秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

啓蒙主義

2130/池田信夫のブログ016-近代啓蒙・西尾幹二。

 池田信夫ブログマガジン2020年1月20日号は「『不自然なテクノロジー』が人類を救う」と題して、この欄で別の著の一部を紹介したスティーヴン・ピンカー〔Steven Pinker〕/橘明美=坂田雪子訳・20世紀の啓蒙(草思社・2019)〔S. Pinker, Enlightment Now: The Case for Reason, Science, Humanism and Progress(2018)〕を紹介するふうだ。
 但し、池田はこの著については「本書のアメリカ的啓蒙主義に思想的な深みはない」とするだけだ。
 そして、むしろ、啓蒙主義によって「人類は幸福になった」とし、科学技術(テクノロジー)は「平和と安全」をもたらした、として、「原子力」の安全性や「環境」の改善等を強調する。
 ***
 この文での「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」等の厳密な意味は問題になりうるとして、また西尾幹二がいかなる気分・「主義」で文章を書いていたかは正確には知らないとしても、以下の西尾の文は、おそらく明らかに「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」に反対・反抗したい<気分>を示しているだろう。すでに、ある程度は言及した。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通2019年11号再収載。p.222。
 ・女系天皇否認は「日本的な科学の精神」だ。
 ・「自然科学ではない科学」が蘇らない限り、「分析と解析だけでは果てしない巨大化と極小化へとひた走って」しまう。
 ・「自分たちの歴史と自由を守るために自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 なお、この対談には岩田温のつぎの発言もある。
 ・「皇室は、近代的な科学に抗う『日本文化の最後の砦』であり、無味乾燥な『科学』では言い尽くせない複雑な人間社会の擁護者であるともいえ」そうだ。
 これらは総じて、天皇・皇室あるいは日本の神話を「近代科学」・「自然科学」の対極に見ていて、後者を疑問視・批判するとともに、「日本」を対峙させる。
 西尾幹二には、「社会科学」を軽蔑するかのごとき、つぎの文章もある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 ・「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 これらには「近代」も「啓蒙」も出てこないが、岩田は別論として西尾幹二は、もともとは西欧から生まれた「近代啓蒙主義」にもとづく、またはそれに連なる人文社会系学問および「自然科学」(生物心理学から宇宙論まで)を批判するという<気分>をもつことが明らかだと思われる。
 <批判>あるいは「限界の指摘」どころか、西尾は「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だとか、「社会科学的知性」が扱わない「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」がある、というのだから、明治期以降に日本も「継受」してきた(和魂洋才?の)「自然科学」・「社会科学」を<否定>するニュアンスすらがある。
 これは困ったものだ。「血迷っている」、と評してよい。
 近代啓蒙、「ヨーロッパ近代」なるものに自分も影響を受けていることを肯定しつつ、所詮は西欧・欧米の「精神」にもとづくものなので、簡単に別の言葉を用いれば、それらにおける「自由と民主主義」=(自民党の名の由来でもあるLiberal Democracy)を「日本」的に修正する、「日本化」することに秋月もまた反対ではなく、むしろそう主張してきた。「自然科学」はよく知らないが、<人文社会科学>の「欧米かぶれ」は今だにひどすぎる、と感じている。日本の「人文社会科学」(ここでは狭義の「文学」を除く)はより自主的で「日本的」なものにしなければならないだろう。
 その意味では、「日本」は「西洋」とも「東洋」とも違うのだろう。
 しかし、西尾幹二のように、「日本文化は西洋と東洋の対立の中にあるのではなく、西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」(上の前者)と発言するのは、「日本・愛国」主義の月刊WiLL(ワック)読者のお気に召すかもしれないが、「血迷った」空文であり、観念的被害意識の発露だ。
 ***
 反近代・反啓蒙には大きく二つがある、とも言われる。
 一つは「右翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界規模での交流についていけず、「民族」・「一国家」、あるいは「非科学的」かもしれない「精神」的なもの・宗教・「神話」等への執着を示す。
 もう一つは「左翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界化は<資本主義の発展>だと見なし、「資本主義」のもとでの科学技術の発展・「大衆文化」の成熟は<資本主義的欺瞞>のもとにあり、「真」の人間の成長にはむしろ有害だと見なす。
 わずかの文章から簡単に推察することはできないが、西尾幹二の近年の上に引用した文章には、上の二つの<気分>が、いずれもある。
 皇室・「日本」・「神話」の重視は、上の「右翼」的反近代論だと言える。
 一方、すでに№2124〔2020.01.17〕に書いたように、「自然科学」と戦うのが「現代」の最大の課題だとか、「社会科学」は(「条件」づくりではなく「真に」)重要な「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題には役立たないとかの旨の言明は、擬似マルクス主義「左翼」である<フランクフルト学派>の「反啓蒙」論(・「反経験主義」)に相当に似ている。
 池田信夫は上記の本文の中で、一般論としてこう記す。
 「啓蒙主義に対して『美しい自然を人間が汚してきた』というハイデガーやアドルノのようなロマン主義は、いつの時代にも絶えない。
 『人類は破滅の道を歩んでいる』とか『西洋文明はもう終わりだ』といった暗い予感は、啓蒙主義より人気がある。
 しかし、西洋文明は終わらない。
 反啓蒙主義者が『帰るべき自然』と考えているものは、西洋文明が自然破壊を破壊し尽くした後に生まれた農耕社会なのだ。」
 「ハイデガーやアドルノののようなロマン主義」とフランクフルト学派は同義ではない。しかし、上の「西洋文明」を(西洋から発達した)「資本主義文明」あるいは「自由主義経済のもとでの文明」と読み替えると、上の「ロマン主義」やフランクフルト学派の基本的な論調と西尾幹二の「気分」はかなり似ている。西尾は、<大衆とは異なる鋭敏な知識人>の一部がかつてそうだったように、現況に「暗い未来」を感じとっているかのようだ。悪化しているとして現況を嘆く(ふりをする)のは「知識人」には「人気」があることかもしれない。
 むろん、両者が全く同じだとは言わない。西尾にはジョン・グレイ<わらの犬>が皮肉っている<道徳主義>・<人格主義>・<教養主義>が多分にある。これらは現代では日本でも相当に廃れている。
 そして、上の点はどの程度にフランクフルト学派論者に当てはまるかは分からないが、西尾はこうしたもの(=人格・教養等)が尊重された(と彼が思っている)時代への「ノスタルジー(郷愁)」があるようだ。
 しかし、<処方箋>を示すことなく、具体的な政策論を展開することもなく、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題が大切だなどと幼稚に言っているだけでは、何も始まらない。
 西尾が資本主義社会と社会主義社会を「相対化」して、共通する「現代」文明の(あるいは共通する「真の?自由」の喪失の)病弊があると言いたいようであることは別に触れることにしよう。
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 思い出したが、西尾幹二は<いわゆる保守派>には珍しい<反・原発>論者だ。ろくに読んでいないから確言できないが、原発・原子力の<安全性>に関する非イデオロギー的・科学技術的議論を行っているのではなく、中島岳志にような「『保守』精神」論から出発したり、独自の「現代文明」論・「現代の科学技術」論を基礎にしているのだとすれば、ろくな結論と論理構成にはなっていないだろう。
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 「各自の、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由の問題」を扱わなければならない、という旨の西尾幹二の高邁な?一文は、おそらくは現に生きている日本を含めた世界じゅうの人間たちのほとんどを「軽蔑」・「蔑視」するものだ。
 「物質」あるいは「物的条件」よりも「こころ・精神」が大切、という主張は一部の宗教家や哲学者によって歴史上、幾度となく語られてきた。西尾が特段新鮮なことを述べているわけではない。
 そもそもは、「脳科学」・「進化心理学」等々は、西尾幹二が知る以上にはるかに、人間の「精神」・「意識」・「こころ」に迫ろうとしている。アメリカが中心のようだが、近代啓蒙の基盤なくして、この分野での急速な進展は生じなかっただろう。
 この点は別として、キリがない話なので池田信夫の上の文章から手がかりを得て書くと、原発によるのであれ何であれ、「電気」エネルギーの助けがなければ、西尾幹二の住居の暖房も冷房もたぶん機能しない。「停電」・電力供給の停止の怖さを、西尾は想像したことがあるのか。「水道」事業もまた、長い歴史をもつ人間の技術的工夫の結果だ(一部は近代以前に遡り、一部では現在なお整備されていない国々が地球にはある)。「死亡率」は戦争・内乱によるのを含めるのかどうか知らないが、「幼児死亡率」とともに各段に下がったと思われる。これは医学・人間生物学・栄養学・薬学等およびこれらに関係する技術的開発の、さらには医療制度(医療保険制度を含む)等の社会制度(・法制度)のおかげでもある。
 常識的なことなのでキリがない。それでも西尾は、自分だけは「こころ」だけで生きているつもりで、いや「こころ・精神」が大切だ、と言い張るのか。「自然科学」と戦う、というその「自然科学」の成果を、西尾自身がタップリと享受している。
 エネルギー供給、交通手段の確保・運営、生活必需品の生産・販売等々、「より快適な条件で生物として生きていく」ために、多くの人々が働いている。
 台風・豪雨等の前や最中には、道路・河川・建物等の安全確保のために「働いて」いる多くの関係者がいる。災害によって生命を失う人もいる。西尾は、冷笑するのだろうか、いや「生命」よりも身の「安全」よりも、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」の方が大切だ、と。
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 「社会科学」もまた、人間で構成される「社会」を対象とするかぎり、その人間の「意志・意思」の決定の過程・ありようは、重要な研究対象となる。<合理的意思決定>論、<意思の自由>論(例えば刑法上の「責任能力」の議論)、<人間・日本人一般または各人の「心理」>等々は、人間一般の又は個別の人間の「こころ」の問題に直接または密接に関係する。経済学も経営学も法学も歴史学も同様。
 キリがないので、この点は別に機会があれば、書こう。
 西尾幹二は、「ふつうの、まともな人間のこころ」を持つのか?

2055/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)② 。
 (5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
 もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
 このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
 むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
 彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
 しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
 さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
 そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
 言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
 このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
 エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
 彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
 かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
 このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
 (6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
 スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
 マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
 これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
 (7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
 魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
 マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
 (8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
 手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
 科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
 ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
 (9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
 マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
 このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
 快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
 技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
 骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
 (10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
 これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
 しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
 人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
 この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
 マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
 (11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
 そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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 第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。

2025/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.376-p.380.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判②。
 (8)一般的に言って著者たちの「啓蒙」概念は風変わりで、彼らが嫌悪する全てのものを非歴史的に構成した混合物だ。実証主義、論理、演繹と経験科学、資本主義、貨幣の権力、大衆文化、リベラリズム、およびファシズム。
 彼らの文化についての批判は-商業化された芸術の有害さについてそれ以来常識的なものになってきた正しい観察は別として-、文化の享受がエリートたちに留保されてきた時代への郷愁に満ちている。つまりそれは、大衆に対する封建的軽侮の気分をもつ、「ふつうの人間の時代」に対する攻撃だ。
 大衆社会は前世紀に、多様な地域から攻撃された。とりわけ、Tocqueville、Renan、Burkhardt およびNietzsche によって。
 ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を労働の分化、「物象化」および交換価値の支配のうちに感知することだ。
 しかしながら、彼らは、マルクスよりもさらに進んだ。彼らによれば、啓蒙主義の原罪は、人間を自然から切り離し、自然をたんなる利用の対象だとして扱い、その結果として、人間が自然秩序と同質化され、それと同じように人間が利用されている、ということにある。
 このような過程は、性質ではなく量的に表現することができるもののみにに関心を持ち、技術的目的に役立つようにした、科学にあるイデオロギーの反映だ。//
 (9)こう理解することのできる攻撃は、本質的にはロマン派的伝統のうちにある。
 しかし、著者たちは、頽廃状態から脱するいかなる方法も提示しない。どうすれば再び自然と親しい友人になることができるかを、あるいはどうすれば交換価値を排除して貨幣や計算なしで生活することができるかを、語らない。
 彼らが提示しなければならない唯一の解決策は、理論的な推論だ。そして、我々は、彼らがその主要な長所だと想定しているのは論理と数学による僭政からの解放なのではないか、と推察できるかもしれない(彼らは、論理は諸個人に対する侮蔑を意味する、と語る)。//
 (10)つぎのことは注目に値する。すなわち、社会主義者は資本主義は貧困を生み出すと公式には非難するけれども、フランクフルト学派がもつ主要な不満は、資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ、そうして文化の高次の(higher)形態にとって有害だ、ということにある。//
 (11)<啓蒙の弁証法>は、現代哲学に対するマルクーゼ(Marcuse)ののちの攻撃の全ての要素を含んでいる。価値の世界に関する実証主義的「中立主義」を主張し、人間の知識は「事実」によって統御されなければならないと強調することによって、全体主義に味方している、とする攻撃だ。
 この奇妙な反理(paralogism)は、経験的で論理的な規準の遵守を現状<status quo>への忠誠やあらゆる挑戦の峻拒と同一視するもので、フランクフルト学派の諸著作に繰り返して何度も現れる。
 かりにその想定する実証主義と社会的保守主義または全体主義(この著者たちはこの二つを同一のものだと見なす!)の間の連結関係を歴史に照らして検討するならば、明らかになってくる証拠は全く異なっている。すなわち、実証主義者たちはヒューム(Hume)以降、リベラルな伝統との親愛関係に入ったのだ。
 明らかに、上の両者の間には論理的関係はない。
 かりに科学的観察がその客体に対する「中立」性を保ち評価を抑制することが<現状>を擁護するということを意味するとすれば、精神病理学的観察は疾病の肯定を意味すると、そしてその疾病と闘ってはならないと、我々は主張しなければならなくなるはずだろう。
 医学と社会科学との間に重要な違いがあることは、認めよう(この論脈でのフランクフルト学派の者たちの論述は人間の知識の全てに当てはまるのだけれども)。
 社会科学では、観察それ自体が、それが社会の像全体を含めて行われるかぎり、主観性をもつ事柄(subject-matter)の一部だ。
 しかし、だからと言って、できる限り価値判断を抑制している科学者は社会的固定主義または社会順応主義者の代理人だ、ということになるわけではない。その科学者はそうであるかもしれないが、そうでないかもしれない。
 そうではなくて、科学者の観察が「外部的」だとか中立的だということからは、何も推論することはできない。
 一方でかりに、観察者が見方について何らかの実践的関心をもつという意味でのみならず、自分の認識活動を一定の社会的実践の一部だと見なしているという意味で「関係して」いても、その科学者は、多かれ少なかれ、特定の関心には通用力のあると見えるものは何であっても、真実だと理解するよう余儀なくされている。特定の関心とは、自分が一体化する、換言すれば発生論的で実用主義的な真実の規準を用いるような関心だ。
 かりに上の原理が適用されるならば、我々が知るような科学は消失し、政治的なプロパガンダに置き代えられてしまうだろう。
 疑いなく、多様な政治的利益と選好は、多様なかたちで社会科学に反映される。
 しかし、これを最小化するのではなくそうした影響を一般化しようとする規準的考え方は、科学を政治の道具に変えてしまうだろう。全体主義諸国家の社会科学について生じたように。
 理論的な観察と討議は、その自律性を完全に喪失するだろう。これは、別の箇所に示されているような、フランクフルト学派の執筆者たちが望んでいるだろうこととは反対のことだ。//
 (12)科学的な観察それ自体は目的(aims)を生み出さない、ということも本当のことだ。
 一定の言明または仮定が科学の一部になる条件を記述する規準の中に、すでに何らかの価値判断が暗黙に示されているとしてすら、このことは言える。
 科学的手続という神聖な規範は、もちろん、探求者が実際的な目的に役立つ何かを発見しようと欲していることによって、あるいは、彼の関心が何らかの実際的関係によって喚起されているということによって、侵害されることはない。
 しかし、事実と価値の二元論を「克服する」というふりをしつつ(多数のマルクス主義者と同じくフランクフルト学派の執筆者たちは絶えずこれを克服していると自負した)、科学の真実がそれが何であれ何らかの利益に従属しているならば、その規範は侵害されている。
これが単直に意味するのは、科学者が自分自身と一体化する利益に適合するものは何であっても正しい(right)、ということだ。//
 (13)経験的観察の規準は、中世遅くから以降のヨーロッパの精神世界で、数世紀の間に進化してきた。
 そうした発展は何がしかの程度で市場経済の広がりと結びついていた、ということは、確実には証明されていないけれども、あり得る。
 他のほとんどの主題と同様にこれにもとづいて、「批判理論」の支持者たちは、歴史的分析を欠いた、剥き出しの主張のみを行う。
 実際に歴史的な連結関係があるならば、そうした経験的観察規準は「商品フェティシズム」の道具であって資本主義の拠り所だ、ということにはまだ決してならないだろう。
 このような前提は全て、実際には本当に馬鹿げたものだ。
 我々がいま考察している執筆者たちは、ともかくも潜在的には、人間の本性からの需要を充足させる何らかの科学上のもう一つの選択肢がある、と考えたように見える。
 しかし、彼らはそれに関しては、何も語ることができない。
 彼らの「批判理論」は実際のところ、理論には誰も否定しようとはしない大きな重要性があるというだけの一般的言明にすぎない。あるいは、思考でもって「超越する」よう我々を誘導しようとする、そのような現存する社会に対する批判的態度のための釈明物と大した変わりがない。
 しかしながら、超越せよとの命令は、どの方向へと現存秩序は超越されるべきなのかを彼らが語ることができないかぎりは、無意味だ。
 この観点からすれば、すでに記述したように、正統派マルクス主義にはもっと独自性がある。正統派マルクス主義は少なくとも、いったん生産手段が公的に所有され、共産主義政党が権力を掌握するならば、わずかに若干の技術的な問題だけが普遍的な自由と幸福の前に立ちはだかるだろう、と主張しているのだから。
 このようなマルクス主義者による保障は、経験によって完璧に否定されている。しかし、我々は少なくとも、彼らが何を言いたいかがが分かる。//
 (14)フランクフルト学派の<啓蒙の弁証法>その他の書物は、産業社会での芸術の商業化や文化的産物の市場への依存という弱さに関して、多数の健全な指摘を含んでいる。
 しかし、著者たちがこのことが芸術全体や人々開かれた芸術の享受一般を頽廃させると主張するとき、彼らはきわめて疑わしい根拠しか持っていない。
 かりに主張がそのとおりだとすれば、例えば、18世紀のカントリー・フォークはある程度の高次の文化形態をもったが、資本主義が徐々にその形態を奪い、粗野で大量生産の対象物と娯楽へと変化させた、ということを意味するだろう。
 しかしながら、18世紀の田舎者たちが、現在の労働者たちがテレヴィジョンから提供される以上に、教会の儀式、民衆スポーツや舞踊のかたちで高次の文化形態を享受していた、というのは明瞭ではない。
 いわゆる「高次の」文化は消失していないが、かつて以上に、比べものにならないほどに入手しやすくなった。20世紀の劇的で形式的な変化を交換価値の支配によって全て説明することができる、と論じるのは、きわめて納得し難い。//
 (15)アドルノはその多数の書物で芸術の頽廃に言及し、現在の状況には希望がないと考えているように思える。つまり、芸術を再活性化してその適切な機能を果たさせることのできる力の淵源は存在していない、と考えているようだ。
 他方で、「肯定的」芸術があり、現在の状況を受け入れて、混沌しかないところに調和を見出すふりをしている(例えば、Stravinsky)。
 また一方には、抵抗する試みもあるが、現実世界に根ざしていないので、非凡な者たち(例えば、Schönberg)ですら現実逃避に走り、自分たち自身の芸術素材の自己満足的王国に閉じこもっている。
<アヴァン・ギャルド>運動は否定の運動だが、さしあたりは少なくとも、それ以上の何も生み出すことができない。
 それが我々の時代の本当のことだと言うのならば、大衆文化や偽の「肯定的」芸術とは違って、文化の破産を表現する、か弱くて気の滅入る真実なのだ。
 アドルノの文化理論の最後の言葉は、明らかに、我々は異議を申し立てなければならない、だがその申し立ては無駄になるだろう、というものだ。
 我々は過去の諸価値を取り戻すことができない。現在の諸価値は堕落して野蛮だ。そして、未来は何も与えてくれない。
 我々に残されているのは、全体的に否定する素振りをすることだけだ。そのまさに全体性によって、内容が剥奪される。//
 (16)これまで述べたことがアドルノの著作についての適切な説明であるならば、我々はそれをマルクスの思想を継承したものと見なすことはできない、というばかりではない。
 アドルノは、その悲観主義という動機でもって、マルクスと真反対に対立している。
 明確なユートピア像を描くのに失敗して、人間の条件に対する最終的な反応は、言葉にならないほどの嘆き声(inarticulate cry)でのみあり得るだろう。
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 第6節の表題は、<エーリヒ・フロム(Erich Fromm)>。

2023/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.372-p.376.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判①。

 (1)ホルクハイマーとアドルノの<啓蒙の弁証法>(Dialectic of Enlightenment)はばらばらでまとまりのない考察から成っているが、一種のシステムに還元することのできる若干の基礎的な思想を含んでいる。
 この書物は第二次大戦の末期に書かれ、ナツィズムの問題を中心にしている。著者たちの見方では、ナツィズムはたんなる悪魔的奇形物ではなく、人類が落ち込んでいる普遍的な野蛮状態を劇的に表現するものだった。
 彼らは、この頽廃状態の原因をまさに同一の価値、理想が恒常的に機能したことに求めた。また、人類をかつて野蛮さから脱出させた、「啓蒙主義」(enlightenment)という概念で要約される規準のそれにも。
 彼らはこれによって、この概念が通常は用いられる18世紀に特有の運動を意味させなかった。そうではなく、「人間の恐怖からの解放と人間の主権性の確立を意図する…進歩的思考という一般的意味」で用いた(<啓蒙の弁証法>p.3.)。
 「弁証法」は、ここではつぎのことに存した。すなわち、自然を制圧して神話の足枷から理性を解放する運動は、その内在的な論理によって、その反対物に転化する、ということ。
 それは実証主義、実用主義および功利主義のイデオロギーを生み、世界を純粋に量的な側面にのみ帰することによって意味を絶滅させ、芸術と科学を野蛮化させ、人類をますます「商品フェティシズム」に従属させてきた。
 <啓蒙の弁証法>は、歴史に関する論述書ではなく、多様な形態での「啓蒙的」理想の失墜を証明するための、手当たり次第に集められたかつ説明のない諸例の収集物だ。
 啓蒙主義に関する若干の序論的論及のあと、この書物には、オデッセイ、マルキ・ド・サド、娯楽産業および反ユダヤ主義に関する諸章が続いている。
 (2)啓蒙主義は世界にある神秘的なものからの人間の解放を追求し、神秘的なものは存在しないと宣言したにすぎない。
 それは、人間が自然を支配することを可能にする知識の形態を追い求め、そのために知識から意味を剥奪し、実質、性質、因果律といった観念を投げ棄て、事物を弄ぶという目的に役立つかもしれないもののみを維持した。
 啓蒙主義は、知識と文化の全体を統合し、全ての性質を共通の測量基準に貶めることを意図した。 
 そうして、その責任によって、科学に対する数学的基準の賦課や交換価値にもとづく経済、すなわち全種類の商品の抽象的な労働時間の総量への変形、の創出が生じた。
 自然に対する支配の増大は自然からの疎外を意味した。そして同様に、人間存在に対する支配の増大を意味した。
 啓蒙主義が生んだ知識の理論は、事物を支配しているかぎりで我々はその事物を知る、このことは物理の世界と社会の世界のいずれについてもあてはまる、ということを意味した。
 啓蒙主義が意味したのはまた、現実はそれ自体では意味を持たず、主体によってのみその意味を取り出すことができる、そして同時に、主体と客体は互いに完全に別々のものだ、ということだった。
 科学は、現実が生じる原因を-まるで神話的思考を掌る「反復の原理」を模倣するがごとく-一度ならず頻繁に発生する可能性をもつものに帰する。
 科学は、範疇のシステムの内部に世界を包み込み、個々の事物と人間を抽象物に転化させ、そうして全体主義のイデオロギー上の基礎を産み出す。
 思考の抽象性は、人間による人間の支配と手を携えて歩んだ。
「散漫な論理、観念領域での支配、が発展させた思想の普遍性は、現実的な支配にもとづいて打ち立てられている」(p.14.)。
 啓蒙主義はその発展形態では、全ての客体は自己認識できる(self-identical)と考える。 ある事物がまだそれではないものの可能性があるとの考えは、神話の痕跡だとして却下される。
 (3)世界を単一の観念システムで、そして生来の演繹的思考で包み込もうとする強い意欲は、啓蒙主義の最も有害な側面であり、自由に対する脅威だ。
 「なぜならば、啓蒙主義は他のシステムと同じく全体主義的(totalitarian)だからだ。
 それが真実ではないことは、ロマン派の対敵たちがつねに非難してきた点にあるのではない。分析的方法、要素への回帰、反射的思考による解体。
 そうではなく、啓蒙主義にとっては最初から過程(<Prozess>)がつねに決まっているということにある。
 数学的過程では未知のものがある等号上の未知の量になるとき、何らかの価値が差し挿まれる前ですら、そのことは未知のものをよく知られたものにしてしまう。
 自然は、量子論の前も後も、数学的に把握することができるものだ。<中略>
 全体として把握されかつ数式化された世界を予期されるように真実と同一視して、啓蒙主義は、神話に回帰することに対抗して身を守ろうと意図する。
 啓蒙主義は、思考と数学を混同している。<中略>
 思考はそれ自体を客観化して、自動的な、自己活性力のある(self-activating)過程になる。<中略>
 数学的過程は、いわば、思考の儀礼になる。<中略> そして、思考を事物、道具に変える。」
 (<啓蒙の弁証法>,p.24-p.25.)
 要するに、啓蒙主義は、新しいものを把握するつもりがないし、そうすることもできない。
 現在にあり、すでに知られているものについてのみ関心をもつ。
 しかし、啓蒙主義の思考規準とは反対に、思考とは、感知、分類および計算という実体のものではない。
 思考は、「連続的な即時物のそれぞれを決定的に否定すること」にある(<そのつどの即時的なものの明確な否定〔独語-試訳者〕>)(同上、p.27.)。-これを換言すれば、推察するに、存在するものを超えて存在する可能性があるものへと進むことに、ある。
 啓蒙主義は、世界を同義反復のものに変える。そうして、もともと破壊しようとしていた神話へと転換させる。
 思考を抽象的「システム」に編成されなければならない「事実」に関するものに限定することによって、啓蒙主義は現在あるものを、つまりは社会的不公正を、神聖化する。
 産業主義は人間的主体を「物象化」し、商品フェティシズムが全ての生活分野を覆っている。//
 (4)啓蒙主義の合理主義は、自然に対する人間の力を増大させる一方で、一定の人間の他者に対する力をも増大させた。そしてさらには、その有用性を長続きさせてきた。
 悪の根源は労働の分割で、それに伴った人間の自然からの疎外だった。
 支配することが思考の一つの目的になった。そして思考それ自体は、そのことによって破壊された。
 社会主義は、自然を完全に外部のものと見なすブルジョア的思考様式を採用し、それを全体主義的なものにした。
 このようにして、啓蒙主義は自殺的行路へと乗り出した。そして、救済の唯一の希望は、理論のうちにあるように見える。すなわち、「真の革命的実践<独語略-試訳者>は、社会が思考に対して許容する無意識状態(<Bewusstlosigkeit>)を物ともしない非妥協性にかかっている」(p.41)という考え方。//
 (5)<啓蒙の弁証法>によれば、オデッセイ伝説は、正確には完全に社会化されるがゆえに個人が孤立することの原型または象徴だ。
 主人公は自分を「Noman」と称することでCyclops から逃げ出す。すなわち、自分を殺すことで、その存在を維持する。
 著者たちは述べるのだが、「こうした死への言葉上の適応は、現代数学の図式を包含している」(p.60.)。
 一般的に言って、この伝説が示すのは、人間が自分自身を肯定しようとする文明は自己否定と抑圧によってのみ可能なものになる、ということだ。
 かくして、弁証法は、啓蒙主義のうちにフロイト主義の側面を持つようになる。//
 (6)18世紀の啓蒙主義の完全な縮図は、マルキ・ド・サド(the marquis de Sade)だった。この人物は、支配のイデオロギーを最高度の論理的帰結とした。
 啓蒙主義は人間を、抽象的「システム」の中にある反復可能で代替可能な(それによって「物象化」された)要素だとして扱う。これはまた、Sade の生き方が意味するところだ。
 啓蒙主義哲学のうちに潜在している全体主義思想は、人間の特性を交換可能な商品と同質化させる。
 理性と感情は、非人格的な次元にまでと貶められる。
合理主義的計画化は、全体主義のテロルへと退廃する。
 道徳性は、弱者が強者に対して自らを守るために、弱者によって策略(manoeuvre)だとして嘲弄され、侮蔑される(これはニーチェが予想したことだ)。
 伝統的価値は、理性と反目している、幻想だ、と宣告される。これは、デカルト(Descarte)による延長された実在と思考する実在への人間の二分にすでに暗示されている見方だ。//
 (7)理性、感情、主体性、性質および自然自体を数学、論理および交換価値という罪深い結合でもって破壊することは、文化の頽廃のうちにとくに看取される。その甚だしい例は、現代娯楽産業だ。
 商業的価値が支配する単一のシステムは、大衆文化の全ての分野を奪取してきた。
 全てのものが、資本の力を永続化することに奉仕している。-労働者が公平で高い生活水準を達成したり、人々が清潔な住居を見出すことができる、といったことですら。
 大量に生み出される文化は、創造性を殺している。
 そのことはそれへの需要によって正当化されはしない。需要それ自体が、システムの一部なのだから。
 ある時期のドイツでは、国家は少なくとも市場の作用に対する高度の文化形態を保護した。しかし、その時代は過ぎ去り、芸術家たちは消費者の奴隷になっている。
 目新しいもの(novelty)は呪いの対象だ。
 芸術作品の製作も享受も、あらかじめ計画されている。芸術が市場競争を生き延びるためには、そうされなければならないかのごとくに。
 このようにして芸術それ自体が、それがもつ生来の機能とは逆に、個人性を破壊したり、人間存在を個性を欠く画一的なもの(stereotype)へと変化させるのに、役立っている。
 著者たちは、慨嘆する。芸術はきわめて安価で入手しやすいものになった、その不可避性が意味するのは、芸術の頽廃だ、と。//
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 ②へとつづく。

2009/L・コワコフスキ著第三巻第10章第1節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章・第1節の試訳のつづき。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート③。
 (11)ドイツ文化に対して惨憺たる影響を与えたナツィズムの勝利によって、当然のこととしてフランクフルト学派の関心は、全体主義の驚くべき成功の心理学的および社会的な原因を考究することへと向かうことになった。
 ドイツとのちのアメリカ合衆国のいずれでも、研究所は、権威を望みその権威に服従する用意のあることを示した民衆の心理を研究する目的で、経験的な研究を行った。
 1936年の共著<権威と家族に関する研究>はパリで出版されたが、経験的観察とともに理論的な検討にもとづくものだった。
 これの主要な執筆者は、Horkheimer とFromm だった。
 Horkheimer は、家族の権威の消失と転移およびそれに対応した個人の「社会化」過程での政治制度の重要性の増大という趣旨で、権威主義的諸装置の成長を説明しようとした。
 Fromm は、心理分析の観点から権威への欲求を解釈した(サドマゾヒズム性)。
 しかしながら、Fromm は、本能と共同的生活の必要の間の不可避の対立あるいは文化の永続的な抑圧的役割に関する、フロイトの悲観主義を共有しなかった。
 フランクフルト学派の執筆者たちは、ナツィズムという現象に多様な側面から光を照らし、その心理学的、経済的および文化的根源を発見しようとした。
 Polleck は、国家資本主義という観点でナツィズムを議論した。彼はこれのもう一つの例を、ソヴィエト体制に見ていた。すなわち、この二つの体制は、国家が指令する経済、国家主義傾向、および強制力による失業の排除にもとづく支配と抑圧という、新しい時代を予兆している、と。
 ナツィズムは従来の資本主義を継続させたものではなく、経済が自立性を剥奪されて政治に従属する、新しい形成物だ。
 この学派のほとんどの執筆者たちは、現今の趨勢、つまり個人に対する国家支配の増大、社会関係の官僚主義化を見ると、個人の自由と本当の文化の見込みは乏しい、と考えた。
 ナツィとソヴィエトは歴史の逸脱ではなく、世界的な動向の兆候だ、と彼らは考えた。
 しかしながら、Franz Neumann は1944年の書物で、より伝統的なマルクス主義的見方を採用した。すなわち、ナツィズムは独占資本主義の一形態であり、その〔独占資本主義〕システムとの典型的な「矛盾」に巧妙に対処することはできないので、その存続期間は必然的に限られている。//
 (12)フランクフルト学派はアメリカで、全体主義体制の特徴である心理、信条および神話を生み出して維持する原因を明らかにすべく、社会心理分析の研究書を出版し続けた。
 これらの中に、反ユダヤ主義に関する一巻本やAdornoらの投影検査法や質問書にもとづく共著<権威主義的人格(The Authoritarian Personality)>(1950年)も含まれていた。
 これは権威を歓迎し崇敬する傾向にある異なる人格的特質の相互関係、およびこれらの特質や階級、養育、宗教のような社会的変数の存在と強さの連結関係に関する研究書だった。//
 (13)Adorno とHorkheimer は生涯にわたってきわめて活動的で、戦後のアメリカとドイツで諸著作を出版し、フランクフルト学派の古典的な文書だと見なされている。
 それらの中には、共著<啓蒙の弁証法>(1947年)、Horkheimer の<理性の腐食>(1947年)および<道具的理性批判について>(1967年)がある。
 Adorno には音楽学に関する多数の書物があるが(<新しい音楽の哲学>1949年、<不協和音-管理社会の音楽>1956年、<楽興の瞬>1966年)、この学派の哲学的概括書である<否定弁証法>(1966年)、実存主義批判書(<本来性という術語-ドイツのイデオロギーについて>1964年)、さらにはそのうちいくつかが<プリズメン(Prismen)>(1955年)に収載された文化理論に関する小論考も、出版した。
 彼はまたScholem と一緒に、二巻本のベンヤミン著作集(1955年)を編集した。
 Adorno の未完の<美の理論>は、死後の1973年に刊行された。
 上記のうち三つの英訳書(<啓蒙の弁証法>、<否定弁証法>、<本来性という術語>)も、1973年に出版された。//
 (14)私は、以下の諸節では、「批判理論」の主要点のいくつかを、年次的順序と無関係に、もっと十分に叙述する。
 Adorno の音楽理論は考慮外にしよう。重要でないという理由によってではなく、この分野についての私の能力のなさによる。//
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 第2節につづく。表題は、<批判理論の基本的考え方(principles)>。

0417/丸山真男全集の一部を読む-欧州「啓蒙主義」追随者・「進歩」主義者の<自認>。

 「保守主義」と「進歩主義」の差違・対比について佐伯啓思が述べている部分を先日に要約した。
 これとの関係で、丸山真男が次のように明確に述べているのは興味深い。丸山真男集・第12巻(1996.08)所収の「『現代政治の思想と行動』英語版への著者序文」にある文章で、これは基本的には1962年に英文で丸山が書いたものを1982年に一部手直しをしつつ日本語化したもののようだ。
 すなわち、「私は自分が十八世紀啓蒙主義の追随者であって、人間の進歩という『陳腐な』観念を依然として固守するものであることをよろこんで自認する」(全集12巻p.48)。
 何ともあっけらかんとしたものだ。これで済ますことができた時代の学者・知識人は<楽>だったに違いない。
 全集のこの巻(1982~1987)には丸山真男とマルクス主義との関連、丸山の思想的背景等を示す文章が収録されていて、資料的価値は高いだろう。
 なお、樋口陽一は、全集第10巻(1996.06)の月報に登場して、丸山真男を「先生」と呼び、丸山のある文章の慧眼ぶりを敬意をもって記す文章を載せている。さすがに<進歩的知識人>の衣鉢を継いだ者というべきだろう。
 ついでに、全集第8巻(1996.02)の月報の執筆者は、日高六郎、三木睦子、筑紫哲也の三名だ。全部を見たわけではないが、岩波が依頼したはずの月報執筆者は、全員がいわゆる「左翼」のオン・パレードではないか。
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