秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

天皇

1471/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④。

 ○ 小川榮太郎「平川祐弘氏に反論する-譲位の制度化がなぜ必要なのか」月刊Hanada5月号p.303-による、おそらく同誌4月号の平川祐弘「誰が論点をすり替えたか-天皇陛下『譲位』問題の核心」p.30-に対する批判は、平川批判として優れている。
 書いていることに即しての譲位問題に関する平川祐弘批判は秋月もする予定だったが、小川の言述の紹介でもってほぼ代替させることができるかもしれない。
 もっとも、櫻井よしこらと親交があるらしい編集長・花田凱紀の意向だと思われるが、平川論考のタイトルは4月号の表紙の右側に最も大きく掲載されているのに対して、小川榮太郎の上記については表紙の中になく、目次の中でも目立ってはいない。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaは、同人誌的サークルが別の名前で、似たような人が似たようなことを順番に書く雑誌に堕してしまっている観がある。ときにはこの小川榮太郎論考のようなものや、西尾幹二や中西輝政のものを載せて、ゴマカしているけれども。
 ○ 小川榮太郎に同意できない部分はあるが、そこはさておき、以下は平川批判。
 ・最後の、「…日本の保守は実に危うい」。p.315。平川を読んでの結論的感想のようだ。そのとおりだ。とくに「観念保守」の精神的頽廃は著しい。もっとも、「…」の「…させねば」の部分には同意できない。
 ・まん中あたりの、「そもそも平川氏-および保守系論客の多数-が、そんなに摂政に固執することが私には寧ろ理解できません」。p.311。そのとおり。かりに本当に「保守系論客の多数」だとすれば、日本の保守はすでに死んでいる。つぎの根拠づけも適切だ。
 「皇太子による摂政の制は、明治の典範で初めて定められたものに過ぎず、本来の天皇伝統ではない」。p.311。
 ・平川祐弘は、今上の「お言葉」は<天皇の役割を拡大する「個人的解釈」・「拡大解釈」>だと理解して、「我が儘を言っておられるだけ」だとし、「祀り主として存在することに最大の意義がある」と言うが、「そもそもが陛下のお言葉への反論になっていない」。p.305。
 ・存在するだけでよいとは、観念的詭弁(秋月の言葉)。「極論すれば」、「植物人間状態で全く『機能』していなくとも、『存在』が継承されれば天皇伝統は続いたか」。p.306。
 ・平川は譲位の問題を縷々述べるが「体系的網羅的懸念」でない。制度又は慣習化で防止できる。p.310。また、例えば以下。
 ①上皇と新天皇の各周辺の「人間関係がうまくいく保証はない」というが、同様のことが「摂政と天皇の間にも」「起こるに違いない」。p.310。
 ②エドワード八世の退位後のヒトラー接近というのは、「失礼極まる」「拡大解釈」だ。p.310。
 ・平川は源氏物語を持ち出して「高齢化」への配慮は不要だとする。しかし、現在の「高齢化」社会の出現は突然のもので、「世襲の制度にとって、この突然の平均寿命の倍増は、根底的な制度設計の変更を要求するものだと考えるのは、寧ろ当然ではないでしょうか」。p.311。
 以下は秋月瑛二による追記。源氏物語がかりに50-100年間の天皇の実態を反映して(物語だが史実に即して)書かれていたとしても、たかだか50-100年間の天皇の歴史にすぎない。なぜこれが、現在の議論の根拠になるのか。源氏物語が描いていない、平安期以前、平安期の残り、鎌倉以降の武家・幕府時代等についての根拠になるはずはない。平川祐弘の言及の仕方は、思いつくままの(限られた個人的な知識にのみ頼った)恣意的なものにすぎない。「バカ(アホ)」なのだ。
 ・小川の論述はさらに進む。「終身在位に固執する弊のほうが、遙かに実際的な危機ではないでしょうか」。p.312。
 (明治皇室典範の摂政位継承順位の定めに関する小川の理解p.311-312は、適切だろう。つまり、摂関時代のように、皇太子等の皇族以外が摂政になることを禁止し、天皇家・摂政家(これにつながる皇族)の対立、後者による「明治新政府を転覆する可能性」を摘み取ったのだ。ちなみに、1989年・明治皇室典範は、1877年・西南戦争のわずか12年後、1968年・新政府樹立の21年あと。)
 皇太子が摂政につくとすると、「事実上、六十代以降に即位した老齢天皇が、八十代で摂政を立てるというのが基本的な天皇のあり方になってしまいます」。p.312。
 ・「宮中祭祀七つに関しては摂政は代行できません」。p.312。
 これについて調べる必要があると感じていたところ、珍しくこの問題に論及している<保守>の人の文章を見た。現在の皇室典範によれば、摂政は天皇の「国事行為」のみを代行できる。また、国事行為委任法(略称)も、名前のとおり、「国事行為」のみを委任できる。八木秀次もいるはずなのに、これについての言及がなかったのは不思議だった。
 いわゆる<公的(象徴的)行為>や祭祀を含む<私的行為>について、どこまで摂政が代替できるかは、本来はきわめて重要な論点だったはずなのだ。
 ・平川祐弘ら「保守派」はただ宮中でお祈りしていただければよいとの議論が多いが、「天皇の祈り」は「そんな気楽なもの」ではない。p.312-3。
 以上にとどめる。小川の批判は、平川祐弘に対してのみならず、、渡部昇一、櫻井よしこ、八木秀次にも、そしてその他の、月刊Hanada、月刊WiLL、月刊正論の関係者やこれらの愛読者に対しても、相当程度にあてはまるだろう。
 昨年の文藝春秋スペシャルの天皇特集号でも、そこにあった八木秀次よりも遙かに柔軟でかつ制度もよく理解していた文章を、小川榮太郎は書いていた。
 ○ 八木秀次を除けば、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこはすべて<文学部>出身者。「アホ」になるのはどちらかというと文学部系に多い、というのが秋月の見立てだ。
 しかし、小川榮太郎は格段に優れている。話がかなり通じそうな気がする。
 もっとも、先に記載のとおり、小川が天皇について一般論として記していることについては、かなり違和感をもつ部分もある。だが、それは今回のテーマではない。

1469/なぜ「アホの4人組」か。天皇譲位問題・「観念保守」、つづき③。

 たぶん年齢順に、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次。この人たち4人をなぜ「アホの4人組」と称するのか。
 第一に、もちろん、昨2016年11月に、天皇関連有識者会議での「有識者ヒアリング」で発言した者たちであり、今上天皇の譲位(いわゆる生前退位)に反対して摂政制度の利用を主張した点で共通性がある。だが、そのような者は、他にもいる。
 第二に、いずれも、天皇の歴史も含めた、天皇問題の専門家ではない。
 大原康男や今谷明は、それぞれの分野で「専門家」だとは言えるだろう。所功も、園部逸夫もそうだ。
 八木秀次は憲法学者・研究者として、天皇問題の専門家だと自分を思っているのかもしれない。天皇・皇室問題で発言してきてもいる。
 百地章も、大石眞も、また高橋和之も、憲法学者・研究者として「専門家」なのかもしれない。 
 しかし、八木秀次の憲法学「専門家」性は、相当に疑問がある。そういうためには、憲法学界または憲法アカデミズムの一員として受容されていなければならないと思われるが、八木はとっくにそれから離脱しているのではないか。そして、<教育>問題・分野へと「活動」の重心を移しているのではないか。
 2015年にいわゆる平和安保法制問題が政局化した際に産経新聞は西修、百地章、八木秀次の三人の文章を「正論」欄に掲載したが、最も拙劣だったのは八木の文章だった。この当時にはこの欄で触れなかったが、八木秀次は、<憲法体制と安保体制の矛盾>という、日本共産党員の長谷川正安(故人、名古屋大学・憲法学)が言っていたようなことを述べていた(秋月も、子どもたちにウソを教えてはいけない旨を書いたことはある)。戦後日本の法現象の認識としてそのようなことを指摘できる可能性はあるのだろうが、当時の憲法「解釈」論としては、平和安保法制違憲論を断固として排斥し、合憲論をもっと強く主張しなければならなかった。
 というわけで、大石眞や高橋和之、そして百地章と並ぶ「専門家」と性格づけるのは困難だと思われる。
 第三に、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)という保守系月刊雑誌に、人と雑誌によって多少は異なると思うが、頻繁に登場している。
 これが最も共通性の高い点だという印象もある。しかし、これだけではない。
 第四に、2015年8月の安倍晋三内閣によるいわゆる戦後70年談話を、いずれも支持した。
 渡部昇一と平川祐弘については、この点にこの欄でも触れて批判した。櫻井よしこがこの派に属することはとっくに確認している。 
 八木秀次について確認はしていないが、この安倍談話を批判していないことはおそらく間違いないだろう。今年になってからの、月刊正論3月号p.58でも、八木は「安倍晋三首相」と共通する立場にいることをとくに記している。
 第五に、これら4人はいずれも、秋月瑛二がこの欄で長らく批判的なコメントをし続けている人物だ。
 開設当初からというわけではない。漠然と思い出せば、八木秀次を信用できないと感じたのは早かったし、渡部昇一は現憲法無効論または廃棄論の主張者だと知って、これまた早々に(批判的コメントをするため以外は)読まなくなった。
 櫻井よしこを<保守>派のようだと明確に知ったのは遅かったかもしれないが、2009年の民主党内閣誕生前後の論考はひどいもので、とても<保守>派だとは思えなかった。
 屋山太郎とともに、この点で櫻井よしこは批判の俎上に載せた。2009-10年頃に秋月がコメントしたことは、間違っていないと今でも考えている。内容をいまここで繰り返しはしない。
 最後に、平川祐弘の名前は以前から知っていたが、積極的にせよ消極的にせよ読む価値のある人物だとの印象はなかった。
 にわかに関心を持ったのは、安倍戦後70年談話を、稚拙な文章でもって支持していたのを読んでからだ。そして、昨年以降のこの人の文章を読んでも、全く支持できない。
 以上のとおりで、たまたま「アホの4人組」と称したのではない。
 上智大学「名誉教授」、東京大学「名誉教授」、現役の某大学教授、そして「国家基本問題研究所」なるものの理事長を「アホ」だと言うのは、相当に勇気が必要なような気もする。
 しかし、「アホ」は「アホ」だから、仕方がないだろう。
 個人攻撃あるいは全面的な人格批判をしているのでは全くない。この人たちが何を、どのように書いているかを読んだうえでの、その内容についての批判だ。
 「アホ」は「アホ」だから仕方がない、と言うためには、もっと書かなければならないだろう。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1454/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のC。

 ○ 司馬遼太郎は、もともとは観念的思考、イデオロギーといったものを忌避するタイプの人物だっただろう。産経新聞社で最初に赴任した京都で、担当範囲にあった当時の大学の「左翼」的雰囲気に<染まる>ことがなかったのは、そういう<気質>があったからだと思われる。
 彼は、のちにたしか「純度の高い」概念・観念という言い方をしていた。ともあれ、抽象化又は単純化の程度の高い思考にはついていけない旨も書いていた。
 三島由紀夫の自裁に際して、司馬がかなり冷静な又は冷淡な感想を寄せたのは、そのような<気質>によるものだっただろう。司馬は、「狂信」というものが好みではなかった。
 三島は一方、明らかに「観念」で生きていた、あるいは、ついには「観念」に生命を捧げてしまった。守るべきは日本だ、というとき、当然に「天皇」も含んでいたに違いないが、その「天皇」は日本国憲法下での「象徴天皇」ではなく、彼が思い描き、観念した「天皇」だっただろう。
 しかし一方で、三島が憲法・法制に関するきちんとした知識をもっていたことも間違いない。「継受法」という概念も知っていた。また、その見識によってもいるのだろうが、彼の日本の現状認識、将来予測は、じつに鋭く、適確なものだった。この点には、この欄でいく度か触れた。
 元に戻ると司馬遼太郎は、京都での担当範囲の中に寺社廻りもあったために関心を持ち始めたのか、『空海の風景』(1975)では抽象的な仏教思想・仏教教義にも踏み込み、晩年とものちには言える時期には、土地の価格の高騰の時代を背景にして、かなり観念的で単純な世相批判も行っていた(土地問題について)。また、彼の日本軍国主義批判は、皮膚感覚的体験にも由来する一面的でかつ観念的なものだった可能性もある。
 とりとめなく書いていて、三島や司馬について何らかの結論的示唆を述べようとするものではない。
 「右」の全体主義は、伝統を「純化」しようとする、とか仲正昌樹は述べていたが、「純化」の程度が高いということは、「純度が高い」ということだ。
 「純度が高い」思考者を一概に非難することはできない。三島由紀夫もまた、その思考・「観念」が現実の世界では採用されないことを知った上で、つまりその「観念」あるいは「理念」・「理想」が<現実化>することはないという確実なまたは決定的な見通しをもって、1970年11月の行動に出たのだろう。そのような残酷な予測と自らの生命はいずれ不可避的に消滅せざるをえないという個体としての人間の限界の意識、この二つが、狂気ともされた行動への衝動になったかと思われる。
 そして、そのような三島をとくに批判しようとは思わない。いろいろな人間がある。仲間の数人以外には三島は誰も殺さなかった。三島由紀夫は、テロリストではない。そして、「美しい観念」を抱いて、それに殉じることができた。なかなか幸福な人物だった、とすら思える。
 ○ このような三島の「観念」世界に比べると、最近の日本の「観念保守」には、日本を貫き通すような強度や凄みはなさそうだ。
 櫻井よしこの、昨年11月の「専門家」ヒアリングでの発言内容を、遅まきながら、読んだ。
 やはり、この人は(も)、アホだ。というよりも、日本の「保守」というものの、きわめて深刻な精神的頽廃を感じる。
 この点にさっそく入っていきたいが、予定どおり、週刊新潮誌上の、櫻井記述に、あらためて以下に、言及する。
 櫻井よしこ・週刊新潮2/9号を見てみると、つぎの一文が印象的だ。書いていないことに注目すべきとか前回に書いたが、はっきりと書いていることにも明らかな誤り・問題点がある。
 光格天皇の具体的な言動を肯定的に紹介するのはよいとしても、以下のような櫻井よしこのまとめには、反対せざるをえない。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 第一に、明治維新等に関する叙述を、こんな二文ほどで終えてしまっていることに唖然とする。以下で指摘することも含めてだが、櫻井よしこは、日本の中学生レベルの日本史知識・明治維新に関する知識しかない、と思われる。
 くり返すが、本当に唖然とする。このレベルの人が、「保守」論壇のリーダー ?、情けなくて、涙が出そうだ。
 第二に、天皇の権威のもとで団結して「明治維新の危機を乗り越え」、「列強の植民地」化を防げた、というのは、それが天皇・皇室の権威-明治維新-植民地化阻止、という趣旨であるなら、それは前回にも述べた<明治維新よかった>史観だ、あるいは<薩長・勝利者史観>だ。あるいはそこに天皇・皇室の権威を媒介させているので、明治維新の源に「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識」があったと明言しているように、<天皇のおかげ史観>だ。櫻井が明治天皇を高く評価するのも分かる。
 家近良樹・江戸幕府崩壊-孝明天皇と「一会桑」(講談社学術文庫、2014、原著2002)は、最初の方(第2章の冒頭あたり)で、櫻井よしこのような史観を、同じ趣旨で、「王政復古史観」、「西南諸藩倒幕派史観」、「天皇制維新史観」と呼んでいる。
 また、戦前におけるこの史観の誕生と国民的確定 ?には、明治政府が「王政復古(戊辰戦争)の意義を確定」すべく1889年に刊行した、<復古記>という書物・全15冊や、戦前昭和の政府が1939-41年に「官製維新史の集大成」として刊行した<維新史>があった、としている。
 子細には立ち入らない。櫻井よしこの明治維新史イメージは、この、明治期や戦前期に当時の、「西南雄藩倒幕派」(とくに薩長両藩)やその後裔者たちが中心の政府によって作られたものと同じだ、とほぼ断定できるだろう。
 ○ 学者・研究者になれ、とは言わない。しかし、素人の秋月ですら、櫻井よしこが抱く明治維新、そして当時の天皇に関するイメージには疑問をもつ。少なくとも、そんなに簡単には言えない、と批判することができる。
 素人の見方を、少し提示してみよう。
 認識・理解そして議論の対象は、大きく、体制・政治の基本的仕組みと、政策目標とに分けることができる。
 前者には、大きく、A・天皇(・皇室)中心体制、B・天皇/幕府協力体制、C・幕府(・将軍)中心体制の三つがある。
 後者には、大きく、α・攘夷=鎖国と、β・開国(・開港)とがある。
 江戸時代は長らく、Cかつαだった。
 光格天皇の力もあったのだろうか、孝明天皇の時代に、幕府は対米通商条約について「勅許」を求める(1856年、前回に天皇側が主張したとしたのは正確でない)。幕府はβへと政策変更し、かつ部分的にはBに近づいた。天皇の力=権威 ?を借りて政策変更を諸大名にも認めさせようとした。条約の法的実施が天皇の判断に依存しているとすると、この時点で、天皇は「権力」の一部をもつに至った。画期的なことだ。
 しかし、孝明天皇は1857年2月の時点で、「勅許」を出さない。許可・認可の申請を拒否したか、又は「お預かり」にしたようなものだ。天皇・朝廷の一存で、条約の現実化ができない事態となる。この時点で、天皇・皇室はれっきとした「権力」機構の一部になっている。たんなる「権威」ではない。
 以上は、A~Cやα・βの区別はむろん私の思いつきだが、櫻井よしこも引用していたのと同じ著者の、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)を見ながら書いた。
 とりあえずここで区切る。大切なのは、この時点で、あるいは1866年、1867年の途中までですら、旧幕府を除外した新政権、つまりAの天皇中心体制ができるとは、ほとんど誰も予想していなかったことだ。いくつかの時点で、この当時、さまざまな歴史の選択がありえた。B(いわば公武合体路線)による、緩やかな開国と変革(と「富国強兵」 ?)および植民地化阻止もありえた、と考えている。
 薩長両藩等が新天皇(明治天皇)を中心にしてまとまり勝利した、明治維新がなされた、頑迷・旧態依然たる幕府時代と訣別して新しくよき明治時代になったという、後から見ての評価を、櫻井よしこのように簡単に下してはならない。
 ○ 櫻井よしこのような、<明治はよかった>史観は、明治時代である1889年の旧皇室典範の内容、終身在位制は素晴らしかった、という単純な理解と主張につながっている可能性がすこぶる高い。だからこそ、孝明天皇、明治維新、明治国家等の検討を私なりに試みている。

1448/天皇譲位問題-「観念保守」をめぐって、つづき②のA。

 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・2006)の第9章は「天皇制の謎をめぐって-〔略〕」で、その中のp.226-7に、次の文章がある。/改行は原文にはない。
 「『国家と個人』の関係が危機に瀕するとき、その危機を克服すべく全体主義が登場する素地が醸成される。/
 マルクス主義的な傾向の左の全体主義は、国民国家の作られた "伝統" を破壊して、プロレタリアート独裁の革命政権を作ろうとする。/
 右の全体主義は、"伝統” を純化することによって強化しようとする。」
 現在の日本の「観念保守」派は、「 ”伝統" を純化すること」を意図していないだろうか。
 あるいは、<純化した伝統>なる「観念」を、ことさらに主張してはいないだろうか。
 つぎに、1945年2月のいわゆる<近衛上奏文>には、以下の表現がある。近衛文麿の認識を全面的に肯定するのではないが、存在しうるものだとは思える。
 「軍部内一部の者」を「取巻く一部官僚及び民間有志」、「之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり」。
 「国体の衣をつけたる共産主義者」も存在しうる、ということを、現在の日本の「観念保守」論者たちは、意識しているだろうか。
 さらには、引用を省略してしまうが、1937年に刊行された文部省編纂<国体(國体)の本義>に書かれていることは、相当に櫻井よしこ等が最近に述べていることとよく似ており、部分的には酷似するところがある。両者の間に関係はないのだろうか。ここでの<国体>観を全体として否定するつもりはないものの、「観念」論、歴史の「事実」に反した日本史理解が多分にあると見られる。
 櫻井よしこも渡部昇一も、この書物の名前と内容に直接には言及していない。知らないのだろうか。知ったうえでのこととすれば、あるいは参考にしている、影響を受けているとすれば、その論述方法は、もしかすると、いささか卑怯ではないのだろうか。
 正確に確認はしないが(その関心、傾注の努力が惜しいと思っている)、4人のうち八木秀次以外(つまり、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ)は、日本の「国体」について言及し、「国体」の維持の主張を、その<天皇>観とともに披瀝していたと思われる。
 はたして、彼らのいう「国体」とは何か。日本に固有・独特の歴史・伝統があるだろうことを、むろん否定しているのではない。

1445/天皇譲位問題-「観念保守」派の誤り・無知、つづき①。

 天皇生前譲位問題について。
 一 基本的論点の一つは、日本の天皇(の歴史)をどう見るかだろう。
 <摂政活用>派または生前譲位否定論は、これを根拠にしているからだ。
 しかし、前回も触れたように、この論を<歴史>でもって正当化することはできない。
 また、「観念保守」派の多くが-たぶん産経新聞社の菅原慎太郎も桑原聡も-抱いてるようにみえる、つぎのような<権力・権威>論も日本の歴史の事実に即していない、と考えられる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「鎌倉幕府も徳川幕府も、時の権力者といえども、皇室の権威には服せざるをえませんでした。俗世の権力は常に皇室の権威の下にあり、……は実権を握りながらも、究極の権威は彼らの手にはありませんでした。一方、皇室には権威はあっても権力はなかったのです」。p.86。
 よくぞこんなに簡単に言えるものだ。しかも「常に」と断定しているのは、相当にアホだと言える。
 ここにあるのは、<思い込み>であり、<観念>だ。
 勝手に思い込むのはよいが、歴史の事実であるかのような書き方をしてはいけない。あるいは、<こうであってほしい>という願望や<こうであったはずだ>というはず・べき論と歴史的事実を混同してはいけない。少なくとも、自らの言明の「真実」性・事実性を疑ってみる謙虚さが必要だ。
 すでに前回に本郷和人著に言及した。
 既読だが、本郷和人「天皇を知れば日本史がわかる」文藝春秋スペシャル2017冬・皇室と日本人の運命(2017)もある。なお、本郷は、黒田俊雄のような<マルクス主義史観>のもち主ではない。
 ○「権門体制論」は形式はともかく実態を示さず、後鳥羽の承久の変以降「次の天皇を誰にするか」を朝廷の一存で決められず「鎌倉幕府の承認」が要った。
 ○四条天皇後、朝廷の意向とは違った後継者を鎌倉幕府は立てた(後嵯峨天皇)。
 ○鎌倉幕府は後鳥羽本流の皇子の即位を「認めなかった」。
 ○天皇・朝廷は「鎌倉幕府を利用するどころか、それに依存して」いた。
 ○元寇の際に戦ったのは幕府で、「何もしてい」ない朝廷が「国家権力を担っていると言える」のか。
 なお厳密な議論を要するのだろうが(<権門体制論>等について)、世俗権力と天皇の関係は、櫻井よしこが単純に描く上のようなものではないことを、示しているだろう。
 鎌倉時代の<例外>ということはできない。前回した紹介でも上でも本郷は江戸時代にも触れている。
 問題はそもそもは「権力」・「権威」という概念の意味なのだが、櫻井よしこは、これを明らかにした上で、少なくとも、平安時代および鎌倉時代以降幕末までの、上の理解の適正さを歴史的に論証・実証すべきだ。
 また、明治憲法下の天皇・政府関係についても、<権力と権威>如何・これの関係をどう理解すべきかの問題はある。櫻井よしこはこれに厳密に論及はしていない。例えば、戦前の昭和天皇に「権力」は(全く)なかったのか。例えば、<ご聖断>とは何なのか。
 二 つぎに、引用を省略するが、アホ4人組の多くは、生前譲位を認めると、新天皇と前天皇の二つの<権威>の並立・衝突が生じるので、避けるべきだ、と主張して、根拠づけている。
 しかし、こんなバカバカしい、いやアホらしい議論・論拠はない。
 すなわち、では<摂政>を置けば、これを回避できるのか。
 天皇在位のままでいる現天皇と「摂政」就任者との間で、二つの<権威>の並立・衝突もまた生じうる。
 いや、現皇室典範上の摂政就位の要件ならばまだよいが、<摂政制度活用派>はこの要件を緩和することを明示的に主張・提案しているので、(現皇室典範が想定していると解される)ほとんど意思表明能力を失った天皇ではなく、まだなお(意思表明はもちろん)ある程度の行為・活動の能力のある現天皇と新設置される摂政との間に、現実的な<権威>の並立・衝突がより発生する可能性がある。
 また、「上皇」=前天皇の存在を認めると、制度的・財政的手当ての問題が生じるなどと立論する者もいるが、同じ問題は、摂政を置いた場合でも全く同じように生じる。
 現憲法・現皇室典範のもとでは摂政設置の例はなく、そのための具体的な制度的・財政的しくみは、きちんと詰められては全くいないのだ。 
 アホな<脅迫>は、しない方がよい。
 三 あまりつきあいたくないが、明らかに書き残しがあるので、回を改める。

1443/天皇譲位問題ー「観念保守」というアホの4人組。

 一 天皇譲位問題は、現在の私には最優先の論題、思考テーマではない。
 しかし、日本の<伝統と歴史>を守るためにとか言いながら、じつはデタラメな歴史観と歴史知識をもったままで単純かつ<観念的>な議論をする者がいて、しかも首相のもとでの検討会に専門家として見解・意見まで述べる機会が与えられたというのだから、ヒドイものだ、ますます<保守>派の印象は悪くなる、と憂いていた。
 といっても、いくつかの論考や文章にきちんと目を通して、精確に批判しておくことは、むろん不可能ではないが、それだけの手間と労力をかける意味があるのかと思うと、大いに躊躇するところがあった。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)を入手して読んで、やれやれやっと、私が言いたかったこと、論じたかったことの8割ほどは書いてくれている書物が出てきた、と思った。
 すでに昨年8月に、生前譲位を認める何らかの<改正>をせざるをえないだろうと簡単に記した。また、昨年12月頃には<観念保守>の主張らしきものを批判的にコメントしている。その中で、明治期以降だけが日本や天皇の歴史ではない、とも書いた。
 上の本郷著を概読して、あるいは冒頭の数頁をひもといても、やはり、(たぶん年齢順に)渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次の4人はバカなのだと思う。
 いや、最近読んだ西部邁の文章によると、「バカ」なのは左翼で、右翼・保守は「アホ」なのだそうだ。
 本当に上の4人は、「アホ」らしいことを真面目に書ける、主張できるものだ。恥ずかしい。また、これらの人々の言論のために、政府や出版社も含めて、多くの時間・コストを要していることを、何と無駄なことをしているのか、と感じる。
 二 さて、本郷和人著から、ほぼ首肯できる文章を、ほとんどが以前から私が感じてきたことや知っていることだが、抜き出して引用する。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます」。/歴史に「無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます」。p.11。
 「摂政のあり方や摂政としての制度の運用のしかたというのは、まだ固まっていません。戦後の象徴天皇制のもとでは、もちろん一度も置かれていません」。p.33。
 「皇室典範を金科玉条のように思い、改正することに対して否定的な考えの人たちも多い」。だが、私が思うに、「じつは天皇陛下は、そういう人たちの動き、いうなれば硬直的というか、極度に保守的な考え方を快く思っていないのではないでしょうか」。p.38。
 「ただ疲れたからやめたい、体力的にキツいというだけで提案したわけではないでしょう。それ以上の意味合いをもっての行動だったのではないでしょうか」。p.45。〔本郷の推測する意味づけは省略。〕
 旧皇室典範が終身在位を定めたのは-「死ぬまで天皇をやってください」と決めたのは-、「天皇の後継者への任命権を制限する行為ともいえる」。天皇の「絶対的な存在」を規定しつつ、「伊藤博文をはじめとする元勲たちは、どこか冷めた目も持っていた」。p.51。
 明治政府は、「もう一度、朝廷の力や権限を担ぎ出されたくはない」。自分たちが成功したのと「同様のことを行われたくはないから」だ。天皇の「政治利用」を極端に恐れたはずだ。「旧幕府軍側が、[奥州戦争で]…皇族の北白川宮能久親王を先頭に押し立てて戦おうとした」ような政治利用の再現を恐れた。「終身天皇という形を制定したことはそういう政治利用の場に引っ張り出される危険性を未然に防ぐ効用もあったはずです」。p.53。
 「明治時代の元勲たち」は、「天皇が絶対であると一般大衆には布告しながら、本音としてはそれは方便でした」。p.54。
 のちの指導者たちは「明治の元勲たちの持っていた冷めた視点を失ってしまった」。「第二世代、第三世代になると建前を盲信してしまい、あやまちを犯す」。p.58。〔この最後の辺りの評価と原因分析は議論の余地があるだろうが、立ち入らないでさらに続ける。〕
 「実在が確認されている天皇のほとんどは生前退位しています。現在のような終身在位の方がめずらしいケースでした」。p.66。
 「第50代くらいまでの歴代の天皇」では「生前退位が行われているケースは、やはり女性と高齢天皇の場合が多いのです。しかるべき人が無事に即位できる時期になれば生前退位をして譲位をすることが前提に近い状態で即位した」。p.69。
 「桓武天皇以降からは生前退位が当たり前になってきます」。p.70。
 「後三条天皇」以降で「死ぬまで天皇でいた人は、若くして亡くなったり、不慮の死で急逝したりした場合と、経済的に苦しかった戦国の天皇たちにかぎられていきます」。p.74。〔経済的に苦しいとなぜ生前譲位できないのか。それは、新天皇の践祚・即位の儀礼等に多大の費用がかかるからだ-秋月瑛二。〕
 「院政の時代」は、「権力を握った上皇のほうが天皇より偉い」。p.77。
 「家康は…、天皇や公家のやることは学問であると『上から』規定して役割を与えて」いった。天皇の存在を重視せず、公家・貴族は、将軍-大名-旗本-御家人の、御家人クラスの「必要最低限の援助」しか受けられなかった。p.85。
 この時代には「天皇の権力は無力化され、江戸幕府がすべての権力を集中して持っていた」。天皇は「領地」も将軍家から与えられて「経済的にもまったく自立していません」。但し、改元と暦に関する権限だけは別だった。p.86。〔但し、これは近世・江戸時代のことで、少なくとも室町時代には改元権は幕府・将軍にあったことがある-秋月。〕
 「天皇というのは、そのときそのときで性格を変えてきた」。地域首長・首長連合の筆頭・院政・武家政治、等々。p.126-7。[武士幕府政治のもとでも、後鳥羽・後醍醐のように「親政」へと挑戦した天皇・上皇はいたし、そうでなくとも、個々の天皇等ごとに幕府と朝廷・公家の関係は一様ではないとみられるー秋月。]
 天皇・武士の関係について「よく耳にする言葉に『天皇は権力は失った、だが権威だった』という言葉があります」。しかし、私は「それはあくまでも言葉の遊びにすぎないと思っています。権力も何も持っていない権威なんてものが存在するのかと考えるからです」。p.128。
 今の社会ならば「権力はなく、権威として存在することは可能」かもしれないが、昔、たとえば「中世社会において権力=力のない権威というものが存在したでしょうか」。同上。
 「そもそも将軍が天皇からお預かりしているという思想自体が、江戸時代の後期になって尊王とともに登場してきた概念にすぎません」。「朝廷の命によって征夷大将軍に任じられて」いるのは、「それこそ形式的なもの」です。p.135。
 「万世一系」を「日本の皇室がもつ特徴のひとつ」と思うのは問題はない。しかし、「だから日本人は偉い」・「日本人は特別の民族」とかの「優越意識や選民思想と結びつくと非常に問題があります」。日本・日本人を誇るときに「『天皇』を引き合いに出して自尊心を満たしたい」という心理はある。p.144。
 三種の神器の存在、前天皇又は上皇の承認の二つを欠いたまま即位した、「かなりグレーというか、いい加減な対応」による、後光厳天皇もいた。p.147-9。
 武家政治は鎌倉時代から江戸時代で「700年」続いたが、「軍事力をほぼ独占した武士たちによる政府ができたからこそ、天皇家は続いた」といえるかもしれない。「天皇が軍事も政治も意欲的に」行えば、とって代わろうとする勢力によって滅ぼされた「かもしれない」。古代の天皇のように自ら軍事行動をすれば、「どこかで戦いに敗れ、滅ぼされていた可能性は高い」。p.150-1。
 「怠惰な国民のもとに独裁者が生まれるし、怠惰な国民が独裁者をつくりだす」。「生臭いものから皇室は距離を保っておくべきだ」との意見が大勢であるようで国民はさほとどバカではない。「日本の場合、独裁者が生まれるとするなら、皇室もしくはその周辺からしか生まれないでしょうから」。p.156。〔この部分の言明は興味深い。「皇室の周辺」等についてさらに発展させて議論したいが、省略。〕
 生前退位による「政争の具」化、「政治的な混乱」の発生は「もはや難しい気がします」。皇室も含めて「絶えず可視化」されている情報化社会はそれを許さないだろう。p.159-160。
 「外部勢力が生前退位というシステムを使って」「手を突っ込んでくることはほぼ考えられません」。「あるとしたら、天皇家のなかでそういう動きがある場合でしょう」。p.162。〔この部分も興味を惹く。別に話題にしたい。〕
 「時の内閣の政治的駆け引きに利用される」という危惧が再三提起されるが、これは「天皇の人格の問題」、「どんな人が天皇になるのかという問題」だろう。p.162。 
 三 以上のすべてではないが、アホの4人組の見解・主張に対する反論や無知の指摘になっているところが多いだろう。
 <観念保守>の思考方法自体に最近は関心があるが、日本共産党による<明治維新以来ずっと日本は悪いことをしてきた-「帝国主義」化と「侵略」戦争>という歴史観を裏返しにした、しかも明治当初の元勲たちにはあった冷静な視点すら失った、戦前の一時期の<皇国史観>に立ち戻れ、というだけではないだろうか。
 本郷も指摘するし、産経新聞・「正論」欄で秦郁彦も述べていたように、明治期の旧皇室典範の内容こそがむしろ長い日本の歴史、天皇の歴史からすると<異例>だったのだ。
 誰も書いていないようだからあえて書いておくが、明治新政府の誕生時(1868年)、明治天皇は16歳で、明治憲法発布・旧皇室典範(勅令ですらない)制定時には38歳だった。かつまた、すでにのちの大正天皇は生まれていた(12年後にはのちの昭和天皇も生まれた)。そのような、40歳にもなっていない若い又は壮年の天皇がいた時期に、言うまでもなく、そのことや当時の後嗣を含む皇室の具体的状況も考慮して、あるいは具体的なそれを背景として、旧皇室典範により終身皇位制度が採用されたのだ-反対論もあったことが知られている-。この当時と大きく具体的な事情が異なる(むろん法的な位置づけも異なる)現在において、旧皇室典範の<精神>を持ち出すのは、狂気であるか、あるいはたんにアホであるとしか思えない。
 旧皇室典範以降で、わずか三代の代替わりしか行われていない(大正・昭和・今上)。これがなぜ、「日本の伝統と歴史」と言えるのか。昨年12月に触れたことだが、(<保守>派ならば神武天皇にまでさかのぼって ?)天皇の歴史に関する知識を持たなければならない。欽明まで遡らなくとも、平安直前の光仁、そして桓武あたり以降の歴史をすべて(概略でもよいが)知っておかないと、いかなる発言もマトモにはできないのではないか。
 本郷和人は、平川祐弘・月刊Hanada4月号(飛鳥新社)が嫌味を言っているような「法学」者ではなく、東京大学史学科出身の(中世が専門の)歴史学者だ。平川は、自らの視野の狭さ、思い込みとそれからくる「無知」、そして<観念論>ぶりを自ら嘆くべきだろう。
 また、平川は源氏物語という<文学>作品を読んでいない「法学」者を批判しているようだが、そんなものを持ち出さなくとも、いくらでも多数、より実際の<歴史>に近い書物・文献・史書はある(すべてが100%信用できるとは言わない)。
 櫻井よしこ、八木秀次らの具体的叙述も、かりにきちんと読めば、いくらでも、反駁あるいは無知の指摘をすることができる。
 こうしたアホたちがなぜ生まれて、出版界等で生きておれるのか。その理由、背景に最近は興味をもっている。アホたちを生息させている産経新聞等にもかつてよりはるかに批判的になっている。
 天皇・皇室制度それ自体について、種々書き残しておきたいことはあるが、今回はこれくらいにしよう。
 なお、本郷の長くはない叙述のすべてに同意しているのではない。例えば、明治新政権を世襲否定として肯定的な見方を示しているが、薩長中心の、藩閥的・門閥的な政府でもあっただろう(それは昭和期にも影響を与えた)。

1383/日本の保守-悲惨な渡部昇一・加地伸行。

 天皇譲位問題についての、月刊WiLL9月号(ワック)の渡部昇一、加地伸行、百地章、月刊正論9月号(産経)の渡部昇一、八木秀次、竹田恒泰、月刊Hanada9月号(飛鳥新社)の高森明勅、に触れる。
 あまりにヒドいのは、渡部昇一、加地伸行だ。この二人は、「摂政」の制度の利用で(現実的には)足りるとするが、その際、現行の皇室典範(法律の一つ)が定める「摂政」に関する規定の内容を全く無視している。
 渡部昇一は「天皇がご病気のとき」という要件を勝手にでっちあげており(妄想しており、月刊正論p.56)、加地伸行は「摂政」制度の利用は当然に可能だという前提(思い込み)に立っている(月刊WiLLp.44以下)。
 こうした、議論の作法自体をわきまえない「論考」が保守系とされる月刊雑誌の冒頭近くに置かれ、表紙等でも重要視されていることは、現在の日本の「保守」論壇の悲惨さを曝け出している。
 「保守」言論人のすべてが渡部や加地のごとくではないだろうが、上のような雑誌の編集部が原稿を依頼した十人に満たない中に、皇室典範の規定を一瞥することすらしないで天皇・皇室問題を「論じる」者がいるのだから、「保守」論壇の劣化・悲惨さは明らかだ。
 高森明勅が引用しかつ論及しているが(月刊Hanada、p.293)、天皇が未成年のとき以外に「摂政を置く」と皇室典範が定めている条文は、つぎのとおりだ。第16条二項。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
天皇陛下の談話以前に書いた原稿だと弁明するかもしれないが、陛下ご自身が問題は「摂政」制度利用では解決されえないことを明言された。
 また、高森明勅は上の条文の解釈に踏み込みつつ(これは当然の作業だ)、「陛下がお考え」の譲位と摂政設置は「似ても似つかない」と結論している。
 詳論しないが、私もまた、上の条文が定める要件は充たされていないだろう、と考える。
 渡部や加地は、天皇・皇室に関する自らのイメージと理解でもって「摂政」・譲位問題を議論している。愚昧きわまりない。
 渡部や加地は、結果としては、現在の天皇陛下が「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができない」状態にある、と主張していると理解される可能性すらある(誤解だが)。
 百地章と八木秀次はさすがに皇室典範の上の条項を意識しているが、二人ともに<柔軟な解釈>をして適用することを主張または示唆していることが興味深い。
 しかし、このような論法は皇室典範の<解釈による実質的改正>の可能性を説くもので、支持し難い。<柔軟な>解釈なるものは、法的安定性を損なうことにもなる。
 また、百地や八木の解釈がほぼ一致して採用されるとは限らず、正面からこれを説けば、世論はもちろん、「皇室会議」での議論も紛糾するだろう。
 竹田恒泰が言うように(月刊正論p.75)、皇室典範の改正か「特別措置法」制定しかないだろう。立ち入らないが、竹田が後者を主張している根拠は必ずしも十分ではない。特別措置法も(現天皇についてのみ適用する、と竹田はイメージしているのだろうか ?)、いったん成立すれば「制度」(しかも皇室典範の特別法として優先する)になってしまうことに変わりはない。
 問題は、天皇・皇族の高齢化を避けることはできず(喜ばしいことかもしれないが)、いわゆる「高齢化」社会を想定していない法律(皇室典範)が60年以上も改正されることなく存在し続けていることにあるだろう。
 加地伸行が「暴力革命を支持する勢力」による譲位・退位の強制がありうるとして、「退位規程」を作るのに反対しているのは、一見もっとものように見えて、現行の制度・皇室典範についての知識のなさを再び示している。
 加地伸行によると、「議会で過半数を占める特定勢力が、議会の議決によって退位を可能」とする危険もあるのだ、という。
 皇室典範を法律ではなく天皇(・皇室 ?)が定める「家法」にせよとの主張ならばまだ分かる。しかし、憲法自体を改正しないとこれも困難だ。
 憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する」。
 加地は、この条項も知らないで適当な文章を書いて、小遣い銭を貰っているのだろう。
 むろん、個別案件の適否は、国会が決めるのではなく、現行の制度を前提にすれば「皇室会議」が議決することになろう。
  「暴力革命を支持する勢力」が「議員」の過半数を占める事態は抽象的には想定できるが、そのような事態にな っているのであれば、現憲法の天皇条項自体が廃止・削除されているのではないか。
 ところで、現皇室典範第28条はつぎのように定める。
 「1 皇室会議は、議員十人でこれを組織する。
  2 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
  3 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」
 マスコミによる外からの「煽動」も考えられるが、基本的には、これらの「議員」となる人物が信頼できないとなれば、日本は、国家と諸制度自体が「脆うい」状況にある、ということになろう。
 加地伸行は、上の規定もおそらく知らないままで原稿を書いているのだろう(摂政を置くことも個別には皇室会議の議決が必要)。
 渡部昇一もそうだが、どうして、このような人物が「保守」系雑誌に、よりにもよって天皇・皇室問題について、登場してくるのか。
 嘆かわしい、悲惨な状態だ。
 ついでに。天皇陛下の「ご負担」軽減というとき、①憲法上明記された国事行為、②その他の「公的」行為、③祭祀を含む「私的」行為、を区別して論じてもらいたい。百地、八木、竹田の論考も丁寧にこの問題に言及してはいない。
 法律、政令の改廃に対する御璽押印と署名だけでも(慣行上または法制上、公布=官報掲載のために必要だ。公布自体は憲法上の国事行為だ)、おそらく一年に数千件にのぼるだろう。

1320/歴史・政治・個人03。

 おそらくは平均よりも多く神社仏閣をまわっている。そこでは、神社と寺院に分けて、共通する言葉を内心で語るようにしている。神社ではそれぞれの祭神に、寺院では両親と祖先に(宗派と無関係に)内心で話しかけている。参拝とかお祈りとかふつうは言う。
 もっとも、正確にまたは厳密にいえば、秋月瑛二は「神」・「仏」あるいは「霊」というものの存在を「信じて」いるわけではない。人は死ねば「仏」になるとか言われ、人間でも死後に「神」になったらしい者もいるようだが、そもそも人間は死んでのちになお「霊」として存在するのかどうか、自分についていえば-死んだことがないので分からないが-きわめて疑わしく思っている。生まれる前にはいかなる自意識もなかったが、あるいは自分にとっては悠久の静寂だったが、死んだ後もまた、再びそのような、意識のない沈黙の世界に戻っていくだけなのではないか。
 死自体を自らは感知できないとすれば、個々の人の「死」とは、逆説的ながら、生きている人間のためにこそありうるのだろう。
 池田晶子・人生は愉快だ(毎日新聞社、2008)p.268-には、「共産中国」を批判する、あるいは皮肉る、つぎの旨の文章がある。
 ・人の死後にはその人の「霊魂」など存在しないはずだ。にもかかわらず、「英霊」を祀る靖国神社参拝を批判するとは、「英霊」という「存在しないもの」の「戦争責任」を追及しており、奇妙だ。「存在しないものを存在すると信じ込んでいる日本人の『迷信』を、まず論破すべきではないか」。
 池田の説、ごもっともだ。
 しかし、池田は徹底した?「唯物論」者ではないようで、上の著のp.111-は、マルクス(の「唯物論」)を例えばつぎのように述べて批判している。
 ・「この人は、意識がすなわち自己であるというこの当たり前が理解できない」。「自己を自己として思惟する者が、『利己主義者』と見える。そこに見えるのは一個の肉体だけだからだ」。
 ・この人は「目に見える肉体、目に見える社会しか眼中にない社会革命家」で、「目に見えない思惟の類はすべて、迷妄でなければ阿片である」。
 ・「人間に葬式を禁じることだけはできない」。「いかなる民族、いかなる体制においても、人間は人間が死ぬことを『何事でもない』と思うことができない」。人はその時「一個の石でもそこに置く」。「死とは必ず何らかの意味なのである」。
 これまた、ごもっとものように思える。
 池田の書いていることについて、丁寧な議論をしようとしているのではない。
 前回に「戦犯」被処刑者、とくに1948年の今上天皇(当時の皇太子)の誕生日に「首を吊られて」死んだ7名の人たち、を念頭において、「浮かばれないのでないか」とか書いたのだったが、とくに彼らの死と彼らの(あるとすれば)「霊」 というものに想いを寄せていて、ふと池田晶子の文章に接したにすぎない。
 彼らの「霊」は実在しないかもしれない。おそらくそうだろう。しかし、生きている者が、日本人が、彼らの「霊」を感じる、あるいは感じようとすることはできる。そして、涙することはできる。 

1265/産経新聞社案「国民の憲法」について2-天皇条項の一部。

 現憲法一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と定める。
 「象徴」ではなく「元首」化をという議論についてはさておき、後段は、とくに「主権の存する」は、いわゆる「国民主権」(昔風には主権在民)を憲法上明記するために、やや無理して挿入された、とも説明されてきた。この条文以外に、<国民主権>を規定する明文は現憲法にはない。
 この「象徴」天皇制度の規定をふまえて、現憲法二条が「皇位は、世襲のものであ」ると明記していることは、占領期の憲法という特殊性を考慮すれば、刮目すべき重要なことだったと言える。なぜなら、日本の敗戦という結果にもかかわらず、日本の長い伝統に近い<世襲天皇>制度を明記して容認しているからだ。竹田恒泰がどこかで言っていたように、天皇制度が廃止されて<共和制>になっていたことを想像すると、それよりは優れた選択を現憲法はしている(GHQもそれを認めた)ことになる。連合国のうちかつてのソビエト連邦が戦後日本の憲法を企図したとすれば、あるいは原案作成に強く関与していれば、このような条項は採用されなかっただろう。
 さて、<世襲による象徴天皇制度>は憲法上のものであり、かつそれは「主権の存する日本国民の総意に基く」ととくに規定されているのだから、制定時の理解・解釈はさておき、それとは独自に成立しうる憲法解釈として、現一条(+二条)は現憲法上の重要な<原理>として、憲法改正の限界を画す、つまり、憲法改正によっても変更・削除することはできない、と理解することも不可能ではないと考えられる。このように解釈すれば、憲法改正によって、<世襲による象徴天皇制度>を廃止することはできない。もし廃止しようとすれば、それは法的には非連続の一種の<革命>になる。
 だが、以上は成り立ちうる解釈だとは思うが、戦後の憲法解釈学において、現一条(+二条)は憲法改正の対象にできない、という議論はまったくなかったように見える。それよりも、逆に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」のだから、「主権の存する日本国民の総意」によって変更する、そして廃止することもできる、と解釈されてきた。この点を意識または強調して、将来の天皇制度廃止を展望する論者は、明言しないにせよ、現在の憲法学界には多いのではないか、と推測される。
 しかし、そのような解釈しか成り立たないのではないことは上記のとおりだ。<憲法制定権者である憲法制定時の国民の総意>にもとづくと明記されているのだから、将来の国民もこれに拘束される(改正・廃止はできない)と解釈することが、さほど荒唐無稽なものだとは思われない。一条の上記部分の通例のまたは多数の解釈は、<政治的>色彩をやはり帯びているように考えられる。
 ところで、産経新聞社・国民の憲法(2013)のうち、同社案「国民の憲法」と自民党改正案の違いを記した部分には、天皇条項について、つぎのような叙述がある(p.139)。
 自民党案には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分が残ったままで、これは「あたかも国会の議決で天皇の地位を自在に改変できるかのような誤解を招きかねない」。そして、この条文を使って「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので、「このような誤解を生み出す記述は削除し」た。以上、抜粋引用。
 この文章・論理は奇妙だ。少なくとも二人の憲法学者が起草委員会には加わっていたはずなのだが、このような叙述をお二人とも了解しているのだろうか。
 根本的に言って、「主権の存する日本国民の総意」=「国会の議決」ではありえない、ということはほとんど自明なことで、ほとんど誤解を生じさせない、と考えられる。誤解する一部の者には誤解だと説明すれば足りる。それに、この条文を使っての「天皇制廃止」論は憲法改正によるそれを展望していると容易に想定できるのであり、国会の議決=(ほとんどが)法律、による「天皇制廃止」を主張する憲法学者など皆無なのではないか。そのような議論・主張を読んだことは一度もない。
 以上のとおりで、憲法(改正)レベルの問題と法律(改正)レベルの問題の混淆が、上の叙述にはある、と見られる。
 ひょっとすれば、明言はしていないが、「主権の存する日本国民」という理解に対する反発・懸念が産経新聞社「国民の憲法」立案者にはあるのかもしれない。たしかに「主権」概念の法的意味と効用は議論されてよいものの、そのまま残しておいてさしたる弊害は生じないものと私は考える。むしろ、これを残すことによって、<世襲による天皇制度>は憲法改正の対象にはできないという解釈を導くことが不可能ではないことは、上述のとおりだ。なお、読売試案2004年は「その地位は、国民の総意に基づく」、として「主権の存する」との部分を削除しているが、産経新聞社案に比べれば、はるかに現行の上記条文を残す自民党案に近い。この点でも、産経新聞社案は異質だ。
 さらにいうと、産経新聞社案「国民の憲法」によれば、「天皇制廃止」の主張は排撃され、、「天皇制廃止」は不可能になるのだろうか。そんなことはない。同案によれば(117条)、各議院の過半数議員の賛成による国民への提案にもとづく国民投票での国民の過半数の賛成でもって憲法改正が可能である。産経新聞社案「国民の憲法」上の天皇条項は、なんと現憲法によるよりも容易に改正される(廃止される)ことになっている(「憲法改正の限界」に関する明文はないようだ)。「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので上記部分を削除したというが、削除したところで、憲法改正による「天皇制廃止」を「堂々と主張する」ことを封じることはできないのだ。
 以上、二回めの、産経新聞社案「国民の憲法」についての感想とする。
 なお、産経新聞社・国民の憲法(2013)の奥付の前の頁には、産経新聞社の名のもとに小さく、「近藤豊和、石川水穂、湯浅博、石井聡、安藤慶太、榊原智、小島新一、溝上健良、田中靖人、内藤慎二」と記載されている。この人たちが(おそらくは起草委員会メンバーではなく)この本を執筆・編集しているのだろう。したがって、完全に産経新聞社の名のもとに隠されているわけではない。だが、今回に言及した部分も含めて、個々の部分の文章作成の(内部的な)責任者の個人名は明らかでない。

1219/遷宮と天皇と政教分離と。

 10月初旬の「遷宮」について、テレビは当初の予想よりは丁寧に報道していた。しかし、神宮(伊勢神宮)と天皇(家)との関係に触れたのは全くかほとんどなかったようだ。臨時祭主の黒田清子さんとの語りかテロップが入っても不思議ではないシーンにも、そのようなものはなく、映像だけが彼女を映し出していた。

 また、内宮の遷御の儀に内閣総理大臣・安倍晋三が「出席」したことを知り、そのような事前の知識がなかったので驚いた。かつまた神道という特定の宗教の祭事への出席であるので、憲法上の<政教分離>原則との関係を問題にする者がいても不思議ではないのに、そのような論調はまったく出てこなかったようであることも印象に残った。

 さて、古くなるが、2008年の春頃にこの欄で何度か、伊勢神宮・天皇(家)・政教分離について言及している。

 ・日本の起源・天皇と「神道」(3/25)   ・伊勢神宮「式年遷宮」と天皇(家)(3/27) 

 ・天皇制度と「宗教」-伊勢神宮式年遷宮費用問題から発展させて(4/04)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離(4/15)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき(4/16)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき2(4/18)

 ・1945-1947年の神社と昭和天皇(4/19)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3(4/20)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4(4/21)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-1(4/24)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2(4/24) 

 ・天皇・神道・政教分離-つづき4(4/26)

 ほかに、この時期には、つぎのようなものも書いていた。
 ・戦後日本を支える「大ウソ」-非武装・政教分離(4/05)

 ・長部日出雄の「神道」論(諸君!5月号)と石原慎太郎「伊勢の永遠性」(4/28)

 神道関係者、とくに伊勢神宮や神社本庁関係者には自明のことを多く書いているとは思うが、5年以上前によく勉強(?)したものだという個人的な感慨も湧くので、関係者や専門家以外の方々には参照していただきたい。なお、別の時期にも同様のテーマを集中的に書いたかもしれないが、たまたまこの辺りの時期の古い書き込みを見る機会があったので、2008年3月下旬~同4月の書き込みに限っている。

1209/五輪東京誘致とテレビ朝日、式年遷宮における「御治定」・「御聴許」。

 〇前回に触れた、五輪誘致東京「敗退」との誤報を放ったのは、当日のライブだったテレビ朝日池上彰の司会の番組もそうだったようだ。

 池上彰に非難が当たっているようでもあるが、池上個人の問題というより、当該番組制作者、つまりテレビ朝日の制作責任者に原因があるように思われる。氏名は明らかではない当該人物は自分の判断で、または朝日新聞社のツイッターを見て、すぐさま、その旨を書いた紙(カンペというのか?)を池上に見せたのではあるまいか。その誘導に乗って池上の発言になったのではなかろうか。
 池上彰を擁護する気持ちはなく、中途半端な人物だと思っているが、池上よりもテレビ朝日のミスならば十分に考えられる。なぜなら、テレビ「朝日」だからだ。上記の「朝日」関係の人物も、東京誘致が失敗すると面白い、と考えていたのではないか。

 ついでながら、NHKのテレビ放送を見ていて、決定後の座談会において、安倍首相の発言への言及がまったくかほとんどか、なかったのは印象的だった。安倍首相のプレゼン発言で決定的になった旨の外国の報道もあったようだが、わがNHKはそんな旨での報道をしなかった。逆に、安倍首相発言は「正確」なのか、という朝日新聞や毎日新聞等(系列テレビを含む)がのちに問題にしている論点にもまったくかほとんど触れていなかったのだが。

 〇9/11のエントリーで式年遷宮に言及した。その中で、つぎのように書いた。

 「遷宮の細かな準備日程は今上天皇の『許可』(正式用語ではない)にもとづいているように、伊伊勢神宮の式年遷宮とは実質的または本質的には天皇家の行事に他ならない。」

 前段の「許可」という用語および後半の意味について付け加える。
 最もあたらしい伊勢神宮のHPは、次のように知らせる。
 「天皇陛下には第62回神宮式年遷宮の遷御を執り行う日時を以下の通り御治定(ごじじょう・お定め)になられましたのでお知らせいたします。/遷御の儀は大御神様に新しい御殿へお遷り願う式年遷宮の中核となる祭典です。
  【 遷 御 】

 皇大神宮    10月2日(水)  午後8時

 豊受大神宮   10月5日(土)  午後8時」

 ここでは「御治定」という言葉が使われている。最終的な「遷御」の日時は今上天皇陛下が定めるのだ。

 また、同HPの2005年1月1日更新は次のように伝えていた。
 「神宮の最大の祭りである式年遷宮の本格的な準備が、平成16年4月5日、天皇陛下の「御聴許」(お聞き届けいただくこと)をいただき、進められています。/神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です。式年遷宮をおこなうにあたっても、その思し召しを体し、神宮大宮司の責任で遷宮の御準備が進められます。平成16年4月5日、陛下から正式にお許しを戴き、その後設置された各界の代表で構成する大宮司の諮問機関「遷宮準備委員会」の答申に基づいて本格的な御準備が進められています。一方、遷宮諸祭については今春(平成17年春)の山口祭(やまぐちさい)・木本祭(このもとさい)にはじまり、9年間に約30回にも及ぶ諸祭行事が行われ、主要な12のお祭りの日時は、天皇陛下のお定め(御治定・ごじじょう)を仰ぐことになっています。」

 遷宮の本格的準備が、ほぼ10年前の2004年4月の今上天皇の「御聴許」にもとづいて進められていた。この「聴許」という用語を先日は思い出せなかった。但し、「主要な12のお祭りの日時」は、「御聴許」ではなく、「御治定」によるようだ。厳密な違いは私は知らないが、対象からして、おおよその違いは分かる。
 より重要に思えたのは、神宮(伊勢神宮)自体が、「神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です」と明言・公言していることだ。
 これからすると、先日のように「実質的または本質的には」と限定を付す必要はなかったようだ。遷宮とは天皇陛下が「主宰」者として行われる神事なのだ。但し、後日に天皇・皇后両陛下が参拝されるが、当日は東京・皇居から定められた時刻に「御遙拝」される。直系で皇位継承第一位の皇太子殿下もそのはずだ。

 一方、その他の皇族の一部の方々は、当日に伊勢の現地で式典に参加されるか、見守る、ということをされるのではないか。曖昧なことは書けないので、より正確な情報ソースを参照していただきたい。
 ところで、天皇陛下のこのような伊勢神宮への強い関与は、<私事>・<私的行為>だからとして許容されていることになっている。このような説明は、先日に書いたように、奇妙だ。

 天皇陛下は憲法で明記された国家の一つの重要な「機関」のいわば担当者に他ならないが、そのような天皇陛下の伊勢神宮への強い関与を、誰も、朝日新聞も、「政教分離」違反とは言わない。「左翼」をけしかけているわけではない。じつに奇妙で不思議なことだと、常々感じているだけだ。 

1183/<保守>論者は「左翼」民主党政権成立を許したことをどう反省し、自己批判しているのか。

 〇元首相・鳩山由紀夫が中国で妄言を吐いている。「棚上げ」で一致していたとかも言っているようだが、万が一そうだったとしても、尖閣諸島を「中核的利益」と正規に位置づけ、同諸島を自国領土とする法律を制定して、さらには「公船」をときどき侵入させたりして、そもそも「棚上げ」していないのは、中国(政府・共産党)自身ではないか。日本政府や日本のマスコミはなぜ、この点を指摘または強調しないのだろう。
 〇ずっと書きたくて書かなかったことだが、2009年8月末総選挙による翌月の民主党政権の成立を許し、鳩山首相を誕生させたことについての、<保守>論壇の側の深刻な反省と総括が必要だと思っている。安倍・自民党中心内閣が昨年末に誕生したからよいではないか、ということにはならない。
 いずれ繰り返すかもしれないが、この欄に当時に書いたように、例えば屋山太郎は明確に民主党政権誕生を歓迎し、外交・安保問題も心配することはないだろう旨を明確に発言していた。この屋山に影響を受けたか、櫻井よしこは、民主党内閣に<期待と不安が相半ば>する、と明言していた。選挙前において、櫻井よしこは、決して民主党に勝利させてはならないとは一言も主張していなかった。
 過去のことにのみ関係するわけではない。上はわずかの例だが、<保守>論者の現在および将来の主張が決して適切なものであるとは限らないことを、2009年総選挙前後の<保守>論壇の状況は示している。

 〇月刊WiLL7月号(ワック)で、渡部昇一はこんなことを(相変わらず)発言している。-「筋としては理想的な憲法を創り、国民に示して、天皇陛下に明治憲法への復帰(一分間でよい)と新しい憲法の発布をしていただく。…憲法の継承問題が起こらないから…」(p.55)。

 渡部昇一ら一部論者の現憲法無効・破棄論の「気分」は理解できないわけではない。但し、この欄で何度も書いたように、この議論はもはや貫徹できない。
 上の渡部発言にしても、誰が、いかなる機関が、いかなる手続によって「理想的な憲法を創り」出すのか、何ら論及していない。こんな議論がやすやすと通用するはずがない。またそもそも(確かめるのを厭うが)、渡部の主張は「国会」が無効・破棄宣言をする、というものではなかったか。
 天皇陛下に「お出ましいただく」とする点に新味があるのかもしれないが、現天皇に「新しい憲法発布の宣言」をしていただくという場合の「新しい憲法」を誰がどうやって創るかという問題に言及していないことは上記のとおりだし、現憲法は昭和天皇の名において「裁可し、公布せしめ」られたこと、今上天皇は皇位継承・即位に際して「日本国憲法にのっとり」と明確に述べられたこと、等との関係をどう整理しているのか、という基本的な疑問がある。

 <保守>論壇の中の大物らしく扱われている渡部昇一ですらこの程度なのだから、現在の日本の<保守>論壇のレベルは相当に低い(あえて言えば、論理の緻密さが足りず、某々のような「精神」論で済ませている者もいる)と感じざるをえない。

 そして再び上記のことに戻れば、「左翼」民主党政権成立をかつて許したことについて、各<保守>論者はどのように反省し、自己批判しているのかを厳しく問いたいところだ。

1177/日本共産党と朝日新聞の「盟約」関係。

 〇5/09の衆議院憲法審査会で日本共産党の笠井亮は、憲法は国家を<縛る>ものだ(ときどきの政権の都合で変えてはいけない)とか、現96条の要件の緩和は<憲法を法律なみに>するものだとかと述べて、同条の改正に反対したらしい。
 テレビでその部分を観ていて、朝日新聞の社説とほとんどと同じことをほとんど同じ表現で述べていると思った。朝日新聞論説委員・社説子の中にも共産党員や確信的な共産党シンパがいるだろうが、少なくとも憲法改正問題に関して、日朝同盟ならぬ<共・朝盟約>が実質的に成立しているものと思われる(もう一つこれに参加している重要な仲間が、出版界の岩波書店だ)。

 朝日新聞5/09朝刊の二面右上には日本共産党を実質的には「応援」としていると読める記事があった。朝日新聞は日本共産党を<無視>することは決してしないのだ。
 NHKも中立をいちおうは装おうとしながら、憲法(96条)改正に反対の方向で報道することに決めているかに見える。その具体例は逐一挙げないが、5/03の憲法記念日の集会に関するニュ-スでは護憲派(憲法改正反対派)の集会の方を先に取りあげていた。
 この問題が参議院選挙の結果にどのような影響を与えるのかは、私には分からない。だが、朝日新聞やNHKが護憲を明確にしているとなると、改憲派(自民党・日本維新の会・みんなの党)が参院で2/3以上を獲得するのは決して容易ではないと見ておくべきろう。
 なお、私は96条の要件の緩和に反対ではない。まずは96条の改正をしたらどうかという案をこの欄に6年前に記したことすらある。

 但し、改正発議要件の2/3か1/2かという問題は、単純な理屈で決せられるものではないだろう。一義的に是非が判断できる問題ではないと思われる。となれば、96条改正のために2/3以上が獲得できるということは、現9条2項の削除等のためにも2/3以上を獲得できることとたいして変わらず、現行改正規定のままで(むろん両院で2/3以上を獲得して)、一挙に9条2項の削除・国防軍設置等の改正を発議した方がよい、あるいはてっとり早い、ような気もする。
 96条の要件の緩和にあえて反対はしないものの、反面では、例えば現憲法の第一章「天皇」の削除が現在よりも簡単に発議されるような事態が生じることも怖れてはいる(日本共産党は96条改正に反対しているから、現時点では「天皇制度」解体のために国会各議院の議員総数の過半数を獲得する自信を持っていないのだろう。だが、日本共産党が他「左翼」政党とともにそれが可能だと判断するときがくると、96条の要件が緩和されていることは怖いことでもある)。

 〇橋下徹護憲派ほどうさんくさいものはない。護憲派の人たちは、今の憲法が絶対的に正しいと思っている」、「『(憲法に対する異なる)価値観を強要しないで』と言いながら(今の憲法が正しいという価値観を)ばりばり強要している」と護憲派を批判したらしい(5/09記者会見)。

 改憲派である「保守派」の論者の一部の長い文章などよりも、はるかに分かりやすい。

1175/佐伯啓思の不誠実と維新の会・天皇。

 〇この欄の4/09で佐伯啓思の昨秋の文章についての私の昨年の12/31を引きつつ佐伯啓思の言論人・知識人としての「責任」を問うたが、12/31の私の文章を読み返していると、こうも佐伯に問うていたことを思い出した。
 「佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に『橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり』という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は『大衆迎合主義』に陥っていたのかどうか。」
 佐伯啓思がこの秋月の欄を読んでいなくて何ら不思議ではないが、上に言及したようなことを佐伯啓思は産経新聞昨年11/22紙上で公言していたのであり、昨年12月総選挙結果もふまえて、自らの見解が適切だったかに論及することはやはり言論人・知識人としての「責任」なのではないか。佐伯啓思にはそのような感覚・姿勢があるのかどうか。
 〇佐伯啓思は新潮45(新潮社)2013年1月号の連載で「『維新の会』の志向は天皇制否定である」と題する文章を書いている(但し全9頁のうち4頁だけがこのタイトルに添う)。
 このタイトルと内容を一瞥して感じたことの第一は、では佐伯啓思は「天皇制肯定」論者なのか、だ。
 上のようなタイトルからすると、そうであることを前提としているようであるし、またそのように理解しても不思議ではない。しかし、じつは佐伯啓思は、自らの「天皇制度」または「天皇」に対する考え方・立ち位置をほとんど明らかにしてきていない。
 昨年12/05と12/09のこの欄で佐伯啓思の「天皇」観を示している文章に言及したが、そこで紹介したとおり、佐伯啓思は、「天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられている」、「私には天皇や皇室への『人物的な関心』がなく、まして、天皇・皇室への『深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くない…」、「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」、日本国憲法第一条の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」、などと書いていた。
 このような佐伯啓思が、<維新の会は天皇制否定>などと銘打つ文章を簡単にかつ堂々と書けるのかどうか。
 まずは自らは「天皇制肯定」論者であることを、その意味も含めて詳細かつ明確にしたうえで、<維新の会は天皇制否定>論は書かれるべきだろう。
 感想の第二は、<維新の会は天皇制否定>という結論的認識が妥当かどうかだ。簡単に書けば、石原慎太郎がそうだという論拠は石原と三島由紀夫の1969年の対談の一部と三島の石原に対する評価(のそのままの追随)だけであり、橋下徹については「橋下氏が天皇制についてどのように考えているのかはわかりません。しかし、彼らが共和主義的であることは十分に想像がつきます」(上掲誌p.333-4)という程度にとどまる。
 丁寧な論証がなされているとはとても思えない(なお、同じことは同じ上掲誌上の青山繁晴論考についても言える)。それにそもそも、欧米の「共和主義」なるものに多大の関心を示し、それに関する書物の共編著者になっていたのは、佐伯啓思自身ではないか(佐伯啓思=松原隆一郎編・共和主義ルネサンス(NTT出版、2007))。そこには、「共和主義」を否定し「天皇制を肯定」する心情のみが基礎になっていたのかどうか、はなはだ疑わしい。
 ついでに書けば、佐伯啓思によると、<私こそがこの国を変える、と軽々と言う>=「共和主義的」=「天皇制否定」という論理が簡単に成り立つらしい(上掲誌p.334)。いくら日本維新の会が嫌いでも、佐伯啓思ほどの者がこんな(大学院生ですら採用しそうにない)論理または推論を提示するとは、嘆かわしく、幻滅しもする。

1155/佐伯啓思において日本書記・古事記はすべて「神話」か。

  前回に続ける。佐伯啓思「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」隔月刊・表現者2009年9月号)はついで、元来の「すめらのみこと」を意味する「天皇」という語自体が「中国からの影響のもと」にある。しかし、中華秩序からの自立を意味したもので、中国とは異なって「世襲による王権であることを明示」したものだった、ということを述べている。
 再び、左翼的な「王権」という概念が使われていることが気になるが、より気になるのは以下だ。
 佐伯啓思は、「『記紀』による天皇の神格化」
と簡単には叙述し、世襲の「日本の王権の特質」の一つは、「神話」による「政治的正当性」の確保だった、と述べている(p.71)。
 明記はしていないし、紙数の制限により厳密な叙述はしていないと釈明または反論される可能性はあるが、まるで、記紀=日本書記・古事記全体が「神話」の叙述だという理解を前提にしているような書きぶりだ。
 佐伯はむろん「単純左翼」ではないので、①「左翼的意味」で天皇の正当性は「でっちあげられた神話に過ぎない」と言っているのではない、②「神話」は歴史学者のいう「事実」ではないが、「一国の文化的事実」だ、と書いている(「不可欠でそれなりによくできた発明だったと受けとめなければならない」とも言う)。
 だが、「神話」と「記紀」の二つについての正確な叙述がないので、後者全体が「神話」だと理解していると思えなくもない。
 日本書記は明らかに「神代」と神武天皇以下を区別しているし、古事記の中・下巻が神武天皇以下推古天皇の時代までの叙述になっている。
 むろん連続はしているのだが、「記紀」の作者または伝承者においては、神武天皇以前または古事記の上巻のみが「神話」=「神」をめぐる物語と意識されており、それ以降は少なくとも主観的には歴史的な事実だと理解されていたのだ、と私は理解している。
 推古天皇(古事記)または天武天皇や元明天皇(日本書記)、そしてこれらの天皇の時代は執筆者・伝承者にとってはほとんど当時における近現代のことであり「客観的な事実」のつもりで書かれたのだと思われる。
 むろん、客観的な歴史的事実とは異なる叙述も時代より古くなればなるほど含んでいるだろう(場合によっては「作為」も)。しかし、神武天皇以降の叙述は、主観的には決して「神話」ではなかったはずだ、と思われる。
 上のような趣旨が、佐伯の文章からはまるで伝わってこない。「そこに神話が生じる。『記紀』による天皇の神格化である」、という部分などは、繰り返すが、記紀の全体が「神話」だと理解しているごとくだ。こんなことを書くのも戦後の歴史学・戦後教育において日本書記・古事記の全体=とくに世襲天皇を美化・正当化するための「神話」で<ウソ・でっちあげ>という言説が一部には有力にあり、そのような教育等の影響を-「神話」の理解は同じでないとしても-佐伯も受けているようにも思えるからだ。
 些細なことかもしれない。だが、「日本的なるもの」という語をやたら使っている佐伯啓思の諸文章において、天皇も記紀も(いわゆる日本神話も)ほとんど言及されていないのであり、そして天皇に関する「物語」をこの人は十分には知らないのではないか、少なくとも大きな関心を持ってはいないのではないか、という疑いを持たせる。
 ○佐伯啓思は新潮45今年7月号(新潮社)の最後に、「本当にわれわれが支柱にすべき価値」、「日本人にとっての価値の基軸」について「今後、何回かにわたって」
模索してみたい、と書いている(p.334)。
 同誌の今年12月号の佐伯の連載のつづきは橋下徹と石原慎太郎批判で、この二人をそれこそボロカスに批判しているが、「日本人にとっての価値の基軸」の探求といかなる関係にあるのかは分からない。
 8~11月号も所持はしているので、佐伯における「模索」の内容を別の機会に確認してみよう。

1154/佐伯啓思があまり語らない「天皇」につき、2009年に語っていた。

 一 佐伯啓思日本という「価値」(NTT出版、2010)、日本の愛国心(NTT出版、2008)という著書を発行し、最近に記したように「近代民主主義」とうまく結合しないものとして「日本的なるもの」を語っている(新潮45今年8月号)。
 西欧所産の「近代民主主義」よりも「日本的なるもの」に身を寄せていることはほとんど明らかで、また日本にかかわって「価値」や「愛国心」を論じているのだから、「日本的なるもの」についてのある程度は具体的イメ-ジを提示してきていると想定しても、何ら不思議ではないだろう。
 上の二著すら手元に置かないで書くが、これらを読んでも、じつは彼のいう「日本的なのもの」とは何かは、はっきりしていない、と言える。
 「日本(的なるもの)」を語る場合に佐伯啓思が全くかほとんど触れることがないもの、その一つは「天皇」だ。もう一つは、菅野覚明・仏教の逆襲(講談社現代新書、2001)に上のいずれかの中で言及していた記憶はあるが、神道および日本化された仏教という「日本の宗教」だ。
 佐伯啓思の本領または得意分野が西欧近代(の思想・原理)にあるとしても、「日本的なるもの」に言及して、上の二つについてはほとんど立ち入った論及をしていないのは、読者には少なくとも物足りないところがある。あえて、偏頗すぎるとか、保守されるべきものとして語られる可能性がある「日本(的なるものの)」の具体的な象がきわめて不明確だ、といった批判形を使うのはやめておこう。
 二 佐伯啓思が「天皇」について語っている文章はないかと探していたら、隔月刊・表現者2009年9月号の佐伯「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」(p.68-71)を見つけた。
 「天皇」に関する叙述内容自体以前に、佐伯啓思という人物の「思想」を理解する上で興味深い文章があるので、まずはそれらを要約的に引用する。
 ・私は「戦後的なるもの」を批判的に見てきたが、「しかし、天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられているというべきなのかもしれない」。
 ・なぜなら、私には天皇や皇室への「人物的な関心」がなく、まして、天皇・皇室への「深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くないから」だ。「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」。
 ・日本国憲法第一条のうち天皇は日本国および日本国民の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」。
 以上で、佐伯啓思のこの文章のほぼ1/4は終わっているが、ここで示されている心情からすると、次のことが言えそうだ。
 第一。安倍晋三らは<戦後レジ-ムからの脱却>を唱えている。だが、佐伯啓思は<戦後レジ-ム>あるいは「戦後的なもの」から完全に離れるべきだとは少なくとも心情レベルでは感じていない。「戦後的なもの」を自分の意識に内包していることを自覚しつつ、それを問題視する感覚がなさそうだ。
 第二。自民党が2012年4月に決定・発表した日本国憲法改正案の一条の前半は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって…」とある。断定はし難いが、佐伯啓思は、天皇を「元首」とすることを「しごく当然」とは感じず、違和感を感じてしまうのではないか。
 以上のあと佐伯啓思は、明治憲法上の「天皇」には西欧的立憲君主と日本の歴史の中で構成された神格性をもつ世襲的存在の二重構造があり、これを一つにする必要があったことに「明治近代化の悲劇」がある、三島由紀夫は政治的概念としての天皇と区別される文化的概念に「天皇の本義」を求めようとしたが、「天皇」概念には元来「政治的意味合い」、「日本の王権」の政治的正当性を特徴づけるという意味があった、といった趣旨を述べている。
 「左翼」歴史学者と同様に「王権」という語を使っていることも気になるが、より気になることは別の点にもある。次回に扱おう。

1127/文芸批評家・新保祐司のユニークな憲法改正(新憲法制定)論。

 〇産経新聞5/08の「正論」欄で「文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」の「憲法と私/日本人の精神的欺瞞を問いたい」を読んで、かつて文章のヒドさを指摘したことのある文芸評論家兼大学教授らしき者がいたが、誰だったのだろうと思い返した。1000回以上も書いていると、自分の文章であっても少なくとも詳細・細目は忘れてしまっているのがほとんどだ。
 調べてみると、やはり、批判した文章(「正論」欄)は新保祐司のものだった。
 1年も経っていない、昨年の8/09に、新保の産経新聞7/05の文章を批判し、8/17に簡単にポイントを再述している。
 後者によると、こうだ。引用する。  「新保祐司の産経7/05『正論』欄は、『戦後体制』または『戦後民主主義』を『A』と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、『論理』・『論旨』の破綻を看取すべきだ(私は看取する)」。
 こういう批判を受けながらも、大学教授先生、文芸評論家様は、依然として、産経新聞で「正論」をぶっていたようだ。あるいは、産経新聞は、そのような機会を、よく読めば訳の分からないことを書いている人物に与えていたようだ。
 〇今年5/08の上記の新保の「正論」には、文章ではなく、内容的な疑問を大いに持つ。
 新保の主張の要点は、新憲法の「本質を左右する根本的な」のは「形式に関わる問題」で、①新憲法は「歴史的かなづかひ」で書かれるべき、②新憲法は2/11の紀元節(建国記念日)に発布されるべき、ということだ。
 上の②にとくに反対はしないが、強く拘泥する問題でもないだろうと私は考えている。なお、現憲法は昭和天皇によって「公布せしめ」られたものであり、現憲法7条1号によれば、憲法改正は天皇によって「公布」される。新憲法制定が現憲法改正のかたちをとるかぎりは(その可能性がきわめて高いだろう)、「発布」ではなく「公布」という語が選ばれるだろう。これくらいのことは、知っておいた方がよい。
 問題なのは上の①だ。この点にこだわり、「歴史的かなづかひ」の条文でないと憲法改正または新憲法制定を許さない、という主張を貫徹するとすれば、憲法改正・新憲法制定はおそらく不可能になるだろう。なぜなら、もはやほとんどの国民が「歴史的かなづかひ」を読めないか理解できない可能性が高いからだ。いわゆる現代かなづかいの新憲法案と「歴史的かなづかひ」の同案を同時に示されれば、条文内容が同じであれば、ほとんどの国民が現代かなづかいの方を選択するのではないか。
 それではだめなのだ、ということを新保は主張したいのだろうが、その主張を貫きたければ、何年先の将来になるのか分からないが、新保には、現代仮名遣いの憲法改正・新憲法制定案に、その点を根拠とする「反対」の清き一票を投じていただく他はないだろう。
 新保の主張はもはや時代錯誤的で、現代仮名遣いによる教育が半世紀以上続いた、という現実を(頭の中で)無視している。頭の中・観念のレベルではいくらでも<元に戻せる>が、現実はそう旨くはいかない。
 それに、最近に自民党の新憲法改正案等が出され、いずれの案も「現代かなづかい」によっていることは、新保も知っている筈だ。上の文章を書くに際して、何故、自民党等の案が「歴史的かなづかひ」によっていないことを、強く批判しないのか
 また、「歴史的かなづかひ」が学校教育で教えられておらず、学んでいない国民が今やほとんどだという現実を、新保も知っている筈だ。新保は何故、学校教育(>義務教育)における「歴史的かなづかひ」教育導入の必要性や成人に対する「歴史的かなづかひ」教育(・研修?)の必要性を、具体的に強く主張しないのか
 ただ自己満足的に言っておきたいだけで、現実に少しでも影響を与えるつもりがないのならば、わざわざ「正論」欄に書くな、と言いたい。
 もともと興味深いのは、新憲法(憲法改正)の内容よりも、新保は「形式」が重要だ、と主張していることだ。より正確には、新保は最後にこう書いている-「逆にいえば、新憲法が『歴史的かなづかひ』で書かれ、建国記念の日に発布されれば、それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されているというべきである」。
 きわめてユニークな主張だ。
 <「戦後民主主義」という「日本人の精神的欺瞞」こそまずは徹底的に問われるべきで、その厳しい過程を経ない限り、憲法の自主制定はできない。「議論百出の果てに、せいぜい、現行憲法の一部(例えば9条とか)の改正にとどまってしまうのではないか」>という観点から、「精神的欺瞞」を克服して新しく「内発的」に新憲法の制定をするためにも、上の二つの「形式」が重要だ、と新保は言う。
 気分・情緒は理解できなくはないが、この主張を推し進めると、例えば、現憲法九条二項の削除・国防軍の設置といった現九条の改正がなくとも、新保のいう二つの「形式」さえ満たせば、「それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されている」ということになってしまう。
 上の①は現実的には不可能と見られる(実現されそうにない)主張なのだが、それをさておいても、いかなる内容の改正(新憲法制定)かを問題にしない憲法改正・新憲法制定議論は、今日的にはほとんど無意味だと思われる。
 新保祐司にどのような「文芸評論家」としての実績があるのかを全く知らないのだが、さすがに「文芸」畑の人は、面白い憲法論を(まじめに)展開するなぁ、というのが率直な感想だ。

1058/中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒(2011)に再び言及。

 中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒(オークラ出版、2011)は、かなり前に読了している。
 いつか既述のように、小林よしのり批判が全編にあるのではなく、小林の天皇論・皇位継承論の由来・根拠となっていると中川が見ている論者、あるいは<民族系>保守への批判が主な内容だ。
 目次(章以上)から引用すると、田中卓は「逆臣」、高森明勅は「民族系コミュニスト」、小堀桂一郎は「極左思想」家・「畸型の共産主義者」、平泉澄「史学」は「変形コミュニズム」(最後は?付き)。
 本文によると、一部にすぎないが、吉川弘之が「共産党のマルクス主義者」とは「合理的推定」(p.177)、園部逸夫は「教条的な天皇制廃止論者のコミュニスト」(p.192)で「共産党員」(p.194)、園部逸夫・皇室法概論は共産党本部で「急ぎとりまとめられ」、「園部は著者名を貸しただけ」(p.197)、園部逸夫を皇室問題専門家として「擁護」した小堀桂一郎や、小堀に「唱和」した大原康男・櫻井よしこは「共産党の別働隊」(p.192)。小堀は共産主義者を防衛する「共産党シンジケートに所属している可能性が高い」(p.193)、小堀は「正真正銘のコミュニスト」(p.207)。宮沢俊義・杉村章三郎は「コミュニスト」(p.199)、中西輝政は「過激な天皇制廃止論者」(p.278)、小塩和人・御厨貴は「共産党員」(p.287)、杉原泰雄は「共産党員」(p.298)。
 これらの断定(一部は推定)には(西尾幹二批判はp.287、p.310)、ただちには同意しかねる。「コミュニスト」等についての厳密な意味は問題になるが。
 但し、永原慶二(p.213)と長谷川正安(p.298)を「共産党員」としているのは、当たっていると思われる。
 また、中川八洋のような、反米自立を強調・重視しているかにも見える西部邁らとは異なる、<英米>に信頼を寄せる保守派または「保守思想」家もあってよいものと思われる。かなり乱暴な?断定もあるが、<反共産主義>のきわめて明瞭な書き手でもある。反中国、反北朝鮮等の「保守」派論者は多くいても、「思想」レベルで明確な<反共>を語る論者は少なくないように思われ、その意味では貴重な存在だ、と見なしておくべきだろう。
 中川八洋の他の本でも見られるが、中川のルソー批判は厳しく、鋭い。ルソーの「人間不平等起原論」は「王制廃止/王殺しの『悪魔の煽動書』」であり(p.255-)、この本は「家族は不要、男女の関係はレイプが一番よい形態」とする「家族解体論」でもある(p.263)、また、中川は、ルソー→仏ジャコバン党〔ロベスピエールら〕→日本共産党→<男女共同参画><〔皇室典範〕有識者会議>という系譜を語りもする(p.259-)。
 さらに、つぎの二点の指摘はかなり妥当ではないかと思っている。
 一つは、「男女共同参画」政策・同法律に対する保守派の反対・批判が弱い(弱かった)、という旨の批判だ。「民族系」という語はなじみが薄いが、以下のごとし(p.268)
 「民族系の日本会議も、櫻井よしこの『国家基本問題研究所』も、共産革命のドグマ『ジェンダー・フリー社会』を非難・排撃する本を出版しようとの、問題意識も能力もない。民族系は、フェミニズム批判など朝飯前の、ハイレベルな知を豊潤に具備する英米系保守主義を排除する」が、それは「自らの知的下降と劣化を不可避にしている」。
 急激な少子化という国家衰退の一徴表は、(とくにマルクス主義的)フェミニズム(「男女共同参画」論を含む)に起因するのではないか。若年女性等の性的紊乱、堕胎(人工中絶)の多さ、若い親の幼児殺し等々につき、<保守>派はいったいいかなる分析をし、いかなる議論をしてきたのか、という疑問も持っている。別に書くことがあるだろう。
 もう一つは、憲法学界に関する、以下の叙述だ(p.298)
 「日本の大学におけるコークやバークやアクトンの研究と教育の欠如が、…、天皇制廃止の狂った学説が猖獗する極左革命状況に追い込んだ…。女性天皇/女性宮家など、今に至るも残る強い影響力をもつ、宮澤らの学説を日本から一掃するには、コーク/バーク/アクトン/ハイエクの学説をぶつける以外に手はない」。
 なお、1952年の日本の主権回復後の「約六十年、日本人は米国から歴史解釈を強制された事実は一つもない。問題は、歴史の解釈権が、日本人の共産党系歴史学者や日本の国籍をもつ北朝鮮人に占有された現実の方である」との叙述がある(p.288)。後半(第二文)はよいとしても、前者のように言えるだろうか、という疑問は生じる。「強制」という語の意味にもよるが、「共産党系」等でなくとも、日本人の<歴史認識>の内実・その変化等に対して、米国は一貫して注意・警戒の目を向けてきた、とも思われるからだ。

1055/中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。 

 月刊正論12月号(産経)の中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。
 ・「歴史は本来、つねに書き換えられねばならない。なぜなら、歴史の本質とは、いかにすぐれた歴史書であっても、それが書かれた時代的制約を逃れることはできないものだからである」。(p.142)

 ・「もしも日本の内政がしっかりしていて、政府と軍部、陸軍と海軍の意思疎通や合意がしっかりとできていれば、あるいはアメリカに〔反日主義者だった〕ルーズベルト大統領が誕生していなかったら、さらには〔ゾルゲ、尾崎秀実等々による〕各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。このうちどれか一つの要因でも欠けていれば、おそらく日米開戦はなかったと思われる。日米開戦は、それほど『例外中の例外』の出来事だった」。(p.152)

 ・但し、「日米開戦は、……マクロ・ヒストリーの視点からは、やはり『宿命の出来事』だったと言うしかない」。(p.153)

1021/西尾幹二は渡部昇一『昭和史』を批判する。

 一 渡部昇一は<保守>の大物?らしいのだが、①1951年講和条約中の一文言は「裁判」ではなく「(諸)判決」だということにかなり無意味に(=決定的意味を持たないのに)拘泥していること、②日本国憲法<無効論>に引きずられて自らもその旨を述べていることで、私自身はさほどに信頼してこなかった。産経新聞・ワック系の雑誌等に渡部昇一はなぜこんなに頻繁に登場するのだろうと不思議にも感じてきた。
 二 ジャパニズム02号(青林堂、2011.06)の座談会の中で、西尾幹二が渡部昇一の『昭和史』(ワック)を批判している。
 西尾は、戦前の日本についての「内向き」の、「失敗」・「愚か」話ばかりの歴史叙述を批判し、渡部昇一も「昭和史」と称して「統帥権の失敗と暴走」という「たった一本でずっと」(それを「中心のテーマ」として)書いている、とする。そして、渡部昇一は「日本はリーダーなき暴走をした」、「日本には主体性がなかった」と、丸山真男ばりのまとめ方をしている旨を指摘し、「渡部さんの方は最後には、日本の迷走を食いとめたのは、広島、長崎の原爆であったとかいてある」とも発言している(そのあとに「(笑)」とある)(p.105-6)。
 渡部昇一の『昭和史』を読む気になれず、かつ読んでいないので西尾幹二(ら)の批判の適切さを確認することはできないが、さもありなんという気はする。渡部昇一は、<保守>の大立者として信頼し尊敬するに値するような人物なのだろうか。
 なお、古田博司が、丸山真男や加藤周一らの「日本の文化ダメ、日本人バカ」論が続いてきたと述べたのち、その流れにある者として西尾幹二は、半藤一利、保阪正康、加藤陽子、秦郁彦、福田和也の名を挙げている。
 これまたこれら5人すべての著書類を読んでいないので適切な反応をしにくいが、渡部昇一の場合以上に、あたっているだろうと思われる(とくに、半藤と保阪については)。ついでながら、先日、NHKは加藤陽子を登場させて語らせて、<さかのぼる日本史>とかの一回分の番組ままるまるを作って放送していた。特定の日本史学者の考え方にそって日本の(昭和戦前の)歴史を語るということの(よく言えば?)大胆不敵さあるいは公平さ・客観性の欠如(偏向性)をほとんど意識していないようなのだから、怖ろしい放送局もあるものだ。今年もまた、8/15に向けて、戦争は悲惨だ、日本は悪い事をした、という「ドキュメンタリー」?類を垂れ流すのだろう。
 三 中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒―悪魔の女系論はどうつくられたか―(オークラ出版、2011.07)はタイトルのとおり、小林よしのり(+高森明勅)と、他に「民族派・男系論者」を批判する本のようだ。
 中川は戦前の平泉澄・戦後の小堀桂一郎も罵倒しているが、ヘレン・ミヤーズとその著を『国民の歴史』の中で「礼賛」しているとして、ミヤーズの肯定的評価について、小堀ととともに西尾幹二をも批判している(p.287、p.310)。
 中川のこの本については別の機会に言及するし、ミヤーズについて適切に評価する資格はない。
 ただ第三者的に面白いと思うのは(失礼ながら)、これで渡部昇一が中川八洋を批判していれば、渡部昇一←西尾幹二←中川八洋←渡部昇一←……という循環的相互批判が成り立つなぁ、ということだ。やれやれ…、という気もするが。

0937/「戦後」とは何だったのか①-三島由紀夫「檄」。

 三島由紀夫の自裁後、ちょうど40年がもうすぐだ。
 1970年11月25日の「檄文」は、当時における三島の「戦後」認識を示している。そして、40年後の現在も何も変わっていないことに気づく。いや、何も変わっていないのではなく、当時よりも状況は<悪く>なっているかもしれない。

 「戦後」とは何だったのか。現在も含めて、<1947年憲法体制>の時代、と将来は呼ばれそうな気がする。ともあれ、三島由紀夫の「檄文」における「戦後」認識を引用する。なお、この「檄文」の一部はすでにこの欄に掲載したことがあるが、そのときよりも、引用部分をより長くした(新仮名遣いに改めている)。決定版三島由紀夫全集36巻p.402以下(2003、新潮社)。

 「檄/〔略〕/
 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。〔中略〕しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。〔中略〕憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力を尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 〔中略〕日本の軍隊の建軍の本義とは、『天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る』ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしたのである。

 〔中略〕その日〔昭和44年10月21日〕に何が起こったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て『憲法改正』という火中の栗を拾わずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。〔中略〕政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。〔中略〕そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 〔中略〕この昭和四十四年十月二十一日という日は〔中略〕憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され〔中略〕自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 〔中略〕沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。

 〔中略〕もう待てぬ。〔中略〕生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。〔以下略〕」

 「戦後」認識には当然に、戦後の基本的「体制」をどう認識するかも含まれる。そこには憲法上は「戦力」ではない筈の自衛隊をどう見るか、上の文には出てこないが日米安保をどう見るか、もまた含まれる。そして「憲法改正」にどういう立場を採るかにも関係してくる。

 一字一句、三島由紀夫の文章を<信奉>することはしない。だが、40年前の三島の鋭い指摘・認識にはあらためて感心する。三島由紀夫だけの認識や考え方ではなかっただろう。だが、当時も現在も、基本的なところですら、日本の政治家や国民の<多数派>にはなっていない。痛い想いとともに、三島の死の意味を考える。

0894/<日本>はその美しい自然と四季とともに残り続けるだろうか。

 1970年11月の自裁の際の三島由紀夫の檄文に書かれた日本の近未来の予測文章はよく知られている。
 西尾幹二は1996年に次のように書いたらしい(初出、サンサーラ1996年12月号)。
 「このままいけばおそらく日本は、……いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいるが、国家意志といったものをもったく持たない国、刹那的な個人主義だけが限りなく跋扈する虚栄の市場としての国になり果てるであろう。…―というような悪夢を心の中で抱くこと久しい。そうなっては困るのだが、しかし、そうなるのではないか、いや間違いなく相違ないという胸騒ぎのような心理を、私はここ数年、ずっと持ちつづけてきたのである」。
 「いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいる」のか否か、2010年の時点での将来予測としては疑問符もつくが、上のような懸念と「悪夢」はほとんど現実化してしまっているのではないか。
 西尾幹二の書くもの、それで解る西尾の考え方等を全面的に支持しはしないが、この人の時代感覚も(三島由紀夫と同様に?)鋭いと言えるかもしれない。
 私は近年、次のような「悪夢」を抱く、あるいは将来の日本列島の<惨状>を恐怖感とともに思い描くことがある。
 日本の山岳と田畑と海岸の美しい風景はまだ残っている。だが、かつてはどこでも見られたものが無くなってしまっている。
 神社のすべてが、大から小まで物理的に破壊され、消失した(神官・宮司等は当然に職を失った)。路傍の地蔵像や祠などもすべて無くなった。寺院も文化財としてのごく一部の有名(・観光)寺院の建造物を除いてすべて破壊され、消失した。京都・奈良・飛鳥のみならず、日本列島のすべての地域で、<かつての日本>的な神社仏閣は破壊された、無くなった。伊勢神宮も例外ではない。明治神宮も橿原神宮も熱田神宮等々も同じ。
 その時代には、当然に<天皇制度>は廃止され、<皇室>なるものはもはやない。日本国家・日本政府というものももはやない。某国の一州か自治領のようなものになっている。かりに日本「国家」が残っていても、某国との間に主たる仮想敵国をアメリカ合衆国とする安保条約が締結され、日本列島人も徴兵される軍隊の指揮権は当然に某国「人民軍」総司令官にある。
 その某国政府の命令または「勧告」だが実質的には強い要請にもとづいて、日本列島人は自らの手で、神社仏閣のほとんど(一部の遺跡扱いの寺院を除く)を壊したのだった。
 その時代、日本列島人は「何語」を話しているだろうか?。
 これが、立ち入らないが、平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定だ。
 美しい列島、美しい四季は残り続けるかもしれない。だが、<鎮守の杜>が全てなくなって、路傍の祠がいっさいなくなって、さらには日本語が話されなくなるか、正規の言語ではない「方言」の一種と見なされるようになって、いったいどこに<日本>が残っているのだろうか。顔つきだけはかつての「日本人」によく似た日本列島人は残っているとしても。
 西尾幹二は冒頭引用の文章を含む論考を、「私は自分の未来を諦める気にはなれない。自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれないのだ」、と結んでいる。
 1935年生まれで私よりも10歳余年上の西尾がこう書いているくらいだから「諦め」てはいけないだろう。だが、本音をいえば、西尾の上の言葉よりは私はペシミステイック(悲観的)だ。
 他国によるイデオロギー支配を伴う占領と、その時代に生み出された実質は他国産の1947年憲法がもつ「価値観」にもとづく教育、そして当該「価値観」の実質的な(<時流>としての)押しつけ(「憲法」教育を含む)の影響を拭い去ることは、もはやほとんど不可能なのではないか。
 週刊金曜日5/01号で憲法学者らしき斎藤笑美子(茨城大学)は、皇族の「市民」的平等を確保するには<天皇制廃止>か<皇族離脱の自由の承認>しかないとの自説を述べていた。
 週刊金曜日6/04号の日米安保特集には憲法学者・早稲田大学教授の水島朝穂が(相変わらず?執拗にも)「重大なのは日本が『攻める』危険性」と題する文章を載せている。
 現在書店に並んでいる週刊金曜日には、上杉某が、憲法改正手続法を利用して<天皇制廃止>のための改憲論を展開すべしとの文章を書いている筈だ。
 <天皇制廃止>のための憲法改正を<保守>派は断固阻止しなければならない。世論動向に応じて、日本共産党や社会民主党はこの問題を積極的に提起する可能性はあり、これまた世論を見極めつつ、朝日新聞は<天皇制廃止>の方向に誘導する可能性もある(もっとも、すでにそれは目立たないかたちで実施に移されていると観るのが正確だろう)。
 <ナショナルなもの>の忌避・否定は日本<国家>への反感・怨念にも由来する。日本<国家>と<天皇制度>はもともと不可分のものと考えられる。
 <天皇制度>の維持と雅子妃殿下うんぬんの議論とどちらが大切かは語るまでもない。
 日本<国家>と<天皇制度>を否定しようとし、そして<宗教>意識は自分にはないと考えているのが多数派と見られる日本人の意識を利用して<反神社(・神道)・反寺院(・日本的仏教)>の立場へも誘導しようとするだろう、「左翼」言論人等の活動家たちの策略・大きな顔をしての言動を弱体化させなければならない。
 そうしないと、上に書いたような私の「悪夢」は正夢に、つまり近い将来の現実になってしまうのではないか。
 6/04、西尾幹二・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010.06)のうち、第一部の「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃…」(上に引用はこれの一部)、「トヨタ・バッシングの教訓」、「外国人地方参政権・世界全図」、第三部の「講演/GHQの思想的犯罪」、「『経済大国』といわれなくなったことについて」を読了。
 残りのほとんどは「激論ムック」か月刊正論で既読のような気がするが、あらためて読むかもしれない。

0879/サピオ5/12号(小学館)の小林よしのりも奇妙だ。

 佐伯啓思や雑誌・表現者(ジョルダン)での議論に触れたいし、民主党や鳩山由紀夫についても、日本共産党についても書きたいことは多い。
 小林よしのりの議論にかかわることが当面重要とも思えないが、小林よしのりサピオ5/12号(小学館)の「天皇論・追撃篇」での叙述について、網羅的にではなく断片的にコメントする。
 1.小林よしのりは、①側室の子だった明治・大正両天皇ののち「昭和天皇、今上陛下、皇太子殿下と3代も嫡男が続いたのは異例の幸運だった」、②「女子ばかりつづくことだって当然起こる。現にその後は41年間、9人連続で女子しか誕生しなかった」、とまず言う(p.62)。
 このいずれにもすでに、異論がある(敬語を省略させていただくことがある)。
 大正天皇妃(貞明皇后)は4人お生みになり4人とも男子、昭和天皇妃(香淳皇后)は4人お生みになりうち2人が男子、今上天皇妃(美智子皇后)は3人お生みになり2人が男子。
 なるほど男子の割合の方が多いが、もともと確率的には男子か女子かはほとんど1/2(50%)のはずなので、3人の子のいずれも女子である可能性(確率)は1/2の3乗で12.5%しかない。87.5%の確率で少なくとも1人の男子は生まれる。子が4人の場合は、いずれも女子である可能性(確率)は1/2の4乗で6.25%しかなく、93.75%の確率で少なくとも1人の男子は生まれる。
 上のような確率上の計算・予測からしても、「3代も嫡男が続いたのは異例の幸運」だった、とは思えない。3~4名の子をお産みになれる健康な女性(と配偶者男性)が三代つづけば、「嫡男」が三代続いたのは何ら「異例」ではないと考えられる。従って、上の①は疑問。
 つぎに、上の②は清子内親王~敬宮愛子内親王の9名を指しているのだろう(両親は4組)。たしかに、「女子ばかりつづくことだって当然起こる」が、それが9回も続いたのは決して「当然」のことではない。「9人連続で女子しか誕生しなかった」ことこそが、確率的にはきわめて異例のことだった。
 上のような計算をすれば、9人続けて女子が産まれる確率は、1/2の9乗で1/512であり、これは0.195%で、ほぼ0.2%。つまりはほぼ1%の五分の一の確率でしか起こりえなかったことだ。こちらの方こそが「異例」だった、というべきだ。
 今上陛下・皇后の末子である清子内親王を別とすれば、三笠宮寛仁親王の子は2人とも女子、高円宮憲仁親王の子は3人とも女子、秋篠宮文仁親王の最初の2人の子はいずれも女子、皇太子殿下の子は女子(愛子さま)だった。
 確率的にいうと、これら8名のうち3~5名が男子であっても決して不思議ではなかった。8名全員が女子である可能性は、1/2の8乗で1/256、ほぼ0.4%しかなかったのだ。
 8-9名続けて皇室内に女子しか産まれなかったことがさも「当然」のことだったかのように書く上の②は支持できない。
 小林よしのりは上の①・②を根拠にして③「現在の皇統の危機は一夫一婦制を維持する限り、いつかは必ず訪れた事態」だ、というが(p.62)、①・②が疑問である以上、これも支持できない。8-9名続けて女子しか生まれなかったことこそが確率的には異例で、「必ず訪れた」とは(1000年単位での長期スパンで見ないかぎりは)とても言えない、と思われる。
 上の①・②・③がまともな結論ではないので、その後の小林の議論もまともではなくなっている。
 ④「必要な議論は、『女系容認か?旧宮家復活か?』ではない。『女系容認か?側室復活か?』である!」
 小林は男子が生まれなかった原因を「一夫一婦制」に求め、「男子継承」には「側室制度」(の復活)が不可欠というのだ。これは明らかに奇妙な理解で、誤った前提に立つ、誤った問題設定だ。
 むろん、8-9名続けて皇室内に女子しか生まれなかったことは客観的事実で(その後に悠仁親王がお生まれになった)、悠仁親王と同世代には男子がおられない、という深刻な状況にある、ということまでも否定するものではない。
 2.同号の後半で小林よしのりは「本来、すべての生物はまずメスとして発生するのである!」(p.72)などということを懸命に強調しているが、小林が紹介するような生物学的なオス・メスに関する議論が、皇位継承適格性の問題といったいどういう関係があるのか、大いに疑問だ。
 生物学的な問題をとり上げるのならば、女性は妊娠し出産する可能性がある、妊娠中のまたは出産直後の女性は「天皇」だけしか行うことができない宮中祭祀(の少なくとも一部)を適切にまたは十分に行うことができるのだろうか、ということを議論すべきだ。
 冗言は省くが、ほとんどの場合は天皇位は男に継承されてきたこと、女性天皇の場合の女性は妊娠し出産する可能性がなかったことが多いと想定されること(逐一確認しはしないが)は、天皇しか行えない宮中祭祀(の少なくとも一部)の存在に関係しているものと考えている。
 そのような宮中祭祀の存在、女性は妊娠し出産する可能性がある、ということを考慮しない皇位継承論議・「女系」天皇の是非論はほとんど無意味なのではなかろうか。この程度にする。

0878/最近の小林よしのりはどこか具合が悪いのではないかと憂慮する。

 隔週刊サピオ5/12号(小学館)が(読んだのに)見当たらず困っているのだが、別の機会に追記することとして、最近の小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。
 1.月刊WiLL5月号につづいて同6月号も、かなり感情的で、論理の飛躍(または論旨不明)の部分が目立つ。
 例えば、竹田恒泰が今上天皇のご真意は「外に漏れるはずがない」旨書いた(月刊正論5月号(産経)p.208-にたしかにその旨がある)ことについて、小林は「憲法を絶対視して、天皇の口封じをしている」(月刊WiLL6月号p.193)とするが、「外に漏れるはずがない」との見解表明→天皇陛下の「口封じ」、になるのだろうか?
 つづいて小林は、竹田は「皇室典範も国民のみで決めるべき」で「天皇は一切口出しまかりならぬ」と言っているも「同然!」とも書く(同上)。月刊正論5月号の竹田論考をそのように読むのは無理で、「同然!」などと断定はできないだろう。
 小林が竹田らは「『宮さま詐欺』に引っ掛かった阿呆と同じ」と罵倒するのも、上品かつ適切な叙述とは感じられない。
 2.そもそも論として内容にも立ち入れば、この号で小林は「承詔必謹」(「天皇の命令を承ったなら、必ず実行しなくてはいけないという意味」、同p.187)を絶対視し、例外を認める竹田ら(たしかに竹田恒泰はその旨を書いている)を批判している。
 皇位継承問題についての今上陛下のご真意が<女系容認>だと忖度した上で小林は上のような立場をとる。その「忖度」が的確か否かはさておき、一般論としていうと、「承詔必謹」の絶対視はやはり無理なのではなかろうか。
 小林よしのりの最近の議論の特徴は、昭和天皇または今上陛下に関する議論・叙述を「天皇」一般に関する議論・叙述として(も)使っている、ということにある、と感じている。
 一種の<スリカエ>あるいは過度の(誤った)一般化があるように思われる。
 歴史的にみて、「承詔必謹」の態度こそが正しかった、あるいは適切だった、ということにはならないだろう。
 論旨飛躍かもしれないが、先日のNHKの<伊藤博文と安重根>に関する番組(プロジェクトJAPAN)を見ていて、この番組は言及しなかったが、安重根は伊藤博文に対する告発状または斬奸状にあたる文書の第一に伊藤の<孝明天皇を殺害した罪>を挙げていたことを思い出した。
 むろんこのような実証的根拠はない。だが、安重根が知っている程度に<噂>として20世紀に入っても残っていたことは確かなようで、また、孝明天皇の死は長州藩側(当時の尊皇倒幕派)に有利に働いたのは事実だろう。また、司馬遼太郎の小説類の影響をかなり受けての叙述にはなるのかもしれないが、幕末の闘いは天皇=「玉(ぎょく)」をどちらの勢力が取り込むかのそれだった、と言っても大きな誤りではないと思われる。
 何が言いたいかというと、歴史的事実としては、「承詔必謹」どころか、天皇・皇室は世俗的な政治権力に、または世俗的政治闘争に利用され、翻弄されてきた、という面がある、ということを否定できない、ということだ。「承詔必謹」が絶対かそれとも例外があるかという問題設定自体が成立しない時期・時代もあった、と思われる。
 そのような時期・時代こそがおかしかった、天皇の意を奉じての「承詔必謹」体制でこそ日本は歩むべきだった、という議論は成立しうるだろう。

 だが、王政復古の大号令、五箇条のご誓文発布のとき、孝明天皇の子である明治天皇(1852-1912)は、まだ16歳だった。そもそも、「承詔必謹」に値する意志・判断の表明を、明治天皇お一人の力で行なうことができたのだろうか。三条実美・岩倉具視を含む当時の公家等の明治新政府勢力が、「天皇」の名義を<利用>した(これもまた日本の歴史の興味深いところでもある)という面を、少なくとも全く否定することはできないと考えられる。

 中西輝政・日本人として知っておきたい近代史・明治篇(PHP新書、2010.04)p.233によると、「明治天皇も〔日ロ戦争〕開戦に反対であったことは、諸々の史料からも推測でき」る、らしい。
 この点はすでに施行されていた大日本帝国憲法のもとでの天皇の地位・権力につき、法文そのままに「統治権の総覧者」としての絶対君主扱いをする戦後「左翼」に対する批判にもなるが、日ロ戦争開戦時は、天皇の真意を推測(忖度)すらしての「承詔必謹」体制ではなかった、ということの一証左にはなるだろう。
 むろん、明治天皇の意志に則って日ロ開戦はすべきではなかった、とも言える論理的可能性はあるのだが、小林よしのりは、(かりに中西輝政の上の叙述に問題がないとしてのことだが)そのようにも主張するのだろうか。
 元に戻るが、いつか書いたように、崇峻天皇、安徳天皇は<殺害>されている。12世紀の安徳天皇は満10歳にもならない年齢のときに亡くなった。源氏・平家の世俗的・現実政治的対立に巻き込まれた、と言ってもよい。どこに安徳天皇について「承詔必謹」を語る余地があったのか?
 思いつくままの特殊な例だと小林よしのりは反論するかもしれないが、他の多くの天皇についても、時代ごとの世俗的・政治的権力者の強い影響を受けつつ、皇位が長く継承されてきた、と言えると思われる(そのことが日本の不思議さでもある)。
 余計ながら、13世紀の「承久の変」後、北条執権体制側によって後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ<島流し>されている。「承詔必謹」のもとで、こんなことが起きるはずはない。
 3.同じ月刊WiLL誌上で、水島総は、小林よしのりについてこう書く。
 「よしりん君、チャンネル桜をいくらでも批判、非難をしても良いが、NHKや中国共産党と同じ『捏造』だけはしていけない」(5月号p.137)。
 「本誌でチャンネル桜非難を続けている漫画家小林よしのりという存在も、『保守』の側の『田原総一朗』そのまま」だ(6月号p.137)。
 小林よしのりの欄のある同じ雑誌の中にこんな言葉もあるのだから、異様な雑誌(・編集方針)とも言えるが、いずれにせよ、まともな状態ではない。
 4.水島総とともに新田均の側につねに立つつもりもないのだが、月刊正論6月号は新田均「小林よしのり『天皇論』を再読する」を載せている(p.156-)。これは、小林よしのりの議論の論理矛盾・一貫性の欠如等々をかなり詳しく指摘している。
 新田均の指摘部分をいちいち確かめる意欲も時間もないが、新田の指摘はかなり当たっているのではないか(論理矛盾等は私も一カ月ほど前に指摘したことがある)。
 もう一度書いておく。小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。憂慮している。

0875/齊藤笑美子という「左翼」・「反天皇」憲法学者と福島みずほ(瑞穂)少子化担当相。

 齊藤笑美子、1975~。一橋大学法学部卒、現在(2008~)茨城大学人文学部准教授。専攻、「憲法・ジェンダー法学」。
 この齊藤が「暮らしにひそむ天皇制」を特集テーマとする週刊金曜日4/30=5/07合併号に登場し、「24条が届かない1章-個人の尊厳・両性の平等と天皇制」と題する文章を寄せている。
 これに見られる憲法解釈方法の逸脱の甚だしさには別の機会にも触れる。この点にも関係せざるをえないが、齊藤が「一憲法学徒として」言いたいこと二つのうち一つは「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」の問題らしい。そして、次のように言う。
 <皇位継承資格者の妻になった女性たちには、かかる自由は実質的にはない。「リプロダクティブ・ライツの欠如」は、憲法上の天皇の世襲制の「必然的帰結」で、「女系天皇」を認めても大きな変化はない。「天皇家の人々の権利の制約」はこれらの人々が最初から「市民的な権利保障体系の外部」にあることの「帰結」だ。>
 この人はいったい何を言いたいのか。世襲の(象徴)天皇制度の存在を憲法が明記して肯定しているかぎり、<世襲>制によって、天皇または皇族を一般的「市民」と同列に(平等に)扱うことができないのは、当然のことではないか。
 上のように指摘したあとで齊藤は、だから、という論法で天皇制廃止の憲法改正等を主張する。こうまで明記するとは現時点ではなかなか勇気のいる、だがいかにも「左翼」らしい見解だ。
 それはさておき、皇室の女性は「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」を実質的には持たないと問題視していることから窺われるのは、<一般>国民たる女性はそのような権利(・自由)を当然に持っている、持つべきだ、という見解に齊藤が立っている、ということだ。
 「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」なるものを(男性についても)一概にまたは一般的に否定する気はない。
 だが、この権利・自由を意識し、強く主張し続けることの帰結はいったい何だろうか。出産につながる妊娠をするかしないかを決する権利・自由の段階ならばまだよい。
 だが、妊娠した女性について「子を持つか持たないかを決める自由」を語ることは、どういう結果をもたらすだろうか。
 妊娠した女性の「個人の尊厳」と<自己決定権>を尊び、「子を持つか持たないかを決める自由」があると説くことは、中絶・堕胎を勧めることとなる可能性があるというべきだろう。むろん、やむをえない事由でそうしなければならない女性(・その配偶者等)もいるだろうが、上の権利・自由の強調は、妊娠中絶・堕胎を増加させることになる、と推測するのが自然だろう。
 民主党のウェブサイトの中の「男女共同参画政策」のページの中に、次のような恐ろしいデータが掲載されている(データの典拠は不明)。
 「2005年度の統計では、15歳~19歳の女子の中絶率は、人口千人につき9.4となっています。これは、性交経験の有無に限らず約106人に1人が一年間に中絶を経験していることを意味します。なお、年齢別にみると、19歳の女性の58人に1人、18歳女性の80人に1人の割合で人工妊娠中絶を経験していることになります。」
 民主党「男女共同参画局」のメンバーには局長・太田和美(福島2区)、事務局長・永江孝子(愛媛1区)以下、<小沢ガールズ>が勢揃いしているようだ。この人たちは、自らの党のサイトが示している上のようなデータとなっている原因・背景について、まともに頭を巡らしたことがあるだろうか?
 (男性についても似たようなものだが)女性についての<個人主義>の行き過ぎ、というのが基礎的だろうが、そこから派生する、とくに女性憲法学者や<ジェンダー・フリー>論者の説く、「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」もまた、上のような実態の背景・原因になっていると思われる。
 <少子化>社会への変化の背景・原因の一つであることも疑いえないだろう。
 <少子化>とは、戦後の女性が、「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」を積極的に行使したことの結果でもあるまいか。

 そうだとすれば、一国の衰亡の一徴表であるかに見える<少子化>は、<ジェンダー・フリー>学者・論者(「女性法学」なるものを含む)あるいは「左翼」フェミニストの、戦後における<勝利>の象徴であるはずだ。
 福島みずほ(瑞穂)は「少子化担当相」と称されている。真剣に適切な「対策」を考えているかは大いに疑問で、この人物は、本当は<少子化推進担当大臣>なのではないか。

0852/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)-その2。

 小林よしのりは同・天皇論/ゴーマニズム宣言スペシャル(小学館、2009.06)で(例えばp.179-180)、次のように述べていた。
 ・「日本の天皇は『徳』があるか否かが皇位継承の条件にはならない」。「日本の『皇道』は万世一系、神話からの連続性によってのみ成り立つ」。「『人格』は天皇即位の資格ではない!」。
 そして、「なかなか人格の怪しい天皇も歴史上存在している」とし、安康天皇、武烈天皇、称徳天皇、冷泉天皇の具体例を挙げている。
 ということは、少なくとも一般論としては、天皇または皇族の行動や発言、その基礎にある「お考え」がつねに適切であるとは限らない、つまり「人格」者としての適切な行動・発言・「お考え」であるとは限らない、ということを認めていることに他ならないだろう。
 そうだとすると、皇統・皇位継承あるいは女系天皇問題についても、現在の天皇陛下または皇族のご発言や「お考え」にそのまま従う必要は必ずしもない、ということを認めることになりはしないだろうか。
 しかるに、小林は天皇陛下や皇太子・秋篠宮殿下の「お考え」を女系天皇容認・旧宮家の皇籍復帰反対と「忖度」して、「だからこそわしも女系を認める主張をしているのだ!」と書いている(サピオ3/10号p.71)。
 さらに次のようにすら書く。-観測が外れていて「陛下、殿下が『男系絶対』というご意向ならば、わしは直ちにそれに従うとあらためて言っておく」(同上、p.72)。
 こうした見解は、天皇(・皇族)の地位は「人格」ではなく「血統」にもとづく旨の、すなわち天皇(・皇族)は「人格」者であるとは限らない旨の主張と完全に整合的だろうか。
 つまり、天皇(・皇族)の「お考え」を絶対視してはいけない場合もあることを小林よしのり自身が一方では認めており、少しは矛盾しているのではないか。
 今上陛下や両殿下は「人格」者ではないとか、推測される、あるいは小林が忖度している「お考え」は誤っている、などと主張したいのでは全くない。論理矛盾はないか、と小林に問うている。
 もっとも、小林よしのりは次のようにもいう-「日本の『皇道』では『徳』があるか否かは皇位の条件ではない。しかし、…現在の天皇にあっては、皇位が徳を作るという面も確実にあると言ってよい」(同・天皇論p.186)。
 これはいかなる趣旨だろうか。現在の天皇陛下、皇太子・秋篠宮殿下は「徳」がおありなので、絶対的に従う、との立場表明なのだろうか。
 だがしかし、小林よしのりは次のようなことも書いていた。
 平成16年の園遊会で今上陛下が国旗掲揚・国家斉唱は「強制でないことが望ましいですね」とご発言されたことにつき、「衝撃を受けた!」、陛下の真意は「形式だけでなく、ちゃんとした理解と心が伴っていることが望ましいですね」だろうと思ったものの、「だが、それが理想ではあっても、わしは『現状では強制も必要』と思っている!」(同・天皇論p.367-8)。
 ここでは今上陛下の「お考え」にそのまま従ってはいない小林の気持ちが語られているように読める。
 そうだとすると、天皇陛下・皇族の方々に「徳」があるか否かは、結局は自己が正しい又は適切だと考える見解と合致しているか否かによって決定されることになるのではないだろうか。この辺りはよく判らない。小林よしのりにおいて、必ずしも論旨明快ではないところもあるのではないか。
 内在的矛盾を感じて印象に残った書きぶりに、月刊WiLL3月号(ワック)の以下のようなものがあった。
 私は詳細を知らないが、竹田恒泰(この人が「皇族」だったことはないことは小林の指摘のとおり)が属する旧宮家・竹田家の一族の誰かについて、小林はこう書く(p.196)。
 「『週刊新潮』に家族のスキャンダル記事が出てるじゃないか」、「彼は護憲派であり、護憲のために天皇の公布文を悪利用してるじゃないか!」〔「彼」とは誰のことなのか私は知らない〕。
 この部分は、男系主義者の竹田恒泰を批判するために、または皇族復帰が望ましくない<不人格者>が竹田家一族の中にはいる、ということを言いたいがために、書かれたように思える。
 だが、そもそも、「スキャンダル」とか<人格>は「皇族」適性とは無関係だ、というのが本来の小林よしのりの主張ではないのだろうか。
 <人格>者か否か、<有徳>者か否かは、天皇たる地位、そして皇族たる地位とは関係がなく、決定的なのは「血」(・「血統」)なのではないか。
 その「血」の<薄さ>、つまり、旧宮家が天皇に男系でつながるのは「あきれたことに20数世代、600年以上も離れている」ことを指摘して(月刊WiLL5月号p.197)、小林よしのりは旧宮家の皇族復帰による男系維持論を批判する有力な論拠にしている。
 この論拠についても、私は(思考方法にもかかわる)異論または違和感を持っている。別の機会に書く。

0851/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)-サピオ4/14・21号。

 小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010)は読み了えているし、小林よしのりのサピオ(小学館)と月刊WiLL(ワック)上の天皇・皇室関係の連載もすべて読んできている。
 そのつど何らかの知識も追加的に得ており、何らかの感想も持ってきている。
 皇位継承問題が-雅子皇太子妃の個人的問題などよりはるかに-重要であることは言うまでもない。但し、小林よしのりの議論・主張に全面的に反対はしないが、無条件に支持することもできない。
 結論・内容自体についてもそうだが、論旨・論理過程にいささか無理なところもあると感じるし、内在矛盾がある点もあると感じる。
 さかのぼることは面倒なので(ヒマがあればいつか書いてもよいが)、最も新しい、サピオ4/14・21号(小学館)の2本の「天皇論・追撃篇」を取り上げてみる。
 小林よしのりは女系天皇容認論者で、男系限定論者、小堀桂一郎・櫻井よしこ・渡部昇一らを批判する。それはそれでもよいとして、その理由づけには疑問も残る。
 小林よしのりは今上天皇および皇太子・秋篠宮両殿下の意向は<女系天皇容認>だとし、それを「忖度」せよ、と主張している。
 基礎的データを小林が使っているものに限るが(いろいろと調べ、確認するのにも時間が要るし、そのヒマがない)、第一に、天皇陛下が「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」と述べられたその意味は、「将来の皇室の在り方」は皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしい、という趣旨かどうかは疑問が残る。日本国憲法を遵守する旨を仰ったこともある天皇陛下が、皇室典範が法律として国会が定めることに現憲法ではなっていることを御存じないはずはなく、現実にも「国会の議論にゆだねるべきであると思いますが…」と前置きされている(p.61)。
 皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしいとかりに望まれているとしても法制上はそれが絶対的に可能だとは思われていないと推察されるのであり、上のご発言の基本的な趣旨は、国会が議論する際には、皇太子・秋篠宮の「考え」も十分に配慮して議論して決定してほしい、ということではないだろうか。
 国会(あるいは加えて政府・審議会)だけで議論すれば足り、皇族の意見などいちいち聴く必要はないと考えている者たちもいるので、その意味では、陛下のご発言は「実に異例」、あるいは画期的だったかもしれない。
 だがそれは、審議(議論)・決定の<過程>に皇族、とくに皇太子・秋篠宮殿下も参画する機会、ご意見を発表する機会が与えられ、かつそれが十分に配慮されるように望む、という趣旨ではないかと思われる。
 上の意味でのご発言に、私はまったく異存はない。皇太子・秋篠宮殿下に限らず、皇族は発言して(意見発表して)も構わない、と考える。その内容について自由に批判する自由も国民には(あるいは政治家・評論家等)あるが、しかしそうした発言をすること自体を<けしからん>・<余計な介入をするな>とは言えないだろう。そのような意味で、天皇陛下のご発言は理解されるべきではないか。
 上の趣旨に沿ったことを秋篠宮殿下も言われているようだが(p.63、「皇太子」とご自分・「秋篠宮」殿下にとりあえず限定されているようだ)、第二に、皇太子殿下や秋篠宮殿下のお考えが「女系天皇」の容認(p.65)、あるいは「将来の皇族は…皇太子と秋篠宮、そしてその子供が新設する宮家に限定すべき」というもの=かつての皇族の皇族復帰の否定(p.63)であるかどうかは、なおも断定できないし、断定してはいけないような気がする。
 小林は「というお考えにしか読めない」(p.63)、「誰にでも『お察し』できよう」(p.65)と言うが、それは自らの女系天皇容認論に都合のよいように推測(忖度)している可能性を、なおも論理的には否定できないのではないか? かりに「せっかく」の「サイン」だとしても(p.65)、あくまで推測であり、「忖度」の結果であることは明瞭に意識しておく必要があるように思われる。
 第三に、小林よしのりは女系天皇容認の論拠の一つとして皇祖・天照大御神が女性だったことを挙げ、「ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできる!」と言っているようだが(p.66)、これはさすがに無理だ。
 天照大御神が女性だったとしても(これは間違いないだろう。「卑弥呼」も女性だ)、その後の天皇位の継承が<男系>主義でなされたことは歴史的事実だろう。女性天皇は存在したが例外的で、<女系天皇容認>の歴史的根拠を探すならば、皇子がいたのに皇女が皇位を継承した例、あるいは最初に生まれた子供が女性(皇女)だったが最長子を優先して天皇となった、というような例、というのを見出さなければならないように思われる。あらためて勉強する気持ちは今はないが、そのような例は皆無だったのではないか。
 まだ「天皇」位というものが意識されていない時代の、そしてまた後世(飛鳥時代・奈良時代)になっても「天皇」とはされなかった天照大御神が女性だったことを援用するのは、いかにも苦しい。
 「日本の天皇は女系だったと考えることもできる」と小林は言うが、その場合の「女系」という語は一般に理解された「女系」ではなく、拡張された、あるいはズラされた「女系」概念で、今日の議論にそのまま当てはまるものではないだろう。
 第四に、上の点をもち出したうえで、小林は男系限定論者は天照大御神が登場する「神話」を無視、否定しようとしていると批判しているが(p.66、p.73)、そこで登場させている小堀や新田均の主張を正確には知らないものの、これも無理筋、<いいがかり>にすぎないような気がする。
 小堀、新田均のこの問題に関する主張を支持している、と言いたいわけではない。彼ら「男系主義者」は天照大神を「排除」するために「神話」を「切り離し」、「何が何でも『神武天皇から』にしたいのだ、という論難は当たっていないような気がする、と言いたいだけだ。彼らとて、神話を完全に「否定」・「排除」する気などはないだろう。
 したがって、「神話を否定することは、天皇を否定することだ」、<男系主義者>は「どこまでカルト化」するのか、彼らは「うるさい少数者」で「左翼プロ市民と変わらない」、「神話と歴史を切り離し、天皇を単なるホモ・サピエンスの子孫としか」見ない、などと批判するのは(p.74)、感情的な表現で、それこそ「左翼プロ市民」の言い方にも似ている悪罵・罵詈雑言の類のように思える。
 それに、そもそもが、天照大神からか神武天皇からか、という議論の仕方は不毛なのではないか。
 第五に、最後の基本的な問題として、かりに天皇陛下や(重要な)皇族の意向が「忖度」できたとして、日本国民はそれを絶対的に支持しなければならないのか、という問題があるだろう。
 こんなことを書くと、小林よしのりから<不忠>・<左翼>と罵られるのかもしれないが、しかし、皇位継承の仕方は、歴史的に見ても、各時期の天皇や皇族の意向どおりになった、とは必ずしもいえないように思われる。この点もあらためて勉強しないで書くが、ときどきの政治的・世俗的権力者の意向も反映して定められたことはあったのではないか。
 そのような事例こそ異例であり、純粋に天皇・皇族の意向どおりに皇位の継承(とその仕方)は決定されるべきだ、という主張は成り立つだろう。しかし、かりに異例であっても事実としては、天皇・皇族の意向どおりには皇位継承されなかったこともあった。あるいはそもそも天皇・皇族の間で(皇室の内部で)皇位継承につき争いのあったこともあったのだ。
 天皇陛下や皇太子殿下等の皇族のご意向・ご意見も十分に考慮して審議・決定はなされるべきだろう。だが、かりに万が一正確に拝察できたとしても、「忖度」されたその内容に国民(・国会)はそのまま従うべきなのか、という問題はなおも残っている、と私は考えている。重く受け止めるべき、という程度のことは言えるだろう。しかし、「そのまま」拘束されるべき、とまで言えるのか…。
 以上は思考方法、論理の立て方の問題にかかわる。皇位継承の仕方の中身の問題については別途書くつもりだ。

0827/三島由紀夫全集第35巻の大野明男関連文章(1969)を読む。

 一 ①「大野明男氏の新著にふれて―情緒の底にあるもの」、②「再び大野明男氏に―制度と『文化的』伝統」の二つが、決定版三島由紀夫全集第35巻(新潮社、2003)に収載されている。
 契機となった大野著とは『70年はどうなる-⦅見通し⦆と⦅賭け⦆』で(出版社等不明)、上の三島由紀夫の文章は、毎日新聞1969.08.08夕刊、同1969.08.26夕刊が初出で、いずれも三島・蘭陵王(新潮社、1971)に所収。
 大野明男は当時「全共闘」支持の「左翼」論者だったようで、三島由紀夫がこういう文章を書いて、<保守>の立場での一種の<時事評論>をしていたとは詳しくは知らなかった。小説・戯曲を書いたり、一般的な文化・思想論を展開したりしていただけではなかったのだ。そういえば、<東大全共闘>と討論?し、それを本にしていた。けっこう、現実具体的な問題に介入していたのだ。なるほど、そうでないと、1970年11月の市ヶ谷での一種の<諫死>も理解はできない。
 さて、大野・三島論争?自体に立ち入らない(立ち入れない)。大野の文章全体を正確には知らないから。
 二 興味深い一つは、三島由紀夫の<憲法(とくに日本国憲法)>観が示されていることだ。
 三島によると、大野は「憲法」はその名のためではなく「成立を導いた『革命』のような政治過程の根本理念を表現した」ものであるがゆえに尊く、他に「優越」する、と書いたらしい。この部分を引用したあと、三島は書く。
 「なるほど新憲法に盛込まれた理念はフランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したものである。しかもアメリカ本国における幻滅を基調にして、武力を背景に、日本におけるその思想的開花を夢みて教育的に移植されたものである。『血みどろの過程を通って』獲得されようが、されまいが、それが一個の歴史的所産であることは否定できない。
 私は新憲法を特におとしめるわけではないが、これも旧憲法と等しく、継受法の本質をもち、同じ継受法でありながら、日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度において、新憲法は旧憲法より薄い、とはっきり言へると思ふ。
 …継受法も一種の歴史的所産であるなら一国民一民族の歴史的文化的伝統との関わり合ひにおいて評価せねばならぬ、というのが私の立場である。憲法に対して客観主義的立場の人がその保持に熱狂し、憲法に対して主観的主体的立場をとらうとする人が必ずしも熱狂的ではない、といふところが面白い」。(全集第35巻p.603-4)。
 三島は1969年に44才(1945年に20才)。東京大学法学部で誰のどのような憲法の講義を受講したのだろうか。美濃部達吉か宮沢俊義か。いや(在学期間を確認すれば判明することだが)新憲法自体が1947.05施行なので、そのときはすでに卒業していて、旧憲法を前提とする講義を聴いたのだろう。
 いずれにせよ、大学教育によって上のような知見に至ったわけではあるまい。そして、日本国憲法についての、その理念は「フランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したもの」という理解の仕方は正確なもののように思われる。1969年当時の大学法学部のほとんどにおいては、このような日本国憲法の説明は(憲法教育は)なされていなかったと思われるし、今日でもおそらく同様だろう。
 そしてまた、旧憲法も「継受法」だとしつつも、新憲法の方が「日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度」が旧憲法よりも「薄い」と明言して、新憲法に対する違和感・嫌悪感を表明している、と考えられる。
 大野明男は(反体制派「かつ」、あるいは「しかし」)<護憲>派だったようなのだが、新憲法(日本国憲法)に対する親近と嫌悪、これは今日にも続いている国論の分裂の基底的なところにあり、九条二項や「アメリカ」経由の欧米的理念の色濃い現憲法諸規定の<改正=自主憲法制定>に反対するか、積極的に賛成するかは、(公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに)重要な対立軸であり続けている、と考えられる。
 現憲法に対する態度は、結局は<戦後レジーム>に対する態度・評価の問題にほとんど等しい。これは、公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに大きな対立軸だ。そして、民主党のほとんどあるいは民主党中心新政権は<戦後レジーム>(現憲法)護持派なのであり、自民党の中には(民主党内に比べてだが)<戦後レジーム>脱却派=自主憲法制定派(改憲派)が多い(党是からは消えていない筈だ)、という違いがあることになろう。
 三 興味深い第二は、三島によると、大野明男は次のように書いたらしい(以下の「」は三島による引用内)。
 「日本の生産的労働階級」は「千余年の間、『天皇』などは知らずに、営々として『日本』を生きてきた…。心を『天皇』に捕えられるのは、つまり三島氏が『国民的メンタリティ』などと…持出しているのは、特殊な『明治以後』的なもの、正確には『日清戦争以後』的な、膨張と侵略の時代のメンタリティにすぎないのである」。
 おそらくは三島が「日本の歴史・文化・伝統のエトス」の中心に「天皇」を置く、又は少なくともそれと不可分の要素として「天皇」を考えているのに対して、大野は、日本の庶民の対「天皇」心情あるいは「天皇」中心イデオロギーは明治時代以降の産物で、「日本の歴史・文化・伝統」ではない、と主張したいのだろう。
 三島は大野の文を引用したのち、「これはよくいはれるルーティンの議論で、別に目新しいものではない」と応じ、<制度>・<感情>・<文化的伝統>等に論及している(上掲p.604-5)。
 この二人の議論と似たような議論が最近にもあったことを思い出す。
 すでに言及したが、隔週刊・サピオ11/11号(小学館)誌上で、小谷野敦のブログによる『天皇論』批判に対して、小林よしのりが反論している部分だ。
 大野明男にあたるのが小谷野敦で、三島のいう「よくいはれるルーティンの議論」をしていることになる。三島にあたるのが小林よしのりで、三島よりも<実証的に>江戸時代にとっくに庶民は「天皇」の存在を知っておりかつ敬慕していた「旨」を明らかにしている(なお「敬慕」の語はここで用いたもので、とくに拘泥したい語でもない。小林よしのりもこの語は用いていなかったかもしれない)。
 「左翼」の教条的な「ルーティンの議論」は40年を経て、なお生き続けていることにもなる。ウソでも100万回つけば…。「左翼」は捏造・歪曲にも執拗だ。

0812/月刊WiLL-トチ狂った政治・時代感覚と「使い回し」以上のひどさ。

 一 サピオ10/14・21号(小学館)の小林よしのり「天皇論・追撃篇-『WiLL』の雅子妃バッシングの病理」は、月刊WiLL編集長・花田紀凱とともに西尾幹二も批判していて、西尾幹二・橋本明・保阪正康の三人を<「秋篠宮を次の天皇に」と主張する「国民主権」トリオ>と称する(p.70)。
 皇太子・同妃問題での西尾幹二の論調をこの欄で批判したことはある。小林よしのりは大?雑誌上での正面からの批判で、勇気がある。
 二 上の小林よしのりのものを見て(読んで)いて思い出した。
 月刊WiLL10月号(ワック)は8/30の衆院選投票日の直前に発行されている。その10月号の背表紙は「総力特集・民主政権で日本沈没!」だが、表紙および目次の右端に最重要なもののごとく掲げられているのは、橋本明=西尾幹二「特別対談/雅子妃のご病気と小和田王朝」だった。
 じつは、アホらしくて、この「特別対談」なるものを読まなかったし、今でも読んでいない。
 今感じているのは、衆院選投票日直前に発行の雑誌の表紙・目次の右端に並べたテーマが「雅子妃…小和田王朝」だったという、月刊WiLL、そして編集長・花田紀凱の政治的・時代的センスのなさ、だ。よりにもよって衆院選投票日直前に「…小和田王朝」を右の第一に持ってくることはないだろう。
 それにもう一度見てみると、背表紙は「総力特集・民主政権で日本沈没!」だが、表紙と目次上で「特別対談/雅子妃のご病気と小和田王朝」の次に掲げられているのは、曽野綾子「麻生総理の卑怯な靖国発言」。
 曽野綾子を批判しているのではない。
 衆院選投票日直前発行雑誌の表紙・目次上の第一は「雅子妃…小和田王朝」、第二は「麻生総理の卑怯な…」、だったのだ。
 この雑誌と編集長・花田紀凱は、本当に「民主政権で日本沈没!」という気持ちだったのだろうか?。
 少なくとも表紙・目次の作り方は、<トチ狂っていた>としか思えない。
 三 月刊WiLL11月号は別の意味で奇妙で、問題がある。
 小さなことから言えば、民主党または民主党中心政権批判ではなく、背表紙を「総力特集/独裁者・小沢一郎徹底解剖!」として、民主党(・同政権)全般ではなく(10月号で済ませたつもりか?)もっぱら小沢一郎のみに焦点を当てている。
 上のことはまぁよいとしても、次の点は異様であり、出版倫理の観点からも問題がある、と考える。
 すなわち、表紙および目次上に小沢一郎「徹底解剖」の論文(文章)を右から6つ並べているが(執筆者は順に、森田実・石原慎太郎・北野弘久・松田賢弥・中西輝政・阿比留瑠比)、それらのうち、新規の文章と見られるのは森田実のもののみで、本文部分を実際に見ると、残り5つはすべて月刊WiLL上に過去に掲載されたものの「再録」だ(石原のものから順に、07.05、07.12、09.05、07.11、09.05からのもの)。また、中西輝政・阿比留瑠比のものは全部の「再録」ではなく「抜粋」。
 「抜粋」であろうと全部の「再録」であろうと、過去に同じ雑誌に掲載されたものであることに変わりはない。
 上の旨は、表紙にも目次にも明記されていない。本文へと頁を捲って初めて明らかになる。
 二年前のものを含む文章のタイトルをそのまま記憶している読者は少ないだろう。そして、上の5つはこの11月号のために新しく執筆されたものだと想定して購入した人々がほとんどだろう。
 私自身、とくに中西輝政が今の時期にどういう論評をするかに関心を持ったが、見事に裏切られて、中西の文章はすでに読んだことのあった2年ほど前の文章の「抜粋」だった。
 これは一種の<不当表示>にあたるもので、雑誌の消費者としての読者を瞞着する、詐欺のようなものではないか。
 表紙の面積の半分、目次の1/3ほどを占めるタイトル・執筆者表示のうち、5/6は、「抜粋」を含む「再録」なのだ。
 これは、いったん商品として販売したのと全く同じものを、既に購入した者に対しても(そのことをほとんど隠したまま)もう一度販売しようとすることに等しい、と思われる。
 いつか、<使い回し>という言葉が流行した。月刊Willと編集長・花田紀凱がしたことは(さすがに雑誌の全部ではないが)、重要部分の<使い回し>なのではないか。
 いや、<使い回し>とは、前の客が食べずに、きれいに?そのまま残っているものを次の客に提供することで、次の客にとっては初めての(主観的には)新しい料理だとすると、月刊WiLLと編集長・花田紀凱がしたことは<使い回し>よりもひどいことなのではないか。
 堂々と表紙・目次上に<再録>と明記すべきだ。
 出版業と読者の関係が、新設の消費者庁の「消費者行政」の対象になるかどうかは知らない。概念的・理論的にはなりそうだが(雑誌販売も商品の消費者に対する販売だ)、出版・表現にかかわる商品を実際に消費者庁(・消費者センター類)が扱うとは思えない。
 だが、最低、出版<倫理>の観点からは問題になるのではないか。
 余程原稿が集まらないのか、原稿執筆者が見つからないのか、そして「再録」して、ある
程度の分量にしないと定価分だけの「量」の文章を掲載できないのか、内情はもちろん知らない。
 だが、月刊WiLLはどうやらまともな雑誌ではない、トータルにそうだとは言わないが、部分的には又は一面については、そう感じている。

0784/「廃太子」を煽動する「極左」雑誌・月刊WiLL(花田紀凱編集長)。

 月刊WiLL9月号(ワック)が、ついに、表紙に「廃太子」という言葉を使い、それを勧めるがごとき論文を掲載した。橋本明「『廃太子』を国民的議論に」がそれで、巻頭目次欄でもこのタイトルのままだ。
 
 実際には「廃太子」のみを論じているのではなく、皇太子妃殿下の「現状」からして、次の選択肢があると考えているようだ(p.39-)。
 第一は、別居して雅子妃殿下が徹底的に治療し、健康を取り戻す。第二は、離婚。第三が「廃太子」で、これは「秋篠宮を皇位継承第一位にする方策」を同時に意味する。
 というわけで現在の皇太子殿下の「廃太子」のみを「国民的議論に」と主張しているわけではないが、「廃太子」をも明確に視野に入れてその可能性を論じている点で刮目されるべきであり、かつ憂慮される。
 現皇室典範3条は「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」と定める。
 すでに立太子を済ませ、皇太子=皇位継承第一位順位者となっている現在の皇太子殿下の「廃太子」には、「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」という要件の充足が必要であり、その旨の皇室会議の認定が必要だ。
 橋本明によると所功がサンデー毎日(毎日新聞社)7/26号に書いているようだが、所功が言うように、皇太子妃殿下の病気その他の事情が、皇太子殿下自身についての、「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」に該当するはずがない。この規定を無視するということは、法律(皇室典範)を無視することであり、法律違反措置を積極的に提唱しているに等しい。
 この弱点を薄めるために、あるいは離婚若しくは「廃太子」論を展開するために橋本明が採っているのは、いわば天皇・皇后お二人の<一体論>だ。いわく、「お一人のうち一人が欠けても成り立たないほど二人が一人になったかと見まがう姿」を国民は見てきたが、「これが戦後の皇室のあり方」ではないか。
 「戦後の皇室のあり方」を、憲法・法律を無視して勝手に決めるな、と言いたい。戦後まだ二代目の天皇・皇后にすぎない。
 皇太子妃殿下、さらには皇后陛下のご病気、あるいは宮中祭祀への不参加すら、皇太子や天皇の地位を脅かすものでは全くない。
 「お一人のうち一人が欠けても成り立たないほど二人が一人になったかと見まがう姿」はほほえましいし、望ましいかもしれないが、皇室あるいは天皇についての絶対的な慣習や要件ではない。例えば、戦後の昭和天皇の<地方巡幸>はおそらくほとんどが天皇陛下お一人でなされ、当時の皇后陛下は同行されていない筈だ。天皇および皇嗣としての皇太子と、皇后または皇太子妃を一体のものとして混同してはならない。
 橋本明は<狂った>ことも述べている。すなわち、現皇太子殿下、「秋篠宮さま、黒田清子さま」の「三人」で、「皇位継承についてもどのような方法が一番良いのか…話し合って頂き」、「答えが出たら天皇〔今上天皇陛下〕に判断を仰ぐ」、「これが本当にベスト」だ(p.41)。
 「天皇陛下の御学友」、元共同通信社記者・幹部だったという橋本明は、上のようなことを書いて恥ずかしくないのだろうか。そして皇室にとってもきわめて<危険な>主張であると感じないのだろうか。
 橋本明は皇位継承者について要するに、<今上天皇の子どもたちで話し合え、結論が出れば今上天皇に申し出て判断を仰げ>と言っているのだ。馬鹿馬鹿しい。
 <今上天皇の子どもたち>のうち誰がどのようにして<話し合い>を主導するのかよく分からないが、彼らの「答え」に今上天皇は拘束されるのか、それとも別のご「判断」もありうるのか。
 橋本は実質的には「答え」を尊重されるだろうとのニュアンスで書いているが、論理的にはむろん、<今上天皇の子どもたち>と<今上陛下>のお考えが異なることはありうる。こんなこと、誰でも想定することができる。
 上のような問題は本質的疑問では全くない。
 橋本の議論は、皇室典範を、そして少なくとも明治以降の皇位継承ルールを全く無視している。
 江戸時代以前も含めて、次期天皇=皇位継承者を前天皇が個人的に(好みで)決めたり、複数の皇位継承適格者(?)の「話し合い」で実質的に決めたりすれば、皇室内に混乱が生じ、ひいては国政全体にも悪い影響を与えることは、歴史的にも明らかだろう。
 現皇室典範2条は皇位継承順序につき、以下のように定める(/は改行)。
 「①皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子/ 二 皇長孫/ 三 その他の皇長子の子孫/ 四 皇次子及びその子孫/ 五 その他の皇子孫/ 六 皇兄弟及びその子孫/ 七 皇伯叔父及びその子孫
 ②前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
 ③前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする」。
 橋本のいう「国民的議論」がこの条項の改正の議論を意味しているとすれば、それは論理的には成り立つ。だが、詳論はしないが、この諸規定はきちんと遵守していった方がよい(「皇族」の範囲に関する議論は必要だ)。
 また、「この条項の改正の議論」を含まざるをえない「国民的議論」を、と主張しながら、改正案を示すことなく、ときどきの天皇やその親王(・内親王?)たちの「判断」や「話し合い」に委ねよ、としか主張しない橋本はきわめて無責任だ。さらに、皇室問題に関連してルールなきアド・ホックな判断の余地を大幅に認めようとする点で、皇室・皇位継承問題を混乱に陥れる危険な主張をしている。
 皇室・皇位継承問題が<混乱>して喜ぶのは誰か。皇位の安定的継承がなされないことを喜ぶのは誰か。日本国内の、日本国民の中の「左翼」または<天皇制度解体論者>であり、日本から<日本的な(日本のナショナルな)>要素が欠落していくことを望む一部の外国だろう。
 この問題に関するかぎり、月刊WiLL(ワック、花田紀凱編集長)は、今のところは表立った主張を声高にはまだしていない<天皇制度解体(廃止)論者>と同じ「極左」の位置にいる。 

0725/西尾幹二は何故、「左翼」週刊朝日1/16号に寄稿して、皇太子ご夫妻を批判したのか。

 大まかな記憶では昨年の4~6月頃に西尾幹二の皇室(とくに現皇太子妃殿下)論に言及したのち、昨秋以降のこの問題に関する西尾の諸発言は(読んでも)この欄では触れないできた。
 前回に再び言及してしまったので、さらに続ける。
 西尾幹二は、週刊朝日1/16号(朝日新聞出版)の<天皇陛下と美智子さまの20年>との特集の中に、「ご自覚欠ける皇太子ご夫妻・『民を思う心』をお持ち下さい」と題する文章を寄せている。
 ここでは批判(諫言)の対象の中心は雅子妃殿下(・小和田家)ではなく、「皇太子ご夫妻」になっている。そして西尾は昨年来、「皇太子殿下と雅子殿下に皇族としてのご自覚が欠けているのではないか、天皇制度そのものが傷ついているのではないかと問題提起した」とも書いている(p.22)。
 この部分での問題は、「皇族としてのご自覚が欠けている」とする、その根拠・材料の真否にあるだろう。歴史上もいろいろな皇太子妃殿下(・皇后陛下)がおられた筈で、雅子妃殿下の、西尾が言うような宮中祭祀へのご態度などは、「天皇制度そのもの」にとっては些末な問題だと私は理解している。現皇太子殿下が宮中祭祀に粗雑に対応されているとは、西尾も語っていないはずだ。
 また、西尾幹二は、羽毛田宮内庁長官の「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論があることによって」、「両陛下が深く傷つけられた」という指摘は、「妃殿下を弁護する論者に対する批判」であり、「形を変えた妃殿下に対する明確な批判」だ、と「私はみています」と述べている(p.22)。
 この叙述又は論理はおかしいのではないか。<左翼・反日分子>たる「妃殿下にとって」、特有の日本文化の象徴・継承者である「皇室そのものがストレス」なので宮中祭祀へのご参加・同席も熱心ではなくなっている、とするのが、雅子妃殿下に対する批判者たちの<論旨>ではないのか。
 前回も書いたように、そうだとすると、「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論」を提起しているのは西尾幹二らであり、そうした「論」によって「両陛下」を「深く傷つけ」ているのは、西尾ら自身ではないのか。
 西尾によると、「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論」が出現していることの原因は「元をただせば」、雅子妃殿下の「公務と祭祀の長期ご欠席」が「様々な憶測を呼んでいる」ことで、皇太子殿下こそが両陛下に「謝罪の意を伝えるべき」なのだそうだ(p.23)。雅子妃殿下こそが「論」発生の元凶、というわけだ。
 だが、これもおかしい。「様々な憶測を呼んでいる」と西尾は書くが、客観的な事実だと誰もが認めているわけでもないデータを提出したり推測を語ったりして「憶測」をし、かつ、<左翼・反日分子>が<獅子身中の「虫」>になっているとほぼ断定するかのような書き方をしてきたのは、西尾ら自身なのではないか。
 「様々な憶測」をし、勝手な(部分を少なくとも含む)主張をしている者たちの側には、両陛下のご心痛に対して、いかなる責任もないのか
 西尾は最後に言う-「妃殿下の問題一つをとっても、両殿下には『公』の自覚がなさすぎます」。「今のうちに、どうかご姿勢をお改めになるよう努力して下さい」(p.23)。
 問題は、前者のように簡単に<断定>してしまってよいのか、だ。また、最後の一文については、皇太子ご夫妻に対して「…努力して下さい」と小学校の教師の言の如き書き方がなされていることに驚く。せめて、<…ご努力をお願いしたい>くらいにはならないものか。
 私自身の皇室の方々への言葉遣いにも多数の問題があるだろう。何しろ、学校・家庭で、そんなことは教育されずに育ってきた。だが、<愛国・忠君>?の筈の西尾幹二ならば、教師が生徒に、あるいは先輩が後輩に諭すような言葉遣いは慎むべきではないのか。言葉遣いは必ずしも本質的問題ではないとは思うが、西尾幹二の、皇室又は皇太子ご夫妻に対する叙述には、ある種の<冷たさ>を感じるところがある。
 あらためて観て確認はしないが、4/05のテレビ番組の中でも、皇太子殿下に対して、一般人に対するのと全く同様の言葉遣いがなされていたことがあり、一瞬驚きを感じた。
 ところで、これまた正確な内容を確認はしないが、西尾幹二は、文藝春秋は(月刊文藝春秋も(株)文藝春秋)も)立場が明確ではない、<左翼>に引き摺られているのではないか、との旨の論考を何かに書いていた。
 今回取り上げた西尾の文章は、文藝春秋とは異なって明確に「左翼」の朝日新聞系会社(子会社)の出版する週刊誌に掲載されている。しかも、西尾が望んだことではないとしても、「20の証言」の中でただ一つ別枠(罫線囲い込み)の扱いを受けており、かつ、表紙の「週刊朝日」の文字の上に、「西尾幹二」とその文章のタイトルが(他の19名とは異なり)特記されている
 このような特別扱いを朝日新聞系週刊誌によって受けたこと、さらにはそもそも「左翼」系週刊誌に(依頼を受けてだろうが)執筆したことを、西尾幹二はどう考えているのだろうか。
 20名の文章のうち皇太子ご夫妻を批判するのは西尾幹二ただ一人だ。西尾は、朝日新聞的な、どちらかと言うと「左翼」的な読者が多いとも推察される週刊誌に執筆して、「左翼」的な者たちにも支持を拡げたい、自らの問題提起を知ってほしい、と考えたのかもしれない。
 だが、西尾幹二は文藝春秋以上に朝日新聞を嫌ってきたはずだ。これまでの経緯は、むしろ<天敵>どおしであったのではないか。だとすると、西尾が週刊朝日による執筆依頼を拒否しても、何ら不思議ではなかった、と思われる。
 何故、週刊朝日に「保守」論客・西尾幹二が登場するのか(曾野綾子らも同じ号に書いてはいるが…)、奇妙でなくはない。
 そして、西尾の主観的な気持ちが、上記のように、「左翼」的な者たちにも支持を拡げたい、自らの問題提起を知ってほしい、ということだったとしても、客観的には、西尾幹二は「左翼」と手を組んで皇室内に<混乱>を生じさせようとしている(又は拡大しようとしている)、という疑念を生じさせても、即時に一笑に付されるようなものではない、と考えられる。
 また、週刊朝日編集部の側が西尾幹二の名を「利用」しようとした、との疑いには、より十分な理由があるようにも思われる。
 70歳を超えてまだまだ髙い知的水準を維持しておられるようである西尾幹二には、別の方面でもっと活躍していただきたい、と願っている。同・私の昭和史(新潮社)も早く完結させていただきたい。

0673/竹田恒泰、西尾幹二、勝谷誠彦、社民党・福島瑞穂。

 〇記していなかったが、二月中に全読了したもの。ひょっとして他にもあるかも。
 ・竹田恒泰・怨霊になった天皇(小学館、2009.02)。2~3日で読み終えた。
 仔細はもう忘れかけているが、長い歴史の中では、天皇も皇族もいろいろ、といった感想。
 井沢元彦によると、明治天皇は、明治改元か即位礼の前日にわざわざ四国・香川県の崇徳天皇陵に参拝されたはずだ。12世紀前半に就位の天皇が、祟らないで国家・新天皇の御代の平穏をとの思いを19世紀にまで持たせ続けていたことになる。一度、崇徳天皇陵には行かねばならない。
 ・西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋、2008.10)。すでに一部触れたことはある。触れたのは、福田恆存にかかわる長い論考(講演録)の一部(p.123-190、計68頁!)。
 金融・経済への関心に感心するとともに、最後にとっておいた「安倍晋三は真正保守の政治家に非ず―二大政党制という妄想―」も頗る面白かった。
 月刊WiLL2007.10号初出で原題は「二大政党制という妄想」。この題のとおり、執筆当時は首相在任中ぎりぎりだったと思われる安倍晋三批判は大して重要なテーマではない。今日の政治状況を鋭く予感していた、との評価もできる。
 「自民党も三分の二くらいは左翼のようなものです」(p.32。加藤紘一、後藤田正純、河野太郎の名を挙げる)。きっとそうなのだろう。
 「私は共産党、社民党、公明党は…政党として認めていない…。…党首討論に…大きな顔をして出演させるべきではない」(p.34)。同感。とくに後者は、従前からそう感じていた。
 二大政党制をよしとしないのは自民党・民主党ともに「寄り合い所帯」で「理念が不透明」だから。なぜ日本政治がこうなったかには「小沢一郎が深く関与している」(p.35)。
 細かく引用しない。その後の、1955年体制の総括的言及・小沢一郎批判にも納得するところがほとんどだ。
 「小沢一郎は日本の政治をねじ曲げた万死に値する男です」(p.40)。
 こうした論評からすると、小沢一郎びいきの「保守」派らしき男、勝谷誠彦とは異様な人物だ。よいことも書き、喋ってもいるのに、小沢一郎(・従って現在の民主党)にはボロボロに甘い。
 これまであえて取り上げてこなかったのだが、勝谷誠彦・偽装国家Ⅱ(扶桑社新書、2007.12)では、安倍晋三を「偽装保守」と称し、「美しい国」と言うのを聞いて「私は椅子から転げ落ちました」とまで侮言しながら(「美しい国」との言葉の悪意をもった解釈もしながら)、また、多数の「偽装」の例を挙げながら、朝日新聞等による大々的で集中的な反安倍・反自民キャンペーンによる2007.07の参院選の結果については、ひとことも<偽装>とは称していない。あの選挙での自民党の後退しすぎは、マスメディアによる国民の意思の<偽装>だ、と思っている(2005の小泉「郵政」総選挙の結果もその面が強い)。私の感覚は、勝谷誠彦とは大きく異なっているようだ。まだ西尾幹二の方に近い。
 〇社民党・福島瑞穂は昨年(2008年)12月に桝添要一厚労相に対して「非正規労働者支援の緊急申し入れ」を行い、その中で「多くの非正規労働者が雇用保険の加入漏れの恐れがあることがわかった。非正規労働者が、資格がありながら雇用保険に加入していない実態を掌握する措置を講ずること」等を求めた。
 一方、福島瑞穂が代表の「福島みずほ事務所」は、「平成18年度までの数年間、雇用する私設秘書2人について労働保険に加入していなかった」。

 以上。産経新聞3/04による。
 これは実態把握については「灯台元暮らし」、措置要求については<天に唾する>、とでも言うのだろう。なかなか面白い記事だった。

0654/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その2。

 前回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定経過〔占領史録第3巻〕(講談社、1982)の江藤淳「解説」の要点紹介。
 ・1946.02.01に毎日新聞が憲法問題調査委員会「試案」を公表したが、これはじつは「乙案」に近い、宮沢俊義個人の「私案」(宮沢試案)に他ならなかった。このスクープの経緯、宮沢の関与の有無は明らかでない。いずれにせよ、この「試案」はGHQを「いたく刺戟し」、のちのマッカーサー試案起草のきっかけになった。
 ・01.30の政府・閣議に松本私案・甲案・乙案の三案が提出され、02.02の松本委員会は主として「甲案」を審議し、論議の内容は02.04閣議で紹介された。だが、政府は、これを正式決定せず、GHQの督促を受けて02.08に、松本私案をもとに宮沢が作成し、さらに松本丞治が加筆した「憲法改正要綱」(甲案と同じか類似)を提出した。
 この「憲法改正要綱」の「一般的説明」は、「根本精神は憲法をより民主的とし完全に…ポツダム宣言第十項の目的を達し得るものとせんとすることに在り」と書いた。所謂松本四原則の範囲内のもので、かつその原則はポツダム宣言第十項と矛盾しないとの前提に立つものだった。宮沢俊義は、1946.02.08の時点では、この立場にあり、<八・一五革命>を想定してなどはいなかった
 ・02.13の吉田茂・ホイットニー会談で「憲法改正要綱」は「全面的に拒否され」、代わりに、吉田外相・松本国務相は「マッカーサー草案」を手交された。このときホイットニーは、日本政府案では「天皇の身体の保障」をできない旨述べた。「決定的」な「脅迫」だったとするアメリカの学者もいる。
 ・「マッカーサー草案」の邦訳と一部修正を経ての03.06の日本政府「憲法改正草案要綱」公表までの経緯、宮沢・政府・GHQの関係は定かでない。但し、宮沢に「マッカーサー草案」を見る機会があったことは間違いない。
 また、のちの1968年の小林直樹(当時東京大学法学部教授(憲法))の本には、宮沢は03.06政府案の発表前に雑誌「改造」に「平和国家」として「丸裸になって出直すべき」旨を書き、その「非武装思想」は当時としては「珍しかった」のだが、宮沢が「何かの事情でマッカーサー草案のことを知った上」で「書かれたのかどうか」伺っておきたい、と書かれているが、宮沢自身は「記憶が頗る怪しい」が、現九条(当時は八条)の存在を知っていた以上、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」と答えた。
 以下は、江藤淳の判断が混じる。この宮沢発言は「その儘には受け取り難い」。雑誌「改造」の宮沢論文とは同誌3月号の「憲法改正について」を指すだろうが、この論文内容を見てみると、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」どころか、「ほとんどそのまま」マッカーサー草案の「趣旨を代弁している」。
 これに該当する宮沢論文の一部は次のとおり〔秋月が選択〕。
 「軍に関する規定」そのまま存置の意見もあり得るが、「日本を真の平和国家として再建して行こうという理想に徹すれば、現在の軍の解消を以て単に一時的な現象とせず、日本は永久に全く軍備をもたぬ国家―それのみが真の平和国家である―として立って行くのだという大方針を確立する覚悟が必要」だ、「日本は丸裸かになって出直すべき秋〔とき〕である」。
 ・江藤淳は続ける。「直ちに、次の二つの問題」を提起できる。第一は宮沢がマ草案を披見した時期。「改造」3月号発行が03.06以前で、宮沢が閣僚の一人からマ草案を示されたのが02月の下旬だったとすれば、400字×25枚ほどの上記論文を、宮沢はいつ執筆できたのか。02.13前後「何かの事情」でマ草案を入手しており、それに依って論文執筆したと考えざるをえない。
 第二は、宮沢にマ草案を披見させた人物は誰か。政府案とも松本四原則とも矛盾する「完全非武装平和国家」論を宮沢が書いたきっかけとなったからには、「当時の閣僚の一人」又は日本人であっても「政府関係者」ではないだろう。宮沢俊義の<「コペルニクス」的転向>を示す論文が書かれたのは、宮沢がマ草案を「仔細に検討する機会を与えられ」、同案がポツタダム宣言を逸脱し米国「初期対日方針」に準拠していることを「あらかじめ熟知していたから」だと考えざるをえない。
 その人物はどのような背景の誰か、毎日新聞の上記スクープとの関係、は謎のままだ。しかし、<「コペルニクス」的転向>は<八・一五革命説>の提唱(「世界文化」5月号)以前から開始されていたことは明らかだ。
 宮沢俊義には、一方で松本四原則を擁護しつつ、一方でマ草案の「援護射撃」を準備するという「屈折した薄明の一時期」があったのかも。この時期、この東京帝大教授の「脳裡に、いかなる想念が渦巻いて」いたのだろうか(以上、p.395-402)。
 
<さらに、続ける。>

0651/天皇(制度)と伊勢神宮をあらためて考える-その2。

 天皇(制度)と伊勢神宮の関係にかかわる若干の諸問題については、昨年の3月~5月に何回も書かせていただいた。もともとは一宗教法人のはずの神宮(伊勢神宮)の式年遷宮について天皇陛下の「ご聴許」があった旨が宮内庁の公文書によって神宮側に通知されているという事実を知って、??と感じ、関心をもったテーマだった。
 以下は昨年の3月~5月の関係エントリーの月日。3/27に始まっている。
 03月27日、04月04日、04月05日、04月15日、04月16日、05月05日、05月07日、05月08日、05月14日。  上記の事実から始まって三種の神器(うち二つは伊勢神宮と熱田大社に本物が所在する)の所有権の帰属等にまで発展したかと思う。あらためて一瞥すると、伊勢神宮崇敬会叢書の第一号、幡掛正浩・日本国家にとって「神宮」とは何か(1995.08)も読んで、言及していた。大して多くない文献を読んで自分なりに思考・考察したところが多かったと思う。
 最近に(前々回に言及した)大原康男・戦後の神宮と国民奉賛(上記叢書10号、2005)と百地章・伊勢神宮と公民宗教(叢書9号、2005)の二つを読んで(読了している)、議論されるべきことはすでにほぼきちんと議論されている(私などが関与しなくとも)、という想いが強い。
 できるだけ重複は避けて(といってもかつて書いたことを記憶していないので二度書きする可能性はある)、まずは上の前者を読んで知ったことを、確認も含めてメモしておく。
 ・戦後最初の式年遷宮(第59回)は20年毎だと1949年に挙行だったところ4年遅れて1953年になったのは、戦後の日本の混乱・財政難等に原因があったのだろうと推測していたが、必ずしも正確ではなく、財政難はその通りだが、(とりわけ国費を使っての)式年遷宮の挙行自体にGHQが「難色」を示したことが決定的だったようだ。当初ははたんに遅れるだけではなく「無期延期」の状態だったようでもある(以上、p.14~p.16等)。
 ・戦後最初の式年遷宮は、天皇陛下(昭和天皇)の「ご発意」によりその準備がすでに戦前から始まっており、前半は国営、後半・最終的には「民営」という異例の形をとった(p.21。戦前の準備を除き直接の国費支弁は全くなし。この点はその後も同じ))。
 ・戦後2回めの式年遷宮(第60回=1973年)は、まず神宮側(大宮司)が「大綱」を作成し、宮内庁(長官)を通じて天皇陛下(昭和天皇)の「ご聴許」(1964.03.17)があって、作業が進められた(p.22)。
 しかし、遷宮の本質からして「一宗教法人たる神宮が先に申し出る」事柄ではないので、戦後3回めの式年遷宮(第61回=1993年)の際は、大宮司が天皇陛下(昭和天皇)に「拝謁」した際に「次期式年運営のご準備をとり進めるように」との発言を賜ったのちに「準備の大綱」を神宮側が作成し、宮内庁(長官)を通じて天皇陛下(昭和天皇)の「ご聴許」(1984.02.03)を受けて具体的な準備に入った。天皇陛下の「ご発意」により始まる、という「本来の姿」により近づいた(p.26)。
 (上のような経緯はこれまで知らなかった。-秋月)
 ・天皇陛下ご自身は遷宮の儀式(最終的な「遷御の儀」)に直接には関与されない。
 戦後最初の式年遷宮の祭主(実質的には天皇陛下の名代に当たると考えられる-秋月)は北白川房子・明治天皇内親王で、皇族代表としての列席は高松宮宣仁殿下(昭和天皇の弟)(p.20)。
 戦後2回めの式年遷宮の祭主は鷹司和子・昭和天皇内親王(今上天皇の第三姉)で、皇族代表としての列席は常陸宮正仁殿下(今上天皇の弟)。
 戦後3回めの式年遷宮の祭主は池田厚子・昭和天皇内親王(今上天皇の第四姉)で、皇族代表としての列席は秋篠宮文仁殿下(今上天皇親王、皇太子殿下の弟)。
 天皇陛下はいずれの回も「出御」(「遷御の儀」のためにご神体とともに新正殿地に向けて出立することだと思われる-秋月)の時刻に合わせて、皇居内で神宮を「遙拝」された。(なお、内宮と外宮の二つあるので二日に分けて「出御」・「遷御の儀」は2回あった筈だ-秋月)
 ・戦後最初の式年遷宮(1953)の翌春(1954.04.08)に昭和天皇・香淳皇后が神宮をご親拝された際の、天皇陛下御製は次のとおり。
 「伊勢の宮に詣づる人の日にましてあとをたたぬがうれしかりけり」。
 (次回の式年遷宮は上記のことから明らかなように、2013年だ。内宮入口の宇治橋の立て替え(正確には別の箇所での新しい橋の建設)がすでに進んでいる)。

0637/竹内洋・学問の下流化(2008)、猪瀬直樹・作家の誕生(2007)、サピオの小林よしのり「天皇論」。

 〇12/16に竹内洋・学問の下流化(中央公論新社、2008)を全読了。気が向いたらいつか言及する。「下流化」とは「大衆社会の中での…ポピュリズム化」を言い、「ういてしまう学問のオタク化」に対する概念のようだ(p.13)。どちらに対しても憂いていると思われるが。
 〇途中まで読んでいたことに気づいた猪瀬直樹・作家の誕生(朝日新書、2007(古書))を、やはり一気に全読了。かなり前に太宰治や三島由紀夫らごとの著書(著作集2~4など)を読んでいたので、多分に重なっている感もある。
 この人は東京都副知事をしているようだが元来は政治・法律系ではなく文学・文芸系の素養の人だろう。道路公団民営化の議論もきちんとした基礎的「理論」があったとは思えない。もっとも、経済・政治(・行政)・法律、いずれの学者・専門家も、役立つ「理論」をいかほど提供したかはきわめて疑わしい。
 この本のp.120によると、大宅壮一は1955年(55歳のとき)にこう書いた。
 「平和主義などというものは、誰でもほしがるチョコレートみたいなもので『思想』でもなんでもない」。
 <日本の知識人は「デパートの食堂の前に立たされた子供」で、つぎつぎと輸入される舶来思想のどれを身に纏ったらよいか迷い、帽子の如くあれこれと被っては悩んでいる。外国の最新のカタログに眼を通していないと安心できない。……>
 次は、大宅壮一に好意的な猪瀬自身の言葉。
 「日本の近代は輸入思想の堆積物にあふれ、その断面の縞模様…〔には〕知識人の死骸が貝殻のように詰まっている。流行思想に帰依し自己喪失に陥る現象は、今後もずっとつづくのだろう。思想が帽子…〔ならば〕責任はともなわないのだから」(p.121)。
 〇サピオ・新年合併特別号(小学館、2008.12)。「輸入思想」によって「自己喪失」に陥ってはいないようである小林よしのり・ゴーマニズム宣言スペシャルは「天皇論」を開始している。
 p.71-元日の「午前5時30分、天皇は皇居内の神殿の前庭にお出ましになり、地面に敷いた畳にお座りになって、伊勢神宮をはじめ、四方の天神地祇、神武天皇陵、昭和天皇陵、ならびにいくつかの神社を遙拝される」。これが一年で最初の「宮中行事」。
 ほとんど毎号買ってきたが、当面は講読を欠かせそうにない。

0580/八木秀次は客観的には刑法第230条又は第231条に違反する「犯罪者」ではないか。

 戦前の不敬罪や現憲法下でも存立の余地があるとの議論がある象徴(天皇)侮辱罪や皇族(皇室)侮辱罪にいつぞや触れた。
 現法制のもとで法的に又は法論理的にある可能性は、一般国民について適用のありうる<名誉毀損罪>又は<侮辱罪>を皇族個人に対する<名誉毀損>・<侮辱>について適用することだ。
 (現行)刑法第230条と第230条の2は次のように定める。
 「第230条(名誉毀損)
 1
 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀 [き]損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
 2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」
 第230条の2(公共の利害に関する場合の特例)
 
 前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
 2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
 3 前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」
 これらによると、天皇・皇族関係発言や記事のほとんどは「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める」場合に該当するとされるだろうから、「真実であることの証明があったとき」にのみ加罰性がない、ということになる。
 侮辱罪に関する規定はもっと簡単だ。 

 「第231条(侮辱) 
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。」
 これら名誉毀損罪・侮辱罪によって保護される利益の主体の中に少なくとも「天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣」が含まれることは、次の条文によっても明らかだ。
 「第232条 (親告罪)
 1 この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
 2 告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。」
 <天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>以外の皇族の場合は当該皇族(皇太子妃を含む)個人が「告訴」することが可能だと解される。上の規定は内閣総理大臣等による代理告訴に関する規定であり、上記特定の皇族以外の皇族の個人的・人格的利益が保護されようとはしていない(=名誉毀損や侮辱の対象にはならない)、とは解されない。
 もちろん(代理を含む)告訴には事前の警察・検察との調整が必要だろうし、内閣総理大臣の<政治的>判断も必要なので、戦後ずっとそうだったと思われるが、<天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>を含む皇族に対する「名誉毀損」や「侮辱」について告訴がなされることは今後もないだろう。皇室関係の文章を書いている文筆家(売文業者を含む)や関係雑誌・書物を出版する出版社は、そのような知識くらいはもって、執筆し出版しているのだと考えられる。
 だが、現実に告訴される可能性がないからといって、皇室について何を書いてもよいというわけではないことは、すでに示唆したとおりだ。良心・良識感覚による自律が必要になってくる。
 上のようなことをふまえて再度話題にするが、諸君!7月号(文藝春秋)誌上での次の八木秀次の文章はどう評価されるべきなのだろうか(p.262)。
 「遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 「皇位継承順序を変える」ということは文脈上明らかに現皇太子から(その「皇嗣」性を否定して)別の方に「皇位継承順序」を移すことを意味する。これは、現皇太子は皇位継承適格性を欠いていると言っているに等しい。将来の「天皇」適格性を否定している(遠慮して書いても、疑問視している)、と言っても同じだ。
 しかして、その根拠は? 
八木秀次は刑法第230条の2の第一項又は第三項にいう、「真実であることの証明」をすることができるのか。
 便宜的に八木秀次に限っておくが、同誌上の中西輝政の文章も現皇太子妃殿下に対する「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的には当たる可能性が高い。
 勝手な推測だが、西尾幹二の現皇太子・現皇太子妃両殿下に対する月刊WiLL(ワック)誌上での論調が後になればなるほど、厳しくなくなっている(いちおうはすべて一読している)のは、基礎的な事実の認定が不十分な中で(いかに皇室の将来を憂慮しての心情からであっても)特定の皇族個人を非難するのは「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的に当たる可能性があり、皇室・宮内庁等が<法的>問題化する可能性が100%ないわけではない、ということを誰かにアドバイスされたからではないだろうか。
 別のことをついでに書いておくが、<世すぎのための保守>派、<稼ぐための保守>派、<生活のための保守>派(「派」には文章書き等の個人も編集者・出版社も含む)、には嘔吐が出る。<左翼>についてと同様に。
 いかなる「政治的」組織・団体とも無関係の私にはいかなる義務も責任もない。当然に、一円の収入にもならないこのブログへの記入も含めて。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0552/「われらの天皇家、かくあれかし」-<批判・注文>派4と<中間>派5。

  月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの計56人の文章のうち、現皇太子妃(雅子妃殿下)の現況についての何らかの言及のある文章は―区別がむつかしいものもあるが―20。6/13に続いて、その内訳を瞥見する。
 2 現皇太子妃(雅子妃殿下)に対して批判的、又は皇太子・同妃ご夫妻(もしくは妃殿下との関係で皇太子)に「注文」をつけている、というようにあえて一括できそうなのは、次の4名だ(当然に、区別・分類はむつかしいものであることを繰り返しておく)。
 ①秦郁彦-「雅子妃が…美智子皇后に代わって『国母』としての」役割を果たしうるか。「お病気ならしかたがない。回復を待つしかない」という「国民の思いやりも、そろそろ限界に達しそうな気がしている」(p.243)。
 ②久能靖-雅子妃をかばう皇太子も宮中祭祀の重要性を認識しているはずで、「皇室は祈り」との美智子皇后の言葉を「重く受け止めて欲しい」(p.204)。
 なお、この久能靖は「皇室ジャーナリスト」だが、「ジャーナリスト」は比較的に皇太子等の皇族に対して<対等>の物言いをする傾向にあるのを感じた。
 例えば、皇太子妃(問題?)にとくに言及している中に含めていないが、「ジャーナリスト」との肩書きの奥野修司は、近年「戦後の民主化を象徴した筈の『開かれた皇室』が、急速に『閉ざされた皇室』に変質しはじめた」と書いている。「開かれた皇室」論を微塵も疑っていないようなのは興味深い。また、奥野の「天皇ファミリーは裸のまま、危機にさらされている」(p.194)という<客観的>な表現の仕方も、天皇家を取材(・ジャーナリズム)の対象としてしか見ていない心性を感じさせる。
 ③山内昌之-今上天皇・皇后は「『祈り』の姿勢」をもち、敬愛されている。「皇太子御夫妻」は「この『祈り』の意味と無私の価値」を「継承して欲しい」(p.265)。
 これらの②と③は、とくに③は、<批判的>ニュアンスの少ない、むしろ「期待」を示すものとして、次の<中間派>にも分類できそうだが、何らかの<不満>があるからこそこれらのような「期待」又は「注文」の文章ができている、とも読める。
 外国人の文章を取り上げる意味は疑問なしとしないが、④ケネス・ルオフ-皇太子ご夫妻にはまだ「明確な象徴性がない」。「社会的に有意義なお仕事…に努力を注ぐ道を決心なさるべきだろう」。
 以上の4名は皇太子妃(・皇太子ご夫妻)に批判的だとしても、離婚・皇后位不適格・(皇太子の)皇位継承疑問視、といった議論と結びつけているわけではない。この点で、先に記した中西輝政・八木秀次・西尾幹二のグループとは全く異なっている。
 3 <中間派>とかりに呼んでおくが、現況に<憂慮>を示しつつ皇太子妃(・皇太子)を批判するわけではない(少なくともその趣旨は感じ取れない)人々が5名いる。五十音順に記す。
 ①大原康男-「皇太子妃雅子殿下のご病気とそれに伴って聞こえてくる大内山のざわめきも気がかり」だ(p.189)。
 大原の「気がかり」のあと二つは、皇位継承者(おそらくは悠仁親王以降の)問題と(天皇の)靖国神社ご親拝問題。なお、「大内山のざわめき」という「ざわめき」という言葉に、<騒いでいる>者たちへの批判的なニュアンスを感じ取ることが不可能ではない。その点を強調すると、次の<批判者を批判する>グループに入れてもよいことになろう。
 ②佐藤愛子-皇太子妃問題は「誰が悪いのでもない。時代の変化のゆえの悲劇」だ。「時代の波に揉まれておられる」天皇陛下を「おいたわしく思う」。
 ③田久保忠衛。「雅子妃に環境を合わせるか、…現状を続けるのか、環境と御本人を分離するかのいずれかしか対処方法はない」と書いて、抽象的にせよ制度論・方法論に踏み込んでいるようである点は、西尾幹二らと共通性がある。しかし、皇太子妃に対する批判的な心情は殆ど感じられず、上の文につづけて、「胸が痛む。ましてや天皇、皇后陛下の御心痛はいかばかりか」と書く。
 また、天皇・皇后両陛下と皇太子・同妃一家に<亀裂あり>旨の宮内庁長官発言やその報道ぶりに関して、「世界に例のない日本の皇室に反対する向きはさぞかし喜んでいるだろう。『天皇制打倒』などと叫ぶ必要もなくなるから」と書き、さらに、「スキャンダルを暴くマスコミの集中攻撃」に触れて、「国の中心を寄ってたかってつぶすのか」とも記す。
 これらの後者の部分は西尾幹二らとはむしろ正反対の立場のようでもあり、むしろ次の<批判者を批判する>立場のようにも解釈できる。
 というように分類し難いところがあるが、両方を折衷して無理やり<中間派>としておく。
 ④中西進-「週刊誌の広告」に「心が痛む」。皇太子妃の夢が実現できないのは、「国民および皇室関係者が、…あいまいな皇室観の中で八方塞がりになっている」からだ(p.236、p.238)。
 ⑤松崎敏彌-「雅子さまには、一日も早く、ご体調を回復していただき、お元気な笑顔を再び見せていただきたい」(p.255)。
 4 以上。あと残りは6人。この人たちは<批判者(マスコミを含む)を批判する>というグループとして一括できると思っている。別の回に。

0550/天皇こそ、かつ天皇のみが、宮中祭祀の主体、ということについての呟き。

 昨日、「皇后や皇太子妃が(宮中祭祀に)どのように関与するかについては多様な形態の歴史があったものと推察される」と書いたが、竹田恒泰の叙述の趣旨はもっと深いところにあると理解すべきだ、と考え直した。
 昨日書いたことと矛盾はしていないが、「天皇の本質は『祭り主』」で「皇后や東宮妃の本質」はそうではない、「全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」、等の竹田恒泰の指摘は要するに、宮中祭祀の主体は<皇室>でも<皇族>でもなく、<天皇陛下ご一身>だ、ということだ。そして、天皇は「神」だとは言わないものの、天皇こそが、また天皇のみが、践祚後の大嘗祭で皇祖神と寝食を共にすること等によって、皇祖神の「神霊」と接触する(そして祈る・願う・祀る等の)資格と能力を有する者として扱われる、ということではないか、と思う。
 天皇の代わり(「代拝」等)を神職にある者=「掌典」職の者が務めることができる祭祀行為があるとしても、皇后、皇太子、皇太子妃は、いかに天皇に近い「皇室」の方々又は「皇族」であっても、宮中祭祀の主体にはなりえない、なぜなら、天皇や神官がもつような、「神霊」と接触する資格・能力がないから、ということではないか。
 従って、皇后、皇太子、皇太子妃その他の皇族が宮中祭祀に「列席」することがあっても、それは彼らも宮中祭祀を「している」のではなく、「陪席」して、あるいは「付き添って」、天皇の祭祀行為を(実際に視野に入れるかどうかは別として)<見守っている>(又は形・表面は天皇の真似をしている?)にすぎないのだろう。
 従ってまた、皇后、皇太子、皇太子妃に「宮中祭祀のお務め」なるものがある筈がない。「お務め」するのは基本的に天皇のみだ。皇后、皇太子、皇太子妃に「お務め」がかりにあるのだとすると、それは「陪席」する又は「付き添う」義務ということになるが、この義務は宮中祭祀にとって「本質的」なものではないし、また、時代によって又は人によって、この意味での義務の有無や義務履行の仕方は異なってきた、ということなのだと思われる。
 以上は私なりの現時点での理解だ。祭祀行為や神道に関する知識が不十分なことによる誤りや概念の不正確さがあるだろうが、お許しいただきたい。
 それにしても、天皇の祭祀行為について、いかに無知だったかを痛感する。また、宮中祭祀といっても多数のかつ多様なものがあるようなので、一括しての議論は避けるべきとも考え始めている(他に、宮中祭祀以外の祭祀-例えば伊勢神宮・靖国神社…-の問題もある)。
 もっとも、<保守>派を称している人々の中にも私と似たようなレベルの人はいるようだ。戦後の風潮、つまり天皇・皇室・祭祀行為への無関心・無知識の傾向は、<保守>派の論客と言われる人々にも間違いなく及んでいる。

0545/中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008)を読んで-その2。

 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008.06)を読了したが、後味はよくない。第一は、すでに書いたように、天皇・皇位・皇室を重視する発言をしているこの二人が、別の雑誌では、揃いも揃って、特定の皇族を実質的に攻撃する<左翼が喜びそうな>ことを書いていることにある。中西よ、八木よ、<保守>とは「ふくよかな」ものではないのか?
 第二に、二人の議論の水準が高くない。中西輝政の発言が2/3か3/4くらいはある印象で、八木秀次は「仰る通りです」と挿む程度の「対談」部分も少なくない。実質的には、中西輝政の一人話(講演)で、相槌を打つのが八木の役割の如き(それだけとは単純視しないが)本のようだ。
 内容的にも、例えば最後の方で、<保守>は日本近代史にかかわりすぎたので(「建武の中興」を含む)日本の歴史を広く勉強し認識することが重要という<心構え>が述べられている。だが、読者に役立つような参考文献は挙げられておらず、古事記・日本書記・太平記等の「現代語訳」でもじっくりと(苦労して)読め、というつもりだろうか。また、そもそも日本史学界は戦後に圧倒的にマルクス主義者が支配したはずで、ヘタに日本史関係の本を読むと、公言はむろんされていなくとも実質的にはマルクス主義的歴史観に立った日本の歴史を勉強し認識してしまうことになりかねないが、そのような日本史学界への警戒の言葉などどこにも一つもない。ある意味では無責任な<放談>の類の本なのだ
 第三に、時間的には第一、第二のあとで感じたのだが、何となくヘンな本だ、という印象は次のようなことにあると思われる。
 政党であれば、自らの組織のために今後又は当面「何をすべきか」を議論して方針としてまとめて(文書化して)いくのだろうが、<保守>陣営にはそのような組織はない。同じことだが、<保守>派が何らかの団体を作っているわけでもない。あるかもしれないが、それは、<保守派>の一部の人たちの組織・団体であるか、特定の政策目的をもった組織・団体だろう。<左翼>の側にだって、実質的な(中国共産党、北朝鮮・金日成、アメリカの一部にも通じた)ネットワークはあるかもしれないが、一つの組織・団体のもとに集結しているわけではない。従って、<左翼はいま何をすべきか>というタイトルの本を<左翼>と自認する二人ほどの者が刊行するとはとても考えられない。
 しかるに、不思議なことに、なぜか<保守>に関しては、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP)などという本が刊行されているわけだ。
 これに何故違和感を感じたのか。中西輝政と八木秀次の二人が<保守>の一人としての<私はいま(今後)何をなすべきか>を公表する又は語り合うのならばよい
 しかるに、なぜ、この二人は、「保守はいま何をすべきか」を論じる資格があるのか。<保守>の世界にも論客は多数いるので例えば30名ばかりを集めて、「保守はいま何をすべきか」を論じて一冊の(シンポジウム)記録にすることは考えられなくはないと思うが、たった二人で、この二人が、なぜ平然と「保守はいま何をすべきか」を語っているのか。このタイトルにふさわしい結論が出ると考える方がおかしい(その意味では、何かの期待をしてさっそく入手した私も馬鹿だ)。
 むろん中西と八木には、自分は「保守」だとの自信があるのだろうが、まるで二人が<保守>を代表しているかの如きタイトルの付け方は(<左翼はいま何をすべきか>という本の刊行が想定し難いということの他に)、きわめて傲慢だ。それに既述のように、いろいろなことに触れられてはいるが散漫で、理論的にも資料的にもさほど有用な本になっていない(税込み1500円以下の本でこのタイトルの本を出すのだから、PHP研究所の蛮勇もスゴいものだ)。
 第四は、八木秀次にかかわる。「あとがき」によると安倍首相退陣表明後に八木は「再起を期そう…。作戦の練り直しだ」と諸君!2007年11月号に書いたらしい(その当時私もたぶん読んでいる)。そして、この中西輝政との対談本は「再び”保守”が立ち上がるために行った『作戦会議』の記録」だ、という(p.242)。
 八木秀次は何か大きな勘違いをしているのではないか。
 「作戦会議」と言えるほどの内容になっていないと思われることは別として、ひとつは、なぜ、<保守>の作戦会議に(そういうものが仮にあるとして)八木秀次が加わる必要があるのか、だ。表現を変えれば、八木秀次にはなぜ、<保守>陣営全体の「作戦」を考える資格があるのか。この人はそれほどの人物なのか、という疑問だ。
 ふたつは、本当に<保守>陣営全体の「作戦」を考えるならば、税込み1500円以下の本で大学に所属する二人が語りあってまともなものが出来る筈がない。そして、①本当の、真剣味を帯びた「作戦」ならば、「本」にして市販することなどはしない。日本の「左翼」も、中国共産党も金日成もアメリカ人等も簡単に入手できる本を出版して、真の<保守の作戦>を明らかにしてしまってよいのか。そんなことはしないだろう。インテリジェンスに詳しい中西輝政は、この点は理解しており、所詮は公にできる程度のことしか喋られないことは前提としていると思われる。だが、「再び”保守”が立ち上がるために行った『作戦会議』の記録」だなどとのたまう八木秀次は、「作戦」とは本来は敵に<秘匿>されていなければならないことが、頭の中に全く入っていないのではないか。
 ②本当の、真剣味を帯びた「作戦」ならば、大学所属の二人によってなどではなく、現在であれぱ当然に安倍晋三や(敢えて書かないが)某や某等々の政治家、経済界の某、某、マスコミ界(新聞、テレビ、出版社)の某、某等々の幹部、朝日新聞の中にもいる<保守>の某等々を中心にして錬られるべきだ。「評論家」業も営む者は、せいぜいアドパイザーたる役割を果たす程度に理解しておいた方が実際にも即しているように思う。しかるに、八木はなんとも軽く?言う。この本は、「再び”保守”が立ち上がるために行った『作戦会議』の記録」なのだと!
 ついでに-八木秀次は憲法学者ならば、もう少し現在の憲法学界の実情を報告してほしいし、日本的に物故者(又は現役引退者)に限ってもよいが、有力な戦後の憲法学者の「憲法思想」を批判的に分析してもらいたい。それは「憲法」学のみならず日本の国家・社会の全体にかかわるのだ。宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜…。東京大学に限っても、総括的な検討がされてよい学者は多数いると思われる。樋口陽一はまだいちおう現役だと思うが、八木は樋口陽一が書いて一般国民も読んでいるような文章・その内容を批判的に検討したことがあるのだろうか。そのようなものがきちんとあると、私ごときがこの欄で樋口陽一を取り上げる必要はなくなる。
 表向きだけ、又は「健康で文化的な最低限度の」生存の手段だけが「憲法学者」という業で、実態は<保守>活動家・運動家に堕しているならば、「憲法学者」としての彼に期待することは何もない。

0544/天皇・皇室を大切にする<保守>の八木秀次に尋ねてみたい。

 一 産経新聞「正論」欄6/05八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」は基本的趣旨に反対ではないし、月刊・諸君!7月号でも奇妙な言説を吐いている原武史については、別に批判的コメントを書く。
 但し、八木秀次の主張はどの程度の正確な理解をもって、厳密な言葉遣いでなされているのか、疑問とする余地がある。
 他の本や雑誌原稿と同様かもしれないが、八木は、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」と書く。「宮中祭祀」をしない「皇室」は「皇室」でなくなる、という具合に。
 だが、そうなのか(天皇と皇室は同じではない)。また、「皇室」という語によってどこまでの皇族を指しているつもりなのか。この後者の点は明確にしていただかないと、趣旨が正確には伝わらないと思われる。
 どうやら、「皇室」の中に皇太子・皇太子妃を含めていることは明らかなようだ。では、秋篠宮と同妃は「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」に含めているのか。また、成人して未婚の場合の眞子・佳子各内親王は「皇室」に入るのか。さらに、常陸宮と同妃の問題もあるが、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃や成人後に未婚の場合の彬子・瑤子各女王は含められているのかどうか。
 二 皇室典範に「皇室」という言葉はないが、「皇族」という概念はあり、その範囲が決められている。皇室典範5条によると「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王」が「皇族」と定められている(皇太子は親王のうちのお一人、皇太子妃は親王妃のうちのお一人だと考えられる)。
 天皇とこのような「皇族」を合わせたものが「皇室」なのだとすると、かつ八木秀次が「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」として「宮中祭祀」に「皇室」(「皇族」)全員の列席を求めているのだとすると(少なくとも「宮中祭祀」に違和感を持ってもらっては困ると考えているのだとすると-以下同じ)、常陸宮・同妃(華子妃殿下)、秋篠宮同妃(紀子妃殿下)はもちろん、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃はもちろん成人後の(婚姻するまでの)眞子・佳子各内親王、彬子・瑤子各女王までもが「宮中祭祀」の参加・列席を求められていることになる(なお、<成人後>と限定しているのは、幼児時代にまで求められはしないだろうという常識的発想からする、私の勝手な推測にすぎない)。
 はたして今日の実際の宮中祭祀に、これらの人びとは(皇太子妃を除いて?)参加・列席されているのか?
 特定皇族の「宮中祭祀への違和感」を八木秀次は憂慮し(かつ批判?)しているようだが、その「皇族」又は「皇室」の範囲を明確にし、かつ彼が問題にしている人物以外の方々は宮中祭祀に参加・列席しているのかくらいはきちんと調べたうえで議論してほしいものだ。
 三 皇室典範による「皇族」の範囲の定め方とは別に、「内廷皇族」と「内廷外皇族」という区別もある。
 皇室経済法4条1項によると、「内廷費は、天皇並びに皇后、、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし、別に法律で定める定額を、毎年支出するものとする」。

 この規定は「内廷費」に関する定めだが、ここに列挙されている、いわば天皇陛下の直系の家族が<内廷皇族>だ(妃を含み、婚姻した旧内親王や皇太子以外の旧親王は含まないものと思われる)。
 一方、条文は省略するが、「内廷費」ではなく「皇族費」が支出されている皇族を<内廷外皇族>という。<宮家皇族>とも言うらしい(園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007等々)。誤っていれば失礼だが、婚姻して独立の宮家を立てられた秋篠宮と同妃・お子さまたちは、上の条文の内容からすると<内廷外皇族>に当たるものと考えられる。皇族がいらしゃる場合の秩父宮家・高松宮家・三笠宮家の人びとの場合は勿論こちらになる。
 さて、八木秀次が「皇室」というとき、<内廷皇族>のみを指しているのかどうか。もしそうならば、その旨を明記しておくべきだろう。そして老齢で病気の可能性もある太皇太后、皇太后やまだ幼年である場合の「皇太孫」や「内廷にあるその他の皇族」に対しても、、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という理由で宮中祭祀への参加・列席を求める趣旨なのかどうかを知りたいものだ。
 四 八木秀次は月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の文章の最後に皇室典範三条を持ち出して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」、という<法解釈>を早々と示した(p.262)。
 皇室典範3条は次のとおり。-「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。
 この規定は明らかに「皇嗣」に関する定めだ。そして(言葉からして容易に判るが)「皇嗣」の意味に関する規定に次のものがある。
 皇室典範8条皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」
 この定めでも明確なように、現在において「皇嗣」とは皇太子殿下お一人であり、同妃は「皇嗣」では全くない。
 しかるに何故、八木秀次は「皇嗣」に関する上の条文に言及して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」と書き記したのか?
 何らかの誤解をしているか、皇太子妃殿下ではなく現在の「皇嗣」=皇太子=将来の天皇が「祭祀をしない」ことを想定して、上のような<法解釈>論を展開しているとしか考えられない。
 ではいっいたどこに(妃殿下ではなく)皇太子が将来において「祭祀をしない」こととなる兆候がある、というのだろうか。また同じことだが、皇太子殿下は「宮中祭祀への違和感」をお持ちになっているのだろうか。そう推測(憶測)しているのだとすれば、その根拠はいったい何か。
 上に述べたことの充分な根拠もなく、「重大な事故があるとき」に該当するものとして「皇位継承の順序を変えること」まで八木秀次は提案している。これはじつに<怖ろしい>ことだ。一介の一国民が「皇嗣」たる皇太子殿下について「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当た」るので、「皇位継承の順序を変えること」ができるのですよ、と言っているのだ。おそらくは充分な根拠もなく「皇位継承」の順序についてまで口を出しているのだ。
 以上。述べたかったことは基本的には二点。第一、八木秀次は平均的国民よりも天皇・皇室制度について詳しいはずだが(天皇(制度)について八木は前回触れた中西輝政との対談本・保守は何をすべきか(PHP、2008)でも何度も触れている)、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」の意味・範囲が明らかにされていない。
 第二、八木秀次は皇太子=皇太子妃という(学者、いや普通人でもしないような)混同をしているのではないか、そうとでも考えないと、今の時期に「祭祀をしない」ことによる「皇位継承の順序」変更の(少なくとも可能性の)主張をできるはずがない。
 かつまた、このような主張は非礼であり、少なくとも時期的に早まりすぎている。
 これらは、研究者・学者という一面ももつ八木秀次ならば容易に(論理的にも概念的にも)理解できる筈だ。単純な活動家・運動家に堕していないかぎりは。
 今回に書いたことを含めても、書いている趣旨の不明瞭な、かつ天皇・皇室にかかわる正確な知識がないと見られる八木秀次は<保守>のリーダーには(リーダーの一人にも)絶対になれない、ということは明瞭だ。傲慢にならない方がよい、と感じる。

0543/中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP)と諸君!7月号でのこの二人の文章。

 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人びと(PHP、2008.06)につづいて中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008.06)も入手して、読む時間が足りない。また、書く時間があればこれらを読んでしまいたい。だが、いずれも途中まで読んだだけだが(座談なので、すぱやく読めてしまう)、後者から一部抜き出して、関連するコメントを書いておこう。いちおう、後者についての第一回になる。
 上の中西輝政と八木秀次の対談本の大切なポイントではないかもしれないが、<進歩(革新)派>から<保守派>への「改宗派」や所謂「すべて派」〔説明省略〕に対する皮肉らしきものを述べたあと、中西輝政は言う-「非常に過度な攻撃性を示してしまうというのは、まだ本来の保守になりきれず、『反左翼』『反リベラル』にとどまっている」。また、八木秀次も続ける-「本来保守というものは、ふくよかなものであるはずです」(p.105)。
 別の箇所で、中西輝政はこうも言う-保守とは思想ではなく感覚・心。「だから賢(さか)しらに論(あげつら)うという試みを過度にすると、かえって保守から離れるという側面」がある(p.131)。そして、八木秀次は「保守思想」の「理論化、体系化をすべき時期」ではないか(p.131)、「底の浅い保守思想」の淘汰(p.134)、「保守思想」の整備(p.135)等と言及しつつ、本来は「保守から離れる」ことになるかもしれないが(p.131)、などとも言っている。
 これらのやりとりにとくに反対するつもりはない。却って、むろん二人が意識している筈もないが、このブログ欄が<反朝日新聞・反日本共産党>とのみ語って「保守」という語を使っていないことや、樋口陽一らを「賢(さか)しらに論(あげつら)う」ということをしてきたようで、やや耳に痛い気もする。
 だが、この二人が日本の<保守>主義界を代表している筈はないし、この二人がそのように自分たちを位置づけているとすれば、傲慢だろう、とも思う。また、八木秀次が発言していることの中には私には彼には荷が重すぎると感じることもあるが、この点は別の回に書く。
 思い出すのは、月刊・諸君!7月号の特集「われらの天皇家、かくあれかし」の中に計56あった文章の中の、中西輝政と八木秀次のものの内容だ。
 全員のものをまだ読み終えていないが、西尾幹二が別の雑誌で述べていた結論的なことと、表現は違っても、同趣旨のことを述べていたのがまさにこの二人だった。
 そして、竹田恒泰を信頼するかぎりは、この二人の文章は、現時点では、率直に言って<妄言だ>。よくぞ、「神道と皇室に対してどういう態度をとるのか」、この点を「素通りして日本の保守はない」(中西輝政。上の対談本p.135)と言えるものだ、という気がしている。
 この問題に前回に触れて述べたようなことに対して、<では皇室(の重要部分)が「左翼」に乗っ取られてよいのか、「左翼」の浸透を許してよいのか>という反論があるかもしれない。それを想定して、いちおう再反論しておこう。
 竹田恒泰の言を信じれば、皇太子妃が宮中祭祀に列席されようとされまいと宮中祭祀の本質に変化はない。天皇(と将来の天皇・皇太子)こそが大切なのだ天皇陛下が「左翼」に乗っ取られない限り、<天皇制度>はまだ生きており、「日本」も存続している
 私には事実関係の確定のための資料も能力もないが、―以下、本来は書きたくないことに入ってしまうが―万が一、皇太子妃が(祭祀の意義を認めることのできないような)「左翼」心情の持ち主なのだとすれば、もう遅いのではないか。それを阻止するためには、皇太子のご婚姻前の段階ですでに警告・警戒の発言を八木や中西は(西尾幹二も)しておくべきだった、と思う。今では、一国民としては(憂慮しつつも?)「静かに見守る」他はないのではないか。
 また、皇室の<外>からの<世論>(月刊雑誌上の意見も含む)の圧力で、皇太子妃たる地位の適格性を論じ、あまつさえ変更の趣旨を含む意見を述べるというのは、きわめて不謹慎なことだ、と思う。このことは、たんに皇室への敬意という心構えのみの問題ではなく、<世論>(月刊雑誌上の意見も含む)という圧力によって皇族の地位が変動されることがありうるという先例を作ってしまえば、逆に<左翼的世論>が皇室内の問題・皇族の地位に具体的に介入してくることは目に見えている、という趣旨の方をむしろ多く含んでいる。
 上のことくらい、中西輝政、八木秀次、西尾幹二は理解できないのだろうか。じつに嘆かわしいことだ、と私は感じている。「賢(さか)しらに論(あげつら)うという試みを過度に」行っていることにはならないのだろうか。
 
ということもあって、中西輝政と八木秀次が日本の<保守>主義界を代表している筈はないし、この二人がそのように自分たちを位置づけているとすれば、傲慢だろう、とも思っている。もっとも、彼らが上掲の本で語っていることの80%は理解できるし、かつそのうち90%くらいは支持できる(読んだ限りでは皇太子妃問題に言及していない)、ということも追記しておこう。

0540/中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)をほぼ読了。

 中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)を殆ど読了。記憶に残っている範囲から、いくつかメモしておく。
 ・江戸時代に祭祀復活、略式祭祀の正規化(古い形式に戻すこと)、飢饉の際の施米につとめられたのは、光格天皇
 (この天皇は東山天皇の三世の孫(玄孫)で、後桃園天皇までとは別の(現在につづく)皇統に移った最初の天皇とも言える。なお、竹田恒泰は明治天皇の四世の孫。)
 ・今上天皇は、美智子皇后とともに橿原神宮出雲大社も親拝され、石清水八幡宮も親拝された(p.73)。両陛下は、平成5年以降、各県の護国神社をすべて親拝された(p.151)。
 (上のようなご親拝は天皇の「公的」行為と理解するのが通常の感覚と思うが、「私的」な<宗教的>行為と見なしているのだろう、マスコミは全く又は殆ど報道していない。)
 ・佐藤栄作と田中角栄とで天皇・皇室観はかなり異なる。田中角栄は天皇に対して「反感」をもち「一種不遜な」態度をとっていたとも言われる(p.91)。日本人の一部にある天皇(・皇室)への<怨念>は継続している。「伝統的・文化的」に「型が定まったもの」を崩すことを「進歩」と捉える心情が、戦前の社会主義者(・共産主義者)以外にも残っている(p.93-94)。
 ・現皇室典範(法律)は現憲法施行前に制定されており、かつ旧憲法下で必要だった法律制定手続を経ていない、という問題をもつ(p.104)。
 (この手続の瑕疵は旧憲法自体に違反しているのか、法令上の定めに違反しているのか、それとも旧憲法・法令は明記していない<慣行>に反していたのか、なお確認してみたい。)
 ・「天皇制」を厳しく批判し、「いずれ廃止されるべきである」と書いた横田喜三郎・天皇制。当時、東京大学法学部教授(国際法)、のち最高裁裁判官、勲一等叙勲(p.118-9)。
 ・宮中三殿への日々のお参り、宮中祭祀こそ天皇の「最大の御公務」。また、天皇はご旅行の際には「必ず『三種の神器』を一緒」に携行される。どこに宿泊されても、「毎朝、伊勢の皇大神宮に向かっての遙拝」を必ずされる。だが、多くの国民がこれらのことを知らない(p.136-8)。
 ・宮中三殿には「掌典」という神職、「内掌典」という巫女にあたる神職もいて、「皇居から一歩も外に出ずに神事を務めて」いる。こうした支えがあってはじめて宮中祭祀は成り立つ(p.138)。
 (「掌典」・「内掌典」は宮内庁職員としての<国家公務員>か。そうではなく、天皇の<私的な>使用人として、「公的行為」のための宮廷費からではなく、天皇・皇室の「私事」のための「内廷費」から給料?(報酬・手当?)は出ている。宮中祭祀の挙行を「私事」扱いすることは、<天皇制度の本質>と矛盾すると思われることは、何度も書いた。)
 とりあえず、以上。
 どこかに書いてあったかもしれないが、樋口陽一を含むおそらく殆どの憲法学者が、<統治権の総覧者>から<象徴>への変化・断絶、<天皇主権>から<国民主権>への変化・断絶を強調するのは、一面しか捉えていない。歴史的・伝統的な天皇制度を見るとき、日本国憲法のもとでもそれは<連続して>生き続けている、という理解の方が本質により近いものと考えられる。

0530/西尾幹二は皇室典範等のどの法律・どの条項に基づく「皇室会議」を指しているのか。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の<われらの天皇家、かくあれかし>特集で、西尾幹二は、皇室典範(という法律)29条が内閣総理大臣を「皇室会議」の議長と定めているので、福田康夫現内閣総理大臣に対して、質問・要請する、というスタイルで文章を綴っている。最初の質問・要請事項は、皇太子妃のご病気・宮中祭祀へのご欠席等は「国家」問題・「国家レベルで解決されるべき政治問題」だと思うが、閣下(福田首相)は「そのような認識をお持ちであろうか」、のようだ(p.241)。
 内容的又は実質的問題はすでに(前回に)かなり触れたので、形式的・手続的問題について言及しておく。すなわち、「皇室会議」は「皇室」に関する事項ならば何でもすべて議題として議論することができるのか? 西尾が援用している皇室典範の全条項を、西尾自身は読んでいるのだろうか。
 皇室典範37条
皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」。
 皇室会議の権限は法律に列挙されている事項に限られる。同会議の議長としての内閣総理大臣の権限も(同会議に関する限りは)同じ範囲・事項に限られることとなる。その範囲・事項に該当しないと、議長・内閣総理大臣は「皇室会議」を招集・開催できない。

 やや急いで確認したので、見落としがありうるが、法律のうち皇室典範上の定めに限ると、「皇室会議」の権限は次のとおりだ。以下、特記がない限り、「皇室会議の議を経ることを要する」又は「皇室会議の議により…」と定められている。
 ・同3条/「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、2条に定める順序に従つて「皇位継承の順序を変えること」。 
 ・同10条立后及び皇族男子の婚姻」。
 ・同11条
一項/「年齢十五年以上の内親王、王及び女王」が「その意思に基き」、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同・同条二項/「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王」が「前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるとき」に、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同13条但書皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」が、「直系卑属及びその妃」が例外的に「皇族の身分を離れないものとすること」。
 ・同14条二項/「皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる」(第一項)が、これらの者が「その夫を失つたとき」、「その意思に」よらなくとも、「やむを得ない特別の事由があるとき」に「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同16条
二項/「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」に、「摂政を置く」こと。 
 ・同18条/「摂政又は摂政となる順位にあたる者に、精神若しくは身体の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、一七条が定める「順序に従つて、摂政又は摂政となる順序を変える」こと。
 ・同20条
/上記の「第十六条第二項の故障がなくなつたとき」に、「摂政を廃する」こと。
 西尾幹二は、皇太子妃うんぬんの問題は、上記の皇室会議の権限のうちどの条項に該当すると判断しているのか、皇室典範以外の法律上の権限ならばどの法律の何条が定める権限に属する問題なのか、を明確にしておくべきだ、と思う。冒頭の文を「皇室典範の第二九条に…と書かれてある」から始めているのだから。

0529/月刊・諸君7月号(文藝春秋)の天皇・皇室特集の一部を読んで。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の特集<われらの天皇家、かくあれかし>の各人の文章をかなり読んでみた(途中で気付いたが、執筆者名の五十音順で掲載されている)。56人分もあるので、まだ全員は読めていない。
 いくつか感想を述べる。
  皇太子妃殿下問題(?)-と書くのも失礼のような気もするが容赦いただきたい-に関して、私の意見・気分に最も近いのは、次の竹田恒泰の言葉だ。
 「騒ぎ立てるのではなく、静かにお見守り申し上げるのが日本国民としてのあるべき姿」ではないか(p.228)。
 この文の直前の「…など、報道されていることが仮に事実だとしても、その程度で皇室の存在が揺らぐようなことはあり得ないと私は断言する」、もきちんと読むべき(そして感得すべき)文章だと思う。
  なぜかかる立場をとりたいのかの理由の(すべてではないが)きわめて重要な一つは、田久保忠衛が異なる文脈で述べている文章を借りると、皇室内部の問題について騒げば騒ぐほど、「世界に例のない皇室に反対する向き」が「さぞかし喜んで」しまう、なぜなら「『天皇制打倒』などと叫ぶ必要もなくなるから」(p.226)、ということだ。
 皇太子妃殿下問題(?)による皇室内部の混乱、論壇や世論の沸騰・混乱こそ、「左翼」、とりわけ「<天皇制度>解体論者」が望んでいることだと考えられる。正面から表明していなくとも、「左翼」>反・天皇主義者たちがほくそ笑んでいる姿を想像できそうな気がする。
 皇室に関する一切の議論・論評をしてはいけない、とは勿論主張しない(所謂「お世継ぎ」問題・女系天皇の可否問題は重要だ)。しかし、推測・憶測等にもとづく特定の皇族への批判・攻撃あるいは問題提起等は、主観的意図がどうであれ、皇室や<天皇制度>を支持する人々を離反させ、国民の間に亀裂を生み、結果として<天皇制度>廃止・解体につながっていく危険性を秘めている(その方向は「左翼」、とくにマルクス主義者=反「天皇制」主義者が切望していることだ)、ということに留意しておくべきだ、と思う。
 ということから、西尾幹二論文については5/27に書いただけであえて済ましたのだった。
  今回は上記のような特集も出たので感想を述べざるを得ないが(そしてすでに述べているが)、上のような見地からすると、尊敬している西尾幹二に対して厳しい言い方になるが、次のような笠原英彦の西尾に対する反応は尤もだと感じる。笠原は次のように述べる。
 西尾の皇室観は「実に卓越」したものだが、「読み進むうちに…正直いって驚いた」。「氏の根拠となる情報源は何処に。いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る」。西尾の論調は、「格調高くスタート」し、「おそらく」を連発し、「思いっきり想像を膨らませ」、ついに妃殿下を「獅子身中の虫」と呼んで、「噂話の類まで権威づけてしまつた」。
 笠原英彦は私も所持している中公新書・歴代天皇総覧(2001)の著者だが、竹田恒泰とほぼ同様に、西尾は「憂国の士であるが、過剰な心配はご無用」と書き、「天皇といえども十人十色」と続けている。おそらく、皇后も、皇太子も、皇太子妃も「十人十色」ということになるだろう。
  皇太子妃問題(?)に言及している執筆者(過半数というわけではなさそうだ)には、かつての私と同様の、皇室祭祀・宮中祭祀に関する理解・知識の不足があるように思われる。
 5/27に触れたことだが、竹田恒泰同・「西尾幹二
さんに敢えて注〔忠?〕告します/これでは『朝敵』といわれても…」(月刊WiLL7月号(ワック))によると、次のとおり(5/27の一部反復になる)。

 「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だが、「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様だ。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例があ」り、「幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ(月刊WiLL7月号p.41)。
 竹田はさらに、次のように言い切っていた。
 東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」。
 かかる理解とそれにもとづく見解が適切なものだとすると、皇太子妃殿下が長期にわたって宮中祭祀に列席されていないことが事実なのだとしても、それは、中西輝政がいうほどに「ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき問題」(p.239)なのだろうか。
 また、八木秀次も「祭祀に違和感を持つ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題」と書いているが(p.262)、これも適切な理解なのだろうか。
 美智子皇后がご立派すぎているのかもしれない。だが、竹田恒泰によると、前述のとおり、「幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」なのだ。
 従って、中西輝政の「あえて臣下の分を越えて」の提言(p.239-240)も、正鵠を射ていない可能性があるのではないか。八木秀次の皇室典範三条の解釈論(p.262)も不要か、又は少なくとも早すぎるのではないか(なお、雅子妃殿下は「皇嗣」ではなく、また「立后」の時期ではまだない)。
  他にも、上記特集には、感想を付し又はコメントしたい文章がある。回を改める。
 書きたい(そして具体的に予定している)テーマは他に五、六はあるが、いかんせん、書く時間が足りない。

0520/月刊WiLL7月号(ワック)、有村治子論文と竹田恒泰論文を読む。

 月刊WiLL7月号(ワック)。読んだ順に感想的コメントを付す。
 第一。有村治子「映画『靖国』騒動で戦犯とされた私」(p.249-)。稲田朋美の論稿や産経新聞の報道で概略は知っていたことだが、「表現の自由」を圧迫する政治介入をしたかの如き報道をされた本人の弁で、より詳細も知り、納得もいく。
 ①今回の悪玉報道機関は朝日新聞ではなく、共同通信だったようだが、朝日新聞はマトモだったのか? そうとも思えないが。
 ②田原総一朗は、立花隆と違い、少なくともほぼ全面的に嫌いではない。しかし、今回は映画「靖国」の李監督とともに記者会見をしたりして、みっともなかったようだ。立花隆のように<晩節まで汚す>ことのないように。
 ③出演者・被撮影者の同意を得ていない等、手続的にもヒドい映画のようだ。だが、この「騒動」で知名度・関心度が高まって無「騒動」の場合よりも儲けたとすれば、「騒動」自体が(「反日」と示唆すること自体が)作戦だったのかもしれない、と思ったりする(とすると、週刊新潮は巧く利用されたことになる)。
 ④山田和夫高橋邦夫の名を忘れないようにしよう。とくに高橋は、あるときは映画人九条の会・事務局長、あるときは映画労働組合連合会委員長。有村治子に対しても使い分けているらしい。しかも、1998年には東映労連副執行委員長として、東条英機を描いた映画「プライド」の上映を阻止すべく(=「表現の自由」を封殺すべく)「直接行動を組織化していた」。社会的には著名ではないが、こういう<左翼>がゴロゴロといるんだよねぇ(嘆息)。
 ⑤高橋邦夫と同様に、日本弁護士連合会(日弁連)日本共産党も<ご都合主義>のようだ。後者は当然だが、前者の日弁連を政治的に中立・公正な団体だと誤解してはいけない。結局はどういう弁護士たちが執行部・種々の部会を握っているかだが、「表現の自由を守れ」とだけ言って、「出演者の人権を守れ」という声が上がってこないというのだから、想像はつく(いや、とっくに知っている)。
 第二。竹田恒泰「西尾幹二さんに敢えて注〔忠?〕告します/これでは『朝敵』といわれても…」(p.30-)。
 西尾幹二の同誌5月号・6月号のものも読んでいる。率直に言って、全体として、竹田恒泰の<勝ち(優勢)>だと感じた。
 ①西尾幹二が「天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」(5月号p.43)とまで書いたのにはいつか記したように些か驚いたが、「天皇制度」や「廃棄」という言葉の問題は別として、「皇室がそうなった暁には」という条件付きであり、「そうなった」とは「…皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態が現出する」ということを意味している、と読める。従って、西尾による一種のレトリックで、「皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態」の現出を阻止する必要がある、というのがおそらく(どちらかというと)本意だろう。従って、最後の部分の「天皇制度の廃棄に賛成する…」だけを取り出して批判するのは当を得ていないと思われる。竹田の叙述には、そのような(やや単純な読み方をしている)気配がないではない。
 ②だが、竹田に最も共感するのは、西尾幹二が皇室のことを心配し、皇太子妃(ひいてはその父親等)の言動等を問題視したい気持ちは分からなくはないが、わざわざ月刊雑誌に<公表>することはないのではないか、ということだ。
 竹田は書く。-西尾論文を読んだ読者は皇室の将来を不安視し、マスコミは皇太子批判を乱発する可能性が大きくなるが、「不安と不信」を煽り立てても事態は「良い方向に動く」ことなく、「何も解決しない」。/西尾論文の内容が大方事実ならば「直接両殿下に申し上げるべき」だ。「東宮御所に投書する」ことも可能だし、「西尾氏ほどの言論人であれば、人脈を辿って両殿下のお手元に諫言書を届けることもできた」。「公の場」・「雑誌の記事」で非難されることは「取り返しのつかない打撃」だ。しかも、両殿下は個別の記事について「ご意見」を発する、「反論する」立場にない(以上、p.32-33)。
 以上は、そのとおりではないか。西尾幹二はいったい何を一番の目的として月刊WiLL5月号論文を公表したのだろうか。
 竹田によると、西尾は自らのブログ5/01付に「当事者が読んで心を入れ換えるなんてあり得ませんから、…もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と書いているらしい(p.33)。また、おそらく同文が月刊WiLL6月号にもある(6月号p.77)この欄の上の方では、西尾幹二は皇室のことを心配し「…異様な事態が現出する」ことを阻止したいのが(どちらかというと)本意だろう、と書いたのだが、「もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と言っているのなら、もはや諦めており、しかも「天皇制度の廃棄に賛成する」と主張しているのと殆ど同じではないか。そうだとすると、まさに「保守派を装った」「反日左翼」(p.30)と同然になってしまう。そして、西尾は、皇室・<天皇制度>の将来を気に懸けて、というよりも、<自分(の文章)が(世間に)目立つ>ために5月号論文を書いた、と指弾されても不思議ではないことになろう。だがはたして、西尾の本意はどうなのか。
 ③竹田の論考で教えられたのは、祭祀における天皇とそれ以外の皇族との違いだ。伊勢神宮・式年遷宮あたりのことから始まって、最近は比較的に天皇・皇室・政教分離に言及することが多かったのだが、祭祀行為における天皇と皇室の区別をしないで漠然と一括して書いてきた。この点、おそらくは正確な知識をもっているだろう竹田によると、次のとおりだ。
 「宮中祭祀は重要」だ。「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だ。しかし、「それは天皇の話」で「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。/皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様。「現在の宮中三殿」でもそのように祭祀はなされている。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。/「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例がある。…幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ(p.41)。
 竹田はさらに、東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」、と言い切っている。
 ④竹田のものを読むと、立ち入らないが、たしかに西尾論文は<事実認定>が甘い。推測又は伝聞が多そうだ。「『適応障害』というのは…一種のわがまま病」といった文も、些か筆がスベり過ぎている感もある。
 また、竹田が現皇太子も立派な天皇になるだろう、と自信をもって書いているのも印象に残った。
 ⑤さて、月刊WiLL(花田紀凱編集長)、そしてワックは5月号、6月号でだいぶ売り上げを稼いだようだが、はたしてマスコミ・ジャーナリズムの一つとして西尾幹二論文の掲載はよかったのかどうか(とくに「保守派」の筈の雑誌・出版社として)。
 6月号では表紙には「総力特集・小和田一族と皇室」と打ちながら、中身を見ると「皇室」は話題にされていても「小和田一族」については全く又は殆ど言及されていない、という(私から見ると)<恥ずかしい>こともしている
 この<小和田一族>、とくに小和田恒を批判的に取り上げるくらいなら許されるし、私も関心をもつ。女系天皇となれば、その祖父となる人物だ。
 だが、朝日新聞社の「アエラ」がこの半年の間のいつかに「雅子さまへの公開質問状」という見出しで何やら書いていて(内容は見ていない)、「公開質問状」という表現自体が皇族の一人(かつ皇后になられる可能性のある方)に対してはやや非礼ではないか、と私は感じた。それ以上の「傲慢さ」・<非礼さ>を月刊WiLLの最近のいくつかの論文・座談発言には感じるのだが、花田紀凱編集長よ、いかがだろうか。売れればよい、というものではあるまい。
 これまでもそうだが今回のこのような私自身の叙述の中に、天皇・皇室に対する非礼な(丁重ではない)言葉遣いがあるだろうことは自覚している。また、ある時期以降、人名には現存の方も含めて「氏」・「さん」等を一切付けないことで統一したので、ひょっとして失礼な言い方になっているとすれば、ご海容を乞うしかない。

0514/大原康男の本を読み続ける。戦争と「朝日新聞」らの世論、「十五年戦争」。

 一 大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)をさらに読み続けて、p.188まで。
 1 戦前は天皇・皇室自体に固有の財産があったようだが、戦後は三種の神器・宮中三殿・微少の有価証券類を除いて、皇居・御用邸・陵墓等は国有財産となった。国有財産のうちの行政財産のうちの皇室用財産だ〔他に公共用財産・公用財産等の種別がある〕。大原・上掲書の「戦後の皇室の民主化を問う」によると、昭和62年(1987年)の「内廷費」総額は約2億5700万円(p.154)。この費用で一般の「祭祀」は行われるが、「仄聞するところによれば、祭祀費のやりくりも決して楽ではないとのこと」(p.155)。英国・エリザベス女王の財産は7600億円、チャールズ皇太子のそれは770億円で、別途国家からの王室費も計上されているとか(p.154)。
 2 上の本のうち「昭和史の教訓―政治と軍事と」によると、杉森久英はエッセイ集(『昭和史見たまま』)の中で、昭和10年代の「軍国主義全盛」は「第一次大戦後の戦争反対、軍事否定、軍人蔑視の風潮がみずから招いたものだといえなくもないだろう」と書いた。第一次大戦後の欧州を席巻した戦争嫌悪・平和主義の気分が日本にも及び、「軍縮」が「世論の圧倒的支持の下」で断行された(p.175)。
 軍人だった武藤章は、第一次大戦の中頃からの世界での「軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌」を「日本国民」は「日本軍人」に対して向けた。軍人に「嫌悪の眼をむけ」、ときには「露骨に電車や道路上で罵倒した」とのちに書いた(p.176)。
 また、杉森久英は満州事変以降は「冬の時代」の「屈辱と怨念」を晴らす「軍人の復讐」だと書いた、という(p.177)。
 <大正デモクラシー>の中にあった「ゆき過ぎた反軍感情」等を大原は問題にしている。そして、「滔々たる平和主義・厭戦思想・反軍感情の奔流」を前に、軍の立場は弱くなり、かつ政党も政治家も「政治と軍事との関係、国務と統帥との関係、政略と戦略との関係」を根本的に見直すことを怠った、旨を述べている。
 <天皇論>からある程度離れるが(「統帥権」問題では関係する)、上のようなことは戦後日本の「平和主義・厭戦思想・反軍感情」(の「滔々たる」「奔流」?)についてもある程度は示唆的だ。すなわち、軍事を知らずして、軍事を忘れて(=軍事・軍人をバカにして)、平和を語れるのか?、平和を維持できるのか?、ということだ。
 二 ところで、第一次大戦後の日本の「世論」は<戦争嫌悪・平和主義の気分>で、「軍縮」も圧倒的に支持したようだが、北岡伸一・政党から軍部へ/日本の近代5(中央公論新社、1999)によると、1931年の満州事変勃発後のある時点では「世論の方が前に出つつあり」、関東軍はそれをうまく利用した(p.162)。また、より一般的に「『大阪朝日新聞』に代表される進歩的と目される新聞まで、一斉に事変を支持」していた。
 反対にせよ賛成(支持)にせよ、「世論」とそれを形成する新聞等のマスコミの影響力は怖ろしいものだ。かつての満州事変以降の事変や戦争につき、朝日新聞他人事のように断罪し、政府・軍部要人の<責任>を糾弾しているが、かつての自らも<戦時体制>の中にいたことを忘れてもらっては困る。
 三 さらに離れるが、マルクス主義的歴史学者を中心に、満州事変開始(1931.09.18)から1945年の八・一五の敗戦詔勅(又は9月の降伏調印?)までを「十五年戦争」と呼ぶことがある。実際には14年間足らずしかないのだが。
 もっとも「十五年戦争」という語は一般化してはおらず、上の北岡伸一著は使っていない(索引にもない)し、有馬学・帝国の昭和/日本の歴史23(講談社、2002)も同様だ。また、あの?岩波書店による岩波新書の加藤陽子・満州事変から日中戦争へ/日本近現代史⑤(2007)ですら、「十五年戦争」という語は使っておらず、索引事項にもない(但し、私は「支那事変」のことを「日華事変」と習った世代だが、今は1936年以降は「日中戦争」と称することが多いようだ)。
 しかるに、先日言及した、デアゴスティーニの昭和タイムズの昭和6年号(第30号、2008/5/13号)は、満州事変について「15年戦争の発端となった関東軍の一大策略」との大きな文字の見出しで記述している。
 デアゴスティーニのこの雑誌(冊子?)は、いったいどういう傾向の歴史専門家が文章を書き、特定の概念を使っているのだろうか? 歴史専門家が書いているのではないとすれば、記述者はいったいどんな書物を読んで文章をまとめ、見出しをつけているのだろうか。
 大原の皇室論からだいぶ離れたが、<左翼>は気味が悪く、怖ろしい。映画にも本にも冊子にも(むろん新聞にもテレビにも)何食わぬ顔をして棲息している。

0509/丸山真男は「反日」=日本「解体」論者の元祖-松本健一の本。

 松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を数日前に全読了(計247頁)。
 この人の単著を全部読んだのは初めてかもしれない。東京大学経済学部出身。他学部の聴講可能性が拡大された時期に法学部の丸山真男の講義も聴いた。手紙のやりとりをするくらい親しく?、本人は否定しているが丸山の「弟子」と言われたこともある。だが、この本は既述のように、全体として、丸山真男批判の著であり、部分的には告発・糾弾の著でもある(と理解した)。
 全体を紹介する余裕はない(最初の方の詳細はもう忘却している)。まず、一点だけ言及する。
 丸山の「超国家主義の論理と心理」を素材としていると見られる叙述の中で、丸山の論理の中に「戦後の反日イデオロギー」の源泉を見出している(p.147-157)。以下、松本が丸山の論理を辿る文章を要約する。
 丸山にとっては「八・一五革命」により日本は近代国民国家に普遍的な「ナショナリズム」に立ち戻った、換言すれば、「国民主権」思想に立脚できた。ナショナリズムは近代国家の「本質的属性」だが、戦前日本は「質的な相違」のある「真にウルトラ的性格」のそれを帯びた。しかして、西欧近代国家は価値に対して「中立」的な「中性国家」だったが、戦前日本=明治国家は「天皇」という「内容的価値の実体」に根拠をもった。これが「国体イデオロギー」だ。この「イデオロギーは、…日本の国家構造そのものに内在」するもので、かつ重要なことに、明治国家に限られず、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負っている」、「皇祖皇宗もろとも一体となった」「内容的価値の絶対的体現」だった。反復すれば、明治国家に限られた「国体イデオロギー」なのではなく、「日本の国家構造そのものに内在」するものだ。となれば、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」という「戦後の反日イデオロギー」が帰結として派生してくる
 以上の「」は、松本の語と丸山の語の場合の両方がある。上の丸山真男における最後の部分、天皇制=「国体イデオロギー」は「日本の国家構造そのものに内在」する、という文章は、丸山真男・新装版/現代思想の政治と行動(未来社、2006)だと、p.16にある。
 今どき、丸山真男の言説など、無視しておけばよいのかもしれない。だが、上の松本の指摘は面白い(interesting=興味を惹く)。
 丸山真男にとっては、「象徴」天皇制度が残った「国民主権」国家とはきっと中途半端なものだったに違いない。彼の気嫌う非合理的な価値の源泉が残り、それが「再び」巨大化して復活することを恐怖したかもしれない。「超国家主義の論理と心理」は1946年に書かれているが、丸山・現代思想の政治と行動「増補版への後記」の中で、「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(上掲書p.585)と書いたとき(1964年)、そこには<天皇制度>を否定したい気分が明瞭にまだ残っていたかに見える。
 松本の揚げ足を取るようだが、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」わけではなく、厳密には又は正確には<天皇制度>の解体・否定で十分ではなかったのだろうか。「天壌無窮の皇運」に担保された「国体イデオロギー」が解体・否定されれば十分だったのではないか。すなわち、新憲法で<天皇制度>を否定し、天皇・皇室も、古事記・日本書紀等の皇室関連「物語」も一切否定して、それこそ(真の「国民主権」制又は「共和制」国家として)「新しく再出発」していれば、丸山真男の鬱屈もなかったのではあるまいか。だが、そのような現実、そのような国家が「日本」と言えるかを、丸山は心底では想定できなかったのかもしれない。松本は丸山は「外在的」に「日本」又は「日本ファシズム」を批判したとか記述しているが(p.234等)、丸山真男も自らが<日本人>であることまでを否定できなかったようにも見えなくはない。
 だが、ともかく、今に続く日本人の「反日」意識、<反「日本」国家>意識の源が戦後直後の(しかも少なくとも知識人にはよく読まれたらしい)丸山真男論文に(も)ある、というのは興味深い。「反日」意識の根源又は中核は、<反・天皇>意識・<反・皇室>感情だろう。そして(日本共産党は当然だが)週刊金曜日の編集人の佐高信・石坂啓・筑紫哲也・本多勝一らを代表とする<進歩的・左翼>の人たちは、スッキリしない・非合理的なものとして<天皇・皇室>制度の解体を本音では望み、主張している筈だ。丸山真男の継承者・追随者は現在でも多数いる。
 長くなったので、別の点は別の回に。
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