秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

冷戦

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
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 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
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 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
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 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
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2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
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 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2312/J・グレイの解剖学(2015)⑥—Tismaneanu01。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳を1年ぶりに再開する。この書は計7部で46の章に分かれているが、それぞれが独立しているので、任意に選択している。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
 ①ではL・コワコフスキ、②〜⑤ではEagleton とHobsbawm に関する章を取り上げて試訳した。
 →①コワコフスキ
 →②ホブズボーム
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔①。
 (01) ソヴィエト同盟で1918年1月に発布された<労働被搾取人民の権利の宣言>では、「過去の者たち」と見なされた人々は権利を剥奪された。
 Vladimir Tismaneanu はこの宣言について<歴史の中の悪魔>(注)で論じて、こう書く。
 ボルシェヴィキ用語で陳腐となった「byvshie liudi (過去の者たち)という語は、この語で表現される者は全くもって人間ではない、と示唆するという一致があるとは、ほとんで考えられていなかった。」
 権利を奪われた集団というのは、不労所得で暮らしを立てたよそ者の階級である帝制警察の職員、軍人たちや、すでに挙げた人々に経済的に依存する全宗教の聖職者たちを含むものだった。
 (多くの者にとって生活維持の主要な源だった)配給システムから除外され、資産没収を免れそうになく、公的官署への就職を禁止されて、この範疇に入る人々は—過去の者たちは世襲の条件のもとにあると理解されたがゆえに、その家族とともに—、社会から排除された。 
 Tismaneanu は、書く。「範疇分けのシステムは、後年につづいたテロルの先がけとなる分類法だった」。
 ある人間の集団には通常は人間であることに随伴する道徳的評価を否定して、この行為〔範疇分け〕は、過去の人間の残滓からなる社会を一掃する、ソヴィエトの企図の基盤を形成した。
 (02) 共産主義とファシズムは重要な点で同一だ、というのは、Tismaneanu の考えの基盤の一つでもある。
 彼には、つぎのことが明瞭だ。
 「共産主義はファシズムでは<ない>、そしてファシズムは共産主義では<ない>。
 全体主義の実験のいずれも、それら自身の独自の性格をもつ。」
 そうではあるが、これら二つは、大量殺戮を社会を操作するための正当な手段と見ることで、似ている。
 「共産主義は、ファシズムのように、一定の人間集団を正当に殺害することができるという確信にもとづいて、疑いなく、代わりとなる非リベラルな、その新しいものを構築した。
 共産主義者の構想は、ソヴィエト社会主義共和国連邦、チャイナ(中国)、キューバ、ルーマニアあるいはアルバニアのような諸国で、一定の社会集団は非礼で異質であり、正当に殺害することができるという確信に、まさに基づいていた。」
 (03) これは、20世紀の全体主義に関する議論での中心的論点となる考察だ。
 イタリアのファシズム理論家のGiovanni Gentile —全体主義を意味する制限されない統治システムを承認した—によって最初に展開されて以降すでに、この概念をめぐって多数の論争が生じた。
 共産主義とファシズムを多くの者が見れば、その構造、目標、支配する思想はあまりに似ていないために単一の範疇に含めることができず、ある者たちは、冷戦時の戦いを正当化するものにすぎないと見た。この概念は広く異論が唱えられて、顕著に流行遅れのものに変わった。—アカデミックな文脈では、破壊的に最終的な却下だった。
 全体主義の諸体制で生きてきた人々にとって、このことは、当惑させる成り行きだった。
 Tismaneanu は、生き生きと自分自身の経験を書く。
 彼は、ファシズムに抵抗する闘いの役割をもった共産党活動家となったユダヤ人の両親の子どもだった(父親はスペイン内戦で腕を失くし、母親は看護師として働いた)。
 彼は、十代のルーマニア共産党員のときに全体主義について最初に考え始め、密かに流布されていたArthur Koestler の<真昼の暗黒>を読んだ。
 のちに、ブカレスト大学の社会学の学生として、彼は、Raymond Aron、Hannah Arendt、Isaiah Berlin、Leszek Kolakowski のような著者や、その他の反全体主義の思想家の書物を何とか入手することができた。
 また、自分で「西ヨーロッパの文化的伝統」と呼ぶものに引き込まれ、彼は、<フランクフルト学派>について博士号論文を書いた。
 1981年にルーマニアを離れ、合衆国に定住して、ニコライ・チャウシェスクが頂点に登りつめた以降の原則的基盤にもとづいてルーマニアを再検討した。
 2006年、彼は共産主義独裁制の活動を検証するために設置された〔ルーマニア〕大統領の委員会の長になった。この指名は異論も呼び起こした。とりわけ、彼の両親と彼自身の共産党員だった過去を理由としてだ。
 (04) Tismaneanu はスターリニズム、ナショナリズム、そして全体主義に関して多数の研究書を刊行したが、それらは、チャウシェスク体制と彼の心を奪った戦時中のファシズムの間の類似性(parallels)に関するものだったように見える。
 「ルーマニアはマルクス主義の教義に託した社会主義国家であり、とくに1960年以降は明白に左翼だったけれども、支配党は、戦時中の<極右>の主題、発想、そして強迫観念(obsession)を抱き始めた」。
 チャウシェスクが権力を握った1965年以降、「イデオロギーは、レーニン主義の残余と公然とは語られないが間違いなくファシズムの、混合物(blend)となるに至った」。 
 Tismaneanu が悟ったように、「これは明らかな逆説だった」。
 ヨーロッパのファシズムは、狂気と悪辣な思想の寄せ集めだった。—とくに、聖職者権威主義、反リベラルのニーチェ的無神論、「血で思考する」新原始主義カルト、技術に対する近代主義的崇拝
 しかし、自民族中心のナショナリズム、人種差別主義、反ユダヤ主義は、それらのあらゆる変種とともにファシズムの特質だった。そしてそれは、<歴史の中の悪魔>の基盤を形成するこれらの極右の主題を、共産主義が抱きかかえたものだった。
 彼の両親がファシズムに抵抗するために共産主義勢力に加わったのだとすれば、Tismaneanu は、共産主義はファシズムの明確な特徴のいくつかを共有しているという事実に取り組んだ。//
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 (注) Vladimir Tismaneanu, 歴史の中の悪魔—共産主義・ファシズムと20世紀のいくつかの教訓(California University Press, 2012).
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 ①、終わり。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
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 ②へとつづく。

1726/江崎道朗・コミンテルン…(2017.08)③。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 一 きちんと本文を読み終えてからと思っていたが、今のうちに書いておこう。
 先に「昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による」と書いた内容は、そのとおりだ。
 この本の衝撃というのは、しかし、ロシア革命・レーニン・コミンテルン等に関する正確な又は厳密な知識の欠如によるものではない。そのようなことは、中西輝政(や西尾幹二)にもあるだろう。
 すでに昨年に触れてはいるが、江崎の上の本の「おわりに」にこうある。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 「…戦前のエリートたちの多くは、日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』に対する確信を見失っていた」。
 何と呆けたことを書いているのだろう。
 月刊正論執筆者の中でも、反共産主義意識が強く、何とか<冷戦史観>とか言って東アジア・日本の現在での<冷戦>を指摘していたはずの江崎道朗ですら、上のようなことを書いているのだ。
 ほとんど腐っている。どうしようもないところまで来ている。
 上に書いているようなことは、私の読書範囲内に限っても、櫻井よしこと伊藤哲夫と全くかほとんど同じ。要するに、<日本会議派の史観>なのだ。
 江崎は、可能ならば、別途きちんと論じるべきだろう。
 五箇条の御誓文のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。 
 聖徳太子(の例えば「十七条の憲法」)のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。
 現実にあった「明治維新」の当初の理念宣明書とされる五箇条の御誓文は、「保守」ではなく幕府政治を解体するための(革命といわずとも、「維新」という)<大変革>に向けての宣言書だ(原案は、吉田松陰の死体を見た数少ない者の一人、木戸孝允が書いた)。「王政復古」=「保守」なのでは断じてない。
 また、五箇条の御誓文のいったいどこが「自由主義」なのか。
 近現代一般の議論として単純に共産主義対「自由主義」というシェーマを採用しているならばよいが、明治維新・五箇条の御誓文についてこれを語るのは飛躍しすぎだし、江崎における「自由主義」なるものの意味を、五箇条の御誓文の内容に即して説明してもらわないといけない。
 二 「情報産業」就労者としての著述者の一人である江崎道朗は、月刊正論(産経)の毎号執筆者としての地位(職・対価)を確保したいのかもしれない。
 食って生きていくためには、仕方のないことなのかもしれない。
 月刊正論、そして産経新聞の「固い」読者層である<日本会議>とそれに連なる諸々の人々の支持を受け、<味方>にしておくのは、<生業>にかかわる本能なのかもしれない。
 原田敬一の岩波新書等について、一種の信仰告白が必要なのではないか、それを実行しているのではないかとこの欄で記したことがある。
 江崎道朗も、それをしているのかもしれない。
そのような、事実上は強いられた、偽装をある程度は含む「保守自由主義」の美化ならばまだよい(この概念自体には何ら反対しない。しかし、聖徳太子や五箇条の御誓文と結びつけては、絶対にダメだ)。
 しかし、どうやら江崎道朗は、「日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』…」と本当に考えているようだ。
 三部作か四部作の一つかどうか正確には知らないが、これでは、致命的だ。
 身震いがするほど、怖ろしい。なぜ<反共>が、櫻井よしこが明記する<明治の元勲たち>の称揚、と同じような歴史観と結びつくのか。
 「時宜にかなった幻想」は強力だ(T・ジャット)ということを、思い知らされているのかもしれない。

1564/日本共産党・共産主義との闘いを阻むもの①-「日本会議」/事務総長・椛島有三など。

 ○ 先月14日、№1500でこう書いた。
 「日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。」
 ○ 日本国内では、じつに、「日本会議」なる団体も、日本共産党・共産主義に対する正面からの闘いを避けている。
 その設立宣言、1997年5月30日、は言う。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 同日の設立趣意書には、「マルクス主義」も「共産主義」も、言葉すらない。  
 ・「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これは事実の叙述なのか。「冷戦構造の崩壊」という表現の適否も疑問で、日本・東アジアでは<冷戦>はまだ続いている、とこの欄で何度も書いた。この点はさておいて、さしあたり「マルクス主義…」だけを取り上げよう。
 「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これはせいぜい、こう<思いたい>、というレベルの言辞ではないのか。
 かりに世界で又は少なくとも日本で、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」のだとすれば、なぜマルクスを肯定的に評価し、かつマルクスの教条にしたがってそれをロシアに現実化したロシア革命とレーニンとを基本的に賛美する政党(日本共産党)が堂々とまだあるのか ?
 また、マルクスを肯定的に評価し、ロシア革命とレーニンとを基本的に擁護するかの見解を示すがごとき書物等々がなお多数公刊されているのか ?
 「日本会議」の椛島有三らは、日本の<現実>を知っているのか ?
 田中充子が、専門外でありながら、岩波新書で、レーニンはまだ「自由主義」的だった旨を平気で書いたのを知っているのか。
 日本共産党をかりに別としても、容共産主義の書物、主張はいくらでも日本にあることを知っているのか。
 非・反日本共産党系でも、マルクス・ロシア革命・レーニン擁護の共産主義団体があるのを知っているのか?
 組織・団体でなくとも、<容共>学者・研究者あるいは「ジャーナリスト」類は多数いるのを知っているのか?
 よくぞ、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」などと宣言できたものだ。
 客観的事実に即さないでこのように主張することは、せっかく日本共産党や「左翼」=容共の方向には向かっていない、健全な日本人に対して、「マルクス主義」・共産主義対する闘いはもうしなくてよい、と主張していることとほとんど変わりはない
 日本の<保守>派の多くが、この「日本会議」の宣言書のように理解している可能性がある。
 自分たちは<保守>だが、反共産主義・反日本共産党の運動はもうしなくてよい、なぜならば、「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」からだ。
 馬鹿なことを言ってはいけない。
 ①<保守>派論者がほとんど共産主義・マルクス主義の正確な内容やその歴史に関心を示さないこと、②日本および世界で共産主義「理論」が「現実政治」に与えている影響についての関心もきわめて乏しいこと、かつまた③懸命に<天皇を戴く国のありよう>だけは護持したいとするのが<保守>だ(産経新聞社、元月刊正論「編集代表」・桑原聡)などと説くだけの<保守>派が少なからずいること、こうしたことの原因の一つは、上記のようなことを平気で謳っている、「日本会議」なるものの存在にもある、と断言できる。
 「日本会議」の主張は、さらに継続的に、今後も研究・分析していく。1997年5月設立、この点も重要。
 当然に、入手可能ならば、椛島有三の書物の原物も、読む(すでに一部読んだ)。
 椛島有三(かばしま-)。
 「日本会議」事務総長、櫻井よしこ共同代表の「日本の美しい憲法をつくる会」事務局長、そして櫻井よしこ理事長の「国家基本問題研究所」事務局長。
 なお、<各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入>している、という時代認識も、陳腐なものだ。
 全体として誤りだとは言わないが、中国・北朝鮮・キューバ等、そしてまた長く「共産主義」の支配を受けたロシアの存在を視野に入れれば、「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代」だという認識自体がすでにある程度は狂っている。
 ロシア革命/レーニン・スターリン/コミンテルン、あるいは根本教条である「マルクス主義」の知識の一欠片くらいはなくして、中国・北朝鮮さらには東欧諸国、そしてロシア・ウクライナの対立など、今の世界政治をリアルに見ることは不可能だろう。
 マルクスあるいはロシア革命を知らずして(さらには欧米 Liberal Democracy も知らずして)、「日本」の独自性だけを主張しておけばよいのか ? その場合の「日本」とは、具体的にいったい何のことなのだ。日本=「天皇」=「神道」なのか??
 冗談は、ほどほどにしていただきたい。
 親「日本会議」の人々は、冷静にならなければならない。
 「日本会議」が日本共産党や「左翼」から批判されているからといって、「日本会議」が日本共産党や「左翼」と真反対にいて、これらと正面から闘っていることになるのでは、論理的にも全くならない。
 日本人の健康な、せっかくの反「共産主義」気分、せっかくの反「左翼」気分を、<特定の>活動団体に利用されてはいけない。
 ○ 冒頭に掲記の文章は、翻訳書も含む日本の出版業界も、念頭に置いている。
 もともと、これについて書く予定だったが、つぎの機会とする。

1512/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者②。

 2008年1月13日付米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』のある記事について、この欄の4/16、№1502は、「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号(1983年1月17日)の「真の執筆者はR・パイプス」だった、という部分までで終えている。
 同記事中で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の発言は、続けて、つぎのように紹介されている。
 R・パイプスは「NSDD-75」を「過去〔の政策〕からの明確な決別』と定義し、この新しい外交政策の目標は「ソヴィエト同盟〔ソ連〕との共存」ではなく「ソヴィエト体制を変更させること」で、それは、「外部からの圧力を通じてソヴィエト体制を変更させることのできる力が我々にはあるという信念」に根ざしていた、と語った。
 このあと当時に国務長官だったシュルツ(George Shultz)や再びビル(=ウィリアム)・クラークの言葉を紹介した後、「NSDD-75」の冒頭の文章を引用する。以下は、抜粋。
『米国のソ連との関係』。米国の任務は第一に、『ソヴィエトの膨張』を方向転換させることで、これは『米国軍の主要な対象〔focus〕をソ連に向かって維持し続ける』ことだ。第二に、我々が使える限られた範囲内で、ソ連が、特権支配エリートの権力を徐々に減少させて、より多元主義的な政治、経済制度へと変化するプロセスを促進する』ことだ。
 そして、再びR・パイプスに戻る。
 R・パイプスは、「文書がソ連の改変(reform)を中心的狙いとするように強く主張して、この文章を維持しようと闘った」。
 彼はつぎのように思い出す。『国務省はこれに猛烈に反対した。彼らはこの文章は、ソ連の内部事情への余計な干渉だとし、絶対に危険で無益だと考えていた。我々は固執し、そして勝ち得た(got that in)』。
 「歴史的意義を看過することはできない、すぐには不可能だが予言的な異様なこの文章は、国務省によってほとんど削除」されかけたと記事は書いたのち、R・パイプスの言葉に戻る。
 R・パイプスは、「ビル・クラークの支持とともに、この文章を主張(insist)するロナルド・レーガンの支援〔があったこと、backing〕、を指摘する」。
 記事はさらに進めて、「NSDD-75」の中の東欧、アフガニスタン等々に関する部分に入っているが、割愛する。
 この記事のとおりだとすると、リチャード・パイプスの果たした役割は、むろんR・レーガンがいたからだろうが、かなり大きかった。
 それはまた、現時点で振り返れば、ということにはなるが、R・パイプスの予見や主張は、ソ連のその後の歩みと大きくと変わらなかった、又はその基本的方向へと影響を与えるものだった、と思われる。
 これについては、別の例証となる資料・文献がある。例えば、ゴルバチョフのような人物(上記文書の時点で、特定のこの人物の出現は予見されていない)が登場しなければ、ソ連が大変化することはない、という見通しも、リチャード・パイプスは語っていた。

1502/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者/レーガン政権。

 ○ 米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』の2008年1月13日付のある記事がネット上で読める。このように書く。
 「25年前の1983年1月17日に、大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は冷戦勝利の青写真を静かに定式化した」。それは「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号と呼ばれる、「レーガン施政下でのおそらく最も重要な外交政策文書」で、「ソヴィエト共産主義帝国を根本から揺るがそうとする大統領の意図」を具体化するものだった。
 この文書作成を監督したのは「国家安全保障補佐官のビル・クラーク(Bill Clark)」[Bill=William]で、国家安全保障会議でのクラークの副補佐官の一人に、ノーム・ベイリー(Norm Bailey)がいた。ベイリーによれば、「NSDD-75」は「冷戦勝利の戦略計画」だった。
 別の同会議スタッフだったトム・リード(Tom Reed)によると、それは「ゲーム終結の青写真」、「経済的・政治的戦争の秘密宣言文書」だった。
 ”Secret”(秘密)とスタンプされているこの文書の存在・内容を何らかの方法で知ったソヴィエトは、「歴史を脅迫する…新しい指令」と称して警戒感を示した、という。
 ロナルド・レーガン(共和党、元民主党)、1981年1月~1989年1月・米国第40代大統領。すでイギリス・サッチャーは首相になっていて、1981年にフランス・ミッテラン、ドイツ・コールが続き、やや遅れて、日本・中曽根康弘が登場する。
 ソ連では、1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長になる。
 そして、レーガン(と特にサッチャー)はゴルバチョフといく度か会談、対ソ連(・東欧)冷戦終結とソ連解体(・東欧諸国「自由」化)への重要な足慣らしをした。
 ○ 2016年は、対ソ連冷戦終結後25年めだった。
 日本もいちおう冷戦「勝利者」だったのだが、祝えるほどの大きな尽力をしたのか否か、米英の指導者やドイツ統一を導いたヘルムート・コール(Helmut Kohl、キリスト教民主同盟=CDU)に比べると、少しは肩身が狭いように感じる。
 それにそもそも、ソ連解体前後を通じて、「反共産主義」の意識・認識がどの程度あったのかは、もちろん米英独各国にも<左翼>または<対共産主義国穏健派>はいたのだが、これら諸国以上に怪しいのではないだろうか。
 日本と日本国民、「保守」を含む学者・研究者や<論壇>は、対ソ連冷戦終結とソ連解体・東欧諸国「自由化」の歴史的意味を、きちんと議論し総括するということをまだしていない、と考える。
 ○ 上にも名の出てきたノーム・ベイリー(Norm Bailey)が2016年発刊の書物の中で一部を担当して書くところによると、「NSDD-75」は同「32」、同「45」、同「54」、同「66」を基礎にしており、各省から集められたグループ(IG, Interdepartmental Group)によって国家安全保障会議の政策文書「米国の対ソ連外交」として原案が1982年8月21日に用意された。
 IGの委員長(議長)は国務副長官のウォルター・ストーセル(Walter Stoessel)。IGの会議でいずれも国務・財務・農務三省の反対でわずか2文だけ削除されたが、あとは一致しての賛成で原案ができた。
 この原案の、従ってさらに「NSDD-75」の「真の執筆者」はリチャード・パイプスだった。
 パイプスは、ハーバード大学を離れて2年間をワシントン(ホワイト・ハウス)で過ごした、「ソヴィエト連邦と東欧問題に責任のあるスタッフだった」
 以上は、Norman A. Bailey, Definig the Sterategy - NSDD75, in : Norman A. Bailey, Francis H. Mario, ed, William P. Clark, foreword, The Grand Strategy That Won the Cold War: Architecture of Triumph <冷戦に勝利した大戦略>(2016/1/14)p.67-68
 ○ リチャード・パイプスの側では、自伝書である、Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger <私は生きたーある非帰属者の回想> (2003)が、上のワシントン時代のことも書いている。「第三部・ワシントン」p.126 - p.211.だ。そのうち、「NSDD-75」に関するのは、p.188 - p.202。
 リチャード・パイプスは、ソ連・東欧問題専門家として、ドナルド・レーガン時代の対ソ連外交方針の形成に大きく関わった。
 R・ニクソン(共和党)は職に就いてから政治の技術・方法として反共産主義を選択したが、R・レーガンは<大統領になる前からの根っからの反共産主義者だった>、ともされる。
 この大統領とともにリチャード・パイプスは、共存でも「デタント」でもない、対ソ圧迫政策を進めるが、究極的にはソ連の瓦解をすら意図していたとされる。
 リチャード・パイプスはロシア専門の学者・研究者(大学教授)だが、その学識からも生成された自身の「反共産主義」性およびソ連の歴史や現状に関する知見でもって、<ソ連解体>の方へと「現実」を変えていく活動を政府の一員としてしたわけだ。
 上の本には、1981-82年頃の、ロナルド・レーガンと二人だけの写真、副大統領だったジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)との二人だけの写真も掲載されている。
 ソ連は自分たちだけで自主的にソ連をなくすように追い込んでいったわけではない。「現実」を変えるべく、アメリカでも種々の議論があり「政策」策定もあったわけだ。後者は「見通し」、「計画」であってまだ「観念」ではあるが、それに従えば「現実」も動く、という「観念」もある。それは多くの場合は、おそらく、体系だった、概念も比較的に明確にした、長い文章から成っているのだろう。

1289/戦後70年よりも2016年末のソ連崩壊25周年-1。

 月刊正論2015年5月号(産経新聞社)p.86-の鼎談、西岡力=島田洋一=江崎道朗「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」は面白いし、かつすこぶる重要な指摘をする発言に充ちている。
 第一に、日本にとっては「冷戦」は今も継続しているということが、明確に語られている。
 この欄を書き始めた頃、強調したかったことの数少ない一つは、この点だった。なぜなら、保守派論者の文章の中でも、<冷戦は終焉したが…>とか、しばしば書かれていたからだ。なるほどくに西欧の国々・人々にとってはソ連邦の解体によって冷戦は終わったと感じられてよいのかもしれないが、日本と日本人にとってはそんなに暢気なことを言うことはできない、と考えていた。もちろん、近隣に、中華人民共和国、北朝鮮などの共産党(・労働党)一党独裁の国家がなおも存在するからであり、これらによる日本に対する脅威は依然としてあったからだ。
 中国や北朝鮮について、その「社会主義」国家性または<社会主義を目指す>国家であることの認識は意外にも乏しいような印象もある。とくに北朝鮮の現状からすれば「…主義」以前の国家であるとも感じる。しかし、この国がソ連・コミンテルンから「派遣」されたマルクス・レーニン主義者の金日成(本名ではない)を中心にして作られた国家であることは疑いなく、1950年には資本主義・「自由主義」国の南朝鮮(韓国)へと侵攻して朝鮮戦争が始まった。中国の現在もたしかに中国的ではあるが、日本共産党・不破哲三が<市場経済を通じて社会主義へ>の道を通っている国と認めているように、また毛沢東がマルクス主義者であったことも疑いないところで、日本やアメリカ・ドイツ等々と基本的に拠って立つ理念・しくみが異なっている。
 日本にとっての最大の矛盾・対立は、石原慎太郎のように毛沢東・矛盾論に傚って言えば、これら<社会主義>の国々との間にある。アメリカとの間にもむろん対立・矛盾はあり日本の「自立」が図られるべきだが、この<社会主義(・共産主義)>との対抗という点を絶対に忘却してはならない、とつねづね考えてきた。アメリカと中国に対する<等距離>外交・<正三角形>外交などはありえないし、中国が入っての<東アジア共同体>など、中国の政治・経済の仕組みが現状であるかぎりは、語ってはいけないことだ。
 上記鼎談で、島田と西岡は言っている(p.91)。
 島田-冷戦は「終わったのはヨーロッパにおいてだけで、アジアでは終わっていません」。
 西岡-1989年の中国共産党は「ファシズムを続ける選択」をした、「アジアでは…対ファシズム中国という構図を中心にした冷戦は終わっていない…」。ここでの「ファシズム」という語の使用にも私は賛成だが、しばらく措く。
 また、江崎は次のように語る。-アメリカの「共産主義犠牲者財団」は2014年に、「アジアでは。…北朝鮮と、…中国がいまなお人権弾圧を繰り返しており、アジアでの共産主義との戦いはまだ続いている」というキャンペーンを繰り広げているなど、アメリカの保守派の中には戦後70年ではなく「アジアの冷戦という現在進行形の課題」への強い問題意識をもつ人たちがいる。
 かかるアメリカの一部の動向と比べてみて、日本の状況は<対共産主義>・<反共>という視点からの問題関心が乏しすぎると感じられる。
 さて、いちおうここでの第一点に含めておくが、20世紀は二つの世界大戦によって象徴される世紀であるというよりも、ロシア革命の勃発によるソ連<社会主義>国家の生成と崩壊の世紀だったということの方がより大きな世界史的意味をもつ、といつぞや(数年以上前だが)この欄に書いたことがある。こういう観点から歴史を把握する必要があるのではないか。
 このような問題関心からすると、鼎談最後にある江崎道朗の以下の発言も、十分によく理解できる。重要な問題意識だと思われる。
 すなわち、「日本にとっての冷戦はわが国に共産主義思想が押し寄せてきた大正期に始まり、大東亜戦争に影響を与えて現在も続いている」、と考える。2017年はロシア革命100年、2019年はコミンテルン創設100年、こうした100年を見通した「100年冷戦史観」とでも言うべき「歴史観」の確立に向けて今後も議論したい。
 70年後に反省・謝罪したりするのではなく25周年を祝え、という意味の第二点は、別に続ける。
 
 

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1078/西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(2012)の富岡幸一郎「はじめに」。

 西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012.01)の、富岡幸一郎による「はじめに」だけを読了。
 中身についてものちに触れるかもしれないが、著者9人の一人は「雑菌」の中島岳志なので、読者はこの本がまともな「保守」主義による議論・論考をまとめたものだと誤解しない方がよい、と思われる。
 富岡による「はじめに」の前半は、素直に納得しながら読める。
 すでに一九世紀末・第一次大戦前に「西洋の没落」(シュペングラー)は語られていたのであり、「西洋近代を形成してきた進歩史観への警鐘」も発せられていた(はじめにp.2)。
 以下は私の言葉だが、しかるに、日本国憲法は<欧州近代>所産の法思想を疑問がないものとして、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言等に遡及可能なものとして、継受してしまった。日本国憲法97条はつぎのように定めるのだが、私はこのような「お説教」を読んで、いつも苦笑を禁じ得ない。日本の今の憲法学者はどうなのかは知らないが。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 富岡の文章に戻ると、こう述べられている。
 現代の「文明」社会を深く覆うのは「ニヒリズム」で、すでに一九世紀末にニーチェが語ったものだ。それによると、「人々が生きる意味と目標を失い、よるべない虚無の淵に立たされる危機」のことで、あるいは、<宗教・道徳・理性・精神といった価値が無意味なものと化してしまったあとに出現する「最も気味のわるいもの」>だ(はじめにp.3-4)。
 このあたりまではよいのだが、その後の富岡の叙述には大きな疑問を持たざるをえない。
 富岡は、そのような「最も気味のわるいもの」が二〇世紀以降に生みだしたものを、あれこれと列挙している。まず単語だけを取り出しておこう。
 ・第一次大戦という「全面戦争」、科学技術による大量殺戮兵器、欧州の「血の地獄」化、世界恐慌から第二次大戦へ、核エネルギーの使用(はじめにp.5)
 続いて次のように所産または結果を述べている。
 ・「一九八〇年代後半からの冷戦崩壊によって社会主義体制はついえ去り、資本主義はそのまま生き延び」、九〇年代以降はアメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義へと展開された」(はじめにp.6)。
 ・ニーチェのリヒリズムは二〇世紀には「大量殺戮の悲劇」を生み、二一世紀の今日では「…資本主義のテーモンに体現されている」(p.6)。
 このような時代または「文明」史の叙述には―一瞬はすらっと読んでしまいそうだが―、疑問を禁じ得ない。
 細かなことを言えば、二つの大戦の「外的要因」は「帝国主義の政策による衝突」で「内的要因」は「世界恐慌という経済的危機」だったという叙述(上では省略。はじめにp.6)は教科書的・通俗的で、はたしてこんな理解でよいのか、と感じさせる。これは、「左翼」の描く歴史とまったく同じなのではないか。それに、第二次大戦の前のロシア革命・社会主義ソビエトの成立とその影響にはまったく!言及がないのだ。
 「社会主義」の無視・軽視、これこそが富岡の文章の致命的な欠陥だと思われる。
 富岡は八〇年代後半以降に「社会主義体制はついえ去り」と平気で書き、その前に「冷戦崩壊によって」と簡単に書いてしまっている。だが、冷戦は終わっていない、あるいは新しい冷戦にとって代わっている。また、そもそも、「社会主義体制はついえ去」っていないどころか、この東アジアにおいて、中国、北朝鮮等というれっきとした「社会主義」国家はあるではないか(両国の共産党・労働党の大会において誰の肖像画・写真が大きく掲げられているかを思い出すがよい)。

 また、この日本の現実の中に「社会主義」の(「体制」ではなくとも)<思想>は脈々と残存し続けている。
 富岡幸一郎の書いてきた文章をいっさい否定するつもりはないが、上の点はあまりにヒドい、と思われる。いったい、この人は何を考えているのか?
 さらには、上にも関連するが、富岡によると、現下の最大の「文明」問題は、「資本主義のデーモン」であるようだ。しかし、現在の資本主義に問題がないとは言わないが、アメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義」を批判すること、そのようなものを「現代文明の全般的危機」として把握することともに、あるいはそれ以上に、覇権主義・軍国主義を伴う「社会主義」国家が現存し、かつ「社会主義」イデオロギーが(日本においてこそ顕著に)残存し続けていることを、きちんと、そして深刻に「現代文明」の重要な問題と把握すべきだ。
 このような「社会主義」に対する<甘さ>は、「大量殺戮(の悲劇)」に関する富岡の理解の仕方にも表れている。富岡は明らかに、これを近現代の「科学技術」の所産として(第一次大戦との関係で)語っている。
 しかし、富岡は知らないのだろうか。両大戦の死者(大量殺戮の被害者)の数よりも、ソビエト連邦や共産主義・中国等々における革命・内戦・「粛清」の犠牲者の数の方が多いのだ。
 「大量殺戮(の悲劇)」という語を使いながら、コミュニズムの犠牲者(大量殺戮被害者)をまったく思い浮かべていないようであるのは、少なくとも<保守>派の論者としては、致命的な欠陥がある、と考えざるをえない。
 佐伯啓思や西部邁について、<反米・自立>を説くのはよいが、<反共>または「反中国」の姿勢・文章をもっと示して欲しい旨を書いたことが何回かある。
 西部邁・佐伯啓思グループの一人のようである富岡幸一郎にも、同じような弊があるようだ。

0959/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む③。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ③

 ・保守の精神とは何か。「保守の思想」は、英国の歴史や思想風土と「深く結びついて」いる。エドマンド・バークが抽出した英国の「国民性に根付いた歴史的精神もしくは暗黙の合意」を表現したもの。もともとはバークによるフランス革命への強い警戒心から発し、「保守」はまず「進歩主義」批判を意図する。「近代」社会は「進歩」を掲げるが、「近代主義とはほとんど進歩主義と同義」だ。とすると、「保守」は時代の「先を読む」・「潮流に乗る」等の甘言に飛びついてはならず、「徹底して反時代的」である必要がある(p.184-5)。
 ・「進歩主義(近代主義)の精神」として次の4つは無視できない。①合理主義・科学主義・技術主義の精神、②抽象的・普遍的理念の愛好、③自由・平等な個人の無条件の想定、④「急激な社会変化への期待」。

 ・「保守の精神」は、上との対比でこうなる。①「理性万能主義への強い懐疑」と「歴史的知恵」の重視、②「具体的で歴史的に生成したものへの愛好」、③「個人」よりも「個人を結び付ける多様なレベルの社会的共同体の重視」、④「急激な社会変化を避け、漸進的改革をよわしとする精神」と「大衆的なもの」への懐疑。「大衆的なもの」とは「無責任で情緒的な行動」で「ムードによって相互に同調的で画一的」になり「自らを主役であると見なす自己中心主義的な心情」。この「大衆的なもの」による「急激な社会変革」を「保守」は「ことさら警戒する」(p.185-7)。

 ・四つの各特質の第一点について。親社会主義=「革新」、親「アメリカ的」「自由民主主義・市場経済」=「保守」とされた。これは、アメリカに比べてソ連社会主義は「左」だったので「冷戦時代」には「一定の政治的有効性」があった。しかし、「冷戦以降」は異なる。

 ・「いくつかの例外を除いて、基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」。今日の最も「進歩主義的国家」はアメリカだ。「保守の精神」からは、アメリカ流「進歩主義」こそが最も警戒すべきものだ(p.187-8)。

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 このあたりから佐伯啓思らしさが出てくるともいえるが、コメント・感想を挟む。上の部分のうち、前半には賛同できない。
 「いくつかの例外」として何を意味させているのかは正確には分からないが、まだ<冷戦>は終わっておらず、「基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」と論定することはできない、と考える。

 中国(シナ)や北朝鮮を日本にとっての「例外」などと評価することはできない。そしてまた、中国・北朝鮮等という「社会主義」国家が近隣に現存するとともに、「社会主義」イデオロギーは日本国内においてすらなお強く現存している。
 現菅直人政権のかなりの閣僚は、「社会主義」イデオロギーの影響を受けていると想定される。少なくとも「社会主義幻想」を持ったことのある者たちがいる。だからこそ、民主党政権を「左翼・売国政権」(鳩山)とか「本格的左翼政権」(菅)と称してきた。

 他にも、日本共産党はもちろん社会民主党も、れっきとした、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響を受けている政党だ。

 さらにいえば、岩波書店、朝日新聞等、出版社やマスメディアの中には、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響の強い、「左翼」または親「社会主義」的と称してよい有力な部分が巣くっている。

 この論考だけではないが、佐伯啓思はなぜ、「左翼」または親「社会主義」勢力の現存・残存についての認識が<甘い>のだろう。職場・同僚・学界に、「左翼」(例えば親日本共産党学者と評せる者)はいないのだろうか。信じ難いことだ。

 脇道にそれたが、再び佐伯論考に戻ってつづける。

--------  ・「保守の精神」が「冷戦以降」の今日の「もっとも警戒すべき」は「アメリカ流」「進歩主義」だが、「強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値」という「アメリカ建国の精神」へと「復帰する」ことはアメリカでは「保守主義」だ。だが、これは「イギリス流の保守主義」とはかなり異なる。アメリカ独立・建国はイギリスからの分離独立・イギリスに対しての「自由な革新的運動」だったので、建国の精神に立ち戻るという「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「進歩主義」で刻印されている。この「倒錯」は、「ネオコン」=「新保守主義」が、「自由」・「平等」を普遍的価値とみなして「イラク戦争や対テロ戦争」を立案したとされることに、典型的に示されている(p.188-9)。
 ・「戦後日本」はアメリカ的価値観の圧倒的影響下にあったため、「アメリカ流保守主義」を「保守」と見なした。しかも冷戦下でアメリカ側につくことが「保守」の役割とされた。イギリス的「保守」とアメリカ的それとの区別が、決定的に重要なのに、看過された(p.189)。
 ・「日本とは何か」を問題にする際、「日本の保守」を「アメリカ流保守主義」と「自己同一化」してはならない。日本の「国体」はアメリカのそれと大きく異なり、むしろイギリスの方に近い。いずれにせよ、日本の「保守」にとって、「日本の歴史的伝統を踏まえた価値とは何か」という問いが決定的に重要だ(p.190)。
 ・いっとき勝利したかに見えた「保守」は今や退潮している。「この二〇年」で「保守」は「失敗した」。その原因は、日本の「保守派」が「保守」を「アメリカ流保守主義」によって理解していたからだ。日本は、①「経済構造改革」路線の選択、②外交・軍事上の「日米同盟」という、「二重の意味で、かつてなくアメリカと緊密な関係に立つという判断をした」(p.190-1)。
 ・かかる政策の当否を論じはしない。「保守」の立場からは何を意味するのかを明らかにしたい。ここでは以下、「日米同盟」につき論じる(p.191)。

 以上で、13/26頁。

0905/月刊正論11月号・中西輝政論文等-冷戦。

 一 月刊正論11月号(産経、2010)の巻頭、中西輝政「中国の無法を阻止する戦略はあるか」
 巻頭言にしては長い。p.33-44の二段組み、計12頁。
 「東アジア全体が、…『冷戦』に突入しているのである。今回の新たな冷戦では、東西冷戦とは異なり、日本が否応なくその最前線に立たされる。…」(p.41)

 欧州ではともかくとしても、日本ではソ連崩壊後も<冷戦は継続している>ということは、近時の主張しておきたいところだった。
 同上誌のp.316で水島総は「既に世界は変わり、ポスト冷戦から、ポストポスト冷戦に様変わりした」、と書く。
 ニュアンス、厳密な意味は同一ではなさそうだが、現在の日本が「冷戦」の真っ只中にあるという認識では共通しているだろう。
 水島が言っているだろうように、ソ連崩壊によって「資本主義」あるいは「保守(・自由主義)」が勝利した、と単純に考えている「戦後保守」がいるとすれば、とんでもない間違いだ(但し、この人のこの号の叙述には感覚的に合わないところもある)。
 いずれにせよ、「保守」の側はともかくとしても、中国・北朝鮮(論じ方によっては韓国も)という近隣諸国に断固として立ち向かう必要がある、と漠然としてであれ考えている国民が多数派ではないようであることが、現在の日本の怖ろしいところだ。

 新憲法によって日本は平和で自由なよい国になった、それは基本的には今日までずっと継続している、と何となく考えている(私に言わせれば勉強不足の、あるいは主流派的マスコミに騙されたままの)国民はまだけっこう多いのではないか。

 そのような人々は、中国等の脅威(・異様さ)を正当に指摘し、例えば日本の「ナショナルなもの」の保持の必要性を語るような議論を、<偏っている>とか<右翼・民族派>とか言って無視するか軽蔑しがちだ。
 説明する必要もないほどだが、そのような人々とはもはや「口をきく気にもなれなくなっている」。

0521/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋)。

 中西輝政・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の中の最後の収載論文である「『冷戦』の勝敗はまだついていない」は、月刊正論2006年9月号(産経新聞社)が初出。その際のタイトルは「ロシア革命から現代まで日本を呪縛し続ける『悪魔』」だった。
 中西輝政「『大いなる嘘』で生き延びるレーニン主義」諸君!2007年5月号(文藝春秋)については1年余り前にこの欄で触れたことがあるが、こちらの方は上記の新刊本には含まれていない。
 いずれもコミンテルン又は「共産主義」国・者の<謀略>を扱う点では共通している。
 もともと「『冷戦』の勝敗はまだついていない」という新しい題名は、私がこの欄で書いてきた主張と同じだ。佐伯啓思が少なくとも「思想的には」<冷戦は(基本的に)終わった>と理解しているようであるのとは異なる。  「思想的には」ともかく、現実のリアルな認識のレベルでは(同じ大学・同じ研究科の)中西輝政の方が優れているのではなかろうか(誰にでも、どの研究者にも、<得意>分野というものがある、ということも分かるが)。
 上のタイトルにかかわる中西の最初の方の文章は次のとおり。
 「冷戦中の歴史責任〔中国のベトナム・インドへの「侵略戦争の責任」等〕が不問に付されたまま、六十年以上前の”歴史問題”がいまだに日本に対して突きつけられるということ自体が、実は冷戦は決して終わっておらず、『共産主義の脅威』が厳然として今も存在することを示している」(p.290)。
 私も、<「共産主義の脅威」は厳然として今も存在する>と、声を大にして主張したい。
 それはともかく、この論文での中西輝政の「共産主義」批判の言葉は厳しく、鋭い。書き写しておく価値が十分にあると感じる。
 共産主義とは何だったか。中西は書く。
 「国家や家族、私有財産を否定する共産主義は、人類の歩みそのものを否定するイデオロギーとその実現をめざす運動であり、人道や文明という人類普遍の価値に対する挑戦だった」。またそれは、「階級闘争理論を持ち込んで人間同士の絆を引き裂くという点で、社会の安定だけでなく、人間性の根幹に対する破壊的意図をもった挑戦だった」(p.292)。
 さらに中西は書く。
 共産主義は国家・家族・私有財産制を無くしさえすれば「全人類がやがて天国にいるような幸せな暮らしができるという『世界観』ないし一種の『宗教』」だった。それは「労働者階級」による「ブルジョア」階級の打倒による「資本主義」の「止揚」が「唯物論で動く歴史の必然」としたことでわかるように、「まさに『逆立ちした』議論を”科学的真理”と称した一種の『カルト宗教』」だった。それらは「言葉の真の意味で大いなる嘘だった」。その本質は「現存秩序を破壊することに目標を置く『反秩序主義』といってもよい」(p.292-3)。
 共産主義は「一種の『カルト宗教』」だ。そのとおり。日本共産党はさしづめ、世界共産「教」日本本部、または世界共産「宗」日本総本山だろうか。いや、コミンテルンはなくなったので、<自立>して、東京・代々木にあるのは、日本共産「教」本部、または日本共産「宗」総本山だろうか。
 中西は「マルクスの定式化した共産主義」は、①「十八世紀から十九世紀の始め〔初め?〕のヨーロッパに広がった急進的な革命思想」の周りに、次の二つを「システマティックかつ壮大に集大成してみせたもの」だ、という。②「イタリアで発祥した秘密結社カルボナリに始まる『謀略至上主義』の運動論」、③「『平等主義者の陰謀』事件で知られる…バブーフの『工作と陰謀』の戦術論・戦略論」(p.293)。
 さらに中西によれば、「『謀略』と『偽装』という共産主義」の第一の本質は、淵源たる「革命思想」も含めて、「自由や平等主義を掲げる『理想主義』を偽装していた」ことにある。
 第二の本質は、その「運動論の構造」にある。すなわち、「必ず『敵』を設定してそれを打倒することに大衆のエネルギーを集中するのが共産主義運動」で、そのためにこそ「階級対立」論が考え出された、「革命という目的のためには手段を選ばないマキャベリズム性」を最大の特徴とし、「道徳やモラルを政治の領域からトータルに排除」した、といったことだ。
 換言すれば、「<…ブルジョア支配階級を倒すには手段を選ぶ必要はなく、どれだけ卑劣な嘘で騙してもよい。…><自分の力が弱いときは相手をだまして利用し、力が強くなれば暴力的に抹殺する>」。かかる「人間性否定」の共産主義運動によって、「人間の絆、家族や共同体の繋がりというものを一切排除すれば、『革命』は自然に成就する」、と教えた(p.294)。
 第三の本質は、「国家の存立と覇権主義の道具」だったことにある。すなわち、スターリンは当初、「ロシアを守るために世界中の共産主義運動を利用した」。ソ連が確立すると「覇権拡大」のために「国際共産主義運動」を展開した。中国も「膨張的領土政策を採り、繰り返し他国に戦争を仕掛ける」。
 以上のような<「共産主義」論>の他にも、興味深くかつ重要と思われる指摘は多い。さらに続ける。 

0201/現憲法制定過程-古関彰一・新憲法の誕生(中公文庫、1995)を読む。

 現憲法制定過程に関する言及を続ける。1946年前半の関係日付の一部は既に記したが、背景状況に関するものとして、5/03に所謂東京裁判が開廷したが天皇の処遇は不明で検事による天皇不訴追の言明は6/18だったこと、5/12に「朕はタラフク食ってるゾ。汝人民飢えて死ね」のプラカードで知られる米よこせ世田谷区民集会の皇居デモに見られるように食糧事情は不十分だったこと(これは「公職追放」が家族を含めての生活苦をもたらし得ることを意味した)を追記しておく(なお、吉田内閣発足は5/22)。
 これまで、古関彰一・新憲法の誕生(中公文庫、1995、初出1989)という本が別にあることを承知で、かつ読まないままで書いてきた。今回はこの本に言及する。
 この本によると、2/13にGHQ(ホイットニー民政局長ら計4名)から憲法草案の手交を受けたのは松本烝治の他吉田茂外相、白州次郎他1名。その後の最初の閣議は2/19。この閣議上で松本が2/13のGHQ側の発言内容を紹介したその内容が問題になったようで、古関によれば、松本はGHQ案不採用だと「天皇の身体を保障することはできない」とホイットニーが「脅迫的に」述べ、これがのちの新憲法「押しつけ」論の「究極の根拠」になっているが、芦田均日記によれば「むしろ逆に、天皇を護る警告」の如く記されており、後者が適切だという(p.167)。
 しかし、この分析は奇妙だ。p.157-8に長く引用されている会議録上のホイットニー発言の内容を読んでも、受容しないと天皇を護れないとの「脅迫」と、受容すれば天皇を護れるとの「警告」とは、「むしろ逆」のものではなく、同じことの別表現ではないか。
 古関によれば次に、2/19以降の閣議でGHQ案の英文全文は配布されたことがなく(松本・幣原・吉田の他に閣僚でない白州・佐藤達夫のみが保有したらしい)、GHQ案の受容を決定した2/22の閣議には第一章(天皇)・第二章(戦争放棄)のみの日本語訳文が配布され、日本語訳全文が配布されたのは2/26の閣議だった(p.170-2)。かかる経緯につき古関は、内閣には「冷静に議論する土台すらできていなかった」、「天皇制を護ること…以外に、思想らしい思想をたたかわす憲法論議はないままに、GHQ案受け入れへと歴史の歯車は大きく回った」と述べた後、こう結論づける-「これは8月15日につづく第二の敗戦であった。「押しつけとは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した」(p.172-第五章の末尾)。
 古関の今回言及の著は九条の日本人発案説を採っているわけではない。また、上の如く新憲法についての「GHQ案受け入れ」は「第二の敗戦」だったと明言している。
 この著の
第五章のタイトルの「第二の「敗戦」―「押しつけ」とはなんであったのか」という設問への回答は、上に引用の「武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北」(p.172)ということになるのだろう。そしてかかる結論は「押しつけ」だったことの肯定を前提にしている、と常識的には理解してよいだろう。
 しかし、先に紹介したように、新憲法「押しつけ」論の「究極の根拠」になっているという2/19の松本発言の理解を彼自身は否定していることとの論理的関係がよく分からない。
 古関によれば、彼自身が日本国憲法「押しつけ」論の「究極の論拠」となったとする松本の「脅迫的」理解は誤りで、(前回指摘したように矛盾していないと私は思うが)「天皇制を護る警告のごとく」理解すべきなのだ(p.167)。p.166-7とp.172はどう整合しているのか、矛盾してはいないのか、よく解らない。
 また、GHQ案受容は「政治理念、歴史認識」、「憲法思想」の「敗北」であり、「第二の敗戦」と古関は言うが、憲法改正に関してGHQ又は米国と「政治理念、歴史認識」、「憲法思想」を対等に闘わせることのできる時代状況にあったのだろうか。そもそもが降伏後半年後の「占領下」に占領軍最高司令部により「案」が示され、昭和天皇一身の将来も不明、国民生活は困窮、経済復興・発展は未展望という状況だったのであり、「政治理念、歴史認識、憲法思想」を対等に闘わせることを期待する方が無理というものではないか。
 さらには、自国の憲法改正(新憲法制定)につき他国(米国・GHQ)による提案・関与があったこと自体が「異様」なのであり、「憲法思想」等の外国との闘い(勝利・「敗北」)を語ること自体が「異様」なのでないか。
 付記すれば、古関は「敗北」を日本国・日本人のそれと理解しているのか、日本の当時の「支配層」の敗北と考えているのか。少し言い換えると、「敗北」という語を彼自身を含む日本国・日本人の問題としてGHQ・米国に対する怒りの感情も含めて使っているのか、それとも日本の当時の「支配層」に対する怒りが主で、敗北につき当時の日本政府の「責任」を追及する気分で使っているのだろうか。
 「押しつけ」か否かは、通常は日本国憲法の出自の正当性の問題として論じられ、私もその観点から関心をもつ。だが、古関が「押しつけ」た側の責任若しくは「押しつけ」られた側の責任を問題にしようとしている、又は「押しつけ」た側と「押しつけ」られた側のどちらが「悪かった」のか(どちらに「責任」があったのか)という「正邪」を問題にしようとしているのだとすれば、それは論点・問題をズラし、肝心の問題を避ける議論であり、客観的な評論家的立場を「装った」奇妙な議論だと思える。
 古関のこの本で次に興味深いのは、1945年12月公布の衆議院議員選挙改正法に基づく男女同等の普通選挙が実施され、「憲法制定議会」の意味を実質的にもちうるはずの46年4/10の衆院選挙で、憲法改正がどの程度争点になったかに関する部分だ。
 GHQ案がそのまま日本語訳されて改正案になったわけではなく、「日本化」の努力がなされある程度は成功して3/06に内閣の「憲法改正案要綱」が発表されたのだが(九条は実質的・内容的には変更なし)、全国ではなく8選挙区の535名の候補者の公報のうちこの「要綱」に触れるもの17.4%、触れないもの82.6%だという。古関とともに「あまり争点とはならなかったと言えそう」だ(p.208-9)。  また、公表されていたのは「改正案要綱」であり、選挙後の4/17に「改正案全文」が発表された(p.210)。これでは、新選挙法に基づき国民=有権者が、憲法「改正案」の内容を正確に知ったうえで、かつ候補者の憲法「改正案」への態度を知ったうえで投票し、実質的な「憲法制定議会」を構成したとは、とても言い難いだろう。
 その次の関心事項は、岡崎久彦著に依ってすでに簡単に記したが、衆院等により憲法「改正案」がどのように審議されたか、国民はどの程度自由にどのような議論を展開したかだ。議会での「日本化」の努力や国会外での各種改正論議に関する古関の叙述は「憲法制定過程の通史」(p.436)としての資料的価値はあるのだろうが、基本的には「占領下」でのGHQが許容する範囲内での、1946年当時のGHQの政策方針の範囲内での修正や議論だった、という大きな枠の存在の意識が十分ではないという印象がある。
 古関著は、新憲法公布後の1947年1/03に吉田茂がマッカーサーから新憲法施行後の一定期間内に(48年5/03-49年5/02)新憲法は「日本の人民…国会の正式な審査に再度付されるべき」で「国民投票…の適切な手段を更に必要とするであろう」等の書簡を受け取り、実際に48年3/10成立の芦田均内閣は再検討作業を行ったが、後継した同年10/19成立の第二次吉田内閣は具体化しなかった旨を述べた後、「憲法改正の機会はあった…。与えられていた…。その機会を自ら逃しておきながら「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張され続けてきた」と言う(p.380)。
 この叙述は現憲法は「押しつけ憲法」ではない、と主張しているのと同じだ。そのように理解するのが自然だ。しかし、最初の制定(明治憲法改正)がかりに「押しつけ」だったとすれば、「再検討」の機会がのちに与えられたことによって「押しつけ」ではなくなる、と論理的に言えるのだろうか。許容されなければ再検討できないということ自体がそもそも「異様」ではないのか。古関説はこの点でも奇妙だ。
 今述べたことを
補足しておく。1.吉田茂は「憲法の基本理念を変えることはGHQがいる限り不可能」と考えたと古関は推測する(p.379)。後段が占領下では=主権回復がなければ、との意味である限り、吉田は適切だったと考える。占領下で再改正しようとしてもその内容を「自由に」判断できたとはとても思われないからだ。
 2.「再検討」の意向はGHQよりも極東委員会に強かったようだ(p.369、p.381)。
 3.しかし、48年秋には北朝鮮成立等すでに「冷戦」構造の形勢が明らかになっていて、米国は日本の「非軍事化、民主化政策はもはやこれ以上に必要ない」(p.382参照)との方針へと傾斜していた。かくして、47年初頭の意味での「再検討許容」方針は事実上放棄されたと見られる。
 引用しないでさらに付言するが、p.380に吉田の回想記の一部を引用して「押しつけ憲法」論否定の補強資料としているようだが、吉田が米国・GHQの「強圧」・「強制」によって日本国憲法は制定された、と「回想記」に記すはずがないではないか。引用部分を参照すれば、GHQ側が新憲法制定を「可成り積極的に、せき立ててきたこと、また内容に関する注文のあったことなど」を吉田が肯定し明記していることで、事態の真相はほぼ明らかだ。つまり、吉田は<押しつけられた>と感じていた、とほぼ確実に言えると思われる。
 以上に述べて又は指摘してきたように、古関彰一・新憲法の誕生という本は、論旨が一貫していないか、少なくとも解りにくい部分を残しており、事実の評価についても十分に疑問視できる箇所が少なくない。まさかとは思うが、この本が憲法学者による現憲法制定過程に関する決定版の本で、最も信頼できる、という評価を与えられてはいないだろう。かりに本人がそう思って自信を持っているとすれば、それは<錯覚>というものだ。
 ところでこの古関彰一という憲法学者は、憲法制定過程(および強いて言うと九条)の他にきちんと憲法学の研究を広範囲にわたってしているのだろうか。教科書・概説書がないのはもちろん、他の個別の論点についての研究や発言にどんなものがあるかも全く知らない。
 

0174/石原慎太郎の米国講演、西尾幹二・水島総の朝日新聞等批判。

 少し古いが、産経5/19によると、石原慎太郎はニューヨークでの講演で、次のようなことを述べたらしい(イザ!ニュースなし)。
 1.日本有事に際し米国が安保条約による責任を果たさない場合は<日本は自分で守る努力をする。核保有もありうる>。
 2.中国経済は2008年までと英国エコノミスト誌編集長と一致した。経済が破綻した中国は「軍事的冒険主義」に出てきて「台湾や尖閣諸島に向けられる」可能性がある。
 3.尖閣諸島有事の際に米国が何をできるかは疑問。日米関係の将来は米国が中国をどう認識・評価するかに依るところが大きい。
 4.米国と中国が全面戦争になった場合、米国は必ず負ける。
 産経ですら小さく扱ったのみだから、他紙やテレビで大きくは報道されなかっただろう。
 私としては、上の2と3に現実的な関心をもつ(1と4に関心がないわけではないが)。簡単には、1.中国の経済・社会状況は今後どうなるか、2.米国は「社会主義」中国を(日本との比較が当然に含まれるが)どう認識・評価していくか、だ。
 岡崎久彦はかなり<親米(保守)>のようだが、<反米(保守)>と言ってたぶんよいだろうと思われるのが、西尾幹二だ。
 その西尾幹二が、月刊WiLL7月号(ワック)で「朝日新聞「社説21」を嗤う!」というのを書いている。そして、上の石原講演の内容とあえて関連させると、以下が興味深い。
 私は朝日新聞の「社説21」は読んでいないしデータ保存もし忘れたが、1.朝日は日米安保を前提として議論している。西尾によれば、朝日は「極めて保守的」で、「今まで反米的」だったが、「左翼のくせに親米」だ。
 冷戦構造の中で日本は経済的利益拡大の僥倖に恵まれたが、「朝日新聞は今後もその特権を保守し、なにも責任をとらず、きれい事を言ってアメリカの力にすがりましょうと声高に言っている」。
 2.朝日新聞は、米国に近寄り過ぎると怖い(「直接には関係のない紛争に巻き込まれる危険性がある」)が、遠ざかると相手にしてもらえなくて怖い(「いざという時に守ってもらえないという心配…」)、その「微妙な間合いをとるのに役立ったのが憲法9条」だった、と書いているが、世界情勢が変化し、九条護持を唱え続けることができなくなっていること、「自国を自国で守ろうとする日本の意志がなければアメリカも見放す時が来ている」ことが、「全くわっかっていない」(p.40)。
 上の二つの朝日新聞の社説批判は要するに、米国の対日姿勢が変わりうる(既に変わっているかもしれない)という現実、従ってまた憲法九条の持ちうる意味も変わらざるをえないという「現実」をまるで認識していない、ということに(たぶん)尽きるだろう。
 朝日新聞批判の中で述べられているが、西尾氏自身の言葉としての、3.米国はしばしば歴史上のミスをしてきたが、「例えば、日本を敵に回して中国の共産化を招いたというのは、おそらく歴史的にアメリカが犯した最大の判断ミスでしょう」(p.41)。
 この後で西尾は、ビンラディン登場により米国は「中国という悪魔」と手を結ぼうとしているし、「金正日という小悪魔とさえ、手を組まざるを得ない醜態」見せている、と記す。
 このあたりは私の知識の及ぶところではないが、石原とも共通して、米国が日本を無視又は軽視して中国(・北朝鮮)を重視する(=と友好的になる)ことを懸念し、かつ批判している、と言える。
 やや離れるが、歴史的にみて、日本軍が大陸にいるときに完全に中国側に立ったことは米国の判断ミスだった、と思われる。ルーズベルトの周辺にはマルクス主義シンパがかなりいて、どの政策が「ソ連」の利益かで判断していた可能性が高いが(ゾルゲ・尾崎秀実もそうだった)、中国が「共産」化する可能性の程度を米国は予測し誤ったのだと思われる。それは、二次大戦終了後も続いた。1949年に中国が中国共産党支配の「中華人民共和国」になることを予測できていれば、日本国憲法九条の内容は現在のそれとは違っていた筈だ。
 現憲法九条は戦後の一時期のロマンティックな平和幻想の所産で、冷戦開始(=米ソの対立。1949年の東西ドイツ別々の建国、「中共」成立、朝鮮戦争勃発で完全に明確になった)後にすみやかに、「現実」には不適合の条項になっていた、あっという間に「賞味期限」を過ぎた、のだ。そこで、憲法改正(九条改定)が無理ならばと登場してきたのが、「戦力」ではないとされる、警察予備隊→保安隊→自衛隊だったわけだ。
 上のように振り返れば、現在の憲法九条に関する国論の「分裂」は、「一時期のロマンティックな平和幻想」に陥り、また日本の将来の「軍事大国化」を怖れたがゆえに九条を日本に事実上は「押し付けた」(私は幣原発案説は無理だと考えている)、GHQ・マッカーサーに、そもそもの責任がある、とも言える。
 そのような米国だから、日本に十分な連絡なく突如として米中(大陸の中国)国交を回復したことがあったように、米国の利益に関する判断で今後も動くだろうことは明らかで、米国を中国ではなく日本に引きつけるとともに、米国の判断からの自律性を徐々に身につけることもまた、今後の日本にとっては重要だろう。
 と言って、<親米保守>と<反米保守>(小林よしのりは後者だろう)のいずれかの立場に立っているわけではない。私にはよく分からないことは沢山ある。
 中途だが、西尾の論稿にはまた別の機会にも触れることとして、同じ月刊WiLL7月号には水島総「無惨なり、三大新聞論説委員長!!」もあり、5/06のサンプロの読売・毎日・朝日の論説委員長(論説主幹)の揃い組みをリアルタイムで(保存だったか?)観ていただけに、興味深かった。
 水島総によると、そもそも新聞の論説委員長がテレビ番組で顔を出すこと自体が失敗だった。「みっともない姿をさら」して、「あのおっさん」がこの社説を書いているとのイメージを与えた悪影響は大きい、という。そうかもしれない。
 私の記憶と印象では、朝日新聞の若宮啓文が最も緊張しており、落ち着きがなかった(自社系のテレビ局だったのに、と言いたいが、まぁ無関係だろう)。
 このときの若宮啓文発言についてはすでに批判した。毎日の論説委員長が<論憲>とだけ言い、その具体的内容については<これから考えます>と悪びれることもなく<微笑をたたえて>答えていたことに呆れた記憶もある。
 もう忘れていたが、水島総によると、朝日・若宮啓文氏は、次のような醜態をさらけ出したらしい。
 司会・田原総一朗が「湾岸戦争と同じ状況」になれば「朝日新聞は、今度は国連が正式決議すれば、自衛隊参加に賛成するんですね」と質問したところ、朝日・若宮啓文は、「かなり慌てた表情で、言いよどみ、それは、そのとき、その場で、よく状況を考えていくということで…と、あいまいな答え」しか出来なかった。
 水島は「笑ってしまった」と書き、毎日新聞の出演者とともに「その時に対応を考えます」では「常識で考えても、世間一般では、とても通用しない理屈である」、と批判している(p.138-9)。
 以上、日米関係(中国問題が絡む)と朝日新聞批判がいちおうのテーマの、冗文になった。

-0016/日本共産党綱領を瞥見してみると面白く、楽しい。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、東アジアには中国・北朝鮮・ベトナムがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは社会主義経済・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 日本共産党もHPをもつことを今年になって知ったが、そこにある2004年改正同党綱領にはまず「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とあるが、ここですでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と述べる方がより正確だ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年綱領・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 共産主義、コミュニズムへの批判は絶えず意識的に行うべきだ。とくに共産党が現に活動している国では。
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