一 産経新聞6/15潮匡人のコラム「断」(何故か電子情報になっておらず「関連づけ」できない)によると、結構な各界トップが名を連ねた「地球を考える会」が、5/21に福田首相に対して「日本国内で地球愛確立の国民運動を起こす」等を提言した。また、その1週間後の政府広報は、「【日本人=地球人】として誠実に」という見出しの福田首相発言を掲載した。
 潮匡人が指摘するように、「地球人」も「地球愛」も意味がよく分からない。潮いわく-「地球愛も地球人も無意味で軽薄な偽善である」。
 二 不誠実で軽薄な偽善であるくらいならよいが、日本人・日本国民を素通りさせた「地球人」・「地球市民」・「世界市民」等の強調は、<日本人・日本国民>意識の涵養を抑制し又は軽視・否定するための<左翼>の戦術であることに注意しなければならないと思われる。上の潮の叙述のとおりならば、政府広報もこの戦術にひっかかっている。
 樋口陽一・ほんとうの自由社会とは(岩波ブックレット、1990)は、ロマン・ロランが言ったという次の言葉を肯定的に引用している(p.60)。
 「私がフランス人であることは偶然だが、私が人間であることは必然だ」。
 樋口は、<私が日本人であることは「偶然」だが、人間(=地球人=地球市民)であることは「必然」だ>とでも言いたいのだろう。
 しかし、これらの言葉は誤っている。
 フランス人として生まれるか日本人として生まれるかは、たしかに「偶然」かもしれない。しかし、「人間」として生まれてくるのかどうか、他の生物として生まれてくるのか、それそも何としても<生まれてこない>のかも、全くの偶然にすぎない。
 「私が人間であることは必然だ」というのは人間として生まれた者だからこそ言えるのであって、そうでない者(?)も含めれば、全くの偶然にすぎない。人間に限っても、何かの偶然で生まれなかった人間は生まれた者の何億倍も無数に存在しているはずだ。
 樋口の人間観は、けっこう底の浅いものだ。
 人間、そして「人権」というものの<普遍性>を語るために、「人間」であることの「必然」性などを語るべきではない。
 三 そもそも私は樋口陽一という人物の基本的発想を疑問視、危険視しているので、上の点だけに限りはしない。これまでも書いたし、今後も書きつづけていくだろう。戦後日本の<風潮>を形成した「左翼」憲法学者の代表的一人と目されるからだ。