秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

保田與重郎

0986/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その3、p.359~p.365-。
 ・「民族系」論者には「自由社会の存立」に必要な「反共」・「反社会主義」の知識が全く欠落している。「民族系」は南京事件・沖縄集団自決・従軍慰安婦強制連行・百人斬りなど、「左翼」の歴史捏造問題には反撃論陣を張る。これは正しいが、石井731部隊人体実験・シナでの毒ガス作戦などの他の歴史捏造には口を噤む。
 ・「民族系」には歴史の「真実」への関心がない。彼らは観客相手の「売文業者」で、観客のいない問題には関心がなく、知識もない。「観客」とは「旧軍の将兵(退役軍人)たち」だ。「民族系」論者の東京裁判批判は「意味不明な論旨」で、東京裁判史観の拡大宣伝をする日本共産党系学者の「狂説」を目に入れていない。「観客」=退役軍人たちは南京事件・従軍慰安婦等の問題は体験からすぐ分かるので、これらの捏造を糾弾すればすぐに反応がある。「民族系」論者は「花代」欲しさに、捏造歴史問題を一部に限定して声を大にしている。①ソ連軍の蛮行(満州でのレイプ・殺人・財産奪取)、②シベリア拉致日本人の悲惨さ、③南方作戦(餓死から奇跡的な一部が生還)には「何一つ語ろうとはしない」。その理由は、これらの被害はあまりに悲惨で「観客」が思い出したくない、つまり「民族系」の「金にならない」からだ。

 ・「民族系」は「保守主義者」ではなく「保守」か否かも疑問だ。「真正保守」ならば、反「極左イデオロギー」闘争を優先し、「国家の永続」を最重視する。「保守」は昭和天皇や吉田茂のように必ず「親米」だ。「反米」は「左翼」・「極左」の特性で、「日の丸」・「天皇」を戴くだけで彼らを「保守」と見なすのは不正確で「危険」だ。「真正保守」の再建には、彼等を「再教育」して「一部を選別するほかない」。

 ・「民族系」は過去20年間、「第二共産党」・民主党の政権奪取に貢献してきた。彼らは日本の国を挙げての「左傾化」を阻止しようとはせず、助長した。「民族系」は、「ソ連の脅威の一時的な凍結」を好機として、「反米→大東亜戦争美化論→東京裁判批判→A級戦犯靖国合祀の無謬」を「絶叫する狂愚」に酔い痴れてきた。「大東亜戦争美化論」は日本廃絶論・日本「亡国」待望論で、林房雄、保田與重郎・福田和也の系譜だ。
 ・民主党は「国家解体」に直結する「地方分権」、民族消滅に直結する「日本女性の売春婦化である性道徳の破壊」など、「日本滅亡の革命を嫡流的に後継する政党」だ。だが、「民族系」は、民主党が支持される「土壌づくり」に協力した。
 ・「民族系」が「正気に目覚める」のは「外国人参政権」と「夫婦別姓」の二つに限られ、これ以外では無知で無気力だ。「深刻な出生率低下をさらに低下させる法制度や日本の経済発展を阻む諸制度」に反対せず、関心もない。「財政破綻状態にも、日本人の能力の深刻な劣化問題にも」憂慮しない。「民族系」論客・団体の「知的水準」は低く、民主党批判を展開する「学的教養を完全に欠如」する。
 ・だが、「あきらめるのは、まだ早い」。「十八世紀のバークやハミルトン、二十世紀のレプケやハイエクなど、多くの碩学から」学んで、「日本国の永続」方策を探り、「悠久の日本」のための「国民の義務」に生きる道を「歩み続けるしかない」。

 以上で、終わり。

 若干のコメントは次に回したい。

0465/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき2。

 前々回の冒頭に「…日本(人)の『愛国』心を考える場合に、神道(・神社)を避けて通るわけにはいかない…」と書いた。そこで読了済みの佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)を思い出したが、「日本の愛国心」をテーマとするこの本は、神道・神社への明示的なかつある程度詳細な言及はない。
 といって、佐伯の本を批判しているのではない。第一に、上の佐伯著は三島由紀夫・吉田満・小林秀雄・保田與重郎・福沢諭吉・西田幾太郎・夏目漱石らの日本人に言及して「日本的精神」(と西欧的精神の相克)について語っているが、そこでの(あるいは上の諸人物にとっての)「日本的精神」は<神道>と密接不可分のものだったように思われる。
 例えば、p.288には次の文章がある-「日本の精神」というときに思い浮かべる中には「仏教、神道、儒教などを背景にした一種の美意識や、自然観、倫理観があることは間違いない」。他にも「神道」的感覚・価値観に実質的には触れていると見られるところが多くあるが省略。
 第二に、上の佐伯著は宗教と政治・政教分離の問題にも触れている(例えばp.125~132は「愛国心と宗教」との見出しのもとの文章だ)。論述の途中からになるが、以下のようなことが語られている(番号はこの欄の執筆者)。
 <①ホッブズは「近代国家」のロジックとして「政教分離」を説いた。だが一切の「宗教的なものの排除」を主張したのではなく、要するに世俗的権力の宗教的権力に対する優越さえ認められれば十分だった。むしろ、ホッブズは、「神への信仰」を「隠された前提」としてこそ、契約国家・近代国家を観念する(構想する)ことができたのだ。(p.126-9)
 ②かかるホッブズの論理は「英国国教会」を念頭においたもので、「政治的主権者」=「宗教的司祭」との観念は今日ではそのまま妥当しないとしても、「明治における日本の天皇の意味づけとそれほど違うわけではない」。「政治的権力の中心」でありかつ「宗教的祭祀の中心」であった「天皇という位置」は、ホッブズの論理に照らした場合、「決して前近代的というわけではないし、また西欧近代の主権性と対立するというわけではない」。(p.130)
 ③たしかにホッブズ国家論の「近代」性の一つは「政治権力」と「個人の信仰や思想の自由」の厳格な区別にあるが、「儀礼化され習俗化した弱い意味での『宗教的なもの』まで政教分離される必要はない」。それは「個人の内面の自由とは全く関係のない問題」だ。公教育は別としても「広い意味での教育において
『宗教的なもの』の重要性を教育することはむしろ近代社会の仕事のひとつ」だ。「わが国かなり厳格で、時として誤解されることの多い政教分離論も、西欧社会のコンテキストを参照して少し考え直してみる必要もあるのではなかろうか」。(p.131-2)>
 いずれしようと思っていた佐伯著の要約的紹介の一部を書いてしまった感じだ。それはともかく、「儀礼化され習俗化した弱い意味での『宗教的なもの』」の教育の重要性を指摘している。前々回に指摘した「宗教教育」<「道徳教育」<「情操教育」とも共通する問題関心があるかに見える。
 また、「西欧社会のコンテキスト」を主としてホッブズによって辿りつつ、わが国の「
かなり厳格で、時として誤解されることの多い政教分離論」を見直す必要性を指摘している。この「政教分離」は日本国憲法上に規定されている原則でもあり、神道・神社に関心をもったのは、「一つ」には、天皇(家)と神社・神道の関係は「政教分離」条項のもとでどのように整理され、位置づけられているのか(-されるべきなのか)という問題意識があったからだった。
 この問題についての神社本庁の<言い分>等を紹介してみたいが、さらに別の回に委ねる。
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