秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

十三重石塔

2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。

 廬山寺・慶光天皇陵で見た(写真で撮っていた)石製の墓碑・墓基のかたちが気になっていたが、一つは、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる種類のものであることが分かった。もう一つは未だに分からない。
 仏教そのものにも、仏像にも仏塔等にも詳しくないから(というよりも無知だから)やむを得ないが、もともとは仏舎利(釈迦の骨)を納める多様な塔(ストゥーパ)に由来するもので、日本では、五輪塔とともに、宝篋印塔は墓基・墓碑または供養塔としてよく用いられてきた様式らしい。五輪塔の方がより一般的で、宝篋印塔はより「貴人」のために用いられたという。五輪塔の大きなものは高野山・奥の院への参道に並んでいるから、何となく知っていた。しかし、「宝篋印塔」なるものには意識も関心も向かわなかった。もちろん、一般的庶民はこんな形の墓基の下に葬られることはなかったし、「墓」というものがなかった死者も一般には多かったのだろう。
 宝篋印塔なる石塔のうちまず目を惹いたのは、中央に立つ円形で重なる九重の石だが、これは「相輪」と呼ぶ部分らしい。そして三重塔・五重塔の先端の「相輪」もやはり九重らしい。三重塔・五重塔を何度見ても、上の方にあるし、数えたことがなかった。
「相輪」部分の下の「笠」のような部分の四隅にあるのは、「耳」・「隅飾り」といい、年代が新しいほど反りが強いとも言われる。「相輪」と「笠」のごとき部分の間にもにもいろいろパーツがあるようだが、省略する。
 なぜ「九重」かというと、「五智如来」と「四菩薩」を全て集めるという意味だったようだが、仏教宗派によってどの如来・菩薩かは異なるらしい。また、三重塔・五重塔でもそうかもしれないが、宝篋印塔の九重の「相輪」製作者・参拝者がそのような意味を逐一意識したかは疑わしいようにも思える。
 九重という点では同じだが、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵にある多数の陵墓脇の「九重石塔」は、明らかに宝篋印塔ではない。
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 浅井長政は浅井氏三代めで、織田信長の妹の「お市の方」と結婚し、茶々〔淀君〕・初・督(ごう)三姉妹の父となった。
 その浅井氏三代の菩提寺は長浜市にある徳勝寺で、もともとは同市の北方の小谷城跡近くにあったらしい。
 その徳勝寺に三代(亮政・久政・長政)の墓基が並んで残っており、その様式は明確に「宝篋印塔」だ。左が長政。下の写真2枚を参照。
 そんなことを意識しながら他の寺院をめぐっていると、または昔に撮った写真を見ていると、明らかに「宝篋印塔」の供養塔または墓碑らしきものがある。実際には、全国に多数残っているだろう。写真下段の左は、同じ長浜市・総持寺内、右は神戸市・無動寺(福地)内。
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 ところで、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵に見られる「九重石塔」は石塔としては珍しい種類ではないかと思える。というのは、既に記して、一部は写真も掲載したが、「十三重石塔」が実際にはよりしばしば見られるからだ。
 宇治市・宇治川の中島内の石塔は「十三重石塔」だけで通用するらしい。この十三重の石塔のような建造物を見たがゆえに談山神社(奈良県桜井市。中臣鎌足と中大兄皇子が「談」じた場所とされ、鎌足が主祭神)は寺院なのか神社なのかと拝礼時に一瞬迷ったのだったが(歴史的には神仏習合そのものだったのだ)談山神社の<十三重塔>は木造で日本(・世界)唯一のものらしい。
 談山神社を訪れたとき、そんなことを読んで知ったかもしれないが、忘れてしまうものだ。奈良県室生寺の五重塔は可愛く小さいので、この木製の十三重塔を幅を2-3倍にして、13を5に減らして塔身の「階層」部分を見せれば、小さな五重塔になるのではないかと、幼稚なことを考える。
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1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。

  前回に記した少なくともかつての泉涌寺と天皇・皇室との深いつながりを、すでに取り上げたつぎの新書から確認しておこう。結論的に、同じことが書かれている。
 かつて「天皇家自体が非常に熱心な仏教徒」で、「国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇…、聖徳太子であった…」等と述べたあと、泉涌寺につき、こう書かれる。別に触れる予定の事項を除く。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)。p.231-。
 ・「1242年、四条天皇が12歳の若さで崩御」した際に「泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺〔みてら〕』と呼ばれるようになった」。
 ・「さらに、南北朝時代の1374年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬された」のを始まりとして「9代続けて天皇の火葬所となった」。
 ・「江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている」。
 ・泉涌寺にある「天皇の墓は九重の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)が祀られている」。
  さらに上掲書には、こう書かれている。近くに御陵があるというだけではない。
 ・「泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる」。
 ・「各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」。
 ここにいう「歴代天皇」とは全ての天皇ではなく、位牌=尊牌のある天皇の意味で、天武系=持統系の称徳・孝謙天皇までを含まないと思われるが、それ以降は全てとされる。位牌の存在理由も含めて、ここでは立ち入らない。
 泉涌寺の作成にかかる小冊子には、つぎのように毎「朝夕」について書かかれている。
 「今も毎日御回向が行われている」。p.10。
 毎朝夕かどうかの明記はないが、「毎日」だ。その旨は、初めてこの寺を訪問したときに聞いて、驚いた記憶がある。
 さらに、同小冊子は、「御月並」=毎月の特定の日の「法要」について、こう書く。p.31。
 位牌のある天皇と同列以上の特別の扱いがなされている。
 ・毎月7日/昭和天皇、同10日/昭憲皇太后〔明治天皇皇后-秋月注〕、同16日/香淳皇后、同17日/四条天皇・貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同25日/大正天皇、同29日/明治天皇。
 また、毎年の「御例祭」の「法要」が、つぎの天皇・皇后について行われるとされる。
 ・毎年1月7日/昭和天皇、同1月11日/英照皇太后〔孝明天皇妃〕、同5月17日/貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同6月16日/香淳皇后、同7月29日/明治天皇、同12月25日/大正天皇。
 これら「法要」が霊明殿で行われるのか、仏殿でなのかはよく分からない。
 しかし、<仏教式>のものであることは言うまでもないだろう。
 ついでに、つぎによって、これまで記したことの一部を補足しておく。
 芳賀徹「御寺の風格」上村貞郎=芳賀徹監修・泉涌寺/新版・古寺巡礼京都27(淡交社、2008年)所収。
 ・「…、まことに皇室の菩提所、『御寺』と呼ばれるふさわしい、荘重で、しかも清明に気配に満ちた境内なのである」。-p.8。
 ・「…、明治維新以降、泉涌寺が受けた打撃は大きかった。…天皇家の遠忌法要も葬儀も神式となって、泉涌寺では行われなくなったからである。その上に明治4年(1871年)には寺社領の上知(没収)令が出されて、…20数万坪の土地を約4万坪に減らされたという。…少なくともいったんは官有地となった。」-p.14。
 ・明治天皇、大正天皇の例に倣って、「昭和天皇も御在位の間にいくたびか皇后陛下とともに泉涌寺においでになり、御陵と霊明殿に参拝なさったという」。-p.15。
 ・「いま平成の天皇と美智子様も御上洛の折にはよく泉涌寺にお立ち寄りになり、御先祖の霊に参拝しておられるらしい」。-p.16。
  仏教様式での回向・法要のほか、興味深いのは、御陵・陵墓の「向き」と泉涌寺の建造物の位置関係だ。
 上の古寺巡礼京都27(2008)に末尾にこれがかなり明確になる地図があるが、寺院境内や御陵であることによるのだろう、一般的な地図やネット上の地図(例、google map)では空白が多い。
 下は、ネット上にある、泉涌寺・月輪陵・孝明天皇陵=後月輪東山陵の位置関係を示す古い図面(左)または写真(右)。左は上が「北」、右は上が「東」。
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 専門的にまたは学問的に神社・寺院の「向き」というのが本当にあるのかどうかは知らない。しかし、寺院の場合は本尊たる仏像の顔の「向き」、あるいは参拝する方向とは反対の方向が「向き」だと言えるだろう(但し、本尊仏像がない寺院もある。京都・永観堂の「みかえり」阿弥陀如来像のように顔と身体部分が一致していない稀な仏像もある)。
 「南」向きが多いようでもあるが(とくに神社の場合)、南向きが「通常」または「原則」とは言えないだろう。「北向」や「東向」が現在の寺院名の一部にされている場合もあるし東西本願寺(京都市)・法然院(同)や浄瑠璃寺(京都府木津川市)の本堂に当たるもの(および本尊仏像)は「東」向きで、「西方」(西方浄土?)を向いて参拝する。但し、浄土真宗を含めて、全ての寺院が「東」向きではもちろんない(例、三重県津市・高田専修寺)。
 泉涌寺の場合、やや西北方向に傾いているが、仏殿(本堂に当たると見られる)・舎利殿は「西」向きだ。仏殿・舎利殿とほとんど同じ中心線上に「勅使門」があり、その南に「霊明殿」自体の門と見られる<唐門>・空地・「霊明殿」がある(左の地図の左端半ば辺りの舎利殿の右下)。
 この霊明殿と月輪陵・後月輪陵との位置関係は現地では必ずしもよく分からなかったが、上左の地図が示すように、唐門・霊明殿の中心線が御陵の入口の門および陵区画の中心線と重なってはいないとしても、霊明殿で「東」向きで回向・法要する僧侶・参拝者等方向は、月輪陵・後月輪陵の区画の一部を間違いなく向いている。全体として、御陵と向かい合っている、と言ってよい。
 これは何を意味するのか。
 霊明殿で回向・法要のために読経し瞑目する等々の人々は、諸天皇の位牌のみならず、月輪陵・後月輪陵の各陵墓に対してもまた向き合っているのだ。陵の門を入って間近に各陵墓に参拝する場合もむろんあるのだろうが、陵墓参拝は(まとめて?)泉涌寺の一部である霊明殿でも行うことができる、ということなのではないかと思われる。
 このことは、孝明天皇までの天皇陵等については、「みてら」として当然のことだったのかもしれない。
 しかし、現在でも毎日霊明殿で、仏僧によって回向が行われている、ということは相当に興味深いだろう。また、諸法要が霊明殿ではなく仏殿で行われているとしても、その方向は上の御陵の陵墓の方向を向いている。
 なお、霊明殿の北に「本坊」とされる建物があり、現在観覧することのできる部分の区画または各部屋は、全て、天皇・皇族およびこれらの付き添い者の用に供されていたものだ。「玉座」とされている部屋もあって、「本坊」の東南にある小ぶりの庭園に向かって「南」面しており、その中心線は、霊明殿の東端またはそれと御陵との間の空地を走っている(陵の方を向いていない)。
 上の二つの地図・写真で気づいたが、一般には見ることのできない月輪陵・後月輪陵の各陵墓は、霊明殿・仏殿等がやや西北に傾いて「西」向きであるのに対して、「真西」を向いているようでもある。これは意識的で、「真西」を向かせるという明確な理由があるのではなかろうか。
  孝明天皇陵・英照皇太后陵(後月輪東山陵・後月輪東北陵)へは一般にはこの二つに共通の門の近く(上の右の写真の「孝明天皇陵前広場」)までしか行けない。
 だが、ネット上の写真等を見ていると、興味深いことに気づく。
 第一に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、「西」を向いておらず、「南」向きであるようだ。
 第二に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、<仏教式>ではない。何重かの「円墳」のようなかたちをしている。上の左の地図およびつぎのネット上の写真を参照。下の写真は上が「北」。左下が月輪陵の一部。
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  英照皇太后陵ではなく孝明天皇陵は明治改元(遡及)前の1867年に造られている可能性はあるが、明治天皇即位後であることは間違いない。そして、孝明天皇陵の造営については、明治新政権の幹部・神官たちの意向が相当に働いたのではないか。
 以下は、全くの素人の推測だ。 
 孝明天皇は明治天皇の実父の先代天皇、英照皇太后は中山慶子が実母であるところ形式上だげは「母」とされた人物。明治天皇を中心とする新しい時代を築こうとする新政権中枢は、この二人の陵墓を粗末・質素なものでなく大きなものにしようとした。
 しかし、場所は江戸時代の長い伝統・慣例によって泉涌寺付近としたが、光格(1840没)、仁孝(1846没)の両天皇とも違う区画を選び、かつ、すでに<仏教式>でないものにすることとした。したがって、第一に九重石塔を用いず、第二に泉涌寺の霊明殿の方向を向かせないことにした。
 仏教によるという伝統からの切断、泉涌寺からの分離が、すでに試みられているように見える。
 図説天皇陵(新人物往来社、2003)は孝明天皇の陵墓を「円丘」だと記す。
 一方で、月輪陵・後月輪陵にある天皇陵墓は「九重塔」だと明記している。
 九重石塔は陵墓の飾りの一種かと思っていたが、陵墓の方式・様式そのものだと理解されている。そのような、江戸時代、御水尾から仁孝までの天皇の各陵墓とは、明瞭な違いをあえて示しているのが、孝明天皇(・英照皇太后)の陵墓だ。
 この①「円丘」、②南向き、ということが<神道式>だといえるかどうかは分からない。古代の前方後円墳は<神道式>なのか、天武・持統合葬陵は<神道式>なのか、といった問題設定はほとんどなされてきていないだろう。
 いずれにせよ、しかし、明治天皇の即位後の新しい時代に、先帝・孝明天皇の陵墓についてもまた江戸幕府時代の「伝統」に従わない、「新しい」様式によることが決断された、と言えそうだ。
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 この機会に、<十三重石塔>も、二つだけ例示しておく。
 下は順に、清水寺(京都)、法住寺(同)。

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