秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

天皇

2645/高森明勅のブログ③—2023年6月11日。

 一 高森明勅の2023年6月11日付ブログ。
 この記事は「旧宮家系男性」が現存するのは「久邇・賀陽・竹田・東久邇の4家」としたうえで、こう書く。
 「なお、これらの諸家は…、全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)である。
 ところが、現在の皇室典範では“一夫一婦制”を前提として、皇族の身分を厳格に嫡出・嫡系(正妻に出自を持つ系統)に“限定”している(皇室典範第6条)。
 よって、非嫡系の男子に新しく皇族の身分を認めることは、制度上の整合性を欠くとの指摘がある(大石眞氏)。
 「現行法が採用する強い嫡出制原理との整合性という点から考えると、『皇統に属する男系の男子』がすべてそのまま対象者・適格者になるとするのは問題であろう」(大石氏、第4回「“天皇の退位等に関する皇室典範特例法に対する附帯決議”に関する有識者会議」〔令和3年5月10日〕配布資料)
 この指摘を踏まえると、(仮に「門地差別」や当事者の意思などの問題を一先ず除外しても)旧宮家系男性に「対象者・適格者」は“いない”、という結論になる(非嫡系の旧宮家が、現行典範施行後、皇籍離脱までの僅かな期間〔5カ月ほど〕、皇族の身分を保持できたのは、典範附則第2項の“経過規定”による)。」
 以下、秋月の文章。これで、旧皇族系男性の皇族復帰(・養子縁組)が法的理屈上ほぼ不可能であり、絶望的であることは「決まり」だ。後記のことを考慮すると、正確には「ほとんど決まり」。
 秋月が気づくのが遅れたので、上の資料上の大石眞の文章をもう少し長く抜粋的に引用しておく。
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 皇室典範特例法附帯決議有識者会議(2021年5月10日)・配布資料3—大石眞。
 皇族数の減少をもたらす「制度上の潜在的な要因」がある。養子縁組ができないこと(典範9条)、「明治典範とは異なって(旧典範4条参照)、三后を除いて皇族であるためには、すべて『嫡出の皇子』と『嫡男系嫡出』の皇孫・子孫とされて嫡出原則が強く求められ(典範6条)、庶出・庶系の者はすべて排除される」こと、婚姻により皇族女子が「皇族を離脱」するとされること(典範12条)、の三つだ、
 「とくに皇位継承という面から見ると、嫡出制原理のもつ意味は大き」い。
 継続的な継承資格者確保のための「立法論としては、(1) 「皇統に属する男系の男子」、及び、(2) 『嫡出』である皇族」という要件の「いずれか又は両方を緩和することによって、その範囲の拡大を図るほかはない」。
 このうち、「(2) の庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」。この点から考察すると、「皇庶子孫の皇位継承」を明治典範は認めたが(旧典範4条)、そこには夭折する皇子が多かったこと、光格・仁孝・孝明のほか明治天皇や嘉仁親王(のち大正天皇)も皇庶子だったこと、という事情がある。「我が国の庶出を断たざるは実に已むを得ざるに出る者なり」(旧典範4条義解)なのだった。
 「現行典範の制定過程では、嫡出子に限ると皇位継承資格者を十分に確保できないのではないかとの懸念が示された。しかし、立案者側は、『庶出子は正しい系統ではない』とする国民の間における『道義心』を理由に庶出・庶系を外したと説明している。しかも、いわゆる正配・嫡妻のほか側室を正面から認めるような国民意識の乏しい現在では、上記(2) の嫡出要件を外す途は建設的な議論といえない」。
 「そのため、結局、上記(1) の男系・男子要件を外すことにより皇位継承資格者の拡大を図るしかない」。
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 この大石眞の見解と、「旧宮家系男性」は「全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)」だとの高森明勅の認識が結びつくと、「旧宮家系男性に〔皇族「復帰」・皇位継承の〕「対象者・適格者」は“いない”」との高森の結論となる。
 「庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」ので秋月も十分に意識していなかったが、大石の見解は妥当と思われる。
 旧皇族の後裔者が現存していても、現皇室典範の<嫡出原理>もとでは、「皇族」化するのはきわめて困難であり、かつ現典範上のその原理を廃止するのは現実的・建設的ではない、ということだ。
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  しかし、上は厳密には、現皇室典範のレベルでの議論だとも思われる。
 そこで、これまでの議論にやや奇妙な思いももってきたので、この機会に、若干のことを付言したい。憲法レベルでの議論は完全に尽くされているのだろうか。
 第一。数年前に青山繁晴ら自民党国会議員有志が男子に限っての旧皇族(の後裔たち)の皇族「復帰」を目指す提言(または法案)を発表したとき、不思議に思ったのは、当該旧皇族個々人の「同意」・「合意」が必要であることを前提にしていることだった。
 西尾幹二も、「皇族」となる意思のある旧皇族(の子孫)はいるかと、竹田恒泰に訊ねていたことがある(二人の対談書で)。
 しかし、将来に皇位を継承する(=天皇となる)か否かが「皇族」化に関する当事者の<意思>に依存するというのは、つぎの意味で適切でない、と考える。
 世襲たる天皇位はその「血統」を理由として継承される。ときどきの、または関係個々人の「意思」によるのではない。「皇族」化に同意した者には皇位継承の可能性が開かれ、同意しない者にはその可能性は一切なくなる、というものではないだろう。
 「同意」を要件とするのは、一方的・強制的でなく「合意・同意」にもとづいて穏便に、という戦後の「風潮」に合致し、つぎに触れるが、一般国民となっている者の「人権」に配慮しているのかもしれない。
 第二に、国民の一部の「皇族」化は、—上で出てくる高森の表現では—「門地による差別」であって憲法上絶対に許されない、と言い切れるのかどうか、なおも疑問とする余地がある。高森はこの点を疑っていないようだが。
 全ての「人権」も、「平等取扱い要求」も、絶対的なものではなく、「公共の福祉」による制限を課し得ることは憲法自体が許容している(この点に一般論としては争いはない)。
 問題は、制限する、問題に即してより具体的に言えば国民の一部を一方的(・強制的)に「皇族」化して「身分」を変更し「自由」を制限することを正当化することができるだけの「公共の福祉」はあるのか、その「公共の福祉」とはいったい何か、だ。
 このように問題を設定しなければならないのではないか。
 その「公共の福祉」として考えられるのは、現憲法も「価値」の一つとしている<天皇位>の保持だ。つまり、<安定的・継続的な皇位就任資格者の数の確保>だ。
 これが個々の一定の国民を「門地により差別」し、「平等」には取り扱わない根拠・理由になり得るならば、そのための(一方的な)法律策定・改正もまた憲法上許容される、と考えられる。
 このような議論をしてほしいものだ、と感じてきた。
 こう書いたからといって、上の具体的な「公共の福祉」を持ち出すことによる憲法上の正当化ができる、と秋月は主張しているのではない。
 男系天皇制度護持を強く主張する者たちこそが、「同意」要件などを課さずに、こういう議論をし、こういう「論法」を採用すべきだ、と感じてきただけだ。<男系天皇の保持>はこの人たちにとって、日本国家の存立にかかわる、絶対的な「公共の福祉」ではないのか。
 「国民意識」や国民の「道義心」を理由として<嫡出原理>の廃止は困難だとする大石の議論の仕方も参照すると、結論的に言って、法律(典範)改正等による一定範囲の男性国民だけの「皇族」化は、世論の支持を受けず、法的にも<安定的な(男性皇族による)皇位継承>という「公共の福祉」による正当化を受けそうにないと思われる。
 したがって、結論は、おそらく高森明勅と異ならない。
 なお、以上のようなことはすでに誰かが書いているかもしれない、と弁明?しておく。
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2637/月刊正論(産経新聞社)と皇室。

  月刊正論(産経新聞社)という雑誌のすごいところは、いや凄まじいところは、<祝・令和—改元特大号>と謳った同2019年6月号の<記念特集・新天皇陛下にお伝えしたいこと>に西尾幹二と加地伸行の文章を掲載していることだ。
 西尾幹二は2008年に〈皇太子さまへの御忠言〉(ワック)を出版し、2012年にそれに加筆して文庫(新書?)化して再刊した。また同年には別途『歴史通』に「『雅子妃問題』の核心」という文章を書いて、現在の天皇(当時の皇太子)は「…と言ってのけた」と表現するなどし、現在の皇后(当時の皇太子妃)を「地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在」表現し、離婚せよの旨を明確に出張した。さらに、2008年8月のテレビ番組で西尾は、雅子妃は「仮病」だから「一年ぐらい以内にケロッと治る」だろう、雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人。低いのははっきりしている」、「実は大したことない女」と発言したらしい。
 加地伸行の当時の皇太子・同妃に対する主張も似たようなものだった。
 しかるに、二人のこうした主張・見解を知っていたはずだが、菅原慎一郎を編集代表とする月刊正論2019年6月号は、当時の皇太子・同妃が天皇・皇后に即位する時点で、「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」の原稿執筆を依頼した。そして、この二人は、文章執筆請負業の「本能」からか?、原稿を寄せた。
 西尾幹二、加地伸行は、かつてのそれぞれ自身の発言・文章に明確には言及しておらず、むろん取消しも撤回もせず、当然のこととして「詫び」もしていない。
 よくぞ、「新天皇陛下にお伝えしたいこと」と題して執筆できたものだ。
 二人の「神経」の正常さを疑うとともに、月刊正論(・菅原慎一郎)の編集方針(原稿執筆依頼者の選定を含む)もまた、「異常」だと感じられる。
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  月刊正論の元編集代表(2010年12月号〜2013年11月号)だった桑原聡は、「天皇陛下を戴く国のありようを何よりも尊い、と感じることに変わりはない」旨を編集代表としての最後の文章の中で書いた。
 これは、いわば<ビジネス保守>の言葉だけの表現ではないか、との疑問はある。
 上の点はともかく、月刊正論、そして産経新聞社、産経グループ全体が読売新聞社系メディアよりも<より親天皇(天皇制度)>的立場にあった(ある)、という印象はあるだろう。
 しかし、現在の天皇・皇后、上皇・上皇后各陛下等々の皇室の方々は、月刊正論・産経新聞社・産経グループを「最も支持し、最も後援してくれる」最大の味方だと感じておられるだろうか。
 すでに誰かが書いているだろうように、また書かずとも広く理解されてしているだろうように、桑原聡の上の言葉とは違って、月刊正論(・産経新聞社)は全体として皇室の「味方」だとは思えない。
 前天皇の「退位」に反対した(終身「天皇」でいるべきだと主張した)櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次、加地伸行らは月刊正論や産経新聞「正論」欄への主要な執筆者だった(秋月による「あほ」の人たち)。当時の天皇はこの議論に「不快」感をもったとも報道されたようだが、その真否を確言できないとしても、当時の天皇の意向とはまるで異なっていたことは明確だった。
 現在の皇后、雅子妃、前皇太子妃を最も厳しく攻撃し、批判したのは、西尾幹二だっただろう
 その西尾幹二はまた、月刊正論や産経新聞「正論」欄への継続的な執筆者だった(2023年時点でどうかは知らない)。
 現在の皇后、雅子妃も、現在の天皇、前皇太子も、西尾幹二が自分たちについてどのように書き、どのように主張していたかを、よくご存知だったと思われる。
 皇居内の「私的」空間にはおそらく主要な新聞紙が置かれ、それらのうちいくつかには西尾幹二のものも含む単行本の宣伝広告も掲載されていただろう。そして、皇族であっても「私的に」本や雑誌を購入することは可能だ。
 西尾幹二によって、小和田家まで持ち出されて攻撃された雅子妃は、ひどく傷つかれただろう。西尾幹二の言い分は、「病気」治癒を却って遅らせるものだった。前皇太子も、激しい怒りを感じられたに違いない。
 西尾幹二は前皇太子・同妃が2019年(5月)に新天皇・新皇后として即位するとは思いもしていなかっただろう。2016年に「意向」表面化、2017年にいわゆる退位特例法成立だったが、西尾は早くとも2012年まで、皇太子等を批判し続けた。「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」の力(西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)のオビ)が、彼にはなかったのだ。
 西尾幹二は2008年に、自分の文章を「一番喜んでおられるのは皇太子殿下その方です。私は確信を持っています」と発言したようだが、いったいどういう「神経」があれば、こういう態度がとれたのだろう。
 現在の天皇・皇后にとって、西尾幹二は「最大の敵」ではなかったか、と思われる。
 その人物を、改元=新天皇・新皇后即位の記念号の執筆者の一人として起用した月刊正論(編集部)もまた、「異様」だ。
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 参考→Yoshiki, 即位10年奉祝曲・Piano Concerto "Anniversary"

2629/西尾幹二批判063。

 以下は、西尾幹二の言説(妄言)の「歴史的記録」として。あるいは、その「人格」を例証する一つとして。このとき、満76歳。
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 西尾幹二「『雅子妃問題』の核心」歴史通2012年5月号(ワック)
 一部(当時の皇太子妃批判・攻撃)を引用する。以下での「皇后陛下」は現在の上皇后陛下、「皇太子妃殿下」・「雅子妃」は現在の皇后陛下、「皇太子殿下」は現在の天皇陛下—以上、引用者。一文ずつで改行した。/は本来の改行箇所。下線は引用者による。
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 ①「皇后陛下は…耐え、馴れて、ご自身の世界を切り拓いて新境地に達した。
 皇太子妃殿下はいまだその域に達していない。
 『適応障害』といわれて九年目になる。
 一般人の自由を奪われたことが病気の原因であることは間違いない。
 皇室という環境にあるかぎり病気は治らないと医師も証言している。
 であるなら、道は二つに一つしかない。
 皇室を離れて、一般人の自由を再び手に入れるか、それとも皇室の掟に従うことを覚悟して、わが身に自由は存在しないことを大悟徹底するか、の二つに一つである。/」p.36。
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 ②皇室問題に「独特の混乱」を招いているのは「女性宮家創設」問題ではなく、「男系か女系か」も「緊急のテーマ」ではない。
 「最重要の問題は、雅子妃が皇室に一般的人の自由を持ち込み始めていることである。
 そしてそれを次第に拡大し、傍目にも異常に見えるようになったのは、単に皇室の掟に従わないだけではなく、一般社会人も当然生活する上で日常のさまざまな掟に縛られているのであるが、彼女はそこからも解放され、自由であり、天皇に学び皇后に従い皇室の歴史における自分の立つ位置を定めるという義務を怠っているので、一般社会からも皇室からも解放され、ついに何者でもない宇宙人のような完璧に自由であるがゆえに、完璧に空虚な存在になりはじめていることである。」p.36〜p.37。
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 ③「皇太子殿下」は…と「発言されたのだ」。
 「病気治癒に役立つなら公務を私的に利用すると平然と言ってのけたのでる。
 つい口を滑らして本音が出てしまったのかもしれないが、一般人が享受する私的自由は皇室にはない、との覚悟を内心深く蔵していたなら、不用意であっても、こんな言葉が出てくる筈はない。
 一般人の自由を皇室に持ち込み、なにごとも "自分流" を通されようとする妻の影響下に置かれている有様が透けて見えるようで、悲しい。/」p.37。
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 ④佐藤あさ子『雅子さまと愛子さまはどうなるのか?』(草思社)の「以上の叙述と思想から浮かび上がってくるのは、一般社会からも皇族社会からも完全にフリーな、どちらにもコミットしていない真空地帯、稀にみる楽園のような、地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するそうに、幻のように生きている不可解な存在である。…
 天皇陛下皇后陛下には生活があり、佐藤さんはじめ働く一般庶民にも生活があるが雅子妃には『生活』がない。
 無限の自由の只中にあって、それゆえに自由を失っている。
 ご病気の正体はこれである。/
 『裸の王様』という言葉があるが、ご自分ではまったく気がついていないものの、外交官のライフスタイルを失ったという嘆きやぼやきが思うに唯一の生き甲斐となり、夫への怨みや脅迫となり、与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっていると思われる
 …、学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんど目ぼしい活動もなく、子供の付き添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも、理由ははっきりしている。
 『生活』のないところにどんなライフワークも生まれようがないからである。/」p.41〜p.42。
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 ⑤「妃殿下に皇族として生きる覚悟が生じたときにはじめて彼女の『生活』が開始する。
 あるいは、ご離婚あそばされ、一般民間人になられたなら、そこでも『生活』が始まることは間違いない。
 その中間はない。
 どっちつかずの真中はない。
 あれかこれかの二つに一つで、選択への決断だけが彼女に自由を与える。/
 これがどうしてもお分かりならないでいる。
 そのために現代社会では起こり得ない次のような奇怪な絵図が展開されている。/
 「雅子妃の愛子さま付き添い登校」等…。
 「…、つい先頃まで毎日のように学習院初等科の校門前で行われた…珍妙な儀式は、封建時代の悪大名の門前を思わせる、たしかに ”異様” の一言でしか言い表せない光景である。
 こんな出来事がわれわれの現代社会に立ち現れていたことはまことに嘆かわしいし、恥しい。/」
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 参考。→即位祝賀奉祝曲・嵐「Ray of Water」(作曲・菅野よう子)、2019年11月9日

2327/西尾幹二批判022—2020年6月12日分の再掲。

 以下、No.2239/2020.06.12/西尾幹二の境地・歴史通-月刊WiLL別冊⑥、のそのままの再掲。一部を削除しただけ。
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 西尾幹二(1935~)の遅くとも明確には2019年以降の<狂乱>ぶりは、戦後「知識人」または「評論家」、少なくとも<いわゆる保守>のそれらの「行く末」、最後あたりにたどり着く「境地」を示しているだろう。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)=月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 何度めかの引用になるが、西尾幹二は、こう明言した。
 ①「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。
 大げさにいえば超越的世界観を信じるか、可視的世界観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってよいでしょう。
 …、少しは緩めて寛大に…と考える人…。しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません」。p.219。
 ②「日本人には自然に対する敬虔の念があります。…至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。
 …、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。決して科学の国ではない。だから、それを守らなくてはなりません。」p.225。
 上の最後に「天皇家」への言及がある。
 ところでこれを収載する雑誌=歴史通・月刊WiLL11月号別冊(2019)の表紙の下部には、現天皇と現皇后の両陛下の写真が印刷されている。
 ところが何と、広く知られているはずのように、西尾幹二は、中西輝政や八木秀次・加地伸行らとともに、現皇后が皇太子妃時代に皇后就位資格を疑い、西尾は明確に「小和田家が引き取れ」と書き、秋篠宮への皇統変化も理解できる旨を書いた人物だ。
 平成・令和代替わり時点での他の雑誌に西尾幹二は登場していた。むろん、かつての皇太子妃の体調等と2019年頃以降とは同一ではないとは言える。状況が変わったら、同じ事を書く必要はないとも言える。
 しかし、誠実で真摯な「知識人」・「評論家」であるならば、西尾幹二は編集部からの執筆依頼にホイホイと乗る前に、あるいは乗ってもよいがその文章や対談の中で、かつての皇太子妃(・現皇后)、ひいては皇太子(・現天皇)について行った自分の言論活動について、何らかの感想を述べ、態度表明をしておくべきだろう(かつてはそれとして正当な言論活動だった、との総括でも論理的には構わない)。
 西尾幹二は、自らに直接に関係する「歴史」についても、見ようとしていないのではないか。別に触れるようにこれは<歴史教科書問題>についても言えるが、自らに関係する「歴史」を無視したり、あえて触れないようにしているのでは、とても「歴史」をまともに考察しているとは思えない。むろん「歴史家」でも、「歴史思想家」でもない。「歴史」に知識が多い「評論家」とすら言えないだろう。
 
 上掲の対談部分できわめて興味深いのは、西尾は「神話」に何度も言及しつつ、以下の二点には論及しようとはしていないことだ。
 第一。「神話」とか「神々のご意向」と、西尾は語る。
 ここでの神話とは日本で日本人として西尾は発言しているのだから、「日本(の)神話」あるいは「日本(の)神話」上の「神々」のことを指して、上の言葉を使っていると理解する他はないだろう。まさか、キリスト教「神話」またはキリスト教上の「神々」ではないだろう(仏教の「神」はふつうは「神」とは言わない)。
 しかるに、西尾幹二は、「日本神話」という語も、また、<古事記>という語も<日本書記>という語も(その他「~風土記」も)、いっさい用いない。
 これは異様、異常だ。使われていない言葉にこそ、興味深い論点が、あるいは筆者の意図があったりすることもある。
 そしてもちろん、「女系天皇は史上例がない」という西尾の<歴史認識>の正しさを根拠づける「日本(の)神話」上の叙述を一句たりとも、一文たりとも言及しないし、引用もしない。
 これもまた、異様、異常だ。なお、p.223では対談相手の岩田温が、<天照大御神の神勅>に言及している。これにすら、西尾幹二は言及することがない。
 だが、しかし、この「神勅」はかりに「天皇(家)」による日本統治の根拠になり得るとしても(もちろん「お話」として)、女系天皇の排除の根拠には全くならない。(さらには、天照大御神は古事記や日本書紀上の「最高神」として位置付けられているというのも、疑わしい一つの解釈にすぎない。)
 第二。「神話」というのは、世界でどの程度がそうなのかの知識はないが、何らかの「宗教」上のものであることが多い。または、何らかの「宗教」と関係していることが多い。ここでの「宗教」には、自然や先祖への「信仰」を含む、<民俗宗教>的なものも含めておく。
 さて、西尾幹二の発言に特徴的であるのは、「神話」を熱心に語りながら、「宗教」への言及がいっさいないことだ。
 上に一部引用した中にあるように、「神社」に触れている部分はある。また、<宮中祭祀>にも言及している。
 しかし、何故か、西尾幹二は、「神道」という語・概念を用いない。「神社神道」という語はなおさらだ。
 かと言って、もちろん「宗教」としての「仏教」に立ち入っているわけでもない。
 これまた、異様、異常だ。 いったい、何故なのだろうか。
 抽象的に「神話」で済ませるのが自分のような「上級かつ著名」な「知識人・評論家」がなすべきことで、「神道」(・「神社神道」)といった言葉を使うのは「下品」だとでも傲慢に考えているのだろうか。
 それとも、かなりの推測になるが、「神道」→「神社神道」→「神道政治連盟」→日本会議、という(相当に常識化している)連想を避けたいのだろうか。
 西尾幹二は櫻井よしこ・日本会議は<保守の核心層>ではないとそのかぎりでは適切な批判をし、日本会議・神道政治連盟の大多数が支持している安倍晋三政権を「保守内部から」批判したりしてきた。そうした経緯からして、日本会議・神道との共通性または自らの親近性、西尾幹二自身もまた広く捉えれば日本会議・櫻井よしこらと同じ<いわゆる保守>の仲間だ、ということを感じ取られたくないのだろうか。
 
 神話について叙述しながら、かつまた「神話と歴史」の関係・異同を論じながら、つまり「神話」と「歴史」という語・概念は頻繁に用いながら、<宗教>に論及することがない、またはきわめて少ないのは、西尾幹二のつぎの1999年著でも共通している。
 西尾幹二・国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 ここで扱われている「歴史と神話」は日本に固有のそれではなく、視野は広く世界に及んでいるようだ(と言っても、欧州と中国が加わっている、という程度だと思われる)。
 しかし、この主題は日本の「神話」と中国の「歴史(書)」=魏志倭人伝の比較・優劣に関する論述の前段として語られていること、または少なくともつながっていることを否定することはできない。
 そして、きわめて興味深いのは、日本または日本人の「神話」あるいは古代日本人の「精神世界」に立入りながら、西尾幹二は決して「神道」とか「仏教」とかを明確には論述していないこと、正確にいえば、「日本の神道」と「日本化された仏教」を区別して叙述しようという姿勢を示していないことだ、と考えられる。
 西尾幹二は「神道」と「仏教」(や儒教等)の違いを知っているだろうが、この点を何故か曖昧にしている。
 これは不思議なことだ。
 しかし、西尾の主眼は<左翼>ないし<左派>歴史観に対して『ナショナリズム』を対置することにあるのだとすると、上のことも理解できなくはない。
 この書には(原書にも文庫本にも)「日本文明(?)」の粋と西尾が思っているらしき日本の彫像等による「日本人の顔」の写真が掲載されている。文庫本に従うと(原著でも同じだった筈だが)、つぎの16だ。
 <2021.03で削除>
 なお、口絵上の上記以外に、本文途中に、つぎの写真もある。便宜的に通し番号を付す。p.395以下。 
 <2021.03で削除>
 一見して明らかなように、これらは全て<仏教>上のもので、現在は全て仏教寺院の中にある。口絵部分の最後の2つの⑮・⑯が見慣れた仏像類とやや異なるが、あとは紛れもなく「仏像」または「仏教関連像」と言ってよいものだと考えられる。
 しかし、興味深いのは、西尾幹二が関心をもってこれらに論及して叙述しているのは、日本人の「精神」や日本の「文化」・「美術」であって、<仏教という宗教>(の内容・歴史)では全くない、ということだ。
 妙法院三十三間堂は平清盛が後白河法皇のために建設して献じた、とされる。
 それはともかく、上のような「日本人の顔」を描く像を「文化」ないし「美術」、広くは日本「精神」の表現とだけ捉えて論述するのは、大きな限界があるように考えられる。
 つまり、諸種・各種の「仏教」・「仏典」等に立ち入って初めて、これらの意味を真に理解できるだろう。
 もちろん、日本「文化」・「文明」や「美術史」上、貴重なものではあるだろう。
 だが、それ以上に踏み込んでいないのが、さすがに西尾幹二なのだ。
 出典を明らかにできないが、西尾幹二は<特定の宗教に嵌まることはできない>と何かに書いていたことがある。
 この人は、仏教の各宗派にも諸仏典にも、何の興味も持っていないように見える。
 おそらくは、日本の仏教または仏教史をきちんと勉強したことがない。あるいは多少は勉強したことがあっても、深く立ち入る切実な関心をこの人は持っていない。
 同じことは、じつは、日本の「神道」についても言えるのではないか、と思っている。
 西尾幹二は、神道の内実に関心はなく、その<教義>にも<国家神道なるものの内実>にもさほどの関心はない。
 そのような人物が何故、「神社」に触れ、「宮中祭祀」に触れ、女系天皇を排除すべき「天皇の歴史」を語ることができるのだろうか。

 「神社」とは神道の施設ではないのか? 「宮中祭祀」は無宗教の行為なのか? 宮中三殿に祀られている「神」の中に、仏教上の「神」に当たるものはあるのか。
 結局のところ、「神社」も「宮中祭祀」も、「天皇」も、かつての皇太子妃(・皇太子)批判も、<神道-天皇>を永続的に守りたいという気持ち・意識など全くなく、西尾幹二は文章を書いている、と思われる。
 <天皇>に触れても、少なくとも明治維新以降、「仏教」ではなく「神道」が<天皇の歴史>と密接不可分の関係を持たされた、というほとんど常識的なことにすら、西尾幹二はまともに言及しようとしない。
 いったい何故か? いったい何のためか?
 おそらく、西尾幹二の<名誉>あるいは<業界での顕名>からすると、そんなことはどうだってよいのだろう。戦後「知識人」あるいは「評論家」という自営文章執筆請負業者の末路が、ここにも見えている。
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 以上。
 西尾幹二は、新潮社・冨澤祥郎がおそらく記述しただろうような、<真の保守思想家>か(西尾・新潮社刊行2020年著オビ)、あるいは<知の巨人>か(国書刊行会ウェブサイト)。
 笑わせないでいただきたい。

2297/西尾幹二批判017-同・GHQ焚書図書開封4(2010)。

 言葉・観念の意味の不明瞭、「論理」展開・「推論」過程の不十分。これらをほとんど欠如させても、「情緒」・「雰囲気」でもって何らかの「感動」を与えたいならば、政治・社会・歴史にかかわる「評論家」・「随筆家」ではなく、詩人・小説家・劇作家等の「創作者」・「創造者」になればよかったのだ。
 西尾幹二における、日本の「神話」(それも日本書記・古事記の「全体」)→<女系天皇の否認>という『論理」・「推論」のひどさと誤りについては既述だが、1999年の『国民の歴史』に関係させて今後も指摘するだろう。
 以下は、上の主題に関しての一例。
 No.2150/2020.02.16の一部のそのままの掲載・再掲
 「削除」=「割愛」、その意味での「短縮」を行なっているが、以下の部分はかつてと全く同じ。
 西尾幹二がその個人全集ですらしているような、既発表論考の近年になっての加筆・修正は、いっさい行なっていない
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  神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない。
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
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 以上。
 以上に直接につづく秋月の理由づけの部分を、やはりそのまま以下に再掲する。
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 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
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2255/西尾幹二批判004-佐藤優・籠池泰典。

 
 佐藤優が週刊現代(講談社)2020年4月7号で、籠池泰典(森友事件参照)の書物(文藝春秋、2020年2月)を読んで、つぎのようなことを書いている。
 佐藤優のおそらく直接引用によると、籠池泰典は奈良県庁職員だった頃に「目の前に興福寺があり、東大寺や春日大社といった由緒正しい神社仏閣も間近に位置し、この国の伝統文化の息吹を日々感じることができた」。
 この部分に着目して、佐藤優はこう述べる。
 神社仏閣に日本の「伝統文化の息吹を感じる」という認識が重要だ。彼においては「神仏が融合して神々になっている」、「このような宗教混淆は神道の特徴だ」。
 彼は、「神道と日本文化を同一視している」。
 「実はここに『神道は日本人の習俗である』という言説で、事実上、国家神道を国教にしてきた戦前・戦中の宗教観との連続性がある」。
 「神社非宗教という論理に立てば、キリスト教徒でも仏教徒でも日本人であれば習俗として神社を参拝せよ、という結論になる」。
 佐藤はこのあたりに、かつて一時期は明確に日本会議会員(かつ大阪での役員)だった籠池についての「草の根保守」の意識を感じとっている。
 日本会議うんぬんは別として、上の佐藤の叙述は、じつはかなり意味深長であり、奥深い。あるいは、明瞭には整理されてないような論点を分析している。
 神道と仏教はそれぞれ別個の「宗教」だとの書き方をこの欄でしたことがあるのは現在の様相・建前を前提としているからで、江戸時代・幕末までの両者の関係・異同は分かりやすいものではなかったことは承知している。
 また、<神仏分離>の理念らしきものが生まれた一方で、伊藤博文は大日本帝国憲法制定の際に、「神道」は「宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」く、日本国家の「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」としたのだった。この点はすでに、以下の著に主としてよってこの欄で紹介した。
 小倉慈司=山口輝臣・天皇の歴史09/天皇と宗教(講談社、2011)。
 こうして「神道」は仏教と並ぶような(本来の?)「宗教」性を認められず、「宗教」に該当しないとされたがゆえに、実際には戦後すぐに生まれてすぐに消滅した観念であるらしい「国家神道」の状態が(上の佐藤によると)「事実上」生じたのだった。
 ともあれ、佐藤優は上の籠池著の紹介・書評を、籠池の印象に残ったというつぎの別人(日本会議大阪の役員)の言葉と、つぎの自らの言葉で結んでいる。
 <籠池さん、日本会議というタマネギの皮を剥いでいくと最後に何が残ると思います? 芯にあるのは神社なんです。>
 「国家神道が静かに蘇りつつある現実が、本書を読んでよく分かった」。
 
 西尾幹二は、岩田温との対談で、2019年末にこう発言した。月刊WiLL2019年11月号別冊、p.225。①~⑤は秋月が付したが、一続きの文章・発言だ。
 「①日本人には自然に対する敬愛の念があります。②日本には至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。③…、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。④決して科学の国ではない。⑤だからそれを守らなくてはなりません。」
 全体として奇妙な論理でつながっているが、ここではとくに、①→②の「論理」が興味深い。
 ①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」、②日本には「至るところに神社があ」る、という二つは、どのようにして、何故、こう<論理的に>結びつくのだろうか?
 ②の原因が①であることを肯定したとしても、①であれば当然に②になる、という論理的関係はないはずだ。
 日本人以外の人々もまた、アジアの人々も、たぶんキリスト教以前のヨーロッパ人も、「自然に対する敬愛の念」(かつ同時に<畏怖>の念)は持って来ただろうと思われる。
 それが、太陽・月、風雨、山海等々の「自然」の中で生きなければならなかったヒト・人間の自然の、素直な感情、<宗教意識>と称してよいようなもの、だったと考えられる。
 仏教徒も(あるいは日本的仏教らしい<修験道>者も)、「自然」を敬愛しかつ畏怖してきただろう。
 にもかかわらず、西尾幹二においてはなぜ、①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」<から>、②日本には「至るところに神社があ」る、という発言の仕方になるのだろうか。深読みすると、「自然に対する敬愛の念」は当然に「神社」につながる、と理解され得るような発言の仕方になるのだろうか。
 既述のように、西尾幹二は「宗教」という語も、また「神道」という語すらもいっさい用いない。「神社」は「神道」の施設であることは常識、周知のことであるにもかかわらず。
 そして、上の佐藤優の表現を想起すると、西尾幹二においても戦前・戦中の「国家神道が静かに蘇りつつある」という現象が見られるのではないか、と感じられる。
 むろん、「日本会議」との関係を否定したい、あるいはそれを推測もされたくはないだろう西尾幹二が、その旨を明言するはずはない。
 しかし、「自然」→「神社」→「天皇」という上のような関係づけ(の単純な肯定)は、「国家神道」的であり、かつ(どのように西尾幹二が否定しようとも)日本会議と共通性または親近性がある。
 西尾幹二は、<最後の身の置き所を見つけておきたい、という境地>にあるのだろう、というのが、秋月瑛二の見立てだ。それが日本会議ではなく、産経新聞社・ワック等の<いわゆる保守>情報産業界隈であるとしても。
 
 追記。明治初年のいわゆる「学者の統治」の時期(上の山口輝臣らp.194-。これは「国学者の優越」時期のことだ)、萩藩=毛利藩の萩城下で起きたのが、隠れキリシタンの処遇に関する<乙女峠の惨劇事件>だった。一般には知られていない、明治初年の「状況」を知ることのできる事件と思われるので、この欄でいつか紹介したい。
 ***
 上に萩としたのは誤りで、乙女峠の所在は、正しくは石見国津和野藩。訂正する。/7月22日に後記。

2241/西尾幹二・西部邁と「天皇」の変容。

 
 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008/2012)。
 西尾幹二「皇太子さまへの御忠言/+第2弾!」月刊WiLL2008年5月号/6月号(ワック)。
 西尾幹二「女性宮家と雅子妃問題」月刊WiLL2012年3月号(ワック)。
 こうした西尾幹二の発言・主張に対して、西部邁は2013年秋にこう批判的にコメントしていた。なお、これら月刊WiLLのこの時期の編集長は花田紀凱。
 西部邁「天皇は世襲の法王なり」月刊WiLL2013年10月号(ワック)。p.283-4。
 「…。しかし、戦後に進んでいるのは、日本の伝統を全て天皇に預けて国家の歴史には無関心でいる、という伝統に関する無責任体制です。//
 そう考えると、僕には西尾幹二さんのように、皇太子さまや雅子妃殿下に対して『御忠言申し上げる』という態度には出られない。
 …全面否定しているわけではありません。国民が皇室のあり方について発言するというのは、最低限のエチケットを守っているかぎりにおいて許されることだと思いますし、『畏れを知らずに皇室にもの申すとはけしからん』などいう意味で疑問を呈しているわけではない。
 国民の責任をまず問えと言いたいだけです。//
 しかし、今日の国民を見ればわかるように、これほどまでに伝統を無視し、つまりは、天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、しかも皇室に様々な問題が生じている時に皇室批判に立ち上がるというのは、僕にはどうしても本末転倒だと思う。」
 上の西部邁論考全体ではなく、上のコメント・感想のかぎりで、西部の言いたい趣旨もよく理解できる。
 そして、「(今日の国民は)天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、…」という部分に関して、別に長く書こうと思っていたのだが、よく調べて確認しないままで以下に記しておくことにする。
 
 上で西部の言う「天皇の地位の基盤となるもの」の「破壊」の具体的意味ははっきりしない。
 だが、「破壊」された「天皇の地位の基盤」を無視して、まるで旧憲法下の「天皇」制度が戦後に継承されているかのごとき<錯覚>を、自称あるいは「いわゆる保守」派はしていることが多いと見られる。あるいは、<錯覚>していることを意識しながら、その点を無視して、一生懸命に女系天皇排除とか容認とかに焦点を当てて論じているのようにも見える。
 女系天皇・女性天皇うんぬんの議論が全く無意味だとは思えない。
 しかし、旧憲法下と現憲法下と、「天皇」をめぐる環境は大きく変容していることを十分に意識しておく必要があるだろう。
 世襲天皇制の現憲法上の容認でもって、「天皇」制の連続を語る者は多いだろう。125代とか126代とか言われる。
 しかし、江戸時代の「天皇」と明治憲法下の「天皇」とが大きく変化したように、戦後の「天皇」もまた、戦前とは大きく変わっている。この「現実」をまずは明確に認識しなければならない。以下、立ち入った確認作業を省略して書く。
 第一。戦前の、「皇族」・「華族」・「士族」・「平民」・…という<身分>制度が、「皇族」を除き、全て消滅した。
 「天皇」制度はなぜ長く残ってきたのか、武家政権はなぜ「天皇」を許容したのか、といった問題が設定されることがある。これについては、「天皇」一身または天皇「一族」程度ならば、世俗武家政権は<廃絶>あるいは露骨には<一族根絶>くらいのことはすることのできる実力(・暴力)機構を有していたかと思われる。
 それをしなかった、またはそうできなかった理由は、「天皇」をとり囲む「貴族」あるいは「公家社会」の存在だ。天皇個人や天皇一族を殺しても、「公家社会」全体を廃絶することはできず(皇位主張者はおそらく途切れず)、むしろ大きな反発を喰い、重大な「社会不安」の原因となる。
 専門家ではないから、一種の思いつき的なものだが、上のような事情が少なくともあったことを否定できないのではないか。
 明治以降も「華族」制度は残った。それには公家に加えて新しく、<廃藩置県>後に旧藩主階層まで入ってきた(公卿に加えての諸侯)。これらかつての<貴族・公家>にあたる階層は、明治以降も、「天皇」、そして「皇族」を(現在よりも)厚く取り囲み、心理的・精神的面を含めて保護する役割を果たしていたかに見える。
 そのような「華族」(公爵・伯爵・侯爵・子爵・男爵)は現在にはない。あるのは「皇族」とそれ以外(あるいは「皇族」と「旧皇族の末裔」とそれ以外)だけだ。
 「天皇(家)」は、孤独なのだ。「皇族」の数も減ってきた。この減少、そして敗戦後の「旧皇族」の多くの皇籍離脱の実質要求がGHQの「陰謀」だとする見方も多いようだが、今のところそうは感じない。
 「皇族」以外についての<法の下の平等>、それ以外の<身分>制の廃止にこそ根源があると見るべきだ。
 そして、<いわゆる保守>派も、日本会議も、「華族」・「士族」の廃止を批判してこれらの復活を主張しているわけでは、全くないだろう。明治憲法下への<郷愁>があるとするなら、この点はいったいどうなのか??
 第二。上野「恩賜」公園という名前で現在でも残っているが、戦前は、天皇および「天皇家」は大資産家だった。<天皇財閥>という語もあったと読んだことがある。
 もともと一般の「公家」一家以上には天皇「家」は少しは裕福だったようだが、明治維新後の近代<所有権>制度の確立とともに、「国(国家)」とともに「天皇(家)」も大資産家になったのではないか。神宮(・外苑)もまた、天皇(家)の「私」有地だった。
 戦後憲法下ではどうなったか。
 国有財産法(法律)に「皇室用財産」という言葉・概念がある。しかしこれは「国有財産」の一種であって、「皇室」または「天皇」の<私有>財産ではない。
 皇居の土地も建物も、逗子や那須の「御用邸」も皇室用財産としてもっぱら皇室または天皇家の利用に供されているようだが、全て国有財産であって、排他的に利用できる地位・権能が「皇室」であるがゆえに実質的に認められているにすぎない。
 三種の神器は天皇家に伝わる「由緒ある」ものとされて国有財産ではないようだが、天皇(家)あるいは秋篠宮家等が<私的に・個人的に>所有している>財物というのは(外国賓客からの個人的贈答品は含まれるかもしれない)、相当に限られているのではないか。
 かつて現在の上皇陛下が皇居内で某ホンダ製自動車を運転される映像を見たことがある。皇居内の公園・緑地ならば<運転免許証>は不要だろうと感じたものだが、はてあの自動車は「誰の所有物」だったのか? 当時の天皇個人の所有だったのか、宮内庁(・国)から「借りて」いたのか。
 要するに、ここで言いたいのは、現在の天皇(家)はまともな?私有財産をほとんど所有していない、ということだ。国からの「内廷費」から、個人的な支出も行われている、ということだ。天皇(家)は「ほとんど裸の」状態にある、との叙述を読んだこともある。
 以上、少なくとも二点、旧憲法下から現在へと憲法上「世襲天皇制」が、そして皇室典範(法律)上原則としての?<終身在位>制が明治憲法下の皇室典範においてと同様に継承されているとは言え、「天皇」(家)をとりまく環境は、大きく、決定的と言ってよいほどに変容している。
 そのような天皇(家)だけに対して日本の「伝統」を守れ、と主張するのは、西部邁も指摘するように、「本末転倒」という形容が適切かどうかは別として、やや異常なのだ。あるいは、何らかの「政治上」または「商売上」の目的・意図を持つものと思われる。

2239/西尾幹二の境地・歴史通/月刊WiLL11月号別冊⑥。

 
 西尾幹二(1935~)の遅くとも明確には2019年以降の<狂乱>ぶりは、戦後「知識人」または「評論家」、少なくとも<いわゆる保守>のそれらの「行く末」、最後あたりにたどり着く「境地」を示しているだろう。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)=月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 何度めかの引用になるが、西尾幹二は、こう明言した。
 ①「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。
 大げさにいえば超越的世界観を信じるか、可視的世界観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってよいでしょう。
 …、少しは緩めて寛大に…と考える人…。しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません」。p.219。
 ②「日本人には自然に対する敬虔の念があります。…至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。
 …、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。決して科学の国ではない。だから、それを守らなくてはなりません。」p.225。
 上の最後に「天皇家」への言及がある。
 ところでこれを収載する雑誌=歴史通・月刊WiLL11月号別冊(2019)の表紙の下部には、現天皇と現皇后の両陛下の写真が印刷されている。
 ところが何と、広く知られているはずのように、西尾幹二は、中西輝政や八木秀次・加地伸行らとともに、現皇后が皇太子妃時代に皇后就位資格を疑い、西尾は明確に「小和田家が引き取れ」と書き、秋篠宮への皇統変化も理解できる旨を書いた人物だ。
 平成・令和代替わり時点での他の雑誌に西尾幹二は登場していた。むろん、かつての皇太子妃の体調等と2019年頃以降とは同一ではないとは言える。状況が変わったら、同じ事を書く必要はないとも言える。
 しかし、誠実で真摯な「知識人」・「評論家」であるならば、西尾幹二は編集部からの執筆依頼にホイホイと乗る前に、あるいは乗ってもよいがその文章や対談の中で、かつての皇太子妃(・現皇后)、ひいては皇太子(・現天皇)について行った自分の言論活動について、何らかの感想を述べ、態度表明をしておくべきだろう(かつてはそれとして正当な言論活動だった、との総括でも論理的には構わない)。
 西尾幹二は、自らに直接に関係する「歴史」についても、見ようとしていないのではないか。別に触れるようにこれは<歴史教科書問題>についても言えるが、自らに関係する「歴史」を無視したり、あえて触れないようにしているのでは、とても「歴史」をまともに考察しているとは思えない。むろん「歴史家」でも、「歴史思想家」でもない。「歴史」に知識が多い「評論家」とすら言えないだろう。
 
 上掲の対談部分できわめて興味深いのは、西尾は「神話」に何度も言及しつつ、以下の二点には論及しようとはしていないことだ。
 第一。「神話」とか「神々のご意向」と、西尾は語る。
 ここでの神話とは日本で日本人として西尾は発言しているのだから、「日本(の)神話」あるいは「日本(の)神話」上の「神々」のことを指して、上の言葉を使っていると理解する他はないだろう。まさか、キリスト教「神話」またはキリスト教上の「神々」ではないだろう(仏教の「神」はふつうは「神」とは言わない)。
 しかるに、西尾幹二は、「日本神話」という語も、また、<古事記>という語も<日本書記>という語も(その他「~風土記」も)、いっさい用いない。
 これは異様、異常だ。使われていない言葉にこそ、興味深い論点が、あるいは筆者の意図があったりすることもある。
 そしてもちろん、「女系天皇は史上例がない」という西尾の<歴史認識>の正しさを根拠づける「日本(の)神話」上の叙述を一句たりとも、一文たりとも言及しないし、引用もしない。
 これもまた、異様、異常だ。なお、p.223では対談相手の岩田温が、<天照大御神の神勅>に言及している。これにすら、西尾幹二は言及することがない。
 だが、しかし、この「神勅」はかりに「天皇(家)」による日本統治の根拠になり得るとしても(もちろん「お話」として)、女系天皇の排除の根拠には全くならない。(さらには、天照大御神は古事記や日本書紀上の「最高神」として位置付けられているというのも、疑わしい一つの解釈にすぎない。)
 第二。「神話」というのは、世界でどの程度がそうなのかの知識はないが、何らかの「宗教」上のものであることが多い。または、何らかの「宗教」と関係していることが多い。ここでの「宗教」には、自然や先祖への「信仰」を含む、<民俗宗教>的なものも含めておく。
 さて、西尾幹二の発言に特徴的であるのは、「神話」を熱心に語りながら、「宗教」への言及がいっさいないことだ。
 上に一部引用した中にあるように、「神社」に触れている部分はある。また、<宮中祭祀>にも言及している。
 しかし、何故か、西尾幹二は、「神道」という語・概念を用いない。「神社神道」という語はなおさらだ。
 かと言って、もちろん「宗教」としての「仏教」に立ち入っているわけでもない。
 これまた、異様、異常だ。 いったい、何故なのだろうか。
 抽象的に「神話」で済ませるのが自分のような「上級かつ著名」な「知識人・評論家」がなすべきことで、「神道」(・「神社神道」)といった言葉を使うのは「下品」だとでも傲慢に考えているのだろうか。
 それとも、かなりの推測になるが、「神道」→「神社神道」→「神道政治連盟」→日本会議、という(相当に常識化している)連想を避けたいのだろうか。
 西尾幹二は櫻井よしこ・日本会議は<保守の核心層>ではないとそのかぎりでは適切な批判をし、日本会議・神道政治連盟の大多数が支持している安倍晋三政権を「保守内部から」批判したりしてきた。そうした経緯からして、日本会議・神道との共通性または自らの親近性、西尾幹二自身もまた広く捉えれば日本会議・櫻井よしこらと同じ<いわゆる保守>の仲間だ、ということを感じ取られたくないのだろうか。
 
 神話について叙述しながら、かつまた「神話と歴史」の関係・異同を論じながら、つまり「神話」と「歴史」という語・概念は頻繁に用いながら、<宗教>に論及することがない、またはきわめて少ないのは、西尾幹二のつぎの1999年著でも共通している。
 西尾幹二・国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 ここで扱われている「歴史と神話」は日本に固有のそれではなく、視野は広く世界に及んでいるようだ(と言っても、欧州と中国が加わっている、という程度だと思われる)。
 しかし、この主題は日本の「神話」と中国の「歴史(書)」=魏志倭人伝の比較・優劣に関する論述の前段として語られていること、または少なくともつながっていることを否定することはできない。
 そして、きわめて興味深いのは、日本または日本人の「神話」あるいは古代日本人の「精神世界」に立入りながら、西尾幹二は決して「神道」とか「仏教」とかを明確には論述していないこと、正確にいえば、「日本の神道」と「日本化された仏教」を区別して叙述しようという姿勢を示していないことだ、と考えられる。
 西尾幹二は「神道」と「仏教」(や儒教等)の違いを知っているだろうが、この点を何故か曖昧にしている。
 これは不思議なことだ。
 しかし、西尾の主眼は<左翼>ないし<左派>歴史観に対して『ナショナリズム』を対置することにあるのだとすると、上のことも理解できなくはない。
 この書には(原書にも文庫本にも)「日本文明(?)」の粋と西尾が思っているらしき日本の彫像等による「日本人の顔」の写真が掲載されている。文庫本に従うと(原著でも同じだった筈だが)、つぎの16だ。
 ①四天王・増長天像(当麻寺金堂)、②四天王・広目天像(同)、③塔本四面具・八部衆像(法隆寺五重塔)、④塔本四面具・十大弟子像(同)、⑤八部衆・五部浄像(興福寺)、⑥八部衆・沙羯羅像(同)、⑦十大弟子・目犍連像(同)、⑧十大弟子・須菩提像(同)、⑨四天王・広目天像(東大寺戒壇院)、⑩無著菩提立像(興福寺北円堂)、⑪世親菩薩立像(同)、⑫重源上人坐像(東大寺俊乗堂)、⑬二十八部衆・婆藪仙人像(三十三間堂)、⑭二十八部衆・摩和羅女像(同)、⑮護法神像(愛知・荒子観音寺)、⑯十二神将・申像(愛知・鉈薬師堂)。
 なお、口絵上の上記以外に、本文途中に、つぎの写真もある。便宜的に通し番号を付す。p.395以下。
 ⑰宮毘羅像頭部(新薬師寺)、⑱持国天像邪鬼(興福寺東金堂)、⑲雷神(三十三間堂)、⑳風神(同)、21梵天坐像(東寺講堂)、22十二神将・伐析羅大将像(興福寺東金堂)、23金剛力士像・吽(興福寺)。
 一見して明らかなように、これらは全て<仏教>上のもので、現在は全て仏教寺院の中にある。口絵部分の最後の2つの⑮・⑯が見慣れた仏像類とやや異なるが、あとは紛れもなく「仏像」または「仏教関連像」と言ってよいものだと考えられる。
 しかし、興味深いのは、西尾幹二が関心をもってこれらに論及して叙述しているのは、日本人の「精神」や日本の「文化」・「美術」であって、<仏教という宗教>(の内容・歴史)では全くない、ということだ。
 妙法院三十三間堂は平清盛が後白河法皇のために建設して献じた、とされる。
 それはともかく、上のような「日本人の顔」を描く像を「文化」ないし「美術」、広くは日本「精神」の表現とだけ捉えて論述するのは、大きな限界があるように考えられる。
 つまり、諸種・各種の「仏教」・「仏典」等に立ち入って初めて、これらの意味を真に理解できるだろう。
 もちろん、日本「文化」・「文明」や「美術史」上、貴重なものではあるだろう。
 だが、それ以上に踏み込んでいないのが、さすがに西尾幹二なのだ。
 出典を明らかにできないが、西尾幹二は<特定の宗教に嵌まることはできない>と何かに書いていたことがある。
 この人は、仏教の各宗派にも諸仏典にも、何の興味も持っていないように見える。
 おそらくは、日本の仏教または仏教史をきちんと勉強したことがない。あるいは多少は勉強したことがあっても、深く立ち入る切実な関心をこの人は持っていない。
 同じことは、じつは、日本の「神道」についても言えるのではないか、と思っている。
 西尾幹二は、神道の内実に関心はなく、その<教義>にも<国家神道なるものの内実>にもさほどの関心はない。
 そのような人物が何故、「神社」に触れ、「宮中祭祀」に触れ、女系天皇を排除すべき「天皇の歴史」を語ることができるのだろうか。
 「神社」とは神道の施設ではないのか? 「宮中祭祀」は無宗教の行為なのか? 宮中三殿に祀られている「神」の中に、仏教上の「神」に当たるものはあるのか。
 結局のところ、「神社」も「宮中祭祀」も、「天皇」も、かつての皇太子妃(・皇太子)批判も、<神道-天皇>を永続的に守りたいという気持ち・意識など全くなく、西尾幹二は文章を書いている、と思われる。
 <天皇>に触れても、少なくとも明治維新以降、「仏教」ではなく「神道」が<天皇の歴史>と密接不可分の関係を持たされた、というほとんど常識的なことにすら、西尾幹二はまともに言及しようとしない。
 いったい何故か? いったい何のためか?
 おそらく、西尾幹二の<名誉>あるいは<業界での顕名>からすると、そんなことはどうだってよいのだろう。戦後「知識人」あるいは「評論家」という自営文章執筆請負業者の末路が、ここにも見えている。

2229/史料・資料-神社本庁憲章(一部)。

 神社本庁憲章(一部)。
 一部の太字化は、掲載者。
 ***
 神社本庁憲章/昭和55年5月21日 評議員会議決
 第1条 神社本庁は、伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する。
 第2条 神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げる。
2 <略>
 第3条 神社本庁は、敬神尊皇の教学を興し、その実践綱領を掲げて、神職の養成、研修、及び氏子・崇敬者の教化育成に当る。
 第4条 神社本庁は、総裁を推戴する。
 2 総裁は、神社本庁の名誉を象徴し、表彰を行ふ。
 第5条 神社本庁に統理以下の役員、その他の機関を置く。
 2 統理は、神社本庁を総理し、これを代表する。
 3 <略>
 第6条 祭祀は、報本反始の誠を捧げ、古来の伝統と、別に定める制規に従って厳修する。
 第7条 神社本庁は、幣帛促進の伝統を重んじ、神社に本庁幣を献ずる。
 第8条 神社は、神祇を奉斎し、祭祀を行ひ、祭神の神徳を広め、以て皇運の隆盛と氏子・崇敬者等の繁栄を祈念することを本義とする。
 2 霊代の神聖は、厳に護持しなければならない。
 3以下<略>
 第11条 神職は、ひたすら神明に奉仕し、祭祀を厳修し、常に神威の発揚に努め、氏子・崇敬者の教化育成に当ることを使命とする。
 2以下<略>
 <以下、略>
 出所-神社本庁総合研究所監修・戦後の神社・神道-歴史と課題-(神社新報社、2012年2月)
 ***
 さしあたりの感想・コメント。
 第一。「大御代の彌栄を祈念」(1条)、「敬神尊皇」(3条)。「皇運の隆盛」(8条1項)。つまり、<天皇・皇室>を崇敬・尊重する、ということが明記されている。やや失礼かもしれないが、神社本庁系神社=「神道」・「天皇」教なのだ。8条1項によると氏子・崇敬者よりも「皇運」は優先するごときだ。
 第二。「神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ」。厳密な意味を問題にする余地はあろうが、「神宮」=<伊勢神宮>(そして内宮の祭神は<天照大御神>)が「本宗」と明記されている。
 歴史的・由緒的にはアマテラスではなくスサノヲ・大国主命系の神を主祭神とする神社も多く、かつまた稲荷神社系、八幡系(応神天皇・神功皇后)、天神・天満系(菅原道真)もあり、日吉・日枝系(日吉大社、日枝神社等)もあるが、神社本庁を「包括法人」としているかぎりは、「本宗」は、伊勢神宮=アマテラス系だ、とされている。したがって、「天皇・皇室」との縁が遠いと思われる神社も、神社本庁系あるいは「神社神道」であるかぎりは、<世界で最古の王朝・日本の皇室>などというノボリを立てたり、看板を立てたり、冊子を頒布していることになる(神社本庁から配布されたのだろう)。
 

2158/神社新報編輯部・皇室典範改正問題(2019.10)。

 神社新報編輯部・皇室典範改正問題と神道人の課題/鎮守の杜ブックレット3(神社新報社、2019.10)。
 この冊子的な書物の刊行時期(昨2019年秋)からすると、現今の皇室典範改正・皇位継承問題について、神社本庁の現在の姿勢・見解を提示しているかと思ったが、そうではなかった。
 収載されているのは全て、2005年(平成17年)に神社新報に掲載されたもののようだ。2004年末に、小泉首相の私的諮問・有識者会議が設置されていた。
 とはいえ、昨年秋にこれを出版するということは、2005年時点の見解を大きくは変更していないこと、または現時点での一致した定見を神社本庁は有していないことの表れかと思える。
 外野的第三者の印象では、「一部保守」または「宗教右翼」は、つぎで一致している。
 ①男系男子限定、そのための②旧皇族の子等の「皇族」復帰。
 従って、③女性宮家創設反対(女性天皇容認につながるから)、④女性天皇反対(女系天皇につながるから)、⑤女系天皇反対。
 こうまでの趣旨は、上掲冊子(書物)では読み取れない。
 ①男系男子限定・②旧皇族男子復活・③女性宮家反対、というだけの論者たちは、「現実」から再び取り残される可能性がある(今回は西尾幹二を含む)。
 とはいえ、自民党有志らは上の②を可能とする法案を作成したりしているので、この主張は、政治的影響力をまだ持っていそうだ。
 自民党有志案で驚いたまたは注目したのは、「皇族復帰」について該当候補者の「同意」を得る、ということだった。
 簡単に「同意」を得ることができるか、そのような人物はいるか、という問題はある。
 最近の高森明勅ブログを読むと、政府は実際上はこの該当候補者の「意向確認」・「打診」を行ったが、よい結果が出なかったようだ、とか書いてあった。
 上の点はともかく(重要なことだが)、皇族復帰を各人の「意思」に委ねるというのは皇位継承を各人の「意思」に委ねることをほとんど意味する(子どもにとってはその「運命」を親が決定する)、あるいはほぼ等しく、継承候補者の「意思」いかんによる皇位継承を天皇制度は予定してきたのか、という基本的・原理的な問題があることを感じる。
 但し、と言っても、一定の要件のもとで一律に一括して(強制的に)皇族とし、「一般」国民たる地位を剥奪することがどういう理屈のもとで現行法上可能か、というこれまた困難な問題があることは、たぶん昨年の初夏あたりに書いた。
 ***
 資料として、いくつか興味深いものが上掲冊子には載っている。
 一つだけ、紹介する。 
 光格天皇~明仁上皇までの「側室」、嫡子・庶子、男子・女子、各数一覧。p.28。
 「編輯部調」となっている。ここでは「皇子・皇女」→「男子・女子」、「0」→「無」と記載を改めた。皇后名・天皇の出身(例、閑院宮典仁親王第六王子)は割愛している。
         側室 子計 嫡子・庶子 男子・女子
 119代・光格天皇 7   18  2  16  12 06
 120代・仁孝天皇 5   15  3  12  07 08
 121代・孝明天皇 3   06  2  04  02 04
 122代・明治天皇 5   15  無  15  05 10
 123代・大正天皇 無  04  4  無  04 無
 124代・昭和天皇 無  07  7  無  02 05
 125代・明仁上皇 無  03  3  無  02 01
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2150/西尾幹二の境地-歴史通・月刊WiLL2019年11月号別冊④。

  西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 西尾発言、p.219。
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。」
 ①「神話」とだけ言い、日本書記や古事記の名を出さないこと、また②「神」という語が付いているが、神道等の「宗教」にはいっさい言及しないこと。これらにすでに、西尾幹二の<言論戦略>があると見られる。これらには別途触れる。
 上の、神話→女系天皇否認、というこの直結はほとんど信じがたいものだ。
 かりに神話→万世一系の天皇、を肯定したとしてもだ。
 しかし、神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
 明治憲法制定過程での皇位継承・「女帝」をめぐる議論は、以下を読めばほぼ分かる。
 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 とくに、上掲書のp.25~p.45の「Ⅰ/明治前期の『女性天皇』論」。
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2146/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)①。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 これのうち、第Ⅰ部/<日本の歴史への基本的視点>のうちの「倭国をつくったのはだれか」より。
 ・「『日本書記』に特徴的な記述の第一は、紀元前660年に最初の天皇・神武が即位して日本が生まれ、日本は紀元前7世紀以来、天皇によって統一されていたとしていることにある。
 これが嘘であることはだれが見てもわかるのだが、『日本書記』のそもそもの目的からすると、そのようにしなければならなかった。」
 ・…。「こうした構成がとられたのは、舒明系統の流れをくむ日本の皇室が、みずからの尊厳を正当化するという目的があったからだ。神武以来の、架空の「万世一系」の系譜をつくり、みずからの王権の古さと由緒の正しさを主張すること、ここにこそ『日本書記』編纂の目的があった」。以上、p.31。
 ・「日本が建国される以前の日本列島には何があったか。
 先に触れたが、そこには「倭国」と呼ばれる有力な王国があった。
 この倭国はけっして日本列島を統一していなかったし、倭国王が列島のなかの唯一の王だったかどうかはきわめて疑わしい。
 7世紀のシナの史料『隋書』や『北史』の「倭国伝」をそのまま解釈すると、倭国は日本列島を統一するような国ではありえなかった」。以上、p.32。
 ・「紀元57年の「漢委奴国王」の金印に触れた記事が、『後漢書』の倭伝にある。
 …。倭人の代表を「王」に任命したということは、倭人が今後漢の皇帝と交渉しようとする場合、その窓口にいる倭人の「王」を通さなければならない、という「お墨付き」を与えたことになる。
 奴国は博多湾にあり、韓半島に渡る出発地だった。倭人社会の出入口に位置する場所の酋長に「王」の称号を与えて、いわばシナの名誉領事的な地位を授けたのである」。p.43。
 ・「それから50年経った107年に倭国王・帥升が歴史に現れる」。
 その頃の後漢王朝は内外ともに混乱していた。「困難な情勢を乗り切るために後漢が演出したのが、倭国王・帥升の使いだった。 
倭国王の使者は、107年に生口(奴隷)を従えて洛陽に現れ、倭国王が自身で来朝して皇帝に敬意を表したいと申し出た。…。
 「王」の使者の来朝は、シナの政治の安定に重要な意味を持った。
 朝貢を受けた皇帝には、異種族を感化する徳がある、という証明にもなるからである。
 この朝貢は、あくまでシナ側の都合によって演出された事件だった」。以上、p.44。
 岡田英弘、1931~2017。
 少なくとも近年の西尾幹二の「取り憑かれ」ぶりよりは、冷静だ。

2100/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史09。

 現上皇の「おことば」(2016年)を契機とする退位・譲位に関する議論について、本郷和人はこう書いた。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます。
 歴史的な背景や前提に対して無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます。」
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)。
 また、小島毅は、下の書物を執筆し始めた動機を、こう書いた。
 「一部論者によって伝統的な天皇のあり方という、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、『古来そうだったのだから変えてはならない』という自説の根拠に使われた。
 そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である。」
 瞥見のかぎりで、渡部昇一(故人)は明示的に批判されている。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。 
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 1465年~1615年、150年間。応仁の乱勃発二年前~江戸時代初頭・大阪夏の陣。
 1615年~1865年、250年間。大阪夏の陣~明治改元3年前・第二次長州征討。
 1865年~1915年、50年間。明治改元3年前~第一次世界大戦2年め・対中21箇条要求。
 1865年~1945年、80年間。明治改元3年前~敗戦。
 1889年~1945年、56年。明治憲法発布~敗戦。
 1868年~2018年、150年。明治改元~2019年の前年。
 1889年~2019年、130年。明治憲法発布・旧皇室典範~2019年(令和1年)。
 1947年~2017年、70年。日本国憲法施行~2019年の前々年。
 日本の現在の「右翼」や一部「保守」は、①明治改元(1868年)~敗戦(1945年)の77年間、または②旧憲法・旧皇室典範(1889年)~敗戦(1945年)のわずか56年間、あるいは③皇位継承を男系男子だけに限定する旧皇室典範(1889年)~現皇室典範(~2019年)の130年(明治-令和の5元号にわたる)が、<日本の歴史と伝統>だと勘違いしているのではないか?
 古くから続いているのならば変えなくてよいのではないか、というウソに嵌まって<女系容認論>を遠ざけていた、かつての私に対する自戒の想いも、強くある。
 江戸幕府開設(1603年)~明治改元(1868年)は、265年。上の②56年、①77年、③130年よりもはるかに長い。この期間もまた日本(・天皇)の歴史の一部だ。
 応仁の乱勃発(1467年)~本能寺の変・天王山の闘い(1582年)、115年。この期間も長い。そして、天皇・皇室の諸儀礼等はほとんど消失していた(江戸時代になって<復古>する)「空白」の時代だったことも忘れてはならないだろう。
 あるいは、1221年の承久の乱(変)や1333年の後醍醐天皇・建武新政(中興)から数えて、江戸幕府開設までの約380年、約270年を挙げてもよいかもしれない。江戸時代を含めていないが、上の①~③よりもはるかに長い。これまた、日本の歴史の重要な一部だ。
 もちろん、1221年までにでも、おそらくは1000年ほどの<ヤマト>または<日本>の時代がある。
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 日本の現在の「右翼」や一部「保守」論者は、無知・無能者かまたは「詐話師たち」なのだろう。
 明治維新により<神武創業の往古>に戻った? 笑わせてはいけない。
 2017年初めの月刊正論編集部によると、「保守」の4つの「指標」のうちの第一は「伝統・歴史的連続性」だつた。
 月刊正論2017年3月号(産経新聞社、編集代表・菅原慎太郎)、p.59。
 上でも少しは示したが、明治維新と明治憲法体制は、それまでの日本の「伝統・歴史的連続性」を断ち切ったものではないか? 明治期以前にも、歴史の(例えば<神仏習合>の)はるかに長い「伝統・歴史的連続性」があったのではないか? 明治期に戻ることが「伝統・歴史的連続性」の確保なのか?
 2017年9月の西尾幹二著によると、「保守」の「要素」には4つほどあるが、「ひつくるめて」、「歴史」なのだそうだ。そして、「歴史の希薄化」を西尾は嘆いている。
 西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)に意識的に対抗するような書名や、この時点での「歴史」なるものの評価、つまり上から1年半後に2019年になってからの「可視的歴史観」に対する「神話」優越論についてはさておき、「歴史の希薄化」を行って単純化し、ほぼ明治期以降に限定しているのは、西尾がこの著で批判しているはずの、安倍晋三内閣を堅く支持する「右翼」・日本会議派ではないか。
 以上は、西尾幹二に対しても、八幡和郎に対しても向けられている。
 八幡和郎は2019年になってからも、月刊正論(産経)の新編集代表の写真を自らのブログサイト(アゴラ)に掲載したりして、月刊正論等の<いわゆる保守系>雑誌に身をすり寄せている。例えば、下の著もひどいものだ。いずれより具体的に指摘する。
 読者層のウィングを「右」へと広げたつもりなのか。下の著は「保守」派の「理論的根拠」を提供するというのだから、これまた笑ってしまった。
 八幡和郎・皇位継承と万系一世に謎はない-新皇国史観が日本を中国から守る-(扶桑社新書、2011)。

2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。

  今上天皇は<神武天皇を初代として126代>と皇統譜上はなっているようだが、この<126代>にはいかほどの意味と信憑性があるのだろうか。
 神武天皇やのちの天皇の実在性を疑えば、126代も簡単に虚構になってしまう。しかし、神武やその後の8代を実在とし、かつ王朝交替も否定して<一系>性を肯定したとしても、126代ということの<根拠>はけっこういいかげんだと思われる。
 ふと思うのだが、例えば光格天皇は、あるいは後醍醐天皇は、あるいは天武天皇、持統天皇は、即位する際に自分は神武以降の何代めの天皇にあたるということを明確に意識していたのだろうか。日本書記の記述をほぼ絶対のものとして、自らの代数を数えていたのだろうか? 種々の歴史関係書を見ていると、即位当時の文献に<~代めとして即位する>と宣明したとある、といった記述は全くかほとんどないようだ。
 「天皇」という漢風称号自体も天智または天武あたりの時代から使われ出したらしいのだが、この「天皇」という言葉の発生・成立については詮索せず、大和朝廷の長または「大王」位も含める。
  光格天皇の実父の閑院宮典仁のように、実際には天皇に在位したことがないにもかかわらず、のちに「天皇」(慶光天皇)と称され、かつ「~天皇陵」(慶光天皇陵)まで存在する皇族は、他にもあるようだ。
 以下、代数は明治期以降の皇統譜のもの。
 1/「岡宮天皇」=草壁皇子。
 草壁皇子は天武(40代)・持統(41代)の子で、文武(42代)・元正(44代)の父。妃は元明(43代)=持統の妹。 
 続日本紀の巻第一の分注に、758年に「勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した」とある。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・上(講談社学術文庫、1992)、p.13。
 陵は「岡宮天皇真弓丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、現在の奈良県、橿原市南の高取町内にある(但し、場所の治定の正確さには争いがあるようだ)。
 2/「春日宮天皇」=志貴皇子。
 志貴皇子は天智(38代)の子で、光仁(49代)の実父。草壁・大津・高市・川島・刑部各皇子とともに、いわゆる「吉野の盟約」をした6皇子の一人。持統(41代)・元明(43代)と同父だが、天武・持統の血統ではない。光仁即位後に、「春日宮御宇天皇」と追尊された。
 陵は「春日宮天皇田原西陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良市矢田原町にある(光仁陵が東にあって、「-田原東陵」とされる)。
 3/「崇道天皇」=早良皇子。
 桓武天皇(50代)と同父母(光仁・高野新笠)の弟。桓武在位中に「崇道天皇」と追号された。
 陵は「崇道天皇八嶋陵」と呼ばれ、奈良市八島町にある。但し、文久・明治期の治定で、正確さには疑問があるという。
 この陵付近にも小さな崇道天皇社がいくつかあるようだが、著名なのは、京都市上高野の<崇道神社>で、この神社の唯一の祭神が、崇道天皇=早良親王。御所の東北にあるのは、比叡山延暦寺とともに、<怨霊封じ>のためともいわれる。
 この神社の頒布による小冊子p.4によると、ほぼ同じ場所に出雲高野神社と伊多太神社があり、崇道天皇を祀ることとなって前者が崇道神社と改称された。現在でも本殿すぐ近くに摂社のごとく伊多太神社が別にある。
 崇道天皇=早良皇子は神泉苑での最初の御霊会(863年)で祀られた第一の人物で、上御霊神社や下御霊神社でも代表的な「御霊」とされている。
 4/「飯豊天皇」=飯豊皇女(・飯豊女王)。
 日本書記によると、履中天皇(17代)の孫で、同じく孫である仁賢天皇(24代)・顕宗天皇(23代)の姉。
 清寧天皇(22代)崩御後の(仁賢・顕宗による譲り合いでの)天皇不在中に「姉の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった」。崩御後、「葛城の埴口丘陵」に葬られた。
 以上、宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.324。
 陵は「飯豊天皇埴口丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良県葛城市新庄町北花内にある。
 上の1と2は実の子が天皇に就位したことにより、天皇号が付与されたとみられる。
 はおそらく、いったん皇太子とされたが死亡により天皇になれになかったことが直接の理由ではなく、しばしば指摘されているように、その死亡にかかわる経緯からする<鎮魂>のためだろう。
 は、短期間にせよ、実質的に天皇と同じ役割を果たした(とされている)ことによるのだろう。なお、日本書記や古事記ではなく<扶桑略記>では「24代」と明記されているらしい(皇統譜上は23代・顕宗、24代・仁賢)。とすると、日本で最初の「女帝」=「女性天皇」だったことになる。
 なお同じく<扶桑略記>では神功皇后は「15代」とされているらしい(皇統譜上は14代・仲哀、15代・応神)。しかし、神功皇后は、日本書記での記載ぶりを別とすれば、「天皇」と追号されておらず、「~天皇陵」と称されるものも存在しない(この点で4=飯豊天皇と違う)。陵は奈良市内にあるが、あくまで「神功皇后~陵」だ。
 ***
 さて、光格天皇の父・閑院宮典仁がのちに「慶光天皇」と称されたのは、光格が天皇になったためで、上の1や2と同じまたは同類で、「先例」があったと見られるかもしれない。
 しかし、事情は異なる。
 江戸時代には天皇・皇室に天皇就位や継承を決定する自由または自立性はなく、全て幕府の「許可」が必要だった。いったん天皇になった者の父親についての「天皇」または「太上天皇」号の付与についても同じ。
 光格天皇が幕府に願い出たのは実父・典仁についての「太上天皇」尊号の付与で、幕府側はこれを拒否した(いわゆる「尊号一件」という事件)。
 光格天皇が先例として挙げたのは上の1・2ではなかった。この二つは「天皇」号の例だ。
 そして、光格が挙げた先例は「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号に関する2例だった、とされる(別に書く)。
 藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)参照。p.259。
 では誰によっていつ閑院宮典仁に「慶光天皇」号が付与されたかというと、明治維新後に明治天皇(・明治新政府)によってだった。旧幕府と違って、光格天皇による「皇室の権威」を高める努力に応えた、ということかもしれない。
 しかし、「慶光天皇」が歴代の、皇統譜上の天皇の一人とされたわけではない。
 もともと明治期以降の皇統譜では、日本書記等が明らかに無視して天皇在位を否定している大友皇子に「弘文天皇」という諡号を与えて代数をもつ天皇に数えているのだから、明治新政権は、日本書記等をその点では少なくとも全く信用していないことになる。水戸光圀編纂・大日本史等々による歴史「解釈」の影響があったのかもしれないが、現在で「126代」というのも、その意味するところは相当に曖昧であることになるだろう。
 天皇であるための「要件」は何か。あるいは、日本史全体を通して、何だったのか?
 三種の神器の継承のなかった天皇もいた。即位礼や大嘗祭の挙行をしなかった(できなかった)天皇もいた。かりに神武等々を含めて古代の天皇は全て実在だったとしても、「天皇」たることの本質や要件はやはり曖昧なのではないか。
 126代の全天皇が三種の神器の継承をしたわけでも、即位礼や大嘗祭を挙行したわけでもない。といったことも、廬山寺・「慶光天皇」に関連して考える。
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 以下、各段が、岡宮天皇・草壁皇子陵、春日宮天皇・志貴皇子陵、飯豊天皇陵。いずれも、ネット上より。


 ryo01 (2) ryo01-02 (2)

 ryou2 (2) ryou2-02 (2)
ryou3 (2) ryou3-02 (2)

 

2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。

 西尾幹二発言・同=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)、p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。」
 西尾幹二発言・同=岩田温(対談)「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるから…」。
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 公然とかつ平然と歴史の大ウソが日本会議関係者等の「右翼」または「一部保守」派によって語られているので、皇位継承の仕方、女性天皇への継承の背景等に関心をもって、かなりの書物に目を通してきた。
 つぎは相当に役立つので、ほとんど引用することによって、紹介する。
 書名は<中世>を冠しているが、中身は「古代」も含んでいる。著者は1977年~、京都大学博士、帝京大学文学部講師。
 佐伯智広・中世の皇位継承-血統をめぐる政治と内乱(吉川弘文館、2019)。
 主として「女性天皇」関係部分から引用する。実質的に第一章の<古代の皇位継承>から。代数は明治期以降作成の皇統譜上、宮内庁HP上のもの。
 (なお、この第一章<古代の皇位継承>は、以下の「節」からなる。
 1/「万世一系」と女性天皇。
 2/古代の女性天皇の重要性
 3/父系と母系が同じ重みをもつ双系制社会。
 4/兄弟姉妹間での皇位継承。
 5/相次ぐ「皇太弟」。)
 ①「最初の女性天皇」の推古(33代)は欽明(29代)の娘、敏達(30代)の妻で、夫の死後、「オオキサキとして天皇とともに統治権を行使していたと考えられている」。
 「オオキサキ」は推古の頃に成立した地位で、推古は用明(31代)、崇峻(32代)にも「引き続きオオキサキとして統治に関与していた」。
 「この統治実績が」推古の天皇擁立に「重要な役割を果たしたと考えられている」。
 ②推古は「単なる中継ぎなどと評価できない、正統の皇位継承者だった」。
 ③推古に続く女性天皇の皇極=斉明(35代・37代)、持統(41代)、元明(43代)、元正(44代)も、「即位以前から統治実績を積んでおり、中継ぎという消極的な立場ではなく、正統の皇位継承者として即位している」。
 ④孝謙=称徳(46代・48代)もこれら「女性天皇の伝統の上に即位しているのであって、必ずしも、男子不在による苦し紛れの即位というわけではない」。
 ⑤光仁(49代)は聖武(45代)の実娘・井上内親王を妻とし、その子の他戸親王を皇太子としていたので、「皇統は、当初、母系を通じて受け継がれるよう設定されていたのである(実際には、<中略>廃太子され、実現せず)」。
 ⑥「天皇の外戚の地位」の重要化の「それ以前の皇位継承において女性や母系が重視されたのは、古代日本が双系制社会、すなわち父系(男系)と母系(女系)の双方の出自が同等の重みをもつ社会だったからだ」。
 ⑦7世紀後半から8世紀にかけて、「父系制社会へと緩やかに移行したと考えられている」。
 ⑧「関連して注目されている」が、「大宝令」(701年)では、「女性天皇の皇子女も、男性天皇の皇子女と同様に、親王・内親王とすることとされていた」。
  「このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在だったことを意味する」。
 日本の律令は「男系主義」を採るが、「その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に関する規定であった」。
 ⑨「男系主義の浸透」で称徳以降、女性天皇は長く出現しない。
 江戸時代の明正(109代)・後桜町(117代)は、「皇位継承者たる男子不在の状況で擁立された、まさに『中継ぎ』の天皇であった」。
 ⑩その他の古代での皇位継承の特徴は、「兄弟姉妹間での皇位継承」や「皇太弟」の設立がかなりの範囲で行われたことだ。
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 以上。
 上の⑤に関する秋月の注記。
 井上(いがみ)内親王は光仁の皇后の地位を廃された。その子・他戸(おさべ)親王(聖武天皇の孫、父は光仁天皇)とともに、「殺された」とみられる。
 のちに光仁の子で高野新笠を母とする桓武天皇の同母実弟・早良(さわら)親王=「崇道天皇」も「殺されて」、崇道神社(京都市上高野・京都御所の東北方向)の唯一の祭神となった。
 井上内親王・他戸親王は、早良親王らとともに、御霊神社等での「八所御霊」の中に入っている。
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2074/西尾幹二の境地・歴史通11月号①。

 月刊WiLL2019年4月号(ワック)に、つぎの対談が掲載されたようだ。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」。
 これが、歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)に再掲されている。
 前者を読んでいないので知らなかったが、後者を読むと、今年の初めに西尾幹二が考えていたことが分かり、興味深いとともに、いささか驚き、また呆れる。
 その西尾発言部分を、まずは引用する。一行ごとに改行する。
 「女性天皇と女系天皇の区別」はかなり理解されてきたようでもある。<中略>
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません
 大げさにいえば、超越的歴史観を信じるか、可視的歴史観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってもいいでしょう。
 126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるからといって、今や…情勢が変わったのだから政治世界の条件は少しは緩めて寛大にしてもよいのではないかと考える人が急速に増えているようです。
 しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません。//
 神話は歴史と異なります。
 日本における王権の根拠は神話の中にあるのであって、歴史はそれを支えましたが、歴史はどこまでも人間世界の限界の中にあります。
 歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません。
 ですから神話を今の人に分かるように絵解きして無理なく伝えるのは容易な業ではなく、場合によっては危険でもあり、破壊的でもあるのです。//
 例えば、女系天皇の出現を阻止するのは…今や無理であり、…女性宮家を創設して、…が合理的で、男系継承一点限りの原則論ではもはややっていけない、と囁く声が保守派の中からさえ聞こえてきます。
 それでいいのですか。」
 ここで、いちおう区切る。
 これまでのところで、原理的な問題として西尾幹二が取り上げているのは、<神話と歴史>という問題だ。そして、明確に、前者を尊いものとしている。
 池田信夫は「天皇が『万世一系』だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派ということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ」と書いているが(同11月11日ブログマガジン)、ひょっとすれば?、「歴史学的にはナンセンス」であることは、西尾も容認するのかもしれない。
 しかし、西尾幹二は、「歴史学」が示す「可視的世界観」に立ってはならず、「人間世界の限界の中」にある「歴史」によらず、また「人間世界の都合」によらないで、「神々のご意向」に添わなければならない、という見解を主張しているようだ。
 なぜなら、「歴史」には「事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由」があるが、「神話を前にしては」「そういう自由」はない。
 「神話」と「歴史(学)」と関係は、一般論として、興味深い主題ではある。
 ごく最近に読んだジョン・グレイの書物の一部は、近代人文社会科学は「ヒューマニズム」を基礎としており、それはまた一種の「信仰」であり「迷信」だ、と主張しているとみられる。
 むろん、J・グレイの方が、西尾幹二よりも視野が広く、思索は深い。
 まだこの欄で紹介していないが、つぎの書物には、つぎのような印象深い一文がある。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)=John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)、邦訳書p.85。
 「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 西尾幹二の知見は、幼稚な秋月瑛二の目から見ても、「曇りのない知見」だとは思えない。
 以上はさておき、「歴史(学)」の対象には「神話」も含み、またJ・グレイの示唆するように「歴史(学)」もまた何らかの「宗教」(近代ヒューマニズム、近代啓蒙主義にもとづく人文社会系学問)を基礎にしているとも言えるから、西尾のように「神話」と「歴史」を対比させること自体が、なおも説得力を欠くところがあるだろう。
 しかし、それにしても、公然たる、明確な「神話」優越論だ。
 これが、日本人、あるいは世界も含めてもよいが、人間多数の支持を受け得るとは考え難い。
 「神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」と何やら深遠なことを言っているようでもあるが、じつはほとんど無意味だ。
 「人間の手による分解と再生」を許さないのが「神話」であり、人間はそれに従うほかはない。これを西尾は「可視的歴史観」と区別される「超越的歴史観」と称しているようだ。要するにこれは、「神話を信じるべきだ」、という主張だ。
 世界観、人間観、人生観として、これは成り立つ可能性はある。キリスト教も含めて、真に敬虔な「宗教信者」は、たぶんそう考えているのだろう。
 だが、論じるまでもなく、そして残念ながら、普遍的な、または日本と日本人に不変の「世界観、人間観、人生観」として西尾が勝手に他者に押しつけることができるものではない。西尾幹二の「虚しい思い込み」にすぎない。
 この点ではまだ、岩田温のつぎの言葉の方が冷静だ。
 「神話をすべて信じろというのは現代人にとって難しいでしょうが、神話を敬う態度は必要だと思います」。上掲書、p.220。
 秋月もまた、「敬う」と表現できるかは別として、日本書記であれ古事記であれ、日本と日本人の歴史を考察するにあたって、これらのうちの「日本神話」を無視してはならないと思っているし、「事実」・「史実」ではないものがあると注記しつつ諸記述・諸「物語」を学校教育の場にも導入すべきだと思っている。
 しかし、むろん「神話を信じる」べきだ、という前提に立っているのではない。
 なお、上に引用部分にはないが、西尾幹二は、原理的・基本的な論点として、つきの主張を行っていることにも注目される。以下、引用。上掲雑誌p.222。
 「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神です。
 自然科学ではない科学が蘇らない限り、…へひた走ってしまいます。
 それが行きつく先はニヒリスムです。<一文略>
 自分たちの歴史と自由を守るために、自然科学の力とどう戦うか。
 現代の最大の問題で、根本にあるテーマです。」
 ここでは私は、「ニヒリズム」観念には関心がない。
 興味深い一つは、「自分たちの歴史と自由」の大切さを説いて、ここでは(「神話」ではなく)「歴史」を重視していることだ。西尾幹二における諸概念の使い方には、そのときどきの、文章の流れの中に応じたむら気に対応して、結構いいかげんなところ、がある。
 それよりも決定的に重要だと感じられるのは、最後にある、「自然科学の力とどう戦うか」、これが「現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ、という主張・見解だ。
 むろんこれも、西尾幹二の独自の主張の一つにすぎない。
 すでに言及した部分を含めて言えば、西尾幹二は、こういう図式を描いているようだ。
 「神話」>「歴史」>「自然科学」
 これまた面白い理解の仕方だ。J・グレイによると「曇りなき知見」を得るためには「物理学など、広い分野」を学ぶことが必要なのだが、西尾によると、「自然科学」と戦うことが必要なのだ。J・グレイとは真反対にあるとも言える(なお、この人物は<容共>主義者ではない)。
 岩田温もこれにほぼ追随していて、「皇室は、近代的な科学に抗う日本文化」の「最後の砦」だとか、「無味乾燥な『科学』」だとか発言している。上掲雑誌、p.224。
 ここに、はしなくも、日本の「文学」系人間に特徴的であることが多い無知蒙昧さが明瞭に示されている、と秋月は感じる。人間である日本人を理解するためには、人体・脳等々を学問対象とする「医学」、その基礎にある物理学、化学等々、そして脳神経生理学、進化生物学等々もまた必要なのだ。
 これら現代「自然科学」を無視しては、さらには「戦う」などという姿勢・感覚では、日本人も、その歴史も、西尾幹二もときに用いる「日本精神」なるものも、理解することができない、議論することすら不可能だと思われる。
 さて、以上は全体をいちおう一読したあとでの原理的、基本的な論点の所在の指摘だ。
 とりあえず問題になるのは、しかし、つぎにあるだろう。
 万が一「神話」と「歴史」(と「自然科学」)の関係が西尾が考えるようなものだとして、つまり西尾の見解にかりに従うとして、つぎの問題がただちに生じる。
 西尾のいう「神話」とは少なくとも日本書記上の「神話」だろう。あるいは古事記も含んでいるかもしれない。
 そして、第一に、日本書記(8世紀初頭成立)が記述する「神話」は、「神々のご意向」として、上に西尾の言葉を引用したような意味での「神話」としてそのまま「信じる」必要があるのか。あるいは「信じる」ことができるのか?
 第二に、「126代の皇位が一点の曇りのない男系継承である」ことは、日本書記(+古事記)が記述する「神話」に照らして、疑い得ないものなのか?
 岩田温は西尾に迎合して?、つぎのように語る。上掲雑誌、p.220。
 「人の世を扱う歴史には人間の自由があるが、神話には人間の自由がないとのご指摘、大変勉強になります。
 確かに歴史は解釈の余地がありますが、神話はその神話を受け入れるか、受け入れないかという二者択一を迫られます。」
 大いに「勉強」すればよいが、西尾の「神話」・「歴史」の対比とともに、これは少なくとも日本書記(+古事記)につては<妄言>・<誤謬>だ。
 ①日本書記と古事記では、記述内容が異なっている場合も少なくない。
 ②日本書記の記述は「解釈」を許さないほどに「一義的に明確な」ものではない。「神話」であっても、あるいは「神話」部分だからこそ、「受け入れるか、受け入れないかという二者択一を迫られる」ような意味明瞭な記述にはなっていない。
 日本書記の記述にだって、「解釈」の争いがあることがある。これは、ほとんど常識ではないか。
 西尾と岩田の二人は、いったい何を喚いているのだろうか。とりわけ、<日本の「保守派」知識人>西尾幹二は、いったい何を考えており、いかなる境地に達しているのだろうか。
 (つづく)

2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

2026/池田信夫のブログ012-小堀桂一郎。

 小堀桂一郎、1933~。日本会議副会長。
 櫻井よしこや江崎道朗等々は「日本」やその歴史を、聖徳太子も含めて、語る。
 その場合に、参考文献として明記していなくとも、日本会議の要職にずっとある小堀桂一郎の書物を読んでいないはずはない、と想定している。
 櫻井よしこは日本会議現会長の田久保忠衛について、「日本会議会長」とも「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の(櫻井と並ぶ)「共同代表」とも明記せず、平然と「外交評論家の田久保忠衛氏は…」とか「田久保忠衛氏(杏林大学名誉教授)は…」とかと書いて頻繁に(週刊新潮等で)言及している。
 このような「欺瞞」ぶりだから、日本会議の「設立宣言」や「設立趣意書」、あるいは日本会議の要職者・役員が執筆した文献を文字どおりに<座右に>置いて文章を「加工作成」しつつも、本当の参照文献としてそれらを明示することはない、ということは当然に容易に推測できることだ。
 このことは、例えば聖徳太子についての、元日本会議専任研究員の江崎道朗の文章についても言えるだろう。
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 池田信夫ブログマガジン2017年10月30日号「皇国史観の心情倫理」。
 小堀桂一郎・和辻哲郎と昭和の悲劇(PHP新書、2017)に、つぎのように論及している。
 ・「右翼にも心情倫理がある」。小堀桂一郎は「それを語り継ぐ数少ない戦中世代だが、その中核にあるのは皇国史観」だ。
 ・<皇室のご先祖である初代の神武天皇>から説き起こす歴史は「学問的には問題外」だ。だが、「心情としては理解できる」。
 ・小堀は和辻哲郎の考え方(の一端)を「敷衍」して、「『万世一系』の天皇家が続いていること自体が正統性の根拠だという考え方が、日本人の自然な歴史認識だという」。
 「このような美意識」は戦前の「立憲主義」で、「天皇中心の憲法を守るという意味」だが、これは「明らかに明治以降の制度であり、日本の伝統ではない」。
 ・小堀は和辻を「援用」して、「明治憲法は鎌倉時代までの天皇中心の『国体』に戻った」、鎌倉「幕府」以降の「700年近く、日本の伝統が失われてきた」とする。
 「これは歴史学的にも無理がある」。「万世一系というのも幻想にすぎない」。
 ・「明治の日本人を統合したのが天皇への敬意だったという心情倫理は、その通りだろう」。和辻のいう「集合的無意識」のようなものだったかもしれない。
 以上。
 上に出てくる「心情倫理」は丸山真男が「責任倫理」とともに使った語のようで、池田のいう「心情としては理解できる」という文章も、厳密には「心情倫理」概念にかかわってくるのだろう。
 上の点はともかく、ここでも感じさせられるのは、「歴史学」という「学問」または広く「人文社会科学」ないし「科学」と、上に出てきた言葉を借りれば「心情」・「美意識」の違いだ。あるいは、<歴史>や<伝統>に関する「学問」と「物語」・「叙情詩」・「思い込み」の違いだ。
 小堀桂一郎もむろんそうだろうが、長谷川三千子も櫻井よしこも、もちろん江崎道朗も、「学問」として日本の<歴史>や<伝統>を追求するのではなく、<物語・お話>として美しくかつ単純に「観念」上(自分なりに)構成できればそれでよい、と考えているように見える。
 人文社会科学の「学問」性・「科学」性あるいは歴史叙述に際しての「主観」的と「客観」的の区別などは、おそらくどうでもよいのだろう。
 日本の<歴史>や<伝統>に関して、賀茂真淵でも本居宣長でも和辻哲郎等の誰でもよいが「先人」・「先哲」の文献・文章を重要な<手がかり>として理解しようとしても、それは、その各人の観念の中にあった、やはり<観念世界>なのであって、<観念の歴史>の研究にはなるかもしれないが、<歴史>そのものの研究にはならない。
 <観念の歴史>の研究が無意味だとは、全く考えていない。
 「神」・「神道」意識も「天皇」意識も、あるいは日本での又は日本人の「怨霊」・「魔界」意識等々にも、おそらくは強い関心をもっている。
 「意識」・「観念」が現実を変えてきた側面があったことも、認めよう。
 だが、「日本の神々」・「天皇」等々が独り歩きして現実の日本を作ってきたような歴史観をもつのは、あるいは<本来の、正しい>歴史がある時期に喪失したとか回復したとか論じるのは、観念・意識と「現実」の区別を(無意識にせよ)曖昧にしがちな、ひどく「文学」的、あるいは「文学部」的な発想だ。
 なお、池田信夫ブログマガジンの上の2017年の号には、①「スターリン批判を批判した丸山真男」、L・コワコフスキの大著に紹介・論及する②「マルクス主義はなぜ成功したのか」もあって、なかなか密度が濃い。

2012/池田信夫のブログ010-天皇・「万世一系」。

 菅義偉官房長官は天皇位は「古来例外なく男系男子で継承してきた」=女系天皇はいなかった、との政府見解(政府の歴史認識)を明言しているが、これは「正しい」または「適切な」ものなのか。①「古来例外なく」とはいつからか。②「男系」・「女系」という意識・観念はその「古来」からあったのか。
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 池田信夫ブログ2019年5月5日付「『男系男子』の天皇に合理的根拠はない」。
 ・愛子様への皇位継承に反対する人々は「かつて『生前退位』に反対した人々と重なっている」。
 ・<男系男子継承は権威・権力を分ける日本独特のシステム>と言うのは「論理破綻」しており、「権威と権力が一体化した中国から輸入したもの」
 ・「江戸時代には天皇には権威も権力もなくなった」。
 ・「天皇家を世界に比類なき王家とする水戸学の自民族中心主義が長州藩士の『尊王攘夷』に受け継がれ」、「明治時代にプロイセンから輸入された絶対君主と融合したのが、明治憲法の『万世一系』の天皇」だった。
 ・旧皇室典範が男系男子としたのは「天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもの」で、古来のミカド…とはまったく違う「近代の制度」だった。
 ・日本の「保守派には、明治以降の制度を古来の伝統と取り違えるバイアスが強いが、男系男子は日本独自の伝統ではなく、合理性もない」。
 ・「男系男子が『日本2000年の伝統』だというのは迷信」だ。
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 この池田ブログ・アゴラ5月5日付は丁寧に、「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステム」は八幡和郎の意見ではないとして、「訂正版」と銘打つ。
 但し、「権威と権力を分ける」は別として(この「権権二分論」は西尾幹二にも見られる、西尾を含めての<いわゆる保守>または「産経文化人」の有力主張だ)、八幡和郎の<万世一系>に関する見解・意見の重要部分は、つぎの文章でも明らかだ。
 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」アゴラ2019年5月31日付。
 ・日本が外国と異なるのは「万世一系の皇室とともに生まれ」、独立を失ったり分裂したことがないとされることだ。
 ・「女系天皇を認めるべきだという議論…」、「こうしたトンデモ議論…」。
 上の両者をつなげると、八幡和郎は「万世一系の皇室」に肯定的であり、かつそこには「女系天皇」を含めていない、と理解してよいだろう。
 そうすると八幡和郎はおそらくは、池田信夫のいう「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」に(2000年とまでその歴史の長さを見るかは別として)嵌まっていることになる。
 「皇統」はこの<男系男子>天皇で続いてきた、かりに「女性」天皇はいてもかつて「女系天皇」は存在しなかった、というのは、現時点以降の皇位継承のあり方について、可能なかぎり「女性」天皇も認めない、それにつながる可能性のある「女性宮家」の設立も認めない、という<いわゆる保守>派の主張の有力な「歴史的」根拠になっている、と見られる(これは、現行皇室典範(=明治憲法期のそれと同じく男系男子論を採用)を改正する必要は全くない、という主張で、この部分については現行皇室典範に触るな、という主張でもある)。
 八幡和郎には、つぎの書物もある。一つだけ。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2012年1月)。
 熟読していないが、上に触れたことと併せてこのタイトルも見ただけでも、八幡の意見・見解が池田信夫とはかなり異なることは十分に推測することができる。
 上に記した、かつて日本に「女性」天皇はいても「女系天皇」は存在しなかった、というのは、例えば典型的には、<いわゆる保守>派の中でもまだ相対的には理知的だと感じてきた西尾幹二についても明言されている「歴史認識」だ。
 西尾幹二発言・西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。
 なお、この発言の頭書の見出しは、<女系容認は雑系につながる>。
 また、「緊急避難的な"中継ぎ"」の部分についての編集者らしき者による注記は、「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことなどからの」緊急避難的措置だった、と記している(同上、p.13)。
 男子継承の理念?を最優先すれば、複数の男子候補のいずれかを選ばざるを得ないのではないか、と思うのだが。また、文武(男子)は何歳で即位したのか?。
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 さて、いくつか、コメントしておきたい。
 まず手近に上の西尾発言、というよりも<いわゆる保守>の公式見解・公式歴史認識らしきものについて。
 ①過去の全ての「女性」天皇について、上の意味のような「緊急避難」的措置だったことを、8天皇ごとに、具体的かつ詳細に説明する必要がある。
 「女性」天皇による重祚の例が2回あるが、その各回についても、背景事情を詳しく説明すべきだ。
 西尾幹二はむろんのこと、男系男子論者(この点についての皇室典範改正不要論者)がこれをきちんと行っているのだろうか。
 <男系男子論>(これは日本会議・同会議国会議員連盟の主張のようでもあるが)を「社是」としているらしき産経新聞社(あるいは同社関係雑誌・月刊正論編集部)は、これをきちんと行ってきているだろうか。
 また、日本史学界を全幅的に信頼しはしないが、上の「歴史認識」は学界・アカデミズムではどう評価されているのかも気になる。
 ②そもそも皇位継承について、「男系」と「女系」の区別は、明治維新以降はともかくとして、皇室関係者その他の各時代の論者・社会の各分野で、どの程度明確に意識または観念されてきたのだろうか。
 ア/聖武天皇皇后(光明子)が初めて「民間」(といっても藤原氏)出身らしいのだが、そうすると、それまでの皇后は、そしてのちに「女性」天皇となった前皇后は(なお、全「女性」天皇がかつて皇后だったわけでは必ずしもない)、当然に「皇族」だった。
 とすると、全ての「女性」天皇は、その父親が天皇だったかを問わず、全て「男系」ではある。
 イ/一方で、例えば持統天皇(天武天皇皇后)の子や孫で天皇になった人物は、男女を問わず、天智・天武の血統であっても、持統天皇の皇統?にあるという意味では、「女系」天皇だと観念または理解して、何ら誤っていない、と思える。なお、高市皇子・長屋王は持統の子・孫ではない。
 ウ/具体的にいえば、孝謙天皇・称徳天皇(同じ一女性)は、いかなる「緊急避難」的必要があって、二度も天皇位に就いたのか?
 西尾幹二は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 エ/すでに書いたことだが、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇までは、天皇は「男系男子」でなければならないなどという観念・意識はまったく支配的ではなかった、と思われる。
 まだ十分に確認していないし、母親の地位・「身分」が問題にされたことも承知はしているが、持統天皇就位のとき、年齢的にも問題のない<男系男子>はいなかったのか。これは、奈良時代の全ての「女性」天皇について言える。また、わざわざ男系男子の淳仁天皇を廃して孝謙が称徳としてもう一度天皇になったのは、いかなる意味で「緊急避難的な"中継ぎ"」だったのか。「つとに知られている話」とはいったい何のことか。
 西尾幹二は、あるいは日本会議派諸氏、あるいは八幡和郎は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 おそらく明らかであるのは、<男系男子>を優先するなどという考え方あるいは「イデオロギー」は、この当時はまだ成立していなかった、少なくとも支配的ではなかった、ということだ。男系男子の有資格者がいたにもかかわらず「女性」天皇となった人物がいるだろう。
 なお、高森明勅と大塚ひかり(新潮新書、2017)のそれぞれの「女系天皇」存在の主張には言及を省略する。元明ー元正。元正の父は草壁皇子で天皇在位なし。元明は持統の妹。
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 少し遡った議論を、一度行っておこう。
 第一。今後の皇位(天皇位)継承のあり方につつき、日本の「古来の」伝統的に立ち返ることが一般的に非難されるべきことであるとは思えない。
 しかし、将来・未来のことを「歴史」や「伝統」だけで決めてしまってよいのか。
 そのような発想を、「伝統」や「歴史」を重視するという意味では、私自身もしたことはある。しかし、かりに、または万が一「男系男子」で継承が「伝統」・「歴史」だったとしても、将来をもそれらが未来永劫に日本国民を拘束するとは考えられない。
 かりに天皇制度の永続を最優先事項とするならば、「女性」天皇はむろんのこと「女系」天皇も認めないと、そもそも天皇制度を永続させることができなくなる、という事態の発生の可能性が全くないとは言い難い。
 かりにそうして「女系」天皇が誕生したならば、それは、日本は従来とは異なる(しかし「天皇」制はある)新しい時代に入った、ということになるにすぎない、と考えられる。
 こういう発想に対して、「男系男子」論者は、おそらくこう言うだろう。
 そんな天皇は「本来の天皇」ではない、「天皇制度」が継続されているとは全く言えない、と。
 そのとおりかも知れず、気分はよく分かる。しかし、そう主張し続けることは、男系男子が皇位を継承しなければ「天皇」とは言えない、「天皇制度」ではない、と言っているに等しく、これは、<天皇制度の廃止>を実質的には主張している、または同意していることになる。
 偏頗な「男系男子」論は、じつは<天皇制度の廃止>をも容認する議論に十分につながってしまう。
 第二。こういう議論に対して、「男系男子」論者はおそらくこう主張するのだろう。
 天皇(男性)に側室・私妾を認めて男子が誕生する可能性を拡大する、と主張はしない、だからこそ皇室・皇族の範囲を拡大して皇位継承資格のある男子の数・範囲を広げることが喫緊なのだ、と。いわゆる<旧宮家・皇族復帰論>だ。
 しかし、ここで絶対に検討しておくべきであるのは、<旧皇族復帰>を現実化する、つまり法制上の「皇族」を拡大することの現実的可能性だ。
 つまり、「旧皇族または旧宮家」(この範囲には議論の余地はある)にどの程度の人数(男子)がおり、彼らが(いたとして)どういう「意思」であるかの問題は全く別の問題として、<旧皇族復帰論>を現実化するためには、皇族範囲を定めている皇室典範(法律)を改正する必要がある。または新しい特別法を制定する必要がある。
 要するに、上の方向で皇室典範(法律)が改正される現実的可能性がいかほどあるか、だ。
 しかして、「法律」であるがゆえにその改正には両議員の国会議員の過半数の同意を必要とする(特例等は省略)。そして、現在および今後の日本の国会は、上のような趣旨の皇室典範(法律)改正・特別法制定を議決する可能性が、いかほどにあるのだろうか。
 西尾幹二はつぎのことも、新天皇・新皇后に「お願い」している。
 西尾「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」月刊正論2019年6月号p.219。
 「安定した皇統の維持のために、旧宮家の皇族復帰、ないしは空席の旧宮家への養子縁組を進める政策をご推進いただきたい」。
 まさか西尾幹二が皇室典範は天皇家家法であって天皇(・皇后)の意向でいかようにも改正できると考えているとは思えないが、天皇(・皇后)に一定の皇室「政策」の推進を求めるのはいささか筋違いで、八木秀次によって「国政」介入の要請と厳しく批判される可能性もある。建前論としては国会・両議員議員に対して行うべきものだ。
 第三。この機会に少しだけ立ち入れば、「旧宮家の皇族復帰」等の趣旨でかりに皇室典範改正の基本方向が国会で賛同を得たとしても、検討する必要がある、そして必ずしも簡単に解決できそうにない法的論点がいくつかあると思われる。
 例えば、①対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「同意」は必要か否か。必要であるとすると、「同意」しない者は対象者にならないのか。
 ②高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「意思」とは無関係に、(一方的・強制的に)「皇族(男子)」と(法律制定・改正により)することはできるのか。その場合にそもそも、高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、これまで皇族でなかった対象者の「身分」を変更することが<基本的人権>の保障上許容されるのか(皇族になるまでは一般国民だ)。
 ③「身分」変更に伴う、財産権等々にかかわる細々とした制度変更をどう行うか。
 上の①と②は、たんなる「法技術」の問題ではない。
 さらに、より「そもそも」論をしておこう。
 第一。池田信夫のように、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」について語る者もいる。
 いかなる「歴史認識」が(むろん運動論・政治論ではなく)より歴史学的ないし学問的に「正しい」かは、相当程度において、日本書記(・古事記)を信じるか・信頼するか、どの程度においてそうするか、に関係する。
 これは、二者択一の問題ではなく<程度と範囲>の問題だ。相対的に、秋月瑛二よりも、八幡和郎や西尾幹二のそれへの「信頼度」は高いようだ。
 しかし、古代史一般について言えるだろうが、「信じる」程度の問題になってしまうと、いずれが「正しい」かの議論にはならない。「神話」という「物語」を微妙に「史実」へと転換している部分がある西尾幹二についてもこれは言えると思われる。
 「信仰」の程度で、重要な問題の決着をつけては、あるいは重要な問題の根拠にしては、いけないのではないか。あるいは、よくわからないこと、信憑性の程度がきわめて高くはないことを、現在時点での問題解決の「歴史的」根拠にしてはいけないのではないか。
 なお、孝謙・称徳天皇あたりの「話」になると、続日本記等の記述の信頼性の程度の問題が生じてくる。
 公定または準公定の史記に相当に依拠せざるを得ないことは当然かもしれない。
 しかし、天武以前に関する(壬申の乱を含む)日本書記の記述を天武・持統体制?の意向と無関係にそのまま理解することはできないのと同様に、光仁・桓武天皇期以降の続日本記等の叙述や編纂が、平安京遷都以前の歴史につき、必ずしも公正には記していない可能性があるだろう。
 こんなことを感じるのも、孝謙・称徳天皇に関する記述・「物語」は先輩の?天皇に対するものとしてはいささか冷たい部分があるように、素人には感じられるからだ。
 なお、八幡和郎は変化も交替もなかったかのごとく叙述しているが、奈良王朝と平安王朝?の違いとその背景については(意味の取り方にもよるが)、関心がある。八幡が想定するよりももっと複雑な背景があると見るのが、より合理的な史実理解でありそうに見える。
 第二。皇位継承の仕方・あり方は(かりに「歴史」・「伝統」が有力な論拠になるのだとしても)、日本書記等での記述の仕方を含めて、ときどきの時代の史書がそれをどう理解していたか、も当然に配慮しなければならない。
 明治期以降の櫻井よしこらのいう「明治の元勲たち」が日本古代からの皇位継承の仕方・あり方をどう観念・理解したのかは考慮すべき一つの事項にすぎず、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」のは、思考方法としても全く間違っている。
 <天皇親政の古来の在り方>に戻ったとし、仏教、修験道等を「神道」の純粋性を汚すものとした、明治新政府とその後の薩長中心藩閥政権等々が、日本古代からの皇位継承の仕方・あり方を本当に客観的または冷静に分析し理解し得たとは、とても思えない。
 昭和に入ってからの<国体の本義>に書いてあることが全てウソまたは欺瞞または政治的観念論だと主張はしないが、「天皇」に関する叙述・論述をそのまま信頼することもできない。これは当たり前のことだろう。そして、「万世一系」もまた、明治憲法が用いた術語であることを知らなければならない(むろん、その趣旨の論は江戸時代等にもあったかもしれないがどの当時から「体制」のイデオロギーではなかったように思われる)。
 第三。江戸時代の「女性」天皇についても上記の「緊急避難的な"中継ぎ"」の意味は問題になり得る。その点は別としても、しかし、歴代の天皇の大多数が男子(男性)だったことは間違いないようで、なぜそうだったかは別途論じられてよいだろう。
 池田信夫は冒頭掲記の文章の中で、「日本で大事なのは『血』ではなく『家』の継承だから、婿入りも多かった。平安時代の天皇は『藤原家の婿』として藤原家に住んでいた。藤原家は外戚として実質的な権力を行使できたので、天皇になる必要はなかった」と書いている。
 但し、その後の時代も含めて、武家等が「天皇」になる必要はなかったとしても、その天皇はなぜほとんど男子で継承されてきたのか、という疑問はなお残る。
 簡単な論述には馴染まないが、結局のところ、人間・ヒトとしてのオスとメス(男と女)の違いに求めるしかないのではないか、と私は思っている。むろん、ただ一つの理由、背景として述べているのではない。
 中国の模倣も少しはあったかもしれない。しかしそもそもは、「天皇」になることがいかほどの特権だったかは時代や人物によっては疑問視することもでき(例えばかりに同族が天皇位に就いていて自分の生活・財産が保障されていれば、あえて「天皇」になる必要はないと考えた候補者もいたかもしれない)、また「女性」天皇が少ないことは女性蔑視思想の結果だとも思えない。
 妊娠・出産はメス・女性しかすることができない、というのは古来から今日までの、日本人に限らない「真理」だろう。このことと「天皇」たる地位の就位資格と全く無関係だったとは思われない。むろん代拝等によることによってあるいは摂政・代理者によって祭祀行為や「執政」等々をすることはきるのだが、日本史の全体を通じて、妊娠し出産し得るという身体性は、天皇という「公務」執行の支障に全くならなかったとは思えない。むろん100%決した要因ではないだろうと強調はしておくが、この要素を無視できないのは当然のことではなかろうか。
 これは女性「差別」でも何でもない。むしろ「保護」をしていたのかもしれない。
 第四。天皇の問題だけではないが、日本の「文化」・「文明」の独自性・特有性は、日本人の「精神」・「こころ」・「性格」等によるのではなく、大陸や半島から「ほどよく」離れた、かつ東側にはさらに流れ着く島等がないという列島という地理関係とそこでの自然・気候等の「風土」によるのだろうと思っている。天皇という制度の継続もこれと全く無関係とは感じられない。
 「民族」・「日本人」が先ではなく、人が生きていく列島の「地理的条件」・「自然」・「風土」が先だ。
 前者という「観念」的なものを優先させるのは、この列島にやって来たヒトたち・人間たちの本性とは決して合致していないだろう。

1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。

  御陵は現在(明治期以降?)は宮内庁の(直接の)管理だ。したがって、泉涌寺とは法的には無関係とは言えなくもないが、すぐ近くにある月輪陵(12天皇)と後月輪陵(2天皇)については、これら陵墓の区画と間際の道路部分へは現在でも泉涌寺の境内を通らないと到達できないと思われる。
 聖徳太子陵についての叡福寺の場合と同じだ。
 但し、孝明天皇についての後月輪東山陵へだけは、金堂・本坊等のある泉涌寺境内を通らなくとも自動車で行ける道路(または道路状の通路)が続いている。
 しかし、どちらにせよ固定資産税の対象にはならないのだから明確にしておく意味はほとんどないが、一般的な道路の一部ではなく、おそらく厳密には泉涌寺(本山)の所有する土地内に設けられているのだろう。
 というのは、泉涌寺付近の三陵墓を訪れるためには泉涌寺(山内)の「総門」をくぐらなければなないが、この門より奥は「私道」だ旨の看板が掲げられている(従って正確にはたぶん、道路交通法の適用はない)。
 「総門」をくぐると左右に<塔頭>がいくつかあり、その中には西国観音巡礼の札所の今熊野観音寺すらある。また、宮内庁書陵部月輪監区事務所の建物も、泉涌寺の仏殿・舎利殿(の近くを通って月輪陵と後月輪陵)や後月輪東山陵に続く道路の近くにある。この管区事務所は全国につあるようだ。大まかな位置としては、その道路に接してはおらず、今熊野観音寺と泉涌寺の中間の叢林の中にあるように思える。
 なお、泉涌寺の大門はやや高い箇所にある。いま言及している道路はそこへさらに上がらないで泉涌寺境内の平地部分と同じ高さで斜め左へと分岐する。泉涌寺を正規に参拝するのは「大門」からだと思われ、そこに入山料受領所もある。左に分岐する道を「御陵参道」と記してある地図を掲げる書物もある(もっとも、大門を経由しない泉涌寺中心部への近道にもなる)。実際にも、「泉山御陵参道」という石碑も立っているようだ。
 その分岐点に「拝跪聖蹟」と彫った大きな石碑が立てられている。
 裏には、「皇紀2594年5月27日」〔タテ書き漢数字〕と刻まれている。
 「拝跪聖蹟」という語は他では見たことがなく、この地点から奥は「拝跪亅すべき「聖蹟」だ、という意味なのだろう。立てられた年だと見られる皇紀2594年は、1934年で、昭和9年だ。これも、現在の通念とはやや異なる印象を与えるだろう。
  泉涌寺近くの御陵には天皇の陵墓だけがあるのではない。
 月輪陵・後月輪陵に陵墓のある天皇は、前回にも示したが、以下の12天皇。孝明天皇陵は、後月輪東山陵という一段と高い丘陵地の中にある。
 四條、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝。
 天皇以外では、以下。
 陽光太上天皇、後水尾天皇皇后和子、霊元天皇皇后房子、東山天皇皇后幸子女王、中御門天皇女御贈皇太后尚子、櫻町天皇女御尊称皇太后舎子、桃園天皇女御尊称皇太后富子、後桃園天皇女御尊称皇太后綾子、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子。
 つぎの5天皇については、「陵」ではなく、「灰塚」だとされる。
 後土御門、後柏原、後奈良、正親、後陽成。
 「陵」ではなく、たんに「墓」とされるものも同じ区画内にある。以下の9皇族。
 光格天皇皇子温仁親王、光格天皇皇子悦仁親王、仁孝天皇皇子安仁親王、陽光太上天皇妃晴子、後陽成天皇女御中和門院藤原前子、後水尾天皇後宮壬生院藤原光子、後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子、後水尾天皇後宮折廣義門院藤原國子、仁孝天皇後宮祈祷賛門院藤原雅子。
 以上は、月輪陵入口にある掲示板の写真によった。読み間違い、見間違いがあるかもしれない。
 孝明天皇の御陵は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)というが、同天皇妃夙子(孝明天皇没後に英照皇太后と追号)の陵は後月輪東北陵といい、孝明天皇陵とおそらく同じ高さの、かつやや北方に離れたところにある(いずれも直視はできない。門付近にある案内地図による)。
 さらに追記すれば、宮内庁管理の「御陵」・「陵墓」扱いがなされているかは疑わしく、そうではないとむしろ思えるのだが、泉涌寺付近には、以下の人物の墓地・墓碑もある。
 「朝彦親王墓」、「淑子内親王墓」、「守脩親王墓」と刻まれている墓碑が、「大門」の南、塔頭の雲龍院の西下にある。その西側に、「賀陽宮・久邇宮墓地」と地図にも出ている墓地の区画がある。ネット上に、7名の皇族名が書かれている。先の「朝彦親王」というのは、久邇宮朝彦親王(香淳皇后の父方の祖父、現上皇の曾祖父)のことだろう。
  このように天皇、皇室の御陵または墓所に泉涌寺は大きな関係があった(・ある)と見られる。
 このことは例えば、つぎのことでも示されているだろう。葬礼等々は、塔頭を含む泉涌寺全山(泉山、洛東泉山)が取り組んだ大仕事?だったのだろう。
 第一に、宗教法人としての関係はよく分からないが(たぶん別法人なのだろう)、泉涌寺に一番近いすぐ北の塔頭の来迎寺は、「禁裡御菩提所別当」だったと自称しているようで、その旨の「印」が現在でもある。
 第二に、泉涌寺からかなり離れた、つまり「総門」には近い塔頭寺院に法音院(ほうおんいん)という仏閣がある(真言宗泉涌寺派)。ここの現在の本堂(不空羂索観音が本尊)は、英照皇太后(孝明天皇妃)の葬儀の際に用いられた「仮屋」を移したものだとされている。なお、英照皇太后は明治天皇の実母ではない。
  泉涌寺関連をまだ続ける。
 神仏習合の長い時代の歴史や天皇・皇室と仏教との関係を日本会議は、あるいは日本会議派諸氏はどう考え、理解し、または感じているのだろうとの関心で書いている。
 こんなことは、彼らにはどうでもよいことかもしれない。「現在の運動」を維持し、拡大するためには、歴史の真実など簡単に無視する。日本共産党もそうだが、政治運動団体というのは、そういうものだ。
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 月輪陵の最後の門と区画入口の告知板。
 
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 後月輪東山陵等への参道(泉涌寺への中間入口の北)と後月輪東山陵=孝明天皇陵の門(一般私人はここまでしか来れない。先日6/12、両陛下がこの石段を上がられるのが数瞬間だけ放映された)。
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1977/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05①。

  明治期を含めてそれ以降の天皇に関する制度・儀礼等のみが日本の天皇に関する「伝統」だと錯覚しているような主張・議論は、2016年の当時の天皇陛下の「おことば」に対しても見られた。
 極論すれば、天皇は死ぬまで天皇でいろ、という主張があった。
 それも内閣府が所管した正規の審議会・検討会(正確には「公務負担のあり方」が主題だったとしても)で表明された。この欄で「あほ」と決めつけた、(生前)譲位不可・摂政設置論者の櫻井よしこ渡部昇一平川祐弘だ。八木秀次はその委員ではなかったが、同じ主張の先鋒的な論者だった。
 いちいちその内容や各人の差異に立ち入らない。自分で「公務」の範囲を勝手に?広げておきながら大変だとは何事か、とほぼ明瞭に書いた者もいた。
 昭和天皇は亡くなるまで天皇であられた、それに比べて今の天皇は…、と昭和天皇を引き合いに出して、暗に?前天皇を批判した(櫻井よしこのような)者もいた。
 八木秀次は摂政設置で対応しないで譲位を認めれば改元(元号の変更)も必要になって大変だということを理由の一つに挙げていたが、その指摘のとおりで、摂政設置による対応がかりに行われていれば、平成-令和という改元もなかった。
 なお、今次の対応は「一代かぎり」との説明・理解がかなり広く見られるようでもあるが、特例法は皇室典範の附則の中で言及されることによって皇室典範の一部になっている。菅義偉官房長官が<先例になり得る>と当時に(特例法制定の際に)述べていたのは、適切かと思われる。この点は別途触れることもあるだろう。
  上に名を上げた人々は大まかには<親日本会議>の者たちだろう。
 「つくる会」分裂の原因およびその後の月刊正論(産経新聞社)による八木秀次の厚遇等々を見ても、八木秀次が<親日本会議>であることははっきりしている。
 椛島有三は当時に、八木くんはいい人ですよ、と言ったとか。
 櫻井よしこは、日本会議の憲法問題フロント組織または大衆団体である美しい日本の憲法をつくる会とやらの共同代表を、日本会議代表の田久保忠衛とともに務めて?いる。
 その櫻井よしこと江崎道朗に顕著に見られるのは(これまで私が知った人々の中でに限って)、聖徳太子を、とくにその(発したとされる)十七条の憲法を、きわめて高く評価しながら、聖徳太子と仏教との関連に、全くと言ってよいほど触れていない、ということだ。
 こんな非常識なことはないだろう。仏教寺院の中に現在でも<太子堂>を設けている寺院関係者は、そのような聖徳太子に対する論及の仕方(不作為を含む)をどう感じるだろうと、私にとって本来は他人事ながら(この表現は再検討を要するかもしれないが)感じてきた。以下は、このことに関係する。
  上皇・上皇后両陛下が、6月12日(水)、京都市内の孝明天皇陵、明治天皇陵に行かれた。
 前者に関連して、「みてら」との名が現在でも残る泉涌寺(せんにゅうじ)の名が、あらためて全国的に知られることになったかもしれない。
天皇陵の所在に関心をもって、天皇陵のかなりの部分の近くに仏教寺院があって、その寺院がいわば「菩提寺」として法要を行い、また墓陵の管理も(天皇家・皇室または幕府等の要請または了解のもとで)行ってきたのだろう、と数年前に推測した。
 そのきっかけとなったのは、天皇在位者ではないが、聖徳太子の陵(宮内庁管理)と叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の地理的関係を知ったときだったかもしれない。この御陵には、叡福寺の境内を通過しないと訪れたり、参拝することができない、と思われる。なお、叡福寺は真言宗系だが単立の「太子宗」が宗派だとされている。
 ついでおそらく、「みてら」=泉涌寺を知ったことだろう。泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派本山とされる。
 もっとも、天皇や皇室との所縁が直接だったり、かなり深かったり、ほとんどなかったりと、いろいろな仏教・寺院があるので(一方で、徳川家ゆかりとかの寺院もある)、そうしたことを知ったり感じたりして、仏教・寺院と天皇・皇室(制度)の関係に関心を基礎的に持っていたのだろう。
 ほぼ二年前になるが、あくまで私的な試みとして、特定の天皇と推察できる特定の「菩提寺」たる寺院を、主としては陵墓の位置に着目して、整理したことがある。
 2017/05/06=№1531に記したものを、形式を少し変えて、再掲する。
 天皇名(カッコ内は即位年)、推察される寺院=「菩提寺」、現在の御陵名、地名の順。
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  聖武天皇(0724)・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇(0809)・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇(0876)・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇(0884)・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇(0887)・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇(0897)・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇(0930)・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇(0967)・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇(0969)・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇(0984)・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇(0986)・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇(1016)・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇(1045)・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇(1045)・龍安寺/円教寺陵△-同上。
 堀河天皇(1086)・龍安寺/後円教寺陵○-同上。
 鳥羽天皇(1107)・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇(1123)・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇(1141)・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇(1155)・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇(1165)・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇(1168)・清閑寺/後清閑寺陵◎-同上。
 後鳥羽天皇(1183)・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐。
 順徳天皇(1210)・勝林院(三千院内)/同上。*佐渡。
 土御門天皇(1198)・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市。
 後堀河天皇(1221)・今熊野観音寺〔泉涌寺?〕/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇(1232)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇(1242)・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇(1259)・天竜寺/亀山陵-同上。
 後宇多天皇(1274)・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇(1318)・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇(1339)・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇(1368)・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇(1428)・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
  後水尾天皇(1611)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇(1629)・泉涌寺/同上。
 後光明天皇(1643)・泉涌寺/同上。
 後西天皇(1654)・泉涌寺/同上。
 霊元天皇(1663)・泉涌寺/同上。
 東山天皇(1687)・泉涌寺/同上。
 中御門天皇(1709)・泉涌寺/同上。
 櫻町天皇(1735)・泉涌寺/同上。
 桃園天皇(1747)・泉涌寺/同上。
 後櫻町天皇(1762)・泉涌寺/同上。
 後桃園天皇(1770・泉涌寺/同上。
 光格天皇(1779)・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇(1817)・泉涌寺/同上。
 孝明天皇(1846、1866没)・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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  参照したのは、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地の記載のほか、つぎの二つ。
  ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
上の一覧で平安期末までの天皇についての◎、○、△は、この②の中の山田邦和「天皇陵への招待」上掲②所収p.181による。大まかには(秋月の表現だが)、当該天皇の陵墓であることがほぼ確実、かなり確実、それら以外、の区別だ。これら以降は、全て◎だ。
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  こうして見ると、天皇の陵墓は寺院がもともとは管理し、「法要」等の儀礼を中心となって行ってきている、とほぼ、またはかなりの程度推測できる。
 そしてまた、葬礼=葬儀自体が寺院で行われた、ということもかなり多くあったに違いない。
 後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の天皇の葬儀は、全て泉涌寺で行われたことがはっきりしている。そのこともあって、泉涌寺についての「みてら」という感覚は、かつては圧倒的だっただろう。
 よく知らないが、御所から泉涌寺までの葬送の御車、行列のコースも決まっていた、という。当時はまだ現在の「東大路」はなかったので、いずれかの地点で鴨川を渡り、六波羅密寺または方広寺の西側あたりを南下したあと、それとも七条辺りで川を渡って?、今もある「泉涌寺道」という緩やかな坂を上がったのだろう。
 とすると、明治、大正、昭和の各天皇の御陵・陵墓が仏教または寺院と無関係であるようであるのは、明治維新以降のこの200年に充たない間の時代に限られてのことだ、ということが明瞭になる。
 まさに、明治維新は、いや正確には明治新政権が採用した政策は、日本のそれまでの伝統を「覆す」、「変革する」、あるいは「否定する」ものだったわけだ。
 革新・変革は全て「新儀」、新しい「伝統」の創出だ、というような趣旨を言った(極論好きの、または天皇中心ドグマの)天皇もいたらしい(後醍醐天皇)。
 ここで日本会議(派)諸氏に尋ねたいものだ。
 天皇に関連する「伝統」の維持、継承は重要であるとして、天皇の死にかかわる、天皇の葬礼、葬儀、陵墓に関する「歴史と伝統」とはいったい何なのか? 仏教との関連が些細な論点だとは思えない。
(泉涌寺関係をさらにつづける。)

1960/新元号の決定・公布・施行と日本会議。

 一 <平成31年4月1日月曜日/官報号外特9号>により、つぎのとおり、元号政令が公布された。縦書き漢数字は横書き洋数字に改めた。
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 御名 御璽
 平成31年4月1日
  内閣総理大臣 安倍晋三
政令第143号
  元号を定める政令
  内閣は、元号法(昭和54年法律第143号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
  元号を令和に改める。
  附則
  この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する。
  内閣総理大臣 安倍晋三
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 すでにこの欄に記したように、政令一般もそうだし、元号を定める政令もそうだが、政令を制定するということは、内容の①決定、②公布、③施行(発効)という三つの段階を経る。
 今次の元号決定(・変更)は閣僚懇談会のあとの閣議によって、元号法が定める決定権である内閣によって行われた(上に「内閣総理大臣・安倍晋三」とあるのは決定権者を示しているのではなく、署名をして合議体の中の責任大臣を特定しているのだと思われる)。
 それだけでは政令としての法的効果を発生させず、法律と同様に、一般に対して、国民一般に、周知する、という公示・公布が必要だ。
 これは憲法上の国事行為の一つとして、天皇が行うことと、現憲法上定められている。
 上の最初に「御名 御璽」とあるのは(法律等の場合も同じだが)今上天皇が直筆で署名し、天皇の「公印」が捺されていることを示す。
 官報にはそのままの写真を掲載しはしないので、「御名 御璽」という記載の仕方になる。
 この公布=官報への掲載と官報販売所への送付によって初めて元号政令は正式に公にされることになる。
 菅義偉官房長官が「令和」と筆書した額を掲げつつメディアの前で新元号を発表したのは、法的には厳密には意味がない。内閣が決定した内容について(いずれすみやかに公布される前に)情報を提供する行為(事実行為の一つ)にすぎない。
 4月1日の閣議決定後に官邸?を出た自動車が皇居に向かっておそらくは今上天皇と接する?までは官房長官「発表」がなかったのは、どのメディアもほとんど正確には報じていなかったが、新元号政令の「公布」に必要な「御名 御璽」が記され、捺されるのを待っていたためではないか、と思われる。たんに新元号が「令和」に決まったことを伝えるためではない(まして今上陛下の意見・意向を拝するためではない)と思われる。
 何らかの資料・情報で確認しているのではないが、「公布」が4月1日発行の官報によっていることかにすると、そのように確実に推察される。
 今上天皇による、「御名 御璽」の署名・押印のあとすみやかに=4月1日のうちに(独立行政法人)国立印刷局による印刷と頒布がなされたのだろう。
 重要なもう一つは、「公布」があった始めて当該政令は法的効果をもつが、その効果・効力の発生は「公布」時であるとは限らない、ということだ。
 公布されたその日が施行日だという法令もあるが、何時何分とかが問題になりうるので、近い将来の施行日まで定めていることの方が多いのではないだろうか。
 そして、上のとおり、今次の元号政令は、「…(平成31年4月30日)の翌日から」施行される=発効する。
 この「翌日から」は、「5月1日から」で、正確には、5月1日の午前0時からの意味だと思われる。
 二 すでに紹介し批判的コメントを加えた(この欄2月3日、№1915)ように、「日本会議」という最も簡潔な名前で発している日本会議の新元号決定等に関する「見解」は奇妙だ。
 ①「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」。
 ②「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た」。
 ③「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」。
 これらのうち、①と③は、現在の元号法(法律)の定めに反対していることを示す。
 そうだとすると、これをどう改正するかを、日本会議は提言すべきだ。
 たんなる精神・観念論ではなく、法制度の具体的内容を論じることができなければならない。
 不思議で奇妙でもあるのは、とくに上の②だ。
 第一に、新天皇即位後に「新元号を決定し公表」すると述べつつ、正規の「公布」という語が使われていない。官房長官による「公表」と官報登載という正規の「公布」は、意味も時機も同じではない。
 加えて、この日本会議の考え方に従うと、おそらく、5月1日午前0時からの新天皇の就位と新元号の決定・公布までの間にタイム・ラグが必ず生じ、「平成」ではなくなったがまだ新元号が施行されない、または5月1日になってからもしばらくは「平成」のままで新元号が施行されない、という時間がかりに数時間または十数時間であっても生じる、と考えられる。
 前者のように「空白」を生じさせてはダメだし、後者によれば一天皇=一元号を崩してしまう。
 日本会議は、いったい何を考えているのか。
 第二に、「『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせる」というのは、種々に理解できるところもあり、精確な意味は不明だ。
 そもそも日本会議は、たんに「日本会議」名で発表されている文書は、『国民生活への支障を回避』という場合の「国民生活への支障」を、IT分野の情報プログラムの問題も含めて、どのように理解しているのだろうか。
 あるいはそもそも「施行」という概念を厳密に分かったうえで使っているのだろうか。
 遅れて「施行」されるまでは、新天皇のもとでの元号はまだないのか、それとも元号は「平成」のままなのか??
 要するに、現実の社会に関する知見、法制度に関する知見等々、を日本会議および同会議諸氏はいかほどに有しているのだろう。きちんとした顧問・専門家不在で、<あほ>が集まっているのではないか。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1915/日本会議1月17日見解への疑問-新元号の決定・公表・公布・施行。

 日本会議機関誌『日本の息吹』本年2月号末尾(裏表紙の反対頁)に、同会見解「『新元号の制定に関する政府の方針』への見解」が掲載されている。
 まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
 にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
 「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
 以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
 日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
 かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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 一 論点の前提の一つの整理。
 元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
 ①内閣による決定
 ②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
 ③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
 ④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
 日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。

二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
 1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
 しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
 2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
 これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
 3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
 この部分をいちおう全文引用すると、以下。
 「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。
 4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
 しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
 <見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。

 三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
 かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
 つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
 この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
 ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
 そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
 くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。

 四 そもそも日本会議とは何か。 
 天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
 「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
 「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
 あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
 もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
 しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
 この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。

1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号。

 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 A「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 B「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 C「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 D「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 E「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。

1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1647/高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。

 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。
 天皇譲位問題に論及することはしない。
 上の高森著を読んで、最も興味深かったのは、じつは、<天皇就位を拒否する>自由が「皇嗣」にはある、という指摘および叙述だった。p.84-86。
 生まれながらにして一定のことを義務づけられるのは出自・血統による<差別>で<平等原則>違反だとの議論もあるので、上のことは重要だ。そしておそらく、高森の言うとおりなのだろう。
 つまり、天皇位に就くことを望まない「皇嗣」が践祚も即位の礼も拒否し、憲法上の国事行為を行うことをいっさい拒んだらとすれば、どういうことになるか?
 おそらく、憲法に根拠がありかつその形式によるとされる皇室典範の定めによって、「皇嗣」は特定され、その方には皇位就任義務がいちおうは生じるのではないか、と思われる。
 しかし、<義務不履行>は世俗の世界ではよくあることで、私自身、友人に貸したはずの50万円が4年近く経っても20万円しか返却されていない、ということが現にある。その人物は、何と!たぶん熱心な<保守>派気分の男だ。
 さてさて、<義務不履行>があれば、裁判手続を経ての<強制執行>の世界、つまり権利義務の<意識>・<観念>の世界を<現実>に変える手続に、ふつうは入っていく。そこまでに至らなくとも、そういう制度は(いちおう)用意されている。
 しかし、<皇位就任義務>の履行の拒否があった場合には、いったいどうなるのか?
 即位の礼、その他皇室行事あるいは国事行為、これらは元来ほとんどが、当該「人物」が出席する等をするしかないもので代替性を大きく欠くとみられる。また代替可能な国事行為にしても、手続を踏んで別途委任するか「摂政」を置くしかない。
 そしてそもそも、そういう代替が検討される前に、就位自体がスムーズにいかなければどうなるのか?
 高森によると、皇室典範三条が定める「皇位継承の順序」の変更の要件のうちの「皇嗣に…重大な事故あるとき」に該当し、皇室会議の「議により」、変更を行うしかない
 理屈を言うと、その次位の「皇嗣」も拒めば、延々と?、同じことを繰り返すしかないだろう。
 そして今上陛下は、その「自由」を行使しないで、粛々と天皇になられる「宿命」を甘受されたのだ、ということになる。深刻な混乱にならなかったこと自体が、今上陛下の「お心」による、ということになる。
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 何となく基礎的には安定的に世の中、あるいは政治は推移しているようにほとんどの国民は思っている。無意識に、そう思いつつ生活している。
 実際にはなかったことだが、……。
 新しい首相(内閣総理大臣)が国会で指名されたとき、公式にはさらに天皇の国事行為としての「任命」が必要であり、これにはさらに「内閣の助言と承認」を要する。
 民主党内閣から第二次安倍内閣に変わったとき、安倍晋三が首相に「任命」されたが、このとき民主党内閣の「助言と承認」があったからこそ、安倍晋三は首相になれた。
 きっと映像が放映されたはずだ。今上陛下が安倍晋三に「任命状」?を手渡す際に、民主党・野田佳彦は(安倍晋三が正式に首相になるまでは、なおも首相)陪席していて、あらかじめ天皇陛下にその書状を手渡していたはずだ。
 さて、日本共産党が国会で多数を占め、または日本共産党らの連合諸政党が国会で過半数を占めて、日本共産党の代表者が国会で首相に指名された、とかりにしよう。
 (実質的な)前の内閣の首班が、熱烈な反共産主義の某安倍康弘という人物だったとして、閣議も開かず、前「内閣」は何もせず、天皇に対して、(国会の意思に反して)新首相の任命に関して「助言と承認」をしないままにいたら、どうなるだろうか。
 憲法違反ということで、マスコミを含めて大騒ぎになるに違いない。
 しかし、それでもなお、共産党政権の発足は認めない、断固として手続に進ませないと安倍康弘ら前内閣が意地を張れば、この憲法上想定されているとみられる「義務」は、いったいどうやって「強制執行」すればいいのだろうか。
 また、実質的な前内閣の「助言と承認」はあって、新首相の<任命状>も用意されたが、ある時代のある天皇が、新首相個人やその所属政党が意に沿わないとして、任命式?そのものにご出席なされない、そして例えば皇居内で行方不明になる、あるいは皇居外に外出されてしまって長期日にわたってお帰りにならない、という場合、いったいどうなるのか?
 もちろん、この場合も(皇室典範の別の条項での)天皇に「重大な事故あるとき」に該当するとして、法的な回復の措置を取らざるをえなくなる可能性が高い。
 それでもなお、1か月ないし数カ月~半年程度の「国政の空白」が生じることが想定される。
 法的連続性のある状態と「無法」あるいは<革命的状態>とは決して大きく離れているわけではない。上の例は一部だろう。突然に<法的混乱>が生じうることは、想定しておいて決して悪くない(こんなことを考えている人はきっといるので、その人たちには、この文章もまだ手ぬるいだろう)。
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 上の高森明勅著については、もう少し書きたいことがある。


1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1620/明治維新考①-天皇・神道と櫻井よしこ・井沢元彦。

 明治維新につき、考える。
 古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.85。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号
 しかし、井沢元彦のこんな文章もある。
 「ここに、江戸時代を通じて徐々に形成された朱子学(外国思想)プラス神道(国内思想)の合体が生んだ、『天皇教』というべきものの完成形がある」。
 井沢元彦・逆説の日本史20/幕末年代史編Ⅲ(小学館文庫、2017.04)p.350。
 =<単行本>同・同/<西郷隆盛と薩英戦争の謎>(小学館、2013)p.318。
 「ここに」というのは、真木和泉、平野国臣、そして久坂玄瑞に至る考え方で、天皇(この時期は孝明天皇)が実際に・現実に何を考えていようと、天皇の考え=「大御心」は絶対に正しく「絶対の正義」である<はずだ>という考え方だ。実際・現実ではなく、自分たちで作り出すことができ、その「大御心」に従うことこそが正義になる。
 井沢元彦は続ける。
 「長州閥によって作られた帝国陸軍」、「長州の遺伝子を受け継ぐ青年将校たち」の二・二六事件で、彼らは「昭和維新断行、尊皇討奸」を叫び「大御心に沿って君側の奸を排除した」と称した。/彼らは、「あるべき姿の『天皇』に天皇自身が従うべきだ」と考えた。
 明治維新、天皇、神道。櫻井よしこと井沢元彦と、どちらがより適切に理解しているだろうか。いや、どちらが、少なくともよく<思考>しているだろうか。
 こんな文章を書いていて、こんな文章を簡単に書いてしまって、ああ恥ずかしい、ああ気の毒だ、後世に残るというのに、ああ恥ずかしい、気の毒なことに、と感じることが、櫻井よしこの文章について頻繁にある。
 追記。櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一、八木秀次らは、譲位に関して「あるべき」天皇像を勝手に作り、今上天皇もそれに「従うべきだ」と考えた。特定の狂信にもとづく、「天皇教」だと言えるだろう。


1564/日本共産党・共産主義との闘いを阻むもの①-「日本会議」/事務総長・椛島有三など。

 ○ 先月14日、№1500でこう書いた。
 「日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。」
 ○ 日本国内では、じつに、「日本会議」なる団体も、日本共産党・共産主義に対する正面からの闘いを避けている。
 その設立宣言、1997年5月30日、は言う。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 同日の設立趣意書には、「マルクス主義」も「共産主義」も、言葉すらない。  
 ・「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これは事実の叙述なのか。「冷戦構造の崩壊」という表現の適否も疑問で、日本・東アジアでは<冷戦>はまだ続いている、とこの欄で何度も書いた。この点はさておいて、さしあたり「マルクス主義…」だけを取り上げよう。
 「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これはせいぜい、こう<思いたい>、というレベルの言辞ではないのか。
 かりに世界で又は少なくとも日本で、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」のだとすれば、なぜマルクスを肯定的に評価し、かつマルクスの教条にしたがってそれをロシアに現実化したロシア革命とレーニンとを基本的に賛美する政党(日本共産党)が堂々とまだあるのか ?
 また、マルクスを肯定的に評価し、ロシア革命とレーニンとを基本的に擁護するかの見解を示すがごとき書物等々がなお多数公刊されているのか ?
 「日本会議」の椛島有三らは、日本の<現実>を知っているのか ?
 田中充子が、専門外でありながら、岩波新書で、レーニンはまだ「自由主義」的だった旨を平気で書いたのを知っているのか。
 日本共産党をかりに別としても、容共産主義の書物、主張はいくらでも日本にあることを知っているのか。
 非・反日本共産党系でも、マルクス・ロシア革命・レーニン擁護の共産主義団体があるのを知っているのか?
 組織・団体でなくとも、<容共>学者・研究者あるいは「ジャーナリスト」類は多数いるのを知っているのか?
 よくぞ、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」などと宣言できたものだ。
 客観的事実に即さないでこのように主張することは、せっかく日本共産党や「左翼」=容共の方向には向かっていない、健全な日本人に対して、「マルクス主義」・共産主義対する闘いはもうしなくてよい、と主張していることとほとんど変わりはない
 日本の<保守>派の多くが、この「日本会議」の宣言書のように理解している可能性がある。
 自分たちは<保守>だが、反共産主義・反日本共産党の運動はもうしなくてよい、なぜならば、「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」からだ。
 馬鹿なことを言ってはいけない。
 ①<保守>派論者がほとんど共産主義・マルクス主義の正確な内容やその歴史に関心を示さないこと、②日本および世界で共産主義「理論」が「現実政治」に与えている影響についての関心もきわめて乏しいこと、かつまた③懸命に<天皇を戴く国のありよう>だけは護持したいとするのが<保守>だ(産経新聞社、元月刊正論「編集代表」・桑原聡)などと説くだけの<保守>派が少なからずいること、こうしたことの原因の一つは、上記のようなことを平気で謳っている、「日本会議」なるものの存在にもある、と断言できる。
 「日本会議」の主張は、さらに継続的に、今後も研究・分析していく。1997年5月設立、この点も重要。
 当然に、入手可能ならば、椛島有三の書物の原物も、読む(すでに一部読んだ)。
 椛島有三(かばしま-)。
 「日本会議」事務総長、櫻井よしこ共同代表の「日本の美しい憲法をつくる会」事務局長、そして櫻井よしこ理事長の「国家基本問題研究所」事務局長。
 なお、<各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入>している、という時代認識も、陳腐なものだ。
 全体として誤りだとは言わないが、中国・北朝鮮・キューバ等、そしてまた長く「共産主義」の支配を受けたロシアの存在を視野に入れれば、「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代」だという認識自体がすでにある程度は狂っている。
 ロシア革命/レーニン・スターリン/コミンテルン、あるいは根本教条である「マルクス主義」の知識の一欠片くらいはなくして、中国・北朝鮮さらには東欧諸国、そしてロシア・ウクライナの対立など、今の世界政治をリアルに見ることは不可能だろう。
 マルクスあるいはロシア革命を知らずして(さらには欧米 Liberal Democracy も知らずして)、「日本」の独自性だけを主張しておけばよいのか ? その場合の「日本」とは、具体的にいったい何のことなのだ。日本=「天皇」=「神道」なのか??
 冗談は、ほどほどにしていただきたい。
 親「日本会議」の人々は、冷静にならなければならない。
 「日本会議」が日本共産党や「左翼」から批判されているからといって、「日本会議」が日本共産党や「左翼」と真反対にいて、これらと正面から闘っていることになるのでは、論理的にも全くならない。
 日本人の健康な、せっかくの反「共産主義」気分、せっかくの反「左翼」気分を、<特定の>活動団体に利用されてはいけない。
 ○ 冒頭に掲記の文章は、翻訳書も含む日本の出版業界も、念頭に置いている。
 もともと、これについて書く予定だったが、つぎの機会とする。

1561/『自由と反共産主義』者の三層等の闘い⑤ー「日本会議」とは何か。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 1) の点にしか関心を持たない人々はまだ多い。
 <民主主義対ファシズム>は、<民主主義対日本軍国主義(の再来)>でもよいし、<ふつうの人対右翼・反動>でもよい。
 こう二項対立的にだけ捉えて、上の文字対比もそうだが、<右側>にさえ進行させなければ日本は助かる、と思っている人々だ。
 <右翼>にだけは進ませてはならない、それを代表するのは安倍晋三であり、橋下徹であり、自民党の背後にいる「日本会議」ら<極右>団体だ、と警戒する。
 <左側>には誰がいるのか ? 日本共産党という「左翼」もいるが、この政党は温和しくて「平和的」そうだし、われわれの戦いの力強い味方になってもくれそうだ、とまるで警戒しない。
 そういう、<真ん中ふうの>、良心派・良識派だと自分を位置づけている人は、少なくはないだろう。
 <保守>の側からすれば、<民主主義対ファシズム>という定式自体が、誤謬へと導くもので、悪質な虚偽宣伝図式だ。なぜならば、ファシズムといってもそれと同じ又はきわめて類似した「コミュニズム(共産主義)」もあるのであり、「民主主義」と対抗させるならば、ファシズムと共産主義とを合わせた「全体主義( the totalitarianism, die totale Herrschaft)」を挙げるべきだ。
 そして、元来の<民主主義対ファシズム>とは、第二次大戦での対独伊(・日)での対立軸とされ、<民主主義>の中にソヴィエト連邦も含んでいたという欺瞞があると、まともな<保守>は考える。
 英米仏・ソ連-対ー日独伊、という対立図式を語るのは、<連合国史観>だ。
 今日に「民主主義対ファシズム」という対立図式を維持しようとする無邪気な人々は、この決定的に重要なことを忘れている。
 ソ連は、いかなる意味で「民主主義」国だったのか ?
 戦後の東欧諸国等も含めて、「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」の国だったのか。英米仏の(ふつうの ?)民主主義とどう違うのか。
 ここまですら立ち入らないで、<民主主義対ファシズム>という図式で思考したい無邪気な人々はまだ多いかもしれない。
 この対立図式を喜ぶのは、かつて日独伊を敵にして戦った(とされる)国の一つ、ソ連の公式イデオロギーだったマルクス主義・共産主義をなおも支持し、基礎にしている、国家(例えば共産中国)や政党だ(例えば日本共産党)だ。
 巧妙に、自分たちを「民主主義」陣営の中に隠してしまう。
 だがそれはじつは、例えば日本共産党にとっての「革命戦術」でもある。つまり、「民主主義革命」-「社会主義革命」という<二段階革命>論を採ることを明記・明言する日本共産党にとって、当面は「民主主義(の徹底)」を擁護し、周囲に「民主主義」を警戒しない国民たちを引きつけるのは、重要な戦略であり、当面の目標ですらある。
 <保守>の側には、「東京裁判史観」の拒否を主張する、唱道する人々が多いようだ。
 しかし、「東京裁判史観」という語は必ずしも適切ではない。
 つまり、アメリカの単独軍事占領途上のこの「東京裁判」の主体はアメリカだった、正確にはアメリカのみだった、という印象を与えかねない。
 時期的にもむしろ、アメリカの対戦争観は日本占領時に形成されたのではなく、戦時中からあったと見るべきで、それはとっくに<戦後処理>のための諸会談等に現れていた。
 したがって、<連合国史観>とでも呼ぶべきだろう。
 <東京裁判史観>という語は、戦後直後のある一時期にのみ焦点、関心を集めてしまう、そして「敵」をアメリカにのみ求めがちになりやすい、という難点があるだろう。
 間に「東京裁判」の語について挿んだが、元に戻ると、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打破するためには、やはり2)の<反共産主義>の意識化、明確化が同時に必要だ。単層、一面だけの思考をしてはいけない。
 すでに述べた<民主主義対ファシズム>意識者は、一面・一相・一層でしか物事の基本的事項を理解できない人たちだ。これに反対する<保守>は、多面的・多構造・多様相の、総合的・立体的な思考をしなければならない。
 時代的かつ論理的には 1)の基本論点が先行するようにも思えるが、1) と2) は厳密に分けることができない。
 したがってまた、「反共産主義」を明確にできない、正面から掲げない<保守>は、決して、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打倒することはできないだろう。
 そのような<保守>は、逆に、<ファシズム>の側に追いやられて、相変わらずの ?「右翼だけはダメだ」という単純な思考に負けてしまう可能性が高い。最終的に勝利することは、おそらくないだろう。
 <反共産主義>を主張しない、あるいはそもそもコミュニズムという思想とそれがもたらした(もたらしている)凄絶な現実に対する関心・興味を示していないと見える櫻井よしこや、あるいは椛島有三ら「日本会議」派は、この基本的な論争点・軸の視点について、大きな欠陥を抱えている。欠陥というよりも、欠如しているごとくで、話にならないのだ。例えば、「日本会議」ウェブサイトで「マルクス主義」や「冷戦」がどう語られているかを見てみたまえ。
 もっとも、そのような、つまり<反共産主義>を具体的・明確に説かない<保守>論者は、櫻井よしこ等々または「日本会議」系以外にも多い。これが、日本のじつに憂うべき点だ。例えば、佐伯啓思には<反共産主義>が全くかほとんどない。「自由と民主主義はもうやめる」だけではダメだ。西尾幹二においても不足している。
 1) と2) は、論理的に不可分だが、勝利すればよいし、それは不可能とはいえない。
 しかし、3) は、そうではない。つまり、近代的または欧米的 Liberal Democracy は、われわれ日本と日本人の一部にすでになってしまっている。
 明治以降の歴史の現実によって、そうなってしまっている。戦後に特有な現象ではない。むしろ戦前・戦中の方が、日本<独自>性の意識は強かったかもしれない。
 したがって、<切り分け>が必要だ。
 近代的または欧米的 Liberal Democracy とは、現日本国憲法の「思想・理念」でもある。今の日本は、<1947年憲法>体制の時代だ。
 3) をくぐり抜けるには、この憲法との大きな戦いが必要でありかつ、擁護すべき所は擁護する必要がある。
 自衛隊にかかる九条問題や緊急事態条項などは、理論的・歴史的には、じつは些細な問題で、九条に特化したような<護憲対改憲>の対立が大きな根本的対立軸になっているのは、一種の<幻影>だろう。あるいは、そのように、<平和・軍事>問題に関心を集中させたい勢力があるのだろう。
 現九条二項は、近代的・欧米的 Liberal Democracy と何の関係もない。
 現九条二項護持論者は、じつは全くの<日本独自>論者で、偏狭なナショナリズムの持ち主だ。あるいは、「社会主義(共産主義)」国に対する武力を日本に持たせたくない、又は自分たち「共産主義」者に武力が向けられるのを怖れている「共産主義」者たち、つまり日本共産党等だ。
 近代的・欧米的 Liberal Democracy との闘いという意識は、西尾幹二や佐伯啓思らにはきっとあるだろう。
 しかし、この点でも決定的な欠陥をもつのは、櫻井よしこらおよび椛島有三ら「日本会議」系の<保守>だ。
 <天皇・皇室>は、これだけでは「価値」にならない。
 <日本>を語るのはよいが、その具体像に踏み込まなければいけない。日本の<歴史と伝統>だけではほとんど全く意味がない。
 この人たちは、何を追求しているのか、「訳が分からない」人々だ。
 現憲法のどれを基本的には残してどの部分は「改正」するのか、という議論が本当は必要だ。
 明治憲法にいったん戻って、そのあとどうするのか? まさかそのままでいくわけにはいかないのでは?
 三権分立-最高裁判所等は維持するのか? 「国家」と「国民」との基本的な関係をどう築くのか(いわゆる<公共>と<人権>の問題)?
 じつは重要な将来の課題はいっぱいあるのだ。
 中央国家(この場合は国会と裁判所機構を含む)-都道府県-市町村という(東京都区部を除く)三層構造は憲法の問題か法律の問題か?
 最高裁判所とは別に「憲法裁判所」を、ドイツや韓国のように、設置するという議論はどうなのか? 今のような「参議院」でよいのか? そもそも現在のような国会-内閣の基本的関係を維持するのか(議院内閣制か大統領制か。これは上の三権分立に関係する話でもある)。
 真面目に思考する人はほとんどいない。
 <保守>を商売にしている人が多すぎる。<左翼>を生業としている人々は、さらにもっと多い。いいかげんにして死んでしまわないと、精神の健康さを保てないようにすら思える。

1555/『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い④。

 「あいつが、死んだ。
  生きたって死んだって俺には同じ、と言いながら。
  みんなが愛したのに、幸せのはずが、どうして。
  紫陽花の花を愛した、あいつが死んだ。」
  小椋佳・あいつが死んだ(1971年/作詞・小椋佳)より
 共産主義者同盟(ブント)にも樺美智子にも親近感はないが、<人しれず微笑まん>という遺稿集のタイトルだけは、嫌いでなかった。
 そして今、<人知れず、死んでいこう>と思っている。
 誰もが平等に、死んでいく。世俗的「知名度」も「名誉」も、全く関係がない。
 <顕名欲>というのは、秋月瑛二には、とっくにない。
 「自由」であるのは、一切の組織・団体・個人と関係ないという意味で「孤独」でもある。
 以下の文章も、大海の海底に生息する小さな貝のほんの一呼吸が生じさせる、わずかな水の漂いであってよい。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
 ○ 一部の<保守>派の唱える「天皇中心主義」は、上の基本論点に並ぶほどの主題ではない。
 最近の週刊新潮上で、櫻井よしこはますます<神道>宗教、<天皇>教の信徒ぶりを明らかにしている。
 「日本をお創りになった神々」というのは、物語・神話として語られているのならばよいのだが、この人はひょっとすれば、事実・歴史と観念・「思い込み」との区別を知らないで語っているのではないかとも思えて、不気味だ。
 毎日を忙しく過ごしている日本人が櫻井よしこの文章を読んで、日本人としてのある種の<郷愁(ノスタルジー)>または<癒やし>を感じる程度ならよい。しかし、この人の想念が、過半はもちろんだが、数十万、数百万の日本人と完全に共有されているような日本の日本人の姿・様相は、想像したくはない。
 秋月瑛二も、神社や神道が嫌いではない。仏教よりもどちらかと言えば親しみがあると書いたほどだ。しかし、日本書記・古事記の<神代>の話を、かりに何らかの事実を反映しているところがあるだろうとしても、<天孫降臨>を含めてそのままの事実・真実だと考えたことは一度もない。
 神社本庁が関係しているらしき神社関係のテレビ番組でよく、「…と伝わります」という言葉遣いが出てきて、「伝えられている」という他動詞受動態だと<誰によって?>となるので、自動詞で「伝わる」と表現するのは適切だろうと思ったことがある。
 「…伝わっている」でよいのであって、無理やり真実か、事実か、誰が、どこにそのような<由緒>を書いているのかと、個々の神社についてあえて問い糾す必要はないだろう(個々の神社に関する専門的研究者以外は)。
 逆にまた、天皇・皇室の<神代>の歴史を「信じる」ことをしないと日本国民ではないとか、<保守>あるいはナショナリスト(<愛国派>?)ではないとかなどと言い出すと、きわめて生きづらい、というよりも、<恐怖の、全体主義的な>日本社会になってしまうだろう。
 ここで、もともと「歴史」は物語であるとか民族の想念の記述であるとか主張する者が出てくると、ややこしくなる。
 ぎりぎりのところで<感情>に支配されうることを否定はしないが、最初からこのように主張するのは、マルクスやレーニンの教条あるいはソ連の<公式的歴史叙述>教え、「信じ」させた、かつてのソ連圏諸国の共産党や党員学者と同じだろう。
 櫻井よしこは、性質・種類が異なると言ってはいけない。<発想方法・思考方法・歴史叙述の基本的観点>の類似性を指摘している。
 ○ いっとき、<神道>などの日本的宗教は、日本人がマルクス主義に感染しないための、あるいは日本共産党の影響を受けないための防波堤になるだろうと強く思っていた。
 今でも、ある程度はそうだ。神社一家の子弟が簡単に共産主義・日本共産党に「染まる」とは思えない。
 そしてまた、神道政治連盟等の組織・団体に期待するところもある。
 さらには、R・パイプスがレーニンに関連して(但し<左翼>系について)述べるような、「政治責任」を負うのを死ぬほど怖れかつ現実の「権力行使」をすることのできない口舌の徒=評論家である<(保守系)知識人>などよりも、神職者たちの方がはるかに、<共産主義>の浸透に対して抵抗するのではないか、と想像したりもした。
 具体的にいえば、日本に<(何国系であれ)共産党政権>ができるかできそうなときに、<実力>を行使してでも抵抗=武装による敵対をするのは神社関係者(または「容共」ではない仏教関係者)ではないか、と思ったりもした。
 しかし、最後の防波堤、<反共産主義>の最後の砦、というイメージは現在は持っていない。
 歴史的にみて、<宗教関係者>はけっこう、<権力への迎合>をしてきている。
 神道・神社よりも、仏教・寺院の側にむしろ<反体制>的抵抗は多かったようにも見える(一向一揆、信長等に対する本願寺等々)。
 かりに<神道・天皇中心主義>が<反共産主義>と同じ意味であるならば、上にいう 2)に関連して言及するだろう。
 しかし、そういうわけにはいかない、と考えている。
 日本の現在の宗教関係者(さしあたり神道と仏教)の中には、いざとなれば、<共産主義>政権とでも「同衾」をする者がいるのではないか?
 日本の現在の宗教関係者もまた、「権力」の動向に関心が深くて、かつ決して<反権力>ではないのではないか?
 ○ 理論的かつ歴史的( ?)に見ると、前回に言及した北一輝は、例えばその1923年・大正12年(共産主義インター日本支部=日本共産党設立の翌年)の『日本改造法案大綱』で、「社会主義」と「天皇」とを対立するものとは考えていない。
 <天皇・皇室を最高指導者(・層)に祭りあげたうえでの社会主義(・共産主義)>というのは、ありうるのだ。現に、それに惹かれたとされる若い軍人たちもいた。
 はたして、<極右>なのか、<極左>なのか ?
 その「社会主義」性は、言葉・概念うんぬんの問題ではなくして、明確だ。
 北一輝・日本改造法案大綱(1923)/同著作集第二巻(みすず書房、1959)による。カタカナをひらがなに変える。「天皇の原義。天皇は国民の総代表たり、国家の根性たるの原理を明かにす。」を冒頭に掲げつつ、「華族制廃止」、「貴族院を廃止…」等のあと、こうある。
 「私有財産限度。日本国民一家の所有し得べき財産限度を一百万円とす。/
 海外に財産を有する日本国民亦同じ。/
 此の限度を破る目的を以て財産を血族其他に贈与し又は何等かの手段によりて他に所有せしむるを得ず。/
 私有財産限度超過額の国有。私有財産限度額は凡て無償を以て国家に納付せしむ。//
 違反者の罰則は、国家の根本を紊乱する者に対する立法精神に於いて、別に法律を以て定む」。//以上、p.288-9、p.300。
 「私有地限度。日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす」。p.302//
 「私人生産業限度。私人生産業の限度を資本金一千万円とす」。p.307//
 つまり、「天皇」と<容共>は矛盾していない。
 もう一つ例証を挙げる。少しは関連するだろう。
 月刊正論2017年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)は再三言及するように、<編集部>による「保守」の基本要素を4点挙げる。
 そこでの、④「反共」は、①~③とは別に位置づけられる。p.59。
 月刊正論「編集部」において、「反共産主義」とは、①「伝統・歴史的連続性」、②「国家と共同体と家族」、③「国防と戦没者への慰霊」とは別の次元にある
 月刊正論<編集部>によるアホらしい「保守」理解があるから却って戸惑うが、「伝統・歴史的連続性」の中に同編集部が含めているのかもしれない「天皇(中心)主義」とは、どういう価値を持つものなのか?
 櫻井よしこらは、いったい何を追求しているつもりなのか。
 上の①~③の程度では、独自の「価値」ではないだろう。これら全部が、<保守>派ではなくとも、日本人が日本のことを考えるならば、当然のことだとも言いうる。
 さらに続けよう。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。

1553/『自由と反共産主義』者の三つの闘い③-櫻井よしこ批判。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 上の三点の概略でも少しは語った方がよいのかもしれないが、三つは分かち難いところがあるので、順番に一つずつというわけにはいかない。
 <神道・天皇主義>は、上では<「日本主義」または…>辺りに関係しそうで、そうすると、3) の最も先端的な、または最も将来的な論点にすでに関係しているようにも見える。
 しかし、そんなことは全くない。
 櫻井よしこが主張・議論していることは、上の三点の違いはもちろん、どれを意識しているのかも、ほとんど感じさせない、率直に言って<無茶苦茶(むちゃくちゃ)>なものだ。 
 いずれは日本人は欧米的<liberal democracy>の基本的束縛から脱して、対等な<日本主義>を主張する必要がある。
 リチャード・パイプス、レシェク・コワコフスキらに感心し、アンジェイ・ワリツキの紹介がほとんどない(邦訳書はもちろんない)と不満は述べても、日本人が広い意味でのヨーロッパ化すればよいとは全く思っていない。
 彼ら欧米人の、「共産主義」に対してかつてもった切迫した現実感を思うととともに、対ソ連「冷戦」終結とともにまるで共産主義は消滅したかのごとき(日本の著名な論者にもしばしば見られる)欧米中心主義には賛同できないし、神道も仏教も知らないキリスト教世界での、ある意味では気楽さも看取できる。
 日本と日本人が欧米化してしまえばよい(自由・民主主義の点で欧米に追いつく ?)と考えている「左翼」がいるかもしれないし、<保守>派の中川八洋の英米中心主義らしき主張・立場(強い反共産主義はけっこうなことだが)もあるが、従えない。
 櫻井よしこが決して欧米的<liberal democracy>を克服しているわけではないことは、その安倍晋三支持論を読んでもすぐに分かる。
 櫻井よしこは(他にも同調する<天皇主義者>でかつ何としてもという安倍内閣支持者はいると思うが)、安倍晋三または安倍内閣の<価値観外交>を何の留保をつけることなく支持しているようだ。
 <自由・人権・法の支配>といった価値は、元来は欧米のもので、究極的には、日本国家と日本人は完全には、いわゆる欧米西側諸国や欧米人と同じ<価値観>に立つことはないし、その必要もない、と考える。
 「法」や「権利」に対する感覚は、欧米と同じだとは思えない(欧米でも例えばアメリカとドイツで同一ではないだろうが)。
 上に「日本的自由主義」と仮に書いているように、自由・民主主義等々といっても、日本的に変質させたものにきっとならざるを得ない、と考えられる。現に今でも、軋み(きしみ)があると、私は認識している。
 この辺りに注意を払わない、口先だけの<ナショナリスト>・<愛国主義者>あるいは<天皇主義者>を信用することができない。
 櫻井よしこもその一人で、この人には、例えば<戦後民主主義と日本人>という主題で深刻に(もちろん自分自身のこととして)苦悩した形跡はない、と見られる。
 だからこそ平然と、安倍<価値観外交>の支持を語れる。
 つぎに<神道・天皇主義>といっても、この立場の人々がどの程度に終始一貫しているのかは、はなはだ疑わしい。
 「日本の宗教」として神道だけを語るふうであることには、もう触れない。
 <天皇>については、議論がきわめてしにくい。たくさんの人が種々のことを論じてきた。この一年の間に何度か三島由紀夫をもう一度読もうとして、果たしていない。
 しかし、櫻井よしこの論旨一貫性のなさくらいは、簡単に指摘できる。
 櫻井は「立憲君主制」(とこの人が考えるもの)を諒としているらしく、昨年11月の政府リアリングでは、わざわざ昭和3年の田中義一首相関連のことを持ち出して明言している。要するに、<政治への介入>を慎んだ、又は反省したとして、誉め称えているのだ。
 こんな奇妙なことはない。
 明治憲法上の天皇の権力が単純に「権威」にとどまった、俗世間または「政治」と関係がないものとされた、とは私は全く理解していない。
 なぜなら、例えば二・二六事件の際の昭和天皇の言動、終戦の「ご聖断」という決意の表示、これらは完全に、側近の影響はむろんあったにせよ、<権力>の行使だった、と考える。
 そのような権力行使の余地を明治憲法自体が残していた、と法解釈せざるをえないと思われる。
 櫻井よしこに問いたいものだ。終戦「ご聖断」は立憲君主制の範疇にとどまっていたのか否か。
 目的あるいは結果がよければそれでよし、というならば、朝日新聞の<ご都合主義>と何ら異ならないだろう。
 また、ヒアリング発言ではとくに昭和天皇を称える旨を何点か述べているが、八木秀次や平川祐弘ほどではないにしても、暗に<それに比べて現在の天皇は…>と言いたいのが透けて見えて、じつに見苦しい。
 自分たちの考えと同じ言動をする天皇は「ご立派」で、そうではない天皇は「ご立派」ではないと櫻井は自分が語っていることになることに気づいていないのだろうか。これまた、<存在と祭祀>による評価という自分たちの根本的出発点を逸脱している。
 天皇・皇室中心主義などと言いつつ、じつに奇妙奇天烈なのだ。
 月刊正論の今年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)へと移ろう。
 櫻井よしこは簡単に、鎌倉・徳川幕府は、あるいは「俗世の権力」は「皇室の権威」に服し、あるいは「皇室の権威の下にあ」った、「究極の権威」は幕府や世俗にはなく「皇室」にあった、と書く(月刊正論1917年3月号p.86)。
 これは日本の歴史の「偽造」だ。「偽造」が厳しすぎれば、「極度の単純化」だ。
 時代によって異なるが、実質的な権力は完全になかったかときもあるかもしれないが(そのときはおそらく「権威」もなかった)、多くの時代は<権力>は<分有されてきた>、というのが私の理解で、日本史学界の多くとも、たいして異ならないのではないか、と考えている。
 西尾幹二は何かに「権権体制」という言葉を使って権力・権威の分離を語っていたが、これまたかなり単純化しすぎているだろう。
 櫻井よしこは、天皇が「征夷大将軍」を任命した(たしかに形式上はそうかもしれないが)という<絵空事>に欺されているのではないか。そしてまた、究極の権威はずっと天皇・皇室にあった、という歴史観は、明治新政府およびその後の政府が、そしてとりわけ大戦時の政府・文部省がかなりの程度作り上げたものだ、と私は思っている。
 マルクス主義・マルクスらの発展段階史観のごとき<単純な>ものこそが、受容されやすい。原始共産制-農奴制-封建制-絶対王政-資本主義-社会主義(・共産主義) ? ?
 やや飛ぶが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>または<天皇中心史観>は、日本のマルクス主義的史観の真反対であるようでいて、じつは発想がよく似ている。
 つまり一方は天皇に実質的な力(権威)があったことを肯定的に理解し、片方は、天皇にこそ実質的な最高権威があったとして否定的に理解する(そして打倒を叫ぶ。あるいは叫んだ)。
 対立していそうでいて、前提は同じなのではないか ?
 そうしてまた、立ち入ると手に負えなくなるが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>は、戦時中の「國體の本義」のレベルにすら達していないし、むろんそれを克服してもいない。  櫻井よしこらは「國體の本義」の要旨だけでなく、全文をきちんと読んで、もっと「勉強」すべきだろう。
 さらに、最近はあらためて北一輝に関心をもっているが、櫻井よしこと似ている(表面的には同じ)理解または主張を北一輝がしている部分があって面白い。
 北は「純正社会主義」・「社会民主主義」の標榜者だが、明治維新を、かつての政変・権力交替とは違って、国家・国民関係を作りだし、日本に「民主主義」をもたらしたものとして肯定的に評価する(その理念を当時の財閥・政治家等が壊したと言うのだ)。そして、確認しないまま書くが、櫻井よしこが近年にやたら肯定的に持ち出す(月刊正論上掲も同じ)「五箇条の御誓文」を「民主主義」宣言書としてこれまた肯定的に語る。
 櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか。
 もちろん同じではないのだが、櫻井よしこや一部の<保守>派は、北一輝あるいは「青年将校たち」の主張と自分たちの主張とどこが同じでどう違うかくらいはしっかりと理解したうえで、何らかの主張をしたり、「運動」をしたりする方がよいのではないか。
 最後の方は筆がいわば走っていて、きちんと文献提示ができない。だが、言いたいことは朧気にでも分かるだろう。

1545/『自由と反共産主義』者の三つの闘い②。

 「恋でもいい、何でもいい。他の全てを捨てられる、激しいものが欲しかった」。
 1971年/小椋佳・しおさいの詩(歌詞・小椋佳)。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という幻想。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 <神道・天皇主義>とは何なのか。
 平川祐弘・日本人に生まれて、まあよかった(新潮新書)、櫻井よしこ・日本人に生まれて良かった(悟空出版)、というタイトルの本があるらしい。たぶん、読んでいない。
 日本の「左翼」の<自虐>さに堪えかねて、このようなタイトルの本を書いたのかもしれない。
 しかし、私にはなぜか、しっくりこない。
 なぜかと言うと、「日本」をこのように対象化または客観化できそうにないからだ。
 あるいは、<日本に生まれてよかったか(どの程度よかったか)>などいう問いかけをしたことはおそらくないからだ。
 この二人は何と、おそろしいことをしている、本のタイトルにまでしている、と感じる。
 もう少し書けば、日本とは対象化・客観化できるものではなく、私自身の一部ですらあるからだ。日本に生まれたことがどうだったかを問うことは、他ならない自分自身の一部に問いを投げかけることに他ならない。
 自分の血肉の一部になっているものを、どうやって評価するのか ?
 あるいは、日本人として生まれたことは、自分で選択したことではなく、生まれたときからの宿命・運命だ。
 そういう運命・宿命を、どうやって、<よかった>かどうか、などと問えるのか ?
 樋口陽一(左翼・憲法学者)はかつて、人間として生まれたのは必然だが、日本人として生まれたのは偶然にすぎない、と語った(この欄で触れたことがある)。
 必然とか偶然とかを問題にすること自体が、おかしい。
 あえて言えば、日本人は、通常は、日本「国家」によって、「人」として認知されてはじめて「人」になる。出生届-戸籍-住民票作成・記載のことを意味している。
 人間が生まれて特定の「人」として認めるのは、国際連合(国連)等の国際機関ではない。地球的・世界的には自分の存在を「人」としてまたは「国民」として認めてくれて、その存在を確証してくれるのは、国連等の国際機関ではないし、むろん日本国以外の第三国でもない(外国滞在・旅行中に生まれた場合とか両親の国籍が違う場合には立ち入らない。あくまで多数ないし「通常」の場合を語っている)。 
 このような意味では、人間に生まれたかどうかではなく、「日本人」として生まれたこと自体が必然でかつ宿命的・運命的なことなのだ。
 日本という「(国民)国家」あるいはナショナリズムに対する嫌悪感をもつのだろう樋口陽一には、ではいったいどの国家が、貴方の人間としての存在を記録して、確証するのかと、問わなければならない。
 元に戻るが、日本に日本人として生まれたことを対象化できるのは、もはや「日本」とは別のところにいて自分を第三者的に眺めている天空の仙人のような人物だろう。
 櫻井よしこにも、平川祐弘にも、上のようなその「立場」自体に共感することはできない。
 秋月瑛二は日本人としてのナショナルな感覚を持っていることを、否定しない。
 延々と日本列島で生きてきた先祖たちの後裔だと自覚している。
 その場合の「日本」とは何か。
 これを簡単に表現することはできない。これまで多数の著名・無名の日本人がこれを考えてきた。感じてきた。その中にはもちろん、美しい四季、瑞々しい山河も入ってくる。
 これを「天皇・皇室」に凝縮させる人もいるのだろう。
 「2000年以上」と簡単に語るのは完璧に虚偽だが、3-4世紀頃に(まだ「日本」とは称していなかったが)「天皇・皇室」の祖を中心にした日本国家の端緒に近いまとまりができたのはおそらく間違いない。
 しかし、だからと言って、「天皇主義」と前回に称したが、日本人にとって「天皇・皇室」敬愛の気持ちが、あるいは天皇(家)の継続が最高・至高の価値と見なすことが絶対の、最善・最優先の「主義」だとは考えない。
 二つの意味がある。一つは、はるか悠久の昔から長々と続く家系の後裔者、ということにかかわる。たぶん「王朝交替説」に立ち入る必要もなく、「はるか悠久の昔から長々と」続く、歴史上も種々の重要な位置・意味をもった人々であるだろう。
 しかし、そんなことを言えば、秋月瑛二だって、家名も人名も辿れないにしても、3-4世紀、いやもっと前からおそらくは日本列島に生きて死んだ先祖たちの立派な後裔なのだ。
 涙をこぼすほどに感じる。自分と血のつながる誰かが、1000年も2000年も、そして3000年も前にちゃんといたのだ。だからこそ、自分も、いま、ある。
 「天皇・皇室」への敬愛の情は、決して本能的なまたは自然的なものではない、と思われる。「天皇」家以外にも、長々と系譜をたどれる一族があることによっても、多少はすでに相対化される。
 もう一つは、最近の櫻井よしこが示していることかもしれないが、また「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」と考えるのが<保守>だ、という主張もあるのかもしれないが、そのいわば「天皇(・皇室)主義」を説くことの意味は、実際的な意義は、いったい何にあるのだろうか。
 つまり、何のために、ことさらにそういう主張をする必要があるのだろうか。
 ここまでくると、そういう「主義」の主張が現在の日本の歴史的状況、つまり「戦後日本」と関係があることが分かる。
 そうしてまた、「戦後」または現在の<天皇・皇室>の問題は、「戦後」または現在ではない、「戦前」の、あるいは明治憲法下の<天皇・皇室>との同質性や差違等をも論じないといけないことにもなる。
 しかし、「戦前」あるいは明治憲法下との比較だけをしても十分ではないことは、一目瞭然としている。
 <天皇>の存在とそれにかかわる制度は、明治維新後に新たに発生したのでは、自明のごとく、ない。それ以前に、それこそ長々とした、「悠久の歴史」がある。
 ここですでに、櫻井よしこや平川祐弘や、あるいは「皇室」敬慕こそが<保守>だとする考え方の破綻の一端が現われているだろう。
 典型的には櫻井よしこに見られるように、このような人々がいったいどの程度に、<日本の悠久の歴史>・<日本人とその精神の歴史>を、仏教や儒教のそれも含めて、知っているのか自体、相当に疑わしいからだ。
 明治維新はまだ150年ほど前の事象にすぎない。明治維新についてすら、櫻井よしこのごとくすでに観念的・抽象的にしか捉えることのできていない人がいるのだから、その他の「天皇主義」の<保守>派がどの程度にそれこそ深刻に日本の歴史・日本人の歴史を懐古して、自分のものにしているかは、相当に疑わしい。
 あらためて問う必要がある。「天皇」主義とは、およびこれに関係する「神道・天皇主義」とは、いったい何を目的として、主張されているのか。
 <民主主義対ファシズム>という幻想の打破、反「共産主義」や反「リベラル・デモクラシー」の闘いなどに言及する以前に、初歩的または基礎的な問題に、日本の、とりわけ<保守>派の<論壇>らしきものの幼稚さについて、論及せざるをえないのだ。

1534/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤02。

 今年4/07付・№1487からの続き。
 ○ 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>は、悲痛だ。
 悲痛というのは、悲しいほどに痛々しい、ということだ。
 また、櫻井よしこ自身はそう感じていないようであることも、さらに悲痛、つまり、悲しいほどに痛々しい。
 ○ 櫻井よしこの「気分」を典型的に示しているのは、つぎの一文だろう。
 「天皇は終身、天皇でいらっしゃいます」。
 議事録上では段落変わりの冒頭にある、いっさいの条件、前提、後続の帰結も付いていないこの文こそが、櫻井の「観念」であり、「思い込み」であり、揺るがしてはいけない「前提命題(テーゼ)」なのだ。
 なぜそうなのかと、問う姿勢がここにはない。
 もちろん、その根拠らしきものも別のところにある。そして、それはウソの歴史認識で成り立っている。
 櫻井よしこは言う。「当時の政府は機能せず、国家の命運が危うくなりました。そのとき天皇が政治、軍事、経済という世俗の権力の上位に立たれて、見事に国民の心を統合なされました。それが明治維新でありました。
 その折、先人たちは皇室と日本国の将来の安定のために、従来比較的頻繁に行われていた譲位の制度をやめました。日本国内の事情だけを見ていれば事はおさまった時代が去ってしまったのです。広く国際社会を見渡し、国民を守り続けることのできる堅固な国家基盤を築かなければならない時代では、皇室のありようについても異なる対応が必要だったことは明らかです。」  
 欺瞞に満ちている。前半の「明治維新」について、例えば「当時の政府は機能せず」といった評価・認識等については別に扱う。少なくとも、こんなに簡単にまとめてはいけない。
 大ウソは、「その折」、つまり「明治維新」の「折」に天皇譲位制度を廃止した、述べていることだ。
 明治維新の開始と終末の時期については議論があるだろう。しかし、天皇終身在位を定める旧皇室典範が制定される1889年までをも「明治維新」の時期ということはできないだろう。
 櫻井は巧妙に、自ら高く評価する「明治維新」の際に天皇終身制も定められた、というウソをついている。
 そして上記ではその理由を、「国内の事情」だけにかぎらず「広く国際社会」見渡して「堅固な国家基盤」を築く必要があったことに求める。
 これはいったい、誰が主張している、どの文献が書いていることなのか。
 櫻井よしこによる、デッチあげの類だろう。
 明治天皇は、明治元年に満16歳だった。1888年になっても満36歳だった。
 皇位承継の仕方について全く議論がなかったとは思えないが、それは切実・具体的な論争点ではなかっただろう。かりにあっても、生前譲位を否定する終身在位論が決定的だったとか有力だったとは全く言えないものと思われる。明治憲法の制定(1889年)の時期に、この問題を「家法」として明確にしたのだったが、その際にでも生前譲位の可能性の余地を残しておく主張がなお有力に存在した。
 櫻井は、日本の「開国」・「国際化」に終身在位制の理由を求めるようだが、この二つの間にどういう論理的関係があるのか ? もっと詳しく説明できるのか ?
 櫻井よしこは、その単純に理解する明治維新の「目的」に、天皇終身在位制のそれも重ねているのだ。
 櫻井は、悲痛なほどに<アホ>だろう。なぜ、国家基本問題研究所なるものの「所長」を名乗れるのか。
 ○ 摂政制度の利用は現行の皇室典範上の摂政制度を前提にするかぎりは不可能だが、それを正規に「改正」すれば、論理的には不可能ではないだろうと感じてきた。
 摂政制度利用の主張者すべてを<アホ>だと言ってきたわけではない。
 櫻井よしこがぎりぎり提案しているのは、現在の実体的要件に、「又は御高齢」を追加することだ。
 これは成り立ちうる提案だとは思われる。しかし、これに伴う種々の問題点とその対応・解決策をもきちんと考えたうえで、提案されるべきものだ。
 子細に立ち入らないで櫻井に内在している問題点だけを指摘すると、つぎのとおり。
 櫻井よしこは、「歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきました」、と言う。現在はかりにそうでなくとも「長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事です」とも言う。 
 しかし櫻井は、こう言うとき、摂政設置の活用にはこういう問題は全くない、と思っているのだろうか。
 そう見えないので、摂政利用論も、終身在位制をともかくも守りたいがための逃げ道として使われている観がある。
 つまり、摂政を置くことについても、とりわけまさに「御高齢」という要件を充たすとして摂政を置くことについては、「御高齢」だが国事行為等を自ら天皇として行いたいし行えると考える天皇またはその支持者と、天皇の地位はそのままにしたうえで国事行為・公的行為等を天皇とは別の「摂政」たる人物に任せたい人々との間で「たびたび政治的に利用されて」しまう可能性・危険性があるのだ。もちろん、櫻井も言うように「長い長い先まで」のことを考慮すれば、だ。
 太上天皇(・上皇)と天皇との間の権威の分裂を懸念する声があり、それは一般論としてもっともなことだが、天皇と(実際に天皇の行為を継続的に行う)摂政との間にも、<権威の分裂>が十分に起こりうる。
 終身在位・摂政制度活用ならば、「政治的に利用され」る可能性はないのか。
 櫻井よしこという人は、<アホ>ではないか。なぜこの人が国家基本問題研究所の「所長」を名乗れるのか。
 そもそもは、「御高齢」といった曖昧な要件だけでは、現実は動かない。いったい誰が、どのような手続でもって、摂政を置くべき又は置いてよい「御高齢」かどうかを判断するのか。そこまでは櫻井よしこは、まるで考えていないのだろう。
 また、上の過程ですでに、<政争>が生じてしまう可能性もある。
 櫻井よしこは、何も分かっていない。
 ○ まだまだ、櫻井よしこの天皇譲位論について、書き残しておきたいことはある。

1531/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④07。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
 この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
 ○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。 
 目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
 陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
 そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
 そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
 崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
 なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
 つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
 薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。 
 天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
 神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
 ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
 若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
 ○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
 この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
 阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
 安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
 寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
 ○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
 天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
 さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
 この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
 山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
 また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
 さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
 これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
 ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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 聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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 後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
 順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
 土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
 後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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 後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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 以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
 陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
 上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
 この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
 それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
 ○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
 そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
 しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。

1527/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④06。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と仏教の関係について、あまりにも無知なのではないか。
 ○ 天皇・皇族の墓=陵墓のかなりの部分は、一定の長い間、仏教寺院によって維持・管理されてきた、と見られる。
 江戸時代の天皇の陵墓は、光格天皇、孝明天皇を含めて、全て泉涌寺(京都市東山区)の周辺(東から南)にある。このことは、先に書いた。
 つぎの本に、興味深いことが書かれている。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 そもそもは明治期の神仏分離令・神仏判然令から始める必要がある必要があるのだろうが、割愛してこの本のp.330あたりから読むと、当初の神祇官という重要官署の所管対象に、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだ。1868年(明治元年)に陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされたところ、陵墓事務(山陵)については別の官署・「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、1869年9月に「諸陵寮」が置かれた。
 同「寮」は、とくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について、注目していたようだ。江戸時代の全天皇の陵墓がそこにあったのだから、当然ではあろう。
 「諸陵寮」の1870年(明治3年)8月の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用を混ぜる。厳格な正確さはない可能性もある)。
 ・維新復古となり「神仏混淆不相成旨」を先般布告した。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(然処)、御陵に関係している「泉涌寺」その他(其外)が依然として「巨刹」を構えてそのままになっているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(恐入次第)。
 ・歴代皇室の「御祭典御陵之御取扱」方法は官民の「模範」で、仏教との「混淆」をしてはならない旨を神社に普く「布告」した。
 ・「泉涌寺」ら全ての「御陵ニ関係之寺院」は、一山残らず「還俗」することを、人選の上で「相当の職務」に就かせることを命じた。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 ・「僧徒」たちは「御陵ニ関係」しては全くなくとも、「九重石御塔」または「法華堂杯」をそのまま建て置いて「御祭典」をしているのは「浮屠混淆」の一端なので、少しずつ是正されるのは当然だ。
 ・「御陵」とは「御霊之所在」で、「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は下されなかったけれども、是正されるべきは「自然」だ。
 ・「肝要御陵之御取扱」が「浮屠混淆」であっては、じつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(不堪懸念殊更苦心)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を別紙のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 ・<別紙>-「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきところ、「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと奉り存じ候。 
 以上、終わり。
 泉涌寺に関連しなくても、いくつか興味深い。例えば、
 ①寺院での祭祀・法要類については、従来は「格別」の「勅諚」類がなかった。つまり、神社と同等の扱いだった。
 ②「寺院境内ニ御陵」という言葉があり、これは「御陵」が「寺院」の「境内」にある、という了解または認識を前提としている、と思われる。寺院の所有区画と陵墓の区域とは厳密には区別されていなかったようだ(近代的「所有権」観念のなさによるのかもしれない)。
 さて、皇族である聖徳太子らの合葬陵墓が大阪府太子町・叡福寺の中または直近にあること、多数の天皇陵墓が京都市東山区・泉涌寺の近くにあることは、すでに記した。
 これらは、現時点でのことだ。
 ○ いくつかの論点が、少なくともかつては、あった。
 第一は、陵墓自体の様式・築造法の問題だ。詳しい知識はないが、神道的または仏教的な仏具ないし神具が置かれたり、墓碑自体が神道式または仏教的ということもありうる。
 第二に、陵墓の維持・管理の問題だ。少なくともかつては実質的に寺院または神社がこれを行っていたことはあった、と見られる。
 神社についてはこの欄でまだ言及したことがないが、現在の姿・位置関係から推察して、それがありうるだろうという例をいくつか知っている。
 第三は、陵墓の前又は直近での慰霊行事の主体の問題だ。形式上は皇室または幕府等々による命令(又は委託)によることがあったかもしれないが、陵墓の維持・管理を実質的に寺院または神社が行っている場合には、これもまたそれぞれの寺院や神社が主体として行っていたのではないだろうか。
 第四は、周辺に陵墓がある場合にとくに、寺院(・神社)内部での上のような行為、つまり慰霊・法要や供養の祈祷の類が認められたかどうか、だ。これまた、陵墓の維持・管理が実質的に寺院(・神社)によっている場合には、大きな問題にならないと思われる。
 ◯ これらが明治期以降どうなって、そして現在に至っているのか。
 上の1870年(明治3年)の<建議書>について言うと、まず、つぎの点の解釈が問題になりうる。
 「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきで「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だ。=「御歴代御陵祭祀神典ニ被為依候上ハ、泉涌寺ヲモ被廃候儀当然ノ御儀と奉存候」。
 これは、泉涌寺という仏教寺院の廃絶までを意味しておらず、維持・管理をこの寺院に任さないことも含めて、上の第二、第三を明確に禁止し、かつ場合によっては第四も許さない、という厳しい趣旨だとも読める。
 だが、実際には、これよりも厳しい措置を想定していたようだ。
 外池昇(1957~)の上掲著は、<別紙>について、つぎのように注記している(p.344)。
 「泉涌寺にある総ての陵を泉涌寺から徹底的に分離して管理」する具体策を述べる。
 ①「総ての僧侶」の「復飾」、②その僧侶から人選して「御陵守護に当たらせる」、③「寺中の仏像・経典・梵鐘等の仏器類」の「撤却」、③「本堂を取り除く」、④「寺領」は「陵田」(陵墓の土地)とする。p.344。
 これは、泉涌寺という仏教寺院それ自体の廃止・廃絶を意味するだろう。
 さらには、上に触れた第一の点にかかわって、14の陵墓について、つぎのことすら提言されていた、とされる(同上、p.344)。同寺周辺の他陵については省略。
 ①「仏式の九重塔」を除去して「円丘」を築く、②崩御年号記載の「大石」を前面に設置、③「石垣、玉垣」、「鳥居」の造立、等々。
 ところが、重要なのは、こうした建議はそのままでは採用されたり、実施されたりすることがなかっつた、ということだ。つまり、<神仏分離>を徹底することはできなかった。
 おそらくは、上の第一の点での多少の造作、変更はあった。第二、第三で述べた管理・供養類への主体的関与は(仏教寺院には)なくなった。しかし、寺院それ自体が廃止・廃絶されたわけではなく、すぐ近くに陵墓はありつつ、かつ陵墓面前ではなくとも、当該天皇等に対する慰霊・供養・法要等は寺院内でずっと行われてきた。
 第二、第三は、戦前は国家と世俗宗教との分離、戦後は国家と「宗教」自体の分離の結果だ。陵墓維持・管理は国家の仕事(現在は国・宮内庁)であって、寺院等のすることではない、という法的建前があったし、現憲法のもとでは、寺院のみならず、神道神社についてもある(政教分離、国家と「宗教」との分離)。
 しかし第四については、戦前の実際はよく知らないが(たぶん戦後と同じでないか)、少なくとも戦後は、仏教寺院が天皇の位牌を置いて法要する等のことは、もちろん全ての寺院ではないが、特定範囲の寺院には許されてきた。遺族ともいえる天皇家もまた、それを迷惑に思って封じたりはしてこなかった。
 泉涌寺の「霊明殿」には、天武以降の奈良時代の天皇以外の全天皇(とされる。だが、特定の天皇以降だろう)の「位牌」があって、毎朝読経がされている、とこの寺院で聞いた。
 なお、陵墓それ自体は寺院の土地とは区別されつつ、特定の天皇(・上皇)ゆかりの寺院には、当該天皇(・上皇)の位牌が正面に一つまたは一~三程度置かれて法要を行う畳敷きの部屋が現在でもあることがある(例、仁和寺、青蓮院等々)。その室がある建物に向かう、唐破風であったりする「勅使門」が現在でもあることもある。
 ○ 結局のところ、櫻井よしこのように、天皇・皇室の<宗教>を神道に<純化>させて、仏教と切り離したい、または切り離すのが天皇家の歴史的伝統だと理解している人物が、なんと国家基本問題研究所理事長であっても、いるのかもしれないが、それは過っている、ということだ。
 櫻井よしこは、「無知」を自覚、自認しなければならない。

1489/「左」と「右」の観念論-日本共産党・不破哲三と「研究」所理事長・櫻井よしこ。

 ある種の「左」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「未来」に見る。
 ある種の「右」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「過去」に見る。
 「未来」のことは当然にまだ分からないので、文字通りに夢・理想・ユートピアであって、その内容も、達成方法も、将来についての<観念>でしかない。
 「過去」のことは過ぎ去ったことであり、今ある現実からは遠ざかっているので、その内容は、不可避的に抽象的な<観念>にならざるをえず、過去に一足飛びに戻れるわけではないので、その夢・理想・ユートピアの実現方法も<観念>的に語るしかない。
 今ある<現実>を唾棄すべきものとして正視せず、遠い未来か過去に理想社会・理想の時代を夢見るのは、いずれも<観念>論に陥る危険性がある。
 観念とは、脳内で作られる、かつ外部に表現されることもある、言葉、意識、考え(希望・反希望いずれであれ)、あるいはこれらの組み合せ又は体系だ。
 将来についての言葉・意識・考えは不可避的に、「観念」であるしかない。
 しかし、過去については膨大な歴史的事実が知られているはずであって、それを冷静に見つめれば「観念」論やその体系に嵌まるはずはない。
 しかし、今ある現実を忌避しすぎて、ある特定の時代・時期を単純に理想化して、その時代の過去に戻りたいという熱望が極端に大きくなりすぎると、歴史的現実(過ぎ去った現実)を冷静に、多様かつ総合的に視ることができなくなり、単純な「観念」的把握しかできなくなる。
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 ある種の「左」の人々の典型は、日本共産党だ。
 ある種の「右」の人々の典型は、さしあたり言えば、櫻井よしこだ。また、渡部昇一だ。
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 今年1月末頃に以下の象限表のようなものを提示した。番号を反時計廻りにに見る。
 ②リベラル保守 ①ナショナル保守
 ③リベラル左翼 ④ナショナル左翼
 上と下は、保守(反共産主義)と左翼(容共産主義)の対立。
 左と右は、近代普遍的(とされる、欧米的な)<自由・民主主義>とこれに懐疑的又は批判的なナショナリズムの対立。むろん、諸概念について種々の説明を要し、議論がありうることは承知している。
 それらを割愛していえば、ここでの(今回記しているテーマでの)要点は、①と④は、決して両極に離れたものではなく、すぐ上と下にあるように、存外に?近いものである、ということだ。
 ①が究極化して、ファシズム・ナチズムになったのかもしれない。
 ④が究極化して、レーニン・スターリンのコミュニズム(共産主義)になったのかもしれない。
 そしてまた、これらは<全体主義>として括られることがかなり多い。①の一部と④の一部は共通性がある。
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 日本の現在に即していうと、つぎのような印象がある。
 ④の中には、共産主義、そして日本共産党が入る。
 ①の中には、<観念保守>、日本にのみある「天皇」を至高の価値・存在と考え、「天皇」中心時代への復古を求める、現実(例、アメリカのトランプ)も、過去(例えば、明治維新)もまるで正視できない、冷静にかつ総合的に把握することのできない、一部の<保守>の人々又は団体・組織が入る。
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 日本共産党の不破哲三は、(かつて)<日本の共産主義者は…!>と党大会等で呼びかけて、煽動していた。
 某「研究」所理事長・櫻井よしこは、(日本の)「保守の気概」、「保守の真骨頂」なるものの保持・発揮を、<保守>系雑誌(この言葉は産経・月刊正論3月号上)で呼びかけ、あたかも読者を煽動しているふうだ。
 両者の「思い込み」ぶり、「観念」主義は、どこか似ていないか。

1487/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき⑤。

 ○ 櫻井よしこは昨年11月14日の有識者会議のヒアリングでつぎのように語った。
・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが、国事行為、公的行為の次に」にきているが、「優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」天皇陛下の日常日程を整理し直すのがよい。
・天皇像の形成に「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」。
 その他の最近の文章でも、上の趣旨を繰り返し、述べている。平川祐弘もしきりとまつりごと=政治と祭事を、「祈る」ことを語る。
 日本の歴史や天皇に関することになると、櫻井よしこはたんなる「ジャーナリスト・評論家」ではなく、<狂信家>に変わる。平川祐弘も似たようなものだろう。
 ゆっくりと上の点はこの欄で記していくことにして、まずは、おそらく櫻井よしこにはきわめて難しい問題を設定して、質問してみよう。平川祐弘に対しても同じ。
 神宮(伊勢神宮)の<式年遷宮>は、天皇の「祭祀」なのか否か、その理由は何で、これには憲法に関する問題は全くないのか。
 ○ 現代でもおそらく80歳を超えれば長寿だろうし、100歳まで生きる人は少数だろう。そういう時代ですら、20年に1回の遷宮を経験する、又は見聞きするのは、3-4回程度しかないだろう。
 上に20年に一度と書いたが、日本および天皇の歴史上は、そういう時代の方が短い。
 せっかくだから、できるだけ多くの遷宮の間の年数を、下記の文献によって、記しておこう。下記の、//と//内の数字。内宮と外宮が別の年のこともあったので、内宮の遷宮年を意味させる。有史以後のことだから、初期も、神話的伝説・伝承ではないと思われる。
 01回・690年//19年//02回・709年//20年//03回・729年//18年//04回・747年//19年//05回・766年//19年//06回・785年//25年//07回・810年。
 この最後から平安時代に入る。
 //19年//08回・829年//20年//09回・849年//19年//10回・868年//18年//11回・886年//19年//12回・905年//19年//13回・924年//19年//14回・943年//19年//15回・962年//19年//16回・981年//19年//17回・1000年。この最後は一条天皇のとき。
 //19年//18回・1019年//19年//19回・1038年//19年//20回・1057年//19年//21回・1076年//19年//22回・1095年//19年//23回・1114年//19年//24回・1133年。この最後は、崇徳天皇のとき。
 //19年//25回・1152年//19年//26回・1171年//19年//27回・1190年//19年//28回・1209年//19回//29回・1228年//19年//30回・1247年//19年//31回・1266年//19年//32回・1285年//19年//33回・1304年//19年//34回・1323年。ここまで、886年以降の遷宮は19年毎だ。これ以降、南北朝時代に入る。
 //20年//35回・1343年//21年//36回・1364年//27年//37回1391年//20年//38回・1411年//20年//39回・1431年//31年//40回・1462年。このあと、応仁の乱が始まり、じつに122年間中断した。
 //122年//41回・1585年(秀吉)//24年//42回・1609年(家康)。
 これ以降、江戸、明治、昭和前記まで、規則的・定期的に20年毎の遷宮がつづく。省略する。盛大に行われたのが、第58回・1929年(昭和4年)。そのあと変則的な挙行が1回だけあり、あとは復して20年毎になる。
 57回・1909年(明治42年)//20年//58回・1929年(昭和4年)//24年//59回・1953年(昭和28年)//20年//60回・1973年//20年//61回・1993年(平成5年)//20年//62回・2013年(平成25年)。
 以上、茂木貞純=前田孝和・遷宮をめぐる歴史(明成社、2012)、による。
 ○ こうした中断もありつつ長く続く遷宮の諸費用を誰がどうやって支弁したのかは、歴史学的にも重要だろう。122年間の中断は、そのコストを負える人物・組織等が存在しなかったことを意味すると思われる(伊勢神宮自身も含めて)。
 遷宮の祭主が旧皇族であることからも、この遷宮が神道関連行事・儀式であることのほかに、天皇・皇室に由縁のあることもかなり知られているだろう。
 では、これは天皇の「祭祀」なのか。いや、伊勢神宮の行事ではないのか。
 かりに「祭祀」だとしてすら、「宮中祭祀」ではないだろう。
 1949年(昭和24)年に予定されていた第59回遷宮について、「昭和天皇の思し召し」を受けて、当時の内務省・神祇院は、早々と1945年(昭和20年)12月14日に、とりあえず「中止」を決定した。上掲書、p.122。
 そのようなお役所は現在にはない。
 いや、宮内庁はある。だが、宮内庁は伊勢神宮と、何がしかの公的な関係があるのだろうか。
 いつかこの欄で記したように、戦後に限らないように思われるが、少なくとも形式上は、遷宮の最終に至るまでの諸行事は、日程も含めて、各天皇の「ご聴許」により決定される。少なくともそのかぎりで伊勢神宮よりも、天皇は「上」に立つ。
 遷宮自体が広義の?祭祀かどうかも興味ある(又は深刻な)問題だが、この「聴許」とは、天皇の、いかなる性格の行為なのだろうか。「祭祀」そのものではないが、「祭祀」の挙行とその詳細をいわば命令する、「祭祀」の一要素なのだろうか。
 そしてまた、櫻井よしこも触れている、憲法・皇室典範上の位置付け・性格は、遷宮自体とともに、この「聴許」は、どのように位置づけられるのだろうか。かつ、憲法に関係する問題・論点はないのだろうか。
 <保守>的団体の代表者として君臨し、天皇・皇室を敬愛し、天皇を戴く日本を保持しつづけることこそが<保守>だとの旨を述べ、そして「祭祀」の最優先を強く主張する櫻井よしこならば、このくらいのことは答えられるだろう。

1486/天皇譲位問題-産経新聞社・月刊正論の困惑と怨念。

 天皇譲位問題-往生際の悪い産経新聞社・月刊正論。
 昨年夏以降の天皇譲位問題の発生とその帰趨は、少なくとも内部的には産経新聞社を困惑させ、混乱させたと思われる。
 もともとの主張は、当時又はのちの「アホの4人組(加地伸行を含めて5人組でもよい)」の主張と同じで、譲位反対・摂政制度利用論だったようだ。
 産経新聞は昨年8/06社説(主張)で、とくに小堀桂一郎の言を紹介したりして、このような方向の主張をしている。
 但し、世論調査の結果と大きな齟齬がでてきたことは、意識したに違いない。
 それでも、記憶に頼れば、阿比留瑠比は、<世論調査結果に一喜一憂しないで…〔じっくりと正しい方向へ〕>という旨を書いていた。産経や阿比留にとって「喜」となる調査結果、「憂」となる調査結果は何かと思いめぐらさせ、それらが推測できそうで、かなり興味深かった。
 11月のヒアリングの頃には社としての主張を確定していたのかどうかは、私にははっきりしない。購読者でないので、いつ頃に転じたのか分からないが、12/23日社説では、「今の陛下の一代に限り、特別措置法で譲位を実現する方向性が出ている。/陛下のお気持ちを踏まえ、できるだけ早く見直す観点からは、自然な流れではないだろうか」となっており、その後はこの線の主張をしてきている。
 世論を完全に無視できず、かつ皇室典範全面改正も認めたくない、という、政府・自民党がもともと提供しようとしていた折衷案的解決にすがったことになるのかもしれない。
 というわけで、産経新聞と譲位問題には現時点では語ることはほとんどないとも言える。
 しかし、同社発行の月刊正論上の「教授」・「先生」はなおも、<ぐじゃぐじゃ>と述べている。「負け犬の遠吠え」というか「敗者のルサンチマン」というか。
 3月上旬辺りが最終編集だろうか、月刊正論5月号(産経)「メディア裏通信簿」欄によると、以下。
 ①「教授」-「天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある」。「先生」-「完全に憲法違反だぜ」。
 ②「教授」-「摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方向をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定だったからでしょう。そういう意味でも〔=天皇の意思によるのだから〕退位制度は国民や国会の意思という理屈には無理がある」。
 上の①については、「おことば」後の記者会見の際に「内閣の助言の承認により」発したという説明を今上陛下はなされた。また、NHKによる放送を予め政権中枢が全く知らなかったとは考え難い。さらにもともと言えば、今上陛下にも一人間としての意思や思考は当然にあるので、その表明を一切封じてよいのか、「国政」に結果として影響を与えることになるのか否かは「お言葉」の時点ではまだ分からない、といった論点もある。
 ②については、もともと摂政設置と国事行為委任法では天皇の行為の全てをカバーできない部分があるという原理的・基礎的な問題点がある。また、「天皇の意思」によるからと言うが、国会が自立的に法律を改正しその原案・法律案を内閣が自立的に作成するということに問題はないだろう。自立性を正面から否定するのはむつかしい。「教授」や「先生」も、政府が改正準備を始めたあとの、彼らにとって賛成できる皇室典範の非改正、現状維持であれば、それがいかに今上陛下の明示の意思表明にもとづくものであっても、形式や手続を問題にしないのだろう。
 そういう中味よりも、もしこれらを正々堂々と主張したいならば、月刊正論の最後の辺りの、「覆面」雑談記事でではなく、産経新聞の「正論」欄とか、あるいは<誰が正しい譲位否定論を潰したか>とでも題した論考を月刊正論にでも掲載すべきだろう。
 そうしないで覆面をかぶって雑談のごとくしゃべっているのは、じつに諦めの悪い、怨念丸出しの、印象のよくないことだ。
 ところで、「教授」は月刊正論も含めて原稿執筆依頼を受けて、執筆して校正・見出しつけにかかわることがあるらしい(p.335)。
 月刊正論に小さくとも必ずのように登場する、「教授」のごとき主張をしかつ恨み節も述べそうな覆面人間は、八木秀次、という人ではないか。
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 同欄から追加の引用。社説には現れていない、産経新聞又は月刊正論編集部の<本音>や<困惑>がかなり分かる。
 月刊正論2016年11月号p.319〔9月上旬に最終編集か〕。「先生」-「俺たち保守派は伝統と法にもとづいて天皇が政治的決定をしないように主張すべき」だし、それが「天皇の立場を守ることになる」。「月刊正論10月号で終身在位制の意義を強調して、ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。
 月刊正論2016年12月号p.308〔10月上旬に最終編集か〕。「先生」-「SAPIO11月号では小林よしのりが…男系維持派の渡部昇一や八木秀次たち保守論客をバカみたいな絵で描いていたな」。
 「教授」-「ひどい描き方ですね。しかも名前を書いていない。文句を付けられないように、わざと書いていないんでしようね」。
 /名前を書いていないのは、「教授」も「先生」も同じで、かつ似顔絵もない〔秋月〕。
 同p.309〔10月上旬に最終編集か〕。「編集者」-「産経も読売も、自分たち自身が本音では『困惑』している当事者でもあるから、はっきりものが言えなくて…。」
 「先生」-「少なくとも、月刊正論ではもっと〔譲位に対する〕反対・慎重論を明記して、議論を喚起すべきじゃないか」。
 「編集者」-「また、そんな厳しいことを。……いろいろ考えるとなかなか…。…を読んでも、そこのところを悩んでいるのが、分かるじゃないですか、勘弁してください」。等々。

1482/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む②。

 小林よしのりが論及している点にすべて関わると、10回分も必要になるだろうので、感想、コメントの要点を絞る。
 1.天皇の意思による譲位の可能性・許容性の問題と、皇位継承者の資格、つまり女性天皇、女系天皇の可能性・許容性の問題とは、全く無関係ではないとしても、分けて論じなければならない。
 小林よしのりが譲位反対論者を<男系主義者>と非難するのは、前回言及の8~9名については当たっているのかもしれないが、譲位の可否と女性・女系の可否は論理的には関係がない。
 2.小林は「天皇を苦しめてまで天皇制を維持すべきなのだろうか?」と人間的感情の欠如を疑わせるアホ4人組に比べれば自然でまっとうな疑問を示したあと、「いつ自分がリベラルに転向するかわからないほど迷う」と書いている。p.544。
 このように、<観念保守>の主張は、とくにそれがある程度まとまって述べられると、それが<保守>派一般の主張であるかのごとく理解され(池田信夫においてもそうだ)、健全なまたは理性的な人々を、リベラルないし「左翼」へと追いやる可能性・危険性をもっている。<アホ保守>は、その意味でこそ、許されない。
 <アホ4人組>を批判しておく必要があると(そのためには少しはきんと読まないといけないと)秋月が思っているのもそのためで、彼ら<観念保守>は、ふつうの日本人を、<保守>嫌いにさせるという、きわめて悪質な機能を客観的には有していると考えられる。
 小林よしのりはどうか何とか、「リベラルに転向」などをしないでいただきたい。
 3.現皇室典範自体が改正されることになる
 小林よしのりは皇室典範自体の改正を主張し、一代限りのという特例法には反対している。 
 法案自体の正確な内容を知らず(子細はまだ決定されていないだろう)、新聞等による一般的な情報にのみ頼るが、基本的論点についての政治的・政党的な調整もふまえた事実上の決着点は、以下であると見られる。
 ①いわゆる皇室典範改正論と特例法制定案の折衷。
 ②特例法が一代を対象として、かつ先例になりうるものとして制定される。
 ③典範自体の付則で②の特例法が皇室典範と「一体」であることを明示する。
 ④「付則」もまた法律(皇室典範)の一部に他ならないので、皇室典範自体も改正されることになる。
 以上のとおりで、特例法が制定されるとともに、それと併せて皇室典範も改正される。
 この決着の意味は、つぎのとおりだと考えられる。
 A.自民党・特例法制定と民進党・皇室典範改正の二つの主張の両方を生かした。
 B.憲法二条の「国会が議決する皇室典範」によりとの部分との整合性を確保して、違憲だという疑念が生じないようにした。
 小林よしのりが示唆するように、また流布されていたように、自民党は特例法で決着させるつもりだったのかもしれない。
 そして、皇室典範全面改正とその全面否定の間の<特例法>で両派を宥めたかったかにも見える。<観念保守>または前回言及の8-9名のような「保守」の全面否定論-摂政設置主張論にも配慮したという姿勢を示したかったのかもしれない。
 そのために、皇室典範全面改正を支持しない者・主張もある程度多いことを示すために、平川祐弘、櫻井よしこらのかなり多い全面否定-摂政設置論者がヒアリング対象者に(政策的に)選定された可能性がある。
 しかし、皇室典範とは独立の特例法では憲法二条の定めに違反する可能性が高い。
 立法技術にもかかわるが最終的にどうするつもりだろうと、もともと<特例法>のイメージも不明瞭だったのだが、秋月も思ってきた。
 それで最終的には、上のようになった。
 皇室典範の、戦後最初の実質的な大きな改正となるだろう。
 皇位承継方法についての大きな例外を、皇室典範自体が認めることになるからだ。
 特例法は形式的には皇室典範とは別でも、皇室典範そのものの一部となる。これは分かりやすいことではないが、「付則」もまた法律の立派な一部であり、法律の定めの一内容だからだ。
 したがって、その内容は憲法二条にいう「皇室典範」が定めていると理解することができ、憲法問題・違憲問題の発生は回避できる。 
 というわけで、小林よしのりの元来の主張は半分しか通らなかったが、半分は、ある程度は、実現された、ということになるように思われる。

1481/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む①。

 ○ 小林よしのり・天皇論平成29年(小学館、2017)のp.479以下を読んだ(又は拝見した)。
 入手が遅れたのは、主題についての関心の薄さ、「観念保守」(=小林よしのりが「自称保守」とか称しているものに近いかもしれない)の文章を思い出すことへの嫌悪にもよる。 
 ○ 最後の方の p.544に、小林が批判の矛先を向けている8名の人物の顔の似顔絵が出てくる。
 ちなみに、昨秋あたりの月刊正論(産経)はこの似顔絵化を、<卑劣>だとか批判していた。
 しかし、小林よしのりの絵から、私でもかなり人物名を特定できる。しかるに、月刊正論(産経)は最終頁あたりで「教授」・「先生」・「女史」等とだけ冠名する人物を登場させて、個人名を隠したままで勝手な?ことを言わせている。
 良心的なのはまだ小林よしのりで、月刊正論編集部(産経)の方が<卑怯>だろう。
 元に戻る。8名のうち、左の2名はすぐには分からなかったが、どうやら加瀬英明と加地伸行らしい。
 残るは、右から、八木秀次、渡部昇一、小堀桂一郎、竹田恒泰、平川祐弘、櫻井よしこ。ほんの少し頭を覗かせているのが大原康男かと思われるが、さしあたり計算から省く。
 上の8名のうち政府・天皇関連有識者会議のヒアリング対象者は、八木秀次、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこの4名
 なんと、秋月瑛二が「観念保守」と批判し、<アホの4人組>と酷評した4名と全く同じ。100%の合致だ。
 しかも、上の点はかりにさておいても、8人のうち4名が該当するだけでも、相当な<打率>だ。なお、大原康男を含めても、4/4.3くらい、および4/8.3くらいの高い<打率>になる。
 小林よしのりの上の基本的な感覚または彼らの論旨(譲位反対論)に対する非難は、まことに健全だ。
 ○ 加地伸行がヒアリング対象者だったとすれば、平川祐弘と同じかさらに低レベルの発言をしていた可能性がある。 
 たぶん昨年中に、西尾幹二は(確認しないが)月刊正論あたりでたしか天皇・皇室問題で加地伸行と対談していたが、加地の発言にほとんど頷くばかりで、容喙していなかった。加地の発言のあまりのヒドさに思わず、私は当該雑誌自体を放り投げたほどだ。
 もっと前にも、西尾幹二と加地伸行の二人は天皇・皇室問題でかなりひどい対談か論考を載せて話題になったらしい(これもかすかな記憶はある)。
 西尾幹二は、ときに一緒に酒呑みするくらいならよいが、加地伸行レベルの人物と雑誌用の対談などはしない方がよいと思われる。せっかくの高名を辱めるだけだろう。
 ○ とここまで書いて、まだ小林よしのり著の内容にはほとんど立ち入っていない。
 これまた連載にするしかない。


1471/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④。

 ○ 小川榮太郎「平川祐弘氏に反論する-譲位の制度化がなぜ必要なのか」月刊Hanada5月号p.303-による、おそらく同誌4月号の平川祐弘「誰が論点をすり替えたか-天皇陛下『譲位』問題の核心」p.30-に対する批判は、平川批判として優れている。
 書いていることに即しての譲位問題に関する平川祐弘批判は秋月もする予定だったが、小川の言述の紹介でもってほぼ代替させることができるかもしれない。
 もっとも、櫻井よしこらと親交があるらしい編集長・花田凱紀の意向だと思われるが、平川論考のタイトルは4月号の表紙の右側に最も大きく掲載されているのに対して、小川榮太郎の上記については表紙の中になく、目次の中でも目立ってはいない。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaは、同人誌的サークルが別の名前で、似たような人が似たようなことを順番に書く雑誌に堕してしまっている観がある。ときにはこの小川榮太郎論考のようなものや、西尾幹二や中西輝政のものを載せて、ゴマカしているけれども。
 ○ 小川榮太郎に同意できない部分はあるが、そこはさておき、以下は平川批判。
 ・最後の、「…日本の保守は実に危うい」。p.315。平川を読んでの結論的感想のようだ。そのとおりだ。とくに「観念保守」の精神的頽廃は著しい。もっとも、「…」の「…させねば」の部分には同意できない。
 ・まん中あたりの、「そもそも平川氏-および保守系論客の多数-が、そんなに摂政に固執することが私には寧ろ理解できません」。p.311。そのとおり。かりに本当に「保守系論客の多数」だとすれば、日本の保守はすでに死んでいる。つぎの根拠づけも適切だ。
 「皇太子による摂政の制は、明治の典範で初めて定められたものに過ぎず、本来の天皇伝統ではない」。p.311。
 ・平川祐弘は、今上の「お言葉」は<天皇の役割を拡大する「個人的解釈」・「拡大解釈」>だと理解して、「我が儘を言っておられるだけ」だとし、「祀り主として存在することに最大の意義がある」と言うが、「そもそもが陛下のお言葉への反論になっていない」。p.305。
 ・存在するだけでよいとは、観念的詭弁(秋月の言葉)。「極論すれば」、「植物人間状態で全く『機能』していなくとも、『存在』が継承されれば天皇伝統は続いたか」。p.306。
 ・平川は譲位の問題を縷々述べるが「体系的網羅的懸念」でない。制度又は慣習化で防止できる。p.310。また、例えば以下。
 ①上皇と新天皇の各周辺の「人間関係がうまくいく保証はない」というが、同様のことが「摂政と天皇の間にも」「起こるに違いない」。p.310。
 ②エドワード八世の退位後のヒトラー接近というのは、「失礼極まる」「拡大解釈」だ。p.310。
 ・平川は源氏物語を持ち出して「高齢化」への配慮は不要だとする。しかし、現在の「高齢化」社会の出現は突然のもので、「世襲の制度にとって、この突然の平均寿命の倍増は、根底的な制度設計の変更を要求するものだと考えるのは、寧ろ当然ではないでしょうか」。p.311。
 以下は秋月瑛二による追記。源氏物語がかりに50-100年間の天皇の実態を反映して(物語だが史実に即して)書かれていたとしても、たかだか50-100年間の天皇の歴史にすぎない。なぜこれが、現在の議論の根拠になるのか。源氏物語が描いていない、平安期以前、平安期の残り、鎌倉以降の武家・幕府時代等についての根拠になるはずはない。平川祐弘の言及の仕方は、思いつくままの(限られた個人的な知識にのみ頼った)恣意的なものにすぎない。「バカ(アホ)」なのだ。
 ・小川の論述はさらに進む。「終身在位に固執する弊のほうが、遙かに実際的な危機ではないでしょうか」。p.312。
 (明治皇室典範の摂政位継承順位の定めに関する小川の理解p.311-312は、適切だろう。つまり、摂関時代のように、皇太子等の皇族以外が摂政になることを禁止し、天皇家・摂政家(これにつながる皇族)の対立、後者による「明治新政府を転覆する可能性」を摘み取ったのだ。ちなみに、1989年・明治皇室典範は、1877年・西南戦争のわずか12年後、1968年・新政府樹立の21年あと。)
 皇太子が摂政につくとすると、「事実上、六十代以降に即位した老齢天皇が、八十代で摂政を立てるというのが基本的な天皇のあり方になってしまいます」。p.312。
 ・「宮中祭祀七つに関しては摂政は代行できません」。p.312。
 これについて調べる必要があると感じていたところ、珍しくこの問題に論及している<保守>の人の文章を見た。現在の皇室典範によれば、摂政は天皇の「国事行為」のみを代行できる。また、国事行為委任法(略称)も、名前のとおり、「国事行為」のみを委任できる。八木秀次もいるはずなのに、これについての言及がなかったのは不思議だった。
 いわゆる<公的(象徴的)行為>や祭祀を含む<私的行為>について、どこまで摂政が代替できるかは、本来はきわめて重要な論点だったはずなのだ。
 ・平川祐弘ら「保守派」はただ宮中でお祈りしていただければよいとの議論が多いが、「天皇の祈り」は「そんな気楽なもの」ではない。p.312-3。
 以上にとどめる。小川の批判は、平川祐弘に対してのみならず、、渡部昇一、櫻井よしこ、八木秀次にも、そしてその他の、月刊Hanada、月刊WiLL、月刊正論の関係者やこれらの愛読者に対しても、相当程度にあてはまるだろう。
 昨年の文藝春秋スペシャルの天皇特集号でも、そこにあった八木秀次よりも遙かに柔軟でかつ制度もよく理解していた文章を、小川榮太郎は書いていた。
 ○ 八木秀次を除けば、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこはすべて<文学部>出身者。「アホ」になるのはどちらかというと文学部系に多い、というのが秋月の見立てだ。
 しかし、小川榮太郎は格段に優れている。話がかなり通じそうな気がする。
 もっとも、先に記載のとおり、小川が天皇について一般論として記していることについては、かなり違和感をもつ部分もある。だが、それは今回のテーマではない。

1469/なぜ「アホの4人組」か。天皇譲位問題・「観念保守」、つづき③。

 たぶん年齢順に、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次。この人たち4人をなぜ「アホの4人組」と称するのか。
 第一に、もちろん、昨2016年11月に、天皇関連有識者会議での「有識者ヒアリング」で発言した者たちであり、今上天皇の譲位(いわゆる生前退位)に反対して摂政制度の利用を主張した点で共通性がある。だが、そのような者は、他にもいる。
 第二に、いずれも、天皇の歴史も含めた、天皇問題の専門家ではない。
 大原康男や今谷明は、それぞれの分野で「専門家」だとは言えるだろう。所功も、園部逸夫もそうだ。
 八木秀次は憲法学者・研究者として、天皇問題の専門家だと自分を思っているのかもしれない。天皇・皇室問題で発言してきてもいる。
 百地章も、大石眞も、また高橋和之も、憲法学者・研究者として「専門家」なのかもしれない。 
 しかし、八木秀次の憲法学「専門家」性は、相当に疑問がある。そういうためには、憲法学界または憲法アカデミズムの一員として受容されていなければならないと思われるが、八木はとっくにそれから離脱しているのではないか。そして、<教育>問題・分野へと「活動」の重心を移しているのではないか。
 2015年にいわゆる平和安保法制問題が政局化した際に産経新聞は西修、百地章、八木秀次の三人の文章を「正論」欄に掲載したが、最も拙劣だったのは八木の文章だった。この当時にはこの欄で触れなかったが、八木秀次は、<憲法体制と安保体制の矛盾>という、日本共産党員の長谷川正安(故人、名古屋大学・憲法学)が言っていたようなことを述べていた(秋月も、子どもたちにウソを教えてはいけない旨を書いたことはある)。戦後日本の法現象の認識としてそのようなことを指摘できる可能性はあるのだろうが、当時の憲法「解釈」論としては、平和安保法制違憲論を断固として排斥し、合憲論をもっと強く主張しなければならなかった。
 というわけで、大石眞や高橋和之、そして百地章と並ぶ「専門家」と性格づけるのは困難だと思われる。
 第三に、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)という保守系月刊雑誌に、人と雑誌によって多少は異なると思うが、頻繁に登場している。
 これが最も共通性の高い点だという印象もある。しかし、これだけではない。
 第四に、2015年8月の安倍晋三内閣によるいわゆる戦後70年談話を、いずれも支持した。
 渡部昇一と平川祐弘については、この点にこの欄でも触れて批判した。櫻井よしこがこの派に属することはとっくに確認している。 
 八木秀次について確認はしていないが、この安倍談話を批判していないことはおそらく間違いないだろう。今年になってからの、月刊正論3月号p.58でも、八木は「安倍晋三首相」と共通する立場にいることをとくに記している。
 第五に、これら4人はいずれも、秋月瑛二がこの欄で長らく批判的なコメントをし続けている人物だ。
 開設当初からというわけではない。漠然と思い出せば、八木秀次を信用できないと感じたのは早かったし、渡部昇一は現憲法無効論または廃棄論の主張者だと知って、これまた早々に(批判的コメントをするため以外は)読まなくなった。
 櫻井よしこを<保守>派のようだと明確に知ったのは遅かったかもしれないが、2009年の民主党内閣誕生前後の論考はひどいもので、とても<保守>派だとは思えなかった。
 屋山太郎とともに、この点で櫻井よしこは批判の俎上に載せた。2009-10年頃に秋月がコメントしたことは、間違っていないと今でも考えている。内容をいまここで繰り返しはしない。
 最後に、平川祐弘の名前は以前から知っていたが、積極的にせよ消極的にせよ読む価値のある人物だとの印象はなかった。
 にわかに関心を持ったのは、安倍戦後70年談話を、稚拙な文章でもって支持していたのを読んでからだ。そして、昨年以降のこの人の文章を読んでも、全く支持できない。
 以上のとおりで、たまたま「アホの4人組」と称したのではない。
 上智大学「名誉教授」、東京大学「名誉教授」、現役の某大学教授、そして「国家基本問題研究所」なるものの理事長を「アホ」だと言うのは、相当に勇気が必要なような気もする。
 しかし、「アホ」は「アホ」だから、仕方がないだろう。
 個人攻撃あるいは全面的な人格批判をしているのでは全くない。この人たちが何を、どのように書いているかを読んだうえでの、その内容についての批判だ。
 「アホ」は「アホ」だから仕方がない、と言うためには、もっと書かなければならないだろう。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1454/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のC。

 ○ 司馬遼太郎は、もともとは観念的思考、イデオロギーといったものを忌避するタイプの人物だっただろう。産経新聞社で最初に赴任した京都で、担当範囲にあった当時の大学の「左翼」的雰囲気に<染まる>ことがなかったのは、そういう<気質>があったからだと思われる。
 彼は、のちにたしか「純度の高い」概念・観念という言い方をしていた。ともあれ、抽象化又は単純化の程度の高い思考にはついていけない旨も書いていた。
 三島由紀夫の自裁に際して、司馬がかなり冷静な又は冷淡な感想を寄せたのは、そのような<気質>によるものだっただろう。司馬は、「狂信」というものが好みではなかった。
 三島は一方、明らかに「観念」で生きていた、あるいは、ついには「観念」に生命を捧げてしまった。守るべきは日本だ、というとき、当然に「天皇」も含んでいたに違いないが、その「天皇」は日本国憲法下での「象徴天皇」ではなく、彼が思い描き、観念した「天皇」だっただろう。
 しかし一方で、三島が憲法・法制に関するきちんとした知識をもっていたことも間違いない。「継受法」という概念も知っていた。また、その見識によってもいるのだろうが、彼の日本の現状認識、将来予測は、じつに鋭く、適確なものだった。この点には、この欄でいく度か触れた。
 元に戻ると司馬遼太郎は、京都での担当範囲の中に寺社廻りもあったために関心を持ち始めたのか、『空海の風景』(1975)では抽象的な仏教思想・仏教教義にも踏み込み、晩年とものちには言える時期には、土地の価格の高騰の時代を背景にして、かなり観念的で単純な世相批判も行っていた(土地問題について)。また、彼の日本軍国主義批判は、皮膚感覚的体験にも由来する一面的でかつ観念的なものだった可能性もある。
 とりとめなく書いていて、三島や司馬について何らかの結論的示唆を述べようとするものではない。
 「右」の全体主義は、伝統を「純化」しようとする、とか仲正昌樹は述べていたが、「純化」の程度が高いということは、「純度が高い」ということだ。
 「純度が高い」思考者を一概に非難することはできない。三島由紀夫もまた、その思考・「観念」が現実の世界では採用されないことを知った上で、つまりその「観念」あるいは「理念」・「理想」が<現実化>することはないという確実なまたは決定的な見通しをもって、1970年11月の行動に出たのだろう。そのような残酷な予測と自らの生命はいずれ不可避的に消滅せざるをえないという個体としての人間の限界の意識、この二つが、狂気ともされた行動への衝動になったかと思われる。
 そして、そのような三島をとくに批判しようとは思わない。いろいろな人間がある。仲間の数人以外には三島は誰も殺さなかった。三島由紀夫は、テロリストではない。そして、「美しい観念」を抱いて、それに殉じることができた。なかなか幸福な人物だった、とすら思える。
 ○ このような三島の「観念」世界に比べると、最近の日本の「観念保守」には、日本を貫き通すような強度や凄みはなさそうだ。
 櫻井よしこの、昨年11月の「専門家」ヒアリングでの発言内容を、遅まきながら、読んだ。
 やはり、この人は(も)、アホだ。というよりも、日本の「保守」というものの、きわめて深刻な精神的頽廃を感じる。
 この点にさっそく入っていきたいが、予定どおり、週刊新潮誌上の、櫻井記述に、あらためて以下に、言及する。
 櫻井よしこ・週刊新潮2/9号を見てみると、つぎの一文が印象的だ。書いていないことに注目すべきとか前回に書いたが、はっきりと書いていることにも明らかな誤り・問題点がある。
 光格天皇の具体的な言動を肯定的に紹介するのはよいとしても、以下のような櫻井よしこのまとめには、反対せざるをえない。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 第一に、明治維新等に関する叙述を、こんな二文ほどで終えてしまっていることに唖然とする。以下で指摘することも含めてだが、櫻井よしこは、日本の中学生レベルの日本史知識・明治維新に関する知識しかない、と思われる。
 くり返すが、本当に唖然とする。このレベルの人が、「保守」論壇のリーダー ?、情けなくて、涙が出そうだ。
 第二に、天皇の権威のもとで団結して「明治維新の危機を乗り越え」、「列強の植民地」化を防げた、というのは、それが天皇・皇室の権威-明治維新-植民地化阻止、という趣旨であるなら、それは前回にも述べた<明治維新よかった>史観だ、あるいは<薩長・勝利者史観>だ。あるいはそこに天皇・皇室の権威を媒介させているので、明治維新の源に「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識」があったと明言しているように、<天皇のおかげ史観>だ。櫻井が明治天皇を高く評価するのも分かる。
 家近良樹・江戸幕府崩壊-孝明天皇と「一会桑」(講談社学術文庫、2014、原著2002)は、最初の方(第2章の冒頭あたり)で、櫻井よしこのような史観を、同じ趣旨で、「王政復古史観」、「西南諸藩倒幕派史観」、「天皇制維新史観」と呼んでいる。
 また、戦前におけるこの史観の誕生と国民的確定 ?には、明治政府が「王政復古(戊辰戦争)の意義を確定」すべく1889年に刊行した、<復古記>という書物・全15冊や、戦前昭和の政府が1939-41年に「官製維新史の集大成」として刊行した<維新史>があった、としている。
 子細には立ち入らない。櫻井よしこの明治維新史イメージは、この、明治期や戦前期に当時の、「西南雄藩倒幕派」(とくに薩長両藩)やその後裔者たちが中心の政府によって作られたものと同じだ、とほぼ断定できるだろう。
 ○ 学者・研究者になれ、とは言わない。しかし、素人の秋月ですら、櫻井よしこが抱く明治維新、そして当時の天皇に関するイメージには疑問をもつ。少なくとも、そんなに簡単には言えない、と批判することができる。
 素人の見方を、少し提示してみよう。
 認識・理解そして議論の対象は、大きく、体制・政治の基本的仕組みと、政策目標とに分けることができる。
 前者には、大きく、A・天皇(・皇室)中心体制、B・天皇/幕府協力体制、C・幕府(・将軍)中心体制の三つがある。
 後者には、大きく、α・攘夷=鎖国と、β・開国(・開港)とがある。
 江戸時代は長らく、Cかつαだった。
 光格天皇の力もあったのだろうか、孝明天皇の時代に、幕府は対米通商条約について「勅許」を求める(1856年、前回に天皇側が主張したとしたのは正確でない)。幕府はβへと政策変更し、かつ部分的にはBに近づいた。天皇の力=権威 ?を借りて政策変更を諸大名にも認めさせようとした。条約の法的実施が天皇の判断に依存しているとすると、この時点で、天皇は「権力」の一部をもつに至った。画期的なことだ。
 しかし、孝明天皇は1857年2月の時点で、「勅許」を出さない。許可・認可の申請を拒否したか、又は「お預かり」にしたようなものだ。天皇・朝廷の一存で、条約の現実化ができない事態となる。この時点で、天皇・皇室はれっきとした「権力」機構の一部になっている。たんなる「権威」ではない。
 以上は、A~Cやα・βの区別はむろん私の思いつきだが、櫻井よしこも引用していたのと同じ著者の、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)を見ながら書いた。
 とりあえずここで区切る。大切なのは、この時点で、あるいは1866年、1867年の途中までですら、旧幕府を除外した新政権、つまりAの天皇中心体制ができるとは、ほとんど誰も予想していなかったことだ。いくつかの時点で、この当時、さまざまな歴史の選択がありえた。B(いわば公武合体路線)による、緩やかな開国と変革(と「富国強兵」 ?)および植民地化阻止もありえた、と考えている。
 薩長両藩等が新天皇(明治天皇)を中心にしてまとまり勝利した、明治維新がなされた、頑迷・旧態依然たる幕府時代と訣別して新しくよき明治時代になったという、後から見ての評価を、櫻井よしこのように簡単に下してはならない。
 ○ 櫻井よしこのような、<明治はよかった>史観は、明治時代である1889年の旧皇室典範の内容、終身在位制は素晴らしかった、という単純な理解と主張につながっている可能性がすこぶる高い。だからこそ、孝明天皇、明治維新、明治国家等の検討を私なりに試みている。

1448/天皇譲位問題-「観念保守」をめぐって、つづき②のA。

 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・2006)の第9章は「天皇制の謎をめぐって-〔略〕」で、その中のp.226-7に、次の文章がある。/改行は原文にはない。
 「『国家と個人』の関係が危機に瀕するとき、その危機を克服すべく全体主義が登場する素地が醸成される。/
 マルクス主義的な傾向の左の全体主義は、国民国家の作られた "伝統" を破壊して、プロレタリアート独裁の革命政権を作ろうとする。/
 右の全体主義は、"伝統” を純化することによって強化しようとする。」
 現在の日本の「観念保守」派は、「 ”伝統" を純化すること」を意図していないだろうか。
 あるいは、<純化した伝統>なる「観念」を、ことさらに主張してはいないだろうか。
 つぎに、1945年2月のいわゆる<近衛上奏文>には、以下の表現がある。近衛文麿の認識を全面的に肯定するのではないが、存在しうるものだとは思える。
 「軍部内一部の者」を「取巻く一部官僚及び民間有志」、「之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり」。
 「国体の衣をつけたる共産主義者」も存在しうる、ということを、現在の日本の「観念保守」論者たちは、意識しているだろうか。
 さらには、引用を省略してしまうが、1937年に刊行された文部省編纂<国体(國体)の本義>に書かれていることは、相当に櫻井よしこ等が最近に述べていることとよく似ており、部分的には酷似するところがある。両者の間に関係はないのだろうか。ここでの<国体>観を全体として否定するつもりはないものの、「観念」論、歴史の「事実」に反した日本史理解が多分にあると見られる。
 櫻井よしこも渡部昇一も、この書物の名前と内容に直接には言及していない。知らないのだろうか。知ったうえでのこととすれば、あるいは参考にしている、影響を受けているとすれば、その論述方法は、もしかすると、いささか卑怯ではないのだろうか。
 正確に確認はしないが(その関心、傾注の努力が惜しいと思っている)、4人のうち八木秀次以外(つまり、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ)は、日本の「国体」について言及し、「国体」の維持の主張を、その<天皇>観とともに披瀝していたと思われる。
 はたして、彼らのいう「国体」とは何か。日本に固有・独特の歴史・伝統があるだろうことを、むろん否定しているのではない。

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