秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義

2094/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、p.466-9。゜
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義④。
 (27)1968年はチェコスロヴァキアへのソヴィエトの侵攻の年だったが、ポーランドの分離した知的動向としての修正主義の終焉を事実上は告げた年でもあった。
 多様な形態に分化した反対派は現在では、マルクス主義または共産主義の語句用法をほとんど用いていない。そして、民族的(national)保守主義、宗教や伝統的な民主主義ないし社会民主主義の用語法で、十分に適切に表現することができる。
 共産主義は一般に、知的な問題であることを終えて、たんに統治権力と抑圧の一問題になって残っている。
 状況は、逆説的だ。
 支配党は依然として、マルクス主義と「プロレタリア国際主義」の共産主義教理を公式には宣明している。
 マルクス主義は高等教育のどの場所でも義務的履修の科目であり、その手引書が出版され、その諸問題に関する書物が執筆されている。
 しかし、国家イデオロギーが今ほどに生気のない(lifeless)状態になったことはかつてなかった。
 誰も実際には、マルクス主義を信じていない。支配者と被支配者のいずれも、その事実を知っている。
 だが、マルクス主義はなくてはならない(indispensable)。それは、体制の正統性を基礎づける主要なものだからだ。党は労働者階級と人民の歴史的利益を「明確に表現」する、という主張が党の独裁の根拠であるのと同様に。
 誰もが、知っている。「プロレタリア国際主義」は、東ヨーロッパ諸国は自分たちの事柄を決定する主人ではないという事実、かつ「労働者階級を指導する役割」はたんに党官僚機構の独裁を意味するにすぎないという事実、を覆い隠す語句だ、と。
 その結果として、支配者たち自身が、少なくともある程度の反応を一般民衆から得ようと望むときには、紙の上だけに存在するイデオロギーに訴えることがますますなくなり、その代わりに、<国家の存在理由>(raison d'état)や民族利益(natinal interest)の用語を使っている。
 国家イデオロギーが生気のないものであるのみならず、それはスターリン時代のようには明確には定式化されていない。定式化することのできる権威が、もはや存在しないからだ。
 検閲や多様な警察的制限で苦しめられているが、知的生活は継続している。その際に、国家による支援が人為的に存在させつづけ、批判から免れてさせていたけれども、マルクス主義はほとんど役割を果たしていない。
 イデオロギーと人文科学の分野では、党は、抑圧とあらゆる種類の禁止でもって消極的にのみ活動することができる。
 その場合ですら、公式イデオロギーは、かつての普遍主義的な要求資格を失なければならなかった。
 もちろんマルクス主義は直接的には批判されないかもしれないが、哲学の分野ですら、マルクス主義を完全に無視し、まるでそれは存在してこなかったのごとく執筆されている著作が現れている。
 社会学の分野では、一定の正統派論考が定期的に刊行されている。それは主として、その著者たちの政治的信頼性の証明を確保するだめにだ。一方で同時に、多数の別の諸著作が、西側と同じ方法を用いる、通常の経験的社会学の範疇に入ってきている。
 そのような著作に許容される射程範囲は、むろん限定されている。家族生活の変化や産業での労働条件を扱うことはできるが、権力や党生活の社会学を論じることはできない。
 厳しい制限が課されているのは、とくに近年の歴史に関係する歴史科学についてのマルクス主義的な理由というよりもむしろ、純粋に政治的な理由だ。
 ソヴィエトの支配者は、自分たちは帝制主義(Tsarist)的政策の継続性を代表していると、固く信じているように見える。そしてそのゆえに、ロシアとの諸関係、分割、民族的抑圧に支配された2世紀にわたるポーランド史の学術研究は、多数の禁忌のもとに置かれている。
 (28)ポーランドの経済学研究について、一定程度は、修正主義をなおも語ることができるかもしれない。効率性の増大を推奨する、実践的なかたちをとっているからだ。
 この分野で最も著名なのは、W. Brus とE. Lipinski だ。この人物たちはともにマルクス主義の伝統に頼っているが、その形態は社会民主主義に接近している。
 彼らが論じているのは、抑圧的な政治システムと結びいているために、社会主義経済の欠陥と非効率性は純然たる経済的手法で治癒することはできない、ということだ。
 ゆえに、経済の合理化は、政治的多元化なくしては、つまり実際には共産主義特有の体制の廃絶なくしては、達成することができない。
 Brus は強く主張する。生産手段の国有化は公的所有制と同義ではない、政治的官僚機構が経済的決定権を独占しているのだから、と。
真に社会主義化した経済は、政治的独裁制とは両立し得ない。
 (29)いくぶんか少ない程度にだが、Władysław Bienkowski は、修正主義者と分類することができるかもしれない。
 ポーランドの外で出版された著作で彼は、官僚的諸政府のもとでの社会と経済の悪化を分析する。
 彼は、マルクス主義の伝統に訴えるが、それを超えて、階級(マルクスの意味での「階級」)のシステムから独立した政治権力の自主的メカニズムを検証している。
 (30)類似の動向が共産主義者の忠誠心の衰退、マルクス主義の活力やその政治的儀礼の減少と結びついていることを、観察することができる。共産主義諸国によって、その程度は多様だけれども。
 (31)チェコスロヴァキアの1956年は、ポーランドやハンガリーと比べて重要性ははるかに低かった。修正主義運動が発展するのが遅かった。しかし、一般的な趨勢はどこでも共通していた。
 チェコの経済学者の中で最も知られた修正主義者は、Ota Sic だ。この人物は1960年代初めに、典型的な改革綱領を提出した。すなわち、生産に対する市場の影響力の増大、企業の自主性の拡大、非中央的計画化、社会主義経済の非効率性の原因である政治的官僚制の分析。
 政治的条件はポーランドよりも困難だったが、哲学者たちの修正主義グループも発生していた。
 その最も著名な構成員は、Karel Kosic だった。この人物は<具象性の弁証法(Dialectics of the Concrete)>(1963年)で、多数の典型的に修正主義的な論点を提示した。すなわち、歴史解釈での最も一般的な範疇としての実践(praxis)の観念への回帰、人類学上の問題<に向かい合う>存在論の問題の相対性、唯物論的形而上学の放棄や「上部構造」に対する「土台」の優越性の廃棄、たんなる産物ではなく社会生活の共同決定要素としての哲学や芸術。
 (32)1968年初頭のチェコスロヴァキアでの経済危機は、政治的変化と党の指導性の変更を突如として早めた。この経済危機がただちに、修正主義の考え方にもとづく、政治的、イデオロギー的批判論の進展を解き放った。
 宣告された目標は、ポーランドやハンガリーでかつてそうだったのと同じだった。抑圧的警察制度の廃止、市民的自由の法的保障、文化の自立、民主主義的経済管理。
 複数政党制、または少なくとも異なる社会主義諸政党を形成する権利を求める要求は、党員である修正主義者たちによって直接に提起されたのではなかったが、恒常的に諸議論の中で姿を見せていた。
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 ⑤につづく。

2075/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節③。


 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義③。
 (22)ハンガリーで修正主義の第一の中心になったのは、ブダペストの "Petőfi Circle"で、ルカチ学派の者たちを含んでいた。
 ルカチ自身はこの議論で顕著な役割を果たした。そして、ポーランドの修正主義者たちと比べて、彼もその支持者たちも、マルクス主義への忠誠をはるかに強調した。
 ルカチは「マルクス主義の枠内での」自由を求め、単一党支配の原理に疑問を抱いていなかった。
 あくまで想定にすぎないが、ハンガリーの修正主義者たちのスローガンがはるかに正統派的だったことは、民衆一般の不満の運動から離れるようになって、党に対する攻撃を彼らが適度に維持することができなかった理由だった。
 その結果は、明示的に反共産主義の性格をもつ大衆的抗議だった。そしてこれが、党の崩壊をもたらし、ソヴィエトの侵攻を招いた。
 ソヴィエトによる侵攻は、「民主化された」共産主義体制という考えはお伽噺であることがただちに明白になったポーランドにのみならず、西側の共産主義者たちに対しても、衝撃を引き起こした。
 小規模の共産党のいくつかは分裂し、その他の共産党は多数の知識人たちの支持を失った。
 ハンガリー侵攻は、世界じゅうの共産主義者たちの間に多様な異端的運動や、ソヴィエト路線の運動や教理を再構築しようとする試みが生まれるのを刺激した。
 イギリス、フランスおよびイタリアでは、民主主義的共産主義の可能性如何に関する多数の著作が出版された。
 1960年代の「新左翼」の大多数は、これらから刺激を受けて鼓舞されたものだ。
 (23)ハンガリーの修正主義運動は、ソヴィエトの侵攻によって破壊された。
 ポーランドのそれは、数年間にわたって、多様な、比較的に穏健な形態の抑圧と闘わざるをえなかった。抑圧とは、定期刊行物の閉刊、党方針に屈するのを拒む寄稿者の強制的な不採用、個々の著作者による出版の禁止、文化の全分野に及ぶ検閲の強化、といったものだ。
 しかしながら、ポーランドの修正主義が次第に減退していった主な理由は、そのような抑圧手段ではなく、修正主義者による批判論によって掘り崩されていった、党イデオロギーの解体にあった。
 (24)修正主義は、「根源」-主としては青年マルクスとその人間性の自己創造という観念-に立ち戻ることによってマルクス主義を再生し、その抑圧的で官僚制的な性格を治癒して共産主義を改良しようとする試みとしては、つぎのかぎりで、有効なものであり得ただろう。すなわち、党が伝統的イデオロギーを真摯に受け止め、党装置がイデオロギーの問題にある程度は敏感であるかぎりで。
 しかし、修正主義自体が、公式的教理に対する敬意を党が失ったこと、そしてイデオロギーがますます殺伐としているが不可欠の儀礼になったこと、の大きな原因だった。
 このようにして修正主義者の批判論は、とくにポーランドでは、共産主義の脚下からそれを崩した。
 文筆家や知識人たちは、宣言行動と抗議、当局に政治的圧力を加える試みを継続した。しかし、徐々に、真の修正主義思想、つまりマルクス主義に依拠することが少なくなった。
 党と官僚機構では、共産主義イデオロギーの重要性が明らかに衰退していた。
 かりにスターリニズムの暴虐に関与したのであってもそれぞれに忠実な共産主義者であって共産主義の理想を堅く保持していた者たちに替わって権力を掌握したのは、自分たちが利用してきた共産主義スローガンの空虚さを完全に知った、冷笑的で幻惑から醒めた出世第一主義者たち(careerists)だった。
 こうした種類の者たちで成る官僚制的機構は、イデオロギー上の衝撃にも動じなかった。/
 (25)他方で修正主義自体に、やがてマルクス主義の先端部を超えて進行するという、確かな内在的論理があった。
 合理主義の考え方を真摯に採用した者は誰でも、マルクス主義の伝統に対する自分の「忠誠心」の程度について、もはや関心をもつことができず、別の淵源や理論的刺激を利用することが禁止されているとも感じなかった。
 レーニン=スターリン主義の形態でのマルクス主義は貧困で未熟な構造をもつものだったので、厳密な検証を行うにつれて実際には消滅していった。
 マルクス自身の教理は、確かに知性に対するより多い栄養を供給するものだった。しかし、物事の性質からして、マルクスの時代より後に哲学や社会科学が提起した諸問題に対する回答を与えるものではなかったし、また、20世紀の人間主義的(humanistic)文化が発展させた多様で重要な観念的範疇を消化することができるものでもなかった。
 マルクス主義をどこかで始まっている新しい動向と結びつける試みがなされたが、それはすみやかにその明晰な教理形態をマルクス主義から奪うこととなった。
 マルクス主義は、知的歴史に寄与するいくつかのうちの一つにすぎなくなった。マルクス主義は、たとえ困難に思えても全ての問題に対する回答を見出すことができる、権威ある真理による全包括的な大系ではなくなった。
 マルクス主義は数十年間は、ほとんど全体として、有力だが自己充足的なセクトの政治イデオロギーとして機能した。その結果は、マルクス主義は諸思想がある外部世界からほとんど完全に遮断された、ということだった。
 この孤立状態を解消しようとする試みがなされたときには、すでに遅かった。-教理は解体した。ミイラ化した遺骸が突如として空中に晒されるがごとく。
 こうした観点からすると、正統派党員たちは全く正当に、マルクス主義の中に新しい空気を注入することを怖れた。
 修正主義者たちの訴えはたんに常識的なことと感じられた。-マルクス主義は科学に普遍的に適用される知的な方法にもとづく自由な討議で防衛されなければならない。現代的諸問題を解決するマルクス主義の能力を恐れることなく分析しなければならない。マルクス主義の観念的大系は豊富にされなければならない。歴史文書は捏造されてはならない。等々。
 こうした修正主義者たちの訴えは全て、悲惨な結末となることが判った。マルクス主義を豊かにしたり補完したりすることなく、疎遠だった諸思想の逆巻の中へと消失したのだ。//
 (26)ポーランドの修正主義はしばらくの間は残存したけれども、反対派の他形態の思想に比べて次第に重要ではなくなっていった。
 ポーランド修正主義の1960年代初期を代表したのは、KurońとModzelewski だった。彼らは、マルクス主義的かつ共産主義的な綱領を提案した。
 彼らによるポーランドの社会と政府に関する分析の結論は、共産主義諸国には新しい搾取階級が存在するに至っており、それはプロレタリア革命によってのみ克服される、というものだった。そしてこれは、伝統的なマルクス主義の基本的考えに沿っていた。
 彼らはこれにより、数年間の投獄を被った。しかし、彼らの抵抗が助けたのは、1968年の3月に相当に広がった暴動を指導することとなる、学生たちの反対運動の形成だった。
 しかしながら、このことは、共産主義イデオロギーとはほとんど関係がなかった。
 学生たちのほとんどは、市民的自由と学問の自由の名のもとで抗議運動を行った。そして、これらを特別に共産主義の意味で、また社会主義の意味ですら、解釈しはしなかった。
 政府は、暴乱を鎮圧した後、文化の分野での攻撃を開始した(これは当時の党内批判者たちとの闘いと関連していた)。そして、そうすることで、政府の主要なイデオロギー上の原理が反ユダヤ主義であることを露呈した。 
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 ④へとつづく。

2068/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)③。

 政治思想・政治哲学研究者のジョン・グレイ(John Gray)は1948年生まれ。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
 そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
 それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
 邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
 「動物は、生きる目的を必要としない。
 ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
 人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
 上の「見る」は、原文では see。
 最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
 この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
 静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
 こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
 上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
 80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
 もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
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 「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
 「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
 この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
 しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
 この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
 プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
 「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
 こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
 「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
 左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
 グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
 これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
 両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
 「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
 いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
 「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
 人間は、救済を必要としない。
 幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。
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 <わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

2065/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)①。

 ジョン・グレイ(John Gray, 1948~)というイギリスの政治・社会思想家(・研究者)の文章を少し読み始めている。
 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 この中の「ペーパーバック版序」は2003年に書かれているが、なかなかに興味深い、刺激的な内容を含んでいる。
 本文を読まない、「序言」・「後記」のみ読者の弊害に陥らないで、全体を読んでみたいものだ。しかし、興味深いのでここで論及する。
 原書は2002年刊行で、邦訳書の対象であるPaperback 版は2003年に出たようだ。原書の原題は、つぎのとおり。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
 原書の英語(とくに単語)も参照しつつ、「序」に言及する。なお、Paperback 版の元の原書には「Foreword〔序〕」はなかったようだ。
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 J・グレイがこの著で主張したいことは、上の「序」によると、簡単には、以下に対する反抗、あるいは以下のものの「否定」、「消極視」だ。
 すなわち、「リベラル・ヒューマニズム」、あるいはたんに「ヒューマニズム」、「人間中心主義」。
 この文章には出てきていない言葉・概念ではあるが、グレイの意味する「リベラル・ヒューマニズム」、「ヒューマニズム」、「人間中心主義」とは、<近代>あるいは<(近代)啓蒙主義>あるいは<近現代の「科学」主義>であるように思える。
 あるいは、彼が反抗?しているのは「近代進歩主義」または「進歩」という観念自体だ。
 冒頭に、「思想家の不用意な謬見」を「論破」するのが本書の趣意だと明言したあと、つぎのように書いている。原文を参照して、一部またはかなり、邦訳書の訳を変更する。
 ・「リベラル・ヒューマニズム(liberal-humanism)」はかつての「啓示宗教」に劣らず「広く一般に浸透」し、ヒューマニストたち(Humanists)は「理性的(rational)な世界観」を「標榜」している。
 ・しかし、「その核心をなす進歩信仰(belief in progress)」は、いかなる宗教よりもなお、「人間という動物(human animal)の真実」〔邦訳書では、「生き物である人間の本然」〕から遠く離れた「迷信(superstition)」である。
 これと同じ主旨が繰り返し、かつより詳細にまたは具体的に語られている。しばらく追ってみよう。原文を参照して、一部は邦訳書の訳を変更する。
 ・「科学」の分野は別として「進歩とはたんに神話(myth)にすぎない」と原書が主張したので一部の読者は激高し、「リベラルな社会への忠誠という中心的項目を誰も疑問視することができない」、「それなくしては、我々は絶望的だろう」と言った。しかし、彼らは「進歩的希望(progressive hope)」という「虫の食った旗印」に縋りついている。
 ・「宗教界の思想家たち」はもっと自由に考えている。一方で「世俗の信仰者たち(believers)」は、「時流の在来的知識にとらわれて、検証されていないドグマの捕囚になっている」〔これは一般の思想家・哲学者のこと〕。
 つぎに、最近にこの欄に「自由」する西尾幹二著とも関連させて論及した<自由意思>に、J・グレイは説き及ぶ。
 ・現在の「主流の世俗的世界観は、当今の科学正統派と敬虔な希望を混合したもの」だ。ダーウィンは人間は動物だとしたが、「ヒューマニストたち」は「他のどの動物とも違って」、「我々は我々が選択するように生きる自由がある」と説教する。
 ・しかし、「自由意思(free will)という観念は、科学に由来するものではない」。「自由意思」の起源は、彼らが揃って罵倒する宗教・「キリスト教信仰」にある。「人間は、自由意思を持つことによって他の動物いっさいと区別される、という信念は、キリスト教から継承したものである」。
 ・ダーウィンの進化論はインド、中国、アフリカで唱道されたならば、欧米でのような「論議の的」(scandal)にならなかっただろう。「キリスト教以降(post-Christian)の文化でのみ」、「科学的決定論」と「自分の生き方を選ぶ人間に特有の能力」とを調和させようとする「哲学者たち」の努力が見られた。「確信的ダーウィニズムが皮肉であるのは、哲学者たちが宗教に由来する人間性という見方を支持するために、それ〔ダーウィニズム〕を援用している、ということだ」。
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 まだ「序」の1/3も終わっておらず、つづける。
 最後の方に、グレイのこんな文章がある(邦訳書による)。一文ずつ改行する。
 「21世紀を迎えた世界は、…失敗に終わったユートピアの瓦礫の山である。
 左翼は息も絶えだえで、右翼がユートピア思想の本家となり、世界資本主義が世界共産主義に取って代わった。
 この二つの未来像には共通するところ少なくない。
 ともに醜怪この上なく、幸いにして、荒唐無稽である。
 欧米または<キリスト教(を継承した)諸国・社会>との違いもやはり関心を惹くが、日本にも当てはまるだろうという意味で「普遍的な」テーマが提示されているだろう。
 近代・啓蒙・近代「科学」・近代「思想」-これらと現代日本・日本人。
 ヒト・人間と「科学」・思想・宗教。
 J・グレイが合理主義・理性主義(またはヒューマニズム・リベラル)に対して懐疑的・批判的であるのは、日本での本来の「保守」におそらく近いだろう。
 しかし、おそらくはという推測になるのだが、J・グレイは、日本の「いわゆる保守派」とは異なる。
 人間中心ではなく、「自然との共生」とか「環境の保護」とかくらいは(持続可能な社会等とともに)、<容共・左翼>でも主張しているだろう。
 また、日本の「いわゆる保守派」も、人間は「自然の一部」だとか「自然」を畏怖してきた日本人等々とか叙述しているかもしれない。
 しかし、これまた全体を読まないでの推測になるが、J・グレイが主張したいことは、人間が「自然」の一部であることは当然で、かつ犬・猫等々の他の動物・生物と<本質的に>変わるところはない、それらと十分に共通性がある、ということだろうと思われる。 そして、そのことを十分に意識して思考し、議論しなければならない、ということだろう。
 この欄で比較的最近に、私の理解として<ヒト・人間の本性>(の認識・重視)という言葉を使うことがある。上がJ・グレイの主張したいことなのだとすると、かなり共通性がある。
 そして、考える。例えば、<日本精神>、<日本人のこころ>が日本人に自然に「継承」されているかのごとき見解・主張は、<ヒト・人間の本性>に反している。
 なぜならば、人間の生後の獲得形質は「遺伝」の対象にはならないのであって、日本人だから<日本精神>、<日本人のこころ>を受け継いでいる、というのは、人間の本性と学問的にも反する、反科学の「迷信」ごときものにすぎない。
 江崎道朗が6世紀の「保守自由主義」なるものが19世紀に「受け継がれた」とか叙述するのも、荒唐無稽な、日本人を含む<ヒト・人間の本性>に全く反する血迷いごとだ。
 せいぜい<こうあってほしい>という願望で、正確には、<政治的プロパガンダ>の虚言だ。
 J・グレイは「右翼がユートピア思想の本家となり…」と語るが、日本の「右翼」はまともな「ユートピア」像すら示すことができていない。
 ともあれ、さらに次回へ。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

2045/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書, 2018)①。

 「自由」について最近に最も考えるのは、「意思は自由か」または「自由な意思はあるか」だ。この問題はもちろん、「意思」とは何で、その他の精神的行為または精神的態様とどう区別されるものなのか、に関係する。
 ヒト・人間の脳内の諸作業・態様の中に、「こころ」あるいは「感情」はどこにあるのか、どうやって成立しているのか、と類似の問題だ。
 「自由」か否かを論じること自体がヒト・人間として<生きている>ことの証左であり、さらに、たんなる覚醒状態・意識の存在だけではなく、より高次の「思考」を必要とするものだ。
 というわけで、たんなる覚醒状態・意識の存在とは次元が質的に異なるが、「自由」か否かを論じること自体が、<生きている>ことを前提にしていることは変わらない。
 上のことはつまり、<死者>には「意識」はなく、自分は「自由」か否かを考えたり、思い巡らしたりすることはできない、ということだ。
 「自由」か否かを論じるのは、<生者>の贅沢な遊びだ、ということにもなる。
 上に述べていることは、ヒト・人間には、<死から逃れる自由>=<死からの自由>は存在しない、という冷厳たる事実を前提にしている。
 さらに言おう。ヒト・人間は、生まれ落ちるときまでに自己の体内に宿していた<遺伝子>から自由なのか。直接には両親から受け継いだ、個性がある程度はある<生物体>としての存在から、ヒト・人間は「自由」なのか。否。
 さらに言えば、ヒト・人間は、生後の社会・環境から<無意識にでも>与えられる影響から、完全に「自由」でおれるのか? 否。
 「あなたは自由か」とずいぶんと<上から目線>の発問をして、書物の表題にまでしている西尾幹二には、まず上のようなことから論じ始めて欲しかったものだ。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史
 上の書は、空気中の酸素を取り込んで炭水化物等を分解してエネルギーにしなければならない人間、酸素を多分に含む血液を脳を含む全身に送る心臓というポンプを必要とする人間、酸素を含む空気を体内に吸い込むための肺臓の存在を必要とする人間、といったものを全く意識させない、<文学的>、<精神主義的>ないし<教養主義的>自由論のようだ。人文(ないし人文・歴史)関係評論家の、典型的な作品かもしれない。
 もっとも、いちおうは精読したのは、全380頁以上のうちの57頁まで(第一章だけ)。
 しかし、上の範囲に限っても、注文を付けたい、または誤りを指摘しておきたい点がある。
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 その前に、さらに私の「自由」論の序説らしきものを、上記に加えて綴ってみよう。
 組織(・団体)や国家の「自由」(これらを主体とする「自由」)は度外視する。
 第一。①何からの「自由」か。英語ではしばしば、free from ~という二語が併せて用いられる。<from ~>の~は重要なことだ。
 ②何についての自由か。
 ア/内心・政治信条・宗教(信仰)・思想等。
 イ/行動。この行動の「自由」を剥奪または制限するのが、刑法上の<自由刑>だ。
 ウ/経済活動。つまり、商品の生産・販売・取引等々。商品には物品のみならず「サービス」を含む。
 これらは、帰属する共同社会または国家により、法的・制度的な<制約>が異なる。
 第二。冒頭に「自由な意思」の存否の問題に言及したが、<身分から契約へ>を標語としたかもしれない「近代」国家・社会は、「個人の自由」について語るときに「個人の自由な意思」の存在を前提としている(正確には、あくまで原則または理念として)。
 <個人の自由意思>の存在を想定することなくして、法秩序は、そして社会秩序は、成立しない(またはきわめて成立し難い)ことになっている。
 以下は、典型的な法条だ。説明は省略する。あくまで一部だ。
 A/刑法38条「①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
 ②重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
 ③法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」
 同39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。
 ②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 B/民法91条「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」。
 同93条「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
 同95条「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」。
 こうした基本的な?法条に、西尾幹二の上掲著は言及していないようだ。きっと関心もないのだろう。
 茂木健一郎・脳とクオリア(日経サイエンス社、1997)、p.282。
 茂木は上の箇所で、「自由意思」の存在が「犯罪者を処罰する」根拠になっている、等と述べて、「自由意志」論(第10章<私は「自由」なのか?>)への導入文章の一つにしている。
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 さて、西尾幹二・上掲書の短い読了部分(第一章)には、大きく二つの論点がある。
 紹介・引用しつつ、感想・コメントを記す。
 全体としてもそうなのだろうが、部分的な論及はあるとしても、そもそも「自由」をどう理解するのか、「自由」をどう定義しておくのか、が叙述されていない。
 たんなる身辺雑記以上の「随筆」でもない、少なくとも人文・歴史関係評論家の作品?としては、これは困ったことだ。基本的概念の意味がほとんど分からないまま、<賢い>西尾幹二が読んだ多数の文献が挿入されながら、あれこれと、あちこちに論点を少しは変えながら記述される長い文章を読んでいくのは、なかなかの苦痛でもある。
 それはともかく、先ずは、<いわゆる保守>評論家には見たことがない指摘または「怖れ」が(第一章)前半に叙述されているのが、気を惹いた。
 その最初は、カー・ナビやサイバー・テロに触れたあとのつぎの文章だ。p.10。
 ・「生活はほとんど便利になりますが、なんだか背筋の寒くなる、不気味な時代が始まりつつあるように思えました」。
 アメリカのエシュロンや「情報戦争」に触れたあとでは、こう書く。p.19。
 ・「私たちは今、これまでに知られていない、新しい不気味な一つの大きな檻の中に閉じ籠められているような異様な生活感覚の中で生き始めているように思えてなりません」。
 こうした部分はどうやら、この著の基本的なテーマらしい。
 つまり、そういうふうに変わってきているのに<あなたはあなたが自由でないことに気がついているか>(オレは気づいているぞ)ということが、書名も含めて、主張したいことらしい。同様のことは、「あとがき」でも述べられている。
 西尾が「不気味」だと感じるのは、「敵の正体が見えない」ことだ。「サイバーテロ」は誰がいつ襲うか、分からない。
 ここで西尾は旧東独の「秘密警察」(STASI)へと話題を広げる。
 「敵」が誰か分からず、スパイは家族や友人たちの中にもいた、という「かつての全体主義社会」の実例は、「いつ襲ってくるのか分からない敵の正体の見えにくさ、自由の不透明さ」において、現代へのヒントになる、と言う。p.20。
 それはそれとして参考になるかもしれないが、つぎの文章に刮目すべきだろう。このように「展開」させていくのだ。p.24。
 ・「旧共産主義体制のことを私はことさらに論(あげつら)っているのではありません。
 西側のコンピュータ社会が旧東側の、"少年少女スパイ育成社会"にある面では似てきているという新しい発見に、私が戦いているということを申し上げておきたい」。
 同じ趣旨は、つぎの文章ではさらに明確になり、強調されている。p.26。
 ・「世界の先端を行くアメリカのコンピュータ社会は、全体主義体制にある面で似てきているということの現れではないでしょうか」。
 ・「…倒錯心理、常識の喪失において、両者はどことなく共通し始めております」。 
 アメリカの<コンピュータ社会>は、「ある面では」、「どことなく」、共産主義諸国と「似てきて」いるのだ。
 この点が、西尾がこの辺りで指摘して強調したい点に他ならないと思われる。
 そして、日本社会もまた同じだと明記されている。
 端的には、こう書かれる。p.28。
 ・「新旧の共産主義体制にも、現代のアメリカ社会にも、そして日本の社会にもどことなく共通している秩序の喪失、異常の出現」がある。
 最後の締めくくりの文章はこうだ。p.28。
 ・「私たちの生きている今の世界は、どこか今までとは異なった異質な歪みを時間とともにますます肥大化させているように思えてなりません」。
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 こうした西尾幹二のこの部分での叙述の特質は、以下の二点の指摘・表明だろう。
 ①<科学技術>の進展に対する不信感や恐怖。
 ②「現代」社会の欠陥・問題は<共産主義諸国>でもアメリカ・日本でも共通している。
 西尾の用いる「ある面では」とか「どことなく」という表現の意味こそが決定的に重要だと思われるが、そこにこの人は立ち入らない。
 あくまで<文学的>、<感覚的>だ。
 翻って西尾のこうした叙述を読むと、つぎの感想が生じる。
 第一に、<いわゆる保守>か「容共・左翼」かという対立には関係がなさそうだ、ということだ。<現代>批判では「左翼」的かもしれないし、アメリカを先頭に立つ「敵」と見立てているようであるのは「ナショナリズム・右翼」的かもしれないが。
 第二に、<科学技術>の進展に対する疑問や恐怖は、外国も含めてすでに多数の哲学者・歴史研究者等が議論してきたことだと思われる。
 ある者たちはそれを「資本主義」の行き着く先と見なし、(疎外労働によって?)「人間」を「非人間」に変えていく、と考えた。フランスの戦後の哲学者には、こんな主張もあっただろう。
 だが、<科学技術>の進展それ自体に<諸悪>の根源を見る、ということはできない。
 <科学技術の進展と人間の「自由」>というのは、より論じられるべき問題だ。
 結局は一つに収斂するかもしれないが、一方にはIT・AI(人工知能)等の言葉で示されるコンピュータ関連技術の発展があり、一方には脳科学・脳神経生理学等の発展が明らかにしつつあるヒト・人間の「本性」の研究がある。
 これらと社会・国家・人間の関係をもっと論じるべきなのだろう。
 しかし、西尾幹二は<怯えて><憂いて>いるだけで、処方箋を提示しない。それは<文学>系の自分の仕事ではない、と考えているのかもしれない。
 L・コワコフスキがフランクフルト学派の一人に放った厳しい一言を思い出す。記憶にだけ頼り、少しは修正する。
 <現代的科学技術の進化に戦き、かつて「知識人」としての特権を味わうことができた古い時代へのノスタルジー(郷愁)を表明しているだけ>だ。
 第三に、アメリカ・日本が「共産主義」・「全体主義」体制と「似て」きた、「共通して」きた、という指摘にも、十分な根拠が提示されていない。そもそもが、西尾幹二は「共産主義」をどう理解しているのだろう。
 このようにして東西陣営の「共通」性・「類似」性を指摘するのは、ソ連解体時に「容共・左翼」論者も行ったことだった(ソ連にもアメリカにも「現代」特有の病弊がある、と)。
 西尾において特段に意識的ではないのかもしれないが、アメリカを中心ないし先頭とする「現代」文明を批判するのは、中国・北朝鮮等の現代「共産主義」諸国を免罪することとなる可能性がある。
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 一回では済まなくなった。もともとは、<茂木著②>の前書きのつもりだったのだが。

2029/L・コワコフスキ著第三巻第10章第6節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.383-p.387。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)②。
 (8)この数百年の間にヨーロッパで発展した資本主義社会は、人間存在にある巨大な創造的可能性を解き放った。しかし、強力な破壊的要素も生み出した。
 人間は、個人の威厳と責任を自覚するようになった。しかし、普遍的な競争と利害対立が支配する状況の中に置かれていることも知った。
 個人的な主導性は、生活上の決定的な要因になった。しかし、攻撃や利己的活用がますます重要になった。
 孤独と孤立の総量は、測り知れないものになった。他方で、社会的諸条件によって人々は、お互いを人間としてではなく事物だと見なすようになった。
 孤立しないようにする幻惑的で危険な対処法の一つは、ファシズムのような、非理性的で権威的なシステムに保護を求めることだった。//
 (9)フロムの見解では、彼のフロイト主義からの激しい離反には、マルクス主義の様相があった。なぜなら、人間関係を防衛的機構や本能的衝動ではなく歴史の用語で説明し、また、マルクスの思想と調和する価値判断を基礎にしているからだ。
 フロムによれば、〔マルクスの〕1844年草稿はマルクスの教理を基礎的に表示するものだった、
 彼は、その著作と<資本論>との間には本質的差違はない、と強く主張する(この点で、Daniel Bell と論争した)。しかし、のちの諸作では初期の文章の<精神(élan)>がいくぶんか失われた、と考える。
 フロムは強く主張する。主要な問題は疎外であって、それは人間の束縛、孤立、不幸および不運の全てを示している、と。
 全体主義的教理と共産主義体制は、彼によれば、マルクスの人間主義的見方と何の関係もない。マルクスの見方の主要な価値は、自発的な連帯、人間の創造力の拡張、束縛と非理性的権威からの自由、にある。//
 (10)マルクスの思想は、男女が人間性を喪失して商品に転化する、そのような条件に対する対抗だ。また、人間がかつてそうだったものに再び戻る能力、貧困からの自由だけではなくて創造力をも発展させる自由を獲得する能力、をもつことを強く信じていることを楽観的に表明したものだ。
 マルクスの歴史的唯物論を人間はつねに物質的利益によって行動することを意味すると解釈するのは、馬鹿げている。
 反対に、マルクスが考えたのは、たんにそのような利益を好むように環境が人間に強いるときには、人間はその本性を喪失する、ということだった。
 マルクスにとっての主要な問題は、どのようにして、依存という拘束から個々人を自由にし、もう一度友好的に一緒に生きていくのを可能にさせるか、だった。
 マルクスは、人間は永遠にその支配の及ばない非理性的諸力の玩弄物でなければならないとは考えなかった。
 反対に、自分の運命の主人になることができる、と主張した。
 かりに実際に人間の労働の疎外された産物が反人間的力に転化するとすれば、かりに人間が虚偽の意識と虚偽の必要性の虜になるならば、かりに(フロイトとマルクスは同じように考えたのだが)人間が自分自身の真の動機(motives)を理解しないならば、これらは全て、自然が永遠にそのように支配しているからでは全くない。
 反対に、競争、孤立、搾取および害意が支配する社会は、人間の本性とは矛盾している。人間の本性は-ヘーゲルやゲーテ(Goethe)と同じようにマルクスも考えたのだが-攻撃や受動的な適応にではなく、創造的な仕事と友愛のうちに真の満足を見出すのだ。
 マルクスは、人間が自然とのかつ人間相互間の統合を回復し、そうして主体と客体との懸隔を埋めることを望んだ。
 フロムはこの主題を1844年草稿からとくに強調し、マルクスはこの点で、ドイツの人間主義の全伝統や禅仏教と一致している、と観察する。
 マルクスはもちろん、貧困がなくなることを望んだ。しかし、消費が際限なく増大することを望みはしなかった。
 彼は人間の尊厳と自由に関心があったのだ。
 彼の社会主義は、人間が物質的要求を満足させるという問題ではなく、自分たちの個性が実現されて自然や相互間の調和が達成される、そのような諸条件を生み出す、という事柄だった。
 マルクスの主題は労働の疎外、労働過程での意味の喪失、人間存在の商品への変形だった。
 彼の見方では、資本主義の根本的な悪は、物品の不公正な配分ではなく、人類の頽廃、人間性の「本質」の破壊にあった。
 この退廃は労働者だけではなくて誰にも影響を与えており、従って、マルクスの人間解放の主張は普遍的なものであって、プロレタリアートだけに適用されるのではない。
 マルクスは、人間は自分たち自身の本性を理性的に理解することができ、そうすることでその本性と対立する虚偽の要求から自由になることができる、と考えた。
 人間は、歴史過程の範囲内で、超歴史的な淵源からの助力なくして、そのことを自分たちで行うことができる、と。
 マルクスは、こう主張して、ルネサンスや啓蒙主義のユートピア的思想家たちばかりではなく、千年王国的(chiliastic)宗派、ヘブライの予言者と、そしてトーマス〔・アキナス〕主義者とすらも、一致していた、とフロムは考える。//
 (11)フロムの見解によれば、人間解放の全ての問題は、「愛」という言葉で要約される。「愛」という語は、他者を手段ではなく目的だと見なすことを意味する。
 それはまた、個々人はそれ自身の創造性を放棄したり、他者の個性のうちに自分自身を喪失したりするということはないということも、意味する。
 攻撃性と受動性は、同じ退廃現象の両側面だ。そして、いずれも、順応意識のない仲間感情と攻撃性のない創造性にもとづく関係のシステムに置き代えられなければならない。//
 (12)この要約が示すように、フロムがマルクスを称賛するのは、マルクスの人間主義的見方に関する真の解釈に依拠している。しかし、にもかかわらず、それはきわめて選択的だ。
 フロムは、疎外の積極的な機能あるいは歴史上の悪の役割を考察しない。彼にとって、フォイエルバハにとってと同じく、疎外は単純に悪いものなのだ。
 さらに加えて、フロムがマルクスから採用するのは、「人間存在の全体」という基本的な思想、自然との再統合というユートピア、および個人の創造性によって助けられて妨げられることのない、人類間の完璧な連帯だ。
 彼はこのユートピアを称賛するが、それを生み出す方法を我々に教えるマルクスの教理の全ての部分を無視する。-つまり、国家、プロレタリアートおよび革命に関するマルクスの理論を。
 そうすることでフロムは、マルクス主義のうちの最も受容しやすくて最も対立が少ない諸点を選択した。なぜならば、誰もが全て、人間が良好な条件のもとで生きるべきでお互いの喉を切り裂き合ってはならないということ、そして窒息して抑圧されるよりも自由で創造的であることを好むということ、に合意するだろうからだ。
 要するに、フロムにとってのマルクス主義は、ありふれた一連の願望とほとんど変わらなかった。
 彼の分析からは、どのようにして人間は悪と疎外に支配されるに至ったのかが明瞭でなく、また、健全な傾向が結局は破壊的なそれを覆ってしまうという希望のどこに根拠があるのかも、明瞭ではない。
 フロムに見られる曖昧さは、ユートピア思想一般に典型的なものだ。
 他方で彼は、現にある人間の本性から彼の理想を導き出すことを宣明する。しかし、その本性は現在のところは実現されていない。-換言すると、他者と調和しながら生きて自分の個性を発展させることこそが人間の本当の運命なのだ。
 しかし他方で、「人間の本性」は規範的な観念であることにも彼は気づいている。
 明らかに、疎外(または人間の非人間化)という観念や虚偽の意識と本当の必要との間の区別は、かりにそれがたんなる恣意的な規範として表現されているのだとすれば、我々がたとえ「発展途上の」国家であっても経験から知る人間の本性に関する何らかの理論にもとづいていなければならない。
 しかし、フロムは、我々はどのようにして人間の本性が必要としているものを、例えばより多い連帯意識やより少ない攻撃性を、知るのか、について説明しはしない。
 人々が実際に連帯、愛、友情および自己犠牲の能力をもつというのは、正しい。しかし、そのことから、これらの諸性質を提示する者が対立者よりも「人間的」だという帰結が導かれるわけではない。
 人間の本性に関するフロムの説明は、かくして、記述的(descriptive)な観念と規範的(normative)な観念を曖昧に混合したものであることを示している。このことは、マルクスとその多数の支持者たちに同様に特徴的なものだ。//
 (13)フロムは、人間主義者としてのマルクスの思想を民衆に広げるべく多くのことを行った。そして、疑いなく正しく、人間の動機の「唯物論」理論と僭政主義への短絡という粗雑で原始的な解釈をマルクス主義について行うことに対抗した。
 しかし、彼は、マルクス主義と現代共産主義の関係について議論しなかった。たんに、共産主義的全体主義は1844年草稿と一致していない、と語っただけだった。
 かくして、フロムの描くマルクスの像はほとんど一面的で、彼が批判するマルクス主義をスターリニズムの青写真だとする見方と同様に単純だった。
 マルクス主義と禅仏教の間の先に定立されていた調和に関しては、自然との統合への回帰に関する草稿上の数少ない文章にのみもとづいていた。
 それは疑いなく、初期のマルクスの、全てのものの他の全てのものとの間の全体的かつ絶対的な調和とい黙示録的(apocalyptic)思想と合致していた。しかし、それをマルクス主義の諸教理の核心部分だと考えてしまうのは、行き過ぎだ。
 フロムが実際に保持するのは、彼がルソー(Rousseau)と共通していると考えるマルクスの教理の一部にすぎない。//
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 第7節の表題は、<批判理論(つづき)。ユルゲン・ハーバマス。>

2005/L・コワコフスキ著第三巻第10章<フランクフルト学派>第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.343-p.347.
 第1節の最初の部分は11段落に分けて人物の系譜等を叙述しているが、改行による段落分けがやや多すぎるので、ここでは便宜的に、(1)で一括する。(2)以降は、原書(=英訳書)の段落分けのとおり。
 <>内は、これまでどおり、原書で斜字体(イタリック)の部分。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート①。

 (1)社会研究所は、青年知識人たちによって1923年の初めにフランクフルトで設立された。
 資金は彼らのメンバーの一人のFelix Weil の家族によって寄付されたが、研究所は公式にはフランクフルト大学の一部署だった。
 主要な設立者および初期のメンバーは、つぎのとおり。
 Friedrich Pollock(1894-1970)は経済学者で、のちにソヴィエト・ロシアの計画経済に関する最初の真摯な分析で知られた(<ソヴィエト同盟の計画経済の試み, 1917-1927>(1929年))。
 Carl Grunberg (1861-1940)は初代研究所長で、ほとんどのメンバーたちと異なる知的背景をもつ人物だった。
 古い世代の正統マルクス主義者で、労働者運動の歴史を専門とし、<社会主義および労働者運動の歴史に関する雑誌>を編集した。
 Max Horkheimer(1895-1973)は研究所の中心人物で、1930年から所長だった。心理学者かつ教育を受けた哲学者。Hans Cornelius の生徒で、Kant に関する書物の執筆者。
 もう一人の最も初期のメンバーはKarl Wittfogel (1896年生れ)で、当時は共産党員、のちに中国の歴史に関する著作の執筆者として知られた(<中国の経済と社会>(1931年)、<東洋の僭政体制>(1957年))。
 彼は数年間だけ研究所で仕事をした。
 この人物のマルクス主義史上の重要性は、マルクスがほとんど触れなかった、「アジア的生産様式」に関する問題を考究したことだ。
 しかしながら、フランクフルト学派を典型的に代表する者だと見なすことはできない。
 Horkheimer と並んでフランクフルトでの個人的な哲学学派の形成に決定的に寄与したのは、Theodor Wiesengrund-Adorno (1903-1970)だった。1920年代遅くまで研究所には入らなかったけれども。
 哲学者、音楽理論家かつ作曲家で、Husserl の研究で博士の学位を得た。そして、Kierkegaad の美学に関する論著も書いた。
 彼は1925年以降、ウィーンで作曲と音楽理論を研究した。
 Horkheimer とAdorno は、二人の間でフランクフルト学派の具体化を行ったと考えてよいかもしれない。
 Leo Lowenthal (1900年生れ)もかなり遅くに研究所に加わり、文学(literature)の歴史と理論に関する著作でこの学派のイデオロギーに顕著な貢献を行った。
 研究所がドイツを去ったあと、1930年代に、Walter Benjamin (1892-1940)が加わった。この人物は、両大戦間の最も高名なドイツ文学批評家だった。
 しかしながら、彼の著作はマルクス主義の発展に対する寄与という点では重要でない。すなわち、フランクフルト学派の著名な執筆者全ての中で最も、マルクス主義運動とは関係がなかった。
 Wittfogel 以外に共産主義者だったのは、すでに別の章〔第8章-試訳者〕で論述したKarl Korsch 、およびFranz Borkenau だった。
 Borkenau は主として、党と決裂したあと共産主義を攻撃したことで知られている。
 しかしながら、彼の資本主義の成立に関する書物(<封建的世界像からブルジョア的世界像への移行>(1934年))は、フランクフルト学派の所産だと考えてよいだろう。というのは、この書物は、研究所での典型的な研究課題だった、市場経済の広がりと合理主義哲学の間の関係を分析するものだからだ。
 Henryk Grossman (1881-1950)はポーランド・ユダヤ人で、1920年代の遅くから研究所とともに仕事をしたが、典型的なメンバーではなかった。
 この人物は伝統的なマルクス主義正統派に属しており、利益率の低下と資本主義の崩壊に関するマルクスの予言を確認する目的をもって、経済分析に従事した。
 1930年代の初頭に、Herbert Marcuse が研究所に加わった。この人物については、こののちのその活動を説明すべく、別の章〔第11章-試訳者〕で論述する。
 かつてのフロイト主義者の中で最も有名な異端派の一人である、Erich Fromm についても〔第12章-試訳者〕。
 (2)研究所は1932年から、主要機関誌である<社会研究雑誌(Zeitschrift fur Sozialforschung)>を発行した。この雑誌に、この学派の基本的な理論上の文書の多くが掲載された。
 アメリカ合衆国に移ったのち、この<雑誌>は、<哲学と社会科学の研究>というタイトルのもとで2年間継続した(1939-1941年)。//
 (3)1933年初めにナツィスが権力を掌握したとき、もちろん、研究所はドイツでの活動を継続することができなかった。
 従前に支部がジュネーヴに設立されていたので、このときにドイツのメンバーたちはここに移った。
 パリに別の支部が設立され、ここで<雑誌>は発行され続けた。
 Adorno は、亡命生活の最初の数年間を、オクスフォード(Oxford )ですごした。その後1938年にアメリカ合衆国に移った。このアメリカに、研究所のほとんど全てのメンバーたちが遅かれ早かれ到着した(Fromm はその最初の人物だった)。
 Wittfogel は数ヶ月間強制収容所にいたが、最終的には解放された。
 <エミグレ (Émigrés)>〔移民・亡命者たち〕は、コロンビア大学に国際社会研究所を設立した。この研究所はフランクフルトでの企画を継続し、同様の方向にある新しい企画を開始させた。
 1935年以降はパリに住んでいたWalter Benjamin は、1940年9月にナツィスから逃れて、フランス・スペイン国境で自殺した。
 Horkheimer とAdorno は、第二次大戦中をニュー・ヨークとロサンゼルスですごした。
 彼らはそれぞれ1950年と1949年にフランクフルトに戻り、そこの大学で教授職を得た。
 Fromm、Marcuse、Lowenthal およびWittfogel は、アメリカにとどまった。//
 (4)フランクフルト学派の基礎的な考え方は認識論と文明批判のいずれにも当てはまるもので、Horkheimer の一連の論文によって定式化された。この諸論文のほとんどは、<批判的理論>というタイトルで1968年に再発行された(全2巻、A. Schmidt 編)。
 この論文のうち最も一般的で綱領的であるのは、1937年に執筆された「伝統的なものとと批判的理論」と題するものだった。
 その他のものは、多様な哲学上の問題を扱っていた。例えば、批判的理論の、合理主義、唯物論、懐疑主義および宗教との関係だ。
 我々は、Bergson、Diltheyおよびニーチェに関する批評文、あるいは哲学の役割、真実という観念および社会科学の独特の性格に関する小論考も、見出すことができる。
 「批判的理論」という語のHorkheimer の用い方は、彼の哲学的接近方法の三要点を強調することを意図している。
 第一に、マルクス主義を含む既存の諸教理<に対する>自立性。
 第二に、文明は治癒不可能なほどに病んでおり、たんなる部分的改良ではない急進的な改変を必要としている、という確信。
 第三に、現存社会の分析はそれ自体でその社会の一要素、その社会の自己意識の一形態だ、という信念。
 Horkheimer の思考には、マルクス主義の基本的考え方が浸透していた。その考え方とは、哲学、宗教および社会学的思想は異なる社会集団との関係でのみ理解することができ(しかし全てが「究極的には」階級利益に行き着くというのではなく)、その結果として理論は社会生活の一部になる、というものだ。
 彼は他方で、理論の自律性を擁護した。そして、これら二つの観点の間には解消されていない緊張関係がある。
 Horkheimer は、経験論者、実証主義者およびプラグマティストに対してヘーゲルの理性を擁護する。
 我々は真実を確認することができる、それは経験上の仮説または分析的判断としては表現することができない、と彼は確信していた。
 しかし、思うのだが、超自然的な主体に関するいかなる理論をも彼は受容していなかっただろう。
 彼は、科学主義に、換言すれば自然科学で現実に使われている方法は、我々が何らかの価値の認識し得る結果を獲得するために必要とする全ての知的装備で成り立っているという見方に、反対する。
 こうした見方に対して、彼は少なくともつぎの二点で、異論を唱える。
 第一に、自然科学とは違って社会的諸問題については、観察すること自体が観察されるものの中にある一要素だ。
 第二に、知の全ての分野で、経験的および論理的規準に加えて、理性(Reason)の活動が必要だ。
 但し、理性を支配する諸原理は、まだ十分には明瞭になっておらず、我々はそれをどこから導き出すのかはっきりしていない。//
 (5)このようなHorkheimer の思考は、Adorno の<否定的弁証法>のような、のちのフランクフルト学派の諸著作を本質的な点で予兆するものだった。
 すなわち彼は明らかに、伝統的にヘーゲル主義やマルクス主義が疑問視したことを論じるに際して、何とかして、全ての「還元主義」的定式を避けることになる。
 個人の主体性を完全に社会的範疇の中で叙述することはできず、社会的な原因へと完全に解消することもできない。ましてや、社会を心理学上の概念でもって叙述することはできない。
 主体は絶対的な優越性をもつもので、客体のたんなる派生物にすぎないのではない。
 「土台」も「上部構造」も、明らかに第一次的なものではない。
 「現象」と「本質」は、相互に独立して存在するものではない。
 実践は、理論を全て吸収することはできない。
 こうした思考は、しかしながら、厳密なものではなく、我々がただちにあらゆる「還元主義」、教条主義、観念論および世俗的唯物論の誘惑を抑えることができる方法論的規準の基礎を提供するほどのものではない。
 相互作用がある全ての場合で、我々は、相互に影響し合うが自律性の境界が明確に引かれている、そういう諸要素の部分的な自律性を意識して論じなければならない。
 恒常的な「媒介項」の必要を強調して、Horkheimer は明らかに、全ての「還元主義」的伝統に対する自分の立場を守ろうと努めている。//
 (6)Horkheimer からその他のフランクフルト学派の諸著作まで、つぎのことも明らかだ。
 すなわち、批判的理論は、経験論や実証主義の諸教理を、社会諸生活での技術や専門技術制的傾向の礼賛と関連させている。
 この学派の主要な主題の一つは、本質的には価値の世界とは無関係の科学が役立っている技術の進歩によって、世界は危機に瀕している、ということだ。
 かりに科学的な規準と制限が全ての認識活動を支配して、価値判断を生み出すことができないようになれば、科学と技術の進歩は、全体主義社会へと、人間存在の操作のいっそうの容易化と文化の破壊や個性の破壊へと、至ることを余儀なくしている。
 そのゆえに、ヘーゲルの理性(Reason、<Vernunft>)は理解(understanding、<Verstand>)と反対のもので、「全世界的な」判断を定式化することができる。非合理的に決定される目的を達成する手段のみならず、追求すべき目的をも予め定めることによって。
 科学者文化はこれを行うことができないし、行うつもりもない。なぜなら、その文化にとって、目的を科学的に決定することはできず、目的決定は気まぐれの問題に違いないからだ。
 しかしながら、Horkheimer もフランクフルト学派のその他のメンバーたちも、つぎのことを説明することができているようには思えない。
 同じ認識にある同僚専門家たちならば目的と手段の両者をどのようにして決定することができるのか?、あるいは、我々はどのようにすれば、諸現象の観察から、経験的に人がどうであるかのみならず自分自身の本性を完全に実現するならば人はどうなるかをも教えてくれる、そのような隠された「本質」を理解することにまで、進むことができるのか?//
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 第1節②へとつづく。

2003/L・コワコフスキ・「社会主義」・日本会議。

 スターリニズム、トロツキー、マルクス主義、L・コワコフスキから日本会議、日本の天皇の陵墓や男系・女系論等まで、秋月瑛二の関心は幅広い。但し、別々に切り離されて存在しているのではなく、精神・論理・心理・心情の中では「統合」されていて、それなりの個所に位置を占めている。
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  L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 この書物および1973年4月のイギリス・レディング(Reading)会合について、「上の書物全体を読んだわけでは全くないが、『反共産主義・反社会主義』ないし『自由主義』」志向の団体・組織だろう」と先に書いた。これは、1972年4月の日本・東京での国際セミナーの性格をも実質的には含めるような趣旨だった。
 ここでのとくに「社会主義」・「反社会主義」という語の使い方が気になるので、少し厳密化ないし修正をしておく必要があると感じる。
 この欄では当初から、<社会主義>と<共産主義>という二つの語を似たようなものとして使ってきた。勉強不足ゆえの曖昧さだったかもしれないが、日本での概念用法はそんなものだろうと思ってきた。あるいは、無意識にせよ日本共産党ら日本の「左翼」もまたそのような言葉の使い方をしていると感じてきた。
 マルクスは正確にどう書いていたかは知らないが、かつて日本共産党は共産主義を社会主義の高次の段階だというような説明をしてきたものの、(不破哲三による指導の一撃により?)1990年代以降はマルクスは両者を厳密には区別していないという説明に変わり、現綱領上も「社会主義・共産主義」の社会、というような表現をしている(また、「マルクス=レーニン主義」という語は使わなくなり、<科学的社会主義>と称する)。
 1973年のレディング会合についてのL・コワコフスキによる注記でも頻繁に言及されているが、<社会主義思想>をテーマにしながら、「社会主義」概念の意味または意味の検討方法についてすら一致がなかった、とされる。
 この会合を離れると、L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>は「社会主義」と「共産主義」を明確に区別しているという印象が、試訳し始めて以降早々に生じた。
 この著にいう「共産主義」=communism は、あえて単純化すると、レーニン・スターリン主義、ボルシェヴィズム(あるいはソヴィエト・ロシア型の「社会主義」)のことだと思われる。マルクス主義=共産主義ではないが、共産主義は前者の系統上にある、と位置づけられているとみられる(なお、某はL・コワコフスキの「ソヴィエティズム」という観念について語っていたが、この「ソヴィエティズム」という語は今のところ見たことがない)。
 また、上の大著の第二巻は<黄金時代>と題されているが、たぶんトニー・ジャットの文章だっただろうか、L・コワコフスキはマルクス主義の<黄金時代>を第二インターナショナル(=社会主義インターナショナル)に見ている、という解説または言及があった。
 そして、第三巻の<瓦解(Breakdown、Zerfall)>はむろんソヴィエト連邦の崩壊ではなく、スターリニズムの説明から始まる(第二巻の末尾がレーニン)。
 つまり、L・コワコフスキにおいては(1973年のレディング会合の記録である1974年編著もおおよそそうだが)、「社会主義」と「共産主義」はおそらく完全にまたは大幅に異なる概念であって、同どものとして使っていないことは明瞭だ。
 むろん、マルクス主義と「共産主義」は、関連はあっても(その関連性の意味・内容・形態こそが問題だが)同一ではない。
 この上のような言葉の使い方は、トニー・ジャットにおいてもおそらくは近い。
 そして、推測になるが、フランス社会党・ドイツ社会民主党等とフランス共産党・イタリア共産党等を区別するために、欧米では「社会主義」と「共産主義」をきちんと分けておく必要があったのだろう(ドイツ社会民主党は戦後早くにいわゆる<マルクス=レーニン主義>からの離別を建前上は宣言している)。
  日本会議の設立宣言(1997年)は「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」と書いているが、この団体が「余すところなく暴露された」とする「マルクシズムの誤謬」を多少具体的にでもどう理解しているかは、完全に疑わしい。
 それは、日本会議専任研究員だった江崎道朗の2017年著での社会主義・共産主義・レーニン・コミンテルン等に関するはなはだしい、悲惨な<無知>でも明らかだろう(この著には「社会主義」と「共産主義」の異同を思考するという問題意識すらない)。
 もちろん、櫻井よしこ、伊藤哲郎、椛島有三らの日本会議諸氏が「マルクス主義」にいかほど通暁しているかも全く疑わしい。
 さらにはついでに書けば、日本の「(いわゆる)保守」と自称しまたは多称されているような<産経文化人・知識人>たちのマルクス主義・共産主義等に関する知識・素養のなさも著しいだろう。
 そして、秋月瑛二は、「保守」とは第一に「反共主義」だと考え、それを最も単純には「自由主義」とも称してきた。第一にというより、「保守」=「反共主義」=「自由主義」とほぼ等号で結びたいつもりで書いてきたかもしれない。だからこそ、月刊正論(産経)等々に見られる<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>による<反共産主義>意識の欠如や乏しさに我慢がならず、しばしば批判的なコメントを書いてきた(この点ではこの欄は一貫しているつもりだ)。
 しかし、<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>の理解する「保守」が反米だったり「日本」・「天皇」だったりすると<反共>意識の乏しさも全く当然のことで、この人たちは、私の理解する意味での「保守」派では全くない、ということがこの数年間に分かった。
 馬鹿らしいほどだ。
 日本会議の活動員だろうか、<「反共」なら統一教会に任せておけばよい、大切なのは「天皇」だ>とかの書き込みがネット上にあった。
 「日本」・「天皇」に観念的に執着することは、「保守」でも何でもない。「愛国主義」・「民族主義」あるいは偏頗なナショナリズムだ。
 なお、日本共産党・しんぶん赤旗を見て見るとよいだろう。対米自立・対米従属批判で日本共産党は一貫している(一部の<いわゆる保守>と同じように)。
 さらについでに引用しておこう。レディング会合で1973年に早くもS. Hampshire は語った、という(試訳済み)。
 「民族的共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる」。
 上の「左翼」は「右翼」の訳し間違いまたは書き間違いではない。
 「日本」・「天皇」では、「右翼」でも「左翼」でもある。
 日本会議と日本共産党は、再三書くが、その方向は<45度も開いていない>。
  「社会主義」観念の捉え方の広さ・多義性を見ると、レディング会合の参加者は決して全員が<反社会主義>の立場の者ではなかったように見える。
 第一に、東欧(当時の「社会主義国」)からの参加者の中には、現実の「社会主義」には問題があっても「資本主義」からは離別しているという点では肯定的に評価していると感じられる人物もいる。
 第二に、驚いたことに、Eric Hobsbawm までが参加して、ソヴィエト型社会主義を擁護するかのごとき発言をしている。この人はイギリス共産党員だったはずなのだが。
 Edward P. Thompson が招聘されなかったと言ってL・コワコフスキに不満を述べていたらしいこともよく分かってきた。この人はマルクス主義者らしいが、L・コワコフスキは「新左翼」扱いをしていたようだ(試訳済みの「左翼の君へ」)。
 このような、試訳してみての、その内容についてのコメントはこれまでほとんど行ってきていない。
 その理由は要するに、そんなことをしているとキリがないし、いったん何となくでも意味を理解してしまうと、時間が惜しいからだ。
  1972年4月に東京での国際セミナーを開催した(または後援した)<日本文化フォーラム>の性格、あるいは石原萠記という人物の評価・位置づけを「社会主義」という語を使って記述するのも困難なところがある。
 だが、レディング会合とは少し違って(?)明確なのは、<反日本共産党>あるいはその意味で<反共産主義>だ、ということだろう。<日本文化フォーラム>の関係者あるいは石原萠記の交際範囲の中に日本共産党員(および社会党左派・向坂派・社会主義協会派)は全く存在しないとみられる。
 欧州的?社会民主主義の建前のように、「社会民主主義」と「反共産主義」は両立する。
 前者を「社会主義」の中に入れてしまって、「社会民主主義」=「左翼」=「容共」と簡単に把握することはできないし、そうしてはいけない。
 この辺りは、日本社会党右派、民社党、日本での<反共・社会民主主義>がなぜ勢力を大きくできなかったのか、という、日本の戦後政治史に深く関係するだろう。
 <日本文化フォーラム>とは別にあったらしい<日本文化会議>についても、遡って見ておく必要がある。
 そして、日本会議(1997年設立)は戦後日本の「保守」運動を継承しているのか?
 石原萌記の書物の中には(1999年刊行であっても)、日本会議も椛島有三も出てこない。
 この点は、別に記述しなければならない、最近の大きな関心事だ。
 なお、<日本文化フォーラム>というのは、とくにその中の「フォーラム」の採用は、林健太郎の提言によるらしい(石原萠記著による)。
 「フォーラム」と「アゴラ」の意味はきっと同じだろう。

1986/マルクスとスターリニズム②-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 一部について、ドイツ語訳を参照した。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第2節・スターリニズムはどう定義(identify)されるか?
 (1)「スターリニズム」という語を用いる場合に、ソヴィエト同盟の十分に明確にできるワンマン僭政制の時代(つまりはおよそ1930年から1953年まで)を意味させるのか、同じ特質を明らかに示す体制を意味させるのか、にはほとんど違いはない。
 にもかかわらず、スターリニズム後のソヴィエト社会やソヴィエト型の国家がどの程度において本質的にそのシステムを拡張したものであるのかという問題は、明らかに、言葉の使い方の問題ではない。
 しかしながら、多くの理由で、システムの継続性を強調する、より歴史的ではなくてより抽象的な第二の定義が、より好都合だ。
 (2)「スターリニズム」は、生産手段の国家所有制にもとづく(ほとんど完全な)全体主義社会だと特徴づけられるかもしれない。
 私は「全体主義的」(totaritarian)という語を常識的に、社会的紐帯が国家が押しつけた組織に置き換えられ、その結果として全ての集団と個人がその行動について国家の目標であり国家がそうだと明確にした目標によってのみ導かれる、そのような政治システムの意味で用いる。
 言い換えると、理想の全体主義システムは、市民社会の完全な破壊をその意味に包含することになるだろう。すなわち、国家とその組織的な諸装置が社会生活の唯一の形態であり、人の-経済的、知的、政治的および文化的-活動の全ての形態はそれらが国家目標(もう一度記すがこれは国家によって明確に定められる)に奉仕する場合にかぎってのみ許容されかつ押しつけられる(許容と賦課の区別は消失していく)、そのようなシステムになるだろう。
 このようなシステムのもとでは、全ての個人(支配者たち自身を含む)は国家の所有物だと考えられてしまう。//
 (3)このように理解される観念は-こう定義することで私はこの主題を論じたほとんどの著作者たちと異なっていないと思うのだが-、なお若干の論評を加えて説明することが必要だ。//
 (4)第一に、完全な形を達成するためには、組織に関する全体主義的原理は生産手段の国家による統御を必要とする、ということが明瞭だ。
 言い換えると、生産活動や経済的主導性の重要部分を諸個人に委ねる、その結果として社会の諸部分が経済的に国家から自立していることを許容する、そのような国家は、理想の形態になることができない。
 ゆえに、全体主義は、社会主義経済のうちにその理想を達成する最良の機会をもつ。//
 (5)第二に、絶対的に完璧な全体主義システムはかつて存在しなかった、ということが強調されなければならない。
 しかしながら、いくつかの社会は個人と共同体の生活の全ての形態を「国有化」する、きわめて強い、内在していて継続的に作用している傾向をもつことを、我々は知っている。
 ソヴィエトの社会と中国の社会はいずれも、この理想にきわめて近いか、一定の時期にはきわめて近かった。
ナツィ・ドイツもそうだった。十分に発展させるほどには長く続かなかったとしても、また、全てを国有化することなく強制を通じて経済活動を国家目標に従属させることで満足していたのだったとしても。
 その他のファシスト国家は、この方向ではドイツよりはるかに遅れていた(または、遅れている)。
 ヨーロッパの社会主義国家もまたかつて、全体主義のソヴィエトの段階まで決して到達しなかった。永続的で衰えることのない、そうしたいという意思はあったにもかかわらず。//
 (6)全体主義の<entelechia〔明確な精神〕>が理想的な形態で実現され得るだろうとは、言えそうにない。
 このシステムによる圧力に頑固に抵抗する生活の諸形態-とくに家族、情動および性的関係-がある。
 そのような生活諸形態はあらゆる種類の国家の強い圧力にさらされてきたが、明らかに、決して完全には達成されなかった(少なくともソヴィエト国家ではそうだった。おそらくは中国ではより多く達成された)。
 同じことが個人や共同体の記憶についても言える。全体主義システムはこれを、当今の政治的必要に従って歴史を変形させ、書き直し、捏造することによって否定しようとしてきたのだったが。
 工場と労働を国有化することは、感情をそうすることより明らかに容易だ。そして、希望を国有化することは、記憶をそうすることよりも容易だ。
 過去の=歴史の国有化に対して抵抗することは、反全体主義の運動の重要な部分だ。//
 (7)第三に、上述のような定義は、全ての僭政システムまたはテロルの支配は必ず全体主義的だとはかぎらない、ということを意味包含している。
 あるシステムは、最も血なまぐさいものであれ、限定された目標をもち、その範囲内での人の活動の全ての形態を吸収して奪い取る必要がないかもそれない。
 最悪の形態の植民地支配は、最も苛酷な時期であっても、通常は全体主義的でない。
 目標は従属している諸国を経済的に搾取することであり、この観点からして中立的な多くの生活領域は、多かれ少なかれ侵害されないままにされた。
 逆に、全体主義システムは、抑圧の手段としてテロルをつねに用いる必要はない。
(8)その完全な形態では、全体主義は、奴隷制の、主人なき奴隷制の、異常な形態だ。
 それは、全ての人々を奴隷へと転化させる。そしてそのゆえに、それは平等主義(egalitariansm)の確かな徴表を帯びる。//
 (9)このように用いる全体主義という観念は最近は「古くさい」または「信の措けない」ものとしてますます却下されてきていることを、私は知っている。
 その有効性は、疑問視されてきた。
 だが、私は、観念上であれ、歴史的にであれ、それの正当性を否定する分析というものを知らない。むしろ、それを正当視する、以前の多数の分析を知っている。
 じつに、共産主義は個人の国家所有を意味するだろうとの予言は、プルードン(Proudhon)において現れた。そして、のちに多数の著名な著作者たちは、そのことが実際にソヴィエト社会で発生したと指摘し、そのように描写すらした(その際に彼らが「全体主義」という語を用いたか否かは別として)。ここでそれらを引用することは、無意味な衒学趣味になるだろう。//
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 第三節につづく。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
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 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1854/左翼は「ファシスト」の存在・ファシズムの再来可能性を必要とする。

 この欄で2016年に、青木理が同年7/24夜のテレビ番組で「歪んだ民主主義からファシズムは生まれるとか言いますからね」とか言い放った、と紹介している。
 日本の左翼にとって、その歴史観・政治観の形成にとって、「ファシズム」・「ファシスト」=絶対の悪という公式は不可欠なのだ。
 もっと幅広く、歴史的または欧州史または欧米思想の観点から、この欄ですでに紹介して言及したように、François Furet, The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentieth Century - (原仏語版1995年) は、<第6章/共産主義とファシズム>の中で、つぎのように述べていた。
 前回の投稿の補足として掲載する。すでに掲載した部分をあらためてできるかぎり全文に近くなるように、邦訳書と原英訳書を見て、紹介・掲載し直す。邦訳書は、以下。なお、この邦題は「過去」と「全体主義」の二カ所ですでに適切ではないと指摘した。<幻想の終わり-20世紀の共産主義>が原書(フランス語版)の意味にも添う。
 楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。 p.244-。 
 ・「20世紀の歴史を織り成しているのは、…全く新たな政治体制であり、また20世紀が特異な性格を示すようになったのは、まさにそうした政治体制の出現のゆえにだった。そのために、歴史家は20世紀を19世紀の眼鏡を通して理解する誘惑を避けられなかった。彼らはあくまで、民主主義対反民主主義という闘いの図式を繰り返し、ファシズム対反ファシズムという対立の構図に固執した。こうした傾向は、…第二次大戦終結以降、ほとんど神聖にして犯すべからざる思想上の観点とさえ見なされるようになった。」
 ・「こうした精神的束縛にはきわめて強力なものがあり、ゆえに欧州で最も大きな力を獲得した国々-フランスとイタリア-で、コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示すものだと考えられ、そのため長い間、コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる結果になってしまった。かつまた、ファシズムの歴史を語ることすら、相当に困難になってしまった。」
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには、≪ファシズム≫が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ! 栄光から見離された政治体制が、これらの政治体制を打倒した人々の空想の世界でこれほどまでに長く後世の摸倣者を輩出したという例は、決して見られなかった現象だろう。」
 ・「我々は今日なお、ファシズムに対する偏った見方によって積み重ねられてきた廃墟の中から完全には脱し切れていない。ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかった欧州の政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上、神谷匠蔵の一文での指摘はF・フュレの叙述や秋月の理解と大きくは違っていないだろう、ということの例証で、さして大きな意味はない。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
――――
 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
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 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
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 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1835/2018年8月-秋月瑛二の想念。

 昨年、2017年の5-6月頃、つぎの「三相・三層・三面」の対立軸若しくは闘い又は目標を意識すべきだと記していたことがあった。
 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)との闘い。
 2) 「共産主義(communism)」と強いていえば「自由主義」の対立軸の措定。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」の追求
 説明をなお要するが、つぎを除き、基本的趣旨を繰り返さない。
 日本ではまだ全体として、1)の次元が解決されておらず、2)も明確ではなく、3)だけを肥大化させる、より基本的な論点を忘却させる傾向もある。2)で終わっただけでもまだ不十分なのではあるが。
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 さらに、この一年間、日本人も人間も「ヒト」という生物の種の一個体だということを意識すると、種々のことが私なりに理解できるようになった、と感じている。
 いくつかある。
 第一。産まれて、生きて、死んでいく。この、永続的な生命を何人も有しないということこそ、人間と社会を考えるための最も根幹的なことだ。つぎの付随的なことも出てくる。
 個々人が一生の間に理解し、思考できることには限界がある。限られた時間の中で得た知識、思考等は自動的に次の世代に「相続」されるわけではない。DNAの変化にはよほどの長い時間が要る。
 日本人または人類全体としては「知識」・「思考」量は増えていっている、というのは幻想で、<日本人または人類全体>としての知識・思考を、誰一人として個人的に有しはしない。個々のヒト、一個体としての人間には、絶対的な限界がある。
 第二。「偉大」とされる哲学者・思想家も凡人の秋月瑛二も、上の点では本質的な違いはない。
 まだ若かった頃は、天才あるいは傑出した人物は存在し、とても理解できない難解で優れたことを思考し、発言し、あるいは行動したのだろうと漠然と思っていた。
 もちろん、相対的には差違の程度はある。しかし、本質的に同じヒトたる者が思考したり、行動したりすることには絶対的な限界がある。。
 したがって、ギリシャ(?)から現代まで、「哲学」や「思想」が分からなくとも、少なくとも大きな劣等意識をもつ必要はない。哲学者・思想家らしき者たちもまた、全てを「理解」しているわけではない。多数の人それぞれが、それぞれの時代に、それぞれの言語で、何らかの目的のために懸命に<もがいてきた>
 第三。人間はヒトとして<食って生きて>いく必要があるので、「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない
 真理のため、人類のため、国家社会のため、といった<綺麗事>で、あるいは何らかの<理念>に仕えるために、「知的」営為が行われてきた、行われている、とは全く限らない。
 第四。動物の多くが二つの眼を、かつ<前方向きに>持つのは不思議なことで、人間・ヒトにもまた、<前と後>あるいは<前進と後退>の意識が本能的に内在し、同時に前方を向いての<左と右>という内在的で本能的な意識もある。こうしたことは、社会認識・社会観にも影響を与えている。
 フランス革命期の議会に「左翼」・「右翼」の語源はあるらしい。
 ここで欠けているのは、前方の右・左ではない「うしろ」もある、という感覚だ。さらに、会場の「上」にある空も、「下」にある地底もある、という感覚も欠けている。
 単純な冒頭の1)の 「民主主義対ファシズム」という歴史観・社会観には、この名残りが色濃くある。
 そしてまた、冒頭の「三相・三層・三面」の対立軸で思考するのも、考慮要素がまだあまりにも少なすぎる。
 点的・線的思考ではなく、重層的・多次元的思考が必要だが、かりに<宇宙空間的>思考とでも言おう。
 宇宙空間のいずれかの、前後上下左右を全て見渡せる一点に認識主体がいてかつ移動しているとして、いったいどちらが<右・左>、<前・後>・<上・下>なのだろうか。右に進んでいるように見えて循環して左に向かっているかもしれない。前後、上下も同じ。
 強引にここで結びつければ、ヒト・人類の歴史は<不断に進歩している>という無意識の観念があるとすれば、それは誤った、一種の<願望>にすぎないだろう
 <進歩>か否か、<前進>か否か、<良く>なっているか否かははたして、何でもって「判断」できるのか。「正しい」か否か、「改良・改善」か否かの規準は、いったい何なのだろうか。
 当たり前かもしれない、漠然としたこういう想念を、少しは-日本の現実とも関連させて-記してみようか。

1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1822/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文②。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)。
 この邦訳書の冒頭にある著者自身による「日本語版のための序文」で、A・ブラウンはさらにこんなことも書いている。一文ごとに改行する。
 ③(第四段落冒頭)「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である、より一層意義深い理由がある。
 今日のヨーロッパには共産主義国家は一つも残っていないが、現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる
 つまり、キューバはここでは措くとして、中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮である。
 いくつかの共通の特徴はあるとしても、共産主義は異なった時代に異なった場所で、まったく異なった現れ方を示した。
 類似点と相違点、いかに…を主要な話題として、以下のページで探っていく。」
 このあと中国と北朝鮮に関するやや立ち入った言及をしたあと、つぎのようにまとめている。
 ④「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である
 このことはとりわけ、世界最大の人口を擁し、遠からず世界最大の経済規模となる中国に当てはまる。//
 共産主義の歴史--革命と戦争、悲劇と勝利、失敗と成功、イデオロギーの信奉者と殺戮者--は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう
 アジアの近隣に共産主義国家が存在することもあって、本書は今日のための洞察を含んでおり、また、過去への省察を提供するのみならず、未来への思索を誘発するであろう。
 本書が日本語に翻訳されることは私にとって大きな喜びである。」
 ** さて、上にある次の文章を、多くの日本人はそのとおりだと感じるだろうか。
 ・「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である」意義深い理由は、共産主義国家で「現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる」からだ。。
 ・「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である」。
 ・「共産主義の歴史は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう」。
 このように言われても、**それほどではありません、共産主義がさほど重要な主題だと感じていないしアジア近隣に四つの共産主義国家が現存しているという意識もないし、共産主義の歴史がさほど興味深いものとは思っていません**、という日本人の方が、知的産業・情報産業従事者も含めて、多いのではないだろうか。
 R・パイプス、S・フィツパトリクらは、日本共産党等も含めて日本のことをほとんど知らないし、日本国内での共産主義・ロシア革命等に関する議論を知らないままで、それぞれの研究をしてきただろう。
 それはA・ブラウンも同じで、日本国内のにある「異例な」<左翼>的雰囲気を-おそらく日本語が読解できないことを決定的な理由として-知らないままで、上のようなことを書いているのだろう。
 しかし、、欧米の「共産主義」研究者からするとおそらく、上のような推測が当然に生じてくるのに違いない。
 ソ連・東欧や欧米の「共産主義」史に詳しい日本以外の研究者にとっては、上のような指摘や推測は自然または当然であって、日本人の方がむしろ違和感を覚えるのだとすると、日本人の方が<奇妙>なのではないか、と思われる。
 <共産主義の恐ろしさ>を肌感覚では理解しておらず、中国も北朝鮮も海を隔てた<遠い国>であるかのごとく捉えられているのではないだろうか。
 そもそも、中国や北朝鮮のことを「非民主主義国」とか「党独裁国家」ということはあっても、日本人は、あるいは日本のメディアや論壇者は「社会主義国家」とか「共産主義国家」などと称すること自体がまずない(なお、日本共産党は北朝鮮は「社会主義国」ではないとする)。
 欧米のメディアや論壇者と比べて、どこか感覚が麻痺しているのではなかろうか。
 それは、日本に「社会主義(・共産主義)」幻想がまだ強く残り、日本共産党の存在もあって、公然と「社会主義」・「共産主義」を批判し難い雰囲気があるからだと思われる。
 「反共」はバカな「愛国・保守」の主張であって、理性的・知的な者は<日本会議的アホ>のような主張をするはずはない、という感覚の者もいるかもしれない。「反共」ではあるらしい<日本会議的アホ>も、江崎道朗らに見られるごとく、「共産主義」に関する知識・素養がまるでないのではあるが。
 A・ブラウンの日本人向け序文を読んで感じるのは、このようなもどかしさ、不思議さだ。
 <反共産主義>あるいはその意味での<自由主義>が、おそらく知的活動者にとっての<常識>になっている国と、そうではない国(日本、おそらく韓国も)の違いだろう。
 立ち入らないが、アメリカ合衆国を含むNATO締結国であることを当然のこととしていると思われる(ソ連解体後は例えばチェコも加入した)ほとんどのヨーロッパ諸国と、日米安保や日本の自衛隊の存在自体を危険視する意識をもつ勢力がなおもある程度存在し、あるいは「抑止力」を理解していませんでしたと平気で言える首相(鳩山由紀夫)がいた国との違いだ。
 D・トランプ現大統領は、R・パイプスのぶ厚い研究書を読んでいないかもしれない。
 しかし、この大統領も、R・パイプスの<共産主義の歴史>という一般人向けの簡潔な本くらいは読んでいて、<反共産主義>の基礎的な知識・常識くらいは持っているだろう。
 基礎的な知識・常識あるいは感覚レベルで、日本には独特の<雰囲気>があるようだ。
 いいも悪いもなく「現実」なのだから受忍する他はないが、このように指摘する者がいてもいけないということはないだろう。

1820/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文①。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 この邦訳書の原書はつぎで、その下に挙げる、ドイツ語訳書もある。
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)
 =Archie Brown, Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein, 2009)
 これらの原書、独訳書には(当然だが)ない著者自身による「日本語版のための序文」というのが、上掲の邦訳書の冒頭に付いている。
 英国人研究者であるA・ブラウンが共産主義と日本や日本共産党との関連について言及していて、秋月瑛二にはすこぶる興味深い。
 英国の一研究者による共産主義と日本の関係の理解そのものもそうだ。しかしさらに、日本人と日本の「知識人」または知的産業従事者たちはどの程度に、このA・ブラウンの指摘または言明に共感するのか、またはそれらと同様の感覚を共有しているのか、かなりの程度の疑問を感じるからでもある。
  いくつかの点をそのまま引用しつつ、若干の感想、コメントを記したい。一文ずつ区切る。
 ①(冒頭すぐ)「共産主義は日本にとっても大きな意義を持っていた。
 たとえこの国が共産主義の支配下に入る可能性はほんのわずかもなかったとしても、である。
 第二次世界大戦後の全期間を通じて、ソヴィエト連邦からの脅威があったし、中国への不安が日本外交に影響を与えた。
 潜在的な共産主義からの攻撃に対する不安こそ、アメリカ合衆国との緊密な外交関係と軍事的協力の主要な理由であった
。」
*この四つめの文の意味を理解できないか、共感できない人々が日本の「左翼」には今でもいるに違いない。
 対等な「関係」や「協力」ではなくて「対米従属」ではないかという論点はさておき、 「潜在的な共産主義からの攻撃」、つまりかつてのソ連、中国、北朝鮮等、現在の中国・北朝鮮等による「潜在的な」または顕在的な攻撃に対する不安・恐怖を示す以上に<アメリカ帝国主義>あるいは<覇権主義・アメリカ>を批判し、攻撃する心性の人々が日本にはまだ相当数存在していると思われる。
 簡単にいって、<左翼>であり、スターリンは別としてもレーニンまたは少なくとも<マルクス>には幻想を持っている人々だ。
 ②(第三段落冒頭)「ヨーロッパで共産主義が崩壊したとき、たいていの共産党は崩壊するか、社会民主主義政党として再出発した。
 日本では、…、共産党がその党名を保ち、議会に代表を有しているという点でやや異色である

 しかしながら、…、議席ははるかに少なくなっている。
 とはいえ、日本共産党はかつてヨーロッパや北米の共産主義研究者の注目を集めていた。
 …『ユーロ・コミュニズム』として知られる改革派傾向の一翼を担ったからである。<一文略>
 地理的な隔たりがあったにもかかわらず、日本共産党はイデオロギー的に、モスクワのソビエト正統派の守護者ではなく、改革に取り組みつつあったイタリア共産党やスペイン共産党に接近したのである」。
 *上の第一・第二文のような認識・感覚を日本の多くの人または日本共産党員およびその支持者たちが有しているかは、疑わしいだろう。
 日本にまだ「共産党」が存続していることは「やや異例」だとされる。但し、私にいわせれば「かなり異例」、または少なくともふつうに「異例」なのだ。
 共産主義とか「共産党」の意味それ自体にかかわるが、この問題は、日本共産党は「共産主義」を実質的には捨てたとか、カウツキーの路線にまで戻ったとかの論評でもって無視することはできないはずだ。
 なぜなら、現在の日本共産党は今でも<ロシア革命>と<レーニン>をの積極的意味を否定していないし、自分の存在の根本である1922年に存在した<コミンテルン>の意味を否定しているわけでもない。そして「社会主義・共産主義」の社会を目指すと、綱領に公然と明記しているのだ。
 但し、著者も現時点のこととして書いているのではないだろうが、上の後半のように「ユーロ・コミュニズム」の一環、イタリアやスペインの共産党と似た類型の党として現在の日本共産党を理解することはできないだろう。すでに「ユーロ・コミュニズム」なるものはおそらく存在せず、少なくともイタリアでは1991年のソ連解体後すみやかに(当時にあつた)イタリア共産党は存在しなくなったからだ。
 日本に「共産党」と名乗る政党が存在し続け、国会に議席まで有していることの不思議さ・異様さを、より多くの日本人が意識しなければならない、と思われる。
 **関連して、<左翼のお化け>のような感が(私には)する和田春樹は、つぎのように2017年に発言していた。
 和田春樹「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しいのですが、それは元をたどればコミンテルンの影響が強かったことに起因しています」。
 現代思想2017年10月号/特集・ロシア革命100年(青土社)p.48。
 江崎道朗が2017年8月著でいう「コミンテルンの謀略」とは中身を見ると、要するに「共産主義(者)の(日本への)影響」ということなのだが、そんなことくらいは、知的関心のある日本人なら誰でも知っていたことで、珍しくも何ともない。
 ゾルゲがソ連の赤軍の「スパイ」で尾崎秀実が日本国内で工作員として働いたことくらいは日本史または共産主義に関心をもつ者ならば誰でも知っていることだ。そして、尾崎秀実の法廷での最終陳述書等もまた、戦後にとっくの昔に公表・公刊されている。
 (江崎道朗が2017年8月になってゾルゲや尾崎秀実がしたことを確認したとしても、何の新味もないだろう。それとも、江崎は自力で?新資料でも発掘したのだったのだろうか。)
 戻ると、日本の「左翼」の和田春樹もまた、(江崎道朗とは異なる意味での)「コミンテルン」の日本に対する影響の、現在にまで残る強さを認めているのだ。また、「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しい」ことも、つまりは日本の「異例」さも認めている。
 上に引用部分にはないが、和田春樹は「日本共産党」にも言及する。しかし、江崎道朗は、少なくとも戦後の共産主義や日本共産党への論及はパタリと止めて<逃げて>いる。
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  アーチー・ブラウンによる「日本語版のための序文」には、あと少し紹介・コメントしたい部分がある。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1813/江崎道朗2017年8月著の無惨⑮。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 前回に触れたように、後掲の邦訳書の「付録資料」の冒頭に訳者・萩原直が注記を施して、この「付録資料」の大半の翻訳は村田陽一の編訳書によることを明記している。
 つぎのものだ。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)。
 従って、江崎道朗は日本語によるこの6巻本が30年以上も前までに「公開」されているのを、(仮に以前は知らなくとも少なくともこの注記によって)当然に知ったはずなのだ。
 しかし、詳細で網羅的ふうに感じられるこの<コミンテルン資料集>に江崎がいっさい接近しようとした気配がないのは、何故なのだろうか。
 <コミンテルンの陰謀>を主題の一つとするかのごとき表題を付けながら、コミンテルンについて、この村田陽一編訳書を参照しようとせず、「コミンテルン」に関する叙述で萩原直の訳書に最も依拠しているのは、何故なのだろうか。
 日本の読者を馬鹿にしているか、本人の「無知」によるとしか考えられない。
 ちなみに、村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)は、この数年内の私でも簡単に入手できている。
 コミンテルンそれ自体が作成・発表した文書・資料がすでに日本語になっていることは何ら不思議ではない。おそらくは戦前から存在しており(日本に関する有名な27年や32年テーゼもある)、戦後のスターリンの死やフルシチョフ秘密報告があってもまだスターリンが日本の(トロツキストら以外にとっての)<容共・左翼>の「輝きの星」だった時期に、(レーニン全集やスターリン全集等もそうだが)スターリン期を含む戦前の<国際共産主義組織>の諸文書・資料の邦訳がないと想定すること者がいるとすれば、よほどの「無知」か「しろうと」だろう。
 萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(1998)の「付属資料」の大半が本当に村田陽一の訳と同じなのかを確認する手間はかけない。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻/1918-1921年(大月、1978)の概要は、つぎのとおり。
 資料件数-総数101。江崎道朗が<抜粋>だけの邦訳を見て、とんでもない誤解・無知をも示している全てで計4の文書の<全文>を含む。これらを江藤が一見すらしていないことは明白。
 以下、前回に記した江藤言及の4資料と対照させておく。右端はこの資料集第1巻での最初の頁と最終の頁だけから見た総頁数。
 ①1919.01.24/招待状-資料2(4頁)
 ②1920.07.28/民族植民地テーゼ-資料45a, 45b(8頁)。
 ③1920.08.04/規約-資料40(4頁)
 ④1920.08.06/加入条件-資料39(5頁)。
 その他、資料部分総頁-二段組み、538頁。「注解」総頁-54頁、「解説」総頁-24頁。数字つき最終頁-628(横書の頁が他にp.12まで)。
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 江崎道朗がコミンテルンについて最も依拠した、つぎの本・邦訳書の原著者はいったいどういう人物なのか。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。

 まず明確なのは、日本語版の<ウィキペディア>には、いずれの氏名でもヒットしない。
 不十分、不正確なところはあっても、L・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリックは、日本語版の<ウィキペディア>にも出てくる。
 つぎに明確なのは、英米語版<Wikipedia>でもKevin McDermott または Jeremy Agnew はの項目または欄はない。前者より著名らしき同名の者が、football-player や singer-song writer にはいる。後者と同名のより著名らしき、映画関係著述者はいる。
 結局のところ、Jeremy Agnew(ジェレミ・アグニュー)の現在については、かつて上の著の共著者らしいことは分かっても、それ以上に明らかにならないようだ。
 つぎに Kevin McDermott は少し前にどこかの高校の歴史の教師という知識を得たのだったが、<Kevin McDermott+historian>で、現在探してみると(といっても今日ではない)、つぎが分かった。<Wikipedia>ではなく、イギリスの大学教員紹介のサイトからだ。
 イギリス・シェフィールド大学とは別のシェフィールド・ハラム大学の「上級講師」(senior lecturer)。「20世紀東欧・ロシアの歴史家。共産主義チェコスロヴァキアとスターリニズムソ連が専門」とある。出生年不明。所属学部等には面倒だから立ち入らない。
 1998年刊行の邦訳書にはどう紹介されているかというと、K・マクダーマットは「チェコ労働運動史」、G・アグニューは「イタリア共産主義運動」の各「研究家」とカバー裏にあるだけで、訳者自身の文章(訳者あとがき)でも(本の内容ではなく)二人に関しては何も触れられていない。
 以下で触れる点も参照すると、1998年時点ではおそらく、二人ともに大学、研究所等の正規構成員ではなかったように見える。当時の推定年齢は30歳台だ。G・アグニューは20歳代後半だった可能性もある。
 いずれにせよ、K・マクダーマットは「博士」の学位はあるようだが、おそらくは50歳台以上でも(イギリスの教育・研究制度をよく知らないが)<教授職>を有しない。
 要するに、<コミンテルン史>を共著として刊行しているが、イギリスおよび英米語圏諸国でさほどに著名な、あるいは評価の高い研究者ではなく、当時はほぼ全く無名だったように推察される。
 原書刊行1996年以降のロシア革命やコミンテルン関係書物について詳しくないが、少なくとも今のところ、この著が参照されているのに気づいたことはない。
 それに、内容にもかかわるが、二人が書いている冒頭の「謝辞」によると、「まえがき」と「おわりに」を除く計6章のうち第5章は別の人物(原書によって正確に綴ると Michael Weiner, シェフィールド大学東アジア研究センター所長)が執筆しており、およそ二つの章は(二人の共同執筆なのかどちらかのものなのか不明だが)既発表の論文を修正・追加等をしてまとめたものだ。二人にとって最初の書籍公刊だった可能性が高い。
 したがつて、いちおうは年代を追って「コミンテルン史」を叙述しているが、この書で初めて体系的に整理して叙述したものでもなさそうだ。
 追記すると、20歳代(または30歳代)の若い研究者が論文類をまとめて初めて一冊の本にするのは日本でもあることだと思うが、共著というのは珍しいだろう。しかも、かりに指導教授だつたとはいえ?、一部をその別の人物が書いているのも、日本ではあまり例を知らない(「まえがき」くらいで意義を語る、というのはあるかもしれない)。
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 こんなことを書いても、江崎道朗は本文を何ら読まず、「付録資料」だけを(致命的な誤読・誤解をしつつ)利用しているにすぎないと思われるので、江崎道朗にはきっと、何の意味もないだろう。
 ただ、関心を惹くのは、第一に、大月書店が、なぜこの本の訳書を刊行したのか、ということだ。これはこの本の内容にかかわる。
 また、第二に、日本共産党直系の新日本出版社や学習の友社でなくとも、(マル・エン全集、レーニン全集等の出版元で)<容共・左翼>であって、1990年以前は明らかに日本共産党系だったと思われる大月書店の刊行物を、なぜ簡単に?江崎道朗が利用したのか、というのも不思議だ。
 加藤哲郎が<左翼>であることを多分知らないほどだから、大月書店という出版社名を何ら気に懸けなかった可能性はある。しかし、この邦訳書の巻末には、同社刊行のマル・エン全集CD-ROM版等の宣伝広告も載っていて、この社の<左翼>性に-常識的には-気づかないはずはないのだが。
 より決定的で明確な、江崎道朗の<反・反共>インテリジェンスに対する<屈服>、したがって、江崎に<共産主義者のインテリジェンス活動>を警戒すべきとするような文章を書く資格はないだろうという、江崎のこの著に現にある叙述については、さらに別に書く。

1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1805/江崎道朗2017年著指弾⑬。

 つぎのものは、ひどい本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 既述だが、わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの「致命的」な間違いがある。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 他にもあるが、ああ恥ずかしい。
 これらの一つだけでもすでに致命的で、出版停止し全面的書き直しか絶版にすべき程度のものだと考えられる。
 いずれにせよ、江崎道朗に、対共産主義「インテリジェンス入門」を執筆する資格はない。
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 これまた既述だが、江崎道朗は、共産主義(者)・共産党と「コミンテルン」を明確に区別する必要を感じていない。ロシア共産党、ソ連共産党、ソ連国家(赤軍であれチェカであれ)、これら全てを「コミンテルン」と表現しているのではないかとすら疑われる。
 「コミンテルン」を使う理由はおそらく、日本の一般的読者には共産主義等ほどの馴染みがない言葉で、かつ何やら「陰謀組織」めいた印象を与えることができるからだろう(政治文書、プロパガンダ文書には、どのような「言葉」を使うかも重要なのだ)。
 したがって江崎道朗には、コミンテルン初期の「加入条件」等文書は国際的共産主義組織一般と「共産主義者」との関係を規律するものであると理解されることになるようで、換言すると、「共産主義者」であるための要件を示すものと理解されていそうで、<コミンテルン(国際共産党)-「共産党」と名乗って加入して一員・一支部になってもよいと考える各国の社会主義的政党>の関係を規律するものと正確には理解されていないようだ。
 「コミンテルン」を本の表題の一部に使いながら、ひどいものだろう。
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 では江崎道朗には、「共産主義」自体はどう理解されているのか。
 上掲書p.38-39で、こう説明する。「マルクス主義」・「マルクス・レーニン主義」・「社会主義」との異同に全く言及はない。のちに離れたところで「社会主義」という語を登場させているが、そこでも「社会主義」と「共産主義」の異同に関するコメントは何もない。
 全文を引用する。//は改行。
 「共産主義とは、突きつめて単純化するならば、『生産手段を国有化して一党独裁のもとで徹底した経済的平等をめざす考え方』だ。//
 資本主義社会では、土地や資金、工場などの『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる。地主と小作人、会社経営者と労働者といった具合である。//
 そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で『武力によって強制的に』土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者天国の社会が実現できる--このような労働者、小作人主体の社会を実現しようというのが共産主義だ。
 よって共産主義者は、基本的に武力革命を支持し、議会制民主主義に対して否定的なスタンスをとる」。
 以上が、この箇所での全文。この部分には「下敷き」にしているかもしれない参照文献の摘示がない。しかし、何らかの文献を読んで参照していることは間違いないだろう。
 第一の問題は、これは、「共産主義者たち」が主張している考え方の紹介なのか、それとも江崎道朗の理解はある程度は含めているのかが不明瞭だということだ。おそらく、前者を踏まえつつ、後者も混じっている、ことになるのだろう。
 かりにそうだとしても、あるいは前者なのだとしても、相当に違和感がある。以下、重要な点をコメントする。
 ①「徹底した経済的平等をめざす考え方」。
 これは誰がどこで主張したのか。なぜ「経済的」という限定がつくのか。かつ根本的には、共産主義では「平等」ではなく「自由」という理念はどうなっているのか。
 ついでに記そう。現在の2004年日本共産党綱領は、「真に自由で平等な共同社会」を目指す、そうなる筈だ、と明記している。「共同社会」とは、元来のドイツ語では、Gemeinwesen だと見られる。 
 ②「資本主義社会では、…『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる」。
 つぎの③とも密接不可分だが、「私有化」→「格差」という論理関係があるのかどうか。
 そのような旨を共産主義者は主張しているかもしれない。
 しかし、この点は重要なこととして強調しておきたいが、「格差」などという言葉・概念は、ロシア革命や共産主義等関係の書物を種々読んできたかぎりで、一度も見たことがない
 江崎においては単純に「不平等」という意味かもしれないが、「格差」という語を江崎が使うのは、昨今の日本の状況に大きく影響されている可能性がすこぶる高い。
 ③「国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され…」。
 江崎は読者に迎合して、あるいは現在の日本に合わせて、「格差」(是正?)という言葉を採用しているのだろう。
 一言挿入しておくが、共産主義とは<格差解消>を目ざす主義・考え方などでは全くない
 それよりも、なぜ<国有化→労働者全員の共有>なのか。さっぱり分からない。
 そのように共産主義者は主張している、という趣旨かもしれない。しかし、論理的・概念的にも歴史の現実でもそうではない(なかった)、ということは明確だ。紹介のつもりならば江崎著のどこかで厳しく批判しておいても不思議ではないが、そのような箇所はないようだ。
 ④「労働者による政党、つまり共産党」という説明または紹介も奇妙だ。少なくとも正確ではない。ロシア共産党・ソヴィエト共産党は本当に「労働者による政党」だったのか?
 紹介だとしても、それきりでは、①から④の全てが、共産主義者の「宣伝」を鵜呑みで紹介し<拡散>することになってしまう。
 以上の諸点よりももっと重大なのは、なぜ共産主義が<悪魔の思想>とまで称されるかが、まるで分かっていないように見える、ということだ。
 この点を、ハーバート・フーヴァー(元アメリカ大統領)の回顧録の第一章にある文章と比べてみよう。
 ハーバート・フーバー/渡辺惣樹訳・裏切られた自由-上巻(草思社、2017)。
 第一編・第一章のタイトルは「共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践」で、そのうちのp.165以下。
 一文ごとに改行する。
 「共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。
 信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。
 共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。
 時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。
 その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。
 その思想は、残酷でサディスティックでさえある。」
 このあと、(マルクスはないが)レーニン又はスターリンの文章を引用しつつの、「独裁について」、「宗教とモラルについて」、「国際関係について」、「共産主義革命は暴力による」、「労働組合とストライキによる破壊工作」、「議会に対する破壊工作について」、「国家間あるいはグループ間抗争の煽動について」、「講和不可能について」という諸項目がある。
 2017年の江崎道朗と遅くとも1960年代前半のH・フーヴァーと、どちらが「共産主義」の<本質>に迫っているだろうか。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
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1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。
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