秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産党宣言

1700/社会主義と独裁②ーL・コワコフスキ著18章6節。

 レーニンは、「人民(民衆)」、「被抑圧階級」等々とよく言う。
 日本共産党がこれに該当とするものとして現在用いているのは、「国民」だ。
 「国家、それは一階級の他の階級に対する支配を維持するための機構である」。p.485。
 「国家とは、一階級が他の階級を抑圧するための機構、一階級に他の隷属させられた諸階級を服従させておくための機構である」。p.487。
 エンゲルスが言うように、「土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主主義的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である」。p.493。
 以上、1919年。日本語版・レーニン全集29巻より。
 「今日に至るまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史だ。/
 封建時代の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立をなくさはしなかった。新たな階級を、新たな抑圧条件を、新たな闘争形態を古いものと置き換えたにすぎない。/ブルジョア階級の時代は、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙し合う二大階級-ブルジョア階級と7プロレタリア階級-に分裂する」。
 以上、1848年。カール・マルクス・共産主義宣言より。平凡社・2015年の柄谷行人訳を参照。
 日本共産党は、「国家」観も、「歴史」観も、最初からまるで違っている。
 <階級闘争>-<敵・支配階級との闘い>-絶えず<敵>を設定しての執拗かつ継続的な<闘い>。まともな人間は意識したり想定したりしないところのものを、彼らはつねに考えている。彼らとは<人間>そのものが同じではない、と理解しておくべきものなのだ。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁②。
 1917年4月-5月の『党綱領改正に関する資料』で、レーニンはこう書いた。
 『公教育は、民主主義的に選出された地方政府機関によって管理されるべきこと。
 学校のカリキュラム編成や教材の選択に中央政府が介入するのを許さないこと。
 教師たちは直接に地方民衆によって選任され、地方民衆は望ましくない教師を解任する権利をもつこと』、等々(全集24巻p.473〔=日本語版全集24巻501頁〕。)(+)//
 最終目標は国家と全ての束縛を完全に廃棄することだ。このことは、自発的な共存と連帯の原理に人民が慣れるときに可能になるだろう。
 犯罪や非行の原因は、搾取と貧困だ。そして、社会主義のもとで徐々に消失するだろう。 -こうしたレーニンの確信は、実際上、社会主義者たちの間で一般的なものだった。//
 ヨーロッパで戦争が闘われている間にこうした言葉で叙述されたレーニンの夢想郷(Utopia)は、ソヴィエト権力50年を経た後で読む者には、度肝が抜かれるほどにナイーヴ(無邪気)だ。
 トマス・モアの空想小説がヘンリ13世のイギリスを扱ったのと同じように、やがてすぐに成立することとなる国家を扱っている。
 しかし、綱領的計画と半世紀後のその『達成物』の間の醜悪な相違(grotesque divergences)を全て指摘するのは、実りないことだ。
 レーニンの夢想郷は、総じてはマルクスの考えと合致している。しかし、のちの著作には触れないで、レーニン自身の初期の著作と比較すると、際立つ違いが明らかだ。すなわち、党に関してはそもそも何も語っていない、ということだ。//
 レーニンがその幻想を真面目に書いたことを疑う理由はない。書いたときに彼は、世界革命がまさに起こりつつあると間違って(wrongly)信じていた、ということが想起されるべきだ。
 しかし、レーニンは明らかに、自分が描く絵は自分自身の革命と党に関する教理に紛れもなく反している、ということを感知していなかった。
 『多数者の独裁』は、歴史に関する科学的な理解で装備された政治組織を通じて行使されると想定されていた。『過渡期のプロレタリア国家』という考えに広く通じるこうした性格づけは、<国家と革命>では、全く述べられていない。
 この書物を書いていた時期に、レーニンは、明確につぎのように思い描いていた。武装し、解放された全人民が、行政、経済管理、警察、軍隊、裁判等々の全ての作用を直接に遂行するだろう、と。
 彼はまた、自由への制約は従前の特権的階級に対してのみ適用され、一方で労働者および労働農民は完璧に自由に、選択に従って彼らの生活を規律するだろう、と考えていた。//
 しかしながら、革命後に出来あがった体制の本質は、たんに内戦やロシアの外部での革命運動の立ち止まりと関係する歴史的偶然の結果ではなかった。
 専制的でかつ全体主義的な(この区別は重要だ)全ての特質を備えた体制は、その主要な道筋については、レーニンが長い年数をかけて作りだしたボルシェヴィキの教理によって、あらかじめ描かれていた。当然に、その結果は完全には実現されなかったし、予見もされなかったけれども。//
 レーニンが1903年以降に多くの場合にかつ多様な形態で設定した根本的な原理は、自由や政治的平等といった範疇は重要な意味をもたず、階級闘争の道具にすぎない、そして、どの階級の利益に役立つのかを考慮しないでこれらを擁護するのは阿呆(foolish)だ、というものだった。
 『実際には、プロレタリア-トは、共和制への要求を含む、全ての民主主義的要求への闘いをブルジョアジーの打倒のための革命的な闘争の劣位に置くことによってのみ、自主性を維持することができる。』(+)
 (『社会主義革命と民族の自己決定権』、1916年4月。全集22巻p.149〔=日本語版全集22巻「社会主義革命と民族自決権」172頁〕。)
 ブルジョア諸制度のもとでの専制政と民主政の違いは、後者が労働者階級の闘争を容易にするかぎりでのみ意味がある。これは二次的な違いであって、形式の一つにすぎない。
 『普通選挙、憲法制定会議、国会は、たんなる形式であり約束手形であるにすぎず、現実の事態を何ら変えることがない。』 (+)
 (『国家について』、1919年7月11日の講義。全集29巻p.485〔=日本語版全集29巻493頁〕。)
 これこそが、革命後の国家に関する、なおさらに(a fortiori)本当のことだ。
 プロレタリア-トに権力があるがゆえに、その権力を維持すること以外に、重要なものは何も考えられない。
 全ての組織上の問題は、プロレタリア-ト独裁を維持することの劣位に置かれる。//
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。
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 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。③へとつづく。

0998/民主党・長妻昭の「無能」さと中川八洋による「子ども手当」批判。

 〇桝添要一は半年ほど前のテレビ番組で、長妻昭(民主党・前厚労大臣)を「無能です」と一口で切って捨てていた。

 長妻昭が大臣時代に、年金切替忘れの専業主婦を「救済」する方針が決定され、課長「通達(通知)」でもって今年から実施された。

 近日において、民主党内閣(細川厚労大臣)はこれを「違法」ではないが「不適切」だったとし、当該課長を官房付に「更迭」したと伝えられる。

 長妻昭は課長「通達」で済ますことの問題性を何ら認識していなかったようだ。ほとんど誰もその点を問題にしなかった旨を他人事のように述べていた。当該課長が「更迭」されるという<行政>的責任をとったとすれば、大臣だった長妻はどう<政治的>責任をとるつもりか?

 日本経済新聞の政治・行政担当の記者の経験もあるらしい長妻昭は、やはり「無能」なのではないか。かつて政治・行政担当の新聞記者であっても、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいか、という問題意識すらなかったようなのだから、行政担当の政治家としては「無能」と断言してよい。長妻に期待を寄せていた者もいるのだろうが、そのような人々も「無能」なのだろう。かつての新聞記者というのはこの程度だ(という者も多い)、ということもよく分かる。
 「違法」か「不適切」かはじつは重大な違いがある。特定範囲の在日外国人に対しても日本国民(国籍保持者)と同様の生活保護措置が執られることは、関係公務員(自治体も当然に含む)なら誰でも知っているだろうが、自民党内閣時代からの、古い、<生活保護法を……に準用する>旨の一片の「通達(通知)」にもとづいているにすぎない。このような例も含めて、国会では、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいかを論議してほしいものだ。

 〇上の「救済」策は、忘却した直接の当事者に対しては、一種の「バラまき」にあたる。

 民主党は少子化対策とか景気浮揚の経済政策とか言っているようだが、<子ども手当>施策には「バラまき」との批判も強い。

 だが、「バラまき」福祉という批判だけではこの施策の本質を見抜いていない、という重要な指摘を中川八洋はしている(中川に限らないだろうが、ここでは中川の文章をとり挙げる)。中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)によると、以下のとおり。

 ・「子ども手当」等の「子育て」支援はマルクス=エンゲルス『共産党宣言』(1848)を教典とするカルト信仰からの思いつきで、「日本人から家族をとりあげ『家族のない社会』に改造する」ためのステップだ。共産党宣言にはこうある-「家族の廃止!……我々は両親の小児に対する搾取を廃止しようとする。〔親による教育の禁止は〕……〔子どもの〕教育を支配階級の影響からひき離すにすぎない」(p.14)。

 ・「子育て支援」とは<国家こそが子育ての主体>、<親は産んだ瞬間に役割を終える>等の狂気のイデオロギーによる共産党の造語だ。かかる施策が立法・行政に闖入したのは「自由社会では日本のたった一カ国」。類似の政策は①レーニンによる家族解体の狂策(但し1936年頃廃止)、②金日成・北朝鮮の「子供の国家管理」の制度化(p.16)。

 ・「子育て支援」施策の異様さは「扶養控除」の廃止と連結していることで分かる。「扶養控除」は<親が子供を育てる>を大前提として、親に対して国家が減税により若干の協力をしようとするもの。一方の「子育て支援」思想は「家族=孤児院」とするイデオロギーだ。子供=孤児、親=孤児院の経営者に見立てている(p.17)。

 ・「子育て支援」の狂気は、ルソー(重度精神分裂症者・孤児)の『人間不平等起源論』・『エミール』を教典とし、それを盗作的に要約したマルクスら『共産党宣言』にもとづき、レーニンが実行したおぞましい歴史を21世紀の日本で再現しようとするもの。民主党のマニフェストの「子ども手当」の背後思想は日本共産党により大量出版された「子育て支援」文献を援用しており、民主党は「共産党のクローン」になっている(p.17-18)。

 まだまだ続くが、ここで止めておく。

 民主党の元来の「子ども手当」の思想は<所得制限>といったものに馴染まない(だからこそ結果としては一貫して所得制限は導入されていない)。両親の収入の多寡に応じた「社会福祉」という国家の<援助>とは異なる。「国家」こそが「子育て」の主体(子どもを家族・両親から早期に切り離す)というイデオロギーに支えられたワン・ステップ(一里塚)と位置づけられている、と考えられる。中川八洋の指摘は決して大げさなものとは思えない。

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