秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

大江健三郎

2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
 ——
 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

1430/西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

1288/「進歩的文化人」は死滅したかー福田恆存、竹内洋らによる。

 福田恒存に、「進歩的文化人」と題する小稿がある。50年前の1965年に読売新聞に連載していた随筆ものの一つだ。そこに、こうある。
 「私がいつも疑問に思うことは、他国の事はいざ知らず、日本が共産主義体制になることを好まない人でも、結果としてはそうなる事に、少なくともそうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事である。そういう人を『進歩的文化人』と呼ぶと定義しても良いくらいだ。その事を当人は意識しているのかどうか」(新字体等に改めている。福田恒存評論集第十八巻p.123(2010、麗澤大学出版会))。
 これによると、「進歩的文化人」とは、当人が「意識しているのかどうか」は別として、また「日本が共産主義体制になることを好まな」くとも、「結果としては」「日本が共産主義体制になる」「可能性を助長する様なことに手を貸している」人、ということになるだろう。
 福田恒存はこのあともいくつかの文章を挿んでいるが、-むろん「進歩的文化人」なるものに批判的なのだが-分量が少ないこともあって、正確な趣旨は必ずしも掴みがたい。ともあれ、「筋金入りの共産主義者は別」として、「進歩的文化人」の中の「その大部分の良識派」はつねに建前としての真実・正義(偽善?)を語っていて、読者もそれを好み、かくして「洗脳」は無意識に行われる、というようなことを書いている(p.124)。
 この福田恒存の文章は独自に発見したのではなく、竹内洋・革新幻想の戦後史(2011、中央公論新社)の中で言及されていたので原文を探してみたのだった。しかし、よくあることだが、この竹内著のどの箇所で言及されていたのかが今度は分からなくなってしまった。その代わりに、「進歩的文化人」にかかわるあれこれの面白い叙述や文章引用を見つけた。
 竹内の生年からすると1960年代初めだろう、<福田恒存はいいぞ>とか言ったら「この人右翼よ」と言われたとかの実体験(?)の記載があるなど、上記の竹内著は-学問的労作と随筆文の中間あたりの-、戦後史を知る上でも興味深い書物で、この欄でも何度かすでに触れたかもしれない(仔細を逐一確認しないままで、以下書く)。
 「進歩的文化人」の定義としては、古く1954年の雑誌上のものだが、高橋義孝のそれが詳しい(竹内の引用による。p.316)。
 それをさらに少し簡潔にすると、①「大学の教師をして」いる、②「共産党乃至は社会党左派の同調者」、③「新聞雑誌によくものを書」く、④「よく講演旅行」をする、⑤「本当の政党的政治活動をしているような口吻」をときに漏らすが実際は一度か二度「選挙の応援弁士」になった程度、⑥とくに若い人たちの「自分の人気を気にかけ」、いつも「寵をえていたい」と思っている。
 部分的には似たようなことを、「非常に左翼的なことを言って」いながら「党員」になったり「組織に足をいれ」ることなく、生活態度は「ブルジョア的で非現実的な人々が多い」、と言う論者もある(あった)らしい(p.319-320)。
 また、上の高橋義孝の定義の別の一部について、臼井吉見は1955年に、こう述べたらしい。
 「将来の世界は社会主義の方向に進むに違いないとの情勢判断に基づいて、すべての基準を、つねに将来の方向におき、そこから逆に現実を規定し、判断するという、一種独特の思考方式にすがって怪しまぬ」(p.317)。
 また、竹内は「進歩的文化人」と共産党との関係にも論及していて、「共産党神話の崩壊」によって「進歩的文化人」批判は勢いを増したが、一方で<非共産党的(進歩的)文化人>の存在感も大きくした、あるいは共産党「同伴」知識人だったものが、共産主義・共産党という中心のない「市民派」知識人が独自に出てきた(代表は丸山真男)、というようなことも書いている(p.317-320あたり)。
 そして、竹内によると、「進歩的文化人に引導を渡したのは」、保守派ではなく「ノンセクト・ラジカル」だった、ということになるらしい(p.323)。
 面白いが、しかし、「共産党神話の崩壊」とは1955年の共産党六全協での極左冒険主義批判、1956年のソ連でのスターリン批判によるものを意味するのだから、かなり古い。2015年の今日、「共産党神話」は完全になくなっているだろうか。
 また、「ノンセクト・ラジカル」とは1970年代初頭の「全共闘」またはその一部を指しているので、これまたかなり古い。「進歩的文化人」に対する<引導の渡し>は終わっているのだろうか。
 たしかに、「進歩的文化人」という言葉はもはや死滅していると言ってよいのかもしれない。清水幾太郎や丸山真男らが活躍(?)していた頃とは、時代がまったく異なる、と言える。但し、竹内も「悪いやつには怒り可哀想な人には同情する」テレビのキャスター・コメンテイターのうちに「進歩的文化人」の後裔または現代版を見ることを完全には否定していないようだ(p.306-310)。
 テレビのキャスター・コメンテイターにまで広げなくとも、上のように定義され、特徴をもつ「進歩的文化人」は、言葉はほぼ消失していても、今日でもなお存在し続けていると思われる。
 そこでの要素は、①大学の教師でなくてもよいが、一定の「知識人」層と俗世間的には見られているような人、②社会主義・共産主義を嫌悪せず、無意識的であれ<許容・容認>している人、これとほぼ同義だが歴史は一定の「進歩的」方向に進んでいると考える、又はそう進ませなければならないと考える人、③何らかの「声明」に加わることも含めて、見解・主張の発表媒体を持っている人、ということになろうかと思われる。
 最近にこの欄で取り上げた人々を例にとれば、集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明を出している憲法学者たち、特定秘密保護法に反対する声明を出していた憲法学者・刑事法学者等たちは、ずばりこれに該当するようだ。
 その場合に日本共産党との関係に興味がもたれてよい。かつては「左翼」には社会党系、共産党系、それ以外の<純粋「市民」派>とがあったと言えるだろうが、日本社会党の消滅とそれに代わる社民党の力不足もあって、相対的には日本共産党系の力が強くなっているように見える。旧社会党系の一部を吸収した非・反共産党の<民主党左派>系「左翼」もあるのだろうが、しかしかつての社会党系が日本共産党に対する独自性をまだ発揮できていたのと比べれば、今日では日本共産党との<共闘>に傾いているように見える。
 そして、上記の憲法学者・刑事法学者たち等は、日本共産党系「左翼」であり、<共産党系進歩的文化人>だと言ってよいだろう。
 日本共産党機関紙・前衛の巻頭あたりにしばしば登場している森英樹も含まれているし、逐一確認しないが、かつて紹介したことのある、日本共産党系法学者たちの集まりである「民主主義科学者協会(民科)法律部会」の会員である者が相当数を占めているものと思われる。ひょっとすれば、ほとんど全員がそうであるかもしれない。もっとも、樋口陽一のように、元来は非共産党的「左翼」知識人・学者ではないかと思われる者も声明に加わっているように、ゆるやかであれ<容共>=「左翼」の者が賛同者ではある。かつては、日本共産党又は同党系と協調・共闘することを潔しとはしない「左翼」も存在したと思うが、叙上のように、その割合は今日では相当に落ちているようだ。
 「九条を考える会」もまた、大江健三郎に見られるように、元来は日本共産党系とは言えない運動の団体だったかもしれないのだが、日本共産党の<積極的に中に入っていく>方針に添って、今日では実質的には日本共産党系の団体・運動になっていると言ってよいだろう。旧社会党系であれ「市民」派であれ、共産党との共闘を厭わなくなってきているのだと思われる(これはかつてと比べれば大きな違いかと思われる。それだけ、「左翼」全体の量が減っているのかもしれない)。
 というわけで、共産主義・社会主義「幻想」と「進歩」幻想を基本的には身につけたままの「進歩的文化人」はまだ死滅しておらず、この人たちとの「闘い」をまだ続けなければならない。
 むろんこのように言うことは、上に挙げたような人々が日本共産党員ではない「進歩的文化人」にとどまっている、ということを言っているのではない。「進歩的文化人」の中核にはしっかりと、かつ量的にも多く、「筋金入りの共産主義者」である日本共産党員が相当数座っている。本当に闘わなければならない対象は、この者たちだ。
 そして、「日本が共産主義体制になることを好まない」人で、かつ客観的には「そうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事」に気づいていない「進歩的文化人」がいるとすれば(単純に、<戦争反対・民主主義>のためだと考えている人も中にはいるだろう)、その人たちには、できるだけ早くこのことに「気づいて」いただく必要がある。このあたりは、<民主主義・自由主義・平和主義>と<社会主義(・共産主義)>との関係にかかわってもっと論述する必要があるのだが、すでに何度も触れてきていることでもあり、とりあえず、このくらいにせざるをえない。

 

1212/東京大学文学部社会学科はなぜ上野千鶴子を東京大学教授にしたのか。

 日本の大学の人事において、とくに歴史学や社会学を含む「社会系」については、その人物の「思想」・「イデオロギー」(それらによる所属団体、それらについての指導教授の「傾向」)がかなりの影響をもっているかを、この欄で何度か触れたことがある。マイナスになることもあれば、「左翼」/マルクス主義者・親マルクス主義者/日本共産党員であることがむしろプラスに働いて、これらを大学または学界における「処世の手段」として利用している者も少なくないのではないか、等をかつて記したことがある。   2007.07.06「大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?」   2009.02.06「<処世の手段>としての『左翼』/マルクス主義者/日本共産党員」。   2010.10.02「『共産党ではないが左翼』の社会・人文系学者たちの多さ」、など。

 長らく失念していたが、上野千鶴子の東京大学への招聘について、西尾幹二らが当時の東京大学文学部長と社会学科長に対して「公開質問状」を出していたことを思い出した。
 ネット上で、全文かどうかは不明だが見つけたので、再掲して紹介しておくことにする。なお、この質問状は西尾=八木・新・国民の油断(PHP、2005)に全文・経緯が掲載されているようだ。所持しているが、確認作業を節約させていただく。

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 「『上野千鶴子』問題については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で『表現の自由』と『学問の自由』は保障されていますが、表現の『評価』は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は『評価』に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の『評価』の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

 平成16年12月8日
  西尾幹二・八木秀次」

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 上野千鶴子は京都大学文学部・同大学院出身で上記の京都市内の女子短大や京都精華大学の教員だったが、突然に?東京大学文学部の助教授になった。
 上野の著「女遊び」とやらは読んだこともないが、上野のたった一つの学問的研究書と言えそうなのは同・家父長制と資本制-マルクス主義フェミニズムの地平-(岩波書店、1990)だろう。ここに見られるように、上野はたんなる「フェミニスト」またはフェミニズムの研究者ではない。「マルクス主義フェミニズムの地平」を目指して、ベルリンの壁崩壊・ソ連解体の頃以前に研究した文章をまとめて、1990年に、あの「岩波」から出版したのだった。<容日本共産党>の人物であることにもこの欄で言及したことがある。現在では東京大学を定年退官して優雅な「おひとりさまの老後」を過ごしているのだろうか。

 ところで、上の質問状からは不明だが、質問を受けた2004年度の東京大学文学部長ではなく、上野を採用することを決定した時点(1992年度と思われる)での東京大学文学部長は柴田翔であったと見られる。柴田翔とは、大学院学生だったとみられる1964年の芥川賞を「されどわれらが日々」で受けた人物。

 興味深いことに、西尾幹二と柴田翔(本名)はともに1935年の早生まれで(これは大江健三郎も同じ)、ともに東京大学独文学科で学んだ「学友」にあたる。そして、上野千鶴子問題を離れてさらに次のように思うのだ。

 失礼かもしれないが、西尾幹二は東京電気通信大学という理系の大学のドイツ語・ドイツ文学の教員だったのに対して、柴田翔は東京大学文学部教員として東京大学に残り、文学部長にまでなった。
 これまでの仕事・業績の全体を見ると、ドイツ関係に限ってすら、圧倒的に西尾幹二が柴田翔を凌駕しているのではないか。西尾幹二には「個人全集」すらある。柴田翔は芥川賞のおかげで世間的には著名かもしれないが、いったいいかほどのものを学界に残したのだろう。彼らの20歳代においても、東京電気通信大学と東京大学とでイメージされるような力量の差はなかったのではないかと思われる。しかるに、なぜ、柴田翔は東京大学に残り、その専任教員になれたのか。あくまで推測にはなるが、<思想傾向>がまったく無関係だったとは思われない。

 日本の大学というのは、「大学の自治」・「学問の自由」といった美名に隠れてはいるが、じつはかなり異様で奇妙な世界ではないかと感じている。  *後記(訂正)ー西尾幹二は1935年の「早生まれ」ではなく、同年7月生まれ。なお、大江はいわゆる<一浪>をしているので、結果として西尾と同年の入学のはずだ。

1184/久しぶりに月刊正論を読む-西尾幹二論考。

 産経新聞も月刊正論も定期購読しなくなって、かなり経過した。

 月刊正論8月号(産経新聞社)の西尾幹二「日本民族の偉大なる復興・上/安倍総理よ、我が国の歴史の自由を語れ」は、まったくかほとんどか、違和感なく読める。

 論旨の一部ではあるが、橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するコメントも-「旧日本軍だけを責めるのはおかしい、とくりかえし主張したことは正論で、良く言ってくれたと私は評価している。/ただ橋下氏は多くを喋り過ぎることに問題があった」等々-穏当またはおおむね公平な評価と批判だと思われる。

 西尾自身が自らの月刊WiLL6月号(ワック)上の論考に言及しているが、おそらく橋下徹はその西尾論考を読んでいただろう。記者の質問に対する咄嗟の応答の過程で西尾論考の基本的な内容も頭をよぎっていたのではないかと想像している。なお、質問をして橋下発言のきっかけを作ったのは朝日新聞の記者のようだ。「歴史認識」にかかわる質問をして十分な用意のないままでの<妄言>を引き出し、韓国政府・マスコミ等に批判させて日本国内で騒ぐ(そのために辞任した閣僚もこれまで何人もいた)、というのは、今回がそのまま該当するかは不明だが、朝日新聞がよくやってきた陰謀・策略的手口で、橋下徹もその他の「保守」政治家も<用心>するにこしたことはない。

 ところで、これまた西尾幹二の月刊正論論考の重要部分でないかもしれないが、そこで紹介されている渡辺淳一の週刊新潮上の連載随筆の一つ(橋下徹発言批判)には、それを読んでいなかったこともあり、あらためて驚愕した。この人物がこの随筆欄で50~60年代の「進歩的・左翼知識人」が言っていたような奇妙で単純なことを現在でも自信をもって書いているらしきことに驚きかつ呆れていたものだが、西尾はこう断じる-渡辺淳一は「日教組教育に刷り込まれた頭のままで成人して、以後人間と世界のことは新しく何も学ばずに成功し、太平楽を並べ、身すぎ世すぎができた幸福なご仁だ…」。
 西尾は「成功」と書いているが、けっこうな収入を得て有名にもなった、ということだけのことで、渡辺は日本国家・社会、日本人にとっては何事もなしてはいない人物にすぎないだろう。それはともかく、渡辺淳一、1933年生まれ。西尾幹二にも近いが、大江健三郎にも近い、私のいう、1930年代前半生まれの<特殊な世代>の一人だ。そして、西尾幹二の指摘する、「日教組教育」あるいはその基礎・背景にあるGHQまたはアメリカによる<自虐史観>教育を受け、成人後も、あるいは日本再独立後も、「人間と世界のことは新しく何も学ばずに」戦後の日本社会で生きてきた人間たちが、この世代には「塊」となってまだ残存している、と思われる。彼らは、いわゆる「団塊」世代よりもタチが悪い(大江のほかに同じく9条の会の樋口陽一や奥平康弘もこの世代だ)。
 大江、樋口、奥平あたりにはまだ「確信犯」的なところがあるだろうが、「新しく何も学ばずに」、現在で言えば、月刊WiLLや月刊正論「的」な論調があることやその正確な中身を知らず、そうした論調の一部を知るや<脊髄反射的>に、「保守・反動」だ、<偏っている>、と決めつけてしまう「単純・素朴な(バカの)」人たちがまだ多数いる。

 西尾幹二にはまだもっと活躍していていただく必要があるが、そういう人たちは、日本のためにも早く消え去っていただきたいものだ。

1133/西尾幹二全集第3巻(2012.07)・「進歩的文化人」。

  一 1 西尾幹二全集第3巻・懐疑の精神(国書刊行会、2012.07)のうち、この全集企画がなかったら「永遠に闇の中に消えて」いただろう(p.601)二篇のうちの一つ、「大江健三郎の幻想的な自我」(初出、1969)、のほか、若干を読む。この大江健三郎分析は二段組み計16頁で、決して短くはないし、引用・紹介したくなる同感点も多いが、これ以上の言及は省略する(1969年という時期にも感心する)。
 月報に、「先覚者としての西尾幹二」と題する三浦朱門の文章が載っていて、「今や進歩的文化人という言葉すら、死語になろうとしている。彼らを『殺した』犯人の一人は間違いなく西尾幹二なのである」、と結んでいる。
 やや釈然としない。西尾幹二が「進歩的知識人」と対決してきた(している)論者の一人であることは間違いないだろう。しかし、「進歩的文化人という言葉」はたしかに消滅しつつあるかもしれないが(完全に死語になったとは思えない)、言葉・用語法・概念はどうであれ、これに該当する者たちは、今日でも歴然と生き続けているのではないか。
 「今や…言葉すら、死語になろうとしている」という表現は、「言葉」とともに実体も当然に死につつある、という趣旨に読めるが、かかる認識・判断は、甘すぎるものと思われる。
 コミュニスト・親コミュニズム者、マルクス主義者・親マルクス主義者、そして「左翼」は、執拗に(かつてのマルクス・レーニン主義的用語は用いなくとも)生き続けているだろう。その影響力は、かつてよりも増した、という見方すらできるのではないか
 具体的には例えば、民主党政権、菅直人内閣総理大臣の誕生自体が、「左翼」の体制化、「左翼」の支配を意味していた(意味している)と言いうる。かつての「進歩的文化人」の主張・思想あるいは思考方法は、きちんと継承されていると思われる。
 2 産経新聞8/11の「昭和正論座」は1980年の林三郎論考を掲載しているが、コメント者の「湯」(湯浅博かと思われる)は、「ポーランドがいかに祖国の歴史を否定する勢力と闘ってきたかをみれば、日本の一部新聞や進歩派を名乗る知識人の偽善、欺瞞(ぎまん)を感じるだろう」と述べ、「進歩派を名乗る知識人」を語っている。これは1980年頃の状況に限られた叙述ではないように思われる。
 3 産経新聞7/28の「昭和正論座」は、1982年の、「崩壊した左翼的知識人の論理」を最大見出しとする辻村明論考を掲載している。コメント者の「石」(石井聡かと思われる)は、「朝日新聞の論壇時評を執筆する『進歩的文化人』にも向けられた」、「革命に同調しないものの、革命を志向する左翼学生らには理解を示す、ぬえ的な学者・文化人の“化けの皮”がはがれ始めたころの正論である」と述べている。ここでの「進歩的文化人」・「ぬえ的な学者・文化人」は、1982年当時のそれらだろう。
 二 ところで、上の最後に言及した辻村論考には、気になることもある。
 辻村明は月刊・諸君!(文藝春秋)誌上で当時、「戦後三十五年間にわたって、朝日〔新聞〕の『論壇時評』で活躍した錚々たる進歩的文化人たちを取りあげ、相当に遠慮のない批判を加えた」らしいのだが、それに対して、「論壇時評」を担当していた高畠通敏は、朝日新聞紙上で、辻村は「進歩的文化人」・「左翼的知識人」を批判しているが、「これまでのような社会主義革命を理想と考える文化人の集団などというものは、すでにはるかな昔から存在していないのである」と反論し、その例として、当時の都留重人論考を挙げた、のだという。
 以上は、それはそれで興味深い話だが、高畠の反論?に対する辻村明の再反論は適切ではないように感じられる。
 辻村は都留重人論文そのものを読んでおらず、高畠による紹介によって内容を理解しているようだ。そして、「社会主義革命に夢を託していた時代の都留氏は、確かにそこにはいないが、どうしてそのように変わったのか」、「私が批判したいことは『進歩的文化人』たちが『変わった』ということではなく、『変わった』ことについての論理的な説明がないということ」だ、と指摘して、叙述を終えている。
 都留重人論文そのものを私も読んでいないから確言はできないが、容共・「左翼」の(マルクス主義の影響を戦前のアメリカで受け、戦後当初は木戸幸一らとともにGHQに協力した等々といわれる)都留重人は本当に「変わった」のだっただろうか。まだソビエト連邦が存在していた時期に、「日本の伝統の再評価を求め」る「保守」的知識人に変わったとは、とても想像し難い。
 したがって、批判は、<変わったことについての説明の欠如>にではなく、都留重人らの「進歩的文化人」が、いかに論点を変え、いかに用語法を変えても、あるいはいかに部分的な修正を
加えようとも、本質的には<変わっていなかったこと>に向けられなければならなかったのではないか。あくまで<直感的>な感想にすぎないが。
 三 些細な問題かもしれない。が、ともあれ、上の一と二は関連し合ってはいるだろう。

1089/渡辺淳一は「南京大虐殺の記念館」について「とくに騒ぎ立てることもない」と言う。

 〇本当の狂人は自らを狂人だとは自覚しないだろう。従って、自らが狂人であるということを意識するがゆえに自らを悲嘆して自殺するということもない。
 自殺する人は、精神的に<弱い人間>と見られがちでもあるが、人間が本来もつ生存本能に克って自らの生命を奪うのだから、ある意味では<強い人間>でもあろう。別にも触れる機会をもちたいが、45歳で自死した三島由紀夫を<弱い人間>とはおそらく多くの人が考えないだろう。三島は、動物的な生存本能にまさしく打ち勝って、意識的に自らの死を達成したのだ。
 〇1970年の日本がすでに「狂って」いたとすれば、あるいは「狂いはじめて」いたとすれば、そのような日本の「狂人」状態を告発しようとした三島由紀夫は、むしろ<正常な>感覚を持っていた、という評価も十分に成り立つ。三島の「狂気」についての少なくない言及にもかかわらず。
 さて、外国軍の占領下に自らの自由意志に完全にもとづくことなく、かつまた自由意志によると装って日本国憲法を制定した(制定させられた)日本は、異常な、あるいは狂った状態にあった、とも言える。
 主権回復(再独立)後にすみやかに自主憲法を制定していればよかったのだが、それをしないまま60年もやり過ごし、「自衛戦争」とそのための「戦力」の保持を否定する憲法を持ち続けている日本という国家は、そうすると、ずっと異常で、または「狂って」いたままだった、と言える。
 そのような「狂人」国家はしかし、自死・自壊しつつあるという指摘が(古くは三島由紀夫をはじめとして)近年も多いとはいえ、生身の人間のように自殺するわけにはいかない。
 だが、そもそも「狂った」国家だという自覚がないがゆえに、人間と同様に自殺することがなく、ずるずると生き続けているのかもしれない。
 〇週刊誌、例えば週刊新潮を購入して私がまずすることは(自宅または出張中のホテルの一室で)、広告頁をはじめとして、読むつもりがない頁が裏表にある場合はそれらを破いて捨て去ることだ。
 そうしておかないと、後からするのでは面倒だし、読むに値しない無駄な記事等を読んでしまうという時間の浪費が生じる。また、全部を捨てるのではなく保存しておくためには、少しでも薄く、軽い方が、保存スペース等との関係でもよいのだ。
 そのような、まず破り捨ててしまう頁の代表が、週刊新潮の場合、渡辺淳一の連載コラム(の裏表)だった。この人の戦後「平和と民主主義」万々歳の立場の随筆は気味が悪いことが明らかだったので、ある時から、いっさい目も通さないようにしてきた(破棄の対象にしてきた)。
 だが、「南京虐殺」を見出しにしている週刊新潮3/15号(新潮社)のコラムはさすがに無視することができず、一読してしまった。
 そして、この1933年(昭和一桁後半)生まれという、私のいう「特殊な世代」に属する渡辺淳一は、やはり異様だという思いを強くした。
 朝日新聞を購読し、ときには日刊か週刊の赤旗(日本共産党機関紙)を読んでいたりするのだろう。いろいろな議論・研究があることをまるで知らないかのごとく、河村たかし名古屋市長の発言に触れて、「加害者側の日本人」は、「数字が正しいか否かより、まず、そういうことは断じてするべきではない。してはいけない…」と断言し、「南京大虐殺の記念館は、そのため〔意味省略〕の教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが」、と結んでいる(いずれもp.65)。
 この世代の人間、かつ竹内洋のいう「革新幻想」をそのままなおも有し続けていると見える人間の特徴の一つは、いつかも書いたが、自らは戦争の詳細・実態を知らないにもかかわらず、戦後生まれのより若い世代の者に対して、戦争の悲惨さ等を、自分は戦争を体験したふうに語って、説教することだ。
 渡辺淳一が<南京虐殺>について上のように書く根拠も、あらためて読むと、①「親戚の叔父さんにきいた話」では野蛮な日本軍は南京で「それに近いことはやっていた、とのこと」、②「かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていた」、ということにすぎず、「少なからず」南京「虐殺」が「あったろうと思う」と、これらから類推または想像しているにすぎない。
 大江健三郎と同様に小説家の「想像」または「創作」としては何を語ってもよいかもしれないが、重要な歴史の事実の有無・内容について、一介の小説家・随筆家が上のような程度を根拠にしていいかげんなことを言ってはいけない。
 この<不倫小説家>が歴史についてこうまで勝手に書ける日本は「自由」な国だが、週刊新潮編集部は、どの程度に
新潮社が渡辺作品によって儲けているのかは知らないが、(いつかも書いたように)いいかげんに渡辺淳一を執筆者から「外して」欲しいものだ。そして(これまた既述だが)宮崎哲哉あたりに代えてほしい。
 上の①・②だけで渡辺淳一が推論しているわけではない、とじつは考えられる。容易に推測のつくことだが、<日本軍国主義は悪いことをした>という占領期の教育を、この人は受けてきたのだ。1945年に12歳、1951年に18歳。この人はもろに、「民主主義」・「平和憲法」万々歳の教育を青春前期に受けている。
 その影響が現在でも続いていることは容易に推測されるところで(大江健三郎もまったく同じ)、そういう人たちはたいてい、数字(人数)の正確さはともあれ、「少なからず」、「南京虐殺」はあったに違いない、と考えがちだ。
 こんなことを渡辺淳一個人に対して言っても、ほとんど無意味だろうが、<教育はおそろしい>ものだ。
 だが、そういう占領期の教育(とプロパガンダ)によって、日本国民が「狂って」しまい、そういう教育を受けた教師や新聞記者・テレビ放送局員等々によって「狂った」時代認識が生まれてしまい(なお、「南京大虐殺」は蒋介石も毛沢東も言及しておらず、復活?したのは1980年以降のはずだ)、依然として「狂った」ままであるのは、国家としてはまことに由々しき状態にある。「狂った」人間が多数派であれば、とりわけ政権担当者がその中に含まれていれば、国家が「狂って」いることを、国民は意識しておらず、まるで「正常」だ、と感じ続けていることになる。
 狂人は狂人であることを自覚できない。怖ろしいことだ。

1059/雑誌・撃論3号、中川八洋と日本共産党員。

 再び撃論第3号(オークラ出版、2011.11)に触れると、先に言及した「編集部」名義の「月刊誌『WiLL』は、日本の国益に合致しているか」(p.74-)は、「民族系」という語を何度か利用していることも含めて―「中川八洋教授に寄稿をお願いした」という書き方をしているにもかかわらず―、文体が中川八洋のそれにかなり似ている。
 また、「本紙編集部」名義で書かれている原発・放射線恐怖から「正気を取り戻すための良書リスト」も(p.116-)、中川八洋は原子力問題に技術的にも詳しいこと、菅直人を「済州島出身のコリアン」と中川が別の本で書いていたと思われる表現を用いていることなどから見て、中川八洋が執筆している可能性がある。
 あくまで憶測にすぎないが、万が一でも当たっているとすれば、出版業者・雑誌編集者としては邪道であることは論を俟たないだろう。
 オークラ出版、雑誌・撃論が、興味を惹きそうなテーマを背表紙に打っての、月刊WiLLについていう「ただ『儲かればよい』一辺倒の商売至上主義」に自ら(も)陥っていないことを願う。
 さて、この雑誌上掲号には中川八洋による「脱原発」西尾幹二批判の論考もあり、中川は西尾幹二を「民族系論客」と位置づけ、「非知識人」と称し、「嘘つき評論家」、「論壇ゴロ」と罵倒し(p.91-92、p.99)、「実質的共産党員」、「北朝鮮の代言人」とも評している(p.91、p.97)。
 原発問題については分からないとしか言いようがないが、また、西尾幹二のこれまでの見解・主張の全てに同感してきたわけでもないが、このような批判・罵倒の仕方は、小林よしのりの対敵表現をも上回るかもしれないほどで、やや乱暴過ぎるだろう。
 中川八洋が「コミュニスト」・「共産党員」という断定を好んで?することは前回にも紹介したとおりで、少なくとも一部については、当たっているだろう。だが、「コミュニスト」ではなく「共産党員」という認定の正しさは、日本共産党の名簿?でも見ないと証明できないことで、厳密には推測にすぎない(そして対象人物によって確度の異なる)もののように思われる。
 そういう意味での推定にすぎないが、中川八洋が言及してはいないが、私は、たしか今年に逝去した井上ひさしは日本共産党員でなかったかと疑って(推測して)いる。
 不破哲三=井上ひさし・新共産党宣言(光文社、1999)における、不破に対する井上の「へりくだり」ぶりは尋常ではない。また、井上は、井上ひさしの子どもに伝える日本国憲法(講談社。絵は共産党国会議員だった松本善明の妻・いわさきちひろ)、二つの憲法―大日本帝国憲法と日本国憲法(岩波ブックレット)の著者でもある。政治性、マルクス主義者性を感じさせない作品等も多いのだろうが、「左翼」・憲法改正反対論者であったことは間違いなく、何よりも、大江健三郎や奥平康弘等々とともに<九条の会>の呼びかけ人だったのだ。
 井上ひさしはとくに国政選挙の際に、日本共産党を「支持(推薦)します」という学者・文化人の一人として名を出していなかっただろうか。
 「支持者」だから「党員」ではない、ということにはならない。日本共産党は学者・文化人には党の基本的な路線に矛盾しない限りでの(他の一般党員とは異なるより広い)「自由」を与え、世間・社会での名声あるいは知名度を自らのために利用してきている。
 かつて、哲学者・古在由重は日本共産党の「支持(推薦)者」の一人として日本共産党のパンフなどに名前を出していたが、この人物は最晩年まで日本共産党員そのものであったこと(党籍のあったこと)、そして原水禁運動に関する日本共産党中央との考え方の違いによって離党したか、離党させられたことが、古在由重の葬儀または「お別れの会」の世話をした川上徹の本でも、明らかにされている。

 井上ひさしも、(こちらは最後まで)日本共産党の党員だった可能性はあるものと思われる。
 世間一般の人々が想定しているよりもはるかに、日本共産党員である者は多い、と見ておく必要がある(ついでながら、今は民主党国会議員の有田芳生は元日本共産党員。父親は日本共産党国会議員だった)。
 そのような推測からすると、「国民的」映画の映画監督で、NHKが「家族」関係名画100とやらを選択させている山田洋次も、十分に怪しい。この人物は<九条を考える映画人の会>とやらの重要メンバーだが、かなり以前から、日本共産党のパンフ類に同党を「支持(推薦)」する学者・文化人の一人として名を出していたような気がする。
 そのような想いで渥美清主演映画を観ると、そうではない場合よりも違った感想も生じるのだが、今回は立ち入らない。
 少し元に戻ると、井上ひさしの葬儀の際に「弔辞」を述べたのは、先にこの欄で言及した直後に文化勲章受章者として名を出した丸谷才一だった。丸谷が共産党員だとはいわないが、「左翼」ではあるだろう。
 これに関連して続ければ、丸谷才一は素直に?受賞したが、文化勲章受章を「戦後民主主義者」であることを理由に拒否したのが、大江健三郎だった(翌年に杉村春子も拒否)。
 これは数年前に(たぶん)この欄で書いたことだが、大江健三郎は、とりわけ、自らが嫌悪する「天皇陛下」と対面して、陛下から勲章を授けられることを嫌悪し忌避したのだ、と思っている。
 再び雑誌・撃論第3号に戻ると、これには、西村真悟「沖縄戦を冒涜する大江健三郎は赤い祖国へ帰れ」も掲載されている(p.164-)。
 西村は最後のあたりで、日本に帰化した(日本人となった)ドナルド・キーンと大江健三郎を対比させ、大江に対して「あこがれの人民共和国にでも帰化し移住されたらどうか」と勧告?している。趣旨は十分によく分かる。
 日本の天皇からの叙勲を拒否し、外国の国王(やフランス政府)からの勲章は受ける、という「心性」でもって、よくもぬけぬけと日本に、日本国民として(しかもたしか世田谷区の高級?住宅地に)居住して生きていけるものだ、と感じるのは私だけではあるまい。
 雑誌・撃論から始め、最後に同じ雑誌の別の文章に触れて、この回は終わり。

1047/朝日新聞の9/21社説-「左翼」丸出し・幼稚で単純な「民主主義」観。

 朝日新聞の9/21社説(の第一)を読んで、呆れてモノが言えない、という感じがする。
 9/19の「脱原発集会」を最大限に称える社説だ。
 平然と大江健三郎の名前を出して、その言葉が印象的だなどと書いているが、大江健三郎という名が「左翼」の代名詞となっているほどだとの知識くらいは持っているだろう。同じ「左翼」の朝日新聞(社説子)にとっては、そのような、<特定の>傾向のある人物らが呼びかけた集会であることは、何ら気にならないようだ。ずっぽりと「左翼」丸出しの朝日新聞。
 この社説が説くまたは前提とする「民主主義」観も面白い。
 まず、「民主主義」を善なるものとして、まるで疑っていない。限界、さらには弊害すらあることなど、全く視野に入っていないようだ。怖ろしいことだ。
 「人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ」。
 こういう文章を平気で書ける人物は、よほどの勉強不足の者か、偽善者であるに違いない。
 また、間接民主主義よりも「直接民主主義」の方が優れている、という感覚を持っているようだ。「市民主権」論の憲法学者・辻村みよ子らと同様に。以下のように能天気で書いている。
 「国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ。/米国の公民権運動を勇気づけたキング牧師の「私には夢がある」という演説と集会。ベルリンの壁を崩した東ドイツの市民たち。直接民主主義の行動が、国の政治を動かすことで、民主主義を豊かにしてきた」。
 「プープル主権」論は間接民主主義よりも直接民主主義に親近的なのだが、その「プープル主権」論の発展型が社会主義国に見られる、あるいはレーニンらが説いた「プロレタリア民主主義」あるいは「人民民主主義」に他ならない。朝日新聞の社説は、じつは(といっても従前からで目新しくもないが)<親社会主義(・共産主義)>の立場を表明していることになるのだ。
 その次に、以下の文章がつづく。
 「日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。……」
 ここでは、「60年安保」闘争(騒擾) や「ベトナム反戦」運動が、何のためらいもなく、肯定的に捉えられている。
 さすがに朝日新聞と言うべきなのだろう。「60年安保」闘争(騒擾) にしても「ベトナム反戦」運動にしても、このように単純には肯定してはいけない。むしろ、「60年安保」騒擾は、憲法改正(自主憲法の制定)を遅らせた、戦後日本にとって決定的に重要な、消極的に評価されるべき<事件>だった、と考えられる。背後には、いわゆる進歩的知識人がいたが、そのさらに奥には社会主義・ソ連(ソ連共産党)がいて、「60年安保闘争」を支え、操った。そんなことは、朝日新聞社説子には及びも付かないのだろう。
 唖然とするほどに幼稚な「左翼」的、単純「民主主義」論の朝日新聞社説。これが、日本を代表する新聞の一つとされていることに、あらためて茫然とし、戦慄を覚える。

1038/中西輝政・ボイス9月号論考を読む-「左翼」の蠢動。

 やや遅れて、月刊ボイス9月号(PHP)の中西輝政「”脱原発”総理の仮面を剥ぐ」を読む。
 ・テレビに加藤登紀子と辻元清美がともに映っていたので気味が悪かったのだが、「そんなに私の顔を見たくなかったら」と菅直人が何回も繰り返したのは6/15で、上の中西論考によると、議員会館内の「再生可能エネルギー促進法成立!緊急集会」でのことで、出席者には孫正義と上の二人のほか、以下がいた。
 宮台真司、小林武史、松田美由紀、福島瑞穂。
 また、この集会自体が、多くの「左翼」団体共催のものだったらしい。中西輝政は次のように書く。
 「『反原発左翼』は死んでいない。古色蒼然たる護憲派左翼などとはまったく違い、…。…〔こんな〕集会に、総理大臣が喜色満面で出席して大熱弁を振るうこと自体が」異様なものだった。
 ・知らなかったが、民主党・菅直人政権の落日ぶりに「左翼」は落胆し右往左往しているとでも楽観的に思っていたところ(?)、中西輝政によると、以下の事態が進んでいるらしい。
 上と同じ6/15に「『さようなら原発』一千万人署名市民の会」の結成が呼びかけられた。呼びかけ人は以下。
 鎌田慧、坂本龍一、内橋克人、大江健三郎、澤地久枝、瀬戸内寂聴、落合恵子、辻井喬、鶴見俊輔「ら」。
 <九条の会>と見紛うばかりの「左翼」だ。そして、中西は書く。
 「多くの心ある人びと」は「左派が組織的に動き出している。左の巨大なマシーンがうなりを上げている」と「直感」するはずだ(以上、p.82)。
 ・中西輝政の上の論考は最後の節の冒頭でこう書いている。
 「すでに『戻ってきた左派』の陣営が整いはじめている可能性があるにもかかわらず、危機感という意味で、日本の良識派はあまりにも出遅れている」(p.87)。
 そのあと、「反原発」保守とされる竹田恒泰・西尾幹二への批判的言及もあるが、その具体的論点はともかくとしても、一般論として、組織・戦略・理論、いずれの分野をとってみても、保守派は「左翼」に負けているのではないか、というのは、かねて私が感じてているところでもある。
 (歴史認識諸論点も含めて)あらゆる論点について「左翼」は執拗に発言し、出版活動を続けているが、誰か<大きな戦略>を立てている中心グループがどこかに数人かいそうな気さえする。その人物たちのほとんどは(隠れ)日本共産党員で、有力な出版社または新聞社の編集者または編集委員あたりにいそうな気がする。彼らは、このテーマなら誰がよいかと調査・情報収集したりして、新書を執筆・刊行させたり新聞随筆欄に執筆させたりしているのではないか。それに較べて保守派は……。佐伯啓思は思想家で「運動」に大きな関心はなさそうだし、中西輝政はより<政治的>に動ける人物だろうが、一大学教授では限界がある。産経新聞社の何人かが、上のような<戦略中枢>にいるとはとても感じられない。日本会議とかでは<大衆>性または知名度に欠ける(この点、岩波書店や朝日新聞の名前は威力が大きいだろう)。国家基本問題研究所なるものは、櫻井よしこがいかに好人物だとしても、屋山太郎が理事の一人だという一点だけをとっても、まるであてにならない。相変わらず、私は日本の将来に悲観的だ。

1029/水間政憲・中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(2005)と大江健三郎。

 一 水間政憲・世界の金言・日本人の妄言/中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(日新報道、2005)によると、まず、「占領下に大量発生した進歩的文化人の第一号」は、宮田繁雄(画家、1945.10.14朝日新聞紙上で藤田嗣治(のちにフランスに帰化)を批判、p.33・p.39)。
 つぎに、「日本弱体化計画を推進した東大三教授」は、横田喜三郎、大内兵衛、丸山真男(p.41~)。
 法学・経済学・政治学のそれぞれ代表者が一人ずつだ。丸山真男は今日の政治学界にもなお影響力をもっているようだ。いつか、元日本共産党員・名古屋大学名誉教授(法学部、のち立命館大学政策学部教授)の田口富久治の本に言及する。
 第三に、「日本弱体化計画に貢献した言論人」として、以下が挙げられる。
 向坂逸郎、大塚久雄、久野収、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔、坂本義和、安江良介(岩波「世界」編集長)、浅田彰
 存命の者もいる、「左翼」の代表者たち。浅田彰は読んだことがない、「ニュー・アカ」とやら。
 第四に、「進歩的文化人」を「代表する小説家」として、以下の二名のみがが挙げられる。その「代表」性は著しいようだ。
 大江健三郎、井上ひさし
 二 水間の上の本は、孫引きしても直接の引用にもなるように、出典等を明確にして、「」つきで叙述・発言を紹介してくれている。以下の、大江健三郎の言葉はよく言及されるが、出典等がついた直接引用なので、役立ちそうだ。
 ・大江健三郎・毎日新聞1958.06.25夕刊「女優と防衛大生」
 「ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」。
 ・大江健三郎・週刊朝日1959.01.04号~02.22号
 「皇太子よ、考えていただきたい。若い日本人はつねに微笑しているわけではない。若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。そして天皇制という、いくぶんなりとも抽象化された問題についてみれば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」。
 ・大江健三郎・群像1961.03号「わがテレビ体験」〔…は原文ママ〕
 「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチを入れる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまり涙を流していた。それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめのないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった」。
 ・大江健三郎・厳粛な綱渡り(文藝春秋、1965)「二十歳の日本人」〔…は原文ママ〕
 「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。……それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た」。
 ・大江健三郎・産経新聞1995.04.30「ワシントンでの講演録」〔…は原文ママ〕
 「日本のいまの自衛隊は軍隊であり、憲法に違反しているから、全廃しなければならない。私たち日本人は憲法順守という方向へ向けての新たな国づくりをしま始めなければならず、その過程で自衛隊を完全になくさねばならない……。日本の保守派にはこの憲法が米国から押しつけられたものだから改正する必要があるという意見があるが、米国の民主主義を愛する人たちが作った憲法なのだからあくまで擁護すべきだ」。
 かつて小林よしのりが大江健三郎をこう評したことがあった-「もはや日本人ではないところの何ものかになっている…」。
 

1004/<日本は沖縄を侵略した>という戦後教育第一世代。

 朝日新聞を長年にわたって購読し、一時的には「義理で」などと言い訳しつつも日本共産党機関紙・赤旗(日曜版も含む)を読み、そしてNHKや一般の民間放送の報道・特集番組はときに観るが、しかし岩波・世界も産経・正論も含めて月刊論壇誌を読んで少しは詳細に世界や日本の動向を勉強したり思考したりすることはなく、世界観・社会観といえば戦後初期の学校教育の影響や1960年前後に関与した「安保反対」騒擾の頃の<反体制>的雰囲気をそのまま引きずって、<反戦・平和と民主主義>(これは昨今では反自民党・親民主党の気分になる)に染まっている、というような人々は、大江健三郎(1935-)や渡辺淳一も含めて、少なくはない(大江健三郎の場合はたんに「染まっている」のではないが)。

 この世代、小林よしのりのいう「小国民」世代、ほぼ昭和一桁後半生まれを中心とする世代は、現実の「戦争」を具体的・詳細に知っているわけでもないのに、戦中・戦後の<苦しい>体験を有していることから、それを知らないより若い世代に対して何がしかの不思議な優越感をもって?、戦争というのはこんなに悲惨なのだよ、といった説教をしたがる傾向もある。渡辺淳一(1933-)は、週刊新潮(新潮社)誌上で、しきりとそのような作業をしている。

 「戦争」を、先の対米戦争(・対中戦争?)と同一視して、日本軍国主義悪玉史観というかつてのGHQの基本方針による教育の強い影響を引きずりつつ、「戦争」一般=悪、という歴史観・社会観?をもって、こういう人々は、当然に「反戦」=善、と考える。日本国憲法9条(2項)護持の方向に傾き、改憲論者に「右」・「保守・反動」というレッテルを貼って、自らは良心的・進歩的・合理的な人間の一人だと考えがちなのも、こういう人々だ。渡辺淳一は、例の田母神俊雄論文に対して、脊髄反射的な嫌悪の感情を上記週刊誌で吐露した。

 このような人たちの中には、NHKの「スベシャル」との名の付いた歴史回顧の特集番組を見て、<日本は沖縄を侵略したのだ>などと大発見のごとく主張したりする者もいる。もともと日本軍国主義悪玉史観あるいはいわゆる「自虐」史観を持っていることもあって、中国や朝鮮半島諸国には<甘い>のがこの世代の人々の特徴だが、<日本は沖縄を侵略したのだ>という認識・理解・主張が、尖閣諸島や西表列島の侵略や、現在の沖縄県(琉球)の日本からの独立を画策していることの間違いのない共産中国(中国共産党の支配する中華人民共和国)の政策・意図を助けるものである、ということの認識はまるでない(なお、論旨は同じでないが、撃論第1号(オークラ出版、2011)所収の、中川八洋「”風前の灯火”尖閣諸島と国防忘却の日本」(p.6-)、藤井厳喜「震災日本だからこそ考える改憲と核」(p.21-)等々参照)。おそらく彼らの多くは、中国がそんなことをする筈がない、考えている筈がない、と思っているのだろう。<反・反共>意識は旺盛ながら、共産主義・コミュニズムに対する警戒心はきわめて薄いのもこの世代の特徴だ。

 この世代は、戦前から戦後への時代転換をうまく切り抜けた、あるいは<新しい時代精神>に巧みに?迎合した、いわゆる戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた、戦後第一次の世代の者たちだ。

 彼らの影響・指導を受けたのが、ほぼその次のいわゆる<団塊>世代になる。この世代を<全共闘>世代ということもあるが、<全共闘>運動の影響を強く受けた者は実際には大して多くなく、多く見積もってもせいぜい1割だろう。だが、周辺には、彼らの言うことも分かる的な、<全共闘>シンパまたはそれよりも弱い<全共闘>容認派も、大学出身者に限ればだが、半分近くはいたかもしれない。積極的な支持者または組織員の一人が仙石由人で、菅直人や鳩山由紀夫は容認派だっただろうか。

 こういう<団塊>世代が生じたのも(そして怖ろしくもそれが現在の日本政治の中心に居座っている)、その前の、戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた戦後第一次世代の者たちがいたがゆえであり(この世代は、後続世代に比べて、日本社会党支持率が一貫して高かった)、現在の日本国家と社会に対する世代的責任は、「団塊」世代よりも大きいと言わねばならないだろう(もっとも、GHQによる占領とそれに迎合した進歩的文化人・知識人よりは小さいのは確かだ)。

 「世論調査では共産党の支持率はせいぜい二~三%にすぎないのに、教科書になると九〇%を超える割合で共産党に近い見解が教えられている」(伊藤隆「日本がもっと好きになる育鵬社教科書」月刊正論(産経新聞社)2011年6月号p.228)。

 こういう怖ろしい現実があるのも、親コミュニズムあるいは容共の心性を持った日本人がなお多数派を占めているからだと思われ、その典型が、ここで言及した、戦後教育を受けた<容共>(反戦・平和の)第一次世代で、この世代がなおもしぶとく存在し、後続世代の者を性懲りもなく<説教>しようとしたりしているからだと思われる。

 西尾幹二等々、例外のあることは承知している。そのような一部?を除いて、早々に時代の舞台からご退場願いたいものだ。

 これまで書いてきたことと基本的趣旨は同じで、まるで新味はないが。

1001/読書メモ-2011年3月。竹田恒泰、池田信夫ら。

 〇先月下旬に竹田恒泰・日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか(PHP新書、2011)を読み了えているが、第一に、それぞれの「人気がある」理由を近年の(あるいは戦後の)日本は失ってきているのではないか、との旨の指摘の方をむしろ深刻に受けとめる必要があるかもしれない。

 第二に、最後(巻末対談)の北野武との対談で、北野武は、テレビではあまり感じないが、明確に<反左翼>・<ナショナリスト>であることが分かる。
 〇池田信夫・ハイエク―知識社会の自由主義(PHP新書、2008)を、今月中の、これに言及した日以降のいずれかに、全読了。一冊の新書でこれだけの内容を書けるというのは、池田はかなりの知識・素養と能力をもつ人だと感じる。ハイエク「自由主義」とインターネット社会を関連づけて論じているのも興味深い。本文最後の文章は-「われわれはハイエクほど素朴に自生的秩序の勝利を信じることはできないが、おそらくそれが成立するよう努力する以外に選択肢はないだろう」(p.200)。

 また、池田によると、例えば、ハイエクは英国の労働党よりは保守党に「近い」が、既得権擁護傾向の強い保守党に「必ずしも賛成していない」。むしろ保守党の「ナショナリズム的なバイアス」には批判的だった、という(かなり簡潔化。p.103)。こういった関心を惹く指摘は随所にある。

 〇中川八洋・国が亡びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)を先日に全読了。220頁余のこの本は、日本の亡国を憂う<保守派>の必読文献ではないか。

 「男女対等(…共同参画)」とか「地方分権」とか、一見反対しづらいようなスローガン・主張の中に、<左翼>あるいは<共産主義(・社会主義)>イデオロギーは紛れ込んでいる、そして日本の(自称)<保守派>のすべてがこのことを認識しているわけではない、という旨の指摘は重要だろう。

 思想・精神・徳性の堕落・劣化・弱体化もさることながら、「想定を超える」大震災に遭遇すると、日本は<物理的・自然的>にも<自壊>してしまうのではないか、とすら感じて恐れてしまうのだが…。
 〇高山正之・日本人の目を覚ます痛快35章(テーミス、2010)をかなり読む。月刊テーミスでの連載をテーマ別に再構成してまとめたもの。

 第一章・日本を貶める朝日新聞の報道姿勢
 第二章・大江健三郎朝日新聞の奇妙な連携
 第三章・卑屈で浅薄な大学教授を叩き出せ
 第四章・米国には仁義も友情もないと知れ
 第三章の中の一文章(節)のタイトルは「朝日新聞のウケを狙う亡国学者&政治家の罪」(p.109)。
 この部分から列挙されるものに限っての「卑屈で浅薄な大学教授」らは次のとおり。倉石武四郎(東京大学)、船橋洋一(朝日新聞)、後藤乾一(早稲田大学)、青木正児、園部逸夫(元成蹊大学・最高裁判事)、門奈直樹(立教大学)、大江志乃夫、倉沢愛子(慶應大学)、家永三郎、染谷芳秀(慶應大学)、小島朋之(慶應大学)、明日香寿川(東北大学)。

 真否をすべて確認してはいないが、ご存知の教授たちもいる。それはともかく、この章の最後の文章(節)のタイトルは「文科省が任命し続ける『中国擁護』の大学教授―『日本は加害者だ』と朝日新聞のような主張をする外人教授たち」だ。

 この中に「問題は元中国人がそんな名で教授になることを許した文科省にもある」との一文もある。
 少し誤解があるようだ。大学教授の任命権は文科省(・文科大臣)にあるのではない。旧国立大学については最終的・形式的には文科大臣(文部大臣)が任用・昇任の発令をしていたが、それは各大学の、実質的には関係学部の教授会の「決定」にもとづくもので、実際上、文科大臣・文部大臣(文科省・文部省)に任命権があるわけではない。実質的にもそれを認めれば(例えば「内申」を拒否することを文科省側に認めれば)、<大学の自治>(・<学問の自由>)の侵害として大騒ぎになるだろう。

 旧国立大学においてすらそうなのだから(国立大学法人である現国立大学では学長に発令権が移っているはずだ)、私立大学や公立大学の人事(教授採用・昇格等々)について文科省(同大臣)は個別的にはいかなる権限もない。残念ながら?、文科省を批難することはできず、各大学、そして実質的には問題の?教授等が所属する学部(研究科)の教授会(その多数派構成員)をこそが批難されるべきなのだ。

 〇久しぶりに、小林よしのりの本、小林よしのり・本家ゴーマニズム宣言(ワック、2010)を入手して、少し読む。五木寛之・人間の覚悟(新潮新書、2008)も少し読む。いずれについても書いてみたいことはあるが、すでに長くなったので、今回は省略。

0941/「戦後」とは何か③-遠藤浩一著の3。

 1963年(昭和38年)に、「文学座」分裂事件が起こり、これには三島由紀夫福田恆存も関係している。この事件は、<親中・媚中>の「左翼」で、のちに大江健三郎のそれの次の年に日本の文化勲章受賞を拒否した杉村春子が主人公のようで、「政治」と文芸(・新劇)との関係あるいは<進歩的文化人>なるものの所為を知る上でも興味深い。1963年とは、東京五輪の前年になる。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010、麗澤大学出版会)p.214-によると、福田恆存はこの1963年から翌年にかけて、「日本近代史論」を月刊文藝春秋に連載したらしい。この論考は現在刊行中の福田恆存評論集(麗澤大学出版会)には収載されていないようだ。

 遠藤によると、福田論考の内容は、次のようだ(「」はもともとの福田恆存の文章の引用部分)。

 明治以降の「近代化」は「壁なし社会」形成という成果はあるが、「大壁、小壁が存在しなくなったのではなく」、「透明な部分が多く」なりかつ「在り場所が不規則に」なっただけのこと。悪法も無視することで「存在を透明に」して「あたかも無きがごとき錯覚」を与えうる。特に戦後の日本は一九四六年製の胡乱な憲法によって拘束されているが、その歪みに対する疑念は拭われていない(「悪法は法に非ず」が安直に実現され日常化されている)。

 また、日本の国際化は国際的視野が広がったのでは必ずしもなく、「国家という大城壁が崩れ去」り「透明になり見えにくくなったという意味」にすぎない。

 さらに、大衆化現象の進展・マイメディアの発達による都市化の急速化で大都市・農村を問わず「彼等の欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」ようになった。そして自然科学の進歩や技術革新により、日本人は「悪夢の中」に「他方では限り無く美しい薔薇色の夢の中」に包まれて、「自由を束縛する壁」や「危険を守ってくれる壁」の存在が「全く解らなくなっている」。

 以上だが、なかなかに含意に富む。

 <透明化>とは近年ではよい意味で使うことが多いが、ここでは存在するのに見えなくすること(見えなくなること)の意味だ。

 ①日本国憲法制定過程・手続に大げさには「悪」があったとしても、見ても見ぬふりをする(気づいていても知らないふりをする)心性にほとんどの日本人が陥っていたのではないだろうか。また、過程・手続にのみならず内容自体にも奇妙なところがあることを意識していた者も少なくなかっただろうが、あえて言挙げする者の方が少なかったのだろう(だからこそ憲法改正は現実化しなかった)

 ②1963-64年の時点にすでに福田恆存はマスメディア等が日本人の「欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」現象を指摘している。大宅壮一がテレビによる<一億総白痴化>を語ったのは1957年くらいらしい。だが、経済成長に伴う、とくにマスメディアを通じた<消費「欲望」肥大化>・<「物質的」豊かさの追求>に対する批判的なコメントとしては、1963年頃でも早いと言えるだろう。

 ③「壁」が見えなくなっているとの指摘は、「国家」意識の減退・縮小や規律・秩序の弱体化・崩壊を意味しているようだ。

 そして驚くべきことに、上の①~③のような、福田恆存が1963年頃に含意させていたような事柄は、今日、2010年でも、基本的には何ら変わっていないのではないか。

 遠藤浩一も言うとおり、<「戦後」はまだ続いている>。

 「悪法を改めることもせず、その解釈拡大(無視)によってしのぎ続ける日本人。『国家という大城壁』を崩壊に任せたままの日本人。欲望の充足だけが政治の課題だと信じ込んでいる日本人。自らを守るものを見失ったままの日本人。何も変わっていない」(p.216)。

0911/反日声明署名者リストと最高裁の「劣化」?

 〇前々回に掲載した、2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者のリストを見ていて、種々の感想がわく(※付きは発起人)。
 大江健三郎鶴見俊輔という、歴史・日韓関係や国際法の専門家でも何でもない者が<日韓併合条約>無効と断じる声明に加わっている。二人は<九条の会>呼びかけ人として共通する。小田実、井上ひさしも、存命であれば加わっていたのだろう。

 東京大学教授・同名誉教授という肩書きが大学教授たちの中では目立つようだ。和田春樹※を始めとして、荒井献(名誉教授・聖書学)、石田雄(名誉教授・政治学)、板垣雄(名誉教授・イスラム学)、姜尚中(教授・政治学)、小森陽一※(教授・日本文学)、坂本義和※(名誉教授・国際政治)、高橋哲哉(教授・哲学)、外村大(准教授・朝鮮史)、宮地正人(名誉教授・日本史)。姜尚中も高橋哲哉もちゃんと(?)いた。大江健三郎等々をはじめ、出身大学を調べれば、東京大学関係者はさらに多いに違いない。

 東京大学所属だから、こういう声明にその<権威>を利用されるのか、それとも、東京大学所属(・出身者)には、他大学に比べて、この声明にも見られるような、一見良心的・「進歩的」な、<左翼・反日>主義者が多いのか?

 新聞・放送関係者で名を出しているのは、さすがに朝日新聞とNHKのみ。今津弘(元朝日新聞論説副主幹)、小田川興※(元朝日新聞編集委員)、山室英男※(元NHK解説委員長)。
 それに、かつて「T・K生」というまるで在韓国の韓国人からの通信文かの如きニセ記事を連載し続けていた岩波書店の「世界」の現役編集長が発起人として堂々と名を出していることも特記されるべきだろう。岡本厚※(雑誌『世界』編集長)。

 その他、佐高信、吉見義明(中央大学教授・日本史)等々の「有名な」者たち。井筒和幸(映画監督)が<左傾>していることは知っていたが、これに名を出すとはエラくなったものだ。

 〇前回に書いたことの、余滴。

 参政権の所在・参政権者の範囲といった国家の基本問題について、司法権の頂点・最高裁判所の憲法「解釈」が誤っていれば、いったいその国家はどうなるのか。現行憲法・法制度上、最も<権威>または<現実的通用力>のある「解釈」を示すことができるのは、最高裁判所だ(日本ではこう呼ばれる。国によっては憲法裁判所)。いくらでも自由に批判し、判例変更を求めることはできるが、現行憲法・法制度上、最高裁の判決には誰も法的には異議申立てができない。否定も含めて変更をできるのは、最高裁判所自ら(但し、大法廷)に限られる(是正するための訴訟・主張方法等をも井上は書いているが省略)。

 井上薫は園部逸夫が関与した平成7年最高裁判決の「第二段落」に対して「裁判史上永遠に残る大失敗」と最大級の批難の言葉を投げつけているが、そのように批判しても、いかに井上らの「禁止説」の方が憲法「解釈」として正当であったとしても、最高裁が採用した「解釈」がいわゆる<有権的>解釈になってしまう。

 政治性をも帯びた重要な問題につき、最高裁が<道を外せば>、是正には相当の、あるいはきわめて厳しい困難さが残ってしまう。裁判所・裁判官の頂点にいる最高裁判所(・裁判官)の<劣化>をも、心ある国民は懸念し、怖れなければならないのではないか。

0909/資料・史料-「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者。

 史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者

 

 日本側署名者 ※は発起人

 荒井献(東京大学名誉教授・聖書学)、荒井信一※ (茨城大学名誉教授・日本の戦争責任資料センター共同代表)、井口和起※(京都府立大学名誉教授・日本史)、石坂浩一※ (立教大学准教授・韓国社会論)、石田雄(東京大学名誉教授・政治学)、石山久男(歴史教育者協議会会員)、李順愛(早稲田大学講師・女性学)、出水薫(九州大学教授・韓国政治)、李成市※(早稲田大学教授・朝鮮史)、李鍾元※(立教大学教授・国際政治)、板垣雄(東京大学名誉教授・イスラム学)、井筒和幸(映画監督)、井出孫六(作家)、伊藤成彦(中央大学名誉教授・社会思想)、井上勝生※(北海道大学名誉教授・日本史)、今津弘(元朝日新聞論説副主幹)、上杉聡(大阪市立大学教授)、上田正昭(京都大学名誉教授・日本史)、内田雅敏(弁護士)、内海愛子※(早稲田大学大学院客員教授・日本―アジア関係史)、大江健三郎(作家)、太田修※(同志社大学教授・朝鮮史)、岡本厚※( 雑誌『世界』編集長)、沖浦和光(桃山学院大学名誉教授)、小田川興※(元朝日新聞編集委員)、糟谷憲一※(一橋大学教授・朝鮮史)、鹿野政直※(早稲田大学名誉教授・日本史)、加納実紀代(敬和学園大学教授・女性史)、川村湊(文芸評論家・法政大学教授)、姜尚中(東京大学教授・政治学)、姜徳相(滋賀県立大学名誉教授・朝鮮史)、木田献一(山梨英和学院大学院長・キリスト教学)、木畑洋一(成城大学教授・国際関係史)、君島和彦(ソウル大学教授・日本史)、金石範(作家)、金文子(歴史家)、小谷汪之(首都大学・東京教授・インド史)、小林知子(福岡教育大学准教授・在日朝鮮人史)、小森陽一※(東京大学教授・日本文学)、坂本義和※(東京大学名誉教授・国際政治)、笹川紀勝(明治大学教授・国際法)、佐高信(雑誌『週刊金曜日』発行人)、沢地久枝(ノンフィクション作家)、重藤都(東京日朝女性の集い世話人)、清水澄子(日朝国交正常化連絡会代表委員・元参議院議員)、東海林勤※(日本キリスト教団牧師)、進藤栄一(筑波大学名誉教授・東アジア共同体学会会長)、末本雛子(日朝友好促進京都婦人会議代表)、鈴木道彦(独協大学名誉教授・フランス文学)、鈴木伶子(平和を実現するキリスト者ネット代表)、関田寛雄(青山学院大学名誉教授・日本キリスト教団牧師)、徐京植(作家・東京経済大学教授)、高木健一(弁護士)、高崎宗司※(津田塾大学教授・日本史)、高橋哲哉(東京大学教授・哲学)、田中宏(一橋大学名誉教授・戦後補償問題)、俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)、趙景達※(千葉大学教授・朝鮮史)、鶴見俊輔(哲学者)、外村大(東京大学准教授・朝鮮史)、仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)、中塚明※(奈良女子大名誉教授・日朝関係史)、中野聡(一橋大学教授・歴史学研究会事務局長)、中村政則※(一橋大学名誉教授・日本史)、中山弘正(明治学院大学名誉教授・経済学)、永久睦子( I女性会議・大阪会員)、成田龍一(日本女子大学教授・日本史)、朴一(大阪市立大学教授・経済学)、林雄介(明星大学教授・朝鮮史)、原寿雄(ジャーナリスト)、針生一郎(美術評論家)、樋口雄一(高麗博物館館長)、飛田雄一(神戸学生青年センター館長)、平川均(名古屋大学教授・経済学)、深水正勝(カトリック司祭)、藤沢房俊(東京経済大学教授・イタリア近代史)、藤永壮(大阪産業大学教授・朝鮮史)、福山真劫(フォーラム平和・人権・環境代表)、古田武(高麗野遊会実行委員会代表)、布袋敏博(早稲田大学教授・朝鮮文学)、前田憲二(映画監督・NPO法人ハヌルハウス代表理事)、松尾尊兊※(京都大学名誉教授・日本史)、水野直樹※(京都大学人文科学研究所教授・朝鮮史)、三谷太一郎(政治学者)、南塚信吾(法政大学教授・世界史研究所所長)、宮崎勇(経済学者・元経済企画庁長官)、宮嶋博史※(成均館大学教授・朝鮮史)、宮田毬栄(文筆家)、宮地正人(東京大学名誉教授・日本史)、宮田節子※(歴史学者・元朝鮮史研究会会長)、文京洙(立命館大学教授・政治学)、百瀬宏(津田塾大学名誉教授・国際関係学)、山口啓二(歴史研究者・元日朝協会会長)、山崎朋子(女性史研究家)、山田昭次※(立教大学名誉教授・日本史)、山室英男※(元NHK解説委員長)、梁石日(作家)、油井大三郎(東京女子大学教授・アメリカ史)、吉岡達也(ピースボート共同代表)、吉沢文寿(新潟国際情報大学准教授・朝鮮史)、吉野誠(東海大学教授・朝鮮史)、吉松繁 (王子北教会牧師)、吉見義明(中央大学教授・日本史)、李進煕(和光大学名誉教授・朝鮮史)、和田春樹※(東京大学名誉教授)/ 総 105人

0896/大江健三郎は何を喚くか-朝日新聞6/15。

 朝日新聞6/15大江健三郎の「<これからも沖縄で続くこと>/侮辱への正当な怒りと抵抗」と題する文章(コラム)が掲載されている。朝日新聞は定期的に大江に執筆させているようで、さすがに<九条護持・親中・左翼>新聞だ。
 沖縄に駐留していた日本軍人を平然と「屠殺者」と書けた大江健三郎だから、この人の文章は警戒心を持って読む必要がある。
 相変わらず要領を得ない文章だが、結局、憲法九条の護持の主張のようだ。その前に、自然(水)保護という地球環境論の展開や安藤昌益(ルソー的思想家と肯定的に評価するばか者がいる)への肯定的言及も見られる。井上ひさしや加藤周一という「仲間」への言及もあり、加藤周一は、日本の「米軍基地を段階的に縮小し、安保条約の解消をめざす」べきことを14年前の朝日新聞に書き、それが「九条の会」にもつながっている、らしい。
 文章の最後に大江は、辺野古等の怒りと抵抗が「鎮まるとすれば、この国の根本的な方向転換が実際に見えて来る時です」(下線は実際には傍点部分)と書いているので、より具体的には何を意味するのかと読み直すと、どうやら、「九条の会」運動にもつながる「憲法の平和主義に徹底すること」か、それによって達成される何かであるらしい。
 寝惚けたご老人がまだおり、「作家」らしいその人が書いた文章を大切なものの如く掲載する新聞社がまだあるのだ。
 「平和主義」は言葉としては結構だが、中華人民共和国の軍備拡張等々や北朝鮮の核保有問題等々を抜きにして、それらにいっさい触れないままで、「憲法の平和主義に徹底すること」などとお題目のようによくぞ書けるものだと思う。しかもそれが、「この国の根本的な方向転換」と同一視されているか、そのための手段として書かれているのだから、いったい何を考えているのか、と言いたくなる。
 大江健三郎のような者たちがいなくならないと、日本国家の「根本的な方向転換が実際に見えて来る時」にはならないようだ。

0860/月刊正論5月号(産経新聞社)を一部読む。

 1.月刊正論5月号(産経新聞社)が表紙に掲げる「総力特集」は「民主党よ、どこまで日本を壊したいのか」。「日本」と「壊」だけは赤文字になっている。
 上の文の意味は私は解るが、少なくとも民主党・代表(首相)の鳩山由紀夫(その他の民主党の主流派の面々)には理解不可能ではなかろうか。
 「日本を壊」そうなどとしていない、とムキになって反論してくるのならまだマシだが、「日本」などという(偏狭な・排他的な)国家意識をこそ民主党は破壊して、「国民」ではない「(地球)市民」による共生の社会を目指そうしているのだから、「日本を壊し」てどこが悪いのか、むしろ「日本を壊したい」のだ、と開き直るのではないか。
 そういう人物には、月刊正論の表紙の言葉は、馬に念仏、蛙のツラに何とか、とやらで、何ら心に響かないと思われる。編集者を批判しているのでは(必ずしも)ない。言葉・文章でもって議論なり説得なりをしても、決して判らない、納得しない人々もいる、ということだ(判り、納得して<反省>する人が皆無ではない、ということを否定はしないが)。
 2.さて、最近の各号についての通例として、まず、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」を読む(p.254~)。
 小田実が「新手の右」と思われていた時期もあった(またはそう思っていた人も一部にはいた)こと、石原慎太郎は60年安保の頃、「江藤淳や大江健三郎などと『若い日本の会』をつくって安保改定反対の行動をしていた」こと(p.256)などは、初めて知った。
 全体としては、竹内の小田実との接触(?)体験の叙述等が生々しく記憶に残る一方で、「小田実」は「鬱と躁」をかけめぐった、というまとめ方(p.254、p.263)はあまり面白くない。個人の「心理」・「情緒」の揺れに焦点を当てて、「戦後史」全体につなげられるのだろうか、と思いもする。
 ともあれ、いずれ単行本になるだろう。まとめて読んでみたい。

 3.いくつかを一部ずつ読んだあと、石川水穂「マスコミ走査線」の連載(p.162~)。多数の新聞等をすべて読むことはできないので、こういう記事(?)は重宝する。
 これによると、高校授業料無償化につき朝鮮学校も対象とするかという問題については、全国紙社説等で朝日・毎日・読売は賛成、産経のみが反対または疑問視らしい。

 これでは全国紙レベルでは(そしておそらく地方紙も)、<世論>の勝敗はほとんど明らかだろう。青木理は週刊現代4/10号で、「日本ではまたぞろ憂鬱極まりないニュースが飛び交っていた」などと述べて産経新聞(だけ?)の主張を大きく受け止めて、感情的に反発する文章を書く必要はないのではないか。
 4.前回言及した筆坂英世の本には、日本共産党機関紙「赤旗」(日刊)の発行部数は<約130万に落ちた>旨の文章がある。
 週刊現代4/10号p.54、p.56によると、「大手」新聞各社の2009年下半期の発行部数は以下のとおり(()内は前年比?)。

 ①読売1001万(+)、②朝日801万(-14000)、③毎日373万(-96000)、④産経166万(-460000)(日経の数字は紹介されていないようだ)。
 これを信じるとすると、産経新聞の166万は、日本共産党「赤旗」130万と、あまり変わらないではないか。
 新聞では産経新聞、月刊政治(総合)雑誌では月刊正論、だけを読んでいたのでは、<KY>になりそうだ(日本国民全体の<空気は読めない>)。
 もちろん、その<空気>に、産経新聞社記者・山本雄史のかつての見解のように、<従う>必要はまったくないのだが。
 今回の文章は産経新聞(社)に対する嫌味に満ちていると感じられるかもしれない。

 5.次いで、竹田恒泰「政治家が『大御心』を語る危うさ」(p.208~)。

 これに書かれている天皇陛下等の「お考え」はおそらくは事実に相違ない、と私は感じた(つまり<女系容認>というご意向を「忖度」できない)。
 タイトルでは「政治家」になっているが、この文章の最後は、「政治家や官僚、そして学者や言論人までもが自由に天皇の大御心を語り、…を正当たらしめようとすることを、国民は許してはいけない」、だ。
 小林よしのりの名は一言も出てきていないが、最近の小林よしのりの論に対する明確な批判になっている(と感じた)。

0718/朝日新聞出版の「週刊昭和」なる毎週刊のシリーズ。

 朝日新聞出版が「週刊昭和」なる「週刊朝日百科」シリーズを毎週刊行している。
 一 №10の1965年の号では、和田春樹なる、北朝鮮問題で赤っ恥をかいてとっくに<化石>となっていたかと思っていた人物に、日韓基本条約締結について書かせている(p.22-23)。
 長年朝日新聞に貢献した「左翼」学者は、70歳を過ぎても(和田は1938.01生)原稿を書かせてもらえるのだ。
 「植民地支配に対する無反省」との見出しで始まる部分の中で和田春樹は、当初の「私たち」歴史家たちの反対理由の力点は「過去の日本帝国主義の朝鮮支配を肯定している」ことにあったとし、その後の反対運動の高まりの中での反対理由は、第一に「米日韓反共軍事同盟」が生まれること、第二に韓国を唯一の合法政府として北朝鮮を否認したこと、にあった、という。
 和田と朝日新聞に問いたいものだ。「米日韓反共軍事同盟」が生まれて、何故いけないのか。1965年時点で韓国を「唯一の合法政府」と見なして何故いけないのか。
 和田は国会での「強行採決」を傍聴していたらしい大江健三郎の文章を引用して、自らの文章を終えている。その大江の文章は次のとおり(一部。週刊朝日1965年11/26号らしい。)。
 日本という「怪物の進路」を「日本の市民」が「いくらかでも修正」できるとすれば、「北朝鮮および北京との関係を改善するため」の努力を、「強大な政府・与党に対して主張しつづけることのほかにない」。
 この当時から40年以上が過ぎた。2009年に公表される文章の中に、「北朝鮮および北京との関係を改善…」という元来は大江健三郎の語句をあえて引用するとは、いったいどういう神経をしているのだろう。和田春樹の精神世界の中では「ソ連」はまだ存在し、北京=中国と北朝鮮は<立派な>社会主義国としてますます発展しているのではないだろうか。一度取り憑いた魔物は恐ろしいものだ。
 上の大江健三郎の(和田によれば「名高い」)文章の見出しは「恐ろしきもの走る」というものだったらしい。
 大江健三郎、和田春樹ともに、「恐ろしきもの、まだ残る」と表現してあげたい。
 二 朝日新聞の船橋洋一は若宮啓文よりも文章が巧く、多少はより立体的・総合的思考をしているように見える。だが、「週刊昭和」毎号の巻頭の船橋の文章を読んでいると、<あゝ朝日新聞>と嘆息をついてしまう。
 第一に、ウソが一部にある。
 1960年に関する№13には、60年安保に関して「ついこの間まで戦犯として巣鴨にぶちこまれていた出っ歯の男が…」。
 これは岸信介のことだ。岸は「巣鴨」に勾留はされていても「戦犯」では全くない。せいぜい<戦犯容疑者>であり、かつ起訴されなかったのだ。かつての首相を「…ぶちこまれていた出っ歯の男」と形容する神経も<朝日新聞主筆>としてなかなか上品だと思うが、まずは最低限、ウソを書いてはいけない。
 1955年に関する№11には、バンドン会議(AA会議)における日本の評判・評価について、詳しくは立ち入らないが、ウソがある。
 船橋によると、フランスのジャーナリストは日本は「誰にも知られていない、知らないお客のように見えた」と書いたらしいが、船橋自身の文章として、「日本の存在は小さかった。戦争でアジアの人々に多大の苦痛を与えた。…。大きな顔はできない」等とも書く。日本にとっての<よい>こと、<嬉しい>ことは何も書かない。
 日本にとっての<よい>こと、<嬉しい>ことは何も書かない、というのは、船橋洋一の、そして朝日新聞のメンタリティとして深く、同社の<空気>あるいは<骨髄>になっていると考えられる。これ以上の具体的内容は紹介しないが、上の二つの文章にもそうした基調は確固としてあることを感じる。
 日本の過去と現在をできるだけ<悪く>見て、将来も<悲観的に>描くのが朝日新聞の<空気>であり<骨髄>である、と換言してもよい。しかも、そのことを自社や自分自身とは直接には関係のない他人の現象であるかのごとく、第三者的に(そのかぎりで「客観的」に)叙述するのも、船橋洋一、そして朝日新聞の特徴だ。
 上のことからは当然に<一面的で「偏向した」>叙述も出てくる。自虐、距離を置いた高みからの評論(「言うだけ」)、一面性こそ、「左翼」朝日新聞の、また朝日新聞系評論家の特徴だろう。
 ①1972年に関する№08の「沖縄問題」、②1973年に関する№21の「ひ弱な花、日本」、③1968年に関する№18の「暗殺―民主主義の圧殺」、④1971年に関する№20の「ニクソン・ショック」などにおいて、上に述べたことは明瞭に感じられる。
 船橋は、上の③で、「40年後、…。その日本もまた、非寛容と排他的民族主義が一部、噴き出しつつある」と書いている。
 ジャーナリズムは「ナショナリズムの道具じゃない」と喚いたのは若宮啓文だったが、船橋洋一においても「非寛容」な「排他的民族主義」はまず第一に闘うべき「主義」らしい。
 上の④では、35年以上後の「2008年秋」に言及して、「日本国内には」「自公政権に対する世論の苛立ちと不満は高まった」と断じる。
 三 こうした<昭和史(戦後史)>ものの影響力を無視してはいけないだろう。岩波や朝日新聞刊の必ずしも一般的には読まれない「左翼」学者たちの文献よりも、ヴィジュアルな毎週刊の<昭和史(戦後史)>は多数読まれているように推察される。そして、写真をめくったあとで文章を探すと、巻頭には現在にまで筆を及ぼす「左翼」・船橋洋一の長くない文章が堂々と付いているのだ(中ほどに、和田春樹の文章があったりすることもあることは上にも述べた)。
 全てを逐一、詳細に見たわけではない。だが、朝日新聞はしぶとく、執拗に、「左翼」の空気を撒き散らすものだとあらためて思う。

0686/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その5。

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)の前々回の続きを読む。「憲法の正当性とは何か」という節の最終部分。p.162-4。高校までの社会科教科書の引き写しのような防衛大学校長・五百旗頭真の叙述と相当に異なる、という以上の感想・コメント等は記さない。
 ・日本人は「戦後、…結局、革命を経験しなかった」。「敗戦による自失」のゆえであったにせよ、ともあれ、フランス型の「革命による正当性」をもつ「国家体制をつくる道を選ばなかった」。とすれば「国家体制の正当性」は「イギリス型の歴史の連続性」によるしかない。そして「ともかくも戦後憲法は、この連続性を辛うじて保持しようとした」。それが幸か不幸かは不分明だが、「幸い」だったとすれば、それは「天皇制度を維持し、何とか普遍的人権という言葉を回避した」こと、「連続性を最低限度確保した」ことだ。「不幸」だったとすれば、「事実上、普遍的な権利の思想を持ち込み、普遍的な『人』と、歴史的な『国民の断想』を、憲法の中にほとんど無自覚に持ち込んだ」ことだ。それにより、「歴史的な連続性」は「ただ見かけだけ」になり、「憲法の正当性の実質的根拠が失われかねない、という深刻な問題が持ち込まれた」。
 ・「天皇制度の存続と国民主権の間には、ロジカルな矛盾がある」。日本側は両者の「二本立て」を日本の「国家体制」と考えたようだが、「ロジカルに調和」はしない。共産党の野坂参三はこの「両立不可能」性を執拗に指摘して「これは憲法ではなく小説だ」と述べた。
 ・「天皇主権か国民主権か」を決せよと主張しているのではなく、「現行憲法の歴史的条件」について「改めて注意を喚起したい」だけ。「この憲法に内在する困難こそが、わが国の近代史そのもの」なのだ。
 ・アメリカやフランスも、「戦後独立」して憲法を初めて制定した国家も、「愛国心(国民意識)」を基礎にして「人」の「普遍的権利」と「国民」の主権を謳うことができた。「日本の歴史」は「そのどちらとも違う」。憲法を自ら創出する「愛国心」も、革命により「共和制」を樹立する「市民」も、「あの時期にもちえなかった」。「天皇制度と人民主権の間の対立は、完全に解消されることはありえない」。この「アンビバレンツは、近代以降のわれわれの国家体制の根底をなして」おり、逃れることは「残念ながら不可能」だろう。
 ・大江健三郎は近代日本の「あいまいさ(アンビギュイティ)」は日本が「前近代的、封建的要素を温存して来た」ことに由来する、と講演した。これは間違っている。
 ・「憲法に即して言えば、その正当性の基礎として、…革命的な断絶も、また歴史的な連続もどちらも完全には採用しきれていない」。換言すると、「どちらも必要とした」。「封建的なものが残存」というのではなく、「前近代的な」ものを残すことによって「辛うじて」「正当性を確保」しているのだ。これは憲法だけの問題ではなく「近代日本社会の宿命」のようなものだ。この宿命のあるかぎり、「アンビバレンツ」は「アンビギュイティ」として残る。「この宿命から容易に逃れることはできないのだとしたら、われわれは『アンビギュイティ』を手なずけ、飼い馴らす方策を学ぶ以外にないだろう」。
 以上。上の文章をもって「Ⅰ・近代への懐疑」は終わり、「Ⅱ・戦後日本の再検討」へと移っていく。

0669/2009年2/15(日)午後の某テレビ番組における小牧薫と高嶋伸欣。

 2/22ではなく2/15(日)午後の読売系「そこまで言って委員会」。沖縄住民集団自決問題で、田嶋陽子が相変わらずバカを晒していたが、珍しいと思われる「左翼」団体の事務局長と「左翼」大学関係者が登場していた。
 事実を知りたいだけ、とか、イデオロギーとは無関係、とかぬけぬけと言っていた。嘘をつくな、恥を知れ、と言いたい。以下の「」は録画を見ながらの引用。
 まず、小牧薫。大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会事務局長。
 ・「過去の日本軍のことを考えても、軍隊は住民を守らない、国民を守らない。国民を守るのは警察であり、消防だ」。
 「過去の日本軍」のことが現在の「軍隊(・自衛隊)」に一般的にあてはまるような、論理的にも間違った主張だ(「過去の日本軍」の諸問題を肯定しているわけではない)。警察・消防で外国軍の武力侵入・武力攻撃から国民を守れるかどうかを論じること自体愚かなことだ(だから、こんな点には立ち入らない)。かかる<反軍隊>意識は、事実にもとづかない、<イデオロギー>以外の何物でもない。「自衛隊」は他国から国民を守るのではなく、外国に戦争を仕掛けにいく組織だ、という先入観・偏見も、ためらいなく述べていた。
 ・戦後日本が「直接外国から侵略を受けたことがなかったのは、まさしく憲法九条があったからだ」。
 こうした考え方の持ち主を、たしか井沢元彦によると<憲法真理教>信者とでもいうのだろうか。
 テレビに出てきて以上のようなことを躊躇せずに発言できるというのは、ほとんど内輪・仲間うちの見解や議論だけを詳しく知っていて、異なる主張・見解もあるということを観念的には知っていても具体的にはそうした異論と接したことのない、子供のように無垢な<左翼>なのかもしれない。明らかに60歳を超えていて、上のような理解に凝り固まっているとはなかなか珍しい、ある意味では「幸福な」お方だ。
 ついで、高嶋伸欣。琉球大学名誉教授。別の教授の本(岩波だ!)を援用しつつ、戦後・講和時の日米安保条約を対等なものから従属的なものにしたのは昭和天皇の意見・示唆による、とその本を信じたらしく語った。なぜ昭和天皇はそういう意見だったのかにつき、高嶋はこう言った。
 ・「朝鮮半島まで共産勢力が出てきた」ことを考えると、沖縄も含めて米軍は自由な立場で動いてもらわないと日本は「共産勢力の脅威にさらされつづける」、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」、その脅威が重くのしかかっていた。
 事実関係も問題だとしても、気になったのは、この人は、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」と言い切ったことだ(「陛下」との敬称は当然にない)。つまり、日本国家・国民ではなく自分を中心とする「天皇制」維持のみが、あるいは少なくともそれが最大の、昭和天皇の関心事だった、と言ったわけだ。
 ここには昭和天皇に対する畏敬の念などがある筈もなく、昭和天皇は<天皇制>維持を最優先したエゴイスティックな人間だった、という心象の表明があるように感じられる(なお、そもそも、この高嶋伸欣個人は、かつての「共産勢力の脅威」と米国との安保条約をどう考え、どう評価しているのか??)。
 あえて他人の本をとり上げて昭和天皇批判(と言ってよいだろう)をテレビでするのもどうかと思うが、それはかりによいとしても、<昭和天皇に対する(何らかの)怨嗟>を背景にして、この高嶋は上のような発言をした、と感じられる-このような意識の教授が琉球大学(国立)にはほとんどだったのかもしれない(いや、今でも?)。自分たちに都合のよい本・研究書だけはちゃんと利用し、宣伝することも含めて-。
 <反軍隊>心性とともに<反天皇>心情もまた、古典的・典型的な「左翼」意識の証左だ。
 以上のことは、沖縄住民「集団自決命令」問題とは直接には無関係に語られている。この問題については、上の二人ともに「(日本)軍の強制あり」という理解・主張だ。上のような基本的な心性・心情・意識の者は、簡単にこの説に飛びつくだろう。何が「事実を知りたいだけ」、「イデオロギーとは無関係」だ。嗤ってしまう。

0668/サピオ3/11号と小林よしのりのいう「少国民世代」。

 一 サピオ3/11号(小学館)。特集「みんな偽善だ!」のうち、勝谷誠彦「年越し派遣村」、野村旗守「日本共産党」、井沢元彦「朝日新聞」をまず読んだ。
 井沢元彦は最近の若宮啓文の著書を扱い、「あまり読む価値がない」との感想のよう。その若宮の本のなかで若宮は、9条改憲論にはそれなりの意味があると社内で発言したら改憲派と見られて社内で警戒されたとか書いているらしい。朝日の社内の異常さはなるほどと思わせるが、若宮自身の発言はホンマかいな、というところ。対一般向けの本であるために、釈明・自己弁護の意味もある程度はあるのではなかろうか。
 二 小林よしのりの「天皇論・第四章/天皇は神だったか」を次に読む。
 この欄で複数回、1930~1935年生まれは独特の世代だと書いたことがある。それは、戦後の<教科書墨塗り>を含むGHQ占領下での(アメリカ歴史観・戦争観による)教育を受けたために独特の意識・心性が生まれた、という趣旨だった。1945年の時点で、彼らは10~15歳。1948年の時点で、13~18歳。まだ素直で感受性の強い成長期にGHQ占領下教育を受けたのだから…、という趣旨だった。
 小林よしのりは、おそらくはほぼ同じ独特の世代である旨を、戦後の占領期教育を受けたことにではなく、すでに戦前に(戦前期でも独特の)「少国民教育」を受けたことに求めていて、なるほどと思わせ、すこぶる参考になる。
 天皇を「神」と記述する小学校教科書が現れたのは1939年以降1945年夏まで。そうした教育内容が戦後になって否定されたために、「少国民教育」を受けた世代は天皇や国家に「懐疑的になった」(p.64)、という趣旨を小林は書いている。
 私は同時に昭和一桁後半(1930~1935年)生まれは<左翼>が多い旨を書いたつもりだったが、小林よしのりもおそらく同旨のことを描いている。
 小林よしのりは、「少国民教育」を受けた世代=「少国民世代」とは厳密には「国民学校」に通った経験のある世代=「大東亜戦争中に小学生だった世代」だとし、具体的には次の者らを明示する(p.63、()内は小林が示す終戦時の年齢)。
 筑紫哲也(10)、大江健三郎(10)、井上ひさし(10)、田原総一朗(11歳)、本多勝一(13前後)、大島渚(13)、野坂昭如(14)、半藤一利(15)。
 また、西尾幹二(10)、石原慎太郎(12)も挙げつつ、「戦後の価値観の変化による影響が少なく」、「珍しい方だろう」とする(p.64)。
 これらの人々は同時に戦後の占領期教育を受けたこともまた間違いない。樋口陽一も1935年生まれで、上の書き方をすると樋口陽一(10)、ということになる。また、週刊新潮(新潮社)誌上で例えば田母神俊雄論文に対して単純素朴な「左翼」教条的反発を書いていた渡辺淳一も1933年生まれで、渡辺淳一(12)。
 むろん個別の例外はあるだろうが、戦後生まれのいわゆる「団塊」世代や、明治・大正生まれ世代とは、上の世代はやはり独特な、ある意味ではきわめて可哀想な世代だ。山中恒(14)は「昭和一桁生まれは、その子ども期に対して憎悪さえ抱いている」等と書いて、(小林の造語だろうが)「うらみつらみ史観」に嵌っている、という(p.73)。
 小林も示唆するように、問題は、現在、大正生まれ世代が少なくなり、昭和一桁世代が多く雑誌・新聞等に登場し、本当は時代(戦中・戦前)や戦争に関する表面的な経験的知識しかないかにもかかわらず、後知恵付きの「戦争」観、「軍隊」観を書いたり喋ったりしていることにある。
 三 1930~35年生まれ、又は「少国民世代」は現在、70歳を超えている(前者を基準にすると74歳~79歳)。
 月刊諸君!3月号(文藝春秋)の投書欄にあるのであえて特定個人名を挙げないが、ある投稿者(71歳)は次のようなことを書いている。
 2月号(諸君!)で片山杜秀が「戦後の青春を謳歌したいまの七十代、あの辺が”戦犯”です」と言っているが、「まさにその通りだ」。「…墨で塗りつぶされた教科書で育った世代ですから、歴史を沈黙に付す『後知恵』がついていると批判されても仕方ない」。「我々の世代は、江戸時代から引き継がれた日本的な遺産を捨ててしまった不幸な人種」だ、等々(p.272)。
 「九条の会」呼びかけ人として大江健三郎らとともに名を連ねている憲法学者(元東京大学)奥平康弘は1929年生(16)、小田実は1932年生(13)、不破哲三は1930年生(15)、永六輔は1933年生まれ(12)、マルクス主義歴史学者と思われる脇田修は1931年生まれ(14)、等々。やはりこの世代の特徴又は独特さを語りうると思われるのだが…。 

0664/佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)を読む・その3。

 一 佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)は、丸山真男にも言及する(つづき)。
 p.176以下。1970年前後に全共闘学生の攻撃対象になったのは丸山真男のような「穏健左翼」で、「最高の権威に守られた安全な場所」での「民主主義こそ大事」論は「左翼の偽装」・「欺瞞」だとされた。この時期以降、丸山は東京大学を辞職し「社会的に発言」しなくなる。
 上の点はともかく、丸山真男によると、日本が近代国家でなかった最大の証拠は「天皇が、政治的主権者であると同時に宗教者である」ことにあった。「西洋近代国家」の主権者の「価値に対して中立的」という「最大の要件」を充たしていない。あの戦争の開始も天皇主権(・民主主義の不在)と無関係ではない。「民主主義と天皇主権国家は両立」せず、「戦後日本」が「民主主義に生まれ変わったことはすばらしい」。従って、つねに「八・一五」に立ち返るべきだ。民主主義が成熟すれば日本はもう戦争を起こさないだろう。
 かかる趣旨の丸山真男論文(「超国家主義の論理と心理」)は「戦後民主主義の理論的支柱」となり、「弟子の政治学者」や「大江健三郎」らを含めた「進歩的文化人」を生み出した。
 だが、と佐伯啓思は続けるが、相当に省略する。佐伯は吉田満(・戦艦大和の最期)に言及しつつ、丸山真男は公式的「戦後民主主義、平和主義」の立場からの「悔恨の共同体」論だったのに対して、吉田満が示したのは、戦争の善悪はともあれ、「死んでいった若者たちに、われわれは非常に多くの何かを負っている」という「負い目の共同体」という考え方だ、とも述べる。
 ちなみに、今回の冒頭にいう「穏健左翼」の中には、日本共産党(員)も、丸山真男が支持していたと見られる日本社会党も入っていた。丸山の「悔恨の共同体」論からすると、戦死した若者たちは間違った戦前の<(騙された)無意味な犠牲者>になるのだろう。また、佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)は、もう少し専門的に?より詳しく丸山真男に論及している。いつかの機会に紹介する。
 二 佐伯啓思は「八・一五」(こういう言い方を彼はしないが)前後の歴史にも言及している。そして、言い古されたものもあるが、また議論がなお必要な論点もあるだろうが、佐伯自身の文章で書かれていることに、やはり注目しておきたい。
 ・アメリカはポツダム宣言や初期の対日占領政策文書では「日本国民の自由意思」に日本の最終政治形態は委ねるとしつつ、降伏文書では日本の主権はGHQに属する(subject to)とする。この二重性は日本国憲法にも表れており、形式的には明治憲法の改正手続によりつつ(日本国民の意思によると見せかけつつ)、「実質的には、GHQがつくり上げたものに」 なった(p.198)。
 ・そもそも「根本的に問題」なのは、主権を制限された国家が「いずれの形であれ憲法を持つことができるのか」、だ(p.197)。
 ・東京裁判の法的根拠は「マッカーサーの指令」にあり、「東京裁判そのものが占領政策の一環」だった。
 ・さらに厄介なのは日本が講和条約で「アメリカの歴史観を受け入れたとみなされている」ことだ。同条約11条の「…を受諾し」は、「諸判決」の「履行まで義務づけ」る(=拘禁刑受刑者をただちには解放しない)という意味で、「東京裁判の全体なり、東京裁判を支えている歴史観を受け入れたわけでは、毛頭ない」。にもかかわらず、日本は「アメリカの歴史観」を認めたことに、諸外国がそう見なしただけでなく、「何となく」、「日本自らも…みなしてしまった」(p.202-3)。
 ・上のことが「現在に至るまで、様々な問題を引き起こしている」。主権回復後、憲法改正も再度の裁判も可能だったのに、しなかった。日本人なりに「あの戦争の意味づけや解釈や批判的な検討もすべきだった」のに、しなかった。「占領期という特異な期間をそのまま承認」し、「その特異な産物である憲法もそのまま認めてしまった」。それどころか、「進歩的知識人も、保守系の政治家も」「日本は民主的な平和国家に生まれ変わった」、と言い出した。「自分たちでそうだと思い込んでしまった」、「そのことが現在でもわれわれの上に、非常に重たくのしかかっている」(p.204-5)。
 以上の文章を読んで、あらためて慨嘆する。ほとんど同じ世代の佐伯啓思にも私にも、そして「団塊」世代にも、実質的な<責任>は全くない。やや広く1946~1951年生まれを「団塊世代」というとしても、彼らが(我々が)成人を迎えた=有権者たる20歳になったのは、早くて1966年であり、占領期、同時期内での日本国憲法の制定、同じく東京裁判、サンフランシスコ平和(講和)条約、「戦力」ではない「自衛隊」発足、さらには所謂55年体制の成立、「60年安保」、1965年の日韓基本条約締結等に、実質的には(意見表明・選挙権行使等によって)関与することを全くしていない(なお、田母神俊雄は1948年生まれで狭義でも「団塊」世代)。
 すべてが、じつは明治後半から大正時代生まれの者たちによってなされた(昭和元年生まれの者でも敗戦の年にようやく20歳だ)。日本人先輩はそれぞれに苦労したのだとは思うが、敗戦後60年を経ても残っている課題があり、それらについて現在でも「国論」が分裂しているのは、到底正常な事態だとは思われない。せめて、自主的な憲法制定(・日本軍の正式認知)でも1960年代の前半までにしておいてくれれば、その後の政治の様相は大きく異なったに違いない。そして、だからこそ、日本社会党は過半数の議席を取れなかったが、憲法改正阻止のためには必要な1/3以上の議席を日本社会党(等の「護憲」政党)に与え続ける、その理論的支柱となり又は大衆的雰囲気を提供した<左翼・進歩的知識人>(多くの大学教授を含む)や朝日新聞等の<左翼・進歩的>マスコミの果たした役割は歴史的に見ても<きわめて犯罪的だった>とあらためて思う。
 三 最近関心を持つのは、論者たちが現在の日本に続く近未来の日本をどう予想しているか、だ。佐伯啓思はこの本の本文を、次のように述べて終えている。
 「日本の愛国心」とも言える「近代日本が宿命づけられた悲劇の感覚」を「絶えず想起する」ことはできるし、想起する想像力をもつ必要がある。「それさえあれば」、まだ「日本の愛国心」は「か細くも脈々と受け継がれていくように思われる」(p.224)。
 「それさえあれば」という条件つきの、「か細くも(脈々と)」とは、かなり悲観的な表現ではなかろうか。
 潮匡人・やがて日本は世界で「80番目」の国に堕ちる(PHP、2008.12)の最後の文章はこうだ。なお、日本は戦後の国連に80番目に加盟した。
 「日本は今後『衰退の一途を辿る』。やがて世界で八〇番目の国に堕ちる」。田母神俊雄が「暗黒の時代」の到来を身をもって示した如く、田母神論文の主張の正しさを「日本は身をもって示すに違いない」(p.221)。
 ここで言及されている昨秋の田母神俊雄論文の最後の二文はこうだった。
 「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」(田母神俊雄・自らの身は顧みず(ワック、2008)所収p.228)。
 潮匡人が悲観的又は絶望的な一文で終えているコラム的文章を二つほどは読んだような気がするが、上の本の末尾でも、楽観的な部分は全くない。
 他の論者については別途触れることがあるかもしれない。
 ともあれ、このような鬱陶しい時代状況の下で<老後>に入っていくとは想像していなかった。個人的にもひどく鬱陶しい。

0652/佐伯啓思・国家についての考察、小熊英二・<民主>と<愛国>、西尾幹二・真贋の洞察等。

 一 全読了している佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)の帯・右側に記載されている「本書目次」は次のとおり。
 序章 なぜ「国家」を論じるのか
 第一章 現代日本の国家意識
 1 「戦後的なもの」の溶解
 2 「世界市民主義」とは何か
 3 逆立ちした国家意識
 第二章 「二重言説」の戦後日本
 1 保守と革新の作り出した構図
 2 「公式の言説」と「非公式の言説」
 3 近代日本の宿命

 第三章 戦後民主主義という擬装
 1 民主的主体という擬装
 2 「戦後」という欺瞞
 第四章 国家をどう理解するか
 1 近代的国家のロジック
 2 継続性の中にあるロジック
 第五章 国家論の構築に向けて
 1 ナショナリズムとは何か
 2 「われわれ」意識のロジック
 3 均衡体としての国家 
 4 誰が国家の「担い手」か
 5 「公」「私」、そして「国家」
 ついで、帯・左側の関心惹起?のための文章は次のとおり。大きな「「国家」への思考停止から、「国家論」の構築へ!」という文字の上に並ぶ。
 「「戦後」の時空間の中で、国家への考察を徹底封鎖し、その結果、主体性・価値観・魂を喪失した日本および日本人に、戦後日本の思想的営為の「歪み」を鋭く指摘しつつ、「国家意識」についての再考、「国家論」の構築を促す、画期的な書き下ろし論考」
 この本のごく一部、朝日新聞社説に批判的に言及して論を進めている部分については、昨年12月に5回に分けて紹介・コメントした。
 二 上のような書き写しをしたのは、佐伯の書物の中でも、最も基礎的な主題を論じた、最も好ましいものだと感じているからだが、それは別としても、実際よりももっと幅広く読まれてよい本だという印象を強くもつからだ。
 佐伯啓思は昨年に日本の愛国心(NTT出版、2008)という本を出した。
 異論・疑問が全くないわけではないにせよ、非常に優れた、刺激的な(論争誘発的でもある)本だ。
 にもかかわらず、簡単な書評を若干見かけただけで、この本が大きな論争を巻き起こした、ということはなかった。上記の『国家についての考察』もおそらく、世間的にはあるいは少なくとも論壇においてすら、あまり注目されなかったのだろう。
 どこかおかしい。その理由の大きな一つは、朝日新聞や同社的なマスメディア(・雑誌)が、佐伯啓思の本を完全に無視しているからではないか、と思われる。朝日新聞等が大江健三郎・加藤周一(昨年死去)・井上ひさしらの本を取り上げ、コラムを書かせているのとは対照的で、彼らは絶対に言及しない、コラム執筆も依頼しない著者・評論家・学者のリストを作っているものと推察される。
 世情を賑わし、大部が売れたいくつかの本よりも、佐伯の例えば上の二つの本をじっくりと読んだ方が、深く、理論的な思考にはるかに役立つ。
 どこかおかしいのだ。言論統制に近いものは、国家によってではなく、出版社・新聞社が自らによって行っているのが実態だろう。自分たちに気にくわない思想・主張は無視する、封殺する、これが朝日新聞等のやっていることだ、と思う。
 三 朝日新聞社系の雑誌・アエラの最新号で、立ち読みの記憶だから正確ではないかもしれないが、姜尚中が政治(・思想?)関係の書物を30ほど推薦している記事があった。
 佐伯啓思・西尾幹二らの本が挙げられているはずはない。姜尚中の自著いくつかの他、丸山真男(二つ)、フーコー(二つ)、大江健三郎、加藤周一<この二人は九条の会発起人>等々が挙げられていた。さすがに「左翼」新聞社がご愛用の「左翼」学者だと感じたものだ。
 こうしたリストアップを中庸で正統的なものと信頼して購読する真面目な?読者もいるのだろうから怖ろしい。
 姜尚中がリストアップした推薦書の中には、小熊英二・<民主>と<愛国>(新曜社)があった。
 先日1月4日に西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋)に言及して、経済史学者・大塚久雄を皮肉る(批判する)部分等を紹介したが、その部分等は、じつは、小熊英二のこの本を西尾が論評する中で書かれたものだった。
 西尾による小熊英二著批判の表現は数多いが、このような紹介もなされている。
 「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、埃を払い、茣蓙を敷いてその上にずらっと並べて天日に干して、もう一度眺められるようにお化粧直しする」(、そんな本だ)、「若い読者はこれが戦後の思想史のトータルな姿だと思うだろう。たまに保守派の名を出しても、…脇役か刺身のつま、あるいは左翼進歩派の論を補強する引き立て役としてである」(p.87)。
 西尾の同じ論考によると、小熊英二の上の著の索引での言及頁数が多いのは、次の順らしい。多い方から、丸山真男、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、江藤淳、小田実、石母田正、荒正人、大塚久雄、清水幾太郎(p.85)。この中で保守派といえるのは江藤淳と晩年の清水幾太郎だけだろう。これら以外で頻出する「左翼・進歩派」(といっても一枚岩ではないが)は、小田切秀雄、本多秋五、井上清、網野善彦、中野好夫、久野収、国分一太郎、鶴見和子、中野重治、南原繁、宮本百合子、宗像誠也、大江健三郎(p.88)。
 あくまで西尾の言を通じてではあるが(小熊の上の本の古書は高価で購入していない)、このような内容の小熊の本を姜尚中は推薦しているのだ。
 姜尚中自身の推薦リストですでに明白なことだが、姜尚中もまた「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、…お化粧直し」をしたいに違いない。
 こんな姜尚中が、朝日新聞系の枠にとどまらず、昨年末のNHK紅白歌合戦の「審査員」を務めたらしいのだから、NHKも、日本社会全体も、気づかないままに、発狂・崩壊への道を静かに歩んでいる。
 *追記-前回に追記した日以降のアクセス数が、1/16にさらに10000余増加した。

0644/田母神俊雄、小林よしのり、田久保忠衛=櫻井よしこ、大石眞-読書メモ。

 〇田母神俊雄・自らの身は顧みず(ワック、2008)を先日に、全読了。
 収録されている問題の論文はこの本で僅か14頁(実質13頁、16行×38字×13頁=7904)で、8000字、400字原稿用紙20枚、200字詰めだと40枚に満たない。この程度の論文がなぜこんなに大騒ぎになるのか不思議だし、また、既述のとおり、この程度の字数で<戦後民主主義>の「空気」に染まっている人々の考え方・意識を変えられるとは思えない。
 むろん田母神は応募しただけで、そんな大それた気持ちはなかっただろう。また、少しずつでも身の回りに同調者又は同一問題意識保持者が増えればよいわけだ。自分の認識を整理してまとめておく機会としても利用したのだと思われる。
 産経新聞紙上「正論」で、桜田淳がいかに内容が正しくても方法等が拙劣、他に論ずべき課題がある旨、と田母神に批判的だ。後者の批判はいわゆるないものねだり的で全く的確ではない。過去のことではなく現在ある危機を論じよと桜田は主張するが、あれもこれも、いろいろなことが大切なのだ。懸賞論文のテーマに応じて制限枚数内で書いた論文を<現在そこにある危機>を見ていない、と批判するのは(今時の政治情勢・意識情勢との関係でも)適切とは思えない。
 桜田淳は、即日の更迭→退職決定をどう考えるのか、田母神論文に対する朝日新聞等のヒステリックな反応をどう考えるのか、等については全く触れていないのではないか。この人の頭はそのかぎりで、ポイントを外しているようだ。
 田母神の上の本の逐一の感想は以下を除き、省略。
 日本の防衛(軍事)産業にも触れている。きちんと育成して、アメリカから高価な兵器等を買わざるを得ない状況を脱するべきだ、と感じる。<財政再建>にも役立つではないか。むろん、日本の<自立>のためでもある。ついでに、最近の雇用情勢との関係では、武器輸出(外国への販売)を認められた産業となればかなりの雇用者・従業者が必要になり、雇用対策・失業対策にもなる。こんなことを書くと、福島瑞穂的・辻元清美的「非武装・平和主義者」は、目を吊り上げるのだろうなぁ。
 〇小林よしのり・ゴーマニズム宣言NEO(ネオ)1(小学館、2008.12)を数日かけて全読了。
 かなりの部分はサピオ等ですでに読んで(見て)いる。
 1.大江健三郎のことを思い出す。「『沖縄ノート』は究極の差別ブンガクであり、大江健三郎は究極の偽善者である」(p.76)。
 2.以前に「言論封殺魔」という語で誰を指しているのか不明瞭だったのたが(「現役官僚」だけがヒントだった)、佐藤優であることが分かった(p.135~)。議論・論争に立ち入らないが、小林よしのりは敵の多い人だろうとも感じる。にもかかわらず自説に正直でかつ率直に表現できるのは大したものだし、羨望しもする。彼自身がそれだけの地位を占めている、とも言える。
 3.小学館は、井沢元彦や小林よしのりに紙面を提供し出版元となって、朝日新聞・岩波書店的メディア・出版社と一線を画すことを決断しているかに見える。ある程度は(又はかなり?)勇気のいることだ。その勇気は貴重で、称えたい。「左」に擦り寄って挫折する可能性があるのは講談社ではないか。
 きちんと見ていないので正確には書けないが、文藝春秋(株)は本誌のほか、最新の月刊諸君!でも、田母神俊雄論文を擁護する(少なくとも問題提起としてきちんと受け止める)誌面づくりをしていないようだ。諸君!を毎号買っていたのは今年の前半のいつ頃までだっただろうか。当面は諸君!を買わない(読まない)。
 ついでに、新潮45(新潮社)は編集長が替わったようで、以前よりも魅力的になっている。もっとも、(新聞の広告面で)執筆者の一人に保阪正康がいるのを見て購入する気がなくなった。
 4.小林よしのりの上掲本によると、保阪正康は「蛸壺史観」の持ち主で、「蛸壺史観」とは、「ひたすら日本の内部にだけ目を向け、なぜ無謀な戦争に至ったのか?と、内部の『犯人探し』に終始し、贖罪だ、反省だと言い始める歴史観」のことをいう(p.213)。
 小林によると、保阪の最近の新書(朝日新書+保阪となると私は購入する気が全く生じない)には所謂GHQ史観を「素直に受け入れ」「相応に納得して」生きてきた旨が書かれているらしい。
 1945年に10歳~15歳だった1930~1935年生まれの人々は<特殊な>世代だと書いたことがある(大江健三郎、樋口陽一等々はここに入る)。1939年生まれで終戦時満5歳、占領下の小学校教育を受けた保阪正康も上に近い世代だろう。
 むろん生年と世代が決定的だと主張しているわけではない(上の<特殊な>世代に西尾幹二もいる)。だが、GHQの史観とその政策(・教育)方針を批判できなかった占領下に育ち、その時代の教育を受けた、ということは、すでに少なくとも<何となく左翼>になるだけの素地を身に付けた、ということを意味する、と私は考えている(「団塊」世代は、占領下に生まれても、学校教育を受け始めるのは再独立後だ)。
 5.小林が『月刊日本』2008.06月号に載せた論文も収録されている。これはたぶん古書で買ってしばらくのちに読んでいた。
 マンガでは「無名評論家」とか書かれて、名前すら紹介されずに批判されているが、上の論文では「山崎行太郎」と明記されている。山崎は有り難く思わないといけない。
 もう一度書いておくが、山崎行太郎とは、2006年の前半に自己のブログで当時の安倍晋三首相を「気違い」と呼び、改憲の姿勢を「気違いに刃物」と形容した(無名の)<文芸評論家>だ。
 <保守的>らしい雑誌名称の「月刊日本」の編集部は何を考えているか知らないが、この山崎行太郎が「保守」である筈がない。小林よしのりの追記によると同編集部は小林の議論は「軍命令」の存否という「大局の見えていない議論」に終始して「本誌の狙いからは外れてしまった
」と書いたらしい(翌07月号)。キミョウな月刊雑誌があるものだ。
 6.チベットとウィグル(東トルキスタン)に関する二話は最近のサピオ連載外のもので、読み(見)ごたえがある。日本人の中にある中国(中国共産党)をできるだけよく見たいという感情・心性はいっいたどこから来ているのか、と改めて訝しく感じる。朝日新聞記者等が<工作>の対象になっていない、とはむろん言い切れない
 〇田久保忠衛=櫻井よしこ・国家への目醒め(海竜社、2008.12)の、田母神俊雄論文への言及が始まるp.218からその章の終わりのp.258まで計40頁だけ読んだ。
 〇先週あたり(先々週?)から大石眞・立憲民主制(信山社、1996)を読み始め、p.62まで進んでいる。最近の本ではないが、読みやすく、概念の説明がしっかりしている。辞典的に使えなくもない。既出の論文を再掲しているらしい最後の章を除くp.123までを読み終えたい。
 以上、読書メモ。読書三昧の生活をしているわけでは全くない。

0612/宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1993)を一部読む。

 一 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房)を見ていると、唖然とし、驚愕する。
 この本は1950年第一版、1954年改訂版、1973年新版で、深瀬忠一(元北海道大学)補訂の新版補訂は1993年が第一刷。長きにわたって出版されたものだ。補訂は「最少限の補正」にとどまる(p.2、深瀬)とのことなので、以下すべて、宮沢俊義自身の考えが述べられていると理解して紹介する。
 ①民主主義と自由主義-「自由主義」とは、「個人の尊厳をみとめ、できるだけ各個人の自由、独立を尊重しようとする主義」。「特に国家の権力が不当に個人の自由を侵すことを抑えようとする主義」。
 国家権力による個人の自由の不当な侵害を防止するには、「権力分立主義」採用のほか、「すべての国民みずからが直接または間接に、国の政治に参加すること」が必要。すなわち、「国家の権力が直接または間接に、国民の意思にもとづいて運用されること」が必要。このように国家が「運用されなければならないという原理」を、「特に、民主主義」という。
 「つまり、自由主義も民主主義も、その狙いは同じ」。「いずれも一人一人の人間すべての価値の根底であるという立場に立って、できるだけ各個人の自由と幸福を確保することを理想とする主義」。
 「消極的」な国家権力の不当な干渉の排除の側面が「自由主義」で、「積極的」な個人の国政参加の主張の側面が「民主主義」。
 「両方をひっくるめて、ひろく民主主義といっても、さしつかえありません。ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味です」。
 以上、p.11-12。
 ここでは、まず「自由主義」と「個人主義(個人の尊厳)」が同義のごとく語られ、これに仕えるのが「民主主義」だとの理解も示される。そして、消極的・積極的と区別できるが、「民主主義」と「自由主義」は「狙いは同じ」で、一括して「民主主義」と言って差し支えない、とされる。
 呆れるほどに、<自由主義・個人主義・民主主義>は渾然一体のものとして説明されている、と評してよいだろう。
 ②民主主義と平和主義-「平和主義というものは、結局は、民主主義の外に対するあらわれにすぎませんから、これを、民主主義とまとめて、いってもいいでしょう」。
 これは、p.88。宮沢において、「平和主義」も「民主主義」の一種又は顕れの一つなのだ。
 ③民主主義と平等-「民主主義」は「人間の自由」・「人間の個性」を尊重する。「民主主義」は大勢の「人間を、みな同じように尊重」する。「民主主義が、平等を原理とするというのはこれです」。
 これは、p.89-90。ここでは、「平等」原理も「民主主義」によって説明されている、と言ってよい。「平等」原理自体が、「民主主義」の内容の一つなのだ。
 かくして、以下の叙述も出てくる。
 ④「民主主義」は「自由および平等の二つの原理にもとづく」結果として、「民主主義における自由」は「わがまま」・「放縦」を意味しない。「民主主義」はすべての人間が「平等な価値」をもつものと考えるので、「人間の自由は、他の人間の自由において、限界をもっている」。p.90。
 「民主主義における自由」という語も奇妙だとは思うが、「民主主義」・「自由」・「平等」の三者がほとんど一体のものとして説明されている。
 二 諸「理念」又は諸「主義」をそれぞれ関連づけあいながら説明すること一般を否定・批判しはしないが、上のような宮沢俊義の叙述は、いささか、いや過分にそれが酷(ひど)すぎるのではないだろうか。
 以上のような説明では、民主主義・自由主義・平等主義・平和主義の違いは明瞭にならないのではないか。
 それそれが循環論証的関係にあるか、又は結局は「民主主義」がその他のものを内包している関係にあると理解されているようだ。
 「ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味」、すなわち「民主主義」と「自由主義」を一括したものだ(p.12)という説明の仕方が典型的だろう。
 法学部生向けの教科書ではなく一般国民むけの「入門書」だからといって、このようなヒドさは看過できないはずだったものと思われる。
 そして、このような内容の本が当時は現役の東京大学法学部の憲法担当教授によって書かれていたということに唖然とさせられる。この人は、東京大学所属の憲法研究者でありながら、諸概念を厳格に定義することのできていた人なのだろうか。
 また、大江健三郎が自分は「戦後民主主義」者だという理由で、昭和天皇名による叙勲を拒否したことにも何となく納得がいく。これの決定的な理由は(既述のように)大江は昭和天皇の前に立つ度量・勇気がなかったということだと思うが、大江における「戦後民主主義」とは、「自由主義」・「個人主義」・「平等」原理・「平和主義」をすべて含んだものだったのだろう。私が理解している「民主主義」とは異なる。そして、それらすべてと矛盾するかに彼には思えた天皇の存在・天皇制度の存続自体が彼には許されなかったのだろう(自衛隊もそうだろうが)。
 東京大学教授・宮沢俊義の単純・素朴な叙述から同大学出身の「高名な」作家・大江健三郎に思いを馳せてしまった。

0578/小林よしのり・(一五、六流の自称評論家)山崎行太郎と月刊日本・産経新聞。

 一 月刊日本2008年6月号小林よしのり「『月刊日本』読者様へのご挨拶」を読む。
 沖縄集団自決・大江健三郎に関する内容に異論はない。
 最初の見出し「保守思想家を名乗る気などございません。」は、一五、六流の自称評論家・山崎行太郎から「論争から逃げるような打算的な保守思想家に保守思想家を名乗る資格はない」と書かれたことへの反応のようだ。どう見ても山崎行太郎と<論争>をする意味・必要性はない。半分以上は歪んで倒錯している人物と対論・対話が成り立つ筈がない。
 二 「保守思想」といえば、小林よしのり・パール真論(小学館、2008)は西部邁の「保守思想」を疑っている(p.82あたり以下)。
 西部邁の諸君!2008年1月号論文(私も当時に読んだような気がする)は小林の言い分の方が優っているが中島岳志の<日本の保守派は安易にパール意見書を利用しすぎた>旨の指摘は当たっているところがある、というような印象のものだった。
 小林よしのりは丁寧に西部邁の論述をフォローして、「新説珍説」・「デマはこうやって膨らんでいくものだという実例」(p.76)、「混乱の極みに達する」(p.79)、「思想家の思い上がりもここまできたかと嘆息をもらす」(p.80)等々と厳しく批判し、西部邁の文章の一部の正確な引用と思われる「その講和で『政治的みせしめを甘受することにした』ということで話を御仕舞いにしなければならないのだ」という部分についてとくに、これはA級戦犯は犯罪者だと甘受せよというに等しく、靖国神社分祀論等の「サヨクの術中に落ちるだけ」とし(p.83)、西部邁に対して「保守思想家としての実績という財産すべてをドブに捨てることになりますよ」と忠告し(「もう手遅れか」とも。p.87)、次のようにまとめる。
 「西部邁は、たかが自分におべっかを使ってくれる中島岳志を守りたいという私心を満足させるために……国の恩人〔パール判事〕を誹謗中傷した」。「代わりに言うことが『東京裁判の政治的見せしめを甘受して御仕舞いにしろ』だ。これで保守思想を強化したつもりなのか。/わしは一抜けた。金輪際『保守派』になど分類されたくはない」(p.88)。
 「『保守派』になど分類されたくはない」という部分は、上記の「保守思想家を名乗る気などございません」という言葉のつづきのようだ。
 中島岳志の本を読んでいないし(所持はしている。その頁数の少なさ(薄さ)、1/3~半分がパール判事の文章の引用という内容的な薄さ、研究書とはとても感じられないことが印象に残る)、上記の西部邁論文もうろ覚えだが、小林よしのりの言いたいことはよく分かる。つまり、<東京裁判の甘受>を<保守思想家>が主張してよいのか?。<東京裁判史観の甘受>こそが戦後日本を覆った<左翼・親米>イデオロギーのもとではないのか?
 日本に<保守>論壇又は<保守>派というのがあるとすれば、小林よしのりのような有能な人物に、「保守思想家を名乗る気などございません」・「わしは一抜けた。金輪際『保守派』になど分類されたくはない」などと書かせることは(外野席からながら)非常に拙(まず)い、と思われる。
 なお、西部邁は表現者という隔月刊雑誌(イプシロン出版企画)の「顧問」の一人で(もう一人は佐伯啓思)、毎号「保守思想の辞典」というのを連載している。こういう<保守>中の<保守>の論客らしき人物が、その「保守思想」性を疑問視されているのだから(しかも相当に根拠はあると私は感じる)、なかなかに(外野席からながら)面白い。
 三 元の月刊日本の小林の文章に戻ると、最後の方にこうあるのが印象に残る。
 「わしは『月刊日本』をお金を払って定期購読している。これ以上、山崎〔行太郎〕の愚にもつかない左翼擁護を見たくもないから、編集長がこれを続けるというのなら定期購読を打ち切るつもりだ」(p.54)。
 山崎行太郎がこの雑誌上で対小林よしのり闘争宣言を書いたらしいという程度のことしか知らなかったが、山崎は沖縄集団自決に関して大江健三郎擁護そして反小林でどうやら3回連載したらしい。また、なんと、上記の6月号にも「山崎行太郎の『月刊・文芸時評』第49回」というのが掲載されていて、「『南京問題』も『沖縄集団自決』も、そして他の様々な問題において、どんなに多くの証拠をかき集めたところで、真偽の最終決着はつかない。せいぜい、発言や証言や告白の自己矛盾を指摘することができるだけだ」(p.133)などとアホなことを書いている。
 山崎において南京<大虐殺>はあった、のであり、「沖縄集団自決<命令>」もあった、のではないのか?という疑問がまず生じるが、上のように「真偽の最終決着はつかない」と述べるのも誤っている。まっとうな・合理的判断能力をもつ大多数の人びとによって<真偽>の決着がつけられる問題はあるし、上記の例はそのような問題だろう(ここでの<真偽>の決着とは、訴訟上・裁判上のそれを意味させているつもりはない)。将来において大多数の人びとによって<真偽>の決着がつけられた問題に、歪み倒錯した山崎行太郎は一人で、いやおかしい、と叫び続けていればよいだろう。
 やや回り道をしたが、月刊日本という雑誌はどう見ても<保守派>の、又は<保守的>傾向の雑誌だが(その他の執筆者の名を見ればすぐに分かる)、なぜこの雑誌は山崎行太郎などという<左翼>の一五、六流の自称評論家を使っているのか、不思議でしようがない。「編集・発行人」は、南丘喜八郎、という名前になっている。ときどきは購入しようかと思ったが、山崎行太郎が毎号出てくるのでは(今回は知らなかった)、とても購入する気にならない。
 四 なぜ(半分は倒錯し歪んだ一五、六流の自称)評論家・山崎行太郎を使うのだろうと感じるのは産経新聞も同様で、産経新聞の6/15には山崎の「私の本棚」というコラム的なものが載っている。
 産経新聞は<左翼>に(も)活動の場を提供している。山崎行太郎が「勧進元」の意向次第でどのようにでも動く「思想」性の欠如した融通無碍の人物である可能性もある。
 だが、上のコラム的な文章の中で山崎は、親大江健三郎気分を明記している。また、近年の対大江・岩波自決「命令」名誉毀損損害賠償請求訴訟に関しても原告たちを揶揄し大江を守ろうとしてしいる。さらに、何といっても、この人物は、1年ほど前に、当時の安倍晋三首相について<気違いに刃物>と自分のブログで明言して、反安倍の妄言を吐き続けていたのだ。
 朝日新聞等々のまともな?<左翼>メディアに相手にされなくなって、山崎行太郎は月刊日本や産経新聞に「拾われ」たのだろうか。あるいは、産経新聞(・月刊日本)は山崎行太郎ごときに原稿を依頼しなければならないほど、執筆者不足に陥っているのだろうか。
 五 安倍晋三首相について<気違いに刃物>と言っていた(とくに憲法改正への重要な権限を与えられていたことを指す)人物が堂々と産経新聞紙上に登場してくるとは、やはりこの世の「終わり」、日本の「自壊」は近い、と感じてしまう。
 月刊日本(K&Kベストセラーズ)や産経新聞(社)(の関係者)は<頭を冷やす>のがよいと思う。

0572/樋口陽一のデマ2+櫻井よしこの新しい本+小林よしのり編・誇りある沖縄。

 〇櫻井よしこ・いまこそ国益を問え―論戦2008(ダイアモンド社、2008.06)はたぶん半分程度は既読のものをまとめたもの。数えてみると70ほどの項目があったが、見出しに「皇室」・「皇太子妃」を含むものは一つもない。
 この1年間の<国家基本>問題又は「国益」関係問題としては、対中国、対北朝鮮、これらにかかわる対アメリカや台湾問題の方がはるかに重要で、福田首相問題、(日本の)民主党問題もこれらに関係する。地球温暖化防止のための日本の負担の問題、公務員制度改革問題、さらに「道路改革」、集団自決・大江「沖縄ノート」等々と、櫻井よしこの関心は広い(にもかかわらず、「皇室」・「皇太子妃」に言及がないのは<静かにお見守りする>姿勢なのだろうと思われる)。
 〇小林よしのり・誇りある沖縄へ(小学館、2008.06)の最終章「『沖縄ノート』をいかに乗り越えるか」とまえがき・あとがきを読了。
 曽野綾子の本が初版は「巨塊」で増刷中に「巨魁」になった(p.189)というのは本当だろうか。私の持っているものは「巨塊」だ。小林はサピオ(小学館)では山崎行太郎を無視しているが、ここでは「オタク的言い掛かり」などと言及している。
 まえがきで小林よしのりが、大江健三郎の「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との文(大江・沖縄ノート)に「しびれる~~」と書いているが、似たような趣旨の文章をどこかで読んだ気がした。
 思い出した。樋口陽一の、同・自由と国家(岩波新書、1989.11)の最後のつぎの文章だ。
 「その名に値しようとする憲法研究者=立憲主義者は、立憲主義―その起源は西欧にあるが、しかし、くり返すが、その価値は普遍的である―を擁護するためには、彼の、あるいは彼女のナショナル・アイデンティティから自分自身を切りはなすだけの、勇気とヴィジョンを持たなければならない」(p.215)。
 「普遍的」な「立憲主義」を擁護するために、憲法学者は、自らの「ナショナル・アイデンティティ」を捨てる(「自分自身から切りはなす」)「勇気とヴィジョン」をもつ必要がある、つまりは、式上は日本国民であっても<日本人>たる「アイデンティティ」を捨てよ、と樋口は主張している。
 これは、大江健三郎のいう「このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえること」ではないだろうか。
 だとすれば、反日・亡国・日本国家「帰属」嫌悪者は、似たようなことを(いずれも相当にわかりにくく)言うものだ。
 すでに触れていることだが、「ナショナル・アイデンティティ」(日本国民意識・日本国家帰属意識)を「勇気とヴィジョン」を持って「切り離す」こと求めるこの樋口陽一の主張を、<樋口陽一のデマ2>としておこう。

0556/サピオ6/11・6/25の小林よしのり、1998年の小浜逸郎の本-沖縄・大江健三郎。

 〇やや遅いが、サピオ6/11号(小学館)。小林よしのりは、私は見ていない(その予定もない)映画「靖国」を観て書いて(+描いて)いる(p.55-)。
 靖国神社のご神体を知らず、かつ「剣」と「(日本)刀」の区別もついていない、要するに<神道>一般に関する知識のない中国人監督の作ったものものだから、その「作品」のレベルも容易に想像がつく。もっとも、恥ずかしくも、三種の神器の一つでもある「剣」(諸刃でまっすぐ)と「日本刀」(片刃で反っている)の区別を私も知らなかったのだが。
 そういえば、胡錦涛がちょうど来日していて東京宿泊中の夜に、NHKの「クローズアップ現代」は、<表現の自由>への圧迫問題として、この映画問題を取り上げたのだった。司会者・国谷裕子が一生懸命、上映中止圧力は<表現の自由>への圧迫ですよね、とコメンテイターに質問していたが、希望にそった回答ではなかったことを記憶している。
 ネットで調べてみると、コメンテイターは吉岡忍。この人は、少なくとも、<単純な左翼>ではなさそうだ。
 また、この放送(5/07)の意図は、「去年末の週刊誌記事で"反日的"と指摘されたことをきっかけに、国会議員向けの試写会、右翼の街宣活動、さらにネットでの抗議活動などの"見えない圧力"へと波紋が拡大。映画館は相次いで上映中止を決定し、「表現の自由」をめぐる議論が巻き起こった。その後名乗りをあげた映画館も妨害活動などを警戒し、緊張した空気の中で準備を進めている。なぜ中止は広がったのか、公開までに何を乗り越えなければならなかったのか、関係者の証言や配給会社の密着取材などをもとに検証。『靖国』をめぐる波紋が、いまの社会に何を問いかけているのか、考えていく」と書かれている(NHKのウェブサイト内。現在時点で読めた)。
 NHKは下請けに相当程度任せているのだろうが、国費による助成の当否には全く触れていないこのような制作「意図」は、中立的・客観的と言えるだろうか。
 〇同じくサピオ6/25号(小学館)。小林よしのりは、沖縄集団自決訴訟や大江健三郎に触れている。
 ①私は大阪地裁判決の全文を読んでいないが、小林は読んだのだろう。同感できるところが、少なくない。
 とくに、大江が岩波新書・沖縄ノートを初めて刊行した時点では、日本軍(隊長)による「命令」があったと信じた合理的根拠がかりにあったとしても、その後30年以上の間、反証も出てきたり実際に訂正・削除した本もあったりしたのにそのまま刊行し続けた合理的根拠こそがさらに問われる必要があった旨の指摘はそのとおりだ。しかし、小林によると「裁判長は、今後の出版について、何も触れなかった」のだという。
 ②小林によると、15000超の大江支持の署名が沖縄から(大阪地方)裁判所に届けられた、という(p.58)。法的判断の枠組みの中での心証形成過程にこうした「外圧」は影響を与える可能性がある(それを実証するのはほぼ不可能だが)。それ以上に、結論それ自体に早々に影響を与えていたのだとすると、この訴訟の地裁の裁判官たちは自ら、憲法上保障された「独立」を放棄していることになる。
 第二次大戦や沖縄問題について、戦後教育の<優等生>の裁判官たちがまともに(幅広く)勉強している筈がない。裁判官たちの殆どは<何となく左翼>の心性から仕事の経歴を歩んでいると見てほぼ間違いない。この人たちが明瞭な<左翼>、そして<アジア諸国や沖縄地域への贖罪意識>の持ち主ならば、いくらまともな法的議論をしても無駄になるだけだろう。控訴審を担当する裁判官たちがまともであることを期待する。
 ③小林によると、岩波書店は、判決後に大江・沖縄ノートを増刷したのだ、という(p.59)。岩波は大江とともに被告だったが、名誉毀損等の疑いがかけられている(但し、基本的には損害賠償請求の要件の一つとして)というのに、無神経で傲慢なものだ。この岩波書店に<良心的>などという形容詞を絶対に使ってはならない
 ④小林は、大江・沖縄ノートを「究極の差別ブンガク」だと規定する。「土民」・「屠殺」といった語が平気に使われているということもある。
 小林いわく-「すでに大江は日本人ではないところの何かになっている!」(p.61)。
 現在73歳の大江健三郎は<晩節を汚しまくっている>のだが、そうとも知らずにいずれ死んでいくのだろう…。
 〇もう1カ月ほど前に読んだ部分だが、小浜逸郎・いまどきの思想、ここが問題。(PHP、1998)の第二章にあたる、「自虐するあいまいな私―現象としての大江健三郎批判」(p.36-61、初出・月刊正論1995年5月号(産経新聞社))は、読み応えがあり、大江という人物の理解・分析のために参照されてよい、と思う。
 要約はしない。印象に残った文章を一部省略しつつ、列挙しておく。
 ①「晦渋な文体と教養主義的な観念の連鎖によって埋めつくされた、驚くべき饒舌の合い間にいつも露出しているのは、…押しつけがましくかつ単純な、サヨクの政治主題以外のものではなかった」(p.42-43)。
 ②ノーベル賞という「より普遍的な」賞は受け、文化勲章という「村落的」栄誉を拒否することで、「自分が『日本国家』という村落よりも優位なところに立っていることを示そうとした」(p.46)。
 ③大江は、「日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省」を行うべきだが、していない、と言った(p.54。岩波新書・あいまいな日本の私所収の講演録にあるようだ)。〔何という自虐!、あの戦争についての何という対米批判意識のなさ!〕
 ④「内に向かっては…無責任に日本国家を批判して自分の反体制的スタンス」を示す一方で、中国・韓国からの日本非難に対しては「たちまち日本国家の罪を自分の罪であるかのようにひっかぶってみせること」により、「少しも自分が日本国家から自立していないことを暴露している」(p.55-56)。
 ⑤大江はある時期から、「核や障害者やエコロジーといった倫理的主題」によるしか「文学的活路」を見いだせなくなり、彼の「天才的な空想力は、これらの主題の奴隷として酷使」された。かくして、大江作品は「物語としても面白くなくなり、表現や文体も、みずみずしい初発の文学的感性の欠落をただ教養主義と饒舌で覆い隠すためだけのようなこけおどしの性格をますます深めていった」(p.59-60)。
 以上。なお、小浜逸郎の姓はオバマではなくコハマ。上記の本のタイトルの末尾の「。」は、原書のまま。

0535/中国共産党の「欺瞞」的外交・情報戦に負けるな-中西輝政。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)のつづき(最後)。
 中国共産党系工作員だった者(=「中国共産党の国際的秘密工作ネットワーク」と結びついていた者)は、スメドレー、ラティモア、セオドア・ホワイトらで、直接にコミンテルン工作員だった者(=「より直接にモスクワのコミンテルンと結びついて」いた者)は、ハリー・ホワイト、ロークリン・カリー、ハーバート・ノーマンだった。前者のネットワークを中西は「チナミンテルン」と称する。
 上の二つのうち、第二次大戦末期には国際共産主義ネットワークのイニシァティブは中国共産党(中共)にあった。アメリカ政府内のコミンテルン工作員の多くは50年代にモスクワではなく北京に逃げた。戦後の日本共産党の伊藤律・徳田球一らの逃亡先もソ連ではなく北京だった。1952年の札幌での白鳥事件に関与したとされた日本共産党員も中国に渡った。2000年逮捕の重信房子も、日本と北京の間を極秘に往復していた。
 近衛内閣のブレインでゾルゲ事件に連座して投獄された西園寺公一は、戦後に参議院議員になったのち北京に「移住」し、「日中国交回復」の旗頭となり中国共産党から「人民友好使者」の称号を付与された。
 ここで挿むと、本多勝一、大江健三郎、立花隆が中国政府(南京「大虐殺」記念館を含む)から厚遇されたことはすでに触れた。これも既述だが、日本の政治家、マスコミ関係者、学者等々に対して、今日でも何らかの「工作」が続けられていることは明らかだと思われる(「工作」とそれに「嵌(はま)る」という意識が生じないことこそが巧い「工作」だ)。共産主義者の本質は、陰謀・謀略・策略・嘘・嘘・…にある
 中西輝政は次のように上の点をまとめている。論文全体の最後ではないが、紹介はこれで終えておく。
 「今日なお共産党一党独裁を維持し、…卓抜な外交手法で世界の資本を引きつけ、そして『冷戦は終わった』といいながら歴史問題で『ブラック・プロパガンダ』を展開して日本国内の分断、さらには日米の分断を謀る中国共産党の言動が、いかに欺瞞に満ちたものかを認識し、中国の仕掛ける『歴史問題』という名の外交・情報戦に対処しなければ、日本は単なる敗戦にとどまらず、いよいよ国家としての存立が危ぶまれることになりかねない」(p.315)。

0533/堀田力「戦争だけはいけない」文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号は「いけない」。

 1 報道によると、北朝鮮は5/30に、黄海南道沖の黄海で、短距離ミサイル1発を発射した。これは中国と朝鮮半島の間の海域だが、対日本に照準を合わせたミサイル基地があり、日本海で、また日本列島を越える、ミサイル発射(実験)を行ったことがあることは衆知のこと。
 報道によると、中国は5月下旬、最新鋭潜水艦に搭載予定の弾道ミサイル(SLBM)の発射実験を朝鮮半島西方の黄海で行ったらしい。この国も日本に向けたミサイル発射台を設置している。また、朝鮮半島、ベトナム、インドで実際に「戦争」をしたことがあるのは衆知のこと。チベット、ウィグル等の支配はかりに「戦争」の結果ではないとしても<武力>行使によることは明らかだろう。
 2 ところで、日本語には、英語の定冠詞・不定冠詞にあたるものがない。また英語には名詞に冠詞をつけない場合もある。
 日本で、<戦争だけはいけない>、<戦争はしてはならない>、<戦争を繰り返してはいけない>等々の言葉をしばしば読んだり聴いたりするが、この場合の「戦争」とは、the のついた<特定の>戦争なのだろうか、a の付いた漠然とした一つの(結局はすべての)戦争なのだろうか、冠詞のない一般的に戦争そのものを指しているのだろうか。
 戦争体験者が<二度とごめんだ>、<もう繰り返したくない>とか発言している場合の他に<戦争反対>の旨をより一般的な形で述べていることは多いのだが、厳密には、その場合の「戦争」とは<あのような>戦争、つまり昭和20年までの昭和時代に行われた特定の戦争のことを指しており、絶対的な反戦感情の吐露ではなく、一般的な<戦争反対>論を述べているのではない、ということが多いのではないか、と感じてきた。
 そのような<特定の(自分たちがかつて経験したような戦争>(の反復)に反対という意思や感情を、一般的な反戦感情として報道してきたのが戦後のマスメディアであり、利用してきたのが<反戦>を主張する<左翼たち>ではなかっただろうか。
 <反戦>それ自体は殆どの人が合意できるかもしれない。誰も戦争勃発、戦争として攻撃されることを望んではいない。
 だが、戦争を仕掛けられたら、つまり日本列島が何らかの軍事力によって攻撃されたら(又はされようとしたら)どうするのか? 国土・人命・財産に対する莫大な損失の発生を座視して茫然と見ているだけなのか。国家としての任務はそれでは果たされ得ないのではないか。
 3 文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号(2008.07)の<大特集・日本への遺言>の中にある堀田力「戦争だけはいけない」(p.139~140)は、基本的に誤っている。
 タイトルや第一文の「絶対に、戦争はしないでほしい」は、何となく肯定的に読んでしまいそうだが、上記のとおり、ここで堀田のいう「戦争」とはいったいいかなる意味のそれなのか、という問題がある。
 堀田はまた最初の方で、第二次大戦敗戦のとき「もう日本人は二度と戦争をしようとは思うはずがないと確信した」と書いていている。元検察官・現弁護士の堀田ならば、「第二次大戦」の際の日本の「戦争」のような「戦争」のことなのか、「戦争」一般のことなのかを明確にしておいてほしいものだが、どうやら<特定の>戦争から出発して、「戦争」一般、つまりすべての「戦争」へと拡げているようだ。
 上のことの根拠を、堀田は「世界に、もう戦争は要らない」ことに求めているようだ。堀田は言う。
 ①「体制の優劣を決する冷戦は、共産主義体制の敗北が決まり、もはや体制間の戦いを暴力で決着する必要性は消滅した」。
 また、こうも書く-②「独裁国であっても、その経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行するという、歴史によって証明された法則がある」。
 この二つの認識又は理解・主張はいずれも間違っている。又は、何ら論証されていない。
 ①について-欧州における「共産主義体制の敗北が決ま」ったとかりにしても、アジアではまだ決着がついていない。専門家・中西輝政も書いているし、私も何度も書いた。冷戦終了こそは、まさに中国の(陰謀的)主張でもあることを知っておく必要がある。第二次大戦後も実際に「侵略」戦争をし、また軍事費を膨張させながら、60年以上の過去の日本の「軍国主義」の咎をなおも政略的に言い立てているのが、中国だ。
 ②について-ソ連・東欧のことを指しているのかもしれないが、それが何故「歴史によって証明された法則」なのか。北朝鮮も中国も、「経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行する」というのか? その根拠はいったいどこにあるのか。細かく言うと、「経済発展がある段階に達すれば」という「ある段階」とはどのような段階なのか。そして、中国はその段階なに達しているのか、いないのか。北朝鮮がその段階に達していないとすれば「民主主義、自由主義体制に移行する」筈がないのではないか。等々の疑問ただちに噴出してくる。
 堀田はもう少し冷静に、客観的に世界をみつめ、かつ元検察官・現弁護士ならば、論理的に文章を綴ってもらいたい。
 「絶対に、戦争はしないでほしい」という言葉を<遺言>にしたい、ということは、おそらく日本又は日本人の中に「戦争」をする危険性にあると感じているからだろう。この点についてもまた、その根拠は?と問い糾さなくてはならない。
 私は上述のように<戦争を仕掛けられる>=<日本列島が何らかの軍事力によって攻撃される>危険性の方が圧倒的に(絶対的に)大きいと考えている。その場合、<正しい>戦争=<自衛>戦争はありうる、国土・人命・財産の保全のためにはやむを得ない戦争というものはありうる、と考えている。
 アジアでは冷戦は終わっておらず、現に、中国・北朝鮮という<共産主義体制>又は<共産(労働)党一党独裁の国>は残っていて(ベトナム、ラオスも。ネパールが最近これに加わろうとしている可能性が高い-中国の影響がない筈がない)、日本に対する軍事的攻撃力を有している。
 堀田力は刑事法を中心とする国内法や基本的な国際法の知識はあっても(また福祉問題には詳しくても)、国際情勢を客観的に把握する能力は不十分なのではないか。また、弁護士・裁判官等の専門法曹のほとんどがそうであるように、<共産主義の怖ろしさ>というものを知らない、のではないか
 堀田力の、このような文章がたくさん出ることこそが、コミュニスト、中国や北朝鮮が望んでいることだ。共産主義の策略(それは戦後日本の中に空気のごとく蔓延してきているものだが)、その中に堀田もいる。
 堀田力、1934年生まれ。樋口陽一も1934年生まれ。大江健三郎は1935年生まれだが、いわゆる早生まれなので、小・中の学年は樋口や堀田と同じ。すでに書いたことがあるが(人名もリストアップした)、1930年代前半生まれは<独特の世代>、つまり最も感受性の豊かな頃に<占領下の教育>を受けた世代だ。感受性が豊かで賢いほど、戦前日本=悪、戦後の「民主主義」=正、という<洗脳>をうけやすい傾向があると思われる(あくまで相対的<傾向>としてだが)。

0518/文芸評論家らしい山崎行太郎を嗤う-曽野綾子・「集団自決」の真実(ワック)。

 山崎行太郎のブログサイトを再度訪問したいとは思わないので、5/16付のこの欄から、山崎の5/12付ブログ発言の一部を再引用する。
 「曽野氏が、判決直前まで、保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していたことは、もはや、誰でも知っていることであって、この『罪の巨魁』発言に頬かむりして、…その問題の著書『ある神話の背景』を発売し続けるということは、出版ジャーナリズムの原理原則から見ても、許されることではないだろう」。そして、山崎は、<曽野綾子誤読事件>という別の名称を考案?していた。
 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 少なくとも、曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島/「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった(ワック、2006.05)の内容の一部を含めているように推察される。
 ようやくこの本を見つけ出して確認してみた。斜め読みをして「巨魁」・「巨塊」に関係する部分を見つけた(p.295-6)。第一に、曽野綾子は正確に「巨塊」と、大江健三郎の文章を引用している。「…〔前略-秋月〕そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)〔原文ママ〕」と引用している(曽野・p.296)。
 第二に、曽野は大江の上の文章を引用したあと、「このような断定は私にはできぬ強いものである。『巨きい罪の巨塊』という最大級の告発の形を使うことは…不可能である」と述べ、その「二つの理由」を記している。
 どうやら、「最大級の告発の形」と書いていることが、「巨きい罪の巨塊」を<巨きい数の死体>と正しく理解していない(誤読している)証拠だと山崎は主張したいように見える。だが、さほどに明瞭な表現を曽野はしているわけではない。
 また、かりに山崎の主張に当たっている所があるとしても、5/16付のこの欄で書いたように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解するのが常識的な読み方だ。私もそう読む」(なお、上記のように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解する」という部分は曽野において必ずしも明瞭ではなく、私が単純化しすぎている可能性がある)。また、既述のように、「巨きい罪の巨塊」という一種の語義反復は日本語としてありうる。大江はこれを『文法的』誤りだったと恥じる気になり、〔後になってから〕無理やり後半分は『死体』のことだとこじつけたのではないか」、と考えられる。
 上の段落の第二文・第三文を除いたことの趣旨は、5/16付でも言及した、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」月刊正論4月号(産経新聞社)でも明確に語られている。-山崎行太郎の論文(私・秋月は未読)を読んで調べてみたが、「そもそも曽野氏が『罪の巨塊』を『罪の巨魁』と読み違えたとの論証はどこにもありません」、「曽野氏の文章において『巨塊』を『巨魁』と混同した箇所はどこにもみあたりません」(p.218)。
 そして徳永信一(対大江等損害賠償請求訴訟原告代理人弁護士の一人)が言うように、曽野の本の一部を渡部昇一が誤読又は「単なる引用ミス」した理由を探るならば、曽野の誤読に原因があるのでは全くなく、「難解さで鳴らす大江氏の悪文に原因がある」(p.218)と言うべきだろう。
 なお、おそらく誤読というよりも「単なる引用ミス」をしているのは、曽野綾子ではなく、曽野の上の本の「解説」を同じ本の末尾に書いている石川水穂(産経新聞論説委員)だ。同書p.332には、大江は「あまりに巨きい罪の巨魁」などと指弾していた、という文がある。店頭でも確認したが、2007年11月第6刷でもそのままだ。出版元・ワックは今からでも訂正したらどうか。
 元に戻ると、山崎行太郎とやらのいう<曽野綾子誤読事件>とはいったい何なのか? 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 山崎は大江健三郎を「護り」たいと思うがために、原告・元隊長らを傷つけることとなる言動をしていることは明らかだが、名誉毀損・誹謗中傷の対象をさらに拡げるべきではない。といっても、<奇矯な>人には真っ当な言い分は理解できないかもしれない。

0506/山崎行太郎-「ヒステリック」で「哀れで不遇な自己顕示欲」。産経は「高原基彰」をなぜ?

 サピオ5/28号のp.57の欄外に、小林よしのりはこう書いている。-「書店では見ないが、『月刊日本』という雑誌に、山崎行太郎が、わしのことを『マンガ右翼』と罵倒しながら宣戦布告している。マンガに対する徹底的な蔑視と、ブログに現れているヒステリックさと、哀れで不遇な自己顕示欲は、やはりイタイ人であり、直接の議論に公的な実りはなかろう」。〔なお、「イタイ人」の意味は私には解らない。〕
 今はもうやめているが1年ほど前にときどき山崎行太郎という自称・文藝評論家のブログを覗いていたことを思い出した。そして、その奇妙な言い分を批判したこともあった。
 小林よしのりが一部の者に使ったことのある言葉を借用すれば、山崎行太郎は「ウスら左翼」だ。本当に「文藝評論家」かどうかは知らないが、専門外?の<政治>の世界に少なくとも<平均人よりはまともなことを主張できる>ような態度で口を挟まない方がよい。この人は慶応大学文学部哲学専攻卒。慶応大学にとっても、「哲学」出身者にとっても、あまり自慢にならない人物だろう。
 久しぶりにこの人のブログを見て驚いた。「マンガ右翼・小林よしのりへの宣戦布告」と題する5/06付には、こんな文章がある。-「今回の名誉毀損裁判は、大江健三郎という名誉毀損の当事者とも思えないスケープ・ゴートをでっち上げて、法廷に引き摺り出し、一種のリンチ裁判を試みようとしたもので、この名誉毀損裁判そのものが見当違いの裁判であることは明らかであ」る。
 5/12付にいわく-「曽野氏が、判決直前まで、保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していたことは、もはや、誰でも知っていることであって、この『罪の巨魁』発言に頬かむりして、その問題の著書『ある神話の背景』を発売し続けるということは、出版ジャーナリズムの原理原則から見ても、許されることではないだろう」。
 ここで山崎は「魁」と「塊」の読み違え(引用ミス?、なお、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」月刊正論4月号p.218によると、これは曽野綾子自身ではなく、渡部昇一による誤引用のようだ)によって意味の誤解が生じたと指摘しているようだが、曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解するのが常識的な読み方だ。私もそう読む。「魁」ではなく正しくは「塊」だが(大江・沖縄ノートp.210)、その方が却って、より自然に<罪の大きさ(巨大さ)>という意味だと理解できる。大江健三郎は訴訟の最終盤の3月に、法廷で「巨きい数の死体」という意味だと述べたようだが、このように読めという方がどうかしている(もっとも、この点は最重要又は重要な争点では全くない。大江のいい加減さ・無責任さを示す徴表くらいにはなる。なお、「巨きい罪の巨塊」という一種の語義反復は日本語としてありうる。大江はこれを「文法的」誤りだったと恥じる気になり、無理やり後半分は「死体」のことだとこじつけたのではないか)。
 山崎行太郎にとっては、この沖縄住民集団自決「命令」訴訟=対大江健三郎等名誉毀損損害賠償請求訴訟は、<曽野綾子誤読事件>らしい。こういう人が平然と「文藝評論家」を名乗り、そういう人に文章書きを注文する出版社があるというのも、まさに日本の<戦後民主主義>的現象だろう。
 産経新聞5/14に「日本学術振興会・特別研究員」との肩書きで昭和51年生まれ、つまり今年中に32歳になる「高原基彰」なる者が小文を寄せている。
 見逃しそうな文章だが、読んでみると、「中国の現体制を『独裁』であると批判する」、「これまで疎外されてきたが」「新しい舞台を得て浮上した」「ネット上の言論」・「民意」は「その不寛容性や近視眼性」が「露わになる」(したがって、「独裁」批判に対する「中国の若者」の不満感は「彼ら自身の意図を超えた正しさ」をもつ)、というのが結論又は基本的趣旨だ。
 要するに、この小文は、中国共産党「独裁」批判を批判・揶揄し、結果として中国共産党の「独裁」を助けるものになっている。
 産経新聞はなぜこんな文章を載せるのか?
 産経新聞はなぜ、東京大学大学院の在籍年限を過ぎて「日本学術振興会・特別研究員」となって経済力を得ているだけの今年32歳の者に、このような原稿を発表する機会を与えたのか?
 産経新聞社の中にも、<左翼>あるいは(又は、かつ)<東京大学権威主義者>がきっといるのだろう。東京大学の人文・社会系には教授・上野千鶴子、教授・長谷部恭男らを筆頭に<変人>が多いことはほとんど常識的なことではないか(例外があることは勿論認める)。
 高原基彰なる人物が文学系か政治系か知らないが、思想・哲学に関連する分野にいるのだろう。思想・哲学あたりを専門分野にする若い者たちにロクな者はいない、というのが最近あらためて感じることだ。適切な先輩の例に、山崎行太郎というのがいる。

0493/チベット(人)問題と日本の「左翼」団体-中国共産党による恫喝と供応?

 伊勢神宮式年遷宮広報本部・日本の源郷-伊勢神宮(2007.07)p.22には、2003年(平成15年)11月4日にチベットのダライ・ラマ法王が伊勢神宮を(玉垣内に入って)参拝する様子の写真が掲載されている。また、仏教徒であっても「日本の神道の聖地」・伊勢神宮を参拝させていただいた、「神宮の美しい自然とそれを維持する人々の態度、神宮の平和的な環境は素晴らしい…」との法王の言葉も載せている。
 西村幸祐責任編集・チベット大虐殺の真実(撃論ムック/オークラ出版、2008.05)にも、昨2007年11月にダライ・ラマ法王が伊勢神宮を参拝したときの写真が付いている。キャプションにあるように、こうしたダライ・ラマの伊勢神宮参拝を報道した日本のマスコミはあったのだろうか?(なお、これら二つは同期日のもので、どちらかの年の記載が誤っている可能性がある。)
 ところで、諸君!6月号(文藝春秋)の佐々木俊尚「ネット論壇時評」(p.262~)によると、以下のとおり。
 左翼系のメーリングリストとして著名なAML(オルタナティブ運動メーリングリスト)の中で、弁護士・河内謙策は3/19に「チベット問題を、なぜ取り組まないのか!」と題して次のように書いた。
 「日本では、なぜかチベット問題を、多くの平和運動団体がとりあげようとしていません。全労連、日本平和委員会、憲法会議、自由法曹団、連合、全労協、原水協、原水禁、許すな!憲法改悪阻止市民連合会、九条の会、ピースボート、平和フォーラム、ピープルズプラン研究所という日本の平和運動の代表的な13のサイトを見ても、現時点では、その…1頁目にチベットのチの字もありません」(p.264)。
 なお、少なくとも最初の4つと原水協は日本共産党系の団体だ。
 チベット人問題に関して、日本の<左翼>が沈黙しがちであることに対してはすでに多くの批判的指摘がある。月刊WiLL6月号山際澄夫「恥を知れ!沈黙の朝日文化人」(p.256~)もそうだし、上記の西村幸祐責任編集・チベット大虐殺の真実(撃論ムック)の中宮崇「チベット侵略を擁護する反日マスコミ『悪の枢軸』」(p.104~)は、NHK、TBSのニュース23、朝日系の報道ステイション等のテレビ・メディアを対象にする。同書の野村旗守「日本の人権団体は黙ったままか」(p.158-)は、日本ペンクラブ・日本国民救援会・自由法曹団・日本ジャーナリスト会議等を批判している。
 ダブル・スタンダードとはもう全く新鮮な言葉ではない(彼ら「左翼」には当然の、染みついた感覚なのだ)。興味深く思うのは、上に出てくる団体のうち九条の会(映画人九条の会)・日本ジャーナリスト会議は、映画「靖国」の上映を妨害したとして(政治的圧力をかけたとして)稲田朋美に対して抗議文を送った団体だ、ということだ。直接には九条・「平和」に関係がなさそうな事案には(とくに朝日新聞のガセ=捏造報道を信じて)すみやかに抗議文を送りつけておいて、一方では「平和」(と人権)に直接かつ現実的に関係しているチベット(人)問題には3/19の時点で(今回の「弾圧」は3/10~)何ら反応していないとは?!!
 九条の会(映画人九条の会)・日本ジャーナリスト会議の(たぶん事務局を握っている者たちの)おサトが知れる、とはこのことだろう。
 なぜ、<左翼>はチベット(人)に冷たく、中国(中国共産党)に甘いのか。上の佐々木俊尚論考によると、弁護士・河内謙策の「苦言」に対しては3種の反応があり、一つは、<日本はかつて中国に悪いことをしたから、大きなことを言えない。日本自身の過去の真摯な反省が必要>との旨だったとか。これは、しかし、北朝鮮による拉致をかつての戦時中の朝鮮人「強制連行」によって<相殺>しようとした辻元清美の議論と同様の詭弁だ。日本の<左翼>平和諸団体自身は<真摯に反省しているなら>良心の咎めを感じることなく堂々と<侵略>と<人権侵害>を批判すればいいではないか。日本「国家」や政府に<真摯な反省>が足りないから、という理屈も成り立たない。これらの団体は「国家」・政府からの「自由」・自立をこそ謳っている筈で、日本国・政府をこの場合に持ち出すのは卑劣であり「甘えて」いる。
 やはり第一に、社会主義・共産主義<幻想>がまだ残っていると思われる。上記のような団体の、とくに幹部活動家たちは、今なお、日本よりも中国共産党に親しみを感じるのではなかろうか。日本共産党の不破哲三は社会主義・中国の「経済的発展」をいたく喜び、さらなる発展・成長を期待していたし、立花隆は、はっきり言って<まんがチック>だが、先年の反日暴動を日本の60年安保の時期の「ナショナリズム」高揚になぞらえ、北京五輪開催を日本の東京五輪開催の時代に相応するものと捉えていた(北京五輪後にさらに中国は経済成長し、世界の「経済」大国にもなる、と彼は予想する!)。
 第二に、<幻想>・<憧れ>というよりもむしろ逆に、中国、正確には中国共産党が<怖い>のではなかろうか。将来において日本が中華人民共和国日本省となり日本人が日本(大和)「族」と呼ばれるようになる日のくることを想定して今から忠誠に励んでおく、という人は少ないかもしれないが、ひょっとすればいるかもしれない。また、中国共産党は日本国内にも当然にそのネットワークを持っているので、有形・無形の「圧力」を受けている可能性はある。
 さらに、「政治謀略」朝日新聞や朝日系文化人・知識人の中には、中国での歓待等の「供応」によって、中国に対して厳しいことを言えなくなるメンタリティを形成されてしまった者がいるに違いない本多勝一は南京大虐殺記念館から特別功労章を貰った。大江健三郎は中国で歓待付きの「講演」旅行をした。立花隆は北京大学で「講義」をさせてもらった。こうした<親中国日本人>養成を中国共産党は系統的に行っているように見える。そして中には、中国共産党に<弱味を握られた>朝日新聞関係者や朝日系文化人・知識人もきっといるだろう。
 このブログがターゲットにされることはないだろうが、中国、中国共産党、マルクス主義(を標榜する)者は、真実の意味で、<怖い>。むろんマスメディアがそれに屈すれば、政治謀略新聞・朝日の若宮啓文が好んで自己規定する「ジャーナリスト」ではもはやない。

0486/曽野綾子と沖縄集団自決にかかる大阪地裁2008.03.28判決。

 曽野綾子は、数年前に司法制度改革審議会かその部会の委員をしていて、欠席がちであり、また頓珍漢な発言をしていたとの話がある(厳密さ=正確さの保障はないが)。「司法」制度に関する専門的概念・議論の仕方に疎かったためだろう、きっと。
 月刊WiLL6月号(ワック)の曽野綾子の連載エッセイも、危なかしいところがある。対大江・岩波名誉毀損損害賠償請求訴訟(沖縄集団自決「命令」訴訟)は民事訴訟だが、刑事事件についての「疑わしきは罰せず」は「裁判」一般に通じるものだと誤解しているようだ(p.123)。また、上の訴訟にかかる先日の大阪地裁判決(2008.03.28、裁判長・深見敏正)によって〔元隊長につき〕「疑わしくても状況と心証によっては、黒とみなしていいのだという判例ができた」、「容疑者」を「犯人」と言い切ってよい、ということになった(p.125。p.126にも同旨がある)、と書くが必ずしも正確ではない。
 被告は元隊長等ではなく大江健三郎と岩波書店で、元隊長等の行為が直接に裁かれているわけではない。大江や岩波が元隊長等の特定の行為=自決「命令」があったと信頼し、かつ反証もでてきたのにその後訂正しなかったことに<不法行為>性はあるか(ないか)が争点だ。
 と書きつつ、曽野綾子を誹り批判するのが、この稿の意図ではない。
 曽野は判決が「自決命令…を直ちに真実であると断定できないとしても、…真実であると信じるについて相当の理由があった」と述べた部分に注目しており(p.122-3)、これは的確だ(だが、かかる論法・理屈づけは一般論としては法的にはありうるものと思われる)。
 問題は、「真実であると信じるについて相当の理由があった」と認定したことについての裁判所(裁判官)の証拠資料の採択・心証形成の具体的過程の適正さで、今後の上級審でもこの点が問われるだろう。
 また、私も大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)から大江による元隊長の「内心」の創作=捏造部分をこの欄で引用したことがあるが、曽野も「心理」の「推測」部分を引用し、こう書く。
 「裁判官はこれは個人攻撃ではないというが、全くつきあいのない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う」。
 曽野がこう書くのもよく分かる(大江に勝手なことを書かれた当人又は遺族の憤りはいかばかりだろうとも思う)。そして、先日の大阪地裁の裁判官には元隊長等の人間の<感情>・<名誉>をきちんと忖度できる<人間性>があるのだろうか、とすら感じる(大江にはもはやない)。また、大江・岩波という<名声>にある程度<屈服>してしまっているのではないか、と疑いたくもなる。
 だが、大江の創作=捏造も(「命令」のあったことが)「真実であると信じるについて相当の理由があった」のだとすると、それを前提としての(判決のいう)「意見ないし論評の域」の範囲内のものになってしまうのだ。
 すでに私は「法的にはやむをえないのかもしれないが」とか書いた。私とて特定の個人名を挙げてこの欄で批判したりしており、中には、「バカ」とかの言葉を使ったこともあっただろう。こうした批判・論評が許されないと(程度問題ではあるが)意見・論評・表現の「自由」があることにはならない。したがって、ギリギリの所で大阪地裁判決の言うことも理解できないことはない。
 しかし、それはあくまで「真実であると信じるについて相当の理由があった」ことを前提としてのことで、この前提が崩れると、大江健三郎等による名誉毀損の程度(→賠償責任の程度)は上に言及の創作=捏造部分の存在によって決定的に大きくなるだろう。
 ともあれ、当面は控訴審のまともな裁判官による判断に期待するほかはない。
 なお、曽野綾子・…「集団自決」の真実(ワック)は所持しており、随分前に(発刊直後?)少なくとも概略は読んでいる。

0454/小林よしのりがサピオ4/23号で深見敏正裁判長の大阪地裁判決を批判。

 サピオ4/23号(小学館)。小林よしのりが、沖縄集団自決「命令」損害賠償等請求にかかる大阪地裁2008.03.28判決につき、「裁判官の『無知』、そして大江健三郎氏と朝日新聞の『詭弁』」というサブ・タイトルで「緊急発言」を書いている(p.96-97)。
 この訴訟は「右派がイデオロギーや運動のためにやっているのではないか」、原告の一人・梅澤裕元座間味戦隊長は被告をむしろ沖縄タイムス社とすべき、という最初の方については賛否を留保したいが、あとは、小林の主張・指摘を全面的に支持する。
 小林は深見敏正裁判長は「朝日新聞の愛読者」と見て「差し支えない」と断言する。上記判決は集団自決の場所にはすべて日本軍が駐屯していた、非駐屯地では集団自決は発生しなかった旨書いたようだが、小林によると、この旨は朝日新聞が「必ず引き合いに出すフレーズ」だ、という。
 その他は、私がすでに指摘したのとほとんど同旨。<「朝日は論理のすり替えを行った」。「軍の命令」と「軍の関与」は「まったく違う」>。
 また、1年ほど前にも私は大江の<創作力>=<捏造力>に言及したのだったが、小林は、大江健三郎は「延々6ページにもわたって赤松隊長の誹謗中傷を続けている」とし、大江の『沖縄ノート』からかなり直接引用して例示し、「自分勝手に赤松隊長の心情をつくり上げている」と書く。そして言う、「これが名誉毀損でなくて一体何というのだ」、「極限の中傷であり、これで名誉毀損でなければ、もはや何でも書ける」。
 小林よしのりはなかなか鋭い。大阪地裁という第一審の判決が出たにすぎないのに朝日新聞3/28夕刊が「軍の関与・司法も明言」との見出しを付けたことを皮肉っている。そのとおりで、「司法」の確定的判断はまだ出ていないのだ。<「司法」の一部の大阪地裁という下級機関>、が正しい。
 それにしても、p.96の写真によると、朝日新聞3/28夕刊は一面右上トップで「大江さん側」が勝訴等の見出しとともにこの判決を大きく取り上げ、記者会見する大江の顔の大写し的写真も掲載している。喜んで、<はしゃいでいる>。
 翌日の社説の内容しか知らなかったが、朝日新聞とは異様な新聞だとますます確信する。

0444/朝日新聞3/29の社説執筆者は「全くの無能者」か「狂人」。

 朝日新聞3/29の社説執筆者は全くの無能者か「狂って」いるのではないか。
 朝日新聞が沖縄集団自決「命令」訴訟にかかる前日3/28の大阪地裁判決について結論を支持する社説を書くだろうことは予測できたことだが、あまりのヒドさに驚いた。
 こういう社説は司法(裁判)担当の社説担当者が書くのが通常だろうが、政治(+歴史認識)担当の執筆者が書いたかに見える。
 精神衛生にも悪いので、できるだけ簡単におさえる。
 1.冒頭の第一文-「慶良間諸島」で「起きた『集団自決』は日本軍の命令によるものだ。/そう指摘した岩波新書『沖縄ノート』は誤りだとして、…元守備隊長らが慰謝料などを求めた裁判…」。
 さっそく間違いがある。大江健三郎は抽象的に「日本軍の命令による」と書いたわけではない。「日本軍の…」ではなく<特定され得る元軍人の命令>なのだ。
 2.関連して、第七段の第一文-「『沖縄ノート』には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない」。
 後段は、よくもまぁ社説で、という感想だ。氏名を明示していなくたって、簡単に他の情報と結合して特定できれば同じこと。こんな単純な常識もこの執筆者は持ち合わせていないらしい。
 また、前段は、だからどうなのだ、と言いたい。大江健三郎は、「元守備隊長ら」が「命令」を発した<悪人>だ、ということを前提として、沖縄を再訪する当該元軍人の「心理」を小説家らしく勝手に捏造した(創作した)のだ。「集団自決の具体的な記述はほとんどなく」て、何ら不思議ではない。
 3.最後の段の二文-「教科書検定は最終的には『軍の関与』を認めた。そこへ今回の判決である。集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない。」
 これで社説を締め括るとは<狂気の沙汰>だ。
 既に書いたが「軍の関与」の有無はこの訴訟の争点ではない。にもかかわらず「集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」とまとめて、安心し、判決によっても裏付けられた、と思っているなら、アホとしか言いようがない。
 「集団自決に日本軍が深くかかわった」か否かという問題設定ならば、私とて、何らかの意味での、何らかの程度での、「集団自決」と「日本軍」の関係を否定はできない。すなわち、端的にいって、戦争中のこと、<敵軍>が眼前に上陸してきたときのこと、なのであって、「集団自決」が戦争・戦時中のことであれば、日本軍と全く無関係だ、とは言えないだろうからだ。
 だが、そのことと、特定の旧日本軍人が特定の住民(島民)に対して集団自決「命令」を発したかどうかは全く別の問題だ。
 上のことを朝日新聞の社説執筆者は理解できていない。全くの無能者に思える。あるいは理解できてもそのことを記したくないのだとすれば、何らかの<怨念>に囚われた<狂人>ではないだろうか。
 もちろん、そのような<無能者>か<狂人>の執筆者は、判決が「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と述べていることに、全く言及していない。判決理由文(<要旨>であっても)を読めない(理解できない)馬鹿=<無能者>であるか、読んでいても意識的に(自分たちに都合の悪いことは)無視してしまうという、<倒錯した変人>であるに違いない。
 4.第八段-提訴の「背景には、著名な大江さんを標的に据えることで、日本軍が集団自決を強いたという従来の見方をひっくり返したいという狙いがあったのだろう。一部の学者らが原告の支援に回ったのも、この提訴を機に集団自決についての歴史認識を変えようという思惑があったからに違いない。」
 もっともらしいこの文章に、朝日新聞の<体質>も表れているだろう。社説にこんな<推測>を書くこと自体いかがかと思うが、法的問題あるいは歴史的事実の問題を<政治的>にしか捉えることができないのだ。最も<うす気味悪く>感じたのは、この部分だった。むろん、<正しい>「歴史認識」の確認(<誤った>「歴史認識」の是正)を「一部の学者ら」が追求するのは、一般論としても何ら非難されるべきことではない。
 こんな社説が数千万人に読まれ、何がしかの<空気>を作っていることを想像すると、日本の現状と将来に諦念にも似た<空恐ろしさ>を感じる。
 なお、この判決に関する読売新聞の社説はしごく「まっとう」だった。読売は、社説だけはまだしっかりしている。

0439/再び沖縄集団自決「命令」訴訟・大阪地裁判決について。

 産経新聞に沖縄集団自決「命令」にかかる大阪地裁3月28日判決「要旨」が載っている(裁判長は深見敏正)。新聞記者(司法記者)が<判決の要旨>をまとめる能力をもつ筈がないので、最年少の担当裁判官が原文でも書いて裁判所・法廷(三名の合議体)の名で配布したものと思われる。以下の感想をもった。
 1.「要旨」文だけでは、証拠の取捨選択の具体的な理由は不明だ。①「自決命令」説を捏造とは判断できない理由として援護法制定の前からの文献があることを述べているが、そのことは理由になるのか。古ければ古いほど信憑性は高いとでも言うのか。むろん一般論としても、そうとは言えない。
 ②また、<新事実>(照屋昇雄発言、宮村幸延書面、母親の発言の記録書)は不採用、又は捏造の根拠にならない、としているようだが、それらの根拠はほとんど解らない。「その経歴に照らし…」とか「戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして…」とか書かれてはいる。
 かりにその辺りを不採用の理由としているというなら、沖縄タイムズ・鉄の暴風や米軍報告書の「作成経緯」や執筆者の「経歴」を(そしてこれら二文献が出された<時代の雰囲気>を)も同等に考慮しなければならないのではないか。
 本件訴訟の裁判官による証拠の採用・不採用に、裁判官の<心性>の歪み・偏向がないのかどうか、気になる。
 2.①「要旨」文は「集団自決については日本軍が深くかかわったものと認められ」ると結論し、その理由を長々と書いている。だが、前回記したように、この部分は、本件訴訟とは直接には関係がない。原告の一人及びその父親が「集団自決<命令>」を発した事実があったか否かが争点であり、軍の<関与>(あるいは広義の?「強制」性)の有無は争点ではない。せいぜい、当時(米軍沖縄上陸頃)の<空気>・雰囲気に関する問題で、相当に間接的な<状況証拠>的なものにすぎないだろう。
 にもかかわらず、何故こんなに長々と書いているのか。被告たちの論法に影響されているのではないか。被告らにとっては、<命令>の存否から<軍の関与(広義の「強制」性)>へと争点をずらした方が有利な(=負けにくい)のだ。
 ②<要旨>文は、上のことと、関係各島では原告らを「頂点とする上意下達の組織」だったことを結びつけて、原告らが「集団自決」に「関与したことは十分に推認できる」と書いている。
 上記と同じく、これも争点とは直接には関係のない点に触れている。「関与」と「命令」は全く異なる。「関与」が「推認」できることは「命令」を原告(とその父親)が発した根拠には全くならない。こんなことは、素人にも分かる常識的なことではないか。裁判官はいったい何故、いったい何のために、こんなことを判断し、書いているのか。
 この訴訟は、当時(米軍沖縄上陸頃)の<時代>あるいは<日本軍>を裁く事件ではない。岩波書店と大江健三郎が刊行・執筆した本が原告らの名誉を侵害して不法行為となるか(+出版差止めされるべきか)が争点となっている、その意味では主観的(個人的)な事件なのだ(むろん「公益」と無関係と主張しているわけではなく、<要旨>文が大江本は「公益を図る目的」をもつと認定していることにまで-「法的」問題としては-異を唱えるつもりはない)。
 3.「要旨」文は「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」と明記している。また別の箇所では「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記している。
 この部分は今回の判決の中で特に注意・注目されてよいところだろう。つまり、裁判所もまた、<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、とは全く認定していないのだ。
 にもかかわらず被告が負けなかったのは、「命令」の存在という事実の「信用性」が争点になっているからだ(このこと自体はやむを得ないだろう)。また、「命令」が存在した事実が認定されないと岩波・大江側が負けてしまう、そういう性格の訴訟ではなかったからだ。つまり、立証責任が原告側にあったからこそ、岩波・大江側は「救われた」、と言える。
 訴訟法的にはこのように言えるだろうが、裁判所(大阪地裁)が<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、と認定しなかった、ということの<政治的>意味は小さくない、と思われる。
 すなわち、岩波・大江健三郎が従来どおり出版を続けていくとするなら、それは、裁判所も「認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記したような<事実>を前提にした個人罵倒本を今後も継続して発行していく、ということを意味する。岩波と大江健三郎の「良心」がまさしく問われるべきだ。そんなあやふやな<事実>を前提にして、特定個人を<悪人>扱いしてよいのか、ナチスドイツのアイヒマンと同一視するような文章を残したままでよいのか。
 岩波と大江健三郎には「良心」はないのか、誓って疚(やま)しいところはない、と自信をもって言えるのか、と問いたい
 4.「要旨」文のかぎりでは、上の3で触れた部分に比べて、被告らが事実だったと「信じるについても相当の理由があった」と述べている部分は短く、かつ「相当の理由があった」と認定する根拠はよく分からない。たんに「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから…」と書いているにすぎない。
 問題は、なぜ、いかなる理由・根拠で、「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」のか、にある。
 この辺りが裁判官の心証形成の中核部分にかかわる。なぜ、上のように言えるのか。それは良識・常識・「理性」に照らして、「合理的」な結論(「評価」)なのだろうか。
 裁判官たちが特定の歴史観・何らかの予断をもっていれば、上のような「評価」は簡単に生じるだろう(逆のことも言える)。そのような推測をさせないためにも、判決理由の全文の中にはより詳細な理由づけ(心証形成の過程)が明らかにされているのを期待したいが、正確な全文を読んでも殆ど変わらないだろうような気もする。
 ともあれ、結論が先にあったのではないか、との邪推が出てきても不思議ではない判決だ(そう断言しているわけではない)。「要旨」文には、重要な点の根拠・理由が詳細・十分には(説得的には)書かれていない。原告側が不満をもつのは当然だろう。控訴して、なお争うべきだ。
 重要とも思われる点に言及し忘れたので追記する。「要旨」文は最後に、大江本には「赤松大尉に関するかなり強い表現」があるとしつつ、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」、「意見」・「論評の域を逸脱」したものとは認められない、と書いている。
 結論的には(法的には)このとおりなのかもしれないが、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」とあるのは気になる。この法廷の裁判官たちは『沖縄ノート』という書物の存在意義を肯定的に評価することから出発してしまっているのではないか。かりにそうだとすれば、判決を出す裁判官の「まっとうな」道からは逸脱しているように思える。被告の一人・大江健三郎がノーベル賞受賞者であることに無意識にせよ影響されているとすれば、ますます同じことが言える。
 なお、産経新聞の別の面によると、大江側弁護団はこの訴訟を「『集団自決が日本軍の強制ではない』と歴史を塗り替える目的で起こされた裁判」だとして原告側を非難した、という。
 『集団自決が日本軍の(広義にせよ)強制ではない』か否かは本件訴訟の争点ではない。上のような言い方自体の中にすでに<論点のスリカエ>がある。上記のように。本件訴訟は本来は<主観的(個人的)>なものだ、それをあえて「日本軍」の問題という<歴史問題>化し、「政治」問題化しているのは、原告らよりもむしろ、(「真実」が暴露されてしまうのを戦々恐々と懼れている)被告側なのではないか。

0438/「自決命令があったと信じる相当の理由」がどこにあるのか。

 対岩波・対大江沖縄集団自決命令損害賠償等請求訴訟は大阪地裁で原告全面敗訴判決(裁判長は深見敏正)。
 イザ!ニュースによると、判決は、第一に、「集団自決には軍が深くかかわり、原告らの関与も十分推認できる」と述べたらしい。軍の何らかの意味での「関与」の有無は本件訴訟とは無関係だ。そして、原告やその親族が軍人だったからだけの理由で「原告らの関与も十分推認できる」と述べているとすれば、この「推認」には無理がある。ある会社・組織が犯罪を犯せば、社員・構成員全員も犯罪者になるのか。
 判決は第二に、「書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定することは躊躇を禁じ得ない」と述べつつも、「自決命令があったと信じる相当の理由があり、原告らへの名誉棄損は成立しない」と結論したらしい。
 大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)の執筆・初版発行時点のことならば解らなくはないが、今日(正確には発刊後の一定時期以降)において、「自決命令があったと信じる相当の理由」があった(ある)のか? 原告らは、次々と新事実が出てきているのに出版停止も訂正もしていないことを問題にしているのだ。
 この判決の裁判官はきちんと証拠を調べ(読み)、「良心」にもとづいてこのような心証を形成したのだろうか。
 私は大江・沖縄ノートの関係箇所を読み、事実を前提にしていないならば<これはヒドい!>と素朴に感じた。憎々しげに元隊長らの心理を想像して叙述(創作)する様(さま)を思い浮かべると、大江という人間を気味悪く感じた。
 しかして、事実だったのか。事実と信じた「相当の理由」が現在でもあるのか。判決(理由)全文を読んで、なぜこう結論づけたのか、詳細な説明・理由づけを知りたいものだ。
 いく度か書いたとおり、裁判官は戦後(民主主義)教育の(最)優等生で、放っておいても、知らず知らずに<進歩的>または<なんとなく自虐的(=日本軍「悪玉」視)>になる心性傾向をもっていると推測している。そんな心性でもって、何らかの予断をもった上での心証形成がなされていなければよいのだが。
 まだ、高裁・最高裁がある。
 だが、ひょっとして、司法部(裁判所・裁判官)も<溶けて>いってしまっているのか…。憂いは深い。

0429/週刊新潮の<新・「裁判官」がおかしい!>に感じる。

 週刊新潮が2/21号から<新・「裁判官」がおかしい!>との短期集中連載をしている。
 3/06号では「百人斬り」名誉毀損訴訟での東京高裁の裁判官・石川善則の<「言論封じ」の訴訟指揮>の異様さを、3/13号では住民基本台帳法上の「住所」が都市公園内にあることを認めた大阪地裁2006.01.27判決(裁判長・西川知一郎)の異様さ(但し、大阪高裁2007.01.23判決で逆転。「ホームレス」のテント生活者が敗訴)を問題にしている。
 これらに逐一コメントする能力も余裕もないが、今の日本の裁判官の資質・感性については、感じるところがある。
 すなわち、彼らは戦後教育・「戦後民主主義」の(最)優等生で、通常の又は細かな法律知識・法的論議は十分に持ちかつ可能なのかもしれないが、その<育ち>ゆえにある種の<偏向>を避けられていないのではないか、という<仮説>を抱いている。
 具体的には、彼らはおそらく日本の「歴史」を十分に知らず、司法試験の対象には実質的にはならないと言われているために日本の「天皇」制度に関する(憲法典に規定があること以外の)十分に正確な知見も持たず、信仰の自由・「政教分離」に関する条文解釈や関係判例を知っていても「神道」に関する関心も知識も十分になく、昭和に入っての「戦争」についても(日本史の、高校までの)歴史教科書に書いてあること以上の知識・知見は持っていない、と推測している。なぜなら、これらに関心を持って深く勉強しようとするなどしていれば、激烈な司法試験に合格することができなかった筈だからだ。そして、合格して裁判官になってからも、上に書いたようなこと(あくまで例示だが)について<教養>を身に付けるような勉強をする時間は殆どなかっただろう。
 このような平均的日本人(またはそれ以下の)レベルの知識・「教養」しかない裁判官は通常の、多数の事件に対応することはできても、次のような事件には何らかの<偏向>・<異様さ>が生じうる、というのが<仮説>だ。
 つまり、例えば、戦没者追悼・靖国神社関係等の宗教あるいは政教分離にかかわる事件、中国人・韓国人等が原告となるかつての<戦争被害(補償)>にかかわる事件だ。後者に関して、裁判官の中には、戦後教育が教えてきた<(昭和)戦争観>にもとづき、中国人・韓国人等の<「日本軍国主義」の被害者・犠牲者>に「甘く」なるような傾向に陥る者はいないだろうか。
 後者に類似しているのは、<沖縄問題>かもしれない。戦後教育の(最)優等生の裁判官たちは、高校までの歴史教科書の「知識」にもとづき、(最も「犠牲」となった)<沖縄>県民の感情といわれるものを不必要に配慮した(感情、そして客観的には「政治」に流れた)判決を書いてしまわないだろうか。
 思いは、沖縄住民集団自決にかかわる対岩波・対大江健三郎訴訟へとつながる(ちなみに、昨日言及した岩波ブックレット(2005.11)の後扉裏には、大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)の広告が堂々と載っている)。ふつうに考えれば、名誉毀損・不法行為責任の発生要件は十分に充たしていると思うが、裁判官たちが<沖縄>関係のために余計な<配慮>をしてしまわないか、と心配する。
 これは必ずしも杞憂ではなかろう。原告側代理人・弁護士(衆院議員)の稲田朋美が何度も書いており新書も刊行しているが(同・百人斬り裁判から南京へ(文春新書、2007))、対中国「戦争」にかかわる<百人斬り名誉毀損>訴訟で原告たちは勝てなかった。そして、判決理由にはかなり無理なところがある(と感じる)。また、原告外国人たちの「戦後左翼」と同様の歴史観(「占領史観」=「GHQ史観」にほぼ近いと言えるだろう)をそのままなぞったような長い文章を「理由」中に書いていた判決も現実にあったのだ。
 司法部・裁判官<批判>はなかなかむつかしいが(行政官僚に比べれば、なおも高い「権威」を持っているだろう)、全面的に信頼することはできない、そういう部分があることは間違いないと考える。

0428/井上ひさし-デマゴーグの一人が司馬遼太郎記念行事に関与とは呆れる。

 岩波ブックレット憲法九条、未来をひらく(2005.11)の中の井上ひさしの文章の一部に以下がある。
 <藤原彰・飢死にした英霊たち(青木書店、2001)の中に、第二次大戦での「軍人・軍属の死者二三〇万のうち、約六割の一四〇万人が餓死」だったとの記述がある。「日本の兵隊さんも実は六割までが、闘わずして、食べ物がなくて死んでいった」のだと。/「こういう時代を正しいという人がいます。こういう時代に戻そうという人がいるのです。こういう時代が素晴らしい、これこそが日本なのだという方がいる。」>(p.54)
 藤原彰とは元一橋大学教授で高名なマルクス主義日本史学者だが(故人)、藤原の記述の正否を問題にしたいのではない。怒りすら覚え、またアホらしくも思うのは/(改行)以下の井上ひさしの言葉だ。
 井上ひさしは、2004-5年にしたらしいこの文章を含む講演で、<デマ宣伝>をしている井上ひさしは正真正銘の<(左翼)デマゴーグ>だ
 井上は、今年の故司馬遼太郎の「菜の花忌」シンポでも何かしゃべったらしい。再度書くが、井上のような(左翼)デマゴーグが自分を評価して(又はそのフリをして)何かしていると知れば、司馬遼太郎は嘆くだろう。
 「菜の花忌」シンポには当然に司馬遼太郎記念財団も関係している筈だが(ずばり主催者だったかも)、その財団の事務局長格は福田みどり(司馬=福田定一の妻、理事長)の実弟の上村洋行が務めている。上村洋行は司馬遼太郎記念館の館長でもある。
 大江健三郎はむろんだが、井上ひさしなどを協力者・支援者として故司馬遼太郎関係行事を催していけば、司馬遼太郎の名を結果として汚すことになるだろうことを上記財団関係者は知ってほしい。

0421/「大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」。

 月刊正論4月号(産経新聞社)では、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」が(これだけでは勿論ないが)読まれるべきだ。
 あらためて大江健三郎という人物の<異様さ>を感じる。この人物がノーベル文学賞受賞とは、日本国民はむしろ嘆いてよいのではないか。
 徳永の文章の内容を要約的にも反復はしないし、大江の詭弁ぶりも書かないが、一点だけ。
 大江が昨年11/20に朝日新聞に掲載した文章に、法廷で証言者・大江に対して質問した代理人(弁護士)について被告側と原告側を誤って記している部分があり、朝日新聞は12/21に小さな「訂正記事」を掲載したらしい。
 大江の謝罪の言葉(質問したと虚偽を書かれた原告側の徳永に対する)はなかったとしても、あの朝日新聞が「訂正記事」を出したとは、全く明白な「ウソ」を朝日新聞紙上に大江が記したことを、朝日新聞が肯定したことを意味する。なかなか<愉快な>ことだ。徳永いわく-「この小さな訂正記事によって、…大江氏の事実認識の杜撰さと、その文章がいかに『欺瞞と瞞着』に満ちたものであるかを天下に知らしめ」た(p.214)。
 ところで、産経の上掲誌p.65によると。3月28日に予定されている対大江・岩波訴訟の判決が出た後の3/29(土)に、この判決の論理・「沖縄(集団自決)問題」をテーマとする<緊急シンポ>が開催されるらしい(杉並公会堂。櫻井よしこ、藤岡信勝等がパネラー)。私もこっそり?聴きに(+見に)いこうか。

0350/大江健三郎-「不誠実」・「破綻した論理」。

 以下、月刊Will1月号(ワック)の藤岡信勝の文章(「完全に破綻した大江健三郎の論理」)p.103による。
 故赤松大尉の弟(原告の一人)は大江の文章を知ってどう思ったかとの質問に、こう答えた。
 「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すようだと憤りを感じた」。(太字は引用者)
 続けて藤岡は書く。
 「私はこの時、被告側の弁護士たちの後ろに座っていた大江氏の表情の変化を観察した。大江氏は微動だにせず、全く表情を変えなかった」。
 以上。
 こうした文章-同誌上の原告代理人弁護士の文章もそうだが-にはちゃんと大江「氏」と付けている。こうした最低限の人間・人格に対する<礼儀>も、大江は、沖縄の離島での<集団自決命令軍人>(と思い込んだ人間)に対して無視しているのだ。
 肉親の上のような言葉・裁判所での「証言」を<微動だにせず、全く表情を変え>ずに聴ける大江健三郎の神経というのは、精神医学、神経病理の興味深い対象になるのではないか。作家=創作者=創造者=捏造者には、もともと<夢かうつつ(現)か>の区別がつかなくなる性向、精神状態の(従って<正常>・<健常>者から観ると、多分にアブ・ノーマルな)者が多いとは思ってはいるが。
 同誌p.109以下には大江健三郎の証言内容が記載されていて参考資料として役立つが、「ポイントを選んで」の再現のようで、隔靴掻痒の感もある。細かい活字でよいから、どこか(の本、出版社)で、全文を登載して広く一般に読める記録にしていただきたい。
 同誌上の原告代理人弁護士・松本藤一の文章(「大江健三郎氏と岩波書店は不誠実だ」)p.99によれば、柳美里・名誉毀損訴訟の際に大江健三郎は次の文を含む陳述書を裁判所に提出したという。-「不愉快にさせたなら、書き直すべきであり、それで傷つき苦しめられる人間を作らず、そのかわりに文学的幸福をあじわう多くの読者とあなた自身を確保されることを心から期待します」。
 今回の、いや70年代以降ずっとの大江の沖縄ノートに対する態度は、松本も指摘のとおり上の大江自身の言葉と<矛盾>している。
 矛盾していないとすれば、<日本軍国主義>を担った軍人たち、<戦後民主主義の敵>、教科書問題等での(大江にとっての)<右派>の者たちは、批判・罵倒して「不愉快にさせ」てもよいし、「傷つき苦しめ」ても構わない、と大江健三郎が確固として<信じて>いる場合、または無意識的にそう<思い込んでいる>場合(この場合は、「不愉快にさせ」ている、「傷つき苦しめ」ているという自覚もない)だろう。
 大江健三郎、岩波書店、これらの欺瞞ぶりと正体を多くの心ある国民は知るべきだ。ついでに、大江健三郎のコラムや彼の動向に関する記事をしょっちゅう載せている朝日新聞についても。
 

0348/大江健三郎は「非常識で不誠実、一片の良心も感じとれない」。

 産経のウェブ上で読める記事だが…。
 産経11/21の「正論」欄で秦郁彦は書く。11/09の大阪地裁での大江健三郎(被告)証言について。
 「…と言い張ったときには、国語の通じない『異界』の人から説話されている気がした」。「これほど非常識で不誠実、一片の良心も感じとれない長広舌に接した経験は私にはない」。
 秦郁彦のまっとうな感覚を信頼したい。
 1970年代半ば以降も岩波新書「沖縄ノート」を(訂正することなく)出版し続けたことについて、大江健三郎と岩波書店には、他の著者や出版社とは異なるのだ、というような傲慢さがあったのではなかろうか。むろん、<良心>は欠如している。
 たんに事実認識に誤りがあると見られるだけでなく(むろんこれだけで名誉毀損→不法行為となるが)、心理内容の<創作>=<想像>=<捏造>によって、<輪をかけた>名誉毀損となっていることは既に紹介のとおり。
 ノーベル賞作家・大江健三郎は日本の誇りでも何でもない。むしろ、こんな同朋・先輩が日本にいることを恥ずかしく感じる必要がある。この人物が<九条を考える会>の代表的な呼びかけ人であることも、この会を実務的に支えているのは岩波書店と見られることとともに、想起されてよい。

0343/大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)のひどさ。

 大江健三郎沖縄ノート(岩波新書)については、むろん、集団自決命令名誉毀損訴訟との関係で、すでに3/30にこの欄で言及している。上の本に関係する部分のみを再掲しておく。
 * 原告が虚偽としている大江・沖縄ノート(岩波新書)の関係部分を探して読んでみた。例えばp.169-170、p.210-5が該当するとみられる。興味深いのは、前者ではすでに集団自決命令が事実であることを前提にしており、つまり事実か否かを多少は検証する姿勢を全く示しておらず、後者では(上の存命の人とは別の)渡嘉敷島にかかる軍人の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していることだ。「創作」を業とする作家は、事実(又はそう信じたもの)から何でも「空想」する秀れた能力をもつようだ。当然に、「創作」とは、じつは「捏造」でもあるのだ。大江・沖縄ノートp.208のその内容を引用すると、長いが、次のとおりだ。
 新聞は「「命令」された集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が…渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた」と記した。大江は続けてその元守備隊長の気持ち・感情を「推測」する。
 「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ」、「いかにおぞましく怖しい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく、…その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいと願っている場合にはことさらである。かれは他人に嘘ををついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」(p.208-9)。
 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいて…過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、…本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。…1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」(p.210)。
 「かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。…とかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう」(p.210-1)。
 「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、…およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の…再現の現場に立ち入っているのである」(p.211-2)。
 以上は全て、大江の「推測」又は「想像」だ。ここで使われている語を借用すれば「夢想」・「幻想」でもある。
 このような「推測」・「想像」は、「若い将校」の「集団自決の命令」が現実にあったという事実の上でこそ辛うじて成立している。その上でこそようやく読解又は論評できる性格のものだ。だが、前提たる上の事実が虚偽だったら、つまり全く存在しないものだったら、大江の長々とした文は一体何なのか。前提を完全に欠く、それこそ「夢想」・「幻想」にすぎなくなる。また勿論、虚偽の事実に基づいて「若い将校」=赤松嘉次氏(当時大尉、25歳)の人格を酷評し揶揄する「犯罪的」な性格のものだ。大江は赤松氏につき「イスラエル法廷におけるアイヒマン、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」とも書いた(p.213)。* 再掲終わり
 (下線追加、青字化・太字化は今回行った。)

0210/西尾幹二が朝日新聞の5/03「社説21」を嗤う。

 選挙に候補者を立てないが実質的には「政治活動団体」に他ならない朝日新聞社も、日本共産党と同じく、憲法九条二項断固死守という当面の重要な<政策方針(国民誘導方針)」を固めているようだ。
 5/27(日)に月刊WiLL7月号(ワック)の西尾幹二「朝日新聞「社説21」を嗤う!」に紹介的に触れつつ、「西尾の論稿にはまた別の機会にも触れることとして…」などと書いて、全体について紹介・コメントはしていない。以下、前回との重複を避けて、かつ殆どは印象に残った文章の引用のみにしておく。
 ・「小学生の「学級民主主義」のような文章を、いい大人たちが寄り集まって書いているかと思うと、うすら寒いものを感じ」る。
 ・朝日社説は「インド、中国の発信力を高め、日本の存在感をますます希薄にしろと言っているに等しい」のだから「笑えて」くる。
 ・「非軍事的な場面で国際貢献せよ、という意味のフレーズが呪文のように出て」くるが、「正直、腹を抱えて笑」った。「戦乱や疫病や災厄で混乱している国に、軍事力を持たない国がのこのこ出かけていって、なにができるのか」。
 ・「社説21」は「一貫して空想、夢物語を語ってい」る。「「僕ちゃんはいい子にしています」と言っていれば、友達から愛され、先生からかわいがられるだろうという発想」だ。「「いい子」になるのは全く結構な話だ」が、「「悪い子」に殴られたり、いじめられたり時はどうするの」か。「誰も助けてはくれない」。
 ・「願望と実現の間には大きな隔たりがあ」ることを「ついぞ自覚したことのない人が朝日新聞の社説を書いている」。
 ・朝日は「自国の独立を考えず、対米隷属を続けようという姿勢を露骨に示して」いる。「外の世界を、見ざる、聞かざる、言わざるで、呑気にこのまましておいてほしいと言っている」。
 ・核保有大国は戦争のみならず「平和をコントロールし始めて」いて、日本等の核非保有国を脅かしており、日本は「コントロールされっ放し」でありつつ米国は「中国に近寄っている」、という「現実の変化を朝日新聞は一切、見ない。見ないどころか、無いことにして物を言っている。正直、驚い」た。
 ・朝日は「憲法九条が日本が守ったのではなく、冷戦構造下の日米安保条約によってアメリカが日本を守ってきたという事実を受け入れることができないらしい」。一方では「誠に矛盾する」が、「日米安保に安住し続け、日米同盟が今、危うくなっている現実も受け入れない。砂上の楼閣である日米同盟を、そうではないと二十一本にわたって一所懸命述べてい」る。
 ・「社説21」は5/03に掲載された如く、「憲法九条の死守がイデオロギーの中核を成している」。「驚愕したのは、「平和安全保障基本法」を憲法の他に作るという珍案」で、これは「九条を据え置くための…新手の憲法の拡大解釈」だ。こんな提案されなくとも「すでに自衛隊に関しては拡大解釈されてい」る。「何の解決にもならない」。
 ・「平和安全保障基本法」
がもつべき4要素の一つに「PKOは国連に定められた範囲で行う」という「国連信仰」があるが、中国の拒否権行使により「国連は場合によっては、日本の敵になることもあるそれを考えるのが防衛の「戦略」」なのに「全くもって馬鹿馬鹿しい」。
 ・朝日は「社説21」で「「外国のために存在する国になれ」と叫んでいるように見え」る。「隣国には「徳」が」、「我が国には「悪」がある」と言いたいらしいが、「多くのまともな日本人は信じる」だろうか。
 ・朝日は「外国の日本潰しの戦略に一所懸命、協力している新聞を作っている」。「中国が喜ぶような方向で歴史問題を解決することが日本にとっての安全保障になると言っている」。
 ・慰安婦問題という「歴史カード」が米国から来たという現実にかかる「問題意識が…皆無」だ。
 ・<…ヒロシマは戦後日本の原点>等と書いているが、「なんていうピンボケした時代錯誤の言葉」だ。ヒロシマは今、「アメリカを脅かしている」。朝日は「あたかも日本が加害者のような口ぶり」だが、「大江健三郎氏と同じような訳の分からないムード的なことを言っている新聞が数百万部売れているということは、日本の未来を危うく」する。
 ・「社説21」は「朝日新聞の自己幻想と願望に埋め尽くされた主張であり、…非現実的なことを、いい格好をしたいがために論じる様に彩られてい」る。
 ・上の例に、<イスラムと欧米の対立に日本が間に入って打開策を引き出す外交を模索すべき>との主張がある。「できるわけがない。しかも、朝日新聞は軍事力を使ってはいけないと言っている」。「地球貢献国家」を目指す朝日は「いや、できる」と言いたいのだろうが、「その願望がただの空想で、いかにデタラメか」は、<日本が主導して原子力の平和利用を>という主張にも見られる。
 ・ある知人が「社説21」は「新米記者を21人集めて書かせたのでないか」と言ったので、「違う」と答えた。「朝日新聞は論説委員になって地位が上がれば上がるほど、頭がおかしくなる」。「その頭がおかしな論説委員の言っていることは、反日日本人の代表格である土井たか子福島瑞穂氏の言っていることとほぼ同じ」だ。「画一的」で「閉鎖的な国家主義の匂いすら漂っている」。
 ・朝日新聞は「今、最大の危機に直面している」。「全編にわたって戦略がなく空想なの」だ。「このような空想は国際社会で通用」せず、「まじめに相手する価値もない」。「無視すれば済む」が「困ったことに空想というのは人を誤らせ」る。朝日新聞の「体質には言論界はほぼ完全に沈黙」しているのは「呆れて言う言葉もない」からだ。
 以上。引用のすべての部分を理解し、賛同しているわけではない。とくに、私にも嫌米・米国警戒の気持ちはあるが、西尾幹二ほど強くはないようだ。
 しかし、第一に、朝日新聞が<まともな現実感覚>を持っていないということは、西尾の指摘によってもよく分かる。
 議論するためには、客観的現実・事実に関する共通の知識・データが必要だろう。その客観的現実・事実の認識自体が異なっている相手とは、もはや議論は成り立たないのではないか。朝日新聞の<非現実的な空想>を共有できる人びと(これまた観念的・非現実的空想者だが)のみが、朝日新聞の読者であり、朝日の主張に「何となく」賛同しているのではないか。
 そういう読者が数千万人はいるらしいので、それこそ空怖ろしいのだ。
 関連して第二に、戦後の日本の進路に関する基本問題について、現実に成功裡に選択されたと歴史的には総括できる主張・政策方向に朝日新聞は反対し、異なる意見を吐いてきたことを想起する必要がある。単独(正確には多数)講和に対する<全面講和論>、60年の<安保改定反対論>、あるいは<拉致被害者いったん北朝鮮へ帰せ論>等だ。
 基本的路線問題について結果的に正しかった(適切な又は合理的だった)と言えるのは、読売新聞等の主張であり、朝日新聞の主張ではなかった
 憲法改正問題にしても、(むろんこれが最大の根拠では全くないが)朝日新聞の主張とは反対の方向を選択すれば日本はうまくいく、というのが歴史的・経験的教訓だ。従って、九条二項は改正(削除)する必要がある。朝日新聞の主張に従っているとロクなことがないというのは、日本人が獲得した戦後の貴重な知恵だ、と考えている。
 第三に、朝日新聞の「空想」とは違って、日本共産党はもっと「現実的に」考えている筈だ。同党にとって、九条二項護持は、その点に絞って同党を中心とする<統一戦線>的なものを作り、そして究極的には日本共産党支持者と日本共産党党員の数を増やし、党の力を維持・拡大するための<方便>だろう。
 かつての野坂参三質問を持ち出すまでもなく、同党が本音として、国家に軍隊は不要と考えているとは全く考えられない。現在のように共産党の影響力下にない自衛隊や近い将来の?軍隊には反対するかもしれないが、かりに万が一、日本共産党が一翼をきちんと担うような政権ができれば、反対勢力や対米国を意識して、当然に、<自分たちの言うことを聞く>軍隊を持とうとするだろう。
 日本共産党の主張はあくまで<当面>の主張であり、<本来>の主張と比較すると、「小ウソ」、「中ウソ」、「大ウソ」だらけだ、と理解しておいてほぼ間違いはない。  <ウソつき>の日本共産党とその追随者に未来はない

0096/渡部昇一は日本国憲法改正に反対している!

 渡部昇一(1930-)という人は不思議な人だ。つい前回、2001年の本では、日本国憲法の三大原則を守ってより良くする改正を、と発言していた、と書いた。
 月刊WiLL(ワック)の2007年6月号の彼の戦後史連載講座5回目は日本国憲法を扱っているが、そのタイトルは「新憲法は「占領政策基本法」だ」で、次のように書く(p.239)。
 「日本国憲法は条約憲法で、ふつうの憲法ではない…。正確に言えば、占領政策基本法でしょう」。/「日本政府は独立回復時に日本国憲法を失効とし、…ふつうの憲法の制定か、明治憲法の改正をしなければならなかった。日本国憲法をずるずると崇め、またそれを改正していくということをすべきではないのです」。
 渡部氏は最近、南出喜久治という人との共著・日本国憲法無効論(ビジネス社、2007.04)を刊行している(私は未読)。この南出の影響を受けたのか、上で語られているのは、明らかに日本国憲法改正反対論だ。十分に丁寧には説明していないが、有効な憲法ではなく占領政策基本法にすぎないのだから、それを改正しても憲法改正にはならない、「日本国憲法」が有効な憲法とのウソを更に上塗りすることになる、という趣旨だろう。
 渡部昇一という人は「保守派」の著名な論客だが、対談する、又は一緒に仕事をする人の考え方の影響を受けやすいのだろうか。今頃は改憲の主張を頻繁にしている方がむしろ自然に思えるのに、何と、日本国憲法無効論の影響をうけて(であろう)、2001年の本とは逆に、改憲に反対しているのだ。2001年の本以外にも彼は、現憲法9条2項の改正を主張する等の論稿・発言をこれまで頻繁に公にしてきたのではなかったのか。
 考え方が変わる、ということはありうる。だが、70歳を過ぎて基本的な問題に関する考えを変えるとは珍しい。また、改憲に反対とは、そのかぎりで、渡部昇一という人は大江健三郎や佐高信と同意見であることを意味する。客観的には、大江や佐高、そして朝日新聞等々を喜ばせる主張を、彼は月刊WiLL誌上で行っているのだ。
 西尾幹二等と比べれば、軽い(噛みごたえの少ない)文章を書く人という印象はあったが、渡部はもはや、かなりの程度、信用できない人のグループに入りそうだ。
 ところで、渡部は、「すべての根元はこの〔八月革命説を唱えた〕宮沢俊義東大名誉教授とその門下生です。病的な平和論者に芦部信喜東京大学教授、樋口陽一名誉教授がいます」と書き、「百地章さんや西修さん」は「まっとうな憲法学者」だとする(p.243、p.244)。
 渡部がじっくりと各氏の(論文は勿論)教科書類を読んだとは思えないのだが、とくに前半は、はたして、どなたから得た情報又は知識だろうか(なお、上半分のうち、宮沢、芦部両氏は故人の筈で、肩書きに一貫性がない。これは、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源p.252-3を参照したからではないか、と推測する)。

0092/天皇・皇室を「政治」的利用-朝日新聞社のアエラ4/30+5/07号。

 朝日新聞発行の、薬師寺某が編集長の雑誌、アエラの最新号(4/30+5/07号)は、天皇や皇室を利用して「護憲」を主張しているようだ(朝日新聞社発行のものは古書以外では購入せず、手元になく確認できないため、以下、やや曖昧になる)。
 平和を願い、憲法に従うとする天皇、皇后両陛下のお詠みになった詞を上部に10ほども大きく紹介している。そして誰にだったか、両陛下のお気持ちに一番近いのは大江健三郎氏でないかとの狂ったコメントをさせている。
 ギリギリ極端にはならないように工夫されていて、イラク派遣の自衛隊員を励まされたとかも紹介しているが、文章全体の印象は、大きく両陛下のお詠みになった詞が印刷されていることもあり、<天皇陛下も護憲=憲法改正反対>というニュアンスのものになっている。
 朝日新聞は本紙でできないことを、薬師寺某らの「アエラ」にやらせているのだろう。明瞭に「行き過ぎ」にならないように抑えてはいるが、<天皇・皇室の「政治」的利用>に他ならない。そうでないと、この記事の趣旨・主眼は何か、ということになる。
 朝日新聞は、いよいよゲリラ戦法に出てきたか、という思いがする。
 朝日新聞は、まさに「政治運動団体」だ。

0086/岩波書店はまともな出版社か。中川八洋の本をきっかけに。

 すでに同感の方々には新奇な言葉ではないだろうが、岩波書店はやはりまともな出版社ではない。
 中川八洋・保守主義の哲学によるとこうだ。
 ルイ16世は無実の者は勿論重罪人でも殆ど死刑にしなかったが、ロベスピエール・ジャコバン党は「ギロチンをフル稼働して」「あっという間に数十万人を無実の罪で処刑し虐殺した」(p.168)。ルイ16世も1793年に「処刑」された。
 そのような成り行きに「道徳的腐敗と自由の終焉を見抜いた」のが英国のバークで、1790年に『フランス革命の省察』を刊行して批判した。
 このバークの本への反論書がトマス・ペインの『人間の権利』のようで、このペインの本を、岩波は1971年5月に文庫化して出版した。
 ところが、その批判の対象だったバークの本を出版したのは(すでにみすず書房が出版していたが-これを私は持っている)、何と30年近く遅れての2000年7月だった、という。
 いつかも書いたように岩波は<世界の名著・古典>を公平・中立に選んで出版しているのではない。
 しかも、中川によればだが、岩波版のバーク『フランス革命の省察』の翻訳(中野好之氏による)は「出版社の何らかの指示があったしか思えない」ほどの「極度にひどい訳」だという(p.176-7)。
 岩波書店の<出版戦略>を想像すると、次のようなものだろう。第一に、日本の「進歩」勢力・「革新」勢力、要するに「左翼」(あるいはマルクス主義陣営)にとって都合の悪い内容の本は、いかに諸外国では出版され多数読まれていても、そもそも出版しない。
 第二に、出版するとしても、その翻訳は、「左翼」(・マルクス主義陣営)にとって悪い影響を与えないように、正確なものとはしない。この例を、上の中川は指摘しているのだと思われる。
 第三に、出版するとしても、、「左翼」(・マルクス主義陣営)にとって悪い影響を与えかねない部分は翻訳しない、つまり一部を抹消・削除して(かつその旨を明記することなく)翻訳・出版する。
 記憶のみに頼るが、たしかジョンストン『紫禁城の黄昏』がこの例ではなかったか。今、Wikipediaを参照してみると、「岩波版で省略された章には、当時の中国人が共和制を望んでおらず清朝を認めていたこと、満州が清朝の故郷であること、帝位を追われた皇帝(溥儀)が日本を頼り日本が助けたこと、皇帝が満州国皇帝になるのは自然なこと、などの内容が書かれている。/岩波文庫版が、「主観的な色彩の強い」として原著の重要部分を省いたことは、原作者に対する著作者人格権の侵害にあたるという意見もある」等とある。
 もっとも、同書の「あとがき」で訳者(入江曜子+春名徹)は「主観的な色彩の強い前史的部分である第一~十章と第十六章『王政復古派の希望と夢』を省き、また序章の一部を省略した」と明記しているようだ(私も、所持している本p.504-5で確認した)。だが、「主観的な色彩の強い」からという理由だけなのかどうか、あるいはそれは翻訳省略の正当な理由になるのかどうか、という疑問を生じさせる。
 ついでに書くと、雑誌・世界に1970年代には連載されていた「T・K生からの通信」は、これまた記憶によると、少なくとも韓国在住の者が書いた文章ではなかったらしい(日本で書いていたのが「反体制」韓国人だったのか日本人だったのかは忘れた)。
 韓国・ソウル等での反体制運動の動向等を紹介していたはずなので、この連載記事は「大ウソ」・「ペテン」ということになるのではないか。
 なお、やや余計ながら、岩波書店の四代目社長は安江良介(1935-98、世界編集長1971-88)で同年生まれの大江健三郎ととても親しかったらしい(これはちっとも不思議ではないが)。

0072/大江健三郎とは何者か-反天皇・反皇室心情で日本の勲章拒否して中国に「土下座」旅行。

 大江健三郎に関する本に、谷沢永一・こんな日本に誰がした(クレスト社、1995)がある。表紙にもある「戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状」との副題はスゴい。この本は20万部売れたらしい。大江は谷沢永一・悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊 12人(クレスト社、1996)の対象の一人でもあるが、「悪魔の思想」とはこれまた勇気凛々の タイトルだ。
 皇太子・秋篠宮両殿下の次の世代の悠仁親王ご誕生への慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていたとき、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、とふと思った。その理由は、つぎのことにある。
 谷沢永一の上の第一の本の引用によれば、大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。また、岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が悠仁親王に関する大江のコメントを求めたら面白かった(というのは皇室に失礼な表現かもしれないが)と思う。大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 大江については、鷲田小彌太他二名・大江健三郎とは誰か(三一新書、1995)という本もある。但し、鷲田以外は文学系の人のためか目次にある天皇制・戦後民主主義との関係等は内容が貧弱だ。同じ年刊行の上の谷沢氏の本の方が大江を広く読んでいて、論評として勝れている。
 もっとも、鷲田の大江への厭味は十分に伝わり、大江が天皇制に批判的であることも明記してある(p.259)。それにしても鷲田によれば-私自身の経験と印象ともほぼ合致するが-大江の小説は「ある時期から特定の文学評論家や研究者以外には、読まれなくなった…。特殊のマニア以外には、買われなくなった…。難解なのか、つまらないのか。私にいわせれば、その両方である」。ノーベル賞で重版が続いたらしいから「売れない、というのは当たっていないだろう。しかし、売れたが、読まれなかった、読もうとしたが、冒頭…で断念した、という人がほとんどだった、といってよい」(p.261)。  これらが事実だとしたら(そのように思えるが)、そもそも大江にノーベル文学賞の資格はあったのか、「文学」とは何かという疑問も生じる。ふつうの自国々民に愛読者が少なくて、何が世界の文学賞様だ、とも思える。司馬遼太郎や松本清張等々の方がふつうの日本国民にはるかに多く読まれ、かつ意識に大きな影響を与えたことに異論はないだろう。この二人については、生前から「全集」が刊行されていた。三島由紀夫にもある。大江作品・エッセイの全てを網羅した個人全集はまだないのではないか。大江は実質的には将来に影響を与えない、名前だけ形式的に記憶される作家になる可能性があるように思うのだが。
 大江について雑談風に書けば、彼は東京大学文学部入学・卒業を「誇り」にしていただろうが、いわゆる現役ではなく一浪後の合格だったことにコンプレックスを持っていたようだ。というのは、手元に元文献はないが間違いない記憶によれば、一年めに英語か数学ができなくて途中で放棄して不合格だったがその年は例年よりもその英語か数学がむつかしくそのまま最後まで受験していたら合格した可能性が十分にあった旨をクドクドと書いてあるのを何かで読み、何故こんなにこだわっているのか、何故長々と釈明するのか、自分の「弱味」意識が強く内心の翳にある、と感じたことがあるからだ。大江はきっと、平均人以上に、「世間」を強く意識している自意識過剰の人物なのだろうと思われる。
 元に戻って、再び大江の天皇・皇室観の問題に触れれば、大江健三郎が明確に語っていないとしても、かつての自衛隊や防衛大学校生に関する発言から見て、彼が反天皇・皇族心情のもち主であることは疑いえない。
 大江は、ノーベル文学賞を受けた1994年に文化勲章受賞・文化功労者表彰を、「戦後民主主義」者にはふさわしくない、「国がらみ」の賞は受けたくない、という理由で拒んだ。だが、何と釈明しようと、大江は要するに、天皇の正面に向かい合って立ち、天皇から受け取る勇気がなかったか、彼なりにそれを潔しとはしなかったからではないか。明確に語らずとも、怨念とも言うべき反天皇・反皇室心情をもって小説・随筆類を書いてきたからだ。
 表向きの理由についても、「戦後民主主義」者うんぬんは馬鹿げている。大江にとって天皇条項がある「民主主義」憲法はきっと我慢ならない「曖昧さ」を残したもので、観念上は天皇条項を無視したいのだろうが、「戦後民主主義」にもかかわらず天皇と皇室は、憲法上予定されている存在なのだ。敗戦時に10歳(憲法施行時に12歳)で占領下の純粋な?「民主主義」教育を受けた感受性の強く賢い彼にとって天皇条項の残存は不思議だったのかもしれないが、憲法というのは(法律もそうだが)矛盾・衝突しそうな条項をもつもので、単純な原理的理解はできないのだ。
 「国がらみ」うんぬんも奇妙だ。彼が愛媛県内子町(現在)に生れ、町立小中学校、県立高校で教育を受け、国立東京大学で学んだということは、彼は「国」の教育制度のおかげでこそ、(間接的な)「国」の金銭的な支援によってこそ成長できたのだ。「国がらみ」を否定するとは自らを否定するに等しいのではないか。
 大江は一方では、スエーデン王立アカデミーが選定し同国王が授与する賞、かつ殺人の有力手段となったダイナマイト発明者の基金による賞は受けた(なお、スエーデン王室は17世紀以降の歴史しかない)。さらに、2002年には皇帝ナポレオン1世が創設したフランスの某勲章を受けた、という。こうした外国の褒章を受けるにもかかわらず、天皇が選定の判断に加わっているはずもない日本の文化勲章のみをなぜ拒否するのか。その心情は、まことに異常で「反日」的というしかない。
 その彼は月刊WiLL2006年12月号によると-石平・私は「毛主席の小戦士」だった(飛鳥新社、2006)の著者が執筆-同年9月に「中国土下座の旅」をし、中国当局が望むとおりの「謝罪」の言葉を述べ回った、という。「九条を考える会」の代表格の一人がこうなのだから、この会の性格・歴史観もよくわかるというものだ。
 大江の中国旅行についてもう少し書くと、大江と相思相愛の朝日新聞の2006年10/17付には大江の中国訪問記が掲載されたらしい。石平の引用によると、1.南京「大虐殺」の証言者老女に会って、彼は日本の「国家規模の歴史認識スリカエ」への抵抗を感じたらしい。どのように感じようと勝手だが、「従軍慰安婦」も南京「大虐殺」も(後者に含められることがある「百人斬り競争」も)、さらに所謂日華事変の発生原因、対日政策にかかる中国共産党とコミンテルンの関係、国民党内への共産党の「侵入」の実態等々もユン・チアン等のマオ(講談社、2005)の作業も含めて、「歴史」は見直されている。それらはアメリカや崩壊後の旧ソ連の資料を使って内外の研究者によってなされているようなのだが、「国家規模の歴史認識スリカエ」とは、大江はよく書いたものだ。約70年前の諸事件の「真実」がとっくに明らかになり確定していると考える方がおかしい。ましてや中国共産党の戦前の資料等はまだ公開されていないのだ。
 2.大江は南京師範大学の研究者の講義には「政治主義、ナショナリズムから学問を切り離そうとする態度」が明らかだったと述べたとか。中国共産党支配国の「学問」がそうだったとは全く信じられない。元朝日新聞の某氏の如く彼らの言うことを「純粋」に信じているのか、「政治的に」嘘を書いているのか。
 というような感想をもちつつ旅をした大江は石平によると、中国共産党政治局常務委員で宣伝・思想教育担当の李長春との人物と「接見」した。大江は純粋な作家ではなく中国に都合のよい「政治的」発言者として遇された、と言ってよい。また、大江は謝罪をし「歴史認識」・「靖国」等を各地で多用したが、「戦後民主主義者」のはずなのに「民主主義」や「人権」という語は一度も使わなかった。また、中国の某サイトは、一昨年10月に小泉首相の靖国参拝があったとき大江は中国人作家関係者への弔電の中にとくに「日本の政治家は常に中国人民の熱意を裏切っている。日本の政治家の…卑劣な行為に私は恥ずかしく思っている」と述べていたことを明らかにした、という。
 作家が政治的行動をしてもよい。三島由紀夫、石原慎太郎しかり。だが、大江を何となく「良心的」な作家と誤解して、その完全に「媚中」・「屈中」的な、かつ反天皇・反皇室的な、完璧に「政治的」行動者たる性格を知らない人がまだ日本国民の一部には残っているのではないか、と怖れる。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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