秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

八木秀次

2492/西尾幹二批判052—神話と日本青年協議会②。

 (つづき)
  西尾幹二「神話の危機」2000年10月は日本青年協議会等の会員むけの「講演」内容だから、その点には留意しておく必要がある。
 日本青年協議会の上部団体とされる〈日本会議〉は「つくる会」を追いかけるように1997年に設立され、西尾が「撹乱」や「乗っ取り」を感じるまでは、〈新しい歴史教科書をつくる会〉と〈日本会議〉は友好関係にあり、またそれ以上に、「つくる会」の運動を支え、助ける有力な団体だった、と思われる。
 西尾幹二会長にとっては、自分自身への「力強い味方」だった。
 西尾が、日本の神話の具体的内容、古事記や日本書紀の「神代」の叙述、神道や広く日本の宗教について、1996年の「つくる会」設立段階でどの程度の知識・素養があったかは疑わしい。
 同・国民の歴史(1999)でも、日本の「神話」に言及しつつ、なぜか「日本書紀」や「古事記」という言葉を用いていないし、「神話」につながる日本の王権、といった論述もしていない。
 また、日本人の「顔」を示すという仏像等の写真を多数掲載しながら、「仏教」と「神道」の違い等には何ら触れていない。
 おそらくは1999年著の上の点を意識して、再度少し広げて引用すると、2000年講演では、こう言った。論評すると長くなるので、内容に介入しない。
 「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だと言えるでしょう。仏教は金色の美しい彫刻を通して、美という感性的なものとして百済からこの国に入ってきた。だから、素晴らしい仏教彫刻を残すことが出来た。それは日本人のアニミズム的な自然崇拝とつながっており、だから日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだと思います」。
 きっと、だから1999年著では「難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在」として仏教彫刻の写真を多数掲載した、と釈明?しているのだろう(なお、それら仏教彫刻の選定は実質的には田中英道(第二代会長)の助言が大きかったことを、田中がのちに明らかにしている。全集第18巻・国民の歴史「追補」、p.734(2017))。
 ともあれしかし、1999年著と比較すると、「神話」、天皇、「神道」に関する明瞭な論述には驚かされる。
 西尾はこう断定的に語る。自分自身が、こう「信じて」いるのだ。
 ・「日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・「神話」は「まっすぐ天皇制度につながっている」。「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころ」だ。
 1999年から一年間の間に、「つくる会」運動の有力な支持者である〈日本会議〉・日本青年協議会の歴史観・天皇観、宗教観を、相当に要領よく「学習」したのだろう。
 西尾はのちの2009年には、日本青年協議会は「西洋の思想家の名前」を出すと叱り、「天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させ」るような、「目を覆うばかり」の「おかしい」団体だと明言したのだったが。
 やや離れるが、西尾幹二は、読者(+書物や雑誌の編集者)や聴衆の気分・意向を考慮し、「忖度」することを絶えず(気づかれにくいように)行っている「もの書き」だと考えられる。誰しも、文筆業者はある程度はそうかもしれないが。
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  西尾幹二と〈日本会議〉または日本青年協議会との関係の変化は、つぎのようなものだろう。なお、私が初めて西尾の文章を読んだのは、下の③の時期だ。
 ①無関係—②親〈日本会議〉—③反〈日本会議〉(・反八木秀次)—④宥和的?
 ③の時期には「西洋の思想家」を排除するのは「おかしい」とし、八木秀次批判文(国家と謝罪(徳間書店、2007年)p.80)では八木は「近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた」と書いていた。まるで自分は「西洋」派であって「国粋」派ではないかのごとくだ
 池田信夫の2014.09.07の「冷戦という物語の終わり」と題するブログは、有力メンバーの一人として坂本多加雄が参加した「つくる会」運動は「時代錯誤の皇国史観に回収されてしまった」、と書いていた。
 それぞれの言葉の意味は問題になるが、しかし、西尾幹二は実際にはまさに「国粋」派で「皇国史観」の持ち主だとの印象を与え続けている。
 すなわち、神話=王権の根拠(かつまた「神話」にもとづく天皇位はずっと男系男子だった)という理解と主張を変えていないことは、既述の月刊WiLL2019年4月号での発言からも分かる。
 また、「つくる会」分裂後・反〈日本会議〉の時期である2009年にも、同様のことを述べている。『国体の本義』(1937年)に論及する中で、明確にこう書く。
 ・「日本のように地上の存在である天皇が神に繋がるということを王権の根拠としている国は例外的であり、唯一無比であるかもしれません」。
 ・「天照大神の御子孫がそのまま天皇の系図につながるというのは、他にかけがえのない唯一の王権の根拠なのです」。
 西尾「日本的王権の由来と『和』と『まこと』」激論ムック2009年7月発行、同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.188-9。
 1999年頃に日本青年協議会と〈日本会議〉の史観から影響を受けたことは、その後の西尾をかなり大きく変えたのかもしれない。
 もっとも、そうなったからこそ(かつ男系男子論を固持しているからこそ)、産経新聞出版から2020年にかつての産経新聞「正論」欄寄稿文をまとめた書物(編集担当・瀬尾友子)を刊行してもらえる<産経文化人>であり続けることができているのだろう。
 一人の個人でいることはできず、既述のように、「最後の身の拠き所」をそこに求めているのだ。
 上の④「宥和的?」とみなす根拠はあるが(この欄ですでに少しは触れてはいるが)、今回は省略する。
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2439/西尾幹二批判032。

  諸君!2008年7月号(文藝春秋)の特集の中での計56人による<われらの天皇家、かくあれかし>の文章のうち、最も明確な皇太子妃(当時)皇后位就位疑問視の見解として、先に中西輝政のそれを紹介した。→「2421/中西輝政—2008年7月の明言」。
 但し、これは表向きの文章に着目したもので、実質的には、西尾幹二のものの方がさらに「進んでいる」。
 西尾幹二は当時月刊WiLL(ワック)上に<皇太子さまへの御忠言>を連載中か連載後で、小和田家は雅子妃を「引き取れ」と明記していたのだから、皇后就位資格を疑問視していたのは当然のことだった。
 上の諸君!7月号上の文章では、末尾にこう書いていた。
 「皇太子妃殿下のご病気と治療、ご行動と思想に取り返しのつかない事態が進行するより前に、福田総理大臣閣下が皇室会議を招集し、必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向を模索し、打開して下さることを期待してやまない」。
 ここでは、皇太子妃の皇后就位再検討必要(不適格)論を前提として、それを具体化する方策(の第一歩)を提言している。
 首相は皇室会議を招集せよ、と主張していたのだ。
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  首相が皇室会議の議長であり、招集権を有することに間違いはない。
 では、西尾は、いったい何を議題とし、どういう結論を(議員の多数決で)得られることを期待していたのだろうか。
 現行法律の<皇室典範>上、皇室会議が議決できる事項、あるいはその議決が必要な事項は限定されている。
 西尾の願望は「皇太子妃殿下」の「行動と思想に取り返しのつかない事態」が進行することの阻止にある。その真意からすると、とりあえずは皇后位就位資格の否定ということになるだろう。
 しかし、これを直接に議決できる権限は皇室会議にはない。
 「皇嗣」たる皇太子が天皇に就位すれば、それに伴って皇太子妃は皇后に就位することを法律は当然のこととしていると思われる。10条は「立后」には皇室会議の議決が(形式上)必要である旨定めるが、皇太子が天皇になるときでも同妃が皇后になることができない場合がある旨や、あるとしてもその場合の要件を全く記していない。
 但し、皇太子に天皇就位資格がなくなれば、上の事態=皇后就位は発生しない。
 これに関係するのが、つぎの定めだ。
 皇室典範第3条「皇嗣に、精神若しくは身体の不知の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、…、皇位継承の順序を変えることができる」。
 この条項が定める大きなニつの要件のうち「重大な事故」に「祭祀をしないこと」は該当すると明記したのは、上の56の文書のうちの八木秀次のものだった。八木はそれ以上は明記していないが、皇嗣たる皇太子の配偶者=皇太子妃が「祭祀をしない」ときも上の規定を準用できる、従って皇位「継承の順序を変える」ことが可能だ、という含みをもっていた、と読むことができないではない。
 しかし、皇太子と皇太子妃を実質的にせよ同一視・一体視するのは、法解釈としてはほとんど不可能だ。
 西尾幹二も、上の条項に言及しない。そして、「必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向」の模索・打開を求めるにとどめている。
 善解すれば(良いように理解すれば)、現行皇室典範上は採りうる方策は存在しないことをきちんと理解したうえで、上のようにだけ書いたのだろう。
 しかし、皇太子妃の皇后就位資格を疑問視しただけの中西に比べると、その積極性は明確だ。当時の首相に対して、皇室会議を招集して一定の方向で「模索」することを明示的に要求していたのだから。
 論理的には、法律改正案提出権を持つ内閣の長に、皇室典範改正によって雅子皇太子妃の皇后就位を不可能にすることを可能とする条項の新設を求めていた、という可能性もある。
 あるいは、現行法律は皇室会議の権限を明文がある場合に限っていない、つまり、法的効果をもつ議決以外に、「要請」あるいは「お願い」を皇太子や皇太子妃等の皇族に対して行うことができる、という法解釈を前提として、祭祀への出席をとか、さらに進んで祭祀出席がないならば皇太子・同妃は離婚を(雅子妃は小和田家が引き取れ!)とかを「お願い」すべきだ、と考えていたのだろうか。
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  2008年に上のように公の雑誌上で書き、ほぼ同時期に別途『皇太子さまへの御忠言』(2008年9月、ワック)を単行本で出版した西尾幹二は、2019年の雅子妃の皇后就位時に、自己のかつての主張についていったいどうのように論及したのか?
 中西輝政について先日書いたことは当然に、西尾幹二にも当てはまる。
 何も触れないようなことは、「よほど卑劣な文章作成請負自営業者でなければ、あり得ないだろう」。
 西尾は、実際には、中西よりも<ひどい>。つまり、もっと<卑劣>だった。
 2019年の前半に、西尾は天皇または皇室関連の少なくともつぎの二つの記事を公にした。
 ①月刊WiLL2019年4月号「皇室の神格と民族の歴史」(岩田温との対談)
 ②月刊正論2019年6月号「新天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」
 しかし、かつて雅子妃の「行動と思想」を自分が批判していたこと等について、いっさい、何も言及していない。後者では何と、<祝・令和>の「記念特集」に登場している。「新天皇」の后は、いったい誰なのか。
 驚くべき、恐るべき「意識」と「精神」の構造が西尾幹二にはある。
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  諸君!2008年7月号に戻ると、56の文章のうち、雅子皇太子妃に対して明らかに批判的なのは、多く見積もって5〜6で一割程度だ(もっとも、56人の選定基準が明確でないので、この割合に大した意味はないかもしれない)。
 大袈裟に騒ぐ問題ではない旨書いてある数の方が多いが、そのうち西尾幹二の名を出して西尾をはっきりと批判しているのは、笠原英彦だった。
 笠原の見解全体を擁護するのではないが、西尾批判の部分を、以下に紹介しておく。p.197。
 西尾の論を「読み進むうちに、だんだんイデオロギーがにじみ出てくるのには正直いって驚いた。//
 東宮をめぐる氏の論評の根拠となる情報源は何処に。
 いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る。
 氏の論考は格調高くスタートして、しだいに『おそらく』を連発しながら思いっきり想像を膨らませ、ついにエスカレートして妃殿下を『獅子身中の虫』と呼び、結果として週刊誌の噂話の類まで権威づけてしまった。//
 そして唐突に『朝日』、『NHK』、『外務官僚』が批判的トーンで登場する。
 同志へのエールのおつもりか。
 かくして、一般読者は煙に巻かれるのである。
 西尾氏…でもイデオロギーを身にまとうと、迷走、脱線を免れない。」
 以上。
 高森明勅によると、当時西尾は雅子皇太子妃の病気は「仮病」だとテレビで発言したらしい。
 また高森は、最近のブログ上で、『御忠言』は「タイトル」だけで、中身は「確かな事実に基づかないで、不遜、不敬な言辞を連ねたもの」だった、とする。
 笠原は上で「イデオロギー」という言葉を用いている。西尾の場合は「同志」のいる「イデオロギー」はまだ綺麗すぎ、西尾幹二の「意識」・「精神構造」に全体としてあるのはおそらく、「私小説的自我」を肥大させた、この人独特の「妄想と幻想の体系」とでも称すべきものだろう。
 問題はまた、そのような西尾を<保守の論客>の一人として遇してきている一部情報媒体(とくに編集者)に見られる、「知的劣化」のひどさにもある。
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2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
 ——
 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

2084/平川祐弘・新潮45/2017年8月号①。

 平川祐弘「天皇の『祈り』とは何か」新潮45・2017年8月号。 
 副題に「御厨座長代理の悪意ある記事に応える」とある。
 もっとも、編集者の意図は、いわゆる天皇退位特例法が成立したのちに、退位反対・摂政設置を主張していた一人だった平川祐弘の同法成立後の感想・意見を求めるものだったように思われる。その機会に、平川は主として、その方向で議論した有識者会議「御厨座長代理」に物申したかったのだろう。なお、周知のとおり、この約1年後に、新潮45(新潮社)は廃刊となった。
 渡部昇一・櫻井よしこらとともに平川祐弘は譲位反対・摂政設置を現憲法や現皇室典範の諸条項をまるで読むこともしないで主張していたので、この欄で併せて「アホの四人組」と敢えて称したことがあった。憲法を少しは知ってはいたが<いわゆる国事行為委任法>で解決できるとか論じていた八木秀次を含めていた。のちに、加地伸行も含めて「アホ」は5人だと書きもした。
 勇気が必要だった「アホ」呼称だったのだが、2017年になっても、平川祐弘は変わらなかったようだ。以下、その旨を指摘する。
 決定的な「アホ」らしさは別に(②で)記述することにする。
 平川は上の記事でまずこんなことを書いている。上掲誌p.46-p.47。
 ・「連綿として続く天皇家は、卑近な国政の外にあって、…『天壌無窮』に続くことによって、その万世一系という命の永続の象徴性によって、日本人の永生を願う心のひそかな依りどころとなっている」。
 ・「天皇は敗戦後の憲法では国民統合の象徴だが、歴史に形づくられた伝統では民族の永続の象徴である。
 …永生を願う気持はおのずと宗教的な性格を帯びる。」
 ・「日本では古代から天皇家はまつりごとを司どってきた」。これは「政治」であるとともに「祀事と書くと祭祀、すなわち民族宗教の儀礼となる」。
 「天皇家にはご先祖様以来の伝統をきちんと守って、まず神道の大祭司としてのおつとめを全うしていただきたい。
 その方が卑近な皇室外交などの政治的なお勤めよりもはるかに大切なのではあるまいか。」
 ここで区切る。<いわゆる保守派>かつ<日本会議派>諸氏の見解・主張なので、とくに大きく驚くには当たらないだろう。
 そして、櫻井よしこらとともに、現1947年憲法(日本国憲法)上の「政教分離」=「政祭分離」の原則にまるで無頓着であることも明らかだ。この思考方法は当然のこととして、<戦後憲法の定めよりも歴史的伝統が優先する>を前提としているのだろう。
 「政教分離」原則に何一つ言及することができないのもすでに「あほ」なのだが、これは等閑視する。また、「古代」以来の天皇家と宗教との関係に関する平川の無知らしきことにもここでは言及しない(先日に書き忘れたが、仏教寺院・東大寺と大仏(毘盧遮那仏)の建立も、聖武天皇らによる。奈良「仏教」と天皇・皇室の関係の深さは常識だろう)。
 いわゆる特例法に至るまでの議論では平川祐弘も明記していなかったと記憶することを、ここでは明確に述べているのが、やや驚き、やや気を惹く。
 すなわち、天皇は日本の「民族宗教」である「神道の大祭司としてのおつとめ」をその他の「卑近な」仕事よりも優先してもらいたい、という明瞭な主張だ。
 ここに明らかに、上にすでに述べた現憲法の条項に関する「無知」がある。国事行為・「公的(象徴としての)行為」・「私的」行為の三分など、また国費・宮廷費・内廷費の三区分など、この人にとってはどうでもよいのだ。
 憲法・現皇室典範も皇室経済法も、ほとんど何も知らなくて、政府の諮問会議に出席・発言した、というのだから「どうかしている」。
 こう書けば、平川祐弘はこう反論?するのかもしれない。p.48 にこうある。
 ・「長い目で見ない人は経済学部出だけではなく、法学士に多い。
 視野が六法全書に限定されがちだからである。」
 思わず苦笑する、「経済学部出」や「法学士」に対する偏見だ。
 「法学士」という古くさい?呼び方は別としても、「視野が六法全書に限定されがち」だとするのは、友人・知人に立派で良識のある「法学士」さまが存在しないためかもしれない。
 「六法」とは6つの法律だけを意味しない(法律ではない憲法もふつうは含めていう)。また、容易に購入できる市販の「六法全書」には「皇室用財産」に論及する国有財産法や皇室経済法も掲載されているだろう。また、むろん法学部卒業生によって理解の程度は異なるだろうが、「法」には、平川祐弘がおよそ知らないような「法哲学」・「法思想」あるいは「法の歴史」が反映されている。戦後日本の法制とこれらとの関係にここでは立ち入らないけれども。
 また、平川祐弘が知らないような「卑近な」現実生活上の諸問題の指針や解決基準となるためにも、「法律」あるいは「法政策」は必要なのだ。むろん、現在・現行の法制・法政策が素晴らしいとは、ひとことも言わないけれども。
 平川が人間として、日本人として生活しているからには、諸税法は当然のこととして、水道法・下水道法・電気事業法・道路法・道路運送法・建築基準法・河川法・都市計画法等々、そして地方自治法や学校教育法等々と平川自身も関係しており、相当の程度に「恩恵」もまた受けているはずなのだ。
 イタリア語を読み、源氏物語を囓ったことのある「知識人さま」には分からない世界がある。
 さて、上掲誌で平川は、渡部昇一の見解・主張に同感するとして渡部昇一を「称え」たのち、こう書く。p.49。
 ・「これからはご在位のまま、まず祭事のおつとめをお果たしください、というのが私どもの意見である」。
 正確には「意見だった」と記すべきだろう。
 そして、上の記事で特徴的なのは、「御厨座長代理」やマスコミ(とくに毎日新聞)に対する鬱憤めいた批判・非難を長々と書き記しながら、自分や渡部昇一らの上の主張がなぜ諮問会議(検討会)や国会、国民世論の多数派を形成することができなかったのか、という問題について、反省も洞察も全く見られないことだ。
 ここで取り上げているのは1917年夏の文章だが、平川はおそらく、現在でもこれを「理解」することができていないのだろう。
 日本の歴史について、「祈り」-宗教-「神道」-天皇、という<あほ>としか表現できない、単純で幼稚な理解しかもっていないからだ、と思われる。
 もっとも、いちおうつぎのようには書いている。p.52。とくに最後の一文。
 「噂される上皇職の人数からだけでも天皇の権威がいまや二分されようとしている。
 やはり穏当なのは京都にお住まいになって…ゆったりと晩年をお過ごしになる事ではないのか。
 国民多数が退位に賛成したのは、天皇様ご苦労様でしたという気持ちからだった。」
 最後の一文はともあれ、八木秀次らが懸念していた?上皇と天皇の「権威の分裂」は、現実には生じなかっただろう。平川が上に書く「天皇の権威」の分裂は、すでにかつて記したように、「天皇」とは別に「摂政」が設置されても、もともと「天皇」と「摂政」の間に生じる可能性があったものだ。
 「座長代理」・一部マスコミ批判・非難には立ち入らない。
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 さて、平川祐弘が本当に「アホ」であるらしいことは、上の雑誌論考の冒頭の第一文によって、すでに明らかだ。
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 ②につづく。

1994/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題④。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収の同「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ③のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。
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 2006年4月30日「理事会」での鈴木尚之「演説」の、西尾幹二による「一部」引用。これをさらに秋月によって「一部」引用する。
 ***
 ・「西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)」の「一通〔往復私信〕は私が八木さんに渡したものである。
 もう一通〔怪文書〕は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。
 八木さんは<諸君!>で『私のあずかり知らないことである』ととぼけているが、そんなことで言い逃れできるはずがない。
 これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。」
 ・2006年4月4日午後2時に「私と会った産経新聞の渡部記者は、『鈴木さん、申し訳ありません』と」「謝り、『とにかく謀略はいけません、謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。私は、産経新聞を首になるかもしれない』と言ったのである」。
 ・この産経新聞の渡部記者は「同じことを藤岡さんにも言った」とのことがのちに明らかになり、「このことを知って私は、八木さんに『産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと』。
 そのとき八木さんは、『謀略文書をつくったのは産経の渡部君のくせに……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕』とつぶやいたのである」。
 ・「以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私がした報告の内容である」。
 「八木さんを糾弾するために言ったのではない。
 八木さんが、このような『禁じ手』を使ってしまったことを反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったから」だった。
 「それでも八木さんは、謝罪することなく、『つくる会』を去って行った」。
 ***
 (以下は、西尾幹二自身の文章-秋月。)
 ・「この鈴木氏の手記から見ても、怪文書事件には八木、宮崎、渡部の三氏が関与していた疑いを拭い去ることができない(渡部記者は新田均氏のブログにこの証言への反論を載せている)」。
 「八木氏が、もしこれを『私はやっていない』『他の人がやったのだ』と言いつづけ、与り知らないことで嫌疑をかけられることには『憤りを覚える』などと言い募るとすれば」、…と同じ「盗人猛々しい破廉恥漢ということになる」。
 ・付言しておくと、「怪文書事件のほんとうの被害者は私ではなく、藤岡信勝氏である」。
 「公安調査庁の正式の文書を装って」、氏の経歴の偽造、日本共産党離党時期の10年遅らせ等の文書が「判別した限りで6種類も、各方面にファクス」で送られた。
 理事たちは「本人に聞き質すまで」混乱して疑心暗鬼に陥った。しかも氏の「義父を侮辱する新聞記事」まで登場して「私の家にも」送られた。「はなはだしい名誉毀損であり、攪乱工作である」。
 ・「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。
 「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。
 「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る。
 他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。」
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。
 今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼の罪はきわめて大きい。
 言論思想界がこの儘彼を容認するとすれば、…を難詰する資格はない」。
 ・「それなのに八木氏らをかついで『日本再生機構』とやらを立ち上げる人々がいると聞いて、…ほどに閑と財を持て余している世の人々の度量の宏さには、ただ驚嘆措く能わざるものがある。」
 ---
 見出しなしの最初の段落のあとの、<怪文書を送信したのは誰か>につづく<言葉を失った人々>という見出しのあとの段落が終わり。つづける。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
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 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
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 さらにつづける。

1977/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05①。

  明治期を含めてそれ以降の天皇に関する制度・儀礼等のみが日本の天皇に関する「伝統」だと錯覚しているような主張・議論は、2016年の当時の天皇陛下の「おことば」に対しても見られた。
 極論すれば、天皇は死ぬまで天皇でいろ、という主張があった。
 それも内閣府が所管した正規の審議会・検討会(正確には「公務負担のあり方」が主題だったとしても)で表明された。この欄で「あほ」と決めつけた、(生前)譲位不可・摂政設置論者の櫻井よしこ渡部昇一平川祐弘だ。八木秀次はその委員ではなかったが、同じ主張の先鋒的な論者だった。
 いちいちその内容や各人の差異に立ち入らない。自分で「公務」の範囲を勝手に?広げておきながら大変だとは何事か、とほぼ明瞭に書いた者もいた。
 昭和天皇は亡くなるまで天皇であられた、それに比べて今の天皇は…、と昭和天皇を引き合いに出して、暗に?前天皇を批判した(櫻井よしこのような)者もいた。
 八木秀次は摂政設置で対応しないで譲位を認めれば改元(元号の変更)も必要になって大変だということを理由の一つに挙げていたが、その指摘のとおりで、摂政設置による対応がかりに行われていれば、平成-令和という改元もなかった。
 なお、今次の対応は「一代かぎり」との説明・理解がかなり広く見られるようでもあるが、特例法は皇室典範の附則の中で言及されることによって皇室典範の一部になっている。菅義偉官房長官が<先例になり得る>と当時に(特例法制定の際に)述べていたのは、適切かと思われる。この点は別途触れることもあるだろう。
  上に名を上げた人々は大まかには<親日本会議>の者たちだろう。
 「つくる会」分裂の原因およびその後の月刊正論(産経新聞社)による八木秀次の厚遇等々を見ても、八木秀次が<親日本会議>であることははっきりしている。
 椛島有三は当時に、八木くんはいい人ですよ、と言ったとか。
 櫻井よしこは、日本会議の憲法問題フロント組織または大衆団体である美しい日本の憲法をつくる会とやらの共同代表を、日本会議代表の田久保忠衛とともに務めて?いる。
 その櫻井よしこと江崎道朗に顕著に見られるのは(これまで私が知った人々の中でに限って)、聖徳太子を、とくにその(発したとされる)十七条の憲法を、きわめて高く評価しながら、聖徳太子と仏教との関連に、全くと言ってよいほど触れていない、ということだ。
 こんな非常識なことはないだろう。仏教寺院の中に現在でも<太子堂>を設けている寺院関係者は、そのような聖徳太子に対する論及の仕方(不作為を含む)をどう感じるだろうと、私にとって本来は他人事ながら(この表現は再検討を要するかもしれないが)感じてきた。以下は、このことに関係する。
  上皇・上皇后両陛下が、6月12日(水)、京都市内の孝明天皇陵、明治天皇陵に行かれた。
 前者に関連して、「みてら」との名が現在でも残る泉涌寺(せんにゅうじ)の名が、あらためて全国的に知られることになったかもしれない。
天皇陵の所在に関心をもって、天皇陵のかなりの部分の近くに仏教寺院があって、その寺院がいわば「菩提寺」として法要を行い、また墓陵の管理も(天皇家・皇室または幕府等の要請または了解のもとで)行ってきたのだろう、と数年前に推測した。
 そのきっかけとなったのは、天皇在位者ではないが、聖徳太子の陵(宮内庁管理)と叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の地理的関係を知ったときだったかもしれない。この御陵には、叡福寺の境内を通過しないと訪れたり、参拝することができない、と思われる。なお、叡福寺は真言宗系だが単立の「太子宗」が宗派だとされている。
 ついでおそらく、「みてら」=泉涌寺を知ったことだろう。泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派本山とされる。
 もっとも、天皇や皇室との所縁が直接だったり、かなり深かったり、ほとんどなかったりと、いろいろな仏教・寺院があるので(一方で、徳川家ゆかりとかの寺院もある)、そうしたことを知ったり感じたりして、仏教・寺院と天皇・皇室(制度)の関係に関心を基礎的に持っていたのだろう。
 ほぼ二年前になるが、あくまで私的な試みとして、特定の天皇と推察できる特定の「菩提寺」たる寺院を、主としては陵墓の位置に着目して、整理したことがある。
 2017/05/06=№1531に記したものを、形式を少し変えて、再掲する。
 天皇名(カッコ内は即位年)、推察される寺院=「菩提寺」、現在の御陵名、地名の順。
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  聖武天皇(0724)・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇(0809)・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇(0876)・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇(0884)・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇(0887)・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇(0897)・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇(0930)・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇(0967)・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇(0969)・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇(0984)・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇(0986)・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇(1016)・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇(1045)・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇(1045)・龍安寺/円教寺陵△-同上。
 堀河天皇(1086)・龍安寺/後円教寺陵○-同上。
 鳥羽天皇(1107)・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇(1123)・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇(1141)・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇(1155)・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇(1165)・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇(1168)・清閑寺/後清閑寺陵◎-同上。
 後鳥羽天皇(1183)・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐。
 順徳天皇(1210)・勝林院(三千院内)/同上。*佐渡。
 土御門天皇(1198)・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市。
 後堀河天皇(1221)・今熊野観音寺〔泉涌寺?〕/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇(1232)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇(1242)・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇(1259)・天竜寺/亀山陵-同上。
 後宇多天皇(1274)・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇(1318)・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇(1339)・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇(1368)・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇(1428)・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
  後水尾天皇(1611)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇(1629)・泉涌寺/同上。
 後光明天皇(1643)・泉涌寺/同上。
 後西天皇(1654)・泉涌寺/同上。
 霊元天皇(1663)・泉涌寺/同上。
 東山天皇(1687)・泉涌寺/同上。
 中御門天皇(1709)・泉涌寺/同上。
 櫻町天皇(1735)・泉涌寺/同上。
 桃園天皇(1747)・泉涌寺/同上。
 後櫻町天皇(1762)・泉涌寺/同上。
 後桃園天皇(1770・泉涌寺/同上。
 光格天皇(1779)・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇(1817)・泉涌寺/同上。
 孝明天皇(1846、1866没)・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
***
  参照したのは、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地の記載のほか、つぎの二つ。
  ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
上の一覧で平安期末までの天皇についての◎、○、△は、この②の中の山田邦和「天皇陵への招待」上掲②所収p.181による。大まかには(秋月の表現だが)、当該天皇の陵墓であることがほぼ確実、かなり確実、それら以外、の区別だ。これら以降は、全て◎だ。
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  こうして見ると、天皇の陵墓は寺院がもともとは管理し、「法要」等の儀礼を中心となって行ってきている、とほぼ、またはかなりの程度推測できる。
 そしてまた、葬礼=葬儀自体が寺院で行われた、ということもかなり多くあったに違いない。
 後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の天皇の葬儀は、全て泉涌寺で行われたことがはっきりしている。そのこともあって、泉涌寺についての「みてら」という感覚は、かつては圧倒的だっただろう。
 よく知らないが、御所から泉涌寺までの葬送の御車、行列のコースも決まっていた、という。当時はまだ現在の「東大路」はなかったので、いずれかの地点で鴨川を渡り、六波羅密寺または方広寺の西側あたりを南下したあと、それとも七条辺りで川を渡って?、今もある「泉涌寺道」という緩やかな坂を上がったのだろう。
 とすると、明治、大正、昭和の各天皇の御陵・陵墓が仏教または寺院と無関係であるようであるのは、明治維新以降のこの200年に充たない間の時代に限られてのことだ、ということが明瞭になる。
 まさに、明治維新は、いや正確には明治新政権が採用した政策は、日本のそれまでの伝統を「覆す」、「変革する」、あるいは「否定する」ものだったわけだ。
 革新・変革は全て「新儀」、新しい「伝統」の創出だ、というような趣旨を言った(極論好きの、または天皇中心ドグマの)天皇もいたらしい(後醍醐天皇)。
 ここで日本会議(派)諸氏に尋ねたいものだ。
 天皇に関連する「伝統」の維持、継承は重要であるとして、天皇の死にかかわる、天皇の葬礼、葬儀、陵墓に関する「歴史と伝統」とはいったい何なのか? 仏教との関連が些細な論点だとは思えない。
(泉涌寺関係をさらにつづける。)

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
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 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
 ----
・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1702/百地章・産経「正論」欄8/9の過ちと悲しさ。

 気の毒だ。悲しいことだ。しかし、百地章はやはり信頼できない。
 産経新聞8/9「正論」欄に、つぎの案を書いてしまった。二項存置自衛隊明記の条文案だ。
 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
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 さっそく小林よしのりが批判した。ブログの8/9で。
 「産経新聞の『正論』欄で、百地章が安倍政権の改憲草案作りを粛々と進めよと言っている。//
 ものすごい勘違いだと思うのは……。…/百地章は客観性を担保しろ。/
 そして、甚だしい勘ちがいの2番目は、憲法9条1、2項をそのままで自衛隊明記という『加憲案』は、『一歩でも二歩でも前進する』方法論ではない。
 国民投票で、可決されても、否決されても、現状より悪くなる史上最悪の『加憲案』」である。/
 わしは純然たる『改憲論者』だから、この『加憲案』は絶対に許せない!」
 小林よしのりはその前から、今次の「加憲」なるものに反対だった。<安倍・日本会議案>とも、事態をより本質的に?捉えてもいる。
 8/3-「憲法9条1項2項をそのままで、自衛隊を明記するという考えは完全に『護憲派左翼』である。/
 「『護憲派左翼』は実は『従米主義』であるという欺瞞から目を背けているだけなのだ」。
 7/31-「安倍晋三のわがままで、日本会議のために、憲法9条そのままで自衛隊を明記するというトリック加憲が目指されている。/『お友だち内閣』だから、日本会議というお友だちのために、働くのだ。/決して国民のためではない」//。
 「安倍晋三は、発議しても国民投票で必ず負ける詐欺的加憲案を、やっぱり作るらしい。/憲法改正は、安倍晋三の『私』的なレガシー、政治的遺産作り、名誉欲のためだけに行ってはならない!//
 「わしは『公』と『権力』が合致しているときは、政府を応援するが、この二つがズレ始めたら、警鐘を鳴らし、……これを阻止する。//
 わしは常に「公」に付く。/だが、劣化保守&ネトウヨ連中は、安倍個人崇拝で、「公」よりも「権力」に付く。//
 言っておくが、自衛隊明記のためだけの加憲は、国民投票で可決されても、否決されても、日本にとって最悪な結果しかもたらされない。/可決されれば、戦後レジームの完成、軍事法廷なしの集団的自衛権行使に突入。//
 否決されれば、憲法改正の機会は100年遅れる。// 
 「公」のためにならない、最悪の安倍・日本会議案にわしは断固反対する!」
 7/28-「わしは安倍首相の改憲論は、ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だと思っている。/
 わしは個人的に、恐れると言えば、確かに恐れる。//
 なぜなら「戦後レジームの完成」、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ。//
 それはアメリカの永久属国憲法になると思っている」。
 「福島瑞穂が出したら、猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成するのだから、産経新聞、極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 この最後の7/28には、この欄の7/30=№1677で言及した。
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 秋月瑛二も6月に伊藤哲夫改憲案に批判的にコメントしたあと、7月末からこの<九条存置自衛隊明記>論を成文化がほぼ間違いなく不可能な案として、その論拠も含めて、頻繁に書いた。
 その中には、百地章「私案」に対するものもあった。
 すなわち、8/2の「百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論」。
 産経「正論」欄で百地章が書いている案は、ほぼ上と同じなので、8/2での批判がそのまま当てはまる。
 以下、あらためて記し、またこの人が他に言うことにもコメントしよう。
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 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
 第一、「前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り…i協力するため」は「自衛隊法の条文を参考に」しているらしいが、自民党の改憲案にも、「国防軍」か「自衛軍」について見られるはずだ。但し、自民党改憲案は九条二項削除での<軍>設立明記の際の趣旨文言だったのだから、意味・位置づけが全く違う。
 第二に、上のことよりも、「自衛隊を保持する」と、第一文の最後に「自衛隊」という語・概念を使っているが、これがそもそも何を意味するのかがさっぱり分からない、という基本問題がある。
 前回に批判的にコメントをしたときは<自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だという事前の<解釈>または<解説>をつけていた。
 これをおそらく、第二文案の「その組織及び権限等は、法律で定める」に改めている。
 <現在の自衛隊の権限等を変更しないのが前提>とか言っていた部分を、「法律で定める」に変更して、問題を回避している、かに見える。
 実際には、そんなことは全くない。
 百地章は、この案の「狙いの第一」は「『自衛隊の保持』を憲法に明記することで違憲論の余地を無くすことにある」という。
 憲法学者でありながら、幼稚としか言いようがない。
 何度も、同じことを書く。
 第一文にいう「自衛隊」とは何のことなのか。
 たしかに、ここにいう(加憲された条文の言う)「自衛隊」なるものは、その設置が明記され、合憲的なものとされる。しかし、これはまだ、憲法規範上の概念であり、用語だ。
 この自衛隊が現在の・今の自衛隊をそのまま意味しているはずがない。
 百地章が正当にも第二文で書くように、「自衛隊」「の組織及び権限等は、法律で定める」のであって、その「法律」を見なければ何も分からない。
 上記のごとき目的のための「自衛」の「隊」というだけのことだ。
 しかしおそらく百地章は、現在に自衛隊に関して存在する諸法律が憲法上の「法律」に当たることになる、と主張するのだろうと思われる
 そのように、論旨展開をすることはできなくはない。しかし、そう主張しても、現在の諸「法律」自体が違憲だ、あるいは例えば集団的自衛権行使容認のこの部分が違憲だ、といった主張を消滅させることはできない。
 <<かりに万が一>>百地章の案が実際に憲法条項なったとしても、いまの・現在の自衛隊違憲論者あるいは少なくとも集団的自衛権行使容認違憲論者は、断固としてつぎのような憲法解釈を主張するに違いない。
 すなわち、例えば、百地章案九条の二の「自衛隊」は九条二項の「軍その他の戦力」であってはならない、いまの・現在の自衛隊(を種々に定めている)「法律」はその根幹部分がこの制約に違反しており、少なくとも自衛隊に集団的自衛権行使を認めている法律諸条項は違憲である、と
 前回に言及した、「左翼」・水島朝穂の憲法解釈の仕方は、スジとしては誤っていない。
 百地章は、設置が明記され合憲的なものとされる、と言うが、これは大ウソ。
 絶対に、違憲論が残り、有力に主張される。この点で現状と同じで、憲法解釈論を今よりも複雑にさせるだけだ。
 そして、万が一かりにこの加憲が成功したとしても、それは、<軍・戦力ではないものとしての自衛隊>をしばらくの間はずっと公認・公定することになる。これこそが、今次の百地章案であり、「日本会議」案だ
  また百地章は今回の立論の趣旨の一つは「自衛隊に栄誉を、そして自衛官に自信と誇りを与え、社会的地位を高めることだ」、という。
 気分が少しは分からなくはないが、これは欺瞞だ。
 なぜなら、「軍その他の戦力」である、正規の?国軍・国防軍・自衛軍・防衛軍ではない<自衛隊>の構成員としての「自信と誇りを与え」、というのは、一体何を百地章は主張したいのだろうか。<軍・戦力ではない自衛隊員としての自信・誇り>とは一体何のことだ。
 <自衛隊を明記を>というスローガンの真実は、<戦力でない自衛隊の明記を>、<戦力として認めないままで自衛隊の明記を>、ということだ。
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 これ以上の繰り返しを避ける。百地章等について記したことを、もう一度、そのまま以下に掲載する。
 8/2-「百地章にいう私案の冒頭で『自衛隊』という概念を使ったとたんに、現実にいまある『自衛隊』とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。/その別の概念・範疇と現実とを、…連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。/この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。//
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している」。
 8/9-「憲法上に『自衛隊』なるものの容認規定を作ったところで、そこでの『自衛隊』がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、全く気づいていない。/
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。/
 百地章、八木秀次、西修、いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。」


1701/二項存置「自衛隊」明記でも「自衛隊」は違憲-水島朝穂(早稲田大)。

 一 「戦力」不保有のままで自衛隊が何らかの形で憲法に明記されても、自衛隊の合憲性が確定するわけでは全くない。
 いまの・現実の自衛隊の合憲・違憲論争が終わるわけではない。
 すでに何度も書いた。
 なぜか。上にいう憲法に<何らかのかたちで明記される自衛隊>と<いまの・現実の自衛隊>が同一のものであるはずがないからだ。
 今回のタイトルでいうと、「自衛隊」の意味が左右で(前と後で)十分に異なりうるからだ。
 憲法解釈論を本業としている者は、とりわけ「左翼」として長年を(一生を?)過ごしてきた者は、水島朝穂は、さすがに?よく理解している。
 二 水島朝穂「明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける」週刊金曜日8/4=11合併号。
 つぎのように、明記している。これは解釈論として、誤りではない。p.28。
 「新9条で自衛隊『自体』が合憲になったとしても、自衛隊の個別の『装備・人員』が『戦力』に当たることはあり得るから、自衛隊の違憲性は問われ続ける」。
 このとおりだ。
 この点は、すでに百地章と潮匡人に対する批判の中で述べた。
 つまり、<現在の自衛隊を変えない>とか<自衛隊の名前だけ>という場合に意味されているだろう、いまの・現在の自衛隊が<<万が一>>合憲になったとしても、その小さな権限・装備・人員を変える(おさらくは拡充・拡大・増員)するたびに、二項でいう「戦力」の範囲内にとどまるものであるのか否かが、つねに問われつづける、ということだ。
 百地章では、現状を<固定>してしまう危険があると、この欄で明記した。同じ趣旨は、潮匡人案についても言える。
 また、そもそも伊藤哲夫ら日本政策研究センターの者たちの案についても言えるが、この人たちは、上のような問題の所在を全く知らないままで、単純かつ幼稚な議論をしているので、ここまでこう書いているのを読んでも、?と趣旨が理解できない可能性が高い。
 三 水島朝穂は、<いま・現在の自衛隊の明記による合憲化>はありうると考えているようだ
 しかし、秋月瑛二は、この点で、この「左翼」たちよりも厳しく、冷静だ。
 だからといって、私は「左翼」でも「極左」でもない。
 <政治的信条>から離れての、<憲法規範と現実>の理解の仕方という観点から申し述べている。
 すなわち、現二項存置のままでの<いま・現在の自衛隊の明記による合憲化>、つまり最終的にはこれのための「条文化」は不可能だろう、と断じたい。
 成文化の作業でつねに、「戦力」概念の解釈を何らかのかたちで前提にせざるをえない
 ---
 繰り返すが、憲法上に「自衛隊」なるものの容認規定を作ったところで、そこでの「自衛隊」がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない
 言葉・概念の錯覚に陥ってはならない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、上述のことに(この欄で何回か書いたことに)全く気づいていない。ネット上で、この二人の安倍晋三改憲案関連文章を読んだ。
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。
 百地章、八木秀次、西修-いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田・邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ。
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1623/日本の保守-2006-2007年に何が起こったか①。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
 こう書くと西尾の本が後で刊行されているが、その内容のほとんどは前年までに、おそらくは前者よりも早く書かれている。ともあれ、同年の刊行。
 その「あとがき」の副題は、「保守論壇は二つに割れた」だ(2007年6月)。
 その中に収載の「小さな意見の違いは決定的違い」は、2006年夏・秋のことを書いている。
 2007年。この年の初め、第一次安倍晋三内閣だった。まだ2007年の参院選挙はなかった。
 この年の3月下旬、<秋月瑛二の…つぶやき日記>がかつてあった産経・イザ上で始まった(このとき、産経新聞社が運営とは知らなかった)。
 この年の12月、櫻井よしこを理事長とする、(公益財団法人)国家基本問題研究所が発足した。
 2000年頃と、この年のこの時期までの間に(ということはこの年のおそらく前半には)、櫻井よしこは<華麗なる変身>を遂げたもののと見られる。
 つまりは、国家基本問題研究所関係者のむしろ多くが知らないのかもしれないが、椛島有三や伊藤哲夫たちの、つまり「日本会議」派と仲良くなった。あるいは、仲間になった。あるいは、前者が後者に<取り込まれた>。冒頭の著者の椛島は、言わずもがなだが、<日本会議事務総長>。
 この年以降、つまり2008年以降の櫻井よしこの論調と、2000年頃の櫻井よしこの論調は、明らかに異なる。
 西尾幹二は、上の書物全体をその全集には収めてはいないようだ。全集とはいえ、本人編集かつ追記だから、いろいろな想いが重なるのだろう。
 2007年というのは、前年またはさらにその前の年から始まった、新しい歴史教科書を「つくる会」の激変時でもあった。
 「日本教育再生機構」とやらができ、安倍内閣に「教育再生会議」なるものも設置された(今これはどうなっているのか?)。
 これの重要人物が、八木秀次。今年になって私が名づけた天皇譲位問題に関する「アホ」の一人(櫻井よしことともに)。
 この欄で言及した記憶があるが(たぶん雑誌上のものを読んで)、西尾は上の本に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」と題する文章を収載している(諸君!2006年年8月号のもの)。
 こうしたものを含む単行本が7月末日付で刊行されており、上の椛島有三著は4月が刊行月になっている。そして、この年の最後の月、櫻井よしこは「研究」所理事長になった。
 以上のことは、いつでも記せるような内容だった。
 小林よしのりの本を併せて読むと、もっといろいろなことが分かるはずだ(所持しており、読んではいる)。
 10年後の今に残る「分裂」・「対立」について、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>に未来はないのではないか。
 中西輝政は、いったいどうやって<世渡り>をしてきたのか。さらに言えば、西尾幹二ですら、その後どうやって<世渡り>をしてきたのか。なぜ月刊正論や産経新聞に執筆できるのだろう。
 無名の、大洋の底の貝のごとき秋月瑛二が、何かを記しておく意味がほんの少しはあるかもしれない。
 もう一度書いておこうか。
 ①2006年~2007年、櫻井よしこは<変身>した。あるいは<変節>した。あるいは、<狂信>先が明確になった、と思われる。
 ②この頃のことを、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>はダメだ。もっとも、秋月瑛二は<自由と反共産主義>に執着しており、<保守>か否かは全くの副次的な関心主題にすぎないのだが。

1557/天皇譲位問題-産経新聞社と「日本会議」派の敗北。

 ○ 勝利や敗北は何らかの「規準」の必要な価値評価なので、簡単には使えない言葉だ。ここでは、<現実化>した又はしそうな見解を主張していたかどうかを規準とする。
 また、産経新聞社は社として公式に譲位反対又は摂政制度利用を主張していたわけではない。但し、当初ないし昨年秋頃には、譲位反対の雰囲気だったことは下記のことでも、また確認しないが、(生前)譲位を認めるとすると膨大な諸法制の改正・整備が必要となって大変だ旨の一般的記事もあった(ネット上で読んだ)。
 「日本会議」派、というのも正確ではない。会員とか関係者の範囲は定かでないが、近いとされる百地章は最終的には摂政利用反対論を述べた。また、上原康男が「日本会議」関係者なのかも知らない(調べればすぐに分かるのかもしれないが、労を厭う。いずれにせよ、この人に多数の天皇制度・政教分離関係研究書・評論書があるを知っているので-たいていは所持しているだろう-、櫻井よしこ・八木秀次らと同じ<アホ>扱いはしていない)。
 しかし、譲位反対派は「日本会議」系だというレッテリ貼りもあったほか、櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次らは明らかにこの組織・団体に「近い」と見られ(これは櫻井よしこについては歴然としている)、申し訳ないが簡潔にするためにも「日本会議」派と称させていただく。
 ○ 関心があるのは、<アホの4人組>らの退位反対論者が、いまどういう感想をもち、どういう自己「総括」をしているのか、だ。
 櫻井よしこはおそらく何も触れないままで、週刊新潮・週刊ダイヤモンドらに相変わらず別のことを<書き散らして>いるようだ。
 自己の見解が、なぜ<現実化>しそうにないのか、その原因・理由をどう考えているのだろうか ?
 「評論家」にせよどういう肩書きにせよ、政府の会議に呼ばれた発言者としてその発言「内容」に関する責任、その後の展開に関してコメントする「責任」くらいはあるのではないか ?
 八木秀次はすぐに①摂政制度の利用と②国事行為委任法(法律)で対応できると判断したように伝えられているが、この二つともに対象は憲法・法律上は天皇の国事行為であり、「公的(象徴的)行為」や天皇・皇室の「宗教行為」祭祀を含むと解されている「私的行為」は法的には全く対象にされていない。したがって、この二つをもってしても、天皇と新「摂政」のいずれが行うかという重大な問題が残ったままになる、ということを、いつ頃に気づいたのだろうか。
 しぶとく譲位反対論を書いていたが、自らの憲法(・法)学者 ?としての「無知」を、恥ずかしく感じなかったのだろうか。
 とくにこの欄でまた触れたくなったのは、既に言及したのだが、月刊正論(産経)昨年11月号末尾の喫茶店での雑談のような「匿名」記事(「編集者」も参加)で、「先生」がこう語っていたからだ。
 「月刊正論10月号で…ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。p.319。
 ここに「間違っている」うんぬんが語られているのが、概念または論理の問題として、きわめて気になる。
 つまり、この「先生」は、<譲位否定(論)>が、「間違っている」とは逆の「正しい」ものだと考えているのだろう。
 「正しい」見解がつねに<現実化>されるとは限らない。上の意味で「敗北」することはありうる。それは、そうだ。
 しかし、産経新聞社発行の月刊雑誌・正論に出てくるこの「先生」における、「正しい」か否かの規準は、いったいどこにあるのか。いったい何をもって、「正しい」と「間違い」を区別しているのか。
 多くの者が指摘したように、天皇の生前退位は少なからずあり、<終身在位>が制度として定められたのは1889年のことだ。
 1889年または明治憲法下のことだけが「正しい」とするのは、じつに<誤った>(あえて「誤り」という)、<偏狭な>考え方だ。
 こういう「先生」のような、「先生」と称される者たちがごろごろいるから困る。<保守>派の未来をも、暗くしている。
 「正」・「誤」の問題と「適」・「不適」や「合理的」・「非合理的」の問題は、別の次元にあるだろう。また、<思い込んで>いることがつねに「正しい」などと考えてはいけない。
 「教授」とは八木秀次自身のことでないかとすでに推測したが、「先生」が誰かは分からない。
 この「先生」は、現在までの<現実化>に向けての推移をいかに自己「総括」しているのか、是非とも尋ねてみたい。

1488/日本の保守-小川榮太郎とその日本の「保守」批判。

 小川榮太郎は、かなり、又はきわめて、鋭敏な「保守主義」者だ。
 小川が、ほとんど適切に平川祐弘の天皇論・譲位制度反対論を批判し、「日本の保守はじつに危うい」と的確に指摘していることは、すでに言及した。
 月刊正論3月号(産経、1917年)では小川は、<「保守主義」者宣言>と題して、つぎのように書く。保守とは何か、自分にとっての保守、というのがおそらく執筆依頼された主題なので、このような批判的叙述をするのは少しは勇気が必要だっただろう。p.76-。旧かな遣いは勝手ながら現代かな遣いに変えた。
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 「戦後イデオロギーは、今や完全に全日本人の遺伝子に浸透し、保守的な『生き方ないし考え方の根本』そのものが、日本人から失われてしまった。保守を自称する人達も例外ではない」。
 安倍支持保守・安倍批判保守、熱烈天皇主義者、理論派保守(反リベラリズム・バーク・福田恆存・アメリカ共和党に依拠)等々、「様々な自称・他称保守」を見ても、保守的な『生き方ないし考え方の根本』を体現する人は「殆ど見当たらない」。
 「天皇陛下万歳を唱えながら、排他主義のはけ口にしているだけなのかもしれない」。
 蓮舫を批判しつつ「職場では権利の主張に余念がない」かもしれない。等々。
 要するに、「近年保守的な標語が世上に乱舞している状況は、ネットの断片的な情報によって過激化したナショナリズムと評すべきであって、保守的な人間像、保守的なエートスの蘇りではない」。
 「ナショナリズムを否定するつもりは毛頭ない」が、「本当に日本の核になるもの」を「保守」したいのなら「その奥に踏み込まねばならぬ」。「本当に消えつつあるのは、日本人が歴史の持続の中で鍛えあげてきた人間像そのものなのだ」。
 日本が失われるのは「反日勢力に否定された」からではない。「真に侵され、危機に瀕しているのは日本の外被ではない、我々の内側に息づいているべき日本の方なのだ」。「その記憶を取り戻す事こそが『保守』でなくて何なのだろう」。 
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 自分であればこのような表現の仕方はしない、又はできない、と感じはする。
 しかし、小川榮太郎が単純な「安倍支持保守」や「熱烈な天皇主義者」を<保守主義>者と見ていないことはよく分かる。
 秋月瑛二にとつては、「保守」という言葉で自分を意識するか自体も大した問題ではない。がともあれ、「反共産主義」や「反左翼」の意味では<保守>なのだろうという思いはある。
 そのような<保守>感情からすれば、渡部昇一・櫻井よしこらのアホの4人組、加地伸行を含めるとアホの5人組らの「観念保守」は、平川祐弘・八木秀次を含めて、批判されるべき、危険視されるべき人物たちだ。
 そのような気持ちと、小川榮太郎が述べている「保守主義」には、少なくとも部分的には、合致点があるように考えられる。

1486/天皇譲位問題-産経新聞社・月刊正論の困惑と怨念。

 天皇譲位問題-往生際の悪い産経新聞社・月刊正論。
 昨年夏以降の天皇譲位問題の発生とその帰趨は、少なくとも内部的には産経新聞社を困惑させ、混乱させたと思われる。
 もともとの主張は、当時又はのちの「アホの4人組(加地伸行を含めて5人組でもよい)」の主張と同じで、譲位反対・摂政制度利用論だったようだ。
 産経新聞は昨年8/06社説(主張)で、とくに小堀桂一郎の言を紹介したりして、このような方向の主張をしている。
 但し、世論調査の結果と大きな齟齬がでてきたことは、意識したに違いない。
 それでも、記憶に頼れば、阿比留瑠比は、<世論調査結果に一喜一憂しないで…〔じっくりと正しい方向へ〕>という旨を書いていた。産経や阿比留にとって「喜」となる調査結果、「憂」となる調査結果は何かと思いめぐらさせ、それらが推測できそうで、かなり興味深かった。
 11月のヒアリングの頃には社としての主張を確定していたのかどうかは、私にははっきりしない。購読者でないので、いつ頃に転じたのか分からないが、12/23日社説では、「今の陛下の一代に限り、特別措置法で譲位を実現する方向性が出ている。/陛下のお気持ちを踏まえ、できるだけ早く見直す観点からは、自然な流れではないだろうか」となっており、その後はこの線の主張をしてきている。
 世論を完全に無視できず、かつ皇室典範全面改正も認めたくない、という、政府・自民党がもともと提供しようとしていた折衷案的解決にすがったことになるのかもしれない。
 というわけで、産経新聞と譲位問題には現時点では語ることはほとんどないとも言える。
 しかし、同社発行の月刊正論上の「教授」・「先生」はなおも、<ぐじゃぐじゃ>と述べている。「負け犬の遠吠え」というか「敗者のルサンチマン」というか。
 3月上旬辺りが最終編集だろうか、月刊正論5月号(産経)「メディア裏通信簿」欄によると、以下。
 ①「教授」-「天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある」。「先生」-「完全に憲法違反だぜ」。
 ②「教授」-「摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方向をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定だったからでしょう。そういう意味でも〔=天皇の意思によるのだから〕退位制度は国民や国会の意思という理屈には無理がある」。
 上の①については、「おことば」後の記者会見の際に「内閣の助言の承認により」発したという説明を今上陛下はなされた。また、NHKによる放送を予め政権中枢が全く知らなかったとは考え難い。さらにもともと言えば、今上陛下にも一人間としての意思や思考は当然にあるので、その表明を一切封じてよいのか、「国政」に結果として影響を与えることになるのか否かは「お言葉」の時点ではまだ分からない、といった論点もある。
 ②については、もともと摂政設置と国事行為委任法では天皇の行為の全てをカバーできない部分があるという原理的・基礎的な問題点がある。また、「天皇の意思」によるからと言うが、国会が自立的に法律を改正しその原案・法律案を内閣が自立的に作成するということに問題はないだろう。自立性を正面から否定するのはむつかしい。「教授」や「先生」も、政府が改正準備を始めたあとの、彼らにとって賛成できる皇室典範の非改正、現状維持であれば、それがいかに今上陛下の明示の意思表明にもとづくものであっても、形式や手続を問題にしないのだろう。
 そういう中味よりも、もしこれらを正々堂々と主張したいならば、月刊正論の最後の辺りの、「覆面」雑談記事でではなく、産経新聞の「正論」欄とか、あるいは<誰が正しい譲位否定論を潰したか>とでも題した論考を月刊正論にでも掲載すべきだろう。
 そうしないで覆面をかぶって雑談のごとくしゃべっているのは、じつに諦めの悪い、怨念丸出しの、印象のよくないことだ。
 ところで、「教授」は月刊正論も含めて原稿執筆依頼を受けて、執筆して校正・見出しつけにかかわることがあるらしい(p.335)。
 月刊正論に小さくとも必ずのように登場する、「教授」のごとき主張をしかつ恨み節も述べそうな覆面人間は、八木秀次、という人ではないか。
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 同欄から追加の引用。社説には現れていない、産経新聞又は月刊正論編集部の<本音>や<困惑>がかなり分かる。
 月刊正論2016年11月号p.319〔9月上旬に最終編集か〕。「先生」-「俺たち保守派は伝統と法にもとづいて天皇が政治的決定をしないように主張すべき」だし、それが「天皇の立場を守ることになる」。「月刊正論10月号で終身在位制の意義を強調して、ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。
 月刊正論2016年12月号p.308〔10月上旬に最終編集か〕。「先生」-「SAPIO11月号では小林よしのりが…男系維持派の渡部昇一や八木秀次たち保守論客をバカみたいな絵で描いていたな」。
 「教授」-「ひどい描き方ですね。しかも名前を書いていない。文句を付けられないように、わざと書いていないんでしようね」。
 /名前を書いていないのは、「教授」も「先生」も同じで、かつ似顔絵もない〔秋月〕。
 同p.309〔10月上旬に最終編集か〕。「編集者」-「産経も読売も、自分たち自身が本音では『困惑』している当事者でもあるから、はっきりものが言えなくて…。」
 「先生」-「少なくとも、月刊正論ではもっと〔譲位に対する〕反対・慎重論を明記して、議論を喚起すべきじゃないか」。
 「編集者」-「また、そんな厳しいことを。……いろいろ考えるとなかなか…。…を読んでも、そこのところを悩んでいるのが、分かるじゃないですか、勘弁してください」。等々。

1481/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む①。

 ○ 小林よしのり・天皇論平成29年(小学館、2017)のp.479以下を読んだ(又は拝見した)。
 入手が遅れたのは、主題についての関心の薄さ、「観念保守」(=小林よしのりが「自称保守」とか称しているものに近いかもしれない)の文章を思い出すことへの嫌悪にもよる。 
 ○ 最後の方の p.544に、小林が批判の矛先を向けている8名の人物の顔の似顔絵が出てくる。
 ちなみに、昨秋あたりの月刊正論(産経)はこの似顔絵化を、<卑劣>だとか批判していた。
 しかし、小林よしのりの絵から、私でもかなり人物名を特定できる。しかるに、月刊正論(産経)は最終頁あたりで「教授」・「先生」・「女史」等とだけ冠名する人物を登場させて、個人名を隠したままで勝手な?ことを言わせている。
 良心的なのはまだ小林よしのりで、月刊正論編集部(産経)の方が<卑怯>だろう。
 元に戻る。8名のうち、左の2名はすぐには分からなかったが、どうやら加瀬英明と加地伸行らしい。
 残るは、右から、八木秀次、渡部昇一、小堀桂一郎、竹田恒泰、平川祐弘、櫻井よしこ。ほんの少し頭を覗かせているのが大原康男かと思われるが、さしあたり計算から省く。
 上の8名のうち政府・天皇関連有識者会議のヒアリング対象者は、八木秀次、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこの4名
 なんと、秋月瑛二が「観念保守」と批判し、<アホの4人組>と酷評した4名と全く同じ。100%の合致だ。
 しかも、上の点はかりにさておいても、8人のうち4名が該当するだけでも、相当な<打率>だ。なお、大原康男を含めても、4/4.3くらい、および4/8.3くらいの高い<打率>になる。
 小林よしのりの上の基本的な感覚または彼らの論旨(譲位反対論)に対する非難は、まことに健全だ。
 ○ 加地伸行がヒアリング対象者だったとすれば、平川祐弘と同じかさらに低レベルの発言をしていた可能性がある。 
 たぶん昨年中に、西尾幹二は(確認しないが)月刊正論あたりでたしか天皇・皇室問題で加地伸行と対談していたが、加地の発言にほとんど頷くばかりで、容喙していなかった。加地の発言のあまりのヒドさに思わず、私は当該雑誌自体を放り投げたほどだ。
 もっと前にも、西尾幹二と加地伸行の二人は天皇・皇室問題でかなりひどい対談か論考を載せて話題になったらしい(これもかすかな記憶はある)。
 西尾幹二は、ときに一緒に酒呑みするくらいならよいが、加地伸行レベルの人物と雑誌用の対談などはしない方がよいと思われる。せっかくの高名を辱めるだけだろう。
 ○ とここまで書いて、まだ小林よしのり著の内容にはほとんど立ち入っていない。
 これまた連載にするしかない。


1471/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④。

 ○ 小川榮太郎「平川祐弘氏に反論する-譲位の制度化がなぜ必要なのか」月刊Hanada5月号p.303-による、おそらく同誌4月号の平川祐弘「誰が論点をすり替えたか-天皇陛下『譲位』問題の核心」p.30-に対する批判は、平川批判として優れている。
 書いていることに即しての譲位問題に関する平川祐弘批判は秋月もする予定だったが、小川の言述の紹介でもってほぼ代替させることができるかもしれない。
 もっとも、櫻井よしこらと親交があるらしい編集長・花田凱紀の意向だと思われるが、平川論考のタイトルは4月号の表紙の右側に最も大きく掲載されているのに対して、小川榮太郎の上記については表紙の中になく、目次の中でも目立ってはいない。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaは、同人誌的サークルが別の名前で、似たような人が似たようなことを順番に書く雑誌に堕してしまっている観がある。ときにはこの小川榮太郎論考のようなものや、西尾幹二や中西輝政のものを載せて、ゴマカしているけれども。
 ○ 小川榮太郎に同意できない部分はあるが、そこはさておき、以下は平川批判。
 ・最後の、「…日本の保守は実に危うい」。p.315。平川を読んでの結論的感想のようだ。そのとおりだ。とくに「観念保守」の精神的頽廃は著しい。もっとも、「…」の「…させねば」の部分には同意できない。
 ・まん中あたりの、「そもそも平川氏-および保守系論客の多数-が、そんなに摂政に固執することが私には寧ろ理解できません」。p.311。そのとおり。かりに本当に「保守系論客の多数」だとすれば、日本の保守はすでに死んでいる。つぎの根拠づけも適切だ。
 「皇太子による摂政の制は、明治の典範で初めて定められたものに過ぎず、本来の天皇伝統ではない」。p.311。
 ・平川祐弘は、今上の「お言葉」は<天皇の役割を拡大する「個人的解釈」・「拡大解釈」>だと理解して、「我が儘を言っておられるだけ」だとし、「祀り主として存在することに最大の意義がある」と言うが、「そもそもが陛下のお言葉への反論になっていない」。p.305。
 ・存在するだけでよいとは、観念的詭弁(秋月の言葉)。「極論すれば」、「植物人間状態で全く『機能』していなくとも、『存在』が継承されれば天皇伝統は続いたか」。p.306。
 ・平川は譲位の問題を縷々述べるが「体系的網羅的懸念」でない。制度又は慣習化で防止できる。p.310。また、例えば以下。
 ①上皇と新天皇の各周辺の「人間関係がうまくいく保証はない」というが、同様のことが「摂政と天皇の間にも」「起こるに違いない」。p.310。
 ②エドワード八世の退位後のヒトラー接近というのは、「失礼極まる」「拡大解釈」だ。p.310。
 ・平川は源氏物語を持ち出して「高齢化」への配慮は不要だとする。しかし、現在の「高齢化」社会の出現は突然のもので、「世襲の制度にとって、この突然の平均寿命の倍増は、根底的な制度設計の変更を要求するものだと考えるのは、寧ろ当然ではないでしょうか」。p.311。
 以下は秋月瑛二による追記。源氏物語がかりに50-100年間の天皇の実態を反映して(物語だが史実に即して)書かれていたとしても、たかだか50-100年間の天皇の歴史にすぎない。なぜこれが、現在の議論の根拠になるのか。源氏物語が描いていない、平安期以前、平安期の残り、鎌倉以降の武家・幕府時代等についての根拠になるはずはない。平川祐弘の言及の仕方は、思いつくままの(限られた個人的な知識にのみ頼った)恣意的なものにすぎない。「バカ(アホ)」なのだ。
 ・小川の論述はさらに進む。「終身在位に固執する弊のほうが、遙かに実際的な危機ではないでしょうか」。p.312。
 (明治皇室典範の摂政位継承順位の定めに関する小川の理解p.311-312は、適切だろう。つまり、摂関時代のように、皇太子等の皇族以外が摂政になることを禁止し、天皇家・摂政家(これにつながる皇族)の対立、後者による「明治新政府を転覆する可能性」を摘み取ったのだ。ちなみに、1989年・明治皇室典範は、1877年・西南戦争のわずか12年後、1968年・新政府樹立の21年あと。)
 皇太子が摂政につくとすると、「事実上、六十代以降に即位した老齢天皇が、八十代で摂政を立てるというのが基本的な天皇のあり方になってしまいます」。p.312。
 ・「宮中祭祀七つに関しては摂政は代行できません」。p.312。
 これについて調べる必要があると感じていたところ、珍しくこの問題に論及している<保守>の人の文章を見た。現在の皇室典範によれば、摂政は天皇の「国事行為」のみを代行できる。また、国事行為委任法(略称)も、名前のとおり、「国事行為」のみを委任できる。八木秀次もいるはずなのに、これについての言及がなかったのは不思議だった。
 いわゆる<公的(象徴的)行為>や祭祀を含む<私的行為>について、どこまで摂政が代替できるかは、本来はきわめて重要な論点だったはずなのだ。
 ・平川祐弘ら「保守派」はただ宮中でお祈りしていただければよいとの議論が多いが、「天皇の祈り」は「そんな気楽なもの」ではない。p.312-3。
 以上にとどめる。小川の批判は、平川祐弘に対してのみならず、、渡部昇一、櫻井よしこ、八木秀次にも、そしてその他の、月刊Hanada、月刊WiLL、月刊正論の関係者やこれらの愛読者に対しても、相当程度にあてはまるだろう。
 昨年の文藝春秋スペシャルの天皇特集号でも、そこにあった八木秀次よりも遙かに柔軟でかつ制度もよく理解していた文章を、小川榮太郎は書いていた。
 ○ 八木秀次を除けば、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこはすべて<文学部>出身者。「アホ」になるのはどちらかというと文学部系に多い、というのが秋月の見立てだ。
 しかし、小川榮太郎は格段に優れている。話がかなり通じそうな気がする。
 もっとも、先に記載のとおり、小川が天皇について一般論として記していることについては、かなり違和感をもつ部分もある。だが、それは今回のテーマではない。

1469/なぜ「アホの4人組」か。天皇譲位問題・「観念保守」、つづき③。

 たぶん年齢順に、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次。この人たち4人をなぜ「アホの4人組」と称するのか。
 第一に、もちろん、昨2016年11月に、天皇関連有識者会議での「有識者ヒアリング」で発言した者たちであり、今上天皇の譲位(いわゆる生前退位)に反対して摂政制度の利用を主張した点で共通性がある。だが、そのような者は、他にもいる。
 第二に、いずれも、天皇の歴史も含めた、天皇問題の専門家ではない。
 大原康男や今谷明は、それぞれの分野で「専門家」だとは言えるだろう。所功も、園部逸夫もそうだ。
 八木秀次は憲法学者・研究者として、天皇問題の専門家だと自分を思っているのかもしれない。天皇・皇室問題で発言してきてもいる。
 百地章も、大石眞も、また高橋和之も、憲法学者・研究者として「専門家」なのかもしれない。 
 しかし、八木秀次の憲法学「専門家」性は、相当に疑問がある。そういうためには、憲法学界または憲法アカデミズムの一員として受容されていなければならないと思われるが、八木はとっくにそれから離脱しているのではないか。そして、<教育>問題・分野へと「活動」の重心を移しているのではないか。
 2015年にいわゆる平和安保法制問題が政局化した際に産経新聞は西修、百地章、八木秀次の三人の文章を「正論」欄に掲載したが、最も拙劣だったのは八木の文章だった。この当時にはこの欄で触れなかったが、八木秀次は、<憲法体制と安保体制の矛盾>という、日本共産党員の長谷川正安(故人、名古屋大学・憲法学)が言っていたようなことを述べていた(秋月も、子どもたちにウソを教えてはいけない旨を書いたことはある)。戦後日本の法現象の認識としてそのようなことを指摘できる可能性はあるのだろうが、当時の憲法「解釈」論としては、平和安保法制違憲論を断固として排斥し、合憲論をもっと強く主張しなければならなかった。
 というわけで、大石眞や高橋和之、そして百地章と並ぶ「専門家」と性格づけるのは困難だと思われる。
 第三に、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)という保守系月刊雑誌に、人と雑誌によって多少は異なると思うが、頻繁に登場している。
 これが最も共通性の高い点だという印象もある。しかし、これだけではない。
 第四に、2015年8月の安倍晋三内閣によるいわゆる戦後70年談話を、いずれも支持した。
 渡部昇一と平川祐弘については、この点にこの欄でも触れて批判した。櫻井よしこがこの派に属することはとっくに確認している。 
 八木秀次について確認はしていないが、この安倍談話を批判していないことはおそらく間違いないだろう。今年になってからの、月刊正論3月号p.58でも、八木は「安倍晋三首相」と共通する立場にいることをとくに記している。
 第五に、これら4人はいずれも、秋月瑛二がこの欄で長らく批判的なコメントをし続けている人物だ。
 開設当初からというわけではない。漠然と思い出せば、八木秀次を信用できないと感じたのは早かったし、渡部昇一は現憲法無効論または廃棄論の主張者だと知って、これまた早々に(批判的コメントをするため以外は)読まなくなった。
 櫻井よしこを<保守>派のようだと明確に知ったのは遅かったかもしれないが、2009年の民主党内閣誕生前後の論考はひどいもので、とても<保守>派だとは思えなかった。
 屋山太郎とともに、この点で櫻井よしこは批判の俎上に載せた。2009-10年頃に秋月がコメントしたことは、間違っていないと今でも考えている。内容をいまここで繰り返しはしない。
 最後に、平川祐弘の名前は以前から知っていたが、積極的にせよ消極的にせよ読む価値のある人物だとの印象はなかった。
 にわかに関心を持ったのは、安倍戦後70年談話を、稚拙な文章でもって支持していたのを読んでからだ。そして、昨年以降のこの人の文章を読んでも、全く支持できない。
 以上のとおりで、たまたま「アホの4人組」と称したのではない。
 上智大学「名誉教授」、東京大学「名誉教授」、現役の某大学教授、そして「国家基本問題研究所」なるものの理事長を「アホ」だと言うのは、相当に勇気が必要なような気もする。
 しかし、「アホ」は「アホ」だから、仕方がないだろう。
 個人攻撃あるいは全面的な人格批判をしているのでは全くない。この人たちが何を、どのように書いているかを読んだうえでの、その内容についての批判だ。
 「アホ」は「アホ」だから仕方がない、と言うためには、もっと書かなければならないだろう。

1443/天皇譲位問題ー「観念保守」というアホの4人組。

 一 天皇譲位問題は、現在の私には最優先の論題、思考テーマではない。
 しかし、日本の<伝統と歴史>を守るためにとか言いながら、じつはデタラメな歴史観と歴史知識をもったままで単純かつ<観念的>な議論をする者がいて、しかも首相のもとでの検討会に専門家として見解・意見まで述べる機会が与えられたというのだから、ヒドイものだ、ますます<保守>派の印象は悪くなる、と憂いていた。
 といっても、いくつかの論考や文章にきちんと目を通して、精確に批判しておくことは、むろん不可能ではないが、それだけの手間と労力をかける意味があるのかと思うと、大いに躊躇するところがあった。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)を入手して読んで、やれやれやっと、私が言いたかったこと、論じたかったことの8割ほどは書いてくれている書物が出てきた、と思った。
 すでに昨年8月に、生前譲位を認める何らかの<改正>をせざるをえないだろうと簡単に記した。また、昨年12月頃には<観念保守>の主張らしきものを批判的にコメントしている。その中で、明治期以降だけが日本や天皇の歴史ではない、とも書いた。
 上の本郷著を概読して、あるいは冒頭の数頁をひもといても、やはり、(たぶん年齢順に)渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次の4人はバカなのだと思う。
 いや、最近読んだ西部邁の文章によると、「バカ」なのは左翼で、右翼・保守は「アホ」なのだそうだ。
 本当に上の4人は、「アホ」らしいことを真面目に書ける、主張できるものだ。恥ずかしい。また、これらの人々の言論のために、政府や出版社も含めて、多くの時間・コストを要していることを、何と無駄なことをしているのか、と感じる。
 二 さて、本郷和人著から、ほぼ首肯できる文章を、ほとんどが以前から私が感じてきたことや知っていることだが、抜き出して引用する。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます」。/歴史に「無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます」。p.11。
 「摂政のあり方や摂政としての制度の運用のしかたというのは、まだ固まっていません。戦後の象徴天皇制のもとでは、もちろん一度も置かれていません」。p.33。
 「皇室典範を金科玉条のように思い、改正することに対して否定的な考えの人たちも多い」。だが、私が思うに、「じつは天皇陛下は、そういう人たちの動き、いうなれば硬直的というか、極度に保守的な考え方を快く思っていないのではないでしょうか」。p.38。
 「ただ疲れたからやめたい、体力的にキツいというだけで提案したわけではないでしょう。それ以上の意味合いをもっての行動だったのではないでしょうか」。p.45。〔本郷の推測する意味づけは省略。〕
 旧皇室典範が終身在位を定めたのは-「死ぬまで天皇をやってください」と決めたのは-、「天皇の後継者への任命権を制限する行為ともいえる」。天皇の「絶対的な存在」を規定しつつ、「伊藤博文をはじめとする元勲たちは、どこか冷めた目も持っていた」。p.51。
 明治政府は、「もう一度、朝廷の力や権限を担ぎ出されたくはない」。自分たちが成功したのと「同様のことを行われたくはないから」だ。天皇の「政治利用」を極端に恐れたはずだ。「旧幕府軍側が、[奥州戦争で]…皇族の北白川宮能久親王を先頭に押し立てて戦おうとした」ような政治利用の再現を恐れた。「終身天皇という形を制定したことはそういう政治利用の場に引っ張り出される危険性を未然に防ぐ効用もあったはずです」。p.53。
 「明治時代の元勲たち」は、「天皇が絶対であると一般大衆には布告しながら、本音としてはそれは方便でした」。p.54。
 のちの指導者たちは「明治の元勲たちの持っていた冷めた視点を失ってしまった」。「第二世代、第三世代になると建前を盲信してしまい、あやまちを犯す」。p.58。〔この最後の辺りの評価と原因分析は議論の余地があるだろうが、立ち入らないでさらに続ける。〕
 「実在が確認されている天皇のほとんどは生前退位しています。現在のような終身在位の方がめずらしいケースでした」。p.66。
 「第50代くらいまでの歴代の天皇」では「生前退位が行われているケースは、やはり女性と高齢天皇の場合が多いのです。しかるべき人が無事に即位できる時期になれば生前退位をして譲位をすることが前提に近い状態で即位した」。p.69。
 「桓武天皇以降からは生前退位が当たり前になってきます」。p.70。
 「後三条天皇」以降で「死ぬまで天皇でいた人は、若くして亡くなったり、不慮の死で急逝したりした場合と、経済的に苦しかった戦国の天皇たちにかぎられていきます」。p.74。〔経済的に苦しいとなぜ生前譲位できないのか。それは、新天皇の践祚・即位の儀礼等に多大の費用がかかるからだ-秋月瑛二。〕
 「院政の時代」は、「権力を握った上皇のほうが天皇より偉い」。p.77。
 「家康は…、天皇や公家のやることは学問であると『上から』規定して役割を与えて」いった。天皇の存在を重視せず、公家・貴族は、将軍-大名-旗本-御家人の、御家人クラスの「必要最低限の援助」しか受けられなかった。p.85。
 この時代には「天皇の権力は無力化され、江戸幕府がすべての権力を集中して持っていた」。天皇は「領地」も将軍家から与えられて「経済的にもまったく自立していません」。但し、改元と暦に関する権限だけは別だった。p.86。〔但し、これは近世・江戸時代のことで、少なくとも室町時代には改元権は幕府・将軍にあったことがある-秋月。〕
 「天皇というのは、そのときそのときで性格を変えてきた」。地域首長・首長連合の筆頭・院政・武家政治、等々。p.126-7。[武士幕府政治のもとでも、後鳥羽・後醍醐のように「親政」へと挑戦した天皇・上皇はいたし、そうでなくとも、個々の天皇等ごとに幕府と朝廷・公家の関係は一様ではないとみられるー秋月。]
 天皇・武士の関係について「よく耳にする言葉に『天皇は権力は失った、だが権威だった』という言葉があります」。しかし、私は「それはあくまでも言葉の遊びにすぎないと思っています。権力も何も持っていない権威なんてものが存在するのかと考えるからです」。p.128。
 今の社会ならば「権力はなく、権威として存在することは可能」かもしれないが、昔、たとえば「中世社会において権力=力のない権威というものが存在したでしょうか」。同上。
 「そもそも将軍が天皇からお預かりしているという思想自体が、江戸時代の後期になって尊王とともに登場してきた概念にすぎません」。「朝廷の命によって征夷大将軍に任じられて」いるのは、「それこそ形式的なもの」です。p.135。
 「万世一系」を「日本の皇室がもつ特徴のひとつ」と思うのは問題はない。しかし、「だから日本人は偉い」・「日本人は特別の民族」とかの「優越意識や選民思想と結びつくと非常に問題があります」。日本・日本人を誇るときに「『天皇』を引き合いに出して自尊心を満たしたい」という心理はある。p.144。
 三種の神器の存在、前天皇又は上皇の承認の二つを欠いたまま即位した、「かなりグレーというか、いい加減な対応」による、後光厳天皇もいた。p.147-9。
 武家政治は鎌倉時代から江戸時代で「700年」続いたが、「軍事力をほぼ独占した武士たちによる政府ができたからこそ、天皇家は続いた」といえるかもしれない。「天皇が軍事も政治も意欲的に」行えば、とって代わろうとする勢力によって滅ぼされた「かもしれない」。古代の天皇のように自ら軍事行動をすれば、「どこかで戦いに敗れ、滅ぼされていた可能性は高い」。p.150-1。
 「怠惰な国民のもとに独裁者が生まれるし、怠惰な国民が独裁者をつくりだす」。「生臭いものから皇室は距離を保っておくべきだ」との意見が大勢であるようで国民はさほとどバカではない。「日本の場合、独裁者が生まれるとするなら、皇室もしくはその周辺からしか生まれないでしょうから」。p.156。〔この部分の言明は興味深い。「皇室の周辺」等についてさらに発展させて議論したいが、省略。〕
 生前退位による「政争の具」化、「政治的な混乱」の発生は「もはや難しい気がします」。皇室も含めて「絶えず可視化」されている情報化社会はそれを許さないだろう。p.159-160。
 「外部勢力が生前退位というシステムを使って」「手を突っ込んでくることはほぼ考えられません」。「あるとしたら、天皇家のなかでそういう動きがある場合でしょう」。p.162。〔この部分も興味を惹く。別に話題にしたい。〕
 「時の内閣の政治的駆け引きに利用される」という危惧が再三提起されるが、これは「天皇の人格の問題」、「どんな人が天皇になるのかという問題」だろう。p.162。 
 三 以上のすべてではないが、アホの4人組の見解・主張に対する反論や無知の指摘になっているところが多いだろう。
 <観念保守>の思考方法自体に最近は関心があるが、日本共産党による<明治維新以来ずっと日本は悪いことをしてきた-「帝国主義」化と「侵略」戦争>という歴史観を裏返しにした、しかも明治当初の元勲たちにはあった冷静な視点すら失った、戦前の一時期の<皇国史観>に立ち戻れ、というだけではないだろうか。
 本郷も指摘するし、産経新聞・「正論」欄で秦郁彦も述べていたように、明治期の旧皇室典範の内容こそがむしろ長い日本の歴史、天皇の歴史からすると<異例>だったのだ。
 誰も書いていないようだからあえて書いておくが、明治新政府の誕生時(1868年)、明治天皇は16歳で、明治憲法発布・旧皇室典範(勅令ですらない)制定時には38歳だった。かつまた、すでにのちの大正天皇は生まれていた(12年後にはのちの昭和天皇も生まれた)。そのような、40歳にもなっていない若い又は壮年の天皇がいた時期に、言うまでもなく、そのことや当時の後嗣を含む皇室の具体的状況も考慮して、あるいは具体的なそれを背景として、旧皇室典範により終身皇位制度が採用されたのだ-反対論もあったことが知られている-。この当時と大きく具体的な事情が異なる(むろん法的な位置づけも異なる)現在において、旧皇室典範の<精神>を持ち出すのは、狂気であるか、あるいはたんにアホであるとしか思えない。
 旧皇室典範以降で、わずか三代の代替わりしか行われていない(大正・昭和・今上)。これがなぜ、「日本の伝統と歴史」と言えるのか。昨年12月に触れたことだが、(<保守>派ならば神武天皇にまでさかのぼって ?)天皇の歴史に関する知識を持たなければならない。欽明まで遡らなくとも、平安直前の光仁、そして桓武あたり以降の歴史をすべて(概略でもよいが)知っておかないと、いかなる発言もマトモにはできないのではないか。
 本郷和人は、平川祐弘・月刊Hanada4月号(飛鳥新社)が嫌味を言っているような「法学」者ではなく、東京大学史学科出身の(中世が専門の)歴史学者だ。平川は、自らの視野の狭さ、思い込みとそれからくる「無知」、そして<観念論>ぶりを自ら嘆くべきだろう。
 また、平川は源氏物語という<文学>作品を読んでいない「法学」者を批判しているようだが、そんなものを持ち出さなくとも、いくらでも多数、より実際の<歴史>に近い書物・文献・史書はある(すべてが100%信用できるとは言わない)。
 櫻井よしこ、八木秀次らの具体的叙述も、かりにきちんと読めば、いくらでも、反駁あるいは無知の指摘をすることができる。
 こうしたアホたちがなぜ生まれて、出版界等で生きておれるのか。その理由、背景に最近は興味をもっている。アホたちを生息させている産経新聞等にもかつてよりはるかに批判的になっている。
 天皇・皇室制度それ自体について、種々書き残しておきたいことはあるが、今回はこれくらいにしよう。
 なお、本郷の長くはない叙述のすべてに同意しているのではない。例えば、明治新政権を世襲否定として肯定的な見方を示しているが、薩長中心の、藩閥的・門閥的な政府でもあっただろう(それは昭和期にも影響を与えた)。

1383/日本の保守-悲惨な渡部昇一・加地伸行。

 天皇譲位問題についての、月刊WiLL9月号(ワック)の渡部昇一、加地伸行、百地章、月刊正論9月号(産経)の渡部昇一、八木秀次、竹田恒泰、月刊Hanada9月号(飛鳥新社)の高森明勅、に触れる。
 あまりにヒドいのは、渡部昇一、加地伸行だ。この二人は、「摂政」の制度の利用で(現実的には)足りるとするが、その際、現行の皇室典範(法律の一つ)が定める「摂政」に関する規定の内容を全く無視している。
 渡部昇一は「天皇がご病気のとき」という要件を勝手にでっちあげており(妄想しており、月刊正論p.56)、加地伸行は「摂政」制度の利用は当然に可能だという前提(思い込み)に立っている(月刊WiLLp.44以下)。
 こうした、議論の作法自体をわきまえない「論考」が保守系とされる月刊雑誌の冒頭近くに置かれ、表紙等でも重要視されていることは、現在の日本の「保守」論壇の悲惨さを曝け出している。
 「保守」言論人のすべてが渡部や加地のごとくではないだろうが、上のような雑誌の編集部が原稿を依頼した十人に満たない中に、皇室典範の規定を一瞥することすらしないで天皇・皇室問題を「論じる」者がいるのだから、「保守」論壇の劣化・悲惨さは明らかだ。
 高森明勅が引用しかつ論及しているが(月刊Hanada、p.293)、天皇が未成年のとき以外に「摂政を置く」と皇室典範が定めている条文は、つぎのとおりだ。第16条二項。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
天皇陛下の談話以前に書いた原稿だと弁明するかもしれないが、陛下ご自身が問題は「摂政」制度利用では解決されえないことを明言された。
 また、高森明勅は上の条文の解釈に踏み込みつつ(これは当然の作業だ)、「陛下がお考え」の譲位と摂政設置は「似ても似つかない」と結論している。
 詳論しないが、私もまた、上の条文が定める要件は充たされていないだろう、と考える。
 渡部や加地は、天皇・皇室に関する自らのイメージと理解でもって「摂政」・譲位問題を議論している。愚昧きわまりない。
 渡部や加地は、結果としては、現在の天皇陛下が「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができない」状態にある、と主張していると理解される可能性すらある(誤解だが)。
 百地章と八木秀次はさすがに皇室典範の上の条項を意識しているが、二人ともに<柔軟な解釈>をして適用することを主張または示唆していることが興味深い。
 しかし、このような論法は皇室典範の<解釈による実質的改正>の可能性を説くもので、支持し難い。<柔軟な>解釈なるものは、法的安定性を損なうことにもなる。
 また、百地や八木の解釈がほぼ一致して採用されるとは限らず、正面からこれを説けば、世論はもちろん、「皇室会議」での議論も紛糾するだろう。
 竹田恒泰が言うように(月刊正論p.75)、皇室典範の改正か「特別措置法」制定しかないだろう。立ち入らないが、竹田が後者を主張している根拠は必ずしも十分ではない。特別措置法も(現天皇についてのみ適用する、と竹田はイメージしているのだろうか ?)、いったん成立すれば「制度」(しかも皇室典範の特別法として優先する)になってしまうことに変わりはない。
 問題は、天皇・皇族の高齢化を避けることはできず(喜ばしいことかもしれないが)、いわゆる「高齢化」社会を想定していない法律(皇室典範)が60年以上も改正されることなく存在し続けていることにあるだろう。
 加地伸行が「暴力革命を支持する勢力」による譲位・退位の強制がありうるとして、「退位規程」を作るのに反対しているのは、一見もっとものように見えて、現行の制度・皇室典範についての知識のなさを再び示している。
 加地伸行によると、「議会で過半数を占める特定勢力が、議会の議決によって退位を可能」とする危険もあるのだ、という。
 皇室典範を法律ではなく天皇(・皇室 ?)が定める「家法」にせよとの主張ならばまだ分かる。しかし、憲法自体を改正しないとこれも困難だ。
 憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する」。
 加地は、この条項も知らないで適当な文章を書いて、小遣い銭を貰っているのだろう。
 むろん、個別案件の適否は、国会が決めるのではなく、現行の制度を前提にすれば「皇室会議」が議決することになろう。
  「暴力革命を支持する勢力」が「議員」の過半数を占める事態は抽象的には想定できるが、そのような事態にな っているのであれば、現憲法の天皇条項自体が廃止・削除されているのではないか。
 ところで、現皇室典範第28条はつぎのように定める。
 「1 皇室会議は、議員十人でこれを組織する。
  2 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
  3 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」
 マスコミによる外からの「煽動」も考えられるが、基本的には、これらの「議員」となる人物が信頼できないとなれば、日本は、国家と諸制度自体が「脆うい」状況にある、ということになろう。
 加地伸行は、上の規定もおそらく知らないままで原稿を書いているのだろう(摂政を置くことも個別には皇室会議の議決が必要)。
 渡部昇一もそうだが、どうして、このような人物が「保守」系雑誌に、よりにもよって天皇・皇室問題について、登場してくるのか。
 嘆かわしい、悲惨な状態だ。
 ついでに。天皇陛下の「ご負担」軽減というとき、①憲法上明記された国事行為、②その他の「公的」行為、③祭祀を含む「私的」行為、を区別して論じてもらいたい。百地、八木、竹田の論考も丁寧にこの問題に言及してはいない。
 法律、政令の改廃に対する御璽押印と署名だけでも(慣行上または法制上、公布=官報掲載のために必要だ。公布自体は憲法上の国事行為だ)、おそらく一年に数千件にのぼるだろう。

1263/具体的・建設的で戦略も意識した議論を-憲法改正をめぐる保守派の怠惰。

 月刊正論1月号(産経新聞社)に、田久保忠衛「衆院選で忘れてはならぬ/憲法改正のラスト・チャンス」がある(p.158-)。産経新聞の憲法改正案起草委員会の一員だった人物(かつ国家基本問題研究所の幹部)が憲法改正の必要性を説き、衆院選の重要な争点とすべき旨を主張してるのだが、これを概読して、2010年11月03日の産経新聞「正論」に掲載された、やはり田久保忠衛の「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」を読んで感じたのと似たようなことを感じた。
 当時感じたことは、この欄の2013.08.12投稿でも繰り返されている-「問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。/この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ」。
 当時は民主党政権下だったので現在とはやや状況は異なるが、発議自体に各議院議員の2/3以上の賛成が必要であることに変わりはなく、これが達成されている状況にあるとは、衆議院に限っても明確には言い難い。
 また、国会議員の構成は民主党政権下に比べれば改憲のためにより有利にはなっているだろうが、そもそも憲法「改正」の具体的内容は改憲派(あるいは「保守派」)において明確になっているのか、という根本的問題がある。
 田久保は月刊正論1月号で現前文・現九条の改正と緊急事態対処条項の三つに少なくとも触れているようだが、田久保には尋ねてみたいことがある。
 まず、産経新聞社「国民の憲法」草案起草委員の一人として、すでに公表されていた自民党の憲法改正案を知っていたはずだが、産経「国民の憲法」案・要綱と自民党改憲案はまったく同じではないはずのところ、なぜ両者には違いがあるのか?、自民党の改憲案をそのまま採用しなかった具体的理由は何なのか?
 これくらいのことを明らかにしてくれていないと憲法改正のための具体的な議論はできないのではないか。
 また、憲法改正は-いずれまた触れるだろうように、明治憲法を全体としてそのまま復活させるという主張を採用しないかぎり-現憲法全体に対して改正案全体を提示して、全体について一括して支持するか否かを国民投票によって決する、というのではない。一箇条(の改正または新設)のみについて一回の記載か、複数の条項についての改正案(新設を含む)に即して複数回の(賛否の)記載を国民に問うのか、というやや技術的な(とはいえ現実には重要な)問題もあるが、いずれにせよ、改正が優先されるべき個々の条項について改正(・新設)の賛否を国民に問うことになるはずだ。
 しかして、田久保はいったい現憲法のどの条項から改正を始めるべきだと考えているのか。この点も明らかにしてくれていないと、憲法改正についての具体的な議論はできない。
 田久保忠衛に限らない。月刊正論2月号(産経新聞社)に、八木秀次「見え始める憲法改正への道筋」という魅力的なタイトルの論考があるが(p.58-)、総選挙結果の政治評論家的分析が3/4を占め、憲法改正に関する、上のような疑問に答えるところはない。ただ一つ、「憲法改正を政治日程に載せるためには1年半後の参議院選挙で改憲派の議席を確保しなければならない」等の、率直に言って改憲派ならば誰でも書けるようなことを書いているにすぎない。
 たまたま田久保忠衛と八木秀次の名を出したが、①両議院に2/3の改憲派を生み出し、国民投票でも国民・有権者の過半数の支持を得るための戦略・戦術、②すでにある改正案もふまえて、具体的にどのような内容の条文にするかのより突っ込んだ検討(ちなみに、櫻井よしこは「国防軍」ではなく「国軍」でよいと、どこかに書いていた)、③そもそもどういう順番で、改正案を国民に提示していくのか、についてのきちんとした検討、はいずれも、改憲派(「保守派))において、決定的に遅れているか、まったくなされていない。
 実に悲観的(・悲惨的)で危機的な状況にある、とすら言える。改憲派の論者たちは、本当に、真剣に、現憲法を変えたい、「自主憲法」を制定したい、と考えているのだろうか。
 このような状況では、安倍晋三首相が、憲法改正について具体的なことを語ることができないのも、当然だ。適当に何かを論じ、書いていれば済む立場に、安倍首相はいるわけではない。発議に必要な要件を彼は痛いほど理解しているだろうし(96条改正問題にもかかわる)、また、具体的な改憲条文を示した上で国民投票にかける必要があることも、どの条項から始めるべきかという問題があることも、当然に強く意識しているはずだ。
 にもかかわらず、安倍首相の問題意識・問題関心に応え、具体的にサポートする議論を改憲派(「保守派))が行ってきているとは思えない。
 優先順位にしても、公明党の「加憲」論に配慮して、安倍首相は緊急事態対処条項から始めたいのでは、という憶測記事を新聞で読んだことがあるが(何新聞だったかは忘れた)、かかる程度の<優先順位>論すら、改憲派(「保守派))は何もしていないのではないか。現九条か、前文か、緊急事態条項か、それとも「環境権」か?
 改憲派(「保守派」)の怠惰だ。
 もともと自民党は安倍晋三が言うとおり、「自主憲法の制定」を悲願としてきたのだから、改憲派(「保守派」)が、たんに、<憲法を改正しよう>と主張しても、訴えても、ほとんど意味はない。いいかげんに、それだけの主張や議論はやめるべきだ。
 ついでに言うと、周知のとおり、憲法改正反対(とくに現九条2項護持)の政党・運動団体があり、憲法学者の大半は<護憲派>とみられるところ、現96条改正や現九条改正に反対する憲法学者等の主張・議論に、改憲派(「保守派」)は適確に反駁してきているだろうか。
 例えば、昨2014年に、東京大学の現役教授・石川健治は朝日新聞に「乾坤一擲」の長い文章を載せ、京都大学の現役教授・毛利透は読売新聞紙上で護憲の立場で論考(・インタビュー回答)を載せていたが、これらに、迅速に改憲派(「保守派」)は反応し、これらを批判したのだろうか。
 <憲法改正を>だけ叫ぶのはいいかげんにしてほしい。具体的かつ建設的で戦略も意識した議論が、そして<護憲派>に対する執拗といってよいほどの批判が、必要だ。

1212/東京大学文学部社会学科はなぜ上野千鶴子を東京大学教授にしたのか。

 日本の大学の人事において、とくに歴史学や社会学を含む「社会系」については、その人物の「思想」・「イデオロギー」(それらによる所属団体、それらについての指導教授の「傾向」)がかなりの影響をもっているかを、この欄で何度か触れたことがある。マイナスになることもあれば、「左翼」/マルクス主義者・親マルクス主義者/日本共産党員であることがむしろプラスに働いて、これらを大学または学界における「処世の手段」として利用している者も少なくないのではないか、等をかつて記したことがある。   2007.07.06「大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?」   2009.02.06「<処世の手段>としての『左翼』/マルクス主義者/日本共産党員」。   2010.10.02「『共産党ではないが左翼』の社会・人文系学者たちの多さ」、など。

 長らく失念していたが、上野千鶴子の東京大学への招聘について、西尾幹二らが当時の東京大学文学部長と社会学科長に対して「公開質問状」を出していたことを思い出した。
 ネット上で、全文かどうかは不明だが見つけたので、再掲して紹介しておくことにする。なお、この質問状は西尾=八木・新・国民の油断(PHP、2005)に全文・経緯が掲載されているようだ。所持しているが、確認作業を節約させていただく。

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 「『上野千鶴子』問題については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で『表現の自由』と『学問の自由』は保障されていますが、表現の『評価』は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は『評価』に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の『評価』の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

 平成16年12月8日
  西尾幹二・八木秀次」

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 上野千鶴子は京都大学文学部・同大学院出身で上記の京都市内の女子短大や京都精華大学の教員だったが、突然に?東京大学文学部の助教授になった。
 上野の著「女遊び」とやらは読んだこともないが、上野のたった一つの学問的研究書と言えそうなのは同・家父長制と資本制-マルクス主義フェミニズムの地平-(岩波書店、1990)だろう。ここに見られるように、上野はたんなる「フェミニスト」またはフェミニズムの研究者ではない。「マルクス主義フェミニズムの地平」を目指して、ベルリンの壁崩壊・ソ連解体の頃以前に研究した文章をまとめて、1990年に、あの「岩波」から出版したのだった。<容日本共産党>の人物であることにもこの欄で言及したことがある。現在では東京大学を定年退官して優雅な「おひとりさまの老後」を過ごしているのだろうか。

 ところで、上の質問状からは不明だが、質問を受けた2004年度の東京大学文学部長ではなく、上野を採用することを決定した時点(1992年度と思われる)での東京大学文学部長は柴田翔であったと見られる。柴田翔とは、大学院学生だったとみられる1964年の芥川賞を「されどわれらが日々」で受けた人物。

 興味深いことに、西尾幹二と柴田翔(本名)はともに1935年の早生まれで(これは大江健三郎も同じ)、ともに東京大学独文学科で学んだ「学友」にあたる。そして、上野千鶴子問題を離れてさらに次のように思うのだ。

 失礼かもしれないが、西尾幹二は東京電気通信大学という理系の大学のドイツ語・ドイツ文学の教員だったのに対して、柴田翔は東京大学文学部教員として東京大学に残り、文学部長にまでなった。
 これまでの仕事・業績の全体を見ると、ドイツ関係に限ってすら、圧倒的に西尾幹二が柴田翔を凌駕しているのではないか。西尾幹二には「個人全集」すらある。柴田翔は芥川賞のおかげで世間的には著名かもしれないが、いったいいかほどのものを学界に残したのだろう。彼らの20歳代においても、東京電気通信大学と東京大学とでイメージされるような力量の差はなかったのではないかと思われる。しかるに、なぜ、柴田翔は東京大学に残り、その専任教員になれたのか。あくまで推測にはなるが、<思想傾向>がまったく無関係だったとは思われない。

 日本の大学というのは、「大学の自治」・「学問の自由」といった美名に隠れてはいるが、じつはかなり異様で奇妙な世界ではないかと感じている。  *後記(訂正)ー西尾幹二は1935年の「早生まれ」ではなく、同年7月生まれ。なお、大江はいわゆる<一浪>をしているので、結果として西尾と同年の入学のはずだ。

1129/月刊正論編集部の「異常」-監督・コーチではなく「選手」としても登場する等。

 月刊正論(産経)は、発売日(毎月1日)から二週間経てば、送料を含めても150-200円安く、一ヵ月も過ぎれば約半額で購入することができることが分かった。
 そのようにして入手した月刊正論6月号(産経)を見て、驚き、あるいは唖然とした点がいくつかある。とりわけ「編集者へ/編集者から」という読者・編集部間のやりとりは、注目に値する。
 月刊正論5月号の適菜収論考には読者からの疑問・反論も多かったようで、そのうちの一つを紹介し(p.324-5)、「編集者」が簡単に答えて(コメントして?)いる。適菜は自らの考える「保守の理想形」を提示していないという疑問(の一つ)に関して、「編集者」は以下のように書いている(p.325)。
 「おそらく適菜さんは、人間の理性には限界があり、その暴走を食い止めるために伝統を拠り所としようという態度こそが保守であると考えているのだと思います。その立場から見ると、橋下氏には理性暴走の傾向が感じられませんか。」
 これには驚き、かつ唖然とした。
 第一。「…が感じられませんか」という質問形・反問形での文章にしているのもイヤらしい。それはさておくとしても、この読者はもっと多くの疑問・批判を適菜収論考に対して投げかけている。
 それらを無視して、ただ一点についてだけ答える(コメントする)というのは、紙面の限界等もあるのかもしれないが、到底誠実な「編集者」の態度だとは言えないように思われる。紙面の関係で一点だけに限らせていただく、といった断わりも何もないのだ。
 第二。月刊正論編集部は橋下徹に「理性の暴走の傾向」を感じているようだが、その根拠・理由は全く示されていない。編集長・桑原聡の前月号の末尾の文章と同じく、理由・根拠をいっさい述べないままの、結論のみの提示だ。こんな回答(コメント)でまともで誠実な対応になると思っているのだろうか。
 なるほど適菜収論考の中に、橋下徹には「理性暴走の傾向」がある旨が書かれていたのかもしれない。そのように解釈できる部分が(あらためて見てみたが)ないではない。
 だが、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」かという対置を適菜は採っていない。従って、上の短い文章は「編集者」自身が新たに作ったもので、適菜論考の簡潔な要約ではない。
 あらためて適菜「橋下徹は『保守』ではない!」の橋下徹に対する罵倒ぶりを見てみたが、適菜は橋下徹を「文明社会の敵」、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等と断じている。
 明らかな敵意・害意を感じるほどに異常な文章であり、「決めつけ」だ。何段階かの推論(・憶測)を積み重ねて初めて導き出せるような結論を、適菜はいとも簡単に述べてしまっている。
 ともあれ、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」か、という対立軸を立てて、適菜は書いているのではない。とりわけ、「伝統を拠り所」に、という部分は適菜の文章の中にはない。
 第三。読者の(省略するが)これらの疑問に対しては、本来、適菜本人が答えるか、別の新しい論考の中で実質的に回答するのが、正常なあり方だと思われる。
 しかるに、これが最も唖然としたことなのだが、月刊正論「編集者」は、「おそらく」という副詞を使いつつ、適菜収に代わって、適菜の「保守」観を述べ、読者に回答(コメント)しているのだ。適菜論考から容易に出てくる文章ではないことは上の第二で述べた。
 雑誌、とくに月刊正論のような論壇誌の編集部というのは、「監督」または「コーチ」であって、自らが「プレイヤー(選手)」も兼ねてはいけないのではないだろうか。にもかかわらず、月刊正論「編集者」はプレイヤー(執筆者)に代わって、自らブレイヤーとして登場として、自らの見解を述べてしまっている。
 雑誌編集者のありようについての詳細な知見はないが、これは編集者としては<異様>な行動ではないだろうか。しかも、「執筆者」の考え方を代弁して自ら回答(コメント)するという形をとりながら、上に述べたように、結論らしきものを語っているだけで、いっさいの理由づけ、論拠の提示を割愛させてしまっているのだ。
 「編集者」・「編集長」に用意された短い文章の中で、特集を組んでいるような重要なテーマについての編集者・編集長自らの(特定の)「結論」を、執筆者に代わって、理由づけをすることもなく明らかにしてよいのか??
 雑誌出版・編集関係者のご意見を伺いたいところだ。
 第四。適菜は(おそらく)「伝統を拠り所」にする態度を「保守」と考えており、橋下徹にはこれとは異なる「理性の暴走の傾向」があるのではないか、というのが月刊正論(産経)「編集者」の見解のようだ。
 このような対置が「保守」と「左翼」の間にはある、という議論・説明があることは承知している。
 だが、少しでも立ち入って思考すれば容易に分かるだろう。いっさいの<変化>やいっさいの<理性>を否定しようとしないかぎり、維持すべき「伝統」とそうでない「伝統」、必要な「理性」と危険視すべき「理性の暴走」の区別こそが重要であり、かつ困難で微妙な問題でもあるのだ。
 もちろん、月刊正論「編集者」の文章(p.325)はこの点に触れていない。全ての<変化>・<理性>を否定しないで、かつ「伝統を拠り所」とする態度と「理性暴走の傾向」とを明確に区別するメルクマール・基準・素材等々を、何らかの機会に、月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は明らかにしていただきたい。
 第五。月刊正論「編集者」の文章に乗っかるとして、そもそも橋下徹に「理性暴走の傾向」はあるのだろうか。
 むろん「理性暴走」の正確な意味、それと断じる基準等が問題なのだが、それはさておくとしても、例えば橋下徹における次の二例は、「理性暴走」というよりもむしろ日本の「伝統」を重視している(少なくとも軽視していない)ことの証左ではないか、と考えられる。
 ①橋下徹は5/08に、公務員が国歌(・君が代)を斉唱するのは「当たり前」のこと、「ふつうの感覚」、「理屈じゃない」と発言している。
 ②橋下徹は大阪府知事時代の最後の時期、昨年秋の、大阪護国神社秋季例大祭の日に(知事として)同神社に参拝している。
 推測にはなるが、上の②は、大阪府出身の、「国家のために」死んだ(そして同神社の祭祀の対象になっている)人々を「慰霊する」(とさしあたり表現しておく)のは大阪府知事としての仕事・「責務」でもあると橋下は考えたのではないかと思われる。
 これらのどこに「理性暴走の傾向」が
あるのだろうか。月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は、何らかの機会に回答してほしいものだ。
 なお、この欄で既述のとおり、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの八木秀次は、隔週刊サピオ5/09・16号の中で、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 八木秀次のあらゆる議論を支持するのではないが、上の指摘は、適菜収や月刊正論編集部とはまるで異なり、素直で的確な感覚を示していると思われる。
 第六。そもそも、「保守」か否かの基準として、「伝統」重視か「理性」重視(「理性暴走」)かをまず提示する、という(適菜ではなく)月刊正論「編集者」の考え方自体が正しくはない、と考えられる。
 上でも少し触れたように、この基準は明確で具体的なものになりえない。
 「保守主義の父」とか言われるE・バークもこうした旨を説いたようだが、私の理解では、上のような<態度>・<姿勢>という一種の<思考方法>ではなく、バークは、その結果としての<価値>に着目している。つまり、フランス革命によって生じた「価値」(の変化)の中身にバークは嫌悪感を持ったのであり、たんに「ラディカルさ」・「急激な変化」を批判したのではない、と言うべきだと思っている。
 「保守」か否かは、第一義的には、「伝統」か「理性」かといった<思考方法>のレベルでの対立ではないだろう、と思われる。
 E・バークの時代には、まだ「共産主義」思想は確立していなかった(マルクスらの「共産党宣言」は1848年)。従って、余計ながら、いくらバークを「勉強」しても、今日における「保守」主義の意味・存在意義を十分には明らかにすることはできないだろう。
 この問題は、「保守」という概念の理解にかかわる。月刊正論編集部がいかなる「保守主義」観をもっているのかきわめて疑わしいと感じているのだが、この問題には、何度でも今後言及するだろう。
 なお、関連して触れておくが、月刊正論編集部が「保守」の論客だと間違いなく認定していると思われる中西輝政は、月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)の中の橋下への「公開質問状」特集の中で、「私は橋下徹氏の率いる『大阪維新の会』が唱える政策の殆どに賛成である」と明記し、橋下の「中国観」についてのみ質問する文章を書いている(p.106-7)。
 どう読んでも中西輝政が橋下徹を「保守ではない」と見なしているとは思えないのだが、中西の橋下徹観が誤っており、橋下は「保守ではない!」「きわめて危険な政治家」だと言うのならば、月刊正論編集長・桑原聡は、末尾の編集長コラム頁に書くなりして、中西輝政を「たしなめる」ことをしてみたらどうか。 
 いずれにせよ、上に六つ並べたように、月刊正論編集部はどこか<異常>なのではないか。今回言及した以外にもある。月刊正論6月号の上記冒頭の欄についてはもう一度言及する。

1116/憲法・「勤労の義務」と自民党憲法改正草案。

 〇憲法や諸法律の<性格>について、必ずしも多くの人が、適確な素養・知識をもっているわけではない。
 憲法についての、「最高法規」あるいは<最も重要な法>・<成文法のうち国家にとって重要な事項を定めたもの>といった理解は、例えばだが、必ずしも適切なものではない。
 また、憲法に違反する法律や国家行為はただちに無効とは必ずしもいえない(そのように表向きは書いてある現憲法の規定もあるが)。そして、国民間(民間内部)の紛争・問題について、憲法が直接に適用されるわけでも必ずしもない。これらのことは、おそらく国民の一般教養にはなっていないだろう。
 塩野七生・日本人へ/リーダー篇(文春新書、2010)は「法律と律法」について語り(p.42-)、憲法はこれらのうちいずれと位置づけるのかといった議論をしているが、ボイントを衝いてはいないように思われる。失礼ながら、素人の悲しさ、というものがある。
 保守系の論者の中に、現憲法は国民の権利や自由に関する条項が多すぎ、それに比べて「義務」(・責務)に関する規定が少なすぎる、との感想・意見を述べる者もいる。櫻井よしこもたしか、そのような旨をどこかに書いていた。
 宮崎哲弥週刊文春5/17号の連載コラムの中で、「憲法の眼目は政府や地方自治体など統治権力の制限にあり、従って一般国民に憲法に守る義務はない」と一〇年近く主張してきたと書いている。この主張は基本的な部分では適切だ。
 もっとも、憲法の拘束をうける「統治権力」の範囲は、少なくとも一部は、実質的には「民間」部門へも拡大されていて、その境界が問題になっている(直接適用か間接適用かが相対的になっている)。
 上の点はともあれ、国家(統治権力)を拘束することが憲法の「眼目」であるかぎり、<国民の義務>が憲法の主要な関心にはならないことは自明のことで、「義務」条項が少なすぎるとの現憲法に対する疑問・批判は、当たっているようでいて、じつは憲法の基本的な性格の理解が不十分な部分があると言えるだろう。
 〇その宮崎哲弥の文章の中に、面白い指摘がある。この欄ですでに言及した可能性がひょっとしてなくはないが、宮崎は、現憲法27条の国民の「勤労の権利」と「勤労の義務」の規定はいかがわしく、「近代憲法から逸脱した、むしろ社会主義的憲法に近い」と指摘している。宮崎によると、八木秀次は27条を「スターリン憲法に倣ったもの」と断じているらしい(p.135)。
 現憲法24条あたりには、「個人」と「両性の平等」はあるが「家族」という語はない。上の27条とともに、現憲法の規定の中には、自由主義(資本主義)諸国の憲法としては<行きすぎた>部分があることに十分に留意すべきだろう。
 自民党の憲法改正草案の現憲法27条対応条項を見てみると(同じく27条)、何と「義務を負ふ」が「義務を負う」に改められているだけで、ちゃんと「勤労の義務」を残している(同条1項)。
 もともとこの憲法上の「勤労の権利・義務」規定がいかなる具体的な法的意味をもちうるかは問題だが、<社会主義>的だったり、<スターリン憲法>的だとすれば、このような条項は削除するのが望ましいのではないか。
 旧ソ連や北朝鮮のように<労働の義務>が国家によって課され、国家インフラ等の建設等のための労働力の無償提供が、こんな憲法条項によって正当化されては困る(具体化する法律が制定されるだろうが、そのような法律の基本理念などとして持ち出されては困る)。また、女性の子育て放棄を伴う<外で働け(働きたい)症候群>がさらに蔓延するのも―この点は議論があるだろうが―困る。
 自民党の憲法改正意欲は、九条関係部分や前文等を別とすれば、なお相当に微温的だ。<親社会主義>な部分、<非・日本>的部分は、憲法改正に際して、すっぱりと削除しておいた方がよい。

0997/中川八洋・国が滅びる(徳間書店、1997)の「教育」篇。

 一 たしか西尾幹二が書いていたところによると、日本の「社会学」は圧倒的にマルクス主義の影響下にあるらしい。歴史学(とくに日本近現代史)も同様と見られるが、「教育学」もまた<左翼>・マルクス主義によって強く支配されていることは、月刊諸君!、月刊正論に<革新幻想の…>を連載している竹内洋によっても指摘されている。戦後当初の東京大学教育学部の「赤い」3Mとかにも論及があったが振りかえらない。狭義の「文学畑」ではない<文学部>分野および<教育学部>分野には(にも?)、広くマルクス主義(とその亜流)は浸透しているわけだ。
 二 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)p.48-によると、日本の「狂った学校教育」は、①「反日」教育、②「人権」教育(「人間の高貴性や道徳」の否定)、③「平等」教育(「勤勉や努力」の否定・「卑しい嫉妬心」の正当化)、を意味する。

 生存・労働権を中核とする「人権」のドグマは人間を「動物視」・「奴隷視」する考えを基底にもち、ロシア革命後にも人間の「ロボット」改造化が処刑の恐怖(テロル)のもとで進められた。さらに、「人権」のドグマは、①地球上の人間を平等に扱うがゆえに「民族固有の歴史・伝統・祖先」をもつことを否定し、②「善悪(正邪)の峻別を原点とする道徳律や自生的な社会規範」を否定する(p.50-52)。

 ①の魔毒は「反日キャンペーン」となり、日本国民ではなく「地球人」・「地球市民」に子供たちを改造しようとする。②の魔毒は「生存」の絶対視を前提として「どんな悪逆な殺人者に対する死刑の制度」も許さず、殺された被害者は「すでに生存していない」ので「人権」の対象から除外される。「人権」派弁護士とは生存する犯罪者に動物的「生存」を享受させようとする「人格破綻者」だ(p.52-53)。

 かかる「教育」論に影響を与えている第一はルソーの、とくに『エミール』だ。日本の教育学部で50年以上もこれを必読文献としている狂気は「日本共産化革命」を目的としている。ルソーは、『社会契約論』により目指した全体主義体制を支える人間を改造人間=ロボットにせんとするマニュアルを示すためにこれを執筆した。ルソーは『人間不平等起源論』に見られるように「動物や未開人」を人間の理想とするので、『エミール』を学んだ教師は生徒を精神の「高貴性」・高い「道徳観」をもたない「動物並み」に降下させる(p.55-59)。

 第二はスペンサーで、その著『教育論』は「人間と動物に共通する」普遍の教育原理を追求し、人間を野生化させる「自然主義・放任主義」を是とし、「道徳律の鍛錬」や「倫理的人間のへ陶冶」を徹底的に排除した(p.59-60)。

 第三は戦後日本教育を攪乱したデューイで、スペンサーの熱烈な継承者、実際の実験者だった。

 これら三大「悪の教育論」を排斥しないと、日本の教育は健全化しない(p.60)。

 以上は、中川八洋の上掲書の「Ⅰ・教育」のごく一部。
 三 八木秀次「骨抜きにされる教育基本法改正」(月刊正論3月号(産経)p.40-41)は安倍内閣時の教育基本法改正にもかかわらず、教育実態は変わらないか却って悪くなっていると嘆いているが、教育「再生」のためには、多数の教師が学んできた戦後日本の「教育学」・「教育」理論そのもの、そしてそれを支えた(中川八洋の指摘が正しいとすれば)ルソー、デューイらの教育「理論」にさかのぼって、批判的に検討する必要もあると強く感じられる。教育基本法という法律の改正程度で「左翼」・「反日」(<「国際」化)教育が死に絶えることはありえない。 

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0992/もはや解散・総選挙以外にない+渡部昇一の妄論。

 〇「もはや解散・総選挙以外にない」-遠藤浩一・産経新聞3/02正論欄。なお、この人は法学部出身。

 〇とりあえずごく簡単に書いておく-渡部昇一監修・日本は憲法で滅びる(総和社、2011.02)の「はじめに」を渡部昇一が書いていて、日本国憲法は「占領対策基本法」で憲法としては「無効」なので「無効宣言」をすべし、というこれまでもいろいろな所で書いてきている妄論を主張している(「憲法改正」反対論の一種。p.3)。

 たんなる渡部個人の著・論考ならまだよいが、「憲法」をタイトルに打った本の監修者の「はじめに」となると、座視できない。

 日本国憲法「無効」論については渡部昇一以外の者の詳論も読んで検討したことがある(今回は急いでいるのでかつてのエントリーへのリンク省略)。結論は、「無効論」に値せず(「無効」概念の誤用がある)かつ<憲法改正>または<自主憲法の新制定>を遅らせるだけの、議論の混乱を招くだけの妄論だ、ということだった。

 「無効宣言」すべしとする一部の論者に尋ねたいが、その宣言主体はいったいどの国家機関なのか(あるいはどのような手続を経てどの国家機関が行うのか)? 「国会」とする論者もあるようだが、渡部昇一は上の「はじめに」で、「その手続は意外と簡単」だなどと空論を述べ、「日本政府」がとにかく一度でも「無効宣言」すればよい、と説く(p.3、p.5)。

 そこで渡部昇一に一つだけ尋ねる。「日本政府」とはいったい何か。国会も含めて広く統治機構を「政府」と称する語法もあるが、現憲法(および大日本帝国憲法)の概念だと「内閣」をおそらく想定しているのだろう。そうでないと、漠然と「日本政府」と言うだけでは国家機関を特定したことにはならない。あるいは渡部は緻密に思考していないので、内閣を代表する内閣総理大臣を念頭に置いているのだろうか。その場合でも以下の論旨は同じ。

 しかして、渡部昇一のいう「日本政府」=「内閣」(または内閣総理大臣)は旧憲法上のものか、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」上のものか??

 前者はすでに存在していない、と認識するのが(規範論としても現実論としても)妥当だろうと思われる。

 後者だとして、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」にもとづく、かつそのもとで制定されてきた法律(「内閣法」)によっても構成されてきた内閣(または代表・内閣総理大臣)に、自らを生んだ日本国憲法=「占領対策基本法」を「無効」と判断し「宣言する」権限はあるのか??。自らの祖先を殺すようなもので、こういうことを平気で述べる著名な<保守>論客が存在すること自体が、悲痛な想いにさせる。

 「国会」を「無効宣言」の主体と考えても、同じことがいえる。衆議院と参議院から成る国会は日本国憲法のもとでの国家機関で、日本国憲法が生み出したものだ(旧憲法では構成も異なる「帝国議会」)。

 渡部昇一は、「日本政府」なのものの意味をより明確にするとともに(日本国憲法には前文を除き「政府」概念はない。旧憲法でも同じ)、その国家機関を「法的に」生み出した出所を明らかにされたい。

 占領下において、日本国憲法を上回る超憲法的な「権力」があり、諸施策が行われたことを否定はしない。現憲法が禁止する「検閲」はあったし、超憲法・超法規的に公職追放等もなされた。

 だが、そのようなことは、現在における日本国憲法「無効」論の根拠にはならない。

 不思議に思うのだが、渡部昇一の「はじめに」以外は未読だが、各執筆者のうち南出喜久治を除いて、その他の者は、例えば西尾幹二も(現憲法下の法制のもとでの)「法曹」資格ある稲田朋美も法学部出身の遠藤浩一も、監修者・渡部昇一の日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論に与しているのだろうか??

 一見新鮮なようでいてじつは無駄な議論だと、南出以外の者は感じていないのだろうか?

 そのように一致しているとは思えない主張を、監修者たる資格で渡部昇一はよくも堂々と書けたものだと思う。

 このような者が、<保守>の代表的な論者とされているのかと思うと、日本の将来に、やはり暗澹たる思いがする。かかる妄論が一冊の初めに堂々と主張されているようでは、「九条の会」参集者も、渡部昇一のいう「憲法を食い物にする敗戦利得者」=現在の日本の憲法学者(憲法研究者)のほとんども、せせら嗤って、何ら痛痒を感じないだろう。

 百地章、西修、稲田朋美、ついでに八木秀次らは、渡部昇一という名前に怯む?ことなく、日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論を批判すべきだ。こんな「はじめに」をもつ、<憲法>をテーマとするがごとき書物が<保守>派によって刊行されてよいのか? 百地、西、八木に学者としての「良心」はあるのか?

 以上述べたことは、個別の各論考にかかわるものではない。

 これまでこの欄でほとんど渡部昇一の本・主張を採り上げなかったのは、渡部が日本国憲法「無効」論にだらしもなく影響をうけていることが明瞭だったからでもある。誰か、勇気のある者は、退場勧告をつき突けた方が(日本の将来のためにも)よい。

0876/佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」(月刊正論6月号)読了。

 〇4月某日、表現者第29号(ジョルダン、2010.03)の中の、西田昌司=佐伯啓思=柴山桂太=黒宮一太=西部邁「市場論-資本主義による国民精神の砂漠化」を読了。
 4月某日、同上の中の、西田昌司=佐伯啓思=柴山桂太=黒宮一太=西部邁「議会論-『チルドレン』による『討論の絶滅』」を読了。
 いずれも座談会記録だが、ふつうの論文的文章に比べて、却って読みにくく、理解がし難い面がある。ほとんど未読の、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(ジョルダン、2010.03)もきっとそうだろう。
 〇5月某日、佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」月刊正論6月号(産経、2010.05)を読了。月刊正論のこの号では最初に読んだ。計16頁で長い。
 簡単にまとめられるわけがないが、佐伯啓思の主張・見解のほとんどはよく理解できる。こういう言い方が不遜ならば、とても参考になる。
 「親米」でも「反米」でもあるし、どちらでもない、という表現も(p.94~)、よく分かる。かつて八木秀次は<保守>論者を「親米」と「反米」とに分けた図表を作っていたが(この欄で言及したことがある)、そのように簡単にはグループ化できないだろう(八木は「親米」派のつもりで自分を西尾幹二と区別したかったのかもしれない)。議論は<多層的、複層的>なのだ。「幾層かにわけて論じられねばならない」(p.93)。
 だが第一に、佐伯啓思に限られないが(西部邁も似たことを言っているが)、<冷戦は終わった>という前提で議論されていることには、きわめて大きな疑問をもつ(p.88には「一応の冷戦終結」との表現が一箇所あるが、他の部分では「一応の」という限定はない)。佐伯啓思に関係して、同旨のことは既に書いたことがある。
 なるほど欧州では対ソ連との間の<冷戦>は終わったのかもしれない(それでも拡大されたNATOがあることの意味を日本国民はよく理解すべきだ)。しかし、中国・北朝鮮との間での日本の<冷戦>はまだ続いているし、その真っ只中にある、と考えるべきだ。まだ日本(とアメリカ)は勝利していない。敗北する可能性すらある。
 したがって、佐伯啓思には、アメリカに問題点、批判されるべき(追従すべきではない)点があるのは分かるが、中国(共産党)・北朝鮮(労働党)の現状をもっと批判してほしい。
 第二に、思想家・佐伯啓思に期待しても無理なのだろうが、「まずこのディレンマを自覚すること」との結論(p.95)だけでは、実際には一種の精神論だけで、ほとんど役に立たない可能性もある。
 佐伯啓思の複層的な思考と叙述は魅力的だが、例えば、7月参院選に関してどう行動すべきかは、佐伯啓思の文章をいくら読んでも分からないだろう。
 行動あるいは政治的戦略の前にまずは「保守」の意味・立場・考え方を明確にしておくべきとの前提的主張は、そのとおりではあるのだが、具体的な成果がすぐには出にくいことはたしかだろう。
 それに、私はよく理解できたと書いてしまったが、佐伯啓思の議論に従いていける<知的大衆>はどれほどいるだろうか、という懸念もなくはない。いわゆる<保守>派にも(「左翼」と同様に)狂信的・狂熱的な者たちがいそうだ。そういう人たちは佐伯啓思の本・文章を読もうとしないか、または読んでも(失礼ながら)ほとんど理解できないのではないか。
 2008年2月の佐伯啓思・日本の愛国心-序論的考察(NTT出版)を刊行直後に読んで、何かの賞に値するように思ったが、論壇で大きな話題になることなく終わってしまったようだ。そういう意味では佐伯啓思は不当に扱われており(不遇であり)、もっと多くの人にその著書等は読まれてよいと感じている。それを阻んでいるのが、佐伯啓思の本等を書評欄等で絶対に取り上げたりはしない、朝日新聞等の「左翼」マスメディアであるのだが。

0842/最高裁判決の「傍論」だから「法的拘束力はない」?-外国人地方参政権問題の一つ。

 外国人(地方)参政権(選挙権)付与法案に関して論議がなされている。その際に、保守系論者・評論家の中から、<外国人地方参政権付与を許容したかのような最高裁判決(平成07.02.28)は傍論でそれを述べたのであり、法的拘束力はない>旨が発言または論述されることがある。
 かかる保守系論者・評論家の発言・叙述には(私は上記の案に反対だが)「ひとこと言っておきたいことがある」(「さだまさし」ふう)。ひとことではなく二言以上になるかもしれない。
 第一。そもそも、最高裁判決の理由中の一文(「傍論」だろうとなかろうと)が「法的拘束力」をもつとはどういう意味をもち、「法的拘束力」をもたないとはどういう意味をもつのか、きちんとわきまえて発言等をしているのだろうか。
 いわゆる東京裁判の「拘束」力についてもかなり近いことが言えるが、そもそも「法的拘束力」をもつ・もたないがいかなる法的意味をもつかを説明できない議論は無意味だ。
 専門的な詳細は知らないが、判決主文の「拘束」力、あるいは判決理由中の(とくに直接に主文に関係する)<争点>に関する記述の「拘束」力の有無や「拘束」を受ける者の範囲等々について、議論があるはずなのだ。
 もともと訴訟および判決は原則としては訴訟当事者の権利義務に関する紛争について提起され、出されるもので、厳密にいえば直接には、訴訟当事者にしか<効力>を及ぼさない。
 <法的拘束力>の有無をうんぬんする論者は<判例としての法的意味>を言っているつもりなのかもしれないが、それにしても判決理由中の叙述がいかなる<判例(理論)としての意味>をもつかは一概に答えられるものではなかろう。
 そして、<判例(理論)としての法的意味>だとしても、<傍論には法的意味(法的拘束力)はない>などと簡単に言い切れない、と考えられる。
 とりあえず<傍論>を主文=結論とは直接には関係のないつぶやき、某のいう「司法のしゃべりすぎ」のようなもの、と理解するとしても、<傍論>は全く無意味というわけではない。ある紛争の発生・訴訟の提起に応じて、結論とは直接に関係なくとも、判決を出す機会に最高裁としての法的見解をついでに述べておくという運用は頻繁ではないが(とくに最高裁では)行われているようだ。対立している下級審判決の統一、行政・立法への警告等の意味をもつこともあるのだろう。 
 某のいう「司法のしゃべりすぎ」は、主文=結論とは直接には関係のない<つぶやき>のすべてを指しているわけでもなかろう。
 傍論中の判示ではあっても<最高裁判例>(最高裁の考え方)として重要な意味をもたされている例もあることを私は知っている。
 第二に、上記の最高裁判決は憲法は外国人に(地方公共団体レベルでも)選挙権を保障していない、憲法上の権利として憲法上付与されるものではない、と言っている。原文はつぎのとおり(下線部は引用者)。
 憲法第三章による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象とするものを除き在留外国人に対しても等しく及ぶが、「憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」。
 上の部分は外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家において、要旨的にでも言及されることが多い。
 だが、あくまで、憲法上は外国人(地方)参政権(選挙権)を保障していない、と述べているにすぎず、憲法は外国人(地方)参政権(選挙権)を<法律によって>付与することを禁止している、とまでは述べていない。
 憲法上付与されてはいないとしつつ、法律で付与することは憲法違反(違憲)になる、とも明言していないのだ。
 上のことを、上のような違いを、保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか。
 そして、<法律で付与することまで憲法が禁止しているわけではない>旨を明言したのが、いわゆる「傍論」部分だ。原文はつぎのとおり(下線は引用者)。
 「憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない」。
 保守系論者・評論家は、憲法レベルと法律レベルでの問題をきちんと分けて論じているだろうか。
 この最高裁判決は小法廷判決だが、裁判官全員一致による文章として、上のように書かれたことの意味は(その当否・評価は別論として)小さくない、と思われる。<傍論だから法的拘束力はない>などと言って切り捨てて無視しようとすることはできないものと思われる。
 むろん、この部分を、特定外国人への(地方)参政権(選挙権)付与賛成論者が、最高裁が積極的に認めているとして援用するのも間違いだ。
 最高裁は法律レベルで、つまり国会による立法政策によって、<特定範囲の>外国人について(「国」政ではなく)<地方公共団体>レベルでの参政権(被選挙権を含めていないと解される)を付与するかどうかを判断できる、と言っている、と理解するのが、日本語文の素直な読み方だろう(繰り返すが、法律で付与しても、逆に法律で付与しなくても、どちらでも違憲ではない、と言っているのだ)。
 以上のようなやや複雑な(といって、さほど理解困難でもない)最高裁判決の論理構造(?)を、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか?
 第三。最高裁判決とは、最高裁判決の「理由」とは(「傍論」かどうかはともあれ)、いったいいかなる機能をもつものなのか。最高裁判決はその「理由」も含めて(少なくとも「傍論」でないかぎりは)、日本国民は金科玉条、高貴で権威あるものとして絶対視しなればならないものなのか?
 そんなことはない。確定したとされる最高裁の判例(理論)ですら、国民は批判することが可能だ。最高裁「判例」を最高裁自身が大法廷によって「変更」することも可能なのだ(追記すれば、最高裁の裁判官というのは、「戦後」の「平和と民主主義」教育―日本国憲法等にもとづく憲法等の教育を含む―のトップ・エリート的「優等生」たちであることを忘れてはいけない)。
 なぜこんなことを書くかというと、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家の最高裁判決への言及の仕方には一種の<ご都合主義>が紛れ込んでいないか、という疑問がある。
 つまり、最高裁判決がいわゆる<傍論>において<保守派>にとって都合のよいことを書いていれば、彼ら<保守派>(といって私も広くは<保守派>のつもりなのだが)の多くは、<最高裁も傍論において(傍論ではあれ)述べているように……>などという言い方をして、自己の主張を正当化するために、最高裁判決の「傍論」を援用し、利用しようとするのではないか? かりにそういうことがあるとすれば、それは<ご都合主義>であり、最高裁判決に対する<ダブル・スタンダード>だ。
 こんな思考方法、議論の仕方としては朝日新聞的な「左翼」が採用するようなことを、まともでまっとうな<保守派>はしてはいけない。
 <傍論だから法的拘束力はない>とのフレーズが気になって書いておこうと思っていたが、思いの外、長くなってしまった。
 八木秀次はもちろん、百地章も、上のようなことをきちんとは書いてくれていないのではないか? だが私としては、上記最高裁判決の読み方も含めて、しごくまともなことを書いたつもりだ。
 上の最高裁判決を前提にしても、法律レベル、つまり立法政策レベルでの議論をきちんとすれはそれで足りる。この次元の問題についてはあえて書くまでもないだろう。

0834/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?

 1952年4月発効の日本国との平和条約、いわゆるサンフランシスコ講和条約の11条第一文前段につき、「受諾」=accept したのは「裁判」ではなく「(諸)判決」(judgements)だとの旨を、渡部昇一は強調し続けている。
 月刊正論11月号(産経新聞社、2009)の巻頭、渡部「社会党なき社会党の時代」p.42は、田母神俊雄更迭←村山談話←東京裁判史観と系譜をたどった上で、日本の外務省は平和条約11条の「判決」を「裁判」と混同したため、日本政府・自民党は「卑屈」になった、外務省・小和田恒の国会答弁には「裁判と判決をごっちゃにした致命的な誤り」がある、等と説く。
 渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP、2009)p.149でも同旨を語り、11条の「…の受諾」という「部分の解釈をしっかりしておくことが、日本が独立として起つために不可欠の『知』だと思います」とも述べる。
 月刊ボイス10月号(PHP、2009)の渡部「東アジア共同体は永遠の幻」p.77では、次のようにすら述べる。
 「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ。/げんに、『東京裁判を受諾した』ということが強調されるようになる一九八〇年前後から日本の外交は全部ダメになっていく。…」。
 講和(平和)条約11条第一文前段につき、「判決の受諾か、裁判の受諾か」を問題にする渡部昇一の問題意識とその結論的叙述は適切なのか?
 なるほど「裁判」ではなく「諸判決」の方がより適切な訳語であるように思われる。だが、そのことで、いったい何が変わるというのか?
 かねて、かかる疑問を持ってきた。だが、櫻井よしこも-渡部昇一の影響を受けてだろう-、とくに「左翼」による日本国・東京裁判「肯定」説に対して、「裁判」ではなく「判決」にすぎない旨を言って反論しているのを読んだことがある。
 また、法学者であるはずの八木秀次も、上のPHPの鼎談本の中で、渡部昇一の言い分をそのまま聞いていて、疑問を発しようともしていない。
 渡部昇一は①いかに「裁判」と「判決」を定義しているのだろう? いちおう別だが、重なり合うところの多い概念ではないか? あるいは、渡部昇一は②「判決」を判決「主文」のことだと誤解しているのではないか? 「判決」は「主文」と「理由」(・「事実」)から成り立っていることを知ったうえで語っているのだろうか?(かつては「主文」・「事実」・「理由」の三分だったが、後二者は「事実及び理由」に括られるようになっている-正確な叙述は別の機会に行ってみよう)。
 上の②の疑問からして、「裁判」と理解すれば、「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづける」が、「(諸)判決」と理解すれば「誤った事実認定に基づく不正確な決め付け」から免れる、などと簡単に言えるはずはない、と考えられる。
 また、上の①の疑問を基礎づけうるある法律用語辞典による「裁判」と「判決」の説明も、紹介したことがある(この欄の10/19)。再掲する。
 以下、有斐閣・法律用語辞典(第三版)による。それぞれ全文。
 「裁判」=「通常は、司法機関である裁判所又は裁判官が具体的事件についてする公権的な判断。訴訟事件の本案に関する判断はもとより、訴訟に付随しこれから派生する事項についての判断も含まれる。判決、決定及び命令の三種類がある。なお、両議院がその議員の資格に関する争訟について判断する場合及び弾劾裁判所が判断する場合にも、裁判という語が用いられる。」
 「判決」=「(1)民事訴訟法上、原則として口頭弁論に基づき裁判所がする裁判で、特別の場合を除き法定の事項を記載する文書(判決書)に基づく言渡しによって効力を生ずるもの。①確認判決、給付判決、形成判決、②終局判決、中間判決、③本案判決、訴訟判決、④全部判決、一部判決、追加判決等と講学上分類される。(2)刑事訴訟法上は、特別の場合を除き口頭弁論に基づいて裁判所がする裁判で、公判廷で宣告によって告知されるもの。すべて終局裁判である。」
 再度いうが、「裁判」ではなく「(諸)判決」と理解して(訳して)、いったいどういう違いが出てくるのか??
 <保守>の代表的論客の指摘だからといってつねに適切だとは限らない。上の問題を疑問視する<保守>知識人がいないようであることこそ奇妙というべきだ。
 渡部昇一は「裁判」(trial、tribunal)と「判決」(judgement)の違いに関する<英文学者>としての何らかの根拠をもっているのかもしれない。だが、その根拠自体がすでに危うい可能性がある。英米語(とくにアメリカ語)でも、「裁判」と「判決」は上の日本の辞典のようにやはり解されている可能性が高い。また、より適切に議論するためには<英米法>学者の知識も必要だろう。「裁判」・「判決」区別論には、あらためて論及する。   

0813/竹田恒泰は安易に「真正保守」と語ることなかれ。

 月刊正論11月号(産経新聞社)に竹田恒泰による渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP)の書評がある(p.332-3)。
 この本は未読だし、内容は問題にしない。だが、気になることがある。
 竹田恒泰は、渡部昇一・金美齢・八木秀次という三人の著者(対談者?)のこの本につき、「…真正保守の立場から緻密に検証を加えている」と書く(p.332)。
 「本書は、日本の保守はどのようにあるべきかの指針を与えてくれる」(p.333)というのは過大なリップサービスくらいに理解しておけばよいだろうが、<真正保守>という語を上のように簡単に用いるべきではない。
 竹田恒泰は自らを<真正保守>と考えている(又はそれを志向している)のかもしれないが、その前に、どこかで<真正保守>なるものの意味、似非・不真正の<保守>との違いを明瞭にしておいてもらいたいものだ。
 皇室に関するかつての議論からして、竹田は西尾幹二は<真正保守>だとは見なしていないかもしれない。
 では、三人の一人、八木秀次は<真正保守>なのか?、という疑問がある。八木秀次が<真正保守>であるとして、そのような者が、皇太子妃の宮中祭祀忌避を事実だと断定して(又は強く推定して)、そのことを理由として現皇太子の皇位就任適格を疑問視するような皇室典範の解釈を示したりするのだろうか。
 現皇太子妃を理由として現皇太子の皇位就任適格を疑う者が<真正保守>なのか?
 竹田恒泰は、八木秀次の<保守>論者としての底の浅さに気づいてもいないのではないか? 竹田恒泰のために、余計ながら、かついかほどの効果があるかも自信がないままに、ご助言申し上げる。
 なお、既述だが、渡部昇一がサンフランシスコ講和条約の一部の解釈につき、東京「裁判」ではなく「諸判決」だとまだ繰り返し主張しているのは(櫻井よしこもこれの影響を受けている)、「遵守」対象批判としては必ずしも的確ではなく、有効性に欠ける(なお、文献または記事を明記できないが、坂元一哉も何かの文章の中で私と同様に「裁判」か「諸判決」かの違いを軽視-または無視-していた)。
 また、渡部昇一は日本国憲法「無効」論の影響をうけ、それを支持しているようでもある。
 かりに渡部昇一が<真正保守>だとしても(私はこの人のものを多数は読んでいない)、そのことが、この人のすべての主張・見解の正しさ・適確さを保障するものでは全くない。念のため。

0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。

 〇たぶん7月中に、水島総(作画・前田俊夫)・1937南京の真実(飛鳥新社、2008.12)を読了。
 〇1.小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)は一件を除いて最近三年間の『わしズム』の巻頭コラムをまとめたもので、既読のため、あらためてじっくりと読み直す気はない。
 
 但し、第六章「天皇論」とまとめられた三論考は昨日に書いたこととの関係でも気になる。また、①「天皇を政治利用するサヨクとホシュ」(初出2006秋)、②「皇太子が天皇になる日」(初出2009冬)につづく③「天皇論の作法」は、この本が初出(書き下ろし)だ。
 2.上の②は月刊文藝春秋2009年2月号のとくに保阪正康の文章を批判したもの。保阪正康をまともに論評する価値があるとは考えなくなっているが、あえて少し引用すると、「戦前の日本を悪とする蛸壺史観の保阪正康」、「馬鹿じゃないか! そんな妄想ゴシップは女性誌で書け!」、「天皇とは何かが全くわかっていない輩の戯れ言」、「…人格評価に至っては、自分の戦前否定史観に合わせて天皇を選ぶつもりかと、怒りを覚える」。とこんな調子だ。
 この論考の主眼は、「徳があるか否かが皇位継承の条件にはならない」、ということだろう(p.209)。
 さらには、「今上陛下が特に祭祀に熱心であるのは有名だが、皇太子殿下もその際には立派に陪席されているという。〔妃殿下への言及を省略するが-秋月〕そうなると皇太子夫妻共に何も問題はないのである」。
 これらに異論はない。次の文章もある。
 「70歳も過ぎた老知識人が、天皇について何ら思想した形跡もなく、大人が読むのであろう雑誌にゴシップ記事を書いていたり、祭祀は創られた伝統だとか、天皇の戦争責任を追及したげな岩波新書がやたら評価を得ていたり、低レベルな天皇観が横行している…」。
 前者は保阪正康、「祭祀は創られた伝統だとか、天皇の戦争責任を追及したげな」岩波新書の著者は原武史だろう。
 3.上を書いたのち小林よしのり・天皇論(ゴーマニズム宣言スペシャル、小学館、2009.06)が刊行された。これもすでに既読(この欄に記したかどうか?)。
 上の③「天皇論の作法」は上の本のあとの文章ということになる。そして、以下の<保守派知識人>批判が印象に残る。
 「日頃『歴史』と『伝統』を保守すべしと主張している保守派の知識人」は(少なくとも一部は)「自分は一般参賀に混じるような低レベルの庶民ではないと思っている。自分のような知的な人間は、天皇を論じるが、敬愛はしないといかにも冷淡である。敬宮殿下(愛子内親王)や悠仁親王殿下のご誕生の時も率直に寿ぐ様子がない。自分は庶民より上の存在だと思っている。庶民を馬鹿にしている」。
 「保守を自称する知識人たちとて、しょせんは戦後民主主義のうす甘い蜜を吸いすぎて頽落したカタカナ・サヨクに過ぎない」。皇太子妃・皇太子両殿下をバッシングして「秋篠宮の方がいい」と「言い出すのは、現行憲法の『国民主権』が骨がらみになっていることの証左である。戦後民主主義者=国民主権論者は、世論を誘導して皇位継承順位まで変えられると思っている」(以上、p.215-6)。
 なかなかに聞くべき言葉だと思われる。
 <保守派知識人>の中に「天皇論の作法」をわきまえず、天皇陛下や皇太子殿下(・同妃殿下)を<畏れ多く>感じることのないままに、<対等に>あるいは<民主主義・個人主義>的に論じる又は叙述する者がいることは間違いない。それは、彼らが忌避しているはずの<戦後民主主義>・<国民主権>・<平等原理>が彼らの中にもある程度は浸透してしまっているためだ、と小林とともに言うことは、ある程度はできそうに見える。
 小林よしのりは特定の氏名を記してはいないが、想定されているのは、まず、この本の途中でも批判の対象としている西部邁ではないか。ついで、西尾幹二ではないか(直接に西尾の皇室論を批判する小林の文章を読んだ記憶は今はないのだが)。
 この二人は博識だが、とくに西部はやたら外国の思想(・外国語・原語)に言及する傾向があり、その天皇・皇室観ははっきりしない。西尾幹二は現皇太子殿下等に対して、<上から目線>で説教をしているような印象の文章を書いており、(内容もそうだがこの点でも)違和感をもつ。私を含む<庶民>の多くもそうではないか。
 この二人は自らを<庶民>とは考えていないだろう。あるいは<庶民>の中の<特別の>存在とでも思っているだろう。
 他に、小林よしのりが想定しているかは不明だが、実質的には、昨年の月刊諸君!7月号における中西輝政や八木秀次も挙げることができる。
 中西自身が「畏れ多きことながら」旨を書いたような、現皇太子妃の皇后適格性を疑問視する言葉を中西輝政は明記した。
 八木秀次は、皇太子妃の「現状」?を理由として現皇太子が天皇に就位すれば宮中祭祀をしなくなると決めつけて(又は推測して)、天皇就位適格性を疑問視し、その方向での現皇室典範の解釈をも示した。
 上の二人の部分は、昨年に書いたことのほとんど繰り返し。
 何度も書いているのは、この二人の発言は必ずや「歴史」に残すべきだと思われるからだ。
 この中西輝政・八木秀次の二人にすら、<戦後民主主義・平等・個人主義>教育の影響が全くないとは言えないだろう。
 なお、前回言及した橋本明は<保守派知識人>とはいえず、共同通信の記者・幹部という経歴からすると、むしろ「左翼」心情性が疑われる。

0737/自由社・日本人の歴史教科書(2009)を一瞥-「市民革命」・「全体主義」。

 藤岡信勝編集代表・日本人の歴史教科書(自由社、2009.05)に収録されている最新版<新しい歴史教科書>(中学校用)の近現代部分を概読して、とりあえず印象に残ったことが二つあった。
 一つは、「市民革命」に関する叙述が、従来のもの、つまり私が学習した頃と何ら異ならないようであることだ。
 上の教科書では、17世紀後半から約100年間に欧州政治に新しい動きが起こったとし、イギリス、アメリカ、フランスについて述べたあとこう書く。「これら国々の政治の動きは、王や貴族の政治独占を認めず、人々が平等な市民(国民)として活動する社会をめざし、近代国家を生み出したので、市民革命とよばれている」(p.130、太字はママ。執筆者不明)。
 ここには「フランス革命」は「革命」ではなく支配層の中での権力の移動だった等々の<修正主義>の影響はない。のちのロシア革命(暴力革命)と共産党独裁につながるような「フランス革命」の一時期の<怖さ>、「フランス革命」の<影>の部分への言及又は示唆もない(のちのロシア革命についてはある)。
 アメリカの独立と合邦との間の理念の違いへの言及もなく、アメリカ「革命」とフランス「革命」が異なる性質のものだったとの言及・示唆もない。
 「市民革命」の「市民」の意味の詳しい説明はない。また、上の三国にのみ「市民革命」は起こったのか(そうだとすれば何故か)、他の国々も「市民革命」はあったのか=普遍的なのか(そうだとすれば、例えばドイツ・イタリア・日本はいつが「市民革命」だったのか)、といった疑問に答えてくれるところはなさそうだ。
 中学生用の簡潔な叙述なので、やむをえない、と言えるのだろうか。少なくとも、イギリス、アメリカ、フランスを例として「市民革命」を語るのは、何ら「新しい」ものではなく、かつ従来のマルクス主義的歴史学による理解・叙述と何ら矛盾していない。
 もう一つは、欧州で生まれた二つの政治思想が1920~30年代に台頭して世界に広まったとし、その二つとして①「共産主義」と②「ファシズム」を挙げて、「どちらも全体主義の一種」だと明記していることだ。その部分の項の見出しは「二つの全体主義」で、左欄には「20世紀の歴史を動かした共産主義とファシズムにはどのような特徴と共通点があったのだろうか」という文章もある(p.192)。
 このように①「共産主義」と②「ファシズム」が同種のものとして明記されていることに、よい意味で驚いた。かかる理解は、必ずしも日本人の「通念」になっているとは思えないからだ。
 かつて民社党は左翼全体主義(=共産主義)・右翼全体主義(=ファシズム)という言い方をしていたと思われる。だが、日本の戦後「思想」界・「歴史学」界等々で、かかる理解は少数派ではなかったかと思われる。
 外国では、ハイエクやハンナ・アレントなど、「共産主義」と「ファシズム(とくにナチズム)」を同列のものと扱う傾向が日本におけるよりも強かっただろう。
 日本では、例えば丸山真男は(あるいは「戦後民主主義」者のほとんど全てが)「民主主義」と「ファシズム(・日本軍国主義)」を対置させたが、その際、「民主主義」の中に、「人民民主主義」という言葉が今でも残るように、「民主主義」の徹底した形態又は発展形態としての「社会主義(・共産主義)」を含めていたように解される。
 そのような日本の戦後<進歩的文化人>にとって、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」が「どちらも全体主義の一種」などという理解は耐えられるものではなく、「全体主義」という語を使うとしても、「ファシズム(・日本軍国主義)」のみを意味させたものと思われる。
 そして、彼らにとっては、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」は両極にあって対立しているものであった。後者の<復活の阻止>こそが最大目標だった(そして「民主主義」の擁護・徹底による日本の「社会主義(・共産主義)」化こそが<隠された>目標だった)のだ。
 丸山真男に対して、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」のどちらを選ぶかという<究極の>選択を要求すれば、丸山真男は間違いなく後者ではなく前者を選んだと思われる。丸山には、「社会主義(・共産主義)」も「ファシズム(・日本軍国主義)」も<同じ全体主義>などという考えは、露も浮かばなかったのではないか。
 「民主主義」対「ファシズム(・日本軍国主義)」というあの戦争の把握の仕方はアメリカ・GHQのものであり、丸山真男および戦後<進歩的文化人>は占領期当初のアメリカ・GHQの「歴史認識」あるいは<パラダイム>に少なくとも客観的には<迎合>していたと考えられるが、この点は別の回でもあらためて触れる。
 ともあれ、「二つの全体主義」とかつて学習した記憶はなく、「新し」さを感じさせた。これで教科書検定を合格するのだから、決して悪い方向にばかり動いてはいない、という感もする。
 ところで、上掲書には教科書部分のほか、寛仁親王殿下のほかに、櫻井よしこ・加瀬英明・高山正之・黄文雄・西尾幹二・中西輝政・石平等々の15名の2頁ずつの文章を収載している。
 <新しい教科書をつくる会>分裂騒ぎに関する知識も大きな関心もないが、「自由社」版の他に産経新聞社グループの「扶桑社」の子会社「育鵬社」版の、殆んどか全くか同じの教科書も刊行されているらしい。
 上の15名の名前を見ていると、八木秀次、渡部昇一、岡崎久彦あたりの名前がないことに気づく。西尾幹二と八木秀次の間に確執があるのは知っているので、どうやら八木秀次らが「育鵬社」グループらしい(屋山太郎は?)。
 だが、15名の名前の連なりはなかなか重厚だ。いわゆる<保守派>というのがあるとすれば、八木秀次らのグループはその中の少数派なのではないか。そうだとすると、八木秀次と渡部昇一の二人への信頼度は私には相対的には上の15名の平均よりずっと低いので、悪い印象ではない。些末なことながら。

0717/月刊正論6月号(産経)・西尾幹二論考における天皇条項論、稲田朋美等。

 一 稲田朋美は、渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)のp.207-8で、現憲法1条の「象徴天皇」は「成文憲法以前の不文の憲法として確立していると見なすべき」として、憲法改正の限界を超える(改正できない)と主張する(この本については、昨年に言及したことがある。但し、上の点には言及しなかった筈だ)。
 また、稲田は同書p.209で、現皇室典範(法律)1条が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めていることに注目し、ここでの「皇統に属する…」は2条以下の「皇族」に限られないとして、現在「皇族」でなくとも、「皇統に属」しているかぎりは皇位の継承資格がある(したがって、現在の法律上では「皇族」でなくとも「皇統に属する男系の男子」が存在するかぎりは皇位継承者も存在し、皇統断絶の懸念又は皇位継承者欠如の問題は生じない)旨を主張する。
 これらは憲法問題でもあるが、憲法学者であるはずの八木秀次は稲田朋美のこれらの主張に何ら反応していない。
 上の点はともかく、稲田朋美の主張(解釈)はいずれも成り立つ可能性がある。もっと議論されてよいだろう。
 だが、いずれも現在の通説・政府解釈ではないようだ。とくに皇位継承資格者の問題は、それが「皇族」に限られることを前提として、旧宮家一族の皇族籍復活等が論じられてもいる。
 かかる現在の通説・政府解釈を前提にすると、現皇太子・秋篠宮両殿下の下の世代の男子(親王)は悠仁親王しかおられないことをふまえて、「皇族」の範囲を拡大して、皇位継承者・「皇統」の安定的確保の途を早急に検討しなければならないと思われる。この問題は、現皇太子妃殿下に関するあれこれの議論よりもはるかに重要だ。
 二 さて、月刊正論6月号(産経)で八木秀次はご成婚50年記者会見(4/08)での天皇・皇后両陛下のご発言を「誰よりも保守主義を正確に理解されている」とそのままに全面的に尊重・尊敬するコメントを述べている(p.44)。
 結果的には大きな異存はないが、両陛下のご発言はある意味ではきわめて政治的で、あるいは非常によく準備されたものだ、という感想も私は持った。八木秀次ほどには私は単純・素朴ではないのかもしれない。
 また、美智子皇后陛下が「一方で、型のみで残った伝統が社会の発展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」等と「伝統」について述べられた内容はある意味で新鮮であり、ある意味では刺激的でもあった。<保守すべき伝統>というものがあるはずなのだが、<保守>派はどちらかというと日本の<伝統>を丸ごと維持・保守しようという言説・主張に傾きやすかったのではないか。その意味で、皇后陛下が「伝統」の消極的な面・弊害も明言されたことは、注目されてよいと思われる(その内容自体に反論するつもりはない。問題は「社会の進展を阻」む「型のみで残った伝統」とは具体的に何か、になる)。
 三 月刊正論同号西尾幹二論考は、両陛下、とくに天皇陛下の発言を(八木秀次は勿論)私よりも<深く>解釈しているようだ。西尾は、「陛下の…お言葉はじつは相当に政治的であり、政治的役割を果たしておられるとも思います」と書いている。
 天皇陛下のお言葉とは、簡単には、日本国憲法の「象徴」規定に「心を致」す、日本国憲法の天皇条項は「天皇の長い歴史で見た場合、天皇の伝統的な天皇のあり方に沿う」、というものだ。
 西尾幹二は、十分な展開は見られないと思われるが、こうしたご発言を手がかりにして、天皇制度の将来には次の二つの方向があると主張していると見られる(天皇条項改正論でもあると思われる)。この点にも安倍晋三・中曽根康弘による日本「再占領」政策加担・追随論とともに、斬新さがある。
 一つは、政治的責任をより負担する、その点を明文化した「元首」になっていただくことだ。
 いま一つは、「京都にお住居をお移し下さり」、一段と「非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さる」ことだ。
 これらは天皇条項の憲法改正をほとんど不可避的に伴うものと思われる。もっとも、「国」と「日本国民の統合」の「象徴」である旨の現1条を改正する必要はない可能性はあるので、冒頭に記した稲田朋美説と完全に矛盾するわけではないかもしれない。
 憲法改正は必要ではないとしても、前者の方向をとる場合、例えば、天皇の<宮中祭祀>は正式の「国事行為」(現憲法だと7条10号「儀礼を行うこと」)か、少なくとも「公的行為」としてきちんと位置づけられる必要が出てくるだろう(憲法20条と皇室の「神道」の関係についての解釈論の整理も必要だ)。
 後者の方向をとる場合、西尾は言及していないが、現行憲法の大幅な改正が必要になるものと思われる。
 現憲法6条・7条によると、天皇に最終的・形式的な権能があるのは、次のように幅広く、かつ重要なものばかりだ。
 ①内閣総理大臣の任命、②最高裁長官の任命、③法律・政令・条約の公布、④国会の召集、⑤衆議院の解散、⑥総選挙施行の公示、⑦国務大臣等の任免、⑧「全権委任状及び大使及び公使の信任状」の「認証」、⑨外国の大使・公使の「接受」、等々。
 これらの行為は、天皇のお住まいが現在の皇居のように、国会・首相官邸・諸外国大使館等に近い場所にあるからこそ容易にかつ速やかに行うことが可能なものではないか。
 したがって、天皇(・皇后)陛下が京都にお戻りになるということは、まさしく西尾の言葉どおりに、上のような<政治(・外交)>に関わらない、「非政治的存在」に変わることを意味することにほとんどつながるものと考えられる。例えば首相が衆議院解散を決意し記者会見等で公にしても、天皇陛下による正式の(最終的・形式的な)衆議院解散は、かりに天皇陛下が京都におられれば、その後早くても6時間程度は要するのではないか。同じことは、多数あるはずの、法律・政令等の「公布」についても言える(「公布」にはさらに官報掲載が必要な筈だが、その前提として現行憲法上は天皇陛下の御名・御璽が不可欠なのだ)。
 こう見ると、天皇の明確な政治的「元首」化にしても純粋な「非政治的存在」化にしても、憲法条項の具体的内容にかかわるもので、本来、憲法改正論議のなかで丁寧に議論すべきものと思われる。
 そういう問題提起を含んでいるので、西尾幹二は憲法学者・八木秀次よりも<鋭い>し、よく考えていると思わざるをえない。かりに明確な「元首」化を想定せず、「象徴」規定を維持するとしても、憲法が天皇に認める国事行為又は「公的」行為の範囲いかんによって、天皇は現在よりもより政治的にもなりうるし、非政治的にもなりうる。憲法改正をゼロ・ベースから、すなわち「白紙」の出発点から考えるのなら、この点は留意されておくべきだ。
 とは言っても、今後いかほどの熱心な議論が上に示した論点について生じるかは、心もとない。ほとんど現九条二項問題だけに関心が集まる可能性は高い。また、西尾幹二のいう二つの方向(現状のままだと三つの方向)のいずれが適切かについて、既述のこと以外には、述べるほどの私見は現在のところは殆どないというのが率直なところだ。

0688/鷲田小彌太・日本とはどういう国か(五月書房、2002)の一部と「新自由主義」。

 鷲田小彌太・日本とはどういう国か(五月書房、2002)。
 一 ・マルクス主義文献の研究・著作(「マルクス主義学」)で日本は世界一。経済学-河上肇、猪俣都南雄、宇野弘蔵、歴史学-服部之総、石母田正、網野善彦、哲学-福本和夫、三木清、戸坂潤、廣松渉。
 ・しかし、日本には社会主義革命は起こらなかった。すでに日本は「社会主義」だからだ。「隠れマルクス主義者の手で、社会主義者が権力を握り、社会主義になっていた」。
 ・「戦後社会主義日本」の「徹底した民主化」を主張したのが、「丸山真男(政治学)、川島武宜(法社会学)、内田義彦(経済学)ら」で、これらも「隠れマルクス主義者」。
 ・社会主義崩壊・マルクス主義者大没落後も「隠れマルクス主義者」は健在で「不断に社会主義的意識と行動が再生産されている」。(以上、p.328-330)。
 谷沢永一を最後の「師」とする鷲田小彌 8太だから、冗談か遊びかもしれないが、上の二つ目の・のごとく、日本は「社会主義」国だ、と簡単に書いてもらっては困る。松下幸之助の言とやらもあるが、まさか「社会主義」概念を通例のそれとは異なる意味で使っているのではあるまい。
 二 上につづく以下の叙述の方がじつは興味深い(p.331-2)。
 ・20世紀後半、アメリカが世界の文化の中心になった。この傾向は冷戦構造崩壊後にはますます顕著に。
 ・日本はアメリカを追い、「かなりの部門で…追い越した」。これを「アメリカニズムの追従」というなら、「それはベターなことだ」。「脱欧入米」の気分に日本はようやくなったではないか。
 ・「アメリカニズムへの拝跪」と観る者もいるらしい。だが、自国より優れたものをコピーし独自のものに磨き上げるのこそ「日本式(ジャパニズム)」ではないか。アメリカ一般がよいというのでくなく、アメリカ方式の最先端は「コピーするのに足る」。それは「アメリカ方式がグローバルスタンダードになっているもの」だ。
 ・日本の進化も「世界スタンダードをコピーし、それを自家薬籠中にする」努力によるのではないか。「アメリカ文化に対しても同じ態度をとってどこが悪いのか?」。
 ・コピーと「阿諛追従」は違う。(アメリカニズムとは同じではない)グローバルスタンダードを採用すれば「日本の歴史的伝統が破壊されると考えることこそ、日本の文化的伝統に則さない考えではないだろうか?」
 ・「アメリカニズムのコピーはアメリカへの拝跪」で「日本の固有性の放棄」だとの主張は、「攘夷」思想の「現代版」でなければよい、というのが「私の率直な気持ちだ」。
 ・「アメリカニズム=グローバルスタンダードを受け入れることは、自国滅亡への道だ」との説は、「実のところ、日米開戦からはじまり、いまや構造改革の下で崩壊の危機にさらされている日本的国家社会主義の再構築をめざす主張ではないのか?
 以上の鷲田の文章には素朴で楽観的な<親米保守>の匂いがすこぶる強い。むろん書かれた(公刊された)のが2002年だということは考慮しなければならないが、<アメリカニズムの終焉>を語っていた佐伯啓思や、小泉純一郎を「狂気の首相」と称した西尾幹二とは(かりに「保守」で括れても)対極にある。また、サッチャーやレーガンを「保守」の<再興>者の如く称えていた八木秀次に近いと思われる。
 もともと単純な標語的概念で指し示される現実的具体的意味内容のレベルで議論しないと建設的ではない<空中戦>になるのは分かっていることだが、アメリカ産の<新自由主義>(・「新保守主義」)―「反米」になりやすい「左翼」は<ネオリベ>とか<ネオコン>とかとの蔑称?を作っていた―なるものの評価・総括は、日本ではこれらの概念ではなく上に鷲田が用いている「構造改革」とか、「規制緩和」・「民でできるものは民で」とかの標語で示された日本での<改革>の評価・総括ということになるが、重要だし、(とくに「保守系」の)諸論者がどういう立場に立つか、どういう見解をもつか、には関心を持たざるをえない。
 2009年春の現時点では、鷲田小彌太も上のようには書かないのではなかろうか。また、もともと「グローバルスタンダード」か否かとそれが世界各国にとって「最良」か否かとは別の問題だ、という論理的欠陥を鷲田の上の所論は含むようにも見える。
 鷲田は、ひょっとして(あくまで推測で、あるいは結果的にはだが)野口悠紀夫・一九四〇年体制(東洋経済新報社、初版1995)の影響を受けていたのかもしれない。ともあれ、「構造改革」と「日本的国家社会主義(の再構築)」とを鷲田が2002年に対比させていたのは、あまりにも単純だったのではないか。多数の著書を出版しているわりには、必ずしも<学ぶ>対象という意識を持てなかった原因は、こうした点にもあったようだ。このあたりの、つまり<経済政策>の問題についても関心をもって本や論考を読んでいる。

0682/小林よしのりのサピオ3/25号・わしズム2009冬号(小学館)。

 一 サピオ3/25号(小学館)の小林よしのり「天皇論・第四章」計10頁は、月刊文藝春秋2月号の保阪正康「秋篠宮が天皇になる日」の全面批判だ。少しは単純化されているのだろうが、読んでいない保阪の文章の趣旨がよくわかった。小林によると、保阪正康は「『個性』を至上とする戦後民主主義的価値観を無条件に信じ、『ゆとり教育』的な馬鹿げた価値判断で人格評価」をしている。そして、その「人格評価」からすると秋篠宮殿下の方が現皇太子殿下よりも天皇に相応しいと保阪は示唆しているようだ。
 保阪正康は相も変わらず馬鹿なことを書いていると見られる。皇太子とその弟殿下で、皇室・歴史等々に関する発言の内容が異なるのは当たり前ではないか。平板に比較しているようでは、文言実証主義?には即していても、まともな<皇室論>にはならない。
 月刊文藝春秋の最新号でも同誌編集部は「秋篠宮が天皇になる日を書いたわけ」とかを保阪正康に書かせて、原稿料を支払っている(未購入・未読)。(株)文藝春秋はやはりおかしいのではないか。
 月刊諸君!4月号(文藝春秋)の秦郁彦・西尾幹二の対談「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」には「捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか」という惹句が付いていた(表紙・目次・p.76)。
  こうした謳い文句自体、読者大衆の<下世話な興味>を煽るがごときであるし、(株)文藝春秋は田母神俊雄論文は「捨て身の問題提起」か「ただの目立ちたがり」かのいずれの立場にも(公平にも?)立っていない、ということを姑息にもこっそりと表明しているかのごときでもある。
 二 小林よしのりは、同責任編集・わしズム2009冬号(最終号)(小学館)に、「田母神論文を補強、擁護する!」も書いている(p.121~、計13頁。漫画部分はなし)。そこで批判されている人物は、順番に、秦郁彦、保阪正康、ジョン・ダワー、櫻田淳、森本敏、八木秀次、杉山隆男、石破茂、五百旗頭真、麻生太郎、浜田靖一
 ジョン・ダワーは別として、多くは日本の保守・中道派だと見られるが、「左翼」も含まれ、かつ保守・中道派であるような印象を与えている、客観的には「左翼」もいそうだ。少なくとも広義での<保守>は、田母神俊雄論文をめぐって、二つに分裂した。<戦後民主主義>を基本的なところでは疑わない「保守」もいるわけだ。麻生首相・浜田防衛相も、この問題では「左翼」と同じ立場に回った。「左翼」の<体制化>(左翼ファシズムの成立?)を意味し、何度も書くが、怖ろしい。  

0679/福田恆存「私の保守主義観」(1959)を読む。

 福田恆存評論集第五巻(麗澤大学出版会、2008.11)の中に収載されている「私の保守主義観」、初出は「読書人」1959年6月19日号、はたった5頁だが(p.126-)、興味深い。以下、要約又は引用。
 ・私は「保守的」だが「保守主義者」とは考えていない。「保守派」は「保守主義」を「奉じるべきではない」。
 ・「保守派」は眼前の「改革主義」という「敵」を見て自らが「保守派」であることに気づく。「保守主義」はイデオロギーとしては「最初から遅れをとっている」。それは、「本来、消極的、反動的であるべき」ものだ。
 ・「保守派がつねに現状に満足し、現状の維持を欲している」とは、「革新派」の誤解。「保守党」が自分たち支配階級の利害しか考えず、「進歩や改革を欲しない」との「革新派の宣伝」は、日本では「古すぎるし、効果もない」。
 ・「保守派」と「革新派」の差異は、「進歩や改革」を前者はただ「希望する」だけなのに対して、後者は「義務」と心得ることにある。前者における「私的な欲望」は後者において「公的な正義になる」。「進歩」は前者において自然な「現実」・人間活動の「部分」・「手段」だが、後者においては最高の「価値」、生存の「全体」・「目的」になる。
 ・「保守派が合理的でないのは当然」。「進歩や改革」を嫌うのはその「影響や結果に自信がもてないから」。一部の改革が全体の総計に与える不便に関する見通しがつかないから。
 ・「保守派」は「態度によって人を納得させるべきで」、「イデオロギーによって承服させるべきではない」。「保守派が保守主義をふりかざし、それを大義名分としたとき、それは反動になる」。「大義名分」は「改革主義」のもの。
 ・「保守派は無智といわれようと、頑迷といわれようと、まづ素直で正直であればよい。…。常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。
 以上。今や死語になったかの「革新(派)」という語が出てくるなど、時代を感じさせる。だが、「まづ素直で正直で」、「常識に随い」…とは、<左右>を問わない、人の生き方そのものだと思える。無理をする必要はない。イデオロギー闘いを挑み、「左翼」を論難するのも本来は「保守派」ではないかもしれない。
 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)というような問いかけも、少しは肩肘が張りすぎているのかもしれない、と思ったりする。「常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。このくらいの神経を持っていないと、今の時代を精神の安定を保って生きるのはむつかしいのかもしれない。
 ところで、保守又は「保守主義」を論じるとき、イギリスのE・バークはフランス革命に際して…と始める論者も多いように見えるが、福田恆存はその「保守派」の考え方をどのようにして形成したのだろう。バークを読んだから、ではないことは確かなのだが。 

0667/「秋月映二」ではなく「秋月瑛二」。撃論ムック・沖縄とアイヌの真実(2009.02)を一部読む。

 一 西村幸祐責任編集/撃論ムック・沖縄とアイヌの真実(オークラ出版、2009.02)は10日ほど前に入手し、気を惹いたものはすでに読んだ。
 民族問題の特集のようだが、佐藤優批判がいくつか揃っている。若杉大のもの(p.114-)は小林よしのり対「言論封殺魔」佐藤優論争の紹介・整理だが、櫻井よしこ「『国家の罠』における事実誤認」、高森明勅「佐藤優『護憲論』のトリック」(各々p.118-、p.126-)は明らかに佐藤批判だ。
 櫻井よしこによると(初出は2005)、佐藤優の上の本が新潮社・ドキュメント賞の候補作になったとき、事実誤認を理由としてゼロ採点した、という。むしろ興味深いのは高森論考で、佐藤優は、天皇制度擁護のための護憲派なのだ、という。つまり現憲法1~8条改悪(削除)阻止のために「護憲の立場」を採るのが「真の保守」だ、と佐藤優は言っているらしい。
 高森明勅はあれこれと1~8条死守と9条改正は矛盾しない旨等を述べているが、なかなか面白い、聴くべき<護憲論>だ。天皇制度の歴史に無知・無関心の圧倒的多数の国民(主権者)は、皇室に何か大きな不肖事でもあると、もともとひそかに天皇・皇室制度解体を目論んでいる朝日新聞等のマスメディアの煽動しだいでは、天皇は多忙でお気の毒、天皇・皇族にも人権を、皇室に対する国費支出額が大きすぎる、皇居を国民公園に、等々の理屈に納得して天皇制度廃止(憲法1~8条削除)の提案があれば、過半数の賛成票を与えてしまいかねないのではないか、という不安を私はもつ。そのような国会議員の構成にならなければよいのだが…。
 そのような憲法改正に対して私は反対の<護憲>派になるだろう。
 上のように、当たり前のことだが、何をどう変えるかが問題で、一般的な改憲論・護憲論の対立などは存在しない。現在<護憲論>とふつうの場合には言われているものは、憲法9条改正(とくに2項削除)に反対して9条を護持する、という意味での護憲論なわけだ。
 憲法9条改正と憲法1条以下改正と、どちらが先に国会で発議されるか、といった心配をしなければならないことになるとは、情けない。中国(共産党)は究極的には、天皇制度解体を望んでおり、神社神道も邪魔物と感じているだろうということは間違いないと思われる。日本国内には今でも、そのような中国(共産党)に迎合する<売国奴>団体・個人が絶対にいる。
 三浦小太郎「ハーバーマスとその誤読」(p.140-)も、短いが興味深く読んだ。
 二 ところで、「匿名コラム/天気晴朗」(p.179)を読んでいて最後の三段めに入って驚いてしまった。
 「秋月映二というブロガー」が「闘わない八木秀次の蒙昧さと日本共産党・若宮啓文との類似性」というエントリーで八木を「こき下ろしている」、「まさに秋月の言うの通り…」。
 これはこの欄での私の文章のことであるに違いない。私は秋月瑛二で「映二」ではないのだが。上のエントリーは今年1/08のものだ。
 さらにところで、「秋月瑛二」で検索すると-検索サイトによって違い、異様と思える並べ方をするものもあるが-、中身を読まず、冒頭又はタイトルを見ただけだが、①「秋月瑛二」を産経新聞記者と誤解している人がいる。私は産経新聞社とはいっさいの組織的関係がない。②私を「媚東宮派」と呼んでいる者がいる。皇室問題での西尾幹二批判がそのような呼称になっているのだろう。何と呼ぼうと勝手だが、「媚東宮派」という語を使うからには、それとは異なる「派」の存在を想定しているに違いない。それは「反東宮派」だろうか、「親秋篠宮派」だろうか。どちらにせよ、そういう対立を持ち込み、拡大しようとすること自体が、天皇制度の解体につながっていく可能性・危険性を孕んでおり、朝日新聞等の「左翼」が喜んでいそうなことだ、ということくらいは感じてほしいものだ。

0650/闘わない八木秀次の蒙昧さと日本共産党・若宮啓文との類似性(?)。

 一 月刊正論2月号(産経新聞社)の八木秀次コラム(p.42-43)は、かなりの問題性を含む。
 
田母神俊雄論文の発表につき、八木秀次は、①「内容とは次元の異なるところで大いに問題があった」、②「村山談話」が「日本国政府の手足を縛る有効な道具であることを左翼勢力に再認識させた」と批判し、「その意味で、…田母神氏の一連の発言を褒める気にはなれない」と述べる。
 桜田淳森本敏に近い見解だろうか。
 <保守>派の一つのありうる反応なのだろうが、かかる見解はやはりおかしい。批判されるべきだ。
 せっかく温和しくして(刺激的な言動をしないで)国民の信頼も徐々に獲得してきたのに田母神俊雄論文で台無しになった、というかのごとき論調は間違っている、と考える。それに、八木秀次は別の間違いも犯し、無知蒙昧さを明らかにしている。
 二 第一に、八木は、田母神論文の影響で、統合幕僚学校等の「外部講師」の現状が調査され再検討され始めた、という。日本共産党も「外部講師」の人選を調査していた、という。
 だが、「再検討」の是非はともかくとして、統合幕僚学校等の「外部講師」の人選の現状は、日本国民一般に対して明らかにされても原則的には何ら不思議ではないのではないか。
 国公立大学(法人)はもちろん私立大学でも、専任教員の他、どのような非常勤教員が来て教育を担当しているかは、積極的にあるいは問い合わせ・調査があれば受動的にでも、明らかにされているだろうし、明らかに(公開・開示)されるべきだ。
 統合幕僚学校や防衛大学校についても、これらは上記の学校教育法上の学校でないことは承知の上だが、どのような人たちが教師・講師になっているかは、防衛に対する国民の信頼を得るためにも、国民の関心に応えるためにも、国民に公にされてよいものだ(原則的には公開されるべきだ)という見解が十分に成り立つ。
 これが消極的に解されるためには、正規教員や「外部講師」の氏名を明らかにすることが、(間接的にせよとくに中国・北朝鮮という近隣諸国に知られることによって)わが国の防衛(行政)上著しい支障が生じると認められる場合に限られるのではないか。
 自衛隊は国の一組織であり、その内部に置かれる学校についても、(行政機関)情報公開法の精神は及ぶはずだ(行政機関情報公開法=法律は防衛省も適用対象とする。そして「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ……があると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は開示しないことができる(同法5条3号))。
 説明責任といってもよいし、あるいは透明性の問題であるかもしれない。軍事・防衛関係に<秘密>にしておくべき事項があることは当然のことだが、しかし、その対外的<秘密>事項の中に、統合幕僚学校等の「外部講師」の氏名は含まれるのかどうか。いかに「個人情報」だとしても、公金によって講師料を支弁されている者の<プライバシー>の保護は<秘密>性確保の理由にはならないだろう。
 八木秀次は憲法学者の筈だ。だとすれば、以上のような思考をしなければならないのではないか。
 しかるに八木は、共産党・赤旗の記者に自分の「外部講師」歴を問われて(国会に提出された資料中の)特定大学助教授だけでは「わからない」と答えたとし、自分以外のすべての「外部講師」本人が氏名公表に同意したのは「賢明な判断だとは思わない」、と批判している。
 その理由は、八木によると、①「統幕学校での講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」こと、②防衛大臣が「見直しを明言した」こと(「村山談話」の線に沿った講師が選ばれそうなこと)、にあるようだ。
 八木秀次という人は、小粒の、<いじましい>人のように見える。上の①中の「講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」とは、何と情けない文章だろう。<一定の傾向の講師たちで何故いけないのか>と堂々と開き直る(?)べきではないのか? あるいはそもそも「一定の傾向」とは何なのか?(「一定の傾向」について八木は自信・確信を持っているのか。自信・確信があって「一定の傾向」なる語をあえて使うだろうか?)
 また、悪いことをしていたわけでもないのに、日本共産党記者に対して、何故堂々と、自分も「外部講師」だった、とどうして言えないのか?
 そしてそもそも、前述のような、防衛行政を含む国政(・行政)についての説明責任・「情報公開」の要請といった論点は、この人の頭の中には全く存在しないようだ。
 実際の説明責任のとり方・「情報公開」制度の運用について問題が全くないとは思わない。<左翼>がこれらを利用している面は否定できない。しかし、憲法学者ならば、こうした論点があること自体は留意しておくべきではないか。こうした意味で、私は、八木秀次には憲法学者として<無知蒙昧>なところがある、と感じる。
 「外部講師」の人選の見直しの是非はまた別の次元の問題だ。さらに、こうした現状調査や見直しのきっかけを作ったのが田母神俊雄論文の発表だとして八木秀次は批判の根拠としているようだが、これまた別次元の問題だ。「見直し」に問題があるならば、それはそれとして堂々と批判すればよいのではないのか。
 三 第二に、上記とも重複するところがあるが、八木秀次は原因・結果の関係についての理解が<倒錯>しているように見える。
 すなわち八木は、田母神論文は、「村山談話」の有用性を左翼に「再認識」させた、という咎がある、と主張している。しかし、そもそもが左翼勢力が「村山談話」を生み出したのだったし、八木自ら「再認識」と書いているように、その有用性くらい、<左翼勢力>はとっくにご存知なのだ。内閣総理大臣が交代するたびに「村山談話」の継承の有無を問う朝日新聞をはじめとするマスメディアがいる。
 どの程度<左翼的>かは不明だが、1998年の日中共同声明に「村山談話」の「遵守」を盛り込んだ外務官僚もいたのだ(積極的に賛成したのだとすると、首相や外務大臣も「左翼」と称しうる)。
 本当の<保守>派は田母神俊雄の揚げ足取りをするのではなく、第一には「村山談話」をこそ問題にして、それを批判すべきではないのか。より正確には、「かつての一時期」の日本=<侵略国家>という一面的で単純な歴史認識自体を払拭するように各方面で尽力すべきではないのか。
 なお、八木は田母神論文のおかげで「自衛隊を含む政府関係機関の歴史観・国家観は二十年前に逆戻り」だという(コラムのタイトルも「逆戻りする歴史観」になっている)。
 こういう認識を私は持たない。政府関係機関(担当者)の歴史観・国家観をこのように単純に述べることはできないと思うし、かりにこれが正しい指摘だとしても、それは田母神論文が原因なのではなく、「二十年」の間に徐々に進行していた事態なのだと考える。
 四 タイトルに最初に付した「日本共産党・若宮啓文との類似性(?)」について書くのを忘れていた。
 簡単には次のようなことだ。
 1 日本共産党はかつて(1960年代後半~1970年代)、「全共闘」派あるいは<新左翼>の<暴力>を批判する際に、敵(権力)を過激な暴力行為で挑発して治安機構を拡大強化させている、自衛隊の治安出動すら生じさせようとしている、彼らは敵(権力)の「手先」・「別働隊」だ、というようなことを主張していた。
 八木の田母神俊雄批判はこれに少しは似ていないか? 「闘う」者に対して、そんな闘い方をしたら却って「敵」を有利にするだけだ、と八木は田母神俊雄を批判している、と言ってよい。
 2 若宮啓文は、朝日新聞昨年7/21のコラム(風考計)で次のように書いていた。
 日本の学習指導要領「解説書」に教育事項として<竹島は日本の領土>の旨が盛り込まれた。「それにしても、『独島』に寄せる韓国の情念を知りつつ、なぜまた刺激するのか」、「このセンスはどんなものだろう」。
 朝日新聞・若宮啓文お得意の<中国・北朝鮮・韓国を刺激するな>(なぜならかつて侵略又は植民地化した国だから)という見解・方針が露骨に示されている。
 八木秀次の田母神批判は、これに似てはいないか?
 かつての「歴史認識」に関する<左翼>の「情念」を知りつつ、「なぜ…刺激するのか」、刺激しないで(言いたいこと・書きたいことも言わず・書かずにして)おけば、従前どおりの状態でおれたのに、と八木は主張しているようなものではないか? 
 五 八木秀次に大した期待はしていないが、身辺回りのみならず、<大局>を観てもらいたい。

0643/月刊正論2月号(産経、2008.12)を一部読む-花岡信昭・潮匡人・高池勝彦。

 月刊正論2月号(産経、2008.12)。次の順で読んだ。ふつうの人の読み方とは違うかもしれない。
 1 花岡信昭「『朝まで生テレビ』出演者が明かすお茶の間に届かなかった真実」(p.75-)。前々回に書いたことの関心のつづき。録画しておけばよかった。
 自衛隊の憲法上の明記につき、80%が賛成だったとか。だが、「世論は確実に変わりつつある」(p.79)と言ってよいのかどうか。
 田原総一朗が月刊WiLLの中西輝政論文を褒めていたらしい(p.76)。但し、田原は揺れ動いている人だし、具体的メディア・番組・出演者に調子を合わせることができるような人の印象があり、とても<保守>派とは思えない。かつてはいい本も書いていたのだが。
 読んだ順番どおりではないが、ペラペラ捲っていると、「セイコの『朝ナマ』を見た朝は」(p.158-)、中村粲「NHKウォッチング」(p.176-)の初め部分、も上の『朝ナマ』(11/28)を扱っていた。視聴者によって感想・印象点は同じではないのが面白い。
 平沢勝栄を含めて、辻元清美を代表とする国会議員のレベルはひどいものだ。産経本紙でもそうだったが、元自衛隊関係者・森本敏はいったい何を考えているのか。ナマで観ていたとすると精神衛生に悪かったような気もする。
 2 潮匡人「リベラルな俗物たち/高橋哲哉」(p.208-)。高橋哲哉・靖国問題(ちくま新書)は所持していていつか読むつもりだったが、その気が失せた。潮匡人の紹介・分析だと、高橋哲哉とは、哲学者・大学教授の上衣だけを纏った、<左翼・反日>の政治活動家そのものではないか。ここまで<反右派・親北朝鮮>ぶりを明言する知識人?は今や珍しいのではないか。姜尚中和田春樹らとともに「コリアNGOセンター」専門委員。北朝鮮系新聞・朝鮮新報に「東京朝鮮第九初級学校」の講演会で(反日)講演をした旨の記事が載ったこともあった。
 <左翼>ビラをまじめに読むつもりはない。ちくま新書の筑摩書房とはかなりの<左翼>傾向の出版社であるらしい。樋口陽一の新書も出している。NHKブックスにも高橋は書いているらしい。高橋もNHKも気持ちが悪い。
 この高橋は東京大学大学院総合文化研究科教授でもある。東京大学所属の教授たちにはなぜへんな<左翼>活動家が多いのか。
 東京大学といえば、月刊正論(上掲)の石川水穂「マスコミ走査線」p.171によると、東京大学法学研究科(と思われる)の日本政治外交史担当の北岡伸一も朝日新聞紙上(11/13)で田母神俊雄論文を批判したという。東京大学は(法学部をはじめとして)「戦後的なるもの」あるいは「戦後民主主義」の守護神として、今日の<翼賛>体制を支えているようだ。さすがに<体制べったり>だ(とは言えない教授たちもいるとは思うが)。
 3 高池勝彦「ケルゼンを知らねばパール判決は読み解けないか」(p.278-)。このタイトルは、この欄で既述の私見と同じ。
 東谷暁や八木秀次のパール・ケルゼン関係の文章よりもはるかに私には腑に落ちる。法実証主義の問題もそうだが、また、被告人は個人だが結果としてはパールは「日本」無罪論だったというのも納得がいく。法的に個人を無罪としつつ、道義的には国家・日本を批判していた、などという(<左翼>体制派・東京裁判(多数意見)史観に都合のよい)コジツケ論は信頼できない。中島岳志は政治的・政策的な、又は(左翼)ジャーナリズムに媚びた本を書いたのだ。
 あとは時間的余裕に合わせて、今後に。巻頭の安倍晋三=山谷えり子(対談)「保守はこの試練に耐えられるか」くらいは読んでおきたい。
 それにしても、月刊正論の最初の方の二頁コラムの執筆者5人の中に八木秀次と兵頭二十八がいるのは、重みに欠け、正統「保守」らしくないなぁと感じるのだが、これはごく少数の感想か。

0621/東谷暁はひょっとして<恥ずかしい>ことを月刊正論に書いたのではないか。

 一 東谷暁が、月刊正論(産経新聞社)12月号で妙な、恥ずかしいことを書いている。
 「論壇時評・寸鉄一閃」の最後から二つめの文にいわく-「そもそも、パールに政治的意図がなければ『意見書』として提出している文書に『判決書』と記すわけがない」(p.165)。
 東谷はパールは日本語で「意見書」を書き、日本語でタイトルを付けたとでも錯覚しているのだろうか。そうだとすれば「恥」だ。次号には登場しないでいただきたい。
 小林よしのりもサピオ誌上で明記しているし、某ネット書籍等販売サイト上でも表紙写真が出ているが、パール意見書(判決書)は、Dissentient Judgement という表紙題名が付けられている。実際の所謂東京裁判の際にどのような言葉(英語)で表現したのかは知らないが(本来はそれを確認しておかなければならない)、上の英語は「反対の(同意しない)判決」が一番の直訳だろう。だが、裁判官一人が「判決」を書けるはずはなく多数意見が「法廷意見」、すなわちその事件についての「判決」になるのだから、パールの「Dissentient Judgement」は―小林よしのりもサピオのどこかに書いていたと思うが―戦後の日本の通例の用語法によれば、実質的には「少数意見書」又は「反対ー」というのが適切な訳になるものと思われる。「意見」とか「少数意見」・「補足意見」とかの日本の用語法に東京裁判が拘束されるいわれはないとも言えるのだが、しかし、少なくともパールの長い文章を「判決書」と訳すのだけは誤りで、<パール判決(書)>という言い方は便宜的な、一般的・慣例的用語にすぎないのは常識的なことにすぎないのではないか。
 ちなみに、東京裁判研究会・共同研究パル判決書(講談社学術文庫、1984)p.142-3は、一又正雄の次の文を載せる‐「このJudgementには二種の意味があ」り、一つは普通の理解での「判決」で、もう一つは「その裁判に参加した判事が、その判決について述べる『意見』」だ。パル判事のそれはまさに「後者の意味」だ。
 従って、『意見書』を『判決書』と書いて提出したという前提自体に誤りがあると思われる。ああ、恥ずかしい。なお、Judgementの訳は「判決」だけではない。「判断」も「決定」も(そして上の説明にもあるように「意見」も)入りうるものだ。
 なお、「意見書」=政治的、「判決書」=法的、という理解の仕方を(も)東谷はしているようにも読めるが、これも誤り。こう理解しているのだとすると、ああ、恥ずかしい。
 二 その東谷と八木秀次が、<パール判決書>は(少なくとも「法理」を示した文章は)法的文書か「政治文書(思想書)」かで論争をしているようだ。
 これについては、
10/06に、「さほど重要だとは思われない」、「この議論の意義自体が判りにくい」と書いておいた。
 現在でも変わりはなく、お二人はエネルギーと時間と雑誌誌面を無駄に費しておられる。
 そもそも一般論として、「法」と「政治」はいちおう別の概念であり別の対象をもつが、厳密に区別できないことは常識的なところだ。対大江・岩波名誉毀損訴訟にかかる判決はむろん「法的」なものだろうが、それは別の観点からすれば「政治」的文書でもあるだろう。少なくない裁判と判決が、何らかの意味で「政治」性をも持ちうるのではないか。ちなみに、第一法規という出版社から、1980年に、『戦後政治裁判史録』全5巻が出ている。扱われている対象はすべて(事件の経緯と)「判決」だが、何らかの「政治」性を認めるからこそ「政治裁判」という語も使われるのだ(扱われているか確認していないが、ロッキード事件判決、リクルート事件判決に「政治」性がないはずがないだろう。民事事件でも当事者が政治家や著名な「政治的」作家や出版社だと、当然に「政治」性を持ちうる)。
 従って、「法理」の提示か「政治文書」かという問いかけ自体がナンセンスだ。とりわけ、何が「法」か自体が不明瞭な戦争、そして国際法にかかわる裁判と判決に「政治」性が紛れ込まないと考える方がどうかしている。
 なお、上の東谷の文章によると、八木秀次は、<パール判決書>における「法理そのもの」には「政治性」がなく、「事実認定」が「政治性を帯びていた」と、東谷に対する回答として説明したらしい(その雑誌も所持はしているが確認の労を厭う)。
 私は、上の八木の説明も正しくはない、と考えている。いかなる「法理」を発見(又は創出)し、事案に適用するかは、(事件によっては)十分に「政治」性をもちうる、「政治」的機能を果たす、と考える。そして、パール「判決書」もまた「政治」性を帯びざるを得ないものと理解している(だからといって、私は「法理」の提示がない、法的文書ではない、と主張しているのではない)。
 要するに、ほとんど生産的ではない議論を東谷らはしている。ほとんど、恥ずかしいレベルだ。<保守>論壇の「衰退」の一例だろうか。
 二 ところで、東谷暁の先月号の文章について10/06に「もともとケルゼンを持ち出して議論を始めたのは西部邁・中島岳志だった。だとすると、西部邁・中島岳志によるケルゼン理解が適切かどうかにも論及しないと、『論壇時評』としてはアンフェアなのではないか。東谷暁は、だが、西部邁・中島岳志によるケルゼン理解については一言も触れていない」と書いた。
 今でもこう思うが、小林よしのりがサピオ誌上で、東谷暁について、「西部邁グループ」とか「親分を守るため」とか書いているのを見て(後者はサピオ11/12号p.62)、謎(?)が解けた。ヘーゲル理解の真否を問題にしていったい何の役に立つのだろうと怪訝に感じていたのだが、東谷が西部邁の仲間又は「弟子」?だとすると、西部邁を擁護することとなる文章を書いているのも納得がいく。
 <保守派>評論家たちは、いったいいくつに分解しているのだろうか。嘆かわしい。もっとも、小林よしのりによると、西部邁は「左翼」に回帰している。
 三 さて、もともとのパールにかかわる論争は、「パール判決(書)」の理解の仕方にある。中心的論争は中島岳志と小林よしのりの間で行われている。そして、この論争は、いずれかが正しく、残る一方は誤っている、という性格のものだろう。つまり、「パール判決(書)」はいろいろな読み方ができる、いろいろに解釈できる、というものではない、と考えられる。
 要するに、いずれが原文のテキストを正確に理解しているか、という勝負だろう。
 この点については、西部邁ですら最初の関係論文で小林よしのりに「分がある」ことを認めていた(月刊正論の今年の2月号だったかな)。
 パールの原文を読む余裕はないので断言できないが、直感的には、小林よしのりの勝ち、だろう。
 そうだとすると、小林が明示的に列挙しているアカデミズム(バカデミズム?)界の大学教授たち、中島の本を肯定的・積極的に評価又は紹介した者たちの<責任>が当然に問われる。
 中島岳志(北海道大学)本人はもちろん、御厨貴(東京大学)、加藤陽子(東京大学)、赤井敏夫(神戸学院大学)、原武史(明治学院大学)、長崎暢子(龍谷大学)は戦々恐々として日々を送るべきであるような気がする。

0620/再び八木秀次の文章について。天に向かって唾を吐くとはこのような…。

 一 小林よしのり責任編集わしズム(小学館)28号(2008秋号)に、八木秀次が連載風随筆欄で「作法も品格もない皇室報道が跋扈している」と題して書いている(p.178-)。
 八木によると、①「保守系論壇誌は、この10年間ほど」、「北朝鮮、中国、朝日新聞、NHK、左翼市民団体などを激烈な言葉で批判し、部数を伸ばしてきた」が、「読者もそろそろ飽き始め、部数が落ちてきた」。②「そこで新たな批判・攻撃の対象として登場してきたのが皇室である」。
 ①の「伸ばしてきた」・「落ちてきた」は実証的根拠がないので説得力が十分ではない。また、後半に「読者」が「飽き始め」た、とあるが、何を根拠にこう推測しているのか?
 より問題だと感じるのは、②。すなわち、「そこで」と簡単に繋げうるほどに、部数が「落ちてきた」ことと最近の皇室「報道」との間に関係があるのか?
 根拠のない推測にすぎないのではないか。

 二 八木秀次の上の文章全体の問題又は<異様さ>は、上に記した点よりもむしろ、その80%以上、全3頁弱、計ほぼ10段のうち8段が、西尾幹二の皇室関係評論への攻撃に向けられていることにある。
 この欄の9/21で八木の竹田恒泰との対談本に言及して、「八木秀次は西尾幹二の主張内容を、批判しやすいように歪めているところがある」と批判的にコメントしたこととは関係はないだろうが、上の今回の文章では西尾幹二の言い分をかなり詳細に紹介又は引用したうえで批判している。
 それはよいとしても、やはりこれだけ続けて西尾幹二批判を継続するのは、本来は<保守派>どうしの間柄なのだとすれば、異様に感じるし、みっともない(とこの欄で書いているのも以下も含めて執拗かもしれないが、影響力は活字になっている八木の文章とはまるで違うし、書いておきたいことなので書いておく)。「左翼」の中の多少とも<戦略>を意識している者たちは大喜びしているだろう。
 三 また、再言になるのだが、そもそも八木秀次に西尾幹二を批判する資格はあるのか? わしズムの上の文章は「最近の皇室報道や評論は慎みや作法・品格を失い、明らかに言論の矩を越えている。『傲慢の罪』を犯しているのはどちらの方なのか」で終わっている。これが、西尾幹二に対して、少なくとも西尾幹二を主たる対象にして述べられていることは明らかだ。
 だが、これまた再述になるが、執拗にも再確認しておく。月刊諸君!(文藝春秋)という「保守系論壇誌」の今年7月号が企画した<皇室>関係報道・評論に「参加」して、次のように明言したのはいったい誰なのか??
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる』(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 八木秀次自身ではないか。
 少しは新しいことを記しておけば、現皇太子が将来は(=天皇になれば)「祭祀をしない」と公言し明言されないかぎりは、皇太子殿下が皇位を継承したあとでなければ、将来の天皇(現皇太子)が「祭祀をしない」かどうかは分からない筈なのだ。にもかかわらず、八木は現時点において、皇室典範第三条を適用しての「皇位継承順序」の変更を主張している、少なくともその可能性に言及している。将来の天皇(現皇太子殿下)が「祭祀をしない」だろうということを、八木は現時点においてどうやって認定するつもりなのか? 八木の言っていることには、基本的な、論理的問題点もある。
 そしてまた、上のようなことを書くということは、「慎みや作法・品格を失った」皇室関係評論にあたらないのだろうか。
 月刊正論(産経新聞社)誌上に連載随筆欄を持ちながら、まるで自分が「保守系論壇誌」とは無関係の第三者であるかのごとき書き方であることも含めて、やはり八木秀次は信用できない。
 <保守の純度>が落ちていると西尾幹二によって論評されている産経新聞は相変わらず武田徹を本誌(新聞)上で起用し、相変わらず月刊正論では八木秀次を使うのだろうか。もともと全面的に100%支持できる論客も新聞もないと考えているので、八木のような存在にも産経新聞の現状にもとくに驚きはしないが。

0602/八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書)の「ナシオン=国民主権」・「プープル=人民主権」。

 一 憲法学上に、「国民主権」や立法議会(議員)の地位・性格にかかわって、「ナシオン(国民)主権」論と「プープル(人民)主権」論の対立があるようだ。
 八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)も上の対立に言及し、この対立・分類は「フランス革命のときに生れた」などと書いている(p.50)。
 だが、この二つの意味に関する八木の理解は適切なのだろうか。あるいは少なくとも、現在の日本の憲法学上の一般的・常識的なものなのだろうか。

 第一に、八木は、「ナシオン=国民主権」(「狭義の国民主権」)論における「国民」を「歴史的な総国民」と説明し、この意味での「国民主権と君主制は…両立する」と書く(p.48~49)。
 この、「狭義の国民主権」における「国民」の説明、「君主制」との関係の説明は、どうも一般的・常識的ではないような気がする。
 上の点にもかかわるだろうが、第二に、八木は、日本の「現在の憲法学の主流は…『プープル主権』『人民主権』に立っています」と書く(p.50)。
 「プープル(人民)主権」論からは「直接民主制が要請され」るとの説明(p.50)は妥当だとして、しかし、その「プープル(人民)主権」論が「憲法学の主流」だという認識が妥当であるかは、疑わしく思っている。
 二 浦部法穂=棟居快行=市川正人編・いま、憲法学を問う(日本評論社、2001)という本があり、その中で、棟居快行(現・大阪大学)と「プープル(人民)主権」論者らしい辻村みよ子(現・東北大学)が「主権論の現代的課題」というテーマで対談している。
 棟居快行によると、辻村みよ子は「杉原泰雄教授のブープル主権(人民主権)論を継承されると共に、その具体的な実現のコンセプトとして…『市民主権』を提唱されて」いる(p.56)。
 辻村みよ子はその杉原泰雄の指導を一橋大学で受けたようだ。マルクス主義憲法学者・杉原泰雄についてはその本の一つの一部をこの欄で紹介・言及したことがある。

 その点はともかく、八木秀次の叙述との関係でいうと、棟居快行は「…ナシオン主権論が有力なわけですが…」と明言し(p.56)、辻村も、「ナシオン主権の解釈が通説を占めるなかで…」と発言している(p.60)。いずれも、(日本の少なくとも2001年頃の)憲法学界の「有力」説又は「通説」は、「プープル(人民)主権」論ではなく、「ナシオン(国民)主権」論だと述べているわけだ。
 これら二人の認識は八木秀次とは異なる。はたして、八木秀次の日本の現在又は近年の憲法学説理解は適切なのか。
 また、フランス革命期の憲法・人権学説に関する研究書もある辻村みよ子と八木秀次では、「ナシオン(国民)主権」という場合の「国民」の理解も異なるようだ。

 すなわち、八木によると「国民」は「歴史的な総国民」で「国民主権と君主制は…両立する」らしいが、辻村はそんなことを書いてはおらず、「ナシオン(国民)主権」における「国民」は「…全国籍保持者」で、「国籍保持者の全体」なのか「有権者」団なのかという論点は残っている、という(p.58)。八木の「歴史的な総国民」という理解・説明とは大違いだ。
 三 辻村みよ子の所論、とくにその「プープル(人民)主権」論・「市民」主権論・直接民主制論を支持するために書いているわけではない。むしろ、これへの批判的なコメントを今後書くだろう。
 指摘しておきたいのは、八木秀次の日本国憲法論あるいは実際の日本の憲法学説の理解には、どうも正しくないところがあるということだ。
 また、些細な揚げ足取りの可能性もあるが(一方で重要な指摘の可能性もあるだろう)、例えば、八木秀次が「日本国憲法が政治哲学でいえば自由主義と民主主義に立脚」しているのは「評価」すべきだと肯定的に論及する(p.38)一方で、「日本国憲法が社会契約説に立脚していることを問題に」する改憲論に肯定的・好意的に言及する(p.47-)のは、矛盾していないだろうか。
 ともあれ、<保守>派の現役の憲法学者は数少ないので、<保守>派の人々は憲法論については八木秀次の本を参照することが多いかもしれない。しかし、この人の書いていることを無条件に信用・信頼してはいけない。上に書いたことはその一例だ。

 もともと、きちんとした憲法研究者ならば、高崎経済大学という法学部のない大学に所属しているのは奇妙なのではないか。いや、それは、<保守>派だから冷遇されているのだと八木は反論又は釈明するだろうか。

 私にとっては、八木秀次とは憲法(思想)研究者・憲法学者というよりも、<保守>派の「活動(運動)家」・「評論家」のイメージの方がとっくに強い。だが、一般論として言うのだが、専門分野(または「得意」分野)できちんと(それなりに高く)評価されていない者は、すぐれた「評論家」にはなれない(ならない)のではないか。

0599/新田均(月刊正論10月号)による竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP)の書評。

 一 月刊正論10月号(産経新聞社)p.318-9は、新田均による竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP、2008)の書評。
 「書評」と書いたが、「Book Lesson」・「読書の時間」というコーナーの一つの論稿なので、やはり「書評」又は「紹介」なのだろう。
 その中で、新田均による西尾幹二と八木秀次の違いの「解釈」や「推測」がなされているのが興味を惹いた。
 二 まず新田はつぎのように対象書を「紹介」する。
 批判の対象は①マスコミ(とくに月刊WiLL)、②宮内庁、③原武史、④西尾幹二で、「中でも西尾氏への批判が手厳しい」。
 新田均がこうまとめているのだから、たぶん正確なのだろう。つまり、<皇統保守>の意義を積極的に展開するというより、マスコミや他人を批判することがこの本の目的・趣旨であることを、暗黙のうちに新田も認めている。

 紙幅のためもあるのだろう、新田は引用していないが、八木秀次は上の書で西尾幹二について、こんな批判(悪罵?)の言葉も投げつけている。以下は、一部。

 「相変わらず精神的に不安定なのでしょう」(p.153)。

 <つくる会騒動>の際と同様に「点と点を結びつけて壮大なストーリーを作る。…ストーリー全体は妄想にすぎない」(p.157)。

 三 新田はついで、竹田恒泰と八木秀次でなぜ「共同歩調」をとれるのか、八木は西尾と「五十歩百歩」ではないかとの(私も抱いた)印象をもつ「読者」も中にはいるだろう、と認めている。流石に、この辺りの議論状況をよくご存知だ(とくに褒め、感心しているわけではない)。
 四 新田均のこの「書評」の独創性は、八木秀次が「おわりに」で書いてあることを手がかりにして、西尾幹二と八木秀次の違いを「解釈」 し、八木が竹田と「論じ合う」ことができた理由を「推測」していることだ。
 新田によると、第一に、日本・天皇・自己の三者関係につき、①西尾は「切断が可能」、②八木は「三位一体」の感覚、第二に、①西尾は「分離可能」の故に「手厳しく批判」でき、②八木は分離「不可能」の故に「臣下の責務として強く諫言せざるを得ない」。
 五 新田均の立場を知らないままだと何となく納得できるような気もする。しかし、現行皇室典範の「重大な事故あるとき」の解釈にまで言及して現皇太子の皇位継承資格を(紛れもなく)疑った八木秀次について、「臣下の責務として強く諫言」している、と評することができるとは私には思えない。
 西尾と八木が全く同じとは思わないが、こと皇太子妃問題に関する議論・結論はやはり「五十歩百歩」だ。もともと「手厳しく批判」と「強く諫言」は実質的には似たようなことなのだ。西尾自身は「忠言」という言葉を用いている。
 また、既述のように、<つくる会騒動>の際に新田均は八木秀次の側に立ち、反西尾幹二で行動したようだ。
 そのような新田均が八木秀次の擁護に傾きがちなのはむしろ自然かもしれない。つまり、どう見ても、客観的・第三者的な「書評」ではないと思われる。
 もっとも、すべての「書評」(あるいはすべての人文・社会系の論文)は<客観的・第三者的>たりえない、と言われればそうかもしれない。それはそうなのだが、しかし、新田均の八木寄りの「主観」性を誰かが指摘しておいてもよいだろう(すでにどこかで誰かが書いているかもしれない)。
 六 それにしても、西尾幹二と八木秀次といえばともに<保守>派論客のはずだった。かつての日本共産党と旧日本社会党左派に似た、あるいは革共同中核派と革マル派の間に似た<近親憎悪>、罵倒し合いは、それを知った保守派支持の者を決して楽しく快くはしないだろう。とこんなことを書いても、両者は、きっと今後も<和解>しないに違いない。

0596/八木秀次は卑劣だ2-まっとうな「学者・研究者」なのか。

 竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP、2008)における八木秀次の西尾幹二批判は、その<仕方>も<内容>も、適切ではないところがある。
 長くは書かない。第一に、批判するためには相手の発言・執筆内容を正確に理解したうえで行う必要があるが、八木秀次は西尾幹二の主張内容を、批判しやすいように歪めているところがある。
 基本は日本語の文章、テキストの理解だ。それをいい加減にしてしまうと、どんな批判もそれらしき正当性をもっているかのごとき印象を与える。
 第二に、自分自身が発言・執筆していることとの関係で、そんな批判を西尾幹二に対してする資格が八木秀次にあるのか、と感じるところがある。
 目につく点から、以下、簡単に指摘する。
 第一に、竹田恒泰=八木秀次・皇統保守p.150の見出しは太ゴチで「『天皇制度の廃棄』を説いた『WiLL』西尾論文」となっている。そして、八木は、「西尾は『天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない』と明記しています」、西尾のように『天皇制度の廃棄に賛成する』とまで書くのは、どう考えても言いすぎです」と書いている。

 西尾幹二の言説内容を、いつのまにか天皇制度廃棄に「賛成するかもしれない」から「賛成する」に変えている。この点も無視できないが、より重要なのは次の点だ。
 月刊WiLL5月号で西尾幹二は、たしかに「天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」と明言しているが、この語句を含む一文の冒頭には「皇室がそうなった暁には…」との語句がある(p.43。「そうなった暁」の意味も書かれているが省略)。つまり、もし…ならば…かもしれない、というのが西尾幹二の原文に即した彼の主張・意見だ。
 上の八木において、<もし…ならば…かもしれない>は、<…だ>へ変更されている。批判相手の言説内容(テキスト)のこのような<改竄>は議論の仕方として許されるのだろうか。批判しやすいように、八木にとって都合よいように(意図的か無意識的にか)、改竄(=一種の捏造)をしているとしか思えない。

 八木秀次は「『ときすでに遅いのかもしれない』と言い、結論として皇室の『廃棄』まで言う…」と西尾の主張をまとめている(上掲p.151)。
 たしかに西尾は「ときすでに遅いのかもしれない」と最後に述べているが、掲載は月刊WiLL5月号ではなく6月号(p.77)。何が「すでに遅い」のか何となくは判るが、天皇制度廃棄との関係はさほど明瞭に述べられているわけではない。
 八木は何とかして、西尾を単純な<天皇制度廃棄>論者にしたいのではないか。西尾幹二の主張の内容に私は全面的に賛成しているわけではない。むしろ相当に批判的だ。だが、その西尾幹二の主張についての八木秀次の紹介の仕方は、あるいは前提としての理解の仕方は、ほんの少し立ち入っただけでも、正確だとは思えない。これでは議論は成立しない。これでは批判の正当性にも疑問符がついてしまう。
 第二に、八木秀次は、「『WiLL』を含めマスコミ全体で皇太子妃殿下を血祭りにあげている感じがします」(p.156)と書く。
 これはまさしく、<よくぞヌケヌケと>形容してよい文章だ。この問題についての前回(9/06)に紹介したように、八木自身が諸君!7月号(文藝春秋)誌上で、「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである」と明記しているのだ。「問題は深刻である。遠からぬ将来に…少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后…」という部分だけでも注目されてよい。
 八木はこれにつき「皇太子妃殿下を血祭りにあげている」のではないと反論するかもしれないが、祭祀同席に消極的だとされる皇太子妃殿下について、皇后位継承を想定しつつ、「問題は深刻である」と言い切っているのだ。「血祭りにあげている」のと五十歩百歩と言うべきだ。
 第三に、八木秀次は、西尾幹二は解決策を示していない、そして必ずしも明確ではないが、自分は「解決」策を考えている又は主張している、と言っているようだ。
 ①「われわれは『…どう解決するか』を考えるべきでしょう」(p.150)。
 ②「解決のための言論であればけっこうなのですが、西尾論文は『ときすでに遅いのかもしれない』と、すでに手遅れだという主張です。手遅れだから『天皇制度の廃棄』だと言うわけです」(p.157)。

 ③「単に批判するだけ。天皇制度を『廃棄』した方がいいというだけ」。西尾や久保紘之の「解決方法は『廃棄』だけです」(p.172)。

 すでに触れたことだが、上の②③も西尾幹二=単純な「天皇制度廃棄」論者に仕立てている。<左翼>ですら表立っては言いにくいような主張を西尾幹二はしているのだろうか。八木が理解する(理解したい)ほどには単純ではない、と私は西尾幹二の文章を読んでいる。
 それはともかく、西尾幹二は「解決」方法に(「廃棄」以外に)言及していないだろうか。
 西尾は月刊WiLL5月号で、「勤めを果たせないのなら〔小和田家が〕引き取るのが筋です」という週刊誌上の宮内庁関係者の言葉を引用して、「私も同じ考えである」と明記している(p.39-40)。この辺りの部分の見出しは「引き取るのが筋」となっている(p.39)。
 <小和田家が引き取る>とは、常識的には、皇太子妃殿下の皇室からの離脱、つまりは現皇太子殿下との離婚を意味しているのだろう(こんなこと書きたくないが……)。
 つまり、西尾は「解決」方法に触れていないわけではないのだ。たんに天皇制度「廃棄」だけを書いているのではないのだ。
 一方、八木秀次自身がもつ「解決」方法とは何か。八木はこう書く。
 「あくまで最悪の事態を想定して」、「皇位継承順位の変更や離婚の可能性も考えておくべきだ」(p.196)。
 ここで八木は「離婚の可能性」に言及しているが、上記のように、この点は西尾と何ら異ならない
 西尾幹二と異なるのは、西尾幹二は全く明示的には触れていないのに、また中西輝政も現皇太子妃殿下の「皇后位継承」適格についてのみ言及したのに対して、上に「皇位継承順位の変更」と言っているように、現皇太子の天皇位継承適格をも具体的に疑っている、ということだ。
 このように見ると、解決方法の用意のある・なしで八木と西尾を区別することはできない、と考えられる。また、八木が明記する解決方法の一つは、現皇太子殿下の天皇位継承適格を直接に問題視すること(の可能性を少なくとも肯定すること)でもある。

 西尾において廃棄に「賛成するかもしれない」との文章の内容の中には現皇太子の皇位継承否定の意味も含まれているかもしれないが、この論点について八木はむしろ明記している。
 この程度にしておく。
 八木秀次は高崎経済大学教授だという。学生のコピペのレポートを叱ることがあるかもしれない。だが、コピペ以下の西尾幹二の主張の単純化・歪曲があるなら、論文を読み、執筆するという、学者・研究者としての最低限のレベルまでも達してはいないのではなかろうか。
 竹田恒泰は八木秀次にあまり引っぱられない方がよい。

 別の回に、上の対談本に関する新田均の書評(月刊正論10月号)への感想を書く。

0593/産経新聞9/13の山田慎二「週末に読む」は低レベル。

 産経新聞9/13の山田慎二「週末に読む」は、相当にレベルが低い。
 某書(草野厚という底の浅そうな政治学者の本)を援用して「疑似政権交代の限界」を指摘し、< 国民への大政奉還>が求められる、と主張する。
 もともと全体的に村上正邦・平野貞夫・筆坂秀世(元共産党幹部)の鼎談本・自民党はなぜ潰れないのか(2007?、幻冬舎新書)を肯定的に紹介・言及しているのも奇妙に感じるが、基本的に問題なのはつぎの点だ。
 第一に、これまでの自民党(と一部の小政党)内における総裁の交代、従って首相(内閣総理大臣)の交代を「疑似政権交代」と理解して疑っていないが、重要なことを看過している。
 執筆者は「先進国」で本来の「政権交代」がないのは日本だけで、特定政党の「権力独占」は「北朝鮮や中国のような国家しかない」と書く。
 この人は日本の政治状況の歴史の、他の「先進国」との違いをまるで判っていない。
 すなわち、日本において、1990年代初めまでは、日本の野党(少なくとも第一党)は日本社会党という社会主義(・共産主義)を(全体がどの程度本気だったかどうかは別として、あるいは少なくとも一部の勢力は)目指していた政党だった。この政党は、日米安保に反対し、1960年頃には「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」だと北京で委員長(書記長?)が声明したような政党だった。
 このような安全保障政策の野党(第一党)に「政権」を任せることができなかったからこそ、この点では聡明だった日本国民は日本社会党への「政権交代」を許さず、結果的には同じ自民党の(を中心とする)長期政権が続いたのだ(但し、日本社会党に1/3以上の議席を与えてきたのは大きな過誤だった)。
 「世界の先進国」を見ると、戦後早くから、「左翼」又は「革新」であっても、反共産主義・反コミュニズムを明確にした、かつ自国の軍備を当然視する<健全な>野党が存在したのだ。だからこそ、そうした諸国では「疑似」ではない「政権交代」もあったのだ(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツを念頭に置いている)。
 山田慎二の上記の文章はこの点をまるで判っていないようだ。
 第二に、上記の鼎談本での発言から<国民への大政奉還>が必要との旨を最後に述べている。
 「一票」を投じることは「大政」の「奉還」を意味せず、有権者(「主権者」とも厳密には異なる)国民の選挙権行使にすぎない。それに何より、「国民」という概念のこのナイーブな使い方は、「国民目線」とか「国民が主人公」とかのアホらしい(無内容の、又は国民大衆に「迎合」した)言葉・語句と同列のものだろう。
 産経新聞にこんな文章が載るのだから、他は推して知るべし、と言うべきか。
 山田慎二なる者が産経新聞の(論説委員等の)記者だったら、こんな内容のつまらない文章を書かないでほしい。
 山田慎二なる者が武田徹山崎行太郎のような頼まれ原稿執筆者なのだとしたら、産経新聞はこんな者に原稿を依頼しないでほしい(武田徹山崎行太郎については言うまでもない。既述)。
 
せっかくの講読代がもったいない。
 イヤなら読むなと言うかもしれないが、読んでみないとわからない文章・記事もあるのだ(今回取り上げて山田慎二なる氏名をたぶん記憶したので、次回からは読まないように用心しよう)。
 なお、八木秀次批判のつづきを止めてしまったわけではない。

0592/八木秀次は不誠実、というより卑劣だ-その1。隠蔽と二枚舌と。

 一 あらためて引用しておくが、諸君!2008年7月号(文藝春秋)p.262で、八木秀次はつぎのように書いた。
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 中西輝政の「同妃〔現皇太子妃-秋月〕の皇后位継承は再考の対象とされなければならぬ」との一文(上掲誌p.239-240)とともに、100年後も200年後も活字として残るはずの、<歴史的な>文章だ。
 上の文章は「遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」蓋然性又は現実的可能性に言及して、皇室典範上の「皇位継承順序を変えることができる」要件の解釈を示している。字数の制約のためもあるかもしれないが、論理・意味ともに不可解又は曖昧なところもある。しかし、既述のことだが、間違いないのは、上において、八木秀次は、現皇太子妃殿下の現況を理由として(あるいは援用、これに論及、言及して)現皇太子の皇位(天皇たる地位)継承資格を(明確に否定はしていなくとも)疑問視している、ということだ。そうでないと、皇室典範三条に言及し、その一部の文言に関する解釈をとくに示しておくことの意味はないだろう。
 上の文章を含む雑誌は6月初めに出版されているので、執筆は4月末から5月半ばあたりだったのだろうと推察される(雑誌の出版実務に詳しくはない)。
 二 先月・8月に竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP、2008)という対談本が出ている(竹田恒泰の月刊WiLL上の西尾幹二批判論文も転載されている)。八木の「あとがき」の期日は7月15日になっている。
 その中で二人で西尾幹二を批判している部分があるが、八木秀次の諸発言を読んで、唖然とせざるをえなかった。
 まず基本的なことをいえば、この本が内容とする対談は上記の諸君!(文藝春秋)の発売やそのための八木の執筆の時期よりも後である筈であるにもかかわらず、自らが上のように近い過去に明言した、ということ、をその内容も含めて、この本の中でいっさい述べていない(!)ということだ。
 まるで竹田恒泰に相当に同調しているような発言の仕方をしている(完全に同じだとは言わない)。八木秀次という人は、適当に(自分の本意を隠して)対談相手に合わせることができる人なのだろう(すでに言及した中西輝政との対談本(PHP)でもそれを感じることがあった)。
 結論的なところを推測するに、私は詳しくない「つくる会」分裂・変容の過程で生じた(原因か結果かは知らないしそれがここで述べていることと直接の関係はない)反西尾幹二感情を基礎にして、皇太子妃殿下問題を中心とする<皇室>問題では反西尾幹二で<共闘>できる竹田恒泰を対談相手として選んだのだろう。
 後述するが、新田均も月刊正論10月号(産経新聞社)で明示的に認めるように、竹田恒泰と八木秀次では皇太子妃殿下(→皇太子・皇位継承)問題に関する考え方は同じではない。というより、むしろ明確に対立する立場にあるとすら言える。そうした二人が連名で本を出すのだから、その共通性は<反西尾幹二>意識にある、としか考えられない。
 三 <反西尾幹二>意識が八木自身のこれまでの発言等とも照らして正当なものであれば、批判することはできない。
 だが、八木の西尾幹二に対する批判は、公平に見て、その<仕方>も内容も、適切ではないところがある。<反西尾幹二>感情の過多が原因ではないか。
 一円の収入にもならない文章を懸命に書いてもほとんど無意味だと感じてきているので、一気に書いてしまわないで次回に委ねる。

0590/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を読む-つづき。

 一 西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)は「つくる会」問題でのみ八木秀次を批判しているわけではなく、安倍内閣の「教育再生会議」に対応した民間版応援団体?「教育再生機構」の理事長に八木秀次が就いたことについても、政治(家)と民間人(ブレイン)の関係等に注意を促し、「八木氏は知識人や言論人であるには余りに矜持がなさすぎ、独自性がなさすぎ、羞恥心がなさすぎる」(p.150)などと批判したりしている。
 そういえば、福田内閣になり<教育>が大きな政治的争点でなくなった後、この「日本教育再生機構」はいったい何をしているのだろう。
 月刊正論9月号(産経新聞社)によると、「日本教育再生機構」は某シンポの主催団体「教科書改善の会」の「事務局」を担当しているらしい(p.272の八木発言)。「教科書改善の会」という団体の「事務局」が「日本教育再生機構」という団体だというのは、わかりにくい。組織関係はどのように<透明>になっているのだろうか(ついでに、このシンポは、あの竹田恒泰とあの中西輝政・八木秀次が同席して「日本文明のこころとかたち」を仲よく?語っているのでそれだけでも興味深い)。
 二 西尾幹二対八木秀次等という問題よりも本質的で重要なのは、西尾が「あとがき」の副題としている「保守論壇は二つに割れた」ということだろう。
 何を争点・対立軸にして「割れた」かというと、小泉内閣が進めて安倍内閣も継承した<構造改革>の評価にあるようだ。これはむろん、アメリカの世界(経済)戦略をどう評価し、日本の経済政策をどう舵とるべきか、という問題と同じだ。この点で、小泉内閣等に対して厳しく、アメリカに批判的だったのが西尾幹二で、小泉内閣・安倍内閣、とくに後者にくっつき?、そのかぎりで<より親米的>でもあったのが八木秀次等だ、ということになる。
 西尾幹二と八木秀次はどうやら、西尾が小泉純一郎についての『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を出版した頃から折り合いが悪くなったようだ(上掲書p.82-83)。
 西尾によると八木秀次は「権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人」で、八木は、安倍晋三が後継者として有力になっていた時期での小泉批判を気に食わなかった(戦略的に拙いと思った?)らしく思われる。
 個人的な対立はともあれ、上記の問題に関する議論は重要だ。「保守論壇は二つに割れ」て、<保守>派支持の一般国民が迷い、方向性を失いかけるのも当然だろう。
 八木秀次は<より親米>の筈なのだが、中西輝政との対談本では中西輝政の<反米>論に適当に相槌を打っている。もともと、佐伯啓思が論じてきたような<アメリカニズム>あるいは<グローバリズム>についての問題意識自体が、おそらくはきわめて乏しかった、と思われる(法学者とはそんなものだ)。
 今日の混迷、見通しの悪さも上記の問題について「保守論壇」に一致がないことを一因としている。はたして「保守」とは何か。あるいは<より適切な保守>とは、現実の政策判断(とくに経済・社会政策)について、<アメリカ>とどう向き合うべきなのか? 日本の<自主性・国益(ナショナリズム)>と対米同盟(友好)関係の維持(反中国・反北朝鮮というナショナリズムのためにも必要)はどのように調整されるべきなのか。
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