秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

安倍能成

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

0135/「平和問題談話会」メンバー等の全面講和・中立・米軍駐留反対論。

 西尾幹二・わたしの昭和史2(新潮社、1998)によれば、実証的根拠・資料は定かでないものの、1949-50年頃「北朝鮮や中国の共産体制を自国のモデルと看做し、讃美してやまない人が知識人の8、9割を占め、国民の過半数に近かった」(p.139)。
 かかる雰囲気の中で、1948年12月に全面講和・中立・軍事基地反対等を主張・提唱する「知識人」たちの「平和問題談話会」も結成された(結成年月は、林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)p.208による)。
 歴史的に見て当時のこれらの論が誤っており、実際に採られた「単独講和・米国との同盟」論等が適切だったことは明らかだ。全面講和論等の流れは60年安保改定をめぐる国論の分裂の一方を形成することにもなった。全員が本当に親共産主義だったかは別として、「平和問題談話会」の主張の錯誤は明白で、これに参加した「知識人」の責任は「60年安保闘争」への影響も含めてきわめて大きい。
 但し、メンバーの正式な氏名がはっきりしない。西尾・上掲書によれば、35人のうちまずは、安倍能成有沢広巳大内兵衛川島武宜久野収武田清子田中耕太郎都留重人鶴見和子中野好夫羽仁五郎丸山眞男宮原誠一蝋山政道和辻哲郎の15人が判る(p.184-5)。
 さらに同書には、鵜飼信成桑原武夫南博宮城音弥杉捷夫清水幾太郎辻清明奈良本辰也野田又夫松田道雄矢内原忠雄、の11人が記されている(p.253)。
 大学の仕事が忙しくてこの会には参加しなかったようだが、立花隆が尊敬する、だが吉田茂は当時「曲学阿世」と批判した南原繁も、全面講和・中立・反基地論者だった。
 こうした「知識人」は、しかし、なぜ当時全面講和論などを主張したのか。これは十分に研究の対象・課題になりうる。
 西尾幹二少年は新制中学3年だった1950年8月1日の日記にこう書いた―「わが国としては一日も早く講和を結び、独立国になったうえで、はっきりした態度をとるべきだ。それなのになお、全面講和説を唱えているものがある。これは講和はいつまでもしなくてよいと言っている様なものだ」(p.233-4)。
 上記談話会発足後の1950年07月に朝鮮戦争が勃発したのだが、直後に発行の文藝春秋8月号で加瀬俊一はこう書いていたという。
 共産勢力を阻止できるのは実力のみで自由主義諸国の結束以外に平和維持の方法はなく英国労働党も中立政策を危険視している、この期に及んで全面講和を論議するのは「時間の浪費に過ぎない。…南朝鮮が共産軍の侵入によって動乱の巷と化している…この危機に当って、なお空論に拘泥する余裕はない」、全面講和論は「放火によって大火災が起こりつつある時、全市の消防車が集まるまでは消火してはならぬというようなもの」だ(p.225)。
 この朝鮮戦争開始までに1946.03にチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1948.06にスターリンによる「ベルリン封鎖」、1949.04にNATO調印、1949.05と同年10月に西独・東独の成立、1949.10に中華人民共和国成立、50.02に中ソ友好同盟条約調等、すでに東西「冷戦」は始まっていた。
 国連軍(米軍)が参戦しても50.08.18には韓国政府は釜山まで後退したが、日本国民は、とりわけ上記の如き「知識人」たちは、日本も共産主義勢力(北朝鮮軍)によって占拠・占領される危険を全く感じなかったのだろうか。上の加瀬の指摘は完璧に適切だ。
 海を隔てた隣国で東西の「代理」戦争=殺戮し合い・国土の破壊し合いが継続していたときに「全面講和・中立」等と主張するのは、15歳の西尾幹二少年が感じていたように、永遠に講和条約を締結しない、つまりは独立=主権回復をしないという主張に等しく、また客観的には東側(ソ連・中国・北朝鮮等)を利するものだったことは明瞭のように見える。
 「知識人の8、9割」の中には本気で韓国・米軍の敗北=北朝鮮・中国軍の勝利と日本の社会主義国化を望んだ者もいたかもしれない(当時の共産党員やそのシンパならこの可能性は高い)。また、どの程度「本気」だったかは別として、多くの「知識人」が漠然とした「社会主義幻想」に支配されていたようにも思える。そしてまた、朝鮮戦争の現実や日本が攻撃・侵略される現実的危険を直視せず、又は直視できず、かつ北朝鮮・中国等を「平和主義」の国と錯覚しつつ、すでに施行されていた新憲法の「平和主義」の理念・理想に依って口先だけで唱えた者もいたかもしれない。いずれにせよ、当時の多くの「知識人」たちの感受性・思考方法は理解が困難だ。
 毛沢東や金日成の政権奪取の経緯もスターリンの「粛清」も知らず、フルシチョフによるスターリン批判や「ハンガリー動乱」は後年のことだったとすれば、ある程度はやむをえなかったのかもしれない。
 しかし、それにしても「一級の知識人」のはずの者たちが、少なくとも今から見れば空想的・観念的と断言しうる主張をしていたのは不思議だ。
 一口でいうと「社会主義幻想」ということになるかもしれないが、その根源・背景を更に突き詰めると、一つは、戦前からの日本共産党等のマルクス主義理論影響だろう。
 いま一つは、皮肉にも日本占領期の<当初に>GHQがとった、読売用語にいう「昭和戦争」中の日本(政治家・軍)は全面的に悪かった・誤っていたという日本人の「洗脳」教育政策と社会主義・共産主義的傾向を危険視しなかった政策だろう、と思われる。
 1949-51年頃、客観的には日本は危険な状況にあった。「大袈裟にいえば歴史の命運がかかっていた」(西尾・前掲書p.252)。単独(正確には「多数」)講和の選択は適切であり、新憲法により「戦力」保持が禁止されていたとあっては米軍の駐留(安保条約)もやむを得なかった。逆の主張をした「知識人」たちは、南原繁も含めて、本当は「知性」が全く欠けていた、と思われる。
 林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)によって、「平和問題談話会」のメンバーとしてさらに、高木八尺田中美知太郎、の2名が判る(p.208)。
 また、この「談話会」の全員が単独(多数)講和に反対したわけではなく、最初の参加者のうち和辻哲郎蝋山政道田中美知太郎は賛成した、という(p.220)。
 それにしてもこの会への参加者を中心とする「知識人」たちの影響力は大きく、社会党や総評の活動を理論的にも支えたようだが、林によればこの会の発足と「全面講和」等の政治運動への傾斜には清水幾太郎が中心的に働き、かつ安倍能成都留重人という専門・個性の異なる2人が協力したことが大きかった、という(p.215、p.218-9)。
 上で「知識人」の多くが全面講和・中立・反基地論を支持した背景らしきものを2点記したが、林の上の本を読むと、第三に、社会主義国、とりわけソ連による日本人に対する積極的な「反米」・「親ソ連(親社会主義)」工作があったことも挙げてよいようだ。
 かりに日本に「革命」が起こらなくとも、「反米」・「親ソ連」勢力が有力に存在することはソ連の安全・安泰にもつながることだった。1950.01のコミンフォルムによる野坂参三批判等によってスターリンのソ連共産党と日本共産党の関係は良好でなく、むしろ社会党員や同党関係知識人の中にはソ連による何らかの「工作」(と客観的にはいえるもの)を受けた者もいるのではないか。別の本で、後に委員長となった某社会党有力国会議員は「エージェント」だった旨を読んだ(信憑性不確実なのでここではその名は書かないが)。
 全面講和・中立・反基地論の背景の第四としてあえて挙げることはしないでおくが、林健太郎の上の本p.222は「アメリカが日本弱体化のために課した憲法が独特の観念的平和主義を生」んだことにも言及している。そして、安倍能成は「共産党嫌い」だったが「日本がいったん非武装を宣した以上それを破るのは罪悪だという観念論の頑固な信奉者でもあった」とも書く(p.218-9)。
 東欧や中国の行方が明確でないままソ連も含めて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとの1947年施行の日本国憲法前文の「理想」は、すでに日本人の精神の中にかなり浸透していたのだ。
 また、林は、日本共産党とは異なる労農派マルクス主義(・日本社会党左派)も存在したため、反政府運動は容易に反米=親ソ運動となり、日本の与野党対立を「容易にイデオロギー闘争に転化させる独特の政治風土」を作り出した、という。
 この指摘は、その後長年にわたる自・社対決が(後年の社会党がどの程度本気で社会主義国化を目指したかは疑わしく、個人的には「労働貴族」・国会議員になることを最終の「出世」と考える如き姿勢に近かったとも思えるが、タテマエとしては)不毛なイデオロギー対立となって与野党の現実的・建設的な議論・対立にならなかった原因に関するものとして首肯できる。
 日本政治の不幸は、英国やドイツと違い(社・共のいずれであれ)マルクス主義・共産主義の影響を受けた勢力が強力に残存したことだった。だからこそ、与党=自民党が西欧なら社会民主主義政党が主張するような政策をも実施したのだ、と考えられる。
 清水幾太郎の名が出てきたとあっては、同・わが人生の断片・下(文春文庫、1985、初出1975)の講和条約あたりに目に通さざるをえない。
 同書によれば、「平和問題談話会」の母体となったのは1948.07のユネスコ本部による8名の社会科学者の声明の影響をうけてできた「ユネスコの会」で、この会のメンバーのおそらく全員の名が記載されている(p.87-88)。が、その数は50人で、「談話会」の35人より多い。
 既述の他に渡辺慧が明確に後者のメンバーだったことが判るが(p.101。これで計29人)、尾高朝男阿部知二のほか(p.108参照)、1950年の09.16夜に「丸山眞男、鵜飼信成の両君と…京都へ出発」し翌09.17に「恒藤恭、末川博の両長老に会って…依頼し」とあることからすると(p.113)、恒藤恭末川博も加えてよいだろう。とすると、これで計33名になる(もっとも、既述のとおり、メンバーの中には「単独講和」に賛成した者もいた)。
 要を得ない文章だが、こうした今でも結構著名な人々がかつて全面講和・中立論を説いた(そして多くが60年安保改定に反対したと見られる)。この人たちの「教え」を受けた弟子・孫弟子たちが現在も多数、諸「学界」にいることを忘れてはなるまい。

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