秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

天武天皇

2133/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14②。

 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 八幡和郎のこの書の問題性・不備を、聖武から孝謙への移行に関するつぎの一文も、明瞭に示していると思われる。p.93。
 「孝謙天皇の即位自体は予定されていましたが、749年に即位したのは、聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」。
 八幡は「…ようです」と書いて、自らの主観的推測でしかないことを活字にしているわけだ。こういう程度の推測・憶測を読まされたのでは、「おもに保守的な読者」も我慢できないのではないか。
 いろいろと問題はある。
 第一に、「ややこしいことになっていた」とあるが、天皇の<出家>(=少なくとも仏教徒だと宣言・宣告すること)が「ややこしい」ことだったのは、はたして聖武天皇に限られるのか。
 この時代、以下の書物のタイトルが「仏都」の語を用いるように、「仏教」の天皇・皇族への影響は相当のものがあった。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 八幡はまるで聖武が出家した最初の天皇だと理解しているのかもしれないが、日本書記によるとだが、天武天皇もまた天皇就位以前に「出家」していた、と明記されている。<壬申の乱>直前の有名な話の中にある。病臥中の天智天皇の言葉から始まる。
 「天皇は東宮〔大海人皇子=天武〕に勅して、皇位を授けようと仰せられた。東宮は辞退して、『不運にも、私はもともと多くの病をすかかえております。どうして国家を保つことができましょうか。<中略> 私は今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと存じます』と申し上げられた」。
 「天皇は、これをお許しになった。その日に、東宮は出家して法衣を着られた。そうして私有の兵器を残らず宮司に納められた」。
 このあと、のちの天武は「吉野宮」に入る。
 以上、新編日本古典文学全集04/日本書記3(小学館、1998)、p.301-3。
 「出家」が出てくる原文は、「臣今日出家、為陛下欲修功徳」、「即日、出家法服」。この書には原漢字文(返り文字付き)のほかに訓み下し文もあるが、上の引用は、読み下しではなく<現代文訳>による。
 つぎも参照。「天武は一度出家した経歴をもち、…」と明記している。p.65。
 勝浦令子「仏教と教典」列島の古代史07/信仰と世界観(岩波書店、2006)
 勝浦は、<偽装>の仏教重視ではなく、仏教との関係での天武天皇の重要性について、こうも書いている。同頁。
 「神祇祭祀を基盤…だけでなく、…一切経を網羅具備し、これを含む三宝に帰依することで補完する信仰体制を構築したことは、8世紀以降の国家と仏教、天皇と仏教との関係に大きな影響を与えたといえる」。
 具体的には685年3月の詔に言及があるので(p.66)、上掲書から日本書記の記述を引用しておこう。天武天皇14年(685年)のことだ。
 「壬申〔3月〕に、詔して、『諸々の国の家ごとに、仏舎を造り、仏像と経とを置いて、礼拝し供養せよ』と仰せられた」。p.445
 勝浦によると、「地方への仏教普及」を目的としたもので、実際にも「急速に諸国に寺院が建立されたことは考古学的にもよく知られている」(p.66)。
 というわけで、仏教の影響は「出家」に至るかはともかく、この時代では特段に「ややこしい」ことではないだろう。
 第二に、八幡和郎の「神である天皇が…」という表現も、いささか不用意だろう。「大君は神にしませば」等という万葉集内での詩・句の表現が記憶にあったのだろうか。
 しかし、立ち入らないが、天皇と「神」の関係、例えば天皇は「神」かそれとも「祭祀者」かは、時代の観念によっても異なるだろうが、かく言うほどに簡単ではないだろう。
 第三に、仏教との関係では、聖武天皇はたんに出家しただけ、というのではない。
 東大寺(・盧舎那大仏)建立、死後の光明皇后による財宝類・史資料の同寺・正倉院への寄託の程度の知識はあった。だが、上掲の吉川真司著(天皇の歴史02)は、シロウトには驚くばかりの仏教信者ぶりだったことを叙述している。以下、この吉川著による。
 ①726年、元正太上天皇の病気平癒を願って、興福寺東金堂を建てた。なお、光明皇后も730年に、興福寺五重塔を建てた。この二つは、現在地に残る(15世紀前半の再建にせよ)。
 ②737年、全国(諸国)に、釈迦三尊像の造顕、大般若経一部600巻の書写を命令。
 ③741年、「国分寺建立の詔」を発した。「国分寺(跡)」は全国に現在に残り、地名となっていることも少なくない。この詔は言う-凶作・疫病は「みな朕の政治が悪い」からだが、「神仏の加護を祈ったところ、たしかに霊験があった。そこで、全国に最勝王経・法華経を根本教典とする国分寺・国分尼寺を創建し、国分寺には七重塔を造立して、金字の金光明最勝王経を安置せよ」。
 ④743年、紫香楽宮で盧舎那大仏建立の詔を発した。詔書に言う-「仏法によって天下に幸いをもたらしたく、朕は菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像を造りたてまつる」。
 ⑤ 746年、元正太上天皇・光明皇后と3名で行幸して、盧舎那仏「燃灯供養」。747年、大仏建立開始、官大寺である東大寺と名称変更。
 ⑥748年、諸国に「夏安居」=寺院での勉学修行、「最勝王経」講説を命じる。
 ⑦749年、全国諸寺での法会=「悔過会」を発願して、命じる。
 ⑧同年4月、光明皇后・阿倍内親王(=孝謙)とともに東大寺・大仏鋳造現場で、大仏に「北面」し、「三宝の奴」と称して陸奥での黄金産出を報告。/改元
 ⑨同年閏5月、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺等12大寺に資財・墾田を施す(一切経講説等の財源)。(/出家。)
 ⑩上のとき、各寺院あて詔書で、「太上天皇沙弥勝満」と自称〔下記参照〕。/5月23日、都を離れて薬師寺に移る。7月、譲位・孝謙即位。
 以上のとおり。
 最後の⑩部分の「沙弥勝満」は聖武自身のことで、「勝満」は固有名。「沙弥」とは大まかには正式の(「授戒」された)僧ではなく「見習い」・「修行」中の僧を言う。このように書いた文書の一つ(「勅」だけが自筆)が現在でも残っているらしい(吉川著p.200-1に写真がある)。
 このとおりで、仏教への「帰依」は、八幡が想定するよりはおそらく、著しい。
 第四に、八幡は「聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」と記述するが、このあたりの吉川著の叙述ぶりからすると、聖武は「出家」・譲位を覚悟のうえで大仏鋳造現場に向かい、正式の譲位の前に「太上天皇」号をすでに文書中で使った頃には「出家」していて、その後にすみやかに正式に譲位=孝謙即位となったようだ。
 つまり、期間の重なりが厳密にはあったかもしれないとしても、「出家」と天皇位は両立し得ない、「出家」した人間は天皇位に就けない、というおそらくは伝統的でかつのちにも一貫した考え方・観念が存在したのだろう。
 八幡の記述するように「出家」していたからそれを理由として「譲位を急いだ」、というのではなく、聖武にとって「出家」と「譲位」は一セットで、同じことだっただろうと考えられる。
 天武が壬申の乱前に「出家」したとされるのは、「皇位」への意図・執着はない、という意思表示のつもりだったのだろう。また、後世にも、天皇が退位して「出家」する、あるいはこれをほとんど同期日に行う、逆に、「出家」した者が「還俗」して天皇となる(またはほとんど同期日に行う)、ということは行われた(例を確認することはしない)。
 「出家する」とか「出家させる」というのは(あるいはその逆の「還俗」)は、少なくとも宗教的意味をもつばかりではなく、重要な<政治的>判断だったし、その後の日本史・天皇史上もそうなった、と見られる。。
 なお、「三宝」=仏法僧とは、ふつうは、仏=ブッダ(・釈迦)、法=法経・教典・仏典、僧=僧侶(僧尼)だとされる。「三宝の奴」とは、かなり強烈な言葉だ。
 上の⑩のあと、吉川著p.201-2によると、こういうことがあった。。
 752年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が行幸して、東大寺で「大仏開眼」の法要。1万人の僧侶が参列(名簿が残存と近年に判明)。この年は、552年の「仏教伝来」公伝からちょうど200年、その日は釈迦生誕とされる4月8日。大仏の「鍍金」終了は762年前後。使用した黄金総量は「1万446両」だつた。
 同著p.200によると、文武天皇が果たせなかった「譲位を決行させた原動力は、聖武の篤い仏教信仰であったが、それを後押ししたのが『陸奥黄金のインパクト』だった」。
 ***
 黄金産出はともかく、「篤い仏教信仰」にかかわって、考えさせられることもある。
 八幡は天皇(家)=「神道」というイメージで叙述して「ややこしい」という語を使ったのかもしれないが、天皇または皇室・皇族の、明らかに<天神地祇>に対するのとは異なる、<仏教>との関係だ。それは聖武に限らず、基本的には明治維新期直前まで続いたのではないかと推察される。
 決して「神道」・「仏教」、と並列させることはできないものがある、と感じられる。
 むろん、これは<天神地祇>信仰や「神道」概念の意味にかかわる。
 ***
 聖武天皇に戻る。「仏教」の意義と役割にも関係するが、この天皇の仏教への執着(?)、より具体的には東大寺大仏建立等の<仏教・寺院>支援と出家は、有力な?<俗説>によると、<長屋王殺害>事件による長屋王の「怨霊(・御霊)」からの離脱、「怨霊」の鎮魂にある。この点は、八幡は言及していないが、別に扱うだけの価値があるだろう。

1421/美しい日本03-神社仏閣の位置02。

 上州一宮・貫前(ぬきさき)神社を訪れたとき、最寄り駅から県道か市道へと登って横断したのち一挙に下って境内に入っていく、という高低差に驚いた。正確には、上がっていかずに下っていく、という神社の位置に驚いた。
 というのは、神社も寺院も、参拝口にある楼門または山門までもふつうはそうだろうし、とりわけ楼門・山門から本殿・本堂までは同じ平地上か、後者が前者よりも少しは高い場所に位置することが圧倒的に多いと思われるからだ。そのような例はいくらでも思い出せる。
 ひょっとすれば、貫前神社の楼門と本殿は同じ高さにあったのかもしれないが、楼門まではかなりの傾斜を下らなければならなかった。珍しいな、という感覚を持ったのは確かだ。
 そういう位置関係でこれまたほぼ正確なと感じるほどの記憶とともにに思い出すのは、寺院では、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)だ。山門までタクシーで登り、または歩いて登りきって、山門をくぐり抜けると、何と石砂の参道が明らかに下っていて、本堂かそれらしきものの屋根が、両脇の叢林の間に、下方に見える。
 のちに、同寺の本堂および拝観対象の建物へは、山門まで登らなくとも、ほぼ同じ高さにある地点(今熊野観音寺への参道へと同じか近い)から歩いた方が近くて早いことに気づいた。だが、泉涌寺の最初の訪問では、立派な山門までとりあえず行ってしまうのも無理はないだろう。
 上の二つに比べると微細な変化だが、出雲大社の大鳥居から本殿方向へも、最初は少しずつ下っている。そのような<さがり参道>は、出雲大社の、いくつかの不思議の一つであるらしい。もっとも、そのような高低差を意識していないと、まったく気づかない程度のものだが。
出雲大社の場合、建造時の人々が意識的にそうしたのかは知らない。だが、これ以外の上の二つについては、意識的にそのように作られたとしか思えない。神社本殿は「南」面しており、寺の本堂は「西」面しているようだが、南または西の方向に高く隆起した土地があることは、建造時から明白だったはずだろう。そして、なぜそのような場所に立地させたのかは私には分からない。
 なお、泉涌寺は観光寺院ではないこともあり、何やら清々しく感じられる。かつまたこの寺は御寺(みてら)とも呼ばれ、天皇・皇室ときわめて関係が深い。周囲にはいくつかの天皇の御陵があり、これらは今は国有地・宮内庁管理だが、かつてこの寺が何代かの天皇の菩提寺であったことが(文献で確かめる必要なく)明らかだ。
奈良時代の天皇を除く今日までの全天皇の位牌に対して、毎朝、法要・供養が続けられていると聞いて、気の遠くなるような思いをしたことがある。
 なぜ奈良時代の(正確にはたしか天武以下の)諸天皇だけは、除外されているのか。歴史好き、逆説好きの人ならば想像できるだろうが、テーマから逸れるので、省く。
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