秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

呉智英

0427/呉智英はやはり奇妙だ-自費出版自体を批判・揶揄。

 新風舎破産→売れずゴミとして廃棄される在庫書籍500万冊→「よくもまあ、こんなに沢山の自費出版本」(「膨大な資源の浪費」)→「素人」が作文することを否定しないが「素人の作文を金を取って売ることを慨嘆」する(「素人の作文は、普通、金をつけて読んでいただくものだろう」)。
 以上のような論の運びを、産経新聞3/20のコラム「断」で呉智英がしている。
 振り返ってみると、昨年3/21に「呉智英には失望した。もうこの人の文章は読まないことにしたい」と書いていた。それ以後この人の本には見向きもしていないが、新聞紙上の文章にはつい目が行ってしまう。
 先週も呉智英の保守派への皮肉?を論理的でないと書いたばかりなので気が引けるが、上の文章の論理展開も少しおかしくはないか?
 呉智英は文末で「自己表現、自分史、文化センターの文章講座、自由で活発な出版制度…」の中に「愚かさと罪深さが潜んでいる」と書いている(そうとしか読めない)。
 この文章も含めていうと、このコラムが自費出版した(しようとした、しようとしている)「素人」を批判しているのは明らかだ。「素人」が作文するのはよいが「金を取って」売ろうなどと考えるな、と主張しているのだ(そのように読める)。
 かかる論旨は必ずしも適切とは思われない。上の根拠が新風舎破産→売れずゴミとして廃棄される在庫書籍500万冊・「膨大な資源の浪費」にあるのだとすれば、問題は新風舎倒産自体に原因があり、その経営・営業方針(勧誘の仕方・事後処理の仕方等々)に問題があったのだろうとまず批判すべきであって、その点には何も触れないで自費出版希望者に批判の矛先を向けるのは<お門違い>ではないか。
 むろん、簡単に有数書店の全てに自分の本が展示されるのを夢見るような、やや非常識と思われる「素人」もいる(いた)だろうが、「自費」を払って(自分史でも何でもよいが)自分を著者とする本を出版したいと思う(そして出版会社と契約した、又は契約しようとする)こと自体を非難するのは奇妙であり、むしろ誤っていると思われる。問題は、そのような需要を逆手に取って<商売>し、失敗する(した)又はもともと<悪徳な商売>をする(した)企業・業者側により多くあるのではないか。
 やはり呉智英はおかしい。自分は産経新聞社から原稿料を受けとる「玄人(くろうと)」であるつもりなのだろう。自らの「玄人」性を微塵も疑わずに「愚かさと罪深さ」をもつ(らしい)「素人」の自費出版希望者を揶揄するとは、相当に傲慢だ。
 産経新聞からの原稿料の一部は当然に産経新聞の読者が負担している。自費出版や「自己表現、自分史、文化センターの文章講座、自由で活発な出版制度」の現状を全面的に肯定しているわけでは全くない。だが、<玄人>然として、<素人>でも気づくような非論理的又は不適切な内容のコラムを書くのはやめていただきたい。

0407/呉智英-産経3/01でまた珍論。

 産経新聞3/01のコラム欄(「断」)で、呉智英がまた奇妙なことを書いている。
 やや単純化すると、三浦和義が米国の裁判でクロになったら、「保守主義者よ、かかる近代国家、法治国家で、道徳の再興を説き、道徳教育の実現を画することが、どうしてできようか」、と言う。
 この論理はあまりにも唐突だが、媒介項としてあるのが、道徳と国家・法律が衝突すれば、近代国家・法治国家では後者が勝つのが自明だ、という主張だ。
 呉智英は率直に言って、莫迦(失礼乍ら=アホ)ではないだろうか。
 道徳と法律が衝突すれば、近代国家・法治国家では後者が優先する(反道徳的でも合法でありうる)という主張はおそらく基本的には(なお後述)適切だ。
 だが、そのことから、「道徳の再興を説き、道徳教育の実現を画する」、「しかめつらしい顔をした」「保守主義者」に対する皮肉あるいは批判がどうして出てくるのか
 第一に、「道徳」に明瞭に矛盾している<法律>が優先するのは、国家の裁判・訴訟という場面での現象で、一般的に「道徳」規範の意味がなくなるわけではない。裁判上は<無罪>であっても<無実>とは限らないこと、その場合に犯罪者は道徳・<良心>による別の(法的ではない精神的)裁きを受けうること、は常識的なことだろう。
 道徳も(近代法治国家では)法律には負ける→道徳の再興・道徳教育の実現を説くことはできない、という論理がいったい何処から出てくるのか。かかる幼稚な論理が公然と語られることに心寒い思いがする。
 第二に、「道徳」と「法律」は別次元に存在しているのではなく、前者の観点から絶えず後者の見直し(=改正)が図られるべきものだ。両者が矛盾することはあるのが当然だが、それが常態となるような社会は健全ではないだろう。
 呉智英のいう「近代国家、法治国家」においても、<道徳>の意味が失われるわけでは全くない。それは、「近代国家、法治国家」の具体的内実を変えていく機能を果たしうる。
 とりあえず以上ですでに十分だが、第三に、①<道徳>の意味、②「近代国家、法治国家」の意味(呉智英は「法の支配」と「法治主義」(<「法治国家」)の異同を知っているのか?)、を呉智英はどれほど明確・厳密に理解したうえで執筆しているのか? ③やや細かいが、(刑事)裁判といっても日本と米国で手続や有罪とするための基準は同一ではないと見られることについて、いかほどの考慮を払っているのか、との疑問もある。(なお、同一国家でも、ある時点で有罪とされたが数十年後の新証拠発見(発生)により再審・無罪となることもある。ということは、その逆も(裁判手続上の認定は無理でも事実としては)ありうるのであり、時間軸を無視した過去と現在の単純な比較は意味がない。)
 呉智英は産経新聞紙上で「保守主義者」を刺激したいようだ。残念ながら、全く成功していない。「保守主義」者という言葉自体がどういう意味で用いられているかも、厳密には不明なのだが。
 ついでに書いておく。「法治国家」という場合の「法」には法律の他に憲法も含んでいるだろう。憲法>法律なのであって、法律でも破れない規範的枠・基準を憲法は定めていて、主として法律制定者(<国家)を拘束する。その憲法の背後又は基礎には、「道徳」と呼ぶかどうかはともかく、より高次の<理念>(<最高規範>?)があるはずだ、と思われる。この「道徳」、基本的<理念>の具体的内容については多様な議論がありうる。
 呉智英は「保守主義者」のみが「道徳」という(「法律」とは矛盾しうる)より高次の規範・価値基準の存在を主張しているかの如き書き方をしているが、「保守主義者」でなく「進歩主義」者・「左翼」もまた、何らかの(「法律」とは矛盾しうる)高次の規範・価値基準の存在を前提にしており、主張していると思われる。
 問題は、「法律」と矛盾しうる高次の規範・価値基準の具体的内容なのだ。政策や法律改正をめぐる議論と闘争は、多様な高次の規範・価値基準のうちどれが適切かをめぐってなされているとも言えるのだ。
 一部では著名らしい(本当か?)評論家らしき者に対してこんな幼稚で常識的なことを書いて時間を潰すのも莫迦ゝゝしく思えたが、せっかく書いたので残しておこう。

0363/呉智英は他人に「バッカじゃなかろか」と言えるか。

 呉智英という評論家が日本国憲法九条擁護派(改正反対派)だということを知って唖然とし、一文を二度に分けて認(したた)めたことがことがあった。
 その呉智英が、産経新聞12/22付の小さなコラムで、つぎのような「妙な」ことを書いている。
 「宮本〔顕治〕の死後、保守系の論壇誌は、彼の関わった戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件を一斉に書き立て、その『非人間性』を非難した。バッカじゃなかろか」。戦前に非合法だった共産党が「革命軍の中に潜入した敵のスパイを摘発殺害して何の不思議があろう」。「近頃、保守派までが革新派と同じようにブリッコ化・幼児化していないか」。等々。
 第一に、宮本顕治逝去後、「保守系の論壇誌」が宮本の関わった「戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件を一斉に書き立て」た、というのは事実なのかどうか。そして、「その『非人間性』を非難した」というのも事実なのかどうか。
 短いコラムなので実証的根拠・資料を示せなくても当然かもしれないが、上の二つは、私には事実とは思えない。
 そもそも「保守系の論壇誌」とはいったいどれどれのことか。正論(産経)、諸君!(文藝春秋)、ヴォイス(PHP)あたりは入るのだろうか。こんな詮索は別としても、私が全てを読んだわけではないが、上のような事実の印象はない。宮本に関する記事の中に「戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件」への言及があっても、それは当然のことだろう。しかし、そのことは、「一斉に書き立て」て、「その『非人間性』を非難した」ということを全く意味してはいない。
 なお、記憶のかぎりでは、産経新聞は、宮本を「マニュアル人間」だったとする、ユニークな見方を示していた。
 呉智英は、実在しない亡霊に向かって吠えたてているのではないか。
 第二に、「スパイ嫌疑者査問致死」は「敵のスパイ」の「摘発殺害」で、戦前では「何の不思議があろう」というが、かかる議論・主張を日本共産党自体、宮本顕治自身が何らしてこなかったことを、呉智英はどう評価しているのか。この問題については、彼は一言も述べていない。
 上の「何の不思議があろう」という見方は当然にありうるだろう(但し、すでに言い古されたことで、新鮮では全くない)。だが、日本共産党も宮本顕治も、懸命になって、「殺人」ではない(監禁・傷害致死ですらない偶発的事故だ)、と強く、一貫して主張してきている(いた)のだ。袴田里見(元副委員長)は、このような主張を維持するための犠牲になって除名されたのだ。
 呉智英は「現在の価値観から過去を裁断してはならないとは、保守派…の口癖」だとし、「その通りだ」とも言っている。呉智英の立場からだと、上のような日本共産党の主張こそが、「現在の価値観から」のもので、当時(戦前)の共産党・革命をめぐる状況・環境を前提としていない、ということになるのではないか。そして、(かりに上記の事実があったとしても)「保守派」とともに日本共産党もまた「バッカじゃなかろか」と批判しなければいけないのではないか。
 (ひょっとして日本共産党の上のごとき主張を知らないのだとすれば、この人に「評論家」の資格は全くない。)
 呉智英の論は、上の如く、重要又は基礎的な事実誤認がある可能性があり、かりに事実誤認がなかったとしても、批判の対象に日本共産党を加えていないという重大な欠陥をもつものだ。
 この人はそもそも「保守派」なのか「革新派」なのか。産経新聞に登場しているからといって「保守派」であるとは限らないということを、某評論家=武田徹の登場によって鮮明に知った。
 そんな右・左もどうでもよい。せめて、事実をきちんと認識したうえで、かつ単純化・一般化しすぎないで(「一斉に書き立て」などという表現は一定の主観混じりの単純化によって目が曇っていることの証左ではないか)、さらに論理性の一貫した内容の文章を書いてもらいたい。
 「幼児化」(あるいは痴呆的老人化?)しているのは、呉智英その人ではないのか。「バッカじゃなかろか」との言葉を簡単に使っていることにも、感情過多・論理性衰弱が窺えるように思われるのだが…。

0105/潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)の渡部昇一による書評。

 産経新聞4/29に、渡部昇一による潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)の書評(紹介)が載っている。
 結論的に、「戦後の日本の平和が日米安保条約のおかげでなく、憲法九条のおかげだと言うのは誰にも分かる嘘である」、こうした「嘘を直視することのできる本書の出版を喜びたい」と評している。
 「誰にも分かる嘘」でありながら、立花隆呉智英はそれを信じているらしいことはすでに触れた。呉智英は、別冊正論Extra.06(産経新聞社、2007)に、「自衛隊、安保条約が平和を護ったのだと主張する人もいる。それも一理あるが、やはり中心にあるのは第九条である」と明言しつつ(p.190)、情報戦・謀略戦の重要性を説く、やや意味不明の一文を寄せている。
 それはともかく、渡部はこの潮の本を肯定的に評価していることは明らかだ。しかし、潮の本は、当然のこととして敢えて言及してもいないようだが、九条を含む現憲法が憲法として有効であること、「現行」憲法であることを前提にしている。
 一方、渡部はどうやら日本国憲法「無効」論を支持しているようで、この書評文の中でも、こう書く。
 「日本の常識が世界の常識からずれてしまった」のは「新憲法と呼ばれる占領軍政策の占領基本法を日本人が「憲法」であると考えるようになったから」だ、「憲法制定が、主権が失われた状態でできるわれがないという明白な事実を、当時の日本人はごまかし」、「そのごまかしは今まで続いている」。
 明瞭ではないが、<占領基本法を「憲法」と考えるごまかし>という表現の仕方は、私が多少の知識を得た日本国憲法「無効」論に適合的だ。
 かかる九条を含む現「憲法」無効論と九条を有効な憲法規範としたうえでそれを「諸悪の根源」とする本の「出版を喜びたい」とする評価は、両立するのだろうか。無効論・有効論に立ち入らずに、憲法としては本来は無効でも現実には通用しているかぎりで、九条が「諸悪の根源」と評価をすることもできるのだろうか。あるいは、渡部はそんな理屈あるいは疑問などを全く想定していないで書評しているのだろうか。
 というわけで、やや不思議な気がした書評文だった。
 潮匡人の本自体は、憲法制定過程には言及していないが、「憲法九条は諸悪の根源」であることを相当十分に論じており、何人かの九条護持論者を名指しで批判し、「戦後レジームからの脱却」のために(「日本の戦後」を終わらせるために)、「名実ともに、自衛隊を軍隊にすべきである」と最後に主張する、軍事問題に詳しい人の書いた、読みやすい好著だと思う。そうした「本書の出版を喜びたい」。 

0097/立花隆は主題と無関係点を長々と書いて突如として結論に向かう。

 私の憲法に関する「立ち位置」は、今のところという留保を慎重に付けてはおくが、安倍晋三首相と同じだ。
 自民党案に全面的に賛成するわけではなく、「9条の2」というような<枝番号>付きの条項を挿入しないで、新たに条数は振り直すべきだと思うし、その他にも気になる改正条文案はある。
 しかし、今の日本国憲法を有効な憲法と見つつ、その改正(とくに九条)を希望し、主張する点では、安倍首相と何ら異ならない。
 改憲に賛成するのは、現在の国際状況も理由の一つだが、また現憲法の「成り立ち」にはかなり胡散臭いところがあるからでもある。安倍首相はしばしば、現憲法は「占領下」に作られた、憲法を「自分たちの手で書きあげる」といったフレーズを用いているが、推測するに、主権が大きく制限されていた時期に作られた憲法には(無効とまでは言わないにしても)そのこと自体に大きな問題があることを示唆しているように思う。
 このような基本的考え方は、おそらく、(勝手に名を出して恐縮だが)八木秀次、百地章らの(少数の?)憲法学者とも共通しているだろう。本を読んだことがないのだが、西修も挙げてよいかもしれない。それに、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の多数の方とも同様だろう。
 というわけで、私はとりあえずは自分の「立ち位置」を全く疑っていない(かかる「立ち位置」を「日本国憲法」無効論の立場から批判したい者は、私などよりも、八木秀次、百地章、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の各氏、さらには現憲法の有効性を前提として改正案をとりまとめた自民党、憲法改正国民投票法案に賛成している自民党等の国会議員全員、そして安倍晋三首相・安倍内閣閣僚全員を「攻撃」していただきたい)。
 かかる「立ち位置」に反対で、九条を護持しようとするのが日本共産党が重視している「九条の会」等だが、立花隆も九条護持論者だ。
 立花隆は、日経BPのサイト内に4/14付の「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」と題するやや長い論稿を掲載している。
 もっとも7分されているうちの6までは、九条発案者は幣原喜重郎かマッカーサーかという問題にあてられ、幣原発案説に傾斜したかの如き感想を述べつつ、自ら長々と書いたくせに「私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」、「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく…」と肩すかしを食わせている。
 そして最後の7/7になってようやく「憲法9条のリアルな価値問え」という本論が出てくるのだが、その全文はこうだ。
 「条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである。/そして、9条をもちつづけたほうが日本という国家の未来にとって有利なのか、それともそれをいま捨ててしまうほうが有利なのかを冷静に判断することである。/私は9条があったればこそ、日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だったと思っている。/9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。あるいは、かつてのソ連ないし、かつての中国ないし、北朝鮮といった日本を敵視してきた国家の侵略を受けていただろう。/9条を捨てることは、国家の繁栄を捨てることである。国家の誇りを捨てることである。9条を堅持するかぎり、日本は国際社会の中で、独自のリスペクトを集め、独自の歩みをつづけることができる。/9条を捨てて「普通の国」になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである。
 この文章は一体何だろう。最後の最後になって、結論だけを羅列し、その根拠、論拠は一切述べていないではないか。これでよく「評論家」などと自称できるものだ(「知の巨人」なんてとんでもない。末尾の、異見者への「ただのオロカモノ」との蔑言も下品だ)。
 過日、九条のおかげで平和と繁栄を享受した旨の呉智英の産経上のコラムを、中西輝政の議論を参照・紹介して批判したことがあるが、かつて「知の巨人」だったらしい立花隆も、平然と(かつ根拠・論拠を何ら示すことなく)「9条があったればこそ」、「苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた…」と書いている。かかる九条崇拝?はどこから出てくるのだろう。
 かつて書いたことを繰り返さないが、カッコつきの「平和」と「繁栄」は憲法九条ではなく、日米安保条約、それも米軍が持つ核兵器によって生じ得た、というのが「リアルな」認識だと思われる。
 立花氏はまた奇妙な文も挿入している。-「9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。」
 この文の意味と根拠を、どこかで詳論して欲しいものだ。私にはさっぱり理解できない。
 ともあれ、九条二項の削除を含む憲法改正を実現するためには、立花隆氏のこのような議論?を克服していく必要がある。また、影響力のある論者が書いていることには注意を向けていなければならない。
 毎日新聞の4/26付社説は、集団自衛権行使不可との憲法九条解釈によってこそ「戦後、日本は戦争に巻き込まれず平和を守ることができたという主張は根強い」と書いている。これは憲法九条自体ではなくその「解釈」にかかわることだから、立花隆の論よりはまだマシだ。
 それに同社説は、「一方でこの制約は日米安保体制や国際貢献活動の上で、阻害要因になっているという指摘がある」と続けていて、立花隆の論調よりもはるかに冷静で公平だ。
 「首脳会談で集団的自衛権の解釈変更や憲法改正が対米公約になるような踏み込んだ発言は慎んでもらいたい」とも書いているが、かかる指摘自体に大きな問題があるとは思われず、某朝日新聞の社説に漂う「やや狂気じみた」、又は「奇矯で、感情的な」雰囲気と比べれば、少なくともこの社説は、遙かに良い。
 朝日新聞がこの程度まで「冷静に」又は「大人に」なってくれればいいのだが(…だが、無理だろう)。

0025/潮匡人、産経上で「現実的平和」を支えたのは日米同盟と呉智英を正しく批判。

 3/21に憲法九条が経済的繁栄を支えた等々の呉智英の謬見を批判した。産経新聞3/28の同じ「断」というコラムで、今回は潮匡人が呉智英をきちんと簡潔に批判している。
 いわく-「『現実的平和』を支えてきたのは九条ではなく日米同盟である。『間違いなく』自衛隊と米軍の抑止力である」。かかる「功利的」観点からも「断固、九条は擁護できない」。
 このとおりだ。九条があったおかげで戦争に巻き込まれなくて済んだとか、軍事費に金をかけなかったおかげで経済活動に集中できた、とかの耳に入りやすい俗論はきっぱりと排斥する必要がある。
 潮匡人の本はじつは読んだことがない(たぶん。雑誌中ならある)。彼が最近、憲法九条は諸悪の根源(PHP)との本を出したらしいので、是非読んでみよう。新聞広告によると、吉永小百合批判も含まれているようで、その内容にも興味がある。

0007/呉智英の謬見は中西輝政がすでに指摘している。

 二度めだ。呉智英の提案はいわば奇を衒った、あるいはウケ狙いの氏独特の主張の仕方と思い、それまでの途中の文章をまじめに読んでいなかったのだが、よく読むと、「私は第九条基本的支持だ。戦力放棄を完全非武装ととるか専守防衛と解するかなど、さまざまな議論があるが、今そこには立ち入らない。ともあれ、戦後六十余年の日本の経済的繁栄と戦死者ゼロという「現実的平和」は間違いなく第九条に支えられてきた。そのような功利的観点から、私は第九条を支持したい。」という文があり、どうやら本気で九条を擁護し、前文のみの改正(削除)の主張も本気のようなのだ。
 呉の他の主張も知っていたし、産経紙上であったこともあって油断していた。そして、呉智英には、心底、失望した
 私の言葉で反駁してもよいが、中西輝政・日本人としてこれだけは知っておきたいこと(PHP新書、2006)を引用して代えることにする。呉智英は実際にこの本を読んで、学ぶことなくなお反論するなら(別に逃げるのではないが)中西に対してして貰いたい。
 同書p.41以下はいう。憲法九条からは軍を自衛隊と戦車を特車言い換える等の無数の嘘が生じ、「嘘の上に嘘を上塗りする」傾向が続くが、その大嘘の「最たるものが、『憲法九条があったから日本は平和を維持できた』という戦後神話」だ。これは「明らかな倒錯した言説」で、なぜなら、第一に、憲法九条の如き条項をもつ国は(コスタリカはそうらしいが一部の小国を除いて-秋月)存在しなかったのに二次大戦後は世界大戦が回避された。日本の憲法九条とは無関係に「世界の大部分の国は日本同様、平和を維持してきた」。日本と異なる憲法をもつ(そして正規の国軍を持つ)国も、「大半の国が60年の平和を享受しえた」。九条を平和と関係づける言説は、実は特殊な宣伝目的の(つまり中国・ソ連が米国よりも不利にならないための「社会主義支持の目的」の)「いわば詐欺的言辞」だった。
 第二に、ではなぜ世界平和が維持されたかというと、「米ソ両大国が核兵器を持ってにらみ合う冷戦体制があったから」に他ならない。
 第三に、日本に限定した話としても、「日米安保こそが戦後日本の平和を支えた」のだ。日米安保がなかったら、九条があろうとなかろうと、「戦後日本はもっと早い時期にソ連の侵略を受けたか、あるいは、いわゆる間接侵略を受け、国内に社会主義革命、暴力革命が起こっていた」だろう。60年安保が「安保騒動」の程度ですんだのは「警察力の背後に自衛隊があり、その背後には米軍がいるということが、当時の日本の革命勢力、あるいはその背後にいた中国・ソ連にはわかっていたから」だ。
 もう一点、呉智英は「戦後六十余年の日本の経済的繁栄」を支えたのも九条だという。この点についても、中西輝政は、九条のおかげで平和だったとまでは言わなくとも「戦後の民主化が高度経済成長を促した」という大嘘があるとして、言及している。p.45以下は言う。
 戦後改革による「民主化」や「平等化」は高度成長とは何の関係もない。占領軍の民主化を経験していない戦前の日本も高度経済成長をしていたし、平等化が経済成長を促進すると言うならばソ連等の崩壊はありえなかった筈だ。そこで(九条もあって)「軍事支出を極端に少なくしたこと」も経済成長に役立ったとの議論が必ず出てくるが、これも「間違った見方」だ。「社会の「民主化」や「軍事費削減」が経済成長の必須要因だとしたら、韓国や台湾、ASEAN諸国の経済成長や、まして現在の中国の経済成長」を説明できない。
 この程度にしておくが、最後の部分に私の言葉を追加すれば、韓国もドイツも九条のような条項を憲法に持たないが、「経済的繁栄」をしているのではないか。日本のような「繁栄」ではないと反論するだろうか。しかし、同じ九条のもとで、日本の経済成長の程度も、大きく伸びたり逆に下がったことも現にあるのであり、日本ですら「戦後六十余年の日本の経済的繁栄」と大仰に表現できるような状況ではなかったと思われる。少なくとも、九条のような条項が憲法にあるか否かによって、日本とその他の国々、米国、ドイツ、韓国等々の経済伸展の程度を有意に区別できるはずはない。だが、九条があるために何か経済の状態に違いがあったとでも言いたいのが呉智英のようだ。
 反復するが呉智英には失望した。もうこの人の文章は読まないことにしたい。

0005/憲法改正の発議要件を2/3から1/2に変えるだけの案はどうか。

 呉智英氏はどの程度本気なのか、現憲法前文の一部又は前文の全体の削除のみの憲法改正を主張しているようだ。
 気持ちは解らぬではない。私は現憲法の内容すべてそのままでもよいから一度国民投票にかけて「自分たちのもの」にしておくべきだとすら思う。もともとは1952年の独立=主権回復の際に国民投票にかけて(そのためには一回だけ通用の特別の法律が必要だっただろうが)、現憲法をオーソライズ(正統化)しておくべきだったと思うし、かりにオーソライズされなければ暫定的に効力を付与しつつすみやかに新憲法・自主憲法の制定に取り組むべきだった、と思う。
 当時の吉田茂の、自主憲法制定を政治課題とのしないとの決断は、朝鮮戦争、経済復興等々、米軍駐留によるとりあえずの安全保障といった事情はあるにせよ、現在も後世も評価が分かれてしかるべきだろう。
 その後も憲法改正できなかった最大の責任は、国会の1/3以上の議席を占め続けた容共政党+共産主義政党の「戦略としての平和主義」にある。だが、自由民主党の責任も頗る大きい。「国家」を忘れた池田勇人・宮沢喜一系(→河野洋平・加藤紘一)や田中角栄系が主流派になどなってはならなかったのだ。
 第三の責任者は、客観的には80%はマルクス主義に直接・間接に影響をうけているとみられる日本の憲法学界(そうした個々の憲法学者)だと思うが、今回はこれ以上の論及は省略する。
 元に戻って、呉智英氏の案は現実的では、むろん、ない。奇を衒い、又はウケを狙うのであれば、現憲法の改正条項・96条1項の国会・各議員の発議要件を「三分の二以上の賛成」から「過半数の…」に改正するだけの憲法改正案の提案はどうだろう。これだと今後も各院総議員定数過半数確保政党の「賛成」と実際の投票有権者の過半数の「承諾」で憲法改正できるようになる。政治状況・政治スタイルはまるで変わるだろう。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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