秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

全共闘

0827/三島由紀夫全集第35巻の大野明男関連文章(1969)を読む。

 一 ①「大野明男氏の新著にふれて―情緒の底にあるもの」、②「再び大野明男氏に―制度と『文化的』伝統」の二つが、決定版三島由紀夫全集第35巻(新潮社、2003)に収載されている。
 契機となった大野著とは『70年はどうなる-⦅見通し⦆と⦅賭け⦆』で(出版社等不明)、上の三島由紀夫の文章は、毎日新聞1969.08.08夕刊、同1969.08.26夕刊が初出で、いずれも三島・蘭陵王(新潮社、1971)に所収。
 大野明男は当時「全共闘」支持の「左翼」論者だったようで、三島由紀夫がこういう文章を書いて、<保守>の立場での一種の<時事評論>をしていたとは詳しくは知らなかった。小説・戯曲を書いたり、一般的な文化・思想論を展開したりしていただけではなかったのだ。そういえば、<東大全共闘>と討論?し、それを本にしていた。けっこう、現実具体的な問題に介入していたのだ。なるほど、そうでないと、1970年11月の市ヶ谷での一種の<諫死>も理解はできない。
 さて、大野・三島論争?自体に立ち入らない(立ち入れない)。大野の文章全体を正確には知らないから。
 二 興味深い一つは、三島由紀夫の<憲法(とくに日本国憲法)>観が示されていることだ。
 三島によると、大野は「憲法」はその名のためではなく「成立を導いた『革命』のような政治過程の根本理念を表現した」ものであるがゆえに尊く、他に「優越」する、と書いたらしい。この部分を引用したあと、三島は書く。
 「なるほど新憲法に盛込まれた理念はフランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したものである。しかもアメリカ本国における幻滅を基調にして、武力を背景に、日本におけるその思想的開花を夢みて教育的に移植されたものである。『血みどろの過程を通って』獲得されようが、されまいが、それが一個の歴史的所産であることは否定できない。
 私は新憲法を特におとしめるわけではないが、これも旧憲法と等しく、継受法の本質をもち、同じ継受法でありながら、日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度において、新憲法は旧憲法より薄い、とはっきり言へると思ふ。
 …継受法も一種の歴史的所産であるなら一国民一民族の歴史的文化的伝統との関わり合ひにおいて評価せねばならぬ、というのが私の立場である。憲法に対して客観主義的立場の人がその保持に熱狂し、憲法に対して主観的主体的立場をとらうとする人が必ずしも熱狂的ではない、といふところが面白い」。(全集第35巻p.603-4)。
 三島は1969年に44才(1945年に20才)。東京大学法学部で誰のどのような憲法の講義を受講したのだろうか。美濃部達吉か宮沢俊義か。いや(在学期間を確認すれば判明することだが)新憲法自体が1947.05施行なので、そのときはすでに卒業していて、旧憲法を前提とする講義を聴いたのだろう。
 いずれにせよ、大学教育によって上のような知見に至ったわけではあるまい。そして、日本国憲法についての、その理念は「フランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したもの」という理解の仕方は正確なもののように思われる。1969年当時の大学法学部のほとんどにおいては、このような日本国憲法の説明は(憲法教育は)なされていなかったと思われるし、今日でもおそらく同様だろう。
 そしてまた、旧憲法も「継受法」だとしつつも、新憲法の方が「日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度」が旧憲法よりも「薄い」と明言して、新憲法に対する違和感・嫌悪感を表明している、と考えられる。
 大野明男は(反体制派「かつ」、あるいは「しかし」)<護憲>派だったようなのだが、新憲法(日本国憲法)に対する親近と嫌悪、これは今日にも続いている国論の分裂の基底的なところにあり、九条二項や「アメリカ」経由の欧米的理念の色濃い現憲法諸規定の<改正=自主憲法制定>に反対するか、積極的に賛成するかは、(公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに)重要な対立軸であり続けている、と考えられる。
 現憲法に対する態度は、結局は<戦後レジーム>に対する態度・評価の問題にほとんど等しい。これは、公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに大きな対立軸だ。そして、民主党のほとんどあるいは民主党中心新政権は<戦後レジーム>(現憲法)護持派なのであり、自民党の中には(民主党内に比べてだが)<戦後レジーム>脱却派=自主憲法制定派(改憲派)が多い(党是からは消えていない筈だ)、という違いがあることになろう。
 三 興味深い第二は、三島によると、大野明男は次のように書いたらしい(以下の「」は三島による引用内)。
 「日本の生産的労働階級」は「千余年の間、『天皇』などは知らずに、営々として『日本』を生きてきた…。心を『天皇』に捕えられるのは、つまり三島氏が『国民的メンタリティ』などと…持出しているのは、特殊な『明治以後』的なもの、正確には『日清戦争以後』的な、膨張と侵略の時代のメンタリティにすぎないのである」。
 おそらくは三島が「日本の歴史・文化・伝統のエトス」の中心に「天皇」を置く、又は少なくともそれと不可分の要素として「天皇」を考えているのに対して、大野は、日本の庶民の対「天皇」心情あるいは「天皇」中心イデオロギーは明治時代以降の産物で、「日本の歴史・文化・伝統」ではない、と主張したいのだろう。
 三島は大野の文を引用したのち、「これはよくいはれるルーティンの議論で、別に目新しいものではない」と応じ、<制度>・<感情>・<文化的伝統>等に論及している(上掲p.604-5)。
 この二人の議論と似たような議論が最近にもあったことを思い出す。
 すでに言及したが、隔週刊・サピオ11/11号(小学館)誌上で、小谷野敦のブログによる『天皇論』批判に対して、小林よしのりが反論している部分だ。
 大野明男にあたるのが小谷野敦で、三島のいう「よくいはれるルーティンの議論」をしていることになる。三島にあたるのが小林よしのりで、三島よりも<実証的に>江戸時代にとっくに庶民は「天皇」の存在を知っておりかつ敬慕していた「旨」を明らかにしている(なお「敬慕」の語はここで用いたもので、とくに拘泥したい語でもない。小林よしのりもこの語は用いていなかったかもしれない)。
 「左翼」の教条的な「ルーティンの議論」は40年を経て、なお生き続けていることにもなる。ウソでも100万回つけば…。「左翼」は捏造・歪曲にも執拗だ。

0510/松本健一による丸山真男「歴史意識の『古層』」批判等。

 大学生の頃、丸山真男はすでに過去の人というイメージで、1970年前後に重要な発言・主張をした、又は論文を発表した、という記憶はない。したがって、1996年の死後再び丸山に注目が集まってきたようでもあることを奇異に感じている。
 また、1970年前後以降はまともな又は大きな仕事をしなかった(と勝手に判断している)ことについて、丸山自身が、かつての自己の言説が<適切な>ものではなかったことを意識(・反省・後悔)するようになったからではないか、との<仮説>を勝手に立てている。
 それはともかく、松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)によると、丸山は1972年に「歴史意識の『古層』」という論文(?)を発表している。丸山真男集第十巻(岩波、1996)の冒頭に収載されているもので、筑摩書房『日本の思想6・歴史思想集』(1972.11)が初出の公表のようだ。
 さて、松本健一の上掲書はこの丸山の論文を論評した1973年の松本の論文をそのまま収載している(p.194~)。そして、松本と丸山の個人的関係?を考慮すると、じつに厳しい、罵倒とでもいうべき、丸山真男批判を展開していることがとても興味深い。
 むろん罵詈雑言が列挙されているわけではなく、丸山「歴史意識の『古層』」が俎上に乗せられ、その内容の限界、かつて丸山真男が書いていたこととの矛盾等が丁寧に指摘されている。
 逐一紹介する余裕はない。内容に立ち入らず批判的言葉だけを最後から逆順に取り出せば、以下のごとし。-①「無数の大衆たちのことは何一つ扱われておらない」、②「歴史意識の『古層』」として「摘出」したのは「知識人たちが己の主体的作為では状況を切り拓けないと悟り、歴史に瞳をこらして、…自己を救済する途を模索した結果辿りついた史観」だ(以上、p.228)、③「歴史意識の『古層』」を探る作業は「この文字の背後にある広大な闇を無視してしか成立しえなかった、…知らなかったのではない。知っていて敢えて無視した」(p.227)、④丸山らが「日本人の意識構造の基底に『なる・なりゆく』史観を視るとき、…日本人からは知識人以外の民衆がほとんど欠け落ちてしまっている」(p.225)、⑤丸山は「つねに『書かれた歴史』『言葉に現れた思想』しか問題にしなかった。そこでは…エートス、……パトスとして噴出せざるをえなかった行動、等々…を掬いあげることは不可能なのではないか」(p.220-1)、⑥丸山は「知識人の辿り着く意識構造を分析し…、わがくにびとの意識構造一般を解析したわけではなかった」(p.219-220)、⑦「近代主義の、…その主導たるべき主体的作為の挫折したところに、なりゆく史観は忍びこんだのだ」(p.217)、⑧「かくして、丸山は己をふくめた日本の知識人たちに、その知性がついに辿りつくべき墓場を指し示した」(p.216)、⑨丸山が記紀が「古代社会(大和朝廷)の正統化」という意味をもつことを「無視」して「古事記から『古層』の基底範疇を導き出し、しかもそれを、歴史に自己救済(自己正当化)を求める知識人たちの証言で重複的に立証しようとしたことは、かれ自身が己の自己救済(自己正当化)を図ろうとしていたことの証しではないか」(p.215-6)、⑩丸山は「己がその日本の情景にふくまれるかどうか、という問いを隠した」(p.211)。
 これくらいにしよう。1914年3月生れの丸山は1972年11月には満58歳、老境に入りかけているが、まだ現役の東京大学教授だった。その丸山の論文に対する、翌年のこのような批判はなかなかスゴい。
 松本健一のこの論評(論文)に関して興味を惹いたことはまだ二つほどある。
 一つは、丸山真男が50歳代後半に記紀、とくに古事記に関心を持って熟読した、と見られることだ。彼の「日本的なるもの」への反発的関心?が記紀に向けられたということは、50歳代後半という年齢と無関係ではなかったのではないか。
 二つは、松本健一が、1970年頃に(松本は年月日を特定していない。別途調査すれば判明する筈だが労を厭う)「全共闘の学生たちが丸山真男の研究室に乱入し、怒号にちかい言葉でかれをつるしあげた」ことを、「学問上の師父」・「戦後民主主義の生みの親」に対する、「己の前身そのその」に対する、<父への憎悪>にもとづく、<父親殺し>と位置づけていることだ(p.196~202)。
 この二点めも面白い。しかし、「全共闘の学生たち」は「戦後民主主義」の嫡出子なのか鬼子なのか、「全共闘」学生(又はじつは卒業生)の中には丸山真男などより遙かにラディカルな(中核、革マルとか呼ばれた)職業的?活動家もいたのであり、単純に「父-子」関係と言えないのではないか、等の疑問が出てきて、にわかに賛同することはできない。そもそも「全共闘の学生たち」の思想・主義とは何だったのだろうか。簡単に一括して論じられはしないだろう。
 というわけで、またまた丸山真男批判の本を読んでしまった。もう丸山にはかかわりたくない気分がする。たまたま東京大学助教授・教授だったために、等身大以上に論評され、評価されている(つまり<虚像>部分を多分に含む)人物(・学者さま)ではないか。
 なお、一年ほど前に丸山真男の1953年のわずか3頁の小文「選挙に感じたこと」を<全集第5巻>の中で読んだことがある。そして、学者・研究者のものとはとても思えない、当時の<左派社会党>を応援する、<政治活動家>又はせいぜい直近にいる<ブレイン>が書いた文章だ、という感想をもった。

0212/原武史・滝山コミューン一九七四(2007)の佐藤卓己による書評。

 6/10の読売の書評欄が採り上げているので、数日前の産経の書評欄を読んで関心をもったのだろう、原武史・滝山コミューン一九七四(講談社、2007)を既に購入している。だが、殆ど未読だ。
 読売新聞の書評は佐藤卓己(京都大学)という1960年代生れの人が書いている(原武史氏も1962年生れ)。
 それによると、1.学校(小学校・中学校だろう)生活での「班のある学級」は「ソ連の集団主義教育理論に基づき、日教組傘下の全生研(全国生活指導研究協議会)の運動から広ま」ったらしい。
 世代は違うが、私の小学生時代のたぶん3-6年のときにはクラスがいくつかの「班」に分けられ、「班長」とかもいた。中学校時代はもう「班」はなかったと(明瞭な記憶ではないが)思う。
 小学校時代の「班」単位の学級作りがソ連・日教組の影響だとは知らなかった。日教組・「左翼」が強い学校・地域では全くなかったと思うが、それでも日教組(ひいてはソ連)の影響があったのだろうか。「班」への分割を基礎にすることは必ずしも「左翼」的理論に基づくものとは限らないと思うので(大きな単位を小さく分割することは会社でも町内会でも行われている)、自分の体験の根源の「理論」がどこにあったのかはなおも釈然としない思いもある。
 2.次の文は目を惹く(対象の本ではなく書評者の文章)。「共産主義の理想が世間一般で通用したのは、一九七二年連合赤軍事件までだろう。だが、全共闘世代が大量採用された教育現場では、少し遅れて「政治の季節」が到来していた」。
 一九七二年を重要な区切りの年として注目するのは、坪内祐三・一九七二(文藝春秋、2003)にも見られる。この年(35年前だ)の7月には佐藤栄作長期政権が終わって田中角栄新内閣が発足した、という点でも大きな区切りだろう。
 だが、第一に、上のようにこの年までは「共産主義の理想が世間一般で通用した」とまで書くのは、事実認識(歴史認識)としては誤りだろう。日本社会党が健在で現在よりも「左翼」的雰囲気に溢れていたのは間違いないが、「世間一般」で「共産主義の理想
」が通用していたわけでは全くない。日本社会党(+日本共産党)支持の雰囲気の多くは<反自民党>・<反政権党>の雰囲気で、一部を除いては、「共産主義の理想」などを信じてはいなかった、と思われる(もっとも現在に比べれば、そういう「信者」が多かったことは確かだろう)。
 第二に、「連合赤軍事件」(たぶん浅間山荘事件のこと)以前の学生運動を担った世代を簡単に「全共闘世代」と称することが(この書評者に限らず)多いが、1970年前後の学生運動の少なくとも半分を支配していたのは「全共闘」派=反日共系(反代々木系)ではなく、日本共産党・民青同盟であったことを忘れてはいけない。既に記したし、今後も書くだろうが、「全共闘」派に対抗したからこそ、日本共産党・民青同盟は従前よりも、また1970年代後半以降よりも、多数の学生・青年の「支持」(>入党)を獲得できた、という因果関係があると思われるのだ。
 だが、第三に、「教育現場」では「少し遅れて「政治の季節」が到来していた」というのは、なるほどそうかも知れないと思う。
 かりに1946~1950年の5年間に生まれた者を<団塊(世代)>と称するとすると、この世代が小学4年(10歳)~高校3年(18歳)だったのは、1956~1968年で、1970年代半ば以降の「政治の季節」の中にあった教育を受けてはいない。
 とりとめもなく書いているのだが、<団塊世代>が高校までの教育を受けていた時代には、<南京大虐殺>も<従軍慰安婦>もなかった。朝日新聞の本多勝一がのちに「中国の旅」という本(1972)のもとになる中国旅行と新聞連載をしたのは1971年だった。
 中学や高校でどういう日本史を勉強したかの記憶は薄れてしまっているが、1970年代後半あるいは1980年代以降の社会科系科目の教育内容よりも、<団塊世代>が受けたそれの方がまだ<自虐的>ではなかった、つまり相対的にはまだ<真っ当>なものではなかっただろうか。滝山コミューンとの本は未読だが、簡単に紹介されているような、1960年代生まれの人が体験した「教育現場」は私の感覚では相当に<異様>だ(但し、地域差があると見られることも考慮は必要だろう)。
 3 書評者は言う。「戦後教育の欠陥は「行き過ぎた自由」などではない。集団主義による「個人の尊厳」の抑圧こそが問題だった」。
 この部分は議論が分かれるところで、簡単にはコメントしにくい。私は「戦後教育の欠陥」は「行き過ぎた自由
」というよりも「行き過ぎた個人主義」ではなかったか、と思っている。ということは、「個人の尊厳」が尊重され過ぎた、ということでもあり、書評者の理解とは正反対になる。
 
<集団主義による「個人の尊厳」の抑圧>だったとはとても思えない。とりあえず疑問だけ提出しておこう。
 書物本体ではなくそれの短い書評文にすぎないのに、何故か執筆意欲をそそるものがあった。

0060/都知事選は「世代間のリーダ-争い」ではなかったが、将来を「団塊」世代がリードできるかは心配。

 東京都知事に石原慎太郎氏三選に関連して、毎日新聞(少なくともWeb上)は、一種の「世代論」を展開、少なくともそれに言及しているようだ。
 木村健二署名記事のリード-「8日に投開票された東京都知事選は、昭和1ケタ生まれで「太陽族」との流行語を生み出した石原慎太郎氏(74)に対し、戦後生まれの「団塊の世代」に当たる浅野史郎氏(59)や吉田万三氏(59)が挑む世代間のリーダー争いでもあった。結果は石原氏が大差で3選を果たし、首都の世代交代は進まなかった。今年度から大量定年が始まった団塊の世代だが、政治の世界でトップに立つまでの壁は厚いのか。
 本文-石原氏は「浅野氏を念頭に「全共闘が支持しているような手合いが東京を牛耳ると、取り返しのつかないことになる」と敵意をむき出しにしていた。
 「石原氏の選対本部長を務めたのは、元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(76)。…団塊の世代には「自己犠牲の精神がなく『みんなで渡れば怖くない』の共同連帯無責任だ」と手厳しく「いつまでたっても、おれたち昭和1ケタがやらなきゃいけない」と話す。
 「団塊の世代は47~49年生まれを指し、約675万人に上る。国政を眺めると、衆院議員が61人、参院議員が41人で、国会議員全体の14・2%を占める。しかし、首相は小泉純一郎氏(65)から団塊の世代を通り越して安倍晋三氏(52)まで若返った。首都決戦でも敗れ去り、団塊の世代からは首相、都知事という2大リーダーを輩出できていない。
 発言の事実等の報道だから、ほとんどコメントのしようもないが、今回の都知事選が「世代間のリーダー争いでも」あった、というのは、いかに「も」が付いているとしても、この点を重視しすぎだろう。
 佐々淳行氏の言葉は、「全共闘」とは無関係だった者も含めて「団塊」世代には耳が痛いことかもしれない。浅野氏ではない、きちんとした石原氏の後継者が「団塊」世代から出てもよかったのだ。
 それに、じつは私は密かに怖れている。いつぞや、1930-35年生まれ世代は「独特の世代」と書き、その中に、石原氏も佐々氏も含まれるのだが、この世代が全て(又は殆ど)いなくなって「団塊」世代が70歳台前半になっているような時期に、日本はどうなっているだろう、「団塊」世代は、今の1930-35年生まれ世代がしているような政治・言論界等での活躍ぶりを(保守・「左翼」を問わず)発揮することができているのだろうかと。同じことだが、全て(又は殆ど)の国民が戦争を知らず、「戦後(平和・民主主義)教育」を受けた者ばかりになって、はたして日本の国家と社会をうまく運営していけるのか、と。やや情けないことだが。

0042/「団塊」世代のみが「隠れた世紀病」に罹ったのか-「正論」5月号・田中英道論文を読む。

 月刊正論5月号(産経)に田中英道「「68年世代」の危険な隠れマルクス主義-左翼思想に染まったのは日本の「団塊の世代」だけではない」がある。新聞広告にこのタイトルが載っていて、関心を持ち買って読んだ。
 日本の「団塊の世代」は「左翼思想に染まった」ことを前提とする副題が気になった。当時は大学進学率はたぶん約1/3で、大学生でなかった者、そして大学生でも少なくとも過半は(たぶん3/4は)、大学での「全共闘」運動を経験していないからだ。
 だが、一時期新しい教科書をつくる会々長だったという田中の主題は、「団塊」世代の厳密な分析ではなさそうだ。すなわち、大雑把に言って反権力・反(資本主義)体制ではマルクス主義と共通する(その意味で「隠れマルクス主義」の)、マルクーゼ(1898-1979)やハーバーマス(1929-)を代表とする所謂フランクフルト学派の論文・発言・行動の影響を受けて欧米でも「68年」頃に過激な学生運動があり、日本の「68年」を中心とする、「団塊」世代が担った全共闘運動もその一環だった、その意味で世界的な同一世代による社会変動がこの頃に起きた(そして社会はより悪くなっていった)、というのが最も主張したいことのように読める。
 それはそれで興味深いし、恥ずかし乍ら、ルーマンとやらの論争でも有名な(だが読んだことのない)ハーバーマスがフランクフルト学派に属することも初めて知った。だが、背景的な欧米の同時代の雰囲気は指摘のとおりだとしても、「全共闘」運動(又は「団塊」世代)とフランクフルト学派の関係については、そもそも「全共闘」運動は何だったか、どういう理論と組織に支えられていたのか、を含めて、もう少し実証的な叙述又は根拠が欲しい、という感じがする。
 また、この論文は「団塊」世代批判だ。かいつまんで紹介すると、この世代による「自由教育」が「寒々しい日本人とその家族を生み出した」、フランクフルト学派の影響も受けて、環境・男女同権・原発等々につき「反権威主義」という名の「破壊運動」を継続しており、「大学とかマス・メディアを支配している「団塊の世代」が、保守主義の傾向に、常に反対の態度」をとり、「贖罪観を、日本人に植え付けようとする動き」を支えているのもこの世代だ、「大学教員やマス・メディアに巣くうこうした運動」を注意深く見守り、阻止すべきだ、この世代の「隠れた世紀病」の克服は容易でない。
 省略しすぎの紹介だが、論証にはあまりに具体的・実証的・統計的根拠がなさすぎるだろう。殆ど何も示しておらず、田中の「直感」によるものと思われる。
 しかし、じつは半分は、私の直感も田中の見方を支持している。朝日新聞の若宮啓文は1948年生まれで、自ら「社会党支持だった」ことを雑誌上で明言しているくらいだから、田中の主張を裏付ける、恰好の、典型的な人物かもしれない。一方、支持できない、又は不十分だと思う残り半分は、つぎの点に関係する。
 第一に、「隠れた世紀病」あるいは「隠れマルクス主義」あるいは「反権威主義」という病に罹っているのは、日本においては「団塊の世代」だけだろうか。この著者を含む60年安保世代のある程度の部分も、田中はきっと健康だったのだろうが、すでに罹っていたと思われる。
 1960年に20歳になった人は1940年生れで、1945~1952年の「占領下」の教育を少なくとも部分的には経験しているのだ(その間に東京裁判があり「新」憲法施行もあった)。フランクフルト学派の動向などに関係なく、彼らが受けた、GHQ批判・日本の伝統擁護等々が許されない教育が<病原菌のない、正常な>ものだったとは思われない。また、その時期に日本のマルクス主義は復活しているのだ。
 第二に、「団塊」世代に全く責任がないとは言わないが、指導・煽動した別の世代が存在すると思われる、ということだ。「団塊」世代は完全に自分たちだけの力で67年~71年頃の全共闘運動等々を展開したのだろうか。使嗾し、誘引する、もっと年上の別の人たち又は世代がいたに違いない、と私は思っている。いつか触れた川上徹は1940年生まれの筈で「団塊」世代ではなく、日本共産党・民青同盟の側の指導者だった。中核派の北小路敏は生年を確認できないが、60年安保の際もブントに属して主流派全学連幹部として「活躍」したようで「団塊」世代ではなく、かつ67年~71年頃は革共同中核派の指導者で同派を通じて「全共闘」や「全闘委」にも影響を与えていただろう。東京大学全共闘の議長だった山本義隆は1941年生まれで、「団塊」世代ではない。
 私の印象では、それこそ相当に「直感」的だが、「団塊」世代、大まかには1952年生まれ(今年に55歳)辺りを下限として、それ以上の年齢の人々でおおよそ1928~29年生まれ(今年78~79歳)までの人々は、それ以下の世代よりも、「反権力」的信条あるいは「何となく左翼」の気分がより強い。
 きちんとした資料は示せないが、日本社会党又は(日本共産党を含む)「革新」勢力の支持者が最も多かったのは、日本社会党がなくなるまでの数十年間の世論調査の報道の記憶では、おおよそ「団塊」世代を含むそれ以上の世代だったように思うのだ。
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  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
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