中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)新刊。といっても、計13の個別論考は2005.07~2008.05に文藝春秋(月刊)、諸君!(文藝春秋)、月刊・正論(産経新聞社)にいったん掲載されたものだ。但し、「まえがき」によると各稿について「尚若干の補筆」をしているらしい。たぶん殆どを既に読んだことがあるように思うが、「補筆」の内容、初出論文との違いを逐一確認する暇はない。
 1 「まえがき」の中で中西輝政は、「本音」・「理性」では(日本は)「正直言って、『もうここまで来たら……〔原文ママ〕』という結論めいた所」に落ちつく、「理性では、もう殆ど結論に達している」と述べている。これは、<今のままでは日本は「自滅」する>あるいは<いずれ日本は「日本」でなくなってしまう>という趣旨だろう。
 だがこんな本を出版するのは「私も『日本を信じている』からである」、と中西はいう。
 中西輝政にこんな弱音?と「ぎりぎり『日本を信じる』ことの大切さ」という精神論を語られると、率直に言って<気が滅入る>。
 だが、安倍晋三内閣の崩壊という「第三の敗戦」(上掲書p.74)のあと、明るい見通しを得る特段の材料もなく、このままズルズルと<何となく左翼>・<何となく反権力>の勢力(むろん中核には日本共産党、「政治謀略」朝日新聞、「左翼」学者・文化人らがいる)が日本全体を覆ってしまいそうで、怒り・憤懣を通り越した静かな諦念を感じるほどだから、中西の言葉に反対するわけにもいかない。私も「日本を信じる」ほかはないか?
 2 文藝春秋2007.11の「小泉純一郎が福田を倒す日」が「誰が『安倍晋三』を辞任に追い込んだのか」というタイトルに改められて収載されている(p.55~)。
 初出とどう変わったかを確認しないままたぶん再び読んでみると、新しいタイトルの問いの答えは次のようだ。
 ・安倍首相は小泉純一郎の如き「闘技(ゲーム)」ではなく「本当の戦い」を口に出したため、「国民のサディズム」によって倒され、「わが身を血に飢えた観衆」に差し出した。「政治を楽しみたい人々」には「憲法改正や教育基本法改正」は「抹香臭く、余りにも『場違い』」で、「しかも、年金という名の『パン』さえ、ろくに配られないことが発覚すると、大衆の怒りは頂点に達した」(p.57-58)。
 まず第一に「国民」・「大衆」・「観衆」・「政治を楽しみたい人々」が挙げられているのだろう。
 中西はこの箇所では書いていないが、「剣闘士の血みどろの闘い」に喝采する(「劇場型」から進化?した)「コロシアム型政治」の「大観衆(p.56)を特定方向へのムードへと煽り、酔わせたのは、主権者「国民」(=大観衆)に最も寄り添うことを自負する「政治謀略」朝日新聞を筆頭とする(反安倍で一致した)<左翼>マスメディアだった。別の箇所には次のようにある。
 ・「小泉クーポン選挙の大いなる負の遺産である『血に飢えた観衆が待ち構えて」いたし、「『朝日新聞』を先頭にメディアの大半は団塊左派の『反安倍世代』が牛耳っている。これではとても長期政権は望めない」(p.68)。
 「団塊左派」という言葉は誰がいつから使い始めたのだろう。些か分かりにくいが、とりあえず第二は、「朝日新聞」等のメディアだ。
 ・郵政民営化を否定する平沼赳夫の自民党復党を許そうとした安倍首相・麻生太郎幹事長は、小泉純一郎にとって「許すべからざる叛徒」になった。小泉が自分の後継者・安倍の「首をとらせてもよい」との「最終的な決断」をしたのは、この平沼復党問題が大きい(p.60)。
 第三は小泉。この中西の指摘どおりだとして、小泉はいつその「最終的な決断」をしたのだろうか。すでに2007参院選の前なのか、もっとあとでか?
 ・「最大の反安倍勢力であり、勝者となったのは、霞が関の官僚」だろう。安倍首相は公務員制度改革に乗り出し、「天下り」問題という「虎の尾を踏んだ」(p.66-67)。
 第四に(順番は影響力の大きさの順ではなさそうだ)、<霞が関の官僚>。
 要約的引用はしないが、第五に挙げられているのは、「ワシントンとくに国務省周辺の意図」だ(p.69)。テロ支援国家指定解除・国交正常化の可能性を追求するアメリカ(の一部勢力)にとって「北朝鮮強硬派の安倍」は邪魔だった、というわけだ。
 以上。タイトルが変えられているように、中西のこの論文は他にいろいろなことを書いており、とくに「小泉純一郎の再登場」の必然性を強調しているのが目につく。
 ブログらしきものを書き始めたのは、安倍晋三が小泉後の首相の有力候補になった頃だった。あれから2年は経つ。その間に安倍内閣が成立し、崩壊した。安倍晋三が復活(復権?)するかどうか、中西は「すべては今後の身の処し方にかかっている」、という(p.72)。