城山三郎が79歳で逝去(1927-2007)。広田弘毅に関するもの等二、三の小説を読んだことがあり、悪い印象はない。だが、読売の朝刊は、なぜ佐高信などにけっこうな字数を使った追悼文を書かせたのか、奇妙だ。佐高信といえば週刊金曜日の代表編集人で、昨秋11/19には皇室をパロディーにした集会も主催した。最近の同誌は警察による朝鮮総連関係団体への捜索を「朝鮮戦争前夜」を思わせる「異常さ」と書き(同誌取材班名義)、朝鮮総連の「弾圧糾弾」との主張と歩調を合わせていた。
 読売がなぜこんな人物を使うのかが解らない。読売はときどき奇妙な記事を載せ、主張をすることがある。
 佐高信は最後の方で、城山は叙勲を固辞した、「その意味するものをくみとってほしいと願う」と書いて佐高自身の「左翼」ぶりを存在証明している。城山氏のその態度が何を意味するのか私はよくわからないが、反天皇、反権力、反国家を意味するのだとすれば、そのような作家を読売は大きくとり上げて死亡・追悼の記事を載せるべきではなかろう。それに城山の小説に関する私の記憶では、反天皇、反権力、反国家の姿勢は感じられなかった。
 佐高の文の中で注目してよいのは、広田弘毅、石田礼助、井上準之助という城山の小説のモデルとなった人たちを「あるいは少数派かもしれないが、誇るべき日本の財産である」と明記していることだ。この中の広田弘毅は言うまでもなく所謂東京裁判の所謂A級戦犯として、たしか軍人以外では唯一人、死刑(絞首刑)になった人だ。佐高信がこれまで及び今後、広田弘毅を含めた所謂A級戦犯を批判し、貶めるような文章を書いていないか(書かないか)、監視しておく必要がある。
 内館牧子・女はなぜ土俵にあがれないのか(幻冬舎新書、2006)の最初57頁と最後の33頁を読了。主張はごく自然で納得できるし、最後に示してある改革案にも賛成だ。それにしても、第一に、この大相撲の土俵に関する「女性差別」問題らしきものも、議論を煽り、「女性」を応援したのは、この本で読むかぎりは、やはり?朝日新聞であることが分かる。朝日は混乱・錯乱を好み、表向きは「差別」反対なのだ。第二に、大阪府の太田房江という女性知事は大した人物ではないことも分かる。戦後教育の優等生、東京大学卒、元上級通産官僚では、日本の歴史・伝統・「国技」に関する特別の知識も教養も身につけていないのだろう。法律にもとづく男女共同参画行政もしている筈で、よく分からないが、フェミニズムに抵抗感がない可能性もある。これらは東京都知事候補・浅野史郎と同じだ…。