秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

光格天皇

1452/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のB。

 ○広く日本史について素人としての関心はある。明治維新とか明治憲法とか明治の「元勲」たちということになると、かつて、ソウル・南山の西側中腹あたりにあった、安重根記念館を訪れたことを思い出す(タクシーで一人で行き、帰りはソウル駅近くまで歩いて降りた)。
 安重根は伊藤博文射殺犯で(1909年)、若き「愛国」テロリストふうかと想像していたが、記念館での展示物を見ていて、教育者であり知識人の一人だったと知った(筆字も達筆だ)。
 おそらくそのときか、日本への帰国直後だが、安重根は伊藤に対する「斬奸状」(にあたるもの)を書いていて、その中に、日本の天皇を弑虐した「罪」を挙げていたことも知った。それは、伊藤が、当時の天皇(明治天皇)の「ご父君」、つまり孝明天皇を殺害した、というものだった。
 朝鮮の人からすれば伊藤という「元勲」と日本の天皇・皇室との関係など本来は関心はないはずだが(日本の天皇のことを気にかける必要はないはずだが)、と思ったりしたが、それ以上の追究は当時はしなかった。しかし、伊藤博文と天皇殺害という関連だけでも、印象に残りつづけたのは確かだ。
 ○あらためて近年に読書渉猟をしていると、孝明天皇は皇女和宮の兄で明治天皇の父親・先代(これらはかつての知識の中にあったと思う)、そしてその当時は傍流だった光格天皇の孫。幕末の天皇で、明治改元直前に死亡していることが確認できる。
 そして、これが上の安重根にも関連するが、孝明天皇の(突然の発症による)死には、徳川幕府に対抗する薩長一派側の意向が働いており、孝明天皇の(その時点で)対幕府融和的な姿勢(「公武合体」方針)を「邪魔」・「有害」だと判断した者たちが、最終的には(直接に手をかけた訳ではむろんないが)朝廷内に関係者がいた岩倉具視が、天皇殺害を命令した、という<噂>があったらしい。
 <噂>がそれらしく思われていたらしいことは、上の安重根の記憶又は認識でも明らかだろう。岩倉具視であれば、まだ若い伊藤(周旋屋だともされた)は明治維新前はさほどの接触はなかっおたかもしれないが、のちに何かを知った可能性はないではない。伊藤から見ればとんだヌレギヌかもしれないのだが、朝鮮半島の人までその少なくとも<噂>を知っていたというのは、驚きの事実だろう。
 一番最近に見たからこそ記せるが、歴史小説を三つ集めた松浦行真・激流百年(サンケイ新聞社、1969)の中の一篇「洛北の虹・岩倉具視」の最後・末尾には、あくまで歴史小説だが、つぎの趣旨の文章がある。
 明治天皇が危篤の岩倉具視を慌てて見舞った、その岩倉の国葬への参列公家衆の一部から、「お上(明治帝)は親のかたきの死に目を見にゆかれた」という「ささやきが聞かれた」。「あの孝明帝の死にまつわるくらい風貌…」。
p.174。
 他にも、歴史小説家・中村彰彦の、学者を超えるかもしれない<推理>(岩倉による暗殺の肯定の方向。小説ではない)を読み終えている。
 ○ところで、光格天皇は(本流の皇嗣ではなかったためもあってか)天皇・皇室・朝廷の「権威」の回復に努めた江戸期には珍しい人物であるらしい。
 櫻井よしこもまた、立派な天皇(の一人)だった旨を、とくに記している。すなわち、同・週刊新潮2017年2/9号のコラム欄は、全体を光格天皇を讃える内容で埋めている。引用はしない。今のところ生前譲位の最後の天皇らしいことと関連させて、皇室改革をし、天皇の権威=「皇威」を高めようとする「強い皇統意識」のもち主だった、という。
 ここでただちに疑問が生じる。孝明天皇は光格天皇の直系の孫で、櫻井よしこが<明治天皇を「中心にして」近代明治日本を建国した>、と褒め称える明治天皇の実の父親だ。
 なお、この「明治天皇を中心にして」という部分は、櫻井よしこ・日本の息吹2017年2月号(日本会議)の文章の中で使われているはずだ。
 そしてまた、孝明天皇は、天皇にしてはきわめて珍しく、武家政権(徳川・江戸幕府)に対してモノを言い、反抗もしている。
 条約(対米通商条約)締結には「勅許」が必要だと、主張したのだ。外交権の行使に天皇の同意がいるとすれば(形式的・儀礼的ならばともかく)、これは立派な「権力」(の一部)に他ならない。もはや「権威」なるものを超えすらしている。
 いや、これ自体が当時の朝廷内の<反幕府>一派が誘導した可能性はあるが、しかし、孝明天皇はどうやら個人としても<攘夷>を(少なくとも当初は)貫きたかったかに見える。
 変節が著しいともいえる薩長一派は、最初は<尊皇攘夷>を掲げて、<開国>方針の徳川・江戸幕府側(例えば井伊直弼)をイジメていたのだ。その返礼として、吉田松陰はタイミングが悪くて刑死になってもいる。この当時は、孝明天皇も<邪魔>ではなかったに違いない。
 孝明天皇とは、じつに、天皇の「権威」を体現しようとした人物だったのではないか。践祚の際に16歳だった明治天皇よりもはるかに、またその後の明治天皇と比べても、<意思>・<肉声>らしきものが感じられる。
 しかるに、櫻井よしこが、光格天皇と明治天皇に皇室の権威という観点から肯定的に言及はしても、孝明天皇に同様の趣旨で触れないのはなぜか。同様の趣旨で肯定的に評価しようとしないのはなぜか。
 櫻井よしこは、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)に依拠して、上の週刊新潮で多くのことを引用、紹介している。
 藤田覚の上の著は、しかし、孝明天皇についても多く触れている。半分ほどは孝明についての書物だ。
 そして藤田は冒頭で、つぎのようにも述べて導入している。
 「なかでも孝明天皇は、…国家の岐路に立ったとき、頑固なまでに通商条約に反対し、尊皇攘夷を主張しつづけた。それにより、尊皇攘夷、民族意識の膨大なエネルギー、を吸収し、政治的カリスマとなった」。p.9。
 櫻井よしこがとくに取り上げた光格天皇との関係についても、冒頭部で、つぎのように書く。
 光格天皇の「皇統意識、君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それをバックボーンとして開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに…鎖国攘夷を主張した」。p.11。
 ちなみに、藤田作だという冒頭の川柳は、ゴロがよいように秋月が少し変えると、以下のようになる。
 <光格がこね、孝明がつきし王政餅、食らうは明治大天皇>。p.9参照。
 かくのごとく、櫻井が依拠し引用している藤田覚著には、たっぷりと孝明天皇も登場するのだ。
 そして、櫻井は、同・週刊新潮の2/16号では、藤田著等によりつつ、孝明天皇に論及している。
 しかし、その扱いは、光格の場合とまるで異なる。<皇威>という観点から孝明天皇を肯定的に紹介する論調では全くない。
 もう一度書こう。櫻井よしこが、光格天皇や明治天皇に皇室の権威を高めたという観点から肯定的に言及しながら、孝明天皇についてはその点はいっさい無視して、称賛していないのはなぜか。孝明天皇も、まさに<皇威>を実際に高めた立派な人物だったとなぜ肯定的に評価しないのか。
 結論は、はっきりしている。
 <薩長史観>を前提とした、戦前に主流の<史観>を持っているからだろう。
 光格はともかく、孝明天皇は、明治新政府登場までに亡くなった、薩長側に対する<敗者>の側の天皇だったのだ。
 歴史は勝者が作る、あるいは描く、ともいう。現在の日本で主流の<史観>も、戦争勝利者であるアメリカらの「連合国」が形成した、とおそらく言えるだろう(「東京裁判史観」という、渡部昇一が好んで用いているらしき概念は、狭すぎる)。
 戦後主流の<史観>を持ちたくないからといって、-「皇国史観」と言ってしまうのは語弊があるかもしれないが、-戦前の日本にあった<薩長中心史観>、つまり明治維新・開国・近代日本の建設をほとんど全面的に<良かった>ものと理解する史観に立つのは、既述のように、たんなる<裏返し>にすぎず、歴史を冷静には見ていない、と考えられる。
 要するに、櫻井よしこの歴史観・歴史認識も、最近の文章ではかなりの程度、「観念」論であり、「政治的」色彩を帯びているのだ。そしてまた、櫻井よしこの天皇譲位反対論も、この「政治的」・「観念的」歴史観に多分に依拠している、と言えるだろう。
 櫻井よしこのような歴史家・歴史研究者ではない者が(私・秋月ごときがこうした欄で何を書いても許されるかもしれないが)、活字となって広く読まれる可能性がある文章の中で、単純すぎる「政治的」・「観念」論を表明しないでいただきたい。読者は、櫻井よしこらが書いていないこと、言及していないことに、むしろ注目する必要がある。
 週刊新潮での櫻井よしこには、同じ趣旨でたぶんもう一回触れる。

0540/中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)をほぼ読了。

 中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)を殆ど読了。記憶に残っている範囲から、いくつかメモしておく。
 ・江戸時代に祭祀復活、略式祭祀の正規化(古い形式に戻すこと)、飢饉の際の施米につとめられたのは、光格天皇
 (この天皇は東山天皇の三世の孫(玄孫)で、後桃園天皇までとは別の(現在につづく)皇統に移った最初の天皇とも言える。なお、竹田恒泰は明治天皇の四世の孫。)
 ・今上天皇は、美智子皇后とともに橿原神宮出雲大社も親拝され、石清水八幡宮も親拝された(p.73)。両陛下は、平成5年以降、各県の護国神社をすべて親拝された(p.151)。
 (上のようなご親拝は天皇の「公的」行為と理解するのが通常の感覚と思うが、「私的」な<宗教的>行為と見なしているのだろう、マスコミは全く又は殆ど報道していない。)
 ・佐藤栄作と田中角栄とで天皇・皇室観はかなり異なる。田中角栄は天皇に対して「反感」をもち「一種不遜な」態度をとっていたとも言われる(p.91)。日本人の一部にある天皇(・皇室)への<怨念>は継続している。「伝統的・文化的」に「型が定まったもの」を崩すことを「進歩」と捉える心情が、戦前の社会主義者(・共産主義者)以外にも残っている(p.93-94)。
 ・現皇室典範(法律)は現憲法施行前に制定されており、かつ旧憲法下で必要だった法律制定手続を経ていない、という問題をもつ(p.104)。
 (この手続の瑕疵は旧憲法自体に違反しているのか、法令上の定めに違反しているのか、それとも旧憲法・法令は明記していない<慣行>に反していたのか、なお確認してみたい。)
 ・「天皇制」を厳しく批判し、「いずれ廃止されるべきである」と書いた横田喜三郎・天皇制。当時、東京大学法学部教授(国際法)、のち最高裁裁判官、勲一等叙勲(p.118-9)。
 ・宮中三殿への日々のお参り、宮中祭祀こそ天皇の「最大の御公務」。また、天皇はご旅行の際には「必ず『三種の神器』を一緒」に携行される。どこに宿泊されても、「毎朝、伊勢の皇大神宮に向かっての遙拝」を必ずされる。だが、多くの国民がこれらのことを知らない(p.136-8)。
 ・宮中三殿には「掌典」という神職、「内掌典」という巫女にあたる神職もいて、「皇居から一歩も外に出ずに神事を務めて」いる。こうした支えがあってはじめて宮中祭祀は成り立つ(p.138)。
 (「掌典」・「内掌典」は宮内庁職員としての<国家公務員>か。そうではなく、天皇の<私的な>使用人として、「公的行為」のための宮廷費からではなく、天皇・皇室の「私事」のための「内廷費」から給料?(報酬・手当?)は出ている。宮中祭祀の挙行を「私事」扱いすることは、<天皇制度の本質>と矛盾すると思われることは、何度も書いた。)
 とりあえず、以上。
 どこかに書いてあったかもしれないが、樋口陽一を含むおそらく殆どの憲法学者が、<統治権の総覧者>から<象徴>への変化・断絶、<天皇主権>から<国民主権>への変化・断絶を強調するのは、一面しか捉えていない。歴史的・伝統的な天皇制度を見るとき、日本国憲法のもとでもそれは<連続して>生き続けている、という理解の方が本質により近いものと考えられる。
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