秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

孝謙天皇

2133/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14②。

 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 八幡和郎のこの書の問題性・不備を、聖武から孝謙への移行に関するつぎの一文も、明瞭に示していると思われる。p.93。
 「孝謙天皇の即位自体は予定されていましたが、749年に即位したのは、聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」。
 八幡は「…ようです」と書いて、自らの主観的推測でしかないことを活字にしているわけだ。こういう程度の推測・憶測を読まされたのでは、「おもに保守的な読者」も我慢できないのではないか。
 いろいろと問題はある。
 第一に、「ややこしいことになっていた」とあるが、天皇の<出家>(=少なくとも仏教徒だと宣言・宣告すること)が「ややこしい」ことだったのは、はたして聖武天皇に限られるのか。
 この時代、以下の書物のタイトルが「仏都」の語を用いるように、「仏教」の天皇・皇族への影響は相当のものがあった。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 八幡はまるで聖武が出家した最初の天皇だと理解しているのかもしれないが、日本書記によるとだが、天武天皇もまた天皇就位以前に「出家」していた、と明記されている。<壬申の乱>直前の有名な話の中にある。病臥中の天智天皇の言葉から始まる。
 「天皇は東宮〔大海人皇子=天武〕に勅して、皇位を授けようと仰せられた。東宮は辞退して、『不運にも、私はもともと多くの病をすかかえております。どうして国家を保つことができましょうか。<中略> 私は今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと存じます』と申し上げられた」。
 「天皇は、これをお許しになった。その日に、東宮は出家して法衣を着られた。そうして私有の兵器を残らず宮司に納められた」。
 このあと、のちの天武は「吉野宮」に入る。
 以上、新編日本古典文学全集04/日本書記3(小学館、1998)、p.301-3。
 「出家」が出てくる原文は、「臣今日出家、為陛下欲修功徳」、「即日、出家法服」。この書には原漢字文(返り文字付き)のほかに訓み下し文もあるが、上の引用は、読み下しではなく<現代文訳>による。
 つぎも参照。「天武は一度出家した経歴をもち、…」と明記している。p.65。
 勝浦令子「仏教と教典」列島の古代史07/信仰と世界観(岩波書店、2006)
 勝浦は、<偽装>の仏教重視ではなく、仏教との関係での天武天皇の重要性について、こうも書いている。同頁。
 「神祇祭祀を基盤…だけでなく、…一切経を網羅具備し、これを含む三宝に帰依することで補完する信仰体制を構築したことは、8世紀以降の国家と仏教、天皇と仏教との関係に大きな影響を与えたといえる」。
 具体的には685年3月の詔に言及があるので(p.66)、上掲書から日本書記の記述を引用しておこう。天武天皇14年(685年)のことだ。
 「壬申〔3月〕に、詔して、『諸々の国の家ごとに、仏舎を造り、仏像と経とを置いて、礼拝し供養せよ』と仰せられた」。p.445
 勝浦によると、「地方への仏教普及」を目的としたもので、実際にも「急速に諸国に寺院が建立されたことは考古学的にもよく知られている」(p.66)。
 というわけで、仏教の影響は「出家」に至るかはともかく、この時代では特段に「ややこしい」ことではないだろう。
 第二に、八幡和郎の「神である天皇が…」という表現も、いささか不用意だろう。「大君は神にしませば」等という万葉集内での詩・句の表現が記憶にあったのだろうか。
 しかし、立ち入らないが、天皇と「神」の関係、例えば天皇は「神」かそれとも「祭祀者」かは、時代の観念によっても異なるだろうが、かく言うほどに簡単ではないだろう。
 第三に、仏教との関係では、聖武天皇はたんに出家しただけ、というのではない。
 東大寺(・盧舎那大仏)建立、死後の光明皇后による財宝類・史資料の同寺・正倉院への寄託の程度の知識はあった。だが、上掲の吉川真司著(天皇の歴史02)は、シロウトには驚くばかりの仏教信者ぶりだったことを叙述している。以下、この吉川著による。
 ①726年、元正太上天皇の病気平癒を願って、興福寺東金堂を建てた。なお、光明皇后も730年に、興福寺五重塔を建てた。この二つは、現在地に残る(15世紀前半の再建にせよ)。
 ②737年、全国(諸国)に、釈迦三尊像の造顕、大般若経一部600巻の書写を命令。
 ③741年、「国分寺建立の詔」を発した。「国分寺(跡)」は全国に現在に残り、地名となっていることも少なくない。この詔は言う-凶作・疫病は「みな朕の政治が悪い」からだが、「神仏の加護を祈ったところ、たしかに霊験があった。そこで、全国に最勝王経・法華経を根本教典とする国分寺・国分尼寺を創建し、国分寺には七重塔を造立して、金字の金光明最勝王経を安置せよ」。
 ④743年、紫香楽宮で盧舎那大仏建立の詔を発した。詔書に言う-「仏法によって天下に幸いをもたらしたく、朕は菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像を造りたてまつる」。
 ⑤ 746年、元正太上天皇・光明皇后と3名で行幸して、盧舎那仏「燃灯供養」。747年、大仏建立開始、官大寺である東大寺と名称変更。
 ⑥748年、諸国に「夏安居」=寺院での勉学修行、「最勝王経」講説を命じる。
 ⑦749年、全国諸寺での法会=「悔過会」を発願して、命じる。
 ⑧同年4月、光明皇后・阿倍内親王(=孝謙)とともに東大寺・大仏鋳造現場で、大仏に「北面」し、「三宝の奴」と称して陸奥での黄金産出を報告。/改元
 ⑨同年閏5月、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺等12大寺に資財・墾田を施す(一切経講説等の財源)。(/出家。)
 ⑩上のとき、各寺院あて詔書で、「太上天皇沙弥勝満」と自称〔下記参照〕。/5月23日、都を離れて薬師寺に移る。7月、譲位・孝謙即位。
 以上のとおり。
 最後の⑩部分の「沙弥勝満」は聖武自身のことで、「勝満」は固有名。「沙弥」とは大まかには正式の(「授戒」された)僧ではなく「見習い」・「修行」中の僧を言う。このように書いた文書の一つ(「勅」だけが自筆)が現在でも残っているらしい(吉川著p.200-1に写真がある)。
 このとおりで、仏教への「帰依」は、八幡が想定するよりはおそらく、著しい。
 第四に、八幡は「聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」と記述するが、このあたりの吉川著の叙述ぶりからすると、聖武は「出家」・譲位を覚悟のうえで大仏鋳造現場に向かい、正式の譲位の前に「太上天皇」号をすでに文書中で使った頃には「出家」していて、その後にすみやかに正式に譲位=孝謙即位となったようだ。
 つまり、期間の重なりが厳密にはあったかもしれないとしても、「出家」と天皇位は両立し得ない、「出家」した人間は天皇位に就けない、というおそらくは伝統的でかつのちにも一貫した考え方・観念が存在したのだろう。
 八幡の記述するように「出家」していたからそれを理由として「譲位を急いだ」、というのではなく、聖武にとって「出家」と「譲位」は一セットで、同じことだっただろうと考えられる。
 天武が壬申の乱前に「出家」したとされるのは、「皇位」への意図・執着はない、という意思表示のつもりだったのだろう。また、後世にも、天皇が退位して「出家」する、あるいはこれをほとんど同期日に行う、逆に、「出家」した者が「還俗」して天皇となる(またはほとんど同期日に行う)、ということは行われた(例を確認することはしない)。
 「出家する」とか「出家させる」というのは(あるいはその逆の「還俗」)は、少なくとも宗教的意味をもつばかりではなく、重要な<政治的>判断だったし、その後の日本史・天皇史上もそうなった、と見られる。。
 なお、「三宝」=仏法僧とは、ふつうは、仏=ブッダ(・釈迦)、法=法経・教典・仏典、僧=僧侶(僧尼)だとされる。「三宝の奴」とは、かなり強烈な言葉だ。
 上の⑩のあと、吉川著p.201-2によると、こういうことがあった。。
 752年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が行幸して、東大寺で「大仏開眼」の法要。1万人の僧侶が参列(名簿が残存と近年に判明)。この年は、552年の「仏教伝来」公伝からちょうど200年、その日は釈迦生誕とされる4月8日。大仏の「鍍金」終了は762年前後。使用した黄金総量は「1万446両」だつた。
 同著p.200によると、文武天皇が果たせなかった「譲位を決行させた原動力は、聖武の篤い仏教信仰であったが、それを後押ししたのが『陸奥黄金のインパクト』だった」。
 ***
 黄金産出はともかく、「篤い仏教信仰」にかかわって、考えさせられることもある。
 八幡は天皇(家)=「神道」というイメージで叙述して「ややこしい」という語を使ったのかもしれないが、天皇または皇室・皇族の、明らかに<天神地祇>に対するのとは異なる、<仏教>との関係だ。それは聖武に限らず、基本的には明治維新期直前まで続いたのではないかと推察される。
 決して「神道」・「仏教」、と並列させることはできないものがある、と感じられる。
 むろん、これは<天神地祇>信仰や「神道」概念の意味にかかわる。
 ***
 聖武天皇に戻る。「仏教」の意義と役割にも関係するが、この天皇の仏教への執着(?)、より具体的には東大寺大仏建立等の<仏教・寺院>支援と出家は、有力な?<俗説>によると、<長屋王殺害>事件による長屋王の「怨霊(・御霊)」からの離脱、「怨霊」の鎮魂にある。この点は、八幡は言及していないが、別に扱うだけの価値があるだろう。

2132/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14①。

 西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012年12月)。西尾発言、p.11。
 「歴史的に見ても日本の皇室は女性に対しては常に一貫して民間に開かれていたいうこと。…、皇統という "鎖の輪" に民間の女性がぶら下がっているという形で続いてきた」。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない」。
 上の部分の「緊急避難的な "中継ぎ" 」には編集者によると見られる小文字の注記があり、8名の女性天皇名を記載するとともに、こう書いている(p.13)。
 「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことからの緊急避難的措置で、すべて男系の寡婦か未婚であった」。
 女性天皇否認ではなく、<万世一系>の「神話」について、西尾幹二が同年にこう書いていたことに気づいた。
 西尾幹二・天皇と原爆(新潮社、2012年1月)。p.142、p.145-6。
 「なぜ天皇は唯一のご存在で、ご高貴であるかについて合理的な説明などあってはいけません」。
 「要するに神武天皇以来ずっと続いているのも神話なんであって、神話だから信じるんです。不合理ゆえに信ずるというのが信仰の本質ですから、天皇という問題は、日本人の信仰に深く関わっています」。
 「大東亜戦争は、天皇を中心とした信仰のもとに戦った宗教戦争だったんです」。
 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」。
 ここで西尾は、特定の(であるはずの)「信仰」・「宗教」という語を明記している。
 こう明確には必ずしも発言、執筆はしてこなかったことについては、別に書く。
 つぎの書も、「おもに保守的な読者に提供しよう」とするからか、上のような<万世一系>論、<女性天皇「中継ぎ」>論を、支持するものになっている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011年9月)。
 しかし、まず(推古、皇極=斉明は「中継ぎ」ではない)、持統以下、桓武以前の女性天皇のうち、持統・元明・元正は「緊急避難的」「中継ぎ」の女性天皇だったということも、現在のごく一部にあるらしい「都市伝説」のようなものだ。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちがいう<男系男子>絶対優先ならば、持統・元明・元正は天皇になり得ていない。
 <男系男子>継承一般ではなく、「特定の男子皇族」への継承が優先されたのだ。
 天武-①草壁皇子-②文武-③聖武。いずれの継承のときにも、<男系男子>皇族・天皇就位資格者は、他にもいた。のちに天智天皇の孫の老人・光仁を天皇にするくらいなら、いくらでも候補者はいた。この点は、天武の親王とその母親等について、一覧表または系図関係をきちんと調べて、いずれまた書く。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちでも間違いなく困るのは、聖武-孝謙(女性)という皇位継承だ。
 聖武天皇(701-756、在位724-749)の妃となった光明皇后は、聖武との間に718年、阿倍内親王(のち孝謙天皇)を生み、727年、皇子を生んだ(「基王」または「某王」)。この皇子(男子)はただちに皇太子とされたが、728年に1年も生きずに死んだ。この子の供養のために聖武が発願して創建した寺院がのちに東大寺に発展した、という(場所は現在地と異なる)。
 以上は、つぎの書に依っている。なお、吉川は「基王」につき「某王」説に立つ。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 その後光明皇后は男子を生まなかったようだ。しかし、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自との間に、男子・安積親王が、「基王」の死と同年に生まれていた。母親の違いはあるが、聖武からすれば第二皇子・次男になる。なお、この安積親王の同母の姉が、のちにいったんは光仁天皇の皇后となる井上内親王(聖武天皇の第一皇女)。
 この当時、「長屋王」という皇族がいた(684-729)。天武の孫・高市皇子の子、母は持統・元明の妹の御名部皇女、妻・吉備内親王の父は草壁皇子、同じく母は元明天皇。
 持統の血が入っていないことを別とすれば、光明皇后はもともとは藤原氏の娘(「藤三娘」)で皇族外だったので、「血統」だけでいうと、長屋王の方が聖武天皇よりも上回るとすら言える。
 長屋王の684年出生が正しいとすると、「基王」が死去したとき、44歳前後だ。皇太子の姉、のちの孝謙(718-770)はこのとき、10歳前後だった。聖武天皇は、27歳前後。安積親王は生まれたばかり。
 かりに<男子>を優先すれば、時期次第では長屋王が聖武天皇の後継者の有力な候補になり得るとともに、安積親王の立太子や皇位継承を長屋王が主張し、支援することも十分に考えられただろう。
 しかし、現実には、聖武の子の阿倍内親王=孝謙天皇という<女性>が継承した。
 729年の<長屋王の変>で、「謀反」があるとする「誣告」を契機として、長屋王が妻・吉備内親王とその間の3人の子(全員が男子)および別の男子(計4王子)とともに揃って「殺された」または「自害させられた」ことが大きいだろう。744年、直系男子の安積親王も16歳ほどで死んでいる(暗殺説がある。728-744)。
 このあたりは、八幡和郎もまた、少しは叙述に困ったようだ。p.91。
 ・「皇位継承は混沌としました。/ここで起きたのが長屋王の変です」。
 ・720年の藤原不比等死後「長屋王が最大実力者になりました」。
 そして、<長屋王の変>の背景について、こう推測する。p.91。三千代とは光明皇后の母(県犬養橘三千代)。
 「基皇子を呪詛したとか光明子の立后に反対したともいいますが、阿倍内親王への継承を確実にするために、聖武天皇、皇后、三千代の誰かが主導したのでしょうか」。
 この一文のあたりは、はなはだ興味深い。
 第一に、「安積親王」という直系男子皇族への言及がない。第二に、長屋王による「謀反」は「誣告」=ウソだった、つまり長屋王は無実・無罪だったとするのが定説とみられるが(吉川真司も同じ)、これを断定的には記していない。
 注目されるべき第三は、「阿倍内親王(女性=孝謙)への継承を確実にするため」という推測にとどめている動機について、非難・批判めいたニュアンスがまるでないことだ。
 そして、さらにこう書く。p.92。
 「女帝の即位は、それまではいずれも正統な皇位継承者につなぐためのものでした」。
 ここでの「正統な皇位継承者」とは何か、誰かは当然に問題になるが、続ける。
 「孝謙天皇の即位は、そうした見通しを持ったものではありませんでした」。
 この明記は重要だ。しかし、ここでも非難・批判めいたニュアンスはまるでない。つまりは、男系男子への「中継ぎ」だとは言えないこと(これは実際にも、のちに判明する)を、既成事実としてなのかどうか、八幡和郎もまた肯定していることになるだろう。
 この孝謙=称徳の例を、きわめて僅かな例外と見なすことはできない。西尾幹二らが、「女性の天皇が8人」が「緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です」と言うのは、まっ赤なウソなのだ。なお、こう評しているのは、他の女性天皇についてはそうだった、と認めている趣旨ではない。
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 八幡のつぎの書は、上の著の1年前のものだが、上で指摘した点を、より断定的に強調している。
 八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。p.226-7。
 「長屋王の排除は対立する藤原氏の陰謀のようにいわれるが、不比等と長屋王との関係は良好で次女(ただし母は三千代ではない)を嫁がせているくらいだ」。
 「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり、そこに聖武天皇のあとの阿倍内親王(孝謙天皇)の即位を視野に入れたときに、長屋王と吉備内親王との間の王子たちが競争相手となるのを嫌った阿倍内親王の父母、すなわち聖武天皇、光明子らの意志が反映されて排除したものだろう」。
 これらの全ての言葉を否定はしないが、専門の歴史研究者ではないにもかかわらず、「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり(、…反映されて…)」と、八幡はよくも書いたものだ。
 なぜこんなに傲慢になれるのだろう。そして、この点だけではないが、なぜ、古い時代の事象・事件について、ときどきの「天皇」の側、当時の「政権」側に立った叙述をし続けるのだろう。
 なお、八幡はこの書では、長屋王は「殺された」=「自害させられた」のではなく、「自殺」した、と記述している。p.224。
 「この翌年に、長屋王が謀反の疑いをかけられ、妃の吉備内親王(文武・元正の同母姉妹)とともに自殺するという事件が起きた(729年。長屋王の変)」。
 「疑い」をかけられて「自殺」するのと、「誣告」を根拠に(実質的に)「殺された」というのでは、意味が全くというほど異なっている。前者は、八幡和郎「説」。

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

0853/山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書)を機縁に皇位継承問題にほんの少し触れる。

 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は「付録」を含めて32のうちに15の和書・漢書を挙げていて、欧米中心でないことにまずは好感をもつ。コミュニスト又は親コミニズムの学者ならば当然に鎮座させるだろう、マルクス=エンゲルス・空想から科学へ、などのマルクス主義文献がないようであることも興味深い(但し、トロツキー・ロシア革命史を挙げているが、山内がマルクス主義者またはトロツキストではないことはすぐ分かる)。
 挙げられる一つに、北畠親房・神皇正統記(14世紀)がある。
 山内昌之によると、この書は「皇室男系相続の将来性がかまびすしく議論される」現在において「改めて読まれるべき古典としての価値」がある、という(p.115)。
 この書を私は(もちろん)未読で、後醍醐天皇・南朝側に立ってその正当性を論じたものくらいの知識しかなかった。だが、山内によると、後醍醐天皇の「新政」の失敗の原因を批判的・反省的に述べてもいるらしい。つまりは、南朝・後醍醐天皇の正当性が「血」にあるとかりにしても、「御運」のよしあし(p.114)はそれだけでは決まらない、ということをも述べているらしい。
 今日の皇位継承に関する議論に関係させた山内の叙述はないが、示唆的な書ではあるようだ。
 <血>なのか、「結果責任」(p.114)を生じさせうる<徳>または<人格>なのか。
 道鏡に譲位しようとして和気清麻呂による御神託によって阻まれた称徳天皇(48代。46代・孝謙の重祚)の例があり、そして皇位は天武天皇の血を引かない天智天皇系の光仁天皇(桓武天皇の父)に移ったという歴史的経緯を振り返っても、やはり基礎的には「血」なのだろう。皇室と血縁のない道鏡への「王朝交代」は許されなかったのだ(なお、天皇・皇后陛下が最近ご訪問された京都のいわゆる「御寺」・泉涌寺に祀られている諸天皇の位牌の中には、称徳・聖武等の天武系の天皇のものはないらしい)。
 少なくとも継体天皇以降は、どの血縁者かについては議論や争いがあったこともあったが、「血」縁者であることが条件になること自体は、結果としては疑われなかった、と言えよう。
 だが、北畠親房すらもかつて少なくとも示唆していたようだが、正当とされる天皇およびひいては皇族のすべてが「有徳」者・「人格」者であったわけではない。「お考え」あるいは諸政策がつねに適切だったわけではない。
 また、かりに「有徳」者・「人格」者だったとしても、ときの世俗的権力者(またはそれを奪おうとする者)によって少なくとも実質的には殺害されたと見られる天皇もいた。崇峻天皇、安徳天皇だ。
 皇位は、純粋に天皇・皇族の内部で決せられたのでは必ずしもなく、また天皇・皇族は純粋に俗世間とは無関係に生活しそれらの地位が相続されてきたのではなく、時代、あるいはときどきの世俗権力者・政治の影響を受けながら、ある意味では「流動」しつつ、長々と今日まで続いてきた、と言えよう。そのような<天皇>位をもつ国家が、世界で唯一か稀少であるという、日本の(文化・政治の)独自性を維持しようとすることに、小林よしのりと見解の違いはない、と思われる。
 だが、前回までに書いたのは、要するに、皇位(天皇)および皇位継承者を含むはずの皇族にとって、「血」と「徳」のどちらが大切なのか、小林よしのりにおいてその点が曖昧であるか、または矛盾した叙述があるのではないか、ということだ。

ギャラリー
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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