秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産党

1639/産経新聞「産経抄」7/8のお粗末。

 産経新聞7月8日付「産経抄」は<日本の無防備なまでの寛容さ?共産党躍進の不思議>というタイトルらしい。その中で、つぎのように書く。
 「共産党は昨年7月の参院選でも改選3議席を6議席へと倍増させており、じわりと、だが確実に勢力を伸長させている。民進党が、自民党批判の受け皿にも政権交代の選択肢にもなれずにいる体たらくなので、その分存在感を増しているのだろう。/
 ただ、こうした日本の現状は、世界的には稀有な事例らしい。歴史資料収集家の福冨健一氏の著書『共産主義の誤謬』によると、先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという。米国や英国、ドイツ、イタリアなどでは共産党は国政の場に議席を持っていない。」
 なんとまぁ、無邪気なものだ。
 共産党をめぐる「日本の現状は、世界的には稀有な」こと、「先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという」ことをこの産経抄子さまは知らなかったようなのだ。
 今年になってからのフランス大統領選挙で、共産党候補の名は出ていたか?、ついでに社会党候補はどうだったか? 社共連立の社会党大統領だったのは1980年代のミッテランだったが、その後、フランス共産党が与党の大統領はもちろん皆無だ。
 ドイツやイギリスの国政・地方選挙に関する報道を見ても、「共産党」が存在しないか、政党要件に適合している容共産主義政党・政治団体がある程度活動しているくらいしかないのことは分かるだろう。ドイツには、「左翼党」(Die Linke)という政党はあり、「社会主義的左翼(Sozialistische Linke)」と称する分派?もあるらしい。少なくとも前者は、とくに旧東独地域で議席も持つ。
 天下の大新聞、産経新聞の「産経抄」子さまが、上の程度なのだから、他の産経新聞社の者たち、月刊正論編集部の菅原慎太郎らの共産主義・共産党に関する知識・認識の乏しさも理解できる。
 これまで何もコメントしていない、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞、2016.06)もヒドイもので、これでよく「研究」と名乗れたものだと思った。
 この本で面白かったのは、地方自治体の職員・議員(、ひょっとして部・課といった機構そのもの?)に対する「赤旗」拡大の実態くらいだった。このレベルで、日本では大手新聞社が<共産党研究>と掲げる書物を刊行できる。
 これが日本の容共産主義性の強さ、反共産主義性の弱さの実態だ。
 ところで、冒頭の「産経抄」は、知ってはいたが、福冨健一・共産主義の誤謬(2017)を宣伝するために敢えて上のように書いたのだろうか。そうだとすると、いろいろな宣伝方法があるものだ、と思う。
 しかし、この福冨健・共産主義の誤謬(2017)を私も入手して一瞥しているはずなのだが、私にとって新しい又は有益な情報を与える部分はたぶんなかったと思う。そうでなければ、何がしかの記憶に残っている。
 いずれにせよ、日本で本格的なまとまった共産主義研究書、日本共産党の(人文・社会科学的かつ総合的な)研究書はない。
 容易に新書(せいぜい二冊・上下本)くらいで邦訳出版されてもよさそうな、リチャード・パイプス・共産主義の歴史は、別のタイトルで目立たないように翻訳されている。
 Leszek Kolakowski の Marxism に関する大著の邦訳書もない。しつこく書いているが、この人のこの著だけではない。訳されてよいような共産主義・共産党(レーニンを当然に含む)批判的分析書は、かなり多く日本には、日本語になっては、入ってきていない。焦らないで、じっくりと紹介していく。
 そのような<文化>の一翼を担っているのが、産経新聞社だ。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
 ---
 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
 ------
 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
 ---
 ④へとつづく。

1526/「左翼」の君へ-レシェク・コワコフスキの手紙①。

 Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012)のうち、「第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼」の中にある、My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方〕の日本語への試訳を、以下、行ってみる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、文末に//を記す。
 他にも「社会主義とは何か ?」、「左翼の遺産」、「全体主義と嘘の美徳」、「社会主義の左翼とは何か ?」、「スターリニズムのマルクス主義根源」等の関心を惹くテーマが表題になっているものも多いが、これをまずは選んだ理由は、おそらくその内容によって推測されうるだろう。
 1974年の小論。書簡の形式をとっている。
 スターリンの死、フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱、中国の文化大革命、プラハの「春」があり、日本の大学を含む「学生」運動等もほぼ終わっていた。L・コワコフスキはイギリス・オクスフォードにいて、マルクス主義哲学の研究執筆をしていたかもしれない。
 ---
 My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方、1974年〕
 「親愛なる、エドワード・トムソン(Edward Thompson)君へ。
 この公開書簡でなぜとても楽しくはないかというと、君の手紙は(少なくとも同じくらい)個人的な態度とともに、考え方に関係しいるからだ。
 しかし、共産主義イデオロギーについてであれ1956年についてであれ、個人的な説明をして問題を済ませはしない。とっくの前に片付いている。
 だが、一緒に始めよう、過去のことを運びあげて、署名しよう…、と言うのだったら。//
 Raymond Williams による最新号の Socialist Register の書評に、君の手紙はこの10年間で最良の左翼の著作作品の一つだと書いてあった。それは直接に、他の全ては、またはほとんど全ては、より悪いと述べているようなものだ。
 Williams はよく分かっている、私も彼の言葉に従おう。
 たまたま私がその対象になっているとしても、ある程度は、この文章を書くに至ったのを誇らしく感じる。
 そう。だから、私の反応の一つめは、感謝だ。
 二つめは、<富者の迷惑>のようなものだ。
 君の100頁もの公開書簡に対して私が答えるのに話題を適正に選択しなければならないことを、君は私に詫びるのだろう(認めると思うが、君の書簡はうまく区切りされていない)。
 最も論争点になっているものを、取り上げることにしよう。
 興味深いのだが、君の自叙伝的な部分にコメントすべきだとは思わない。
 たとえば、休日にスペインへ行かない、費用の一部を自分の懐から支払わないで社会主義者の会議に出席するということはしない、フォード財団が財源支援した会議に参加しない、権威者の前で帽子を脱ぐのを年寄りのクェーカー教徒のように拒んだのは自分だ、等々と君は書いているが、私自身の徳目一覧からして答えるべきだと、助言されるとは思わない。この徳目一覧はたぶん厳格なものではないのだろう。
 また、New Left Review 〔新左翼雑誌〕から君は離れたという話だが、私がいくつかの雑誌のいくつかの編集委員会の全てを辞めた話でもって交換するつもりはない。これらは、とても瑣末なことだ。//
 三つめは、悲しさだ、と言いたい。
 君の研究分野について十分な能力はないが、学者そして歴史家としての君の高名は知っている。
 それなのに、君の手紙の中に、話したまたは書いた多くの左翼(leftist, 左翼主義者)の決まり文句(cliche's)があるのを知るのは残念なことだ。それらは、三つの趣向からできている。   
 第一、言葉を分析するのを拒み、意図的に考え出された言葉の混合物を問題を混乱させるために使う。
 第二、ある場合には道徳的なまたは情緒的な規準を、別の類似の場合には政治的または歴史的な規準を使う。
 第三、歴史的事実をそのままに受容するのを拒む。
 言いたいことをもっと詳しく、書いてみよう。//
 君の手紙の中には個人的な不満がいくつかあり、一般的問題に関する議論もいくつかある。
 小さな個人的不満から始めよう。
 リーディング(Reading)の会議に招かれなかったことで君は攻撃されたと感じているように見えるのは、また、かりに招かれれば深刻な道徳的根拠を持ち出して絶対に出席するのを拒んでいただろうと語るのは、とても奇妙だ。
 直感的に思うのだが、結局は、かりに招かれても同様に攻撃されたと感じただろう。だから、君を傷つけない方法は、会議の組織者にはなかったのだ。
 今書こう、君が持ち出す道徳的根拠とは、君がR・Sの名を組織委員会の中に見つけたということだ。
 そしてR・Sには不運だったのは、彼がかつてイギリス外交の業務で仕事をしていたことだ。
 そう、君の高潔さは、かつてイギリス外交に従事した誰かと同じテーブルに着くのを許さない。
 ああ、無邪気さに、幸いあれ! 
 君と私は二人とも、1940年代と50年代にそれぞれの共産党の活動家だった。我々の高貴な意図や魅惑的な無知(あるいは無知から逃れるのことの拒否)が何だったとしても、われわれの穏健な手段の範囲内で、人間社会で最悪の種類の奴隷的集団労働や国家警察のテロルを基礎にしている体制を、二人ともに支えた。
 このような理由で我々と一緒に同じテーブルに着くのを拒む、多数の人々がいるとは、思わないか ?。
 いや、君は無邪気だ。しかし私は、多くの西側知識人たちがスターリニズムへと改心していた『あの年月の政治の意義』を、君が書くようには、感じない。//
 スターリニズムについての君の気軽な論評から集めてみると、『あの年月の政治の意義』は、君にとってのそれは私のよりも明らかに鋭敏で多様だ。
 第一、スターリニズムの責任の一部(一部、これを私は省略しない)は、西側の諸国家にある、と君は言う。
 第二、『歴史家にとっては、50年では新しい社会体制について判断する時間が短かすぎる』、と君は言う。
 第三、『1917年と1920年代の初めの間、およびスターリングラードの闘いから1946年までの間に共産主義(コミュニズム)体制がきわめて人間的な顔を見せた時代ののような、新しい社会体制体制が発生しているならば』、と君が言うのを我々は知っている。//
 いくつか仮定を付け加えれば、全ては正当だ(right)。
 明らかにも我々が生きる世界では、ある国で重要なことが起きれば、それは通常は別の国々で起きることの一部に影響を与える。
 ドイツ・ナチズムについての責任の一部はソヴィエト同盟にあった、ということを君はきっと否定しないだろう。
 ドイツ・ナチズムに対するソヴィエト同盟の影響を、君はどう判断しているのだろうか ?//
 君の二つめのコメントは、じつに啓発的だ。
 『歴史家にとっては』50年とは、何のことか ?
 私がこれを書いている同じ日にたまたま、1960年代(1930年代ではない)の初めにソヴィエトの監獄と強制収容所にいた体験を綴った、アナトール・マルシェンコという人の本を読んだ。
 この本は1973年に(ドイツ・)フランクフルトで、ロシア語で出版された。
 ロシア人労働者の著者は、ソヴィエトからイランへと国境を越えようとして逮捕された。
 彼は幸運なことに、J・V・スターリンの遺憾な(そう、正面から見つめよう、西側諸国に責任の一部があったとしても遺憾な)誤りが終わっていたフルシチョフの時代にこれをした。
 そして、彼はわずか6年間だけ、強制収容所で重労働をした。
 彼が物語る一つは、護送車から森の中へ逃げようとした3人のリトアニア人囚人に関してだ。
 3人のうち2人はすぐに見つけられ、何度も脚を射撃され、起ち上がるように命じられ(彼らはそうできなかった)、そして、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。
 最後に、2人は警察の犬によって噛まれ、引き裂かれた(資本主義が存続している、娯楽映画のごとくだ)。
 そうしてようやく、銃剣で刺し殺された。
 このような事態の間、ウィットに富む役人は、次の類いのことを述べていた。『さあ、自由なリトアニア人、這え、そうすればすぐに独立をかち取れるぞ!』。
 3人めの囚人は射撃され、死んだと囁かれて、荷車の死体の下に放り込まれた。
 生きて発見されたが、彼は殺されなかった(脱スターリニズム化だよ!)。しかし、数日間は、傷が膿んでいるままで暗い小部屋に入れられて放置された。
 彼は、腕が切断されているという理由だけで、生き延びた。//
 これは、君が今でも買える多数の本で読める、数千の物語の一つだ。
 知識ある左翼エリートたちは、こうした本を、進んで読もうとはしていない。
 第一に、たいていは、重要でない。
 第二に、小さく細かい事実だけを提供する(結局のところは、何らかの誤りがあることを我々は認める)。
 第三に、それらの多くは、翻訳されていない。
 (ロシア語を学習した西欧人に君が会うとして、少なくとも95%の率で血なまぐさい反応に遭うということを、君は気づいたか ? ともあれ、彼らは賢い。)//
 そして、そうだ。歴史家にとって50年、とは何のことだ ?
 50年というのは、著名ではないロシアの労働者であるマルシェンコの人生、本を出版すらできなかったもっと無名のリトアニアの学生の人生、を覆ってしまう長さだ。
 『新しい社会制度』に関する判断を急がないことにしよう。
 チリやギリシャの新しい軍事体制の良い点を査定するのに、いったい何年が必要なのかと、確実に君に質問することができるだろう。
 だが、私には君の答えが分かる。どこにも類似性がない。-チリとギリシャは資本主義の中にとどまっており(工場は私人が所有し)、一方のロシアは新しい『もう一つの選択肢のある社会』だ(工場は国家の所有で、土地も、居住している全員も)。
 真正な歴史家であるならば、もう一世紀を待てるし、わずかばかり感傷的だが慎重に楽天的な歴史知識を維持し続けることができるだろう。//
 いや、もちろんそうではない。
 ---
 ②につづく。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

0570/小林よしのり・パール真論(小学館)の一部からの連想。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)の主テーマ・主論旨とは無関係だが、次の言葉が印象に残った(初出、月刊正論2008年2月号(産経新聞社))。
 「『反日』を核として国家の正当性を維持するしかないという厄介な国が、ヨーロッパにではなく、アジアにあった、それがドイツの幸運であり、日本の不幸であった」(p.83)。
 小林よしのりはここで中国と韓国を指しているようだが、北朝鮮も含めてよいだろう。
 たとえばサルトル以降の「左翼」フランス思想等のヨーロッパからの「舶来」ものを囓っている者たちは強くは意識しないのだろうが、日本は欧州諸国とは異なる環境にある。ドイツにせよフランスにせよ、日本にとっての
中国、韓国や北朝鮮にあたる国はない。異なる環境にある日本を、現代欧州思想でもって(又は-を参考にして)分析しようとしても、大きな限界がある、ということを知るべきだ。
 やや離れるが、欧州に滞在するのは、ある意味でとてもリフレッシュできる体験だ。なぜなら、ドイツにもイギリスにもイタリアにも「…共産党」がない。フランス共産党は現在では日本における日本共産党よりも勢力が小さいといわれる。また、日本共産党的組織スタイルの共産党が残るのはポルトガルだけとも言われる。
 そういう地域を、つまり共産党員やそのシンパが全く又は殆どいない地域を旅すること、そういう国々に滞在することは何とも気持ちがよいことだ。むろん、デカルト以来の<理性主義>や欧州的<個人主義>の匂いを嗅ぎとれるような気がすることもあって、「異国」だとはつねに感じるが。
 <左翼>系新聞はあるだろう。しかし、多くはおそらく社会民主主義的<左翼>で、日本の朝日新聞のような<左翼政治謀略新聞>は日本のように大部数をもってはきっと発行されていない(たぶん全ての国で、日本のような毎日の「宅配」制度がない)。すべての言語をむろん理解できないにしても、これまた清々(すがすが)しい。
 というわけで、しばしば欧州に飛んでいきたい気分になる(アメリカにも共産党は存在しないか、勢力が無視できるほどごく微小なはずだが)。先進資本主義国中で、日本はある意味で(つまり元来は欧州産の共産党とマルクス主義勢力―正面から名乗ってはいなくとも―がかなりの比重をもって東アジアに滞留しているという意味で)きわめて異様な国だ、ということをもっと多くの日本の人びとが知ってよい。

0542/樋口陽一-この人が日本の憲法学界を代表している(いた)ならば、悲劇。

 樋口陽一・ほんとうの自由社会とは(岩波ブックレット、1990)について、前回(6/09)のつづきの最終回。
 ①樋口は、「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)は所詮西欧近代のものだという反発はあるが、西欧近代に問題があったとしても(植民地支配等)、「それ自体は普遍的な価値をもつ」ことを「やはりためらうことなく主張すべきだ、というのが私の考え」だ、と明言する(p.57)。
 憲法前文に書いていること自体もなお抽象的なので、じつはこの「普遍的な価値」なるものの理解自体にも具体的には分かれが生じうると考えられるが、この点は措く。
 奇妙だと思うのは、上の主張(考え)を、樋口が、「丸山先生のご指摘のとおりです」と言って、丸山真男の次のような言葉によって正当化しようとしていることだ(p.60-2、樋口の文章自体が丸山のそれのそのままの引用ではない)。
 <西欧本籍で普遍的ではないと主張する者は、思想・価値の「生まれ」・「発生論」の問題と「本質」の問題を混同している。「何よりもいい」例は、西欧社会の中軸にある「キリスト教」は「非西欧世界」から生まれてきた、ということだ。>
 この理屈又は論理は誤っている。いくら「何よりもいい」例があったとしても、ある地域・圏域に「生まれた」ものが世界的に又は「人類」に普遍的なものに必ずなる、という根拠には勿論ならない(しかもそこでの例は「西欧」社会に普遍的になったというだけのことで、「世界」・「人類」に対してではない)。せいぜい、なりうる、なることがある、ということに過ぎない。従って、樋口の主張(考え)は一つのそれであるとしても、むろん<普遍的に>主張でき相手方を説得できるものでは全くない。内容というよりも、丸山真男の名前を持ち出せば少しは説得力が増すかのごとく考えているいるような、<論理>の杜撰さをここでは指摘しておきたい。
 ②樋口は、「べトナム民主共和国」の1945年の独立宣言がフランス人権宣言とアメリカ独立宣言を援用していると指摘して、欧米に「普遍的」なものがアジアでも採用された、と言いたいようだ(p.57)。
 社会主義ベトナムの建国文書がフランスやアメリカの文書に言及していても何の不思議もない。一つは、文書上、言葉上なら、何とでも言えるからだ。樋口陽一はこの国が「ほんとう」に「民主」共和国だったのかに関心を持った方がよかったのではないか。二つは、これまで何度も触れたように、フランス革命と「社会主義」(革命)には密接な関係があるからだ。
 樋口は何気なく書いているだけのようなのだが、じつは、樋口が「べトナム民主共和国」という社会主義国の存在を何ら嫌悪していない、ということも上の文章の辺りは示している。
 「べトナム民主共和国」の人権・自由・民主主義の実際の状況には関心を寄せず、あれこれと知識を披瀝し最高裁判決等の情報も提供しつつ、日本を<自虐的に>批判しているのがこの冊子だ。
 ③樋口は、イランの事例に言及したあとで、「昭和天皇に戦争責任がある」と議会答弁した長崎・本島市長が銃撃された事件等を念頭に、「異論をゆるさない風土という点で似通っているのではないか」、と日本(社会)を批判している。
 なるほど異論を持つ者に対する暴力行使は許されないことだろう(その例として「右から」のそれのみを挙げるのはさすがに樋口らしいところだ)。だが、やはり、<何を寝呆けたことを言っているのか>という感想をもつ。
 樋口がその名で刊行している岩波ブックレットそのものもそうだが、日本ほどに「異論」を表明することができる国家は数少ないのではないか。ドイツ・イギリス・アメリカには共産党自体が存在しない(その系統を引く政党はあるかもしれないが、マルクス=レーニン主義をそのまま謳ってはいない)。日本には日本共産党が存在し、またかつてはマルクス主義派を「左派」とする日本社会党も存在して、西欧・米国では考えられないような「異論」を述べていた。フランス「社会党」もドイツ「社民党」もアメリカとの軍事同盟に賛成しているし、フランス「左翼」は自国の核保有にも賛成している。欧米に見習うべきと強く主張している樋口陽一ならば、そういう欧米の「左翼」にも学ぶべきだろう。ともあれ、日本の「左翼」は欧米の「左翼」ならば主張しないだろうような「異論」を自由に述べてきている。日本の一部に見られる暴力的「自由」侵害の例を持ち出して、日本の「異論をゆるさない風土」を語るとは、何とも錯乱的な認識であり、自虐的な日本観だ。
 「異論」の表明自体によってただちに、国家権力によって生命を剥奪される危険性が充分にある「社会主義」国家が現に存在していることを、樋口陽一は全く知らないのだろうか。「異論」の表明に至らない、「不服従」の態度だけで家族ぐるみで<政治犯収容所>に入れられて餓死の危険と闘わなければならない人びとが現にいる国もあることを、樋口陽一は全く知らないだろうか。
 自分は「自由な」日本にいて、書斎の中で「異論」を書き散らし、あるいは安全な施設の中で「異論」を講演したりしておいて、よくぞまぁ日本は「異論をゆるさない風土」だなどと気易く言えるものだ。呆れる。こんな人が日本の憲法学界の代者の一人だ(だった)とすれば、日本の憲法学界は殆どが<狂って>いるのではないか、というじつに悲しい感想を持ってしまった。

0484/フーコー、狂人と言わなくとも「奇矯な」<左翼>思想家、と桜井哲夫。

 桜井哲夫・フーコー―知と権力/現代思想の冒険者たちSelect(講談社、2003)のある程度の範囲を概読した(学習するが如く熟読するつもりはない)。
 フーコー(1926~1984)は勿論のこと「現代思想」に詳しいとは自分を思っていないので当然に専門家に伍した議論はできないだろうが、それでもフーコー(の「思想」)の概略は把握できる。
 別の回でも言及する可能性があるので記しておくが、この本には、Aフーコーの言説をそのまま(又はほとんどそのまま)直訳又は引用している部分、B著者(桜井)がフーコーの言説を要約してまとめて紹介している部分、C引用・紹介ではなく、著者(桜井)自身のフーコーの分析・論評が書かれている部分がある。そして、BとCは区別がつきにくいと感じる場合もないではない。
 さて、 フーコーは「かつて共産党に所属」していた(フーコー自身の言葉、p.181)。
 「フーコーの師のひとり」のアルチュセールはフランス共産党の党員で(まえがき、p.214)、アルチュセールの某論文を「骨格」とした本をフーコーは著した。桜井によると前者の「国家のイデオロギー装置」はフーコーの「真理の志というシステム」のことだ(p.214-5)。
 フーコーと「二十数年にわたって同居」したダニエル・ドゥフェール(男性)は「元毛沢東派活動家」だった(p.16-17、p.214)。
 フーコーはサルトルを批判しもしたが、1969年の騒乱?後のソルボンヌ大学学生の退学や起訴に対してサルトルと並んで抗議のデモ行進をした(p.199-200)。
 以上のことからでも、フーコーが(精神的に)馴染んでいた「空気」を推察することはできる。党派的にいうと、フランス<左翼>思想家と位置づけられることは間違いないだろう。最終的にはフランス共産党か社会党かはよく分からないが、そのどちらでもなく、日本の1960年代末以降1970年代半ばくらいまでに頻繁に言われた「新左翼」なるものに最も近いのかもしれない。
 教条的又はスターリニスト的マルクス信奉者ではなかったようだが、マルクスからの「解放」のあとのマルクスの「読み直し」や「よみがえり」もフーコーについて桜井は言及しており(仔細省略、p.146-、p.162-、p.188-等々)、マルクスに起源をもつ<マルクス主義の変種>の思想家と評しても大きくは誤っていないものと思われる。
 フーコーの性的嗜好や死の原因(桜井は断定的書き方をしている)にはあえて触れないでおくが、「性」や「肉体」にかなりの関心を向けていたフーコーの本は、<多様なライフスタイルが選択できるように>などとも主張している日本のフェミニスト、少なくとも「左派」フェミニストに好んで読まれている可能性がある。桜井によると、「フーコーは『ジェンダー』についてフェミニストの研究者たちがおこなった業績を、『性』に関して打ち立てたのだといえるだろう」(p.287)。桜井は「ジェンダー」概念がまともなものではないことを知らないかの如き書き方をしているが、立ち入らない。
  「思想」(・哲学)について著書をものにし多数に読まれた思想家(・哲学者)は誰でも<偉大>だ、と評価することはむろんできない。何やらむつかしそうな、凡人には理解出来そうにないことを書いていることが<尊敬>の対象になるわけでもない。むろん人(主体としてであれ対象としてであれ)によって評価は分かれるのだが、社会・人間・歴史に対して<悪い>影響を与えた・与えている(と評価されるべき)思想家(・哲学者)もいることは当然のことだ。
 読み囓りではあるが、そして別途フーコーの本の邦訳書も所持しているので、私もまた武田徹と同様に「フーコーの言説を引用」できる状態にはあるのだが(面倒くさいのでここには引用しない)、フーコーは、狂人とは言わないが、<奇矯な>思想家だ、というのが、最も簡潔な印象だ。
 桜井哲夫(1949~)が、専門というタコ壺に入りきらないフーコーに接して感動したというのは解らなくはないし、「一人一人の内面の探求からこそ」いかなる学問研究も始まるのだと大言壮語する(p.298)のも<気分>としては理解できそうだ。
 しかし、「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」して、「日本の現実」を分析したり「日本の歴史」を「従来のイデオロギーの呪縛から解き放って書き換える」べく「知的努力」を傾ける(のが「われわれに必要」だ)(p.298)などと言わない方がよい。いくら「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」しても適切な結果をもたらすとは思えない。桜井が自ら上の如き「知的努力」を傾けて、日本の現実や歴史を実際に「分析」する又は「書き換え」る作業をしてみたらどうか(自分の言葉には自分で責任をとれ、と言いたい)。
 そのような桜井哲夫が書く「まえがき」自体に、素人の私でも容易に指摘できる奇妙さが含まれている。桜井は述べる。
 ・「フーコーの仕事は、つねに新しいといわざるをえない」。「つねに既存の枠組みへの挑戦であり続けたから」。
 ・「新しい」とは「時代に迎合」せず、「時代に」「『否』を突きつける営為」で、そうした「知的努力」こそが「世界に新たな可能性を生み出してきた」。
 ・「フーコーの仕事を吟味すること」は、「新しい知的可能性を生み出す第一歩でなくてはならない」。
 自らの仕事の積極的な意味・意義を何とか見出したいという<気持ち>は解るとしても、以上の叙述は奇妙だ。
 すなわち、「新しい」ものであれば、あるいは時代に「否」を突きつける行為であれば、なぜそれらすべてが肯定的に評価されるのか?「世界に新たな可能性」とか「新しい知的可能性」とか言っているが、その<新しい可能性>が、人間・社会・歴史にとって<よい>ものである保障はどこにあるのか? たんに「時代」・「世界」・「知」を掻き混ぜて混乱させるだけのものもあるだろうし、決定的に<悪い>方向へと(「新しく」)導く「知的努力」又は「営為」もあるのだ(余計ながらマルクスもレーニンも毛沢東も金日成も、それぞれに独特の「新しさ」をもっていた)。
 「新しけりゃよい」なんてものではないことは、<伝来的なもの>(伝統的・歴史的に今日まで継承されている事物・精神)の中にも大切なものはありうる、と考えるだけでも分かる。
 こんなことくらい大学教授、社会学者、近現代歴史・社会・文化評論家(著者紹介による)ならば容易に理解できる筈だと思われる。フーコーは「つねに新しい」、ということは(それが正しい理解だとしても)、彼を積極的に「吟味」することの意味・必要性を肯定する根拠には全くならない。
 <新奇>あるいは<珍奇>な言説や思想らしきものは絶えず生じてくる。それらの中から、貴重な<宝石>を発見し吟味する必要はあるだろう。フーコーがそれである(あった)とは、とても思えない。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
  • 0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
記事検索
最新記事