秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

十月のクー

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
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 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
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 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
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 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
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 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
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 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
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 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
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 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
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 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
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 ②へとつづく。

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