秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

女性天皇

2150/西尾幹二の境地-歴史通・月刊WiLL2019年11月号別冊④。

  西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 西尾発言、p.219。
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。」
 ①「神話」とだけ言い、日本書記や古事記の名を出さないこと、また②「神」という語が付いているが、神道等の「宗教」にはいっさい言及しないこと。これらにすでに、西尾幹二の<言論戦略>があると見られる。これらには別途触れる。
 上の、神話→女系天皇否認、というこの直結はほとんど信じがたいものだ。
 かりに神話→万世一系の天皇、を肯定したとしてもだ。
 しかし、神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
 明治憲法制定過程での皇位継承・「女帝」をめぐる議論は、以下を読めばほぼ分かる。
 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 とくに、上掲書のp.25~p.45の「Ⅰ/明治前期の『女性天皇』論」。
 ***

2132/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14①。

 西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012年12月)。西尾発言、p.11。
 「歴史的に見ても日本の皇室は女性に対しては常に一貫して民間に開かれていたいうこと。…、皇統という "鎖の輪" に民間の女性がぶら下がっているという形で続いてきた」。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない」。
 上の部分の「緊急避難的な "中継ぎ" 」には編集者によると見られる小文字の注記があり、8名の女性天皇名を記載するとともに、こう書いている(p.13)。
 「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことからの緊急避難的措置で、すべて男系の寡婦か未婚であった」。
 女性天皇否認ではなく、<万世一系>の「神話」について、西尾幹二が同年にこう書いていたことに気づいた。
 西尾幹二・天皇と原爆(新潮社、2012年1月)。p.142、p.145-6。
 「なぜ天皇は唯一のご存在で、ご高貴であるかについて合理的な説明などあってはいけません」。
 「要するに神武天皇以来ずっと続いているのも神話なんであって、神話だから信じるんです。不合理ゆえに信ずるというのが信仰の本質ですから、天皇という問題は、日本人の信仰に深く関わっています」。
 「大東亜戦争は、天皇を中心とした信仰のもとに戦った宗教戦争だったんです」。
 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」。
 ここで西尾は、特定の(であるはずの)「信仰」・「宗教」という語を明記している。
 こう明確には必ずしも発言、執筆はしてこなかったことについては、別に書く。
 つぎの書も、「おもに保守的な読者に提供しよう」とするからか、上のような<万世一系>論、<女性天皇「中継ぎ」>論を、支持するものになっている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011年9月)。
 しかし、まず(推古、皇極=斉明は「中継ぎ」ではない)、持統以下、桓武以前の女性天皇のうち、持統・元明・元正は「緊急避難的」「中継ぎ」の女性天皇だったということも、現在のごく一部にあるらしい「都市伝説」のようなものだ。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちがいう<男系男子>絶対優先ならば、持統・元明・元正は天皇になり得ていない。
 <男系男子>継承一般ではなく、「特定の男子皇族」への継承が優先されたのだ。
 天武-①草壁皇子-②文武-③聖武。いずれの継承のときにも、<男系男子>皇族・天皇就位資格者は、他にもいた。のちに天智天皇の孫の老人・光仁を天皇にするくらいなら、いくらでも候補者はいた。この点は、天武の親王とその母親等について、一覧表または系図関係をきちんと調べて、いずれまた書く。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちでも間違いなく困るのは、聖武-孝謙(女性)という皇位継承だ。
 聖武天皇(701-756、在位724-749)の妃となった光明皇后は、聖武との間に718年、阿倍内親王(のち孝謙天皇)を生み、727年、皇子を生んだ(「基王」または「某王」)。この皇子(男子)はただちに皇太子とされたが、728年に1年も生きずに死んだ。この子の供養のために聖武が発願して創建した寺院がのちに東大寺に発展した、という(場所は現在地と異なる)。
 以上は、つぎの書に依っている。なお、吉川は「基王」につき「某王」説に立つ。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 その後光明皇后は男子を生まなかったようだ。しかし、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自との間に、男子・安積親王が、「基王」の死と同年に生まれていた。母親の違いはあるが、聖武からすれば第二皇子・次男になる。なお、この安積親王の同母の姉が、のちにいったんは光仁天皇の皇后となる井上内親王(聖武天皇の第一皇女)。
 この当時、「長屋王」という皇族がいた(684-729)。天武の孫・高市皇子の子、母は持統・元明の妹の御名部皇女、妻・吉備内親王の父は草壁皇子、同じく母は元明天皇。
 持統の血が入っていないことを別とすれば、光明皇后はもともとは藤原氏の娘(「藤三娘」)で皇族外だったので、「血統」だけでいうと、長屋王の方が聖武天皇よりも上回るとすら言える。
 長屋王の684年出生が正しいとすると、「基王」が死去したとき、44歳前後だ。皇太子の姉、のちの孝謙(718-770)はこのとき、10歳前後だった。聖武天皇は、27歳前後。安積親王は生まれたばかり。
 かりに<男子>を優先すれば、時期次第では長屋王が聖武天皇の後継者の有力な候補になり得るとともに、安積親王の立太子や皇位継承を長屋王が主張し、支援することも十分に考えられただろう。
 しかし、現実には、聖武の子の阿倍内親王=孝謙天皇という<女性>が継承した。
 729年の<長屋王の変>で、「謀反」があるとする「誣告」を契機として、長屋王が妻・吉備内親王とその間の3人の子(全員が男子)および別の男子(計4王子)とともに揃って「殺された」または「自害させられた」ことが大きいだろう。744年、直系男子の安積親王も16歳ほどで死んでいる(暗殺説がある。728-744)。
 このあたりは、八幡和郎もまた、少しは叙述に困ったようだ。p.91。
 ・「皇位継承は混沌としました。/ここで起きたのが長屋王の変です」。
 ・720年の藤原不比等死後「長屋王が最大実力者になりました」。
 そして、<長屋王の変>の背景について、こう推測する。p.91。三千代とは光明皇后の母(県犬養橘三千代)。
 「基皇子を呪詛したとか光明子の立后に反対したともいいますが、阿倍内親王への継承を確実にするために、聖武天皇、皇后、三千代の誰かが主導したのでしょうか」。
 この一文のあたりは、はなはだ興味深い。
 第一に、「安積親王」という直系男子皇族への言及がない。第二に、長屋王による「謀反」は「誣告」=ウソだった、つまり長屋王は無実・無罪だったとするのが定説とみられるが(吉川真司も同じ)、これを断定的には記していない。
 注目されるべき第三は、「阿倍内親王(女性=孝謙)への継承を確実にするため」という推測にとどめている動機について、非難・批判めいたニュアンスがまるでないことだ。
 そして、さらにこう書く。p.92。
 「女帝の即位は、それまではいずれも正統な皇位継承者につなぐためのものでした」。
 ここでの「正統な皇位継承者」とは何か、誰かは当然に問題になるが、続ける。
 「孝謙天皇の即位は、そうした見通しを持ったものではありませんでした」。
 この明記は重要だ。しかし、ここでも非難・批判めいたニュアンスはまるでない。つまりは、男系男子への「中継ぎ」だとは言えないこと(これは実際にも、のちに判明する)を、既成事実としてなのかどうか、八幡和郎もまた肯定していることになるだろう。
 この孝謙=称徳の例を、きわめて僅かな例外と見なすことはできない。西尾幹二らが、「女性の天皇が8人」が「緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です」と言うのは、まっ赤なウソなのだ。なお、こう評しているのは、他の女性天皇についてはそうだった、と認めている趣旨ではない。
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 八幡のつぎの書は、上の著の1年前のものだが、上で指摘した点を、より断定的に強調している。
 八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。p.226-7。
 「長屋王の排除は対立する藤原氏の陰謀のようにいわれるが、不比等と長屋王との関係は良好で次女(ただし母は三千代ではない)を嫁がせているくらいだ」。
 「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり、そこに聖武天皇のあとの阿倍内親王(孝謙天皇)の即位を視野に入れたときに、長屋王と吉備内親王との間の王子たちが競争相手となるのを嫌った阿倍内親王の父母、すなわち聖武天皇、光明子らの意志が反映されて排除したものだろう」。
 これらの全ての言葉を否定はしないが、専門の歴史研究者ではないにもかかわらず、「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり(、…反映されて…)」と、八幡はよくも書いたものだ。
 なぜこんなに傲慢になれるのだろう。そして、この点だけではないが、なぜ、古い時代の事象・事件について、ときどきの「天皇」の側、当時の「政権」側に立った叙述をし続けるのだろう。
 なお、八幡はこの書では、長屋王は「殺された」=「自害させられた」のではなく、「自殺」した、と記述している。p.224。
 「この翌年に、長屋王が謀反の疑いをかけられ、妃の吉備内親王(文武・元正の同母姉妹)とともに自殺するという事件が起きた(729年。長屋王の変)」。
 「疑い」をかけられて「自殺」するのと、「誣告」を根拠に(実質的に)「殺された」というのでは、意味が全くというほど異なっている。前者は、八幡和郎「説」。

2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。

 西尾幹二発言・同=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)、p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。」
 西尾幹二発言・同=岩田温(対談)「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるから…」。
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 公然とかつ平然と歴史の大ウソが日本会議関係者等の「右翼」または「一部保守」派によって語られているので、皇位継承の仕方、女性天皇への継承の背景等に関心をもって、かなりの書物に目を通してきた。
 つぎは相当に役立つので、ほとんど引用することによって、紹介する。
 書名は<中世>を冠しているが、中身は「古代」も含んでいる。著者は1977年~、京都大学博士、帝京大学文学部講師。
 佐伯智広・中世の皇位継承-血統をめぐる政治と内乱(吉川弘文館、2019)。
 主として「女性天皇」関係部分から引用する。実質的に第一章の<古代の皇位継承>から。代数は明治期以降作成の皇統譜上、宮内庁HP上のもの。
 (なお、この第一章<古代の皇位継承>は、以下の「節」からなる。
 1/「万世一系」と女性天皇。
 2/古代の女性天皇の重要性
 3/父系と母系が同じ重みをもつ双系制社会。
 4/兄弟姉妹間での皇位継承。
 5/相次ぐ「皇太弟」。)
 ①「最初の女性天皇」の推古(33代)は欽明(29代)の娘、敏達(30代)の妻で、夫の死後、「オオキサキとして天皇とともに統治権を行使していたと考えられている」。
 「オオキサキ」は推古の頃に成立した地位で、推古は用明(31代)、崇峻(32代)にも「引き続きオオキサキとして統治に関与していた」。
 「この統治実績が」推古の天皇擁立に「重要な役割を果たしたと考えられている」。
 ②推古は「単なる中継ぎなどと評価できない、正統の皇位継承者だった」。
 ③推古に続く女性天皇の皇極=斉明(35代・37代)、持統(41代)、元明(43代)、元正(44代)も、「即位以前から統治実績を積んでおり、中継ぎという消極的な立場ではなく、正統の皇位継承者として即位している」。
 ④孝謙=称徳(46代・48代)もこれら「女性天皇の伝統の上に即位しているのであって、必ずしも、男子不在による苦し紛れの即位というわけではない」。
 ⑤光仁(49代)は聖武(45代)の実娘・井上内親王を妻とし、その子の他戸親王を皇太子としていたので、「皇統は、当初、母系を通じて受け継がれるよう設定されていたのである(実際には、<中略>廃太子され、実現せず)」。
 ⑥「天皇の外戚の地位」の重要化の「それ以前の皇位継承において女性や母系が重視されたのは、古代日本が双系制社会、すなわち父系(男系)と母系(女系)の双方の出自が同等の重みをもつ社会だったからだ」。
 ⑦7世紀後半から8世紀にかけて、「父系制社会へと緩やかに移行したと考えられている」。
 ⑧「関連して注目されている」が、「大宝令」(701年)では、「女性天皇の皇子女も、男性天皇の皇子女と同様に、親王・内親王とすることとされていた」。
  「このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在だったことを意味する」。
 日本の律令は「男系主義」を採るが、「その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に関する規定であった」。
 ⑨「男系主義の浸透」で称徳以降、女性天皇は長く出現しない。
 江戸時代の明正(109代)・後桜町(117代)は、「皇位継承者たる男子不在の状況で擁立された、まさに『中継ぎ』の天皇であった」。
 ⑩その他の古代での皇位継承の特徴は、「兄弟姉妹間での皇位継承」や「皇太弟」の設立がかなりの範囲で行われたことだ。
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 以上。
 上の⑤に関する秋月の注記。
 井上(いがみ)内親王は光仁の皇后の地位を廃された。その子・他戸(おさべ)親王(聖武天皇の孫、父は光仁天皇)とともに、「殺された」とみられる。
 のちに光仁の子で高野新笠を母とする桓武天皇の同母実弟・早良(さわら)親王=「崇道天皇」も「殺されて」、崇道神社(京都市上高野・京都御所の東北方向)の唯一の祭神となった。
 井上内親王・他戸親王は、早良親王らとともに、御霊神社等での「八所御霊」の中に入っている。
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0579/横田耕一(1939-)はきっとバカだ-同・憲法と天皇制(岩波新書、1990)等。

 横田耕一(1939-)という人はきっとバカなのだろう。それでも九州大学の憲法学の教授だったというから、日本の大学教授・憲法学者のレベルの低さもわかる。
 一 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)p.71-72によると、横田耕一は1990年に(あの!)日本評論社から天皇制度に関する書物を出版し、その中の一論文で、現皇室典範(法律)が皇位承継資格を男系男子に限っているのは憲法14条が定める(男女対等という)平等原則に違反し、区別する合理的な理由もないので、「女帝の否定は、端的に違憲である」と主張しているらしい。
 女性天皇、女系天皇も法律(皇室典範)上認めて差し支えない、という議論ではない。女性天皇・女系天皇を認めないと「違憲」だというのだから迫力?が異なる(なお、現憲法上は「世襲」とのみ明記され、皇位承継者が男子に限る旨の明文規定はない)。
 所功の上の本には法制局「皇室典範案に関する想定問答」が資料として収載されている。正確な年月は不明だが、現在の皇室典範(1947年1月公布)を制定する直前のものと思われる。
 この「想定問答」は、旧皇室典範の「義解」(解説・解釈書と見られる)も参考にして、歴史的に見て「皇位の世襲」観念に「少なくとも女系」は一切含まれていない、ということを述べる。また、もともと「皇位承継資格が国民の一部にすぎない」、そして、「その一部に於ける不平等は、必ずしも男女同権原則の否定とは言い得ない」、従って「男系に限ることは必ずしも憲法違反と言い得ないと考える」、と記している。
 戦後当初のゆえにだろうか、<男女同権原則>の前にやや遠慮しがちに「必ずしも…ない」などという表現の仕方をしている。だが、上にも書いてあるように憲法自体が皇位は「世襲」と明記して(人の血統によることを明記して)憲法14条の平等原則とは矛盾することを定めている。
 歴史的・伝統的な経緯も含めて総合解釈すべきで、そもそも天皇・皇室にかかわる法律に憲法14条・男女平等の原則の直接適用がありえ、違反すると違憲となるという横田の発想自体が、率直に言って(バカを通り越して)<狂って>いるのではないか。
 なお、所功の別の本によると所は<保守派>だが女性天皇限定的容認論者で(この表現は私による)、なかなか興味深い。別の機会に言及するだろう。
 二 どうせ<反天皇主義者>の本だろうと思って、岩波新書であることもあり所持だけして読んでいなかったのだが、横田耕一・憲法と天皇制(岩波新書、1990)を瞥見してみた。
 1 この横田の本では「違憲」だとは断定せず、「女性天皇の否定は違憲の疑いが濃い」と書いている(p.18)。この書き分け方の違いの意味はよく分からないが、実質的には同じことを言いたいのではないか。
 また、現皇室典範は「女性差別」だと書いている(p.231以下)。一つは天皇になれないこと、二つは皇族以外の男性と結婚した女性皇族は皇族でなくなる(と定められている)こと。さらに次のようにも書く。
 1.「皇后が天皇よりも常に数歩遅れて歩くといった慣行は、平等原理には合致しないし、これを見る者の胸中の性差別意識を再生産することにもなるだろう」。
 2.「皇室祭祀・儀式のうち、宗教色の強いもの」には「皇后や皇族女子が列席を遠慮することになっているのも、女性差別と見ることができよう」。
 日本の歴史も伝統も無視して形式的に男女対等を語るとどうなるかの見本のような文章だ。<左翼>フェミニストたちは相槌を打って読むのかもしれない。
 (ところで、横田は「皇后や皇族女子が列席を遠慮することになっている」「皇室祭祀・儀式」があるという。この叙述の正確さを私は知らないが、正しいとすると、<現皇太子妃(将来の皇后)>問題?とも無関係ではないようだ。横田によると-この人は「男女差別」の例として書いているのだが-、「大嘗祭」では女性皇族は「早い段階で拝礼を終えて退席し、儀式の中核である天皇が直会を行う段階には列席しない」こととされているらしい。)
 2 上の本で横田耕一は現皇室典範は「身障者差別」だとも書いている(p.228以下)。
 「精神若しくは身体の不治の重患」の場合には皇位継承順序の変更が(皇室会議の議を経て)可能であるのは、「精神若しくは身体の不治の重患」の判断の「運用次第では、障害者差別として機能する面を内在している」。
 また、皇族男子の結婚について相手が障害者であることを理由に皇室会議が反対することも予想され、「その場合には障害者差別が行われていると言わねばならない」(他の例も書いているが割愛)。
 3 上の本で横田耕一は現皇室典範は「身分差別」だとも書いている(p.232以下)。
 横田によると、男性皇族の結婚の過程で「身障者差別」とともに「家柄による選別といった身分差別が生まれてくる」。
 また、そもそも皇位の「世襲」自体が「血による差別、生まれによる差別」なのだが憲法自体が容認しているので「平等原則の例外」と言うべきであるものの(ここの理解は正しい-秋月)、この憲法上の「差別の存在」が、種々の「社会的差別意識を再生産しつづける大きな源になるように思われてならない」。
 やれやれ。ここまでくると、現憲法を金科玉条とした憲法解釈論を超えて、憲法二条自体が「社会的差別意識を再生産しつづける大きな源」と言っているのだから、いつのまにか<憲法政策論>、具体的には天皇制度廃止論・解体論、を主張しているに等しい(その旨の明記は巧妙に避けているが、実質的にはこれに等しい。最初の方のp.23では、「国民の総意」・憲法改正により天皇制度の廃止が可能だと明記してある)。
 4 上の本は1999年9月に11刷となったようで、それ以降のものを所持しているのだが、それには「第11刷にあたって」という追記がなされ、国歌・国旗法の成立(1999)に関係して、次のように横田耕一は述べる。
 「『君が代』は『天皇の国』と解されるはずで…、これは…国民主権の憲法と明白に矛盾し、この意味であるなら『君が代』は違憲であり、それを国歌とする規定は無効と解されるべきであろう」。
 この横田耕一のような発想をしていると思考はきわめて単純で済み、たくさんの論文等が書けるに違いない。
 三 だが、本当に真面目に思うのだが、冒頭掲記のとおり、横田耕一という人はきっとバカに違いない。それでも九州大学の憲法学の教授だったというのだから、日本の大学教授・憲法学者のレベルの低さもわかる。
 また、大江健三郎・沖縄ノートを増刷したのと同様、さすがに岩波書店だ。こんなレベルの本を出版し、反「君が代」闘争(→究極は<反天皇主義>・<天皇制度解体論>)を行っている教員たち・「市民」たちに売って(バイブルになっているのかどうか?)、利潤を得つつ、<左翼(政治)活動>をしているわけだ。
ギャラリー
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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