秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

八幡和郎

2012/池田信夫のブログ010-天皇・「万世一系」。

 菅義偉官房長官は天皇位は「古来例外なく男系男子で継承してきた」=女系天皇はいなかった、との政府見解(政府の歴史認識)を明言しているが、これは「正しい」または「適切な」ものなのか。①「古来例外なく」とはいつからか。②「男系」・「女系」という意識・観念はその「古来」からあったのか。
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 池田信夫ブログ2019年5月5日付「『男系男子』の天皇に合理的根拠はない」。
 ・愛子様への皇位継承に反対する人々は「かつて『生前退位』に反対した人々と重なっている」。
 ・<男系男子継承は権威・権力を分ける日本独特のシステム>と言うのは「論理破綻」しており、「権威と権力が一体化した中国から輸入したもの」
 ・「江戸時代には天皇には権威も権力もなくなった」。
 ・「天皇家を世界に比類なき王家とする水戸学の自民族中心主義が長州藩士の『尊王攘夷』に受け継がれ」、「明治時代にプロイセンから輸入された絶対君主と融合したのが、明治憲法の『万世一系』の天皇」だった。
 ・旧皇室典範が男系男子としたのは「天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもの」で、古来のミカド…とはまったく違う「近代の制度」だった。
 ・日本の「保守派には、明治以降の制度を古来の伝統と取り違えるバイアスが強いが、男系男子は日本独自の伝統ではなく、合理性もない」。
 ・「男系男子が『日本2000年の伝統』だというのは迷信」だ。
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 この池田ブログ・アゴラ5月5日付は丁寧に、「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステム」は八幡和郎の意見ではないとして、「訂正版」と銘打つ。
 但し、「権威と権力を分ける」は別として(この「権権二分論」は西尾幹二にも見られる、西尾を含めての<いわゆる保守>または「産経文化人」の有力主張だ)、八幡和郎の<万世一系>に関する見解・意見の重要部分は、つぎの文章でも明らかだ。
 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」アゴラ2019年5月31日付。
 ・日本が外国と異なるのは「万世一系の皇室とともに生まれ」、独立を失ったり分裂したことがないとされることだ。
 ・「女系天皇を認めるべきだという議論…」、「こうしたトンデモ議論…」。
 上の両者をつなげると、八幡和郎は「万世一系の皇室」に肯定的であり、かつそこには「女系天皇」を含めていない、と理解してよいだろう。
 そうすると八幡和郎はおそらくは、池田信夫のいう「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」に(2000年とまでその歴史の長さを見るかは別として)嵌まっていることになる。
 「皇統」はこの<男系男子>天皇で続いてきた、かりに「女性」天皇はいてもかつて「女系天皇」は存在しなかった、というのは、現時点以降の皇位継承のあり方について、可能なかぎり「女性」天皇も認めない、それにつながる可能性のある「女性宮家」の設立も認めない、という<いわゆる保守>派の主張の有力な「歴史的」根拠になっている、と見られる(これは、現行皇室典範(=明治憲法期のそれと同じく男系男子論を採用)を改正する必要は全くない、という主張で、この部分については現行皇室典範に触るな、という主張でもある)。
 八幡和郎には、つぎの書物もある。一つだけ。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2012年1月)。
 熟読していないが、上に触れたことと併せてこのタイトルも見ただけでも、八幡の意見・見解が池田信夫とはかなり異なることは十分に推測することができる。
 上に記した、かつて日本に「女性」天皇はいても「女系天皇」は存在しなかった、というのは、例えば典型的には、<いわゆる保守>派の中でもまだ相対的には理知的だと感じてきた西尾幹二についても明言されている「歴史認識」だ。
 西尾幹二発言・西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。
 なお、この発言の頭書の見出しは、<女系容認は雑系につながる>。
 また、「緊急避難的な"中継ぎ"」の部分についての編集者らしき者による注記は、「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことなどからの」緊急避難的措置だった、と記している(同上、p.13)。
 男子継承の理念?を最優先すれば、複数の男子候補のいずれかを選ばざるを得ないのではないか、と思うのだが。また、文武(男子)は何歳で即位したのか?。
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 さて、いくつか、コメントしておきたい。
 まず手近に上の西尾発言、というよりも<いわゆる保守>の公式見解・公式歴史認識らしきものについて。
 ①過去の全ての「女性」天皇について、上の意味のような「緊急避難」的措置だったことを、8天皇ごとに、具体的かつ詳細に説明する必要がある。
 「女性」天皇による重祚の例が2回あるが、その各回についても、背景事情を詳しく説明すべきだ。
 西尾幹二はむろんのこと、男系男子論者(この点についての皇室典範改正不要論者)がこれをきちんと行っているのだろうか。
 <男系男子論>(これは日本会議・同会議国会議員連盟の主張のようでもあるが)を「社是」としているらしき産経新聞社(あるいは同社関係雑誌・月刊正論編集部)は、これをきちんと行ってきているだろうか。
 また、日本史学界を全幅的に信頼しはしないが、上の「歴史認識」は学界・アカデミズムではどう評価されているのかも気になる。
 ②そもそも皇位継承について、「男系」と「女系」の区別は、明治維新以降はともかくとして、皇室関係者その他の各時代の論者・社会の各分野で、どの程度明確に意識または観念されてきたのだろうか。
 ア/聖武天皇皇后(光明子)が初めて「民間」(といっても藤原氏)出身らしいのだが、そうすると、それまでの皇后は、そしてのちに「女性」天皇となった前皇后は(なお、全「女性」天皇がかつて皇后だったわけでは必ずしもない)、当然に「皇族」だった。
 とすると、全ての「女性」天皇は、その父親が天皇だったかを問わず、全て「男系」ではある。
 イ/一方で、例えば持統天皇(天武天皇皇后)の子や孫で天皇になった人物は、男女を問わず、天智・天武の血統であっても、持統天皇の皇統?にあるという意味では、「女系」天皇だと観念または理解して、何ら誤っていない、と思える。なお、高市皇子・長屋王は持統の子・孫ではない。
 ウ/具体的にいえば、孝謙天皇・称徳天皇(同じ一女性)は、いかなる「緊急避難」的必要があって、二度も天皇位に就いたのか?
 西尾幹二は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 エ/すでに書いたことだが、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇までは、天皇は「男系男子」でなければならないなどという観念・意識はまったく支配的ではなかった、と思われる。
 まだ十分に確認していないし、母親の地位・「身分」が問題にされたことも承知はしているが、持統天皇就位のとき、年齢的にも問題のない<男系男子>はいなかったのか。これは、奈良時代の全ての「女性」天皇について言える。また、わざわざ男系男子の淳仁天皇を廃して孝謙が称徳としてもう一度天皇になったのは、いかなる意味で「緊急避難的な"中継ぎ"」だったのか。「つとに知られている話」とはいったい何のことか。
 西尾幹二は、あるいは日本会議派諸氏、あるいは八幡和郎は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 おそらく明らかであるのは、<男系男子>を優先するなどという考え方あるいは「イデオロギー」は、この当時はまだ成立していなかった、少なくとも支配的ではなかった、ということだ。男系男子の有資格者がいたにもかかわらず「女性」天皇となった人物がいるだろう。
 なお、高森明勅と大塚ひかり(新潮新書、2017)のそれぞれの「女系天皇」存在の主張には言及を省略する。元明ー元正。元正の父は草壁皇子で天皇在位なし。元明は持統の妹。
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 少し遡った議論を、一度行っておこう。
 第一。今後の皇位(天皇位)継承のあり方につつき、日本の「古来の」伝統的に立ち返ることが一般的に非難されるべきことであるとは思えない。
 しかし、将来・未来のことを「歴史」や「伝統」だけで決めてしまってよいのか。
 そのような発想を、「伝統」や「歴史」を重視するという意味では、私自身もしたことはある。しかし、かりに、または万が一「男系男子」で継承が「伝統」・「歴史」だったとしても、将来をもそれらが未来永劫に日本国民を拘束するとは考えられない。
 かりに天皇制度の永続を最優先事項とするならば、「女性」天皇はむろんのこと「女系」天皇も認めないと、そもそも天皇制度を永続させることができなくなる、という事態の発生の可能性が全くないとは言い難い。
 かりにそうして「女系」天皇が誕生したならば、それは、日本は従来とは異なる(しかし「天皇」制はある)新しい時代に入った、ということになるにすぎない、と考えられる。
 こういう発想に対して、「男系男子」論者は、おそらくこう言うだろう。
 そんな天皇は「本来の天皇」ではない、「天皇制度」が継続されているとは全く言えない、と。
 そのとおりかも知れず、気分はよく分かる。しかし、そう主張し続けることは、男系男子が皇位を継承しなければ「天皇」とは言えない、「天皇制度」ではない、と言っているに等しく、これは、<天皇制度の廃止>を実質的には主張している、または同意していることになる。
 偏頗な「男系男子」論は、じつは<天皇制度の廃止>をも容認する議論に十分につながってしまう。
 第二。こういう議論に対して、「男系男子」論者はおそらくこう主張するのだろう。
 天皇(男性)に側室・私妾を認めて男子が誕生する可能性を拡大する、と主張はしない、だからこそ皇室・皇族の範囲を拡大して皇位継承資格のある男子の数・範囲を広げることが喫緊なのだ、と。いわゆる<旧宮家・皇族復帰論>だ。
 しかし、ここで絶対に検討しておくべきであるのは、<旧皇族復帰>を現実化する、つまり法制上の「皇族」を拡大することの現実的可能性だ。
 つまり、「旧皇族または旧宮家」(この範囲には議論の余地はある)にどの程度の人数(男子)がおり、彼らが(いたとして)どういう「意思」であるかの問題は全く別の問題として、<旧皇族復帰論>を現実化するためには、皇族範囲を定めている皇室典範(法律)を改正する必要がある。または新しい特別法を制定する必要がある。
 要するに、上の方向で皇室典範(法律)が改正される現実的可能性がいかほどあるか、だ。
 しかして、「法律」であるがゆえにその改正には両議員の国会議員の過半数の同意を必要とする(特例等は省略)。そして、現在および今後の日本の国会は、上のような趣旨の皇室典範(法律)改正・特別法制定を議決する可能性が、いかほどにあるのだろうか。
 西尾幹二はつぎのことも、新天皇・新皇后に「お願い」している。
 西尾「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」月刊正論2019年6月号p.219。
 「安定した皇統の維持のために、旧宮家の皇族復帰、ないしは空席の旧宮家への養子縁組を進める政策をご推進いただきたい」。
 まさか西尾幹二が皇室典範は天皇家家法であって天皇(・皇后)の意向でいかようにも改正できると考えているとは思えないが、天皇(・皇后)に一定の皇室「政策」の推進を求めるのはいささか筋違いで、八木秀次によって「国政」介入の要請と厳しく批判される可能性もある。建前論としては国会・両議員議員に対して行うべきものだ。
 第三。この機会に少しだけ立ち入れば、「旧宮家の皇族復帰」等の趣旨でかりに皇室典範改正の基本方向が国会で賛同を得たとしても、検討する必要がある、そして必ずしも簡単に解決できそうにない法的論点がいくつかあると思われる。
 例えば、①対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「同意」は必要か否か。必要であるとすると、「同意」しない者は対象者にならないのか。
 ②高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「意思」とは無関係に、(一方的・強制的に)「皇族(男子)」と(法律制定・改正により)することはできるのか。その場合にそもそも、高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、これまで皇族でなかった対象者の「身分」を変更することが<基本的人権>の保障上許容されるのか(皇族になるまでは一般国民だ)。
 ③「身分」変更に伴う、財産権等々にかかわる細々とした制度変更をどう行うか。
 上の①と②は、たんなる「法技術」の問題ではない。
 さらに、より「そもそも」論をしておこう。
 第一。池田信夫のように、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」について語る者もいる。
 いかなる「歴史認識」が(むろん運動論・政治論ではなく)より歴史学的ないし学問的に「正しい」かは、相当程度において、日本書記(・古事記)を信じるか・信頼するか、どの程度においてそうするか、に関係する。
 これは、二者択一の問題ではなく<程度と範囲>の問題だ。相対的に、秋月瑛二よりも、八幡和郎や西尾幹二のそれへの「信頼度」は高いようだ。
 しかし、古代史一般について言えるだろうが、「信じる」程度の問題になってしまうと、いずれが「正しい」かの議論にはならない。「神話」という「物語」を微妙に「史実」へと転換している部分がある西尾幹二についてもこれは言えると思われる。
 「信仰」の程度で、重要な問題の決着をつけては、あるいは重要な問題の根拠にしては、いけないのではないか。あるいは、よくわからないこと、信憑性の程度がきわめて高くはないことを、現在時点での問題解決の「歴史的」根拠にしてはいけないのではないか。
 なお、孝謙・称徳天皇あたりの「話」になると、続日本記等の記述の信頼性の程度の問題が生じてくる。
 公定または準公定の史記に相当に依拠せざるを得ないことは当然かもしれない。
 しかし、天武以前に関する(壬申の乱を含む)日本書記の記述を天武・持統体制?の意向と無関係にそのまま理解することはできないのと同様に、光仁・桓武天皇期以降の続日本記等の叙述や編纂が、平安京遷都以前の歴史につき、必ずしも公正には記していない可能性があるだろう。
 こんなことを感じるのも、孝謙・称徳天皇に関する記述・「物語」は先輩の?天皇に対するものとしてはいささか冷たい部分があるように、素人には感じられるからだ。
 なお、八幡和郎は変化も交替もなかったかのごとく叙述しているが、奈良王朝と平安王朝?の違いとその背景については(意味の取り方にもよるが)、関心がある。八幡が想定するよりももっと複雑な背景があると見るのが、より合理的な史実理解でありそうに見える。
 第二。皇位継承の仕方・あり方は(かりに「歴史」・「伝統」が有力な論拠になるのだとしても)、日本書記等での記述の仕方を含めて、ときどきの時代の史書がそれをどう理解していたか、も当然に配慮しなければならない。
 明治期以降の櫻井よしこらのいう「明治の元勲たち」が日本古代からの皇位継承の仕方・あり方をどう観念・理解したのかは考慮すべき一つの事項にすぎず、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」のは、思考方法としても全く間違っている。
 <天皇親政の古来の在り方>に戻ったとし、仏教、修験道等を「神道」の純粋性を汚すものとした、明治新政府とその後の薩長中心藩閥政権等々が、日本古代からの皇位継承の仕方・あり方を本当に客観的または冷静に分析し理解し得たとは、とても思えない。
 昭和に入ってからの<国体の本義>に書いてあることが全てウソまたは欺瞞または政治的観念論だと主張はしないが、「天皇」に関する叙述・論述をそのまま信頼することもできない。これは当たり前のことだろう。そして、「万世一系」もまた、明治憲法が用いた術語であることを知らなければならない(むろん、その趣旨の論は江戸時代等にもあったかもしれないがどの当時から「体制」のイデオロギーではなかったように思われる)。
 第三。江戸時代の「女性」天皇についても上記の「緊急避難的な"中継ぎ"」の意味は問題になり得る。その点は別としても、しかし、歴代の天皇の大多数が男子(男性)だったことは間違いないようで、なぜそうだったかは別途論じられてよいだろう。
 池田信夫は冒頭掲記の文章の中で、「日本で大事なのは『血』ではなく『家』の継承だから、婿入りも多かった。平安時代の天皇は『藤原家の婿』として藤原家に住んでいた。藤原家は外戚として実質的な権力を行使できたので、天皇になる必要はなかった」と書いている。
 但し、その後の時代も含めて、武家等が「天皇」になる必要はなかったとしても、その天皇はなぜほとんど男子で継承されてきたのか、という疑問はなお残る。
 簡単な論述には馴染まないが、結局のところ、人間・ヒトとしてのオスとメス(男と女)の違いに求めるしかないのではないか、と私は思っている。むろん、ただ一つの理由、背景として述べているのではない。
 中国の模倣も少しはあったかもしれない。しかしそもそもは、「天皇」になることがいかほどの特権だったかは時代や人物によっては疑問視することもでき(例えばかりに同族が天皇位に就いていて自分の生活・財産が保障されていれば、あえて「天皇」になる必要はないと考えた候補者もいたかもしれない)、また「女性」天皇が少ないことは女性蔑視思想の結果だとも思えない。
 妊娠・出産はメス・女性しかすることができない、というのは古来から今日までの、日本人に限らない「真理」だろう。このことと「天皇」たる地位の就位資格と全く無関係だったとは思われない。むろん代拝等によることによってあるいは摂政・代理者によって祭祀行為や「執政」等々をすることはきるのだが、日本史の全体を通じて、妊娠し出産し得るという身体性は、天皇という「公務」執行の支障に全くならなかったとは思えない。むろん100%決した要因ではないだろうと強調はしておくが、この要素を無視できないのは当然のことではなかろうか。
 これは女性「差別」でも何でもない。むしろ「保護」をしていたのかもしれない。
 第四。天皇の問題だけではないが、日本の「文化」・「文明」の独自性・特有性は、日本人の「精神」・「こころ」・「性格」等によるのではなく、大陸や半島から「ほどよく」離れた、かつ東側にはさらに流れ着く島等がないという列島という地理関係とそこでの自然・気候等の「風土」によるのだろうと思っている。天皇という制度の継続もこれと全く無関係とは感じられない。
 「民族」・「日本人」が先ではなく、人が生きていく列島の「地理的条件」・「自然」・「風土」が先だ。
 前者という「観念」的なものを優先させるのは、この列島にやって来たヒトたち・人間たちの本性とは決して合致していないだろう。

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1827/読書しないでメモ。

 WiLL8月号増刊・歴史通(ワック、2018)。
 歴史通(ワック)というのはワックの季刊誌かと思っていたが、今は月刊誌の増刊号という扱いなのだろうか。
 表紙に、<朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ>とある。
 朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ、だとして、では、月刊Willの執筆者(・編集者)が撒き散らしている、いや失礼、適切に?伝播させている「歴史」には、「フェイク」はないのだろうか
 月刊正論、月刊Hanada、月刊WiLLの歴代編集者や執筆人の多くは、<日本会議史観>に染まってはいないのだろうか。「東京裁判史観」とか故渡部昇一のように言い出すと、すでにおかしい。
 櫻井よしこは国家基本問題研究所理事長だが、この「研究所」の評議員を務める編集者もいた。
 そして、伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかまず、聖徳太子の<十七条の憲法>を高く評価する。
 聖徳太子は皇族だったとされる。しかし、聖徳太子は神道よりも仏教に縁が深く、かつ政治的には敗北者だった。
 聖徳太子および近接の天皇・皇族たちの墓地(御陵)は飛鳥を含む奈良盆地にはなく、いまの大阪・南河内にある(太子町!)。伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかを説明できるのだろうか。
 日本にもかつて<憲法>があったなどという<言葉・概念>の幼稚なトリックに嵌まっていなければ幸いだ。
 つづいてなぜか、1000年も飛んで、後醍醐天皇も通過して、<五箇条の御誓文>を褒め讃える。
 そして、江崎道朗は、十七条の憲法・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法は「保守自由主義」で一貫しているのだとのたまう。
 こういう単純化はたいていか全てそうだが、間違っている。<フェイク>の最たるものだ。
 ところで、こういう増刊ものは、新しい論考や座談だけではなくて、すでに発表されている論考等を再度掲載していることがある。
 <一粒で二度おいしい>のは出版社(・編集者)と執筆者(余分の収入になるとすれば)であり、迷惑なのはきっと<知的に誠実な>、新鮮な情報を期待している読者だろう。
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 八幡和郎・「立憲民主党」・「朝日新聞」という名の"偽リベラル"(ワニブックス、2018)。
 入手して、「はじめに」だけ一瞥した記憶がある。
 八幡和郎は文筆で「食って生きている」人物のようで、多数の安っぽい書物を敬遠してきたのだが、意外によいことを書いていることを、この半年くらいに、この人のブログで知った。したがって、現在は敬遠してはいない。
 池田信夫・所長とどういう関係にあるのか詳しく知らないが、親しくはあるようだ。
 そして、池田が八幡に対して「新手の皇国史観」だと批判したら、八幡が「それはそうかもしれないけれど」とか反論していたのが面白かった。
 面白かったというのは、内容もそうだが、たぶん同じ共同ブログサイトの執筆者でありながら、相互に批判し合っていたからだ。
 内容の当否に立ち入らないが、こういう<自由さ・率直さ>はなかなか面白く、よいと思われる。
 産経新聞の「正論」欄編集者が元原稿にあった特定の人物(批判された櫻井よしこ)の名を事実上削除した感覚とは、かなり異なるだろう。
 さて、上の本。「読まない」で書くが、第一に、望むらくは、秋月瑛二が<敵視している>勢力のことをやはり批判している、と理解したいものだ。立憲民主党と朝日新聞が明記されているところをみると、大いに期待できるだろう。
 第二、私は、「左翼」または共産主義(・社会主義)者・日本共産党および<容共>の者たちを、この欄で批判している。簡単には「左翼」または「容共」論者だ。
 しかして、八幡和郎のいう「偽リベラル」とはいったいどういうつもりの呼称なのだろう。
 もちろん、「本当の」・「真の」リベラルではない、ということは簡単に理解できる。
 中身を読めば書いているのかもしれないが(そう期待したいが)、リベラルまたはリベラリズムの概念論争に決定的な意味があるとも思えない。
 気になるのは、八幡和郎は「偽リベラル」を何と簡単に呼称しているかだ。立憲民主党や朝日新聞等でははっきりしない。要するに、共産主義(・社会主義)者・<容共>者ときちんと呼称して、対決しているか否かだ。
 私の理解では、立憲民主党と朝日新聞が「左翼」の中核にいるわけでは決してない。
 しかし、<特定保守>論壇もそうなのだが、商売として<左翼>をやっている気配がたぶんにある立憲民主党と朝日新聞を攻撃すればよい、というのでは不十分だろう。
 批判の矢はきちんと、日本共産党「等」の今に残る共産主義(・社会主義)者に向けられなければならない。
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 以上の二者。いずれも、本当に「読まないで」書いてしまった。
 八幡の本は入手して数ヶ月、本棚のどこかに置いたままだ。「本来の」リベラルの立場からするという、原理的「左翼」あるいは原理的護憲派、憲法九条死守派に対する批判など、簡単に想像できそうであるからでもある。大きく間違っていれば、幸いだ。

1796/池田信夫5/04ブログと「国民党」・憲法九条。

 池田信夫5/04「平和憲法が野党をダメにした」によると、新しい「国民党」の綱領には「違憲の安保法制の白紙撤回」や「解釈改憲を許さない」があるそうだ。
 池田とともに、やれやれという感じがする。
 昨年9月、もう半年以上も前になるが、毎日新聞の第二面あたりに、「保守かリベラルか」という大きなタテの見出しがあった。
 それは当時の民主党の代表選挙が前原誠司と枝野幸男の闘いになると報じるもので、前原=「保守」、枝野=「リベラル」と旧民主党内を位置づけ又は「色分け」していたわけだ。
 保守とリベラルという語のこういう使い方が印象に残ったのだった。それはともかく、9月から10月にかけての民主党や総選挙に関するコメントの中で共感できたのは、池田信夫によるものだった。
 原典、ソースの確認は厳密に行って、典拠は示してきたつもりだが、ここでは端折る。
 池田は、民主党が割れて反共・非共と容共の違いが明瞭になるだけでも意味がある、そういう形で選挙が行われるだけでも今回の(昨秋の)総選挙の意味はある(それだけてもよい)という趣旨のことをブログで(どの欄だと特定しないが)書いていた。
 これに秋月瑛二が同感できるのは、<反共・非共>対<容共+共産党>こそが現在の日本の最大の対立軸だと考えているからだ。後者は、私のいう「左翼」だ(とくに菅直人が首相のときの民主党は、民主党全体が「左翼」だと考えてきた)。
 そして、より具体的には、国会等々において日本共産党と「共闘」してもよい、又はそうすべきだ、とするのが「容共」=「左翼」だ(旧社民党で小選挙区当選のために旧民主党に移った辻元清美、何と東京大学名誉教授の上野千鶴子等々、いっぱいまだいる)。
 そういう民主党の中で<反共・非共>の旗幟を明確にしたい議員たちがいたのはよいことで、前原が代表となり、総選挙も想定して、小池百合子の「希望の党」と合流することとなった。
 このとき、安倍晋三首相・自民党総裁は、こう皮肉り、あるいは挑発した。
 <選挙目当ての野合ではありませんか!
 この言葉は、正確には奇妙なことだ。
 なぜなら、自民党こそが、最大の「選挙目当ての」、あるいは議員やそれになりたい者たちが「選挙での当選」を最優先にして入党し、そのような者を軸にしていくつかの集団を作って「野合」している政党だからだ。
 この安倍晋三発言(・演説)のたぶん翌日だっただろう、小池百合子はこの発言を意識していたに違いない。そこで、こう言った。
 民主党議員を<丸ごと受け入れるのではない。(一部は)排除します。
 新党・希望の党に吹いていた風向きがここで変わったようだ。
 しかし、どう真面目に考えても、(旧)民主党内の明確な<容共>または明確な<反・保守または自民党>の議員全てを取り込んだ新しい党というのは想定し難い。
 小池百合子は「改革保守」、「しがらみのない保守」を目指すと、明確に発言していた。
 したがって、「排除」であれ「拒否」、「区別」であれ、論理的には全く問題はないものだった。
 しかし、この言葉に<傲慢さ>を感じたのだろうか、「言葉」の揚げ足取りを好む日本のマスコミは「排除」という語をしきりと報道した。
 そしてむしろ関心は、新党ではなく、新々党である「立憲民主党」へとさらに移ってゆき、野党の中では枝野幸男を党首とする立憲民主党が第一党になってしまった。
 当時、池田信夫のブログをよく見ていたのだが、こうした状況の変遷をよく感じ取れた。
 そして、いつだったか、池田は、<今回の総選挙は、政治的には一回休み(だった)>と書いた。
 これにもまた、同感できた。
 ほとんど変わらなかった。大きくは変わらなかった。
 しかし、重要な一つは、上記のように「改革保守」・「しがらみのない保守」を標榜した<希望の党>が惨敗したことだ。なぜだったのだろうか。
 この「保守」色が<なんとなく左翼>を含む一般有権者に嫌われた可能性もあり、また立憲民主党に新鮮さを感じた人たちも多くいたのかもしれない。
 しかし、その理念から見て、<希望の党>と立憲民主党は基本的に異質だったはずなのだ。同じ<新党>という名で括れるようなものではなかった。
 また、昨年前半にはあった小池百合子ブーム的なものは、<本来の保守>だと自らを考えている日本会議や産経新聞主流派には気にくわなかった可能性がすこぶる高い。
 日本会議・産経新聞主流派は政治運動の中での「保守」運動の主流・中心だという(自分たちはそう考えている)位置を奪われてしまう危険を感じたのだ。
 危険は、小さいときに摘み取っておくにかぎる。
 そこで、<保守系>月刊雑誌にも、立憲民主党や共産党よりもむしろ<小池百合子>を批判し警戒する論考や記事が多くなった。
 いちいち立ち入らないが、当時の月刊正論、月刊Hanada等を見れば明らかだろう。
 櫻井よしこはこの当時以前から、小池百合子に対する敵意を丸出しにしていた。
 政治運動団体・日本会議の基本的な考えにそったものだと思われる。
 また、中国問題等々でかなりよい発言等をしていた有本香までもが、編集者・出版者に依頼されたからだろう、反小池百合子の論考や書物を書くに至った。
 日本会議・産経新聞主流派の<保守系>評論家に対する影響は大きい、と言わなければならないだろう(その例は、江崎道朗にも見られる)。
 産経新聞の表向きの姿勢は別として、少なくとも日本会議の幹部たちの関心は、共産党でも立憲民主党でもなく、自民党を大きくは減らさないこと、そして小池百合子(=希望の党)を大きくさせないことにあった、と推察させる。
 日本会議という特殊な政治団体という「ピース」に気づいてそれを嵌めて、初めて理解できることが秋月にはある。
 なぜ、産経新聞社発行の月刊正論の編集代表者・桑原聡は、あれほどまでに橋下徹を危険視したのか
 さらに別の機会に書く。要するに、彼らは自分たちの影響力の外で「保守」と名乗る又は「保守」だと評される者の存在を認めたくないのだ。
 小池百合子のいった「しがらみのない保守」とは何だったのか?
 自民党にいた小池だから、いろいろなことを知っているに違いない。そしてすでに当時に秋月はこう意識したものだ。すなわち、「しがらみ」=日本会議の影響ではないとしても、「しがらみ」の中には安倍晋三等(日本会議関係国会議員)と日本会議の間のそれも含まれているに違いない、と。
 安倍内閣が昨8月頃に支持率を落としていた背景の一つは、「お友だち」つまりは稲田朋美等の日本会議と親近的な議員を閣僚や自民党の要職の就けている、という印象だったと思われる(そして、小池百合子は安倍総裁のもとでの自民党では「疎外」されていた)。
 なお、これまた特定の手間を省くが、八幡和郎は選挙後に、「希望の党」がもっと増えていた方が憲法改正は容易になったとだろうブログで書いていた。この感想も、池田信夫のそれとともに的確だろう。
 総選挙結果に関するもう一つの重要なことは、日本共産党は議席を減らしたが大敗したわけでもなく、日本共産党が候補者を立てなかった選挙区でかなりの立憲民主党の候補者が当選したことだ。つまり、現在の立憲民主党国会議員には共産党員や本来は同党支持者の票が入っている。
 そして、日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、こう明言した。
 <志を同じくする候補が多く当選したのはよいことだった(決して悲観しない)>、と。
 日本共産党からすれば、立憲民主党は<志を同じくする>党と見られていることに注目しなければならない。
 この「志」というのは、社会主義(・共産主義)への道というわけではなく、現時点では、2015年成立の平和安全法制は違憲だと言い続け、<九条改憲を許さない>と主張する姿勢に間違いないだろう。立憲民主党というのはこの点では日本共産党と同じで、紛れもなく<容共>政党であると認識しなければならない。
 かくして、憲法問題では、共産党・立憲民主党・社民党・自由党という共産党と「左翼」政党が明確に揃い組みすることになった。
 ここで今回の冒頭に戻るが、玉木雄一郎らの「国民党」なるもの所属の議員たちが、昨年の民主党分裂の意味を忘れ、一体何のための分党で、何のための「希望の党」設立だったのかを放念しているのだとすれば、見識と良識、人としての倫理感の欠如を疑わせる。
 池田信夫が指摘するように、「憲法」でしか自民党と差別化できない野党というのは、きわめて存在意義が薄い。
 あらためて書いてもよいが、九条をめぐる「改憲」か「護憲」(または改悪阻止)かは、現在の日本の基本的な対立軸では全くない、と考えるべきものだ。
 そのように対立軸を設定してきたのは、憲法学界に党員や支持者を多く獲得することを地道に?積み上げてきた日本共産党の戦略そのものだ。
 日本共産党は、「憲法」を利用して、あるいはそのいう「平和と民主主義」を利用して、党員や支持者、そして選挙での票を獲得し、拡大しようとしてきたのだ(その長い闘争のわりには、それはまだ完全には成功していない、とは言える)。
 憲法九条をめぐる対立は現在の日本にとって決して最大の、あるいは本質的な問題ではない。いや、正確に言えば、九条二項の廃止・国防軍の設置に賛成か反対かではなく、二項存置「自衛隊」明記に賛成か反対かというのは、全くとるに足らない、馬鹿馬鹿しい、非本質的な、「とんちんかんな」議論を生じさせている、ニセの対立点だ。
 すでに内閣法制局、そして内閣の憲法解釈が変わり、2015年の国会・両議院もまた、その解釈を支持して平和安全法制を成立させ、施行させた。<フルスペックではない>にしても現憲法下でも限定的な集団的自衛権の行使はできることに、法制上なっており、現在の国会も内閣もこれは違憲ではないと判断している。
 新しい「国民党」は、これをいったいどうしたいのか?
 かつまたこれを論じることに、いま、どのような意味があるのか。
 日本共産党が今でも自衛隊の存在自体が違憲だと主張し続けているように、立憲民主党同様に「国民党」もまた、2015年平和安全法制について「違憲の安保法制の白紙撤回」と主張し続けるつもりなのか。バカバカしい。
 ついでに追記しておく。
 枝野幸男は自衛隊の憲法明記は2015年平和安全法制による「集団的自衛権行使の容認」を憲法が容認することになるから(二項存置)自衛隊明記に反対する、と言った。
 また、小池百合子は、自信たっぷりではなかったが、現在防衛省の中の重要だが一部署であると言うしかない自衛隊を(防衛省設置法を飛び越えて)憲法上のものにするのは奇妙だ、と昨秋に述べていた。
 この二つの議論は、いずれもおかしい。憲法・法律の関係、憲法解釈というものが分かっていない。「とんちんかんな」議論がすでにいっぱい始まっている。
 今回は立ち入らない。
 青山繁晴、高市早苗のように、二項存置「自衛隊」明記論に反対し、二項自体の削除を支持することを明確にしている自民党国会議員もいる。こちらの方が「正しい」方向だろう。
 (二項存置)「自衛隊」憲法明記についての自民党の条文案では、「自衛隊」に関する違憲・合憲論争に「終止符を打つ」ことは絶対にできない。かつまた、違憲・合憲論争をかえって刺激して大きくすることになる。自信をもって、確言できる。
 この点は機会があればまた書きたいが、国民投票の現実的可能性等々も勘案すると、大きな関心はなくなっている。

1751/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書②。

 片山さつきが某テレビ番組でふいに「よけつれい」という語を出していた。
「よけつれい」とは、間違いなく<予算決算及び会計令>(勅令→政令、1947年。2017年最終改正)のことだ。
 何の説明もなくこんな言葉を発するとは、時間不足のためもあろうが、視聴者・庶民には分からないかもしれないが、知らないだろうが、という感覚も感じさせられて、愉快にはならない。
 山口真由は別の某テレビ番組で率直に?、「キャリア」・「ノンキャリア」という語を使って、両者の行政・公務員感覚の違いを述べていた。
 これはこれで、そのような観点からのコメントを聞かないので、よいだろう。
 しかし、言葉不足があって、むろん山口真由が知らないはずはないが、財務省(・理財局)と同省近畿財務局の違いが「キャリア」と「ノンキャリア」の違いに該当するかのごとき誤解を生じさせかねなかった。
 本省にも「ノンキャリア」はいるし、近畿財務局にも「キャリア」はいる。
 「キャリア」組が<地方支分部局>の長を経て(渡り歩いて?)地方の実情と現場も知って(?)いずれ本省に戻ってくる、というのは、よく知られる。
 森友問題時代の近畿財務局長の迫田?という人物はいま、財務省の別の局長らしい。
 その他、八幡和郎も含めて、森友問題あるいは決裁文書改竄にかかる元「キャリア」のコメントを知るのは、なかなか面白い。
 さすがに行政経験からもよく知っている(ある範囲の問題については)と思うが、「上級行政官僚だった」ことについての<矜持>(・誇り)らしきものも、人によって同一ではないが、垣間見えて、この点も興味深い。
 ついでに書くと、第一に、文書処理に関して<公文書管理法>という法律に焦点があてられている印象もある。しかし、国会との関係以外に直接に対国民でも重要な関係法律に、<(行政機関)情報公開法>がある。
 これによると、「決裁」済み文書のみならず、<組織として行政のために用いた、用いている>文書(電子情報もこの場合は含む)も開示請求の対象になり、かつ、原則としては(この法律が定める「支障」等に該当する等の例外事由のないかぎり)請求者(国民)に開示しなければならない。
 第二に、<書き換え前>文書は「起案文書」あるいは「ドラフト(案)」ではなかったのか、という問題も提起されていたようだが、これは否定されたはずだ。
 なお、(最終)決裁文書に問題があるとすれば、もう一度決裁をやり直して、新しい、最々終の決裁文書を作成すればよいことになるはずだ(技術的な些細な修正ならやり直す必要もないかもしれない)。このことは否定できないだろう。
 しかし、<最々終の決裁文書>を作成しても、その前の<最終の決裁文書>の存在を否定・消去できるわけではない。
 本当に最後の「決裁」文書でなくとも、存在していれば、上記のとおり、情報公開請求の対象にはなる。
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 「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。/
 繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。」
 池田信夫が適切に指摘しているように(3/14)、この安倍晋三首相国会答弁をどう<理解>するかは、同首相又は同夫人が「かかわっていた」とか「関係していた」という言葉の意味にかかわる。
 曲解しなくとも、言葉をふつうに理解するかぎりは、「かかわっていた」・「関係していた」ことにはなるだろう。
 「(直接の)働きかけ」とか、「直接の関与」という言葉を安倍晋三は用いなかったのだから。
 この答弁の当日(昨年2月)の報道によってだろう、随分と思い切ったことを言っているな、という感想を自分が抱いたことは明確に記憶している。
 したがって、この答弁の<正確な意味・意図>が問われなければならないし、また、少なくとも安倍首相の不用意・迂闊さ(あるいは傲慢・慢心?)は指摘されなければならないだろう。
 八幡和郎は、池田信夫と同じブログ・サイトで、つぎのように書く(3/13)。
 「森友問題の本質は、文書改竄ではない。籠池さんという厄介な人にいろんな人が振り回されて、苦し紛れに、少し安すぎるかもしれない価格で国有財産を売り渡したというだけのことである。」
 これは少し違う。第一に、決裁文書の扱い方、という<行政>上の基本問題がある。
 第二に、森友某氏の娘と結婚した籠池某氏という「厄介な人」が少なくともかつて「日本会議」に属していて(日本会議もこれを否定してはいない。日本会議大阪の役員だったようだ)、この籠池某氏が「日本会議」の名(知名度?、権威?)を少なくとも<利用>したことは間違いないだろう。
 そうでなければ、竹田恒泰や安倍総理夫人は関係する小学校での講演などしなかっただろう。ましてや、経緯はあっても、強く固辞しても、最終的に「名誉校長」にはならないだろう、と普通人の私は感じる。
 <政治>的には、森友問題は「日本会議」問題だ。「日本会議」問題としての森友問題なのだ。むろん、安倍首相と「日本会議」には「関係がある」ことが前提。
 だからこそ、日本共産党も朝日新聞も躍起になって突き、叩こうとしている。
 小川榮太郞が昨年以来の各種報道は<朝日新聞の謀略>だつたと言いたい気持ちは分かるし、実際に間違いなく、日本共産党や朝日新聞の<謀略>的な政治姿勢・報道姿勢はある(なお、朝日新聞社内には日本共産党の党員もいる)。
 しかしまた、<安倍晋三あるいは安倍政権は絶対に誤らない>はずだというのも、一つの<謀略>観に似た<思い込み・観念>なのであり、<反・朝日新聞>史観?・政治観?にだけ頼るのも、危険だ。
 小川榮太郞の書物を、森友問題の「勉強」のためにいま読んでいるのだが、この本の主張内容もまた、(興味深いという意味で)面白い。
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 なお、日本共産党と「日本会議」が(まして朝日新聞と「日本会議」が)真正面から対立しているとは、秋月瑛二は考えていない。そう理解してはいない。
 180度反対では全くなく、せいぜい45度以下の、30-35度程度の角度の開きしかないだろう。
 しかし、もちろん、「日本会議」-安倍晋三と朝日新聞・日本共産党が正面から対立している「ように見えている」現実はある、ということは承知している。

1725/江崎道朗・コミンテルン…(2017)②-2017年秋。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による。
 秋月瑛二のいう<反・共産主義>の意味での「保守」-それと同義で「自由主義」/元来の・伝統的な「リベラリズム」という語を使ってもよい-の立場で種々書いてはきているが、江崎の上の本を一瞥して、即座に感じた。
 どうしようもないところにまで来ている。ほとんど総崩れだ。
 身震いするほど、怖ろしい。
 日本の「保守」派らしき人々は、ほとんど信頼できない。「保守」と自称しないで、むしろそれと自らを区別しているらしき、池田信夫や八幡和郎等の方が、「反・共産主義」という点ではしっかりしているのではないか。
 そののちに、上の江崎道朗著の推薦文をオビに書いている中西輝政のいかがわしさにも気づいた(何回か昨秋頃にこの欄に記した)。
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 江崎道朗の上の本(新書)の「はじめに」は、二行め、本の第二文から間違っている
 「1917年に起きたロシア革命によってソ連という共産主義の国家が登場した」。
 1917年「二月革命」ではなく10月(または新暦で11月)と特定していないことは、まぁよい。
 しかし、1917年10月の「ロシア革命」によって登場したのは、「ソ連」ではない
 ソ連=ソヴィエト連邦=ソヴィエト・社会主義共和国連邦という国家(連邦国家)が成立したのは「戦時共産主義」よりも「ネップ政策導入決定」よりも後、1922年だ。
 上のロシア革命によって成立したとされたのは、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国で「大ロシア人」地域を領域としており、地理的にも、のちのソ連と異なる。
 江崎道朗は、こんなことにすら無頓着で、「ソ連」はロシア革命によって生まれた、と単純に理解したまま、大切な本の二行めに書いてしまっているのだ。
 ついでに書いておこう(秋月瑛二は専門家でも何もないが,江崎道朗に教えてあげよう)。
 ソヴィエト・ソビエト・ソヴェトとは地名その他の固有名詞ではなく、多くの人が知っているだろうように(江崎がどうなのかは知らない)「会議」とか「評議会」とか訳せる普通名詞だ(council, Rat)。
 そうした名詞が国家名に使われ、チャイナとか朝鮮とかの固有名詞(王朝・氏族名を含む)が使われていないのは、おそらく希有のこと(だった)だろう。
 以下の方が重要だ。
 ロシアで最初の「ソヴェト」の設立・結成に、レーニンらボルシェヴィキは関与していない。
 また、ペテログラード・ソヴェト等のソヴェトの主導権を、ほとんどの間、レーニンらボルシェヴィキ(のちロシア共産党に改称、ソ連共産党へと発展)は握っていなかった。
 1917年のほんの一時期にレーニン・トロツキーらがソヴェトの多数派となり、実力行使も担当し、「10月革命」とのちに呼ばれるものが起きた(ことになっている)。
 しかし、のち、ソヴェト系列の国家機構を形骸化し、ボルシェヴィキ=ロシア共産党(江崎のために記すがまだソ連共産党ではない)が実質的な権力を掌握する。
 その後ずっと、ソヴェトというのは、実体・実質・実権が全くかほとんどないまま、1991年まで、ソ連という国家名の一部として、堂々と使われ続けた。
 ソヴェト・ソヴィエトという言葉に関する「詐欺」とすら言える。国名についてまで、ロシア・ソ連「社会主義・共産主義」国家は、異様・異形だったのだ。
 元に戻る。江崎道朗が「コミンテルン」を表題の重要な一部として使う本をかきながら、ソ連・ロシア革命・コミンテルンについて正確な知識を持たないことは、上の点のほか、つぎのことでも分かる。すでに「はじめに」の中に見られる。
 すなわち、とくにアメリカや日本に対する「工作」・「秘密工作」をする主体・主語として書かれているのは、「旧ソ連・コミンテルン」p.3、「ソ連」p.3、「コミンテルン」p.4、「ソ連・コミンテルン」p.5、「ソ連・コミンテルン」p.7、「コミンテルン」p.7、「ソ連・コミンテルン」p.8、「ソ連・コミンテルン」p.9、「ソ連・コミンテルン」p.12、「コミンテルン」p.12、p.13、「ソ連・コミンテルン」p.13、と一様でない。
 江崎道朗に教えてあげるが、「ソ連」と「コミンテルン」は同じものではない。
 同種のものとして扱うためには、その旨の注記が必要だ。
 また、同種のものと扱うのは、きちんとした書物であるかぎりは、間違っている。
 すなわちソ連(またはその前の社会主義ロシア)、ソ連共産党(またはロシア共産党)およびコミンテルンの三つは、きちんと区別すべきだ
 そうでないと、例えばスパイ・ゾルゲはいったいどの組織の「スパイ」・「工作員」だったのか、「スパイ」・「工作員」の相互連絡はどうしてなされたのか、等の解明ができなくなる。
 一昨年の秋にこの欄で、こうした関心から、尻切れになったかもしれないが、「国家・党・コミンテルン」とか題する(正確に確認しない)文章を書いたことがある。
 レーニンは、あるいはスターリンは、ロシアまたはソ連「共産党」と「コミンテルン」を巧く使い分けていたと見られる。かつ、非難されないように、決して「ソ連」とかの国家そのものとは厳密には区別していたように思われる。また、ソ連国家といっても、外交部署、治安・保安担当部署と「軍」の区別くらいは、少なくとも必要だろう。
 どうでもよいではないか、ということにはならない。
 そのように感じるのは、「保守自由主義」者らしき江崎道朗のかなり粗雑な、特定の読者層を意識した頭脳だけだろう。
 他にも、この著には、相当の疑問点・問題点がある。
 よい本が出たと、「日本会議」系の論壇者や活動員たちのように喜んでおれるわけがない。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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