「生きているとはどういうことか/生物学者・団まりなに訊く」森達也・私たちはどこから来て、どこへ行くのか-科学に「いのち」の根源を問う-(筑摩書房、2015)の第4章。
 この書物は2015年刊だが、2012-2014年に某小雑誌に連載されたものをさらにまとめたものらしい。そして、団まりなとの対談またはインタビューは2013年1月に行われている(団まりなは2014年3月13日に「急逝」-同書p.156)。
 したがって、団自身の文章ではない。
 面白いのは、物理・化学といった自然科学の「主流」に対する生物学者の批判・鬱憤が、あるいは生物学の「主流」に対する批判・鬱憤が、団まりな・細胞の意思(NHKブツクス、2008)における以上に、明確に語られていることだ。
 自然科学といってもさまざまだ。一括りにして自然科学一般・近代「科学」を論評してはならない。なお、細胞の「自発性」や「意思」の有無は相当程度に言葉の遣い方、表現・強調の仕方の問題で、正しい/誤りの問題ではないと思われる。
 また、奇妙な「文学」畑の人々の中にある、<オレはオレは>の、あるいは知識をひらけかすだけの(つまり衒学的な)<人間論>よりも、はるかに自然なかたちで、理性的・知性的に生物である「人間」なるものに向かい合っているとみられることも、ある意味では感動する。
 以下、要約的紹介・引用のみ。番号は秋月の恣意による。コメントはもうしない。p.125~p.149。
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  森達也によると、団まりなは「ある意味で既成のアカデミズムに喧嘩を売り続けてきた」、また「階層生物学」を提唱した。この「階層」問題から対談・インタビューは始まる。
 「非常に大きなスコープで自然界を眺めると、素粒子・原子・分子と」微細から大へと「積み重なっている」。これは「階層」だ。生物学の範囲でさかのぼると「発生学」となり、さらには「進化学」になる。かつての「発生学」に不満で、「記述的な発生学」ではなく「何がどうなってどういう段階を踏んで」が知りたかったが、当時は「階層性という発想」はまだ皆無だった。
 「分子や遺伝学をやらない」ことが批判された。
 「分子や遺伝を専門にしている人から見れば、生態や行動は学問ではないんです。
 できるだけ物理化学に近い手法で機械などを使って精密な数値を出すことが、彼らにとっては学問なんです」。
 「階層性」についても、その意味が問われ、「証明できないし、再現性も語れない。ならばサイエンスじゃない、と判断されてしまう」。
 「進化論」も再現不可能であることには目をつむり、「遺伝子の相同性を調べるために、数学や統計の手法などについて話し合う」。「つまりDNA」で、「DNAを比較する手法を研究するのが進化学」。「DNA以外のものは、『はぁ』?みたいな感じ」。
  「擬人化」を厭わない。「擬人化すべきとまでは言わないけれども、擬人化を排除したら生物はわからないというのが私のスタンスです」。
 「物理の言葉で生物は語れません。
 当たり前のことなのに『サイエンスとは再現性がなくてはいけない』とか『証明できなくてはいけない』という物理や化学の手法が、生物学に押しつけられている。」
 「今は爛熟期にある分子生物学も、実は生物学ではなくて生物分子学とよぶべき」だ。
  「細胞」が培養皿の中で「別の細胞」と出会い、離れたりくっついたりする。ある場合は接合して「大きなシート」になり、別の場合は「出会っても動いて逃げる」。これを「出会ったり別れたり、一緒にやろうって協働することを『合意した』と記述したとしても、それは擬人化でも何でもない」。
 「細胞が出会ったら、まず自分たちが何者かをお互いに探って、相手を認識する」。ある場合には「お前と俺とでシートをつくろう」と、別の場合には「お前と俺とは違うな。じゃあね」と退く。「出会って、触れて、認識し合って、同族かどうかをチェックして、…何らかの合意で次のステップに行く」か「違うやつだなと思って別れる」。これを「擬人化で説明することに、何の不都合もありません」。
  森によると、団は「擬人化」どころか、「細胞は実際に人のように意思をもってふるまっている」と主張して、風当たりが強い。
 「それ(意思)は細胞の中にあるんですよ。
 だって実際に協働の構造までつくるんだから。」
 「合意という粗っぽい言葉だけではメカニズムまでは示せないけれど、細胞のふるまいをより深く感じるためにはそれでいいんです」。
  「進化論」や「DNA、二重らせんとか塩基の接合とか」では、「絶対に説明できません」。「DNAは細胞の部品」、「自動車で言えばエンジン」だが、「エンジンだけで自動車は語れない」。
 「分子細胞学」を無駄だと言っているのではない。「細胞みたいな混ぜこぜシステム」を扱うのは「モダンな科学ではないなどの下らないことを言いさえしなければいい」。
 「iPS細胞の発見」によって少し風向きは変わった。「分子の言葉だけでは語れない」。「大事なことは、細胞が最小の生きている単位であるということ」だ。
 「バクテリアは最も原初的でありながら、私たちと同じ感覚をすべて持っている。
 それぞれのメカニズムで、努力して一所懸命生きている。」
 バクテリアには「脳」はないが、「私たちと同じ」で、「生きている」。「外から分子を取り入れるとき、細胞膜に埋め込んだ輸送タンパク質により、ATP(…)を消費して取り入れます。人間と同じです」。
 「自発性」ではなく「意思」だ。「だって状況判断みたいなことをするわけ」だから。
 「現代的な"科学"を信奉する人たち」の現象説明では、「本当に知りたかったのは何だったか」を忘れてしまう。
  「進化論」は、「根源的に、物質がだんだんとまとまっていく性質がある、そのまとまり方の一つのセクション-というか、一つの分野かな」と思う。「突然変異と適者生存だけ」では「説明」できない。
 「動脈には弁がある」が、「突然変異と適者生存を満たすために、動脈に完璧な弁を持つ子供」が突然に生まれたとするのは「どうしても無理」だ。「細胞が血流を理解している」と考えたらどうか。「心臓、血管、血流というシステムを構築し、それを実際に使ってみて、一定以上の血流を循環させるには、要所要所で逆流を止めなければ効率があがらないということを経験的に知って、…弁という工夫を思いつき、…流すべき血液の量に応じた弁の洗練(進化)が始まる」、と。 
 「細胞レベルでの脳は全体だと思います。
 システム自身が思考している。いろんな細胞現象をみればそう考えざるを得ないんです。
 細胞は身体全体を脳のように使って生きている。」
  (「バクテリア」-)「プラナリヤ」-「鳥」-「犬」-「猿」、「脳の機能にもやはり階層性がある」。
 「情動を司どる部位は私たちの脳のうんと奥深くにある」が、ニワトリの情動・カエルの情動等と「階層的に考えると、情動の捉え方が大分違ってきます」。
 「情動の起源は、おそらく魚のあたり」だろう。「無脊椎動物となると情動とは言えそうにないから」。「一つの階層の上昇があると思われる」。
 「魚の脳に何を加えたら猫の脳になるのか」。「サルやゴリラやチンパンジーは人と近い」が「でもやはり何かが違う」。これが何故かを考察するのが「階層性」研究だ。
  「細胞」には「三段階の階層」がある。そのうち①「原核細胞」と②「ハプロイド細胞」は、「細胞分裂で無限に増える」。しかし、③「ディプロイド細胞」は二つの「ハプロイド細胞」が組み合わさった「いわば構築物」だ。但し、「このユニットがちゃんと細胞分裂できる」。
 「一個のディプロイド細胞は、自分がちょっと前に二つのハプロイド細胞からできたことを絶対にわかっている」、「こんな状態を続けたらいずれ自分のシステムがた゜んだん変な矛盾をきたしてくることもわかっている」。「だから、リニューアルしなければならない」。 
  「私たちの身体を構成している細胞」は細胞分裂の回数の限度を「知っている」。
 だから、「私たちは捨てられ、次の世代が出てくる」。「人間自身のリニューアルです」。
 80年で終わりであっても、「いいんです」。
 「だってリニューアルの方法が組み込まれている」。「私がまた私になる」のではなく「別の個体になる」のだけれども、「『私』ということはあんまり重要ではない」。
  「自分のシステムをもう一度つくれるのだから、いまあるものが解消してもかまわない。
 そんな感じで、あっさりとしているのだと思います。」
  でも「細胞たち」にも「『生きたい』という意思があることは明確です。絶対に死ぬのはいやだ。そのために工夫する。その工夫の結果として、いろいろと複雑になってきたわけです」。
 例えば、「ミトコンドリアの元となったバクテリアを取り込むための第一段階として、いくつかの細胞同士が集まって自らを大きくした」。次の段階で「DNAをタンパク質で包み込もうと考えた」。「細胞」はこうしたことを「彼らなりの方法でわかっているのだ」。
 「マーギュリス」[Lynn Margulis、1938-2011。生物学者(女性)]が言うように、バクテリアが持つミトコンドリアを「細胞」は「食べた」。そして「食べてはみたものの、消化しないで持っていた方が有利だと気がついた」。そして、そのような「細胞たちが、その後の競争に勝って繁栄した」。
 ミトコンドリアの「意思」との「合意形成」のためには、「最初に、ミトコンドリアをどのように騙したかを考えなくてはならない」。「たぶん、栄養をあげたんです」。「ミトコンドリアは原核細胞だから固形物は食べられない」が、「融合して巨大化すれば」、小粒子や水溶性の「大きな分子」も「飲み込むことができる」。
 10 「自然淘汰」も「適者生存」も強引で万能主義的で、「生物は闘いだ」とのイメージを刷りこむ。しかし、「ハプロイド細胞同士の有性生殖」のように「協力は両方で完全に合意しなかったらできない」。「お互いに溶け合って、また元に戻る」なんてことは「すごい深い協力関係」、「互いに意思」がないと不可能だ。「人は闘う本能」をもつというのは「男性原理に偏った見方」だ。
 11 「宗教」には向かわない。「意思をもつ理由は生きるためです」。
 「細胞も状況判断をしています。そこで判断している主体は細胞しかない。
 ならば、メカニズムがどうであれ、『そこに意思がある』と言えるんです。」 
 親しくしたり逃げたりする「原初的なモティーフ」は、「脳」がなくとも、「絶対に死ぬわけにはゆかないという事情のなかから生まれて」いる。
 「自ら膨大なエネルギーを使って自分の体を成立させるシステムが生命ですから、そのシステムの存続こそが、生きるモティーフそのものなのです。
 「意思やモティーフ」のための「特別の場所は存在しない」。「タンパク質やRNA、…それらの複合体が混然と存在する坩堝のような状況」の「細胞の中」に「エネルギー源となる糖の分子がものすごい勢いで入ってきて、<中略>最後は…尿素やクエン酸となって坩堝から外へと排出される」。他にも、「タンパク質や核酸を作り直す反応や細胞膜の素材を合成する反応」など、「何千、何万もの化学反応がネットワークを形成しながら、同時並行で行われて」いる。これらのスピードが遅くなると「システム全体」が破壊され、「エネルギーの流れが低下すれば、全てがほとんど同時に瓦解してしまう」。例えば、「青酸カリの作用は酸素の流れを一瞬乱すだけ」だが、「身体全体が壊れてしまう」。
 「生きるモティーフが細胞そのものに内在する」。「細胞構造の成立そのものが、自らのメカニズムや機能に立脚した抜き差しならないバランスの上に成り立っている」のだ。
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 以上。p.149-p.156は割愛した。
 下は、すべてネット上より。1つめは、茂木健一郎と団まりな。右は団・NHKブックス。

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