秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

北一輝

2041/江崎道朗2017年8月著の悲惨・無惨22。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 上の「著」での江崎の<図式>は、以下だと見られる。
 第一。<保守自由主義>を「右」と「左」の「全体主義」と対比される、<良き>ものとして設定する。換言すると、そのような<良き>ものに<保守自由主義>という語・概念を用いる。
 第一の重要な系。この<保守自由主義>に、途中から、<天皇を戴く>、<天皇を中心とする>という意味を含める。または、この概念と密接不可分のものとして<天皇…>という要素を用いる(なお、こうして「保守」かつ「自由」に「天皇」を連結させる語法は、決して一般的でない)。
 第二。<保守自由主義>は聖徳太子以降の日本の長い政治的伝統で、五箇条のご誓文-大日本帝国憲法-昭和天皇、はこれを継承したものとする。
 <保守自由主義>は重要なキー概念だが、上の二つによって説明される以外には、ほとんど何も語られない。ましてや厳密な定義は明確にされていない。
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 さて、江崎道朗による北一輝に関する叙述も、上の枠組み・図式の範囲内で行われている。
 第一に、北一輝と「天皇」との関係だ。江崎からすると、上の第一の図式からして、これは最大の関心事の一つに違いない。
 江崎の結論はこうだ(第三章)。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190の見出し。
 ではどのような論拠と説明によって、この結論を江崎は導いたのか。
 恐ろしいことに、江崎道朗は北一輝の書物(の大部分でもよい)を読んで、自らそう判断したのではない。つまりは、①他人の書物による(Aの書とする)。
 さらにその書物の部分は、②北一輝がBに語ったことを、Bが(何らかのかたちで)「伝えた」のをAが「紹介」している。その内容をもっぱら根拠にして、江崎道朗は(何と鋭くも!)上の結論を下している。
 Aは渡辺京二で、その書は同・北一輝(朝日1985、ちくま学芸文庫2007)。
 Bは、寺田稲次郎。
 この部分を、もう少し引用まじりで再現しよう。「」は江崎の地の文。『』は引用される渡辺の文。p.192。
 「渡辺京二氏は、こう指摘している。/
 北は…革命が天皇の発意と指揮のもとに行われることを明記した」が、これが「偽装的表現」なのは、「寺田稲次郎の伝える挿話によって決定的にあきらかである」。
 「北が天皇裕仁を」…と呼び、…と口走ったのは「まだ序の口」で、「中野正剛が北をシベリア提督に擬した話」を北に「寺田が伝えると、彼は色を変じて『天皇なんてウルサイ者のおる国じゃ役人はせんよ。…』と答えたという」。
 「またこれは伝聞であるが、寺田が確実な話として伝えているところでは、北は秘書に『何も彼も天皇の権利だ、大御宝だ、彼も是れも皆天皇帰一だってところへ持って行く。そうすると、天皇がデクノボーだということが判然とする。それからさ、ガラガラと崩れるのは』と語ったという」。
 以上は渡辺著の一部を江崎が用いた叙述だが、その内容は、「寺田稲次郎」が語った、または伝えたという<伝聞>話だ。
 これをもって、江崎道朗は、つぎの結論的文章を書く。p.193。
 二・二六事件の青年将校たちは皇室と国を思っていたが、「その理論的支柱の北一輝は、裏ではこんなことを考えていたのだ」。
 上の渡辺著からの引用的紹介を始める前には、すでにこう書いている。p.192。
 北一輝は「皇室尊崇の人ではなかった。むしろ、皇室を嫌悪し、皇室の廃止さえ願っていたふしがあるのだ」。
 そして、再記すれば、この部分の項見出しは、こうなる。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190。
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 何とまぁ。こういう類の論証、叙述の仕方をすると、どんな結論も、どんな判断も、することができるのではないか??
 江崎道朗(の図式)にとって都合がよければ、どんな間接的「伝聞」話であっても、書物の中に活字となっていればよいのだろう。
 第二は、北一輝は<保守自由主義>者ではなく「全体主義」者だとすると、「右」と「左」のいずれなのか。
 江崎道朗は陸軍統制派は「社会主義」的だった旨の叙述のあと、皇道派青年将校を「指導」したとされる北一輝について、こんな一文を挿んでいる。p.191-2。
 「このような時代環境の中で、あたかもレーニンの世界戦略に呼応するがごとく、社会主義による国家革新と打倒イギリス帝国という対外構想を掲げて日本の青年たちを魅了していったのが北一輝なのである」。
 そのあとで江崎は、北一輝は「コミンテルンのスパイだった」という「事実は確認できない」とする。
 このあたりではまだ、「右」か「左」の「全体主義」への分類?は出てこない。但し、北一輝は「レーニンの世界戦略」に対応していたのだとすると、北一輝は少なくとも客観的には<左>だった、というニュアンスもある(なお、立ち入らないが、レーニンの死は1922年、二・二六事件は1936年)。
 しかし、だいぶ離れた箇所(第五章)で、江崎道朗は、つぎのように述べつつ、つぎのように断定している。p.
 「戦前の日本には、『保守自由主義』ともいうべき思想の持ち主と、『右翼全体主義』ともいうべき思想の持ち主がいた」。
 福沢諭吉、吉野作造、佐々木惣一、美濃部達吉らは、前者に入る。
 一方、「上杉慎吉、高度国防国家をめざした陸軍(とりわけ統制派)の人々、さらに北一輝など」は後者の「『右翼全体主義』に区分されよう」。
 江崎によれば陸軍統制派も皇道派もともに「右翼全体主義」となるのだが、これは第三章の叙述とは少しはニュアンスがちがう。それはともかく、では「左翼全体主義」との関連はどうなっているのか。
 江崎道朗は、つぎのように叙述して、まとめて?いる。p.274。
 ・戦前のいわゆる「右翼」とは「右翼全体主義」者のことだ。しかし、その中には、「コミンテルンにシンパシーを感じる『左翼全体主義者=共産主義者』や、一皮むけば真っ赤な偽装右翼も多数紛れ込んでいたから、なお状況が複雑となる」。
 ・『右翼全体主義者』と『左翼全体主義者』が結びついて(というより、『右翼全体主義者』の動きに『左翼全体主義者』がつけ込んで)、大政翼賛会などをつくり、大日本帝国憲法体制を破壊した」。
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 あれれ? こうなると、「右翼全体主義」と「左翼全体主義」の明瞭な区別はつかない。
 戦後のかつての民社党の言っていた「左右両翼の全体主義」にはまだ実体らしきものがあったように思われる。
 しかし、戦前・戦中の日本では、江崎道朗によると、両者は「紛れ込んで」いたり、「結びついて」(というよりは「つけ込んで」)いたりしており、明瞭には区別できない。要するに、彼においては、たぶん<保守自由主義>対<(左右の)全体主義>という二項対立の図式で、戦前がイメージされているのだろう。
 上のことは、<保守自由主義>を「右」と「左」の両側から脅かす「全体主義」という江崎道朗の(基本的な!)図式が成り立ち難く、限界がある、ということを示している、と考えられる。
 いつたん設定した<図式>にあてはめるために、江崎は主観的には苦労して?いるのだ。
 では、そもそも<保守自由主義>とは何か。ここで(なぜか重要な要素として)聖徳太子が登場してくる。そして、6世紀から19世紀までの「日本の政治的伝統」には、いっさいの言及がない。回を改める。
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 読書メモ/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)本文計313頁までを、9月12日(木)(2019年)に全読了。

2038/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨21。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。
 聖徳太子関連は次回の22以降とする。
 江崎道朗は、日本の戦前史を扱う中で、北一輝に論及する。
 その場合に、参照・参考文献として少なくとも明示的に示しているのは、以下だけだ。
 渡辺京二・北一輝(朝日新聞社、1985 /ちくま学芸文庫、2007)。
 この渡辺京二はたぶん戦後に日本共産党に入党し、宮本・不破体制発足以前に離党してはいるようだ。戦前からイギリス共産党員だったCh. ヒルがハンガリー「動乱」の後で離党したのと同じ頃に。この、日本共産党員だった、ということはここでは問題にしないことにしよう。あるいは、全く問題がないのかもしれない。
 江崎はまた、明治の日本はエリートと庶民に二分されていた(これはある程度は、又はある意味では、明治以前も、戦後日本でも言えると思われるのだが)、と単純にかつ仰々しく述べる中でなぜかその論拠としている外国人の文献とその内容等についても、この渡辺京二のつぎの書物を重要なかつ唯一の参照・参考文献としている可能性が高い。
 渡辺京二・幻影の明治-名もなき人びとの肖像(平凡社、1998)。
 この点も、深くは立ち入らないことにしよう。
 参考・参照文献の使い方や処理の仕方の幼稚さ・単純さあるいは間違いはレーニン・コミンテルン等に関する叙述でしばしば見られたことで、日本に関する叙述でも、そのまま継承していることは確実だろう。そもそもは、参考にして「勉強」している文献がきわめて少ないというほぼ絶対的な欠点もあるのだが。
 可能なかぎり網羅的にとは決して思わずに、自分で適当にいくつか(または一つだけ)選択した、彼にとって<理解しやすい>文献にもとづいて(直接引用したり要約したりして)、最初から設定されている自分の<図式>に合わせてこれまた適当に散りばめていく、そして、複数の論点を扱うために対応する諸文献の間での矛盾・一貫性の欠如が生じても、何ら気にしない。または、気づかない。
 このような、大学生の一・二年生によく見られるような<レポート>であって、いくら書物の体裁をとっていても、いくら「活字」で埋まっていても、一定の簡単かつ幼稚な<図式>以外には、実質的な、この人自身の詳細な主張・見解の提示などはほとんどない、というのが、江崎道朗が執筆・刊行している書物だ。
 学界・アカデミズム内であれば、すぐに「アウト」だ。すぐさま排除され、もはや存在することができない。そもそもが、加わることができるレベルにない。しかし、なぜか、日本の出版産業界と月刊正論(産経)・文章情報産業界では、存在し、「生きて」いけるようだ。
 「オビ」に名を出して称賛した中西輝政にはすでに触れたが、好意的書評者となっていた「京都大学名誉教授」竹内洋のいいかげんさにも、別途触れる。
 さて、長々と書くのも勿体ない。
 江崎道朗は北一輝について、上の渡辺著のほかには、私でも所持するつぎの諸文献を、いっさい参照していないようであることを、まずは指摘しておく。北一輝に関係する「内容的」な問題には、別の回で触れる。
 ***
 G・M・ウィルソン/岡本幸治訳・北一輝と日本の近代(勁草書房、1971)。
 松本清張・北一輝論(講談社文庫、1979)。
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ書房、1996)。
 松本健一・北一輝論(講談社学術文庫、1996/原書、1972)。
 松本健一・評伝北一輝/Ⅰ~Ⅵ(中公文庫、2014/原書・岩波書店2004)。
 所持はしていないが、他にもあるだろう。
 松本清張のものを見ても迷路に入って混乱するばかりだが、岡本幸治著・本文計360頁を見ると、北一輝の思想と行動は、江崎道朗が渡辺京二の本に即して描くような単純なものではなかったことが、よく分かる。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

1555/『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い④。

 「あいつが、死んだ。
  生きたって死んだって俺には同じ、と言いながら。
  みんなが愛したのに、幸せのはずが、どうして。
  紫陽花の花を愛した、あいつが死んだ。」
  小椋佳・あいつが死んだ(1971年/作詞・小椋佳)より
 共産主義者同盟(ブント)にも樺美智子にも親近感はないが、<人しれず微笑まん>という遺稿集のタイトルだけは、嫌いでなかった。
 そして今、<人知れず、死んでいこう>と思っている。
 誰もが平等に、死んでいく。世俗的「知名度」も「名誉」も、全く関係がない。
 <顕名欲>というのは、秋月瑛二には、とっくにない。
 「自由」であるのは、一切の組織・団体・個人と関係ないという意味で「孤独」でもある。
 以下の文章も、大海の海底に生息する小さな貝のほんの一呼吸が生じさせる、わずかな水の漂いであってよい。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
 ○ 一部の<保守>派の唱える「天皇中心主義」は、上の基本論点に並ぶほどの主題ではない。
 最近の週刊新潮上で、櫻井よしこはますます<神道>宗教、<天皇>教の信徒ぶりを明らかにしている。
 「日本をお創りになった神々」というのは、物語・神話として語られているのならばよいのだが、この人はひょっとすれば、事実・歴史と観念・「思い込み」との区別を知らないで語っているのではないかとも思えて、不気味だ。
 毎日を忙しく過ごしている日本人が櫻井よしこの文章を読んで、日本人としてのある種の<郷愁(ノスタルジー)>または<癒やし>を感じる程度ならよい。しかし、この人の想念が、過半はもちろんだが、数十万、数百万の日本人と完全に共有されているような日本の日本人の姿・様相は、想像したくはない。
 秋月瑛二も、神社や神道が嫌いではない。仏教よりもどちらかと言えば親しみがあると書いたほどだ。しかし、日本書記・古事記の<神代>の話を、かりに何らかの事実を反映しているところがあるだろうとしても、<天孫降臨>を含めてそのままの事実・真実だと考えたことは一度もない。
 神社本庁が関係しているらしき神社関係のテレビ番組でよく、「…と伝わります」という言葉遣いが出てきて、「伝えられている」という他動詞受動態だと<誰によって?>となるので、自動詞で「伝わる」と表現するのは適切だろうと思ったことがある。
 「…伝わっている」でよいのであって、無理やり真実か、事実か、誰が、どこにそのような<由緒>を書いているのかと、個々の神社についてあえて問い糾す必要はないだろう(個々の神社に関する専門的研究者以外は)。
 逆にまた、天皇・皇室の<神代>の歴史を「信じる」ことをしないと日本国民ではないとか、<保守>あるいはナショナリスト(<愛国派>?)ではないとかなどと言い出すと、きわめて生きづらい、というよりも、<恐怖の、全体主義的な>日本社会になってしまうだろう。
 ここで、もともと「歴史」は物語であるとか民族の想念の記述であるとか主張する者が出てくると、ややこしくなる。
 ぎりぎりのところで<感情>に支配されうることを否定はしないが、最初からこのように主張するのは、マルクスやレーニンの教条あるいはソ連の<公式的歴史叙述>教え、「信じ」させた、かつてのソ連圏諸国の共産党や党員学者と同じだろう。
 櫻井よしこは、性質・種類が異なると言ってはいけない。<発想方法・思考方法・歴史叙述の基本的観点>の類似性を指摘している。
 ○ いっとき、<神道>などの日本的宗教は、日本人がマルクス主義に感染しないための、あるいは日本共産党の影響を受けないための防波堤になるだろうと強く思っていた。
 今でも、ある程度はそうだ。神社一家の子弟が簡単に共産主義・日本共産党に「染まる」とは思えない。
 そしてまた、神道政治連盟等の組織・団体に期待するところもある。
 さらには、R・パイプスがレーニンに関連して(但し<左翼>系について)述べるような、「政治責任」を負うのを死ぬほど怖れかつ現実の「権力行使」をすることのできない口舌の徒=評論家である<(保守系)知識人>などよりも、神職者たちの方がはるかに、<共産主義>の浸透に対して抵抗するのではないか、と想像したりもした。
 具体的にいえば、日本に<(何国系であれ)共産党政権>ができるかできそうなときに、<実力>を行使してでも抵抗=武装による敵対をするのは神社関係者(または「容共」ではない仏教関係者)ではないか、と思ったりもした。
 しかし、最後の防波堤、<反共産主義>の最後の砦、というイメージは現在は持っていない。
 歴史的にみて、<宗教関係者>はけっこう、<権力への迎合>をしてきている。
 神道・神社よりも、仏教・寺院の側にむしろ<反体制>的抵抗は多かったようにも見える(一向一揆、信長等に対する本願寺等々)。
 かりに<神道・天皇中心主義>が<反共産主義>と同じ意味であるならば、上にいう 2)に関連して言及するだろう。
 しかし、そういうわけにはいかない、と考えている。
 日本の現在の宗教関係者(さしあたり神道と仏教)の中には、いざとなれば、<共産主義>政権とでも「同衾」をする者がいるのではないか?
 日本の現在の宗教関係者もまた、「権力」の動向に関心が深くて、かつ決して<反権力>ではないのではないか?
 ○ 理論的かつ歴史的( ?)に見ると、前回に言及した北一輝は、例えばその1923年・大正12年(共産主義インター日本支部=日本共産党設立の翌年)の『日本改造法案大綱』で、「社会主義」と「天皇」とを対立するものとは考えていない。
 <天皇・皇室を最高指導者(・層)に祭りあげたうえでの社会主義(・共産主義)>というのは、ありうるのだ。現に、それに惹かれたとされる若い軍人たちもいた。
 はたして、<極右>なのか、<極左>なのか ?
 その「社会主義」性は、言葉・概念うんぬんの問題ではなくして、明確だ。
 北一輝・日本改造法案大綱(1923)/同著作集第二巻(みすず書房、1959)による。カタカナをひらがなに変える。「天皇の原義。天皇は国民の総代表たり、国家の根性たるの原理を明かにす。」を冒頭に掲げつつ、「華族制廃止」、「貴族院を廃止…」等のあと、こうある。
 「私有財産限度。日本国民一家の所有し得べき財産限度を一百万円とす。/
 海外に財産を有する日本国民亦同じ。/
 此の限度を破る目的を以て財産を血族其他に贈与し又は何等かの手段によりて他に所有せしむるを得ず。/
 私有財産限度超過額の国有。私有財産限度額は凡て無償を以て国家に納付せしむ。//
 違反者の罰則は、国家の根本を紊乱する者に対する立法精神に於いて、別に法律を以て定む」。//以上、p.288-9、p.300。
 「私有地限度。日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす」。p.302//
 「私人生産業限度。私人生産業の限度を資本金一千万円とす」。p.307//
 つまり、「天皇」と<容共>は矛盾していない。
 もう一つ例証を挙げる。少しは関連するだろう。
 月刊正論2017年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)は再三言及するように、<編集部>による「保守」の基本要素を4点挙げる。
 そこでの、④「反共」は、①~③とは別に位置づけられる。p.59。
 月刊正論「編集部」において、「反共産主義」とは、①「伝統・歴史的連続性」、②「国家と共同体と家族」、③「国防と戦没者への慰霊」とは別の次元にある
 月刊正論<編集部>によるアホらしい「保守」理解があるから却って戸惑うが、「伝統・歴史的連続性」の中に同編集部が含めているのかもしれない「天皇(中心)主義」とは、どういう価値を持つものなのか?
 櫻井よしこらは、いったい何を追求しているつもりなのか。
 上の①~③の程度では、独自の「価値」ではないだろう。これら全部が、<保守>派ではなくとも、日本人が日本のことを考えるならば、当然のことだとも言いうる。
 さらに続けよう。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。

1405/日本共産党の大ウソ28-志位和夫綱領解説。

 一 日本共産党2004年綱領について現在の幹部会委員長・志位和夫が三巻本の<綱領教室>を出している。ソ連、とくにレーニンに関する部分は綱領第3章第8節の中にあり(但し節番号は最初からの通し)、その部分についての志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のp.167-188を、以下適宜引用しつつ読む。
 前回にも言及した<戦時共産主義からネップへの移行>について志位は「不破さんの研究に依拠しつつ、…」と明記しているので、当該箇所は不破哲三の<レーニンと資本論>の該当部分も同時に読むことになる。
 二 p.170まではたいした内容がない。「教室」=幹部 ?研修講義のための概述と年表だけ。
 つづく、つぎの文章は、さっそく驚かせる。いずれも、p.171。
 「十月社会主義革命が巨大な世界史的意義をもつ出来事であったことは、政治的・思想的立場の違う人であっても、今日でも揺るがない評価だと思います」。
 「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命は、一時のものではなく、それ自体が、世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」。//ソ連という国は崩壊したが、「にもかかわらず、十月社会主義革命が、世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。
 まず気づくのは、「たとえば」として論拠として出す文献が、E・H・カーの本一冊(岩波現代選書)だけだ、ということだ。
 この本は1989-91年以前の本にしてはロシア革命史(ネップ期を含む、1917-1929)を要領よくまとめているとは思うが、日本語版・原書ともに何と1979年、ソ連崩壊前のものだ。とりわけソ連崩壊後の諸資料、諸研究文献を見ているはずがない。
 第二は、「十月社会主義革命」(かつて日本共産党は<社会主義大革命>と「大」を付けていたかもしれない)とか「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命」とかいう捉え方自体に問題があるし、疑問視されなければならず、かつ実際にも、疑問視されている。
 「政治的・思想的立場の違う人であっても」認めている、という言い方は不当であり、デマだ。
 例証をいちいち挙げない。「社会主義」革命性自体を、かつまたマルクスの言説またはマルクス主義の正当な(ロシアにおける)帰結だったか、もまた、疑問としなければならないと思われる。少なくとも問題になりうるということは、認めなければならない。
 しかし、日本共産党幹部・志位和夫はこれを認めることができない。なぜなら、日本共産党自体がロシア革命の成功を前提とする(レーニンが最高指導者時代の)第三インター(コミンテルン)の結成によってこそ誕生しているからだ。
 したがって、日本共産党は、1922年創立をその歴史の出発点とするかぎりは、そして、そうした政党として存在するかぎり、絶対にレーニンだけは(ロシア「社会主義」革命とともに)「救う」必要があるのだ。したがってまた、ロシア革命についての歴史観・歴史認識は、大きな<政治的>粉飾にまみれたものになってしまう。
 第三に、なるほど1917年10月にペテルブルクで起きたことは、「世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」と言える。また、その「世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。しかし、これはもちろん、否定的・消極的意味においてであって、志位和夫の言い分とは真反対だ。
 フランスのF・フュレも、ロシア革命がなければドイツ・ファシズムはなく、第二次大戦はなかった、と言った。これらに比べれば低い蓋然性ではあるが(戦後の)<冷戦>もなかった、と言った。
 それだけの影響を与えた、と私も断言したい。
 マルクスが「社会主義」への必然性を言葉の上で唱えていただけならばよかった。レーニンら、ロシア共産党は、「社会主義革命」を現実に行ったと宣言し、<理論(・言葉)の現実化>に成功した、とされた。多くの世界中の人々がそれを「信じて」しまい、逆にマルクス主義の「正しさ」を立証した、ということになってしまった。
 これは、20世紀の初頭の、実に悲痛な現実だった、と思う。
 日本でも<マルクス主義(またはマルクス・レーニン主義)に染まらないとインテリではない>とか言われ、戦前の帝国大学学生を含む知的階層に巨大な影響を与えた。その影響は戦後および今日まで(日本には)残っている。
 北一輝は「純正社会主義」をタイトルにした本を書き、「私有財産」を厳しく制限する<日本改造法案>を著した。これらは、マルクスやレーニンの本を一部は読んでいたこと、後者はロシア革命の報に着目したことを示しているだろう。最近に北一輝の上の本も見たが、マルクスとかレーニンの名が出てくる。
 この北一輝の本が二・二六事件の農民出身兵士たちに「理論的」影響を与えた、というのだから、あくまで一例だが、レーニンとロシア革命は日本史の現実をも変えてしまった、と言える。むろん、不破哲三や志位和夫の人生も大きく変えてしまった(気の毒に)。
 三 上の部分のあとの志位の叙述は、「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」の話になる。

0522/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」による、コミンテルン・中国共産党の対日工作。

 一 第二次大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争だった、良き民主主義陣営は勝ち、悪しきファシズム陣営は負けた。と、こう学校教育で自分自身が教育されたかどうかの明瞭な記憶はない。ファシズムという語は小学生や中学生にはまだむつかしくて、「軍国主義」から「民主主義」へと時代・世の中は変わった、という程度のことは少なくとも教育されただろう(現在の歴史や公民等の教育用書物がどう書いているか興味があるが、別の機会に確かめてみたい)。
 しかし、どうやら上の冒頭の文のような内容で第二次大戦を理解するのが戦後の少なくともタテマエのようだ。そしてそれは、勝者の一国であり日本を占領したアメリカの歴史観でもあるようだ。
 もっとも、戦後当初又は1970年代頃までは別として、現在でも戦前(昭和)日本について「ファシズム」国家という性格づけがなされ続けているかのかは勉強不足で知らない(この点も、現在の教科書類を別の機会に確かめてみたい)。丸山真男をはじめとして、マルクス主義歴史家たちは<天皇制ファシズム>を語っていたはずなのだが、かかる概念はまだ生きて?いるのだろうか。かりにそうだとすれば、日本における「ファシズム」とは、いかなる要素・いかなる部分が「ファシズム」であり、いかなる人々が「ファシスト」だったのか丸山真男の、学問とは思えないファシズムの「担い手」・「社会的地盤」論については言及したことがあり、一笑に付しておく-丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」の5参照)。
 二 迂遠な又は余計なことを書いたが、中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)所収を読んで、第二次大戦の勝利者たちが自分たちに都合のよい<第二次大戦観>(つまり<民主主義対ファシズム>の戦争だった…等の見方)を作りだしたのであり、将来においてかかる歴史観は書き換えられる可能性もある、と思った(読んだのは初めてではなくそう思ったのも最近が初めてではない可能性があるが、こうして文章に残すのは初めてだろう)。
 単純に考えても上の如く、日本はいかなる意味で「ファシズム」国家だったのか、ソ連はいかなる意味で「民主主義」国家だったのか、といった疑問はただちに出てくる。
 1 中西輝政によれば、しかし、このような疑問程度では済まない。
 中西によると、「第二次世界大戦の真の本質」は、「共産主義勢力が、公然たる革命運動によっては成し得ないことを戦争や謀略によって実現しようとした」ことにある(p.296)。
 2 以下、中西の叙述の<流れ>を大掴みに紹介してみる。
 ロシア革命(1917年)により生まれた共産主義ロシアは、①「自由主義国家」の諸自由を利用して「秘密工作や謀略、宣伝」により「知識人やマスコミを反権力的・反国家的になるように煽動し」、その国の「転覆」を図る、②「自由主義国家間の亀裂・対立」に「直ちにクサビを打ち込み」、必要な場合は「自由主義国家同士の戦争や紛争を起こ」すことにより、自国を維持しようとした。
 1910年代末期にコミンテルンを創設してドイツ等で革命を起こそうとしたが失敗したためアジアに目を向け、「国際共産主義運動」のため(=ソ連防衛のため)中国共産党を設立し(1921年)、「国共合作」も実現させた(1924年)。インド独立運動に対しても積極的な(共産主義導入)工作を展開したが、これは成功しなかった。
 日本は、国際社会において、必然的に「共産主義に対する『防波堤』とならざるを得なかった」。シベリア出兵の動機も、日本の「領土的野心」ではなく、「共産主義の対南膨張」の阻止だった(以上、p.296-7)。
 アメリカとソ連に挟撃される日本、これが「大東亜戦争の本質的構造的原因」だった。新興大国・アメリカは「アジアにおける『ソヴィエトの脅威』に一切気付こうとせず」、むしろ日本の動きを「膨張への野心」・「日本軍国主義の発露」だと疑った。ここに、「戦前日本の大きな苦悩」があり、「日米関係の大きな悲劇の出発点」があった
 レーニン以来のソ連の最大の「敵視」国は、日本だった。最近接の「帝国主義」国だったし、日ロ戦争への「怨念」と「人種差別意識」があったからだ。そこで、日本を「自由主義国」の中で「最も弱い環」と見なして「日本をターゲットにしたアジア戦略」を立てた。
 日本は1925年(大正14年)に日ソ基本条約を締結し、いち早くソ連承認・外交関係の樹立をしたが、ここには「日本が一貫して、共産主義の謀略や浸透工作に主要国の中で最も鈍感」だったこと、「当時、共産主義とソ連の工作はすでに広く深く日本国内にエリート層を中心に浸透していた」ことが示されている。日本は治安維持法を条約と同時に制定したが、この条約により日本の「赤化」は「さらに急速に進」み、治安維持法は「日本の国家中枢への工作の浸透には全く無力だった」。
 治安維持法は「本質的には対外防衛、国家安全保障のための措置」だったが、「欧米の反共法」と比較すると「実質的には緩やかな」、「甚だ不備な」ものだった。「思想」のみを問題にしたため、「共産主義者の『偽装』を簡単に見逃し、『天皇制』支持を唱えさえすれば…多くの『偽装転向者』を社会のエリート層に受け入れてしまった」。このことは、日本にとって「誠に不幸な歴史の巡り合わせ」だった。
 ロシア革命後半年以内の「米騒動や過激な労働争議」の続発、「各種の過激な破壊衝動」の広がりは、日本のインテリ層・エリート層に共産主義が「進歩的」と映ったこともあるが、「大規模な対日秘密工作」という要因も大きかった。
 その工作の代表例が、尾崎秀実〔一時期、朝日新聞社員〕だ。1922年(大正11年)に日本共産党=コミンテルン日本支部が発足したが、主要な活動家の多くは、尾崎も入会した「東大新人会」で、この会等に集まった東京帝国大学の共産主義シンパの学生たちは「すぐに共産党を離れ、直接にモスクワの指令で動く工作員」になった。
 彼らの多くは昭和10年代に「革新官僚」になる。「企画院事件」も起こした。また、陸軍軍人もドイツ留学や東大国内留学(「依託学生」)によって「共産主義の洗礼を受け」、昭和10年代に「陸軍統制派」として力を奮った。代表格は池田純久で、その思想的背景の一つには、「天皇制」と「共産主義」は共存できるとの北一輝の論があつた。「軍人や高級官僚に蔓延」したかかる「思想的混迷」が日本を「あの悲劇に導いた最大の要因の一つ」だった。「当然、ソ連・中国共産党の工作はそこを突いてきた」。
 エリート軍人の多くは「直接、意識的に」コミンテルンと関係をもったわけではないが、「共産主義者」・「コミンテルン・エージェント」たることを隠した尾崎秀実のような人物の「接近を許し、無意識のうちにその工作を受け入れ、モスクワや延安の意図に沿って動かされた」者は「少なくなかったはず」だ。かかるモスクワ・延安(=ソ連・中国共産党)の工作は「各ネットワーク全体を体系的にオーケストレート(総合化)して徐々に日本を、対蒋介石そして英米戦争へと誘い込んでいった」。「満州事変前から」、かかる「大目的をもったコミンテルンや中国共産党の対日工作の影響が、日本の指導者層には、それこそ充満していた」(以上、p.298-302)。
 以上で区切って、さらに続けるが、内容的になかなか空恐ろしい叙述だ。むろん、ソ連解体前の戦後のソ連共産党や現在までの中国共産党が以上で記した時期のような「工作」を、日本と日本人(官僚、政治家、有力マスコミ関係者、有力学者等々)に対して行ってこなかった、とは言えないことは明らかだ。

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