佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)はあらためて「あとがき」を読むと、学問論・教養論の「語りおろし」で、たしかに微細さ・厳密さに拘泥しない、平易なエッセイ風の書物だ。そのp.51までを読んでフーコーにも言及したのだったが、その後p.165あたりまで進んだ。
 第一章・学問はなぜ閉塞状況に、は1「専門主義」と「ポスト・モダン」という不幸と2教養主義の残照に分けられ、前者の1がp.51まで。その後は第二章・体験的学問論―全共闘と教養主義が1全共闘世代と戦後民主主義、2原風景を求める教養の2つを含み、第三章・「知ること」と「わかること」には1センス・美意識・感受性、2「頭がよい」とはどういうことか、の2つがあり、第四章の1は「リベラリズムの破綻」と「保守主義の困難」。これの中途まで読了したことになる。
 さまざまな感想が生じるが、書ききれないだろう。①西尾幹二の少年時代の本、西尾・わたしの昭和史・少年篇1~2(新潮選書、いずれも1998)を読んでも感じたが、佐伯啓思が少年あるいは(当然に新制の)中学生・高校生時代にすでに早熟で外国の思想・古典ものを読んでいたなど、早くから感受性豊かでとても「頭がよい」人はいるものだとあらためて感心する。
 ②「全共闘世代」に関する叙述はかなり理解でき同感もできるが、一部は首を傾げる。そもそも一部の世代を「全共闘世代」と称してよいかどうか疑問だし、私は「全共闘」なるものに佐伯ほどには<意味>を認めていない。むしろ<「団塊」世代>に関する叙述の方に共感できる所が多い。
 ③いつぞや佐伯啓思の現代文明論上・下(PHP新書)を読んでいた頃、丸山真男と違って日本の思想(家)への言及がないとか記したことがあったが、日本の思想(家)への言及もあり「日本的なもの」(「原風景」にも近い)への肯定的な論及もある。佐伯・日本の愛国心(NTT出版、2008)でもかなり出てくる日本の思想(家)・「日本的なもの」に関する素地は、2006年のこの本の時期にはとっくにあったわけだ。
 ④瑣末だが、印象に残る言葉も多い。例えば-「われわれは文化の語法の中で生きている」(p.140)、「文化とは共有された思い込みにほかな」らない(p.141)、「思考は感受性を通して原風景から発して、また最後には原風景へと回帰してゆくもの」だ(p.144)。
 ⑤佐伯啓思が五つの赤い風船、カルメン・マキ、吉田拓郎、朱里エイコ、石川さゆり、井沢八郎、太田裕美等に言及しているのは同世代人として愉しいが(p.104~、p.118)、この辺りだと、私にも類似の文章は書けそうだ。文字どおり瑣末だろうが、<地方から都会へ>という時代を象徴した一つの歌は井沢八郎「ああ上野駅」(1964年)かもしれない(p.118)。だが、この歌のとき(東京五輪の年)にはそのような時代は既に始まっていて、守屋浩「僕は泣いちっち」(1959年)、同「長いお下げ髪」(1962)などはそうした時代の開始を反映している。前者は東京へ行った<彼女>を地方の青年が想う歌で(「僕の恋人、東京へ行っちっち。僕の気持ちを知りながら」)、後者は東京(都会?)へ来た青年が地方に残った(幼い頃に「あぜ道帰りいじめた」・「鎮守の森で泣かせた」ことのあった)娘を思い出して嘆く歌だ(「これが恋ならば、僕は寂しいよ」)。余計ながら、こんな歌にも、言及しておいてほしかったね。