秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

団まりな

2342/思い出す人々①—団まりな。

 団まりな(本姓・惣川)に最初に逢ったのは、このブログを始めるよりもかなり前だった。敬称省略。
 亡くなっていることを知ったのは2019年11月に彼女の書物に言及する際で、ネット上でだった。団(惣川)まりな、1940年-2014年。享年75。
 死亡の原因等は私には分からない。
 ——
 ある所に入っていくと、先に私を認識したらしい彼女が少し近づいてきて、「惣川です」との挨拶を受けた。
 そのときの微笑み方はずっと変わらなかったように思う。
 ネット上で写真を探していたら、若いときの茂木健一郎と並んで立っている写真があった。その写真よりもずっと穏やかで優しい印象が(私には)あった。
 →No.2080。 →No.2083。
 別のある人が、三井・団一族だ(その血をひいている)、ハーフかクォーターだと言っていたので記憶にとどめたが、これらをとくに意識することはなかった。
 あらためてネット上で確認すると、団琢磨の孫、団伊玖磨とは従兄妹の関係。父親は団勝磨、母親はジーンといったらしい。いわゆるハーフだった。
 両親が日本人だとして、何ら疑わなかっただろう。日本で生まれ、育ったからでもあるに違いない。あの微笑みも、優しい日本女性と何ら変わりなかった。むしろ、より誠実そうだったかもしれない。
 但し、よく思い出すと、眼(眼球)の色が両親を日本人とする人と少し違っていたかもしれない(彼女も日本人だったのだから、奇妙な表現だが)。
 家庭のこと、(惣川という)夫のこと等は全く知らなかった。話題にもならなかった。
 上記の二点も、特段に意識したことは全くなかった。眼の色などは全く。
 千葉県を旅行していたとき、明確に、この辺りに「惣川先生」は住んでおられるのだなあ、と意識したことがある。
 おそらく最初に貰った年賀状に、千葉県のその住所が書かれていた。少し調べて思い返してみると、彼女の存命中に、付近の国道か県道をバスで通過している。
 たぶん最後の年賀状だったのだろうか、全ての手紙・ハガキ類を「生前整理」で処分しているので手元にないが、かなり長く残していた10数枚のうちの一つが彼女の年賀状だった。
 今年になってから廃棄したそれには(こんな文章を書く予定はそのときはなかった)、「〜たちは、〜です。ふぅ。」と余白に手書きで書かれていた。
 「〜」を正確に思い出せないが、意味は分かった。今でも、おおよそは分かる。
 「ふぅ。」という言い方も、彼女らしいと思える。
 いい人で、優しい人だった(私には)。当方の不十分さ、至らなさをむしろ思い出すこともある。
 別のある所で5-6人で食事したとき、私の正面に座っておられたのが「惣川先生」だったと思い出す。きっとあのときが、最後に逢ったときだった。やはり、微笑んでおられた。
 あの人のことだから、<細胞には意思がある>という表現の仕方も、私には(他の一般読者よりも少しは)よく分かるのだ。
 みんな、いずれ死んでいく。いい人も、必ずしもそうではない人も。
 **

2252/熊代亨「『生きづらさ』の根源を…」(2020-06-28)。

 最初はBLOGOS 上で見つけたのだったが、熊代亨が書いていることは面白いし、有益だ。
 池田信夫のものはたぶんすみやかに全てのものを読了しているが、名前(書き手)や主題を見ただけで読む気がしないものも多い。
 その点、シロクマ(熊代亨)氏のようなブロガーを発見するのは楽しい。
 →熊代亨ブログ
 2020.06.28の「『生きづらさ』の根源を…」では、資本主義、人間・生物、仏教等々に論及がある。
 またどこかでこの人は、白衣で仕事をしているときは「精神科医」の「役割」を果たし、脱ぐとブロガーに変身するとか書いて、「役割」論に触れていた。
 各人が自己について認める「役割」、あるいは<演じている(つもりの)>役割というものがある、というような趣旨を含んでいると思われ、「役割」という概念およびこの視点は、identity 論や「自己」論にもかかわって興味深い。
 さっそくに、以下を入手した。但し、まだ読んでいない。
 熊代亨・健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて(イースト・プレス、2020年6月)。
 --や××の書物を読むより、きっと有益だろう。もっとも「益」か否かの判断基準の問題はあるが、少なくとも私には<面白い>だろう。
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 熊代亨は現役の精神科医のようなのだが、「精神科学」には関心を持ってきた。
 一度だけこの欄で、木村敏(1931~)について言及したことがある。
 所持だけはしている、精神科医・精神医学者の書物に、以下がある。
 木村敏・異常の構造(講談社現代新書、1973)。
 木村敏・分裂症の現象学(弘文堂、1975)。
 木村敏・自己・あいだ・時間-現象学的精神病理学(ちくま学芸文庫、2006/原著1981)
 木村敏・時間と自己(中公新書、1982)。
 木村敏・自分ということ(ちくま学芸文庫、2008/原著1983)。
 木村敏・偶然性の精神病理(岩波現代文庫、2000/原著1994)。
 木村敏・心の病理を考える(岩波新書、1994)。
 中井久夫・「思春期を考える」ことについて(ちくま学芸文庫、2011/原著1985)。
 中井久夫・最終講義-分裂病私見(みすず書房、1998)。
 大塚明彦・「精神病」の正体(幻冬舎、2017)。
 ほかに、中野信子のものも一冊くらいは所持しているかもしれない。
 隣接・周辺に広げると、福岡伸一茂木健一郎(例、同・脳と創造性-「この私」というクオリアへ(PHP、2005))、養老孟司から、さらに団まりな(この欄に既出)まで入ってくる。
 もっとも、専門性が高いものも多いことや、私自身の怠惰と時間的余裕のなさで、なかなかじっくりと読書することができない。
 「自己」・「精神」・「名誉心」は、特定の一部の<文学部>出身者だけが扱えるものでは全くない。 

2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。

 「生きているとはどういうことか/生物学者・団まりなに訊く」森達也・私たちはどこから来て、どこへ行くのか-科学に「いのち」の根源を問う-(筑摩書房、2015)の第4章。
 この書物は2015年刊だが、2012-2014年に某小雑誌に連載されたものをさらにまとめたものらしい。そして、団まりなとの対談またはインタビューは2013年1月に行われている(団まりなは2014年3月13日に「急逝」-同書p.156)。
 したがって、団自身の文章ではない。
 面白いのは、物理・化学といった自然科学の「主流」に対する生物学者の批判・鬱憤が、あるいは生物学の「主流」に対する批判・鬱憤が、団まりな・細胞の意思(NHKブツクス、2008)における以上に、明確に語られていることだ。
 自然科学といってもさまざまだ。一括りにして自然科学一般・近代「科学」を論評してはならない。なお、細胞の「自発性」や「意思」の有無は相当程度に言葉の遣い方、表現・強調の仕方の問題で、正しい/誤りの問題ではないと思われる。
 また、奇妙な「文学」畑の人々の中にある、<オレはオレは>の、あるいは知識をひらけかすだけの(つまり衒学的な)<人間論>よりも、はるかに自然なかたちで、理性的・知性的に生物である「人間」なるものに向かい合っているとみられることも、ある意味では感動する。
 以下、要約的紹介・引用のみ。番号は秋月の恣意による。コメントはもうしない。p.125~p.149。
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  森達也によると、団まりなは「ある意味で既成のアカデミズムに喧嘩を売り続けてきた」、また「階層生物学」を提唱した。この「階層」問題から対談・インタビューは始まる。
 「非常に大きなスコープで自然界を眺めると、素粒子・原子・分子と」微細から大へと「積み重なっている」。これは「階層」だ。生物学の範囲でさかのぼると「発生学」となり、さらには「進化学」になる。かつての「発生学」に不満で、「記述的な発生学」ではなく「何がどうなってどういう段階を踏んで」が知りたかったが、当時は「階層性という発想」はまだ皆無だった。
 「分子や遺伝学をやらない」ことが批判された。
 「分子や遺伝を専門にしている人から見れば、生態や行動は学問ではないんです。
 できるだけ物理化学に近い手法で機械などを使って精密な数値を出すことが、彼らにとっては学問なんです」。
 「階層性」についても、その意味が問われ、「証明できないし、再現性も語れない。ならばサイエンスじゃない、と判断されてしまう」。
 「進化論」も再現不可能であることには目をつむり、「遺伝子の相同性を調べるために、数学や統計の手法などについて話し合う」。「つまりDNA」で、「DNAを比較する手法を研究するのが進化学」。「DNA以外のものは、『はぁ』?みたいな感じ」。
  「擬人化」を厭わない。「擬人化すべきとまでは言わないけれども、擬人化を排除したら生物はわからないというのが私のスタンスです」。
 「物理の言葉で生物は語れません。
 当たり前のことなのに『サイエンスとは再現性がなくてはいけない』とか『証明できなくてはいけない』という物理や化学の手法が、生物学に押しつけられている。」
 「今は爛熟期にある分子生物学も、実は生物学ではなくて生物分子学とよぶべき」だ。
  「細胞」が培養皿の中で「別の細胞」と出会い、離れたりくっついたりする。ある場合は接合して「大きなシート」になり、別の場合は「出会っても動いて逃げる」。これを「出会ったり別れたり、一緒にやろうって協働することを『合意した』と記述したとしても、それは擬人化でも何でもない」。
 「細胞が出会ったら、まず自分たちが何者かをお互いに探って、相手を認識する」。ある場合には「お前と俺とでシートをつくろう」と、別の場合には「お前と俺とは違うな。じゃあね」と退く。「出会って、触れて、認識し合って、同族かどうかをチェックして、…何らかの合意で次のステップに行く」か「違うやつだなと思って別れる」。これを「擬人化で説明することに、何の不都合もありません」。
  森によると、団は「擬人化」どころか、「細胞は実際に人のように意思をもってふるまっている」と主張して、風当たりが強い。
 「それ(意思)は細胞の中にあるんですよ。
 だって実際に協働の構造までつくるんだから。」
 「合意という粗っぽい言葉だけではメカニズムまでは示せないけれど、細胞のふるまいをより深く感じるためにはそれでいいんです」。
  「進化論」や「DNA、二重らせんとか塩基の接合とか」では、「絶対に説明できません」。「DNAは細胞の部品」、「自動車で言えばエンジン」だが、「エンジンだけで自動車は語れない」。
 「分子細胞学」を無駄だと言っているのではない。「細胞みたいな混ぜこぜシステム」を扱うのは「モダンな科学ではないなどの下らないことを言いさえしなければいい」。
 「iPS細胞の発見」によって少し風向きは変わった。「分子の言葉だけでは語れない」。「大事なことは、細胞が最小の生きている単位であるということ」だ。
 「バクテリアは最も原初的でありながら、私たちと同じ感覚をすべて持っている。
 それぞれのメカニズムで、努力して一所懸命生きている。」
 バクテリアには「脳」はないが、「私たちと同じ」で、「生きている」。「外から分子を取り入れるとき、細胞膜に埋め込んだ輸送タンパク質により、ATP(…)を消費して取り入れます。人間と同じです」。
 「自発性」ではなく「意思」だ。「だって状況判断みたいなことをするわけ」だから。
 「現代的な"科学"を信奉する人たち」の現象説明では、「本当に知りたかったのは何だったか」を忘れてしまう。
  「進化論」は、「根源的に、物質がだんだんとまとまっていく性質がある、そのまとまり方の一つのセクション-というか、一つの分野かな」と思う。「突然変異と適者生存だけ」では「説明」できない。
 「動脈には弁がある」が、「突然変異と適者生存を満たすために、動脈に完璧な弁を持つ子供」が突然に生まれたとするのは「どうしても無理」だ。「細胞が血流を理解している」と考えたらどうか。「心臓、血管、血流というシステムを構築し、それを実際に使ってみて、一定以上の血流を循環させるには、要所要所で逆流を止めなければ効率があがらないということを経験的に知って、…弁という工夫を思いつき、…流すべき血液の量に応じた弁の洗練(進化)が始まる」、と。 
 「細胞レベルでの脳は全体だと思います。
 システム自身が思考している。いろんな細胞現象をみればそう考えざるを得ないんです。
 細胞は身体全体を脳のように使って生きている。」
  (「バクテリア」-)「プラナリヤ」-「鳥」-「犬」-「猿」、「脳の機能にもやはり階層性がある」。
 「情動を司どる部位は私たちの脳のうんと奥深くにある」が、ニワトリの情動・カエルの情動等と「階層的に考えると、情動の捉え方が大分違ってきます」。
 「情動の起源は、おそらく魚のあたり」だろう。「無脊椎動物となると情動とは言えそうにないから」。「一つの階層の上昇があると思われる」。
 「魚の脳に何を加えたら猫の脳になるのか」。「サルやゴリラやチンパンジーは人と近い」が「でもやはり何かが違う」。これが何故かを考察するのが「階層性」研究だ。
  「細胞」には「三段階の階層」がある。そのうち①「原核細胞」と②「ハプロイド細胞」は、「細胞分裂で無限に増える」。しかし、③「ディプロイド細胞」は二つの「ハプロイド細胞」が組み合わさった「いわば構築物」だ。但し、「このユニットがちゃんと細胞分裂できる」。
 「一個のディプロイド細胞は、自分がちょっと前に二つのハプロイド細胞からできたことを絶対にわかっている」、「こんな状態を続けたらいずれ自分のシステムがた゜んだん変な矛盾をきたしてくることもわかっている」。「だから、リニューアルしなければならない」。 
  「私たちの身体を構成している細胞」は細胞分裂の回数の限度を「知っている」。
 だから、「私たちは捨てられ、次の世代が出てくる」。「人間自身のリニューアルです」。
 80年で終わりであっても、「いいんです」。
 「だってリニューアルの方法が組み込まれている」。「私がまた私になる」のではなく「別の個体になる」のだけれども、「『私』ということはあんまり重要ではない」。
  「自分のシステムをもう一度つくれるのだから、いまあるものが解消してもかまわない。
 そんな感じで、あっさりとしているのだと思います。」
  でも「細胞たち」にも「『生きたい』という意思があることは明確です。絶対に死ぬのはいやだ。そのために工夫する。その工夫の結果として、いろいろと複雑になってきたわけです」。
 例えば、「ミトコンドリアの元となったバクテリアを取り込むための第一段階として、いくつかの細胞同士が集まって自らを大きくした」。次の段階で「DNAをタンパク質で包み込もうと考えた」。「細胞」はこうしたことを「彼らなりの方法でわかっているのだ」。
 「マーギュリス」[Lynn Margulis、1938-2011。生物学者(女性)]が言うように、バクテリアが持つミトコンドリアを「細胞」は「食べた」。そして「食べてはみたものの、消化しないで持っていた方が有利だと気がついた」。そして、そのような「細胞たちが、その後の競争に勝って繁栄した」。
 ミトコンドリアの「意思」との「合意形成」のためには、「最初に、ミトコンドリアをどのように騙したかを考えなくてはならない」。「たぶん、栄養をあげたんです」。「ミトコンドリアは原核細胞だから固形物は食べられない」が、「融合して巨大化すれば」、小粒子や水溶性の「大きな分子」も「飲み込むことができる」。
 10 「自然淘汰」も「適者生存」も強引で万能主義的で、「生物は闘いだ」とのイメージを刷りこむ。しかし、「ハプロイド細胞同士の有性生殖」のように「協力は両方で完全に合意しなかったらできない」。「お互いに溶け合って、また元に戻る」なんてことは「すごい深い協力関係」、「互いに意思」がないと不可能だ。「人は闘う本能」をもつというのは「男性原理に偏った見方」だ。
 11 「宗教」には向かわない。「意思をもつ理由は生きるためです」。
 「細胞も状況判断をしています。そこで判断している主体は細胞しかない。
 ならば、メカニズムがどうであれ、『そこに意思がある』と言えるんです。」 
 親しくしたり逃げたりする「原初的なモティーフ」は、「脳」がなくとも、「絶対に死ぬわけにはゆかないという事情のなかから生まれて」いる。
 「自ら膨大なエネルギーを使って自分の体を成立させるシステムが生命ですから、そのシステムの存続こそが、生きるモティーフそのものなのです。
 「意思やモティーフ」のための「特別の場所は存在しない」。「タンパク質やRNA、…それらの複合体が混然と存在する坩堝のような状況」の「細胞の中」に「エネルギー源となる糖の分子がものすごい勢いで入ってきて、<中略>最後は…尿素やクエン酸となって坩堝から外へと排出される」。他にも、「タンパク質や核酸を作り直す反応や細胞膜の素材を合成する反応」など、「何千、何万もの化学反応がネットワークを形成しながら、同時並行で行われて」いる。これらのスピードが遅くなると「システム全体」が破壊され、「エネルギーの流れが低下すれば、全てがほとんど同時に瓦解してしまう」。例えば、「青酸カリの作用は酸素の流れを一瞬乱すだけ」だが、「身体全体が壊れてしまう」。
 「生きるモティーフが細胞そのものに内在する」。「細胞構造の成立そのものが、自らのメカニズムや機能に立脚した抜き差しならないバランスの上に成り立っている」のだ。
 ---
 以上。p.149-p.156は割愛した。
 下は、すべてネット上より。1つめは、茂木健一郎と団まりな。右は団・NHKブックス。

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2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。

 野村泰紀・マルチバース宇宙論入門-私たちはなぜ<この宇宙>にいるのか-(星海社新書、2017)。
 以下は、「まえがき」p.4-p.5 から。野村泰紀、1974年~、理論物理学。
 「我々が全宇宙だと思っていたものは無数にある『宇宙たち』の中の一つにすぎず、それら多くの宇宙においては……に至るまで多くのことが我々の宇宙とは異なっている。
 また我々の宇宙の寿命は無限ではなく、通常我々が考えるスケールよりはるかに長いものの、有限の時間で全く別の宇宙に『崩壊』すると予測される。」
 本書の目標は「マルチバース宇宙論の核心部分」を紹介することだが、「まだ発展途上」であるし、「ひっくり返すような…展開」もあり得る。
 「これは、科学の宿命である。
 科学では、もし旧来の理論に反する新たな事実が出てきた場合、我々はその理論を新たな事実に即するように修正するか、または場合によっては理論自体を破壊しなければならない。
 科学は、理論の構成過程等における個人的信念を別にすれば、最終的には信じる信じないの世界ではないのである。」
 団まりな・細胞の意思-<自発性の源>を見つめる-(NHKブックス、2008)。
 以下は、まず「まえがき」p.10-p.11から。団まりな、1940~2014年、発生生物学・理論生物学。
 「私たちの身体の素材である細胞は、自然科学の対象物として人間の前に登場しました。
 一方、自然科学は、物理学と化学が先行したために、物質の原子・分子構造を解明するものとの印象を、人間の頭に強く植えつけました。」
 このため、「細胞を究極的に理解するとは、細胞の分子メカニズムを完璧に解明することだ」という「教義」が「今も現役で、細胞に関する学問を支配しています」。
 「しかし、細胞はいわゆる物質とは根本的に違います」。
 「細胞をその内部構造や分子メカニズムとして理解」することは人間を「解剖」して「その部分部分の分子構成を調べる」のと同じで、「人間がどのように喜怒哀楽に突き動かされ、ものを思い言語を使ってそれを伝え合い、科学技術を創造し、高層ビルを建てるか、ということについては何一つ教えてくれません」。
 つぎは、同「あとがき」p.218から。
 人間の「細胞」は「膨大な種類の数の化学反応の、想像を絶するほど複雑なバランスの上に成り立って」おり、この「システム」を「分子メカニズムとしてとらえ尽くすことはできません」。
 「細胞を私たちと同じ生き物と認め、共感をもってこれに寄り添うこと」は「擬人的でも、情緒的でも、非科学的でもなくできる」ことを私は「本書で実例をもって示したつもりです」。
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 上の二つを読んで、興味深いことを感じる。
 最大は、「理科」系学問あるいは「自然科学」といっても、対象分野によって、「科学」観はかなり異なるだろう、ということだ。これは理論物理学と生物学、あるいは<宇宙>を対象にするのと<ヒト(という生物)>を対象にするのとの差異かもしれない。いずれも秋月自身と無関係ではないことは、私もまた太陽系の地球上の生物・動物の一種・一個体であることからも、当然の前提にしている。
 また少しは感じるのは、すでに紹介・一部引用した日本の「いわゆる保守派」の論客?である西尾幹二と岩田温の発言が示す<無知>と<幼稚さ>だ。
 西尾幹二は、「女系天皇を否定し、あくまで男系だ」という「日本的な科学」ではない「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題」だと極言し、岩田温は、、「皇室は、近代的な科学に抗う日本文化」の「最後の砦」だとし、かつ「無味乾燥な『科学』」という表現も用いる。
 西尾幹二=岩田温/対談「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック、2019)。  本欄№2074を参照。
 はたして、自然科学や「近代的な科学」はこの両人が語るように戦う対象だったり、「無味乾燥」なものだろうか。J・グレイはこうした幼稚さとは質的に異なる、数段上の<近代科学>・ヒューマニズム批判に達しているようだが。
 「理科」系または「自然科学」分野の研究者を私は個人的に知らないわけではないのだが、上の例えば団まりなは、その文章内容からして十分に「人間らしい」。A・ダマシオもまた、人間の「愛」、「喜び」、「絶望」、「苦悩」等々について語っていた。
 むしろ、「物質」よりも「精神」を尊いものとし、もっぱら言葉と観念で「思索」する<文学>畑の人間の中に、人の「心」や「感情」に関して、じつは「冷たい」・「非人間的な」者もいることも知っている。むろん、「理科」系と「文科」系の人間タイプをこのように一概に分類し、断定しているわけではないけれども。
 以上の感想に含めてはいないが、「科学」という言葉・概念の用い方が一定していない可能性はもちろんあるだろう。
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