秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

公明党

1611/伊藤哲夫見解について②-「概念」の論理。

 「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか。問題は3項の内容にかかって」いる。
 伊藤哲夫・『明日への選択』平成29年6月号。
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 上の伊藤哲夫の文章は、つぎの後に出てくる。
 「『立派な案』ということでいえば、2項を新たな文言で書き換える案がむろん好ましい。しかし、3分の2の形成ということで考えれば、実はこの9条『加憲』方式しか道はないのではないか、というのは必然の認識でもあ」る。「2項を残したままで、どうして自衛隊の現状が正されるというのか」は「当然の議論ではあるが、ならば2項そのものを変えることが正しいとして、その実現性はどうなのか、ということを筆者としては問いたい。実現性がなければ、『ただ言っているだけに終わる』というのが首相提言の眼目でもあった」。
 したがって、従来からある九条2項削除派に対する釈明、配慮あるいは媚びのようにも読める。
 それはともかく、伊藤哲夫の上の部分について前回に厳しく批判した。→6/27付、№1605。
 これに対して、<言葉で「戦力」を使うのではなく、実質的に自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道を探りたいだけだ>、という反論・釈明らしきものも予想できないわけではない。
 そこで、あらためて批判する。
 哲学、論理学、言語学にかかわるのかもしれない。
 結論的にいうと、「戦力」という言葉(「軍」でもよい)を使わずして、自衛隊を実質的にであれ「戦力」(「軍」でもよい。以下、「戦力」)として認める方法は存在し得ない。
 なぜなら、自衛隊は「戦力」だとの旨を明記しなければ、論理的に永遠に自衛隊が「戦力」になることはないからだ。
 <実質的に>「戦力」のごとき言葉を考えてみよう。「軍隊」は憲法九条2項に「…軍」があるからだめ。
 「実力部隊」・「実力行使隊」、あるいは「自衛兵団」、「自衛戦団」。
 あとの二つはすぐに、「…軍その他の戦力」との異同の問題が生じて紛糾するに違いない。
 かと言って、自衛隊を(自衛のための)「実力部隊」・「実力行使隊」と表現したところで、自衛隊が「戦力」それ自体には、ならない。いかにAに近い、A'、A''を使ったところで、自衛隊がAになることはない。
 あるものを「赤」と断定したければ、「赤」という語を使う他に論理的には方法はないのであり、「緋」や「朱」やその他を使っても、そのあるものは論理的に永遠に「赤」にはならない
 もともと、自衛<軍>や自衛<戦力・戦団>ではなく自衛<隊>と称してきたのは、<軍>や<戦力>という語を使えなかったからだ。実体も、それなりの制約を受けた。
 それを今さら、九条2項存置のままで<実質的に>「戦力」として認めたいと主張したところで、そもそも論理的な・言語表現上の無理がある。
 なお、「前項の規定にかかわらず、…」というのは構想できる条文案だ。
 しかし、「前項の規定にかかわらず、自衛隊を自衛のための戦力として設置する」と、「戦力」の語を用いて規定すれば、やはり現2項と新3項(または新九条の二)は正面から抵触するので、こんな案は出てこない、と考えられる。
 伊藤哲夫は、あまり虫の良い話を考えない方がよいだろう。
 伊藤自身がすぐそのあとで「何とか根本的解決により近い案になるよう、今後議員諸兄には大いに知恵を絞ってほしいと願う」と書いて、「根本的解決により近い案」と書いているのも、「根本的解決」になる「案」は不可能であることを自認しているからではないか
 九条3項加憲論者でかりにそう安倍晋三に提言したのならば、その立場を一貫させるべきで、伊藤哲夫は、九条2項削除論者のご機嫌をとるような文章を書かない方がよい。

1005/資料・資料-2011.06.01菅内閣不信任決議案理由全文。

 2011年6月1日
 自民党・公明党・たちあがれ日本共同提出/菅内閣不信任決議案提案理由全文

 「菅内閣は、国難のときにあって明確な指針を示せないまま迷走を続け、わが国の復興と再生に対して大きな障害となっている。
 とりわけ東日本大震災をめぐる対応については、初動の遅れを招いた判断、曖昧で場当たり的な指揮命令など、その迷走ぶりがさらなる混乱を招き、取り返しのつかない状況を生み出してきた。被災者や関係者への配慮を欠く発言、マニフェストにこだわりバラマキ政策を財源に充てようとしない姿勢、意志決定が複雑を極める対策本部の乱立、唐突な連立政権呼びかけなど、未熟で軽率な行動に寄せられる厳しい非難は、菅総理が政権を担当する資格と能力に著しく欠けている実態委を明確に示している。
 また、被災地の再生に道筋をつけようともせず、今国会の会期や二次補正予算の提出につき明言を避け続ける不誠実な対応は、危機感や現場感覚を持たず、震災よりも内閣の延命を優先する無責任極まりないものである。
 昨年の通常国会において、菅政権に対する内閣不信任決議案が提出された。それは、民意によらない「正当性なき内閣」、「不作為内閣」、国民の選択肢を奪う「政策隠し内閣」、政治とカネの問題に背を向ける「疑惑隠し内閣」、自覚に欠け努力を怠る「責任放棄内閣」、国民の期待にそむく「国民愚弄内閣」との理由からである。今日、その状況はますます悪化し、菅内閣は明らかに機能不全の様相を呈している。
 未曽有の災害を前に、われわれは危機克服と復旧に猶予がないものとして政府与党に協力し、菅内閣の継続を黙認してきたが、もはや容認することはできない。菅総理に指導者としての資質がない以上、難局にあたって、菅内閣とともに新たな政策体系を積み上げていくことは到底できないからである。国民の不安を払拭し、国家を挙げて被災地の復興と被災者の生活再建を実現していくためにも、菅総理は一刻も早く退陣すべきである。」

0297/小沢一郎とは何者か-「立場や状況」に応じた変節者?

 小沢一郎氏は変節したかウソを言っているかのいずれかだと考えてそのかつての著・日本改造計画(1993)と今の民主党の主張を2回続けて比べてみたのだが、似たようなことを本格的に考える人・団体は当然ながら存在するもので、「歴史と国益の視点から日本再生を目指す、戦うシンクタンク」だという<日本政策研究センター>のサイトには、昨年の機関紙掲載論文の再掲という形で、<剛腕・小沢一郎氏の「矛盾と変節」>という分析の①~④が掲載されている。第一回(①)は→
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=439
 小沢氏の歴史認識は、民主党内に蠢く左翼勢力とも十分共鳴するように見受けられる。結局、小沢氏はそうした勢力を意識して、自らの立場や状況に応じて、その政治的主張をコロコロと巧妙に変えているのかも知れない。とりわけ、民主党代表の座について以降の小沢氏の主張には、そんな印象を拭えない」から始まる原物は上のサイトの原文を見ていただくこととして、私が読んで勝手に要約してみる。
 第一回-1.外交につき小沢は2006年の雑誌・論座や近著・剛腕維新で日米中は「正三角形」関係と主張するが、これは1993年の本の認識・主張と違う。かつては「日米基軸」で、かつ「ASEANやオセアニア諸国との協力関係を緊密にする必要がある」と説いていたが、その中で中国に言及はしなかった。
 2.むしろ「中国はまだ経済的に発展途上であり、政治体制も異なっている」と述べ、かつ「日本のPKO協力に対し、『日本軍国主義復活の陰謀』などと非難した」などと中国への警戒的姿勢をかつては示していた。
 3.中西輝政によれば「日米中正三角形」論は「中国の一貫した外交方針であり、日米分断の論理」で、「このような虚構の論理を説く政治家は党利党略に目がくらみ国家的立場を見失ったか、北京と特殊の関係ができたか、と勘ぐらざるを得ない」という。
 第二回-1.2006年7月の北朝鮮のミサイル発射に関連して、小沢は「対北経済制裁は日本だけでは効果が限られるので、国連の共同作業として行うべきだ」旨を主張した。これは、国連安保理に中ロがいる以上は「事実上の経済制裁断念論」だ。
 2.だが3年前の某書の一部で小沢は、「民主党の中にも経済制裁と言う人がいますが、それをやったときに一番被害を受けるのは、つまり北朝鮮の国家テロの攻撃対象になるのは日本であり、日本人なのです」、「その覚悟があってやるのなら大賛成ですよ」とだけ述べて、国連のコンセンサスを得よなどとは言っていない
 3.近著・剛腕維新でも、3年前の主張として、「日朝間の物的、人的、金銭的流れを断てば絶大な効果があるだろう」と、日本の経済制裁の絶大な効果を認めている。「
国連の共同作業として行うべき」との昨年の主張と明らかに矛盾する。
 第三回-1.近著・剛腕維新で小沢は小泉首相に対して「政治家の信念というなら、たとえ批判されようとも堂々と終戦記念日の八月十五日に参拝すべきである」と焚きつけたが、小泉首相がその通り実行するや、「一部では『首相は信念を貫いた』という人がいるが、僕はまったくそう思わない。……本当に一国のリーダーとしての信念があるならば、天皇陛下がご参拝することができるように環境を整えるべき」だと氏は述べ、「退任前のパフォーマンス」だと手厳しく批判した(夕刊フジ・八月十八日「剛腕コラム」)。
 2.小沢は昨年、「東條英機元首相以下、当時の国家指導者たち」(つまり「A級戦犯」)は「靖国神社に祀られるべき人々ではない。彼らは英霊に値しない」と断罪して「霊璽簿に名前を記載するだけで祭神とされるのだから、単に抹消すればいい」と提案した(『剛腕維新』所収)。これは暴論だが、この論で一貫してきたわけでもなく、1986年4月に自治大臣だった小沢は「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」「たまたま敗戦ということによって戦勝国によって戦犯という形でなされた人もいる」と述べ、「その責任論と私どもの(靖国神社参拝への)素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていい」と答弁している。それが今や(昨年)、「A級戦犯」は「英霊に値しない」へと変わったのだ。
 第四回-小沢氏は最近の「剛腕コラム」で、「戦勝国側が一方的に断罪した「戦犯」は受け入れ難い」と書きつつ、「当時の国家指導者たちは、外国から言われる以前に、日本国民に対して戦争を指導した重大な責任を負っている」と強く批判しており、東京裁判=「報復裁判」の歴史認識に呪縛されているようだ。
 以上。
 前回に1993年の本の方が本音で今はウソをついている旨を書いたのだが、外交や歴史認識(・靖国問題)については、なるほど「民主党内に蠢く左翼勢力とも十分共鳴する」ところがあり、「そうした勢力を意識して、自らの立場や状況に応じて、その政治的主張をコロコロと巧妙に変えている
のかもしれない。立場に応じての<変節>だ。だが、いずれかが本音ならば別のいずれかは<ウソをついている>ことにもなるだろう。
 このような<変節>・<ウソつき>を簡単にできるがゆえにこそ、理念・政策が多少は異なるはずの諸政党を<渡り歩く>こともできたのだろう。
 小沢の1993年以降の履歴を少しメモしておこう。
 1993年06/18、宮沢内閣不信任案に賛成投票、6/23(自民党を離党して)新生党結成(代表は羽田孜、小沢は幹事長格)。
 1994年04/28、羽田孜少数派内閣発足(4/25に新生党、日本新党、民社党等が日本社会党抜きで国会会派「改新」を結成したことが原因)。
 同年06/29、首相指名選挙で海部俊樹をかついだが、自民党も推した社会党・村山富市に敗北。小沢は初めて野党議員に。
 同年12/10、新進党結成。党首は海部俊樹、小沢は幹事長。
 1995年7月参院選、新進党は19→40。羽田孜との間に亀裂。
 1996年10月衆院選、新進党は160→156で敗北。12月党大会で羽田孜を破って党首に。12/26-羽田孜ら13名が<太陽党>結成。
 1997年、「保保」路線を選択。12/18党首に再選される。12/25-新進党を解党
 1998年01/06、自由党結成。民主党に次ぐ野党第二党。
 同年11/19、小渕恵三首相との間で<自自連立>の合意。自由党幹事長・野田毅が自治大臣として入閣。小沢、5年ぶりに与党。
 1999年7月、公明党が参加し<自自公連立>政権に。
 2000年04/01、小沢が小渕首相と会談。連立解消へ。この直後、小渕氏は脳梗塞で倒れる。連立維持派と対立し自由党分裂。連立維持派は<保守党>を結成。6/25衆院選、自由党18→22。
 2003年9月、自由党が民主党(この時の代表・鳩山由紀夫)に吸収される(表向きは「合併」)。
 2006年04/07、小沢、菅直人を破り、民主党代表に。
 何ともめまぐるしい履歴だ。1998.11~2000.03に<自自連立>・<自自公連立>の時代があったことをじつは失念していた。2000年04/01に小渕恵三首相は相当に精神的ストレスを感じるやりとりを小沢との間で行ったに違いないことも思い出した。
 小沢だけに限らないだろうが、国益も日本の将来の基本的方向も考えない政党の離合集散、政党の<渡り歩き>を通じて、平気で<変節>し又は<ウソをつける>体質・気質をより強く身に付けたのだろう、と思われる。
 参院選選挙公報の民主党の部分には、小沢一郎の大きな顔の下に、「自治労組織局次長」、「元日教組教文局長」等々、かつてなら日本社会党から立候補しただろうような人びとが並んでいる。小沢は、1993年頃の自分の政治理念・基本政策を思い出すとき、現在の自分を恥ずかしくは思わないのだろうか

 
ギャラリー
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