秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

哲学

2042/講座・哲学(岩波)や哲学学者と政治・社会系学者・評論家。

 岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
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 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。

2019/茂木健一郎・生命と偶有性(2010年)。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書1978年、独訳書1977-79年)は、全体に関するPreface、第一巻(・創生者たち)のIntroduction に続いて、第一章(・弁証法の起源)の、見出しのない序説らしきものの後の第一節(数字つき大段落)の見出しを「人間存在の偶然性(contingency of human existence, Zufälligkeit des menschlichen Daseins)」としていた。
 <マルクス主義の歴史>に関する長い叙述の本文を、人間の、又は人間にとっての<偶然性と必然性>という主題から開始していたわけだ。
 ちなみに、その最初の段落の文章は、つぎのとおりだった。合冊版、p.12.
 「存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、現在でもそうだが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)に関する知覚だった。
 哲学的思考を刺激して作動させたこの人間の不完全さという感覚、および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。」
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 茂木健一郎・生命と偶有性(新潮選書、2015年/原書2010年)。
 この書の「目次」をそのまま書き写すと、以下のとおり。
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 まえがき
 第一章/偶有性の自然誌
 第二章/何も死ぬことはない
 第三章/新しき人
 第四章/偶有性の運動学
 第五章/バブル賛歌
 第六章/サンタクロース再び
 第七章/かくも長い孤独
 第八章/遊びの至上
 第九章/スピノザの神学
 第十章/無私を得る道
 あとがき
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 茂木健一郎とは「脳科学者」として知られる人物だが(1962~)、この書の構成・見出しだけからしても、「生命と偶有性」をタイトルとするこの書は「哲学書」でもあるのではないか。
 「まえがき」の中にはこんな一文がある。
 偶有性とはまた、「現在置かれている状況に、何の必然性もないということ」だ。「たまたま、このような姿をして、このような素質をもち、このような両親のもとに生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた」。
 「そのような『偶有的』な存在として、私たちはこの世に投げ出されている」。
 わざわざ引用するほどの珍しい感覚または認識では全くないだろうが、上のようなことを忘れてしまって、当面・直面する、とりあえずの<自分の役割>を果たそうとするだけに終始している人々も多いだろう。
 また、自分がヒト・人間であり、「偶有性」があることも完全に忘却して、当面・直面する<文字のつながる文章作成>作業、つまりは「言葉」世界での加工業にいそしんでいる、とりわけ<文学>畑の評論家類もいるに違いない。 
 やや唐突だろうが、「論壇」人であり、あるいは思想家・哲学者であるためには、「論ずる」こと、思考することも<脳内作業>であること、各人の神経細胞(ニューロン)の連続的「発火」作業であることを、深いレベルで知覚しておく必要があると思われる。
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 L・コワコフスキに戻ると、この人はときどき<人間のMisery>という句を用いている。
 勝手な読み方だが、このMisery=悲惨さ、というのは、特定の地域・時代でヒト・人間として生まれることは「偶然」であり、いつか「必然」的に「死」があること、そしてそれまで生きて「意識」をもち続ける間は<食って>、脳・心臓等々を動かしていかざるを得ないこと、といった意味を含んでいるのではないか、と思われる。
 ちなみに、上の「目次」の中にある「スピノザ」は、L・コワコフスキの最初の研究論文(・研究書)の対象人物だった。
 精神医学者(精神病理学者)と「哲学」研究者の対談が成立していることは、この欄の№1856(2018年10月14日)の精神医学者かつ「臨床哲学」者・木村敏に関する項で言及している。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
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1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

ギャラリー
  • 2066/J・グレイ・わらの犬(2003)「序」②。
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  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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