秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
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 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
 ***
 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
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 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1835/2018年8月-秋月瑛二の想念。

 昨年、2017年の5-6月頃、つぎの「三相・三層・三面」の対立軸若しくは闘い又は目標を意識すべきだと記していたことがあった。
 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)との闘い。
 2) 「共産主義(communism)」と強いていえば「自由主義」の対立軸の措定。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」の追求
 説明をなお要するが、つぎを除き、基本的趣旨を繰り返さない。
 日本ではまだ全体として、1)の次元が解決されておらず、2)も明確ではなく、3)だけを肥大化させる、より基本的な論点を忘却させる傾向もある。2)で終わっただけでもまだ不十分なのではあるが。
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 さらに、この一年間、日本人も人間も「ヒト」という生物の種の一個体だということを意識すると、種々のことが私なりに理解できるようになった、と感じている。
 いくつかある。
 第一。産まれて、生きて、死んでいく。この、永続的な生命を何人も有しないということこそ、人間と社会を考えるための最も根幹的なことだ。つぎの付随的なことも出てくる。
 個々人が一生の間に理解し、思考できることには限界がある。限られた時間の中で得た知識、思考等は自動的に次の世代に「相続」されるわけではない。DNAの変化にはよほどの長い時間が要る。
 日本人または人類全体としては「知識」・「思考」量は増えていっている、というのは幻想で、<日本人または人類全体>としての知識・思考を、誰一人として個人的に有しはしない。個々のヒト、一個体としての人間には、絶対的な限界がある。
 第二。「偉大」とされる哲学者・思想家も凡人の秋月瑛二も、上の点では本質的な違いはない。
 まだ若かった頃は、天才あるいは傑出した人物は存在し、とても理解できない難解で優れたことを思考し、発言し、あるいは行動したのだろうと漠然と思っていた。
 もちろん、相対的には差違の程度はある。しかし、本質的に同じヒトたる者が思考したり、行動したりすることには絶対的な限界がある。。
 したがって、ギリシャ(?)から現代まで、「哲学」や「思想」が分からなくとも、少なくとも大きな劣等意識をもつ必要はない。哲学者・思想家らしき者たちもまた、全てを「理解」しているわけではない。多数の人それぞれが、それぞれの時代に、それぞれの言語で、何らかの目的のために懸命に<もがいてきた>
 第三。人間はヒトとして<食って生きて>いく必要があるので、「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない
 真理のため、人類のため、国家社会のため、といった<綺麗事>で、あるいは何らかの<理念>に仕えるために、「知的」営為が行われてきた、行われている、とは全く限らない。
 第四。動物の多くが二つの眼を、かつ<前方向きに>持つのは不思議なことで、人間・ヒトにもまた、<前と後>あるいは<前進と後退>の意識が本能的に内在し、同時に前方を向いての<左と右>という内在的で本能的な意識もある。こうしたことは、社会認識・社会観にも影響を与えている。
 フランス革命期の議会に「左翼」・「右翼」の語源はあるらしい。
 ここで欠けているのは、前方の右・左ではない「うしろ」もある、という感覚だ。さらに、会場の「上」にある空も、「下」にある地底もある、という感覚も欠けている。
 単純な冒頭の1)の 「民主主義対ファシズム」という歴史観・社会観には、この名残りが色濃くある。
 そしてまた、冒頭の「三相・三層・三面」の対立軸で思考するのも、考慮要素がまだあまりにも少なすぎる。
 点的・線的思考ではなく、重層的・多次元的思考が必要だが、かりに<宇宙空間的>思考とでも言おう。
 宇宙空間のいずれかの、前後上下左右を全て見渡せる一点に認識主体がいてかつ移動しているとして、いったいどちらが<右・左>、<前・後>・<上・下>なのだろうか。右に進んでいるように見えて循環して左に向かっているかもしれない。前後、上下も同じ。
 強引にここで結びつければ、ヒト・人類の歴史は<不断に進歩している>という無意識の観念があるとすれば、それは誤った、一種の<願望>にすぎないだろう
 <進歩>か否か、<前進>か否か、<良く>なっているか否かははたして、何でもって「判断」できるのか。「正しい」か否か、「改良・改善」か否かの規準は、いったい何なのだろうか。
 当たり前かもしれない、漠然としたこういう想念を、少しは-日本の現実とも関連させて-記してみようか。

1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1822/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文②。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)。
 この邦訳書の冒頭にある著者自身による「日本語版のための序文」で、A・ブラウンはさらにこんなことも書いている。一文ごとに改行する。
 ③(第四段落冒頭)「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である、より一層意義深い理由がある。
 今日のヨーロッパには共産主義国家は一つも残っていないが、現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる
 つまり、キューバはここでは措くとして、中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮である。
 いくつかの共通の特徴はあるとしても、共産主義は異なった時代に異なった場所で、まったく異なった現れ方を示した。
 類似点と相違点、いかに…を主要な話題として、以下のページで探っていく。」
 このあと中国と北朝鮮に関するやや立ち入った言及をしたあと、つぎのようにまとめている。
 ④「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である
 このことはとりわけ、世界最大の人口を擁し、遠からず世界最大の経済規模となる中国に当てはまる。//
 共産主義の歴史--革命と戦争、悲劇と勝利、失敗と成功、イデオロギーの信奉者と殺戮者--は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう
 アジアの近隣に共産主義国家が存在することもあって、本書は今日のための洞察を含んでおり、また、過去への省察を提供するのみならず、未来への思索を誘発するであろう。
 本書が日本語に翻訳されることは私にとって大きな喜びである。」
 ** さて、上にある次の文章を、多くの日本人はそのとおりだと感じるだろうか。
 ・「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である」意義深い理由は、共産主義国家で「現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる」からだ。。
 ・「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である」。
 ・「共産主義の歴史は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう」。
 このように言われても、**それほどではありません、共産主義がさほど重要な主題だと感じていないしアジア近隣に四つの共産主義国家が現存しているという意識もないし、共産主義の歴史がさほど興味深いものとは思っていません**、という日本人の方が、知的産業・情報産業従事者も含めて、多いのではないだろうか。
 R・パイプス、S・フィツパトリクらは、日本共産党等も含めて日本のことをほとんど知らないし、日本国内での共産主義・ロシア革命等に関する議論を知らないままで、それぞれの研究をしてきただろう。
 それはA・ブラウンも同じで、日本国内のにある「異例な」<左翼>的雰囲気を-おそらく日本語が読解できないことを決定的な理由として-知らないままで、上のようなことを書いているのだろう。
 しかし、、欧米の「共産主義」研究者からするとおそらく、上のような推測が当然に生じてくるのに違いない。
 ソ連・東欧や欧米の「共産主義」史に詳しい日本以外の研究者にとっては、上のような指摘や推測は自然または当然であって、日本人の方がむしろ違和感を覚えるのだとすると、日本人の方が<奇妙>なのではないか、と思われる。
 <共産主義の恐ろしさ>を肌感覚では理解しておらず、中国も北朝鮮も海を隔てた<遠い国>であるかのごとく捉えられているのではないだろうか。
 そもそも、中国や北朝鮮のことを「非民主主義国」とか「党独裁国家」ということはあっても、日本人は、あるいは日本のメディアや論壇者は「社会主義国家」とか「共産主義国家」などと称すること自体がまずない(なお、日本共産党は北朝鮮は「社会主義国」ではないとする)。
 欧米のメディアや論壇者と比べて、どこか感覚が麻痺しているのではなかろうか。
 それは、日本に「社会主義(・共産主義)」幻想がまだ強く残り、日本共産党の存在もあって、公然と「社会主義」・「共産主義」を批判し難い雰囲気があるからだと思われる。
 「反共」はバカな「愛国・保守」の主張であって、理性的・知的な者は<日本会議的アホ>のような主張をするはずはない、という感覚の者もいるかもしれない。「反共」ではあるらしい<日本会議的アホ>も、江崎道朗らに見られるごとく、「共産主義」に関する知識・素養がまるでないのではあるが。
 A・ブラウンの日本人向け序文を読んで感じるのは、このようなもどかしさ、不思議さだ。
 <反共産主義>あるいはその意味での<自由主義>が、おそらく知的活動者にとっての<常識>になっている国と、そうではない国(日本、おそらく韓国も)の違いだろう。
 立ち入らないが、アメリカ合衆国を含むNATO締結国であることを当然のこととしていると思われる(ソ連解体後は例えばチェコも加入した)ほとんどのヨーロッパ諸国と、日米安保や日本の自衛隊の存在自体を危険視する意識をもつ勢力がなおもある程度存在し、あるいは「抑止力」を理解していませんでしたと平気で言える首相(鳩山由紀夫)がいた国との違いだ。
 D・トランプ現大統領は、R・パイプスのぶ厚い研究書を読んでいないかもしれない。
 しかし、この大統領も、R・パイプスの<共産主義の歴史>という一般人向けの簡潔な本くらいは読んでいて、<反共産主義>の基礎的な知識・常識くらいは持っているだろう。
 基礎的な知識・常識あるいは感覚レベルで、日本には独特の<雰囲気>があるようだ。
 いいも悪いもなく「現実」なのだから受忍する他はないが、このように指摘する者がいてもいけないということはないだろう。

1820/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文①。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 この邦訳書の原書はつぎで、その下に挙げる、ドイツ語訳書もある。
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)
 =Archie Brown, Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein, 2009)
 これらの原書、独訳書には(当然だが)ない著者自身による「日本語版のための序文」というのが、上掲の邦訳書の冒頭に付いている。
 英国人研究者であるA・ブラウンが共産主義と日本や日本共産党との関連について言及していて、秋月瑛二にはすこぶる興味深い。
 英国の一研究者による共産主義と日本の関係の理解そのものもそうだ。しかしさらに、日本人と日本の「知識人」または知的産業従事者たちはどの程度に、このA・ブラウンの指摘または言明に共感するのか、またはそれらと同様の感覚を共有しているのか、かなりの程度の疑問を感じるからでもある。
  いくつかの点をそのまま引用しつつ、若干の感想、コメントを記したい。一文ずつ区切る。
 ①(冒頭すぐ)「共産主義は日本にとっても大きな意義を持っていた。
 たとえこの国が共産主義の支配下に入る可能性はほんのわずかもなかったとしても、である。
 第二次世界大戦後の全期間を通じて、ソヴィエト連邦からの脅威があったし、中国への不安が日本外交に影響を与えた。
 潜在的な共産主義からの攻撃に対する不安こそ、アメリカ合衆国との緊密な外交関係と軍事的協力の主要な理由であった
。」
*この四つめの文の意味を理解できないか、共感できない人々が日本の「左翼」には今でもいるに違いない。
 対等な「関係」や「協力」ではなくて「対米従属」ではないかという論点はさておき、 「潜在的な共産主義からの攻撃」、つまりかつてのソ連、中国、北朝鮮等、現在の中国・北朝鮮等による「潜在的な」または顕在的な攻撃に対する不安・恐怖を示す以上に<アメリカ帝国主義>あるいは<覇権主義・アメリカ>を批判し、攻撃する心性の人々が日本にはまだ相当数存在していると思われる。
 簡単にいって、<左翼>であり、スターリンは別としてもレーニンまたは少なくとも<マルクス>には幻想を持っている人々だ。
 ②(第三段落冒頭)「ヨーロッパで共産主義が崩壊したとき、たいていの共産党は崩壊するか、社会民主主義政党として再出発した。
 日本では、…、共産党がその党名を保ち、議会に代表を有しているという点でやや異色である

 しかしながら、…、議席ははるかに少なくなっている。
 とはいえ、日本共産党はかつてヨーロッパや北米の共産主義研究者の注目を集めていた。
 …『ユーロ・コミュニズム』として知られる改革派傾向の一翼を担ったからである。<一文略>
 地理的な隔たりがあったにもかかわらず、日本共産党はイデオロギー的に、モスクワのソビエト正統派の守護者ではなく、改革に取り組みつつあったイタリア共産党やスペイン共産党に接近したのである」。
 *上の第一・第二文のような認識・感覚を日本の多くの人または日本共産党員およびその支持者たちが有しているかは、疑わしいだろう。
 日本にまだ「共産党」が存続していることは「やや異例」だとされる。但し、私にいわせれば「かなり異例」、または少なくともふつうに「異例」なのだ。
 共産主義とか「共産党」の意味それ自体にかかわるが、この問題は、日本共産党は「共産主義」を実質的には捨てたとか、カウツキーの路線にまで戻ったとかの論評でもって無視することはできないはずだ。
 なぜなら、現在の日本共産党は今でも<ロシア革命>と<レーニン>をの積極的意味を否定していないし、自分の存在の根本である1922年に存在した<コミンテルン>の意味を否定しているわけでもない。そして「社会主義・共産主義」の社会を目指すと、綱領に公然と明記しているのだ。
 但し、著者も現時点のこととして書いているのではないだろうが、上の後半のように「ユーロ・コミュニズム」の一環、イタリアやスペインの共産党と似た類型の党として現在の日本共産党を理解することはできないだろう。すでに「ユーロ・コミュニズム」なるものはおそらく存在せず、少なくともイタリアでは1991年のソ連解体後すみやかに(当時にあつた)イタリア共産党は存在しなくなったからだ。
 日本に「共産党」と名乗る政党が存在し続け、国会に議席まで有していることの不思議さ・異様さを、より多くの日本人が意識しなければならない、と思われる。
 **関連して、<左翼のお化け>のような感が(私には)する和田春樹は、つぎのように2017年に発言していた。
 和田春樹「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しいのですが、それは元をたどればコミンテルンの影響が強かったことに起因しています」。
 現代思想2017年10月号/特集・ロシア革命100年(青土社)p.48。
 江崎道朗が2017年8月著でいう「コミンテルンの謀略」とは中身を見ると、要するに「共産主義(者)の(日本への)影響」ということなのだが、そんなことくらいは、知的関心のある日本人なら誰でも知っていたことで、珍しくも何ともない。
 ゾルゲがソ連の赤軍の「スパイ」で尾崎秀実が日本国内で工作員として働いたことくらいは日本史または共産主義に関心をもつ者ならば誰でも知っていることだ。そして、尾崎秀実の法廷での最終陳述書等もまた、戦後にとっくの昔に公表・公刊されている。
 (江崎道朗が2017年8月になってゾルゲや尾崎秀実がしたことを確認したとしても、何の新味もないだろう。それとも、江崎は自力で?新資料でも発掘したのだったのだろうか。)
 戻ると、日本の「左翼」の和田春樹もまた、(江崎道朗とは異なる意味での)「コミンテルン」の日本に対する影響の、現在にまで残る強さを認めているのだ。また、「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しい」ことも、つまりは日本の「異例」さも認めている。
 上に引用部分にはないが、和田春樹は「日本共産党」にも言及する。しかし、江崎道朗は、少なくとも戦後の共産主義や日本共産党への論及はパタリと止めて<逃げて>いる。
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  アーチー・ブラウンによる「日本語版のための序文」には、あと少し紹介・コメントしたい部分がある。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1813/江崎道朗2017年8月著の無惨⑮。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 前回に触れたように、後掲の邦訳書の「付録資料」の冒頭に訳者・萩原直が注記を施して、この「付録資料」の大半の翻訳は村田陽一の編訳書によることを明記している。
 つぎのものだ。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)。
 従って、江崎道朗は日本語によるこの6巻本が30年以上も前までに「公開」されているのを、(仮に以前は知らなくとも少なくともこの注記によって)当然に知ったはずなのだ。
 しかし、詳細で網羅的ふうに感じられるこの<コミンテルン資料集>に江崎がいっさい接近しようとした気配がないのは、何故なのだろうか。
 <コミンテルンの陰謀>を主題の一つとするかのごとき表題を付けながら、コミンテルンについて、この村田陽一編訳書を参照しようとせず、「コミンテルン」に関する叙述で萩原直の訳書に最も依拠しているのは、何故なのだろうか。
 日本の読者を馬鹿にしているか、本人の「無知」によるとしか考えられない。
 ちなみに、村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)は、この数年内の私でも簡単に入手できている。
 コミンテルンそれ自体が作成・発表した文書・資料がすでに日本語になっていることは何ら不思議ではない。おそらくは戦前から存在しており(日本に関する有名な27年や32年テーゼもある)、戦後のスターリンの死やフルシチョフ秘密報告があってもまだスターリンが日本の(トロツキストら以外にとっての)<容共・左翼>の「輝きの星」だった時期に、(レーニン全集やスターリン全集等もそうだが)スターリン期を含む戦前の<国際共産主義組織>の諸文書・資料の邦訳がないと想定すること者がいるとすれば、よほどの「無知」か「しろうと」だろう。
 萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(1998)の「付属資料」の大半が本当に村田陽一の訳と同じなのかを確認する手間はかけない。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻/1918-1921年(大月、1978)の概要は、つぎのとおり。
 資料件数-総数101。江崎道朗が<抜粋>だけの邦訳を見て、とんでもない誤解・無知をも示している全てで計4の文書の<全文>を含む。これらを江藤が一見すらしていないことは明白。
 以下、前回に記した江藤言及の4資料と対照させておく。右端はこの資料集第1巻での最初の頁と最終の頁だけから見た総頁数。
 ①1919.01.24/招待状-資料2(4頁)
 ②1920.07.28/民族植民地テーゼ-資料45a, 45b(8頁)。
 ③1920.08.04/規約-資料40(4頁)
 ④1920.08.06/加入条件-資料39(5頁)。
 その他、資料部分総頁-二段組み、538頁。「注解」総頁-54頁、「解説」総頁-24頁。数字つき最終頁-628(横書の頁が他にp.12まで)。
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 江崎道朗がコミンテルンについて最も依拠した、つぎの本・邦訳書の原著者はいったいどういう人物なのか。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。

 まず明確なのは、日本語版の<ウィキペディア>には、いずれの氏名でもヒットしない。
 不十分、不正確なところはあっても、L・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリックは、日本語版の<ウィキペディア>にも出てくる。
 つぎに明確なのは、英米語版<Wikipedia>でもKevin McDermott または Jeremy Agnew はの項目または欄はない。前者より著名らしき同名の者が、football-player や singer-song writer にはいる。後者と同名のより著名らしき、映画関係著述者はいる。
 結局のところ、Jeremy Agnew(ジェレミ・アグニュー)の現在については、かつて上の著の共著者らしいことは分かっても、それ以上に明らかにならないようだ。
 つぎに Kevin McDermott は少し前にどこかの高校の歴史の教師という知識を得たのだったが、<Kevin McDermott+historian>で、現在探してみると(といっても今日ではない)、つぎが分かった。<Wikipedia>ではなく、イギリスの大学教員紹介のサイトからだ。
 イギリス・シェフィールド大学とは別のシェフィールド・ハラム大学の「上級講師」(senior lecturer)。「20世紀東欧・ロシアの歴史家。共産主義チェコスロヴァキアとスターリニズムソ連が専門」とある。出生年不明。所属学部等には面倒だから立ち入らない。
 1998年刊行の邦訳書にはどう紹介されているかというと、K・マクダーマットは「チェコ労働運動史」、G・アグニューは「イタリア共産主義運動」の各「研究家」とカバー裏にあるだけで、訳者自身の文章(訳者あとがき)でも(本の内容ではなく)二人に関しては何も触れられていない。
 以下で触れる点も参照すると、1998年時点ではおそらく、二人ともに大学、研究所等の正規構成員ではなかったように見える。当時の推定年齢は30歳台だ。G・アグニューは20歳代後半だった可能性もある。
 いずれにせよ、K・マクダーマットは「博士」の学位はあるようだが、おそらくは50歳台以上でも(イギリスの教育・研究制度をよく知らないが)<教授職>を有しない。
 要するに、<コミンテルン史>を共著として刊行しているが、イギリスおよび英米語圏諸国でさほどに著名な、あるいは評価の高い研究者ではなく、当時はほぼ全く無名だったように推察される。
 原書刊行1996年以降のロシア革命やコミンテルン関係書物について詳しくないが、少なくとも今のところ、この著が参照されているのに気づいたことはない。
 それに、内容にもかかわるが、二人が書いている冒頭の「謝辞」によると、「まえがき」と「おわりに」を除く計6章のうち第5章は別の人物(原書によって正確に綴ると Michael Weiner, シェフィールド大学東アジア研究センター所長)が執筆しており、およそ二つの章は(二人の共同執筆なのかどちらかのものなのか不明だが)既発表の論文を修正・追加等をしてまとめたものだ。二人にとって最初の書籍公刊だった可能性が高い。
 したがつて、いちおうは年代を追って「コミンテルン史」を叙述しているが、この書で初めて体系的に整理して叙述したものでもなさそうだ。
 追記すると、20歳代(または30歳代)の若い研究者が論文類をまとめて初めて一冊の本にするのは日本でもあることだと思うが、共著というのは珍しいだろう。しかも、かりに指導教授だつたとはいえ?、一部をその別の人物が書いているのも、日本ではあまり例を知らない(「まえがき」くらいで意義を語る、というのはあるかもしれない)。
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 こんなことを書いても、江崎道朗は本文を何ら読まず、「付録資料」だけを(致命的な誤読・誤解をしつつ)利用しているにすぎないと思われるので、江崎道朗にはきっと、何の意味もないだろう。
 ただ、関心を惹くのは、第一に、大月書店が、なぜこの本の訳書を刊行したのか、ということだ。これはこの本の内容にかかわる。
 また、第二に、日本共産党直系の新日本出版社や学習の友社でなくとも、(マル・エン全集、レーニン全集等の出版元で)<容共・左翼>であって、1990年以前は明らかに日本共産党系だったと思われる大月書店の刊行物を、なぜ簡単に?江崎道朗が利用したのか、というのも不思議だ。
 加藤哲郎が<左翼>であることを多分知らないほどだから、大月書店という出版社名を何ら気に懸けなかった可能性はある。しかし、この邦訳書の巻末には、同社刊行のマル・エン全集CD-ROM版等の宣伝広告も載っていて、この社の<左翼>性に-常識的には-気づかないはずはないのだが。
 より決定的で明確な、江崎道朗の<反・反共>インテリジェンスに対する<屈服>、したがって、江崎に<共産主義者のインテリジェンス活動>を警戒すべきとするような文章を書く資格はないだろうという、江崎のこの著に現にある叙述については、さらに別に書く。

1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1805/江崎道朗2017年著指弾⑬。

 つぎのものは、ひどい本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 既述だが、わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの「致命的」な間違いがある。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 他にもあるが、ああ恥ずかしい。
 これらの一つだけでもすでに致命的で、出版停止し全面的書き直しか絶版にすべき程度のものだと考えられる。
 いずれにせよ、江崎道朗に、対共産主義「インテリジェンス入門」を執筆する資格はない。
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 これまた既述だが、江崎道朗は、共産主義(者)・共産党と「コミンテルン」を明確に区別する必要を感じていない。ロシア共産党、ソ連共産党、ソ連国家(赤軍であれチェカであれ)、これら全てを「コミンテルン」と表現しているのではないかとすら疑われる。
 「コミンテルン」を使う理由はおそらく、日本の一般的読者には共産主義等ほどの馴染みがない言葉で、かつ何やら「陰謀組織」めいた印象を与えることができるからだろう(政治文書、プロパガンダ文書には、どのような「言葉」を使うかも重要なのだ)。
 したがって江崎道朗には、コミンテルン初期の「加入条件」等文書は国際的共産主義組織一般と「共産主義者」との関係を規律するものであると理解されることになるようで、換言すると、「共産主義者」であるための要件を示すものと理解されていそうで、<コミンテルン(国際共産党)-「共産党」と名乗って加入して一員・一支部になってもよいと考える各国の社会主義的政党>の関係を規律するものと正確には理解されていないようだ。
 「コミンテルン」を本の表題の一部に使いながら、ひどいものだろう。
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 では江崎道朗には、「共産主義」自体はどう理解されているのか。
 上掲書p.38-39で、こう説明する。「マルクス主義」・「マルクス・レーニン主義」・「社会主義」との異同に全く言及はない。のちに離れたところで「社会主義」という語を登場させているが、そこでも「社会主義」と「共産主義」の異同に関するコメントは何もない。
 全文を引用する。//は改行。
 「共産主義とは、突きつめて単純化するならば、『生産手段を国有化して一党独裁のもとで徹底した経済的平等をめざす考え方』だ。//
 資本主義社会では、土地や資金、工場などの『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる。地主と小作人、会社経営者と労働者といった具合である。//
 そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で『武力によって強制的に』土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者天国の社会が実現できる--このような労働者、小作人主体の社会を実現しようというのが共産主義だ。
 よって共産主義者は、基本的に武力革命を支持し、議会制民主主義に対して否定的なスタンスをとる」。
 以上が、この箇所での全文。この部分には「下敷き」にしているかもしれない参照文献の摘示がない。しかし、何らかの文献を読んで参照していることは間違いないだろう。
 第一の問題は、これは、「共産主義者たち」が主張している考え方の紹介なのか、それとも江崎道朗の理解はある程度は含めているのかが不明瞭だということだ。おそらく、前者を踏まえつつ、後者も混じっている、ことになるのだろう。
 かりにそうだとしても、あるいは前者なのだとしても、相当に違和感がある。以下、重要な点をコメントする。
 ①「徹底した経済的平等をめざす考え方」。
 これは誰がどこで主張したのか。なぜ「経済的」という限定がつくのか。かつ根本的には、共産主義では「平等」ではなく「自由」という理念はどうなっているのか。
 ついでに記そう。現在の2004年日本共産党綱領は、「真に自由で平等な共同社会」を目指す、そうなる筈だ、と明記している。「共同社会」とは、元来のドイツ語では、Gemeinwesen だと見られる。 
 ②「資本主義社会では、…『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる」。
 つぎの③とも密接不可分だが、「私有化」→「格差」という論理関係があるのかどうか。
 そのような旨を共産主義者は主張しているかもしれない。
 しかし、この点は重要なこととして強調しておきたいが、「格差」などという言葉・概念は、ロシア革命や共産主義等関係の書物を種々読んできたかぎりで、一度も見たことがない
 江崎においては単純に「不平等」という意味かもしれないが、「格差」という語を江崎が使うのは、昨今の日本の状況に大きく影響されている可能性がすこぶる高い。
 ③「国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され…」。
 江崎は読者に迎合して、あるいは現在の日本に合わせて、「格差」(是正?)という言葉を採用しているのだろう。
 一言挿入しておくが、共産主義とは<格差解消>を目ざす主義・考え方などでは全くない
 それよりも、なぜ<国有化→労働者全員の共有>なのか。さっぱり分からない。
 そのように共産主義者は主張している、という趣旨かもしれない。しかし、論理的・概念的にも歴史の現実でもそうではない(なかった)、ということは明確だ。紹介のつもりならば江崎著のどこかで厳しく批判しておいても不思議ではないが、そのような箇所はないようだ。
 ④「労働者による政党、つまり共産党」という説明または紹介も奇妙だ。少なくとも正確ではない。ロシア共産党・ソヴィエト共産党は本当に「労働者による政党」だったのか?
 紹介だとしても、それきりでは、①から④の全てが、共産主義者の「宣伝」を鵜呑みで紹介し<拡散>することになってしまう。
 以上の諸点よりももっと重大なのは、なぜ共産主義が<悪魔の思想>とまで称されるかが、まるで分かっていないように見える、ということだ。
 この点を、ハーバート・フーヴァー(元アメリカ大統領)の回顧録の第一章にある文章と比べてみよう。
 ハーバート・フーバー/渡辺惣樹訳・裏切られた自由-上巻(草思社、2017)。
 第一編・第一章のタイトルは「共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践」で、そのうちのp.165以下。
 一文ごとに改行する。
 「共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。
 信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。
 共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。
 時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。
 その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。
 その思想は、残酷でサディスティックでさえある。」
 このあと、(マルクスはないが)レーニン又はスターリンの文章を引用しつつの、「独裁について」、「宗教とモラルについて」、「国際関係について」、「共産主義革命は暴力による」、「労働組合とストライキによる破壊工作」、「議会に対する破壊工作について」、「国家間あるいはグループ間抗争の煽動について」、「講和不可能について」という諸項目がある。
 2017年の江崎道朗と遅くとも1960年代前半のH・フーヴァーと、どちらが「共産主義」の<本質>に迫っているだろうか。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
rpipes02-01

1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。

1736/全体主義者・レーニン①-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.513-4。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン①。
 レーニンは、重要な実践的問題についてトロツキーよりもはるかに教理主義的(doctrinaire)ではなかったが、少なくとも二つの点では、自分自身の原理から逸脱した。
 第一に、労働組合は計画経済の遂行のためのみならず国家に対して労働者を守るためにも役割を果たす-本当の(true)マルクス主義の論理では、彼はトロツキーのようにこれは労働者階級が自分自身に対して自分自身を守るのであって馬鹿げたことだと以前には主張していたのだが-、と彼は認識していた。      
 第二に、国家は『官僚制的歪曲』を被っている、と認めていた。このことが彼の心理上の図式の中にどの程度入り込んでいたのか、は明らかではなかったけれども。
 階級利益の観点からは、表向きには、資本主義の官僚制は抑圧の道具であり、社会主義のそれは解放の道具だった。
 これら二つの問題についてドグマ(教条)を現実のために犠牲にすることができる、というのは、レーニンの常識に含まれていた。しかし、不運にも、何かをするには道理を分別するのが遅すぎた。
 どの場合でも、彼は、労働組合の自立性を擁護する一つの言葉ごとに、サンディカリズムの危険について十の言葉を発した。そして、より強くする以外に官僚制を解決する方策を持たなかった。
 党自身は社会全体では抑圧されていた自由な言論と自由な批判をすることのできる飛び地(enclave)だといういかなる幻想も、早くに消失する運命にあった。
 述べてきたように、レーニン自身は、党内部での徒党(派閥、clique)や論争は健康な徴候だとは決して考えなかった。
 召喚主義者(otzovist)や「革命思想や哲学思想の完全な自由」とのスローガンと闘っていた1910年にすでに、レーニンはこう書いた。
 『このスローガンは、全く日和見主義だ。
 全ての国々で、日和見主義者によってこの種のスローガンが社会主義政党の前に押し出されたが、実際にはこれは、ブルジョアジーの観念体系(イデオロギー)によって労働者階級を腐敗させる『自由』以外の何ものでもなかった。
 「思想の自由」(プレス、言論および信教の自由と読むべし)を、我々は、団結の自由とともに(党にではなく)<国家>に要求する。』(+)
 (「Vperyod 派」、1910年9月、全集16巻270頁(=日本語版全集16巻「『フペリョード』の分派について」288頁〕。)
 もちろんこれは、ブルジョア国家に論及したものだ。
 いったん国家の権威が党のそれと同一視されると、批判する自由に適用する論理は、明らかに、両者について同じでなければならない。
 党の<画一化(Gleichschaltung)>にはより長く要したが、しかしともに不可避のことだった。
 問題は、1921年3月の第10回党大会で、原理的に解決された。レーニンの分派主義および「諸見解の色合いを研究するという贅沢」に対する攻撃、そして『我々は偏向(deviation)に関する討議をすることはできない、それを中止しなければならない』という彼の言明によって。(+)
 (全集32巻177-8頁〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回党大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治活動についての報告/3月8日」184頁・185頁〕。)
 レーニンの死後数年間は、党内部に、あるいはむしろ党の諸機関の内部に、グループや「プラットホーム」を公然と形成することを完全に阻止するのは、不可能だった。
 しかし、まもなく、純粋な又は想像上の「偏向」は、国家の制裁的な腕力によって処理された。そして、統一(単一性、unity)という理想は、警察の手段でもって達成された。//
 しかしながら、レーニンの教義とそれに伴う思考のスタイルが全体主義システムの基礎を築いた、と言い得るとすれば、それは、テロルの使用や公民的自由の弾圧を正当化するために引き合いに出された諸原理を理由とするものではない。
 ひとたび内戦が開始されるや、テロリズムという極端な手段が両方の側から期待されることとなる。
 体制を維持し、強化するための公民的自由の廃絶は、つぎのような原理によってでなくしては、達成することはできない。すなわち、全ての活動-経済的、文化的等-は完全に国家に従属しなければならない。体制への反逆行為は禁じられて仮借なく罰せられるのみならず、いかなる政治的行為も「中立的」ではなく、個々の市民は国家の目的の範囲に入らないいかなることもする権利を持たない。市民は国家の所有物であり、そのようなものとして取り扱われる。
 これら諸原理をツァーリ帝制ロシアから受け継ぎ、はるかに強い程度の完成物となったソヴィエト体制は、この点で、やはりレーニンの作品(work)でもあった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 ②へとつづく。

1735/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑤。

 先に江崎道朗の以下の本は目次の前の「はじめに」冒頭の第二文から「間違っている」と書いた。
 この本は、その第一章の本文の第一文からも「間違っている」。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 「第一章/ロシア革命とコミンテルンの謀略」の最初の文。p.30。
 「アメリカでは、今、近現代史の見直しが起こっている」。
 「今」とは、2016-17年のことだろうか。
 そうではなく、続く文章を読むと、1995年のいわゆる「ヴェノナ文書」の公開以降、という意味・趣旨のようだ。
 「見直し」という言葉の使い方にもよるが、アメリカの近現代史について、より具体的には戦前・戦中のアメリカの対外政策に対する共産主義者あるいは「ソ連のスパイたち」による工作の実態については、1995年以降に知られるようになったわけでは全くない。
 江崎は能天気に、つぎのように書く。p.30。
 1995年の「ヴェノナ文書」の公開により、「…民主党政権の内部にソ連のスパイたちが潜み、…外交政策を歪めてきたことが明らかになりつつある」。
 「明らかになりつつある」のではなく、とっくにそれ自体は「明らかだった」と思われる。より具体的な詳細に関する実証的データ・資料が増えた、ということだけのことだ。
 中西輝政らによる「ヴェノナ文書」の邦訳書の刊行をそれほどに重視したいのだろうか。
 1995年以前からとっくに、アメリカの軍事・外交政策に対するソ連(・ソ連共産党)やアメリカ内部にもいる共産主義者の影響・「工作」は知られていた。 
 江崎道朗のために関係文献を列記しようかとも思ったが、手間がかかるのでやめる。
 思いつきで書くと、例えば、戦後一時期の<マッカーシーの反共産主義運動>(マッカーシズム)はいったい何だったのか。
 アメリカには戦前・戦中に共産党および共産主義者はいなかったのか。アメリカ共産党が存在し、労働組合運動に影響を与え政府内部にも職員・公務員として潜入していたことは、当の本人たちがのちに語ったことや、先日に列挙した総500頁以上の欧米文献の中にH・クレアのアメリカ共産主義の全盛期を1930年代とする書物があり、1984年に出版されていることでも、とっくに明らかだった。 
 アメリカ人、アメリカの歴史学者を馬鹿にしてはいけないだろう。日本における以上に、コミンテルン、共産主義、チェカの後継組織等に関する研究はなされていて、江崎道朗が能天気にも<画期的>なことと見ているくらいのことは、ずっと以前から明らかだったのだ。
 昨年・2017年に厚い邦訳書・上下二巻本が出た、H・フーバー(フーヴァー)の回顧録を一瞥しても、明らかだ。
 自伝でもあるので、H・フーバー元大統領(共和党)は戦後になって後付け的にF・ルーズベルトを批判している可能性も全くなくはないとは思っていたが、彼はまさにF・ルーズベルト政権の時期に、FDRの諸基本政策(ソ連の国家承認を含む)に何度も反対した、と明記している。
 「見直し」といった生易しいものではなく、まさにその当時に、「現実」だった歴史の推移に「反対」していた、アメリカ人政治家もいたのだ。
 なお、H・フーバー(フーヴァー)はロシア革命後のロシア農業の危機・飢饉の際に食糧を輸送して「人道的に」支援するアメリカの救援団体(ARA, American Relief Administration)の長としてロシアを訪れている(1921年。リチャード・パイプス(Richard Pipes)の書物による。この欄に当該部分の試訳を掲載している)。
 反ボルシェヴィキ勢力を少しは助けたい意向もあったと思われるが、いずれにせよ、革命後のロシアの実態・実情を、わずかではあっても直接に見た、そして知った人物だ。
 この人物の「反・共産主義」姿勢と感覚は、まっとうで疑いえないものと考えられる。
 このH・フーバー(フーヴァー)の原書が刊行されたことは、2016年には日本でも知られていて、その内容の一部も紹介されていた。
 しかし、江崎道朗の上掲書には、この本あるいはH・フーバーへの言及が全くない。
 アメリカ政治・外交と「共産主義者」との関連を知るには、限界はあれ、不可欠の書物の一つではないか。
 邦訳書・上巻が2017年の夏に出版されたことは、言い訳にならない。私でも、2016年の前半に、H・フーバーの書物の原書の一部を邦訳して、この欄に掲載していた。
 江崎道朗は上掲書のどこかで<歴史を単純に把握してはいけない、多様なものとして総合的に理解する必要がある>とか読者に説いて?いたが、アメリカの近現代史をアメリカ人がどう理解してきたかについて、江崎は自分の言葉を自分に投げつける必要があるものと思われる。 
 こんな調子で江崎道朗著についてコメントを続けると、100回くらいは書けそうだ。

1731/社会主義と独裁⑤-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回=No.1707ー2017年9/17のつづき。分冊版・第2巻p.506の途中・三巻合冊版第二部p.761の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
 黙読して意味を「何となく」でも理解するのと、日本語文に置き換え、かつ日本語版レーニン全集で該当箇所を調べたうえで、この欄に掲載するのとでは、時間も手間も10倍以上ほども違うだろう。レシェク・コワコフスキの文章を再びきちんと読みたくなったので、再開する。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑤。 
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。<以上の二文は、前回の再掲>
 『ブルジョア社会における「プレス〔the press, 出版・報道〕の自由」は、富者が体系的に、絶えることなく、日々、数百万の部数でもって、被搾取および被抑圧人民大衆および貧者を欺き、腐敗させ、愚弄する自由、を意味する。』(+) 
 (1917年9月28日、「憲法制定会議の成功をいかに担保するか」。全集25巻、p.376〔=日本語版全集25巻「憲法制定議会をどうやって保障するか(出版の自由について)」405頁〕。)
 これとは反対に、『プレスの自由は、全ての市民の全ての諸意見は自由に公表〔publish〕されてよい、ということを意味する。』(同上、p.377〔=日本語版全集同上407頁〕。)(+)
 こうしたことが述べられたのは、革命の直前のことだった。しかし、革命の数日後には、物事は異なっていた。
 『我々が権力を奪取すれば、我々はブルジョア諸新聞を閉刊〔close down〕させると、我々は早くに言っていた。
 こうした諸新聞の存在に対して寛容であるのは、社会主義者であるのをやめることに等しい。』(+)
 (1917年11月17日、〔全ロシア・ソヴェト〕中央執行委員会での演説。全集26巻285頁〔=日本語版全集26巻291頁〕。)
 レーニンは、こう約束した。-そして、この言葉を守った。
 『我々は、自由、平等、そして多数者の意思といった、耳障りのよいスローガンに欺されることを、決して自分たちに許さない。』
 (全集29巻351頁〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会/1919年5月19日演説」のうち「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」349頁〕。)
 『事態が世界中の、あるいは一国のにせよ、資本の支配を打倒する段階に到達している現今では <中略>、そのような政治状況のもとで「自由」一般について語る者は全て、この自由という名前でプロレタリア-トの独裁に抵抗する者は全て、搾取者たちを援助し、支援しているのに他ならない。
 なぜなら、自由が労働の資本の軛からの解放を促進しないならば、それ〔自由〕は一つの欺瞞だからだ。』(+)
 (1919年5月19日の演説、全集29巻352頁〔=日本語版全集29巻同上350頁〕。)
 要点は、コミンテルン第三回大会で、きわめて明瞭にこう述べられた。
 『最終的問題が普遍的な規模で決定されるまでは、このおぞましい戦争の状態は続くだろう。
 そして、我々は言う。「戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕、我々はいかなる自由も、あるいはいかなる民主主義も、約束しない」、と。』(+)
 (1921年7月5日、全集32巻495頁〔=日本語版全集32巻「共産主義インターナショナル第三回大会」529頁〕。)
 代表制度、公民権、少数者(または多数者)の権利、政府に対する統制、立憲的諸問題一般に関する疑問の全体は-これらの全ては、戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕という箴言によって沈黙させられ、そして戦争は、世界中での共産主義の勝利までは進行するものとされる。
 とくに、そしてこれが問題の心臓部なのだが、社会的熟考の制度としての"法" という観念の全体が、存在しなくなる。
 法は一つの階級がそれによって別の階級を抑圧する装置に「他ならない」ので、法の支配〔rule of law 〕と直接的な強制による支配との間には、明らかに、本質的な違いはない。
 重要な全ては、どの階級が権力を手中にしているか、なのだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。

1726/江崎道朗・コミンテルン…(2017.08)③。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 一 きちんと本文を読み終えてからと思っていたが、今のうちに書いておこう。
 先に「昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による」と書いた内容は、そのとおりだ。
 この本の衝撃というのは、しかし、ロシア革命・レーニン・コミンテルン等に関する正確な又は厳密な知識の欠如によるものではない。そのようなことは、中西輝政(や西尾幹二)にもあるだろう。
 すでに昨年に触れてはいるが、江崎の上の本の「おわりに」にこうある。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 「…戦前のエリートたちの多くは、日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』に対する確信を見失っていた」。
 何と呆けたことを書いているのだろう。
 月刊正論執筆者の中でも、反共産主義意識が強く、何とか<冷戦史観>とか言って東アジア・日本の現在での<冷戦>を指摘していたはずの江崎道朗ですら、上のようなことを書いているのだ。
 ほとんど腐っている。どうしようもないところまで来ている。
 上に書いているようなことは、私の読書範囲内に限っても、櫻井よしこと伊藤哲夫と全くかほとんど同じ。要するに、<日本会議派の史観>なのだ。
 江崎は、可能ならば、別途きちんと論じるべきだろう。
 五箇条の御誓文のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。 
 聖徳太子(の例えば「十七条の憲法」)のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。
 現実にあった「明治維新」の当初の理念宣明書とされる五箇条の御誓文は、「保守」ではなく幕府政治を解体するための(革命といわずとも、「維新」という)<大変革>に向けての宣言書だ(原案は、吉田松陰の死体を見た数少ない者の一人、木戸孝允が書いた)。「王政復古」=「保守」なのでは断じてない。
 また、五箇条の御誓文のいったいどこが「自由主義」なのか。
 近現代一般の議論として単純に共産主義対「自由主義」というシェーマを採用しているならばよいが、明治維新・五箇条の御誓文についてこれを語るのは飛躍しすぎだし、江崎における「自由主義」なるものの意味を、五箇条の御誓文の内容に即して説明してもらわないといけない。
 二 「情報産業」就労者としての著述者の一人である江崎道朗は、月刊正論(産経)の毎号執筆者としての地位(職・対価)を確保したいのかもしれない。
 食って生きていくためには、仕方のないことなのかもしれない。
 月刊正論、そして産経新聞の「固い」読者層である<日本会議>とそれに連なる諸々の人々の支持を受け、<味方>にしておくのは、<生業>にかかわる本能なのかもしれない。
 原田敬一の岩波新書等について、一種の信仰告白が必要なのではないか、それを実行しているのではないかとこの欄で記したことがある。
 江崎道朗も、それをしているのかもしれない。
そのような、事実上は強いられた、偽装をある程度は含む「保守自由主義」の美化ならばまだよい(この概念自体には何ら反対しない。しかし、聖徳太子や五箇条の御誓文と結びつけては、絶対にダメだ)。
 しかし、どうやら江崎道朗は、「日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』…」と本当に考えているようだ。
 三部作か四部作の一つかどうか正確には知らないが、これでは、致命的だ。
 身震いがするほど、怖ろしい。なぜ<反共>が、櫻井よしこが明記する<明治の元勲たち>の称揚、と同じような歴史観と結びつくのか。
 「時宜にかなった幻想」は強力だ(T・ジャット)ということを、思い知らされているのかもしれない。

1724/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ⑥。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介=基本的には書き写しのつづき。
 今回も原注の邦訳の一部をすべて省略する。
 紹介の➃に追記することを忘れてこの欄のその次の回に「この機会に追記しよう」として書いてしまった一部は全く不要だった。
 L・コワコフスキの原書・原論考の最後の skull に関して、シェイクスピア・ハムレットうんぬん等と記したのだったが、原邦訳書のp.195の末尾に、T・ジャットの原書がこのコワコフスキの最後の文章を引用しており、邦訳者がきちんと当該部分を邦訳し、skull を「髑髏」と適確に訳し、かつおそらく邦訳者自身が「ハムレット・第五幕第一場のパロディ」とまで挿入してくれている。
 むろん一度はこのT・ジャットの文章を全部読んだはずだったが、記憶忘れ、つぎに紹介する部分の見忘れが甚だしく、いやになる。
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 さて、前回に紹介した部分以降は、コワコフスキの名も出てくるが、ほとんどがトニー・ジャット自身の<マルクス主義論>だ。
 あらためて概括し、私なりに論評することはしない。簡単な言及のみ。
 T・ジャットによって用いられている「リベラル・リベラリズム」という語・概念が日本での用法とかなり異なることには、注意されてよいと思われる。そしてまた、T・ジャットはこれを擁護する論者・支持者のごとくであり、かつ、<左と右の>両翼の反民主主義または「全体主義」に反対する論者のようだ(後者の語は明確には出てこないが、「包括的な支配」という語は使っている)。
 最後にコワコフスキの名を挙げつつ、この人を読んで「マルクス主義」と闘うべき、と主張するのではなく、「時宜を得た幻想」の力強さを指摘して、冷静に?締めくくっているのも、興味深いかもしれない。
 トニー・ジャットは、この文章からも明確なように、明確な<反マルクス主義>者だ。そしてまた、この人がいう「システム」または体制としての「コミュニズム(共産主義)」に対しても、断固として厳しい立場に立っている(と読める)。
 彼は、L・コワコフスキの三巻本(1978年刊行)を若いうちに読み、今世紀に入ってからのアメリカ・ノートン社による三巻合冊本の新発行(内容は同じ。コワコフスキの「新しい」緒言・後記だけがコワコフスキの新しい執筆)を「歓迎」して,この文章を書評誌に掲載した。
 L・コワコフスキ等々のマルクス主義(・コミュニズム)に関する書物もよく読んでいて、それを基礎にして、T・ジャット自身の<マルクス主義観・論>を執筆しておきたかったのかもしれない。
 むろん、T・ジャットは単純で幼稚な、原理主義的な<反共産主義者>ではない。彼はアメリカのイラク戦争に反対した知識人の一人だったようだが、この文章にも見られるように、「右」側にも警戒的で、ソ連解体後の<資本主義・市場主義勝利の喝采者たち>も揶揄している。
 トニー・ジャットはL・コワコフスキの本を読んでおり、かつ「生き続けている」ものとして、このマルクス主義にかかわる文章を書いた。
 日本と日本人にも、もちろん、示唆的だ。「日本会議」の趣意書のごとく、「マルクス主義の過ちは余すところなく明らかになった」などと暢気に語っていたのでは(1997年)、戦いをとっくに放棄していることになる。これに属している学者たちは、その他有象無象の櫻井よしこらも含めて、信頼できない。
 L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>を読んだ日本人がいかほどいるのか。
 このT・ジャットのような文章を書ける日本の「知識人」は、一人でもいるのか。
 そう思うと、身震いがする。怖ろしい。日本の論壇・学界・「知識人」界は、(今回に紹介する部分で)T・ジャットの言う、<国際的な「辺境」や〔世界の〕学問の周縁でのみ>生きている人たちで成り立っているのだろう。
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 ラディカルな政治の未来がコミュニズムの先達の罪と失敗に心動かされることのない(ひょっとしたらそれらに無自覚な)新しい世代のマルクス主義者たちのものなのかどうか、それは分からない。
 私はそうならないことを望むが、そうならないと賭けることもしない。
 かつてミッテランの政治顧問を務めたジャック・アタリは、カール・マルクスについて大部の急いで書いたらしい著作を、昨年出版した。
 そこで彼は、ソ連の崩壊はマルクスをその相続者から解放し、また特に制限なき競争によって生じた世界的な不平等という現代のジレンマを予見した資本主義についての明察に満ちた予言者をマルクスの中に見出すことを可能にした、と述べた。
 アタリの著は、よく売れている。
 彼のテーゼは、広く議論されている。
 フランスでも、イギリスでもだ(イギリスでは、2005年のBBCによる投票で、視聴者はカール・マルクスを「史上最も偉大な哲学者」に選んでいる(注20))。//
 アタリはトンプソンと同じように、コミュニズムの優れた理念は、それが実際にとった都合の悪い形態から切り離して救うことができるという主張をしているわけだが、これに対しては、コワコフスキがトムソンに示した反応に倣って応答することもできるだろう。
 「何年にもわたって、コミュニストの理念を改善し、刷新し、悪い部分を取り除き、あるいは修正するという試みには、何も期待などしてこなかった。
 ああ、哀れな思想よ。
 この髑髏は、二度と微笑むことなどないのだな」〔『ハムレット』五幕第一場のパロディ〕といったふうに。
 しかし、ジャック・アタリは、エドワード・トムソンや近年再び表舞台に登場してきたアントニオ・ネグリとは違って、時局の変化にきちんと波長を合わせた鋭い政治的アンテナをもつ人物だ。
 もしもアタリがその髑髏が再び微笑むと考え、左翼によるシステム構築を志向する瀕死の説明が復活すべきものだと考えるとしても、そうなっても、現代の右翼の自由主義市場者たちの癪にさわる説明が自信過剰を引き立たせるだけであっても、彼は完全に見当違いをしている、というわけではあるまい。
 彼に同調する者がいることは、確かなのだ。//
 このように、この新しい世紀の最初の年月に私たちは、二つの対立する、しかし奇妙に似通った幻想に直面していることに気づく。
 一つめの幻想は、アメリカ人に最も馴染みがあるが、しかし全ての先進国で大いに売り出されているものだ。
 それは、今日合意されている政策は、はっきりした代替案を欠いている以上、あらゆる近代民主主義を適正に管理するための条件で、いつまでも続くものだという、注解者や政治家、専門家たちの、自惚れの強い協調主義的な主張だ。
 同時に、それに反対する者は誤解をしているか、または悪意があるのかのいずれかで、いずれの場合であれ、見当違いであることがはっきりするだろう、という主張だ。
 二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来がある、という信念だ。
 それは、コミュニズムの崩壊にもかかわらずというだけでなく、それゆえに、というものだ。
 今までのところ国際的な「辺境」や学問の周縁でのみ見られるものだが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてではないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がいないという理由で、今や再び、国際的な抵抗運動の共通手段となっている。//
 もちろん、この二つの幻想は、過去から学ぶことをともに失敗している点が、類似している。
 そして、相互依存的である点も、類似している。
 というのは、前者の近視眼こそが、後者の主張に見せかけの信頼性を与えているからだ。
 市場の勝利と国家の後退に喝采を送る者たち、今日の「平板化した」世界で経済が何の規制も受けずに主導権を握るという見通しを私たちに歓迎させたいと思う者たちは、私たちがかつてこの同じ道を辿ったときに何が起こったのかを、忘れている。
 同じことが起こったとき、彼らは激しいショックを受けることになるだろう(たとえ過去が信頼できる案内者だとしても、その場合おそらく、ほかの誰かを犠牲にーしたうえだろうが)。
 デジタル・リマスタリングされ、コミュニズムの耳障りな雑音を除去したマルクス主義のテープを再上映することを夢見る者は、すぐにでも問いかけるのがいいだろう。
 包括的な思考の「システム」のいったいどの部分が、包括的な支配の「システム」に不可避的につながることになるのか、と。
 すでに見たように、これについては、レシェク・コワコフスキを読むことで得るものが多いだろう。
 しかし、歴史が記録しているのは、時宜を得た幻想ほど強力なものはない、ということだ。//
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 以上、終わり。邦訳書のp.197まで。
 この紹介の前回部分で注記なくT・ジャットが名を挙げて言及している「マルクス主義に対して厳しい批判をする者の一人であるポーランドの歴史家」のアンジェイ・ヴァリツキ(ワリツキ)の大著については、この欄の№1549=1917年5/18で論及している。これの日本語訳書は、(もちろん?)ない。
 内容構成(目次)だけを、以下に再掲する。
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 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊〔Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995)。
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
 --- 以上。

1720/T・ジャッド(2008)によるL・コワコフスキ④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流は1976年に原語・ポーランド語版がパリで刊行され、1978年に英語訳版が刊行されている(第三巻がフランスでは出版されていない、というのは、正確には、<フランス語版>は未公刊との意味だ。-未公刊の旨自体はジャットによる発見ではなく、L・コワコフスキ自身が新しい合冊版の緒言かあとがきで明記している)。したがって、第三巻が「潮流」の「崩壊」(Breakdown, Zerfall)と題していても、1989-1992年にかけてのソ連・「東欧社会主義」諸国の「崩壊」を意味しているのでは、勿論ない。
 日本の1970年代後半といえば、「革新自治体」がなお存続し、日本共産党が「民主連合政府を」とまだ主張していた時期だ。
 1980年代前半にはこのコワコフスキ著の存在を一部の日本人研究者等は知ったはずだが、なぜ邦訳されなかったのか。2018年を迎えても、つまりほぼ40年間も経っても、なぜ邦訳書が刊行されていないのか。
 考えられる回答は、すでに記している。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べても一貫しないが、今回は原注の邦訳の一部を紹介する。原注の執筆者は、むろんトニー・ジャット(Tony Judt)。本文にも出てくる Maurice Merleu-Ponty (メルロ=ポンティ)とRaymond Aron (アロン)に関する注記が(注14)と(注15)だが、フランス語文献が出てくるこの二つはすべて割愛し、その他の後注の内容も、一部または半分ほどは省略する。
 なお、トニー・ジャットは20世紀の欧州史に関する大著があるアメリカの歴史学者で、最も詳しいのは「フランス左翼」の動向・歴史だったようだ(コワコフスキと同じく、すでに物故)。上の二人のフランス人への言及がとくにあるのも、そうした背景があると思われる。
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 『マルクス主義の主要潮流』は、マルクス主義に関する第一級の解説として唯一のものというわけではないが、これまでのところ最も野心的なものではある(注10)。
 この書を類書と分かつのは、コワコフスキのポーランド人としての視点だ。
 その点が、彼がマルクス主義を一つの終末論として重視していることの説明となりうるだろう。
 それは、「ヨーロッパの歴史に連綿と流れてきた黙示録的な期待の、現代における一変奏だ<*an eschatology-"a modern varient of apocalyptic expectations --">」。
 そしてそのことによって、20世紀の歴史に対する非妥協的なほど道徳的で宗教的とさえ言えるような読解が、許される。
 「悪魔<*the Devil>は、私たちの経験の一部だ。
 そのメッセージをきわめて真面目に受け入れるに十分なほど、私たちの世代は、それを見てきた。
 断言するが、悪<*evil>とは、偶然のものではなく、空白でも、歪みでも、価値の転覆でもない(あるいは、その反対のものと私たちが考える、他の何ものでもない)。
 そうではなく、悪魔とは、断固としてそこにあって取り返しのつかない、事実なのだ」(注11)。 
 西欧のマルクス主義注解者は誰も、どれだけ批判的であっても、このような書き方をしたことはなかった。//
 しかしその一方で、コワコフスキは、マルクス主義の内部だけではなくコミュニズムの下でも生きてきた者として、書いている。
 彼は、マルクス主義の知的原理から政治的生活様式への変遷の、目撃者だったのだ。
 そのように内部から観察され経験されると、マルクス主義はコミュニズムと区別することが難しくなる。
 コミュニズムは結局のところ、マルクス主義の実践的帰結として最も重要なものというだけでなく、その唯一のものだったのだから。
 マルクス主義の様々な概念が、自由の抑圧という卑俗な、権力を握ったコミュニストたちにとっての主要な目的のために日々用いられたことによって、時とともに、その原理自体の魅力がすり減ってしまったのだ。//
 弁証法が精神の歪曲と身体の破壊へと適用されたという皮肉な事態を、西欧のマルクス主義研究者が真剣にとりあうことは、なかった。
 彼らは、過去の理想か未来への展望に没頭し、ソ連の状況についての不都合なニュースには、犠牲者や目撃者たちから伝えられた際にさえも、平然としていた(注12)。
 コワコフスキが多くの「西欧」マルクス主義とその進歩的従者に対して強烈な嫌悪感をいだいた理由は、そのような人々と出会ったことであるのは確かだ。
 「教育のある人々の間でマルクス主義が人気を得ていることの原因の一つは、マルクス主義が形式的に単純なため、わかりやすいという事実だ。
 マルクス主義たちが怠惰であることや……〔マルクス主義が〕歴史と経済の全てを実際には学ぶ必要もなく支配することを可能にする道具であることに、サルトルでさえも、気づいていたのだ」(注13)。//
 このような出会いこそが、コワコフスキの最近出版された論集の冷笑的な表題エッセイを書かせることになった。*注(後注と区別されている本文全体の直後に追記されている文ー秋月)
 *<始まり> このエッセイ<秋月注-このジャッド自身の文章のことで、コワコフスキの上記エッセイとは別>は最初、コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』を一巻本で再刊しようとするノートン社の称賛に値する決定に際して、2006年9月の『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌に掲載された。
 私がE・P・トムソンに少し触れたことで、エドワード・カントリーマン氏からの猛烈な反論を引き起こした。
 彼の手紙と私の返答は、『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌2007年2月、54巻2号に掲載された。*<終わり> (*の内容は、原邦訳書p.197)
 英国の歴史家E・P・トムソン<*Thompson>は、1973年、『ソーシャリスト・レジスター』誌に「レシェク・コワコフスキへの公開書簡」を掲載し、このかつてのマルクス主義者を、若き頃の修正主義的コミュニズムを放棄したことで西欧の彼の崇拝者たちを落胆させた、と咎めた。
 「公開書簡」は、堅苦しい小英国主義者としてのトムソンの最悪の面を、よく表すものだった。
 それは冗長で(印刷された紙面で100頁にも及ぶ)、いばった調子で、殊勝ぶったものだった。
 勿体ぶった、扇動的な調子で、彼を信奉する進歩的読者に対しては意識しつつ、トムソンは、流浪の身のコワコフスキに対してレトリックをもって警告を与えようとし、彼の変節を咎める。
 「私たちはともに、1956年のコミュニズム的修正主義を代表する声だった。
 ……私たちはともに、スターリニズムに対する正面切った批判から、マルクス主義的修正主義の立場へと移った。
 ……貴方と、貴方の依って立った大義とが、私たちの最も内側の思考のなかに存在したときもあった」。
 トムソンがイングランド中部の葉の茂った止まり木から見下ろして言うのは、よくもお前は、コミュニズム下でのポーランドでの不都合な経験によって、われわれ共通のマルクス主義の理想という見解を妨害することで、われわれを裏切ってくれたな、ということだ。//
 コワコフスキの応答である「あらゆる事柄に関する私の正確な見解<*My Correct Views on Everything>」は、政治的議論の歴史で最も完璧になされた、一人の知識人の解体作業であるかもしれない。
 これを読んだ者は、二度とE・P・トムソンの言うことを真面目に受け取ることがなくなるだろう。
 このエッセイが分析する(そして徴候的に例証する)のは、コミュニズムの歴史と経験によって「東欧」と「西欧」の知識人たちの間に穿たれ、今日もなお残されている大きな精神的な隔たりだ。
 コワコフスキが容赦なく批判するのは、トムソンの熱心で利己主義的な努力、マルクス主義の欠陥から社会主義を救おうという努力、コミュニズムの失敗からマルクス主義を救おうとする努力、そしてコミュニズムをそれ自身の罪から救おうとする努力だ。
 トムソンはそれら全てを、「唯物論的」現実に表面上は根差した理想の名のもとに行っている。
 しかし、現実世界の経験や人間の欠陥によって汚されないままにされることによって、その理想は保たれていたのだ。
 コワコフスキは、トムソンにこう書いている。
 「貴方は、『システム』の観点から考えることが素晴らしい結果をもたらす、と言っている。
 私も、そのとおりだと思う。
 素晴らしいどころではなく、奇跡的な結果をもたらす、と。
 それは、人類の問題すべてを、一挙に簡単に解決してくれるのだろう」。//
 人類の問題を、一挙に解決する。
 現在を説明し、同時に未来を保障してくれるような包括的理論を見つけ出す。
 現実の経験の腹立たしい複雑さと矛盾とをうまく解消するために、知的または歴史的「システム」という杖に頼る。
 観念や理想の「純粋」な種子を、腐った果実から守る。
 このような近道は、いつでも魅惑的で、もちろんマルクス主義者(あるいは左翼)の専売特許というわけではない。
 しかし、そのような人間的愚行のマルクス主義的変種はせめて忘れ去ってしまおう、というのが魅惑的なことなのは、理解できる。
 コワコフスキのようなかつてのコミュニストが備える醒めた明察と、トムソンのような「西欧」マルクス主義者の独善的な偏狭さとの間に、歴史それ自体による評決が下されてしまったことは言うまでもなく、この論争の主題は、すでに自壊してしまったように見えるだろう。//
 たぶん、そうだったのだ。
 しかし、マルクス主義の盛衰の奇妙な物語を、急速に遠のいていき、もはや今日的な重要性のない過去へと委ねてしまう前に、マルクス主義が20世紀の想像力に及ぼした際立って強い支配力を思い出すべきだろう。
 カール・マルクスは失敗した予言者だったかもしれないし、彼の弟子のうち最も成功した者たちでさえ、徒党を組んだ独裁者たちだったかもしれないが、マルクス主義の思想と社会主義のプロジェクトは、20世紀の最良の精神の持ち主たちに、比類なき影響力を及ぼした。
 コミュニズムの支配の犠牲となったような国々でも、その時代の思想史と文化史は、マルクス主義の諸理念とその革命の約束がもつ、強い魅力から切り離すことはできない。
 20世紀の最も興味深い思想家たち<*thinkers>の多くが、モーリス・メルロ=ポンティによる称賛を認めただろう。
 「マルクス主義は、歴史哲学の一つというわけではない。
 それこそが歴史哲学であり、それを放棄することは、歴史に理性の墓穴を掘ることだ。
 その後には、夢や冒険が残るだけだ」(注14)。//
 マルクス主義はかくのごとく、現代世界の思想史と密接に絡み合っている。
 それを無視したり忘れてしまったりするのは、近い過去を故意に誤解することに他ならない。
 元コミュニストやかつてのマルクス主義者--フランソワ・フュレ、シドニー・フック、アーサー・ケストラー、レシェク・コワコフスキ、ヴォルフガング・レオンハルト、ホルヘ・センプルン、ヴィクトル・セルジュ、イニャツィオ・シローネ、ボリス・スヴァーリン、マネス・シュペルバー、アレグザンダー・ワット、そのほか多くの者たち--は、20世紀の知的・政治的生活について最良の記録を書き残している。
 レーモン・アロンのように生涯にわたって反コミュニストだった人物でさえ、マルクス主義という「世俗の宗教」に対する拭いがたい興味を認めることを恥じはしなかった(マルクス主義と戦うことへのオブセッションが、つまるところ、所を変えた一種の反聖職者主義だと認めるほどだ)。
 そのことは、アロンのようなリベラル派<*a liberal>が、自称「マルクス主義者」の同時代人の多くよりもマルクスとマルクス主義にはるかによく通じていることに、特別な自負を抱いていた、ということを示している(注15)。
 あくまでマルクス主義との距離を保った存在だった<the fiercely independent>アロンの例が示すように、マルクス主義の魅力は、馴染みのある物語、つまり古代ローマから現代のワシントンにまで見られるような、三文文士やおべっかい使い<*scribblers & flatters>が独裁者にすり寄るという物語、それをはるかに越えたものだ。
 三つの理由によって、マルクス主義はこれほど長持ちし、最良で最も明晰な知性の持ち主たちをこれほど惹きつけた。
 第一に、マルクス主義は非常に大きな思想だからだ。
 そのまったくの認識論的図々しさ<*sheer epistemological cheek>、つまりあらゆる物事を理解し説明しようというきわめて独特な約束は、様々な思想を扱う者たちに訴えかけたが、まさにその理由によって、マルクス自身にも訴えかけた。
 さらに、ひとたびプロレタリア-トの代わりにその名で思考することを約束する政党をおけば、革命的階級を代弁するだけでなく、古い支配階級にとって代わることも志向する集合的な(グラムシの造語の意味での)有機的知識人<*a collective organic intellectual>を創造したことになるのだ。
 そのような世界では、諸観念は、ただの道具ではなくなる。
 それらは、一種の制度的支配を行う。
 それらは、是認された路線に従って、現実を書き直すという目的のために利用される。
 コワコフスキの言葉を使えば、諸観念はコミュニズムの「呼吸器官」なのだ(ついでに言えば、それはファシズムに発する他の独裁制と区別するものだ。それらはコミュニズムとは違って、知的な響きのある教条的なフィクションを必要としない)。
 そのような状況では、知識人たち--コミュニストの知識人たち--は、もはや権力に対して真実を語るだけの存在ではない。
 彼らは、権力を持っているのだ。
 あるいは、少なくとも、この過程についてのあるハンガリー人の説明によれば、彼らは、権力への途上にある。
 これは、人を夢中にさせる考えだ(注16)。//
 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、--<以下、つづく>
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 (注10) 見事にまとまっていて、それでいて人と思想とともに政治学と社会史をも含む、マルクス主義に関する一巻本の研究として今でも最良のものは、1961年にロンドンで最初に刊行された、ジョージ・リヒトハイム<*George Lichtheim>の Marxism: An Historical and Critical Study だ。
 マルクス自身については、デイヴィッド・マクレラン(<中略>、1974)と Jerrold Seigel (<中略>、2004)による70年代以来の全く異なった二種類の伝記が最良の現代的記述となっているが、1939年に出たアイザイア・バーリンの卓越した論考、Karl Marx: His Life and Enviroment によって補完されるべきだろう。
 (注11)"Devil in History", in My Current Views, p.133。<以下、省略>
 (注12)そのような証言が信頼できないという点が、長い間スターリニズムに対して繰り返された西側諸国からの弁明のテーマだった。それと全く同じように、かつてのアメリカのソヴィエト研究者たちは、ソヴィエト圏の亡命者や移民たちからもたらされる証拠や証言を、割り引いて考えていた-あまりに個人的な経験は、その人の視野を歪め、客観的分析を妨げるのだ、と広く考えられていた。
 (注13)コワコフスキの抱く西欧進歩主義者に対する軽蔑は、彼の同朋のポーランド人やほかの「東欧人」たちにも共有されている。
 1976年に詩人アントニン・スロニムスキーは、その20年前にジャン=ポール・サルトルがソヴィエト圏の作家たちに対して、社会主義を放棄しないように、それによってアメリカ人と向き合う「社会主義陣営」が弱まってしまうことのないように、鼓舞したことを想起している。<以下、省略>
 (注14)・(注15)<省略>
 (注16) Georgy Konrad and Ivan Szelenyi, The Intellectuals on the Road to Class Power (New York: Harcourt, Brace, Jovanovich, 1979)〔G・コンラッド=I・セレニー『知識人と権力-社会主義における新たな階級の台頭』船橋晴敏ほか訳、新曜社、1986年〕。<以下、省略>
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 以上、原邦訳書の本文p.185の半ばから、p.190途中まで。後注は、同p.242-3。
 上の(注10)に邦訳者の(注16)のような日本語版紹介はないが、G・リヒトハイムの本には、以下の邦訳書がある。
 G・リヒトハイム//奥山次良=田村一郎=八木橋貢訳・マルクス主義-歴史的・批判的研究(みすず書房、1974年)。

1675/ファシズム-岩波書店「検閲済」邦訳書(2016)①。

 邦訳書として翻訳されて出版されているからといって、信頼が措けると思ってきたわけではない。
 しかし、最近はむしろ、邦訳書があること自体が、日本共産党や日本の<容共・左翼>にとって危険ではないことの証拠ではないかと、とりあえずは疑問視できるのではないか、とすら思うようになった。
 とくに、岩波書店が出版している邦訳書は、おそらくほとんどこのように判断して間違いない、つまり日本の<左翼>にとっては危険ではない(むしろ推奨される)から出版されているのだ、と推測される。
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 ここで<容共=容共産主義>の意味で「左翼」という言葉を使っている。そのような狭義の意味での「左翼」に加えて、共産主義(者)を含めて「左翼」ということもある。日本共産党は当然に後者に入る。しかし日本の共産主義者=日本共産党ではない。反・非日本共産党のマルクス主義者あるいはレーニン主義者もいる。
 <容共・左翼>と上で書いたが、したがって、どちらでも同じこと。
 「反共左翼」という言葉をネット上で見たことがあるが、秋月の用語法には、こういう概念はない。
 「反共左翼」という語の使用者はおそらく日本共産党員で、日本共産党に従わない、日本共産党を支持・擁護しようとはいない「左翼」のことを「反共左翼」と称していたと思われる。日本共産党から見て、批判・糾弾的な言葉になっていた。  
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 ケヴィン・パスモア=福井憲彦訳・ファシズムとは何か(岩波書店、2016.04)。
 1.訳者の福井は、「訳者あとがき」でこう書く。
 「…、そういうファシズム的な状況の再来に対する警戒を解いてはならない」。p.241。
 「ファシズムないしファシスト」が「世界のあちこちをも席巻し」、「…大いなる魅了と反発とを喚起し」、「そして悲惨な戦争を引き起こした時代」を忘れてしまってはいけない。「もちろん」、「大日本帝国が陥った超帝国主義やミリタリズム」についても忘れてはいけない。p.242。
 これは、翻訳ではなく、訳者・福井憲彦自身の文章
 最初の文などは、消滅しているはずのファシズムを何度でも呼び覚まそうとするのが「左翼」>共産主義者だという、フランソワ・フュレの言葉を思い出させる。
 安倍晋三や橋下徹を簡単に「ファシスト」とレッテル貼りする者、反トランプのデモで、Anti-Fascism とか Refuse-Fascist とかを書いた胸板を掲げて行進していたアメリカ人も思い出す。
 二つ目の文のように、先の「悲惨な」大戦は「ファシズム(・ファシスト)」が「引き起こした」と断定的に叙述してしまってよいのだろうか。
 もちろん、以上のように簡単に言える人ではないと、岩波書店の邦訳書の訳者にはならないのだろう。
 2.表面的な紹介等からしても、この著が欧米でのファシズム研究の現在を示しているとは、とても思えない。
 ①著者はイギリスの歴史学者で、第一の専攻は「フランス現代史」。ドイツ語文献はたぶんいっさい出てこない。
 訳者(1946-)は「フランス近現代史」が専門。たぶん、ドイツ語を使って仕事はしていない。
 ②二人とも、ドイツでの議論状況を全くかほとんど知らない。
 ドイツのエルンスト・ノルテへの言及が本文に二カ所ほどあるが、これでは何のことか判らない。 
 3.なぜ岩波書店はこの本の邦訳書を刊行したのか。
 別に述べる叙述内容を理由としているからだろう。これが決定的だ。
 しかし、形式的・表面的にも疑問視できる。
 この書物の原書は、Kevin Passmore, Fascism : A Very Short Introduction (2版加筆訂正、2014/1版2002)で、オクスフォード大学が出版している人文社会系の新書的なシリーズものの一つ。
 この全てまたはほとんどについて岩波書店から邦訳書が出版されていればまだよいが、例えばつぎの二つについては、岩波書店は邦訳書を出していない(他の日本の出版社からも出ていない)。
 Steven A. Smith, The Russian Revolution: A Very Short Introduction。〔ロシア革命〕
 Leslie Holms, Communism: A Very Short Introduction。〔共産主義〕
 この二つとも所持している。熟読はしていないが(前者にはこの欄で一度触れた)、いずれも日本の「左翼」・日本共産党にとって「危険な」部分を含んでいる。とくに前者は。といっても、欧米ではごく普通レベルだろう。
 なぜこれらの邦訳書は刊行しないで、シリーズものの一つの〔ファシズム〕についてだけは刊行するのか。
 岩波書店の、政治的判断によるとみられる
 つまり、あえて言えば、岩波書店による<検閲済み>の書物だ。むろん、社内や編集部等だけの判断ではなく、誰か研究者・学者が関与している可能性もある(訳者となった福井自身かもしれない)。
 続ける。 

1673/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)②。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 ←原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)。
 谷沢永一によるとレーニンの特徴は「徹底した現実主義、機会主義」で、「理論は否定しないが、即応もしない」というもの。そして、①既成理論に囚われず、②目的のためなら手段を選ばず、③「共産主義実現ためならすべてが許される」を方針とする。
 これはネップについても現れていて、「一時的に国内を鎮めるためなら、共産主義からの逸脱も厭わない」という考え方を象徴するものだ、とする。p.184-6。
 ネップ導入=「共産主義からの逸脱」との理解はおそらく適切なものだ。
 L・コワコフスキを参考にしていうと、ネップ導入は共産主義経済政策の失敗の是認だった。
 さらに言うと、「共産主義」経済自体が人間の本性に反するものであって、そもそもが成功する見込みがないものだった。
 食べて生きていく、そのために必要な物をまずは自分(・家族)のために得ようとする、という人間の本性を、「共産主義」は無視している。もともと、理論上・観念上の想定の失敗=非現実性がある。
 人間の本性を、イデオロギーや「独裁」あるいはテロルによって変えることができる、と考えること自体に欠陥があり、恐ろしさがある。
 元に戻ると、谷沢は、ネップについての日本共産党・不破哲三らの立論に言及していない。つまり、<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の発見・明確化という(私に言わせれば)歴史の偽造に言及していない。
 また、この本の出版の前にあった1994年日本共産党大会での、<ソ連はスターリン以降は社会主義国ではなかった>論の珍奇極まりない登場についても、触れていない。
 広くよく知ってはいると思うが、継続的な、詳しい、日本共産党ウォッチャーではなかったようだ。マルクス、レーニン、スターリンを知ることも大切だ。日本共産党のときどきの主張や政策について知っておくことも重要だ。

1671/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)。

 原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)
 → 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 読んだ痕跡があった。傍線からすると、間違いなく半分は読み終えている。
 1990年代半ば、まだ「つくる会」発足前。
 一冊全部が、反マルクス主義、反共産主義、そして反日本共産党という書物が刊行されており、そういう書物を一人で執筆できる人がいたのだ。
 谷沢永一、1929-2011。 
 上の「嘘ばっかり」で七十年、というのは、1922年創立の日本共産党が1992年に70年めを迎えたことを指すことは間違いない。
 広く知られてよいと思うので、内容構成をそのまま紹介する。文庫本による。//
 第Ⅰ部・世紀末、政治の転換点で考える。
  第1章・社会党終焉の構図。
  第2章・共産党に見る人間性の研究。
 第Ⅱ部・共産主義に躍らされた二十世紀。
  第3章・マルクスの「情念」。
  第4章・レーニンの「独創」。
  第5章・スターリンの「特性」。
 第Ⅲ部・二十一世紀へ向けての見方・考え方。
  第6章・現実対応の実証主義の時代。
 人間性を見つめて考える。//
 この人は、関西在住で、司馬遼太郎との交友も長かった。司馬や同著に関する書物も多い。
 何よりも、マルクス主義等々について、じつによく知っている。
 産経新聞社取材部編・日本共産党の研究(2016)などは、及びもつかない。
 猪木正道らの先行研究も、読んで踏まえている。
 一般的には常識でないか、知られていない、秋月瑛二が最近に読んだリチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキの本の一部と、まるで同じことをこの書物は書いているところがある。
 だが、「特定保守」あるいは「観念保守」あるいは「保守原理主義」の人たちは、きっと不満だろう。 
 なぜ、不満だろうか。そう、この本には<天皇>が出てこない。
 <天皇>中心主義は反共産主義と同義だと考えたら大間違いだ。
 <天皇>中心主義者は、そのいう観念・理念としての<天皇>を護持できるならば、共産主義者とも仲良くするだろうし、反共産主義の運動の先頭に立つことは決してない。
 その意味で、健全な反共産主義=私のいう「保守」への道筋を妨害している。あるいは、別の方向へと<流し込もう>としている。

1667/ロシア革命④-L・コワコフスキ著18章2節。

 ロシア10月革命は、「共産主義政党へと国家権力を移行させたという意味」ではなく、「マルクス主義者の予言を確認する、という意味」では、「共産主義革命ではなかった」。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。第2巻単行著・p.481、三巻合冊著・p.741。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳、第2節の前回のつづき。
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 1917年の革命④(終)。
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。<この一文、前回と重複>
 彼は実際、『古い偏見への元戻り』をするつもりはなかった。
 しかし、しばらくの間は、独裁を農民層に対して、すなわちロシア人民(people)の大部分に対して、行使しなければならないとすれば、プロレタリア-トの圧倒的多数に支持される独裁はなおあり得るだろう、と考えた。
 この幻想(illusion)もまた、とっくに消え失せた。
 しかしながら、新しい国家は、最初から、労働者および農民の多数から支持されることを想定することができた。そうでなければ、レーニンが率直に認めたように、ソヴェト権力の将来が一度ならず脅威による縛り首に遭遇しかけた、戦慄するほどの内戦(国内戦争)の苦難を生き残ることができなかったはずだ。
 その年月の間にボルシェヴィキ党が示した超人間的な活力、そして党が労働者から絞り出すことのできた犠牲的行為が、経済的な破滅、甚大な人的被害、数百万の生命の損失および社会の野蛮化と引き換えに、ソヴェトの権力を救った。
 闘いの最後の局面では、革命はさらに、対ポーランド戦争の敗北にも遭遇した。これは、ソヴェト的体制を早い時期にヨーロッパへと移植することができるだろうとの望みを、最終的に打ち砕いた。//
 1919年4月23日に、レーニンはこう書いた。
 『ロシア人には、偉大なプロレタリア-ト革命を始めることは、まだ容易だった。
 しかし、彼らが革命を継続し、社会主義社会の完全な組織化という意味での最終的な勝利まで遂行するのは、より困難だろう。
 我々が始めるのは、まだ容易だった。その理由は、第一に、ツァーリ君主制という-20世紀の欧州にしては-通常ではない政治的な後進性が、大衆の革命的襲撃に通常ではない力強さを与えてくれたことだ。
 第二の理由は、ロシアの後進性が、ブルジョアジーに対するプロレタリア革命を、土地所有者に対する農民革命と独特なかたちで融合させてくれたことだ。』
 (『第三インターナショナルとその歴史上の地位』、全集29巻p.310〔=日本語版全集29巻308頁〕。)
 1921年7月1日、コミンテルン第三回大会で、レーニンは問題をより明快に述べた。
 『我々は、ロシアで勝利した。このように容易だったのは、帝国主義戦争の間に我々の革命を準備していたからだ。
 このことが、第一の条件だった。
 ロシアの数千万の労働者と農民が、戦闘をしていた。そして、我々のスローガンは、いかなる犠牲を払っても即時の講和を、というものだった。
 我々が勝利したのは、きわめて広範な農民大衆が大土地所有者に反抗する革命的な気持ちを持っていたからだ。』
 第二に、『我々が勝利したのは、持ち前のものではなく社会主義革命党〔エスエル〕の農業問題綱領を採用し、それを実践に移したからだ。
 我々の勝利は、社会主義革命党の綱領を実行したことにあった。』
 (全集32巻p.473, p.475〔=日本語版全集32巻504頁、506頁〕。)//
 レーニンは、実際、ロシアの共産主義者がヨーロッパの諸党のように『生産関係と生産力の間の矛盾』が必要な地点まで成熟するのを待たなければならなかったとすれば、プロレタリア革命の希望を捨て去るのを余儀なくされただろう、と認識していた。
 また、彼は、ロシアでの事態の推移は伝統的なマルクス主義の図式(schemata)と何の関係もない、とうことを十分に意識していた。その全ての関係にかかる理論上の問題を考察しなかったけれども。
 ロシア革命の圧倒的な力強さは、労働者とブルジョアジーの間の階級闘争にあったのではない。そうではなく、農民層の熱望、戦時中の大失敗、そして平和への渇望にあった。
 共産党(共産主義党)へと国家権力を移行させたという意味では、共産主義革命だった。
 しかし、資本主義社会の運命に関するマルクス主義者の予言を確認する、という意味での共産主義革命ではなかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 第2節、終わり。第3節の表題は、「社会主義経済の始まり」。<ネップ(新経済政策)>への論及が始まる。

1658/中西輝政と西尾幹二②。

 中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
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 「共産主義は当時からアジアの平和をかき乱す最大の要因だったわけです。それをなぜ、懇談会報告書は無視したのか」。「中国共産党への迎合ではないか」。p.75。
 「歴史問題には、戦後日本が抱え続けてきた『闇』が伏在しているように思えてな」らない。p.76。
 「ロシア革命の1917年ごろから、日本は共産主義の悪しき影響を受け続けてきた」。p.77。
 「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメントが日米関係を最重視する特定の歴史観を『オーソドクシーとして動かさないぞ』という、非常に強い意志がある…」。p.78。
 以上、中西輝政・月刊正論2015年11月号(産経)。
 「20世紀は、四つの大きなイデオロギーに支配された世紀でした」。①ファシズム、②共産主義、③「白人文明覇権思想」、④「アジア主義」。日本の④が「イデオロギーとしては最も貧弱」。20世紀はあとの三つ、「つまり西欧が創り出したイデオロギーによって攪拌された」。p.83。
 「それらの根はただ一つ、フランス革命に端を発して」おり、「アメリカのフェデラリズム」と「ソビエトの革命思想」に流れるものの二つがあった。「それに対するアンチ・フランス革命の思想としてナチズムが生まれた」。p.83。
 「そういう思想どうしの戦い」、「 いわば西洋の『内戦』に日本は否応なく参戦させられた」。中国も「参戦」した。中国は共産主義の側に立ち、日本は「欧米帝国主義に最も近いようでいて、実際にはどれにも属さない形で、西洋の価値観との争いのボーダー上のに自らを置いて歴史を刻んできた」。p.84。
 20世紀の日本には「この三つのイデオロギーが全て入ってき」たが、「どのいずれにも徹底的に属することはしなかった」。常に「どこにも所属しない孤独の中にあった」が、「そういう自己像を、当の日本人自身が把握しきれていない。そこに今日の混乱の根がある」。
 以上、西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)。
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 少しばかりのコメント。①中西輝政のいう「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメント」なるものがきわめて気になる。読売新聞社も、産経新聞社(フジ・産経グループ)もその中に入っているのではないか。
 ②西尾幹二の歴史把握は鋭いだろうが、分類・系統化に全て賛同するものではない。

1639/産経新聞「産経抄」7/8のお粗末。

 産経新聞7月8日付「産経抄」は<日本の無防備なまでの寛容さ?共産党躍進の不思議>というタイトルらしい。その中で、つぎのように書く。
 「共産党は昨年7月の参院選でも改選3議席を6議席へと倍増させており、じわりと、だが確実に勢力を伸長させている。民進党が、自民党批判の受け皿にも政権交代の選択肢にもなれずにいる体たらくなので、その分存在感を増しているのだろう。/
 ただ、こうした日本の現状は、世界的には稀有な事例らしい。歴史資料収集家の福冨健一氏の著書『共産主義の誤謬』によると、先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという。米国や英国、ドイツ、イタリアなどでは共産党は国政の場に議席を持っていない。」
 なんとまぁ、無邪気なものだ。
 共産党をめぐる「日本の現状は、世界的には稀有な」こと、「先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという」ことをこの産経抄子さまは知らなかったようなのだ。
 今年になってからのフランス大統領選挙で、共産党候補の名は出ていたか?、ついでに社会党候補はどうだったか? 社共連立の社会党大統領だったのは1980年代のミッテランだったが、その後、フランス共産党が与党の大統領はもちろん皆無だ。
 ドイツやイギリスの国政・地方選挙に関する報道を見ても、「共産党」が存在しないか、政党要件に適合している容共産主義政党・政治団体がある程度活動しているくらいしかないのことは分かるだろう。ドイツには、「左翼党」(Die Linke)という政党はあり、「社会主義的左翼(Sozialistische Linke)」と称する分派?もあるらしい。少なくとも前者は、とくに旧東独地域で議席も持つ。
 天下の大新聞、産経新聞の「産経抄」子さまが、上の程度なのだから、他の産経新聞社の者たち、月刊正論編集部の菅原慎太郎らの共産主義・共産党に関する知識・認識の乏しさも理解できる。
 これまで何もコメントしていない、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞、2016.06)もヒドイもので、これでよく「研究」と名乗れたものだと思った。
 この本で面白かったのは、地方自治体の職員・議員(、ひょっとして部・課といった機構そのもの?)に対する「赤旗」拡大の実態くらいだった。このレベルで、日本では大手新聞社が<共産党研究>と掲げる書物を刊行できる。
 これが日本の容共産主義性の強さ、反共産主義性の弱さの実態だ。
 ところで、冒頭の「産経抄」は、知ってはいたが、福冨健一・共産主義の誤謬(2017)を宣伝するために敢えて上のように書いたのだろうか。そうだとすると、いろいろな宣伝方法があるものだ、と思う。
 しかし、この福冨健・共産主義の誤謬(2017)を私も入手して一瞥しているはずなのだが、私にとって新しい又は有益な情報を与える部分はたぶんなかったと思う。そうでなければ、何がしかの記憶に残っている。
 いずれにせよ、日本で本格的なまとまった共産主義研究書、日本共産党の(人文・社会科学的かつ総合的な)研究書はない。
 容易に新書(せいぜい二冊・上下本)くらいで邦訳出版されてもよさそうな、リチャード・パイプス・共産主義の歴史は、別のタイトルで目立たないように翻訳されている。
 Leszek Kolakowski の Marxism に関する大著の邦訳書もない。しつこく書いているが、この人のこの著だけではない。訳されてよいような共産主義・共産党(レーニンを当然に含む)批判的分析書は、かなり多く日本には、日本語になっては、入ってきていない。焦らないで、じっくりと紹介していく。
 そのような<文化>の一翼を担っているのが、産経新聞社だ。

1616/社会主義・ドレスデン-若き日の。

 私的に喋ったことはあるが、文章で記したことはない。今のうちに書き残しておこう。
 1989年ベルリンの壁崩壊(開放)以前の旧東ドイツ。ドイツ民主共和国と日本で称された国家がかつてあった。その時代の、ドレスデン(Dresden)。 
 一、一人の「自由行動」のとき。
 ・たぶん強制的に国境で交換させられた東ドイツ・マルクと思っていたものが「インター・ショップ(Intershop)」の金券のようで、ふつうの店では通用しない。
 そこで銀行らしきものへ行ってふつうの東ドイツ・マルク(紙幣)に替えてもらおうと少し並んだあとで提示すると、中年から初老の係員・男性が、自分のたぶんズボンの中から紙幣を取り出して、交換してくれた。
 そのときは、何しろ言葉の問題もあり、よく分からなかった。その紙幣を使って、街の中でふつうに買い物をした。
 あとで考えると、あのオジさんは、自分の私的な金と「インター・ショップ」の金券とを替えている。「インター・ショップ」とは(いつ、きちんと理解したか怪しいが)、東ドイツから見ての外国人専用の店だ(少し割高なのだろうが、販売されている品物の種類が少なかった、と思う)。
 つまり、「インター・ショップ」で、外国人しか買えない商品を、彼は購入したかったのだ、と思われる。
 だから、おそらく、たまたま東洋人が交換するために来たのを好機に、個人の金と交換したのだ。きっと、職務違反だったのではないか。
 ・その金・紙幣を持って、入った一つが書籍店だった。
 ①ドレスデンの市街地図、②国家または共産党(社会主義統一党)発行の本を数冊、などを買った。
 ①は、勝手に持ち出してよいのか、とたぶん在東独中にすでに懸念した。しかし、出るときには入るときのような厳密な検査はなく、問題はなかった。しばらく日本でも持っていたが、のちに結果として再訪するときには、もう見失っていた。
 その地図には、たぶん、宿泊場所も自分でマークしていたように思うが、再訪時以降ずっと、いったいどの辺りに泊まったのか分からなくなった。
 個室の寝室と建物の印象だけは、少し記憶がある。
 ②は、たぶん今でも持っている。現在は古書でも入手し難いだろう、東独共産党の綱領を説明したような小冊子もある。あとは、かつての仕事に関係がある書物。紙質が、当時の西ドイツのものと比べて、はるかに悪い。
 ・帰りのバスの発車時刻・場所に早く行って立って待っていると、小ぎれいな少年がまとわりついて何か言うので、ゆっくり聞いてみると、「その腕時計を僕にプレゼントしてくれないか?」だった。
 プレゼントとは正確には、schenken で<贈る>というような意味だ。
 「くれないか?」、geben では失礼だと思ったのだろうか。
 年齢を訊くと、11歳だと答えた(数字なので、簡単に聴き取れる)。
 日本について何か知っている?、と尋ねると、答えは短くて、ほとんど「産業(・工業)」という言葉だった、と思う(たぶん)。Industrie, industry だ。
 使用中の腕時計を渡すわけにはいかないので、どうしようかと思っていると、ふと使い残しの<東ドイツ・マルク紙幣>があるのに気づいて、キリのよいところで数枚か、または紙幣全部かを与えた。西独で通用するはずはないので、記念にでも持って帰ろうと思っていたのだろう。
 腕時計の価格よりはだいぶ少ないが(おそらく)、彼にはきっと大きな臨時収入だっただろう。
 その場所も、今ではすっかり忘れてしまった。塀か建物に囲まれた広い敷地内を十台未満の、灰色の自動車が走っているのが見えた。あとで西独か日本で、<トラバンテ>という名前だと知った。その特定の種類の同じ型の車しか見なかった。
 二、つぎに、そのとき知り合った別の日本人一人(男性。以下、『彼』)と二人だけで「自由」に行動したとき。
 ・年長の彼は、はるかにドイツ語が流暢だった。
 二人でどこへ行こうかと迷っていたときに(私はたぶんほとんど彼に任せていた)、地図か何かを見たあとで、彼が、今思うとドレスデン中央駅の旅行案内所のような場所だったが、係の女性に尋ねた。
 「カール・マルクス・シュタット。これ、いい響きたけど、どう?」
 「シュタット」とは市・都市のことだ。その当時、じつに感慨深く思いもするが、「カール・マルクス・シュタット」という都市が、ドレスデンの西南方にぁった。今の、ケムニッツ(Chemnitz)だ<ツヴィカウ,Zwickau と書いていたのは誤りー後記>。
 彼の「いい響きだ」とは、たぶん単純に、klingt gut だった。
 褒められるとふつうは嬉しく思うようにも思うが(?)、こうして記憶に残っているのは、何とも不思議な、どう反応してよいか分からないふうの表情を、相手の東独女性がしたからだ。
 東洋人に「カール・マルクス」市って、よい響きだね(、行ってみる価値がある?)」と言われて、戸惑うのも理解できるような気もする。
 なお、余計かもしれないが、「彼」 はマルクス主義者でではない(はずだ)。しかし、カール・マルクスの名とそれが持つ東ドイツにとっての意味くらいは知っていたことになる。そして、東ドイツの真ん中で<カール・マルクス>市って<いい響き>の名だと東独の人に言うのは、かなりの勇気と根性のある人だったのではないかと、少しは面白く思い出す。彼は現在の私よりは、はるかに若かった。  
 ・ライプツィヒ(Leipzig)まで1時間くらい鉄道に乗って行った。彼と一緒だからこそ乗れて、行けた。
 西独は当時「ドイツ連邦鉄道」だったが、東独は「ドイツ・ライヒ鉄道」。「ライヒ」はつうは「帝国」と訳すのだが、東独が「帝国」というのは奇妙だろう。ドイツの現在は同じDBでも、民営化(または半民営化)されて、「ドイツ鉄道」になった。
 余計だが、ワイマール憲法は、正式には、「1919年…のドイツ・ライヒ憲法(Reichsverfassung)」という。
 ライプツィヒ中央駅からたぶん歩いて、バッハゆかりの教会まで行った。中に入った記憶はないが、近くの建物の地下にある、喫茶店かレストランに入って、喫茶したか、軽食を摂った。
 駅までの帰り途中で、屋外に作った長い幅広の廊下のごときものの上で、若い女性が(数人だったか)歩き回っていた。彼はすぐに分かったようで、彼によると、西独または外国から来たファッション・モデルで、本来は衣服の宣伝の催しのようだった。長居しなかったのは、ドレスデンまで帰る必要があったからだろう。
 ・途中で降りて、マイセン(Meissen)にも寄った。
 市役所か大きな建物の上の方の壁に、きっと彼が訳してくれたのだが、こう書いてあった(ようだ)。字数はもっと長かった気もする。
 「我々を解放してくれた、ソヴェト・赤軍に感謝する!!」。何と。
 夕食にしようと長い行列にくっついて待っていたが、なかなか順番にならない。いいかげんに疲れてきたところで、彼が「ダメだ、無視されている」とか言って、そこで食事にするのは諦めた。では、どこで食事したのだろうと思うが、記憶がない。
 ・明らかにもう一度鉄道に乗って(だが、記憶がない)、ドレスデンまで帰ってきた。
 と言っても中央駅ではなく、ベルリン寄りの一つ北の駅で降りた。エルベ川よりも北。
 直訳すると「ドレスデン・新都市」駅になる。新都市=Neustadt 。大阪、横浜に対する「新大阪」、「新横浜」といったところか。全く同じような位置関係・雰囲気でもないが。
 その駅を出て、休憩しようと、休憩・待合室に入った。広いホールのようだった。
 そこで、最も記憶に残る経験をした。
 座って、彼が「自動的に」タバコを取り出して吸おうとライターで火をつけようとした瞬間、前に座っていた(4人または6人掛けの大きな古い木テーブルだった)東独男性の1人が、<ダメ>と言った。さらに、<警察(Polizei)>という語も分かった。
 要するに、その部屋は禁煙で、喫煙などはもっての外、見つかると<警察>がくるぞ!、あるいは<警察>が来てやられるぞ!、とか言っていたのだ。大変な目つきだった。
 彼は、<座るとつい自動的に(automatisch)>とか言って、釈明した。
 そういう光景もなのだが、それ以上に印象に残ったのは、そのホール状の休憩・待合室の<異様な>雰囲気だ。
 ホールのようと書いたが、少なくとも20ほどはテーブルがあっただろう。
 そして、ほぼ満席だった。空いている箇所を見つけて二人は座った、と思われる。
 鉄道駅の駅舎の中にあったのだからきっと休憩・待合室のはずなのだが、鉄道を利用する雰囲気の人々では全くなかった。おそらく全員が男性、しかもほぼ40-55歳の中年男性だった。
 そういう人たちが、時間的には自宅で夕食を摂る直前の時間帯だっただろうか、何をするでも、何かを隣席の者と陽気に話すのでもなく、ただぼんやりと、じっと座って、何かを考えているふうだった。
 記憶に残るというのは、日本でも西独でも、かつ今までどの時間でもどの国・地域でも、あれだけの人数のほぼ同年代の(かつ似たような服装の)男たちが、じっとうずくまるように、あるいは疲れたふうに、気だるく、無気力でほとんど黙って座っているのを、見たことがないからだ。
 あれは一体何だったのだろうと、思い出す。
 失業中の人たちというのでもないだろう。たぶん、仕事が終わって、自宅に帰るまでの間(そういうものがあるという前提だが)、自由に(無料で)利用できる、自由に(無料で)座れる駅舎の中の広い部屋で<時間を潰して>いたのだ、と思われる。
 <社会主義・ドレスデン>というと、このイメージが強くある。
 灰色。黒に近い方の灰色。服装も、駅舎も、少しは茶系統の色が混じっていたはずだが(木製のテーブル等だったので)、そういうほぼ単色の記憶が残る。
 そこに、100人近い、少なくとも50人以上の男たちがじっと座っていた。陽気で愉しい会話らしきものは、何も聞こえなかった。
 慌ただしくそこを去って宿泊場所に戻り、かつ慌ただしく翌日には西ドイツに再びバスで戻ったはずだが、このときの記憶はずっと残り続けた。 
 --
 ドイツの再統一後、このドレスデンに合計で一週間ほど滞在するとは思ってもいなかった。
 というよりも、この経験があったからこそ、より自由に行ける時代になって、ドレスデンを再訪してみたかったのだと思われる。
 そしてまた、1992年以降に再訪したときの主な宿泊場所は、最寄りの鉄道駅が上記の「ドレスデン・新都市」駅だった。駅舎の建物自体のの大枠は変わっていないと思われた。旧時代もまた高架駅で、すぐ南に直角に下をくぐる通りがあった。
 休憩・待合室がかつてあったらしき場所も駅舎内にあった。
 だが、日本でいうコンビニ又はキオスク、花屋、等々に分割されていて、かつての雰囲気を思い出させるものは、何もなかった。しかし、同じ場所には立った。南北方向の駅舎の中央に東から入る、乗降に使う空間・通路があり、その空間と南側の一つの幹線道路らしき通りの間、つまり駅舎の南半分あたりに、かつての休憩・待合室はあった。
 夕方の賑わいぶりは、全く違う駅と街だと思わせるほどだった。しかし、駅の名前と駅舎の大枠は変わっていない。
 --
 この都市名、ドレスデンも、日本人には正確に発音しづらい。最初を強調して、レースデンと、「ド」を付けない方がむこうでは理解されやすいのではないか。
 ベルリンは当時も「西ベルリン」が「西側」諸国に開いていたので、ベルリンは訪れる機会が全くなくはないだろうと思っていた。だが、ドレスデンは、その機会に行かないとたぶん絶対にじかに見ることないだろうと当時は思っていた。
 だから、いくつかの「東ドイツ」訪問小旅行の企画のうちで、ドレスデン行きを選んだのだった。

1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
 ーーー
 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、ということが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用していながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人は、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていた。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Freedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の(小さな)私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)するという「私的財産」の「自由」の行使を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。
 市場とは当然に「自由」を前提にする。両者はほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンによる批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1566/『自由と反共産主義』者の三つの闘い⑥-共産主義とリベラル民主主義。。

 「池よりも、湖よりも海よりも、深い涙を知るために。/
  月よりも、太陽よりも星よりも、遠くはるかな旅をして。」
 小椋佳・ほんの二つで死んでゆく(1973)より。作詞・小椋佳。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 すみやかに正しておこうか。
 前回に 1) 2) は勝利できる可能性はあるが(つまりは極端にいえば<全面対決>の問題だが( -1)はデマとの闘い)、3) はこれと違って、どう<切り分ける>かの問題だというようなことを書いた。
 次元の違いを意識したつもりだったが、どうも考え不足だ。
 つまり、Liberal Democracy の中に、「共産主義(communism)」は含まれるのか、という問題だ。
 言葉ないし概念の問題として、含まれているとすれば、Communism をまずはLiberal Democracy から除去する闘いを先にして勝利したうえで、Liberal Democracy のうちから「日本」と矛盾しない、又は積極的に採用すべきものを<切り分けて>取り出すことになる。
 含まれていないとすれば、それはそれで、前回のとおりの説明でよい。
 しかし、欧米的 Liberal Democracy は、Communism と異質なものだろうか。
 これは言葉・概念の問題として処理してもよいが、歴史的・思想史的な考察も必要だ。
 既存の知識によれば、二つの理解がありうる。
 一つは、ズビグニュー・ブレジンスキーが語っていたことで、欧米的なフランス革命以降の「自由・民主主義」は「共産主義」とは無縁で、後者は前者の正常な進行から「逸脱」したものだとする。
 一方で、読んできたものの中では、フランス革命-ロシア革命を一つの線上に、つまり前者の不可避的な(あくまで一つだが)結果と考えるものが多いようだ。
 ルソー/フランス革命-マルクス・レーニン/ロシア革命、という系譜になる。
 フランソワ・フュレもその一人で、この人は、フランス人だからだろうか、マルクスの諸叙述の中のルソーやフランス革命への言及の仕方を追跡しようとすらしている。下記。
 マルクスとフランス革命=今村仁司他訳(法政大出版局、2008)。
 ルソー・「市民革命」にマルクス主義やロシア革命の淵源の確かな一つを見る。
 また、マルクスも、<ブルジョア民主主義革命>の担い手たちへの敬意を隠さなかったし、一度だいぶ前に、レーニン『国家と革命』に関する平野義太郎の分析・注釈書を通じて、レーニンもまたフランス革命を大いに参照していたことを記したこともある。
 前回に書いたときの感覚とは違って、やはり、欧米的 Liberal Democracy とCommunism は無関係ではない。そもそも、後者は、日本とは無縁に、ヨーロッパで(ドイツ人により)生まれた異質な思想であるとともに、欧米的 Liberal Democracy がなくしては、誕生していないだろう。
 「奇胎」・「鬼子」かそうでないかは、一種の価値判断を含む。
 「奇胎」・「鬼子」か正嫡子かのどちらかであれ、あるいは「逸脱」か「発展(の一つ)」のいずれであれ、欧米的 Liberal Democracy の基礎のうえに「共産主義」もある、という理解がおそらく適切だろう。
 そうだとすると、2) の闘いは、当然に、3) の中にも持ち込まれ、やはり結局のところ、三つの闘いは相互に分かち難く、相互に関連しあっていることになる。
 しかし、どうもこの 3) の論点が最終の基本的課題にはなりそうだ。ずるずると他の論点を引き摺りながら、この論点を意識した論争もまた必要であることになる。
 あえて文献を提示しないのだが(それをすると途方もない時間がかかる)、中川八洋には、2) に関するきわめて旺盛な問題意識がある。彼の目からすると、反共産主義の姿勢が明確でない者は、全て<日本共産党員>であると-ここでは極端に概括しているかもしれないが-見なされる可能性がある。西尾幹二も、櫻井よしこも変わりはない。
 しかし、中川八洋の問題性は(反共産主義の点で全く問題がないとは思わないが、それはさて措き)、3) の問題意識がないか希薄なことだろう。
 一方、佐伯啓思には、3) に関する問題意識が強くある。しかし、佐伯啓思には、2) の問題関心がないかきわめて乏しい。「日本会議」宣言書のご託宣のごとく、「マルクス主義」との闘いはもう必要がないがごとくだ。
 また、せっかく反 Liberal Democracy の趣旨を詳しく説きながら、佐伯啓思における「日本」は曖昧なままだ。西田幾多郎等々に少し遡っただけでは、たどり着けないのではないだろうか。
 「日本」とか「愛国心」とかを語りつつ、佐伯啓思における日本の将来像はクリアではない。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを期待してもいない。
 それぞれに限界はあるものだと、思わざるをえない。
 佐伯啓思は「日本会議」派に比べるとはるかに理性的・合理的だが、しかし、例えば日本の現実政治についての「感覚」は、どこかおかしい。橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>などを指摘し始めてから、私は佐伯から離れてしまった。たかが大阪府知事・大阪市長にこのような大仰なことを言うのは、<ファシスト(ハシスト)>扱いと、どこが違うのだろうか。
 もとより、日本に関する中川八洋の個々の政治的「感覚」が適切である保障もない。
 個々の政治的選択・判断を問題にしようとは考えていない。
 日本の論者は、月刊誌や週刊誌に書きすぎる。書きすぎるから、本来の得意分野以外にまで手を出して、つい<識者>らしきことを書いてしまう。
 これは、産経新聞社を含む日本のメディア、出版業界の問題でもある。多くの「評論家」・大学教授類の一部は、出版業に雇われる「使い走り」・「文章作成係」になっている。
 きちんとした評論書・時代分析書・将来展望書は、2年くらいの期間をかけないときちんとは執筆できないのではないか。
 月刊誌(または櫻井よしこのごとく週刊誌)に書いたものをあとでまとめて、ハイ一冊、という本の作り方では、いかほどに真摯な思考が、体系的にまとめられているかは疑問だ(もちろん、人によるが)。櫻井よしこは、自分は毎年少なくとも二冊を刊行している大?「評論家」・「ジャーナリスト」などと妄想しない方がよいだろう。既述のとおり、自分の言葉は10%以下、他人・第三者からの紹介・引用が半分程度、あとは公開事実の<要領のよいまとめ>だ。また、この人には、平気で<剽窃>のできる、希有の才能がある。
 じっと深く思考することが必要だが、その際に重要なのは、基本的な<論争点についての位置の自覚>だ。
 いったい何のための、いったいどういう次元の、いったい誰を相手(「敵」)にした議論をしているのか?
 日本の<保守>派の混迷は、基本的に、これに無自覚なところにあると思われる。
 櫻井よしこ又は「日本会議」派は、いったい何を追求しているのか?
 訳が分からなくなって、精神的頽廃に落ち込んでいる者もいる。ただ毎日を忙しく過ごして、自分の「名誉」又は「顕名欲」さえ守れればよいと思っている人もいる。
 西尾幹二にも、中西輝政にも、十分な満足は感じていない。相対的にまだマシだと思っているだけだ。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを求めるつもりはない。
 上のように並べても、西尾幹二と中西輝政が同じであるはずはない。
 こんなことを書いていても、<大海の底の小さな貝の一呼吸>が生むほんの小さな水の揺るぎにすぎないだろう。
 それでよい。つまらないことを書きなぐって、後世に恥をさらす櫻井よしこよりは、まだ生きている価値がある。
 それにしても、櫻井よしこの<悲しいほどに痛々しい>ことの理由、背景は、いずれにあるのか。

1565/共産主義との闘いを阻むもの②-主要な全てが翻訳されているのでは全くない。

 ○ ふだん目にしないところに置いてあった、つぎの書物を見つけた。
 ① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).
 Gulag の正確な発音はよく分からない。いずれにせよ、レーニン以降のソ連にあった、「強制収容所」のことだ。concetration camp と、英語で書くこともある。
 本文の冒頭(第一部第1章)で要領よく、十月政権奪取・レーニンの権力掌握くらいまで、一気にほぼ一頁くらいでまとめている(p.27-p.28)。
 p.28の最初の段落の初めは、「ボルシェヴィキの本性がミステアリアスだったとすれば、その指導者…レーニンはもっとミステアリアスだった」。
 p.28にある最後の段落の直前は、「新しいソヴェト国家は、1921年までは相対的な平和を知らないことになる」。
 ここに注記番号があるので注記の参照文献を見ると、つぎの二冊が挙げてあった。
 ② Richard Pipes, The Russian Revolution 〔ロシア革命〕, New York, 1990。
 ③ Orlando Figes, A People's Tragedy〔人民の悲劇〕: The Russian Revolution, 1891-1924, London, 1996。  
 ②はこの欄で一部を試訳中のもので、邦訳書はない。
 ③のファイジズのものは、この人の本の邦訳書はあるのでその中に含まれていたかとも思ったが、調べてみると、③にはなかった。
 邦訳書があるのは、つぎの二つ。
 ④ Orlando Figes, The Whisperers: Life in Stalin's Russia (2007).
 =染谷徹訳・囁きと密告-スターリン時代の家族の歴史/上・下(白水社, 2011).
 ⑤ Orlando Figes, The Crimean War: A History (2011).
 =染谷徹訳・クリミア戦争/上・下 (白水社, 2011).
 ④のスターリン時代はロシア革命・レーニン時代の後で、⑤のクリミア戦争はロシア革命以前の19世紀半ば。
 ロシア革命・レーニン時代を含む③については、邦訳書がないのだ。邦訳書のあるマーティン・メイリア『ソ連の悲劇/上・下』と同じ< Tradegy(悲劇) >が使われていて、少し紛らわしい。
 しかも、近年までも含めて、この時期を含むファイジズの著作は、他にもある。私は、所持だけはしている。
 ⑥ Orlando Figes, Peasant Russia -Civil War: The Volga Countryside in Revolution 1917-21 (2001).
 ⑦ Orlando Figes, Revolutionary Russia, 1891-1991: A History (2014).
 
 邦訳書を通じて全く知られていないわけではないO・ファイジズの、レーニン時代を含む著作だけは邦訳書がないのは、何故なのだろうか?
 ちなみに、⑧ Tony Brenton 編, Historically Inevitable ? 〔歴史的に不可避だったか?〕: Turning Points of the Russian Revolution (2016) がロシア革命100年を前に出ていて、Orlando Figes も Richard Pipes も執筆者の一人だが、これにも今のところ邦訳書はない(今後に期待できるのだろうか ?)。
 元に戻ると、A・アップルバウムの① Gulag -A History (Penguin, 2003) もまた、邦訳書がない。これにはやや驚いた。
 この本は2004年ピューリツァー賞受賞。著者は<リベラル>系ともされるワシントン・ポスト紙に在職していて、欧米の本には表紙かその裏によくある称賛書評の一部の中には、あの『南京のRape』のアイリス・チャン(Iris Chang)や、レーニン・ロシア革命に対する<穏便派>の(但し称賛までは無論しない)ロバート・サービス(Robert Service)によるものもある。
 大著とまでは言えない、この① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).には、何故、邦訳書が存在しないのだろうか。
 決して、日本の<左翼>が端から鼻をつまむような本ではないようにも思えるのは、上記のとおり。
 これが敬遠されている理由としては、レーニンとその時代に、ソ連のスターリン時代をより想起させるかもしれない<強制収容所>の淵源はあり、かつ建造されていた、という事実が、詳しくかつ明確に語られているからではないか、とも思われる。スターリンは、レーニンが作った財産を相続したのだ。
 この本によってアメリカおよび英語圏の又は英語読者のいるヨーロッパ諸国では当たり前の<知識・教養>になっていることが、日本では必ずしもそうなってはいない、ということになる。
 ○ あらためて書き起こそう。
 日本において、スターリンまたはその時代を批判する外国語(とくに欧米語)文献ならば、比較的容易に翻訳され、出版されている、という印象がある。
 なぜか。①日本共産党が(ロシア革命・レーニンは擁護しつつ)スターリンを批判してソ連を社会主義国でなくした張本人だと主張しており、スターリンを批判するという点では、②反日本共産党のいわゆるトロツキストと呼ばれる人たちや、③スターリンを肯定的には語れなくなったがレーニン・ロシア革命は何とか憧れの対象のままにしておきたい、そしてマルクスは「理論的」には価値ある仕事をした英才だとなおも考えている、またはそのように<思って>もしくは<思いたくて>、かつての「左翼」傾倒を自己弁明したい、広範な「左翼的」気分の人々にも、受容されうるからだと思われる。
 つまり、日本には、<スターリン批判本>だけは、なおも「市場」があるのだ。
 それに比べて、ロシア革命・レーニンやその基礎にあるマルクスを批判したものは人気がない、と思われる。
 マルクスを「理論的に」批判したものはむつかしい「理論」に関係しそうなのでまだよいが、ロシア革命とレーニン時代の「現実」を明らかにする本は、それが歴史であり事実であっても、受け入れたくない雰囲気がなお残っているように感じられる。
 いわゆるトロツキストあるいは反日本共産党の共産主義者や「左翼」にとっても、ロシア革命・レーニンとマルクスはなおも基本的には擁護されるべき対象なのだ。
 彼らには、L・トロツキー自体が、レーニンとともに「ロシア10月革命」を成功させた大偉人(又は見方によれば「張本人」)なのだ。たしかに、10月のクーは、ペテログラード軍事組織の長だったトロツキーの瞬時的判断と辣腕なくして、成就していない。
 ○ 考えすぎだ、「自由な」日本で、そんなことはないだろう、という反応がありそうなので、さらに続ける。
 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948~2010)はニューヨーク大学の欧州史専門の教授だった人だが(Tony Judt, Postwar: A History of Europe Since 1945 , など)、つぎの小論集も遺した。 
 ⑨ Tony Judt, When the Facts Change: Essays 1995 - 2010 (2015).
 この中にレシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)逝去後の、書評誌掲載の追悼文章が収められていて、L・コワコフスキについてこう書く部分がある。
 「宗教思想史の研究者としてと同等の高い位置を占める、唯一の国際的に名高い( only internationally renowned )マルクス主義に関する研究者…」。
 「悪魔」に関するコワコフスキの講演を聴いたことから始まるこの追悼文は神学・宗教学やポーランド等の「中央欧州」の文化風土等にも触れて、L・コワコフスキの<複雑な>人生と業績を哀悼感豊かに述べている(このレベルの追悼文は日本ではほとんど見ない)。
 それはともかく、「国際的に」がたんにアメリカとヨーロッパだけだったとしても、L・コワコフスキが欧米ではマルクス主義(に関する)研究者として(も)著名だったことは分かるだろう。
 しかして、⑩ Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism 〔マルクス主義の主要な潮流〕(英語版合冊, 2008)の邦訳書すらなく、L・コワコフスキの名すらきちんと知られていないのが、日本の知的雰囲気の実態だ。いったい、何故だろうか。
 L・コワコフスキは、マルクス-レーニン-スターリンを正面から「哲学的に」分析する。
 ⑫ Andrzei Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995).
 これにも、邦訳書はなく、存在すらほとんど知られていないことは既に記した。なお、この人には、A History of Russian Thought from the Enlightenment to Marxism (1988, 英語訳版) もある。
 箸にも棒にも引っ掛からない下らない書物であれば、それで当然かもしれない。
 しかし、本文前の注記によると、Andrzei Walicki は、Zbignew Pelczynski と John Gray (ジョン・グレイ、ロンドン・複数の邦訳書あり)の1984年の共編著に「マルクス主義の自由の観念」と題する寄稿を求められて執筆し、その寄稿を読んで関心をもった「旧友」のレシェク・コワコフスキから、この主題での研究を続けるようにと鼓舞されている。
 上の⑫は、決して無用の著ではない、と思われる(なお、このワレツキもポーランド出自だとのちに分かった)。
 なぜ、この本は日本人には、日本の学界や論壇では(L・コワコフスキ以上に ?)知られていないのか ?
 きっと、日本共産党や日本の共産主義者・マルクス主義者あるいは「左翼」にとって<危険な>本だからに違いない。そして、<利益>を気にする出版社は、邦訳書を出そうとはしないに違いない。 
 ちなみに、L・コワコフスキ『マルクス主義の主要な潮流』の第三部はマルクーゼ、サルトル、フランクフルト学派などに論及するが、L・コワコフスキ自身による新しい「あとがき」によると、第三部だけはフランス語では出版されておらず、サルトルらフランスの著名「左翼」に気兼ねしているのだろうと、彼は推測している
 「自由な」 ?フランスですら、そういう状況だ。
 日本では、あらゆる人文社会系の学問分野で<比較>が盛んで、「横文字からタテ文字へ」で仕事・業績になるとすら言われるほどだと聞いているが、決して世界、とくに欧米の<情報>が自由に入り込んでいるわけではない。全くない、ということを、強く意識しなければならないだろう。
 そうした観点から見ると、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)らは、きちんと読んだことがないが、きっと日本にとって(=日本の「左翼」にとって)<安全>なのだろう。
 そうでないと、あれほどに翻訳されないのではないか。なお、前者は、少なくとも「左翼的」。後者の「世界システム論」は巨視的であるように見えるが、<共産主義>を直視していない、逃げている議論だと私は感じている。
 まだ、このテーマは続ける。

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  • 1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0784/「廃太子」を煽動する「極左」雑誌・月刊WiLL(花田紀凱編集長)。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
  • 0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。
  • 0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。
  • 0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。
  • 0757/NHK「売国反日プロデューサー」列伝-長井暁・濱崎憲一ら。
  • 0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。
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