秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

国家

1279/<左翼>愛好の「国家のゆらぎ」論を萱野稔人が批判。

 Think global, Act local というスローガンかモットーのようなものを読んだことがある。<グローバルに考え、ローカルに行動せよ(しよう)>ということだ。
 この二つにあえて反対する必要はないようにも見えるが、当然ながら、重大なことに気づく。
 グローバル・「世界」・「国際」・「地球」とローカル・「地域」との間の、<国家>がすっぱりと抜け落ちているのだ。
 上記は、ナショナルに考え、行動することは絶対にしたくないという、<左翼>の標語なのだろう。
 「国家」、そして「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたいというのは、遠い将来の<国家の死滅>を予言し最終目標とするコミュニズム・「共産主義」に親近的な者たちの考え方でもある。
 エンゲルスの著-家族・私有財産および国家の起源-は、コミュニストたちが廃棄したい三つのものを明確に記していた(この著の前にルソーは「家族」について実践していたが)。
 そういう人々は近年、<国家のゆらぎ>ということを語りたがる。それは一つは、単一の近代国家が統合へと向かう兆しによって生じており、EU(欧州連合)はその好例だとされる。日本近辺については、<東アジア共同体>なるものを目指すことを肯定的に語る者もいる。
 いま一つは、単一の国家内部で、「国家」と社会または民間の境が曖昧になりつつある現象として表れているとされる。国家の事務の範囲・役割が不明確になっていることを前提とする、公共事務の<民営化>も、そうした傾向の重要な一つだとされる。
 だが、<国家のゆらぎ>を積極的・肯定的に語りたがる者は、「国家」・「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたい、<左翼>の学者や評論家たちだと思われる。
 萱野稔人は<保守派>だとは見なされていないようだが、「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが…」という一文を含む文章を朝日新聞の2015.01.18朝刊に書いていて、その内容は納得できるものだ。
 萱野稔人は、「国家のゆらぎ? ゆらいでいるのは米の覇権」と題し、昨年のクリミヤ半島ロシア編入、「イスラム国」、スコットランド独立住民投票に言及したあと、「これまでの国家の枠組みをゆるがすようなできごとが相次いだ」が、「これらの動きを主権国家そのものの衰退ととらえることには無理がある」と断じる。そして、ウクライナ・イスラム世界での出来事は「国家そのもののゆらぎではなくて、米国の覇権のゆらぎである」とする。
 そのあと、さらに次のように述べる。
 「国家のゆらぎについてはこれまでも、グローバリゼーションによって国境の壁は低くなり、国家は衰退していくのではないか、ということがとりわけ日本では盛んにいわれた」。しかし、サッセンの近著はそうした見方を「表面的で稚拙な見方だと批判」し、「グローバリゼーションによって国家の主権は消滅するのではなく、新たな役割を担うだけだ」としており、ドゥルーズ=ガタリの近著も「資本主義と国家の関係を理論的に考察」しつつ「(資本が国家を)超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない」ととしている。
 最後に、つぎの一文でまとめられる。
 「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが、国家を正面から考えるためには、そもそもそういった発想自体が問い直されなくてはならない」。
 <国家のゆらぎ>を語りたがる日本の<左翼>学者等は、「表面的で稚拙な見方」を改め、その「発想自体」を問い直す必要がある。
 ところで、「日本のリベラル派の言論人」の言説を多数掲載してきたのは朝日新聞で、そのような者の書物を多く刊行しているのも朝日新聞出版だ。上の萱野の文章における批判的指摘は、朝日新聞に対しても向けられていると見るべきだろう。だが、朝日新聞は<事前検閲>をして掲載中止を求めることはしなかった(又はできなかった)。この寄稿の担当者は、どういう気分で読んだのだろうか。

0675/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)を読む-その2

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、この欄の1/29に「自由主義・『個人』主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1 」と題して、p.57-60あたりに言及した。その後、佐伯・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)へと回ったので、間隔が空いたが、「その2」を続けてみよう。
 1 ・「通俗的リベラリズム、すなわち抽象的な個人、本来何物にも拘束されない個人から出発すると、国家はもっぱら個人の自由の対立物と見なされる」。だが、個人が「伝統負荷的」だとは「国家負荷的」でもあるということだ。国家の解体・衰弱は「個人」も空中分解させる(p.61)。
 ・80年代以降の「個人」と「国家」の矛盾を「やり繰り」するためには、「何物にも拘束されない個人の自由」から「話を始めることをやめなければならない」。かかる「近代主義から決別しなければならない」(p.65)。
 論点は異なるが、もともと「国家」とは「個人」を含む概念かどうかという問題がある。両者を対峙させ、後者の前者からの「自由」、前者の後者(の生命・財産)を「保護する責任」を説くという用法もかなり広く見られる。だが、もともと、主権・領土・国民という三要素を持つとされる「国家」の場合は、その一部・一要素として「国民」を含み込んでいる。とくに社会系学問分野において、この「国家」概念自体が明確にされて議論されているのかどうか。場合によっては、「国家」と「統治(政治)権力」とはきちんと区別して論じる必要がある。但し、主権は「国民」にあるとし、「統治(政治)権力」者は最終的には「国民」だと説明し始めると、またややこしくなる。とすると、「…権力」はやめて、国家と区別される「統治機構(担当者)」と語るべきか。簡単には「政府」という言葉も使われている。だが、この「政府」概念は、<地方政府>=地方自治体を含みがたいという難点があると思われる。そもそも現在の地方自治体は<(地方)政府>といえるほどの実体があるのか、という問題も含めて。だが、地方自治体も「統治機構(担当者)」ではあるだろう。
 2 ・冷戦終結以降の一般的認識はイデオロギー・思想の時代は終わったというもので、代わって「その場しのぎの現実主義」、ほぼその自動的結果としての「大衆迎合主義」が登場している。1993年以降の二つの連立政権(非自民細川・自社さ)も「依然として、慣れ合いと大衆迎合に基礎」をもつ、「大衆迎合的現実主義」の産物で、「五五年体制から一歩も出ていない」(p.66-67)。
 ・「生活者重視」たるキーワードは、元来は「経済的自由主義」・「消費者主権」という陳腐な、だが「決して自明なものとして流通」できない概念の言い換えなのだろう。だが、「生活者」との語によって、「経済的自由主義」・「消費者主権」概念の問題・「まやかし」が隠蔽されている。「場当たり的現実主義」が、「思想的課題」を排除している(p.68)。
 ・政治家のみならず、「おおかたの」学者・ジャーナリスト等の「知識人」も「確かな見通し」をもてない。自国(国益)中心の経済的枠組みを作る必要があるのに「経済的自由主義」を、「民族主義」の噴出にかかわらず「グローバルなデモクラシー」を、建前とせざるをえない、という「思想的混乱」が現出している(p.70)。
 この本は1996年刊なのだが、上のような諸指摘は2009年の日本についても、なおそのまま妥当しているのではないか。

0606/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む-06。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む。
 第一章・第3節「本書の戦略とその展開」
 1 本書の戦略
 (1)本書の基本的ねらい
 リベラリズム・「法の支配」・市場経済システムの三者の目的は不可分で相互補完的と論じること。これらが相互補完的なとき、「国家の強制力は最小化されるだろう」。市場否定論ではないが、市場万能論でもない。
 この三者の相互関連を明らかにするため、<リベラリズム-市場-「法の支配」>の順で論議する。ハイエクが代表する「オーストリア学派の社会経済哲学」に依拠する「戦略」をとる。
 (2)本書の傾向―ハイエクの影響
 ハイエキアンの著作だとの予見をもってよい。
 ハイエクとハイエキアンの立場をスケッチする(省略)。
 (3)古典的リベラリズム
 本書の「古典的リベラリスト」とは以下の特徴の思考に賛同する人々を指す。
 ①国家の最大・適切な任務は「公共財の提供」=市場で提供できない財・役務の提供
 ②公共財の提供以外は「可能なかぎり」市場・私人に委ねる方が賢明
 ③市場の機能は国家に依存し、国家も市場に依存すること等を強調する
 かかる思想は程度の差はあれ、A・スミス『諸国民の富』に影響を受けている。
 古典的リベラリストは国家をつねに否定的に見ない点で無政府主義者と、国家の強制力につねに懐疑的でもない点で徹底したリバタリアンと区別される。古典的リベラリストは国家・市場の役割分担に適度なバランスを持たせようとする。マルクス主義者にとっては極端なアンバランスだろうし、ケインジアンにとっては適度とはいえないバランスかもしれないが。
 (4)オーストリア学派
 C・メンガーらのオーストリア学派は、社会科学全般にかかわる重要な理論を提示した。
 ①<価値は、希少な財に対して個人の知識が与える限界効用で決定される>との限界効用の理論。
 ②<行為とは、限られた知識を利用しつつ、外的環境の変化に対応しようとする人の行態>との行為理論。
 <限られた知識>と<時間の流れ>。この二つの不確実な要素に取り囲まれている人間像を描いたオーストリア学派の知見は人にとっての自由の意味、国家の役割等々を考えていくうえで「目から鱗」だった。これを、私は読者に伝えようとする。
 以上、p.18~21。

0585/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ(6)-「個人」・「個人主義」・「個人の自由」/その3

  三 ふたたび、佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)から。
 「『何にも負荷されない個人』という前提をしりぞけると、個人とは何なのか。実際には、個人は…、何らかの『伝統』の文脈と不可分」だ。「人は、ただ書物や頭の中で考えたことによって価値を学び、行動の基準を手に入れるのではな」く、「日々の経験や実践の中で学んでゆく」。「『個人』と同様、…抽象的で一般的な『実践』などというものを想定」はできず、「『実践』は必ず歴史や社会の個別性の中で」形成され、「必ず『伝統』によって」負荷されている。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出すなどということを期待することを不可能」だ。/(p.59)
 西洋史の中に「古典ギリシャ的伝統、中世的・キリスト教的伝統それに近代的伝統」の三者を区別する者もいるように、西洋人ですら「いくつかの伝統の折り重なりあいの中に生きている」。人間は「伝統負荷的な存在」であり、「『共同の偏見』をとりあえずは引き受けざるをえない」。「リベラリズムは、あくまで、かけがえのない個人という価値に固執する」が、しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえないのである」。/(p.60)
 「リベラリズムは個人という価値にこだわるからこそ、…ある社会の『伝統』にもこだわらなければならない」。「伝統」とは「われわれをほとんど無意識のレベルで拘束し枠づけている思考形式、価値判断の母体」だ。この「伝統」の中には「国家」も含まれ、従って、「『国家』と『個人』の関係について…もう一度考え直さなければならない」。/(p.60-61)
 「通俗的なリベラリズム、すなわち抽象的な個人、本来何物にも拘束されない個人から出発すると、国家はもっぱら個人の自由の対立物とみなされる」。しかし、「個人が『伝統負荷的』であるということは、個人が『国家負荷的』でもあるということだ」。「有り体に言えば、日本人は、とりあえず、日本人であることの宿命を引き受けざるをえない」ということだ。「国家が解体したり衰退すれば、個人も空中分解してしまう」。このことのロジカルな帰結は、「個人は個人を保守するためにも国家を保守しなければならない」ということ。つまり、「私」は同時に「公的」な存在でもある必要がある。「『公的な』(国家的な)存在としてのわたしがあって初めて『私的な』存在としてのわたしが生ずる」のだ。/(p.61-62)
 以上。佐伯啓思は「個人」・「個人主義」を直接に論じているのではなく「リベラリズム」に関する議論の中でおそらくは不可避のこととして論及している。憲法学者・樋口陽一の「思考」・「観念」と比べて、どちらがより真実に近く、どちらがより適切だろうか。

0583/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ―その6・思想としての「個人」・「個人主義」・「個人の自由」

 樋口陽一の文章をあらためていつか再引用してもよいが、樋口陽一その他大勢の憲法学者の「人権」 論の基礎にはその主体としての(自由なかつ自律した)「個人」があり、それを(又はその「尊厳」を)尊重するということが憲法の最も枢要な原理とされる。だが、そのような、個々の自然人たる(アトムとしての)「個人」が(社会)契約によって国家を構成しそれと対峙する、というイメージ自体が、一つの「思想」であり、一つのイデオロギーだろう。
 以下、何回か、<個人主義>を批判又は疑問視する文章の引用のみを続ける。
 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)。
 欧州の元来の定義「ブルジョアジー」がそうであるように「市民」は「まず財産主」であり、それを守るための「安定した社会秩序」を必要とし、「社会秩序の維持」のためには「公共の事柄」への義務・責任を負った。この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」、「日々の経験」、「人々との会話」、「読書」、「芸術」が与えた。/
 「人は、こうしたものを、いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として、身につけることはできない。近隣、家族、友人たち、教会、それに国家、それらを広義の『共同体』と呼んでおくと、様々なレベルでの『共同体』と一切無縁に、人は価値や判断力を身につけることはできない」。/
 近代社会は「封建的」共同体からの「個人の解放」を促し、「通俗的には、共同体からの個人の解放こそが『個人主義』の成立であり、それこそが近代リベラリズムの条件だ」と理解されている。「しかし、これは基本的な誤解であるか、あるいは少なくとも事態の半面を見ているにすぎない。事実上、一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえないし、また仮にありえたとしても、彼は、どのようにして、社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在を学ぶのだろうか。通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の『権利』をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」/
 「しかし、ロジカルにいっても、何の価値や判断力も、さらには恐らく理性さえまだ学んでいない、『無』の個人からどのようにして権利をもち、社会のルールについて判断力をもった個人が生まれるというのだろうか」。
 以上、上掲書p.57-58。
 樋口陽一における<視野狭窄>性・<観念>性・<通俗>性の指摘は、ほとんど上で尽きている。
 (この項、つづく。)

0414/「ナショナリズム」に関する佐伯啓思の短い叙述。

 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社)を読んでいる。掲載してメモ化しておきたい整理が一点出てきたが、その前に、「ナショナリズム」に関する論述を要約して記す。
 朝日新聞・若宮啓文は<ジャーナリズムはナショナリズムの道具じゃないんだ>と言い放った。「ナショナリズム」の箇所に「左翼リベラリズム」・「進歩主義」・「地球市民主義」等のいずれを挿入してもよい筈なのだが、彼はなぜか、「ナショナリズム」だけを持ち出して、その<道具じゃないんだ>と書いたのだ。この若宮啓文は佐伯著をじっくりと読むがよい。
 佐伯は上の本のp.275-6で、次のように述べる。
 1.「国家」とは「ひとつの主権をもつ政治社会」という一つの事実をいう。「ナショナリズム」と呼ばれるものは(「国家主義」ではなく)「国民主義」で、「国民形成についてのイデオロギーや神話を含み」もつ。国民は「言語、文化、価値観を共有した集団」だというのは「神話」で、ルナンが言う如く、「国民」を作り上げるのは「国民であろうとする」「日々の国民投票」だ。それ以上の「国民」観念はフィクションだが、「国民国家」成立のためには何らかのフィクションが必要だった。
 2.「国民」は自生的には形成されず、「主権国家」の形成とともに又はその後で作られたフィクションだ。だが、どのようにしてこのフィクションが作られるかは「国と歴史状況によって」大きく異なる。「同質性」と「多様性」のいずれを強調するかも「状況によって異なっている」。だから、「かりに『国民』というフィクションを固定化したものとして強調するナショナリズムが危険かどうかも、実は、状況によって異なっている」。「ナショナリズム一般が常に危険極まりないなどということは言えないはず」だ。
 前段に少しわかりにくい箇所はあるが、「ナショナリズム」に関する至極常識的な論述ではないか。
 朝日新聞・若宮啓文は、「ナショナリズム」に「国家」の蔭を見て、「戦後日本の知識人の良心と見なされた」「反国家主義」(p.258)の立場又は「隠された」イデオロギーにもとづいて上のような反「ナショナリズム」の言辞を吐いたのだろう。佐伯啓思が指摘するとおり、「反国家主義」・「反権力主義」は<戦後民主主義>思潮の重要な内容だった。

0394/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-03。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む、のつづき。
 第1章・第1節
 2・統治の過剰
 (1)市場に介入する国家  公法的規制・管理が「ここまで来た」日本国家は異常。健全な市民が法令違反不可避、法令の詳細不知で国家機関の指示に依存、は「実に息苦しい」。こうした現状は「統治の過剰」と表現できる。/国民負担率40%は「自由な国家」からほど遠い。/個人・家族への公的給付に「国家の正当性」が「大きく依存」しているのも異常。
 「統治の過剰」は、マルクス主義・ケインジアン政策・社会民主主義等々の副産物だ。これは「現代立憲主義」への批判でもある。
 現代立憲主義のもとでの国家の新任務は<資本主義の歪みの是正>で、景気調整・社会保障・環境保護、中でも所得移転政策・経済政策(財政政策)が中心になる。/これらは自由・平等・豊かさへの善意で考案され、提唱者はリベラリストと自称した(阪本は「修正リベラリズム」と呼んだ)。/
この新種リベラリズムの立脚点は?、新任務は政治道徳上正当化可能か?、その任務の「終わり」はどこ?
 「統治の過剰」は「人々の自由を次第しだいに浸食」している。我々は、国家が我々の自由を管理し分与する現状に鈍感になっている。/「なぜ、こうなったのか」。/ハイエクの回答は以下。
 (2)ハイエクの回答  <1870年代以降の「自由の原則の退廃」は「自由をきわめて数多くの個別的な諸目的達成の手段として国家が指定するものとして、また、通常は、国家によって与えられるものとして、解釈し直したこと」と密接に関係している。>
 「国家による自由」・「実質的自由」への転換が自由を個別化・細分化し始めた。その自由概念への影響は本書の重要課題の一つ。
 大衆民主主義下での政治は、自由を細分化し個別的に「設計主義的に」実質化せんとする勢いをさらに加速させた。
 個々人の自由と市場のもたらすトータルな秩序を正確に予測するのは不可能。なのに大衆民主主義は「近い将来の見通しを人為的に設計して、これを国家の手によって実現しようとする」。景気調整、輸入制限、生産調整、価格統制等。
 大衆民主主義に歓迎される「平等主義は、富の分配の望ましいパターンをも人為的・設計主義的に作り上げようとする」(所得再配分政策)。
 ハイエク等の古典的リベラリストは民主主義と平等主義のもたらす負の効果を「長期的視点に立って、予測し、恐れつづけてきた」。
 以上、第1章・第1節が終わり。p.10~p.13。

0380/佐伯啓思・現代日本のイデオロギーにおける「個人」と「共同体」の一端

 「個人の尊重」はけっこうなことで「個人主義」もそれ自体は問題はないかにも見える。自立した個人と自分自身を理解しているかもしれない憲法学者の中には、<欧米と比べてまだ劣る>、自立した個人たる意識・主体性のない日本国民を(高踏的に)叱咤激励したい気分の者もいるかもしれない。このことは、前回も書き、もっと前にも触れた。
 またかかる<個人>の位置づけは、当然に<国家>という「共同体」と対峙する(場合によっては<対決する>)<国家から自由>な<個人>というものを想定し、前提にしているだろう。
 かかる<個人>のイメージははたして適切なのだろうか。
 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)には引用・紹介したい部分が多すぎるのだが、ずばり「個人」と「共同体」は対立しない」との見出しから始まる部分(p.95-)を以下に要約して、紹介してみる。
 「個人」・「個的なもの」は農村、家族、国家といった「共同体」と対立するもので相容れない、という理解は近代諸科学から「社会主義運動までを貫くモチーフ」だった。その背景の一つにはマックス・ウェーバーの「薄められたマルクス主義」としての<近代化論>があった。「共同体からの個人の解放が自我の確立である、というような思考様式」が教条化し、「呪術的」な権威をもった(p.95-96)。
 だが、かかる思考様式は「もはやほとんど有効性を失っている」。次の「二重の意味」においてだ。
 第一に、家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」。そもそも、一切の「共同体」から解放された「個」というのは「あまりに強引なフィクション」だ(p.96-97)。
 「共同体」の解体によって「個」は「一切の価値体系や規範のルールから切り離される」。そのことに「近代」人は「自由の意味」を見い出し、「近代化」とは「個人の自由の拡大」だと考えた(p.97)。
 しかし、「価値や規範・ルールから切り離された個人」なるものは「不便でかついびつなもの」に帰結する。大勢の「個人」の自由の衝突・確執を調整する、「共有されうる価値の再確認」が必要で、これは「共同体」の再確認を意味する。「個人の自由」とは「その自由の範囲や様式を定める共有された価値、規範」を前提とするのだ。この「価値、規範」を誰かが強引に決めないとすれば、それは「歴史的に生成する」ほかはなく、まさに「共同体」の形成だ(p.97)。
 「家父長的、封建的社会」ならば個人と共同体は対立しうるが、現代日本では、「共同体」と「個人的自由」を対立させることは「さして意味をもたない」(p.97-98)。
 現代日本での「個人の自立」という「不安定な持ち場」からの「共同体」批判は、「個人」自体をいっそう「不安定」にし、それを「空中分解」させるだろう。「個人性」は「共同性」を「離れてはありえない」のだ(p.98)。
 第二に、現代社会では「共同性」は解体されておらず、逆に個人は無意識に「共同性の罠の中に捕らわれて」いきつつある。「個の確立」の主題化、意見・思想の方向性の形成自体が「ある種の共同性」を前提とし、それを作出している。「個の確立」という記号による主題化が「メディア的媒体を通す限り、ある種の共同体がいやおうなく、…作動する」(p.98)。
 現代社会とは「メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会」だ。共同体の解体・個人の主体化という議論自体が「メディアを媒介に主題化」されると、「この議論をめぐる共同化された言説空間」ができてしまう。
 なぜなら、一つに、議論自体の成立が、日本語という表現手段による、「日本社会の歴史的、文化的文脈」の共有を必要とする。ここでは、議論できるグループ・階層という「共同体」が実際には想定されているのだ。
 さらに、かかる主題化自体が「共同化」作用をもつ。「何の相互につながりもない人が共通の主題のもとで一定の思考の規範を共有する」に至るから。人々はかくして、「私」の、ではなく、「われわれ」の「共同体からの解放」を問題にしだすのだ(以上、p.99)。
 メディアが議論をマーケットの極限まで拡散すれば、「われわれ」とは「国民」に他ならなくなる。ここで、「国民」という「共同体」の「不可避性」という新たな問題に到達する。
 以上のように、「個人の確立」が「戦後日本社会の課題」だとの「表現そのもの」が、「日本という共同体の文脈を前提に提起されている」のだ(以上、p.100)。
 このあと、佐伯の論述は「メディア的環境とそれが拡散する市場世界が生み出す新たな共同体」(p.101)から、さらに「国家」という「共同体」へと進み(p.111~)、「国家」と「個人」の単純な対立視を批判し(p.111の「国家とは…、『わたし』と『他者』がおりなす応答の慣習化された体系」だとの定義からすれば、「個人」は国家の一部または国家を前提にしてこそ存在しうるものだ)、「国家への深いシニシズムや「反国家主義」が横行」(p.122)していることの分析・批判等がなされているが、紹介はこの程度にとどめる。
 樋口陽一井上ひさしの「個人」観又はそれに関する議論と十分に噛み合ってはいないだろう。だが、佐伯啓思の議論を読んでいると、樋口陽一や井上ひさし、そして多くの憲法学者が想定しているようにも思われる、「個人」・「社会」・「国家」観が―専門分野の違いに帰することはできないと見られるほど―いかに単純・素朴(そして幼稚)であるかが分かるように感じる。
 多くの憲法学者は文献を通じて<頭の中>でだけ、単純なイメージを<妄想>しているのではないか。自分自身を含む<現実>・<実態>をふまえて、かつより緻密な理論を展開してもらいものだ。
 なお、立ち入らないが、佐伯啓思の議論の中に<マスメディア>が「共同体」にとっての重要な要素として登場してきているのは興味深い。<マスメディア>論にも関心を持ち続ける。

0374/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-01。

 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006.06)、本文計254頁、をメモしながら読んでいく。
 阪本昌成は、「ハイエキアン」を自称する、わが国には珍しい憲法学者だ(広島大学→九州大学)。この人の本の二つをこの欄を利用しつつ読んだことがある。その当時に想定した時期がかなり遅れたが、三冊めに入る。以下、数十回をかけてでも、要約を続ける。
 序章・自由の哲学(p.1~p.5)
 1・公法学における体制選択
 前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」。
 2・自由の究極的正当性
 自由の究極的正当性につき、道徳哲学者は論者により「人間性」や「内心領域の不可侵性」を挙げ、関心を「政治体制」の中での自由に向ける論者は、人により「リベラリズム」の究極的正当性を「正義」、「効用」、「権利」の諸観念に求めた。
 上の問題の解は未だない。自由・リベラリズムの普遍的意義を問い究極的正当性を根拠づけるのは知的に傲慢な態度で、この問題をこの書で論じはしない。自由と同等以上に論争的な概念の「平等」でもって「自由」を理解するドゥウォーキンを支持はできない。
 3・強制力の最小化
 この書の論点を「国家の統治権力と自由の関係」に限定し、「自由への強制を最小化するには、社会的・政治的制度はどうあるべきか」を論じていく。この「制度」は「国家、政府、法、政体、市場、習律、伝統等」を含む。その中でも、「法の支配」という「法制度」と「自由市場」という「経済制度」に目を注ぐ。そうした際、「憲法哲学の書でもあろうとする本書」が「国家の役割・政府権限の限界」に言及するのは当然のこと。
 主要な関心事は、国家は積極的に何をすべきかではなく、何をすべきでないか、だ。在来の国家論は、何らかの価値を積極的に追求しがちだが、そこでの諸価値は茫洋としており、「輪郭のない責務」を(われわれに)負わせうる。本書は、「われわれに明確な責務だけを負わせる国家とその任務はどうあるべきか」を語る。
 本書は国家を「一定の道徳目標を実現するための集団ではなく、個々人に保護領域を与えて、個々人の道徳的目標を実現しやすくするための装置」と把握している。そして、道徳的価値の一つの「自由」を「国家統治のなかで極大化するための接近法」に言及する。この根源的・回帰的な問いを突きつけてきたのは、「政治学」での「リベラリズム」、「憲法学」での「近代立憲主義」だった。
 次章の課題は「現代国家における政府の任務」を検証すること。
 今回は以上まで。
 諸外国の理論・思想には(憲法学を超えて)幅広い知識をもちそれらに依りつつ思索しているようだが、日本の古典への言及がたぶん全くないのは最近にこの欄で書いたことを思い出すといささか鼻白むところはある。また、はたして現実の日本国家・日本社会が阪本の主張する方向に変わりうるかは疑問なしとしない。しかし、「大多数の」憲法学者と異なる思考をしていることは間違いないと見られるので、知的刺激を得るためだけにでも、関心をもって読んでみよう。

-0021/旅をして日本と大江健三郎を考える。

 25日夕方に旅に出た。往復の列車の車窓から見ると、山の樹々の緑は深く、まだまだ日本の自然は美しい。朝鮮戦争の際のゲリラ活動のために朝鮮半島の山は樹木が少ないと某ソウル市民からかつて聞いたことを思い出した。都市部と地方・農村部の「格差」が言われているようだが、邸宅といってよい大きな農家風住宅をしばしばみると、住宅は都市部の方が貧困、「格差」があっても中国や北朝鮮のそれとは質・レベルが大幅に異なるはず、と感じる。
  出立する直前に届いて目次を見て持参した小浜逸郎『いまどきの思想、ここが問題』(1998、PHP)を旅行中に読了した。この中の大江健三郎批判(分析)は秀逸ではないか。大江についてはこの欄で今後何かを書くだろう。上野千鶴子については、小浜が別に本格的に論じているという本を読んでからやはり(再び)何か書こう。小浜は、シタリ顔で論じ、字数を稼いでいるような箇所は別として、予想どおり<面白い>論者だ(たしか24日に、同『男という不安』(2001、PHP)も読了)。
 ただ、一番最後の国家論のうちの「ユートピア」の叙述は批判の対象になりうる。それを予期した「ユートピア」という語なのかと今ふと思ったが、「個の身体が実感しうる範囲の小さな共同体」と国家=「超越的な調整機構」の関係は、日本の戦国時代の一時期又は一地方や「くに」のない縄文式時代を想定すると一般化できないが、前者がつねに論理的に先に成立しているものではなく、後者の(機能・情念としての)「国家」があってこそ前者も平穏かつ秩序をもって成立しうるのであって、前者の存在を論理的につねに先行させるとすれば正しくないようにみえる。
アーカイブ
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
  • 0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
記事検索
最新記事