秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

安本美典

2162/「邪馬台国」論議 と八幡和郎/安本美典⑦。

 A/安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 安本のこれ以前の文庫・新書本にも同種の図表があるが、これが最も分かり易いようだ。
 B/安本美典・古代年代論が解く邪馬台国の謎(勉誠出版、2013)。
 これにも、安本の同旨の<年代論>が述べられている。
 以下、原則としてAによって、日本の天皇の時代・代数別の在位平均年数の資料を紹介する。
 p.122に、最も簡明な、1988年刊行の新書=同・新版/卑弥呼の謎(講談社)にもあった、つぎの図表が載せられている。
 (1)日本の天皇の平均在位年数(その1)。
  A/17~20世紀・17天皇・延べ379年-平均22.29年
  B/13~16世紀・29天皇・延べ453年-平均15.62年
  C/09~12世紀・33天皇・延べ404年-平均12.24年
  D/05~08世紀・20天皇・延べ218年-平均10.88年
  第31代とされる用明天皇~第124代とされる昭和天皇までの99天皇・延べ1454年が対象とされる。
  総平均は、14.69年だ。
  それ以外の各時代の最初・最後の各天皇名等は、明記されていない(代数の数字とおおまかな世紀数で探ってみると判明するかもしれないが、その作業は省く)。
  いずれにせよ、時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる。
 (2)時代別平均在位年数(その2)。
 p.263とp.264には、別の分類による、平均在位年数の図表がある。
 前者は第32代崇峻天皇以降を「歴史的事実」とする図表があり、後者には、第22代清寧天皇~第31代用明天皇を「準歴史的事実」として加えた図表がある。
 これらを併せると、つぎのようになる(つまり後者と同じ)。
  A/徳川時代+現代  ・17天皇-平均21.90年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均15.11年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.63年
  D/崇峻天皇+奈良時代・18天皇-平均10.78年
  E/清寧天皇~用明天皇・10天皇-平均10.07年
 時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる、という結果に変わりはない。
 Aは、108代・後水尾天皇~124代・昭和天皇(17代)。Bは、第83代・後鳥羽天皇~第107代・後陽明天皇(25代)。Cは、50代・桓武天皇~81代・安徳天皇(32代)。Dは、32代・崇峻天皇~49代・光仁天皇(18代)。Eは、22代・清寧天皇~31代・用明天皇(10代)。これらのうち、C~Eについては、明記がある。
 第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)の扱いが秋月にはよく分からないが、詮索を避ける。
 また、安本の上のB著(2013年)p.90には、上とやや分類が異なる図表がある。卑弥呼~雄略天皇を省略して、紹介しておく。
  (3)平均在位年数(その3)。
  A/徳川時代+現代  ・18天皇-平均22.28年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均16.13年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.69年
  D/飛鳥時代+奈良時代・29天皇-平均10.36年
  Dは、21代・雄略~30代・敏達と明記されている。従って、(その2)のEと対象が異なる。ここでのA・Bが(その2)と異なるのは、Aに107代・後陽明天皇を、Bに82代・後鳥羽天皇を含めているためではないか、と推察される。
 ところで最後に、安本の上の著A(2003)には、「新しく定義しなおし」た計算にもとづくとされる図表が掲載されている。
  (4)天皇の一代平均「在位年数」(その4)。
 A/106正親町~124昭和天皇 ・代差18・年計402年01月・平均年22.34。
 B/082後鳥羽~106正親町天皇・代差24・年計388年10月・平均年16.20。
 C/049光仁 ~082後鳥羽天皇・代差33・年計416年10月・平均年12.63。
 D/031用明 ~049光仁天皇 ・代差18・年計193年11月・平均年10.77。
 古い時代ほど、天皇一代の年数は短くなる。
 上の「計算」で新しい旨が明記されていると見られるのは、①在位期間を年のみならず月単位まで計算していること(8カ月で0.67年、10カ月で0.83年になる)、②旧暦(和暦)を(月も)新暦で計算し直していること、だろう。
 但し、031代-(差18代)-049代-(差33代)-082代-(差24代)-106代-(差18代)-124代、という表記の仕方をしているので、各時代がどれどれの天皇の在位期間を考察・計算対象にしているのかが、必ずしもよく分からないところがある(厳密にフォローすれば明瞭になるのかもしれない)。
 なお、以上の全てについて、重祚の場合は2代と数えられている。
 南北朝時代については、きちんと確認しないが(安本美典による明示的論及はない)、正統と(明治期以降に)される南朝側の諸天皇とその在位期間のみを対象としているように思われる。
 ***
 安本美典著を見て、読んできただけで、自ら計算してみようと思ったことはこれまでなかった。
 安本著には厳密には分かりにくい点もあるので、秋月が自分で計算して、表を作ってみよう。
 ①皇統譜上の代数表記による。②重祚は2代とする。③南朝側の天皇のみを対象とする。
 ④講談社・天皇の歴史各巻所載の「歴代天皇表」上の在位期間による。在位期間は「月」を無視して、「年」のみを考慮する。例えば、1000年12月~1010年2月の場合、実際には9年3月であっても、在位年数は11年となる。
 ⑤上に在位期間の記載のある第29代・欽明天皇から第123代・大正天皇までを対象とする。この間の代数は、123-29+1=95だ。大正天皇までとするのは、大きな意味があるのでなく、昭和天皇の60年超の在位が明らかに平均年数を高める要因になるだろうことを考慮したにすぎない。
 ⑥つぎのように時代区分する。おおよそA/江戸以降、B/鎌倉以降、C/平安時代、D/それ以前(欽明以降の飛鳥+奈良)だ。
 ⑦安徳天皇退位は1185年、後鳥羽天皇即位は1183年なので、3年の重複があるが、そのまま計算する。
 A/123代・大正天皇~108代・後水尾天皇、代数(123-108+1)は16。
 B/082代・後鳥羽天皇~107代・後陽明天皇、代数(107-082+1)は26。
 C/050代・桓武天皇~081代・安徳天皇、代数(81-50+1)は32。
 D/029代・欽明天皇~049代・光仁天皇・代数(49-29+1)は21。
 上の前提のもとでの、秋月瑛二の計算
 A/大正~後水尾・16代・年数243年・一代平均年-19.75年。
 B/後鳥羽~後陽成26代・年数429年・一代平均年-16.50年。
 C/桓武~安徳・32代 ・年数405年・一代平均年-12.65年。
 D/欽明~光仁・21代 ・年数243年・一代平均年-11.57年。
 上の注記の④にあるように、在位年数は実際よりも少し大きくなり、従って平均年数も実際よりも少し大きくなっているだろう。
 しかし、古い時代ほど平均的な天皇在位期間は短くなり、欽明天皇頃になってくるとほぼ10年~12年だ、ということが分かる。
 そうすると、もっと前の古代天皇の在位期間の平均は、9-10年まで下がってくるのではなかろうか?
 ***
 八幡和郎の「頭の中」には、こういう、天皇在位平均年数という考慮要素はない。
 まず、改めて、応神天皇から崇神天皇までの、出生・即位、在位年に関する、八幡和郎と安本美典の違いを示してみよう。
 八幡については、八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)による。安本については、改めて上の著(2003)Aのp.260-1の図表(横グラフ)から目視した(すでに紹介した安本推測と①と②でやや異なる)。安本の仲哀期は、神功皇后称制期をも含む。。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位410年~424年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~410年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ⑤11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑥10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年。
 崇神天皇について、約100年の違いがある。
 ***
 八幡和郎は、つぎの著では、神武天皇の時代も推測していた。
 八幡和郎・八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 これのp.30-1によると、「神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 前段は神武を「西暦紀元前後」と見ている。この根拠は分かりにくいが、この頃の天皇の即位後の生存年数または在位年数を約「25年」と見ているのが根拠である可能性が高い。
 上の表に見られるように、八幡は、12代・景行から10代・崇神まで「25年」間隔で皇位継承された、と推定しているからだ。
 これを崇神以前にさか上らせた出生年は、9代・紀元185年、8代・160年、7代・135年、6代・110年、5代・85年、4代・60年、3代・35年、2代10年、初代・神武紀元前15年となる。この神武の紀元前15年出生というのは、紀元前後に神武が即位した(初代天皇として)という推定の、有力な計算根拠になり得るかもしれない。
 しかし、この「25年」というのは八幡独自説ではなくて、明治以降の複数の学説が示してきたものだ。かつまた、神武即位は紀元前後というのは、那珂通世およびこれを支持した学者たちと全く一致している。八幡和郎が「自分の頭」から生み出したものでは全くないと推察される。
 上の後段は、神武~10代・崇神という10代の「実在」を、<三王朝交替説>の影響によるのかどうか、さっそく?疑問視している。この人物に定見はないのだろう。
 また、安本美典は「在数」と「世数」を区別しているが、直系男子継承(父子継承)であって初めて、「25年」の隔たりで天皇が交替していく、ということが言える。
 日本書記によると、21代・雄略天皇は16代・仁徳天皇よりも「5代」あとの天皇だが、雄略は仁徳の孫とされるので「3世」の子孫だ。「5代将軍」徳川綱吉は、徳川家康の曽孫で「4世」の孫。
 八幡和郎は神武以降の「実在」を肯定しつつ「直系男子」(父子)継承とすると奇妙だと感じているのだろうか。
 かりに初代~10代・崇神までの「全」天皇が実在していたとしてすら、全てが父子継承ではなかったとおそらくほぼ断言できるので(安本美典も同じ)、単純に25×9または25×10年さかのぼらせて神武の時代を推定しようとすること自体が、「思考方法」として間違っているだろう。
 それにそもそも、15代・応神~10代・崇神を原則として在位「25年」で継承したとするのも、安本美典説を知っていれば、安本の推定根拠の重要な部分も上で示したように、そもそも間違っている可能性が高い。
 もともとは、八幡和郎による応神天皇出生346年という「基準年」自体が間違っているだろう(なぜか八幡は外国文献である<新羅本紀>の記載年・記載事項を「そのまま」信じ、かつそれだけを利用している、という問題もある)。
 加えて「25年」説を採用したのでは、各天皇の実際の在位時期は、ますます古くなりすぎているだろう、と推察される。
 これはシロウト秋月瑛二の幼稚な推測だが、15代・応神~10代・崇神の間は9~11年、それ以前は6~9年ごとに、「大王」・「天皇」は交替したのではないだろうか。
 安本美典の推定はこれに比べると穏便で、上の著p.260-1の表は、あくまでさしあたりなのだが、清寧~用明は平均在位年数・10.07年、卑弥呼~雄略は平均在位9.45年としてグラフを作ったうえで、さらにその他の諸考慮要素を含めて、最終的な「推測」、「安本案」にしている。
 八幡和郎の「頭の中」は、中学校の高学年か高校生くらいなのではなかろうか。
 原史資料を日本書紀を除いては読まず、主立った関係文献のうち通説または有力説だけを調べて、八幡和郎程度の「推測」は可能だろう。参照文献を一切載せることなく、まるで「自分の頭」でゼロから考え出したフリをすることも可能なのだ。
 八幡和郎の崇神天皇年代論にもとづくと、容易に(八幡は北九州説なので見向きもしていないが)、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説(箸墓=倭迹迹日百襲姫陵=卑弥呼の墓説)も出てくる。これにはまた別に言及するだろう。

2155/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑥。

 八幡和郎が崇神天皇=「壱与」(卑弥呼の次世代)と同時代とするために346年を「基準」年としていることはすでに触れた。
 346年=神功皇后新羅出征年・応神天皇誕生年、だ。なお、日本書記に従うと、応神の誕生は、仲哀天皇の死の同年か翌年になる。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 この著によると、前回までには紹介を略したが、①346年と⑤崇神=「3世紀中頃(から後半)」までは、つぎのように「推理」される。p.131ー2。
 ②応神には兄がいるので父・仲哀天皇と「30歳以上は離れているとみるべき」だ。そうすると、仲哀の誕生年は、「310年代後半ごろ」だ。
 ③仲哀の父・ヤマトタケルは「若くして死んだらしい」ので、両者の年齢差は小さく、ヤマトタケルの「活躍」時期は、「4世紀初頭あたりということになる」。
 ④ヤマトタケルは父・12代景行天皇の「比較的若いころの子供のよう」だ。
 ⑤その景行天皇の祖父・10代崇神天皇の「全盛期」は「三世紀のなかごろということになる」。「そうすると」、崇神天皇は卑弥呼の後継者である「イヨの同時代人」ということになる。
 はなはだ漠然としていると思える。
 B/八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)。
 このB著で八幡和郎は、崇神以降の「推定生年」および神武天皇以降の「推定即位年」を記した表まで示している。
 その際の根拠として、先の書の「346年基準」のほか、つぎを加えていると見られる。
 ①「若いころの子か年を取ってからの子かなどというあたりを加味」する。p.67。
 ②各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」とする(=25歳のときの子だとする)。p.79。仲哀ー応神を36年とするのは、応神には異母兄がすでに二人いたことからの推定だ。p.78。
 なお、③「系図」(+実在)は正しいとする、というのが前提。p.67。
 八幡による崇神以降応神までの即位年・出生年の推定(左)とすでに記した安本美典による推定(右)を比較してみよう。②の安本は、仲哀+神功皇后。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位402年~425年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~402年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ④11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑤10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年.
 この項の前回までの比較表よりも詳しく、八幡によるその点は無視するが、微細に異なる点もある。
 安本推計については、同じく前々回④の記述を参照。
 そこで参照したのは、安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)だった。
 それとおそらく全く同じ表(と叙述)が、以下にも掲載されている。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 ともあれ、崇神天皇について、約100年の違いが出ている。
 この違いは、01/安本の「基準年」は応神出生=346年ではない。02/安本は一代(世代ではなく天皇在位の代)の差を<10~11年>と見る(詳細は省略)、03/安本は八幡が考慮しない要素も考慮する、ということにあり、決定的には01と02によるだろう。
 ところで、八幡和郎が上のように推定している主目的は、(最終的には邪馬台国大和説の否定(北九州邪馬台国僭称説)で)、卑弥呼・壱与の時代は崇神とほぼ重なっており、前者が大和王権の祖ではあり得ない、と主張することにある。
 上のBでこう書かれる。
 「壱与が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりだつたということはかなりの確率で間違いありません」。p.80。
 上のAでは、こうだった。p.132ー3。
 「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」。
 「4世紀に…朝鮮半島に軍事介入した大和朝廷は、邪馬台国に卑弥呼という女王がいて、洛陽の都に使いを送ったことをまったく記憶していなかったことは確かだ」。
 ところで、八幡和郎は、上のB(2015年)で、上の部分を含む表を見よとしつつ、つぎの<おそろしい>ことも書いている。
 「中国政府は、…〔中国の〕古代史の実年代についての公的解釈を統一しましたが、日本政府も是非するべきだと思います」。
 日本書記と古事記で一致がなく、また古代諸天皇の「実在」否定説も有力にあるにもかかわらず、八幡は、「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、と主張するのだ。
 よほど、自分の推定に「自信」があるのに違いない。
 「『日本書記』の系図や統一過程は全面的に信用できる」。p.64の見出し。
 「崇神天皇から応神天皇までの実年齢を推定するのは簡単」。p.73の見出し。
 「古代天皇の実年代はこうだ!」。p.77の表のタイトル。
 異様であり、傲慢だとしか思えない。
 学者でも一致がないか、議論すらしていない事項について、八幡は「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、というのだ。道徳・倫理についての<教育勅語>〔1890年)による緩やかな統制よりも、おそろしい提唱ではないか。
 ***
 八幡和郎は、学説上の根拠文献・参照文献を、上の点に特定しては、一つも挙げていない。
 八幡和郎の「頭の中」に関して、いぶかしく感じているのは、少なくともつぎだ。
 第一に、八幡は崇神天皇の「全盛」年を3世紀中頃とか3世紀中頃以降後半とかとも書いている。上のBでは「出生210年/即位3世紀中」とやや特定した。
 崇神天皇の在位年は日本書記によると(干支年の「翻訳」が必要だが)紀元前97年~紀元前30年とされるが、「繰り上げ」があって信頼性がないするのが通説だろう。
 一方、古事記の<分注・没年干支>によると解釈により258年と318年のいずれかだとされる(60年周期で干支は同一になる)。
 これを八幡は考慮していないようだといつぞやは書いたが、八幡の崇神出生210年という推定は、前者の258年(没年)にかなり近い。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)のp.190やp.205によると、那珂通世(紀年論先駆者)や水野祐(三王朝交替説論者)は記載がある場合の<古事記・没年干支>を信頼できるものと考え、前者は258年説、後者は318年説に立った、という。
 八幡和郎は、これらの説を知っている可能性がある。そのうえで、那珂説に傾斜して自らの出生年推定を導いているのではないか。
 第二に、その意味自体については争いがない<古事記・没年干支>によると、応神の父とされる仲哀天皇の没年は362年、応神天皇の没年は394年だ。八幡はこれについて何ら言及することなく、応神には兄がいたうんぬんだけ述べて、仲哀ー応神を36年とする。
 差は古事記によれば32年、八幡によれば36年。これは偶然だとは感じられない。八幡は、古事記による記載をある程度は信頼して「安心して」、両者は「30歳以上は離れているとみるべき」などと書いているのではないか。
 第三に、八幡は、各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」と想定する。在位期間と即位後の生存期間は同じ意味ではないが、父子直系継承の場合はこれら二つは同じだと見てもよいだろう。しかし、「25年」の根拠はいったい何か?
 上の安本美典著(2003年)によると、古代の天皇一代の長さについて、津田左右吉は20~25年(安本p.159)、直木孝次郎・井上光貞は20~30年(p.160)、那珂通世はほぼ30年(p.177)と想定して、各(実在)天皇の在位期間等を推定した、という。
 これらと八幡和郎が推論根拠とする「25年」もまたおおよそ一致しており、八幡はすでに何らかの学説・文献上の知識にもとづいて、「安心して」書いているとみられる。
 安本美典はこれを<長すぎる>とする。
 いずれにせよ、八幡和郎は、まるで自分の「頭」でだけ考察したかのごとく記述し、かつまたこれら学者たち以上に?傲慢にほとんど断定し、「政府」が古代の「実年代」を確定せよという趣旨まで書いてしまう。これは、異常・異様だろう。研究書の体裁をとらない新書・文庫では、何を書いてもよいのか。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

2139/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典④。

  八幡和郎が考えるように、邪馬台(ヤマト)国と大和朝廷・「天皇」・「日本」は連続していないとすれば、後者の皇統にある者たちがのちに「倭」とか「大倭」という語を国名や天皇の和風諡号に使ったのは、とんでもない間違いをしていたことになるだろう。
 その理由を論理的に想定できるのは、つぎの可能性だ。
 本当は「邪馬台国」も「卑弥呼」も自分たちとは関係がない、本当は遠い先祖や先輩たちでなかった。それにもかかわらず、天武・持統や日本書記編纂者等は<勘違い>をして、自分たちは魏志東夷伝倭人条に出てくる「邪馬台国」や「卑弥呼」の後継者だと思い込んだ。そして、この大いなる誤解のもとで、正規の文書や史書でも「倭国」とか「倭根子…」という語を使ってしまった。
 こんな大きな勘違いをしたのだろうか。しかし、中国(魏)の史書を見ただけで、自分たちは「倭国」の「倭人」たちの後裔だと思い込んでしまうものだろうか。
 それに、のちに「邪馬台国が滅びて数十年たったあと」で「その故地を支配下に置いた大和王権」は、その九州の土地で、大陸とやり取りのあった「女王の噂」など本当に「何も聞かなかった」のだろうか。
 八幡和郎は、「女王の噂など何にも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」と言う。しかし、八幡によると崇神天皇は「壱与」と同世代なのだが、崇神の孫の景行天皇または崇神の曽孫のヤマトタケルが九州を支配したとき、その土地の人々の全てがはかつての「女王国」・「邪馬台国」に関する記憶を全く失っていたのだろうか。それほどまでに完璧な「邪馬台国の滅亡」があったのだろうか。
  シロウトの気楽さで、もう少し八幡和郎の「頭の中」を覗いてみよう。
 万世一系の天皇と邪馬台国は何の関係もないはずなので、八幡は論及する必要もないのだが、上記のとおり、崇神天皇は「卑弥呼」の後継者とされる「イヨ」の「同時代人」だとほとんど断定している。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 p.132-「邪馬台国の卑弥呼の没年は240年代とされ、そうすると崇神天皇はその後継者であるイヨの同時代人ということになる」。
 崇神天皇についての推測は、こうも記述されている。
 B/八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 p.30-「だいたい、崇神天皇は3世紀の中頃から後半にかけて活躍されたということになります」。
 p.46-「さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は3世紀のなかごろと推定されます」。
 専門家でも学者・研究者でもない八幡和郎は、なぜこう大胆に書けるのだろうか。
 崇神天皇=「イヨ/トヨ(壱与・台与)」と同時代=3世紀の中頃ないし後半。
 このように八幡が「推論」する、その論理を辿ってみよう。これは紀年論・年代論だ。
  上のBも同旨だが、Aの方が少しは詳しいようなので、以下は、ほとんど上のAを検討対象にする。 
 崇神天皇でもどの天皇でも、歴史上存在しなかった天皇であれは、その在位期間を推測するのは当然に無駄なことだ。実在していたとしても生没年や践祚・即位と退位の年が文献等の上で明確でない場合にこそ、何らかの「基準」となる年を想定・固定して、そこから諸資料を通じて活動・在位の時期を<推論>・<類推>していくということになる。
 講談社の<天皇の歴史>シリーズ(全10巻、2011)にはどの巻末にも歴代天皇表が5頁にわたって掲載されていて、29代・欽明天皇以降については「在位期間」の年月日が記載されている。おそらく、欽明についての539年~571年以降は(月日省略)争う余地が全くないと考えられているのだろう。
 但し、26代・継体の507年即位というのもほぼ史実のように見えるし、稲荷山古墳出土の鉄剣の刻み文字から、21代・雄略天皇の活動年は471年を跨ぐ前後ということも、学界でもおそらくほとんど一致して承認されているかと思われる。
 不分明になるのは日本書記が記す天皇没年(これはふつうは次代天皇の践祚または即位の年だ)と全天皇についてではないが古事記が記載する没年(古事記没年干支)とが一致していない天皇からだ。
 それでも継体までは辛うじて「ほぼ一致」と言えるが、それ以前はかなり異なっている(允恭についての453年・454年、雄略についての479年・489年はまだマシだ)。
 崇神天皇については、日本書記では没年は紀元前29年とされ、古事記では(干支は明確でも60年毎に同じ干支になるので)318年説と258年説があるらしい。
 後者の258年というのは、八幡「推論」の結果とかなり近いが、八幡が干支年にこだわって上の後者を採用しているわけではない。
 さて、八幡和郎が確からしいとして「基準」とする年はいつなのだろうか。
 上のAによると、つぎのとおり。
 神功皇后の朝鮮半島への遠征年=応神天皇の出生年、346年。p.130-1。
 神功皇后による<三韓征伐>の記録・伝承を背景として、つぎの①と②の二つを根拠としていると見られる。そして、これらから、③の<推論>が行われる。
 ①<新羅本紀>によると、「倭人」が新羅の首都・金城を包囲したのは、346年と393年の2回。神功皇后の遠征年はこれらのうちいずれかだ、と八幡は考える。
 ②石上神宮にある国宝「七支刀」の刻み文字から、「369年」に百済王から倭王に送られたものだと分かる(この説が「多い」)。
 ③このときすでに「対百済外交」が行われていただろうから、①の346年と392年のうち、早い方の346年の「ことだろう」、とする。
 七支刀については、八幡自身によって「『日本書記』で神功皇太后に贈られたとされている」と説明されている。
 この日本書記の原文(但し、現代語訳文)は、つぎのとおり。秋月がつぎの著で確認する。
 新編日本古典文学全集/日本書記1・巻一~巻十(小学館、1994)、p.461。
 「〔神功〕摂政52年秋9月の丁卯朔の丙子(10日)に、…らは千熊長彦に従って来朝した。
 その時に、七枝刀一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献った。
 そうして謹んで、『…。…。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。次いで、「百済王が孫の…に語って、……」と言いました』と申し上げた。これより後は、毎年相次いで朝貢した。」
 ここにある一振りの「七枝刀」が、現存する上の「七支刀」のことだと(たぷんほぼ一般的に)考えられているようだ。
 さて、出発点としての「基準」年はむろん最も重要なはずだが、このような論拠と推論でよいのだろうか。
 むろんよくは分からない。しかし、つぎの重要な疑問が生じる。
 第一に、神功皇后の遠征「年」を、倭人が「新羅の首都・金城を包囲」した記録が残るという、上の二つの年に限定しまうのは、それでよいのか。
 346年と393年の二つだけで、しかもこれらは47年も隔たっている。
 神功は、半島にまで身重で出征して帰国して現在の福岡県宇美町で応神天皇を生んだ、とされる。
 「新羅の首都・金城を包囲」していなくとも、神功皇后が半島にまで出向いたと理解してよい年は、ほかにもあるのではないか。
 当時の半島には百済・新羅・高句麗の三国があったが、高句麗に向かったかもしれないし、新羅への軍に同行したが首都を「包囲」するまでには至らなかった、ということもあり得るだろう。
 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(勉誠出版、2019)。
 上の安本著は、高句麗の「広開土王碑の碑文」には、つぎのことも書かれていた、という。p.95-96。
 01/391年-倭が「海を渡ってきて、新(?)羅を破り、これを臣民とする」。
 02/400年-倭が「新羅城のうちに満ちあふれていた」。
 03/404年-倭が「不軌にも帯方界に侵入」した。
 また、<新羅本紀>と日本書記には、八幡の挙げる393年のほか、つぎの情報も記述されている、という。
 04/402年-「王子の未斯欣が、倭の人質になった」。
 この04の新羅王子「未斯欣」は、上記の日本書記1p.431に出てくる「微叱己知」と同じ人物だろう。
 また、この「微叱己知」を「質」にした記事は、こういうことも書いている。神功皇后が新羅まで行っていることは(日本書記上でだが)明らかだ。
 05/402年?-新羅王を誅殺しようとある者が言ったが、皇后は「自ら降伏してきた者を殺してはならない」と言い、新羅王の縛を解いて、地図・文書等を収め、「矛を新羅王の門に立て」た。
 これら5件はいずれも、八幡が基準とする346年よりもかなり後のことだ。
 第二に、「七支刀」は神功皇后の時代に献上された、と日本書記は確かに記述している(摂政52年9月の条)。
 しかし、八幡自身がp.130で「これを贈られたのが本当に神功皇太后だったかどうかはともかくとして」と明記するように、誰がもらった刀なのかが、刀自身から明確になるわけではない。せいぜい「倭王」としか理解できないだろう。
 従って、七支刀が刻む年号=369年を手がかりとして、346年と392年のうち369年より前の346年を選択する、という八幡の推論方法が適切だとはとても思えない。
 なお、安本の上掲書p.256によると、古事記の「応神天皇記」に、百済・照古王が「横刀と大鏡」を献上した旨の記載がある、という。神功皇后ではなく応神天皇の時代に関する叙述だ。
 さて、346年=神功皇后の「活躍」年=仲哀死後十月十日で応神天皇を生んだ年
 これを「基準」とするのは、かなり危ないように見える。
  八幡和郎は上を「基準」年として、崇神天皇の「全盛時」は、「3世紀のなかごろということになる」、と推論結果を叙述する。
 「基準」年が大幅に間違っていると、推論結果も間違っている可能性が高いだろう。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 この書は末尾に、推古天皇~卑弥呼の間の、天皇在位・「活躍」期間を想定した安本による図表(・グラフ)がとじ込みで添付されている(厳密な数字化はされていない)。
 この1987年書での図表・グラフを現在の安本は放棄したわけでもなさそうなので、応神~崇神に限って、八幡和郎による想定と比較してみよう。*は、神功皇后と計。安本推定の細かな数字は、グラフに対する秋月の目視による。
 ①15応神天皇-八幡・出生/346年。  安本・在位/402年~425年。
 ②14仲哀天皇-八幡・出生/310年代後半。安本・在位/390年~402年*。
 ③12景行天皇-八幡・全盛/3世紀末? 安本・在位/370年~386年。
 ④10崇神天皇-八幡・全盛/3世紀半以降。安本・在位/343年~357年
 このとおりで、崇神天皇について約100年の開きが出ている。
 その結果として、八幡においては神武天皇は卑弥呼よりも前の(昔の)人物であるのに対して、安本によれば、神武天皇は卑弥呼よりも後の(新しい)人物になる。
 知的な「推論」過程・方法の差異に関心がある。もう少しつづけよう。

2109/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史12。

 「多くの日本人は、今日でもややもすれば、日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来したと解釈せんと欲する傾きがある。
 この誤謬は随分古くからあって、国民的自覚が生ずると同時に、日本人はすでにこの誤謬に囚われていたと言ってもよい。
 維新以前の日本文化起源論とも云うべきものは、最後にこの立論の方法でほとんど確定せられていた。
 日本が支那文化を採って、それに従って、進歩発達を来したということは、だいたいにおいて異論はない。
 もっとも徳川氏の中頃から出た国学者達はこれにさえも反対して、あらゆる外国から採用したものは、すべて日本固有の何よりも劣ったものであり、それを採用したがために、我国固有の文化を不純にし、我国民性を害毒したと解釈したものもあった。
 今日では、その種の議論は何人も一種の負け惜しみとしてこれを採用しないが、しかし、自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていたということだけは、なるべくこれを維持したいという考えがなかなか旺盛である。」
 内藤湖南(1866~1934年)は1924年初版・1930年増補の<日本文化史研究>で、上のように述べた、とされる。
 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)、p.154-5。一文ごとに改行した。
 「日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来した」というのは、おそらくは今日の<日本会議>運動の基礎にある考え方であり、信念だろう。
 西尾幹二が2019年に日本「神話」の歴史に対する<優越>性を語るのも、この始原としての<日本神話>=<日本文化>の、とくに当時の中国に対する<優越性>、少なくとも<自立性>を前提としているのかもしれない。
 また、「自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていた」という理解の仕方を内藤湖南は皮肉っているのだが、櫻井よしこのつぎの文章は、日本の「神道」の基礎の上にその「寛容」さをもって「仏教を受け入れた」のだとしている。まさに、内藤湖南がかつて皮肉ったようなことを述べていることになるだろう。
 櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「理屈ではない感性のなかに神道の価値観は深く根づいている。その価値観は穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 その寛容さを、平川〔祐弘〕氏は……と較べて、際立った違いを指摘するのだ。」
 また、内藤の上の文章は江戸時代の「国学」も批判しているが、これまた櫻井よしこのつぎの一文をふまえて読むと、きわめて興味深い。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「壮大な民族の物語、日本国の成り立ちを辿った古事記は、…、日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています。」
 櫻井よしこは日本書記ではなく、(似たようなことが記述されていても)古事記を優先または選択する。
 これは、「国学」者・本居宣長が<純日本性>・<日本固有性>を求めて、日本書記ではなく古事記を選好したことを、おそらく継承しているのだろう。
 日本<神話>といえば漠然としているが、上の一連の<日本会議>的思考と理解の仕方は、つぎのように意外に単純な(・幼稚な)かつ大雑把なものかもしれない。
 日本(・民族)の素晴らしさや固有性・本来性=日本の長い伝統=日本<神話>とくに古事記=天壌無窮の神勅=天皇=万世一系=女性天皇否認。
 最後の部分は、西尾幹二によると<神話>→天皇→女系否認だから、このようになる。
 ところで、白鳥庫吉(1865~1942年)は、上掲書p.120によると、日本<神話>に出てくる(「高天原」・)「夜見」国・「幽界」について、こう書いている。
 「この高天原・夜見国なりが神典〔日本書記〕に見えるばかりで、…観れば、この幽界は太古から国民の信念にあったものと見做すのは困難である。
 思うにこれは、仏教と接触してかの国にいう極楽地獄の思想が影響したのではあるまいか。
 ……、海国に龍城があり、またそこに如意玉があったということは、明らかに仏書から得た知識でなければならぬ。<中略>
 もしもこの考察に誤りがないとすれば、神典の作られたきには仏教が伝搬せられていて、その作者の資料になったということができる。」
 かりにこの白鳥の考察が適切だとすれば、日本書記等の中の「神話」にも、6世紀半ばから後半とされる<仏教伝来>による仏教の影響を受けて作成されたものがあることになる。
 安本美典が邪馬台国=高天原の場所・地名を探求していることを知っていたりするので、さすがに白鳥庫吉を全面的に信頼するとは言わないが、日本神話それ自体が<純粋に日本>的なものではない、つまり中国あるいは東アジアの「伝承」や「物語」の影響を受けているだろうことを一切否定することはできないだろう。
 いかに「日本神話」に根源・始原を求めようとしても、核のない玉葱のごとく、中心は真空で、あるいはそこに空気があってもあっという間に霧散する、そのようなものかもしれない。
 また、「神道」がもともときちんとあって、その「寛容」性のために仏教も伝来できた、という櫻井よしこの「思い込み」も子どもダマしのようなものだろう。
 櫻井は、仏教伝来以前の「神道」とはどのような内容の(と言っても「教義」を確認することはできないのは常識に属する)、どのような儀礼・祭礼のものだったかを、きちんと説明すべきだろう。また、そもそもは、「古事記」=「神道」に立ち戻ることが、なぜ<保守>なのか、という言葉・概念の問題もある。
 内藤湖南、白鳥庫吉の時代からほぼ100年、人間の、あるいは日本人の「知」というのはいかほど「進歩」または「向上」したのだろうかと、感慨を覚える。この二人を絶対視する意図は全くないけれども。
 似たような論点を、明治期後半と、あるいは江戸時代の本居宣長等々と同様に、今日でもあれこれと(櫻井よしこには「単純化」が著しいが)、論じているわけだ。
 かくして、とやや跳ぶが、今年の天皇即位の儀式に「神道」ではなく「中国」風の印象を受けた、とこの欄に私が書いたことも直観的には適切だったように思える。
 天皇・皇室の「内々」の儀礼はともかく、即位の儀礼は、少なくとも文献・絵画等で辿り得るかぎりでの(奈良時代か平安時代初頭の)、決して日本(または「神道」)に固有で純粋なものではなく、仏教かその他の中国思想・儀礼かはともかく、<異国>の雰囲気がすでに混じっていた、それを(純粋な「日本」式または神武天皇の即位礼の様式を確認・創造することができないだめに)明治天皇もまた引き継がざるをえなかった、そして、今上天皇も、ということになるのではないかと思われる。
 聖徳太子の時期から天武・持統の時代に日本は独自の文化性を確立し、主張し始めた、と<日本会議>派の人々は理解したいのかもしれないが、律令制そのものが中国風であり、漢風諡号もまたその後に「継受」または「創造」された。<神仏習合>はすでに、しっかりと根を下ろしていた。
 日本を蔑視する、日本人であることを恥じる、という気は秋月瑛二には全くない。
 ただ、「史実」に知的関心がある。
 最近にあらためて思うのは、日本会議等の「右翼」や一部「保守」派は、明治維新以降約150年の日本の歴史、明治憲法と終戦までのわずか56年間の「明治憲法(・旧皇室典範)体制」を、長い長い日本の「伝統」と意識的に、または無知であるがゆえに、取り違えている、ということだ。
 太政官を筆頭とする律令体制は、形骸化してはいたが、じつは形式的には、明治維新期初頭まで継続していたのではないか、と思われる(きちんとは確認・検証しないで書く)。
 7世紀末ないし8世紀初頭(701年・大宝律令)から<武家政治>を経て19世紀後半まで、何と明らかに1100年以上だ。
 この1100年以上の(少なくとも表面・形式だけは)中国を「模範」とした、少なくとも「影響」を強く受けていた時代と、あるいは<神仏習合>の長い時代と、上の150年や56年の時代とは、どちらか日本の「伝統」なのだろうか。長い「伝統」を否定して切断した、そして神武開闢時代まで「国家」理念を遡らせた画期こそが、明治維新・明治新政府の樹立だった。それは<革新>であって、<保守>でも何でもない。
 また、ナショナリズム発揚ではあるが、ナショナリズムの利用は共産主義・社会主義国家でもあったことで(また、日本共産党もある意味では正確に反米ナショナリズム政党で)、西尾幹二・保守の真髄(徳間書店、2017)の理解するように「共産主義=グローバリズム」では全くない、ということは別に論及する。
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 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)は、「邪馬台国」関係で本棚(というよりも広大な?書庫)から発見したもので、著者の40歳代の書らしく元気がよい。
 「邪馬台国」関連でも面白く、白鳥庫吉(その指導を受けたのが津田左右吉)と内藤湖南の各々による北九州説と畿内説の主張も、各々の「東洋史学」の立論の論脈で位置づけられる必要があることが分かる。
 また、小路田に従えば、明治期以降の敗戦時まで、①(純)日本主義、②アジア主義、③皇国史観、という歴史観の変遷が見られるらしい。②は「大東亜」戦争となり③に直結するのだろう、きっと。
 いずれにせよ、「皇国史観」の時代が、明治期以降をすべて占めていたわけでもない。
 八幡和郎は「新皇国史観」という語を2011年の書の副題に使っていたが、今どき「皇国史観」という語を使うこと自体が<軽率すぎ>、この人物は「歴史」に本当は無頓着であることを示しているだろう。
 小路田(歴史学者、1954-)による歴史学界・アカデミズム(のボスたち?)批判もすこぶる面白いが、機会があれば触れる。

2108/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典③。

 専門家として叙述する資格も、意図もない。同じ立場にあるはずの、八幡和郎らの所説に論及する。
  <魏志倭人伝>は3世紀後半ないし末に執筆されたとされるので、数十年または100年程度は前のことも含めて、「倭」に関して叙述している。
 その中には「対馬」、「一大(支?))=壱岐、「末盧」=松浦、「伊都」=怡土(糸)、「奴」=儺・那〔福岡市の一部〕といった現在に残る地名と符合するものもあるので、そのかぎりで、少なくともこうした地域の地理や人々の状態を、全てが事実ではなかったにせよ簡単にでも記載していることは間違いないだろう。これら地域に限らず、「倭人」全体についてもそのようなところはあるが、逐一には挙げない。
 7世紀後半から8世紀前半にかけて執筆・成立した日本書記・古事記等がいかに紀元前660年の神武天皇即位やそれ以前の「神話」を記述しているとしても、<魏志倭人伝>よりも400年以上のちに書かれたものだ。
 <魏志倭人伝>が全体として「歴史資料に値しない」(西尾幹二)などとは言い難いのはほぼ常識的なことだ。
 なお、西尾は、<魏志倭人伝>からは「互いに無関係な文書が、ただ無造作にのりづけにして並べられているという無責任な印象を受ける」ようで、「書き手の陳寿という人物のパーソナリティはなにも感じられない」等とする。
 歴史叙述者は自分の「パーソナリティ」を感じさせなければならないのだそうだ。
  <魏志倭人伝>には、「倭人」、「倭國」、「倭地」、「倭種」、「倭女王」、「親魏倭王」、「遣倭」・「賜倭」〔倭に遣わす・賜る〕、等の「倭」という語が出てくる。
 <伝>は2000字ほどの漢字文で長い文章ではないので「倭」という漢字を数えてみると、見落としがあり得るのでやや曖昧にして、計19-20回ほどだ。
 この「倭」=ワ・ウァが当時の魏の人たちまたは執筆者・陳寿が勝手に名づけたのか、当時に北九州にいた人の対応によるのか(ワ=当時の言葉でのの「輪」(ワ)ではないかとの「推測」もある)はよく知らない。
 どちらにしても、<魏志倭人伝>という当時の中国の史書は日本を「倭」と呼んだ。
 一方、日本書記の中にもまた、しばしば「倭」という語が出てくる。
 ネット上に日本書記の漢文全文が掲載されていて、「倭」で検索することもできる。
 それによって検索してみると、計算間違いがあり得るのでやや曖昧にすると、およそ190回も「倭」がヒットする
 著名なのは、崇神天皇(10代)の項(巻第五)に出てくる、つぎだろう。
 「倭迹迹日百襲姫命」、または「倭迹迹日姫命」。なお、「倭迹速神浅茅原目妙姫」というたぶん別の姫命の名もある。
 垂仁天皇(11代)の項〔巻第五)には、つぎの人名も出てくる。
 「倭姫命」(古事記では「倭比売命」)、「倭彦命」(古事記では「倭日子命」)。前者は垂仁の皇女で、後者は崇神の弟のようだ。
 崇神の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「天照大神」とともに最初は宮中でのちに外で祀られた、という。確証はないだろうが、現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この「倭大国魂神」を祀っている、とされている。ちなみに、「大和」という名からだろう、境内に、戦艦大和の模型を設置する小さな建物がある。
 その他、「倭京」=藤原京以前の飛鳥の宮廷、「倭国造」=現在の奈良県の一部の国造、もある。
 以上よりも関心を惹くのは、地名または国名としての「倭」だ。
 例えば、神武天皇(初代)の項(巻第三)の中に、「倭国磯城邑」という語がある。現代語訳書によると、この辺りの文章は、「その時…が申し上げるのに、『倭の国の磯城邑〔ルビ/しきのむら〕に、磯城の八十梟帥〔ヤソタケル〕がいます。…』と」。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.98。なお、この現代語訳書は、原文の「倭」を全て忠実に「倭」とは記載していない。
 ここでの「倭」は、文脈からすると、現在の奈良県・かつての大和国の意味だろう。現在でも「磯城郡」がある(かつては桜井市全域、橿原・天理・宇陀市の一部を含み、現在は、田原本・川西・三宅の各町が残る)。
 一方、「倭」が上よりも広域を指す語として用いられていることもある。
 例えば、かなり新しい時期のものだが、天武天皇(40代)の下巻(巻第二十九)に、こう出てくる。日本書記の執筆・編纂者が、まだこうも記述していたことは注目されてよいだろう。
 天武3年「三月…丙辰、対馬国司…言、銀始出于当国、即貢上。由是、…授小錦下位。凡銀有倭国、初出于此時」。(旧漢字体は新体に改めた)。
対馬で初めて「銀」が産出して、これが「倭国」で最初だ、というのだから、ここでの「倭国」は、天武・持統天皇時代に<支配>が及んでいたかぎりでの、日本全体のことだと理解することができるだろう。
 また、「大倭」も、例えば天武天皇時代にも使われている。但し、「大倭・河内・摂津・山背・…」と並列させて用いられていることがある。天武4年の項にその例が二つある。この「大倭」という語の、日本書記全体の検索はしない。
 さて、日本書記(や古事記)での「倭」は何と読まれていたのだろうか。現在の諸現代語訳のルビ振りが当時の読み方を正確に反映しているのかどうかは分からないが、おそらく間違いなく<ヤマト>であって、<ワ>ではないだろう。
やまとととひももそひめのみこと(倭迹迹日百襲姫命)」、「やまとひめのみこと(倭姫命)」という具合にだ。
 地域または国名としての「倭」もまた、<ヤマト>だと考えられる。
 そして、国名を漢字二文字にするという方針のもとで「倭」→「大倭」という変化が行われた、と推察される(紀ー紀伊、等も)。この「大倭」を、「倭」という卑字?を嫌ってのちに改めたのが、「大和」=ヤマトだ。倭→大倭→大和、こう理解しておかないと、「大和」という文字は「ヤマト」とは読めない。
 以上は推察まじりだが、おおよそは一般に、このように考えられていると見られる。
 そして、この「大倭」または「大和」が、いつの頃からだろうか、聖徳太子の時代の頃から天武・持統時代または日本書記等の編纂の時代までに「日本」という国号へと発展したのだろう。「日本」という語・概念の成立の問題には立ち入らない。
 以上は何のために記したかというと、八幡和郎の考え方を批判するためにだ。
  八幡和郎の邪馬台国・大和朝廷(王権)分離論は、八幡独自のものでも何でもない。
 八幡和郎が邪馬台国の「卑弥呼」時代と大和朝廷(王権)の時期的関係をどう見ているのかは定かではないが、これは後者の「成立」とか「確立」とかの時期、そしてこれらの用語の意味にもかかわっている。
 しかし、神武天皇は卑弥呼よりも前、崇神天皇は卑弥呼よりもあと(の次の「台代」)の時代と考えていることは間違いない。なお、卑弥呼は3世紀半ばに活躍したと見られている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 ・「神武天皇はだいたい西暦紀元前後、…になります」、しかし、崇神との間が10代でなく数世代だとすれば「二世紀のあたりかもしれません」。p.30-p.31。
 ・「崇神天皇は、その〔卑弥呼の〕後継者である台代の同世代人とみられます」。p.47。
 また、最近の、八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」アゴラ2019年12月19日は、こう書いている。
 ・「大和政権が北九州に進出したのは、邪馬台国が滅びてから半世紀以上経ってからのことだと推定できる」。/とすれば、「北九州に邪馬台国があったとしても統一をめざして成長する大和政権と接点がないのが当たり前だ」。
 八幡は神武天皇の実在を否定していないが、大和王権の実質的創建者を崇神天皇と見ているようなところがあり(この点で(神武-)崇神-応神-継体王朝という王朝交替説と部分的に類似する)、その孫・景行天皇とさらにその子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)時代に王権の支配領域の範囲を著しく拡大したというイメージを持って書いていると推察される。従って、上の「北九州に進出」や「統一をめざして成長する大和政権」は、崇神とその後の数世代をおそらく想定しているのだろう。
 安本美典のつぎの本は、北九州説・畿内説と上の二つの前後関係を主な基準として邪馬台国と大和朝廷(王権)の関係に関する学説を10に分類している。
 安本美典・邪馬台国ハンドブック(講談社、1987)。
 これによると、八幡和郎のように<邪馬台国=九州説>に立つ説も、大和朝廷「成立」の時期を邪馬台国以前と見るか以後と見るかに二つに分かれる。
 前者の中には前回にこの欄で触れた<僭称説>も入り、本居宣長等が唱えた。しかし、八幡和郎によると邪馬台国の人々は(魏の使者も)大和王権の存在を知らなかったはずなので、八幡和郎説?はこれに該当しない。
 一方、後者には、津田左右吉らが入る、とされる。以上、とくにp. 231。
 いずれにせよ、八幡説?は新奇でも独自でもない。
 しかし、その説が論理的にみて成立し得るのだろうか、が問題だ。
 つまり、前回も<邪馬台国>の「邪馬台」と大和朝廷の「大和(ヤマト)」の共通性または類似性を指摘したが、大和政権(・王権・朝廷)が「邪馬台国」の存在を知らない、または知らなかったとすれば、なぜ、大和政権を継承したはずの天武・持統天皇、元明天皇ら、そして記紀執筆者・編纂者は、「倭」あるいは「大倭」という語を、日本書記等で用いているのだろうか。
 日本書記には、なぜ、<魏志倭人伝>にいう「倭国」と同じ「倭」という語が、先述のように100回以上も出てくるのか?
 日本書記において、天武3年(674年)に関する記載として、既に紹介した「凡銀有倭国、初出于此時」とある場合の「倭国」は何のことか。
 「迹迹日百襲姫命」、「姫命」等々はなぜ「倭」と冠せられているのだろうか。なお、日本書記ではヤマトタケルノミコトは一貫して「日本武尊」のようだが、古事記では「倭建命」と記載されている、とされる。
 八幡和郎は、つぎのような名文?を、2011年に活字として残した。上掲書、p.49。
 ・「邪馬台国とか卑弥呼とかという名も、中国側での呼称で、本当にそういうクニや人物の名前だったかは不明です」。
 たしかに、100%明確ではないのだろう。八幡によれば、「中国側」が勝手に「邪馬台国」とか「卑弥呼」とか称したのであり、北九州の人たちがそう呼称したわけではない、ということになるのだろう。
 中国の史書を「信頼できない」とする1999年の西尾幹二著の(悪い)影響を受けていなければ幸いだ。八幡もまた、「媚中」史観を持たないためには、1700年以上前の3世紀の中国語文献を簡単に信用してはならないという「主義」者なのかもしれない。
 しかし、「邪馬台」と「ヤマト」の共通性・類似性は全くの偶然だとは思えないし、「卑弥呼」も、勝手に魏の使者が名づけたのではなく、固有名詞ではない「日御子」・「日巫女」・「姫御子」といった語に対応するものと理解する方がより自然だろう。
 そんなことよりも、以下に述べるように、日本書記の執筆者は遅くともその成立年までに、「邪馬台国」・「卑弥呼」という呼称をすでに知っていたと見られることは、重要なことだ。
 かりに大和政権と邪馬台国が無関係だったとすれば、大和政権の継承者たちは、邪馬台国や「卑弥呼」に言及する中国側文献などは無視するか、言及しても否定するか何らかの意味で消極的な評価を加えるだろう。
 しかし、日本書記自体が、神功皇后に関する項で、<魏志倭人伝>にこう言及している。漢字原文を引用するのも不可能ではないが、宇治谷孟・上掲書p.201-2による。
 「39年、この年太歳己未。-魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は…を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。<中略>/
 40年、-魏志にいう。正始元年、…を遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 43年、-魏志にいう。正始4年、倭王はまた使者の…ら、8人を遣わして献上品を届けた。
 この日本書記の記載から明らかであるのは、第一に、<魏志倭人伝>を見て読んでいる以上、「邪馬台国」・「卑弥呼」が登場して、それらについて書かれていることも知っていた、ということだろう。
 第二に、「倭」、「倭王」、「倭の女王」と書かれていること自体を、何ら不思議にも、不当にも感じていないように見える、ということだ。
 第三に、ここでの「倭の女王」を明らかに「卑弥呼」のことだと理解している。神功皇后の項で、上の文章をわざわざ挿入しているからだ。したがつて、「卑弥呼」=神功皇后という卑弥呼論が、日本で初めて説かれている。
 第三は、<年代論>に関係するので、ここでは(まだ)立ち入らない。
 この第三点を除く、上の二つだけでも十分だろう。
 さらに加える。
 ①<魏志倭人伝>ではなく高句麗(当時)の「広開土王(好太王)碑」の中に、文意については争いがあるのを知っているが、ともかくも「倭が海を渡った」旨が、「倭」を明記して刻まれている。当時の高句麗もあるいは広く朝鮮半島の人々は、今の日本のことを「倭」と称していたことが明らかだろう。広開土王は391-2年に即位した、とされる。大和王権の崇神天皇よりも(八幡和郎はもちろん安本美典においても)後代の人だ。
 ②日本書記編纂には知られておらず、存命中だったかもしれない本居宣長の知識の範囲にもなかっただろうが、のちの江戸時代になって、「漢委奴國王」と刻んだ金印が博多湾の志賀島で発見された。「委奴」については、ヤマト、イトという読み方もあるようだが、どうやら多数説は「漢のワのナの国王」と読むらしい。
 これまた、中国側の「勝手な」呼称なのかもしれないが(紀元後1世紀中のものだとされることが多い)、「倭」または「委」というクニとその中の「奴」という小国の存在が認められていたことになる。かつまた、当時の北九州の人々も(王を含めて)それをとくに怪しまなかったようでもある。
 以上、要するに、日本人の書いた文献、つまり日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だと思われる。
 そうでなければ、日本書記の中に「倭」が上のようにしばしば登場するはずがないのではないか。
  上で書き記し忘れた、より重要なことかもしれないが、、諸代天皇・皇族の名前自体の中に、「倭」が使われていることがある。 
 日本書記では、和風諡号の中の「ヤマト」にあたる部分は「日本」という漢字を用いている。以下は、例。
 孝霊天皇(7代)=「大日本根子彦太瓊天皇」(おおやまとねこふとにのすめらのみこと)。
 開化天皇(9代)=「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこおおひひのすめらのみこと)。
 しかし、古事記では、それぞれ「大根子日子賦斗迹命」、「若根子日子毘々命」だとされる。「日本」と「倭」は、交換可能な言葉なのだ。
 また、日本書記でも、「倭根子」を登場させることがある。
 ①景行・成務天皇(12-13代)の項(巻第七)、宇治谷孟・上掲書p.154。
 景行天皇が「八坂入媛」を妃として生んだ「第四を、稚倭根子皇子という」。
 ②孝徳天皇(36代)の項(巻二十五)。漢字原文。宇治谷書には、「倭」が省略されている。。
 2年2月15日、「明神御宇日本倭根子天皇、詔…。朕聞…。」
 =「明神〔あきつかみ〕として天下を治める日本天皇は、…に告げる。…という。」宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・下(講談社学術文庫、1988)、p.168。
 ③天武天皇の項・下(巻第二十九)。
 12年1月18日、「詔して、『明神御八洲倭根子天皇の勅令を…たちよ、みな共に聞け。……』といわれた」。=宇治谷孟・上掲書(下)、p.294。
  以上のとおりで、繰り返せば、日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だ。
 従って、八幡和郎の言うつぎのようには「解決」できるはずがない。
 八幡和郎・前掲アゴラ2019年12月19日。
 「邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。
 邪馬台国が滅びて数十年たったあと、その故地を支配下に置いた大和王権は大陸に使者を出した女王の噂などなんにも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」。
 このようには「すべて問題は解決する」ことができない。
 厳密には「その故地を支配下に置いた」時点での大和王権ではなかったかもしれないが、その大和王権の継承者である天武・持統天皇や日本書記編纂者は、<魏志倭人伝>を、そして「卑弥呼」という「大陸に使者を出した女王」の存在を知っており、「卑弥呼」=「神功皇后」という推理までしている
 これは<魏志倭人伝>の内容の信頼性を少なくともある程度は肯定していることを前提としており、西尾幹二や八幡和郎よりも、1300年ほど前の日本人の方がはるかに、<魏志倭人伝>やそこで描かれた「倭」、つまりのちに「日本」となった国の歴史について、知的・誠実に、向かい合っている、と言えるだろう。
 1300年ほど後の西尾や八幡の方が、知的退廃が著しいのだ。その理由・背景は、<日本ナショナリズム>=<反媚中史観>なのかもしれないが、「卑弥呼」・邪馬台国の頃の3世紀の歴史を考察するに際して、そんな<政治的>気分を持ち出して、いったいいかなる成果が生まれるのだろうか。
 年代論等は、さらに別に触れる。
 八幡和郎は(かつての故地だったと当然に知らないままで)大和政権はある程度の戦闘を経て、北九州を支配下においた、というイメージを持っているようだ。しかし、他の地域はともかくも、九州・邪馬台国の有力地である筑紫平野(有明海側)の山麓の勢力と激しく闘った、という記録はなく、かつての故地だったからこそ円滑に支配領域を拡大した(あるいは元々支配していた)という旨の指摘も、確かめないが、読んだことがある(たぶん安本美典による)。荒唐無稽にも<磐井の乱>(6世紀前半)を持ち出して、旧邪馬台国の後裔たちの反抗だとは、八幡和郎は述べていないけれども。
 八幡和郎は、「邪馬台国」論議の蓄積を十分に知らないままで、勝手な記述をして、「皇室」やその維持の必要性について「理解していただく論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」とする「傲慢さ」を、少しは恥ずかしく思うべきだろう。

2107/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典②。

 安本美典著の近年のものは、先だってこの覧で言及した神功皇后ものの一部しか熟読していない。その他の一部を捲っていると、興味深い叙述に出くわした。
 邪馬台国論議や古代史論議に関心をもつ一つの理由は、データ・史資料が乏しいなかで、どういう「方法」や「観点」で歴史・史実に接近するのか、という議論が内包されているからだとあらためて意識した。これも、文献史学と考古学とでは異なるのだろう。
 安本の学問・研究「方法」そのものについては別に触れる。
 ①「私たちは、ともすれは、…、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
 これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
 しかし、ていねいに分析されよ。」
 ②「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」。
 安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017)。p.241.とp.202。
 西尾幹二が「社会的にみとめられている人物」で「自信をもって発言している」ように見えても、「ていねいに分析」する必要がある。さすがに深遠で難解なことを書いている、などと卑下する必要は全くない。
  「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」というのは、この欄で私が「文学」系評論家・学者に対して-本当は全てに対してではないのだが-しばしば皮肉を浴びせてきたことだ。私自身は「文系」出身者だが、それでも、「論理」や概念の「意味」は大切にしているつもりで、言葉のニュアンスや「情緒」の主観的世界に持ち込んで独言を吐いているような文章には辟易している(江崎道朗の書は、そのレベルにすら達していない)。
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 西尾幹二は2019年の対談で「歴史」に対する「神話」の優越性を語る。しかし、そこでの帰結であるはずの<女系天皇否認>について、<日本神話>のどこに、どのように、皇位を男系男子に限るという旨が「一点の曇りもなく」書かれているかを、具体的に示していないし、示そうともしていない。
 西尾にとって大切なのは、「原理論」・「総論(・一般論)的方法論」の提示なのだろう。
 日本の建国・「国生み」の歴史についても、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と(章の表題としても)明記し、日本書記等を優先させよ、とするが、では日本書記等の「神話」によれば、日本ないし日本列島のクニ・国家の成立・発展はどう叙述されているかを具体的に自らの言葉でもって叙述することをしていないし、しようともしていない。
 日本書記と古事記の間に諸「神話」の違いもある。また、日本書記は、ある書によれば…、というかたちで何通りもの「伝承」・「神話」を伝えている。
 <日本神話>を尊重してすら、「解釈」や「選択」を必要とするのだ。そのような地道な?作業を、西尾はする気がないに違いない。そんなチマチマしたことは、自分の仕事ではないと思っているのかもしれない。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章<神話と歴史>・第7章<魏志倭人伝は歴史資料に値しない>。=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。以下は、入手しやすい文庫版による。
 西尾の魏志倭人伝嫌悪は、ひとえに<新しい歴史教科書>づくりのためのナショナリズム、中国に対する「日本」の主張、という意識・意欲に支えられているのかもしれない。
 しかし、かりにそれは是としてすら、やはり「論理性」は重要であって、「暴論」はよくない。
 ・p.209。-「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているとも言える」。
 ・p.209-210。-岡田英弘によると1735年<明史日本伝>はかくも〔略〕ひどい。「魏志倭人伝」はこれより「1500年も前の文章」なのであり、この項は「本当はここでもう終わってもいいくらいなのだ」。
 ・p.216。-「結論を先にいえば、『魏志倭人伝』を用いて歴史を叙述することははなから不可能なのである」。
 ここで区切る。日本の歴史研究者の誰一人として、魏志倭人伝は正確な当時の日本の史実を伝えており。それに従って古代史の一定範囲を記述することができる、と考えていないだろう。
 魏志倭人伝だけを用いて叙述できるはずはなく、また、その倭人伝の中の部分・部分の正確さの程度も論じなければならない。日本のはじまりに関する歴史書を全て見ているわけではないが、かりに「倭国」から始めるのが西尾大先生のお気に召さないとしても、魏志倭人伝のみに頼り、日本書記や古事記に一切言及していない歴史書はさすがに存在しないだろう。
 西尾幹二は、存在しない「敵」と闘っている(つもり)なのだ。
 上の範囲の中には、他にも、まことに興味深い、面白い文章が並んでいる。
 石井良助(1907-1993)の1982年著を紹介してこう書く。p.214以下。
 ・石井は「古文書に書かれている文字や年代をそのままに信じる素朴なお人柄」だ。「全文が書かれているとおりの歴史事実であったという前提に少しの疑いももたない」。
 ・「伝承や神話を読むに必要な文学的センスに欠けているし、『魏志倭人伝』もとどのつまりは神話ではないか、というような哲学的懐疑の精神もゼロである」。
 ・石井は「東京大学法学部…卒業、法制史学者、…」。「世代といい、専門分野といい」、「日本の『戦後史』にいったい何が起こったか」がすぐに分かるだろう。
 ・「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者が歴史にどういう改鋳の手を加えてきたかという、これはいい見本の一つである」。
 以上。なかなか<面白い>。石井良助はマルクス主義者ではなかったが、津田左右吉流の文献実証主義者だったかもしれない。「法制史」の立場からの歴史叙述が一般の歴史叙述とは異なる叙述内容になることも考慮しなければならないのだが、それにしても、「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者」等の人物評価はスゴい。書評というよりも、人格的価値評価(攻撃)に近いだろう。
 そして、西尾幹二にとって、いかに「文学や哲学のメンタリティ」、あるいは「哲学的懐疑の精神」が貴重だとされているかが、きわめてよく分かる文章だ。
 とはいえじつは、西尾のいう「文学的センス」・「文学や哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」なるものは、今日での世界と日本の哲学の動向・趨勢に対する「無知」を前提としていることは、多少はこれまでに触れた。
 「哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」と言えば響きがよいかもしれないが、その内実は、「西尾にとっての自己の思い込み・観念の塊り」だろう、と推察される。
 さて、後の方で、西尾は別の意味で興味深い叙述をしている。こうだ。
 p.220。神話と「魏志倭人伝」の関係は逆に理解することも可能だ。つまり、魏の使者に対して日本の官吏は<日本神話>=「日の神の神話」を物語ったのかもしれない。
 しかし、これはきわめて苦しい「思いつき」だろう。「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「日の神の神話」には直接には出てこない。イザナキ・イザナミ等々の「神々」の物語=<日本神話>を歴史として「この国の権威を説明するために」魏の使者に語ったのだとすれば、「日の御子」と「女王国」くらいしか関係する部分がないのは奇妙だ。それに、詮索は避けるが、のちに7-8世紀にまとめられたような「神話」は、「魏志倭人伝」編纂前に、日本(の北九州の官吏が知るようになるまで)で成立していたのか。
 ***
 西尾幹二によると、「『魏志倭人伝』は歴史の廃墟である」。p.226。
 このようには表現しないが、八幡和郎のつぎの著もまた、日本ナショナリズムを基礎にして、可能なかぎり日本書記等になぞりながら、可能なかぎり中国の史書を踏まえないで、日本の古代史を叙述している。もとより、日本書記等と魏志倭人伝 では対象とする時代の範囲が同一ではない、ということはある。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない-新皇国史観が中国から日本を守る-(扶桑社新書、2011)。
 冷静に、理知的に歴史叙述をするという姿勢が、副題に見られる、現在において「中国から日本を守る」という実践的意欲、プロローグから引用すれば「皇室」とその維持の必要性を理解する「論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」という動機(p.17)、によって弱くなっている。
 この書物もまた、古代史およびそれを含む日本史アカデミズムによって完全に無視されているに違いない。この欄では、あえて取り上げてみる。

2106/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典①。

 八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」ブログサイト・アゴラ2019年12月19日。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章・第7章=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。
 西尾著の第6章・第7章の表題は各々、「神話と歴史」、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」。
 上の八幡の文章を読んで予定を早める。八幡・西尾批判を行うとともに、この機会に、安本美典の見解・歴史(古代史)学方法論を自分なりにまとめたり、紹介したりする。
 可能なかぎり、別途扱いたい天皇の歴史・女系天皇否認論に関係させないようにする。但し、事柄の性質上、関連してしまう叙述をするかもしれない。
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 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」ブログサイト・アゴラ2019年5月31日によると、この人物が天皇の「万世一系」に関係することに「とり組み始めたのは、1989年」で、「霞が関から邪馬台国をみれば」と題する記事を月刊中央公論に掲載してからだった。
 1989年!、ということに驚いた。文脈からすると、邪馬台国論議をその年くらいから「勉強」し始めたというように、理解することができるからだ。ひょっとして、長く検討してきた、とでも言いたいのか。
 ***
 1989年、秋月瑛二はすでにいくつかの邪馬台国に関する文献に親しんでいた。
 井上光貞・日本の歴史第1巻/神話から歴史へ(中央公論社、1965/文庫版1973)は単行本で概読していただろう。文庫版も所持している。
 安本美典は、1988年までに、<邪馬台国の会>のウェブサイトによると、邪馬台国に関係するつぎの書物を出版している。*は、Amazonで入手できるらしい。
 ①邪馬台国への道(1967、筑摩書房)。
 ②神武東遷-数理文献的アプローチ(1968、中央公論社)。
 ③卑弥呼の謎(1972、講談社新書)。*
 ④高天原の謎(1974、講談社新書)。*
 ⑤邪馬台国論争批判(1976、芙蓉書房)。
 ⑥新考・邪馬台国への道(1977、筑摩書房)。
 ⑦「邪馬壱国」はなかった-古田武彦説の崩壊(1979、新人物往来社)。
 ⑧研究史・邪馬台国の東遷(1981、新人物往来社)。*
 ⑨倭の五王の謎(1981、講談社新書)。*
 ⑩卑弥呼と邪馬台国-コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する(1983、PHP研究所)。*
 ⑪古代九州王朝はなかった-古田武彦説の虚構(1986、新人物往来社)。
 ⑫邪馬台国ハンドブック(1987、講談社)。*
 ⑬邪馬台国と卑弥呼の謎(1987、潮出版)。
 ⑭神武東遷/文庫版(1988、徳間文庫)。*
 ⑮新版/卑弥呼の謎(1988、講談社)。*
 ⑯「邪馬一国」はなかった(1988、徳間文庫)。
 以上。
 秋月は上記<会>の会員ではないし、邪馬台国論議に関与できる資格があるとも思ってもいない。
 しかし、正確な記憶・記録はないが、上のうち、③・④・⑥・⑨・⑫~⑯は所持しており(所在不判明のものも含む)、かつ読了していると思える。⑫は、事典的に役に立つ。⑭は②の改稿版。
 したがって、論議の基本的争点くらいは理解しているつもりだ。
 このような秋月瑛二から見ると驚いたのは、上の西尾幹二の書(1999年)も、八幡和郎の1989年以降の書物やブログ書き込みも、安本美典のこれら著書を全く読まないで、あるいは全く存在すら知らないで、書かれていると見えるということだ。
 古代史に関係する、専門家以外の著作の恐るべき傲慢さがある(もっとも古代史・考古学アカデミズムが、ごく一部を除いて安本の諸業績に明示的に言及しているわけでもない)。
 上の点は別に措くとして、西尾幹二は、魏志倭人伝の記載自体をまるで全体として信頼できないと主張しているようで、中国の「歴史書」よりも日本の「神話」を重視せよとナショナリズム満開で主張し、かつまるで古代史学者はもっぱら魏志倭人伝等に依拠していると主張しているようだ。これは西尾の無知又は偏見で、例えば安本美典の書物を見ればすぐに分かる。安本は、日本書記にも古事記にも注意深く目を通して、分析・検討している。
 一方、八幡和郎は、「邪馬台国」所在地論争について「北九州説」に立つようで、この点は安本美典(および私)とも同じだ。
 しかし、八幡和郎にどの程度の自覚があるのか知らないが、八幡説(?)はまるで性質が異なる。
 すなわち、通常とはかりに言わなくとも、有力な同所在地論争は、「邪馬台国」がのちの「大和朝廷」に発展したことを前提としている。簡単に言えば、「畿内説」に立てば、その地(大和盆地南東部)で成長したことになるし、「北九州説」に立てば、邪馬台国を築いた勢力が「東遷」したことになる(<神武東遷>。「東征」という語は必ずしも適切ではない)。
 八幡和郎の主張は、「大和朝廷」=「日本」国家の起源は、北九州にあった「邪馬台国」とは全く無関係だ、というものだ
 さかのぼって安本著等を見て確認しないが、このような考え方は昔からあった。八幡和郎はどの程度自覚しているのかは、知らない。
 上の12月19日「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」は、一定の前提に立って、「畿内説」論者はその前提をどうして理解できないのか、と記しているようなもので、説得力がない。
 八幡によると、北九州にあった邪馬台国が滅亡して「数十年たったあと」、畿内の大和政権が北九州も支配下においた。
 邪馬台国の所在地については中国の歴史書をふまえようという姿勢が(西尾幹二と違って)あるのだが、しかし、つぎのことは八幡和郎にとって「都合の悪い話」ではないか。
 ***
 魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)によると、中国の使節がここまでは少なくとも来たらしい(これは八幡も肯定する)「伊都」国(現在の前原市辺り)は「女王国」に属し、「女王の都する」国は「邪馬台国」というとされる(女王の名が「卑弥呼」だ)。
 女王国と「邪馬台国(連合)」が同一であるかについてはなおも議論があるのかもしれない。しかし、個々の「クニ」よりも大きな「クニ」または「クニ連合」のことを「邪馬台国」と記載していることに間違いはないだろう(「邪馬一国」説は省略)。
 さて、なぜ、「邪馬台国」と記載されているのか
 話は跳ぶが、ソウルと大宮・大阪のいずれにもある「オ」という母音は、ハングルと日本語では異なる。韓国語でのソウルのソにある「オ」は、日本語の「オ」と「ア」の中間のようだ。
 したがって、ハングル文字での母音表記は大宮や大阪の「オ」とは異なり、コンピュー「タ」やティーチ「ャ」という場合の「ア」や「ヤ」と同じだ。
 何のためにこう書いているかというと、古代のことだから上と直接の関係はないとしても、つまりハングル・日本語と当時の中国語と北九州の言葉の関係は同じではないとしても、「邪馬台」は「ヤマト」と記すことのできた言葉であった可能性があるからだ。
 また、安本その他の諸氏も書いていることだが、当時の「ト」音には二種類があり、福岡県の「山門」郡は「邪馬台」と合わず、「ヤマト(大和)が「邪馬台」と合致する。
 また、「台」は、今日のダ、ドゥといった音に近いらしい(上で参照したアとオの中間的だ)。
 ダを採用すると「邪馬台」=「山田」となる。なお、朝倉市甘木辺りには「馬田」(まだ)という地名があったらしい。甘木という地名自体に「アマ」が含まれてもいる。
 この「邪馬台」と「大和(ヤマト)」の共通性・類似性を、八幡和郎は説明できないように考えられる。
 邪馬台国の成立・消滅のあとに成立・発展したはずの大和(ヤマト)政権は、いったいなぜ、「ヤマト」と称したのか?
 両者に関係がないとすれば、その「国名」の共通性・類似性はいったい何故なのか? たんなる偶然なのだろうか。
 八幡和郎は説明することができるのだろうか。
 八幡は知らないのかもしれないが、かつてすでにこの問題に回答することのできる説がぁった。
 正確な確認は省略するが、すでに畿内にあった大和(ヤマト)政権の強大さ・著名さにあやかって、本当は大和政権ではない北九州の「邪馬台国」が「ヤマト」という美名を<僭称>した、というものだ。
 これは時期の問題を無視すれば、論理的には成り立ちそうだ。
 しかし、八幡和郎は、この説も使うことができない。
 なぜなら、「邪馬台国」が北九州にあった時代、畿内にはまだ「大和(ヤマト)」政権はなかったと八幡は考えるのだから、「ヤマト」と<僭称>することはできない。したがって、中国の歴史書が「邪馬台国」と書き記したのは畿内政権と関係がないことになり、北九州の(伊都国の)人はなぜ、のちに成立する「ヤマト」政権と少なくとも類似した呼称を語ったのか、という疑問が残ったままだ。
 ***
 八幡和郎の論・理解の仕方の決定的弱点は「年代論」にあると思われる。天皇在位の年数をおそらくは平均して30年ほどに想定している。これ自体が、誤りの元になっているようだ。
 さらにいくつか、批判的に指摘しよう。

2093/安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(2019年)。

 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘-蘇る大動乱の五世紀(勉誠出版、2019年)。
 安本美典、1934年2月生まれ。85歳の人の新著だ。しかも、今年になってすでに3冊も刊行している。
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 アマゾン・書籍販売サイトでの最低の評価(星一つ)の文にこうある。
 「安本が神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を認めたことは評価するが、皇后にあらぬ疑いをかけたのは許しがたい。たとえ仲哀の死、応神の出生が不自然だとしても、神功皇后と武内宿禰の不義密通の確たる証拠はどこにもない。疑うのは勝手だが、あやふやな状況証拠だけで不倫をしたと決めつけるのは名誉棄損ではないのか。」
 そもそもは、歴史の叙述や考察への評価は「許す」・「許さない」、「許し難い」とかなのだろうか。なお、「確たる証拠」があるとは著者も主張していない。「決めつけ」もしていないだろう。仲哀死後のことだとかりにすると、「不義密通」にもなりそうにない。
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 安本美典は「日本神話」そのまま信仰論者ではなく、かつ<王朝交替>論者でもない。血統断続と王権交替を主張できるとすれば、上の書の<推測>くらいは可能だろうという旨を書いている。この人にとって重要なのは、確率、つまり合理的推測の努力における合理性又は説得性の程度なのだ、と考えられる。とくに古代史については、史資料が乏しいため、そうならざるをえないのではないか。
 また、安本は直接に皇位継承の男系とか女系とかを論じていない。この著を離れて思うのは、つぎのようなことだ。
 神功皇后が実在の人物で応神天皇(これも実在とする)の父親が仲哀天皇でなかったとすれば、日本書記がまるで<天皇>扱いをして一巻をあてている神功皇后を祖として、応神天皇以降の天皇・皇室は女系だった、と言えなくもない。
 しかし、<古事記>によると神功皇后は開化天皇の「5世の孫」とされているらしいので、仲哀ではなく神功皇后だけの血を引いていても、応神天皇は<男系>だとすることは、この語の理解によっては、可能だ。また、応神天皇の実の父親だろうと安本や井沢元彦が強く推測している武内宿禰の祖先も遠くは天皇・皇室にたどりつくようなので、そうすると、まぎれもなく<男系>ではある。
 しかし、のちの継体天皇は、日本書記等によると応神天皇の「5世の孫」とされている。その遠さを一つの理由として、継体以降は応神<王朝>とは別の<新王朝>と推測する説もあるのだとすると、神功皇后は開化天皇の「5世の孫」だとするのも、その信憑性の程度を疑問視することもできる。武内宿禰については尚更だ。
 継体天皇が仁賢天皇の子で武烈天皇の姉の女性(手白香皇女)を妃とした(とされている)のは、自らは<男系>であってもまるで<入り婿>のように当時の直近の天皇・皇室に入って、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。そのように叙述したのは後世の日本書記等の編纂者だけれども。
 そうすると、神功皇后は自らは遠くは<男系>であっても、現天皇の妃となることによって、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。
 <権威>を高めようとしたどころか、天皇(仲哀)の妃であり天皇(応神)の実母とすることによって、その権威・神聖性を最高度にしたのは、日本書記の執筆者・編纂者だったかもしれない。
 とすると元に戻るのだが、のちの継体が(現在につづく)<新>王朝の祖だったとかりにすると、神功皇后-応神天皇もその前の<新>王朝の祖だった、と言えなくもない。
 いずれも、天皇・皇室あるいは皇統の<系図>に加えられることによって、地位・権威が高められているのだ。同じことだが、そう記述することによって、日本書記等編纂者は、地位や権威を高めているのだ。
 以上は、素人の<趣味>的な想像なので、真面目に学術的に?主張しているのではない。
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 かつて私が日本史を初めて勉強したとき(小学6年生?)、<任那日本府>の存在が明確に書かれていたように思う。そして、神功皇后の「三韓征伐」とやらも、この言葉ではなかったかもしれないが、史実として語られていたような気がする。しかし、神功皇后も<任那日本府>も、実在性やその意味が今ではかつてとは違って教科書に書かれていないらしい。だからどうだ、といきり立つ気持ちは全くないのだけれども。
 さて、上記の安本美典著。第一章・<奇怪な神功皇后伝承>と「おわりに」はきちんと読んだ。安本の本あるいは安本による神功皇后関連の文章を読むのは初めてではない。
 初めて知ったか、改めて想起させられたのは、仲哀天皇には神功皇后よりも前に妃がいて(大中津比売)、すでに二人の皇子(香坂王・忍熊王)もいた、ということだ(史実としてではなく、後世の書の記載によると、として書いている)。
 にもかかわらず、これらを押しのけて?、あるいは打倒して?、神功皇后の子(応神)が皇位を継承したのは、神功皇后によほどの「力」があったのだろう、とは言える。
 次いで、「神懸かり」=一種の「解離性同一性障害」に関する医学的・精神科学的探究も興味深い。p.8-p.12。たんなる<文学>趣味系の学者・評論家は、こういう作業を思いつかないかもしれない。
 さらに、神功皇后や武内宿禰の「顔」が戦前の紙幣に描かれていたことの叙述も面白い。
 前者の紙幣は1881年・1883年に、後者の紙幣は1889年・1899年に発行されている。
 前者は日清戦争前、後者は日ロ戦争前後ということも、なるほどという気がする。しかしそれよりも、当時の「日本国民のだれもが、その〔紙幣に描かれた〕絵を見た」、二人は福沢諭吉・夏目漱石よりも有名だったかもしれない、という記述が印象に残る。p.42-p.46。
 紙幣もまた、時代(の歴史観)を反映する、ということか。神功皇后とか、武内宿禰とか、今日では一般には、ほとんど無名だろう。
 最後に、この書の「おわりに」で、安本は第一に、その研究上の「立場」を、こう記述している。同趣旨はこれまでにも読んだことがある。
 ・この書は「イデオロギー的な立場にたつ人々の支持をうけにくい」だろう。
 まず、「天皇家の尊厳を保ちたいと考える人々」に。「しかし、『古事記』・『日本書記』はもともと、事実をかなり記しているのであって、諸天皇の尊厳性ばかりを記しているわけではない」。
 次いで、「戦後のいわゆる進歩的文化人や、津田左右吉流の文献批判学の立場にたつ人々」等の学者たちに。これらの人々は「神功皇后や武内の宿禰は架空の人物、…と考える傾向が強いから」だ。
 ・「一定のイデオロギー、先入観、先輩の学説の拳拳服膺によって、見るべき事実も見ない古代史研究があまりにも多すぎる。」
 第二に、安本にしては、これまでに全くなかったわけではないと思うが、やや「感傷的」なまたは「文学的」な文章がある。安本美典もまた人間で、当然に感情・情感をもつ。その意味では、好感をもつべきなのかもしれない。以下、全て引用。
 ・「私は、私の復元した古代史像に、かなりたしかな手ごたえを感じているが、私は、空中に楼閣を描いたのであろうか。」
 ・「西暦400年ごろ以降の春秋でさえ、ふりかえれば、夢のようでもある。長い絵巻物をひもといているようである。」
 ・「琴の音が聞こえる。若い皇后には、神の威厳がそなわっている。…」
 ・「天皇位も、さらにはみずからの命さえ、恋の業火になげいれた皇子がいた。…」
 ・「金色に輝く釈迦像をはじめて見て、小おどりした若い天皇、…がいた。…」
 ・「燃える炎で、海も空も、まっ赤にそまった日もあった。船の崩れ沈む音。異国の海に投げだされ、潮水を飲みながら藻屑となっていく兵士たちの叫びも聞こえる。」
 ・撤退、外国文化の衝撃。「国政を改革し、国力の充実をはかる。そのあいだにも、人は恋する。あるいは、欲望のほしいままにする人がおり、あるいは、高い倫理観で自己を犠牲にする人がいる」。
 ・「数百万、数千万人の生死哀歓も、必死の努力も、歴史は、ただ一片の、春の夜の夢にしてしまう。河に散るただ一ひらの花びらにしてしまう。
 ・「歴史は哀しい。今日も、歴史の河は流れている。
 ・この本の「小舟」が「ふとした縁で、あなたの心の港にもしばらくとどまり、あなたとひととき、よい運命をともにできますように。」 p.294。
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2073/孝明天皇暗殺(非自然死)説-中村彰彦。

 京都・泉涌寺-孝明天皇陵といえば、ただちに連想するのは孝明天皇「暗殺」説だ。
 のちの伊藤博文に対する狙撃犯・安重根も「噂」を知っていた、というくらいだから、(伊藤の関与の程度は別として)明治の「元勲たち」の誰かによる孝明天皇「暗殺」の風聞はかなり広く伝搬していたのだろう。
 公武合体・攘夷論者の孝明天皇の死により、攘夷論は「臆面もなく」放棄されて倒幕・開国への政治情勢へと大きく転換した(と秋月には感じられる)。次期天皇・明治天皇の母・中山慶子の父親(明治天皇の実の祖父)は岩倉具視等々とともにいわゆる<過激派>公家だった。
 「暗殺」と称さなくとも、自然死ではなかった、病気自体を感染させられた、あるいはその治療が適切には行われてなかった等々の主張・見解あるいは推測・憶測の類は、明確ないずれかの「物証」が出てこない限りは、今後も継続するような気がする。
 中村彰彦・幕末維新史の定説を斬る(講談社、2011/文庫2015)。
 この中に、中村彰彦が1992年、2008年にすでに書いていた孝明天皇の「毒殺」・「暗殺」に関する「小論」を詳細にした、または発展させた、「孝明天皇は『病死』したのか」が収められている。小説ではない。
 内容もそうだが、別の点である意味ではきわめて興味深い叙述が、最初の方にある。文庫版、p.153。
 2008年の小論が発表されたあと、こういうことがあった、という。一文ごとに改行する。
 「ある会合で評論家の宮崎正弘氏に会うと、かれは声を潜めて告げた。
 『ある右寄りの人が中村さんの歴史読物を読んで、天皇暗殺を論じること自体が尊王の態度に反するといっているそうです。
 気をつけた方がいいですよ』。
 この忠告を受け、中村は「天皇暗殺を論じること自体が尊王の態度に反する」と批判・立腹されていると考えたようだ。そして、「官撰国史」の日本書記もまた二人の天皇(安康・崇峻)が「弑逆」されたことを明記している、として、天皇「弑逆」事件を記述するのは決して「反・尊王」ではない、と反論?している。
 この反批判または釈明は、必ずしも的を射ていないように思われる。
 「ある右寄りの人」が怒っている対象は特定の孝明天皇についての「暗殺」事件の記述であり、かつその加害者がのちの明治新政権の中に入った者たちの中にいる、というほとんど明示的な指摘・推測がなされていることだろう、と考えられる。
 そして「ある右寄りの人」は明治維新あるいは「明治の元勲たち」が批判されている(または批判されているようである)ことを苦々しく感じたのだろう。
 上によると、宮崎正弘は「声を潜めて」、「気をつけた方がいいですよ」と言った。
 気味が悪い、話だ。
 「気をつけた方がいい」、というのは、身体または生命に対する危険が(多少とも)ある、ということを告げた言葉だろう。
 しかして、「ある右寄り」の人はどういう人物で、属しているとすれば、どういう団体・組織または運動団体だったのだろうか。「右寄り」は「右翼」とも表現することができる。
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 泉涌寺-孝明天皇の死-孝明天皇陵という連関は、さらにつぎのように辿ることできる。
 孝明天皇陵-御陵衛士-伊東甲子太郎-新撰組-「油小路の変」(京都・七条油小路での伊東らの「暗殺」)。
 また、つぎのような連想も可能だ。
 孝明天皇-京都守護職-会津藩主・松平容保(・黒谷金戒光明寺)-新撰組。 
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 「狂熱的」・「狂信的」な人は、たぶん「尊王・右翼」の人の中には、いるものだ。安本美典のある著書に対して、某ネット上の書籍販売サイト上に、こんな「書き込み」(レビュー)があった。今でも残っているかもしれない。
 <神功皇后を実在だとするのはよいが、同皇后を「不義密通」した女性だとするのは「許せない」。>
 この「許せない」、というのが、なかなかに「気味が悪い」。
 同じ団体・組織の事務方の長(事務長・事務総長)を20年以上も同一人物が続けていることとは、別の次元のものだとしても。
 上の「不義密通」というのは、応神天皇は神功皇后の子だとしても(胎中天皇)、父親は仲哀天皇ではない、ということを意味する。安本美典のほか、井沢元彦も、その可能性を強く示唆している。
 この秋月の書き込みも「気をつけた方がいい」内容なのかもしれない。不気味だ。

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
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 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
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 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
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 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。

1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
 ーーー
 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、ということが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用していながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人は、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていた。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Freedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の(小さな)私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)するという「私的財産」の「自由」の行使を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。
 市場とは当然に「自由」を前提にする。両者はほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンによる批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1571/2017年2月末以降に読んだもの・入手したものの一部。

 2017年02月末以降の文献。
 この欄の意味について疑問をもったときにかつては「読書メモ」の意味だけでも持たせようと思ったが、昨年以降はそれも虚しいようで、できるだけ自分の文章を残すようにしてきた。
 そうなると、元来の「読書メモ」の機能は失う。
 最近にあれこれと書いていても、読んだり入手したりした書物類は、記載・言及するよりもはるかに多い。
 たまたまタイミングを逸したりして、記載し忘れのものも多い。
 二月末以降に一部でも読んだもの、入手して今後に読みたいと思っているもの(でこの欄で触れていないと記憶するもの)、を以下に掲載しておく。
 レーニン・ロシア革命に直接に関係するものは依然として増えつつあるが、一部しか載せられない。以下は、上の趣旨のものの全てではない。読み終わった記憶があるものは、/了、と記した。昨年以前のものには、触れていない。
 この欄に書くのは「作業」のようなもので、気侭に読んでいる方が、「生きていること」、「意識(脳)を働かせていること」を感じて、愉しい。しかも、意識を多少とも刺激する情報が大量に入ってくる。「作業」は、反応結果の一部をただ吐き出すだけだ。
 しかし、この欄での「作業」をしておかないと、せっかくの意識や記憶がますます消失してしまうので、「作業」もときには必要だ。
 ・天皇譲位問題
 今谷明・室町の王権(中公新書, 1990)。/了
 今谷明・象徴天皇の発見(文春新書, 1999)。
 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書, 2016)。/了
 所功・象徴天皇「高齢譲位」の真相(ベスト新書, 2017)。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 本郷和人・天皇の思想-闘う貴族北畠親房の思惑(山川出版社, 2010)。
 ・北一輝
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ, 1996)。
 ・明治維新等
 井上勲・王政復古(中公新書, 1991)。
 毛利敏彦・幕末維新と佐賀藩(中公新書, 2008)。
 原田伊織・明治維新という過ち/改訂増補版(毎日ワンズ, 2015)。
 山口輝臣・明治神宮の出現(吉川弘文館, 2005)。
 伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社, 2013)。
 ・政教分離
 杉原誠四郎・理想の政教分離規定と憲法改正(自由社, 2015)。/了
 杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離-そして宗教教育/増補版(文化書房博友社, 2001)。
 ・歴史
 安本美典・古代史論争最前線(柏書房, 2012)。
 今谷明・歴史の道を歩く(岩波新書, 1996)。
 西尾幹二全集第20巻/江戸のダイナミズム(国書刊行会, 2017)。
 山上正太郎・第一次世界大戦(講談社学術文庫, 2010. 原1985)。
 木村靖二・第一次世界大戦(ちくま新書, 2014)。
 ・保守主義
 宇野重規・保守主義とは何か-反フランス革命から現代日本まで(中公新書, 2016)。
 ・現代
 宮家邦彦・日本の敵-よみがえる民族主義に備えよ(文春新書, 2015)。/了 
 ・左翼
 中沢新一・はじまりのレーニン(岩波現代文庫, 原1994)。
 白井聡・永続敗戦論(太田出版, 2013)。
 ・外国人
 Donald Sassoon, Looking Left -Socialism in Europe after the Cold War (1997). <左を見る-冷戦後のヨーロッパ社会主義>
 Roger Scruton, Fools(あほ), Frauds(詐欺師k) and Firebands (つけ火団)-Thinkers of the New Left (2015).<新左翼の思考者>
 Tony Judt, Dem Land geht es schlecht (Fischer, 2014. 2010).
 Leszek Kolakowski, 藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房, 2014)。
 Leszek Kolakowski, Metaphysical Horror (1988, Penguin 2001).
 Anna Pasternak, Lara -The untold Love Story and the Iispiration for Doctor Zhibago (2016).
 ・その他
 L・コワコフスキ「こぶ」沼野充義編・東欧怪談集(河出文庫, 1994)。/了
 原田伊織・夏が逝く瞬間(毎日ワンズ, 2016)。/了*小説
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 1.せっかくの機会だから、つぎの本のp.4からまず引用する。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 「…皇国史観は、天皇が至高の存在であることを学問の大前提とし、また人物を歴史叙述の基礎単位にしていた。天皇に忠義であったか否か、忠臣か逆臣かで人物を評価し、その人物の行動をあとづけることによって歴史物語を描写したのである。こうした歴史認識が軍国主義を支える理念として機能したことは、疑いようのない事実であった。」
 戦後の日本共産党や日本の「左翼」はかくして、「軍国主義」を支えた「皇国史観」を厳しく批判した。
 その日本共産党・「左翼」に反対する良心的な、誠実な日本人は、では「皇国史観」へと立ち戻る必要があるのか??  (しかも「皇国史観」とは、維新以降の日本をずっと覆ってきたのでは全くなく、とくに昭和戦前期の<公定>史観だ。)
 本郷も言うように、そんなことは、論理的にも、決して、ないんだよね。
 2.今谷明・本郷和人というと、黒田俊雄の<権門体制>論にかかわりがある。
 素人論議だが、マルクス主義者(・日本共産党員?)の黒田は(以下、たぶん)、<国家(権力・支配者)-人民>の対立が当然にあるものとして、その前提で<国家>の構造を考え、かつその一部を「天皇・皇室」がきちんと担っていた、と考える。
 第一に、<権力-人民>は、どの時代にもきれいに二つまたは二層に分けられるのだろうか?
 第二に、<天皇>はつねに、国家権力の少なくとも一部を握っているものなのだろうか? または、そうだとしても、「中世」に関する黒田による天皇の位置づけは高すぎるのではないだろうか。
 第一は素朴かつ観念的な階級対立論、第二は素朴かつ観念的な<天皇制>批判論-そのための逆説的意味での天皇重視論(天皇が国家権力の一部かつ重要位置にいなかったはずはない)-を前提にしているような印象もある。
 本郷和人は、黒田<権門体制>論には批判的だ。専門家にお任せしますけど。 

 

0843/建国記念日(2/11)の産経新聞社説。

 産経新聞2月11日付社説は「建国記念の日」をとり挙げており、よい意味で異彩を放っている。
 朝日・毎日はもちろん日経・読売新聞もこの日の社説のテーマにしていない。社説どころか、朝日や毎日のこの日の朝刊には、「建国記念の日」に関する記事そのものが全くなかったのではないか。こんなことが朝日等において他の祝日(記念日)についてはあるのだろうか。
 かかる新聞の大勢の現状こそがむしろ異様と言うべきなのだろう。
 「神話が生きる国誇りたい」を大見出しとする産経新聞社説は「日本のように連綿と歴史が続き、神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという例は、むしろ例外なのである」とする。そういえばそうだと意表を突かれた感じで納得する。
 建国記念日の復活等は「多くの国民」が「日本の国づくりの歴史を通して、日本や日本人の生き方を考えようとしたからだ」という指摘にも納得する。「多くの国民」と言えるかどうかを(朝日新聞的立場のように)大いに疑問視する向きもあろうが、主権者・「国民の皆さま」を<代表>する国会が法律で決定したのだから、「多くの国民」と表現するのは決して僭称ではない。
 そして、建国以来の歴史に「国民はもっと誇りを持ってよいのではないか。その誇りがひいては、日本の国を愛し、日本の伝統文化や国語を大切にする心を養うことにもつながるだろう」との最後の一文にもほとんど違和感はない。
 <ナショナルなもの>を忌避し嫌悪しあるいは無視しようとする<(容共)左翼>の広範な存在によって、あるいはすでに長くなった<戦後の平和と民主主義(・国際協調主義)>風潮の継続の中で、日本の(長い)歴史への「誇り」を正面から語ることは困難になってきたという面があることを完全には否定できないだろう。
 そうした中では、産経新聞のあたり前のような主張がむしろ新鮮に感じられる。どこかが奇妙で倒錯した時代になってきている、と言うべきだろう。
 産経新聞社説も言うように、「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」、「しかし、記紀につづられた神話は、民族の生活や信仰、世界観が凝縮されたもので、単なる作り話ではない」、「神話は民族の貴重な遺産なのである」。
 私にとってはしごく当たり前の指摘だが、たとえば朝日新聞の論説委員等は、このように<日本神話>や日本の歴史を捉えないのだろう。明治以降はおろか古代についても、日本独特の<誇り>ある歴史ではなく、むしろ中国や朝鮮半島からの影響や<恩恵>を強調したい気分であるに違いない、と推測する。
 「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだが、産経新聞社説は日本国家の長い歴史に触れる中で、「建国当初の国家がそのまま現在につながり、神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と書いている。
 この文章のうち「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」という部分は、少し気になる。
 現在の日本史学界の支配的な理解だと、皇統が長く続いていることは認めるとしても、「神武天皇以来125代の長きにわた」る継承という部分は否定されるのではないか。
 マルクス主義史学がなお支配的な現在の日本史学界に従わないとしても、つまり私のような者でも、本当に「125代」なのか、そもそも「神武天皇」は実在したのか、という疑問は持っている。
 神武天皇(神日本磐余彦命)とのちに呼ばれた「天皇」が2600余年前に<建国したということになっている>という叙述ならばよい。だが、「2600余年前」はともかくとしても、「125代」前の初代の「神武天皇」は実在した、と断定するのは私でもいささか躊躇するところがある。
 安本美典説によると、古代(ここではどの天皇から以前かの議論には立ち入らない)の天皇の生没年・在位年数は信じられないが、天皇(にあたる、スメラノミコト?)の<代の数>自体の記憶は日本書記の編纂時あたりまで残り続けただろう、という。
 そうだとすると、「神武天皇」とそれ以降の十代程度の天皇もまた、彼らにあたる人物は実在した、ということになるだろう。
 そのような可能性を私も否定するつもりはない。イザナギ・イザナミに至る複雑な系譜(系図)が、天照大御神も含めて、全くの<捏造>とは思えない。
 だが、たとえば、大友皇子(天智天皇の子)はかつては(いわゆる天武天皇系の時代=ほぼ「奈良時代」には)天皇位継承の事実は否定され、明治になってから、弘文天皇と追号され、皇位を継承したと「認め」られたのではなかっただろうか(明治以前のことだったかもしれないが、そうだとしてもここでの本筋には関係がない)。
 「125代」というのはこの弘文天皇も一代として算入しているはずだ。そうだとすると、大友皇子(弘文天皇)の皇位継承が<正式には>認められなかった時代の理解をかりに継続させると、現在の天皇陛下は「125代」めの天皇ではあられないはずなのではないか?
 南北朝時代の皇位継承(数)に関する議論も全く生じえないとは思われない。要するに、学問的にいえば、天皇の代数は必ずしも絶対的に<正しい>ものではないのではないか?
 こんな意味では、産経新聞社説がてらうことなく(?)あっさりと「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と(「神話」ではなく)史実の如く書いていることには、やや驚くとともに、<勇気>すら感じる。
 この<勇気>は、必ずしも肯定的な評価を伴うものではない。
 記紀等をふまえると、「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と<されている>、という程度でよいのではないか。
 ちなみに、神功皇后や応神天皇を祭神とする古い神社はいくつもある(天照大御神はもちろん)。神武天皇を祭神とする神社は、明治になって以降に建てられた橿原神宮以外に、あるのだろうか。神武天皇の実在性は神功皇后や応神天皇(・天照大御神)よりも薄いのではないか、という感覚的な根拠として記しただけだが。
 元に戻して続ける。
 建国記念日に現在でも反対している活動家たちや違和感をもっているかもしれない平均的な(?)日本人は、その日が「2月11日」で、神武天皇が旧暦の元旦(1月1日)に「即位」し「建国」したのは<嘘くさい>と感じているだろう。
 たしかに神武天皇(神日本磐余彦命)が<元旦(1月1日)に「即位」した>というのは記紀に書かれてあるだけで客観的な証拠があるわけではない。産経新聞社説も述べるように「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだ。
 したがって、上の疑問には理由がある、と思われる。もっとも、そうでなくとも(2月11日でなくとも)、自民党政府に対する反対者、明治以降の日本国家(=「帝国主義」・「軍国主義」国家)によって作られた記念日などは全面否定したい者たち、つまり「左翼」活動家たちや朝日新聞等の「左翼」的マスコミ人士は、「建国記念の日」の設定そのものに反対する(反対した)だろう、と思われるが。
 一方、保守派の人々も、日本「神話」を完全な史実と誤解してはいけない。記紀においてすら、たしか、「神代」という言葉が使われて、「建国」時代のことが書かれているのだ。
 したがって、<元旦(1月1日)=新暦2月11日に神武天皇が即位し建国した>というのは、<神話>あるいは<伝承>であることを認める(少なくともその可能性を否定しない)程度の柔軟性をもっておくべきだろう。
 <神話>あるいは<伝承>によると、初代天皇がその日に即位し「建国」した<ことになっている>という程度で、何ら差し支えないのではないか?
 産経新聞社説の言うように、日本は、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」世界でも例外的な・稀少な国なのだ。
 「連綿と歴史が続」いている、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」国家であることに<誇り>をもって何が悪い、と思っている。そう、朝日新聞の若宮啓文あたりには言ってやりたい。
 最後に、唐突ながら、某神社(神宮)の境内に建てられている石碑に刻まれた、昭和天皇御製。
 「遠つおやの しろしめしたる大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」
 「しろしめす」という語の意味はひょっとして問題になるかもしれないが、自らの「遠つおやの しろしめしたる…」という感覚は、やはり常人のものではない、とあらためて感慨を覚えるところがあった。「遠つおや」とは1200年以上前の「おや」なのだ…。このような「御製」が詠われる「天皇」(にあたる地位・職)をもつ国は、日本以外にあるのだろうか。こうした点も、日本の<遅れ>・<異様さ>だと、「左翼」人士あるいは反天皇の<合理主義者・インテリ>のつもりの者たちは、考えているのかもしれないが。

0836/渡部裕明・産経新聞論説副委員長・11/14の「歴史的」大失態。

 一 奈良県の桜井市教委が、纒向遺跡内から大規模建物跡が発見された、と発表したらしい。
 産経新聞11/11は「卑弥呼の居館か」との大見出しを打って邪馬台国=近畿説の石野博信(香芝市二上山博物館長・元奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長・関西大院卒)の「…卑弥呼の館の可能性はある」との言葉を伝え、辰巳和弘(同志社大教授)は「高床式建物はまさに卑弥呼の居室」と「明言」したと報道する一方で、邪馬台国=九州説の高島忠平(佐賀女子短大学長、元佐賀県教育委員会)は「大型建物跡は4世紀で卑弥呼の時代より50年以上も新しい」として「邪馬台国との関連を否定」した、と伝える。
 (なお、石野博信コメントは「可能性はある」というだけで断定するものではない。辰巳和弘コメントも「高床式建物」は「卑弥呼の居室」という一般論を示すだけで、今回発掘された建物跡の建物が「卑弥呼の居室」だったという趣旨ではないと解される)。
 産経新聞11/12は邪馬台国=近畿説の白石太一郎(大阪府近つ飛鳥博物館長、元奈良県立橿原考古学研究所所員、同志社大院卒)は邪馬台国所在地論争は「だんだん決着に近づいてきた」と「強調」した、と伝え、かつ赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター調査課長、白石太一郎らとの共著あり)は「畿内説が有利になった」と「指摘」した、とする。
 同新聞は11/14から<卑弥呼いずこに・激論、邪馬台国>の連載を始めるが、第一回(上)に登場の、邪馬台国=近畿説だと思われる寺沢薫(橿原考古学研究所総務企画部長)は、「卑弥呼の宮殿として問題ないか」との先走った(幼稚な)質問に対して、単純な回答を避け、「卑弥呼が調査した辺りにいた可能性は高い」とだけ述べる。この部分を、記事は寺沢の顔写真の下にも引用している。
 11/15(日)に登場の七田忠昭(佐賀県教育・文化財課参事)は、邪馬台国=九州説の立場から「有明海沿岸が最有力」とし、纒向遺跡が示すのは「魏志倭人伝には登場しない別の勢力」ではないか、としている。
 11/16の第三回(下)はまだ読んでいない。
 二 以上、比較的長々と引用したのは、11/14の産経新聞「土曜日に書く/纒向遺跡と国家誕生」を書いた、産経新聞論説副委員長なる肩書きの渡部裕明の文章を奇異に感じたからだ。
 渡部裕明はこの文章(記事)の最後の方で「邪馬台国は大和で決着」との小見出しを付け、こう書いている。
 「邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと筆者は感じている」。
 どのように「感じて」いようと勝手だし、それを全くの個人的・私的見解として公にするのも目くじらを立てることではないだろう。
 だが、産経新聞論説副委員長と明記したうえで、このようなことを書いてよいのか。内心で「感じる」ことや個人的・私的に語ることと、このような肩書きを付けて公式に活字にすることとの間には大きな懸隔がある。渡部裕明は、そう思わないか?
 第一に、自らの産経新聞に登場させている、邪馬台国九州説論者、すなわち、高島忠平や七田忠昭に対して失礼ではないか。「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかない」などと書いてしまうのは。
 なるほどこの二人は佐賀県に所縁があるのかもしれないが、それを言うならば、産経新聞が登場させている邪馬台国=近畿(畿内)説論者は、赤塚次郎を除く全員が「近畿」地域で仕事をしてきた者たちだ。
 第二に、この「産経新聞論説副委員長」氏は、いったいどの程度、所謂邪馬台国論争についての知識・素養があるのだろうか。
 同じ産経新聞社発行の月刊正論12月号は珍しく邪馬台国問題を取り上げ、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」を掲載しているが(p.232~)、この黒岩の文章は明確に邪馬台国=九州説を前提としている。そして、卑弥呼=天照大御神説でもある。
 まさかとは思うが、渡部裕明・産経新聞論説副委員長は、この月刊正論12月号の文章すら知らないまま、読まないままで、堂々と自信たっぷりに新聞紙上で邪馬台国=九州説は「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと…感じている」などと傲慢不遜な言葉を活字にしてしまったのではないか。
 長年の議論の蓄積があり、多様な論点がある問題について、いくら大(?)新聞の論説副委員長だとしても、上のように簡単に「決着」を付ける能力・資格などありはしない、と考える。
 三 素人の私ですら感じるのだが、産経新聞の11/12の一般記事が書く、纒向遺跡の中の「箸墓古墳」は「かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった」、かかる研究により「今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀とほぼ特定できたという」こと自体が、まだ確立した学説にはなっておらず、争い・疑問があるところだろう。
 上の記事の文章すら正確には、「可能性が高まった」、「ほぼ特定できた」と叙述しているのであり、高まる「可能性」や「ほぼ…」というだけでは、何ら学問的に確立した考え方・認識にはなっていないことを認めた書き方だ。
 渡部自身も箸墓「築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいた」と(こちらは断定的に)書く。
 しかし、これまた何ら学問的に確立した考え方・認識ではない。たしか国立歴史民俗博物館の研究者が見出したとかいう「放射性炭素による年代測定」方法なるものも、いかほどに科学的で信頼がおけるものかについて、専門家の間でも争いがあるはずだ。
 こんな曖昧な自社の記事や研究成果の影響を受けて、渡部裕明・産経新聞論説副委員長が、「箸墓」=卑弥呼の墓、今回遺跡出土の建物=卑弥呼の宮殿と「ほぼ」理解して、「邪馬台国は大和で決着」などという小見出しをつけたのだとすれば、大いにそそっかしいし、後世に、専門家でもないのに日本古代史上の問題に口を出して「結論」まで書いてしまった愚かなジャーナリストとして嗤われ続けるだろう。
 四 渡部裕明が書くように、纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域が「ヤマト王権発祥の地」だったことは疑いなく、渡部が「もはや動かしがたいだろう」と書くまでもない。
 問題はそのあとに続けて、「邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地〔纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域〕で、直接的に行われたのである」と断定して書いたことだ。そのあとの一段落の文章(省略)では、こう言うための十分に説得的な根拠には全くならない。立ち入らないが、例えば、渡部は、記紀上の神話の記述、<神武東遷>伝承等、との関係をどう理解しているのだろう??

 五 箸墓=卑弥呼の墓説を有力視?させた、国立歴史民俗博物館の研究発表後に、安本美典・「邪馬台国=畿内説」・「箸墓=卑弥呼の墓」説の虚妄を衝く!(宝島社新書)は刊行されている(2009.09)。同・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠社、2008.04)もある。
 月刊正論12月号の黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」は、安本美典の著作等を参考にしており、安本から「貴重な助言」を受けた、と明記している(p.239)。
 渡部裕明・産経新聞論説副委員長は大(?)新聞紙上に傲慢不遜な文章を書くのならば、安本美典の著作等も「参考」にしたらどうか(きっと一度も一冊も読んでいないだろう)。あるいは、安本美典の「貴重な助言」を受けて記事を執筆したらどうか。
 なお、安本は京都大学文学部・院卒、出身も九州ではない。<「お国自慢」のレベルでしかない>などと渡部が書けば、渡部自身が恥を掻くだけだ。
 六 日本史上の大問題に(箸墓=卑弥呼の墓説に関する朝日新聞と同様に)乏しい知識のみで簡単に決着をつけたつもりでいるのが「論説副委員長」なのだから、産経新聞紙上の「論説」のレベルの高さ(=低さ)も分かろうというものだ。何ともヒドく、情けない。

0588/安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』を全読了。ここにも朝日新聞が。

 安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判―その学説は「科学的」なのか(勉誠出版、2008.04)は数週間前に全読了している。
 「邪馬台国畿内説」が成立し難いことは安本によってすでに以前から既得の知識になっている。だが、あらためて<学問>というもの、及び朝日新聞のヒドさを考えさせる本だ。
 厳しい批判の対象になっているのは、まず、白石太一郎
 濃尾平野に古墳が出たことをもって邪馬台国の「南」(畿内説だと「東」と読み替える)にあったという狗奴国と関連づけたのは白石太一郎。この白石にも依りつつ、朝日新聞の2004年2月17日~19日の3回連載は白石らの「邪馬台国畿内説」(濃尾地方狗奴説)を大きく取り上げた、という。
 旧石器捏造事件に言及して安本はいう-「考古学とは『自浄作用のまったくない学問』の別名なのか」(p.84)。
 白石太一郎の文章を長く引用して安本はいう。
 ・「乱暴かつ粗雑きわまる議論というほかはない」(p.87)。
 ・「…などの断言も、まったく信用できない。…そもそも異論を承知の上で、『疑いない』などと断言をする権威主義的な人の議論は、信用しない方がよい」(p.91-92)。
 ・「要するに、白石太一郎氏の議論は、検証や論拠を欠いた議論のオンパレードなのである」(p.92)。
 なお、朝日新聞は、1992年11/06、2001年2/02にも「邪馬台国畿内説」に大きく傾いた記事を出している(p.93-97、後者の執筆は、編集委員・天野幸弘)。
 また別の箇所で、安本はいう-「白石氏の議論は、検証可能な方法、事実をたしかめる方法、あるいは科学的な方法によっていない。/みずからの観念、あるいは、思い込みを優先するものである。…、白石氏のような、ことばだけの議論が許されるのなら、どんな議論でも成立する」(p.147)。
 第二の大きな批判対象になっているのは、樋口隆康
 安本によると、樋口隆康は、いくつかの古墳の発掘結果を「キッカケとし、あるいは材料として、すべてを『邪馬台国畿内説』の立場から解釈し、結びつけ、マスコミを通じての大々的な宣伝をくりかえすという挙に」出ている。結果の発表内容は、「事実についての解釈の相違という範囲をはるかにこえている。無根の事実をまじえるものとなっている」(p.155)。
 また言う-「誤りが指摘されていようと、くわしい批判が行われていようと反論は行われない。一切無視し、旧説を墨守して、みずからに都合のよいと思われることは、マスコミなどで何度でもくりかえしてPRする。…樋口隆康氏は、この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえして」いる(p.166)。
 かかる類の文章の引用はまだ多いが避ける。だが、次の指摘は、<学問風土>にかかわって、興味を惹く。
 「京都大学は近畿に」あり、「地の利」があって、「京大勢がリーダーになりやすい。現在、京大を中心とする考古学者たちは、どんなに論理的に無理があろうと、『三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説』〔=邪馬台国畿内説〕に固執してやまない。強力な刷り込みが行われると、そうなるのであろう」。
 邪馬台国北九州説=東京大学、畿内(大和)説=京都大学というバカバカしい対立がある(あった)と随分前から読んでいたが、少なくとも京都大学については現在でも続いているようだ(アホらしい)。考古学では京都大学所属の小林行雄の存在が大きかった、立命館大学にいた古代史学者(邪馬台国畿内説)・山尾幸久も京都大学出身、というのもすでに持っている知識の断片だ。
 もっとも、安本美典自体が京都大学文学部出身だが(但し、歴史・考古学専攻ではなかった)、同大学出身で伝来的アカデミズムから自由な(毎日新聞→大学教授)岡本健一は、京大国史出身の原秀三郎から「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才…が入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズムを徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」と聞いた、という(p.186)。
 元に戻って、三角縁神獣鏡(卑弥呼が魏から貰った鏡と畿内説論者は主張している)の成分調査(結果は畿内説に有利とも解釈できた)に関して、読売新聞2005年3/25夕刊が「ずさんな成分調査」との見出しで批判的記事を書いたが、朝日新聞は「完全な誤り」説をいっさい紹介しなかった、という(p.203-204)。
 この問題でも樋口隆康は「ご都合主義」を発揮したのだったが、安本美典の批判は朝日新聞にも向けられている。
 「この種の疑問を、これまでにもしばしば指摘されている樋口隆康氏などの発表を、なんのチェック機能もはたらかせず、部数数百万部といわれる新聞の一面で報じ、その後、何のフォローもしない、『朝日新聞』の姿勢などは、どんなものであろう。/私は『季刊邪馬台国』誌上に『朝日新聞社への公開質問状』をのせたが、かえってきたのは、きわめて不まじめな、木で鼻をくくったような回答であった。/情報を売る会社は、欠陥のある情報を、製造・販売しても、なんの責任も、とらなくてよいのか」。
 一部の「学問」関係者と一部の(朝日新聞等の)マスメディア関係者との間の<結託>が、古代史・邪馬台国をめぐっても存在するようだ。
 問題は、古代史・邪馬台国に限られない。近現代史についても、朝日新聞はれっきとした独自の<歴史観>をもち、学者を<選別>していることが想起されてよい。
 いつぞやマルクス主義又は親マルクス主義ではないと、少なくとも<反・反共>でないと政治学系の大学院学生の大学への就職は困難である旨を中西輝政が月刊諸君!上で率直に語っていて印象に残ったことを書いたことがある。似たようなことは、少なくとも関西での「考古学」分野でもあるようだ。安本美典は、以下のように書く。
 「はじめに邪馬台国畿内説ありき」。何故かというと、「そのように教育されたから」。何故「そのような教育が行われたのか」というと「京都大学を中心にして、…そのような教育システムができあがっているから」。「その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある」(p.330)。
 また言う-「関西を中心とする考古学関係の新聞記者なども、『邪馬台国畿内説』の立場から教育をうけており、そこから発信される情報が全国紙にのる傾向をもつ」(p.331)。
 「全国紙」に、あるいは「全国」版に載せてもらうためには、理論的・学問的にはどうであれ、近畿地方での古墳発掘結果等の報道記事は<邪馬台国>問題と関連づけて書かれる必要があり、そのためには、それに有利なコメントをしてくれる学者・調査関係者が必要になる……。
 新聞記者、ジャーナリストも<堕落>したものだ。むろん、調査の補助金等を獲得するために<政治的>に動いている面があることを否定できないと思われる学者・(国立)橿原考古学研究所関係者も<堕落>している。
 南京事件、「百人斬り」競争、慰安婦「強制」連行、住民集団自決「命令」、東京裁判等々、<学者・研究者>と<マスメディア>の関係は、ある部分ではきわめて緊密だ。
 古代史・邪馬台国問題でも似たような状況にあるようで、ここにも陰鬱な気分にさせる原因の一つがある。いちいち気にしていると、生きていけないが。

0569/古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007)等々を読む。

 〇小林よしのり・パール真論(小学館、2008)p.235まで読了。あとはパール判決書解題と最終章だけなので、殆ど終わったと言えるだろう。
 〇安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版、2008)のp.213まで読了。
 上の二つは、後者の問題には考古学等という介在要素が増えるが、何が事実だったか、という問題を論じている点では共通性がある。そして、それぞれの知的な論理的作業は興味深い。
 いま一つの共通点は、どちらの問題についても、朝日新聞という<左翼政治(謀略)団体>が関係していて、それぞれ<悪質な>ことをしている、又は<悪質な>影響を与えている、ということだ。具体的に書き出すと長くなるので、別の回に時間があれば書く。朝日新聞(社)は至るところで害悪をもたらしていて、嘔吐が出る。
 〇大原康男・象徴天皇考(展転社、1989)はp.149まで読了。今後さらに調べてみたいテーマはこの本に最も近いかもしれない。
 〇古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007)はp.166までとほぼ3/4を読了。単発短篇の寄せ集めでまとまりは悪いが、区切りがつけやすいのは却って読みやすい。
 1.著者・古田は1953年生。もっと上の世代の論者の中に、60年安保世代(「全学連」世代)と「全共闘」世代(70年安保世代)を混同して、あるいは一括して論評しているのを読んだことがあるが、さすがに私より若い人で、両世代の差違に言及する部分がある。以下、古田による(p.36以下)。
 全学連世代は戦争を知っておりナショナリズムの残滓をまだ抱えていたため「体制否定」まで進まなかったが、「全共闘」にはこの「防波堤がない」。「全共闘」の克服すべき対象は資本主義の成長により消失しつつあったのに、「革命の可能性と資本主義の終焉を信じ切り」、「暴力革命」を実践し始めた。「貧困」はなくなりつつあったのに学費値上げ反対等の闘争をした。さらに、「ナショナリズムが希薄」なため、全学連世代がもった「対東アジア侮蔑観」も薄く、「中国や北朝鮮からの悪宣伝にやすやすと踊らされ」、「悪漢日本を自分たちが懲らす」との「正義の闘争」を始めた。……
 この「全共闘」観は、「全共闘」運動の中での相当に職業的な<革命>運動党派を念頭に置いているようで、異論・違和感をもつ人びとも多いかもしれない。だが、非日本共産党・ノンセクト「左翼」学生たち(こうなると「ベ平連」学生にすら接近する)に焦点を当てた「全共闘」論よりは、私には感覚的に共感するところがある。<ナショナリズム>や「対東アジア侮蔑観」の有無・濃淡も、完全に同意又は理解はできないが、興味深くなくはない。
 2.古田によると、日本のインテリの「愛国しない心」には「三つの歴史的な層」があり、最後のものの「上に」いくつかの「派」が広がっている(p.56-57)。
 第一は、明治以来の対西洋劣等感。「劣った日本」ではなく「舶来」ものに飛びつくのがインテリの本分と心得る。
 第二は、スターリン(コミンテルン)の32年テーゼ(「日本共産主義者への下賜物」)の影響で、天皇制度は「絶対的に遅れた」「後進性の象徴」と思い込んだこと。「愛国するならソ連とか、社会主義国にしなさい」。
 第三は、「マルクスの残留思念」としての「カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズム」の層で、「国家なんか権力者の造りだした幻想」だ、「愛国心」は権力者が都合よく利用しようとするものだ、と考える。
 この上に、次のような「さまざまな雑念がアナーキーな広がりを見せている」。
 一つは、「地球市民派」-自分は「自由な市民だから国家なんか嫌いだ」。
 二つは、「反パラサイト派」-「アメリカの寄生国家なんか愛せない」。
 三つは、「似非個人主義派」-自分という「個人に圧力を加えるから愛国心なんか厭だ」。
 なるほど、なるほど。

0566/小林よしのり・パール真論(小学館)を100頁余読む-中島岳志は学者としてまだ生きていけるか。

 一 中島岳志-北海道大学「公共政策大学院」(正式には「公共政策学教育部・公共政策学連携研究部」)准教授。インド語(ヒンドゥー語?)ができ、専門は「南アジア地域研究」とされているので(北海道大学HPによる)、元来、歴史の専門家ではないし、まして日本の近現代史の専門家ではない。だが、同・パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義(白水社、2007)なるものを著して、戦争・(占領期・)東京裁判という<左右>激突が予想される分野に足を踏み入れてしまった。
 想像・憶測にすぎないが、日本近現代史・東京裁判についての先行研究業績のない者が一躍こういう本を書いて登場するとは、よほどの感情・情緒―あるいは特定の「イデオロギー」―に支えられているのだと思われる。そして、それは、東京裁判のパール判決書(反対意見書)を<保守派>(<右派>)に利用されてはいけない、という感情・情緒又は「思い込み」ではないか。
 二 中島の上の本に関する牛村圭・小林よしのりの批判的反応、西部邁の小林よしのりに分があることを認めつつ中島を一部擁護し(一部の)<保守>をも問題にする論はすでに知っていたが、小林よしのり・パール真論(ゴーマニズム宣言スペシャル)(小学館、2008.06)のp.108までを読んで、上のように感じた。
 p.108までのうち、計42頁は漫画ではなく普通の文章(論述)で、一気に読んだわけではない(但し、パール・「平和の宣言」(小学館、2008.02)の小林よしのり「復刊にあたって」はすでに読んだことがあった-上掲書p.101-108に再録)。
 三 内容を詳細に紹介するわけにもいかない。細かな論点の紹介もしない。以下、いくつかのメモ。
 ①パール意見書等のパール文献をきちんと読むことなく(と思われる)中島岳志の上掲書を読み、その影響を受けて、中島著を肯定的に評価した者の(小林よしのり作成の)氏名リストがp.137-8にあるが、記憶に留めておきたい著名?人は次のとおり。
 井上章一長田渚左加藤陽子(日本史、東京大学)、佐高信〔これは当然だろう〕、堤堯(月刊Willの常連、なるほど)、長崎暢子(龍谷大学)、西部邁原武史明治学院大学、やはり)、御厨貴(東京大学)、山内昌之(東京大学)。
 西部邁も元東京大学だとすると、東京大学関係者が多いのが目立つ(原武史も出身は東京大学のはず)。東京大学所属者は書評執筆を依頼されることが多いのかもしれないが、やや異様ではないか(中島岳志自身は大阪外語大→京都大学大学院)。東京大学の社会・人文系は<左翼>傾向が強いと、あくまで断片的印象ながら感じていたが、幾分か、さらにその印象が強まった(なお、最近この欄で御厨貴の本の一部を紹介したが、<保守派>と認識した上でとり上げたわけでは全くない。後半で内容的に異なることも述べた)。
 ②中島岳志の上掲著は相当に問題の多い、欠陥の多い本だと思うが(小林よしのりの批判的論述は詳細で徹底的だ)、朝日新聞社・大仏次郎論壇賞と毎日新聞社・アジア太平洋賞を受賞したとか(p.27)。唖然とする。朝日・毎日の両「左翼」新聞社だから当然と見れなくはないが、しかし、授賞するためには関係専門家等による<推薦>、少なくとも一つの候補化があったはずで、やはり、日本近現代史(学)、政治史(学)の現在の有力な何人かが支持をしたものと見られる。<怖ろしい>ことだ。
 古代史(とくに邪馬台国・卑弥呼論)について、安本美典説を無視し続けている歴史学アカデミズムというものの驚くべき<怖ろしさ>も感じたことはある。小林よしのりとともに、「『デモクラシー』の土台が『デマゴギー』となっているこの日本社会が実に不愉快である!」(p.54)と言いたい。
 憲法学の樋口陽一らも学生や日本国民に<デマ>を撒いている<デマゴーグ>だ。すでに言及してはいるが、別にさらに何回か取り上げる予定。
 ③何故自分はヒトとして生まれたのか、何故日本人として、男(又は女)として、今の時代に生まれ生きているのか。これらを理屈で考えても無意味で、人智を超えた不合理なもの、合理的には説明できないことは間違いなくある。何故自然現象による災害に特定の者が遭遇しなければならないのか、何故犯罪や事故に偶々巻き込まれたのか、等々、本人も家族(遺族)も「理性」で納得できないことはあるに違いない。少し種類は違うが、何故日本には<天皇>という地位・人物がある(いる)のか、という問いも、かなり似たようなところがある。人為的なものに違いはないが、その歴史性・伝統性を考えると、もはや<理屈>うんぬんではないのではないか。
 というような、議論しても解答は出ないような問題はあると思うが、しかし、日本語(場合によっては原語)の文章の読解力や解釈、論理展開の厳密さ、文献・資料の適切な選択等々によって、どちらが、あるいは誰が最も適切な又は合理的な理解又は主張をしているか、を判断できる問題はある。パール判決書(反対意見書)の理解の仕方もそのような問題で、現在は数の上では少数派なのかもしれないが、おそらく、勝負は小林よしのりの勝ちだ。
 問題は左か右か、イデオロギーの当否ではない。まさに、小林よしのりの言うように「国語力」の問題であり、<「権威主義」と「デマゴギー」の問題>なのだ(p.64)。
 ④中島岳志に人間としての良心があるなら、「嘘と歪曲と誤謬だらけのおのれの罪を全て認め、きちんと謝罪して、ただちに偽造本の回収」(p.93)をすべきものと思われる。
 しかし、朝日新聞・毎日新聞に「可愛がられ」る<薄らサヨク>の世界からはたぶん脱することはできず(p.94参照)、西部邁との対談で近代日本の「しっかりとした保守主義者」は「一人は西部さんで、もう一人は福田恆存」などと発言したりしながら(p.87)、大江健三郎樋口陽一のように<日本人ではない何者か>になってゆく可能性がある。中島岳志の専門分野からして、東京裁判に関する次回作があるというわけでもなさそうなのに、気の毒なことだ。まだ若いのに(1975年生)、今後も関係学界で生きていけるだろうか。

0565/佐藤優における皇室に関する「設計主義」、「構築主義」、「合理主義」とは?

 佐藤優は、月刊・正論7月号(文藝春秋)に、―②の最後の「南朝精神」を取り戻せ旨の主張は私には理解不能だが(反対との趣旨ではない)―こんなことを書いている(p.214)。
 ①「女帝論という形で皇統を内側から壊す危険性がある人権思想、近代的範疇である遺伝子理論によって万世一系を解釈する試みなどの背景には、人間の理性に対する全面的信頼を基礎として、皇室を『設計』し、『構築』しようとする思想が存在する。このような設計主義、構築主義が日本国家を内側から蝕んでいる」。
 ②「皇室を人知によって改革するなどという 合理主義に冒された発想を捨て」、「南朝精神を有識者がとりもどすことが喫緊の課題」だ。
 ①の中にある、「近代的範疇である遺伝子理論によって万世一系を解釈する試み」とは八木秀次のそれを指しているだろう(なお、神武天皇や2代~8代天皇実在説に立っても、神武天皇から今上天皇まで「万世一系」かどうかは、安本美典の関心の外にあるテーマだが、別の議論が必要だ)。
 他に、園部逸夫らが委員として関与した、皇室の将来に関する有識者懇談会の報告書(正式名称を確認していない)を批判しているだろうことは、たぶん間違いない。
 皇太子妃問題(?)に関する最近の一部の有識者の発言も、「設計主義」、「構築主義」、「合理主義」として批判の対象としているのか(又はそうなるのか)否かを、訊ねてみたいものだ。
 なお、佐藤優が引用する南朝側の北畠親房の文章の一部は次のとおり。
 「人はとかく過去を忘れがち」だが、「天は決して正理をふみはずしていないことに気づくだろう」。何故天は現実を「正しい姿」にしないのかとの疑問を持つ者もいようが、「人の幸・不幸はその人自身の果報に左右され、世の乱れは一時の災難ともいうべきものである」。「天も神も」いかんともし難いことはあるが、「悪人は短時日のうちに滅び、乱世もいつしか正しき姿にかえる」。これは「昔も今も変わることなき真理」だ(「神皇正統記」日本の名著9(中央公論社、1971)p.445)。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0555/<言挙げ>したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・2の追加。

 1 八木秀次は、「日本の神話を読んで『神武天皇は実在したのか』…と言っても意味がない」と述べた(中西輝政=同・保守はいま何をすべきか(PHP、2008)p.231)。
 その直前に八木は、アメリカの建国神話は「嘘っぱちだらけ」です、と述べている。このことの関係でも、昨日に書いたように、上の発言は、日本神話上の「神武天皇」は本当は実在していない、しかし「神話」なのだからそれを「ウソ」だと指摘しても「意味がない」、という趣旨だと思われる。八木はほぼ間違いなく「神武天皇」非実在説に立っている。
 しかし、安本美典、安本を支持する立花隆のように、「神武天皇」実在説に立ち、神武天皇に関する「神話」上の伝承の中に史実(事実)の存在を認めようとする人々もいる。
 竹田恒泰は孝明天皇研究家ということなので古代史研究の専門家とは言えないだろうが、竹田恒泰・旧華族が語る天皇の日本史(PHP新書、2008)も「神武天皇」実在説を主張している。
 上の書は「神武天皇は実在した」との節名をもち(第二章内)、戦後さかんに唱えられた「非実在説」が「広く浸透しているのが現状」だとしつつ、「東征伝説は真実と考えよ」等と主張している(p.65-69)。
 竹田恒泰は戦前の皇国史観のように(?)日本書記等の「神代」の記述を丸ごと真実と信じよ、と主張しているわけでは全くない。いずれかの時期に「初代」の天皇が実在していたことに間違いない、非科学的・非合理的と感じられる記述の中にも「一定の真実」が「含まれている場合がある」(p.67)という立場から、上のような主張をし、「非実在説」に決定的な根拠があるわけでもない等と述べているのだ。
 竹田の上の本の「主要参考文献」には、安本美典の著書はなく、安本の雑誌論文が一つだけしか挙げられていないことからして、竹田はとくに安本美典説の影響を受けたわけではないと見られる。
 なお、初代~九代の天皇の各在位年数をすべて「十数年と見なすと…」と、安本と同様の発想をして神武天皇の活躍時期に論及しているのが興味深いが(p.70)、安本は天照大神~21代(雄略)までの平均在位年数を「9.56年」としているようだ(天照大神=卑弥呼を神武天皇の5代前とする。安本美典・大和朝廷の起源(勉誠出版、2005)p.277)。
 2 八木秀次は、「最近の研究によれば」、として「天武天皇・持統天皇の時代、七世紀の終わりあたりに日本の『国のかたち』がようやく固まったと見るようです」と述べた(一部前回と重複。同ほか・日本を弑する人々(PHP、2008)p.247)。
 昨日は、「最近の研究」とは誰々のどのような研究かは気になったものの、「国」とか「国のかたち」あるいはそれの「固まり」の意味の理解の仕方は多様でありうると考えて読み飛ばし、(上記の「神武天皇」うんぬん以外は)「天武天皇・持統天皇の時代」や「継体天皇」の時代以前の諸天皇(+神功皇后)に一切言及がないことを奇妙に思っただけだった。
 しかし、再び安本美典が引用している別の学者の叙述を読んで、上の八木秀次の叙述の内容も、いささか勉強不足であり、戦後「左翼」の古代史(・天皇制度史)学の影響を受けている、と感じた。
 私なりに言えば
、①「天武天皇・持統天皇の時代」になされた重要なことは(隋(589-618)・)唐(618-907)に倣った<律令体制の整備>であり、国家(行政)機構の整備・強化等に関して重要な意味があっただろうことを否定しないとしても、中国(隋・唐)の影響を受けて(又はそれを積極的に継受して)七世紀末又は同後半に「『国のかたち』がようやく固まった」と理解するのは、いささか主体性を欠く日本「国家」の歴史の(自虐的ですらある)捉え方ではないか、②「天武天皇・持統天皇の時代」以前には、日本には「国のかたち」は全く又は殆どなかったのか、<大王(オホキミ)>や<大和朝廷>という概念自体がある程度の国家(行政)機構・仕組みの整備を前提にしている筈だが、八木はこれを否定するのか、という感想又は疑問を抱く。
 安本美典・大和朝廷の起源(勉誠出版、2005)の「はじめに」のp.6-7に、次のような長山泰孝(大阪大学名誉教授)の文章(2003年のもの)が引用されている。一部を省略又は要約して再引用する。
 「今の古代史は非常識」だ、つまり、「律令国家によって初めて国家というものが成立したというのはこれは常識と合わない」。「隋と正式に国交を交わし」た「それ以前の推古朝」は何なのだ、「国家ではないのか」ということになってくる。/「ずいぶん国家の成立が押し下げられてきている」。「自分の国の歴史の発展をできるだけ遅く考えたいというのが、戦後の歴史学の出発点だったところがあった。そこからつくられた情念だったわけ」だ。/「最近、考古学の方」がいうには「三世紀の少なくとも中頃には国家は成立している」。「文献史学」では空白のままきて「不思議なことに六世紀のわずか一〇〇年の間に全部出そろう」。/「まったく記紀を無視する戦後の歴史学が今問題であって…」。
 いろいろな歴史理解はありうるだろう。だが、この長山泰孝だと、八木秀次のように(「最近の研究によれば」としてであっても)「七世紀の終わりあたりに日本の『国のかたち』がようやく固まった」らしいとは発言しないのではないか。
 3 近現代史に限らず、すべての日本史の時期について、戦後にマルクス主義歴史学者が活躍したことは周知のことだ。古代史(学)については、石母田正(いしもだ・ただし)という、日本共産党員ではないかと思われる学者の影響力が大きかった。言及したことのある直木孝次郎も、親マルクス主義の「左翼」だ。
 従って、天皇制度や「国」の成り立ちに関する古代史学なるものは疑ってかかっておいた方がよい。上で長山泰孝も指摘又は示唆しているように、現にある<天皇制度>の権威を高めることのないように、その歴史は実際よりも短くされるか又は軽視されている(あるいは神話=ウソとして完全否定されている)可能性がある。また、日本「国家」の権威・特性・歴史的な古さ(長さ)を強調することにならないように、その成立・「確立」の時期は「押し下げられてきている」(長山)可能性がある。
 さて、「最近の研究によれば」、「七世紀の終わりあたりに日本の『国のかたち』がようやく固まったとみるようです」と発言する八木秀次は、長山が「非常識」とする<左翼>古代史学の影響を受けてはいないだろうか
 古代史についてもマルクス主義者とそうでない者の<闘い>というものは客観的には存在している。まさかとは思うが、日本の近現代史(学)はともかく古代史(学)についてはそのような対立はなく、中立的・客観的に学問が展開している、とでも八木秀次は考えているのではないかとすら憂慮してしまう。
 ともあれ、歴史認識問題は、近現代史についてのみあるわけではない。不用意にでも<左翼>日本史学(>古代史学)の影響を八木秀次が受けているのだとすれば、その八木が<保守思想の理論化・体系化>をしたい旨を語っているのだから(中西輝政=同・保守はいま何をすべきかp.131)、また、この人は<保守系>の(筈の)「日本教育再生機構」とやらの要職を務めているらしいのだから、<ことはまことに重大で、由々しき問題だ>と思われる。

0553/「言挙げ」したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・2。

 一 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)の中で、八木は、改正教育基本法が「我が国と郷土を愛する…態度を養う」ことを理念の一つと定めたにもかかわらず、今年(2008年)3月の学習指導要領改訂には法律改正の趣旨が反映されていないと批判的に指摘している(p.245-)。産経新聞の3/19「正論」欄でも、「わが国の伝統と文化を語る上で重要な天皇も、…中学校では社会科公民で『…〔略〕について理解させる』と記述するにとどまり、改善点はなく、天皇への敬愛の念についての言及もない」などと批判している。
 「日本教育再生機構」の理事長でもあるという八木は、きっと、日本という「国」の成り立ちや天皇(制度)の歴史-<古代史>ということになろう-についても該博な知識とそれらの「教育」に関する適切な見解をもっていそうだ、と言えそうだ。
 二 しかし、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP、2008)の中で、私には奇妙と思えることを述べている。
 「日本の神話を読んで『神武天皇は実在したのか』『百二十五歳まで生きるわけがない』と言っても意味がない」。「建国神話とは、建国の精神に立ち帰ることで国民がまとまればいいわけですから」(p.231)。この二つめの「」は度外視しよう。
 上の一つめの「」の、①「神武天皇は実在したのか」、②「百二十五歳まで生きるわけがない」、と言っても「意味がない」とは、いったいいかなる意味なのだろうか。ここで彼は、何を主張したいのだろうか。
 常識的には、日本(建国)神話の<真実性>を論じても(あるいはその<虚偽性>を指摘しても)「意味がない」、という意味であるように読める。「神話」は「神話」として<理解>すればよい(又は<物語>として「信じ」ておくべきだ)、というような意味だと思われる。
 八木は、①「神武天皇」の実在性と②初期の諸天皇の<生存年数>を論じても「意味がない」と発言している。そして、明言はないが、どうやら、①「神武天皇」は実在しない(つまりこの点の神話はウソだ)、②生存年数「百二十五歳」の天皇は存在しない(つまりこの点の神話はウソだ)と八木は理解しているものと推察される。少なくとも、このように解釈されてもやむをえない発言の仕方をしている。
 そうだとすると、重大な疑問が生じる。すなわち、①の「神武天皇」の実在性の問題と、②同天皇を含む初期の諸天皇の<生存年数>(又は<在位年数>)の問題とを、こうして同次元の問題として論じるべきではない、と思われるからだ。一括して議論している八木は誤っている。つまり、古代史に関する知識が十分ではない。
 ここで述べようとしていることについて、安本美典・日本神話120の謎-三種の神器が語る古代世界(勉誠出版、2006)の「はじめに」には、なかなか興味深いことが書かれている。あの、「左翼」の立花隆が、2005年に、安本美典の別の本、安本・大和朝廷の起源-邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)を読んでの感想を、次のように某週刊誌に書いた、というのだ。以下、上の第一の著のp.8-9の引用からさらに一部引用する。
 「この本〔上の第二の2005年の著-秋月〕を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、神話伝説上の人物にすぎず、リアルな存在では全くないと思っていた。/しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、骨格において伝説に近い史実があったにちがいないと思っている。/…私はこの本によって、古代史にまつわる多くの謎のモヤモヤがきれいに整理され、取りのぞかれた思いがして、大筋これで結構と思っている」。
 八木秀次の古代史・日本神話・初期天皇に関する知識は、この2005年時点の立花隆以前の状態にあるのではないか。私が安本美典の諸説を知ったのはたぶんん20年程度以前のことだが(なお、安本美典・神武東遷(中公新書)は1968年刊)、神武天皇にあたる人物は実在しただろう、大和盆地への「東遷」伝承は相当に史実を反映しているだろう、と(安本美典の説得力ある議論の影響をうけて)思っている。
 従って、第一に、「神武天皇は実在したのか」と言っても「意味がない」ということは全くなく、<実在した>と断固として主張してよいのだ(もっとも、安本説ではないが「崇神天皇」等との同一人物説等もある。だが、この説も「神武天皇」にあたる人物の実在を否定することにならない)。
 一方、初期の天皇の「生存年数」(=寿命)が記紀において異様に長く書かれていることはよく知られている。神武天皇は日本書記によると127年(古事記によると137年)、その他、開化天皇115(63)、崇神天皇120(168)、垂仁天皇140(153)等々。
 なぜこのように(神武天皇の即位が紀元前660年となるように)長くしたのかには辛酉革命説等の諸説あるが、これらの常識的に見て長すぎる寿命(生年・没年)の記載は<信じられない>・<ウソだ>と言って何ら差し支えない、と考えられる。
 従って第二に、「百二十五歳まで生きるわけがない」と言っても「意味がない」ということは全くなく、むしろ「意味がある」。
 八木はこの生存年数について、ひょっとして「神話」として<理解>すればよい、又は<物語>として「信じ」てよい、と言うのかもしれないが、そのような<公教育>をしても、小学校も高学年くらいの生徒になれば<理解>も<信じる>こともできず、「建国神話」によって「国民がまとま」ることをむしろ妨げることになるものと思われる。
 以上のとおり、八木秀次の古代史・天皇の歴史に関する知識と見解は怪しいものだ、というのが私の感想だ。
 三 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)に再び戻ると、もう一点、やや奇妙に感じたことがある。すなわち、中西輝政は日本史を学ぶ「最終目標」は「神話が体得できる」ことだと言っているが(p.228)、八木はこの指摘を「学ぶ」優先順序のごとく理解しているのではないだろうか、ということだ。
 もう少し詳しく紹介すると、八木は、「国のかたちがはっきり現れる時代」(「継体天皇から聖徳太子を経て天武天皇に行き着く流れ」)から「歴史を見て」、「学んでいった後で」、「最後は神話に行き着く」と述べている。渡部昇一・稲田朋美との上掲共著p.247では、日本の「国のかたち」が「ようやく固まった」「天武天皇・持統天皇」の時代の「建国の精神」の内容を述べており、この時期をまずは「学ぶ」ことが重要だと考えているようだ。
 「学ぶ」順序などは些細な問題かもしれないが、関心を惹くのは、「天武天皇・持統天皇」の時代又はそこまでに至った「継体天皇」の時代以前について、八木は何も語ろうとしていない、ということだ。「応神天皇」やその母とされている「神功(じんぐ)皇后」にも一切の言及がない。
 日本の「建国の精神」でもよいし、日本人の「精神」・「心持ち」でもよいが、それらを知るために、「継体天皇」の時代以前に関する記紀等の叙述をこのように軽視してよいのだろうか。仏教が伝来するまで日本(人)に特有の<心情・信条の体系>だったと思われる<神ながらの道>=<神道>に立ち入らないかぎり、日本人の「精神」・「心持ち」、そして「建国の精神」も理解できないのではないか。
 安本美典は反マルクス主義者であり、「津田左右吉流の文献批判学」の批判者であり、(私の造語だが)「反アカデミズム」者でもある。その安本・日本神話120の謎(上掲)p.21の表現によると、戦前に迫害された「津田の諸説は、第二次大戦後の、懐疑的風潮の中で、はなばなしくよみがえ」り、「わが国の史学界において、圧倒的な勢力をしめ」、そして「戦時中の、神話の全面肯定から、全面否定へと、はげしいうつりかわり」を見せた。
 八木秀次の精神世界は、今も戦後の神話「全面否定」論の影響を受けつづけているのではなかろうか。安本がいう、ギリシャ神話・旧約聖書物語よりも「日本神話へのなじみがすくない世代」(上掲書p.21)に属したままなのではないだろうか。
 ふつうの日本人、とくに若い世代であれば、上のことは珍しくもなく、批判するのは酷かもしれない。だが、「保守はいま何をすべきか」と大上段に振りかざし、「国…を愛する」態度や天皇に関する<教育>について発言している八木が、今回記した程度の「日本の神話」に関する知識と関心しか持っていないとすれば、ほとんど<詐欺>に等しいのではないか。
 なお、八木の、天皇の宮中祭祀に関する知識が不十分である(又は誤っている)と見られることについては、すでに述べた。

0504/式年遷宮と大嘗祭の<復活>。

 伊勢神宮の由来又は設立年代については、日本共産党系と見られる藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)で、直木が「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」と書くくらいだから、1300年前にすでに存在したことは「間違いない」。現代人にとっては気の遠くなるような昔だ。
 七世紀後半からさらにいつ頃まで遡れるかだが、安本美典の簡単な文章に即して既述のように、記紀等によれば崇神天皇の御代に皇祖・天照大神を宮中とは別の場所に祀るために造営された。
 所功・伊勢神宮(講談社学術文庫、1993)は記紀等の記述に添ったより詳しい説明をしつつ、崇神天皇朝を三世紀後半としている。但し、古代の天皇・国王の平均在位年数は約10年という安本美典説に従い、かつ崇神天皇は第一〇代ということは正しい、ということを前提にすれば、崇神天皇朝は三世紀後半ではなくもっと後だろう(所功は西暦〇年前後に神武天皇即位、三世紀後半は大和朝廷の故地・九州では「壱与」の時代だろうと推測する。安本美典とはかなり異なる)。
 それはともかく、所功の上の本によっても、神宮の式年遷宮が、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇(645-702)の時代に始まることは「間違いない」ようだ(所によると内宮の第一回は690年)。式年遷宮自体も1300年以上の歴史をもつ。2013年は第62回。前回・1993年の遷宮に至る、各祭儀についての(最重要な祭儀は「遷御」だと思われる)、昭和天皇に始まり今上天皇に継承された「御治定」の月日は、神宮司庁監修編集/伊勢神宮崇敬会発行・お伊勢まいり(2005.07改訂7版)の末尾に一覧表として掲載されている。
 1320年以上で62回という回数からも判るように、式年遷宮は20年毎にきちんと行われてきたのではなかった。戦後最初のそれ(第59回)は1949年の筈だったが、財源難等があったのだろう、4年遅れて1953年に行われている。
 そんな4年遅れてどころではなく、所功の上の本や高野澄・伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか(祥伝社ノンポシェット、1992)によると、所謂「戦国時代」に、120~140年もの間、中断している。
 式年遷宮ではなく「大嘗祭」の挙行となると、田中卓「天皇と神道の関係」同=所功=大原康男=小堀桂一郎・平成時代の幕明け(新人物往来社、1990)p.54によれば、何と「約220年」の中断があり、江戸時代初期の1687年に再挙行された、のだという。
 120~140年あるいは220年ということは、停止と再開の両方を現実に知る人は一人もおらず、一般国民の一世代を30年とすると、4代から7代くらいが交替するだけの時間が過ぎたことを意味する。
 そして思うのは、<天皇制度>が続いている限りは、かりに100年、200年の<中断>があり、廃止されたかの如き外観を呈した時期があったとしても、<歴史的・伝統的なもの>は<復活>している、ということだ。
 多少のゴタゴタはよい。また、日本「文明」は同一ではなく変化してきたし、これからも変化はしていくだろう(固有の何かまでなくなるとの趣旨ではない)。だが、<天皇制度>とともに、自分の死後も続く「日本」の<悠久>というものを信じたいものだ。

0502/三種の神器の一つ=八咫鏡と三角縁神獣鏡、式年遷宮と天皇陛下の「御治定」。

 「三種の神器」という言葉とそれが天皇位と関係のあることは知っていても、正確に何々であり何処に本体が所在しているのかとなると、多くの国民は、戦後教育のみを受けた国民に限ればほとんど全員が、知らないのではないか。特定の宗教にかかわる天皇家の<私事>として、学校教育の場では何ら教えられなかったからだ。それでよかったのか? 「三種の神器」に限られないが、国の肇まりに関する<物語>くらいは(「神代」の御伽話としてであれ)きちんと教えられてよかったように思う。国民(民族?)にとって、建国の「物語」があるだけでも誇らしいことだろう。そのようなものがない国家(・民族)もあるに違いないのだから。
 さて、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)は、「三種の神器」の一つ、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)の由来についても論及している。伊勢神宮や宮内庁はそれなりの説明をしていると思うが、さしあたり安本に依拠して紹介してみよう。
 安本によると、古事記・日本書紀は八咫鏡につきこう書いている。-天照大御神が天の岩戸に隠れたときに製作を命じたのが八咫鏡で、神武天皇東征に伴い畿内に移動し皇居(宮中)にあったが、第一〇代・崇神天皇の時代にレプリカが作られ、本体は(伊勢)神宮に祀られることになった。レプリカ作成の際の試鋳品が奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社に祀られている。
 以下は、安本の推論又は主張。鏡作坐天照御魂神社にある試鋳品は三角縁神獣鏡なので、八咫鏡も三角縁神獣鏡の可能性がある。天照大御神=卑弥呼が没したとき(天照大御神が天の岩戸に隠れたとき)に三角縁神獣鏡の祖型を作ったとすれば、それは卑弥呼の功績を記念したもので、中国・魏と交流しその「冊封体制」に入ったことから魏の年号が記されていても自然だ。奈良県の「弥生時代」又は「三世紀」の遺跡からは(「四世紀」以降は別として)三角縁神獣鏡は一つも出土していない(北九州からは出土している)。
 安本の論はこうして天照大御神=卑弥呼の所在地に関する問題へとつながっていくが、ともあれ、邪馬台国問題で話題になる三角縁神獣鏡が「三種の神器」の一つ=八咫鏡と関係がある、と推測又は推論している。これはどの程度一般的な説なのかは分からないが、知的好奇心の湧く話ではある。八咫鏡なるものが歴史の深いかつ貴重なものだったことはある程度は判る。
 ところで、別のテーマになるが、八咫鏡本体が存置されている伊勢神宮の式年遷宮(次回は2013年)の準備のための今上天皇の「ご聴許」が宮内庁長官名で(伊勢)神宮あての文書で伝えられていると推察されることはすでに書いた。
 神宮司庁・神宮(2007.04、講談社編集)という写真集のような本によると、この一般的な「ご聴許」以外に、式年遷宮に至るまでに「天皇陛下に御治定を仰ぐ」とされている、以下の多くの行為がある。今年の、すでに産経新聞でも小さく報道のあった「鎮地祭」の挙行もそうだが、2005年の「山口祭」・「木本祭」・「御船代祭」、2006年の「木造始祭」が<御治定>にもとづきすでに行われている(それぞれの意味・内容の簡単な記述もあるが、省略)。あとは、2012年の「立柱祭」・「上棟祭」、2013年当年の「杵築祭」・「後鎮祭」・「遷御」・「奉幣」・「御神楽」がある。これらのうち「遷御」は「御神体を新宮に遷しまつる祭り」で、「天皇陛下が斎行の月日をお定めになる」と記されている。
 天皇陛下の「御治定」なるものの正確な意味は分からないが、これらの祭儀を特定の月日に挙行することを<許す>・<認める>という趣旨は少なくとも含まれているだろう。式年遷宮は、天皇(皇室)自身の祭祀行為として、「勅使」(天皇陛下の代理?)を主宰者として行われるものだからだ(なお、前回の実際の祭祀主宰者の氏名を特定していなかったが、1988年から「神宮祭主」をされている、昭和天皇の皇女・今上天皇の姉の池田厚子氏だったと判った)。
 しかして、天皇はいかなる権限にもとづいてこの「御治定」なるものを伊勢神宮という一宗教法人に対して行うのだろうか。伊勢神宮との間に詳細な<契約文書>でも交わされているのだろうか。
 そんな<近代的な法的観念>に馴染むものはおそらく存在しないだろう。天皇(・皇室)と(伊勢)神宮の特別に密接な関係にもとづき、歴史的・伝統的な慣行・慣例に従っているのだ、と思われる。それらは国家神道の時代を超えて、遅くとも明治維新以前の時代から形成されてきているのだろう(かかる歴史的・伝統的な長年の慣行・慣例に従った、<天皇制度>と不可分の天皇の行為が「私的」行為扱いされるとは解(げ)せないが、同旨のことは何度も書いた)。
 だが、一般的には(「鎮地祭」の挙行に関する産経新聞の記事によってもそうだが)、伊勢神宮の式年遷宮に関する諸行事に天皇(・皇室)が深くかかわっていることは知られていないのではないだろうか。式年遷宮の費用が基本的には国民の寄付金(奉賛金)による、ということ以外に、正確な実態は知られていないのではないだろうか。そして、それでよいのか、と疑問に思う。

0501/邪馬台国・三角縁神獣鏡問題と人文・社会系「学問」。

 産経新聞5/11の読書欄に安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版)の紹介(簡単な書評?)がある。その文の中に「最近は畿内説が有力になってきて、畿内にあったことを前提に議論がなされる傾向もみられる」とある。これは紹介者(書評者?)の自らの勉強・知識にもとづくものだろうか、安本が言っていることを真似ているのだろうか。
 安本の少なくとも安価な本(新書・文庫)はおそらく全て所持しており全て読んでいる。最も新しいのは、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)だろう。
 後半1/3は安本の従来の主張の反復及び補強だ。この本だけに限らないが、①邪馬台国所在地=北九州>現在の朝倉市甘木地区説、②卑弥呼=天照大神説、③神武天皇実在説、等はそれぞれ-素人にとってだが―説得力がある。
 ①について、甘木付近(と周囲)と奈良盆地西南部付近(と周囲)に同一又は類似の地名が同様の位置関係で存続していることの指摘は目を瞠らせた(上の本ではp.182-3)。
 ②について、天皇在位年数の統計処理を前提としてのヨコ軸=天皇の代の数、タテ軸=天皇の没年(又は退位年)のグラフ(上の本ではp.177)を延長すると初代(代数1)の神武天皇は280年~290年、その祖母とされる天照大神(代数でいうと、いわば-2)は240年頃になる、という指摘も、上の地名問題とともに安本の独自の指摘(発見?)だったと思うが、相当に説得力がある。
 中国の史書によると、卑弥呼は239年に中国に使者を派遣している。また、中国の史書によると卑弥呼の没年は247~8年らしいが、この両年に(二度)皆既日食があったのは事実のようで、安本は日本の史書による天照大神の「天の岩屋」隠れと再出現は天照大神の死亡とトヨ=台与(安本の上の本p.189はニニギの命(神武天皇の父)の母とされる「万幡豊秋津師比売命」ではないかする)の<女王>継承を意味するのではないか、とする。卑弥呼の死亡年頃に実際に皆既日食があり、天照大神の「天の岩屋」隠れの伝承が一方にある、というのは全くの偶然だろうか。
 上の③を補足すれば、現在は紀元2700年近くになるというのではなく、安本は、記紀上の在位年数や活躍年代の記載は信じられなくとも、北九州から大和盆地に「東遷」し、のちに神武天皇と称された、大和朝廷という機構の設立者にあたる人物がかつて(3世紀後半頃に)存在したこと、その後の支配者(=祭祀者?)の代数、くらいの記憶は7世紀くらいまで残っていても不思議ではない、とする。
 安本説によっても<王朝>の交替=血統の変更は否定されないが、勝手に自分の言葉(推測)で書けば、少なくとも継体天皇以降の天皇家の血統は現在まで続いているのではなかろうか(むろん、奈良時代の天武天皇系の諸天皇、南朝の諸天皇等々、現在の天皇家の直接の祖先ではない天皇も少なくない)。
 さて、安本の上の本の前半は最近の「邪馬台国畿内説」論に対する厳しい批判で、樋口隆康(この本の時点で橿原考古学研究所所長、京都大学卒)、岡村秀典(同、京都大学人文研究所助教授)らが槍玉に挙がっている。
 京都大学の小林行雄等が中国産(魏王から卑弥呼に贈られた)とした、そして京都大学系の人が同様の主張をしているらしい三角縁神獣鏡問題の詳細等には触れない。
 もともと安本美典は<マルクス主義は大ホラの壮大な体系>とか述べてマルクス主義(唯物史観・発展段階史観)歴史学を方法論次元で批判しており、津田左右吉以来の、記紀の「神代」の記述を全面否定する<文献史学>に対しても批判的だ。
 そしてまた、安本自身は京都大学出身だが(但し、日本史又は考古学専攻ではない)、樋口隆康や岡村秀典に対する舌鋒は鋭い。
 ・安本はかつてこう言ったらしい。-「京都大学の考古学の人たちは、オウム真理教といっしょ…。秀才ぞろいだけど…馬車馬のように視野が限られていた」。また、京都大学出身の原秀三郎(静岡大学)も次の旨言ったらしい。-「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才の考古ボーイが入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズム〔小林行雄の説〕を徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」。(p.103)
 安本はこうも言う。-京都大学は近畿という地の利もあり「京大勢がリーダーになりやすい」。「どんなに論理的に無理があろうと」「三角縁神獣鏡説=卑弥呼の鏡」に「固執」する。「強力な刷り込みが行われると、そうなる」のだろうか(p.54)。
 ・安本は、岡村秀典についてこう書く。-「氏の論議の本質は、実証というよりも、空想である。科学的論証の態をなしていない。…著書で証明されているのは、およそ非実証的、空想的な内容であっても、圧倒的自信をもって発言する人たちがいるのだということだけである」(p.148)。p.102の見出しは、「カルトに近い『卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡説』」。 
 ・安本は、樋口隆康「ら」についてこうも書く。-「発掘の成果じたいは立派」でも、「多額の費用をかけた奈良県の…地域おこし、宣伝事業に、邪馬台国問題が利用されている面が、いまや強く出ている」(p.18)、「誤りと無根の事実とに満ちている」(p.20)、「この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえしておられる」、「氏の頭脳の構造は、どうなっているのであろう」、「与えられた先輩の説…を…八〇年一日のごとく、機会あるごとにくりかえす。念仏や題目を唱える宗教家と、なんら異ならない」(p.30)。
 以上は、たんに邪馬台国又は三角縁神獣鏡問題に関心をもって綴ったのではない。古代史学・考古学という<学問>にどうやら<人情>・<感情>・<情念>が入ってきているらしいということを興味深く感じるとともに、<怖ろしい>ことだとも思い、かつそうした現象・問題は古代史学・考古学に限らず、歴史学一般に、さらに少なくとも人文系・社会系の<学問>分野に広く通じるところがあるのではないか、という問題関心から書いた。
 政治学の分野で、マルクス主義又は少なくとも「左翼」程度に位置しておかないと大学院学生の就職がむつかしい(少なくとも、かつては困難だった)ということは、かつて月刊・諸君!誌上で中西輝政が語っていた。同様の事情は、歴史学、社会学、憲法学等ゝの法学(さらに教育学?、哲学?)についてもあるのではなかろうか。そして、そういうような研究者の育て方で、<まともな>学問が生まれるのだろうか。
 あたり前のことと思うが、安本美典は上の本でこうも書く。-「個人崇拝的な学説の信奉はよくない」(p.102)。
 もともと邪馬台国所在地問題については東京大学系-北九州説、京都大学系-大和説という対立があると知られており、個人レベルではなく大学レベルでの対立があるらしきことを、<非学問的な>奇妙な現象だと感じたものだった。大学レベルではなく指導教授レベルでもよいが、<非学問的な・個人崇拝>的現象は、広く人文系・社会系の<学問>分野に残っているのではないか
 若い研究者にとっては、大学での職を求めるために唯々諾々と?指導教授の学説ないし主張に盲従?していないだろうか。全面的にそうだとは推測しないが、何割かでもそういう現象があれば、その分だけはもはや<学問>ではなくなっているのではないか(「秘儀」の「伝達」の如きものだ)。
 なお、京都にあっても、同志社大学出身・同教授だった森浩一は三角縁神獣鏡問題でも安本説と同じで、かつ邪馬台国=北九州説。一方、京都大学出身の立命館大教授だった山尾幸久の同・新版魏志倭人伝(講談社現代新書、1986)は、京都大学系そのままの、邪馬台国=大和説。

-0052/「学界」外の者の発言でも正しいものはある-井沢元彦・安本美典ら。

 ○ 大学で「哲学」を講じている人の殆どは西欧の誰かの「哲学」の研究者(学者)で、「哲学学」者であっても「哲学者」ではなく自らの「哲学」を語ってはいないという印象があったが、少なくとも鷲田小彌太という人は違うようだ。
 鷲田小彌太・学者の値打ちをさらに80頁読み進む。
 西田(幾太郎)哲学は複数の異なる外国哲学の何でもありの受容(「借用」・「受け売り」)だ旨の指摘(p.23)にド胆を抜かれたが、その他、色々と考えさせられて刺激的だ。
 彼によれば、彼は25歳半ばからマルクス研究を始め40歳台でマルクス主義を「克服した」らしく、丸山真男政治学は「マルクス主義政治学の亜種」で、彼の弟子たちが学会から消えるに従い丸山の「名声」は弱まる(p.108)、等々。
 大学教授は「知識人」ではなく特定分野の「専門家」にすぎない、と思ったことがあった。
 ここでは「知識人」は社会のほとんどの諸問題に広い「教養と知識」を背景にしてマスメディアに発言する能力のある人とのイメージだった。
 これに関連して鷲田の上の本p.180は「大学教授の大半は、知識人とさえいえない」、「競争原理」が全く働かず、その「知識や技術」の「水準は問われない」からだ、と言う。つまりは私のいう「専門家」かどうかも「大半」は疑わしいというわけで、厳しい。
 アカデミズムとジャーナリズムの関係等の話も面白い(但し、立花隆の肯定的評価は承服できない。鷲田も立花・滅びゆく国家を読めば評価を変えるはず)。
 「かつてアカデミズムの権威が有効な時代があった。大新聞の論説が世論形成に与った時代があった。しかし、パソコンを媒介にしたこの社会では、個人発であるか、大学発であるか、大新聞発であるかで、情報価値に根本的差違はない」との指摘は全くそのとおり。
 知識・情報を大学・マスコミが独占しているはずがない。
 ○ しかし、妙なアカデミズムは残っているように見える。
 鷲田の本から離れるが、例えば、井沢元彦の研究・諸指摘(学界の「方法」的欠点も含む)を日本史学界はたぶん完全無視だろう。
 また、安本美典の古代史論、邪馬台国論は説得的な部分があると思うが、安本が日本史(古代史)プロパーではない(もともとは言語学、次いで心理学も)ことを理由に古代史学界はこれまた完全無視でないか。
 出自が何であれ、誰が述べようとも、正しいものは正しい。誰の問題提起でも適切ならば、適切なはずなのだ。鷲田によって「学界」の傲慢さも思い起こした。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
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  • 2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。
  • 2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
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  • 2081/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)②。
  • 2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。
  • 2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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