秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

加藤哲郎

1976/加藤哲郎著(1990)とL・コワコフスキ。

 いつぞや、加藤哲郎の本がL・コワコフスキの文章(・詩?)を引用・掲載していた、と書いたことがある。
 その加藤の本を、久しぶりに見つけた。
 加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990年3月)。
 この本全体のハードカバーの中にある表紙のそのつぎの頁に、L・コワコフスキの文章(?)が二頁分で引用されて掲載されている。
 「東欧革命」の途上での既存?社会主義に対する鋭い批判を諧謔をもって表現したものとして、加藤は採用したのだろう。
 もっとも加藤が英語訳にせよ直接にL・コワコフスキの文章に接したのではないようで、以下からの再引用・掲載だとされている。
 全集/現代世界文学の発見・第11巻-社会主義の苦悩と新生 (学芸書林、1970)。
 これの原物はいま手元にないが、購入し所持していて、確認はしている。
 加藤哲郎は「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者を示している。
 これは私も最初はそのように読んだところで、L・コワコフスキの初期の作品の珍しい邦訳書である以下も、著者を「ココフコフスキ」と表記していた。
 小森潔=古田耕作訳/L・コラコフスキー・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)。
 この著はL・コワコフスキがまだ完全にはマルクス主義者でなくなっておらず「修正主義者」とかマルクス主義正統派(スターリン派=ポーランド統一労働者党)から批判されていた時期のものだと見られる。そして、邦訳者たちもまた、反マルクス主義または反共産主義という観点からではなく、反スターリニズム(反日本共産党?)の観点から関心をもって、邦訳書を刊行したのだと推察している。
 その後、東欧の「お伽ばなし」・「怪談」とか哲学一般に関する書物の邦訳はあるが、L・コワコフスキの中心著作と評して欧米学界・論壇でも誤りはないと見られるつぎの著の邦訳書は決して?刊行されなかったことは何度も書いた。
 Leszek Kolakowski・マルクス主義の主要潮流(原語1976、英語訳1978)。
 さて、加藤哲郎が引用・掲載している文章(?)は「はしがき」のつぎの「目次」欄の右端にも、表題が「なにが社会主義でないか」と記されている。
 L・コワコフスキ自身の発表年は、1956年。この人が29歳の年。
 以下の中に収載されている。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays. (2012年)。p.20-p.24.
 レシェク・コワコフスキ・神は幸せか?-小論選集(2012)
 これによると表題は、What is Socialism ? で、「なにが社会主義でないか」ではなく「社会主義とは何か」だ。もっとも、原作時点以降に変更された可能性はあるし、その文章?自体は「なにが社会主義でないか」を語ることから始め、「社会主義とは何か」をこれから語ろうと書いて、ほとんど終わっている。
 これまで「文章?」とか「文章(詩?)」とか記したように、L・コワコフスキの1956年の「社会主義とは何か」は「社会主義でない」国家・政体のスローガンもどきの列挙であって、美しいものでも、じっくりと味わえる文章でもない。むしろ、乱雑だ。よって、ここに書き写すつもりもない。
 しかしそれでも、その内容が当時のポーランド当局には危険なものだったのだろう。
 ポーランド共産党(統一労働者党)の党員だった、ワルシャワ大学の研究者・教育者が書いたものだったのだから。
 上の2012年の著の原文のあとに、つぎのような注記がある(p.24)。一文ごとに改行する。
 「この小論(essay)は検閲に引っかかり、これが書かれた学生雑誌は閉鎖させられた。
 そして、すみやかに当局が除去するまで、ワルシャワ大学の告知板に貼り出された(pinned up)、。
 そのとき以降、地下で複写版が回覧された。
 共産主義が崩壊するまで、ポーランドでは公刊されないままだった。」
 この注記はかつてからL・コワコフスキが記していた可能性もあるが、2012時点でのAgnieszka Kolakwskaya (L・コワコフスキの娘)によるものかもしれない。少なくともこの選集では、L・コワコフスキが英語で執筆していないものは、この人が(原文を)英訳したとされている。
 最後に、加藤哲郎に戻らなければならない。
 加藤は1990年時点でポーランドに「コラコフスキー」という名の現存?社会主義に批判的な哲学者がいることを知った筈だが、その後にL・コワコフスキに対する関心をいかほど持ち続けたかは疑わしい。
 1990年前後に欧米に滞在していたとすれば、何かのおりに、とくにポーランド関連では、Leszek Kolakowski の名を重要な人物のそれとして知ったとしても、またマルクス主義・共産主義・社会主義との関連で彼のMain Currents of Marxism という大著の存在を知ったとしても不思議ではないが、そのようなことはなかったのかもしれない。
 いったい何が日本から<マルクス主義の主要潮流>を遠ざけたのか、関心を引き続けることだ。

1935/山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(2001)。

 数年前に社会主義・共産主義や日本共産党関係の文献を集中的に収集していたとき、つぎの本も手に入った。1990年-1994頃の共産党中央委員会報告集が1994年党大会直前のものも古書で意外に安価で入手できて、そちらの方をむしろ興味深く見ていたのだったが。
 山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
 「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
 1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
 以上は、上の本の「年譜」による。
 さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
 1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
 6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
 1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
 1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
 1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
 1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
 1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
 1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
 1988年、大阪経済法科大学客員教授。
 1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
 1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
 1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
 1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
 1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
 1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
 2000年、逝去。
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 以上、知らないことばかりだった。
 1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
 1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
 東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
 他にも、より強く感じることがある。
 第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
 上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
 死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
 第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
 不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
 不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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1904/NYタイムズ2004.02.14の記事-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski の第一回Kluge 賞受賞はアメリカのメディアの関心を惹いたようで、翌2004年の2月14日付The New York Times は、Oxford まで記者を派遣して(又はロンドン在住の記者によって)一部は明瞭にL・コワコフスキからのインタビューから成る記事を掲載している。
 上記期日のThe New York Times(Online)から試訳する。記者はSarah Lyall。
 L・コワコフスキの評価は彼の書物自体の内容によって行うべきことは明らかだ。
 しかし、その<人物>にも関心は向かうのはやむをえず、とくにL・コワコフスキの場合は、例えばつぎのような疑問が生じ、知りたくなる。
 ①ポーランド出国の詳細な経緯。
 ②例えば、強制的国外追放という制裁が「法的に」は想定し難いとすると(シベリア流刑とは異なる)、どのようにして国外に移ったのか。家族はいたのか。家族はいたとすれば、彼らも一緒だったのか、等々。
 ③L・コワコフスキの「連帯」運動への影響というのは、より詳細にはいかなる態様、内容のものだったのか。
 これらのうち、上の②の一部は、以下の記事によって判明する。
 その他の①について、相当に参考になる情報・知識をネット上で得たが、以下では明瞭ではない。
 さらに、上の③は私にはまだほとんど分からない。なお、ポーランド青年たちを「目覚ました」とされる1971年の小論<希望と絶望について>は、ネット上にフランス語→英語版が掲載されていたが、読んでいない。
 なお、以下で言及されている1960年代の"社会主義とは何か"は、長い論文ではなく標語の羅列のようなもので、のちの彼のエッセイ集にそのまま収載されている。
 また、手元で確認できていないが、日本では加藤哲郎が、何かの本でこの「社会主義とは何か?」に気づいてそのまま紹介、掲載していた。その元の本自体も不明なので、別の機会にこの欄に記す。
 加藤哲郎がその後ひき続いて、このポーランドの「レシェク・コワコフスキ」に対する関心を維持しなかったのは、間違いないように思える。
 その他のコメントは避ける。この記事の内容も、興味深いものがある。
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 The New York Times/2004年2月14日付。
 哲学者が変化をもたらすとき。

 記者・Sarah Lyall。
 連邦議会図書館が76歳のポーランド人哲学者のレシェク・コワコフスキに初めて語りかけたのは、100万ドルの新しい人文社会科学賞の候補に指名された、と伝えるためだった。
 のちに彼自身がその賞を受けたと伝えられたとき、彼はこのときのことを思い出した。//
 コワコフスキ博士は驚いたのだとすれば、ほとんどのアメリカ人はたぶん当惑しただろう。彼の名前は合衆国では十分に知られていなかったのだから。
 しかし、図書館長の James H. Billington 博士は、三ヶ月前の発表の際に、なぜこの哲学者が人文学および社会科学での生涯にわたる業績に対する初代のJohn W. Kluge 賞に選抜されたかを知りたい人々のために、つぎのように説明した。
 「これほどの広さで洞察しその時代の大きな政治的事件に重要な影響を与えた、奥深く熟考する思索家を、他にはほとんど誰も見出すことができない。」//
 ポーランドで生まれ、1960年代に、増大していた反正統派信条を理由として大学での地位と共産党から追放された。
 国外でのコワコフスキ博士は、1980年代のポーランド連帯運動の重要人物になった。
 三巻にわたるマルクス主義の分析作業、"マルクス主義の主要潮流" (1978年)は、その主題にかかる決定的著作だと考えられている。
 しかし、彼は明快で魅力あふれたエッセイ著述者でもあり、その書物や著作はSpinoza、Kant、モダニズム、権威と自由意志および日常生活での哲学の意味といった主題にかかわっている。//
 このような素晴らしい諸業績があるにもかかわらず、コワコフスキ博士は穏やかな人物のままであり、個人的な質問から逸らせた。
 「あなたは、私の人生について知らなくてもよいです」。
 彼は、数年前までAll Souls College の主任研究員だったOxford の北郊にある自宅の居間で、コーヒーをすすりながら、そう言った。//
 同じように、最近の受賞の報せにどう反応したかにも触れたくはないようだった。
 いや、そうだ。お金はどうしますか?
 彼はカップに目を落とし、悪戯っぽい笑いを浮かべて、言った。
 「金を使うことに、大きな問題は全くないです」。//
 コワコフスキ博士-その名は、LESH-ehk ko-wah-KUHV-skee と発音される-の人生は、二度、引き裂かれた。先ず、ナツィズムによって、次いで、共産主義によって。
 知識人の子息だった彼は、ドイツによる侵略のあと、家族とともに何度も中央ポーランドの町や村へと転居させられ、学校に通うことは禁じられた。彼は語った。
 「ドイツ人はポーランド人のための学校を閉鎖しました」。
 「ドイツ人のための豚飼いであるポーランド人を読み書きができないようにしておくというのは、素晴らしい考えでした」。//
 にもかかわらず、彼は多数の本をこっそりと読んで勉強し、戦後には、ワルシャワ大学から哲学で博士の学位を得た。
 最初は、ナツィズムの解毒剤として、そしてうむをいわさぬユートピア理想として、教条的マルクス主義を受け入れた。彼は、こう説明した。
 「私はポーランド文化にある一定の伝統-右翼、聖職主義、反ユダヤ-をひどく嫌いました。そして、戦争中に左翼の環境(milieu)の中に入りました」。
 「ドイツのもとでの恐怖の5年間のあと、われわれは、赤軍を解放者として歓迎しました」。//
 彼が語るには、そのあと、彼が信じて誓約したものはそう主張していたものではない、ということに気づくことができた。
 1950年に、有望な青年マルクス主義知識人のための企画の一環として三ヶ月の間モスクワに行って初めて、彼はイデオロギー的に目覚め、マルクス主義の豊かなイデオロギー上の修辞は薄っぺらで皮肉に満ちた現実と食い違っていることを発見した。//
 「文化的頽廃-ソヴィエトの科学とイデオロギーの指導的著名人の知的生活の貧しさ、芸術等々の貧しさ-が、分かった」、と彼は語った。//
 ポーランドに戻って、彼はワルシャワ大学での経歴を登り、最後には哲学史部門の講座長になった。一方では、マルクス主義を辛辣に攻撃した。また、しばしば風刺的に著述したことによって、彼はますます既成組織集団(establishment)には相容れないものになった。
 彼は人間主義的社会主義または社会主義的人間中心主義を擁護して議論することを始め、改革を支持して運動する知識人たちでが起こしていた「ポーランドの十月」運動を背後で支える指導的思考家になった。//
 コワコフスキ博士の影響力あるスターリン批判、"社会主義とは何か"は、多数ある著述の中でもとくに、政府によって発表が禁止された。しかし、幻滅していたその他の知識人たちの間には広く流通した。
 1966年に党から除名され、その二年後に、大学での仕事を奪われた。
 そして、精神病理学者の妻、妻との間の一人の娘とともに国を去り、Montreal のMcGill 大学の客員教授職を得た。彼は、つぎのように語った。
 「ポーランドにいなくなるのは2年だろうと想定していた。しかし、20年に延びた」。//
 1970年代および1980年代にポーランドで反対運動が力強くなり始めたとき、コワコフスキ氏の著作はポーランドの運動に対して中枢的な(pivotal)影響力をもち、とくに1981年に発布された戒厳令のあとでは、国外での運動を活気づける効果をもった。
 しかし、自分は著作物や政治的動きが影響力をもった多数の知識人の一人にすぎない、自分のしたことは「わずかな奉仕」だ、と言って、彼は自分の役割を軽く扱った。//
 あるときに、彼は英語で口挿んだ。-「私は一つの言葉しか持たない-ポーランド語だ。多数の言語で話すふりをしている(pretend)けれども」。
 (英語以外に、フランス語、ドイツ語およびロシア語だ。)//
 共産主義体制の解体について、コワコフスキ博士はこう語った。
 「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」。//
 コワコフスキ博士は、共産主義の崩壊とともに、Spinoza を含む初期の関心へと立ち戻った。
 彼は、哲学の歴史や宗教の歴史、倫理および形而上学に関する書物を執筆した。
 彼の著作は16世紀と17世紀のヨーロッパのキリスト教運動の歴史的検証から、風刺劇の脚本や寓話的童話にまで及んでおり、その寓話では彼はとくに、旧訳聖書から現代の弁証法的理性までの物語を主題にした。
 "悪魔との対話"(1972年)という初期の書物では、狡猾な魔王(Satan)は神話や歴史上の人物たちと討論する-Orpheus, Héloïse、Luther、St. Peter the Apostle、St. Bernard -。さらには「形而上学的新聞社大会」への参加者とも。
 最新の著作である"スピノザに関する二考と哲学者たちに関するその他のエッセイ"は、まもなく店頭に並ぶはずだ。//
 批評家のGeorge Gomori は、コワコフスキ博士について、こう書いた。
 「これが十分に、彼のメッセージの要点であるかもしれない。すなわち、真実と権威の双方を、貴方は愛することはできない
 ドグマに囚われず、貴方自身がもつ前提を頻繁に再思考して、貴方は選択しなければならない。
 コワコフスキは、大人のための哲学者だ」。
 その書いたものは実際上は難解であることがある多数の今日の哲学者たちとは対照的に、コワコフスキ博士は、学界に属していない者ですら平易に理解することができるように書く。//
 連邦議会図書館のScholarly programs の長であるProsser Gifford 博士は、コワコフスキ博士にKluge 賞を授賞することに最終的には決した選考過程を統括した。彼は、こう言った。
 「学界の仲間たちを、こき下ろしたくはない。
 しかし、ある範囲の側面での近年の人文社会科学は、きわめて奥義的(arcane)になっていて、専門家的隠語(jargon)でいっぱいだ。」
 「我々は、基礎的な諸問題を対象にして研究している。そしてそれらは、学界人ではなくそうした作業に職業的に関与していない人々にも理解可能なものであるべきだ。
 コワコフスキ博士は、それをしている」。//
 コワコフスキ博士はまた、答え難い質問にも尋ねる価値があると認める、無邪気とも言える率直さでも目立っている。
 例えば、"形而上学的恐怖(Metaphysical Horror)'' (1988年)で彼は、「ありえない疑問」に対する人々の恐怖を戯れ的に描き、ある意味では彼の生涯の作業を、この書物の最初の一行にまとめている。
 「似而非専門家(charlatan)だという感情を決して抱いたことのない今日の哲学者たちは、薄っぺらな心性しかもたないので、その著作はたぶん読むに値しない」。
 上のような見方について質問されて、彼は笑った。そして、ときどきは彼も似而非専門家のように感じるけれども、としつつ、こう語った。
 自分の似而非専門家的思考は、「似而非専門家ですら、有用な役割を果たすことができるという感情」でもって均衡が保たれている、と。
 コワコフスキ博士によると、根本的な諸問題を検討することは、それぞれの時点ではいかに無益で虚しいことのように見えるとしても、経験にとって根本的なことだ
 彼は語った。「形而上学上の、認識論上の、倫理上の諸問題を発するのは、人間の精神(mental)の抑え難い欲求だ。
 それについて思考するのが幸福だ、というのではない。そうした諸問題そのものが、抜け出すことが困難だからだ。」
 付け加える。「決定的に明確な回答はない。
 しかし、そうした諸問題に接近することによって、望む目標地点に到達しなかったとしても、正しい(right)途の上を進んでいるという感情を得ることができる」。
 彼は語った。「にもかかわらず、そうした場所(position)は、劇的で面白いものではない
 戦慄にみちたものでもない。
 人は、そうした場所で生きることができる。」
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 以上。

1891/白井聡「『国家と革命』解説」(2011)。

 レーニン=角田安正訳・国家と革命(講談社学術文庫、2011)。
 この文庫本版のレーニン文献に翻訳者とは別の「解説」を書いているのが白井聡で、その表題は「解説-われわれにとっての『国家と革命』」。一年以上も前に、知ってはいた。
 レーニンとロシア革命の擁護という点で、目を剥く文章が見られる。以下に抜粋的に引用する。
 自らの『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)の議論の要約らしきものを述べた後でこのように書く。p.274-。
 ・<国家と革命>またはレーニンの言説全般にかかる「理想主義」か「現実主義」かの問いの無意味さは「現存社会主義」の崩壊によって「現実」となつたが、それは「想像力の貧困の帰結」だ。レーニンの文章の「不可解さ」は彼の罪ではなく、「われわれの想像力の貧しさ」にある。「いかにしてこのような貧困状態にわれわれが落ち込んだのか」。
 ・レーニンが描いた共産主義建設の試みは①「国家の死滅」ではない「国家の異常な肥大」や「形式的な民主主義」の無視をもたらし、②「理想社会」という「嘘と欺瞞に対する怨嗟」が広まって「帝国を崩壊」にもたらす、という「二度」の「挫折」をした。
 ・上の帰結の原因につき、①マルクス=レーニン思想に「内在する独断性」による「硬直的なほとんど教権的」体制の構築、②ロシアの特殊性、が語られる。
 ・しかし、上の①と②には「何の違いもない」。なぜなら、「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている点」で共通しているからだ。
 ・「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をレーニン、スターリン、マルクスのずれかに求める談義をする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ・こう考えるべきだ。「ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか」。あるいは、「ロシア革命の失敗が失敗であるがままでとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか」。
 ・「ボルシェヴィキ政権が」「恐ろしく強権的なもの」になったのは「事実」だが、「仮に、当時ほかの先進諸国のどこかでボルシェヴィキ革命と同程度に決然とした反資本主義の革命が一つでも起こっていたとするなら、世界は果たしてどうなっていただろうか」。それが起きていたなら、「ソヴィエト政権がかくも強硬なものとならざるを得なくなった必然性」の原因の一つが除去される。
 ・革命政権を干渉軍と「社会主義者たち」は非難した。レーニンが「ボルシェヴィキ革命を批判したカウツキーを『背教者』とまで呼んで罵倒したことは、筆者にとって完全に納得できる」。「社会主義者」にある「根本的欺瞞がレーニンをして怒髪天を衡く怒りを発せしめた」のだ。
 ・われわれがロシア革命の失敗の原因を論じるときに「カウツキーと同じ過ちを犯す危険」に近づく。つまり、「われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか?
 ・レーニンの革命の理想を「救済」できるのは後代のわれわれだけだとすれば、「国家と革命」の中の「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ・日本人の大多数は戦後にロシア革命から「多大の恩恵」を受けた。資本主義体制が「階級対立の緩和、労働者階級の富裕化、富の分配の平等化、社会福祉の実現」をかなり追求した必然性の原因の一つは「巨大な社会主義陣営の存在」だった。
 ・「歴史の皮肉」は、「現存社会主義の体制を大方冷ややかに見ていた諸国の大衆こそが、社会主義革命の果実を最も豊富に享受していた」ということだ。「自由主義先進諸国の勤労者階級は、階級闘争において代行的に勝利を収めることとなった」。
 ・レーニン「国家と革命」の中の「革命」に、「われわれは非常に多くを負ってきた」。「今日のわれわれの社会が背負っている痛みは、部分的には、この多くのものが失われたことに起因する」。「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
 以下略。上は、p.283まで。
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 上で印象的なのは、第一に、ロシアでの「十月革命」を「社会主義革命」だったと完全に信じていることだ。
 そして第二に、「社会主義(革命)」の理想を未だに抱いているごとくであり、資本主義=「悪」という立場に当然のごとく立っている。
 第三に、レーニンの描いた十月革命後の「理想」が実現されず、かつむしろ悲惨な結果をもたらしたことの大きな原因をドイツ等での「革命」が後続しなかったことに求めている。かりに-だつたら、こんなことにならなかった、と嘆いている。
 第四に、ロシア革命の失敗とその理想の追求を「われわれ」の痛みと夢として抱き続ける必要があると論じている。
 印象的な文章の例を、くどいかもしれないが、再度引用しよう。
 ①「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている…」。
 ②「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をあれこれの他者に求めようとする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ③レーニンの革命の理想を「救済」できるのはわれわれだけであって、「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ④「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
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 なぜ、このように書く人物が生じたのか。
 すでに一度この欄で言及したが、白井聡が大学院学生または20歳台のときにもっぱら又はほとんど、レーニンの文献を読んでいたことの結果だと言えるだろう。
 加藤哲郎(元一橋大学)には、このような人物が生まれたことについての「責任」はないのだろうか(同じことは、長谷川三千子-小川榮太郎についても、感じる)。
 白井聡はもともと親社会主義・共産主義的心性は抱いていたのだろうが、レーニンを読み耽ることが、上のような文章を書くことにつながったと見られる。
 白井聡にとって、レーニンとそのロシア革命は「われわれ」という名の「自分」すなわち白井聡の「一部」であり「分身」なのだ。レーニンの屈辱も夢も、白井聡の同身者のものなのだ。
 このような、レーニン研究者としてはまだ研究業績があると言えるかもしれない者が戦後日本史あるいは現代日本について語り出すといったいどうなるのか。
 真面目に読む気がしないのだが、読まなくとも、この人の心底にある「怨念」めいた信条による歴史・現実の把握が尋常なものでなくなることが、容易に判るような気がする。
 それでも、雑文執筆を依頼し、書物の刊行までしてくれるマスコミや出版社が、日本にはある。かつまた、雇用してくれる大学も、日本にはある。
 白井聡は京都精華大学の教員らしい(教授ではない)。この大学はかつて、上野千鶴子が所属していた。また、この欄でレーニン幻想をもつ「左翼」としてとり上げた、理系・建築系の田中充子も(今を確認しないが)いた。
 これらは、京都精華大学という大学にとって名誉なことだろうか。

1747/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑥。

 江崎道朗はわが国の2014年の特定秘密保護法について、下の著の当該箇所でこの法律に反対せず、むしろこれを前提として、「特定秘密」を入手する者の中に「スパイ」がいる場合の危険性を、戦前にゾルゲ事件と密接にかかわった「ソ連のスパイ」尾崎秀実を例に挙げて指摘している。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)、p.34-35。
 この江崎の著が加藤哲郎・ゾルゲ事件(平凡社新書、2014)の一部を肯定的に引用し江崎の本の二頁余も下敷きとして用いていることは、すでにこの欄で触れた。同上、p. 387-9。
 加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件について探求し、また、上記の特定秘密保護法をどう見ているのか? 
 加藤・上掲書の「あとがき」p.243は、この書の意図はゾルゲ事件にかかる「通説、通説的イメージに挑戦」することだとし、戦前特高警察・裁判記録等によるストーリーを疑問視する、と明記している。江崎道朗・上掲書とは、関心が大きく異なるようだ。
 また、特定秘密保護法について、加藤はこう書く。p.245-6。
 特定秘密保護法を支持する「世界一の発行部数」の新聞社の某論者は、「ゾルゲ事件を引き合いに出して、明らかに特定秘密保護法制定のために利用しようとしている」。
 江崎は、特定秘密保護法の限界を尾崎秀実等の「ゾルゲ事件」犯罪者に言及して指摘する。
 加藤は、ゾルゲ事件に論及して特定秘密保護法を支持しようとする議論に反撥する。
 両者は、ほとんど真逆の立場にいる。
 なお、加藤は「安倍晋三首相の靖国神社参拝」に批判的であることも明らかにしている(p.247)。加藤哲郎は、日本共産党員ではなくなっていても、「左翼」ではあるのだ。
 さて、当然の疑問に行き着く。
 江崎道朗は、いかなる意味で、いかほどの吟味を行った上で、その自分の著で加藤哲郎の上掲書を肯定的に引用しかつ下敷きにしているのか?
 答えはおそらく、単純だろう。
 江崎道朗は加藤哲郎がどういう学者・研究者であるかを知らず、詮索しようともしていない。ひょっとすれば一橋大学名誉教授という「肩書き」にだまされている可能性がある。。
 かつまた、加藤・上掲書の「あとがき」部分に全く目を通していない。この部分を読めば、江崎道朗の少なくとも特定秘密保護法についての見方やゾルゲ事件への関心とは異なるそれらの持ち主であることは明らかだ。
 江崎の本の最後の方に加藤の本への言及が出てくるのを見ると、執筆時間の最後の方になって加藤の本から急いで<江崎のストーリーに都合のよいところだけ>抜き出したのだろう。あるいは、『ゾルゲ事件』と題打つ近年の新書を無視してはマズいと判断したこともあるかもしれない。
 こうした、参照または利用文献の処理のいいかげんさは、江崎道朗の上掲書の中に随所に見られる。この後も、余裕があれば、いくらでもこの欄で指摘する。
 ところで、加藤哲郎はいわば<左派>の「インテリジェンス」研究者を目ざしているようだ(加藤・p.247)。
 江崎道朗は、2017夏の書物で安易に加藤哲郎の本を基礎にしている。
 この江崎に「インテリジェンス」の重要性を説く資格があるのだろうか?
 この加藤の本に関する例は、わずかな一端だ。
 江崎道朗もまた、戦後日本を覆う「インテリジェンス」活動にすでに敗北してしまっている、と思われる。その例もまた、余裕があれば、この欄で指摘する。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1401/日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。

1394/日本の「左翼」-白井聡/アラン・ブロックの著。

 一 日本共産党綱領(2004)は、つぎの数字を明示的に掲げる。
 日本の「侵略戦争」は「2000万人をこえるアジア諸国民」と「300万人をこえる日本国民」の「生命を奪った」(+「…原爆が投下され、その犠牲者は20数万にのぼり…」)。
 「ファシズムと軍国主義」を糾弾し、同党の「たたかい」を称揚するために、かかる数字を挙げて、いかに多くの人命が犠牲になったか、と言いたいのだろう。
 この数字自体に疑問はないとしても、では共産主義(者・体制)によっていかほどの人命が犠牲になったのかも示さないと、歴史を公正に見ることにはならないだろう、と思われる。
 これに関連して、クルトワ等・共産主義黒書の推測では共産主義の犠牲者数は一億人(10,000万人)を下らない、という数字をこの欄でも書いたことがある(数字を確認しない)。
 二 白井聡は、このような統計的数字を挙げることに、感情的に反発している。
 白井聡・未完のレーニン(講談社、2007)は、そのあとがき(p.229-)で、まさにクルトワ=ヴェルトの共産主義黒書への反発を最初に記したあとで、次のように書く。引用に値する文章だ。
 ・「マルクス主義・共産主義思想を単純に断罪し、…世界で最も憎むべきものとして認知させよう」という「今日声高に主張されている断罪の言説の多くが拠って立つ根拠は、それに関して何人の人が死んだか、その犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」。
 ・「…反共主義者と全体主義的政治機構の首領は、暴力による人間の死という問題を統計的にしか考えることができない、という点で奇妙にも一致している」。以上、p.230。
 このあと続けて白井は、このような状況は現在の「精神的な頽廃」だろう、とも言っている。
 この白井聡という人物は、いかに<反・共産主義>を嫌悪しているのだとしても、正常な感覚の持ち主だとは、したがって、まともな学者だとは到底思えない。
 反マルクス主義・反共主義の言説の「多くが拠って立つ根拠」は共産主義の「犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」 ? ?。
 こんな馬鹿なことを秋月瑛二を含む「多く」の者が述べているわけではない。
 そのあとの文章もひどい決めつけ方だ(「全体主義的政治機構の首領」とは何を指すのか不明だ)。人の「死」を「統計的にしか考えない」、というような罵倒でもって、反共産主義者を批判してはならない。
 ついでにいうと、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書について白井はこうも言う(p.229)。
 マルクス主義・社会主義革命を断罪し、「新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定する」ことが「正義であると結論すれば」、歴史の教訓が得られるとは思えない。
 白井聡に「諭して」おくが、マルクス主義・共産主義を厳しく批判することと、現在の、あるいは今日の日本の資本主義や「議会制民主主義」を「全面肯定」することとはまるで異なる次元の問題だ。クルトワとヴェルトの本は、上のような「結論」を示してはいないはずだ。
 2006年にこんな幼稚なことを書いていたことを、恥ずかしくは思わないだろうか。
 かくも明確な<反・反共主義>ぶりをおそらくは最初の刊行物で明らかにした白井聡が、「左傾」した日本の出版界・論壇等で受容されているらしい経緯・理由も、よく分かる。
 なお、白井聡の学生時代の指導教授は、加藤哲郎らしい。この、1990年前後に日本共産党から離れた(党員ではなくなった)加藤の文献は、日本共産党に関連して少なからず所持して(かつ一読はして)いるので、いずれ言及することがある。
 三 つぎの「統計」を述べている書物がある。レーニンを上掲書で扱った白井聡がまるで関心をもっていない、レーニンの時期の数字だ。
 アラン・ブロック・対比列伝/ヒトラーとスターリン(鈴木主悦訳)(草思社、2003)第一巻p.180は「ほとんど信じられないけれども充分な確証のある数字」の、この書が挙げる「最初の例」として、こう書いている。原著は、Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives (Vintage, 1993)。ロシア・ソ連に関する叙述で、以下の「内戦」とは、ロシアでの主として白軍・赤軍間の「戦い」だ。
 「子供を含む推定1000万人の男女が、1917年から21年にかけての内戦で生命を落とした。第一次大戦で死んだ軍人と民間人を加えれば、1200万人の人命が失われたのである。人口統計学者によれば、1923年のソ連の人口は、それ以前の数値にもとづいて予測される数字を3000万単位で下回っているという」。
 1200-1000で、第一次大戦でのソ連の軍民死者は200万人、ということになるのだろう。
 これら数字の原因があげてレーニンにある、と主張してはいない。だが、少なくとも「内戦」については(むろんこれはロシア革命が起こったがゆえに生じている)、個人名に限るとかりにすれば、レーニンに最も原因がある。

0195/有田芳生(構成)・短い20世紀の総括(1992)。

 外から見ていると、日本共産党の「奇妙さ」は、袴田里見・野坂参三という戦前から少なくとも1970年代までの最高幹部を簡単に除名したことでも十分に感得できる(宮本顕治の実質的な「独裁」。その前に除名された者に春日庄一や志賀某がいたが私には現実的記憶がない)。
 また、 チャウシェスク時代の在ルーマニア赤旗特派員某氏や北朝鮮元特派員萩原遼、拉致問題に取り組んだ兵本達吉らを党から切らざるを得なくなったことでも解る。
 有田芳生構成・短い20世紀の総括(1992.02、教育史料出版会)を座談会部分を残して読んでいるが、田口富久治、山川暁夫、加藤哲郎、稲子恒夫の各氏とも<スターリン時代になってからソ連は社会主義(を目指す)国でなくなった >なんてことは書いていない。むしろ「現存(していた)社会主義国」という語があるようだ。
 田口は言う(p.13)-「政治的・組織的思惑や防衛心理に由来する自己欺瞞や知的怯懦は、いっさい捨てなければならない」。ソ連等崩壊後の日本共産党の言動、すなわち<ソ連は社会主義国ではなかった>などと言うのは「自己欺瞞や知的怯懦」そのものではないのか。
 ところで、この本への執筆者は、日本共産党員でありつつ、党中央には批判的な学者たちであった可能性がある。少なくとも、田口富久治、加藤哲郎両氏はそのようだ(のちに除名又は除籍の可能性がある)。
 そしてこのような本を企画して「構成」した有田芳生自身も日本共産党から「睨まれた」可能性が高い。有田芳生の日本共産党<除籍>の原因となった本の一つかもしれない、という多少の興味も惹く本だ(但し、新日本出版社刊ではないので、除籍後の仕事かもしれない)。
  なお、かつて京都から有田某との共産党国会議員が出ていて有田芳生がその子息だとは知っていたが、芳生という名がヨシフ・・…・スターリンというスターリンの個人名に由来するとは!(p.210)
 有田芳生は現在は日本共産党とは一定の距離を保っているようだが「人間の自由や平等を求める社会主義の理念が、いまでも人類思想の大きな遺産であることを否定できるものはいないだろう」と述べるようでは、「社会主義の理念」の意味によるにせよ、まだ甘い。
 だが、マルクス主義を支持しいずれ日本も社会主義国になると考え発言していたはずの知識人・大学人等が1989-91年以降どのように「自己切開」・「自己省察」しているのかと厳しく問うているのは共感できる(p.199-)。とりわけ日本共産党員たる知識人・大学人には、有田とともに問い糾したいものだ。

0102/日本共産党は「反党分子」がいる団体とは共闘しない(らしい)。

 宮地健一のHP(「共産党問題、社会主義問題を考える」)で知ったのだが、日本共産党は7月の参院選の比例区には、今まで25人立候補させていたのに、5人しか候補を立てないらしい。25人でも5人でも、日本共産党票をどれだけ集められるかだが、前回程度の430万票だと前回と同じ4人は困難になり、下回ると3人になる可能性がある、東京選挙区の候補が当選しないと、当選者は計3で、非改選者を含めて9名から7名になる、という。宮地氏の言葉だが、「ますます泡沫政党化する」わけだ。
 上の最悪予想のとおりだと、3年ごとの各回の当選者数は、15→5→4→3。どう見ても<減少>、<衰退>傾向にあるとしか判断できないことになる。この最悪予想がアタることを、期待しておきたい。
 同じ最新のファイルに、日本共産党が「平和共同候補実現運動」又は「共同候補・共同リスト市民運動」に敵対し、共闘しない理由が4点に整理・分析されている。私の関心を最も惹いたのは第四点の、「批判・異論分子が参加する市民運動・団体の社会的排除の必要性」だ。
 その部分には、「共同候補・共同リスト市民運動」参加者の中に元日本共産党員等の「批判・異論分子」がいることが、具体的な固有名詞でもって紹介されている。
 私は知らない名前もあるが、全て列挙して記録しておこう。
 針生一郎中里喜昭(この2人は民主主義文学同盟員で1982年の「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の「お願い人」)、吉田嘉清草野信男(1984年、原水協で「反党活動」)、丸木位里丸木俊夫妻(中核派滝田をかくまった容疑で査問・除名)、古在由重(1984年、原水禁運動にかかる「分派活動規律違反行為」で除籍)、霜多正次(1983年の民主主義文学同盟問題で「反党活動」・除籍)。
 改行して、川上徹(既述の元「全学連」委員長、元民青同盟幹部、「新日和見主義」者として査問を受けつつも離党はしなかったが、1990.09の「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画し事務局側の一人となった。日本共産党は家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らとともに呼びかけ人になっていた党員に「手を引け」と「個々に指令した。ほぼ全党員がやめたのに、川上徹だけが、指令を拒否」。「規律違反で除籍した反党分子を偲んだ規律違反」として「査問し、除籍」)。
 さらに、「市民の風」と「平和共同候補実現運動」代表呼びかけ人の加藤哲郎(一橋大学教員)、呼びかけ人の田口富久治(名古屋大学名誉教授)、柴山健太郎(労働運動研究所)(川上徹も呼びかけ人の1人)。
 全く知らなかったが、加藤哲郎と田口富久治は、『日本共産党の七十年』が名指しで批判しているらしい。
 田口富久治といえば、私が大学生の頃はマルクス主義政治学者で、しかも日本共産党員と見えた(当時はそのとおりだったようだ)現役の大学教授だった(名古屋大学)。
 読んでいないが、田口は『マルクスと丸山真男の間で』とかいうような本を近年刊行していたかと思われる。かつて所属し、熱心に活動した政党(共産党)から「敵視」されるとは、いかなる気分だろうか。
 日本共産党の内部問題だとはいえ、<冷酷>な政党だという印象は拭えるはずがない。除籍した「反党分子」の死に際して積極的に「偲んで」はいけないのだ(「反党分子」の死は喜ぶべきことで、唾でも吐きかけよ、というのが同党の-正規ではないにしろ事実上の-方針・指令だろうか)。その組織原則・「民主集中制」によるのだろう。
 なお、有田芳生も新日本出版社に勤務中に何か「問題」を起こして日本共産党員を辞めた筈だ。上記の「平和共同候補実現運動」等にはもはや関与はせず、テレビ・コメンテイターをし、テレサ・テン等に関する本を書いたりしているようだが、強制的な離党だったかどうかも含めて、ヒマなときにネットで調べてみよう(彼のHPにある程度は書かれていた記憶がある)。

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