秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

原武史

0547/原武史-元日経新聞記者、学者らしくない論理の杜撰さ・単純さ+反天皇感情。

 一 再び、月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの諸文章について。計56人の文章を全て読み終えた。その際に、現皇太子妃(雅子)妃殿下の現況についての何らかの言及のある文章の数を調べてみたが―区別がむつかしい場合もあったが―20だった(56人の36%)。
 56人の中には外国人2人を含み、またこの56人(又は外国人を除くと54人)でもって現在の日本人の天皇・皇室論や<皇太子妃問題>(なるものがあるとして)についての見方の平均的なところを把握できるかというと、その保障はないだろう。ただし、諸君!(文藝春秋)という雑誌はどちらかというと<保守系>のはずで、文章執筆の依頼もどちらかというと<保守系>の人物に対してなされたのだろう、と言えるものとは思われる(むろん半藤一利保阪正康がしばしば登場するなどの例外はある。7月号についても同様)。
 二 さて、20の中には、皇太子妃問題を想定して、皇太子妃を責めることなく、天皇制度の解体・崩壊に言及するものが2つあった。執筆者は、森暢平原武史
 森暢平は皇太子妃の療養以後皇室は大きく変質したがじつはもっと前から変質していたのだとし、「皇室は国民の規範」たることが困難になり、「象徴天皇制の終焉」がすでにあった、とする。そのことの要因は「メディア環境の変化」でもあり、「現在の在り方を根本的に考え直さないと、ある時、一気に瓦解する可能性さえ秘めている」、と書く。
 上の最後の文は天皇制度の将来を心配しているようでもあるが、天皇・皇室についてのジャーナリステイックな書き方、「サブカル化する平成皇室」というタイトルからして、天皇・皇室制度を貴重なものとして断固守ろうというという気分の現れではないように思われる(誤っていれば、ご容赦を)。
 三 一方、原武史天皇・皇室に対する<悪意>があることは明らかだ。もともと朝日新聞社や岩波書店から本を出すこと自体、この両者は他社とは違って<思想チェック>をしているので原武史の「思想」的又は「政治」的立場はほぼ明らかだが、原武史・昭和天皇(岩波新書、2008)のp.12にはさっそくこんな文章がある。-「天皇が最後まで固執したのは、皇祖神アマテラスから受け継がれた『三種の神器』を死守することであって、国民の生命を救うことは二の次だった」。米軍による日本本土攻撃が予想された時期に「三種の神器」を自らのすぐ側に置こうとされたようだが、それを「国民の生命を救うことは二の次だった」と解釈するところには、原武史の、(昭和)天皇に対する<悪意>・<害意>を感じることができる。
 1 「宮中祭祀の見直しを」と題する諸君!7月号上の原の文章はヒドいものだ。この人は日本経済新聞記者の時代があったようで、ジャーナリステイックな、<面白い>・<話題をまき起こす>文章を書けても、研究者・学者らしい文章を書く力は充分には持っていないように見える。奇妙な点を列挙してみる。
 ①農耕儀礼と結びついた祭祀=「瑞穂の国」のイデオロギーは、日本の都市化・農業人口の減少(1970年で20%を切った)によって「社会的基盤」を失った(p.244)。
 何故このようなことが言えるのか、何故「社会的基盤」を失ったと言えるのか、さっばり分からない。余りに単純な発想をしてもらっては困る。専門家ではないので正確には書けないが、A狩猟民族に対する農耕民族の違いや特性が今なお論じられることがあるが、かりに食糧自給率の低さが問題になるほどに農業の衰弱が現在あるのだとしても、弥生時代以降、農業=主として稲作によってこそ日本人は「生き」、「生活」でき、そして社会と国家を形成したのだとすれば、そのような日本人と日本「国家」の成り立ちにかかわる記憶を将来に永続的に伝えていくためにも、祭祀の意味はある(それが「伝統」の維持というものだ)。
 また、B現代では農業が主産業ではなくなっていても、今日的な諸産業、あるいは社会にかかわる「人間の仕事」のすべてを代表するものとして「農耕」を理解し、「農耕儀礼」を通じて、自然の恵み(「運」も含めればどんな産業にだって「自然」又は「偶然」・「宿命」を逃れられないだろう)を祈り、収穫=成果の多大なことを祈り願う、ということはなお充分に意味があるものと思われる。
 ともあれ、まるで他説を一切許さないような単純な決めつけをしてもらっては困る。
 ②皇居(お濠)の「内側」=「農耕儀礼」、「外側」=都市化のギャップが大きくなっている。解決方法は、「内側」を「外側」に合わせるか、「外側」を「内側」に合わせるしかない。どちらもしなければ、「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」(p.245)。
 「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」とは天皇(制度)を心配しての言葉でもあるかもしれないが、突き放した、そうなっても=天皇制度が解体・廃絶しても(自分は)構わない、という意見表明である可能性もある。
 その前に書かれていることも、大学教授とは思えないほどに論理が杜撰だし、天皇(家)の研究者にしては天皇制度の歴史的・伝統的意味を意識的に無視している。
 すなわち、「内側」と「外側」を合わせる必要はない、というもう一つの選択があることが分かっているのに、それに言及していない。「内側」を「外側」に合わせる議論は、国家・国民のための祭祀行為を行っている天皇とそれを支える天皇家を、<ふつうの一般的家庭(の特殊なもの)>にしてしまうものだ。<「瑞穂の国」のイデオロギー>なるものの射程範囲はよく分からないが、それはそれで維持すればよいし、宮中祭祀の中に<「瑞穂の国」のイデオロギー>では説明がつかないものも現にある筈なので、「新たなイデオロギーを構築する必要」もない。
 またそもそも、「内側」と「外側」のギャップが大きくなったことを自然の、不可避的な現象の如く理解しているようだが、例えば「内側」の祭祀行為を天皇家の<私事>扱いして学校教育できちんと教えない、マスメディアもきちんと報道・説明しない、といった、原武史も育ってきた<教育・社会環境>にも重大な一因がある、と思われる。こうした面には、原は全く言及していない。
 2 週刊朝日2007年3/09号を読んでいないので、同じ諸君!7月号上の八木秀次の文章から借りるが、上に述べている「内側」と「外側」の矛盾が皇太子妃の心身に影響を与えていると理解しているようであり、具体的にはA「神武天皇は本当に実在したと考えられるか」、B「天照大神の存在を理屈抜きで受け入れられるか」等、皇太子妃には簡単には受け入れられない→「信じ」られなければ「祈り」もできない(=宮中祭祀への違和感)、ということから、→適応障害→治すために宮中祭祀の簡略化又は廃止、という主張を原はしているようだ(p.261)。
 他にもあるのだろうが、上のAとBくらいならば、何故「信じる」ことができないのかが、よく分からない。日本書記等の記述が全て事実を正しく描写しているとは思えないが、時期はともかくとしても、「神武天皇」とのちに称されたリーダー(+祭祀主?)が「東遷」して大和盆地で大和朝廷の基礎を築いた程度のことは、充分にありえたことだ。また、卑弥呼=天照大神説もあるように、神武天皇に先だって、天照大神とのちに称される日巫女(ひみこ)が祭祀上の中心になってより小さな地域を「国」としてまとめていた、という可能性を完全に否定することはできない。
 おそらくは、妃殿下の内心の推定というかたちをとりつつ、上のAとBは、原武史自身がもつ疑問なのだろう。日本の戦後の日本「神話」教育の欠如は、ついに原武史という大学教授が神武天皇・天照大神の存在を完全に否定する(存在を信じることができないとする)ところまで行き着いた、ということだろう。記載のすべてが真実ではないにせよ、すべてが天武朝を正当化するために作られた虚像=ウソと理解する必要はなく、何らかの史実を反映をしている部分が十分にあり、またウソの場合ではなぜそういうウソが書かれたのかも研究されてよい、というのは今日の日本古代史研究の常識なのではないか。
 3 原武史はそもそも、世襲天皇制度という<非合理>なものを気味悪く思い拒否感を持っているにすぎないのかもしれない。善解すれば、<非合理>なもの(祭祀=農耕儀礼を含む)を捨てて、「新しいイデオロギー」を構築して再出発を、という主張なのだろうが、これはやはり実質的には<天皇制度解体論>だ。朝日選書(『大正天皇』)、岩波新書(『昭和天皇』)、週刊朝日、そして最近の月刊現代(講談社)…、なるほど、この人は明瞭な<左翼>出版社とともに活動している。

0544/天皇・皇室を大切にする<保守>の八木秀次に尋ねてみたい。

 一 産経新聞「正論」欄6/05八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」は基本的趣旨に反対ではないし、月刊・諸君!7月号でも奇妙な言説を吐いている原武史については、別に批判的コメントを書く。
 但し、八木秀次の主張はどの程度の正確な理解をもって、厳密な言葉遣いでなされているのか、疑問とする余地がある。
 他の本や雑誌原稿と同様かもしれないが、八木は、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」と書く。「宮中祭祀」をしない「皇室」は「皇室」でなくなる、という具合に。
 だが、そうなのか(天皇と皇室は同じではない)。また、「皇室」という語によってどこまでの皇族を指しているつもりなのか。この後者の点は明確にしていただかないと、趣旨が正確には伝わらないと思われる。
 どうやら、「皇室」の中に皇太子・皇太子妃を含めていることは明らかなようだ。では、秋篠宮と同妃は「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」に含めているのか。また、成人して未婚の場合の眞子・佳子各内親王は「皇室」に入るのか。さらに、常陸宮と同妃の問題もあるが、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃や成人後に未婚の場合の彬子・瑤子各女王は含められているのかどうか。
 二 皇室典範に「皇室」という言葉はないが、「皇族」という概念はあり、その範囲が決められている。皇室典範5条によると「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王」が「皇族」と定められている(皇太子は親王のうちのお一人、皇太子妃は親王妃のうちのお一人だと考えられる)。
 天皇とこのような「皇族」を合わせたものが「皇室」なのだとすると、かつ八木秀次が「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」として「宮中祭祀」に「皇室」(「皇族」)全員の列席を求めているのだとすると(少なくとも「宮中祭祀」に違和感を持ってもらっては困ると考えているのだとすると-以下同じ)、常陸宮・同妃(華子妃殿下)、秋篠宮同妃(紀子妃殿下)はもちろん、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃はもちろん成人後の(婚姻するまでの)眞子・佳子各内親王、彬子・瑤子各女王までもが「宮中祭祀」の参加・列席を求められていることになる(なお、<成人後>と限定しているのは、幼児時代にまで求められはしないだろうという常識的発想からする、私の勝手な推測にすぎない)。
 はたして今日の実際の宮中祭祀に、これらの人びとは(皇太子妃を除いて?)参加・列席されているのか?
 特定皇族の「宮中祭祀への違和感」を八木秀次は憂慮し(かつ批判?)しているようだが、その「皇族」又は「皇室」の範囲を明確にし、かつ彼が問題にしている人物以外の方々は宮中祭祀に参加・列席しているのかくらいはきちんと調べたうえで議論してほしいものだ。
 三 皇室典範による「皇族」の範囲の定め方とは別に、「内廷皇族」と「内廷外皇族」という区別もある。
 皇室経済法4条1項によると、「内廷費は、天皇並びに皇后、、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし、別に法律で定める定額を、毎年支出するものとする」。

 この規定は「内廷費」に関する定めだが、ここに列挙されている、いわば天皇陛下の直系の家族が<内廷皇族>だ(妃を含み、婚姻した旧内親王や皇太子以外の旧親王は含まないものと思われる)。
 一方、条文は省略するが、「内廷費」ではなく「皇族費」が支出されている皇族を<内廷外皇族>という。<宮家皇族>とも言うらしい(園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007等々)。誤っていれば失礼だが、婚姻して独立の宮家を立てられた秋篠宮と同妃・お子さまたちは、上の条文の内容からすると<内廷外皇族>に当たるものと考えられる。皇族がいらしゃる場合の秩父宮家・高松宮家・三笠宮家の人びとの場合は勿論こちらになる。
 さて、八木秀次が「皇室」というとき、<内廷皇族>のみを指しているのかどうか。もしそうならば、その旨を明記しておくべきだろう。そして老齢で病気の可能性もある太皇太后、皇太后やまだ幼年である場合の「皇太孫」や「内廷にあるその他の皇族」に対しても、、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という理由で宮中祭祀への参加・列席を求める趣旨なのかどうかを知りたいものだ。
 四 八木秀次は月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の文章の最後に皇室典範三条を持ち出して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」、という<法解釈>を早々と示した(p.262)。
 皇室典範3条は次のとおり。-「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。
 この規定は明らかに「皇嗣」に関する定めだ。そして(言葉からして容易に判るが)「皇嗣」の意味に関する規定に次のものがある。
 皇室典範8条皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」
 この定めでも明確なように、現在において「皇嗣」とは皇太子殿下お一人であり、同妃は「皇嗣」では全くない。
 しかるに何故、八木秀次は「皇嗣」に関する上の条文に言及して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」と書き記したのか?
 何らかの誤解をしているか、皇太子妃殿下ではなく現在の「皇嗣」=皇太子=将来の天皇が「祭祀をしない」ことを想定して、上のような<法解釈>論を展開しているとしか考えられない。
 ではいっいたどこに(妃殿下ではなく)皇太子が将来において「祭祀をしない」こととなる兆候がある、というのだろうか。また同じことだが、皇太子殿下は「宮中祭祀への違和感」をお持ちになっているのだろうか。そう推測(憶測)しているのだとすれば、その根拠はいったい何か。
 上に述べたことの充分な根拠もなく、「重大な事故があるとき」に該当するものとして「皇位継承の順序を変えること」まで八木秀次は提案している。これはじつに<怖ろしい>ことだ。一介の一国民が「皇嗣」たる皇太子殿下について「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当た」るので、「皇位継承の順序を変えること」ができるのですよ、と言っているのだ。おそらくは充分な根拠もなく「皇位継承」の順序についてまで口を出しているのだ。
 以上。述べたかったことは基本的には二点。第一、八木秀次は平均的国民よりも天皇・皇室制度について詳しいはずだが(天皇(制度)について八木は前回触れた中西輝政との対談本・保守は何をすべきか(PHP、2008)でも何度も触れている)、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」の意味・範囲が明らかにされていない。
 第二、八木秀次は皇太子=皇太子妃という(学者、いや普通人でもしないような)混同をしているのではないか、そうとでも考えないと、今の時期に「祭祀をしない」ことによる「皇位継承の順序」変更の(少なくとも可能性の)主張をできるはずがない。
 かつまた、このような主張は非礼であり、少なくとも時期的に早まりすぎている。
 これらは、研究者・学者という一面ももつ八木秀次ならば容易に(論理的にも概念的にも)理解できる筈だ。単純な活動家・運動家に堕していないかぎりは。
 今回に書いたことを含めても、書いている趣旨の不明瞭な、かつ天皇・皇室にかかわる正確な知識がないと見られる八木秀次は<保守>のリーダーには(リーダーの一人にも)絶対になれない、ということは明瞭だ。傲慢にならない方がよい、と感じる。

0492/天皇の祭祀行為は宮中や宮中三殿に限られない。

 伊勢神宮式年遷宮広報本部・日本の源郷-伊勢神宮(2007.07)という計22頁の小冊子のp.3の冒頭の言葉は次のとおり。
 「神宮のおまつりは天皇陛下の祭祀です」。こうまで明記してあるのはむしろ珍しいように思う。
 既述だが、式年遷宮の準備に今上天皇陛下の「聴許」があったことを宮内庁長官が(伊勢)神宮に公文書で伝えたり、<勅祭社>という、天皇(・皇室)の「勅使」が祭祀者(祭祀主宰者)となるとみられる神社(・大社・神宮)があることも、少なくともいくつかの重要な祭祀は個々の神社(・大社・神宮)ではなく天皇(・皇室)自身の行為であることを示しているだろう。
 また、かりに天皇(・皇室)が形式的には祭祀者(祭祀主宰者)にならなくとも、皇祖・天照皇大神を祀り国家(・国民)の弥栄を祈る神社等の祭祀は、天皇(・皇室)に「代わって」行われている、という性格・位置づけのものも多くあると考えられる。
 以上で言いたいのは、天皇(・皇室)の祭祀は宮中でのみ行われるのではない、ということだ。
 また、皇居での祭祀は「宮中三殿」で行われるものに限らない。例えば、皇居内には稲を栽培・耕作する「御田」があるようであり、天皇陛下ご自身がそこでの稲作にかかわり、その「御初穂」は、伊勢神宮の「御正宮」の「玉垣」(唯一神明造の正殿を囲む板塀のことと推察される)に懸けられる(上記小冊子p.4-「懸税」というらしい)。
 ここで言いたいのは、皇居内での祭祀は「宮中三殿」という意味での「宮中」祭祀に限られない、ということだ。
 原武史は<宮中祭祀廃止>を(主観的には皇室のために?)主張しているようだが、天皇(・皇室)に関する本を数冊も書いているなら、以上のことくらいは知っているだろう。しかして、<宮中祭祀>の廃止だけで問題は解決するのか? 皇居以外で行われ続けている天皇(・皇室)主宰の祭祀はいったいどうなるのか? どのようにすべきと考えているのか? 東京=皇居で行われる祭祀は「宮中三殿」以外の場所で行われるものもあるが、<宮中祭祀廃止>論はそれらをどう考えているのか?
 簡単にあるいは単純に<宮中祭祀廃止>を主張できないのではないか。簡単・単純な<天皇制度>解体論者でないかぎりは。
 なお、伊勢神宮での祭祀が「天皇陛下の祭祀」だとして、そのような行為もまた、現行法制上は天皇の<私的行為>とされる。(神道も<宗教>だとかりにして、の話だが)宗教的性格を帯びている物・施設の所有権が天皇(・皇室)にある=天皇(・皇室)の「私有財産」とされているのと同じく、<宗教>性を帯びていれば全て<私的行為>とされているのだ。
 既述のように奇妙だと思うが、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社)等を素材にして、遅れているが別の回で、天皇(・皇室)の「行為」について整理しておくつもりだ。

0488/「左翼」出版社とその雑誌、講談社と月刊現代-月刊正論6月号(産経)を一部読む。

 月末から月初めは月刊誌の新刊が出るので楽しみだが、感想やメモをこの欄に書ききれないままで月日が経っていった論稿や記事が少なくない。ひょっとして、月刊WiLL6月号(ワック)のいくつかも…?
 講談社の月刊現代といえば、1970年代から80年代の少なくとも前半くらいまでは、月刊・文藝春秋とともに、エンタテイメント性もあり、かつ文藝春秋よりは大衆的・世俗的な愉しいイメージもある総合雑誌だった。
 月刊・正論6月号(産経)の新田均による原武史批判(「『21世紀の皇室』のためにという詭弁」)を読んで、月刊現代は、そして講談社は、ついに「左翼」雑誌・「左翼」出版社に<落ちぶれて>しまったと感じた。
 文藝春秋の月刊・諸君!、中央公論新社の中央公論、PHPの月刊ヴォイスあるいは週刊誌・週刊現代のライバル誌の週刊ポストを発刊している小学館による隔週刊行のサピオに対抗せざるをえないためだろうか。
 月刊現代が立花隆の護憲(改憲反対)のための駄文をまだ連載しているかは知らないが、月刊現代5月号(講談社)は、原武史の皇室・宮中祭祀不要論を「注目論考」として掲載した、という(上記、新田均p.209)。反天皇・反皇室あるいは天皇制度の崩壊につながる議論は<左翼>と称してよい。改憲反対論と天皇制度解体論を掲載していれば立派に「左翼」で、かつ出版社の基本的イメージを決める論壇誌・総合誌がそうでは、講談社自体を「左翼」と見て誤りとはいえないだろう。残念だし、講談社の社員は可哀想だ。
 ついでに、新田均が言及している原武史の本の出版元は、朝日新聞社2、岩波書店1、みすず書房1で、他に朝日新聞社の論座への寄稿も1つある。みすず書房についてはよくは知らないが、朝日・岩波というまさしく顕著な<左翼>出版社が原武史をかつぎ上げ、活躍させようとしていることが分かる。こうまでその傾向が歴然としている著者・出版社関係も珍しいかもしれない。
 内容に立ち入る気は殆どないが、原武史は宮中祭祀の「大部分」は「明治以降」に作られたもので、宮中祭祀を止めても本来の?明治以前に戻るだけ、と主張しているらしい。
 これはおかしいだろう。新田均は「古代そのままではないものの、宮中祭祀の多くは、新嘗祭にしろ、神嘗祭にしろ、賢所御神楽にしろ、古代に行われていたものである」(p.216)等と反論しているが、この論点についてのもっと詳細な叙述と原への反論(原の謬論批判)を書いてほしい。
 それにしても、<左翼>は、性懲りもなく、執拗に、<保守>を、あるいは<日本>を攻撃してくるものだ、と思わざるを得ない。
 日本国憲法はGHQに「押し付けられた」との論が憲法改正論の有力な論拠の一つになっていると感じれば、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)という、国民主権等(現九条は含まず)は日本人研究者(たち)の提言によるものとの本が出てくる。
 あの<戦争>と<戦犯>についての<東京裁判>批判が有力になり、パール判事意見書が一つの拠り所とされていると見るや、中島岳志・パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義(白水社、2007)等が出てくる。
 天皇制度が彼らにとっての究極的な障害になるので、今から、実質的に天皇家を歴史的・伝統的な天皇制度とは無関係のものにしようとする原武史の本が数冊も出てくる。
 ついでに言えば、丸山真男はとっくに歴史上(過去)の人物・思想の筈だが、岩波は1995年から全集、書簡集などを刊行して丸山の現在への力を維持しようとしているが如くであり、この欄であえて取り上げなかったが、長谷川宏・丸山眞男をどう読むか(講談社現代新書、2001)などという、素人同然のエピコーネンが丸山真男を賛美するだけの本も生まれている。
 まことに精神衛生に悪い。言論・出版の自由のもと、国論の基本的な分裂を抱えたまま、「日本」は何とか生きながらえていけるのだろうか。憂いは相変わらず、深い。

0471/天皇(制度)と佐藤優・原武史・西尾幹二。

 月刊・文藝春秋4月号(文藝春秋)の<総力特集>は<天皇家に何かが起きている>で、6名による座談会もある。
 保阪正康の発言をできるだけ読まないようにして通読したが、なるほど、先日に八木秀次による批判に言及した原武史は、「たとえば祭祀をすべてやめるような抜本的な改革をしなくてはうまくいかないのではないか」(p.111)などと、たしかに発言している。
 同号には偶然なのかどうか、佐藤優による原武史・昭和天皇(岩波新書)の書評も掲載されている。
 佐藤は正面からこの本を批判はせず、日本国家の将来を考えるための「知的刺激に富んだ材料を提供」しているなどと末尾の方で書いている。だが、基本的スタンスが原武史とは異なることは、佐藤優が自分の考え方を示す次のような文章でわかる。
 ・「評者は、天皇がこのような超越性に対する感覚をもっていることが日本人が生き残る上で大きな役割を果たしていると考える」。(「このような」とは簡単には、昭和天皇がアマテラス・伊勢神宮への祈願・祭祀と戦勝・敗戦を結びつけていたことを指す。)
 ・「恐らく筆者〔原武史〕が本書で述べたい結論とは反するだろう」が、「評者は、祭り主としての天皇に対する意識をわれわれが回復することによってのみ、日本国家と日本人が二十一世紀に生き残ることが可能になると思う」。
 ・この本の材料を咀嚼して「二十一世紀の日本がもつべき神話についてよく考えてみる必要がある」。
 これらは原武史の見解とは異なるのだろう。21世紀・将来の日本(国・人)にとっての<天皇制度>の具体的なありように関する佐藤優の考え方と私のそれが一致しているとは限らないし、佐藤優がその多くの著書で書いていることの中には私には理解が困難な所もあるが、<「祭祀を伴う天皇」制度>の継承・維持という点では、私は原武史よりもはるかに佐藤優に近い意見・立場だ。
 雅子皇太子妃に関する問題に立ち入る気は全くない。が、上のようなことを書いていると、月刊WiLL5月号(ワック)で西尾幹二が、「何をしてもいいし何をしなくてもいい」皇室になった「暁には」、「天皇制度の廃止に賛成するかもしれない」(p.43)と書いているのを読んで驚いたことを思い出さずにはおれない。
 八木秀次も同旨を指摘していたことだが、(神道的)祭祀を伴わない<天皇(・皇室)制度>は概念矛盾で、<天皇(・皇室)制度>とはそもそも(日本の歴史的・伝統的な考え方・方法によって)国・祖先のための祭祀を行う、という意味が付着しているものだろう。天皇(・皇室)にかかわる歴史・伝統について<明治期以降のもの>だとしてその歴史的伝統性を否定し揶揄しようとする歴史学者もおり、たしかに明治以降にのみ生じたこともあると思われる。だが、<国・祖先のための祭祀を行う>ということは天皇制度の成立以降の(おそらくはさらに「卑弥呼」の時代にまで遡る)長い、連綿とした伝統だろう。そして、そのような伝統の付着したものとして日本国憲法は「天皇」制度を存置した、という憲法解釈も十分に成立する筈だ。
 そのような<天皇(・皇室)制度>を維持するのかどうか、どのようにして維持するのか、が今日、あるいは近い将来に日本人の全てに問われる(問われている)、ということだろう。本来は、こうした「問い」が発せられること自体が避けられている方が望ましいと思うが。

0456/八木秀次-天皇制度廃止への道筋をつける原武史・昭和天皇(岩波新書)。

 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)には、二回触れたことがある。
 この本は日教組の影響下にあったと見られる「全国生活指導研究協議会」に属する教員による「学級集団づくり」に対して批判的なので、著者はどちらかというと<保守的>又は<反左翼>的だと思っていた。
 サピオ4/23号(小学館)の八木秀次「天皇『9時-5時勤務制』まで飛び出した宮中祭祀廃止論の大いなる誤り」(p.83-85)によると、この宮中祭祀廃止論の中心的主張者は明治学院大学教授・原武史らしい。なお、<宮中祭祀>自体が広く知られていないが、八木によると、宮中三殿といわれる「賢所」・「皇霊殿」・「神殿」で行われる祭儀のことで、「大きなものだけで年間30近くある」とのこと。
 「天皇は先祖を祀る『祭祀王』としての性格を持ち、それこそが天皇の本質的要素と言っても過言ではない」(p.83)。
 「祭祀王」という概念がどの程度一般化しているのか、適切なのか(=「王」という語を用いてよいのか)は疑問だが、八木の指摘する趣旨は、そのとおりだろうと私も考える(また、その祭祀とは<神道>によるものでないかと思うが立ち入らない)。そして「宮中祭祀廃止」論は<天皇制度>の否認論と殆ど同じことだろう、と思われる。
 八木によると、「原氏が抱く昭和天皇、いや、天皇制への嫌悪感」は原武史・昭和天皇(岩波新書、2008.01)の「全編からたちのぼってくる」という。その具体的例示も紹介されているが、ここでは侵略する。
 興味をそそられたのは、冒頭に示した本を書いたのと同じ著者が昭和天皇を批判し、天皇制度を「崩壊させる道筋をつける」(八木、p.85)議論を展開している(らしい)ということだ。と同時に、さすがに岩波書店の岩波新書だ、と思いも強い。究極的には<天皇制度を「崩壊させる」>ことは(それは日本が「日本」でなくなることを意味するのではないか)、この出版社の社是、出版活動の(政治的)大目的の一つだと理解しておいて誤りではないだろう。
 岩波新書といえば、中央公論3月号(中央公論新社)の<特集・新書大賞ベスト30>の中の座談会で、宮崎哲弥は、<岩波新書らしいもの>を出せと注文をつけ、西山太吉・沖縄密約につき「単行本でいい…。新書で出す必要性が感じられない」と述べつつ、「これぞ岩波新書」をあえて探せばとして藤田正勝・西田幾太郎丸山勇・カラー版ブッダの旅の二つを挙げ、「岩波らしい」ものとして豊下楢彦・集団的自衛権とは何か二宮周平・家族と法二つを挙げている(p.129-130。出版年月の調査は省略。いずれも未読)。
 宮崎哲弥のいう「これぞ岩波新書」とか「岩波らしい」ということの意味は必ずしも明瞭でないが、何となく雰囲気は理解できる。そして、「これぞ岩波新書」と「岩波らしい」は必ずしも同じ意味ではなく、原武史・昭和天皇は上の二つとともに「岩波らしい」の方に位置づけられる書物のような気がする。
 追記-4/09夜に佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)を全読了>

0426/小林よしのりはサピオ(小学館)等で中島岳志らアカデミズムを批判する。

 ほとんど登場させていないが、小林よしのりからは、ある意味、ある程度、影響を受けている。ヴィジュアルな手法での主張内容の<明快さ>によることも大きいだろう。
 その小林よしのりが、おそらく月刊正論2007年11月号(産経新聞社)以来、同誌2008年2月号とともに、雑誌・サピオ(小学館)の2007年11/28号あたりから同誌上で毎号継続して、<パール判事「意見書」>の理解をめぐって、主として中島岳志・パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義(白水社、2007年)を批判している。なお、牛村圭も、雑誌・諸君!(文藝春秋)の2008年1月号に「中島岳志著『パール判事』には看過できない矛盾がある」(p.198~)を書いている。
 パール判事「意見書」そのもの(邦訳でも)、中島岳志の上掲書、牛村圭・「戦争責任」論の真実-戦後日本の知的怠慢を断ず(PHP、2006)を読んでいないため、<論争>に参加する資格はそもそもないが、小林の書いたものを読んでいると、<小林・中島論争>のかぎりでは、小林が自信満々で書いているように-それが理由ではないが-小林よしのりの理解・中島に対する主張の方が適切だろうと思える。
 議論又は戦線は広がって小林は西部邁のパール理解(月刊正論1月号p.150-、「パール判事は保守派の友たりえない」)も批判しているが、その西部邁自体が、(小林・中島の)「応酬については、小林の言い分のほうに圧倒的に歩がある。そう評するのが公正というものであろう」と言い切っているのだ(上掲p.150冒頭。但し、二人の間の「応酬」の具体的または正確な内容を私が詳細に知っているわけではない)。
 かりに小林はもちろん西部や牛村の中島著に対する指摘が正当なものだとすれば、中島岳志の上掲書に肯定的評価を与えた書評者・論者・新聞等のマスコミは、過ちを冒したことになる筈だ。
 小林よしのりはサピオ3/12号で、中島著を種々の表現で「絶賛」した「学者」として、御厨貴(東京大学)、加藤陽子(東京大学)、赤井敏夫(神戸学院大学)、原武史(明治学院大学)、長崎暢子(龍谷大学)の5名を明示している(p.59。なお、中島岳志北海道大学)。
 「絶賛」という表現は正確ではなく、「肯定」した(「肯定的評価」を述べた)、又は問題点・欠点に言及しなかった、と表現した方がよい可能性もある。だが、一般雑誌上で明示的に名指しで批判され、パール意見書(「判決書」は正確ではない)を「読んでいないか、読んでいるとしたら、…小学入試不合格の国語力しかない者たち…。バカデミズムである」とまで書かれているのだから、弁明・釈明または反論をきちんと公にすべきだろう。学歴だけみると高校卒業の(筈の)小林にこうまで指弾されて沈黙しておれるのだとすれば、大学を卒業し大学の先生・「学者」になった方々は、なんと<無神経な>あるいは<傲慢な>ことだろう。
 ついでに、小林はサピオの上記号に「中島岳志や保阪正康ら『薄らサヨク』…」と記している(p.62)。最近この欄で保阪正康に批判的な書き込みをしたばかりなので、保阪正康を「サヨク」と明瞭に評する者がいる、と感じて、些細なことだが自分の感想・評価は大きくは誤っていないだろうと心強く感じた。
 もっとも、小林よしのりの論じ方をすべて肯定的に見ているわけではない。
 瑣末なことかもしれないが、基本的に重要な点だとも思える。すなわち、サピオ3/26号(小学館)p.55~も含めて、東京裁判を「認める(認めない)」とか、同裁判を「肯定する(肯定しない=否定する)」ということの意味をもう少し厳密に示した上で叙述・議論する必要があるのではないか(同じく「東京裁判」との概念にもその設定・手続・管轄なのか「判決」内容(多数意見)なのかという問題もあるだろう)。このことはむろん、小林よしのり以外の東京裁判を論じる全ての者についても言える。

0244/原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)を読んで。

 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007.05)の書評文に刺激を受けて何か書いたことがあったが、この本そのものを全読了した。
 東久留米市の滝山団地近くにあった七小(第七小学校)という公立小学校での著者の「特異な」経験体験をノンフィクションとしてまとめたもの。
 「特異な」というのは、日教組の影響下にあったと見られる全生研(「全国生活指導研究協議会」)の「学級集団づくり」を実践した教師が同学年の著者とは別の組を担当していて、同組を中心に学年・学校全体が1974年には(大げさにいうと)「コミューン」化した(その翌年には崩壊した)というもの。
 著者によれば、全生研は1959年に日教組教研で生まれた民間教育研究団体で、「人間の尊厳と個性の尊重、平和と民主主義の確立」とともに「個人主義、自由主義的意識を集団主義的なものに変革する」という「社会主義からの影響が濃厚にうかがえる」ものを目的とし、集団=学級は「民主集中制を組織原則とし、単一の目的に向かって統一的に行動する自治的集団」になるべし等と説いた。
 日本共産党員か日本社会党員か、それともいずれかのシンパだったかは分からないが、これを熱心に実践する教師が実際にいて、著者のいた小学校のとくに児童活動を殆ど「乗っ取った」、という話だ。なお、2004年のヒアリングでその教師は、全共闘運動の影響を明確に否定した、という。
 全体を要約することはしない。この経験は、東京郊外の所謂新住民(団地住民)の子供だけで殆ど構成されている「特異な」公立小学校で、「特異な」教師とそれを支持する親たち(そして少なくとも表向きは生徒たち)によって生じたものと思われ、1970年代の教育について一般化はできない(著者の小学校時代は1969~1974年)。
 全生研の運動はクラスを班に分け、班に異なる任務を与えつつ競争させることがまずは出発点のようだが、私には次の点が印象深い。
 全生研は「議会主義的な児童会・生徒会活動」には批判的で「民主と集中直接民主主義と間接民主主義の統一を追究するなかで児童会・生徒会民主主義を発展させようとしてきた」(全生研文献による)(p.107)。
 上の点を象徴するのが、4-6年生の3年間、同じ生徒の組を担当し続けたという熱心な教師の組の生徒が「代表児童委員会」の委員長等に立候補するときに演説の中で言ったという、「代表児童委員会をみんなのものにする」という言葉だ、と思う。
 抽象的で意味不明で何となくニュアンスだけは分かるという表現でもあるが、これこそ、「民主と集中直接民主主義と間接民主主義の統一
」を目指す言葉だと思われる(著者は明記してなかったと思うが、演説原稿に担任教師は筆を入れていると見られる)。
 そしてまた、ルソーの人民主権論をかじった後だからこそ言うと、この言葉は、委員長その他の役員は児童全体と一体のもの、「代表児童委員会」の意見=児童全体の意見というように両者を同一視したいという意味でもあるだろう。すなわち、児童全体の意見と一致した「代表児童委員会」の意見はルソーにおける<一般意思>なのだ。代議制を疑問視し直接民主主義にできるだけ接近させたいとの言葉こそ、「代表児童委員会をみんなのものにしたい」なのだ。
 私の印象・感想は以上に殆ど尽きる。資本主義的又はブルジョア民主主義的な「代議制」又は「間接民主主義」ではない、児童全員=「代表児童委員会」を追求する直接民主主義の方がより「進歩的」との<思い込み>を全生研および上記教師はしていた、と思われる。ルソーの影響が後年の日本の小学校にも残っていた、とも言える。そしてまた、筆者が比喩的にいう「滝山コミューン」という<全体主義>の被害者として、これを批判的に見ていたというのも、ルソーの人民主権論→全体主義(共産主義)という構造が具体的に証明されているようで興味深い。
 この小学校では著者のいた間は君が代斉唱・日章旗掲揚はなされていないようだ。1960年代の前半に小学校生活を終えた私の小学校ではいずれもなされていた(と思う)。「仰げば尊し」も毎年歌った気がする。5-6年のときクラスが班に分割され班長とかがいたが、任務分掌や競争とは無関係だった。私が5-6年生のときの教師はたぶん「全生研」の「学級づくり」運動とは無関係だっただろう。
 それにしても、私よりも10歳以上若い著者は、小学校時代の記録と記憶をよく残していたものだ。また、著者は学者らしいのだが(専門も経歴も調べていない)、自らの小学校時代(とくに4-6年)の話で一冊の本を出版してしまうことに感心するとともに羨望する。振り返ってみて、余程印象深い「滝山コミューン」生活だったのだろう。
 ないものねだりをすればキリがないかもしれない。東久留米市等の区域は「左翼」、とくに日本共産党が強かったというが、教師の運動やそれを支えた親たちと政党の関係をもっと調べて欲しかった、という気もする。
 筆者は最後に、旧教育基本法のもとで「「個人の尊厳」は強調されてきたのか」と問い、「自由よりは平等、個人よりは集団を重んじるこのソビエト型教育」につき語っているが(p.276-7)、やはり筆者の体験は特異なもので一般化できないだろう。戦後教育において「個人の尊厳
」が強調されすぎたとの私の考えに変わりはない。一方でまた、旧軍隊的又は戦時中の「集団主義」教育が「ソビエト型教育」=<社会主義国の教育>と近似していることも忘れてはならないことだろう。

0212/原武史・滝山コミューン一九七四(2007)の佐藤卓己による書評。

 6/10の読売の書評欄が採り上げているので、数日前の産経の書評欄を読んで関心をもったのだろう、原武史・滝山コミューン一九七四(講談社、2007)を既に購入している。だが、殆ど未読だ。
 読売新聞の書評は佐藤卓己(京都大学)という1960年代生れの人が書いている(原武史氏も1962年生れ)。
 それによると、1.学校(小学校・中学校だろう)生活での「班のある学級」は「ソ連の集団主義教育理論に基づき、日教組傘下の全生研(全国生活指導研究協議会)の運動から広ま」ったらしい。
 世代は違うが、私の小学生時代のたぶん3-6年のときにはクラスがいくつかの「班」に分けられ、「班長」とかもいた。中学校時代はもう「班」はなかったと(明瞭な記憶ではないが)思う。
 小学校時代の「班」単位の学級作りがソ連・日教組の影響だとは知らなかった。日教組・「左翼」が強い学校・地域では全くなかったと思うが、それでも日教組(ひいてはソ連)の影響があったのだろうか。「班」への分割を基礎にすることは必ずしも「左翼」的理論に基づくものとは限らないと思うので(大きな単位を小さく分割することは会社でも町内会でも行われている)、自分の体験の根源の「理論」がどこにあったのかはなおも釈然としない思いもある。
 2.次の文は目を惹く(対象の本ではなく書評者の文章)。「共産主義の理想が世間一般で通用したのは、一九七二年連合赤軍事件までだろう。だが、全共闘世代が大量採用された教育現場では、少し遅れて「政治の季節」が到来していた」。
 一九七二年を重要な区切りの年として注目するのは、坪内祐三・一九七二(文藝春秋、2003)にも見られる。この年(35年前だ)の7月には佐藤栄作長期政権が終わって田中角栄新内閣が発足した、という点でも大きな区切りだろう。
 だが、第一に、上のようにこの年までは「共産主義の理想が世間一般で通用した」とまで書くのは、事実認識(歴史認識)としては誤りだろう。日本社会党が健在で現在よりも「左翼」的雰囲気に溢れていたのは間違いないが、「世間一般」で「共産主義の理想
」が通用していたわけでは全くない。日本社会党(+日本共産党)支持の雰囲気の多くは<反自民党>・<反政権党>の雰囲気で、一部を除いては、「共産主義の理想」などを信じてはいなかった、と思われる(もっとも現在に比べれば、そういう「信者」が多かったことは確かだろう)。
 第二に、「連合赤軍事件」(たぶん浅間山荘事件のこと)以前の学生運動を担った世代を簡単に「全共闘世代」と称することが(この書評者に限らず)多いが、1970年前後の学生運動の少なくとも半分を支配していたのは「全共闘」派=反日共系(反代々木系)ではなく、日本共産党・民青同盟であったことを忘れてはいけない。既に記したし、今後も書くだろうが、「全共闘」派に対抗したからこそ、日本共産党・民青同盟は従前よりも、また1970年代後半以降よりも、多数の学生・青年の「支持」(>入党)を獲得できた、という因果関係があると思われるのだ。
 だが、第三に、「教育現場」では「少し遅れて「政治の季節」が到来していた」というのは、なるほどそうかも知れないと思う。
 かりに1946~1950年の5年間に生まれた者を<団塊(世代)>と称するとすると、この世代が小学4年(10歳)~高校3年(18歳)だったのは、1956~1968年で、1970年代半ば以降の「政治の季節」の中にあった教育を受けてはいない。
 とりとめもなく書いているのだが、<団塊世代>が高校までの教育を受けていた時代には、<南京大虐殺>も<従軍慰安婦>もなかった。朝日新聞の本多勝一がのちに「中国の旅」という本(1972)のもとになる中国旅行と新聞連載をしたのは1971年だった。
 中学や高校でどういう日本史を勉強したかの記憶は薄れてしまっているが、1970年代後半あるいは1980年代以降の社会科系科目の教育内容よりも、<団塊世代>が受けたそれの方がまだ<自虐的>ではなかった、つまり相対的にはまだ<真っ当>なものではなかっただろうか。滝山コミューンとの本は未読だが、簡単に紹介されているような、1960年代生まれの人が体験した「教育現場」は私の感覚では相当に<異様>だ(但し、地域差があると見られることも考慮は必要だろう)。
 3 書評者は言う。「戦後教育の欠陥は「行き過ぎた自由」などではない。集団主義による「個人の尊厳」の抑圧こそが問題だった」。
 この部分は議論が分かれるところで、簡単にはコメントしにくい。私は「戦後教育の欠陥」は「行き過ぎた自由
」というよりも「行き過ぎた個人主義」ではなかったか、と思っている。ということは、「個人の尊厳」が尊重され過ぎた、ということでもあり、書評者の理解とは正反対になる。
 
<集団主義による「個人の尊厳」の抑圧>だったとはとても思えない。とりあえず疑問だけ提出しておこう。
 書物本体ではなくそれの短い書評文にすぎないのに、何故か執筆意欲をそそるものがあった。
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