秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

名誉毀損

2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
 ——

0580/八木秀次は客観的には刑法第230条又は第231条に違反する「犯罪者」ではないか。

 戦前の不敬罪や現憲法下でも存立の余地があるとの議論がある象徴(天皇)侮辱罪や皇族(皇室)侮辱罪にいつぞや触れた。
 現法制のもとで法的に又は法論理的にある可能性は、一般国民について適用のありうる<名誉毀損罪>又は<侮辱罪>を皇族個人に対する<名誉毀損>・<侮辱>について適用することだ。
 (現行)刑法第230条と第230条の2は次のように定める。
 「第230条(名誉毀損)
 1
 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀 [き]損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
 2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」
 第230条の2(公共の利害に関する場合の特例)
 
 前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
 2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
 3 前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」
 これらによると、天皇・皇族関係発言や記事のほとんどは「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める」場合に該当するとされるだろうから、「真実であることの証明があったとき」にのみ加罰性がない、ということになる。
 侮辱罪に関する規定はもっと簡単だ。 

 「第231条(侮辱) 
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。」
 これら名誉毀損罪・侮辱罪によって保護される利益の主体の中に少なくとも「天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣」が含まれることは、次の条文によっても明らかだ。
 「第232条 (親告罪)
 1 この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
 2 告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。」
 <天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>以外の皇族の場合は当該皇族(皇太子妃を含む)個人が「告訴」することが可能だと解される。上の規定は内閣総理大臣等による代理告訴に関する規定であり、上記特定の皇族以外の皇族の個人的・人格的利益が保護されようとはしていない(=名誉毀損や侮辱の対象にはならない)、とは解されない。
 もちろん(代理を含む)告訴には事前の警察・検察との調整が必要だろうし、内閣総理大臣の<政治的>判断も必要なので、戦後ずっとそうだったと思われるが、<天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>を含む皇族に対する「名誉毀損」や「侮辱」について告訴がなされることは今後もないだろう。皇室関係の文章を書いている文筆家(売文業者を含む)や関係雑誌・書物を出版する出版社は、そのような知識くらいはもって、執筆し出版しているのだと考えられる。
 だが、現実に告訴される可能性がないからといって、皇室について何を書いてもよいというわけではないことは、すでに示唆したとおりだ。良心・良識感覚による自律が必要になってくる。
 上のようなことをふまえて再度話題にするが、諸君!7月号(文藝春秋)誌上での次の八木秀次の文章はどう評価されるべきなのだろうか(p.262)。
 「遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 「皇位継承順序を変える」ということは文脈上明らかに現皇太子から(その「皇嗣」性を否定して)別の方に「皇位継承順序」を移すことを意味する。これは、現皇太子は皇位継承適格性を欠いていると言っているに等しい。将来の「天皇」適格性を否定している(遠慮して書いても、疑問視している)、と言っても同じだ。
 しかして、その根拠は? 
八木秀次は刑法第230条の2の第一項又は第三項にいう、「真実であることの証明」をすることができるのか。
 便宜的に八木秀次に限っておくが、同誌上の中西輝政の文章も現皇太子妃殿下に対する「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的には当たる可能性が高い。
 勝手な推測だが、西尾幹二の現皇太子・現皇太子妃両殿下に対する月刊WiLL(ワック)誌上での論調が後になればなるほど、厳しくなくなっている(いちおうはすべて一読している)のは、基礎的な事実の認定が不十分な中で(いかに皇室の将来を憂慮しての心情からであっても)特定の皇族個人を非難するのは「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的に当たる可能性があり、皇室・宮内庁等が<法的>問題化する可能性が100%ないわけではない、ということを誰かにアドバイスされたからではないだろうか。
 別のことをついでに書いておくが、<世すぎのための保守>派、<稼ぐための保守>派、<生活のための保守>派(「派」には文章書き等の個人も編集者・出版社も含む)、には嘔吐が出る。<左翼>についてと同様に。
 いかなる「政治的」組織・団体とも無関係の私にはいかなる義務も責任もない。当然に、一円の収入にもならないこのブログへの記入も含めて。

0454/小林よしのりがサピオ4/23号で深見敏正裁判長の大阪地裁判決を批判。

 サピオ4/23号(小学館)。小林よしのりが、沖縄集団自決「命令」損害賠償等請求にかかる大阪地裁2008.03.28判決につき、「裁判官の『無知』、そして大江健三郎氏と朝日新聞の『詭弁』」というサブ・タイトルで「緊急発言」を書いている(p.96-97)。
 この訴訟は「右派がイデオロギーや運動のためにやっているのではないか」、原告の一人・梅澤裕元座間味戦隊長は被告をむしろ沖縄タイムス社とすべき、という最初の方については賛否を留保したいが、あとは、小林の主張・指摘を全面的に支持する。
 小林は深見敏正裁判長は「朝日新聞の愛読者」と見て「差し支えない」と断言する。上記判決は集団自決の場所にはすべて日本軍が駐屯していた、非駐屯地では集団自決は発生しなかった旨書いたようだが、小林によると、この旨は朝日新聞が「必ず引き合いに出すフレーズ」だ、という。
 その他は、私がすでに指摘したのとほとんど同旨。<「朝日は論理のすり替えを行った」。「軍の命令」と「軍の関与」は「まったく違う」>。
 また、1年ほど前にも私は大江の<創作力>=<捏造力>に言及したのだったが、小林は、大江健三郎は「延々6ページにもわたって赤松隊長の誹謗中傷を続けている」とし、大江の『沖縄ノート』からかなり直接引用して例示し、「自分勝手に赤松隊長の心情をつくり上げている」と書く。そして言う、「これが名誉毀損でなくて一体何というのだ」、「極限の中傷であり、これで名誉毀損でなければ、もはや何でも書ける」。
 小林よしのりはなかなか鋭い。大阪地裁という第一審の判決が出たにすぎないのに朝日新聞3/28夕刊が「軍の関与・司法も明言」との見出しを付けたことを皮肉っている。そのとおりで、「司法」の確定的判断はまだ出ていないのだ。<「司法」の一部の大阪地裁という下級機関>、が正しい。
 それにしても、p.96の写真によると、朝日新聞3/28夕刊は一面右上トップで「大江さん側」が勝訴等の見出しとともにこの判決を大きく取り上げ、記者会見する大江の顔の大写し的写真も掲載している。喜んで、<はしゃいでいる>。
 翌日の社説の内容しか知らなかったが、朝日新聞とは異様な新聞だとますます確信する。

0350/大江健三郎-「不誠実」・「破綻した論理」。

 以下、月刊Will1月号(ワック)の藤岡信勝の文章(「完全に破綻した大江健三郎の論理」)p.103による。
 故赤松大尉の弟(原告の一人)は大江の文章を知ってどう思ったかとの質問に、こう答えた。
 「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すようだと憤りを感じた」。(太字は引用者)
 続けて藤岡は書く。
 「私はこの時、被告側の弁護士たちの後ろに座っていた大江氏の表情の変化を観察した。大江氏は微動だにせず、全く表情を変えなかった」。
 以上。
 こうした文章-同誌上の原告代理人弁護士の文章もそうだが-にはちゃんと大江「氏」と付けている。こうした最低限の人間・人格に対する<礼儀>も、大江は、沖縄の離島での<集団自決命令軍人>(と思い込んだ人間)に対して無視しているのだ。
 肉親の上のような言葉・裁判所での「証言」を<微動だにせず、全く表情を変え>ずに聴ける大江健三郎の神経というのは、精神医学、神経病理の興味深い対象になるのではないか。作家=創作者=創造者=捏造者には、もともと<夢かうつつ(現)か>の区別がつかなくなる性向、精神状態の(従って<正常>・<健常>者から観ると、多分にアブ・ノーマルな)者が多いとは思ってはいるが。
 同誌p.109以下には大江健三郎の証言内容が記載されていて参考資料として役立つが、「ポイントを選んで」の再現のようで、隔靴掻痒の感もある。細かい活字でよいから、どこか(の本、出版社)で、全文を登載して広く一般に読める記録にしていただきたい。
 同誌上の原告代理人弁護士・松本藤一の文章(「大江健三郎氏と岩波書店は不誠実だ」)p.99によれば、柳美里・名誉毀損訴訟の際に大江健三郎は次の文を含む陳述書を裁判所に提出したという。-「不愉快にさせたなら、書き直すべきであり、それで傷つき苦しめられる人間を作らず、そのかわりに文学的幸福をあじわう多くの読者とあなた自身を確保されることを心から期待します」。
 今回の、いや70年代以降ずっとの大江の沖縄ノートに対する態度は、松本も指摘のとおり上の大江自身の言葉と<矛盾>している。
 矛盾していないとすれば、<日本軍国主義>を担った軍人たち、<戦後民主主義の敵>、教科書問題等での(大江にとっての)<右派>の者たちは、批判・罵倒して「不愉快にさせ」てもよいし、「傷つき苦しめ」ても構わない、と大江健三郎が確固として<信じて>いる場合、または無意識的にそう<思い込んでいる>場合(この場合は、「不愉快にさせ」ている、「傷つき苦しめ」ているという自覚もない)だろう。
 大江健三郎、岩波書店、これらの欺瞞ぶりと正体を多くの心ある国民は知るべきだ。ついでに、大江健三郎のコラムや彼の動向に関する記事をしょっちゅう載せている朝日新聞についても。
 

0348/大江健三郎は「非常識で不誠実、一片の良心も感じとれない」。

 産経のウェブ上で読める記事だが…。
 産経11/21の「正論」欄で秦郁彦は書く。11/09の大阪地裁での大江健三郎(被告)証言について。
 「…と言い張ったときには、国語の通じない『異界』の人から説話されている気がした」。「これほど非常識で不誠実、一片の良心も感じとれない長広舌に接した経験は私にはない」。
 秦郁彦のまっとうな感覚を信頼したい。
 1970年代半ば以降も岩波新書「沖縄ノート」を(訂正することなく)出版し続けたことについて、大江健三郎と岩波書店には、他の著者や出版社とは異なるのだ、というような傲慢さがあったのではなかろうか。むろん、<良心>は欠如している。
 たんに事実認識に誤りがあると見られるだけでなく(むろんこれだけで名誉毀損→不法行為となるが)、心理内容の<創作>=<想像>=<捏造>によって、<輪をかけた>名誉毀損となっていることは既に紹介のとおり。
 ノーベル賞作家・大江健三郎は日本の誇りでも何でもない。むしろ、こんな同朋・先輩が日本にいることを恥ずかしく感じる必要がある。この人物が<九条を考える会>の代表的な呼びかけ人であることも、この会を実務的に支えているのは岩波書店と見られることとともに、想起されてよい。

0343/大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)のひどさ。

 大江健三郎沖縄ノート(岩波新書)については、むろん、集団自決命令名誉毀損訴訟との関係で、すでに3/30にこの欄で言及している。上の本に関係する部分のみを再掲しておく。
 * 原告が虚偽としている大江・沖縄ノート(岩波新書)の関係部分を探して読んでみた。例えばp.169-170、p.210-5が該当するとみられる。興味深いのは、前者ではすでに集団自決命令が事実であることを前提にしており、つまり事実か否かを多少は検証する姿勢を全く示しておらず、後者では(上の存命の人とは別の)渡嘉敷島にかかる軍人の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していることだ。「創作」を業とする作家は、事実(又はそう信じたもの)から何でも「空想」する秀れた能力をもつようだ。当然に、「創作」とは、じつは「捏造」でもあるのだ。大江・沖縄ノートp.208のその内容を引用すると、長いが、次のとおりだ。
 新聞は「「命令」された集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が…渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた」と記した。大江は続けてその元守備隊長の気持ち・感情を「推測」する。
 「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ」、「いかにおぞましく怖しい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく、…その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいと願っている場合にはことさらである。かれは他人に嘘ををついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」(p.208-9)。
 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいて…過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、…本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。…1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」(p.210)。
 「かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。…とかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう」(p.210-1)。
 「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、…およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の…再現の現場に立ち入っているのである」(p.211-2)。
 以上は全て、大江の「推測」又は「想像」だ。ここで使われている語を借用すれば「夢想」・「幻想」でもある。
 このような「推測」・「想像」は、「若い将校」の「集団自決の命令」が現実にあったという事実の上でこそ辛うじて成立している。その上でこそようやく読解又は論評できる性格のものだ。だが、前提たる上の事実が虚偽だったら、つまり全く存在しないものだったら、大江の長々とした文は一体何なのか。前提を完全に欠く、それこそ「夢想」・「幻想」にすぎなくなる。また勿論、虚偽の事実に基づいて「若い将校」=赤松嘉次氏(当時大尉、25歳)の人格を酷評し揶揄する「犯罪的」な性格のものだ。大江は赤松氏につき「イスラエル法廷におけるアイヒマン、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」とも書いた(p.213)。* 再掲終わり
 (下線追加、青字化・太字化は今回行った。)

0236/総理の悪口は最も安全な「いい気分」になる方法。

 以下の文章の内容は気に入った。書き記して、紹介する。原文は一段落で改行がないが、読みやすいように、一文ごとに行を分けた。
 「素人が現政権の批判をするということほど、気楽な楽しいことはない
 総理の悪口を言うということは、最も安全に自分をいい気分にさせる方法である。
 なぜなら、時の総理が、自分の悪口を言った相手をぶん殴りに来たり、名誉毀損で訴えたりするということはほとんどないのだから、つまりこれは全く安全な喧嘩の売り方なのである。
 これが相手がやくざさんだったら、とてもそうはいかないだろう。
 しかも相手もあろうに、総理の悪口を言えるのだから、自分も対等に偉くなったような錯覚さえ抱くことができる
」。
 これは、1992年3月に書かれた曽野綾子の文の一部で、同・悪と不純の楽しさ(ワック、2007。初文庫化、1997)に収載されている(p.35)。この時の「総理」は宮沢喜一だった。
 いろいろなブログを拝見していると、その中には、安倍シンゾーとかアベ・シンゾーとか呼び捨てにして、読むに耐えない罵詈雑言的言辞を安倍首相にぶつけているものもある。
 さしあたり、「きっこの-」や「山崎行太郎の-」とかを私は思い浮かべてしまうのだが、彼ら「素人」は、上の文章にどういう感想をもつのか、可能ならば、尋ねてみたいものだ。

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