秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産党

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
 ----
 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
 ----
 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
 ----
 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
 ----
 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
 ----
 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
 ----
 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
 ----
 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
 ----
 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
 ----
 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
 ----
 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
 ——
 ③へと、つづく。

2567/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第二節・1920-21年の農民大反乱。
 (01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
 この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
 これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
 そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
 戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
 ---- 
 (02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
 1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
 住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
 その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
 非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
 労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
 ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
 共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
 当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
 ----
 脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
 これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
 ----
 (03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
 そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
 政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
 農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
 1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
 それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
 ----
 (04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
 ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
 共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
 内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
 「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
 内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
 だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
 共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
 ----
 (05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
 このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
 内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
 この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
 ----
 (16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
 その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
 共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
 実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
 レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)  
 共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
 戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
 近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
 反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
 -----
 (17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
 帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
 しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
 かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
 ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
 白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
 しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
 1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
 トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
 しかし、事実は、否定できなかった。
 1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
 レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
 そして、その海は、激しく荒れていた。//
 ----
 (18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
 しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
 一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
 あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
 もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
 同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
 農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
 労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
 そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
 これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
 ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
 「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
 これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
 ----
 後注
 (08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
 (09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕 
 (10) Ibid., p.673.
 (11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
 (12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
 (13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
 (14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
 (15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
 (16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
 (17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
 (18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
 (19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
 (20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
 (21) RR, p.558-565.
 (22) Desiatyi S"ezd, p.347.
 (23) Ibid., p.350.
 (24) 上述、p.113.
 (25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
 (26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
 (27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
 (28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
 ——
 第二節、終わり

2553/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑨。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第六節。
 (01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
 二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
 政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
 ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73) 
 Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
 歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
 ----
 (02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。 
 入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
 Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
 9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
 彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
 それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
 彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
 従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
 「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
 かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
 最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
 ----
 (03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
 彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
 全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
 「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
 ----
 (04) 儀式は、週末までつづいた。
 黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
 数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
 だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
 多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
 祭壇が一つ、途中に設置されていた。
 訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
 ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
 何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
 ----
 (05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
 飢饉は公的に承認され、記憶された。
 それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
 良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
 子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
 学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
 記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
 理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
 ——
 第15章全体が、終わり。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
 ----
 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
 -----
 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
 ----
 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
 ----
 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
 ----
 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
 ----
 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
 ----
 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
 ----
 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
 —— 
 第15章第五節、終わり。

2550/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
 ----
 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
 ----
 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
 ----
 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
 ----
 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
 ----
 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
 ----
 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
 ----
 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
 ----
 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
 ----
 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
 ——
 第15章第四節、終わり。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
 ----
 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
 ----
 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
 ----
 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
 ----
 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
 ----
 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
 ——
 第四節、終わり。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。

2331/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・第16章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.774-6。注記の箇所だけ記して、その内容(ほとんど参照文献の指示)は省略する。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。 
 (4) 死はありふれたことだったので、人々はそれに慣れてきた。
 路上の死体を見ても、もう注意を惹かなかった。
 殺人はほんの僅かの動機から起きた。—数ルーブルの窃盗、行列飛ばしを原因として。さらには、たんに殺人者の娯楽のために。
 7年間の戦争によって、人々は残虐になり、他人の苦痛に対して無感覚になった。
 1921年、Gorky は、赤軍出身の兵士たちに尋ねた。「人を殺すときには落ち着かないのでないか?」
 「いや、そんなことはない。『相手は武器をもち、自分も持っている。そして、喧嘩になったとする。お互いに殺し合って、土地が広くなるなら、いったいそれがどうだというのだ。』」
 第一次大戦中にヨーロッパでやはり戦ったある兵士は、Gorky に、外国人を殺すよりはロシア人を殺す方が簡単だ、とすら言った。
 「我々は民衆の数が多く、経済は貧しい。村が一つ焼かれるとして、なんの損失か?
 放っておいても、村は自然に崩れ落ちるだろう。」
 生命の価値は安くなり、人々は互いに殺し合うことについて、ほとんど何とも思わなかった。あるいは、その者たちの名で数百万人を殺している他人についてすら。
 ある農民が、1921年にウラルで仕事をしていた科学的調査団に対して尋ねた。
 「きみたちは教養がある。おれに何が起こるのか、教えてくれ。
 Bashkir 人がおれの雌牛を殺した。それで、<もちろん>、そのBashkir 人を殺し、彼の家族から雌牛を奪ってやった。
 教えてくれ。雌牛を盗んだとして、おれは罰せられるのか?」
 調査団が、その男を殺したことで罰せられるとは思わなかったのか、と尋ねた。農民はこう答えた。
 「全く。今では人間は安い。」//
 (5)別の物語が伝えられている。—何の明白な理由もなく自分の妻を殺した夫についての話だ。
 その殺人者の説明は、「彼女に飽きた。それで終わりだ」というものだった。
 まるでこの数年間の暴力が、人間関係を覆っていた薄い膜を引き剥がして、人間の原始的な動物的本能を曝け出したごとくだった。
 人々は血の匂いを好み始めた。
 サディスティックな殺戮方法の嗜好が発展した。—これは、Gorky が専門とする主題だった。/
 「シベリアの農民は穴を掘って、赤軍受刑者を逆さまに入れて、膝から上を地上に出した。そして、その穴を土で埋めて、犠牲者の足が痙攣してなおも抵抗しているのを観察した。生きていた者は最後には死んだだろう。/
 タンボフ地方では、共産党員たちが、地上1メートルの木に鉄道用の大釘で左手と左足を釘づけにされた。人々は、わざと奇妙な形で磔にした者が苦しむのを眺めた。/
 人々はある受刑者の腹を割いて小腸を取り出し、それを木か電柱に釘で打ちつけ、その男を殴打して木の周りを回らせ、腸がその負傷した男の身体から解かれていくのを、観察した。/
 人々はまた、捕えた将校を衣類を剥ぎ取って裸にし、肩の皮膚の一片を肩紋の形に引き裂いて、〔肩章の〕星の場所に押し込んだ。そして、剣帯とズボンの線に沿って皮膚を剥ぎ取ることになる。—この作業は「制服を着せる」と称された。
 疑いなく、長い時間と相当の技巧を必要とするものだった。(*4)
  (6)この時期の単一の最大の殺人者は—約500万人の生命を奪ったと算定されている—、1921-22年の飢饉だった。
 どの飢饉でも同じだが、ヴォルガ大飢饉は人と神によって惹き起こされた。
 ヴォルガ地帯はその自然条件によって収穫が十分でないことが多かった。—そして近年では1891-92年に凶作が多く、1906年と1911年に数回の凶作があった。
 夏の旱魃と極端な冷気は、平原地帯の気候では定期的に起きることだった。
 春の突風は砂の表土を吹き飛ばし、収穫を減少させた。
 1921年のヴォルガ飢饉には基礎的条件があった。1920年の凶作は、一年にわたる厳しい冷気と灼熱の夏の旱魃によって、平原地帯に巨大な黄塵が発生したことで起きた。
 春頃には、農民たちが前年に続いて二回めの凶作の被害を受けることが明確になった。
 種の多くは霜が降る寒気で駄目になった。また、現れていた新しい収穫の兆しは、見たところでも草のようにひ弱くて、バッタと野ねずみに食われてしまった。
 悪くはあったが、こうした自然環境の中での異常は、まだ飢饉の原因となるものとは言えなかった。
 農民たちは凶作に慣れていて、つねに穀物を大量に貯蔵していた。しばしば、非常時に備えて、共同集落の貯蔵小屋に。
 内戦時の穀物徴発(requisitioning)によって、自然が災害をもたらす以前に、農民経済が破綻の縁に達していたことが、1921年の危機を大災難に変えた。
 農民たちは徴発を回避するために、生活を維持するだけの生産へと逃げ込んだ。—自分たちや家畜が生きていき、種を保存するのに十分なだけの栽培しかしなくなっていた。
 言い換えると、ボルシェヴィキが奪ってしまうことを怖れたがゆえに、彼らは、安全のための余裕を、つまり過去の悪天候の際には守ってくれたような保留分を残さなかった。
 1920年に、ヴォルガ地帯の種撒き面積は1917年以降の4分の1に減少していた。
 だが、ボルシェヴィキは、さらに—余剰のみならず、生命にまでかかわる食糧貯蔵分や種子まで—奪い(徴発し)つづけた。その結果として、凶作の場合には農民の破滅という結果になることが必然的である程度にまで。(*5)
 **
 ③につづく。
 

2312/J・グレイの解剖学(2015)⑥—Tismaneanu01。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳を1年ぶりに再開する。この書は計7部で46の章に分かれているが、それぞれが独立しているので、任意に選択している。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
 ①ではL・コワコフスキ、②〜⑤ではEagleton とHobsbawm に関する章を取り上げて試訳した。
 →①コワコフスキ
 →②ホブズボーム
 ----
 第7部/第41章・歴史の中の悪魔①。
 (01) ソヴィエト同盟で1918年1月に発布された<労働被搾取人民の権利の宣言>では、「過去の者たち」と見なされた人々は権利を剥奪された。
 Vladimir Tismaneanu はこの宣言について<歴史の中の悪魔>(注)で論じて、こう書く。
 ボルシェヴィキ用語で陳腐となった「byvshie liudi (過去の者たち)という語は、この語で表現される者は全くもって人間ではない、と示唆するという一致があるとは、ほとんで考えられていなかった。」
 権利を奪われた集団というのは、不労所得で暮らしを立てたよそ者の階級である帝制警察の職員、軍人たちや、すでに挙げた人々に経済的に依存する全宗教の聖職者たちを含むものだった。
 (多くの者にとって生活維持の主要な源だった)配給システムから除外され、資産没収を免れそうになく、公的官署への就職を禁止されて、この範疇に入る人々は—過去の者たちは世襲の条件のもとにあると理解されたがゆえに、その家族とともに—、社会から排除された。 
 Tismaneanu は、書く。「範疇分けのシステムは、後年につづいたテロルの先がけとなる分類法だった」。
 ある人間の集団には通常は人間であることに随伴する道徳的評価を否定して、この行為〔範疇分け〕は、過去の人間の残滓からなる社会を一掃する、ソヴィエトの企図の基盤を形成した。
 (02) 共産主義とファシズムは重要な点で同一だ、というのは、Tismaneanu の考えの基盤の一つでもある。
 彼には、つぎのことが明瞭だ。
 「共産主義はファシズムでは<ない>、そしてファシズムは共産主義では<ない>。
 全体主義の実験のいずれも、それら自身の独自の性格をもつ。」
 そうではあるが、これら二つは、大量殺戮を社会を操作するための正当な手段と見ることで、似ている。
 「共産主義は、ファシズムのように、一定の人間集団を正当に殺害することができるという確信にもとづいて、疑いなく、代わりとなる非リベラルな、その新しいものを構築した。
 共産主義者の構想は、ソヴィエト社会主義共和国連邦、チャイナ(中国)、キューバ、ルーマニアあるいはアルバニアのような諸国で、一定の社会集団は非礼で異質であり、正当に殺害することができるという確信に、まさに基づいていた。」
 (03) これは、20世紀の全体主義に関する議論での中心的論点となる考察だ。
 イタリアのファシズム理論家のGiovanni Gentile —全体主義を意味する制限されない統治システムを承認した—によって最初に展開されて以降すでに、この概念をめぐって多数の論争が生じた。
 共産主義とファシズムを多くの者が見れば、その構造、目標、支配する思想はあまりに似ていないために単一の範疇に含めることができず、ある者たちは、冷戦時の戦いを正当化するものにすぎないと見た。この概念は広く異論が唱えられて、顕著に流行遅れのものに変わった。—アカデミックな文脈では、破壊的に最終的な却下だった。
 全体主義の諸体制で生きてきた人々にとって、このことは、当惑させる成り行きだった。
 Tismaneanu は、生き生きと自分自身の経験を書く。
 彼は、ファシズムに抵抗する闘いの役割をもった共産党活動家となったユダヤ人の両親の子どもだった(父親はスペイン内戦で腕を失くし、母親は看護師として働いた)。
 彼は、十代のルーマニア共産党員のときに全体主義について最初に考え始め、密かに流布されていたArthur Koestler の<真昼の暗黒>を読んだ。
 のちに、ブカレスト大学の社会学の学生として、彼は、Raymond Aron、Hannah Arendt、Isaiah Berlin、Leszek Kolakowski のような著者や、その他の反全体主義の思想家の書物を何とか入手することができた。
 また、自分で「西ヨーロッパの文化的伝統」と呼ぶものに引き込まれ、彼は、<フランクフルト学派>について博士号論文を書いた。
 1981年にルーマニアを離れ、合衆国に定住して、ニコライ・チャウシェスクが頂点に登りつめた以降の原則的基盤にもとづいてルーマニアを再検討した。
 2006年、彼は共産主義独裁制の活動を検証するために設置された〔ルーマニア〕大統領の委員会の長になった。この指名は異論も呼び起こした。とりわけ、彼の両親と彼自身の共産党員だった過去を理由としてだ。
 (04) Tismaneanu はスターリニズム、ナショナリズム、そして全体主義に関して多数の研究書を刊行したが、それらは、チャウシェスク体制と彼の心を奪った戦時中のファシズムの間の類似性(parallels)に関するものだったように見える。
 「ルーマニアはマルクス主義の教義に託した社会主義国家であり、とくに1960年以降は明白に左翼だったけれども、支配党は、戦時中の<極右>の主題、発想、そして強迫観念(obsession)を抱き始めた」。
 チャウシェスクが権力を握った1965年以降、「イデオロギーは、レーニン主義の残余と公然とは語られないが間違いなくファシズムの、混合物(blend)となるに至った」。 
 Tismaneanu が悟ったように、「これは明らかな逆説だった」。
 ヨーロッパのファシズムは、狂気と悪辣な思想の寄せ集めだった。—とくに、聖職者権威主義、反リベラルのニーチェ的無神論、「血で思考する」新原始主義カルト、技術に対する近代主義的崇拝
 しかし、自民族中心のナショナリズム、人種差別主義、反ユダヤ主義は、それらのあらゆる変種とともにファシズムの特質だった。そしてそれは、<歴史の中の悪魔>の基盤を形成するこれらの極右の主題を、共産主義が抱きかかえたものだった。
 彼の両親がファシズムに抵抗するために共産主義勢力に加わったのだとすれば、Tismaneanu は、共産主義はファシズムの明確な特徴のいくつかを共有しているという事実に取り組んだ。//
 ----------
 (注) Vladimir Tismaneanu, 歴史の中の悪魔—共産主義・ファシズムと20世紀のいくつかの教訓(California University Press, 2012).
 ——
 ①、終わり。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
 ----
 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
 ----
 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
 ----
 第5節②へとつづく。

2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
 ---------------
 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
 ----
 ②へとつづく。

2154/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。第6節まであるうちの、第5節へ。
 ----
 第5節・マルクス主義と「新左翼」①。
 (1)いわゆる新左翼に看取することができるのは、一つはマルクス主義の語法の一般化だ。また一つは、マルクス主義の教理の解体と現代の社会的諸問題に対応する能力をマルクス主義が持たないことだ。
 新左翼に属すると主張したり、他者がその一部だと見なしたりしている全てのグループとセクトに共通するイデオロギー的特徴は何か。これを明確に語るのは困難だ。
 この革命的な希望を持つ名前の一つのグループは、1950年代遅くにフランスで生まれた(Parti Socialiste Unifié〔統一社会党〕は、ある程度はこれから発生した)。そして、類似のグループが、イギリスと他諸国で結成された。
 この運動の触媒となったのは、ソヴィエトの第20回党大会のほか、おそらくはもっと大きな程度で、1956年のハンガリー侵攻とスエズ危機だった。
 イギリスでの刊行物は<新理論家(New Reasoner)>と<大学・左翼の雑誌>で、これらはのちに<新左翼雑誌(New Left Review)>に統合された。
 新左翼は一般にスターリニズムを、個別にはハンガリー侵攻を非難した。しかし、ソヴィエト・システムの「頽廃化」は不可避であるか否かや現存する共産主義諸党の政治的、道徳的かつ知的な再生の展望はあるかに関して、彼ら内部での見解は異なっていた。
 彼らは同時に、労働者階級のイデオロギーとしてのマルクス主義を信頼していることを強調した。そして、その中には、レーニン主義の信奉を表明する者もいた。
 彼らはまた、注意深く、自分たちのスターリニズム批判を社会民主主義者や右翼とは区別し、「反共産主義者」へと分類されるのを避けようとした。
革命的でマルクス主義的な気分(ethos)を維持して、スターリニズム批判を西側帝国主義、植民地主義および軍備競争に対する新たな攻撃に適合させようとした。
 (2)新左翼は、諸共産党内に論争を巻き起こし、イデオロギー的論議を一般的に復活させることに貢献した。しかし、きわめて一般的な言葉遣いによるのを除けば、社会主義に関する、何らかの代替的モデルを作り出したとは思えない。
 「新左翼」という呼称は、大小はあれ毛主義者やトロツキストその他のグループを含む、既存の諸党派の外で「真の共産主義」を復活させようとする、多様な異端的論者によって使われた。
 フランスで<左翼>(gauchiste)という語を用いたのは通常は、レーニン主義的「前衛」党を含む、全ての形態の権威に対抗することを強調するグループだった。
 スターリン後の時代にはトロツキー主義の一定の復活があり、多数の分派集団、分離「インターナショナル」等の結成に至っていた。
 「新左翼」という語は1960年代には、ヨーロッパや北アメリカで、学生イデオロギーに対する集団的呼称として通常は用いられた。そのイデオロギーは、ソヴィエト共産主義と同一のものではなく、しばしば明確にそれを否認するものだったが、世界的な反資本主義革命の用語法を使い、モデルまたは英雄像として主として第三世界に注目していた。
 こうであっても、この新左翼イデオロギーは、その名前にふさわしい何らかの知的な成果を生み出さなかった。
 その特徴的な傾向は、つぎのように叙述することができるだろう。
 (3)第一に、彼らは、革命のための社会的「成熟性」という観念はブルジョア的欺瞞だ、と主張する。
 適確に組織された集団は、どの国でも革命を起こして、社会的諸条件の急進的な変革をもたらすことができる(「今ここにある革命」)。
 待たなければならない理由はない。
 現存する国家と統治するエリートたち(élite)を、将来の政治的経済的組織に関する議論をすることなくして、力(force)によって破壊しなければならない。
革命は、適切な時期に、それを決定するだろう。
 (4)第二に、現存秩序は例外なく、全ての側面で、破壊するに値する。すなわち、革命は世界的で、全面的で、絶対的で、無限定のものでなければならない。
 全面的(total)革命という考えが大学で開始されたとき、その最初の攻撃対象は当然に、「封建的」大学制度、その知識と論理的技術だった。
 雑誌、冊子、パンフレットで、革命家は自分たちの要求や言葉の意味を説明するよう求めてくる教師たちと議論する必要はない、と宣言された。
 学生たちに試験に合格し何よりも学科目を学習するよう要求するのは非人間的抑圧だとして、それからの「解放」を謳う、多くの言葉があった。
 大学や社会での全ての改革に反対することも、革命的義務だった。すなわち、革命は普遍的でなければならない。従って、部分的な改革は何でも、既得権益層の陰謀だ。
 全てが変革されるか、何も変革されないかのいずれかだ。なぜならば、ルカチやマルクーゼが言い、フランクフルト学派が教えるように、資本主義社会は分別不可能な一体なのであり、その全体だけを変革することができる。//
 (5)第三に、ブルジョアジーによって回復不能なほどに堕落させられた労働者階級を信頼することはできない。
 現時点では、学生は社会の最も抑圧された層だ。そのゆえに、最も革命的だ。
 しかしながら、全ての者が抑圧されている。ブルジョアジーは労働愛好教(cult)を導入した。よって、まず必要なことは、労働を停止することだ。生活必需品は、そのうちに用意されるだろう。
 最も下品な抑圧形態は、ドラッグの禁止だ。これともまた、闘わなければならない。
 性の解放、労働からの自由、大学の紀律その他全ての制限からの自由、普遍的で全面的な解放。-これら全てが、共産主義のエッセンスだ。//
 (6)第四に、全面的革命の態様は第三世界に見出すことができる。
 新左翼にとっての英雄は、アフリカ、ラテン・アメリカよびアジアの政治指導者たちだ。
 アメリカ合衆国は、中国、ヴェトナムあるいはキューバに似たものに変革されなければならない。
 新左翼の学生たちは、第三世界の指導者やFranz Fanon、Régis Debray のようにこの問題に関与する西側イデオロギストたちを別にすれば、暴力と黒人人種主義を提唱したアメリカの黒人指導者たちをとくに尊敬した。//
 (7)1968-69年に最高潮に達したこの運動のイデオロギー的幻想は、中産階層の甘やかされた子供たちの気紛れを、無意味に表現したものにすぎなかった。そして、彼らのうちの最も過激なグループは、ファシスト凶漢と事実上は見分けがつかなかった。
 それにもかかわらず、この運動は、数十年にわたって民主主義社会で鼓吹された価値への信頼には深刻な危機があることを、間違いなく表現していた。
 この意味では、醜悪な言葉遣いだったにもかかわらず、「純粋な」運動だった。
 むろん、ナツィズムやファシズムについても、同じことが言えたのだが。
 かりに可能であるとして、人間が汎世界的基盤でのみ解決できる切実した諸問題を、彼らは世論に持ち込んだ。第三世界の人口過剰、環境汚染、貧困、後進性および経済的失策。
 同時に、略奪的で感染しやすいナショナリズムによって、グローバルな行動はさほど有効ではなさそうであることが、明らかになった。
 これら全てが、教育分野の危機の多様な兆候は勿論のこと、政治的軍事的緊張や世界戦争への恐怖と一緒になって、一般的な不安の雰囲気と、現在ある救済策は効かないという感情を発生させた。
 状況は、歴史上にしばしば見られたことの一つだった。袋小路に迷い込んだと、人々は思った。
 彼らは絶望的に奇跡を待ち望み、千年紀的、黙示録的希望に耽溺した。
 普遍的な危機の意識を増大させたのは情報伝達(communication)の速さだつた。それでもって、全ての地方的問題や災難はただちに世界じゅうに知られることとなり、敗北という一般的感覚が発生した。
 大学生たちの新左翼的爆発は、欲求不満から生まれた攻撃的運動だった。その運動は、マルクス主義の諸スローガンから自分たちの語彙を容易に造り出した。あるいはむしろ、マルクス主義者が使ったのと同じ表現だった。すなわち、解放、革命、疎外、等々。
 この点を別にすれば、そのイデオロギーは実際には、マルクス主義とほとんど共通性がない。 
労働者階級なくしての「革命」から成る。また、現代技術に対する憎悪から成る。
 (マルクスは技術的進歩を称揚し、差し迫る資本主義の崩壊の理由の一つは、その技術進歩を維持できないことだ、と考えた。-これは、今日では馬鹿げたこととして繰り返されることのない予言だ)。
 進歩の淵源である原始社会(マルクスにはほとんど関心がなかった)への愛好。教育や専門化した知識に対する憎悪。そして、アメリカのルンペン・プロレタリアートは偉大な革命的勢力だという信念。
 しかしながら、マルクス主義には黙示録的側面があり、後世の範型の多くでその側面がが力を持つに至った。そして、マルクス主義的語彙からの一握りの言葉や語句は、世界を奇跡的なパラダイスに変化させる一撃を加えることができるという確信を、新左翼の者たちに抱かせた。
 情報伝達の障害となるのは唯一つ、大独占企業と大学教授たちだ。
 公式の諸共産党に対する新左翼の主要な不満は、共産党は革命にとって十分に革命的でない、ということだった。//
 ----
 ②へとつづく。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 ----
 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
 ----
 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

2011/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
 ----
 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)②。
 (7)分かるだろうように、「批判理論」の主要な原理はルカチ(Lukács)のマルクス主義だ。但し、プロレタリアートがない。
 この相違は、この理論をより柔軟でかつ教条的でないものにしているが、それを曖昧でかつ一貫していないものにもしている。
 ルカチは、理論をプロレタリアートの階級意識と同一視し、ついでそれを共産党の知見と同一視することによって、彼の真実に関する規準を明確に定めた。すなわち、社会を観察する際には、真理は自然科学にも有効な一般的科学の規準を適用すること以上に進んではならず、その発生源でもって明らかにされるものだ。
 共産党が誤謬に陥ることは、あり得ない。
 このような発生起源論は少なくとも、真理が一貫しており完全に明確だ、という長所をもつ。
 しかし、発生論的規準がどのようにして理論の知的自立性と結合されるのか、どこからその正しさを統御する規則が生じてくるのか、を批判理論から知ることはできない。なぜなら、批判理論は「実証主義」的規準を拒み、かつプロレタリアートとの自己一体視も拒否しているからだ。
 一方では、Horkheimer は、思考するのは人間であってエゴ(自我)や理性ではないというフォイエルバハ(Feurebach)の言明を繰り返す(「現在の哲学での合理性論争」1934年で)。
 そうすることで彼は、科学的手続に関する規準と科学で用いられる蓄積された観念はいずれも歴史の創造物であって実際的な必要性の所産だ、そして知識の内容はその発生起源と分離することができない-換言すれば、先験論的主体は存在しない-、ということを強調する。
 これにもとづけば、理論は「社会進歩」のためにあるならば「善」だまたは正しい、あるいは、知的な価値はその社会的機能によって明らかになる、ということになりそうに見える。
 他方で、しかし、この理論は現実<に対する>自立性を維持するものと想定されている。
 その理論の内容は、現存するある運動との何らかの一体視に由来するものであってはならず、社会階級は言うまでもなく、人間という種の観点からすらしても、実用主義的(pragmatistic)であってはならない。
 ゆえに、どのような意味で「真実だ」と主張しているのかは、明瞭ではない。現実をそのままに叙述するがゆえになのか、あるいは「人間の解放のために奉仕する」がゆえにか?
 Horkheimer が提示する最も明確な回答は、おそらく、つぎの文章のようなものだろう。
 「しかし、開かれた弁証法は真実の痕跡を失うことがない。
 人が自分の思考、あるいは他人の思考に限界や一方性のあることに気づくことは、知的な過程の重要な側面だ。
 ヘーゲルも唯物論者の彼の継承者も、批判的で相対主義的接近方法は知識の一部だということを正しく強調した。
 しかし、自分自身の確信は確かだとか肯定できるとか考えるためには、観念と客体の統合が達成された、あるいは思考は終点に到達することができる、と想定する必要はない。
 観察と推論、方法論的検討や歴史的出来事、全ての作業と政治的闘争、こうしたものから得られる結果は、我々が用いることのできる認識手法に耐えることができるならば〔この句のドイツ語原語は省略-試訳者〕、真実だ。」
 (「真実の問題について」同上、第一巻p.246.)
 この説明には不明瞭なところがない、というわけでは全くない。
 社会環境がどのようなものであれ、批判理論は最終的には経験的な正当性証明の規準に従うものであり、それに従ってその真偽が判断される、ということをかりに意味しているとすれば、認識論的には、この理論が「伝統的」と非難する諸理論と何ら異ならない。
 しかしながら、かりに何かそれ以上のことを、すなわち理論が真実であるためには経験上の吟味に耐え、かつ同様に「社会的に進歩的」でなければならない、ということを意味しているのだとすれば、Horkheimer は、二つの規準が衝突している場合にはどうすべきかを我々に語ることができない。
 彼はたんに、「前(supra)歴史的」なものではない真実や知識の社会的条件、あるいは観念とその客体の間の「社会的媒介項」と彼が称するもの、に関する一般論を繰り返しているにすぎない。 
 Horkheimer は、この理論は「静態的」でない、主体と客体のいずれも絶対化しない、等々と請け負う。
 全く明らかなのは、「批判理論」はルカチの党教条主義を拒み、正当性証明に関する経験的規準を承認することも一方では拒んで、理論としてのその地位を主張しようとしていることだ。
 言い換えると、批判理論は、それ自体の曖昧さのおかげで存立している。//
 (8)このように理解される批判理論は、明確なユートピアを構成することはない。
 Horkheimer の予言は、ありふれた一般論に限定されている。すなわち、普遍的な幸福と自由、自分の主人となる人間、利潤と搾取の廃棄、等々。
 「全てのもの」は変化しなければならない、社会改良ではなく社会変革の問題だ、と語るが、どのようにしてこれを行うのか、あるいは何が実際に生じるのだろうか、については語らない。
 プロレタリアートはもはや歴史の無謬の主体とは位置づけられない。その解放は依然として、この理論の目標であるけれども。
 しかしながら、この理論は一般的解放のための有効な梃子だと自らを主張しないがゆえに、思考の高次の様式であって人類の解放に寄与するだろうという確信だけを除いて、明瞭に残されているものは何もない。//
 (9)社会の選好と関心に関してHorkheimer が述べていることは、社会に関する多様な理論が用いる観念上の諸装置にすでに含まれていた。そして、確かに本当のことだが、彼の時代ですら新しくはなかった。
 しかし、社会科学は異なる利益と価値を反映する、ということは、Horkheimer がそう(ルカチ、コルシュおよびマルクスに従って)考えたと思われるように、経験的判断と評価的判断の相違は超越された(transcended)ということを意味していない。
 (10)「批判理論」は、このような意味で、プロレタリアートとの自己一体視を受け入れることなくして、真実に関する階級または党の規準を承認することなくして、マルクス主義を保持しようという一貫した試みだった。また、このようにマルクス主義を縮減すれば生じる困難さを、解消しようともしなかった。
 批判理論はマルクス主義の部分的な形態であり、それが無視したものを補充することがなかった。//
 ----
 第2節おわり。次節・第3節の表題は、<否定弁証法>。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
 ----
 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
.  ----
 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
 --------
 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
 ----
 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
 ----
 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
 --------
 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
 ----
③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1733/独裁とトロツキー①-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.763~、分冊版・第2巻p.509~。
 <>はイタリック体=斜体字。
 ----
 第7節・独裁に関するトロツキー①。
 カウツキーの次の冊子、<テロリズムと共産主義>は、同じ表題をもつ書物で、トロツキーによって回答された。
 その英語訳書は、<テロリズムの擁護(defence)>として、1921年に刊行された。
 この含蓄のある著作は、レーニンの諸発言よりも、ある程度においてはより断固たるものですらある。
 党に関するレーニンの理論は一人の人間の僭政を導くだろうと1913年に予見したトロツキーは、1920年までに上の理論へと完全に変えられた。
 彼の冊子は、権力の内部にいるときに書かれているが、プロレタリア-ト独裁のもとでの国家に関する最も一般的な解説を含んでいるものとして、ゆえにまた、全体主義システムと言われるに至ったものに関する最も明瞭な説明を含んでいるものとして、記しておくに値する。
 確かに、その冊子は内戦およびポーランドとの戦争の間に書かれている(後者についてトロツキーは、『我々は勝利を望む、なぜなら我々にはそうする全ての歴史上の権利(historical right)がある』と、驚くべき無邪気さで語る)。
 しかし、それは明らかに、一般的理論であろうとしている。
 トロツキーの従前の演説からの数多くの引用は、その時点の真っ只中での彼のテーゼをたんに強調したにすぎないものではないことを、示している。
 彼はレーニンと同じように、プロレタリア-ト独裁に関する一般理論を提示する。
 ブルジョア民主主義は、欺瞞だ。
 階級戦争での重要な論点は、投票によってではなく、実力(force)によって決せられる。
 革命のときには、正当な路線は権力を目ざして闘うことであって、愚かしくも『多数派』を待つことではない。
 テロルを拒絶することは、社会主義を拒絶することだ(目的(end)を意図する者は手段(method)を意図しなければならない))。
 議会主義諸制度には全盛期があったが、それらは主として中間諸階層の利益を反映するもので、革命の時期に重要なのは、プロレタリア-トとブルジョアジーだけだ。
 『法の前の平等』、公民権等々に関する話は、現今では、精神的な(形而上学上の、metaphysical)たわ言にすぎない。
 憲法制定会議(the Constituent Assembly)を解散させたのは、正しかった(right)。
 選挙制度が事態の急速な推移に追い抜かれていた、そして、その会議は人民の意思を代表していなかったのだ、との理由だけでもかりにあったとすれば。
 人質を射殺したのは、正当だった(right)(<戦場では戦争のように振る舞う>)。
 プレスの自由は、階級敵とその同盟者、メンシェヴィキおよびエスエルたち、を助けるものなので、許容され得なかった。
 『真実(truth)』や誰が正しいのかを語るのは、無益だった(idle)--これは、学問上の議論ではなく、死に至らせる戦闘だったのだ。
 個々人の権利は、見当違いに馬鹿馬鹿しい(irrelevant nonsense)。
 そして、『我々について言えば、我々は、カント主義崇敬者や菜食主義クェイカー教徒たちの、人生の神聖性に関する贅言には、全く関心がなかった』(<テロリズムの擁護>60頁)。
 パリ・コミューンは、情緒的で人間主義的な躊躇を原因として、打倒された。
 プロレタリア-ト独裁では、党は、上訴に関する最高位の法廷でなければならず、全ての重要な案件に関する最終的決定権を持たなければならない。
 『プロレタリア-トの革命的な優越性は、プロレタリア-ト自身のうちに、明確な行動綱領と無謬の内部紀律をもつ党の、政治的な優越性を前提としている。』
 (同上、100頁)
 『ソヴェトの独裁は、党による独裁という手段によってのみ、可能になった。』
 (同上、101頁)//
 トロツキーは、しかしながら、レーニンが回避した又は無視した疑問に、答える。
 『一定の賢い人物たちは我々に、歴史発展の利益を表現するのはまさに貴方たちの党だ、ということの保証はどこにあるのか?、と問う。
 他の諸政党を破壊し又は地下に追いやって、貴方たちはそれで貴方たちとの政治的な競争を阻害し、その結果として貴方たちは、自分たちの活動路線を吟味(test)する可能性を失った。』
 トロツキーは、つぎのように答える。
 『こうした考えは、革命の推移に関する純粋にリベラル(liberal)な把握によって述べられている。
 あらゆる敵対が公然たる性格をもち、政治的な闘争が急速に内戦へと移行した時期には、支配する党は、メンシェヴィキ新聞のあるいは可能だった流通なくしても、活動方針を吟味するための十分に実質的な規準を持つ。
 ノスケ(Noske)は〔ドイツの〕共産党員たちを鎮圧した。しかし、彼らは成長する。
 我々はメンシェヴィキやエスエルたちを抑圧した。-そして、彼らは消滅した。
 これは、我々にとって十分な規準だ。』
 (同上、101頁)//
 これは、ボルシェヴィズムに関する、最も教示溢れる理論上の定式化だ。これによると、歴史上の運動または国家の『正しさ(rightness)』は、その暴力(violence)の行使が成功するか否かによって決定されることになる。
 ノスケはドイツの共産党員たちを鎮圧することに成功しなかった。しかし、ヒトラー(Hitler)がそれをした。
 かくして、トロツキーの規則からはつぎのことが帰結するだろう。すなわち、ヒトラーこそが、『歴史発展の利益を表現した』。
 スターリンはロシアのトロツキー主義者たちを粛清(liquidate)した。そして、彼らは、消失した。-そう、明らかに、トロツキーではなくスターリンが、歴史の進歩の側に立った。//
 前衛党による統治の原理から、もちろん、つぎのことが導かれる。
 『労働組合の継続的な「自立性」は、プロレタリア革命の時期には、連立の政策と全く同じく不可能だ。
 労働組合は、権力をもつプロレタリア-トの、最も重要な経済機関になる。
 ゆえに、労働組合は、共産党の指導権に服する。
 労働組合運動における原理に関する諸問題のみならず、その内部にある組織に関する重要な論争は、我々の党の中央委員会が決裁する。<中略>
 (労働組合は、)ソヴェト国家の生産の諸機関だ。そして、その運命に関する責任を引き受ける。-そのことに抵抗するのではなく、それと一体化するのだ。
 労働組合は、労働紀律の組織者になる。
 労働組合は労働者たちに、最も困難な条件のもとでの最も集中的な労働を要求する。』
 (同上、102頁)//
 ----
 ②へとつづく。トロツキー<テロリズムの擁護>はトロツキー選集類の中に邦訳がある可能性があるが、参照していない(少なくとも単著としての邦訳書はないようだ)。

1639/産経新聞「産経抄」7/8のお粗末。

 産経新聞7月8日付「産経抄」は<日本の無防備なまでの寛容さ?共産党躍進の不思議>というタイトルらしい。その中で、つぎのように書く。
 「共産党は昨年7月の参院選でも改選3議席を6議席へと倍増させており、じわりと、だが確実に勢力を伸長させている。民進党が、自民党批判の受け皿にも政権交代の選択肢にもなれずにいる体たらくなので、その分存在感を増しているのだろう。/
 ただ、こうした日本の現状は、世界的には稀有な事例らしい。歴史資料収集家の福冨健一氏の著書『共産主義の誤謬』によると、先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという。米国や英国、ドイツ、イタリアなどでは共産党は国政の場に議席を持っていない。」
 なんとまぁ、無邪気なものだ。
 共産党をめぐる「日本の現状は、世界的には稀有な」こと、「先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという」ことをこの産経抄子さまは知らなかったようなのだ。
 今年になってからのフランス大統領選挙で、共産党候補の名は出ていたか?、ついでに社会党候補はどうだったか? 社共連立の社会党大統領だったのは1980年代のミッテランだったが、その後、フランス共産党が与党の大統領はもちろん皆無だ。
 ドイツやイギリスの国政・地方選挙に関する報道を見ても、「共産党」が存在しないか、政党要件に適合している容共産主義政党・政治団体がある程度活動しているくらいしかないのことは分かるだろう。ドイツには、「左翼党」(Die Linke)という政党はあり、「社会主義的左翼(Sozialistische Linke)」と称する分派?もあるらしい。少なくとも前者は、とくに旧東独地域で議席も持つ。
 天下の大新聞、産経新聞の「産経抄」子さまが、上の程度なのだから、他の産経新聞社の者たち、月刊正論編集部の菅原慎太郎らの共産主義・共産党に関する知識・認識の乏しさも理解できる。
 これまで何もコメントしていない、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞、2016.06)もヒドイもので、これでよく「研究」と名乗れたものだと思った。
 この本で面白かったのは、地方自治体の職員・議員(、ひょっとして部・課といった機構そのもの?)に対する「赤旗」拡大の実態くらいだった。このレベルで、日本では大手新聞社が<共産党研究>と掲げる書物を刊行できる。
 これが日本の容共産主義性の強さ、反共産主義性の弱さの実態だ。
 ところで、冒頭の「産経抄」は、知ってはいたが、福冨健一・共産主義の誤謬(2017)を宣伝するために敢えて上のように書いたのだろうか。そうだとすると、いろいろな宣伝方法があるものだ、と思う。
 しかし、この福冨健・共産主義の誤謬(2017)を私も入手して一瞥しているはずなのだが、私にとって新しい又は有益な情報を与える部分はたぶんなかったと思う。そうでなければ、何がしかの記憶に残っている。
 いずれにせよ、日本で本格的なまとまった共産主義研究書、日本共産党の(人文・社会科学的かつ総合的な)研究書はない。
 容易に新書(せいぜい二冊・上下本)くらいで邦訳出版されてもよさそうな、リチャード・パイプス・共産主義の歴史は、別のタイトルで目立たないように翻訳されている。
 Leszek Kolakowski の Marxism に関する大著の邦訳書もない。しつこく書いているが、この人のこの著だけではない。訳されてよいような共産主義・共産党(レーニンを当然に含む)批判的分析書は、かなり多く日本には、日本語になっては、入ってきていない。焦らないで、じっくりと紹介していく。
 そのような<文化>の一翼を担っているのが、産経新聞社だ。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
 ---
 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
 ------
 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
 ---
 ④へとつづく。

1526/「左翼」の君へ-レシェク・コワコフスキの手紙①。

 Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012)のうち、「第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼」の中にある、My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方〕の日本語への試訳を、以下、行ってみる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、文末に//を記す。
 他にも「社会主義とは何か ?」、「左翼の遺産」、「全体主義と嘘の美徳」、「社会主義の左翼とは何か ?」、「スターリニズムのマルクス主義根源」等の関心を惹くテーマが表題になっているものも多いが、これをまずは選んだ理由は、おそらくその内容によって推測されうるだろう。
 1974年の小論。書簡の形式をとっている。
 スターリンの死、フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱、中国の文化大革命、プラハの「春」があり、日本の大学を含む「学生」運動等もほぼ終わっていた。L・コワコフスキはイギリス・オクスフォードにいて、マルクス主義哲学の研究執筆をしていたかもしれない。
 ---
 My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方、1974年〕
 「親愛なる、エドワード・トムソン(Edward Thompson)君へ。
 この公開書簡でなぜとても楽しくはないかというと、君の手紙は(少なくとも同じくらい)個人的な態度とともに、考え方に関係しいるからだ。
 しかし、共産主義イデオロギーについてであれ1956年についてであれ、個人的な説明をして問題を済ませはしない。とっくの前に片付いている。
 だが、一緒に始めよう、過去のことを運びあげて、署名しよう…、と言うのだったら。//
 Raymond Williams による最新号の Socialist Register の書評に、君の手紙はこの10年間で最良の左翼の著作作品の一つだと書いてあった。それは直接に、他の全ては、またはほとんど全ては、より悪いと述べているようなものだ。
 Williams はよく分かっている、私も彼の言葉に従おう。
 たまたま私がその対象になっているとしても、ある程度は、この文章を書くに至ったのを誇らしく感じる。
 そう。だから、私の反応の一つめは、感謝だ。
 二つめは、<富者の迷惑>のようなものだ。
 君の100頁もの公開書簡に対して私が答えるのに話題を適正に選択しなければならないことを、君は私に詫びるのだろう(認めると思うが、君の書簡はうまく区切りされていない)。
 最も論争点になっているものを、取り上げることにしよう。
 興味深いのだが、君の自叙伝的な部分にコメントすべきだとは思わない。
 たとえば、休日にスペインへ行かない、費用の一部を自分の懐から支払わないで社会主義者の会議に出席するということはしない、フォード財団が財源支援した会議に参加しない、権威者の前で帽子を脱ぐのを年寄りのクェーカー教徒のように拒んだのは自分だ、等々と君は書いているが、私自身の徳目一覧からして答えるべきだと、助言されるとは思わない。この徳目一覧はたぶん厳格なものではないのだろう。
 また、New Left Review 〔新左翼雑誌〕から君は離れたという話だが、私がいくつかの雑誌のいくつかの編集委員会の全てを辞めた話でもって交換するつもりはない。これらは、とても瑣末なことだ。//
 三つめは、悲しさだ、と言いたい。
 君の研究分野について十分な能力はないが、学者そして歴史家としての君の高名は知っている。
 それなのに、君の手紙の中に、話したまたは書いた多くの左翼(leftist, 左翼主義者)の決まり文句(cliche's)があるのを知るのは残念なことだ。それらは、三つの趣向からできている。   
 第一、言葉を分析するのを拒み、意図的に考え出された言葉の混合物を問題を混乱させるために使う。
 第二、ある場合には道徳的なまたは情緒的な規準を、別の類似の場合には政治的または歴史的な規準を使う。
 第三、歴史的事実をそのままに受容するのを拒む。
 言いたいことをもっと詳しく、書いてみよう。//
 君の手紙の中には個人的な不満がいくつかあり、一般的問題に関する議論もいくつかある。
 小さな個人的不満から始めよう。
 レディング(Reading)の会議に招かれなかったことで君は攻撃されたと感じているように見えるのは、また、かりに招かれれば深刻な道徳的根拠を持ち出して絶対に出席するのを拒んでいただろうと語るのは、とても奇妙だ。
 直感的に思うのだが、結局は、かりに招かれても同様に攻撃されたと感じただろう。だから、君を傷つけない方法は、会議の組織者にはなかったのだ。
 今書こう、君が持ち出す道徳的根拠とは、君がR・Sの名を組織委員会の中に見つけたということだ。
 そしてR・Sには不運だったのは、彼がかつてイギリス外交の業務で仕事をしていたことだ。
 そう、君の高潔さは、かつてイギリス外交に従事した誰かと同じテーブルに着くのを許さない。
 ああ、無邪気さに、幸いあれ! 
 君と私は二人とも、1940年代と50年代にそれぞれの共産党の活動家だった。我々の高貴な意図や魅惑的な無知(あるいは無知から逃れるのことの拒否)が何だったとしても、われわれの穏健な手段の範囲内で、人間社会で最悪の種類の奴隷的集団労働や国家警察のテロルを基礎にしている体制を、二人ともに支えた。
 このような理由で我々と一緒に同じテーブルに着くのを拒む、多数の人々がいるとは、思わないか ?。
 いや、君は無邪気だ。しかし私は、多くの西側知識人たちがスターリニズムへと改心していた『あの年月の政治の意義』を、君が書くようには、感じない。//
 スターリニズムについての君の気軽な論評から集めてみると、『あの年月の政治の意義』は、君にとってのそれは私のよりも明らかに鋭敏で多様だ。
 第一、スターリニズムの責任の一部(一部、これを私は省略しない)は、西側の諸国家にある、と君は言う。
 第二、『歴史家にとっては、50年では新しい社会体制について判断する時間が短かすぎる』、と君は言う。
 第三、『1917年と1920年代の初めの間、およびスターリングラードの闘いから1946年までの間に共産主義(コミュニズム)体制がきわめて人間的な顔を見せた時代ののような、新しい社会体制体制が発生しているならば』、と君が言うのを我々は知っている。//
 いくつか仮定を付け加えれば、全ては正当だ(right)。
 明らかにも我々が生きる世界では、ある国で重要なことが起きれば、それは通常は別の国々で起きることの一部に影響を与える。
 ドイツ・ナチズムについての責任の一部はソヴィエト同盟にあった、ということを君はきっと否定しないだろう。
 ドイツ・ナチズムに対するソヴィエト同盟の影響を、君はどう判断しているのだろうか ?//
 君の二つめのコメントは、じつに啓発的だ。
 『歴史家にとっては』50年とは、何のことか ?
 私がこれを書いている同じ日にたまたま、1960年代(1930年代ではない)の初めにソヴィエトの監獄と強制収容所にいた体験を綴った、アナトール・マルシェンコという人の本を読んだ。
 この本は1973年に(ドイツ・)フランクフルトで、ロシア語で出版された。
 ロシア人労働者の著者は、ソヴィエトからイランへと国境を越えようとして逮捕された。
 彼は幸運なことに、J・V・スターリンの遺憾な(そう、正面から見つめよう、西側諸国に責任の一部があったとしても遺憾な)誤りが終わっていたフルシチョフの時代にこれをした。
 そして、彼はわずか6年間だけ、強制収容所で重労働をした。
 彼が物語る一つは、護送車から森の中へ逃げようとした3人のリトアニア人囚人に関してだ。
 3人のうち2人はすぐに見つけられ、何度も脚を射撃され、起ち上がるように命じられ(彼らはそうできなかった)、そして、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。
 最後に、2人は警察の犬によって噛まれ、引き裂かれた(資本主義が存続している、娯楽映画のごとくだ)。
 そうしてようやく、銃剣で刺し殺された。
 このような事態の間、ウィットに富む役人は、次の類いのことを述べていた。『さあ、自由なリトアニア人、這え、そうすればすぐに独立をかち取れるぞ!』。
 3人めの囚人は射撃され、死んだと囁かれて、荷車の死体の下に放り込まれた。
 生きて発見されたが、彼は殺されなかった(脱スターリニズム化だよ!)。しかし、数日間は、傷が膿んでいるままで暗い小部屋に入れられて放置された。
 彼は、腕が切断されているという理由だけで、生き延びた。//
 これは、君が今でも買える多数の本で読める、数千の物語の一つだ。
 知識ある左翼エリートたちは、こうした本を、進んで読もうとはしていない。
 第一に、たいていは、重要でない。
 第二に、小さく細かい事実だけを提供する(結局のところは、何らかの誤りがあることを我々は認める)。
 第三に、それらの多くは、翻訳されていない。
 (ロシア語を学習した西欧人に君が会うとして、少なくとも95%の率で血なまぐさい反応に遭うということを、君は気づいたか ? ともあれ、彼らは賢い。)//
 そして、そうだ。歴史家にとって50年、とは何のことだ ?
 50年というのは、著名ではないロシアの労働者であるマルシェンコの人生、本を出版すらできなかったもっと無名のリトアニアの学生の人生、を覆ってしまう長さだ。
 『新しい社会制度』に関する判断を急がないことにしよう。
 チリやギリシャの新しい軍事体制の良い点を査定するのに、いったい何年が必要なのかと、確実に君に質問することができるだろう。
 だが、私には君の答えが分かる。どこにも類似性がない。-チリとギリシャは資本主義の中にとどまっており(工場は私人が所有し)、一方のロシアは新しい『もう一つの選択肢のある社会』だ(工場は国家の所有で、土地も、居住している全員も)。
 真正な歴史家であるならば、もう一世紀を待てるし、わずかばかり感傷的だが慎重に楽天的な歴史知識を維持し続けることができるだろう。//
 いや、もちろんそうではない。
 ---
 ②につづく。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

0570/小林よしのり・パール真論(小学館)の一部からの連想。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)の主テーマ・主論旨とは無関係だが、次の言葉が印象に残った(初出、月刊正論2008年2月号(産経新聞社))。
 「『反日』を核として国家の正当性を維持するしかないという厄介な国が、ヨーロッパにではなく、アジアにあった、それがドイツの幸運であり、日本の不幸であった」(p.83)。
 小林よしのりはここで中国と韓国を指しているようだが、北朝鮮も含めてよいだろう。
 たとえばサルトル以降の「左翼」フランス思想等のヨーロッパからの「舶来」ものを囓っている者たちは強くは意識しないのだろうが、日本は欧州諸国とは異なる環境にある。ドイツにせよフランスにせよ、日本にとっての
中国、韓国や北朝鮮にあたる国はない。異なる環境にある日本を、現代欧州思想でもって(又は-を参考にして)分析しようとしても、大きな限界がある、ということを知るべきだ。
 やや離れるが、欧州に滞在するのは、ある意味でとてもリフレッシュできる体験だ。なぜなら、ドイツにもイギリスにもイタリアにも「…共産党」がない。フランス共産党は現在では日本における日本共産党よりも勢力が小さいといわれる。また、日本共産党的組織スタイルの共産党が残るのはポルトガルだけとも言われる。
 そういう地域を、つまり共産党員やそのシンパが全く又は殆どいない地域を旅すること、そういう国々に滞在することは何とも気持ちがよいことだ。むろん、デカルト以来の<理性主義>や欧州的<個人主義>の匂いを嗅ぎとれるような気がすることもあって、「異国」だとはつねに感じるが。
 <左翼>系新聞はあるだろう。しかし、多くはおそらく社会民主主義的<左翼>で、日本の朝日新聞のような<左翼政治謀略新聞>は日本のように大部数をもってはきっと発行されていない(たぶん全ての国で、日本のような毎日の「宅配」制度がない)。すべての言語をむろん理解できないにしても、これまた清々(すがすが)しい。
 というわけで、しばしば欧州に飛んでいきたい気分になる(アメリカにも共産党は存在しないか、勢力が無視できるほどごく微小なはずだが)。先進資本主義国中で、日本はある意味で(つまり元来は欧州産の共産党とマルクス主義勢力―正面から名乗ってはいなくとも―がかなりの比重をもって東アジアに滞留しているという意味で)きわめて異様な国だ、ということをもっと多くの日本の人びとが知ってよい。

0542/樋口陽一-この人が日本の憲法学界を代表している(いた)ならば、悲劇。

 樋口陽一・ほんとうの自由社会とは(岩波ブックレット、1990)について、前回(6/09)のつづきの最終回。
 ①樋口は、「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)は所詮西欧近代のものだという反発はあるが、西欧近代に問題があったとしても(植民地支配等)、「それ自体は普遍的な価値をもつ」ことを「やはりためらうことなく主張すべきだ、というのが私の考え」だ、と明言する(p.57)。
 憲法前文に書いていること自体もなお抽象的なので、じつはこの「普遍的な価値」なるものの理解自体にも具体的には分かれが生じうると考えられるが、この点は措く。
 奇妙だと思うのは、上の主張(考え)を、樋口が、「丸山先生のご指摘のとおりです」と言って、丸山真男の次のような言葉によって正当化しようとしていることだ(p.60-2、樋口の文章自体が丸山のそれのそのままの引用ではない)。
 <西欧本籍で普遍的ではないと主張する者は、思想・価値の「生まれ」・「発生論」の問題と「本質」の問題を混同している。「何よりもいい」例は、西欧社会の中軸にある「キリスト教」は「非西欧世界」から生まれてきた、ということだ。>
 この理屈又は論理は誤っている。いくら「何よりもいい」例があったとしても、ある地域・圏域に「生まれた」ものが世界的に又は「人類」に普遍的なものに必ずなる、という根拠には勿論ならない(しかもそこでの例は「西欧」社会に普遍的になったというだけのことで、「世界」・「人類」に対してではない)。せいぜい、なりうる、なることがある、ということに過ぎない。従って、樋口の主張(考え)は一つのそれであるとしても、むろん<普遍的に>主張でき相手方を説得できるものでは全くない。内容というよりも、丸山真男の名前を持ち出せば少しは説得力が増すかのごとく考えているいるような、<論理>の杜撰さをここでは指摘しておきたい。
 ②樋口は、「べトナム民主共和国」の1945年の独立宣言がフランス人権宣言とアメリカ独立宣言を援用していると指摘して、欧米に「普遍的」なものがアジアでも採用された、と言いたいようだ(p.57)。
 社会主義ベトナムの建国文書がフランスやアメリカの文書に言及していても何の不思議もない。一つは、文書上、言葉上なら、何とでも言えるからだ。樋口陽一はこの国が「ほんとう」に「民主」共和国だったのかに関心を持った方がよかったのではないか。二つは、これまで何度も触れたように、フランス革命と「社会主義」(革命)には密接な関係があるからだ。
 樋口は何気なく書いているだけのようなのだが、じつは、樋口が「べトナム民主共和国」という社会主義国の存在を何ら嫌悪していない、ということも上の文章の辺りは示している。
 「べトナム民主共和国」の人権・自由・民主主義の実際の状況には関心を寄せず、あれこれと知識を披瀝し最高裁判決等の情報も提供しつつ、日本を<自虐的に>批判しているのがこの冊子だ。
 ③樋口は、イランの事例に言及したあとで、「昭和天皇に戦争責任がある」と議会答弁した長崎・本島市長が銃撃された事件等を念頭に、「異論をゆるさない風土という点で似通っているのではないか」、と日本(社会)を批判している。
 なるほど異論を持つ者に対する暴力行使は許されないことだろう(その例として「右から」のそれのみを挙げるのはさすがに樋口らしいところだ)。だが、やはり、<何を寝呆けたことを言っているのか>という感想をもつ。
 樋口がその名で刊行している岩波ブックレットそのものもそうだが、日本ほどに「異論」を表明することができる国家は数少ないのではないか。ドイツ・イギリス・アメリカには共産党自体が存在しない(その系統を引く政党はあるかもしれないが、マルクス=レーニン主義をそのまま謳ってはいない)。日本には日本共産党が存在し、またかつてはマルクス主義派を「左派」とする日本社会党も存在して、西欧・米国では考えられないような「異論」を述べていた。フランス「社会党」もドイツ「社民党」もアメリカとの軍事同盟に賛成しているし、フランス「左翼」は自国の核保有にも賛成している。欧米に見習うべきと強く主張している樋口陽一ならば、そういう欧米の「左翼」にも学ぶべきだろう。ともあれ、日本の「左翼」は欧米の「左翼」ならば主張しないだろうような「異論」を自由に述べてきている。日本の一部に見られる暴力的「自由」侵害の例を持ち出して、日本の「異論をゆるさない風土」を語るとは、何とも錯乱的な認識であり、自虐的な日本観だ。
 「異論」の表明自体によってただちに、国家権力によって生命を剥奪される危険性が充分にある「社会主義」国家が現に存在していることを、樋口陽一は全く知らないのだろうか。「異論」の表明に至らない、「不服従」の態度だけで家族ぐるみで<政治犯収容所>に入れられて餓死の危険と闘わなければならない人びとが現にいる国もあることを、樋口陽一は全く知らないだろうか。
 自分は「自由な」日本にいて、書斎の中で「異論」を書き散らし、あるいは安全な施設の中で「異論」を講演したりしておいて、よくぞまぁ日本は「異論をゆるさない風土」だなどと気易く言えるものだ。呆れる。こんな人が日本の憲法学界の代者の一人だ(だった)とすれば、日本の憲法学界は殆どが<狂って>いるのではないか、というじつに悲しい感想を持ってしまった。

0484/フーコー、狂人と言わなくとも「奇矯な」<左翼>思想家、と桜井哲夫。

 桜井哲夫・フーコー―知と権力/現代思想の冒険者たちSelect(講談社、2003)のある程度の範囲を概読した(学習するが如く熟読するつもりはない)。
 フーコー(1926~1984)は勿論のこと「現代思想」に詳しいとは自分を思っていないので当然に専門家に伍した議論はできないだろうが、それでもフーコー(の「思想」)の概略は把握できる。
 別の回でも言及する可能性があるので記しておくが、この本には、Aフーコーの言説をそのまま(又はほとんどそのまま)直訳又は引用している部分、B著者(桜井)がフーコーの言説を要約してまとめて紹介している部分、C引用・紹介ではなく、著者(桜井)自身のフーコーの分析・論評が書かれている部分がある。そして、BとCは区別がつきにくいと感じる場合もないではない。
 さて、 フーコーは「かつて共産党に所属」していた(フーコー自身の言葉、p.181)。
 「フーコーの師のひとり」のアルチュセールはフランス共産党の党員で(まえがき、p.214)、アルチュセールの某論文を「骨格」とした本をフーコーは著した。桜井によると前者の「国家のイデオロギー装置」はフーコーの「真理の志というシステム」のことだ(p.214-5)。
 フーコーと「二十数年にわたって同居」したダニエル・ドゥフェール(男性)は「元毛沢東派活動家」だった(p.16-17、p.214)。
 フーコーはサルトルを批判しもしたが、1969年の騒乱?後のソルボンヌ大学学生の退学や起訴に対してサルトルと並んで抗議のデモ行進をした(p.199-200)。
 以上のことからでも、フーコーが(精神的に)馴染んでいた「空気」を推察することはできる。党派的にいうと、フランス<左翼>思想家と位置づけられることは間違いないだろう。最終的にはフランス共産党か社会党かはよく分からないが、そのどちらでもなく、日本の1960年代末以降1970年代半ばくらいまでに頻繁に言われた「新左翼」なるものに最も近いのかもしれない。
 教条的又はスターリニスト的マルクス信奉者ではなかったようだが、マルクスからの「解放」のあとのマルクスの「読み直し」や「よみがえり」もフーコーについて桜井は言及しており(仔細省略、p.146-、p.162-、p.188-等々)、マルクスに起源をもつ<マルクス主義の変種>の思想家と評しても大きくは誤っていないものと思われる。
 フーコーの性的嗜好や死の原因(桜井は断定的書き方をしている)にはあえて触れないでおくが、「性」や「肉体」にかなりの関心を向けていたフーコーの本は、<多様なライフスタイルが選択できるように>などとも主張している日本のフェミニスト、少なくとも「左派」フェミニストに好んで読まれている可能性がある。桜井によると、「フーコーは『ジェンダー』についてフェミニストの研究者たちがおこなった業績を、『性』に関して打ち立てたのだといえるだろう」(p.287)。桜井は「ジェンダー」概念がまともなものではないことを知らないかの如き書き方をしているが、立ち入らない。
  「思想」(・哲学)について著書をものにし多数に読まれた思想家(・哲学者)は誰でも<偉大>だ、と評価することはむろんできない。何やらむつかしそうな、凡人には理解出来そうにないことを書いていることが<尊敬>の対象になるわけでもない。むろん人(主体としてであれ対象としてであれ)によって評価は分かれるのだが、社会・人間・歴史に対して<悪い>影響を与えた・与えている(と評価されるべき)思想家(・哲学者)もいることは当然のことだ。
 読み囓りではあるが、そして別途フーコーの本の邦訳書も所持しているので、私もまた武田徹と同様に「フーコーの言説を引用」できる状態にはあるのだが(面倒くさいのでここには引用しない)、フーコーは、狂人とは言わないが、<奇矯な>思想家だ、というのが、最も簡潔な印象だ。
 桜井哲夫(1949~)が、専門というタコ壺に入りきらないフーコーに接して感動したというのは解らなくはないし、「一人一人の内面の探求からこそ」いかなる学問研究も始まるのだと大言壮語する(p.298)のも<気分>としては理解できそうだ。
 しかし、「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」して、「日本の現実」を分析したり「日本の歴史」を「従来のイデオロギーの呪縛から解き放って書き換える」べく「知的努力」を傾ける(のが「われわれに必要」だ)(p.298)などと言わない方がよい。いくら「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」しても適切な結果をもたらすとは思えない。桜井が自ら上の如き「知的努力」を傾けて、日本の現実や歴史を実際に「分析」する又は「書き換え」る作業をしてみたらどうか(自分の言葉には自分で責任をとれ、と言いたい)。
 そのような桜井哲夫が書く「まえがき」自体に、素人の私でも容易に指摘できる奇妙さが含まれている。桜井は述べる。
 ・「フーコーの仕事は、つねに新しいといわざるをえない」。「つねに既存の枠組みへの挑戦であり続けたから」。
 ・「新しい」とは「時代に迎合」せず、「時代に」「『否』を突きつける営為」で、そうした「知的努力」こそが「世界に新たな可能性を生み出してきた」。
 ・「フーコーの仕事を吟味すること」は、「新しい知的可能性を生み出す第一歩でなくてはならない」。
 自らの仕事の積極的な意味・意義を何とか見出したいという<気持ち>は解るとしても、以上の叙述は奇妙だ。
 すなわち、「新しい」ものであれば、あるいは時代に「否」を突きつける行為であれば、なぜそれらすべてが肯定的に評価されるのか?「世界に新たな可能性」とか「新しい知的可能性」とか言っているが、その<新しい可能性>が、人間・社会・歴史にとって<よい>ものである保障はどこにあるのか? たんに「時代」・「世界」・「知」を掻き混ぜて混乱させるだけのものもあるだろうし、決定的に<悪い>方向へと(「新しく」)導く「知的努力」又は「営為」もあるのだ(余計ながらマルクスもレーニンも毛沢東も金日成も、それぞれに独特の「新しさ」をもっていた)。
 「新しけりゃよい」なんてものではないことは、<伝来的なもの>(伝統的・歴史的に今日まで継承されている事物・精神)の中にも大切なものはありうる、と考えるだけでも分かる。
 こんなことくらい大学教授、社会学者、近現代歴史・社会・文化評論家(著者紹介による)ならば容易に理解できる筈だと思われる。フーコーは「つねに新しい」、ということは(それが正しい理解だとしても)、彼を積極的に「吟味」することの意味・必要性を肯定する根拠には全くならない。
 <新奇>あるいは<珍奇>な言説や思想らしきものは絶えず生じてくる。それらの中から、貴重な<宝石>を発見し吟味する必要はあるだろう。フーコーがそれである(あった)とは、とても思えない。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー