと思われる。
 だが、上の①・②を藤谷俊雄はつぎのように一蹴する。
 「まったく時代逆行の意見であることは、本書の読者には明らかなことと思う」(p.212)。
 「時代逆行」性が「明らか」だとは読者の一人となった私には思えないが。
 以上を叙述のほぼ最終的な主張としつつ、藤谷は以下のことをさらに付記している。
 1.「全知全能の神」があるならそれは「ただ一つ」でなければならず、「すべての人間を公平無私に愛する神」でなければならないのに、「特定の国家」・「民族」(・「種族」)だけを守る「神」は「未開人の神と大差ない」。「文化国家」の人々は「いいかげんに利己的な神信心〔ママ〕から目覚めていい」(p.212-3)。
 これはのちに「日本」と呼ばれるに至った地域に発生した「八百万の神々」があるという神道に対する厭味・批判なのだろう。だが、私は熱心な神道信者では全くないが、それでもバカバカしくて、反論する気にもなれない。この藤谷という人は、<宗教>をまるで理解できていないのではないか。マルクス主義者=唯物論者なら当然かもしれない(なお、神道は本当に「宗教」の一つなのかという問題があることはすでに触れている)。
 2.「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」。だが、それを「公事として全国民におしつければ、国民の信教の自由が失われることは歴史のしめす」ところ。「明治以後の国家がおかした過誤」が再び「繰り返され」てはならない(p.213)。
 「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」とは、さすがに、かつての一時期には<天皇制打倒>を唱えた日本共産党の党員(又は少なくとも強い支持者)の言葉だ。天皇(・皇室)の<信仰の自由>という問題・論点も出てきそうだが、立ち入らない(歴史的・伝統的な諸種の祭祀が「神道」という<宗教>が付着したものならば、天皇(・皇室)には<信仰の自由>はない、<天皇制度>とはそもそもそういうもので、<基本的人権>の類の議論とは別次元の存在だ、と解するほかはないだろう、と考えられる)。
 上の点よりも、<神道>を「公事として全国民におしつけ」る、ということの正確な意味が解らないことの方が問題だ。<国家神道化>を意味するのだろうか。そして<神道>を「公事として全国民におしつけ」れば、「明治以後の国家がおかした過誤」を再び繰り返すことになる、という論理も随分と杜撰だ。
 <国家神道化>は必然的に、あるいは論理的に、<明治以後の国家の過誤>につながった、あるいは、その不可欠の原因になった、のだろうか。
 むろん「明治以後の国家がおかした過誤」というものの厳密な内容が書かれていないので、上の適否を正確に検証することは不可能だ。しかし、神道の(少なくとも)<公事>化が戦前日本の「過誤」につながるというという指摘は、歴史学者・研究者の認識・それにもとづく主張ではなく、<政治>活動家のアジ演説的叙述であることに間違いはなく、この書物は上の2.を書いて全体を終えている。
 以上、近日中の読書メモの一つ。 

0472/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4。

 天皇・皇室による宮中での祭祀のための費用(および伊勢の神宮等の特定の神社への幣帛等のための費用若しくは幣帛料そのもの)は現行法令上は皇族の<私的>行為・活動のための「内廷費」から支出されている。これはいかにも奇妙であり、憲法上の<政教分離>原則と辻褄を合わせるための<大ウソ>ではないか、というのが当初に抱いた問題関心だった。
 政教分離に関する重要な最高裁判決がいくつかあり、関係下級審判決も出ていることは知っているが、判決例には立ち入らない。
 私がもったような問題関心は、しかし、当然だろうが誰かがすでに似たようなことを指摘しているもので、少なくとも一部の学識者によって共有されている。
 八木公生・天皇と日本の近代・下-「教育勅語」の思想(講談社現代新書、2001)は<天皇と日本の近代>二冊の最後の部分で(p.324~7)、天皇・祭祀・憲法の関連に言及して、締め括っている。論理展開(とくに敗戦前の状態の記述)を詳述することを得ないが、こんなふうに指摘する。
 <「政教分離の原則」のもとで「天皇の祭祀を宗教活動とみなして」憲法条項上の明記を排除したのは「明治国家に内在したあやまち」を逆の意味で繰り返している。「祭祀と宗教の混同」が、換言すれば、「祭祀行為」を「一定の教義の承認という意味での信仰」と見なす過ちがある。>
 そして、八木公生は実質的には憲法改正問題に、次のように論及する。
 <「日本国」のありようは「天皇の祭祀行為」を憲法に「いかに規定するか、あるいは逆に規定しないか」にかかっている。すなわち、「現憲法第一条の、さらにその前提として」、「天皇の祭祀行為」を「日本国」とのかかわりで「いかに規定するか」(いわば「憲法第0条」をどう表現するか)という「一点」に、「現在のわたしたちの課題がある」。>
 なかなか鋭い指摘だ。また、惜しくも故人となった坂本多加雄は<天皇制度>に関する大著ももっているが、亡くなる1年半ほど前の月刊ヴォイス2001年5月号(PHP)(憲法特集)にこんなことを書いていた。以下はごく簡単な要約。
 <九条・「平和主義」問題もあるが、「より立ち入った理論的検討が必要」なのは、「天皇とそれに関する国家の儀礼」をどう位置づけるか、さらに「国民主権」との関係をどう理解するか、にある。/「皇室行事は、天皇が天皇であることの証明」であり、とすれば天皇を「象徴」とする日本国の国民にとっても、それは「たんなる天皇家の私的行事ではないはず」で、「何らかの公的な意味づけが必要」だろう。/「国民主権」をフランス的に解釈する必要はないし、「君主」の存在と「国民主権」が矛盾なく並立している国は多数ある。/日本の「一般の国民」は「天皇のもとで議会政治が興隆した日本の近代史に対応」して今日の「天皇制度」を支持しつつ「議会政治」も支持しているだろう。/「生硬な政教分離や国民主権の観念」に振り回されることなく、「日本の歴史と国民の常識に即」して、考察する必要がある。>(坂本多加雄・同選集Ⅱ(藤原書店、2005.10)p.55~59に所収のものを参照した。他にもこの問題を論じた坂本の論稿はあると予想されるが未読。)
 坂本は上で「天皇とそれに関する国家の儀礼」と表現しているが、これがほぼ<天皇の祭祀行為>を意味していることは明らかだ。そして、それの<政教分離>や<国民主権>との関係を「日本の歴史と国民の常識」に即して議論すべきだ旨を説いている。
 もっとも、天皇に許容された行為を現憲法が列挙する「国事行為」に限定し、あとはすべて天皇が一個人・一人間として行う行為又は<趣味>的な行為等の<私的行為>と考えている、マルクス主義者らしき憲法学者(浦部法穂)もいることはすでに触れた。
 また、別の論者(歴史研究者)は日本共産党系の出版物で、さすがに(本音では)<天皇制>廃止をめざす論者らしきことを述べている。別の回に委ねる。

0470/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3。

 1.昨日4/19未明に書いたように1945年10月28日に宗教団体法が廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・施行されたが、この法令では宗教法人は「届出」制で、かつ宗教法人であれば「所得税・法人税」(おそらく今の固定資産税にあたるものも)も免除されることになるため、宗教団体が「乱立」した。そこで翌1946年・昭和21年の4/03に<宗教法人法>が制定され、「宗教法人」の設立は「所轄庁」(都道府県知事か?)の「認証」によることになった。
 一方、上の<宗教法人令>は「神社神道」(<教派神道>と区別するためにこの語があるようだ)を対象にしておらず、同令の1946年(昭和21年)2/02改正により対象とされた。その結果、「神社神道」団体も他の宗教団体と同様に「届出」すれば宗教法人になれたが、届出期間は「6ケ月以内」と限定され、届出しない場合は「解散」したものと見做すこととされていた。
 神社はこの届出をして「宗教法人」となるか民法34条により「祭祀法人」(「公益法人」の一種)になるかの選択を迫られた。だが、所管の文部大臣が民法34条の適用(「主務官庁」の「許可」が必要)を認めない方針だったため、<宗教法人令>による届出をして「宗教法人」になる以外に「生き残りの道」はなかった。
 以上、()内部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.246-7による(新田均執筆部分)。
 2.かくして伊勢の神宮等の神社は1946年(昭和21年)2月以降6ケ月以内に、国の一機構(営造物)ではない「宗教法人」として新たに出発したことになる。
 そして、占領下では実質的には憲法と同等かそれ以上の力をもったGHQの指令=<神道指令>によって、さらにはGHQが草案を作成した新憲法20条(政教分離原則)の定めの影響もあって、神社と国(・天皇)と関係は大きく変容することとなった。
 この政教分離(一般論ではなくわが国で現実に採用された実態)について、神社本庁の上掲書(新田均執筆)p.249は、三点に分けて、問題点を指摘している。
 そのうち最初の二つは、殆ど容易に理解・首肯できるものだ。要点は次のとおり(①・②はこの欄の筆者)。
 第一。「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して「全面的に否定したこと」。これに伴い、「神社神道の国家性」が否定され、「バラバラ」の「地域的性質」が「神社本来のもの」との見方が強調された。
 この冒頭の「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」なるものについては、今日ではこの存在を否定・消極視する人もいるだろう。上野千鶴子佐高信辻元清美日本共産党なら、「天皇…に対する神聖感」など、とんでもない、と言うかもしれない。だが、多くの国民は天皇(・皇室)への「神聖」感を少なくともある程度は有しているのではないか。また、だからこそ、かつての敗戦直後において、GHQも<天皇>制度そのものの廃棄へと踏み切れなかったのではないか。
 上の論点よりも、GHQはこうした「神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して(不当にも)「全面的に否定した」、という批判は的確だと考えられる。万が一「軍国主義・超国家主義」というものがかつてあり、かつそれは<悪い>ものであったとしても、そのことと<国家神道>とは、そして神社・神道(伊勢の神宮等)とは論理的には関係がない。「軍国主義・超国家主義」が神社・神道を<利用した>と言える面がかりにあるとしても、神社・神道そのものに非難が向けられるべきものではあるまい。なお、井沢元彦は、<国家神道>は本来の神道とは異なる、ということを強調している(同・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)p.118)。
 また、上に「神社神道の国家性」と語があり、それの否定を批判しているが、ここでの「神社神道の国家性」とは、<国家神道>を意味しているのではない、と理解されるべきものだろう。すなわち、神道が日本という「国」の成り立ち(肇まり)に深く関わっている、いやむしろ、神道なるものと成立とのちに「日本」と称されるようになった日本列島の重要部分を占める「国」の成立とは殆ど同じ時期のことであり、殆ど同じことを意味する、ということが「神社神道の国家性」という語で表現されているのではないかと思われる。
 第二。①「発生史的に見て国家とは本来無関係な宗教」であるキリスト教と国家との関係についての「信仰の自由・政教分離」という原則を、不可分の密接な関係のある日本「国家」と神道との関係に「強引に当て嵌めた」こと。これは「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい暴挙」だった。
 ②キリスト教が「唯一の伝統宗教」である地域では「各宗派に共通の基督教的要素は政教分離の対象とはされ」ていない。また、そのことによって「国家」の「無限」の「世俗化」を抑制している。しかるに、日本では「複数の伝統宗教が存在」し、各様に国家との関係を結んできたので、キリスト教に見られる「共通の要素」は見出し難い。にもかかわらず、「単純に政教分離の原則を適用すれば、宗教間の相互摘発によって、国家は無限に世俗化してゆく可能性」がある
 この①・②のような旨は別の論者による何かで読んだ記憶があるが、いずれも鋭い指摘だと思われる。
 GHQは、あるいは当時日本に滞在したアメリカ人は、神道をキリスト教の如きものと理解したに違いない。その上で<政教分離>も構想したに違いない。かの国での<政教分離>は基本的にはキリスト教の中での諸派のうち特定の宗派を優遇しないことを意味すると簡単には理解しているが(大統領就任の宣誓の際に<聖書>の上に手を置くことはしばしばこの脈絡で語られている)、そのような理解にもとづく<政教分離>原則がそのまま日本(・神道)に適用できるわけはないだろう。
 日本での厳格な、あるいは形式的な<政教分離>原則の適用によって<国家・政治>が際限なく「世俗化」していく(又はその可能性がある)という上の指摘はなかなか新鮮だ。
 <無宗教>的な国民が多数生まれ、戦後社会が形成されてきたため、日本の<国家・政治>は倫理的・道徳的・宗教的な<歯止め>を失い、「無限に世俗化して」いっている(又はすでにそうなってしまった)のではないか。キリスト教国においてすら、<大衆民主主義>の時代となり、その問題性・危険性が指摘されている。<無宗教>国・日本ではなおさらそうなのではないか。これは興味深い論点だ。
 以上と重なる所はあるが、そもそも神道は「宗教」の一つなのか、という問題があることも強く意識せざるをえない。国家と神道の分離は「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい」という上にも紹介した表現からは、神社関係者(神社本庁、新田均)の強い不満と抗議の感情が伝わってきそうだ。神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。
 以下と同旨のことはすでに書いたことがあるが、鎌田東二編・神道用語の基礎知識(角川選書、1999)p.12-13は、ラフカディオ・ハーンの文章を引用したりしたあと、「神道は教祖をもたない、教義がない、教典はない、教団という明確な組織をもたない、ないないづくしの宗教であ」る、と書く。
 むろん「宗教」概念の理解の仕方いかんによることだが、反復すれば、神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。そのような神道と国家(日本)との関係を欧米的に理解された<政教分離>原則によって律してよいのだろうか
 さらに言えば、国家と神道の形式的な分離によって、日本と日本人は「一つの肉体を切り分け」られ、「一つの人格を分裂させ」られたがゆえに、アイデンティテイを喪失し(又は少なくとも喪失感をもち)、日本「国家」を気嫌う<無国籍>者的な日本人も多くなったのではあるまいか(先日某書店内で、佐高信・国畜(出版社不確認)という本を見た。「国畜」とは家畜、森村誠一の造語の「社畜」から連想した造語だろう。佐高信は<無国籍>者の代表の一人だ。「左畜」とでも呼んでやろうか)。
 とりあえず今回はこのくらいにして、あと何回かは神道・皇室・政教分離にかかわるテーマで書いてみよう。

0463/「神道」とはそもそも何なのだろうか。

 神道に関心をもつのは、一つは、日本の伝統・歴史という場合、あるいは日本(人)の「愛国」心を考える場合に、神道(・神社)を避けて通るわけにはいかない、という潜在的な直感があるからだ。
 「直感」からすでに結論めいたことを紹介するのは<飛躍>してはいるが、すでに一部は読んだ形跡のあった井沢元彦・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)には、こんな文章がある。
 ・「神道」とは「日本古来の神様を、日本人のやり方で祀っていく宗教」だ(p.121)。
 ・キリスト教が欧州キリスト教国の政治行動の理由になったように、「日本人独自の信仰である神道も、日本人独自の政治制度や文化、あるいは歴史に大きな影響を与えて」いる(p.143)。
 ・「神道がわかれば日本史の謎が解ける」(p.162-一節の見出し)。
 ・「神道」は「やはり我々日本人の考え方の根本にあるもので」、「日本人の生き方にさまざまな影響を与えている」(p.163)。
 ・「理性や理屈では必ずしもそうだと言い切れないものをそうだと信じること」が「信仰」だと思うが、「その国の人間の信仰を知らなければ、その国の歴史はわからないはず」だ。日本は「自分たちの信仰をないがしろにしてき」たため、「アイデンティティがわからなくなってしまっている」(p.164)。
 ・「日本人のアイデンティティ」は、しかし、「明らかに存在」しており、それは「神道」だ(p.164)。
 ・「我々日本人は、実は神道の信徒」なのだ(p.165)。
 ・日本人が本当に「無宗教」だったら、何かの宗教(例、キリスト教)にたちまちに染まっても不思議ではないが、そうなっていないということは、「日本には実はキリスト教に対抗し得る強力な原理があった」ことを意味する。「神道こそがその原理だった」(p.165-6)。
 引用はこの程度にしておく。日本人に特有の思考方法・感受性等についての具体的言及は省略するが、たぶん井沢の言うとおりだろうという気がしている。イザヤ・ベンダサン(山本七平)はたしか「日本教」という概念を使って日本人独特の心理・考え方等を論じていたかに記憶するが、「日本教」とは「神道」に相当に類似したものの表現ではないだろうか。
 現在の神社本庁は神道それ自体についてどう説明しているか。神社本庁教学研究所監修・神道いろは(神社新報社、2004)によると、こうだ(p.14-15)。
 ・「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念」だ。
 ・「開祖」はいないし、聖書のような「教典」もない。但し、古事記・日本書紀・風土記等から「神道の在り方や神々のこと」は窺える。
 (なお、途中で挿むが、井沢・上掲書p.137は「神道の教典と考えてもいいのではないか、というもの」は「古事記」だ、と述べている。)
 ・仏教の伝来以降に「それまでの我が国独自の慣習や信仰が…『かむながらの道(神道)』として意識される」ようになった。
 ・特色の一つは「外来の他宗教に対する寛容さ」。(この点は、井沢・上掲書も指摘している。)
 ・神道は「自然との調和」を大切にする。「多くの神が森厳なる神社の境内の中にお鎮まりに」なっている。
 ・神道は「神々を敬い祖先を大切にする(敬神崇祖)」。
 (祖先崇拝を「儒教」と結びつける説明も別の論者又は文献によってなされていることがあるが、それは神道とも矛盾せず、むしろ神道の特色の一つなのだろう。もっともアジアの宗教(あるいは古来の東アジア人の精神)に共通する心性の可能性もある。)
 要約すると、以上の程度のことしか書かれていない(これは必ずしも批判ではない。単純素朴さ、簡明さは仏教とも異なる神道の特徴だと感じている)。
 一方また、「神社本庁」に関する次の説明も、神道の理解にとって参考になる(上掲の神道いろはp.44-45)。
 ・神社を国から分離するGHQの「神道指令」後、1946年2月3日に、「全国の神社と神社関係者を統合するための宗教法人神社本庁」が設立された。
 ・設立に際して、「教義が明確化された組織(神社教)の形態」を採らず、「各神社の独立性を尊重し全国の神社が独立の組織として連盟を結成する(神社連盟)を結成する」という考え方が基本とされた。
 ・従って、「他宗教にある統一的な教義といったもの」はない
 ・しかし、次の三項目を掲げる「敬神生活の綱領」を定めてはいる。①「神の恵みと祖先の恩に感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと」、②「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」、③「大御心(おおみこころ)をいだきてむつぎ和らぎ、国の隆盛と世界の共存共栄を祈ること」。
 以上。なるほどという感じもし、新鮮な感じもする。また、この程度の「綱領」を掲げる程度では、いく度か「神」が出てくるとしても、そして形式的には各神社や神社本庁は「宗教法人」だとしても、そもそも「宗教」といえるのだろうか、という基本的な疑問も湧いてくる
 さらに、いちおう神道も<宗教>だとして進めると、戦後は<無宗教>教育だったからこそ、「明き清きまこと」・「むつぎ和らぎ」といった心持ち、「世のため人のために奉仕し」といった公共心・他者愛心が教育されなかったのではないか、という気がしてくる(「国の隆盛世界の共存共栄(…を祈る)」のうちとくに前者(「愛国心」に直接につながる)は、公教育において殆ど無視されてきただろう)。
 よく指摘されている道徳観念・規範意識の欠如の増大傾向も<宗教教育>の欠如と無関係だとは思われない。ここでの<宗教教育>はやや大袈裟な表現で、<道徳教育>、さらには単純に<情操教育>と言い換えてもよいかもしれないが。
 今回の冒頭に「一つは」と記したが、もっと関心を持って書きたかったのは別の「一つ」にかかわる。回を改める。

0448/天皇制度と「宗教」-伊勢神宮式年遷宮費用問題から発展させて。

 皇室経済法(昭和22法律第4号)によると、「予算に計上する皇室の費用」には次の三種がある。①内廷費、②宮廷費、③皇族費、だ(法律上の順序による)。
 ①は皇族の「日常の費用その他内定諸費」に充てられ、②は①以外の「宮廷諸費」に充てられ、③は「皇族としての品位保持」のためのもので、皇族に年額、皇族であった者・皇族を離れる者に一時金額として出費される。
 園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007.09)も参照。但し、この本には、次の疑問の答えは明示されていない。そもそも(伊勢)神宮などという言葉は一回も出てこない。
 伊勢神宮をはじめとする神社や仏閣に天皇(家)から何らかの「金銭」が支出されているとすれば、上のどの種別に含まれるのか?
 日本国憲法第3条は「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と規定して、天皇は<国事行為>をするが、すべてに「内閣の助言と承認」が必要だと定める。この<国事行為>とは、同6条による内閣総理大臣・最高裁長官の「任命」のほかは、同7条が定めるものに限られると一般に解されているようだ(「「憲法改正、法律、政令及び条約」の「公布」、「国会」の「召集」、「衆議院」の「解散」、四~六<略>、七「栄典」の「授与」、八・九<略>、十「儀式を行ふこと」)。
 これらの国事行為と天皇の<(純粋な)私的行為>の区別は、財源的には、上の②と①の区別に対応する。①内廷費は皇族の「日常の費用その他」のいわば「私費」として使われる、とされる。
 天皇(皇族)の活動・行為は(憲法上の)国事行為に限られるのか、<(純粋な)私的行為>とも区別される第三の「公的行為」との類型もあり、これも存在しうるのか、については、「公的行為」肯定説と同否定説が憲法学界にはあるようだ(野中=中村=高橋=高見・憲法Ⅰ〔第四版〕(有斐閣、2006)の高橋和之(前東京大学)執筆部分のp.136-141参照)。
 少なくともマルクス主義「的」と見られる浦部法穂が関係部分を執筆している芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)で浦部法穂は、国事行為以外は「純粋な私的行為」のみ=「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」に限られる、とする(上掲書p.201、p.220~)。
 実務あるいは現実は<公的行為>を一定範囲で肯定しているようだが(国会開会式での「お言葉」など)、皇室が社寺とかかわる行為は<公的行為>とはされていないようだ。
 高橋和之(前東京大学)は上掲書p.131で憲法上の国事行為の一つの「儀式を行うこと」に触れて、「その儀式は私的ではなく国家的な性格なものでなければならず、かつ、政教分離の原則から宗教的なものであってはならないとされる」と書き、p.132では「儀式的行為が国事行為」になるには「国家的、全国民的性格のもの」の必要があり、「宗教的性格をもってはならないことはいうまでもない」と、「いうまでもない」との語尾をつけて強調しており、伊勢神宮等への関与が(現憲法上の)国事行為になる余地はなさそうだ。
 さらに、高橋(前東京大学法学部教授)は、昭和天皇の葬儀は「皇室の宗教儀式」としての「葬場殿の儀」と「国事行為」としての「大喪の礼」の二つを含んでいたこと、かつ両者が「同じ日に隣接した場所」で「あたかも一連の儀式であるかのような外観」で行われたので「政教分離の不徹底さが批判を受けた」と明記している。
 また、高橋は、現天皇陛下の即位にかかわる「皇室の宗教儀式」としての「大嘗祭」の費用は(国事行為とされなかったが)「宮廷費」から出費された、一方、現天皇陛下の婚姻の儀全体は当時の天皇=昭和天皇の「国事行為」として行われつつも、そのうち「賢所での宗教的儀式」=「神事」の費用は(「宮廷費」ではなく)「内廷費」で賄われた、という「あいまいさを残した」とも書いている(p.132-3)。
 こうして見ると、明記は以上のどの本にもないが、伊勢神宮への関与(式年遷宮費の一部負担)は「内廷費」から出費されていると理解しておそらく間違いないだろう。
 だが、極端とも思われる浦部法穂によれば、「内廷費」とは「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」について出費されるものになるが、はたして天皇(家)にとって、皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「純然たる私的行為」というような性格のものか否かは疑問も生じる。
 園部逸夫・上掲書p.298は「宗教的性格」をもつ「皇室財産は私有財産」とされ、「宗教的性格を有すると見られる行為は私的な立場の行為とされている」と書く。これがどうやら、現憲法のもとでの現在の一般的理解なのだろう。皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「宗教的性格を有する」と見られる限り、「私的な立場の行為」としか性格づけられないことになる(従って、「内廷費」で賄われる)
 だが、前東京大学の高橋和之は「いうまでもない」と書いて当然視しているが、現憲法上存置されている天皇と天皇制度はかくも全面的に<政教分離原則>に服しなければならないものなのだろうか。
 GHQがどの程度<天皇制度>の意味や歴史を理解していたかが問題になるが、いつか書いたように、とくに<神道>との密接な関連性をもつということは、<天皇制度>のうちに元来内包されている要素であり、そのようなものとして現憲法も<天皇制度>を存続させた、という解釈も可能なのではないだろうか。だとすれば、天皇(家)と<神道>の関係について厳格に<政教分離の原則>を適用するのは、むしろ憲法の趣旨には合致していない、とも解釈できるのではないだろうか。
 園部逸夫・上掲書p.同も、「宗教的性格」の財産や行為を従来通り「私的な位置づけ」とするとしても、「財産や行為の内容によっては」、それらの「文化的・歴史的意義に鑑み、…費用を、公費から支出することが可能なものもあるのではないか」と提言又は試論的に述べ、その例として、「文化的・歴史的な側面から」「宗教的意義」を評価しての、「古くから伝わる宗教的財産や古くから行われている祭祀等」を挙げている。
 「公費から支出」とは皇室経費以外の国費支出の場合の他に、「宮廷費」からの支出も含む、と理解できるのではないかと思われる。
 「古くから行われている祭祀等」の中に大嘗祭や婚礼のための「賢所での宗教的儀式」は含まれるかもしれないが、伊勢神宮の式年遷宮への<御下賜金>の交付も含まれるかは明らかではない。だが、少しばかりの可能性は生じうるだろう。
 以上は現日本国憲法を前提としての話なのだが、そもそも、政教分離に関する条項も、日本の宗教、とくに<神道>と<(日本化された)仏教>についてのいかほどの見識・知見をもって制定されているのかも問題にしなければならない。原文を作ったGHQの担当者は殆ど詳細な知識もなく、自国(アメリカ)又は欧州の有力諸国の憲法を大きな参考にしたのではなかろうか。
 だとすれば、宗教にかかわる国情も歴史も異なる日本に、米国(又は欧州)産の宗教関係条項をそのまま持ち込むのは無理がある、と言うべきではないか。
 そしてまた、<政教分離>の観点から、天皇(家)の宗教的活動を否定するかできるだけ制限することを志向している憲法学者の議論は、<天皇制度>への不信、将来におけるそれの廃棄を心の奥底では狙っているもののように思えなくもない。
 最もよいのは、<天皇と宗教>というテーマに関しても十分に議論・検討をして、新憲法を制定する(現憲法の関係条項を改正する)ことだろう。だが、自由民主党の新憲法草案を見てみると、新20条は現行規定と内容は殆ど(全く?)変わっていない。いつ憲法改正が具体的政治日程に上がるのか不明になってしまったが、目配りすべき部分は自由民主党の新憲法草案立案者が想定していたよりも多いのではないか。

0386/朝日新聞今年1/5夕刊は「初詣で」にシニカル。

 <反朝日新聞>と謳いつつ、定期購読はしておらず、外出先で偶々読むか、社説をネット上でときに見るにとどまる。べったりとこの新聞と付き合うのは、精神衛生に悪い。
 外出先で偶々読んだとき、たいてい、「朝日らしさ」をどこかに発見する。
 販売店で古物を売って貰おうかなどとぼんやり考えているうちに月日が経ったが、朝日新聞今年1/05夕刊にも「朝日らしい」記事があった。
 記憶に頼らざるをえないのだが、①正月の「初詣で」を冷笑し、②「神道」は<純粋に日本的ではない>とするものだった。
 ①は直接にそう書いているわけではない。正月の「初詣で」者数の全国的な多さに驚いて、そのような<慣例>にイチャモンをつけておきたい気分がうかがえた、ということだ。
 ②はその旨を明示して、神道からは<むしろ(東)アジアに普遍的な>ものが見えてくる、というようなことを書いていた。
 <純粋に日本的なもの>を神道に求めるという風潮?を批判したい気分の明らかな記事だった。だが、歴史をいにしえへと遡れば、「日本」という概念すら曖昧になる。古代のずっと先から原型があったとすれば、「神道」は<純粋に日本的なものではない>というのは至極当たり前のことではないか。
 執筆した若い?記者は、正月の「初詣で」という、神道という宗教との関連性の多い筈の<慣例的行事>に多数の国民が参加していることに怖れをなし、そのような現象に水をかけておきたいと思ったのではなかろうか。さすがに明示はしていないが、そのような「朝日的」気分の表れた記事だった。
 ところで、日本共産党員、社会民主党員およびこれら両党の熱烈なシンパは社寺への「初詣で」(その他「食い初め」とか「七五三詣り」とか)はしないのではなかろうか。社寺のもつ「宗教」を馬鹿にし、そのようなものに関与している<大衆>をもバカにする、まじめな党員であるほど、そのような心情をもっているのではないか、と思われる(そして朝日新聞の記者もそうかもしれない)。

0013/「科学的社会主義」とは「宗教のようなもの」でなく「宗教」そのものだ。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)全358頁もあと30頁程で全読了となる。早く同・保守主義の哲学(PHP、2004)も読み終えて、自称ハイエキアン憲法学者・阪本昌成の二著、すなわち同・リベラリズム/デモクラシー(有信堂、1998)、同・法の支配(勁草書房、2006)に向かいたいが、読書のみの生活というわけにはいかない。自由な元気に過ごせる時間だけは緩慢に進んでほしいものだ。
 共産党について又は共産主義について、「宗教のようなもの」という批判的な立場からの言葉を聴いたことが複数回ある。だが、日本共産党の奉じる共産主義とは、あるいは「科学的社会主義」とは、「宗教のようなもの」ではなく「宗教」そのもの、ではないか。ケインズとハイエクといえば、二人とも社会主義者ではないが、個人(のとりわけ経済活動)に対する国家の介入の容認の程度につき正反対と言ってもよい主張をしている学者又は思想家だった筈だ。但し、中川・上掲書p.237-8によれば、二人とも、共産主義又はマルクス主義を「宗教」と見ていた。中川が「レーニンによる共産ロシアを宗教国家と断じている」とする二人の文は次のとおりだ。ケインズ-「レーニン主義は、偽善者に率いられて迫害と宣伝を行なっている少数の狂信者の宗教」だ、「レーニン主義は宗教であって、単なる政党ではない」(「ロシア管見」全集9巻)。ハイエク-過去の何万もの宗教は「私有財産と契約」を認めず、「認めなかったものはすべて滅び、長続きしなかった。共産主義と呼んでいるものもこの迷信ないし宗教」に含められる(「文明社会の精神的病」エコノミスト1981年12月)。
 (少なくとも真面目な?)日本共産党員の中には共産党への批判・攻撃に対して「反共!」とだけ言い、又は思って、相手にしないで罵倒して、それだけで「勝った」と思う者(バカ)も多いだろう。だが、反共産主義とは、一部の偏狭な「右翼」と称される者のみの考え方ではない。「反共!」で済ませず、きちんと反共産主義に反駁するためには、ハイエク、ポパー、アレント等々も読んでからにすべきだ。と書きつつも、これらの人々の本を読むのを私も今後の楽しみにしているのだが(すでにかなり収集した)、私がマルクス、エンゲルスや共産党の文献を読んでいる程度にも反共産主義(自由主義、資本主義、保守主義と種々に表現できる)の文献を知らないままでは、彼らは、思考を停止して「信じる」だけの、「科学的社会主義教」という宗教(簡単に「共産教」でもよい)の宗徒にすきないだろう。資本主義から社会主義(さらに共産主義)へと不可避的に「発展」するという「予測」は、「科学的」でもなんでもない。ただの「信仰」であり、かつ「狂信」だ。

-0006/「靖国問題」を論じない方が望ましいのだが。

 書き足りていないので、昨日分の続き。かりに東京裁判の「受諾」が戦後日本(正確には再独立後の日本)の原点だとの見方が正しい又は適切だとしても、それと東京裁判の被告たちを祀る神社を参拝することが矛盾しているわけではない。朝日新聞や中国(共産党・政府)は大まかには<靖国参拝=戦犯たちの賛美=侵略戦争肯定>という論法に立っているのだろうが、これは幼児の議論だ。たしかに参拝者の中には侵略戦争肯定又はあの戦争の侵略性否定の考えの者もいるだろう。しかし、死者の霊に手を合わせることが当該死者の生前の見解・行動のすべてを肯定し賛美することを意味するとは、少なくとも一般的には、絶対に言えない。一般刑法犯罪により死刑となった者の墓に手を合わせる人もいるだろう。だが(中には冤罪を主張している者もいるかもしれないが)、受刑者・刑死者の墓参者は死刑の原因となった犯罪を肯定している、と言えるはずがない。靖国参拝は戦犯たちの思想・行動の肯定を少なくとも一般的には意味しない。侵略戦争肯定又はかつての戦争の侵略性の否定を一般的には意味しない。そうだと思っている者には誤解だと説明する他はなく、意識的な「誤解」者は相手にする必要がない。
 死者に対する対応の仕方は生者に対するそれとは異なるのが、日本人のほぼ一般的な心情なのではないか。中国人にそれが解らなくても当然だ。朝日新聞社の者が解らないとすれば、半分は日本人でなくなっている。
 とはいえ、「神道」を含む「宗教」に関する適切な教育をほとんど受けていない私(そしておそらく多くの日本人)も、神社に死者を「祀る」といことの意味、「参拝」することの意味を、とりわけ前者をよくは理解していない。靖国神社や各神社自体にはそれぞれの意味づけが(神道の共通性は維持しつつ)あるのだろう。だが、参拝し手を合わせて瞑目する者が何を感じ思うかはまさに個人それぞれの「心の中」の問題で、一般的にこうだと強制も断定もできないのでないか。小泉現首相のこれまでの参拝の理由づけは完全には納得し難い=よく判らないところがあるが、本質的問題だとは思えない。
 首相の靖国参拝は政教分離の憲法条項に関連する。戦後教育を受けてきた裁判官がほとんどとなっているのは下級審で違憲判決が出ている土壌でもある。神道をまるでキリスト教あるいは他の新興宗教等と並ぶ宗教の一つと理解すること自体に問題がある、というのが私論だ。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。