秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

個人の尊重

1885/池田信夫ブログ-主として2018年11月から。

 池田信夫のブログのうち、日々の話題に関するコメント類も興味深いが、とくに急いで掲載する必要はないように見える、ヒト・人間の「進化」や「本性」、これらを「歴史」と関連づけるような主題の叙述も面白い。
 と言って文献紹介が主で詳細に論じられているわけでもないが、適度に思考を刺激してくれる。近時にこんなテーマを書き続けることのできる、もともとは「文科系・経済学」出身の人物は稀有だろう。
 前回に触れて以降、以下のようなものがあった。
 ①2018/11/01「江戸時代化する日本」ブログマガジン11/05。
 ②2018/11/04「言語はなぜ進化したのか」同11/05。
 ③2018/11/08「文化の進化をもたらした『長期記憶』」同11/12。
 ④2018/11/10「人類は石器時代から戦争に明け暮れてきた」同11/12。
 ⑤2018/11/14「新石器革命は『宗教革命』だった」同11/19。
 ⑥2018/11/17「文化は暇つぶしから生まれた」同11/19。
 ⑦2018/11/23「猿や動物にも『公平』の感情がある」同11/26。
 ⑧2018/11/26「感情にも普遍的な合理性がある」同12/03。
 ⑧2019/11/29「退屈の小さな哲学」同12/03。 
 ⑨2018/12/01「人はなぜ強欲資本主義を嫌うのか」同12/03。
 いちいちの感想、湧いた発想等はキリがないので省略する。
 いくつか、感じた、少しばかりは思考したことがある。
 個人と「共同体」または「集団」の関係。
 もともとはヒト・個人の一個体としての生存本能最優先で、その一個体の生存本能が充たされる、または守られるかぎりで、「集団」や「共同体」に帰属する、帰属してきた、あるいは、これらを個体のための必要に迫られて、作ってきた、というイメージを持ってきた。
 これは憲法学等の法学がいう<近代的な合理的人間(個人=自然人)>というイメージと合致するもので、経済学的な<自己の利益を最大化しようとする合理的個人>という近代資本主義の人間像とおそらく重なるところがあるだろう。
 そしてまた、「個人の尊重」(日本国憲法13条)や「人間の尊厳」(ドイツ憲法1条)も、それだけがあまりに強調されるのは困るが、理念としてのそれはかなり普遍的なものではないかとも考えてきた。ヒト・人間・一個体の究極的本性とも合致しているのだから。
 しかし、池田の叙述には、これを動揺させるものがある。
 ヒトはもともと「集団」帰属本能を有している、「他集団」と闘って「自集団」が勝たないと生きていけない(いちいち元の文章は探さない)、といった記述だ。
 そうすると、上の「合理的人間」イメージも、近代以降に限定された、歴史的制約をもつことになるだろう。
 樋口陽一(憲法学、元東京大学)は1989年(ソ連解体の前々年)に「個人主義」の大切さを説きつつ、つぎのようにまで主張した(同・自由と国家(岩波新書、1989))。
 「1989年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。
 <ルソー=ジャコバン型個人主義>を称揚するという点で社会主義・共産主義に親近的な「個人」主義、つまり日本はまだ「真の個人主義」を確立していない、日本人は「真の個人」を経験していないという近代西欧に比べて日本は…、という「左翼的」論じ方には反発を覚えた。
 だが、池田信夫の示唆をふまえると、そうした点をさらに超えて、樋口陽一が井上ひさしとの対談本で、日本国憲法で一番大切なのは13条の「個人の尊重」です、などと説くこと自体が、そもそもヒト・人間の本性・本質に迫っているのか、という大きな疑問が出てくるだろう。
 ついでに余計なことを書くと、日本の(欧米のも?)憲法学者たちは、個人の「内心の自由」こそが基底的な個人の「自由」であって侵犯されてはならないと、しばしば説く。教科書類にそう書かれているかもしれない。
 しかし、そういう憲法学者やそうしたことを論じる最高裁を含む裁判所の裁判官や法曹たちは、そもそも個人・人間の「内心の自由」なるものはいかにして形成されるのか、を思考しているのか、思考したことがあるのだろうか、という感想を持ってきた。
 ヒト・個人に「内在的に」、つまりその個人の精神または「頭脳」の中に「内心」なるものが存在する、ということを前提としているが、「内心」が生まれつきで存在しているわけはないだろう、生後の環境・教育等々々によって形成されていくものであって、そのことを無視した議論は空論または観念論・「建前」論だろう、と感じてきた。
 もう一点だけ触れると、池田信夫の説明等ではなお、(生物として継承される)生物的遺伝子と社会的遺伝子の区別はいま一つまだ分からない。そもそも「進化生物学」なるものを知らないからだが、後者が形成するのは宗教・国家等々と語られて「社会的に」継承されると言われても、いま一つよく分からない。
 広義の文化、宗教等が国家・民族等々によって異なるのは当たり前のことだ。国家・地域・民族等々ごとに異なる文化が形成されていて、ヒト・人間は生まれ落ちた後でそうしたものに無意識であれ影響を受けていく、という程度のことであれば、しごく当然のことで社会的遺伝子・ミームという言葉を使う必要もないとすら感じられる。
 「集団帰属」感情あるいは「不平等に反発する」感情が生物的遺伝子の中に組み込まれているのかどうか、という問題であるとすると、きわめて興味深い。ヒト・人間の本性・本質にかかわる問題だ。もっとも、「生物的」・「社会的」の区別自体の意味を私が理解していない可能性もある。

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

0815/家族間の殺人の増大-戦後日本<個人主義>の行き着くところ。

 「亀井静香金融・郵政改革担当相は5日、東京都内の講演で「日本で家族間の殺人事件が増えているのは(企業が)人間を人間として扱わなくなったためだ」と述べた。その上で日本経団連御手洗冨士夫会長と会談した際に「そのことに責任を感じないとだめだ」と言ったというエピソードを披露し、経団連を批判した」。以上、MSN産経ニュース。
 亀井の認識は誤っている。

 「日本で家族間の殺人事件が増えている」とすれば、それは第一に、日本国憲法が「家族」に関する規定を持たないことにもよる、<家族>よりも<個人>を大切にする、戦後日本的<個人主義>の蔓延によるところが大きい。
 第二に、もともと<家族>を呪い、解体を目指す<左翼>(容共)勢力が幅をきかし、現在でも根強く残っていることにある。マルクス主義者にとって、国家・私有財産とともに<家族>なるものもいずれ消滅すべきものなのだ(エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」参照)。
 この考え方は、(マルクス主義的)フェミニズムに強く刻印されており、そのような考え方の持ち主が閣僚になってしまっている、という怖ろしい現実も目の前にある。<個人>、とくに<女性>こそが<家族・家庭>のために差別(・「搾取」)されてきた、と彼ら(彼女ら)は考える。
 上の二つは重なり合う。要するに、<個人>が<家族・家庭>のために犠牲になってはならず、各<個人>は<家族・家庭>の中で<対等・平等>だという一種のイデオロギーが、今日の日本にかなり深く浸透している。
 このような意識状況において、親の<権威>を子どもが意識するはずもない。親は<権威>を持とうともせず、<友だち>のような、子どもを<理解してあげる>親がよい親だと勘違いしている。
 子どもが親等の<目上>の者をそのためだけで<尊敬する>わけがない。
 こんな状況においては、<家族>であっても、<個人>に辛くあたったり、自分<個人>の利益にならない者は、血縁に関係なく、容易に殺人の対象になりうる。
 以上は主として子どもによる親殺し・祖父母殺しについて書いた。逆の場合も同様なことが言える。
 <子育て>が愉しくなく、自分<個人>が犠牲になっている、と感じる女性は昔より多いはずだ。
 女性の中には、自分が産んだ子どもが、自分の睡眠時間と体力を奪ったり、自分の若さを奪っていると感じて邪魔に感じたり、あるいは他の子どもと比較して何らかの点で劣っているのではないかと感じることによって他の母親との関係での自分<個人>のプライドが傷つけられている、と感じたりする者たちもいる。
 似たようなことは父親にもあるかもしれないが、母親の方に多いだろう。
 このような親たちを生んでしまった戦後日本社会とは何だったのか。<個人の尊厳>が第一、と憲法学者さまたちが説き、それを<左翼>的教師たちが小学校・中学校・高校で教育実践している間に、<家族・家庭>(・地域・国家)よりも、いびつに肥大化した自己を大切にする<個人主義>の社会になってしまった。
 ついでに。内容につき言及したことはないが、関連文献として、林道義・母性崩壊(PHP、1999)がある。じつに衝撃的な本だ。
 亀井静香はこの本でも読んで、経団連・御手洗などにではなく、閣僚仲間の福島瑞穂や千葉景子に対してクレームをつけてみてはどうか。

0659/自由主義・「個人」主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1

 一 <民主主義>とは「国民」又は「人民」の意向・意思に(できるだけ)即して行うという考え方、というだけの意味で(「民主政治」・「民主政」はそのような「政治」というだけのこと)で、「国民」・「人民」の意思の内容・その価値判断を問わない。従って、「国民」・「人民」の意思にもとづいて<悪い>又は<間違った>又は<不合理な>決定が行われることはありえ、そのような「政治」もありうる。民主主義にのっとった決定が最も「正しい」とか「合理的」だとは、全く言えない。
 また、「国民」・「人民」の意思だと僭称するか(各国共産党はこれをしてきたし、しているようだ)、しなくとも実際に多数「国民」・「人民」の支持・承認を受けることによって、ドイツ・ワイマール民主主義のもとでのナチス・ヒトラー独裁のように、民主主義から<独裁>も生じうる。また、民主主義の徹底化を通じた<社会主義・共産主義>への展望も、かつては有力に語られた。
 <民主主義>に幻想を持ちすぎてはいけない。
 <自由>が国家(・および「因習」等)による拘束からの自由を意味するとして、それは重要なことかもしれないが、このような<自由>な個人・人間が目指すべき目標・価値を、あるいは採るべき行動・措置を、何ら指し示すものではない。<自由>を活用して一体何をするか、何を獲得するかは、<自由>それ自体からは何も明らかにならない。
 とくに<経済的自由主義>はコミュニズムに対抗する意味でも重要なことだろうが(むろん「自由」にも幅があるので又は内在的制約があるので、<規律ある自由>とかが近時は強調されることもある)、しかし、「自由主義」に幻想を持ちすぎてもいけない。
 <個人主義>も同様だ。人間が「個人として尊重」されるのはよいし、その個人の「生命、自由及び幸福追求に対する…権利」が尊重されるのもよいが(日本国憲法13条)、「生命、自由及び幸福追求」というだけでは、「自由な」尊重されるべき「個人」が、一体何を目指し、何を獲得すべきか、いかなる行動を執るべきか、いかなる具体的価値を大切にすべきか、等々を語るには、なおも抽象的すぎる。要するに、各個人の「自由な」又は勝手気侭な選択はできるだけ尊重されるべし、というだけのことだ。
 <平等>主義も重要だろうが、これまた具体的<価値>とは無関係だ。適法性を前提としても(法の下の平等)、平等な貧困もあるし、平等に国家的・社会的規制を受けることがあるし、平等に「弾圧・抑圧」されることもありうる。<平等>原理だけでは、特定の<価値>を守り又は獲得する手がかりには全くならない。
 二 というようなことを思いつつ、佐伯啓思のいくつかの本を見ていると、なるほどと感じさせる文章に遭遇する。
 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)の、80年代アメリカ経済学・「グローバリズム」・「新自由主義」批判は省略。
 ①「リベラリズム」(自由主義)の「基礎を組み立てている」のは「消費者」ではなく、しいて名付ければ「市民」だとしたあと(上掲書p.56)、次のように書く。
 ・「市民」はその原語(ブルジョアジー)の定義が示すように何よりも「財産主」であり、「財産主」であることを守るためには「安定した社会秩序」を必要とした。さらに「社会秩序」の維持のためには「公共の事柄に対する義務と責任」を負い、この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」・「日々の経験」・「人々との会話」・「読書」・「芸術」によって培われる。
 ・「公共の事柄に対する義務と責任」を負うために必要な「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を、人は、「いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として」身に付けることはできない。人は「近隣、家族、友人たち、教会、それに国家」、こうした「様々なレベルでの」「広義の『共同体』」と一切無関係に「価値や判断力」を獲得できない。
 ・「近代社会」による「封建的共同体からの個人の解放」は「個人主義」の成立・「近代リベラリズムの条件」だと理解されている。しかし、これは「基本的な誤解」か、「すくなくとも事態の半面を見ているにすぎない」。「一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえない」。仮にありえたとして、彼はいかにして、「社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在」を学ぶのか。
 ・「通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の権利をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」。(以上、p.57-58)。
 昨年に憲法学者・樋口陽一の「個人」の尊重・「個人主義」観をこの欄で批判的に取り上げたことがある。樋口陽一や多くの憲法学者の理解している又はイメージしている「個人」とは、佐伯啓思は「ロックなどの社会契約論が思想の端緒を開き…」と書いているが、ロック・ルソーらの(全く同じ議論でないにせよ)社会契約論が想定しているようなものであり、それは「誤り」を含む「通俗的な近代リベラリズム」のそれなのではないか。
 ②次のような文章もある。
 ・80年代に「リベラリズム批判」と称される四著がアメリカで出版され、話題になった(4名は、ニスベット、マッキンタイアー、ベラー、サンデル)。これらに共通するのは、「支配的なリベラリズム」が想定する「何物にも拘束されない自由な個人という抽象的な出発点」は「無意味な虚構だ」として排斥することだ。「抽象的に自由な個人」、サンデルのいう「何物にも負荷されない個人」という前提を斥けると「個人とは何なのか」。マッキンタイアーが明言するように、「何らかの『伝統』の文脈と不可分な」ものだ。
 ・人は「書物や頭の中で考えたこと」によって「価値」・「行動基準」を学習・入手するのではなく、「日々の経験や実践」の中で学ぶ。ここでの「実践」も抽象的なものではなく、それは「必ず歴史や社会の個別性の中で形成される」。つまり、「実践」は必ず「伝統」によって負荷されている。従って、「実践」とは先輩・先人・先祖との関係に入ることも意味する。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、残るのは「極めて貧困な実践」であり、そこから「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ(以上、p.58-59)。
 ・まとめ的にいうと、「確かに、リベラリズムは…、かけがえのない個人という価値に固執する」。「個人的自由」はリベラリズムの「基底」にある。しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえない」。つまり、「特定の『実践』や『伝統』から無縁ではありえない」(p.60)。
 今回の紹介は以上。
 上の一部にあった、「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ、ということは、わが国の戦後に実際に起こったことではないか。
 日本の戦前との断絶を強調し(八月革命説もそのような機能をもつ)、戦前までにあった日本的「伝統」・「価値」 を過剰に排斥又は否定した結果として、「伝統」・「歴史」の負荷を受けて成長すべき、戦後に教育を受けた又は戦後に社会的経験・「実践」をした者たちは(現在日本に生きている者のほとんどになるだろう)、まっとうな感覚をもつ「豊かな個人」として成長することに失敗したのではないか(私もその一人かも)。そのような「個人」が構成する社会が、そのような「個人」の総体「国民」が「主権」者である国家が、まともなものでなくなっていくのは(<溶解>していくのは)、自然の成り行きのような気もする。

0594/勢古浩爾・いやな世の中―<自分様の時代>(ベスト新書、2008)を読了。

 二夜ほどかけて一昨日(15日)に、勢古浩爾・いやな世の中―<自分様の時代>(ベスト新書、2008.04)を全読了。この人のものはたぶん初めて。
 8割程度に異論はない。あるいは、8割程度の叙述に同感する。
 <ミーイズム>と表現した者もいたが、―著者・勢古浩爾(1947年生)は明確に論じているいるわけではないものの―「戦後民主主義(個人主義)」の生み出したのは、<自分教>・<自分病>・<自分様の時代>だったと思われる。
 勢古が「権利と自由」との関係に言及しているのはおそらく次の部分だけだ。
 <「弱肉弱食」の時代になっている。「『食う』弱い者は、自分病の人間である。『食われる』弱い者はまともに暮らそうとする人間…。近代的権利と自由が、前近代的人情と和を求めるこころを食うのである。自分様はのさばり、まともな人間はうつになる…」>(p.121)。この部分は「近代」(主義)批判とも読める。
 こんな文も「あとがき」の中にある。
 「筋金入りの『自分様』たちは、信用や信頼など歯牙にもかけない。それゆえ怖いものなし…。かれらの行動原理は自分の感情の快不快とごね得と損得勘定である」(p.207)。
 かかる「自分様」たちを大量に生み出したのは、憲法学者・樋口陽一が現憲法上の最大の価値理念だとする「個人の尊重」→「個人主義」に他ならないだろう。
 繰り返しているように、樋口陽一を代表者とする戦後の「民主(主義)的」・「進歩(主義)的」憲法学者たちの<罪>はきわめて大きい。そのような憲法理念を学んだ者たちが学校教員になり児童・生徒を教育しているのだ。公務員もまた「戦後憲法学」を学んで仕事をしているのだ。マスコミ人間も同様。

 もっとも、勢古浩爾は、「自分」中心主義→「自分の家族」・「自分の会社」中心主義の「果ては『自分の国』にまで広がる」と書いているが(p.37)、最後の点は留保が必要だ。
 『自分の国』意識=ナショナリズムの希薄さこそが戦後日本の特徴だ、とも言えるからだ。
 但し、必要な国際協力をしない、<自分の国さえよければ(平和であれば)よい>という考え方の広がりも<自分病>の一種だと言えるのかもしれない。

 なお、ついでに書くと、「思い上がった」、「八ケ岳南麓」に「60m2ワンルームの生活空間」たる「仕事部屋」をもつ、単著「おひとり様の老後」で「老後の資金はまたさらに潤沢になった」、「女森永卓郎」らしき(p.78~p.83)、「自分様」上野千鶴子に対する皮肉と批判をもっと多くかつ体系的に叙述してほしかったものだ。

0583/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ―その6・思想としての「個人」・「個人主義」・「個人の自由」

 樋口陽一の文章をあらためていつか再引用してもよいが、樋口陽一その他大勢の憲法学者の「人権」 論の基礎にはその主体としての(自由なかつ自律した)「個人」があり、それを(又はその「尊厳」を)尊重するということが憲法の最も枢要な原理とされる。だが、そのような、個々の自然人たる(アトムとしての)「個人」が(社会)契約によって国家を構成しそれと対峙する、というイメージ自体が、一つの「思想」であり、一つのイデオロギーだろう。
 以下、何回か、<個人主義>を批判又は疑問視する文章の引用のみを続ける。
 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)。
 欧州の元来の定義「ブルジョアジー」がそうであるように「市民」は「まず財産主」であり、それを守るための「安定した社会秩序」を必要とし、「社会秩序の維持」のためには「公共の事柄」への義務・責任を負った。この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」、「日々の経験」、「人々との会話」、「読書」、「芸術」が与えた。/
 「人は、こうしたものを、いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として、身につけることはできない。近隣、家族、友人たち、教会、それに国家、それらを広義の『共同体』と呼んでおくと、様々なレベルでの『共同体』と一切無縁に、人は価値や判断力を身につけることはできない」。/
 近代社会は「封建的」共同体からの「個人の解放」を促し、「通俗的には、共同体からの個人の解放こそが『個人主義』の成立であり、それこそが近代リベラリズムの条件だ」と理解されている。「しかし、これは基本的な誤解であるか、あるいは少なくとも事態の半面を見ているにすぎない。事実上、一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえないし、また仮にありえたとしても、彼は、どのようにして、社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在を学ぶのだろうか。通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の『権利』をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」/
 「しかし、ロジカルにいっても、何の価値や判断力も、さらには恐らく理性さえまだ学んでいない、『無』の個人からどのようにして権利をもち、社会のルールについて判断力をもった個人が生まれるというのだろうか」。
 以上、上掲書p.57-58。
 樋口陽一における<視野狭窄>性・<観念>性・<通俗>性の指摘は、ほとんど上で尽きている。
 (この項、つづく。)

0395/佐伯啓思・隠された思考と樋口陽一の「個人の尊重」。

 佐伯啓思・隠された思考-市場経済のメタフィジックス(筑摩書房)の序章「<演技する知識>と<解釈する知識>」、p.3~p.17を昨夜(2/15)読んだ。1985年6月刊の、佐伯が35歳か36歳のときの著。この年齢にも驚くが、序章だけでもすでに相当に(私には)刺激的だ。事実・認識・真実・科学・解釈・学問等々、すべての<知的営為>に関係している。
 佐伯の述べたい本筋では全くないが(本筋の紹介は省く)、次の文章が目に留まった。
 「明確な自己意識つまり自我の成立こそ理性であるとした近代精神は、それ自体が近代の産物であるというところまで洞察することはできなかった」(p.15)。
 思い出したのは、個人の尊重こそが日本国憲法の三原理をさらに束ねる基本的・究極的理念であると述べた(らしい)憲法学者・樋口陽一とその言葉に感銘を受けた旨述べていた井上ひさしだ。
 個人の尊重の前提には<近代的自我の確立した>自律的・自立的個人という像があると思われる。樋口陽一(そして井上ひさし)の<思考>は<近代>レベルのもので、<近代>内部にとどまっている。それはむろん、日本国憲法自体の限界なのかもしれない。
 だが、既述の反復かもしれないが、戦後当初ならばともかく近年になってもなお<個人の尊重>(「個人主義」の擁護にほぼ等しいだろう)を強調するとは、憲法学者(の少なくとも有力な傾向)の時代錯誤ぶりを示しているようだ。講座派(日本共産党系)マルクス主義のごとく、あるいはせいぜい<近代>合理主義者(近代主義者)のごとく、日本と日本人はまだ<近代>化していない、ということを主張したいのだろうか。
 佐伯のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>に他ならないだろう。<ヨーロッパ近代>の精神を学び・習得したつもりの、自律的・自立的個人であるつもりの樋口陽一らは、<遅れた>日本人大衆に向かって(傲慢不遜にも!)説教したいのだろうか。
 個人の(尊厳の)尊重なるものの強調によって、物事が、<現代>社会が動くはずはない。逆に、<共同体>的なもの(当然に「家族」・「地域」等を含む)の崩壊・破壊・消失に導く政治的主張になってしまうことを樋口陽一らは思い知っていただきたい。
 エンゲルス『家族、私有財産及び国家の起源』は「家族」・「私有財産」・「国家」の崩壊・消滅を想定(・<予言>)するものだった。樋口陽一らがこれを信じるマルクス主義者(コミュニスト=日本共産党的にいうと<科学的社会主義教>信者)だとすれば、もはや言うコトバはない(つける薬はない)。ルソーのいう国家=一般意思に全的に服従することで「自由」になるという<アトム的個人>を樋口陽一らが「個人」として想定しているならば、今ごろになってもまだ何と馬鹿で危険なことを、と嗤う他はない。
 佐伯啓思が多くの憲法学者の思考の及ばない範囲・レベルの思考を30歳代からしていたことは明らかなようだ。 

0372/棟居快行と読売新聞が「フランス革命」に言及。

 読売新聞1/05朝刊の「この国をどうする4」で憲法学者(大阪大学)の棟居快行が語っている。
 <「個人の能力」の解放と「組織的な強み」の両方が日本には必要。「個人の尊重」と「社会の公正」のどちらを重視するかを政党は示すべきだし、両者の「調和」をどこに見出すかで「憲法秩序」を語った方がよい。
 衆院と参院での「国民」の反応の違いの背景の指摘も含めて、上の指摘に大きな異論はない。当たり前のことを語っているにすぎないとすら言える。
 関心を惹いたのは次の部分だ。
 「『自由と平等』というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで…切り分けた」方が、「二大政党にうまく移行できる」。
 後段の「二大政党」うんぬんはともかくとして、「フランス革命的なカード」ではない「もう少し現代の日本にあわせたカード」で切り分ける必要を説いている。
 この点にもとくに反対はしない。
 問題は次のことだ。すなわち、「自由と平等」という「フランス革命的なカード」ではダメ(少なくともそれだけではダメ)だということくらいは、とっくに明らかなことではないのか
 日本国憲法施行後すでに60年経った。1989年からでも20年めを迎えた。憲法学界はこれまでずっと、「自由と平等」という「フランス革命的なカード」で、あるいは広くとっても<欧米思想系>のカード、によってのみ切り分けた議論をしてきたのだろうか。
 日本について、そして、日本国憲法について、「もう少し現代の日本にあわせた」カードでの議論をすべきことは、至極当然のことではないか。
 棟居快行を非難するつもりはないが、上のような言葉が、さも新鮮なこととして語られるような風潮があるように見られること自体が、フランス「革命」思想あるいは<欧米系思想>に依拠してしか議論をしていない(むろん一部の例外はあるだろうが)かの如く見える憲法学界の異様さを示しているようだ(と私は感じる)。
 ついでに、読売新聞は同欄の「フランス革命」という語に注釈をつけ、「フランスの民衆が1789年に決起し、絶対王政を打倒した革命」、とまず定義づけている。こうした何気ない解説部分にも、朝日新聞に比べれば<保守的>と言われる読売においてすら、戦後日本が依拠した<フランス革命幻想>が浸透していることが、鮮明に示されている。
 読売のこの部分の(きっと安直な辞典類でも一瞥したのだろう)執筆者に尋ねたいが、上にいう「民衆」とは何か。「ブルジョア革命」との通説に従ってすら、主体とされる「ブルジョアジー」と当時にすでに存在した「民衆」を区別することはできる。前者も後者の語の中に含めているつもりだろうが、そのような「民衆」概念の用法は誤解を招くだろう。通説に従ってすら、「市民(ブルジョア)革命」と「民衆革命」とは別の筈であって、フランス革命は前者ではないのか?(<絶対王政打倒>との従来の支配的理解にも異論が出てきているがこの点には立ち入らない。)
 さらに言うと、読売新聞の「フランス革命」の注釈者は「フランス人権宣言一条」は「各国憲法に大きな影響を与えた」、とも書いている。その事実自体を否定するつもりはとりあえずないが、「人権宣言」などはただの紙切れ上の言葉にすぎない。フランスでそこに書かれたことがいちおうにせよ現実に達成されたのはいつだったのか?
 かつてのソビエト憲法にだって現在の北朝鮮憲法にだって、言葉としては立派なことが書かれていたし、書かれてある。
 当たり前のことだが、言葉(理念またはウソと知りつつ掲げる理想)と現実とは異なる。このことを読売の一記者には知ってほしいものだ。
 また、上に見られるが如く、一定の<フランス革命のイメージ>が牢固にすでに完成されているように見え、数千万の読者にそれがバラ撒かれているのは、怖ろしいことだ。
ギャラリー
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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